この人の作品について、出演者の方々がそれぞれに語ってましたが、どれもナルホドなぁ、と思わされることばかり。「ド−ソ−ド」の多用、これってたしかいつぞやの Schola でも似たような話を聞いたけれども … 中世ヨーロッパの音楽では「ミ」のない5度音程ばっかで「ド−ミ−ソ」と三つ揃うのはバロック以後、みたいなことをしゃべっていたと思う。引き合いに出されていたジョン・ウィリアムズの「宇宙三部作」、たしかにシュトラウスばりの「ド−ソ」の5度音程が多用されてますね。
オルガン好きとしても、シュトラウスははずせない。なんと言ってもあの「ツァラトゥストラ」の出だし! でしょうな。そして「アルプス交響曲」。「ウインドマシーン」だっけ、オルガンも「雷鳴」を象徴する役回りで活躍してましたが … さて、この時期、とくればバッハ好きにとっては年に一度のわれらが大バッハの「生誕祭」が巡ってくる季節でもあり、イースターバニーが卵から出現する季節でもある( いつも買ってる某菓子パン製造会社のシュークリームの外装にも「イースターバニー」が印刷されていたのにはびっくり。この「八百万の神々のおわす島国」では、イースターつまり復活祭はクリスマスほどには普及してないはずだが ??? )。
でも、番組を見ているうちにふと思う … シュトラウスの活躍していた後期ロマン派、そしてそれ以後のモダンエイジ突入、最初の世界大戦まで突入、という文字どおり大荒れの欧州大陸の音楽におけるオルガンという楽器の地位というのが、どうしても感じられてしまうのだった … 時代遅れの産物。機械化され、大量生産されるオルガン。ひたすら管弦楽やピアノの「亜流」に走り、「ウルリッツァー」に代表されるような映画の BGM ていどでしか活用されなくなってしまったオルガン。「雷鳴」=オルガンを使おう、という発想じたい、この楽器の西洋音楽史における地位の凋落ぶりを物語っているような気がしてならんのです。ようするにたんなる効果音その一。で、ちょうどそんなときに救世主よろしく登場したのが、「バッハへ帰れ」と唱えた、あのシュヴァイツァーらによる「ドイツ・オルガン復興運動」だった。
息子たちのスタイルをも自家薬籠中の物にしようと、保守的なくせして流行には意外と(?)敏感だった大バッハも、もしシュトラウスのようなオルガンの「使い方」を耳にしたらどう思ったろうなどと、お節介ながらつい邪推してしまったりもするのでした。
2). で、そのリヒャルト・シュトラウスですが、「原典」の『ツァラトゥストラはこう語った』を著したフリードリヒ・ニーチェ。この人は最晩年、スイスかどっかの田舎道でムチ打たれる老いぼれロバを眼にしたとたん、いきなりその老ロバをしっかと抱きしめはげしく慟哭した、とかってたしか『バッハ全集』のカンタータの巻で読んだことがあり、そのときは『ツァラトゥストラ』であれほど希求してやまなかった「超人」の末路を見るようでこっちまで涙腺が潤んできてしまった。
「神は死んだ」という宣告が超有名ながら、真に意図するところを理解している人はなかなかいないのかもしれない。でも『バッハ全集』によると、なんとこの人、「今日、バッハの『マタイ受難曲』を聴いてきました … 今週はこれで3回目です」とかなんとか、そんなことを友人宛て書簡に書いているというのだからいやおどろいた。この人がもし皮相的な無神論者だったら、いくらなんでもバッハの、しかも「受難曲」なんて聴く耳は持たなかったでしょう( と思う )。
3). 「神は死んだ、ということを耳にしたことがないのか」について、比較神話学者キャンベルはなんと言っているかというと、
… ここに言う神は名づけられ限定された創造神、歴史的制約をもつ聖書に登場する神を指しています。この神が死んだのは、聖書という真理と徳への手引書が編まれてから数世紀からこのかた、生活状況だけでなく思想状況も大きく変化してきているからです。意図的に偏狭かつ制限的であろうとする自民族中心主義的な視野と部族的な「妬む神」( 出エジプト記二〇章五節 )をもつ聖書は、あまりにも特定の文化に密着しており、そこでは「民族的観念」と「基本的観念」がほとんど不可分に融合しているのです。… もしザラスシュトラ[ ツァラトゥストラ ]が現代に蘇ったなら、彼はもはや絶対としての善と悪について説かないでしょう。… 現代の教えは、善悪の彼岸にある、生についての教えとなるでしょう。
―― 鈴木 晶 / 入江良平 共訳『宇宙意識』人文書院刊、p. 56, p. 58.
ところでこの本、ひさしぶりに開いたら、いきなりこんな箇所が目に留まった。
… かつてドルイド教の地であり、キリスト教伝道の対称( ママ )となったアイルランドに栄えた、深遠な象徴的修道院芸術の ―― 全部とは言わぬでも、その多くの ―― 根底には、秘かにグノーシス的な意味が含まれていた、ということだってありうるのです。ローマ帝国が崩壊し、ヨーロッパの他の地域の学芸がゴート人、ヴァンダル人、アングロ=サクソン人などの異教の蛮族によって抹殺されていたとき、アイルランドの修道院長たちは、まだギリシャ語を読み、その翻訳をしていました。彼らの典礼に見られるある種の特殊性は、かつて普遍的だったギリシャの儀式に由来しています。… 当時のアイルランドには、学問と体験を通じてキリスト教の隠喩に内包される霊的意味を認識するためのあらゆる条件がそろっていた、ということには疑問の余地がないのです。 ―― ibid., p. 118, 下線強調は引用者
むむむ … たしかに東方教会的な特徴はあるにせよ、先生そこまでおっしゃられるか、というのが率直な感想なのであった。といっても前にも書いたが、当時のアイルランド教会が「異端」として弾劾されていた、なんていう史実は知るかぎり聞いたことがない。
この 20世紀米国を代表するような比較神話学の大家はいまから 110年前、1904年 3月 26日の生まれ。ここでも何度か書き、また現在大作『神の仮面』最終巻を半分ほど読み進めているのだけれども、門外漢なりにキャンベルのメッセージを解すれば、つまるところこういうことに行き着く ―― ニーチェの言う「国家の正体」などがそうだけど、「境界線」を勝手に地球上に引いてきたのは人間であり、ほんらいこの世にはなんらの分割線もなく( cf., op.cit., p. 176 )、あなたもわたしもみな存在の中の絶対的存在、名づけられもせず存在するともしないとも言えない超越的な「意識」の現れなのだ ―― そういう深いところにおいて、人間の内面と地球、そして宇宙の存在はひとつであり、人類の未来はそのことを認識できるかどうか、それを認識させてくれるような「あたらしい神話」を持てるかどうかにかかっている。かつてはシャーマンや神秘家、予言者が精神的に導いていたが、現代においてその役目を担っているのは芸術家、アーティストである。芸術家といってもジョイスの言う「動的な」、人々を突き動かす作品を創造する芸術家ではなく、真の芸術家 ―― 神話の担い手としての芸術家 ―― は、「静的な」作品を提供する芸術家である。そして、ビル・モイヤーズとの対談を収録した『神話の力』には、こんな一節も出てくる。
モイヤーズ エデンがいまある ―― 苦痛と死と暴力にあふれたこの世界にですか?
キャンベル 世界はそういう有様に見えますが、そう、これがエデンです。この地上に天国が広がっているのを見るとき、世界における古い考え方が払拭される。それがこの世の終わりです。世界の終末は未来にやってくる出来事ではなく、心理的な変身、ヴィジョンの変革という出来事です。そこで、あなたは具体的な事物の世界ではなく、光明の世界を見ます。―― 飛田茂雄訳『神話の力』早川書房刊、p. 400、下線強調は原文では「傍点」強調箇所。
たしか NHK の「海外ドキュメンタリー」でこの対談を見たときも、やはりおんなじようなことをしゃべっていた記憶があるけれども、ほんともうここはまさしく目からウロコ、というくだりです。『聖なる妄想の歴史
キャンベル財団のこのバイオグラフィとか読むと、キャンベル先生の人生もけっこう山あり谷ありだったようで … 大恐慌前に実家の火事で祖母を失っていたりとか、ヨーロッパ留学から急遽帰国したはいいが就職先が見つからない。70通以上も CV を書いてもいっこうに採用されず( いまふうに言えば「お祈りメール」ばかりもらっていた ) … でもここからが本領発揮というか、いきなり車を飛ばして大陸横断して西海岸へ。そこでスタインベック夫妻とか交流したり、詩人ロビンソン・ジェファーズを発見したり … 水道も引いてない小屋を借りて文字どおり「読書漬け」の生活をなんと5年! も送った末、母校のプレップスクールに教職を得た。その後名門女子大学のサラ・ローレンスの教授を引き受けるのですが、そこでも自分のもっともやりたいことを優先させていたらしい。結果的にキャンベル教授の講義はいつも満席だったというから、神話を読み解くことで鍛えられたストーリーテリングの能力はほかの教授陣を圧倒していたと言えるかもしれない。そのキャンベル先生は退官後、こんどはラジオやテレビに出て米国市民に向かって、みずからの思想も交えて神話の奥深い世界を淡々と話し、そこでまた反響を呼ぶことになる … なぜこの人の話がかようなまでに聞く人の心に響くのか。それはたぶん『神話の力』などのキャンベル本の邦訳を晩年に残された訳者・飛田先生の「訳者あとがき」にいみじくも表現されていると思う。
… 押しつけがましい論理ではなく、… 読者自身にその問題を考えさせるのである。私は、キャンベルの豊かな学殖だけでなく、深い思想性と、独善から程遠い静かな語り口と、その言葉の音楽に引き込まれてしまった。… 鋭い感受性の持ち主であれば、ジョーゼフ・キャンベルの詩的インスピレーションのなかに、仏教で言う悟りのなんたるかを会得されるかもしれない。
―― Campbell / Moyers, op. cit., p. 407.
『神の仮面 第四部( Creative Mythology )』にも、またほかのキャンベルの著作にも、以上のようなことが繰り返し、それこそこの前ここで触れた「ライトモティーフ」のごとく何度もフーガの主題−応答よろしく出現する。地球上にはいかなる境界線も存在しない ―― こういうことを、冷戦まっただ中の 1960年代終わり( 『神の仮面』四部作の完結は 1968年 )に、すでに書いていたのだから、いろいろ批判はあっても( 「ジョー・キャンベルなんかと関わり合うなよ。あいつはユング派だ」なんて言われたことがあります* )、やっぱりキャンベルという学者はすごい、と思う。自分がここまで肩入れするきっかけになったのは、あの大震災だった。もちろんかつて NHK のテレビで再放映とあわせて何度か「神話の力」シリーズを見ている。けれども、あいにく悟りが遅いためか、あらためてキャンベル本の数々に目を通してみてまるで理解が足りなかったというか、「感得」にいたっていなかったことを痛感した。同時に、「ことばの音楽」に知らず知らずのうちに引きこまれていく自分も感じている。いままで取り立ててたいした人生を送ってきたわけじゃないけど、キャンベルの著作と彼の思想に出会えたことは、ほんとうにありがたいことだと思っている( 震災時、気持ちが定まらなかったとき、なぜか谷崎の『細雪』を手にとって読んでいた … みたいなことを書いた雑誌かなにかの寄稿を見たことがあるけど、その気持ちよくわかる )。前にもここで書いたけれども、「写経」も、原文・翻訳文あわせてついに6万語の大台に乗りそう。塵も積もれば … かな。
ところで米国人の学者先生ってキャンベルのような「一風変わった」人って多いのかな? 中にはガチガチの石頭タイプも多いとは思うが … たとえばラテン語版『聖ブレンダンの航海』初の完全な ―― 間然とするところがない、とまではいかないものの ―― 校訂本を世に問うたのも、米国人文献学者のカール・セルマーだったし。でもこの前、検索かけても( Google.com でも ) Carl Selmer に関するデータはさっぱり釣れず。こんどはこの人についてもうすこし知りたいものだと思う。
けさの地元紙日曜版の「親子の本棚」ページに、米国の絵本作家といったらこの人かしら、と個人的に思っているドクタースースの名前をひさしぶりに見た。『きみの行く道』という書名の絵本で、つぎの一文が引用されていた。
今日この日は、きみのもの! きみの山が、待ってますよ。さあ、出発しなさい、きみの道をね。
キャンベルもまた、おんなじようなことを言ってます … 「各自が自分の人生において求めねばならないものは、かつてどこにもなかったものです。自分だけのユニークな潜在能力から発生するもの、いままで存在したことのない、他のだれひとり経験したことのないものです」。
キャンベルのモットー、「あなたの至福に従え」は、けっして楽観主義的お気楽な生き方なんかじゃない。逆だ。ちょっと考えてみれば、これが言うは易く行うは難し、ということがわかるはずです … たとえば「自分の好きなことを仕事にしているか」、とか。
仏教ではたとえば「この世はすべて無常」、あるいは「一切皆苦」という。さる劇作家のことばを借りれば、「積極的無常観」。キャンベルの思想の根幹には、まちがいなくこれと通底する考えが流れている。そういうことをすべて受け入れた上で、すべてを肯定する。菩薩の生き方。「楽園は、この地上に広がっている」と説くグノーシス文書『トマスによる福音書』。… なかなか険しい道のりです。
キャンベル 悟りとは、万物 ―― 時間と幻のなかで、裁きによって善と見なされるものだけでなく、悪と見なされるものも含めてすべて ―― を貫いている永遠の輝きを認めることです。ここに至るためには、現世の利益を願い、それらを失うことを恐れる心から、完全に脱却しなければなりません。…。
モイヤーズ なかなか大変な旅ですね。
キャンベル 天国への旅ですよ。
―― op.cit., pp. 290−1.
*… 馬場悠子訳『ジョーゼフ・キャンベルが言うには、愛ある結婚とは冒険である』築地書館刊、p. 171.
[ 追記 ]:このほどビッグバン時の「重力波」の名残りの波形がはじめて捉えられた、とのすごい報道があったけれども、神話の世界に生きていたいにしえの人々は、その当時なりの理解のしかたでそういう根源的なことが感覚的にわかってたんじゃないかって思う。キャンベルも、「科学と神話は矛盾しない」みたいな趣旨のことを書いている。神話はけっして「絵空事」ではない。絵空事だと切り捨てれば、過去の教訓を後世に伝えるという役割も失われ、結果的に似たような不幸が繰り返されることにもなりかねない、と思います。人間がそういう物語を失ったときが、じつはもっとも危険なときかもしれない。これはたとえば古地図や古地名なんかにも当てはまりますよね。