最近のThe Da Vinci Codeブームと便乗商法的な日経NG社の「ユダの福音書」関連書籍・DVDの宣伝。書店に行けば――ほとんど関連性の薄い本や雑誌、ムックまで――「ダ・ヴィンチ・コード」コーナーに文字通り山積み。そのうちの一冊を手にとってパラパラとページを繰っていたら、見出しにGnosis主義ということばが。昨今の映画作品やサブカルチャーものの底流のひとつにグノーシス思想がある、というものでして、「エヴァンゲリオン」とか「風の谷のナウシカ」とかもグノーシスの流れを汲んでいる、といった書き方で、正直なんだこれ、と思ってしまった。
こちらの方面にはまるで縁がないので、くわしい人に訊いてみたら「エヴァ…」のほうはたしかに製作者がグノーシスも意識して作っているらしい…とのことでしたが、あくまでも一要素として、使える部分のみ拝借したていどだろうと言ってました。
繰り返しになるけれども歴史上のグノーシス運動じたいがひじょうに多種多様で、厳密には「グノーシス主義」というひとつの枠組みで論じることさえ不可能なもの。とはいえ学問上なんらかの定義づけをしないと不便なのでとりあえずグノーシス主義(グノーシス派)と言っているだけなので、そんなこと言ったらそれこそ際限なくどんなものにもグノーシス的なものが発見できてしまう。「『星の王子さま』とグノーシス」、「『死霊』とグノーシス」みたいに(念のため埴谷雄高の『死霊』はしれいと読みます)。自分の見た雑誌記事もそのたぐいで、グノーシスをまったく知らない読者を惑わせるばかりでよくないと思う。ひとことで言えば、けっきょくコマーシャリズムの道具に堕しているにすぎない。
それでもいまごろになってようやく岩波の『ナグ・ハマディ文書II 福音書』を図書館より借りて、ほかの参考文献といっしょに読んでいるので、自分にとってはラッキーだったと言うべきか。そもそものきっかけは英訳版「ユダの福音書」をはじめて目にしたとき。「なんだこれ、グノーシスじゃん」と思ったけれどもとくに後半部分はまるでチンプンカンプンで、これはきちんと読まないと、と思い立ったわけです。手許の『ケルトの聖書物語』巻末にも『ナグ・ハマディ文書 全4巻』の案内が掲載されていたし、編訳者の解題にも『ナグ・ハマディ文書』との関連が指摘されているので、いずれは読んでみよう思ってはいたけれど、よもやこういう経緯で手に取ることになるとはちょっと想定外、でした。
…そんな折りも折り、日曜の地元紙朝刊の「書評欄」に、なんとなんと『ユダの福音書を追え』の評が掲載されていて、またまたびっくり、というか、ちょっと遅いんじゃないの、おなじ掲載するなら『原典 ユダの福音書』のほうでしょなんて思った。評者はこれまたなんと、かの筒井賢治先生でして、評じたいも妥当な線でした。↓
…これ(「ユダの福音書」)が、初期キリスト教を考える上で、非常に重要な史料なのは間違いない。だが、従来の「ユダ像を変える」ような世紀の大発見だとするPRには、研究者として疑問を感じる。この福音書が書かれたのは、思想内容からして明らかにニ世紀半ば以降。一世紀の正典福音書でさえ十分な情報を欠くユダについて、より真正な記述を含んでいるとは考えにくい。このユダ像は新たな創作とみる方が自然であり、第一、本書の著者の論述もその線に沿ったものだ。
…今回の発見をめぐっては最近、雑誌や本書、解説書と出版が続いた。その商業的なにおいに違和感はあるが、空想に基づく「ダ・ヴィンチ・コード」と異なり、「ユダの福音書」は実在の「もの」への巨額投資が絡んでいる。古代研究への"プチ・スポンサー" 的な気分で楽しんではいかがだろう(以上太字強調はこちらで付加)。
ところがきのう、自分のblogのアクセスログのreferer経由でこんな書評を掲載したページを発見。一読、「ユダ福音書」に出てくるイエスのように笑って――というより失笑して――しまった。↓
…いま「新約聖書」に伝わる四つの福音書は、歴史的には四世紀から五世紀頃に成立したとされており、『ユダの福音書』はそれより古いイエスの言行録である。歴史学的にみれば、「新約聖書」に伝わるイエス伝よりも信用性が高いという見方も成り立つ。
下線部、新約聖書として採録された27正典成立について基本的なところがわかっていればこんなバカなこと書くわけがない。アレクサンドリアの司教アタナシオスが「新約聖書は27正典以外認めない」と主張したとされる「復活祭書簡」をエジプト諸教会宛てにしたためたのが367年。マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの「正典」福音書じたいの成立は2世紀なかば。ちゃんと裏を取ってから書いてください。ちなみにイエスの言行録として知られるものにQ資料というのがありますが、「ユダ福音書」は2世紀、グノーシス主義のカイン派によって書かれたとリヨンの司教エイレナイオスが『異端反駁』に記録している点はほぼ疑いないところで、イエスの言行録云々もこの書評者(ミステリ作家らしい)の勝手な思いこみです。復元・解読された「ユダの福音書」をはじめて読んだとき、「これは福音書というより、グノーシスの奥義解説書だな」というのが自分の第一印象。おんなじ読むんだったらこちらの先生の書いた記事のほうがよっぽど信用できる。
いろいろユダ福音書・グノーシス関連の記事を見ているといまひとつ気になることがあります…なんか「正統派(カトリック教会)がグノーシス諸派を異端として封殺した」みたいな書き方をしている記事が多い。原始教会時代はグノーシス的キリスト教も正統派もそれぞれが「正統」だと称して闘争していたことは事実ですが、じっさいに実力行使をともなった闘いがあったのは北アフリカのドナトゥス派(「放浪無頼の徒」)というさらに過激な一派とヒッポの司教アウグスティヌス率いる正統教会側との闘争(じっさいに実力行使したのは皇帝率いるローマ軍)や、西ヨーロッパ大陸各地で繰り広げられたアリウス(アレイオス)派との闘いで、グノーシス諸派とはもっぱら舌戦もしくは純粋に教義論争で戦ったと解釈すべきでしょう。それに正統教会じたいも一枚岩ではなくて、4度の公会議開催をへてやっとHoly Trinityをはじめとする教義の根本がかたまったくらいで、この件についてはアルメニア教会やコプト教会みたいにいまだに三位一体を認めずに人としてのイエスを否定するいわゆる「単性論」をとる「異端」も存在するし、さっきも出てきたアタナシオスも正統でありながら対立する教会側ともめたすえに破門宣告されたり…カトリックもその後教皇を頂点にいただく西方教会側と東ローマ帝国の息のかかった東方教会側としだいに対立が激化してついに1054年、東西教会は双方を破門しあって分裂したり(世界史で言うところの教会大分裂/シスマ)…ようするに政治的理由であれ感情的理由であれ、多数派から「逸脱している」とみなされた時点でだれでも異端の烙印を押されるような時代背景だったので、「多数派のカトリック教会vs.グノーシス派」という単純な図式は成立しません。グノーシスはたしかに新約聖書の正典じたいも各教派間でまちまちだった原始キリスト教会にとっては「最大の異端」だったでしょうが、最初に正統教会と袂を分かったのはドナトゥス派です。ほかにもネストリオス派、ノヴァティアヌス派(「カタリ」ということばを最初に使ったのはこちらの教派。カタリとはギリシャ語のカタロイからで「純潔な人々」の意)、モンタノス派、そしてアリウス派など、けっこういろんな「異端」がありました。なかでも正統カトリックからもっとも強敵とみなされていたのがグノーシス思想の影響を受けた諸流派、ということ。カイン派もそのひとつだったみたいです。それとこれもかんじんな点ですが、グノーシス諸派はひろく一般人、つまり異教の民を教化しようという「宣教」の発想じたい欠けていた。では彼らが相手にしたのはだれかというと、すでに正統教会員となっている一般信徒。グノーシス派は奥義に達しないかぎり救済もないみたいな教えなので、こんな流派が「正統」として主導権を取れるわけもない。正統教会側の陰謀云々と言うのも的外れです。そういう短絡的な二元論こそ、落とし穴なのです(なんでもそうだとは思うけれども)。
いろいろ読んでいくと、元来が高度に哲学的集団で弁の立つグノーシス諸派は一時期正統教会をおびやかすほどの勢力を誇ったものの、3世紀後半以降、帝国ローマの弱体化と財政逼迫のあおりをもろに被って、すでに司教を中心に高度に組織化されたカトリック側が優勢に立つと急速に衰えていったらしい。だからグノーシス諸派が衰退したほんとうの理由は正統教会側から受けた弾圧でもなんでもなくて、おもに経済的理由からだった、と言っていいようです。
『ナグ・ハマディ文書II 福音書』の序文にも書いてありましたが(p.viii)、「ユダの福音書」もおそらくはアタナシオスの事実上の禁令を機に、すでに一時期の勢いはなくなっていたとはいえグノーシス文書の写本を大切に保管していた修道士(たぶんパコミオス共同体員)がやはりおんなじように壷かなんかに入れて後世に伝えようとしたのでしょう。
…「ユダの福音書」つながりでは、「ナグ・ハマディ文書」現代語訳で有名なJ.ロビンソン博士によるこちらの本にも興味があります。こっちは邦訳出ないのかな? 出版社というのは邦訳を出す気がなくてもとりあえずは版権エージェントから版権を取るものだけれども…。
博士はオーストラリアの新聞サイトに今回の「ユダの福音書」パピルス写本の扱いをめぐる米国地理学協会側の対応について批判する記事を寄稿しているけれども、もう一方の当事者である写本復元・解読者のロドルフ・カッセル博士の記事(『原典 ユダの福音書』pp. 79-82)も読むと、やっぱり研究者も人の子かなと思いました。互いに協力していれば、この貴重な写本はここまでボロボロに朽ちることなく、もっと内容が鮮明に解明できたかもしれないと思うとはなはだ残念至極。
グノーシスに話をもどすと、「イエスはじつは十字架にかかってはいなかった」みたいな仮現論(docetism)のたぐいを文字通りそのまま解釈したり、もともとPax Romana という比較的安定した時代にはやったグノーシス思想をいま現在の閉塞しきった状況と重ねるのもきわめて皮相的で、やっぱり「グノーシスもどき」の陥穽に落ちていると思う。ついでにグノーシス側の終末思想と伝統的なユダヤ教に見られるような過激な終末思想とはまるでちがうものです。それとこれも繰り返しになるけれど、日経NG社は誇大広告をやめてほしい。冗談ぬきでJAROに通報ものですよ。オビと中身がかくもかけ離れた本というのもある意味すごいが、ただでさえキリスト教を知らない、共観福音書さえまともに読んだことのない国内の一般読者に誤った印象をあたえかねない。国内の聖職者も信徒からグノーシスについて質問を受けることが急増しているらしくて、ユダ福音書とグノーシスについての公開講座だかを開いたらそんな人たちで満席だった、という話題も目にしました。正統教会側とてみんながみんなグノーシスについてきちんと答えられるほどくわしいわけじゃないということでしょうか。
…なんてこと書くと、護教的だの「中の人」だのとそしりを受けそうですが、わたしは信徒でもなんでもない門外漢です、念のため。
「ユダの福音書」はプラトン哲学をベースにしたヘレニズム思想――グノーシス――の衣をまとった、正統キリスト教会とはまるで別物の産物にすぎない。あくまでグノーシス主義研究史上の貴重な発見としてとらえるべきものだと、重ねて強調しておきます。
2006年06月26日
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