2014年06月15日

『航海』⇒ 『パルツィヴァール』⇒ 「聖杯」

1). この前、静大附属図書館にてはじめてお目にかかった、The Celtic Consciousness という本。書庫から引っ張りだしてもらったはいいが、想像をはるかに超える大部の本( 642ページ! )で、しかもでかいときた。図版入り( あのダリ直筆の色紙みたいなものも掲載されていた )ということもあってかやや光沢紙っぽい高級な造本になっていて、とにかくでかくて重いので、細心の注意を払ってありがたく複写させていただきました。m( _ _ )m

 で、問題の比較神話学者キャンベルの寄稿文というのは編者ロバート・オドリスコール氏の序文のすぐあと、事実上の巻頭を飾る格好で掲載されており、注も入れて 30ページほどの分量。なんでもこれカナダのトロント大学にて開催された同名の国際会議の講演録みたいな本でして、その講演の順番で収録されている。というわけで、キャンベルはそのケルト学関連の国際会議の最初の登壇者だったみたいです。

 その「開会の辞」みたいな講演でキャンベルはまず祖父と祖母の話をしています … 前々からキャンベルさんはアイルランド移民の子なんだろうと思ってたんですがやはりそうだったようで、祖父リンチ・キャンベルはアイルランド西海岸のメイヨー州の生まれ。セント・パトリックス・デイにはニューヨークの5番街をさっそうと馬に乗って(!)パレードの先頭に立っていたとか。祖母マクフォーンの出身がスコットランド東海岸のダンディーで、孫がケルト学の会議の場でこうしてしゃべっている姿を見たらふたりともきっと鼻高々だったろう、などと書いてありました。

 で、そのとき( 1978年2月 )の本題は、'Indian Reflections in the Castle of the Grail' 、「聖杯城におけるインドの反映」、あるいは「聖杯城に映じたインドの影」くらいだろうか … とにかくアーサー王伝説を専門に研究し、かつ古代インド哲学にも精通していたキャンベルらしい講演タイトルではあります。で、またなんという奇遇か、ちょうどその時分に読みかけの『創造的神話』の巻の箇所がやはり「聖杯伝説」をメインに扱った章( 'The Paraclete' )だった。おかげで図書館から借りた 40年ほど前に刊行された貴重な邦訳本『パルチヴァール』とともに、このキャンベルの寄稿文はおおいに門外漢の理解を助けてくれたのでありました。

 かんじんの聖ブレンダンがらみでは、やはりキャンベル特有のというか、たいへんユニークな解釈を披露していて軽く「目からうろこ」状態。この本のもっと先のページには生粋のアイルランド人ケルト学者のプロインシャス・マッカーナ教授の講演も収録されていて、そっちのほうも附属図書館内でささっと眺めていたらやっぱり(?)聖ブレンダンが出てきた。とりあえずそのページも複写しておいたけれども、手許にある本( The Otherworld Voyage )所収の論考とほぼ似たかよったかで、よく言えば標準的というか、オーソドックスな書き方。キャンベルは「外の人」の視点から自在に語っているような印象を受けました( 以下、訳出部分はあくまで試訳なので、ようするにこういうことを言っているという要旨ていどに読んでください。そしてキャンベルが底本とした『航海』はセルマー校訂本のほうではなく、1920年に刊行された古い本のヴァージョンにもとづいており、「7年」つづいた航海をなんと「40年[ てっ !? ] 」とするなど、若干、話の筋が異なってます )。

 たとえば … 「大魚ジャスコニウス( ラテン語版『聖ブレンダンの航海』10章 )」の「尻尾に食らいつこうとしているものの、体の大きさゆえそれができない」イメージが表すものについて。「『ケルズの書』にも、そんな尻尾を食らう怪物を表現した箇所があり、それはいわゆる『トゥンクページ』に出てきます。… この『尻尾を食らう怪物』が表しているのは世界を取り巻く大海と呼ばれるもので、これは世界の主だった神話群すべてに見られるモティーフです。たとえばギリシャ人の言うオケアノスの彼方にはヘスペリデスという黄金のリンゴと不老不死の幸福諸島があります。これはアーサー王伝説に登場するアヴァロン( リンゴの島 )とぴたり一致し、あの謎めいた場所に立つ『聖杯城』とも一致するものです」。

 ブレンダンとそのお供の一行が「エルベの島の共同体」で島の 24人の修道士たちとともに最初のクリスマスを過ごしたときのこと。一日の聖務日課最後のお祈りをあげ、修道士たちがめいめい寝室へと引き上げたあと、島の修道院長とブレンダンはそのまま礼拝堂に残り、窓から火のついた矢が飛んできて祭壇前の燭台をすべて灯してまた外へ飛び出していく奇跡を目撃した、という場面があります( 同『航海』12章 )。キャンベル流の解釈では、「『こんなふうに燭台が灯り、しかも芯が短くならない。なんとも不思議なことだ』とブレンダンは島の修道院長に言う。彼らは永遠と時間との接点に来たのです。時間の中にある永遠性です」。

 「鳥の楽園」のくだり( 同 11章 )では、「大木( =世界樹 )の枝が見えないくらいの白い鳥の群れ」について、こんな趣旨のことも書いてます。「聖杯伝説では、… この奇跡の器は天から、『中立の天使たち』によって地上にもたらされたとあります。彼らは天界での戦いのさい、ルシファーの側につかず、かつ神の側にもつかなかった天使たちです」。ここでキャンベルは、この「白い鳥の姿をした堕天使」たちが、それ以前にブッダによって説かれた「中庸の道( 中道 )」を発見し、対立物のくくりのいっさいない自分たちの状態を歓喜して歌っていると解釈して、その起源をサンスクリットの「無条件の歓喜」ということばに見出し、ひいてはこのことへの「覚知」のしるしとしてのちに登場したのが、「聖杯」なのだ、とも言ってます( Robert O'Driscoll, op. cit., pp.6−7 )。この「歌」のあとで登場する「聖エルベの共同体の島」では反対に「沈黙」の支配する地になっている。「聖杯」を天から地上世界にもたらしたのがどっちつかずの「中立的天使」だった、というのがもっとも重要なポイントです

 このあとで、伝統的にパトリックのアイルランド来島の年号と言われている「432」という数字について、キャンベル本読者ならまた例の話か、というシンボルの話になるので飛ばして( たとえば『生きるよすがとしての神話』や『神話の力』、『宇宙意識』を参照してください )、 「望みの食べ物が尽きることなく出てくる器」の話はたとえばノヴァスコシアあたりにいたアルゴンキン族の神話伝承にも出てくる、なんていうのはひじょうに興味をおぼえた。もっともキャンベルは ―― 講演地がカナダで、しかもセヴェリンの実験航海成功の直後ということもあってか ―― 歴史上のブレンダンという人がじっさいに革舟に乗って「新世界」までたどりついたとかではなく、北米のネイティヴ・アメリカンもまたこのような神秘的な深層意識を持っていたのだとつづけてます。そして、近くにあるのになかなかたどり着けない、選ばれた人にしか立ち入ることを許されない「聖人たちの約束の地」は、その意味合いではそのまま「聖杯城」にも当てはまるという。ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの2万5千行近い長大な中世ドイツ語韻文の完訳本『パルチヴァール』なんか読むと、たしかにそのとおりですね。ちなみにワタシとしては、この一連の「アーサー王もの」をざっと俯瞰してみると( 俯瞰と言えるほど読みあさっているわけじゃないから、おかしな言い方なのは承知のうえで )、初期の「書きことば」による時代の作品はアーサー王が文字どおり主人公、つまりラテン語版『航海』で言えばブレンダン院長、ということになるんですが、時代が下ってクレティアン・ド・トロワの『ペルスヴァル、または聖杯の物語』とか逸名作者の手になる( キャンベルによればシトー会士だった聖職者 )『聖杯の探求』になると、冒険の主役はもはやアーサー王ではなくて、円卓の騎士、高潔の人ガラハッド、『赤毛のアン』に引用されているテニスンの『国王牧歌』の( あんまりよくない意味で )モデルになった「荷車の騎士」ランスロット( ランスロ )、そしてエッシェンバッハが主役に据えた「パルツィヴァール( ペルスヴァル )」といったぐあいに変質している。これはブレンダンの話でいえば、たとえば前にもちょこっと書いた『聖マロ伝』なんかがそれに当たるかな。主役はもはや師匠のブレンダンではなく、若き弟子のマロに取って代わられる( リンク先拙記事にも書いたように、『聖マロ伝』にも出てくる大魚[ おそらくクジラ ]の背で復活祭を祝うという話は、いわゆる「ブレンダン伝説群」に含まれる最古のモティーフでもある )。とにかくこういう変遷の仕方はいずれの物語でも似ています。

 で、ここから先は「聖杯伝説」群の話になるのですが、いままで漠然としか知らなかった「聖杯」というものがどういう素性のものなのか、やっとイメージができつつある。もっとも手許には田中仁彦先生の著書『ケルト神話と中世騎士物語』とかもあるにはあったし、↑ でも挙げたキャンベル本も何度となく目を通していたとはいえ、いまようやっとのことで、ほんとうの意味でこれら「聖杯伝説群」を理解しつつある自分がいる。「聖杯( 古仏語 graal / greal, プロヴァンス語 grazal, 中高ドイツ語 gral )」を最初に登場させたのはクレティアン・ド・トロワ … が参照したとされる、今では失われた「原典」らしい( フランドルのフィリップ伯爵とかいう人の持っていた本だとか )。

 いま読んでるキャンベル本によると( ibid., p. 525 )、「円卓」ということばがはじめて使われたのはアングロ・ノルマンの詩人ヴァース( 1100−1175 )の『ブリュ物語』( c. 1155年 )だという。聖杯( グラール )を、イエスが最後の晩餐で使用した杯、「カリス( chalice )」として最初に登場させたのがロベール・ド・ボロンの『アリマタヤのヨセフ[ 邦訳では『聖杯由来の物語』]』であり、さっき挙げたシトー会士の作品と、もうひとりのべつのシトー会士が書いた「円卓の騎士」ものに出てくるガラハッドはこのボロンの話では登場しない、「聖杯」のそもそものルーツとしては、いくらでも食べ物の出てくる「大釜( デンマーク・グンデストルップ出土の有名な銀製大釜のようなもの )」などが挙げられる … etc.,etc.

 ではエッシェンバッハの「聖杯」もまた「カリス」として登場するのか? とくるとこれがそうではなくて … なんと !! それも錬金術とも関係の深い、いわゆる「賢者の石」みたいなものだったというからおどろき。* ちなみにエッシェンバッハが底本としたらしい、クレティアンの『ペルスヴァル』では、この「聖杯」は杯でも石でもなくて、なんと「皿」または「お椀」( → 『聖杯物語』彩色写本に描かれた「アラン王にグラールを授ける司教ヨゼフ」、1300年ごろ )!!! しかもほぼ同時期にウェールズ語で書かれたとされる『エヴラウグの息子ペレディル』というヴァージョンでは、「聖杯城で見せられたものは杯でもお椀でもなく、ふたりの乙女に捧げ持たれた大皿に乗った男の首」だったという !!!! 

 ラテン語版『航海』にもどると … 聖ブレンダン一行は念願かなって「聖人たちの約束の地」訪問ののち( あっという間に )、故国アイルランドへと帰還して修道院の皆から大歓迎を受けるのですが、その後あっけなくブレンダン院長は天に召されてしまいます。キャンベルはこれを、「現実の時間と異なる時間、永遠性の世界から対立物のペアになった現実世界」へと帰ってきたためにすぐ死んだ、と捉えています。ようするにこれ最古の航海譚と言われる古アイルランドゲールで書かれた『ブランの航海』や、もっと言えば『浦島太郎』の世界です。異界(=あの世)を訪問して、生きて帰ってきたはいいが、あっけなく死んでしまうというあのモティーフです。
(「常若の国」の住人で、ケルトの海神マナナーン・マク・リルの娘の警告にもかかわらず、誤って落馬してアイルランドの渚に触れたとたんにぼろぼろの老人と化した英雄オシーンのように )同様な運命は、『ブランの航海』「女人の国」から帰還したブランの一行のひとりが受け、そして聖ブレンダンもまた、40日の「聖人たちの約束の地」滞在ののちアイルランドに帰国するや、たちまち死んでしまい、天に召されてしまいます( ibid., p. 13 )。

*… 「(「聖杯」ってなに? と訊くパルツィヴァルに隠者トレフリツェントがこたえて )… そこに住んでいる彼ら一団の食べ物のことから話そう。彼らはある一つの石によって養われている。その石の種はまじり気のない純なるものだ。それについてご存じなかろうから、ここでまず名前を教えよう。その石はラプジト・エクシルリースというのだ。この石の力によってフェニックスは燃えて灰になるが、この灰がその鳥をよみがえらせる。こうしてフェニックスは羽が生え替わり、その後明るく輝いて、以前と同じように美しくなる。人間もこの石を見れば、どんなに病み衰えていようとも、その後一週間は死なずに生きながらえることができるのだ。その皮膚は決して生気を失うことはない。乙女であろうと、男であろうと、皮膚はその石を見たときと変わらず、その人の若い盛りの始まる頃の色艶そのままと言わざるをえない。もしその石を二百年の間見ていれば、ただ髪の色が灰色になるだけで、この石は、人の肉や骨がその若さを保つ力を与える。ところでこの石はグラールとも言われている。
 そして今日はこの石の上にお告げがくだるが、石の最高の力はまさにこのお告げの力によるのだ。今日はキリスト受難の聖金曜日で一羽の鳩が空から舞い降りて来るのがかならず見られる。… その輝く白い鳩は、ふたたび空へ舞い戻ってゆく。今そなたに話した通り、この鳩は聖金曜日ごとに聖石の上に聖餅を運んで来るが、聖石はそれによってこの世のかぐわしい、楽園のそれに比すべき飲み物、食べ物を得るのだ。それは大地の生みなすもののすべてである。さらにこの聖石は、天の下に住む一切の鳥獣、飛ぶもの、駆けるもの、泳ぐものすべてを与えてくれる。このようにして聖杯は聖杯騎士団に俸禄を授けているのだ」。

―― ヴォルフラム・フォン・エッシェンバハ『パルチヴァール』p. 250 。邦訳版( 1974年、郁文堂刊 )では固有名詞の読みを一貫して「中世語読み」として発音した表記を採用しているため、ほかの既訳本とは表記が若干異なっている。

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