2014年03月17日

「葡萄酒色の海」に沈んでいた「世界最古のコンピュータ」

 ここんとこヒマさえあればこつこつと読み進めているキャンベルの本『創造的神話』の巻( The Masks of God Vol. IV, Creative Mythology, 1968 ; reissued 1991 )。ようやく半分までたどり着き、峠のてっぺんには来たのかなという感じ。あとはひたすら下り坂(?)かどうかはまだなんとも言えないが … 。

 いま読んでいるのは、ジョイスの自伝的小説『若い芸術家の肖像』に出てくる「美を定義づける三つの要素」のくだりの引用部分。そのすこし前、おや、と気を引く箇所にぶつかりました … と同時になんだか懐かしくもあり。だいぶ昔に読んだ本にも出てきたのとおんなじ単語にふたたびお目にかかったからです。

 'wine-dark sea'、そのまんま「葡萄酒色の海」です。ギリシャ古典ものに詳しい人ならすぐピンと来る、例の「ホメロスの形容辞」のひとつ、というか、代表格にしていまだに結論の出ていない( らしい )「枕詞」です。

 海がワイン色、つまり真紅だなんてそんなバカな、とつい思ってしまいますが、この言い方をはじめて知ったとき、当時の先生に、日本で言えば「鯨取り海辺をさして … 」みたいなレトリックだ、とか、そんなこと言われた記憶があり、その後はとくに気にするでもなく、この語句は永らくほぼ完全にアタマから消えていた( 苦笑 )。

 キャンベルは、ほぼ同時代に書かれたトーマス・マンの『魔の山』とジョイスの『ユリシーズ』には、おそらくヴァーグナーの音楽から着想を得たとおぼしき「ライトモティーフ( 示導動機 )」の手法がたいへん効果的に使われていると述べ、「ライトモティーフは、叙事詩の形容辞という初歩的用法でホメロスにもすでに現れている。『葡萄酒色の海』、『指は薔薇色の暁の女神』など … 」みたいに書いている( p. 326 )。ちなみに「ホメロスの形容辞」にはほかに「脚の速いアキレウス」、「白い腕のヘラ」、「雲を呼ぶゼウス大神( 訳語はいずれも『完訳 イリアス』風濤社刊から )」。ついでに Homeric laughter なんてのもある。意味は「哄笑」、大笑いのこと。

 うーんこんなとこで「葡萄酒色の海」にふたたびお目にかかるとは … やらなければならないことがあるのにまたしても気になってしまって( 笑 )、あらためて調べてみたら、たとえばこちらの記事この NYT の過去記事、あるいはこちらの記事とかが目に留まった。

 もとのギリシャ語はどうなってるのか、というと、ラテン語表記すれば 'oinops pontos' になる( 原語表記は 'οινοψ ποντος' )。上記 NYT 記事によると、これを 'wine-dark sea' と英訳した先生がさるインタヴューにて以下のようにコメントしていたと書かれてます。「文字どおり訳せば『葡萄酒のような( のように見える )海』」。なんだけど、あえて「葡萄酒色の海」、wine-dark sea と訳した。「これ以上ふさわしい訳語はないはずだ」。

 葡萄酒のような表面の海、ということは、べた凪の海のことかしら、とも思える。たとえば『イリアス』第23歌のアキレウスが今は亡き戦友パトロクロスへの思いに沈んだまま「葡萄酒色の海」を見る、という場面とか。でも『オデュッセイア』第5歌ではあきらかに荒れた海の描写だし、よくわからない。「ホメロスにはたった5色しか出てこない」なんて主張や、かつてグラッドストーンも唱えたという「古代ギリシャ人色盲説(!)」なんてのにはびっくりさせられるが、とにかく当時の吟遊詩人たちにとってこの 'oinops pontos' なる言い方はひとつの決まり文句、朗唱効果を高めるレトリックだったようです( ついでに日本語は古来、色彩に関してはとても豊かな語彙を誇ることば。浅葱[ あさぎ ]色、萌黄色、鈍[ にび ]色、代赭[ たいしゃ ]色、利休鼠[ りきゅうねず ]色などなど … 新橋色はじめ、青系だけでもこれだけあったりします )。

 でもなにかこう、ホメロスの英訳者先生のコメントには少々納得いかない部分があるのも事実 … wine-surfaced sea がなんで wine-dark になるのか? たしか岩波版だと思ったけれども、「すみれ色の海」なんて訳語も見かけた。… ワイン色の海にせよ、すみれ色にせよ、長いこと西伊豆の海を眺めてきたワタシとしては、いまいちイメージできかねるんですな、どっちも。なんたって地中海、いやエーゲ海だし( 笑 )。画像でもたとえば夕焼けに染まった海とか検索で引っかかるんですけど、あれ見てまさか「葡萄酒色」だ、なんて言う人はまさかいまい。いたらその人は眼科に行ったほうがいい(苦笑)。'oinops' に 'wine-dark' を当てた英訳者先生は、ご自身の体験から「これぞ最適な訳」として思いつかれたようだし、ようするに感覚的なもの、この英語圏でひろく知られた 'wine-dark sea' という訳語じたいがすでに ―― 「英語で読む村上春樹」講師の沼野先生じゃないけど ―― ホメロスの使用したもとの表現からズレている。

 しょせん、'Traduttore, traditore( 翻訳者は反逆者 )' … とはいえ、げにむずかしき哉翻訳也、ですねぇ … と、深き淵よりの嘆息( もちろんこれもパロディ、ド・クインシーの同名作品 )。

 と、そんな折も折( 最近こればっかのような気が )、こちらの番組を昨夜、見ました … いやもうビックリ。もしこれが紛れもない史実だとしたら、都市国家ポリスの群雄割拠状態だった古代ギリシャの人、とりわけ数学者や天文学者はとんでもない天才ぞろいだった、ということになります。たしかに音楽ではピュタゴラスが、幾何学ではエウクレイデスが、天文学では( 天動説だったとはいえ )プトレマイオスがいるし … そして、地球の外周をはじめて計算したのはアレクサンドリアで活躍したエラトステネスだったか。問題の「自動計算暦」の歯車装置はこれで、番組ではこれを「発明」したのはかのアルキメデスだったのではないかと推定していた。

 「葡萄酒色の海」には「世界最古の計算機( 天文暦 )」が沈んでいた … なんとも壮大かつロマンチックな話ではありますねぇ。

[ 以下は追記です ]… この一連の騒動 ―― ついこの前も似たようなことがあったような気が … ―― について素人からもひとこと。

 理研の「中間報告会見」と、この件についてくわしく解説していたこちらの番組とかも見ましたが、Nature 掲載論文でよくわかんないのが、「何かの記載をコピーしたという曖昧な記憶はあるものの、当の文献は持っておらず、出典も憶えていない( 3月15日付地元紙要旨記事の表現を一部改変 )」という問題。そんなことって … あるのかなあ、と。キチンと「執筆」していれば、引用元文献だの資料だの本文との関連付けでどっか行っちゃって記憶にもない、ということはちょっと考えにくいと思うが … 。でも番組でうまい表現をひねり出していたゲストの先生じゃないけど、今回は「査読のクラウド化」のおかげなのかどうか、博士論文冒頭の「序論」が米国の公的機関サイト内文書のほぼ「丸写し」だった、というのは正直 aghast だった … Nature 掲載論文の場合はなにもこの人ひとりの責任ではなく、むしろ先端医学分野で繰り広げられている各国研究機関どうしのはげしい競争に打ち勝つための、理研という組織の姿勢そのものが問題なんではないかとは思います。が、博士論文については 100% 個人の問題なので、なんでこういうことをしたのだろうという点でワタシには理解不能。論文だろうとなんだろうと、モノを書く行為には変わらないし、だいいち論文のはしがきって、いわばその論文の顔、扉、表紙じゃないですか。その時点で他人様の文書の二番煎じときては、読む気も失せるというものです( どのみち論文の内容は素人にはとうてい理解できるはずもないけど、上記番組では Oct4 とか TCR 再構成とかの用語もわかりやすく解説されていてよかった。ただしあの「序論」は幹細胞とはなんぞや、を説明した文章なので、当然、きわめて平易な英文で書かれている )。

 「コピペ」問題については、だいぶ前にもここで書いたことがありましたけど … なるほど、今の御時世、ただ手をこまねいているだけでは能がない、こんな「検知」ツールがあるんですねぇ、こちらにもちょっとびっくり。

 日本では「文は人なり」と言うけれど、あのルターは、人の書いたものを額面通りには受け取るなという趣旨のことを言っていたりする。読み手に向かって文章を綴るとはどういうことなのか、いろいろと考えさせる騒動ではあった。STAP( 刺激惹起性多能性獲得 … って理系の用語ってなんでこういつぞやの「修飾麻疹」みたいなヘンてこな言い回しになっちゃうのか? )細胞の存在有無には、じつはあんまり関心がない。たしかにすばらしいことかもしれないが、もっとも大事な問題が今回の一件で掻き消された感がある ―― どんな最先端技術にせよ、最先端医学にせよ、そこには線引きすべき倫理上の境界線がある、ということ。なんでもかんでも、という態度でこうした技術が見境なく臨床現場で使われていったら、きょくたんな話、フランケンシュタインが出てきた、なんてことにもなりかねない。かつての核兵器( 原発もそうかも )開発のときとおなじ轍を踏まないためにも … 。

posted by Curragh at 22:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史・考古学
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