2006年07月11日

The Secrets of Judas

 前にもここに書いた、ナグ・ハマディ文書校訂版編纂者ジェームズ・M・ロビンソン博士の著書The Secrets of Judas。さっそく買って読んでみたところ…。

 …ひと言で言えば、なんのことない、『ユダの福音書を追え・外伝(ロビンソン版)』みたいな本だった…orz。

 1〜3章までは、正典4福音書でのユダの描かれ方、歴史におけるユダ像、グノーシス的ユダ像を、きわめて正攻法な「正文批判的」手法で一般読者向けに解説した内容…当然のことながら4福音書でのユダの扱われ方やグノーシス派批判の代表格リヨンのエイレナイオスの『異端反駁』、キプロスのエピファニオスの『パナリオン(薬籠)』から、該当箇所を逐一引いて比較検証してはいますが、エピファニオスのほうはどんな内容だったか知らなかったのでそれはそれでよかったけれども、長々とした引用箇所もほとんどが聖書など、既知の書物から引いたものばかりで、「ユダ福音書」とバルベーロ・グノーシスとの関係は? …とかはさっぱり。自分の知りたいことにはほとんどなにも答えてくれない内容で、肩透かしを食らった感じ。このへんの薀蓄だったら『原典 ユダの福音書』のほうにも解説があるし。これといった目新しい情報はほとんどなくて、せいぜいご自身が編纂した「Q資料」とからめて書いてある箇所や、裏切り者のイメージが定着するきっかけになったのが5世紀、セドゥリウス・スコトゥスが書いた「復活の賛歌 Carmen Paschale」の一節かららしいということ、ユダ復権の動きは19世紀以降、つづいていたことを挙げている点くらいか(でもボルヘスについては触れられていない)。あとそれと「福音書」なる名称じたい、当初からあったわけではなくて、転写の過程で「権威づけ」のためにだれかが勝手に追加したことばであることとかは読んでておもしろかった。

 で、ここまで読み進めてようやくこの本の趣旨がわかってきました…これは地理学協会の向こうを張ってロビンソン博士が提示するユダ像ではなくて、キリスト教世界ではなにかとセンセーショナルに走りがちのユダ受容史についてあらためて検証してみましょう、問題の写本が「再発見」された経緯についての暴露話もふくめてね…という本だったのでした(副題からして「誤解された使徒と失われた彼の福音書の物語」だったし) orz。

 …というわけで、4章以降の後半部分はがぜんノリノリ(?)で書いています。註釈箇所も――どういうわけか――前半より増えているし(笑)。こちらにもおんなじ内容が掲載されていますが、ロビンソン先生は、今回の現代語訳および年内の刊行をめざしている「ユダ福音書」をふくんだチャコス写本の校訂版編纂チームの一員に加われなかったことが、というか自分ぬきでことが秘密裏に進められ、2004年7月、パリで開催されたコプト学者の国際的集まりで、ナグ・ハマディ写本校訂版に従事したかつての同僚・ロドルフ・カッセル博士によってはじめて真相が明かされたのがよっぽど気に入らなかったのではないか、と勘繰ってしまう。でなければ口さがないオランダ人古美術商(こちらのサイト)がカッセル博士をコケにした発言(pp. 160-161)など、わざわざ紹介するはずもない(よく編集者がOKしたもんだ。このていどの引用ならdefamationのかどで訴えられることもないと思ったのか)。そのすぐあとで博士の緻密な仕事ぶりを高く評価してはいるものの、ナグ・ハマディ文書の復元作業がいかにたいへんなものだったかを引きあいに出して、ただでさえ保存状態のきわめて悪い、というか崩壊寸前のチャコス写本の復元作業(カッセル博士がはじめてこのパピルス写本を目にしたとき、写本はダンボール箱の底にまるでボロボロになったウエハースのごとき束と化していた。『原典 ユダの福音書』pp. 75-76)がはたしてしかるべくおこなわれるかと危惧している。今回のプロジェクトに途中参加した愛弟子のスティーヴン・エメル教授については、のけ者にされたかっこうの自分に唯一、チャコス写本の情報を提供してくれるとあってか、エメル氏が1983年にこの写本をはじめて見せられたときに彼がしめした卓見(きわめて重要な写本ゆえ早急に購入し、修復・復元すべきとロビンソン博士に報告した書簡)から最近の取材記事まで、じつにご丁寧に紹介しているし、「スティーヴが地理学協会の『写本復元審議委員』に選ばれ、内部事情を知るひとりとなったことは大いなる喜び(p.166)」、「遅きに失した感はあるが、最後に加わったのはこれ以上ないほど最適な人材だ(p.167)」と述べて手放しで弟子を褒めていますが、やっぱり自分が参加できなかった無念さ(?)がにじみでているような…書き方に見えてしまいますね。

 「ユダ福音書」をふくむチャコス写本の不幸な来歴についてはジャーナリストが取材した『ユダの福音書を追え』とカブる部分が多いと思います(そちらの本は読んでないからこのへんのことはなんとも言えないが)。このパピルス写本がたどった茨の道のりについてはたしかにおもしろい読み物にはなっていますが、しょせんは学者先生でジャーナリストではないので、追求不足というか、全体的に散漫で、書き散らした印象はぬぐえない。当事者の証言も多く引用されているけれどもほんとのところはどうなの? という点がいまいち判然としません。ただ、現在の写本の所有者であるスイス・マエケナス財団というのがこの写本を買ったフリーダ・チャコス女史の弁護士によって、写本のコンテンツを地理学協会へ売り、関連書籍やDVDやらの収益を写本の修復・復元作業に当てる目的で設立されたこと、今回のプロジェクトがもともと盗品だった写本を穏便にエジプト側へ返還するための方便でもあることははっきり書かれてあり、財団をこさえた弁護士当人も話題づくりのためなんでしょう、「ユダ福音書」について、あることないことつき混ぜていいかげんなことをThe Timesとか、いろいろな報道機関に吹いたことも書かれてありました(pp.177-179)。それともちろん、地理学協会側がチャコス写本の「お披露目」時期を復活祭前の聖週間へ延期したことと映画「ダ・ヴィンチ・コード」との関連…もやっぱりというか、指摘していました(p.173)。

 20年以上にもおよんだ不幸な遍歴の過程で、なんとなんとこの写本が一時期日本にもちこまれたらしい(p.136)とか、マエケナス財団設立者の弁護士が'The Japanese Miho Meseum(?)'の顧問弁護士でもあった(p.145)とか、よもやこんな話に日本が出てくるとは思いもよりませんでした…。

 …というわけでけっきょくこの本からは目新しい事実の発見らしい発見はなかったけれど、長年ナグ・ハマディ文書やQ資料を編纂してきた学者らしく、いかに多くの古代の貴重な文化遺産がチャコス写本のように盗品として世界の闇市場へ出回っているかについてあらためて警鐘を鳴らしている点はよいと思う。チャコス写本の場合、まだ一部が散逸したままで回収不能になっているし、ほかにも貴重なパピルス写本が不正に取り引きされている…らしい。個人的にはこっちのほうがはるかに重大で、「ユダはイエスを裏切ってなかった」なんてことはどうでもいい。チャコス写本は「ユダ福音書」だけでなくほかにも3つの文書が収められていて、学術的価値はきわめて高い。それがなんと二つ折り(!!)にされたり、――この本に引用されていることが事実だとすれば――文字通り欲に駆られた人間の手で破壊されたらしい。写本の状態がここまで悪化したのはひとえに人災だということ。これはまったくもって言語道断で、人類全体にたいする大罪だと思う。

 最後に念のため「ユダの福音書」というものがどんなものかについて。

エメル : (雑誌記者の取材にこたえて)「当然、これはイスカリオテのユダの手によって書かれたわけじゃありません(笑)」
 …(長いこと異端と正統教会との関係を定義しなおす試みがされたきたが、異端視されてきたグノーシスのような教義がじつは原始教会の当初の姿で、ユダ福音書の発見によってそれが裏書きされるのでは、という質問にこたえて)「そう信じる、信じたいと思う人々がいるだけです。あらたに発見されたこの写本によって、本来のキリスト教がいまとはまるでちがう姿だったと証明されるものならばたしかにすごいことにはなるでしょう。キリスト教会は2000年にわたって、正統派としての地歩を築くためにさまざまな手段を講じ、信仰を支えるよすがとして歴史上語り継がれる神話を利用してきました。長年にわたって研究者は現実の教会史はそれとは異なる形ではじまったらしいと言ってきましたが、でもじっさいなにが起こったのかについてはいまだ議論が絶えません。正典4福音書についても事実を目撃した当事者によって書かれたわけではないでしょうし。イエスという人がだれかも、そのような人物がほんとうに存在したのかについてもけっしてわからないのです。今回もまた、あらたに発見された写本が初期キリスト教について多様な見方を提供するとはたしかに言えますが、それ以上のことはありません。当時真正なものとしてみなされていたものがなんなのか、なにが正統でなにが異端かについては不明な点があまりに多すぎるのです」(p.174-175)

 そしてこちらは師匠ロビンソン博士のコメント :

 …「ユダの福音書」は2世紀に書かれた外典福音書で、この文書が伝えるのはおそらく2世紀なかばに存在したグノーシス主義の一団であるカイン派についてであり、紀元30年ごろに起きた事件のことではない! (p.177)

 …ちなみにまえがき見開きの、「ユダの福音書」最終ページのモノクロ写真。これはあきらかに地理学協会側から提供されたものではなくて(プロジェクトから締め出されていたのだから当たり前)、古美術市場を転々としているあいだ、べつの米国人コプト学者がいかがわしい古美術商から入手した写真をそのまま使ったものです。→こちらにもおんなじ画像があります。『原典 ユダの福音書』4ページに掲載された写真とくらべると、明らかに劣化の進みぐあいがちがいます。こちらのほうが古い時期に撮影されたものです(本文ページはこちら)。

 …でもこちらの本にしてもけっきょく発売時期を地理学協会の公式発表とあわせてあわてて出版(4月)したみたいだから、結果的には便乗? なんかな。
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