具体的にどの部分の「翻案」なんだろうと思って目を皿のようにして探すもあえなく挫折( てっ )。この前静岡市に行った折、『赤毛のアン』原書( パフィンブックス版 )と村岡訳『赤毛のアン』と『アンの青春』を買いまして、ついでに図書館から松本侑子さんの『赤毛のアンに隠されたシェイクスピア』も借りまして、きのう一日がかりで、原本のどの箇所にどんな英米文学作品の「引用」が隠れているか、蛍光ペンでマーキングしつつ出典を書いた付箋をペタペタ貼っていったら … たちまち付箋だらけ( てぇっ!? )。
せっかく原本買ったんだから、キャンベル本も急いで読みたい気持ちをグッとこらえて( 苦笑 )、とりあえず最初の数章を曲がりなりにも読んでみたんですが … 出だしからしてすでに児童向け読み物とは思えないほど格調高い風景描写 … 'the whys and wherefores thereof' とか 'perforce ...' とかの言い回しはやはり時代( 初版は 1908年 )かとも思ったが、これはそうとうな難物だ、というのが正直な感想でした。いくら主人公のアンが文学大好き少女で、いずれは教職を目指すとはいえ、ゲームばっかやってる( 失礼 )いまどきのカナダの子どもがこれ果たしてこぴっと読めるんだろうか、作者のメッセージを深く理解できるんだろうか、などと考えてしまった。とにかくその引用が質量ともにハンパじゃない。あの当時の純文学系作品は、児童ものでもこれくらいがふつうだったのかもしれないが( 『チップス先生さようなら』にもあるように、英国のパブリックスクールではラテン語でキケロとか読まされ、暗唱させられたりしていた時代 )、たとえばいまどきの日本の子が蕪村の「行き行きてここに行き行く夏野かな」から、これは『和漢朗詠集』を下敷きにしているなと思い浮かべるような、そんなたぐいの引用箇所がわんさと出てくる。
もっともそんなことわかんなくたって、アンのお話はじゅうぶん魅力的だし、当時のプリンスエドワード島の一角に立つ「緑の破風館」での暮らしがどんなだったかは楽しめるとは思う。でも松本さんの本にもあるように、引用にはその場面と密接にかかわる意味があり、そして引用元としっかりリンクして物語が構成されていて、いわば時代を超えた文学作品どうしが「シェイクスピア」とか「スコットランド」とか「アーサー王物語群」とかと二重フーガ三重フーガよろしく絡みあっている。だからそういう背景知識というか教養というか、知っていれば知っていたほうがいいに決まってます( ちなみにマシュー・カスバートの「カスバート( クトベルト )」もケルト教会の聖人ですね。松本さんは北海に浮かぶホーリー島にも行ったらしいですが、ここはかつて原作者モンゴメリも訪れた場所であったらしい。でも個人的には「ホーリー・アイランド( 聖なる島 )」表記より、「リンディスファーン」のほうがすっとアタマに入るけど )。そしてこれは寡聞にして松本さんのこの労作ではじめて知ったのだが、シェイクスピアの『マクベス』でマクベスに暗殺されたスコットランド国王ダンカンの埋葬地が、なんとあのアイオナ島だったとは( キャプション表記が「聖コロンバ教会」になっているけど、「アイオナ修道院」でいいんじゃないかな )。
なので、前出の本を読むと、たいへんな労作だということがわかる。よくぞここまで、と思う。『国王牧歌』だって、松本さんが『アン』新訳を依頼された当時は、クリック数回でリンク貼れる時代じゃなかったですし( ネットさえなかったころ。当然、各国の図書館とか大学などにも問い合わせメールも送信できなかったし、Amazon も当然なかった )。必要とあらば『テニスン全詩集』とか『ローマ帝国衰亡史』とかを「大人買い」したり … ネットがなかったころはパソコン通信(!)で公開されていたシェイクスピア戯曲を片っ端から調べたり … 米国のどっかの大学の図書館に入り浸ってはせっせと大量コピーに励み、警備のおじさんを怒らせ、文字どおり叩きだされたり … いまどきの若い人には信じられんでしょうな。
門外漢のワタシもかつて似たような経験があるので、松本さんの書かれていることはよくわかる( つもり )。ラテン語版『聖ブレンダンの航海』関連の調べ物では松本さん同様、国会図書館にはよく通った。そのついでに三省堂に立ち寄っては洋書の検索をしてもらい、セヴェリンの本とか注文した。当然交通費だってバカにならない。PASMO だってなかった( 苦笑 )。
でも世の中、「バタフライ効果」というのか、不思議な縁( えにし )というのはあるもので … ワタシの場合はまったく同時期、松岡利次先生の『ケルトの聖書物語』や藤代幸一先生の『聖ブランダン航海譚』などが出版されて、おおいに興奮したものだ( それに、上野の東京都美術館で「ケルト美術展」が開催されたのもそんなときだった )。松本さんの場合もやはりおんなじことが起きたようで、『アン』新訳作業中、まったくの偶然で、本国カナダのモンゴメリの女流研究者が『注釈付き 赤毛のアン』を刊行した。つまりおんなじような作業にコツコツ従事していた女性が地球の反対側にそれぞれひとり、いたことになる。
そんなこんなでこの松本さんの本はすこぶるおもしろい! STAP … 関係の方もそうでない現役の学生さんとかも、この労作の「あとがき」は一読の価値ありと思いますよ。
ところで『アン』の 28章は、タイトルからして「アーサー王物語群」を連想させる。というか、それにもとづいたテニスンの『国王牧歌』( やたらに長い!)の「ランスロットとエレーン」を下敷きにしている。で、これも不思議なことながら、読んでいるキャンベル本の該当箇所がまさにそのアーサー王関係でして、もちろん『国王牧歌』も出てきます( とはいえほんの少しだけど。もっぱらヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『パルツィヴァル[ 邦訳書名は『パルチヴァール』] 』の話なので )。
で、松本さんの本には、たとえばこんなくだりが出てきます。
アーサー王については、テニスン作品だけでなく、いろいろな文学書がある。たとえば、13世紀にフランス語で書かれた『アーサー王の死』、15世紀にサー・トーマス・マロリーが英語で書いた『アーサー王の死』、…
そしてアーサー王伝説つながりでは、松本さんは伝説ゆかりの地でもあるブルターニュ半島を訪問することになる。… 考えてみれば不思議なもんだ。自分が『航海』関連調べ物で、ブノワによるアングロ・ノルマン版の邦訳を発表した先生の論文中に、「ブルターニュもの」として前にも書いた「トリスタン跳び」とか、いくつか情報が書いてあったけれども、そのときはまだ漠然としていた。それがいまこうして『アン』にも出てくるし、いま猛然と(?)読んでるキャンベル本にもそのことが出てくるし。こうしてひとつの円環としてつながってゆく。それがまた、たまらなく心地よい( そういえば何巻目かわかんないながら、『アン』シリーズ続巻には夭折の詩人ルパート・ブルックの題辞が掲げられているとか。ブルックの The Old Vicarage Grantchester という生まれ故郷を描写した美しい詩なら、いま手許にある。これはケンブリッジのメル友からいただいたもので、いずれは日本語にできれば、なんて大それたこと考えているけれども、とても自分にはムリそう … どこかの先生が邦訳した本とかないかしらと探したりしているけれど、いまのところこの小品は未訳らしい )。
… そういえばいまさっき聴取していた「N響定演」ライヴ。なんでもチャイコフスキーがあの名作「くるみ割り人形」。本日の公演ではよく聴く「組曲」形式ではなく、全曲版で聴き応えありすぎるくらいでしたが、ゲストの音楽評論家の先生の解説によってはじめて知ったこと ―― それはあの最後の交響曲(「悲愴」)とおなじ時期に作曲され、しかもそのころ最愛の妹を亡くしていた、ということ。…『星の王子さま』にはまちがいなくサン−テックスの実弟フランソワが投影されているのとおなじく、主人公クララには亡き妹が投影されているのだろう … と思います。バッハの場合だって、「無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータ」作曲の時期はちょうど最初の奥さんマリア・バルバラを亡くしたころですし( 例の「シャコンヌ」のことです。故レオンハルトはまっこうから否定していたけれども )… 芸術作品というのは、概してそういうものです。
ちなみにご存知でしょうけれども、「花子とアン」もまた『アン』からの引用というか、転用、パロディが多い。石板でぶったたく場面、「一生懸命やって勝つことのつぎにいいことは、一生懸命やって負けることだ」という台詞( 村岡訳版では「一生懸命にやって勝つことのつぎにいいことは、一生懸命にやって落ちることなのよ」の箇所 )、おとなりさんの木場リン → リンド夫人、周造じいやん → マシューといったぐあい。てっきり「朝市」くんはギルバート? かと思いきや、どうもご本人の弁ではそうでもないようで …。
* ... こちらの記事に書いたように、これはこちらのミス。キャンベル本をよくよく読んでみたら、脚注の小さい活字( ibid., p. 531 n )ながら、いわゆる「流布本系」の最後の物語として『アーサー王の死 La Mortu Artu 』が入っていた。悪しからず訂正させていただきます。m( _ _ )m