というわけで、この前の水曜深夜、しっかり聴いてみました … いつもだったらこんどの日曜にも再放送でかかる … んですが、折よく(?)「イースターおめでとう」。なのでのちほどオンデマンドで再聴しようと思います( つまり今週は「聖週間」。「洗足木曜日」、「聖金曜日」、「聖土曜日」とつづく。春分の日以降最初の満月だった火曜日は、米国だったかな、なんと皆既月食だったとか )。
この作品、手許のケラー著『バッハのオルガン作品』によると、いわゆるケーテン時代の作、というふうに書いてあるが、日本語版オリジナルの巻末付録「バッハ・オルガン作品表」では『ニューグローヴ』の記述として、「ヴァイマル以前?」とある。ついでに『バッハ事典』の記事によれば、「1710年頃、ヴァイマル」とある。
… ひさしぶりにケラー本開いたら、こんなことも書いてありました。「バッハの用語としての<シャコンヌ>の場合、バスは旋律としてはっきり示されるのではなく、感じられる程度にしてある( p.166 )」。そうなんだ。たしか以前、『音楽中辞典』で調べたときは、「どっちもおんなじ」みたいな書き方だったと思ったが。すくなくともケラーは、バッハにおけるシャコンヌとパッサカリアは区別すべき、と考えている。
だいぶ前に書いたことともカブるが、このバッハの「オルガンのためのパッサカリア」、ブクステフーデの「パッサカリア ニ短調 BuxWV.161 」がベースになっているのでは … という説が有力になっているらしい。半世紀以上も前のケラー本では、フランス古典期の作曲家アンドレ・レゾンの五つの変奏からなる「小パッサカリア」にもとづくと書いている( 出所は音楽学者アンドレ・ピロの説、レゾン作品は 1687年出版のもので、バッハはフレスコバルディの曲集とともに入手していた )。
と、このように成立年代もわからず、成立経過についても諸説あるというこの変奏曲ではあるけれど、バッハがオルガンのために書いた全作品中、まちがいなく傑作として挙げられると思う。たとえば低音固執主題。ブクステフーデもパッヘルベルもオルガン独奏用「パッサカリア / シャコンヌ」は残しているけれども、たいてい4小節くらいのごく短く、素朴な主題です。ところがバッハのこの作品では低音主題が倍の8小節にまで拡張されて、この低音主題の入りだけ聴いてもじつに堂々たる、雄大な音楽です( しかも主題提示は単独で奏される。ブクステフーデではそうではない。それだけ完成度が高いということ )。これが当時の変奏技巧のかぎりを尽くし、足鍵盤で奏されていた主題が最上声部へと移ったり、分散和音化して隠れていったん止まった、と思いきやふたたび力強い低音リード管で鳴り響き、あとはいっきにフィナーレへ向かって突き進む … そしてここまで 20 の変奏を繰り返してきたバッハは、なんとここでフーガに変えてしまう。低音主題は変形され、ふたつの対位主題とともにソプラノに現れ、上声部にふたつのトリルが奏されたあとほとんどの声部がまるで天を目指すかのごとく上行し、クライマックスには「ナポリの六[ ナポリの窯、ではない ]」の和音で突然止まる。そこからハ長調に転じて、この壮大な、宇宙的とも言えるパッサカリア全曲を閉じる、という構成になってます。
中学生のころに親に買ってもらった、故マリー−クレール・アラン女史の弾く LP(!)盤にもこの「パッサカリア」は入っていて、もううろ覚えになってしまったけれどもたしかアラン女史はライナーで、この作品と「オルガン小曲集」との類似性を指摘していた。ケラーも著書で、この作品は「純粋に合理的な方法では、その秘められた法則性が解明されるものではない」と指摘している。「フーガの技法」と「詩編」との関連性を指摘したいつぞやの「深読みすぎる」論考じゃないけれども、「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ BWV.1004 」の「シャコンヌ」にしても、こういう作品におけるバッハの作曲法には、作曲技巧を超越したなんらかの企てないし意図が働いていることはまちがいないと思う。それがなんであるのかは … 本人に訊くほかないでしょうけれども。
ちなみにバッハが 15歳、リューネブルクの聖ミカエル教会付属学校の給費生としてボーイソプラノ歌手だった 1700年ころ、すでにこの「パッサカリア / シャコンヌ」という形式は過去の遺物、ケラー本によれば「消滅した形式」だったようです。のちにブラームスが最後の交響曲でこの形式を採用し、ヴェーベルンも管弦楽のためにこの形式で書き … ということを当のバッハが知ったら、きっと喜ぶだろうな。
ついでながら、チチェスター大聖堂ゆかりの音楽家、とくると、トマス・ウィールクス。リンク先記事をそのまま受け取れば、この人、ワインかビールかはいざ知らず、そうとうな「呑兵衛」だったようで … 手許の The English Chorister : A History にもこの「アクタイをつく癖、深酒」のかどでクビになったことが書いてあるけれども、あれま復職してたんだわ( 苦笑 )。しかも! そのページ( p. 99 )をひさしぶりに開いたら、なにもこの話、聖歌隊長ウィールクスにかぎったことじゃなくて、チチェスター所属の成人隊員( lay clerks )の「ほとんど全員が『夕べの祈り』の欠席、怠惰な態度、飼い犬の同伴、そして千鳥足で」やってきたことで、毎度のようにお叱りを受けていたなんて書いてあるからビックリ( 笑 )。おまけにこれチチェスターにかぎった話じゃなくて、ウェルズやソールズベリでも同様の「問題」の報告が記録として残っているんだそうで、国教会成立後のテューダー朝に活躍したイングランドの音楽家には、問題児がかなり多かった、ということになりますな。
追記:先日、本文中でも触れたマリー−クレール・アラン女史の仏エラートレーベルの録音盤が出てきたので、ついでにご紹介しておきます。以下、アラン女史みずから書いたライナーの解説より抜粋( 訳はオルガニストの植田義子氏 )。この時期( 1982年 )、この傑作についてアラン女史が以下のごとく「解釈」して表現していたことを示す貴重な証言と言えます( なお、アラン女史はここで前半のパッサカリア部分の変奏数を 21、後半のフーガでの主題の入りを 12 と解釈している。使用楽器はアルザス地方サン−ドナ教会の 1971年建造のシュヴェンケーデルオルガン、三段手鍵盤とペダル、36ストップ )。↓
この曲は、『オルガン小曲集』と同じ頃( 1716 〜 17年 )に作曲され、形式の驚くべき完璧さと内容のきわめて神秘的である事が認められる最初の大曲である。最高度の表現力を持つ音楽上の語法と、作曲手法上の表出力と完全性の秘密がどこにあるのかを見出すために、パッサカリアの変奏の各グループと『オルガン小曲集』のコラールを対比して考えてみる必要がある。
私は、数の象徴によってこの曲をとらえた。即ち、3はキリスト教の三位一体の概念( 父と子と聖霊 )を表し、7は完全と創造を表す。このパッサカリアは、3つの変奏が1グループを成し、大きく7グループに分けられる。更に、拍子は3拍子で、調子記号はフラット3つである。パッサカリアではテーマの呈示は 21回、フーガでは 12回である。21は 12の裏返しで、2+1、1+2はどちらも3になる。それ故私は、パッサカリアでは3つの鍵盤上で3種類のレジストレーションを用いた。以下は、パッサカリアの各グループと、それに対応する『オルガン小曲集』の中のコラールである。
第1グループ テーマと第1、第2変奏[ 人間の堕落 ]:「アダムの堕落によりて」BWV 637
…
( 中略、以下「小曲集」各コラールとの対応関係がつづく )
…
第7グループ 第 19〜21変奏 上行する楽句[ 復活 ]:「聖なるキリストはよみがえり給えり」BWV 628
以上のように、パッサカリアは人間の運命、罪による堕落、そして救済を描いており、宗教的な「全」を表している。フーガのテーマは三位一体の理念の勝利であり、パッサカリアのテーマがフーガのテーマとなった事は、父なる神を表す。第1の対旋律は細分化された音程と表情豊かなリズム型を持ち、受難[ 犠牲となったキリスト ]を象徴する。たえまなく動く第2の対旋律は、"生命をもたらす" 聖霊を表す。この対旋律の呈示のもとで、対位法的音型はほとんど上行する。バッハはここで、天国への巨大な昇天へと我々を導く。バッハは、弱き存在である我々人間に欠けているもの、天国にある魂を我々に分け与えようとしているようである。バッハは我々にとって、大きな慰めである。バッハの音楽は、絶体なるものへの我々の願望をみたし、希望への渇きを充たしてくれる。