被災地の住民の方々 … 福島県の「避難指示区域」に居住されていた方のようにいまだ故郷にも帰れず、また帰還もいったいいつになるのかまるで見通しすら ―― あれから3年が経とうとしているのに ―― 立たずに途方に暮れている方が5万人近くもいるという現実( 福島県内で避難生活を送っている方もあわせると 13万5千人以上もいる )。
最近、「ラジオ深夜便」のインタヴューコーナーに出ていた、あのシャネル(!)の社長、リシャール・コラス氏のお話がずぶっと心に突き刺さった。同氏は、「 'おもてなし' はけっこうなことながら、日本の人を見ていると、ウチとソトの温度差が大きいように感じる。たとえば、がれき処理問題のとき。あのときわたしはこう思った、どうしてこういうときに救いの手を差し出さないのか、どうして引き受けないのか? ことばでは『絆』と言いつつ、じつは直接自分に降りかからないかぎりわれ関せずを決めこんでいるのではないのか」と、だいたいこんな趣旨のことを言っていた。自分のとこさえよければそれでいい、マイホーム主義。
きのうも書いたけれども先週の「クラシックの迷宮」でも、「岩手県特集」をやってました。案内役の評論家、片山杜秀氏のお話に触発されて、さっそく『セロ弾きゴーシュ』を読んでみた。片山さんのこの作品の解釈でもっともすばらしいと思ったのは、へたっぴセロ( チェロ )弾きゴーシュがたった十日でお客さんを感動させる弾き手になったのはどうしてか、ということについて。片山さんに言わせれば、自然と人間との調和、「共生」が生まれたからだという。とりわけそれがよく出ているのが、子ねずみをぽんと楽器の響胴に放りこんで、「何とかラプソディとかいうものをごうごうがあがあ」弾きだすくだり。ゴーシュのチェロから出てきた子ねずみは、「すこしもへんじもしないでまだしばらく眼をつぶったままぶるぶるぶるぶるふるえていましたがにわかに起きあがって走りだした」。人間の創りだした「音楽」といういわば人工物が自然に働きかけて、自然を癒す。ゴーシュはじつはこのとき、自分の楽器で動物たちを癒していたばかりでなく、夜な夜な訪問してくる動物たちによって、音楽家としての腕もめきめき上達させていった。自然によってゴーシュは真の意味で「音楽を奏でるとはどういうことか」を会得したともとれる。
顧みていまのわれわれはどうなんだろう … とやはり思ってしまうのだった。明治三陸地震のときに生を受け、昭和三陸地震のときに逝った作者の宮沢賢治は、いまのこの国と日本人を見たら、なんと言うのだろうか … 。
テクノロジーの進化は、たしかに悪いことばかりじゃない。ピーター・ディアマンティスという凄腕の起業家の人の著した本の邦訳が最近出たらしいけれども( 『楽観主義者の未来予測』、原題は Abundance、副題は 'The Future is better than you think' )、中身を見ずして本の評価を口にするのは( おなじたとえの繰り返しで失礼 )「これはわたしの飲んだことのないおいしい / まずいワインです」と言うようなもので気が引けるが、こういう本を見聞きすると即、マッキベンの『人間の終焉』とか『ディープ・エコノミー』、あるいはウェンデル・ベリーのエッセイ集に収録されていた『エネルギーの使い方について( 'The Use of Energy' )』という一篇を思い浮かべてしまう。ベリーは南部の農本主義的主義主張もかいま見えて、すこしラジカルにすぎるかなと思うこともあるけれども、言っていることはおおむね正しいと思う。「エネルギー問題というのは、エネルギーそのものの問題ではなくて、その使い方にあるんだ」という主張は、ほんとそのとおりだと思う。ひょっとしたらベリーは米国版宮沢賢治みたいな詩人・作家なのかもしれない。
テクノユートピアン的発想はいかにも「砂漠の一神教的」自然征服的思考もしくは人間中心主義的発想だと思われがちで、いやわれわれ日本人はちがうぞ、みたいな主張の本とかもよく見かける。縄文人の叡智に学べ、みたいな。でもいま、この国で縄文人のように、セロ弾きゴーシュそして宮沢賢治のように自然に寄り添い、自然に従って暮らしている人っていったいどれだけいるのか … ほとんどの人は、ワタシも含めてこうやって電力会社から電気を買って使って生きているし、バスや電車に乗れば人によっては家族それぞれがクルマを所有し、「ピークオイル」だと言われているのに排ガスまき散らして狭い国土を走り回り、どっぷりと西洋近代文明の恩恵に浴して生きているではないか。そして近代以降の西洋型文明は、いまや資本主義経済至上主義的になっている。これを回している原動力が、大量生産・大量消費型社会なのだから、まずもってここから変えていかないといけないはず。われわれはセロ弾きゴーシュたちのかつていた世界からひじょうに遠く隔たった世界に生きている。
3.11 のような巨大自然災害は、いままで隠れて目立たなかっただけの問題の数々を、これでもか、ともっとも先鋭的な形でわれわれに突きつけてくる。これもまた真実。そして原発に関して言えば、やはりこれは必要悪の範疇をはるかに越えた絶対悪と言わざるを得ないと思う … たまたま今年の3月は、「第五福竜丸事件」から満 60年に当たり、地元紙にも関連報道が多く載ってます( NHK 静岡放送局の取り組みもまたすばらしい )。よく言われることながら、いまの国内にある原発最大の問題と言ったら、やっぱり使用済み核燃料の最終処理をどうするか、でしょう。たとえば核兵器転用可能なプルトニウムなんか、半減期が何万年単位ですよ。どう転んでもこんなの管理しようがないでしょ。しかもダイオキシンも真っ青の超猛毒物質だし。
そんな折も折、故立松和平さんがバブル全盛期のころに世に問うた『緑の星に生まれて』という本を、これまたひょんなきっかけで読み直していた。当時、この本を買って読んだ当人のくせして、こんな衝撃的な記述があったことを完全に忘れていた。すこし長くなるけど、以下に引用しておきます。立松さんが当時、直下型地震に襲われたばかりのアルメニアを取材したときに書いたもの。
日本の震度でいえば、震度6だったらしいね。日本の、コンクリート・パネルを組み合わせる建築方法は、耐震度が高いらしい。専門家は、そう言うよね。しかし、これほどの地震が東京に襲いかかったら、はたしてほんとうに耐え切れるんだろうか。もしダメだったとしたら、被害や犠牲者は、アルメニアを遥 かに超えるだろうね。アルメニアも日本も地震多発地域だから、やっぱり、こういう惨事がいつ起きても不思議じゃない。そう思ってなくちゃいけないんじゃないかな。自然の力というのは、人間の計算なんか、あっというまに飲み込んでしまうんだよ。
… レニナカンの知事が言ってたのは、こういうことだった。もし震源地が原発のすぐ近くだったら大惨事になっていただろう、地震の多発地域に原発をつくるのは一種の犯罪だ、ってね。確かにそのとおりだよ。
だけど、まがりなりにも原発を閉鎖したっていうのは、素晴らしいことだよね。トルコにも電気を輸出したりして、経済的にはひじょうに重要な原発を止めちゃうんだもん。人間の叡智だと思う。原発を止める叡智と勇気、それがはたして日本にあるだろうか。
アルメニア原発に行ってみたんだけど、荒野の真ん中にあるんだね。人家があるところまで、十キロ …… いや、十キロじゃきかないだろうなあ。そういう荒野の真ん中にあるわけ。…
… 日本で、ある学者と話してたらさ、その人はこんなことを言うんだよ。「人のいないところへ原発をつくるから、いいんだ」と。びっくりしたよ、オレ。そんな場所、この狭い日本のどこにあるのよ。岬の先っぽにつくったって、車で十分も走れば、すぐに町があるじゃないか。
… 確かに、原発がくると巨額の金が動くよ。道路が整備されたり、漁業補償なんかがあるからね。ただ、それで共同体がまっぷたつに割れちゃうことが多いんだよ。
… そんなふうに共同体がめちゃくちゃになっちゃって、ほんとうに、原発によって町が活性化されるんだろうか。原発がきたために人が集まった町なんて聞いたことないよ。逆に、人が出ていくんじゃないか。…
… 原発の怖いところは、根源的な破壊力を含んでいるということなんだ。回復できない破壊。物質を壊すのも、原子レベルから壊してしまうからね。しかも、核廃棄物の処理までを含めたシステムが、まだ完成してないんだよね。途中段階の技術で、稼働させてるんだよ。
ところが、そういったことは地元の住民には一切伝わらない。いま地球は温暖化してるけど原発があったら温暖化は防げるとかさ、そんなことを言ってるんだよ。もうちょっと正しい、原発のいい面悪い面両方含めた情報を出すべきなんだよ、電力会社は。…
… 結局さ、地域の活性化なんか考えてないよ、都市の、企業の側は。都市の矛盾みたいなものを、力の弱くなったところに押しつけてるわけ。
いまの政権のやり方とか見ていると、どうしてこう時代の流れに歯向かって後戻りしようとするのか、はなはだ理解しかねる( 改憲論議とか。ちなみに TPP 交渉ですが、たとえばこんな記事もあり、かの国でも問題視している人はそれなりにいることがわかる。だいいち具体的交渉内容が、国民生活に直結するのになにひとつ明かされない、とはこれいかに。そもそもこれっていったいだれのためにやってる交渉なの? )。
かつての東京五輪のころのような、いまだに大量消費型成長モデルを理想視している向きが少なからずいることにも辟易する。折しも「リニア中央新幹線計画」が進行中で、着工も時間の問題になりつつある。南アルプスについては、いま、UNESCO のエコパーク登録に向けていろいろと準備が進んでいるところなんですが、ここにきてリニア新幹線トンネル工事に伴う大量の排土問題が出てきて、地元の静岡市などで問題視する向きがひじょうに多くなっています。そんなとき、地元紙に、山岳写真の第一人者、白籏史朗氏のお話が掲載されていて、ほんとそのとおりだよなあと感じたしだい。
リニア中央新幹線計画は本当に必要なのかと問いたい。日本の国土を蜂の巣のようにして、何のプラスがあるのか。必ず弊害が出てくると思う。… 富士山で入山料を試行した。集まった金の使い道はこれから考えると言っているが本末転倒だろう。まず自然保護をしっかり考え、制度設計するのが絶対必要だ。南アルプスも同様と言いたい。
富士山も南アルプスも世界遺産を目指してきたが、今まで何をしてきたのかと問いたい。会議を何回も開いたが、形になっていない。JR 東海や中部電力は今後、南アルプスの自然に対して何ができるかを、真剣に考えないといけない。ダムは、三保松原の海岸にも影響を及ぼしているではないか。
… 自然への畏敬の念。それがないと、いつか私たちに大きなしっぺ返しが来る。