2011年06月26日

今夜が楽しみだ

 先日、「FM シンフォニーコンサート」の公開収録というものを聴きに行ってきました。抽選でみごと当たりまして、のこのこ出かけていった。場所は裾野市民文化センター大ホール。ここのホール、はっきりいって駅から遠くて、はなはだ不便なところに立地しているのですが、個人的にはちょっと思い出がありまして、重複も顧みずに書きますと、1993年12月、ここではじめて本場欧州の少年合唱団というものの生歌唱を体験した。そのとき聴いたのは「パリ木」でして、それ以来、「天使の歌声」を追いかける求道者(??) のような生活がはじまる(苦笑)。それまではほんと器楽一辺倒、聴くものはといえばバッハのオルガン作品専科といった感じだった。最近、また器楽ものに回帰しつつはあるが … というわけで10 何年かぶりにここへもどってくるのは、いわばコンサート通いの原点回帰みたいな感じ(注:concert goer という言い方はしたけれど、コンサートを聴きに出かけるのは多くて年に2−3 回くらいのもの。基本的に出不精なほう)。

 この日のプログラムは今年が記念イヤーのフランツ・リストに関連した構成でして、まずリストの「交響詩 レ・プレリュード」、ついでリストとも仲よしだったシューマンの「ピアノ協奏曲 イ短調 作品 54」、おしまいが個人的にも好きな作曲家セザール・フランクの「交響曲 ニ短調」。

 バッハのオルガン作品好きにとって、ブルックナー同様、フランクとくるとまずオルガン弾きというイメージ。この唯一の交響曲も、おなじくオルガン弾きにして大作曲家のサン-サーンスの有名な「オルガンつき(交響曲 第3番 ハ短調)」におおいに触発されて作曲したとか。で、もちろんオケの実演で聴けるとあってこの作品とても楽しみだったんですが、いちばんの楽しみ、というか公開収録を聴きに行こうと思い立った動機が、シューマンのピアノ協奏曲を弾く若き俊英、北村朋幹さんの演奏を聴きたかったから(笑)。2009年のLFJ のとき、この人のバッハを聴きそびれていたので、ぜひに、と思ったもので。

 冒頭、裾野市長さんの眠い(?)挨拶がありまして(裾野市制施行40 周年記念事業なので。それゆえ聴きに来ていた人も地元市民がほとんどだった)それからようやくオケのめんめんが出てきました … 名門・東京フィルハーモニー交響楽団! ですよ(ここも今年めでたく創立100周年!)。この前フル・オーケストラの公演なんていったいいつ聴いたかなあ … と思い起こすと、1997年のパリ木と東京シティ・フィルとの合同演奏会(サントリーホール)以来かな。ドレスデン聖十字架教会聖歌隊公演のときはバッハの「マタイ」なので、ピリオド楽器による弦楽アンサンブルに毛が生えたような構成だったし、鎌倉の「グロリア少年合唱団」公演のときもそんな感じ。だからオケそのものを聴くのもほんとひさしぶり。指揮は「名曲スケッチ」とかでもおなじみの円光寺雅彦氏でした。意外と小柄な方でしたが、指揮ぶりはとてもわかりやすいという印象。人によってはただ手先のみでちょこちょこ指示を出すだけの人もいるけれど、全身をたっぷり使ったじつに情熱あふれる指揮ぶりに見えました。配置ですが、下手から第1・第2 ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラで、ヴァイオリンセクションの奥にハープとティンパニなど打楽器、そのとなりにホルンとトランペット、木管をはさんで右端にトロンボーンとテューバといった並び方でした。ちょっと変則的な感じもしたけれど、舞台の広さとピアノを引っ張り出す都合上のことかと思われます。

 で、お待ちかねのシューマンですが、なんというか、これがまだはたちそこそこの若い人の演奏なんだろうか … という印象。すでに円熟の域に入っているのではないかと … 音の粒もきめ細やかでじつに繊細、かと思えば火花散らすような力強さでオケと対等に渡りあっているというか、演奏という介雑物を感じさせない、シューマンの音楽世界そのものみたいなすばらしい演奏だったように思います。こういうときだけに、ピアノとオケの奏でる音空間にいつまでも浸っていたい、そんなじつにぜいたくな、心満たされるひとときだった。

 最後のフランク、いやー、すばらしい!! 最終楽章、3つの主要主題が順番に顔を出すあたりなんか、もう鳥肌が立ってしまうくらいゾクゾクしましたよ。終楽章は「輝かしい」と言われるニ長調で書かれているためなのか、なんか心身ともにスッキリしまして、快演でした。

 で、この「公開収録」、今夜19時20分からNHK-FM でかかるので、いまからまた楽しみです。今宵はこれをサカナに(じっさいには宅配ピザなんだが)キャンティを飲もう(笑、クラッシコじゃないただのキャンティ、2009年もの)。

 フランクついでに以前ここでも紹介した、オランダの高校生オルガニストによる、フランクの「コラール 第2番 ロ短調」をどうぞ。



 ↓は、会場でもらった「NHK静岡放送局」マスコットの「しずくん」クリアファイルとか。まさかこういうアイテムまでもらうとは、想像していなかった(笑)。ちなみにこのしずくん、どう見ても「とっくり」にしか見えんのですが、アタマのとんがっている部分は「アンテナ」ということになっている。


しずくんグッズ


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2011年06月18日

'Caput' ってそんなに有名だったんだ

 先週末の「古楽の楽しみ」は「ルネサンス・ミサ曲の誕生 その1」として「ミサ曲 カプト」なるものを中心に音源を紹介してました。はてさて「ミサ曲 カプト」とはなんぞや?? と思っていたら、なんのことはない、「ヨハネ福音書」 13 : 6 - 9 の「最後の晩餐」に出てくる使徒ペトロのことばからだった(そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけではなく、手も頭も」。イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない」 ―― 『新共同訳』から。前にも書いたけれども、「洗足木曜日[Maundy Thursday]」はこの場面に由来している)。下線部がラテン語で言うCaput で、ようはここの場面を歌った単旋律聖歌をテノール声部の定旋律として転用して作曲されたミサ曲を指す呼び名。で、手許の本によれば、ルネサンス音楽における「ミサ曲」では、ある決まった旋律をテノール声部に置いて全体の統一を図る「定旋律ミサ曲」という形式が流行った。この技法発祥の地は ―― またしても? ―― 英国で、大家デュファイが大陸側に導入したんだとか。またデュファイは全楽章の出だしを定旋律のメロディーラインで統一した「循環ミサ曲」というのも残している。

 明朝の放送ではそのつづきとしてデュファイの声楽作品がかかりますが、とにかくこの「カプト」旋律は当時かなり流布していたらしい。デュファイのほかにもオケヘム(オケゲム)だとかオブレヒトといった人たちが「ミサ曲 カプト」を残している。

 で、たまたま折よく図書館で借りてきた「ポメリウム」のアルバム、Musical Book of Hours というのがあるのであらためて聴いてみたら、なんと「ソールズベリ聖歌」版の「ペトロのところに来ると」が収録されていて、しかもそのつぎのトラックにはこの「カプト」旋律にもとづくリチャード・ヒゴンズなる英国人作曲家による5声のモテット、「めでたし女王 ('Salve Regina')」まで入っていた。「古楽の楽しみ」案内役でもおなじみの今谷和徳先生がライナーを書いていて、それによると作曲者ヒゴンズ(c. 1435 - c. 1509)はウェルズ大聖堂つき音楽家だったという(英語版 Wikipedia 記事によればウェルズ大聖堂聖歌隊出身で、のちに5人いた同大聖堂オルガニストのひとりとして任じられ、また少年聖歌隊員にオルガンの手ほどきもしていたというから、ようは聖歌隊長兼オルガニストだったわけですな)。で、これは一日の最後のお勤めである「終課」に奉じられる「聖母大アンティフォナ」に挿入句(トロープス)を加え、かつテノール声部に「カプト」旋律にもとづく長いメリスマのついた楽句を使ったとあります。またこの作品は現在、貴重な曲譜集としても名高い『イートン・クワイヤブック(Eton College MS. 178)』中の一曲なんだとか。

 ポメリウムのアルバム名にもなっている「時祷書」というのは中世盛期から末期にかけてさかんに制作された在俗信徒のためのお祈り、賛歌、暦などが記されたハンドブックみたいなもので、たいていカラフルな装飾写本というかたちで伝えられてます。もっとも有名な例は、たぶんこれではないかと思うが … 。ちなみに聖職者の持ち歩いていたものが『ストウのミサ典書』などの「ミサ典書」とか、「聖務日課書」と呼ばれるもの。

 … どうでもいいけど、この時代のこういう声楽曲って、なぜか眠気を誘うものが多いんですよねぇ … おなじく図書館から借りてきたもう一枚のほうはこれとは対照的なミヒャエル・プレトリウス編纂の「テルプシコーレ舞曲集(1612年)」。ニュー・ロンドン・コンソートによる音源ですが、土俗的な躍動感あふれる舞曲の数々で、ポメリウムで催した眠気を払ってます(笑)。

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2011年04月03日

西洋音楽の源流

 「バロックの森」って、もう記憶にさだかではないが(苦笑)かれこれ5年くらいはつづいていたらしい(その前は「あさのバロック」)。3月末をもっていったん終了、こんどは看板を一新しまして「古楽の楽しみ」へとリニューアル。記念すべき第一週目は、「歴代トーマス・カントルの音楽」。大バッハの前任者ヨハン・クーナウは「聖書ソナタ」とかが有名ですが、自分が知っているのはその前のヨハン・ヘルマン・シャインくらいまで。その前のカントルのめんめん、クニュプファーだのシェレだのは、まったく知らず(嘆息)。ゆえに貴重な音源ともいえるわけで興味深かったわけなんですが、なんだ、かかる作品はあんまり変わらないじゃないの、なんて思っていたらこれから週末の放送回は「古楽」の領域へといきなり(?)突入。西洋音楽すべての源とも言うべき、「グレゴリオ聖歌(グレゴリアン・チャント)」を皮切りに時代を追って紹介していくらしい。

 けさかかったのはミサで歌われるグレゴリオ聖歌のうち、「ミサ固有文」に当たるもの、「入祭唱(introitus)」、「昇階唱(graduale)」、「詠唱(tractus)」、「アレルヤ唱(Alleluia)」などでした(ほかに「聖体拝領唱(communio)」や「奉献唱(offertorium)」がある)。「固有文(Proprium)」というのは、祝日とか特定の機会(レクイエムとか)のみに歌われる/唱えられる一連のお祈り文の総称で、その反対が通年で変わらない「通常文(Ordinarium)」。入祭唱…は読んで字のごとしなのでよいとしても、「グラドゥアーレ」とはなんぞや?? と思った向きもいたかもしれない(案内役の先生からはとくに説明はなかった)。これは中世のミサ式次第において、使徒書簡朗読と福音書朗読とのあいだに歌われた一連の斉唱聖歌で、書見台のある説教台もしくは石造りのスクリーン上の書見台へと「あがる」ことから「昇階」と言われるようになった(と記憶している)。まぎらわしいのは英語でGradual Psalms と呼ばれるもので、こちらは「詩編」中、とくに「都にのぼる歌」として知られている120 - 134 番までの詩編歌を指す(『聖ブレンダンの航海』17 章に出てくるのはこちらのほう)。

 「アレルヤ唱」はもとは復活節用の唱和詩句だったものが6世紀以降に使用が拡大されたもので、特定の斎日とか四旬節には代わりに「詠唱」になったり、「続唱(sequentia)」になったりする。「聖なるかな(三聖頌)」は「栄光の賛歌(Gloria)」ちならんで最古の聖歌ともいわれ、その起源は4世紀にまで遡るとも。

 「終課(Ad Completorium)から」は一日の聖務日課のお勤めの最後に当たるもので、修道院生活の活写でもある『航海』にもたびたび登場します。で、だいぶ前にも書いたことですがLibera ファンには聴きおぼえのあるラテン語歌詞'Te lucis ante terminum ...(汝、光の消える前に…)' は、もとはこの「終課」で全聖歌隊が唱和する聖歌。一説には聖アンブロジウスの作だと伝えられている。

 最後にかかった「クリスマスの真夜中のミサから」は、なんとビザンツ聖歌をベースにしたローマ聖歌版で歌ったものらしい。…アレルヤ唱「主はわたしに言われた」なんかは、とても印象的。ドローン(!)に乗って、たゆたうようにメリスマティックに歌いあげてました。

 グレゴリオ聖歌は単旋聖歌と言われるように、ほんらいはどのパートもみなおなじ旋律をユニゾンで「斉唱」するもの。これだとつまらない! と思ったかどうかは知らないが、大聖堂の大伽藍の豊かな残響を効果的に生かした歌唱法がしだいに編み出されてゆく。グレゴリオ聖歌から派生して大量に生み出された「セクエンツィア」や「トロープス」、斉唱から聖歌の定旋律をテーノル(テノール、本来の意味は「保持音」)声部で歌い、数度離れた音程ですこしずつずらして歌ったり、あたらしい旋律を上声部に即興的に追加したりした(ディスカントゥスとかクラウズラ。ディスカントゥス[discantus, 異なる歌の意]ついでに、たとえばアングリカンでdiscant 云々…と表記されていたりする場合があるが、そちらはたんに上声部、つまりソプラノ/トレブルパートのことだったり、たんに旋律を指したりする[→ descant recorder]。中世の英国で流行ったEnglish Descant とは別物)。

 来週末はヒルデガルト・フォン・ビンゲンの応唱聖歌(responsorium)ですか。手許の資料にはセクエンツィアの「鳩は見た」とかが載ってましたが、あんまり聴いたことのない曲なので、いまから楽しみです。ちなみにセクエンツィアはあまりにも量産されてしまったものだから、1546年の「トリエント公会議」で一度すべて廃止、そして例外として4つが復活し、さらに18世紀になってもうひとつ、追加されました ―― それがあの有名な「悲しみの聖母(Stabat Mater)」です。

posted by Curragh at 20:53| Comment(0) | TrackBack(0) | NHK-FM

2011年03月19日

ヴァルヒャ 没後20年

 いま、涙声でリスナーに話しかける児山紀芳さんのDJ を聴いています(「ジャズ・トゥナイト」)。

 …ほんとうはこういう内容の記事を書くべきではない非常事態なので、どうしようかとも迷ったのですが、あえて書こうかと思います。震災当日はやはり音楽どころじゃない気分にもなったのですが、自分はエピキュリアンなので、どうしても音楽が必要だし、これなくしては生活できない、と思う。ようするに心の弱い人間なんですが、それでも芸術の力は偉大なり、と信じて疑わない人でもある。

 2月最後の日曜の朝、「名演奏ライブラリー」にて、ヘルムート・ヴァルヒャの弾くバッハの鍵盤作品の特集が組まれてました。案内役の諸石幸生さんに言われて気づいたのだけれども、そうか、今年はヴァルヒャ没後20年の節目でもあったのか。…曲によってはひさしぶりに耳にするものもあって、個人的にはこの企画、とてもうれしかった。

 そのあと思うところあってこれまたひさしぶりに英語版Wikipediaヴァルヒャの記事を見たら、なにげに外部リンクが増えていた。片っ端からクリックしていったら、もうおどろきの連続。「オブリガート・チェンバロとヴァイオリンのためのソナタ BWV.1018」の第1楽章を練習する音源ファイルとか、見たことのないプライヴェートな写真画像(? これが噂に聞いた自宅の練習用オルガンか)、そしてある音楽祭のドキュメンタリー番組に収録されたとおぼしきヴァルヒャの演奏クリップ!! このドキュメンタリー、制作されたのは40年くらい前らしく、惜しいことにヴァルヒャの演奏風景はモノクロ映像しかなかったが、それでも聖ピエール・ル・ジュヌ教会のジルバーマンオルガンでバッハの「前奏曲とフーガ BWV.541」を弾くヴァルヒャの姿に文字どおり釘付けです。BWV.1018 の音源では、みずからヴァイオリンパートを歌いながら弾いています! 教え子たちに他のパートを「歌うように」要求していたというヴァルヒャ教授みずからもこうやって練習していたのかと思ったら、本人もよくわからんが泣けてきた。また、教え子のひとりの米国女性奏者の寄稿したこちらの文章も師匠の教授法が書かれてあったりで、貴重です。

 …震災の話にもどりますが、当たり前のことながらNHK-FM も特別編成、いつも聴いている「バロックの森」とか「弾き語りフォーユー」とか「ベスト・オヴ・クラシック」、「インストルメンタル・ジャーニー」の流れない一週間というのがにわかに信じられなかった。そして15日夕方、東電による計画停電をはじめて経験した。電気が復帰したなと思いきや、こんどは
ズシンと突き上げる大きな揺れ。いまのは震源が近いぞと警戒していたら、震源が富士宮付近だと聞いて愕然とした。気象庁はなにも言ってないけれど、富士山西麓直下じゃないですか。これってマグマの動きと無関係だと言い切れるんでしょうか? M. 9.0 に誘発された(?)つよい地震は新潟 - 長野 - 富士宮とほぼ一直線上で起きている点もひじょうに気になる。「大地鳴動の時代」と書いたとはいえ、一刻もはやく沈静化して、被災地支援および通常の生活が取りもどせるようにと祈らずにはいられない。今日の午後、NHKラジオ第1で「明日へのことば」の再放送を聴く。尊敬するカウンターテノール歌手の米良美一さんのインタヴューだった。こういうときだからかもしれないが、米良さんの壮絶な半生と音楽に生きる道を見出したお話は、ほんとうに心に染み入るものでした。

追記:オルガンビルダーの「どら」さんのブログ経由で知ったのですが、来たる23日にみなとみらいホールにて被災地支援のチャリティーオルガンコンサートが開かれるそうなので、当日の計画停電…がどうなるか、JR がどうなるかわかりませんが、行ける方は聴きに行ってみてはいかがでしょうか。

posted by Curragh at 23:41| Comment(6) | TrackBack(0) | NHK-FM

2011年02月07日

FM放送開始の音楽! 

 この前、たまたま聴いていた小原孝さんの「弾き語り フォーユー」で、たいへん懐かしい一曲(?)が流れてました。NHK-FMを聴きはじめた中高生当時、まだ「深夜便」も放送してなかったころ、早朝の放送開始を告げるオルゴールのメロディーというのがかかってました。…いったいなんの曲だろうと思いつつも歳月は容赦なく流れまして、最近ではとんと忘れていた。いやあ、懐かしいのなんの、小原さんのピアノアレンジを聴いて思い出しましたよ。ところでこの作品、小原さんの解説によりますと熊田為宏という方が作曲したもので、曲名もそのまんま「ラジオ放送開始音楽」。音源としてかかったのは、チェレスタ独奏によるもの。でも当時聴いていたのはもっとテンポがゆっくりしていて、チェレスタというよりやはりオルゴールのような響きだったように思う。左手がメロディ、右手が16分音符進行でからみつく、といった感じ…なんですが、絶対音感もなにもない門外漢が必死に「耳コピ」しても限界がある。でもこれけっこう好きなんです…ずっとおんなじフレーズを、それこそ「無限カノン」のように好きなところで演奏を止められるところがいい(笑)。

 そういえばこんどの祝日は「今日は一日 古楽三昧」だそうで…お休みだったので「気まクラ」の本放送を聴いてましたが、こんどの金曜日がその祝日なので、再放送はないんですよね。その時間は文字どおり古楽三昧…になるので。レオナン師にペロタン師とかもかかるんでしょうね、きっと。トルバドゥールの音楽とかもかかりそうですね。「題名のない音楽会」で聴いた、セルパンとかも出てくるのかな?? 「ノートルダム楽派」なんか、朝早く聴いたら確実に二度寝しそうです(苦笑)。「気まクラ DON」ですが、ええっとたぶんあれでしよ、チェコの生んだ…の「…」ではないかな(伏字失礼)。

 きのうの「サンデー クラシックワイド」。パーヴォ・ヤルヴィ指揮、独カンマーフィルの演奏によるベートーヴェン交響曲3, 6, 7, 8, 9番!! 一度に5曲も聴くなんてなんと贅沢な。個人的に好きな7番ももちろんよかったけれども、「合唱つき」の9番もすばらしい名演だと思いました。

 いつものようにここで脱線。けさの朝刊に、大阪に昨年暮れに開店したという国内最大級の「本屋」さんについて、ここの複合ビルの設計を担当した安藤忠雄氏の寄稿文が掲載されていたんですが、「…次から次へと情報が得られるコンピューターでは、道具に引きずられて心が落ち着く暇がない。本ならば、読み進めていく途中で、立ち止まって考える時間を持てる」というくだりにはおおいに共鳴した(→関連記事)。正月に読んだ『そして、僕はOED を読んだ』にも似たようなことが書いてありました。「コンピュータでの読書は、読書から、時間の感覚も、労力がかかっているという感覚も奪ってしまう。…本がびっしりとつまった図書館や書斎に足を踏み入れた時に感じる、ほっとした感じが全く起こらないと思う」(下線強調は引用者、p.83-4)。落ち着く暇がない、というのはたとえばオンラインでWeb とシームレスにつながっている端末だと読書(新聞記事・雑誌記事の「ななめ読み」ではなくて、熟読・精読のこと)の流れを阻害する誘惑が多すぎると思う。途中で辞書を見たり、調べ物ができたりするのは一見、いいことのように思えるけれども、紙の本のようには集中できないだろうし、理解の深さという点でも紙の本のほうがまさっているようにも思う。そういえばこの前の「情熱大陸」という番組では小説家の道尾秀介氏の「書斎」が大映しにされてまして、液晶モニターに整然と書きかけの原稿が「縦書き」で表示されてはいたけれど(「一太郎」らしい…)、書き上げたあと、かならずプリントアウトして推敲するという。書斎の脇には書庫らしきものもちらりと映ってました。

 PCやスマートフォンなどの端末画面でモノを読む、書く、という行為は「検索」同様、日常的におこなってはいます。さほど違和感もなくなりました。たぶんこれはもともと日本語ワープロ専用機を使っていた、ということもあり、わりと抵抗感はなかったと思う。また前にも書いたことですが、辞書事典のたぐいは、ふつうcover to cover で「読む」ものでもないので、はじめてインターネット接続環境が自宅に整ったとき、オンライン版辞書のたぐいを懸命に探していたりした(ちなみにGoogle の検索窓も、日本語版が登場する前から使っていた)。近年では本作りの現場もPC によるDTP が当たり前になり、ほんらい紙に印刷するための道具だったはずのPC、および携帯型端末という電子媒体のままで本を読む、というのは変化のはげしい、進化のスピードも異常に速いIT 社会では理の必然だったのかもしれない。でもじっさいにそういう電子書籍版を手にとってみて、文庫本から古典まで、「すべて電子ブックリーダー、またはスマートフォンやPC で」読もう! なんて気にはさっぱりなれなかった自分がいた。電子辞書はさほど抵抗はないのに、なんで電子書籍にはいわく言いがたい抵抗を感じるのだろう、と思うのだけれども、現段階ではまだ紙とまったくおんなじ感覚では読めないし、「速さ」ゆえの「雑音(誘惑)の多さ」という理由もある。でも最大の障害は、フォーマットの不統一云々以前の問題にあると思う。音楽の場合はLP からCD へ移行がわりとすんなり(?)進んだと思うけれども、紙の本からバッテリを喰う電子書籍への全面的移行というのは、音楽CD のときみたいにはいかないと思う。紙の本なら「行間を読む」というきわめて重要なプロセスが苦もなく体験できるとは思うけれども、電子ペーパーやLED で光る液晶画面で読む電子書籍で深い読書ができるものなんだろうか? 「デジタル・ネイティヴ」ということばに象徴されるように、こういった「電子書籍」が生まれた時から存在し、それらを使いこなすあたらしい世代が中心になっていくのだろうけれども、そのときはたしてこの国の文化というのはいったいどんな姿になっているのだろうか。NYT にもこんな記事があったけれども、向こうの版元は、子ども向けの本(「ヤングアダルト」も含めて)も電子書籍版が売上げを伸ばしはじめたぞとか、子ども向け本もついに電子書籍への本格的移行がはじまったぞと喜んでいる。はたしてそれでほんとうにいいんだろうか(「ケータイ小説」のように、読者までがしゃしゃり出て物語を書く側に参加したりというのも創作の作法からは逸脱していると思う、そんなワタシは石頭で発想が古いんだろうか。すくなくとも自分の場合、そういうふうに創作された「作品」は読みたいとは思わない)。

 でも電子辞書の場合、うろ覚えの単語とかを引くのは向いてない。紙の『リーダーズ』とかなら、パラパラ適当に繰っていけばああ、これこれなんてふうに見つかったりする。また関連性のない項目も「一覧で」目に入る、というのも紙の辞書の特権。英和辞書の場合、その判型を見れば「ああ、こんだけ英単語が詰まってんだな」ということが感覚的にわかるけれども、電子版ではいったいどこまであるものやら、見当もつかない。本だってそう。電子書籍では読み進めたページ数はわかっても、全体としてこの本がどれだけの分量なのか、という感覚はたぶんつかめない(と思う)。この一覧性というのは、きわめて重要だと考える。マッキベンの本(『ディープ・エコノミー』)にもあったけれども、ラジオは反対意見も公平に流してくれる。それによって否応なしに考えさせてくれる。でもネット上の情報は性質上、きわめて個人的な嗜好にカスタマイズ可能なので、きょくたんな話、自分の見たくないもの、知る必要のない情報を遮断することができる。紙の新聞は、そんなことはない(この点はラジオとおなじ)。ぱらぱらめくるだけでじつに多種多彩な記事・情報が得られる。思いもしなかった意見や考えに出会ったりする。Web も含めてIT はあくまで道具、IT に振り回され、中毒みたいに依存しきっていいわけなんかない。と、「電子媒体」の一角で吠えても形容矛盾みたいなもんだが…。

すこし追記。元旦に連載がはじまったときから読んでいる朝刊小説の『親鸞 激動篇』。この前、こういうくだりがありました。↓

 人はいつかは一人になる。最後に一緒に歩いてくれる相手は、たぶんそれが仏というものかもしれない。
 姿も見えず、かたちもさだかではない仏というもの。
 ふと見ると、恵信の顔にどこからか光がさしてくるように感じられた。さっきまで灯火(ともしび)の影になっていた恵信の顔が、くっきりと明るくかがやいて見える。
 「どうなされました?」
 ただならぬ親鸞の表情に、恵信はおどろいてきいた。
 親鸞は無言のまま、恵信にむかって、そっと手を合わせた。

 …このくだりを読んだとき、ふいに、復活したイエスが出現したその瞬間を描いたレンブラントの「エマオのキリスト」が思い浮かんでしまった(cf. Luke, 24 : 13 - 35)。

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2010年12月18日

なんか「ハレルヤコーラス」に似ているな

 今週の「バロックの森」はロンドン時代のヘンデル特集。「ユトレヒト・テ・デウム」とかかかったいたけれども、どちらかというと歌劇中心。ヘンデルは1730年代まではさかんにイタリア歌劇やオラトリオを上演していたけれども、聴衆の熱が冷めたと見るや、すぐさま当地の自国語すなわち「英語」での歌劇やオラトリオを作曲するようになった…らしい。そのころバッハはライプツィッヒのトーマス教会のカントルの激務をこなしつつ、自作の出版もおこなっていた。でもたとえば「作品 1 」の「クラヴィーア練習曲集 第一巻」の「6つのパルティータ BWV.825-30 」なんかは素人音楽愛好家にはとてもじやないけど弾きこなせるような代物ではなかったから、けっきょく売れ残ってのちに原版は破棄されたんだとか。聴き手の需要というかニーズを的確につかむということでは、ロンドンで活躍していたヘンデルのほうがはるかに上を行っていたように思う…ようするにバッハには商才はあんまりなかった、ということです。もっとも同僚とか職業音楽家の受けはよかったんですけれども、それではとても商売にはならない … 。

 ところでけさ聴いたオラトリオ「マカベウスのユダ HWV.63 」前半でもっとも有名な曲、とくると、'See the conquering hero comes'、「見よ、勇者は帰る」でしょう。日本では表彰式につきものみたいな感ありですが、欧米では賛美歌の 'Thine is the glory' としてクリスマス時期に歌われたりする。で、そのあとの合唱曲を寝ながらしばし聴いていたら、あれれこれなにかに似ているぞ … 節まわしというかメロディーラインがどことなく「ハレルヤコーラス」と似ているではないですか。ま、おんなじ作曲者なので、似ている作品があったとしてもちっともおかしくはないんですが … 。

 また木曜夜の「ベスト・オヴ・クラシック」で聴いた「プラハの春音楽祭 2010 」は、マレイ・ペライヤの指揮とピアノという贅沢なプログラム(オケはアカデミー室内管弦楽団)。モーツァルトの「ピアノ協奏曲 第24番 ハ短調 K.491 」の弾き振りもすばらしかったけれども、バッハの「チェンバロ協奏曲 第7番 ト短調 BWV.1058 」がなんといっても印象的でした。原曲はヴァイオリン協奏曲だったようで、このへん弦楽器 → 鍵盤楽器への書法の転換とかも興味あるところ。ピアノで弾いてもすごくしっくりくるので、以前バッハ研究者の小林義武先生の著書にも書いてあったように、ひょっとしたらバッハははじめから「フォルテピアノ」を想定していたのかもしれない(可能性ゼロとは言い切れない)。弦楽器 → 鍵盤楽器ということについては、「トッカータとフーガ BWV.565 」ももとはヴァイオリン用に書かれていたとする説があり、バッハにとっては楽器の方向性なんかはどうでもよくて、そのつどの都合に応じてきわめて柔軟に編曲もしくは「転用 ( パロディ ) 」するのがごく当たり前の発想だったんだろうと思う。たとえばこの前武久先生のリサイタルで聴いた「ヴァイオリンとオブリガート・チェンバロのためのソナタ 第6番 BWV.1019 」だって、チェンバロ主体・ヴァイオリン主体とふたとおりのヴァージョンが残っていて、当日演奏されたのはチェンバロ主体版のほう。なので「ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ」と言いながら、じつはチェンバロが主役だったりする ( 長々としたチェンバロ独奏パートがある ) 。武久先生によれば、もうひとつの版はバッハ自身がヴァイオリンを演奏するための版だったろうという。

 …話はちがいますが、この前聴いた「気まクラ」の山梨県北杜市公開録音。ゲストの野平一郎氏 ( 静岡音楽館 AOI の芸術監督 ) に笑瓶さんが、「指の調子はどうですか? 」と訊いていた。野平先生は「指の調子は毎日ちがうけれども、今日はいいと思います! 」とこたえてました。…むむむカッコいい!! ワタシもそんなふうに一度でいいから言ってみたいものだ ( 笑 ) 。「指の調子はどうですか? 」。「いいと思いますッ! 」。

 …来週は「フランスのクリスマス音楽」、「ノートルダム楽派」のレオナン師にその後継者ペロタン師、シャルパンティエにダカンの「新ノエル集」ですか! これはおもしろそうだ。ひまなときはクリスマス音楽の CD を集中的に聴いているけれども、いまお気に入りなのは 2,3 年前に買った ( たぶん銀座の山野楽器で ) ハノーファー少年合唱団の歌う「ドイツのクリスマス」というアルバム ( 2000年12月、ハノーファーのマルクト教会にて収録。ちなみにハノーファー選帝侯ゲオルク1世が、のちの英国王ジョージ1世 ) 。これけっこう楽しいです! 独語だからよくわからいけれどもナレーションとかも入っている「クリスマス物語」みたいな作品 ( Alfred Koerppen という現代作曲家の作品らしい ) 。これを聴きながら寝るのが至福(?)のときかな。

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2010年11月07日

578本目の記事にちなんで…

 5年前の今月から開始したこのなにを書いているのかまるで要領を得ない拙ブログ、この記事をもってめでたく ( ? ) 578本目とあいなりました。なにがめでたいって? そりゃあ、大バッハのオルガンフーガ中、もっともよく知られるあの愛らしく美しい主題をもつ「小フーガ ( フーガ ト短調 ) BWV.578 」とおんなじ数字になったから(笑)。

 「小フーガ」は、おそらくバッハの全オルガン作品中もっとも愛聴されている作品なのではないかな。『バッハ事典』によれば 1703−5 年、アルンシュタット時代の成立で、基本資料は『アンドレアス・バッハ本』。つまり自筆譜は存在してなくて、筆写譜のみ。というか、これって「トッカータとフーガ BWV.565 」のころとおんなじ時期の作品なのかしら? 自分はもうすこしあとのミュールハウゼンかヴァイマール宮廷に着任したころの作品かと思っていたが( このフーガもほかの独立したオルガンフーガ同様、あきらかにイタリア音楽の「歌わせるポリフォニー」の影響が色濃い )。作曲者自身もけっこう気に入っていたようでして、後年、新楽器の鑑定およびこけら落としとかで開いたオルガン演奏会でもたびたび「小フーガ」を弾いたんだとか。この作品の最大の魅力はやはりその主題にあり。前半は歌唱的、後半は器楽的といった異なる性格のモチーフを統合するというこさえ方もいかにもバッハらしくて、後年「インヴェンション」ではそれをさらに発展させてもいる。いちおう4声で書かれてはいるものの、譜面を見てもわかるとおりめったに3声を越えることがなくて、フーガの展開も複雑さを避け、滔々と流れるような小品に仕上げている。主題の美しさを最優先して、守調応答の原則も捨てている。とにかく印象的なオルガンフーガであることはまちがいなし。ヴァルヒャの名演も好きなんですが、個人的にはジルバーマンオルガンで弾いた旧東独のオルガニスト、ロベルト・ケプラーの演奏盤がけっこう好きです ( かつて国内盤が EMI から出ていたけれども、いまはどうなんだろうか。ちなみに自分のは「ジルバーマンオルガンで聴くバッハ」みたいな企画もので、何枚かのセットになった輸入盤 )。

 というわけで、先週の「バロックの森」では「幻想曲とフーガ ト短調 BWV.542」がピート・ケーの演奏盤でかかってました(水曜の朝)。こっちのト短調フーガは、おなじ調で書かれた作品番号578のフーガと区別するために別名「ト短調の大フーガ」と呼ばれることがあります。「大フーガ」の主題はオランダ古謡にもとづくもので、なんというか、ちょっとユーモラスな感じさえするフーガです(もっとも演奏はかなりたいへんなんですが)。どっちのト短調フーガもそれぞれ味わい深くて、好きですねぇ。

 先週の「バロックの森」ではたとえばブクステフーデの「前奏曲とフーガ ト短調  BuxWV.149 」とか、30代で早世したルイ・クープランの「組曲 ハ長調」というクラヴサン作品とか、興味深い作品が目白押し。ゆっくり聴けないのが口惜しいところ ( 苦笑 )。とくに「小」クープランのほうはレプリカ楽器じゃなくて、17世紀に製作されたホンモノを録音に使っているところがまた、いい! やっぱり本物の響きはちがうな ! なんというか耳にやさしく、繊細に囁きかけるようなまろやかな響きとでも言おうか。そうかと思えばカプラーで上下鍵盤の連結されたときの低音弦の響きは、なんとも重厚で心の奥底まで染み入る感じ … 。演奏者のジョアンカ・マルヴィルにも拍手 ! 

 … いまさっきの「サンデークラシックワイド/海外コンサート」ではマーラーの「3番」と「8番」が流れてました…これって前にも書いたけれども児童合唱が登場する交響曲なんですが、今回のライヴ音源ではアドルフ・フレドリク少年合唱団という、おそらくは在フィンランドの少年合唱団が「3番」を歌い、「8番」ではぜいたくなことに、ウィーン少との共演でした ( 冒頭はオルガンの朗々とした響きをともなって、いきなり「来たれ、創造主たる聖霊よ」という分厚い合唱ではじまる )。「8番」は通称「一千人の交響曲」とか呼ばれますが、これって 1910年、というからちょうど100年前の初演のとき、総勢1030人 ( ! ) で演奏したことに由来しているらしい。

 …ラジオついでにもうひとつ。せんだってNHKラジオ第 2で、「小学校における英語教育について」みたいな企画が放送されてまして、NHK-FMと切り替えながら聴いていた。素人なりに言いたいことはいろいろあれど、一点、どうしても理解に苦しむものがありました。それは「英米人の使う英語でなくてもいい」という主張。いまやアジアなど非英米圏で使用されている英語は、いわば国際的に通用する共通語のようなもので、そこでは必ずしも英米人の基準はあてはまらない。意思疎通さえできれば、「〇〇英語」みたいなものがあったっていい、というもの。「ちょっと待ったぁ(ヒゲじいふうに)!」。なんか英語とくると、一般常識がとたんに怪しくなるのがこの国の悲しいところ。そういう論法の行き着く先は、たとえば日本語のような「主語 + 目的語 + 動詞」みたいな語順でもいっこうかまわない、こっちの言い分さえ相手にわかってもらえればなんだっていいんだ、気にしない、気にしない! ということにもなるのでは。こうなるともうついてゆけない。言語学の専門家でもなんでもなく、留学経験もなくましてや外語大卒でもない門外漢の言うことなんて、はなはだ説得力がないことは百も承知であえて言わせてもらうと、それはカナヅチの人に、なんでもいいから好きな泳法で海を泳いでみなさいと言っているようなもの。そんなことしたらそのカナヅチの人はあっという間に撃沈ですよ。まずもって基本的な英語のルールについては、英米人のそれを規範とするのが当然のことなんじゃないかって思いますがね … 外国の人が日本語を学ぶ場合だってそうでしょ? あんたの好きなように、「主語 + 動詞 + 目的語」でもいいよとか、漢字なんてしちめんどくさいからぜんぶローマ字でいいよとかって言えるだろうか??? そういう英語って、「インディアン、ウソつかない」ていどのものにすぎないから、早晩行き詰まると思う。「基本」はやはり英米人の使うスタンダードではないか、と考えます。当のネイティヴスピーカーだって教育の程度によって使う英語には個人差はあるとはいえ、英米人の基準にもとづく英語なんて学ぶ必要はない、というのはなんとも傲慢な主張のように思える。ようするに、最初からスタンダードな英語ではない〇〇英語でいい、なんてのは通用しない。そういうのは見た目は横文字ながら、一「英語諸言語」というべつの言語にすぎない。ある世界でしか通用しないことばなんて、共通語でさえない。たんなる幻想だと思いますがいかが? ここらでいま一度、外国語をふくめてことばを学ぶってどういうことなのかをよーく考えるべきなのでは? 小学生には異文化理解の大切さと、自国の文化を外国の人に伝える大切さを教えるべきでは ?? 文化から切り離された、ある目的のためだけの「人工言語」なんてありえないですよ。あーム、あーム … ( とチップス先生ふうに終わる )。

 … ちなみに今月 4日はメンデルスゾーンの命日 ( 1847 年 )で、今日はダーウィンの影に隠れがちなアルフレッド・ラッセル・ウォレスの命日 ( 1913年 ) でもありました。そしてもうひとつ、こちらのニュースもたいへん気になるところではある … 。いよいよ公共図書館もかさばる CD音源よさらば、ようこそクラウド ライブラリー! てなことになるのかな。配信による「音源貸し出し」もたしかに便利だしいいけれども、欲ばりな音楽好きとしてはアルバムだって聴きたいですもの。

付記。大家側のブログ管理ソフトの更新により、この拙ブログも晴れて(?) モバイル対応になったようです。iPhone 用の表示設定とかが新設されまして、おそらくグリーンベースの見やすい記事表示になったかと思われます ( 当方のアンドロイド端末でも確認済み ) 。

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2010年10月31日

大家さん、ありがとうm(_ _)m

 まずはじめに…Firefox3.6.11で、ここの記事投稿フォーム画面のレイアウトが崩れて書きこみ不能になっていた件、いまさっき作成画面を開いてみたら、何事もなかったかのようにふつうに表示されました。きっと大家さんが直してくれたんじゃないかって思います。ひょっとしたらFirefoxが最新版に更新されたせい(v. 3.6.12)かも…でも脆弱性をつぶすバグフィックスリリースなので、あんまり関係ないかな…とにかく晴れて投稿できるようになりまして、ありがたいかぎり。大家さんありがとう(Firefoxの緊急更新については、こちらを。Firefoxユーザーの方、ご注意)。「フォクすけ」ブラウザのバグといえばこの前、カナダの12歳の子がバグを発見、Mozillaに通報したらなんとなんと報奨金3,000ドルもらったそうですよ!! 'a flaw in the memory of the running program.' とあるから、彼が見つけたのは未知のバッファオーバーフロー…とかいうたぐいの脆弱性ですかね? 

 きのう30日は、ハロウィーン…じゃなくて、比較神話学者ジョーゼフ・キャンベルの命日でした(1987年没、享年83歳)。ものの本によると、オアフ島ホノルルにて病気療養中のときに急逝されたらしい。というわけでなかば強引(?)に、著作から個人的にとても気に入った箇所を以下に引用。

We must not understand apocalypse literally, not as some physical destruction and judgment on the world, or as something that is going to occur in the future. The kingdom is here; it does not come through expectation. One looks at the world and sees the radiance. The Easter revelation is right there. We don't have to... wait for something to happen.
―― from Thou Art That, p.107

 そういえばかなり以前ですが、西洋神話では、人は自己の内面を覗いたところで被造物たる己の姿しか見いだせない、というような趣旨のことが大著The Masks of God に書いてあるとか記述したおぼえがあるけれど、この前本棚を整理していたら(曝書週間、というわけじゃありませんがたまたま気が向いたもので)その箇所のコピーがおあつらえ向きに出てきました。というわけでついでだからそっちも備忘録として引用しておきます(ついでに本棚の奥から20年くらい前にNHKラジオ第2の講座で読んだ、ヒルトンの名作Good-bye, Mr Chips の黄ばんだペーパーバックも出てきて、懐かしくてまた読みはじめた)。あらためて読んでみると、東洋神話ではことばや思考などではけっしてくくれない「超越的存在」をいわば存在の根源として、自然とか人間とかはその謎めいた存在からすべて発している、という発想であるのにたいし、東地中海(レヴァント)地方および西洋神話では、人と神とは別物、けっして同一の存在たりえないという発想が根底にあると述べている(と思う。原本を繰ってみればわかると思いますが、そうとうな背景知識がないととても読みこなせない。ブラフマン[日本語訳では'梵']とか『ケーナ・ウパニシャッド』がどうとかこうとか、それこそ容赦なくぽんぽん出てくる)。ときて、つぎの一文がきます。

... Man alone, turned inward, according to this view can experience only his own creaturely soul, which may or may not be properly related to its Creator.
―― The Masks of God, p.4

 というわけで、いまは「特集クラシックリクエスト」を聴いています…今回のテーマはなんと「スポーツとクラシック」! カバレフスキーの「ギャロップ」、オッフェンバックの「天国と地獄 序曲」、なるほど! これと「トランペット吹きの休日」をあわせると、自分も小学生時代を思い出しますねぇ。パブロフの犬で、これらを耳にするとなんかこう、走らなきゃいけないような強迫観念に駆られる(笑、ちなみに運動会ほど苦痛なものはなかった)。なぜかバッハの「トッカータとフーガ BWV.565」なんかもかかりましたが…オルガンは鍵を押しつづけている限りえんえんと鳴り響く管楽器なので、スポーツもしくは運動会でしたら、打楽器系のピアノのほうがふさわしいかと(オルガンのあの響きにはあんまり動的なイメージが湧かない人)。

 おつぎの回は、どんなテーマなんですかね? このあとは坂本教授の「スコラ 特別講座」でも見ますか。なんか内容的には本放送とおんなじ…ような気はしますが。

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2010年10月16日

バッハ一族の音楽

 本題に入る前に…チリの鉱山落盤事故で70日近くも過酷な地下生活を強いられていた労働者33名がひとりも欠けることなく、ぶじ救出されたのはとても明るいニュースでした。とはいえたいへんなのはむしろこれから。ここの鉱山は以前にも事故がたびたび起きているし、安全対策が後手に廻っていたツケがこういうかたちで降りかかってきたようなところがある。大統領みずから現場で陣頭指揮、という姿を見ますとどこぞやの国の元首ももうすこしがんばってもらわんと、と思わなくはないが、今後の事故再発防止策とか原因究明とか、やるべきことはいっぱいある。いっときのパフォーマンスで終わらなければいいがと懸念するのは、たんなる杞憂か。たしかに「33」という数字はnumerologyにおいては、縁起のいい数字だったかもしれないが…。

 で、ここでなかば強引に本題に入ると、音楽において3という数字を象徴的に使ったのは、たとえば大バッハなんかがそう。前にも書いたけれども「フーガ 変ホ長調 BWV.552」の場合、「三位一体」の象徴としての3という数字がじつに効果的に響いている。フラット三つ、三つの主題をもつ三重フーガ、というぐあいに。その大バッハも一日にしてならず。今週の「バロックの森」はそんな音楽家バッハ一族に焦点を当てた好企画。現存するもっとも古い楽曲を書いたヨハン・バッハから、バッハ47歳にしてもうけた息子ヨハン・クリストフ・フリードリヒに、その子のヴィルヘルム・フリードリヒ・エルンストの音楽まで、なんというか音楽の一大絵巻ものでも聴いているかのような、壮観としかいいようのない贅沢なプログラムです。

 手許の古い新潮文庫版『バッハ』によりますと、バッハは1735年末、というから50歳のとき、自分たちの「家系図」をまとめています…もちろん誇り高き音楽家一族としての系譜です。1577年に亡くなったというご先祖さまのファイト・バッハからはじめて、末子のヨハン・クリスティアンまで、53名の音楽家を登場させています(自身はほぼ真ん中の24番目として記述)。…それにしてもこのツィター好きの粉職人ファイト・バッハの住んでいた「家」というのがいまだ現存するってすごすぎ…もっともこの本じたいが古いから、21世紀のいまも残っているのかどうかは知らないが、ハイドンがWSKの前身である聖歌隊の少年隊員として採用され、任地のヴィーンに旅立つまでのあいだ過ごしたとされる生家もしっかり残っているし、いずれも地震のないドイツならではだなあ、と思うことしきり(→Wikipedia日本版の関連記事)。

 「アイゼナハのバッハ」として知られるヨハン・クリストフ作曲のオルガン曲「前奏曲とフーガ 変ホ長調」とか、きょうだいで、バッハ最初の奥さんマリア・バルバラの父親でもあるヨハン・ミヒャエル作曲のオルガンコラール編曲とかははじめて聴くもので、とても興味を惹かれた。音源が入手できるのなら、こちらもぜひほしいところ。またこちらの拙記事にもあるように、小学館の『バッハ全集』所収のオルガンコラールには、ヨハン・ミヒャエルの作品も「誤って」含まれています。ヨハン・クリストフつながりでは、「奇想曲 ホ長調 "ヨハン・クリストフ・バッハをたたえて” BWV.993」もかかりましたね。

 バッハの息子たちの作品も当然かかりましたが…ヨハン・クリストフ・フリードリヒ・バッハの独唱ソプラノのためのカンタータ「アメリカ女(!)」では、もはや父親のカンタータでよく見られた通奏低音書法は消滅、主唱 対 伴奏声部という構図が全面に押し出されている。すごくおもしろいと感じたのは末子ヨハン・クリスティアンの「BACHの主題によるフーガ」というオルガン(!)作品。「フーガの技法 BWV.1080」最終フーガにおいて、バッハ自身も展開を試みたB-A-C-H音型。「ロンドンのバッハ」がこれをいかに料理したか…偽終止をはさんで最後はわりと軽やかに(?)終りましたが、たしかにポリフォニーだし古めかしくは聴こえるけれども、あきらかにハイドンやモーツァルトの作風。本特集の締めくくりに聴いたのは、バッハ直系最後の音楽家、ヴィルヘルム・フリードリヒ・エルンスト・バッハの「トッカータ ハ長調」というこれまたオルガン作品。こちらもまたじつに明快で、典型的な古典派の「擬古調」オルガン曲といった感じ。

 とにかくこの企画はすこぶるおもしろいから、とりあえず第二弾を期待します(笑)。バッハ一族の音楽をこうして体系的に辿って聴かせる、という企画はこの番組ならでは。ぜひシリーズ化してつづけてほしいところです。

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2010年09月18日

ギエルミによる「フーガの技法」

 いまさっき聴いたばかりのけさの「バロックの森」。きのうと今日は、バッハ最晩年の傑作のひとつ、「フーガの技法」から!!! しかもロレンツォ・ギエルミさんの新解釈による最新録音で!!!! これはたいへんだ(笑)。

 きのうは「4つのカノン」で、ギエルミさんは曲によってチェンバロとフォルテピアノを弾き分けていた。そしてけさの音源について前もって調べてみると、

(フラウト・トラヴェルソ)マルチェルロ・ガッティ
(チェンバロ、フォルテピアノ)ロレンツォ・ギエルミ
(演奏)イル・スオナル・パルランテ
<Winter&Winter 910 153-2>

とあり、これは30年ほど前のラインハルト・ゲーベル/ムジカ・アンティクァ・ケルンの音源(Archiv 447 293-2)を彷彿とさせるような、楽曲ごとの複合編成かと思った。じっさいに聴いてみたらたしかにそうなんですが、たとえば最終の「未完の四重フーガ」では、第一主題部はギエルミさんのフォルテピアノとガンバ合奏、第二主題部は「第一主題」のみガンバで、中断箇所の239小節目以降はギエルミさんオリジナルの補完稿でギエルミさんのフォルテピアノ独奏で閉じられるという、すこぶる変わった編成です。で、聴いていてこれがとても心地よい(基本主題と組み合わされる最終部分はあっけなく感じるほど短かったけれども、これはそういう終わり方をバッハが構想していたとする研究にもとづいていると思う)。もっともガンバだけで演奏されたフーガ(7, 11, 12)では、いささか主題の入りが聴きとりにくい感じはした(フレットワーク盤のほうがいいと思う)。これは主題の入りが弱音でいつのまにかスッと入ってくるようなスタイルだったせいかもしれない(11など。自分で練習した曲以外は、スコアとにらめっこしないと聴けない)。それにしても「対位法 第1」というのは、正しい表記ではありますが、なんだかエラそうで、とっつきにくそう(笑)。

 でもこのギエルミさんによる新録音、清新かつ大胆な試みで、「フーガの技法」好きとしては、最終フーガの演奏だけでもほしくなってきた(苦笑)。この音源を聴いて、なんだか朝からアタマがすっきりして気持ちよくなってきた(笑)。ところでこの新録音、いまのところAmazonにはまだ置いてないようだが…これから墓参で西伊豆に行くので、短いですがこのへんで。ちなみに今日18日は、バッハの親戚で『音楽事典 Musicalisches Lexicon 』を編纂したことでも有名なヨハン・ゴットフリート・ヴァルターの誕生日でした。

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2010年08月16日

旧盆ですね

 このへん(東部地区と西伊豆地区)ではお盆の行事はいまごろおこないます(前にも書いたけれども、HalloweenももとはケルトのSamhain[Samhuinn]というお盆に近いお祭りが起源)。ほんとはちょこっと墓参でもしようかと思っていたのだけれど、ふだんのおこないが悪くて(?)夏風邪にやられてしまいました。ようやく調子がもどってきたところ。

 きのうの「バロックの森/リクエスト」ではのっけから英国の名手ハーフォードによるバッハの「前奏曲とフーガ 変ホ長調 BWV.552」がかかりました。前奏曲終結部なんか、足鍵盤の分厚いリード管の重低音が音割れ(!)するほどにビリビリ響きまして、いったいどこのオルガンを使っているのかなと思ったり…たぶんケンブリッジかオックスフォードかどこかのカレッジ礼拝堂の楽器なんでしょうけれども。つづいてかかった北ドイツオルガン楽派のひとりゲオルク・ベームの「組曲 第4番 ニ短調」もめったにかからないチェンバロ曲なだけにこれは聴けてよかった(手許のレオンハルト50周年記念盤にはほかのチェンバロ作品が収録されてはいるけれど、あいにくこれはなし)。

 今週は「ドレスデン宮廷の音楽」というテーマらしくて、けさはハインリヒ・シュッツでした。シュッツ、ときて、てっきりモテットとかの宗教声楽作品かと思いきや、ヴェネツィア仕込みの「シンフォニエ・サクレ」からの選曲でした。金曜日にはバッハの「ロ短調ミサ」から「キリエ」と「グロリア」ですね。

 …今日はお休みだったので、もちろん朝から…「弾き語りフォーユー」では好きな'Believe'の小原孝ヴァージョンもかかってました。あといまさっき聴いた、「ベスト・オヴ・クラシック」も'like!(某SNSの親指立てたアイコンふうに)'。以前「芸術劇場」で見た、「パユ、ピノック、マンソン演奏会」でした! で、プログラム中唯一なんとか伴奏できる、「シチリアーナ」楽章(「フルートとオブリガートチェンバロのためのソナタ BWV.1031」)もかかるので、トレヴァー・ピノック大先生といっしょにパユ氏のフルートの伴奏をして遊んでいた(笑)。気になるピッチですが、モダンフルートにあわせてか、チェンバロも現代ピッチで調律されてました。

 そうそう、けさの「気まクラ」の「気まクラDON」。あー、これは…やっぱカール・オルフのあれか?? 

 …最後に2006年の旧盆期間中に撮った、西伊豆町安良里(あらり)地区の「施餓鬼」と、「西伊豆歩道 今山コース」から垣間見えた夏富士の画像なども貼っておきます。

「浜施餓鬼」

今山遊歩道から富士を望む


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2010年07月18日

ラウテンヴェルクに「トリオ・ソナタ」

 先週の「バロックの森」。月曜日は…楽しみにしていたのにサッカーのW杯中継がタコのパウルくんの足よろしく延びて(?)「お休みします」!!! こういうの、緊急地震速報以外でははじめてだ(怒ってます)。そういうのは「ラジオ第一」とかでやってもらいたい。というか、TVだけでもいいのでは? スポーツ中継なんて、じっさいに映像が見えたほうがいいですし。

 …というわけで火曜からスタートしたわけですが、ブクステフーデの「われらがイエスの四肢」もいいけれど、なによりおもしろかったのは復元されたラウテンヴェルクという鍵盤楽器で演奏されたバッハの「前奏曲、フーガとアレグロ 変ホ長調 BWV.998」。鍵盤楽器以外ではとくにリュートに興味があったと言われる大バッハは、なんと「チェンバロみたいに鍵盤で弾くリュート」という楽器を自身の仕様で作らせ、それを2台、持っていた(遺産目録に記述あり)! その「ラウテンヴェルク(リュート・チェンバロ)」という楽器、現存しているものはないので当時の資料をもとに推測して演奏者自身が復元した楽器で録音したんだとか。発音機構はリュートそのものなので、張られているのもガット弦。で、音なんですが、まんまリュート(笑)。でもこれで「フーガの技法」とか、「音楽の捧げもの」の「3声のリチェルカーレ」とか弾いたらどんな感じに聴こえるのかな?? そういう録音も出してほしいところ。

 木曜の放送では、やっぱりハラルト・フォーゲルのオルガン独奏によるブクステフーデの「前奏曲、フーガとシャコンヌ ハ長調 BuxWV.137」が楽しかった。コープマンほどには「突っ走って」なくて、テンポもそうはげしく変わったりということのない、いい意味で安定した演奏という感じ。

 金曜の朝は、好きな「トリオ・ソナタ ハ短調 BWV.526」がかかりました。演奏者はバンジャマン・アラールという人。第二楽章の「ラルゴ(変ホ長調)」がとくに好き。レジストレーションも弱すぎず強すぎず、ほんわかと包みこむような暖かい音色の組み合わせで、これも自分の好みとぴったり。全体的にじっくり噛みしめるかのような演奏で、たまにはこういう「ゆっくり目」もいいですね。昨今の演奏はやたらと速すぎるのが多いから。

 土曜朝はのっけから、エイクの「“笛の楽園"から 涙のパヴァーヌ」。ソプラニーノ・リコーダーの甲高く、澄んだ響きは朝にふさわしい。バロックハープによるフレスコバルディの「第3旋法のトッカータ」もよかったけれども、はじめて聴くメールラの「そう信じてしまうおバカさん」という変わったタイトルの作品もおもしろかった(え? ワタシのことか?? 参院選は、某agenda党首の政党に投票しちゃいましたけれども!)。タイトルのわりにはまじめな(?)曲想に聴こえました(第3旋法=フリギア旋法)。

 けさの「リクエスト」にもバッハの「トリオ・ソナタ ト長調  BWV.530」がかかりました(リクエストは静岡在住のリスナーの方)。「6つのトリオ・ソナタ」については以前書いたことと重複するかもしれないが、バッハはこの「ひとりトリオ・ソナタ(通常、ふたりの通奏低音奏者と、その上でかけあいをする上声旋律ふたりの奏者で演奏される)」6曲を長男ヴィルヘルム・フリーデマンの教育用として書いたけれども、曲集として出版することも考えていたらしい。全6曲中、もっとも演奏するのがむつかしいのは5番目の「ハ長調 BWV.529」で、いまでもオルガニストの試験課題として出題されたりしますが、これにかぎらずバッハの「教育目的の作品集(「インヴェンションとシンフォニア」とか二巻の「平均律」とか)」というのは、つねに「いかに作曲するか」という作曲の実践技法をも教えるという役割も兼ねていた。「トリオ・ソナタ」の場合、厳格で転回可能な3声対位法を身につけさせるという目的もあったようです。最終稿の成立は1730年ごろと言われているけれど、じっさいの作曲期間は既作からの転用とかもあるので1727から32年にかけてであったらしい。「4番」以外はすべて急-緩-急の3楽章構成。これはヴァイマール時代に習得したイタリア協奏曲様式を独自に発展させた様式と言ってもいいと思う。とくに緩徐楽章は、いかにもイタリア風のメランコリックな旋律が際立っています。そういえば近年、べつに原曲が存在したと想定される曲については「幻の原曲版」を復元演奏する試みというのもけっこうおこなわれるようになりましたね。

 …梅雨明けしたけれど、この暑さ…暑中お見舞い申しあげます。あ、子どもたちはもう夏休みか。早いもんだな…。夏休みの課題は、朝の涼しいうちにこなしましょう(苦笑)。

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2010年07月10日

消費される音楽のはしり?

 今週の「バロックの森」はフランスバロック(フランスの場合、この時代の音楽は「古典主義音楽」と呼ばれたりもする)、とくに「ルイ14世時代のベルサイユ宮殿での音楽」。「太陽王」と呼ばれたフランス絶対王政の絶頂期にあった国王の宮廷で奏でられた音楽を特集してました。リュリ、ダングルベール、オトテール、ドラランドなどの作品がかかりましたが、正直なところ、この手の音楽は聴いていてもあんまり心が動かされない。ルイ14世は起床から就寝まで、四六時中、取り巻きの衆人環視のもとに生活していたらしくて、宮廷礼拝堂のミサのみならず、起床するとき、食事をとるとき、夜寝るときまで、お抱えの楽団がつねに生演奏(!)を太陽王に聴かせていたんだとか。ようするにprivacyというものがいっさいないような暮らしぶり。それでもそうとうな音楽好きであったのはまちがいない。そうでなければ年がら年中、音楽漬けというのはある意味「苦行」に近いものがある。そばでかまびすしくトランペットやサックバットでプァーっとそれこそ毎日休みなくやられたら、だれだって苦痛にはなると思う(苦笑)。それでもけさ聴いたなかではドラランドの「ト調のグランド・ピエス」という作品は出だしがまるでパッヘルベルの「シャコンヌ ヘ短調」によく似ていて興味を惹かれた。そして案内役の先生によると、国王自身もたいそう気に入っていて、リクエストするほどだったとか。

 でもこの手の音楽というのはあらかじめ「これこれのために演奏する曲」と演奏目的がはっきりと限定されているためなのか、聴く者の心に迫る「なにか」が決定的に不足しているように感じます。これらの楽曲にはやはり深みが足りない。もともと「ながら」のために作曲されたようなものだから、ある意味しかたないかもしれない。それ以上のものは求められなかったのだから。この時代の作品だったらシャルパンティエとかの教会音楽のほうがはるかに聴いていておもしろい(ドラランドにも「深き淵より」という「荘厳モテット」作品がある)。今週かかった作品の多くは残念ながら、自分にとっては少々「退屈な」音楽でした。もっともBGMとして聴くならよいかもしれませんが。

 そう、いまふうに言えばこれらはBGM。だから、消費される音楽の先駆け的存在と言ってもいいかもしれない。ある子どもにチェンバロ曲を聴かせたら、「貴族趣味だ!」って言われたことがある(笑)。ルイ14世の宮廷で鳴り響いた楽の音は、クラヴサンだろうと金管による華やかなファンファーレだろうと、やっぱり「貴族趣味」な音楽そのもの、という感じ。たまには肩の凝らない大クープランの「恋のうぐいす」とかいいと思うけれども、いつも聴こうという気にはならないですね。

 …昼間に見た「世界ふれあい街歩き」はヴェネツィア。サンマルコ広場とか見ていると、ここを300年くらい前にヴィヴァルディとかアルビノーニとか、また彼らの先輩にあたるメールロとかふたりのガブリエーリとかが歩いていたんかなあとも思ったり。「チェンバロのなぐさめ」のガルッピも歩いていたんでしょうね。温暖化の影響か、近年では異常な高潮で水没することもままある「アドリア海の真珠」ですが、「ヴェネツィア楽派」がその後の西洋音楽の発展にあたえた影響はひじょうに大きい。たとえば「通奏低音」の最初のかたち、basso seguenteが生まれたのもヴェネツィアらしいですし。そういえば16世紀にはここの方言で書かれた翻案ものの『航海』もありました。しばしヴェネツィアの映像を見ていると、以前「名曲アルバム」でかかったヴィヴァルディの「冬」なんかが頭の中で勝手に再生されてしまう(笑)。

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2010年06月27日

いろいろな「ゴルトベルク」とブルーンス

1). 先週の「バロックの森」はオルガン作品が多くて、けっこう楽しめました。とくに月曜のニコラウス・ブルーンス特集がよかった。ブルーンスという人はリューベックの聖マリア教会オルガニストにして高名な作曲家、ディートリヒ・ブクステフーデの弟子でもあった人だったが、わずか32 で没した不遇なオルガニストでした ( 以前結核で死んだとか書いた記憶があるけれど、ほんとうの死因は不明らしい )。ひょっとしたら後年、はるばる中部ドイツからやってきたはたちそこそこのバッハに、マリア教会の師匠は亡き弟子の面影を見ていたのかもしれない。早世したために現存する作品じたいも少なくて、自由オルガン作品が 4つのみ。生前はカンタータの作曲家としても名をなしていて、音楽批評家のマッテゾンをして、「もろびとよ、われらのニコラウス・ブルーンスの死を悼め。職業においてかくもすぐれた、しかも人品温和なる者が、もはやこの世にいないとは」と言わしめたほどの才人だったという。そしてブクステフーデの教えを受けた若きバッハのオルガン曲にも、あきらかにブルーンスを彷彿とさせる個所があったりします。今回、はじめてブルーンスのコラールファンタジーを聴いたけれども、たしかに若いバッハの書いた、北ドイツ様式によるコラールファンタジーとよく似ていますね。勉強熱心なバッハのことだから、師のブクステフーデ以外にもきっとブルーンスの作品も筆写したにちがいない。なにしろ「足鍵盤でベースラインを弾きながらヴァイオリンをもって即興演奏」したくらいの天才でしたから。

 北ドイツオルガン楽派は前にも書いたとおり、ファンタジー豊かな自由な即興性が最大の特色ですが、それを可能にしたのもアルプ・シュニットガーをはじめとする名オルガン建造家の活躍あってのこと。17世紀にはすでに巨大なペダルタワーがオルガンケースの両側に屹立するように造られ、「ヴェルク構造」といって各風箱のパイプ群がそれぞれ独立したケースに入れられて音色や旋律線の対比の鮮明な楽器が主流になっていった。ブクステフーデ、ブルーンス、そして土曜の朝にかかったゲオルク・ベームなどの北ドイツ楽派は、シュニットガーに代表されるこうした北ドイツオルガンの構造的特徴を全面に押し出すような作品をつぎつぎと生み出していったというわけです。その流れの最後に位置していたのがほかならぬバッハ、ということになるのかな。バッハ最晩年の作品群にも幻想性にあふれる北ドイツ様式がひょっこり顔を出していたりするし … もっともその表現する内容はさらに深くなっていますが。たとえば「前奏曲とフーガ BWV.548 」のフーガ中間部のトッカータ風のパッセージなんかそうですね。

 土曜朝にかかったベーム。リューネブルクの聖ミカエル教会の朝課聖歌隊に入隊した 15歳のバッハも教えを受けたらしいけれども、この人もまた北ドイツ楽派を代表する巨匠のひとり。あいにく 3曲のコラール編曲 ( うちひとつはコラールパルティータ ) はどれもディスクのもちあわせがないけれども、ヴァルヒャ盤 (「バッハ以前のオルガン音楽の巨匠たち」) とチェンバロ作品の「カプリッチョ ニ長調」と「組曲 ヘ短調」はともにレオンハルトの演奏家活動50周年記念盤でもっている音源からでした。ちなみにけさかかったバッハの「前奏曲 フーガとアレグロ 変ホ長調 BWV.998 」というのはチェンバロでも演奏されるようですが、BWV 番号ではリュート曲に分類されている。この作品じたいはめたに耳にしたことがないから、聴けて大満足。ちなみに「変ホ長調」という調性についてひじょうにおもしろいブログ記事がありましたので、そちらもあわせて紹介しておきます。

 それと火曜朝にかかった「ゴルトベルク」弾きくらべもたいへんおもしろい企画だった。チェンバロではスコット・ロスなんかいいですね。たぶんかかった音源は図書館で借りたものだと思うが … スカルラッティばりの「両手交差」があるのは最初の活発に走りだす変奏とデュエット形式の第20変奏、自由な第28変奏。後半ふたつの交差が見られる変奏ではそれぞれアンジェラ・ヒューイット、アンドラーシュ・シフのピアノによる名演。シフのほうは、原盤は名門 ECM盤かな? 

2). いまさっき見た「N響アワー」。グレゴリアンチャントの「怒りの日 Dies iræがとくに 19世紀、いかに多くの作曲家によって「引用」されてきたか、ということに焦点を当てていて、へぇ、あれもか ! という感じ。ラフマニノフってそんなに「怒りの日」好きだったんですねぇ。… 合唱交響曲「鐘 作品 35」にも、もっと有名な「交響曲第二番」にも出てくるらしい。蛇足ながら浅田真央選手が冬季五輪で使用した楽曲はピアノ作品の「 ( モスクワの ) 鐘 作品 3 - 2 」のほう。

 …そういえば先日、地元紙に「ツタンカーメンの死因 / 血液疾患新説・独研究者らが指摘」というおもしろそうな記事が掲載されてました。… ?? 、ツタンカーメンって、この前エジプト考古最高評議会が中心となって出した結論によれば、「骨折とマラリア感染」が死因だと言ってなかったっけ ? しかもこの新説、おんなじ『米国医師会誌(JAMA)』に掲載されているという! というわけで探してみると … どうもこれみたい( letters の項目にあるから、記事というより私信のやりとりか ? )。とにかくベルンハルト・ノホト熱帯医学研究所のクリスティアン・マイヤー医博の投稿によると、致死性熱帯マラリア原虫の感染は流行地域ではふつう 6 - 9 歳までで、ツタンカーメンのような免疫系統がほぼできあがっている十代後半の若者が感染してそれが原因で死亡することはないと主張しているようです。骨組織の薄い部分と第二指欠損については骨壊死、骨髄炎か潰瘍性関節炎のあったしるしかもしれないとしている。あとは … きちんと全文を見てみないとよくわからない。AFPBB サイトにも関連記事が出てますが、ほえっ、ツタンカーメン王のミイラの「複製」なんてものもあるんだ ! …姿かたちといい色合いといい、ほんとよくできているな ( 汗 ) … と、その向こうで不敵な笑みを浮かべているのは…またもやあの博士か ( 笑 ) ! 。

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2010年05月30日

「お出かけクラシック」

 いま、「サンデークラシックワイド/特選アラカルト クラシックリクエスト」を聴いてます…ええっとちょうどいま、バッハの「クリスマス・オラトリオ BWV.248」がかかります! リクエスト主によると、車にて遠出するときはかならずこの曲をかけてるんだとか。…タ、タ、タ、タ、タタタタタンタン…と金管およびティンパニまで入って調子よくはじまるし、コープマンみたいな「快速」な演奏ではついスロットルを踏んでしまいがちになるので速度超過に注意が必要です(笑)。

 テーマは「お出かけ」のときに聴きたいクラシック、ということで、ポンセの佳作「ちいさな星(La Estrellita)」やヘンデルの「水の上の音楽」、ガーシュインの「パリのアメリカ人」、「快速な」演奏によるモーツァルトの「ディベルティメント ニ長調」、あるいはシュトラウスのポルカ「クラップフェンの森で」やシューベルトの「ます」とか、けっこうあるもんだ。あとの2作品については、たしかに新緑の季節のお出かけにはにはぴったりかも。

 バッハが出たついでに…オネゲルの「交響的楽章 機関車パシフィック231」も――あるていどこれは予測していたけれども――リクエストされてまして、バッハ好きのワタシとしてはつい、蒸気機関車のごとく16分音符進行でひたすら邁進する、「トッカータ(とフーガ) BWV.538」なんかどうかしら、なんて思ってしまった。前にもここに書いた、例の「ドリア調(Dorian Toccata、ドーリア人じゃないですよ)トッカータ」という作品なんですが、演奏によっては機関車が走っているようにも聴こえます。そういえば、「ビバ! 合唱」の大谷研二先生に言わせれば、バッハのモテット「主にむかって新しき歌を歌え BWV.225」は朝の通勤・通学に最適だとか。

 ゲストのサックス奏者須川展也さんは、バッハの「無伴奏チェロ組曲」をドライヴのお供にしている…らしい。そして筋金入りの鉄道マニアらしい。

 そういえば三島の16歳の方からのリクエストというのもありまして、ジミー・ドーシーという人が作曲した「ウードルズ・オブ・ヌードルズ」という超絶技巧作品で、しかも生演奏! というぜいたくさ。なんかコンサート? でもあったのかな、そんなこと言っていたけれども…(図書館から借りているバーバラ・エーレンライクの新刊本を読みながら聴いていたので、うろ覚え)そういえば辻井伸行さんがせっかくピアノリサイタルを開いてくれたのに、なにも知らずに地元紙朝刊にてそれを知ってガックリした、なんてことがあったっけ。orz

 …いまはメンデルスゾーンの「交響曲第4番 イ長調 『イタリア』」から冒頭楽章がかかってます。個人的には寒々と荒涼とした「スコットランド」のほうが好きだったりする。

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2010年04月11日

「主にむかって新しき歌を歌え」

1). 「ビバ! 合唱」ってまだやっていたんですね(汗、ちなみにvivaはイタリア語でもとになったラテン語ではvivatと書く)…てっきり3月いっぱいでもうおしまいなの?? なんて思いこんでいたもので…案内役の先生が松下耕先生から大谷研二先生へと選手交代しただけだったみたいです。で、いまさっき聴いてみたら、バッハのわりと有名な8声二重合唱によるモテット、「主にむかって新しき歌を歌え BWV.225」がかかりました(「歌え、主のみ前に新しい歌を」というほうがたぶん原語のワードオーダーに忠実な訳)! 

 前にも書いたかもしれなくて蒸し返しになるかもしれないけれども、大谷先生のおっしゃっていたごとく、職業音楽家バッハはだれそれの葬式用の作品だの、結婚式用だのといった注文もこなさなくてはならなかった。バッハほどの偉大な作曲家も人の子、ときとして「この仕事、やる気がしねぇ〜」なんとこともあったかもしれませんが、それでもやっつけ仕事とは無縁な勤勉な職人だったので、たとえそうであってもつねに全力投球! そうすることで神の栄光をたたえることになる、とかたく信じていた(と思う)人なので、もちろんあきらかに「手抜き」なんてことはない。このモテットはのっけから気分ノリノリの輝かしい、晴れ晴れとした二重合唱ではじまる。1726-7年ごろに作曲されたらしいけれども、具体的には不明。1727年5月にライプツィッヒで祝われたザクセン選帝侯アウグストの誕生日祝賀会用ではないか、と考える人もいる。おかしかったのは、大谷先生が、これを朝の通勤・通学時間に聴くとよいですよ、と言っていたこと。…朝からこれですか! うーむ、たしかに元気はモリモリ湧いてくる…気はします。

2). 教育TVでもこんなおもしろい番組がはじまりましたね。はじめて見たときはいきなりあの坂本龍一さんが「ゴルトベルク」の25変奏(9番目の「3度のカノン」についで好きなところ)をNHK所有の歴史チェンバロのレプリカで弾いているではないですか!? え、なにこれ?! と思って気になっていたら、日曜午後に再放送が。これさいわいと飛びついた(笑)。で、あらためて見てみますと…なかなかおもしろいではないですか。なんかいつぞや聴いた、「真夏の夜の偉人たち」みたいに、みんなでバッハをサカナに「鼎談」しているところなんかいいね。坂本さんは左利きなのか。「バッハ好きって左利きに多いのかな」。いやいや、そんなことはありませんぞ(笑)! 

 すごくおもしろかったのは、音楽を勉強している若い人たちとともにバッハの作曲技法を実地で体験する、という場面。有名な「平均律 第一巻」の最初のハ長調前奏曲(BWV.846)。これのコードに乗せて、みんなで即興演奏しよう、というのが見ていてひじょーに楽しかった! 英国には音楽を勉強している子どもたちを対象としたワークショップなりコンペなりが盛んのようですが、寡聞にして日本でそのようなコンペがおこなわれている、という話は聞いたことがない。もっとやったらどうですかね。隠れた才能をもった子どもたちがそれこそわんさか出てくるような気がしますけど。また音楽教育ついでに、小学校でかならず習わされるリコーダー。一回でいいから、本格的な木製のリコーダー(S-A-T-Bの4本)をじっさいに体験する機会も作るべきだと思う。プラスチックでできた安物とはまるで音がちがいますよ。「耳からうろこ」、a sense of wonderまちがいなし。子どもたちにはなるべく本物と触れあう機会をもっともっとあたえるべきだと思う(もちろんオルガンもね。せめてチェンバーオルガンくらいは本物に触れさせるべきだと思う)。生徒さんたち、けっこうやりますね! 感心しました。かくいうワタシも「ニ、三声のフーガもどきにしたい」旋律をひとつもっているのだけれど、あいにくそんな才能もなし、考えている時間もなし(笑)。目の前の動機から、即興で三声くらいのフーガが紡ぎ出せたら、どんなにかすばらしいことだろう、と思う(できもしないくせに、楽譜になにやら書きつけている夢は見たことがある)。それにしても、あの単純素朴なコラール旋律って、「マタイ」に出てきたり有名なカンタータ「147番」にも出てきたり、また出だしの三連音符までもあの定旋律から導き出されているとは、ひさしぶりにアタマを刺激されましたね(岡田先生はそのことにいま気がついた、みたいなことを言っていたけれども、たとえば「オルガン小曲集」なんかはコラール定旋律(とその歌詞内容)からすべての動機が生み出されていたりする。冒頭のBWV.599などはその好例)。

 ところで「ドミソ」和音における「ミ」の発見について、あたかもバッハ時代に見出されたみたいな感じで話していたけれども、おそらくそれはモンテヴェルディとかカリッシミ、カッチーニあたりまで遡るのではなかったかしら、と門外漢は思っていたのだけれど、確信はない。そうだ、西洋音楽史の生き字引、Kenさんに訊いてみよう…(こんなとこでお名前を出してしまって、失礼しました)。

 …バッハは4回シリーズで、次回は通奏低音! 気合を入れて見るぞ。

3). 先週の「バロックの森」は、ヴェネツィア楽派てんこ盛りでした。モンテヴェルディやアンドレア・ガブリエーリに甥っ子のジョヴァンニ・ガブリエーリ(「ピアノとフォルテのソナタ」、音楽史上最初の強弱記号のついた作品)、アルビノーニにベネデット・マルチェッロ(政治家だったんですね。兄は「オーボエ協奏曲」で有名なアレッサンドロ・マルチェッロ)、そして最終日は白眉、ヴィヴァルディでした。「四季(Le Quattro Stagioni)」って、ほんとうは1725年刊行の「和声と創意への試み」の1番目から4番目の作品だったんですね(手許のCDのライナーにもおんなじことが書いてあるだろうけれども、すっかり忘れていた人。なおリンク先Wikipedia記事の「ハ短調」はたぶん「ニ短調」のまちがい)。ヴェネツィア楽派は上述したバッハのモテットでも用いられている「多重合唱(polychoral)」の元祖でもある。また通奏低音の先駆け、'basso seguente(つづく低音の意)'について、1575年にPlacido Falconioなるヴェネツィアの作曲家が出版した「入祭唱」と「アレルヤ」集で用いられたのが出版楽譜に出てくる最古の例だと英語版Wikipediaにありました。'basso seguente'は多重合唱と、それを支えるオルガンなどの器楽伴奏から生まれたものらしい。バロック音楽の代名詞とも言える通奏低音の起源はこのへんからなのかな? 

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2010年03月28日

ここにも番組改編の動きか

 「バロックの森」、公式サイトはいまだに先週のままなんですが、地元紙土曜夕刊に掲載される「FMウィークリー」によると、この番組にも番組改編の動き(?)なのか、なんと、あの礒山雅先生が案内役として登場するみたいですね。それと、土曜日のリクエストがなくなって、日曜のみになるようです。いまオンラインの番組表見たら、松田アナに代わって女性アナの方のお名前が出てました。…案内役の先生方も総入れ替えなのかどうか、は不明ですが、とにかく月曜は「コラール『輝く暁の星の麗しさよ』にちなむ音楽」と題して、また火曜は「バッハのオルガン・トリオ」、金曜は「マタイ」、そして土曜は「イエス・キリストの復活を喜ぶ音楽」というテーマ。そしてこれはどうでもいいことながら、個人的には解せないこと。ここにNHK-FM関連の話を書くときは手許に「FMウィークリー」の切り抜きを置いて書くのですが、なんと「FMウィークリーは今回で終了します」!! 新年度の紙面刷新だとかでそのとばっちりを喰らったかたち。不便だなあ。いっつも一週間分の番組表見るのが楽しみだったのに(→コラール「輝く暁の星の麗しさよ」についてはこちらのページを参照)。

 …とりあえず月曜夜の「ベスト・オヴ・クラシック」の曽根麻矢子さんのリサイタル。津市での公開録音の再放送で、「平均律」や「ゴルトベルク」の抜粋が入っています。この前、図書館にて借りて聴いていた曽根さんの「ゴルトベルク」はけっこう気に入っていたので、いまから楽しみ(そういえばこの前、「インストルメンタル・ジャーニー」で聴いた、ラフマニノフの「前奏曲嬰ハ短調 作品3-2 '鐘'」。浅田真央さんが演技で使った作品ですが、これがオルガン編曲版でかかってまして、個人的にはピアノよりもはるかに効果的なのではないかと思ってしまった)。

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2010年03月21日

やはり「行進曲」系が多いかな

 いまさっきまで電子ピアノもどきをいじりながら聴いていた「NHK-FM サンデークラシックアワー/特選アラカルト・クラシックリクエスト」。今回のお題は「新生活のクラシック」。「聴くとやる気が出てくる曲、背中を後押ししてくれる曲」ということで、やはり、というか、行進曲系が目立ったような気がします。それと、どういうわけか(?)「威風堂々」とか「交響曲第3番・オルガンつき」のようにオルガンの大音響と管弦楽の作品もかかりました。思うに、豪壮華麗な音響は「すこしくらいのことでへこたれるな、がんばれ!」というエールのようにずんずん心に響いてくるからかもしれない(なので心の弱い自分もこの手の応援歌のような作品は大好き。きのう書いたブルックナーの「8番」も宮本先生に言わせればまったくおんなじで、「おまえ、がんばれよ!」と背中を押してくれる作品。もっとも好みははっきりわかれるとは思うが…)。もっとも「弦楽のためのアダージョ」とか、真反対のしずかに盛り上がるタイプの作品にもリクエストがありましたし、変わったところではエルンスト・プッチェルなる人の作曲した、「さくら変奏曲 作品62」というピアノ独奏曲もかかりました。この手の作品を聴きますと、おんなじ「さくら」を見ても感じ方、印象が日本人とは微妙にちがったりするものです。感性のちがいというか。もとの旋律はもちろん日本の有名な歌曲ですが、向こうの人の眼に映じる「さくら」というのはこんな感じなのかな、ということが音楽として表現されていて、これはこれでとても興味深いものがある。

 ヨハン・シュトラウスの「春の声」もかかりまして、ウィーン少が歌ってました。音源を調べてみたら、20年くらい前の団員がソロを歌ってました。「ながら」で聴いていたので、てっきり成人女性のオペラ歌手かと思った。トレブルというより、カウンターテノール(あるいはソプラニスタ)に近い発声でした。

 そういえば今週の「バロックの森」は、2008年に「新発見」された例のオルガンコラール幻想曲(BWV.1128)と、なんと「マタイ」の初期稿版がかかるという! これは聴きのがせない。バッハが1736年に浄書した一般に知られている版との相違点については、案内役の先生の解説をご覧ください(↓は、BWV.1128の動画)。



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2010年03月14日

天使のマレー、悪魔のフォルクレ

 先週の「バロックの森」は「バロック時代の音楽家の家族関係に焦点を当てて」。月曜はマラン・マレーとフォルクレ父子の作品がかかりました(その前にBWV.1038の番号のついた「伝バッハ」の「トリオ・ソナタ」もかかりました。案内役の先生によると、これは弟子を指導したときにバッハが作曲を手伝ったのではないか、という)。マレーとくると、一度実演を聴いたことのある「膀胱切開手術の図(ヴィオール組曲第5巻)」を思い浮かべるけれども、この人もまた天才肌の人で、早くから楽才を示して、神童として有名だったという。たいするおなじヴィオール弾きのフォルクレは、たいへんに嫉妬深くて、自分の息子に音楽の才能があるとわかると、なんと幽閉! してしまったとか。とにかく父子間の確執はすごかったらしいけれども、そんな父親が亡くなったあと、息子ジャン・バティストは亡き父のヴィオール作品を編んで、クラヴサン用編曲版もくっつけて出版しています。放送でかかったのは、そのクラヴサン編曲版から数曲。

 その夜の「ベスト・オヴ・クラシック」。寡聞にしてプレトニョフは最近、指揮者としても精力的な活動をしているとは知らなかった。で、そんなプレトニョフ指揮ロシア・ナショナル管弦楽団の来日公演から。大好きなベートーヴェンの「7番」と有名な「5番」に…アンコールはなんとバッハの「組曲 第3番 ニ長調 BWV.1068」から「アリア」! 使った版はストコフスキーみたいだけど、しっとりとして聴いていてとても心地よい演奏でした。つぎの日の放送もまたベートーヴェンの「7番」がかかったけれども、こっちはズービン・メータ指揮の、名門ウィーン・フィルによる演奏でした。

 水曜の朝の「バロックの森」は、甥っ子と伯父さんの関係にあたるフランソワ・クープランとルイ・クープラン。フランソワは叔父さんのあとを継いでサン-ジェルヴェ教会オルガニストになったけれども、フランソワ・クープランとくるとなんかクラヴサンの作曲家、というイメージがあるのですが、じつは最初に出版したのはオルガン作品だったりする。それが「二つのミサ曲からなるオルガン小曲集」というもの。この日かかった音源は…なんとあのスコット・ロスによるオルガン独奏でした! ちなみにクープランにかぎらず、この時代のフランス古典のオルガン曲、とくに典礼用の独奏曲では、「クロモルヌのレシで」とか「トランペットとクロモルヌによるディアローグ」、「ティエルスをテノールで」とかのレジストレーションの指示がつきもの。なので演奏者は「レシ(エコーもしくはソロ、現代ではスエルオルガンに相当)鍵盤にあるクロモルヌ管(Cromorne, 独語ではKrummhornと呼ばれるリード管ストップのこと)」を選んで弾くか、それがない場合はなるべくそれに近い音色のストップを選んで弾くことになります。「オッフェルトリウム(奉献唱)」では、朗々とした「グラン・ジュ(Grands jeux、グラントルグ[主鍵盤、独語のHauptwerk鍵盤に相当]のリード管中心のフルコーラス)」でしたね。金曜の朝は、リューベック聖マリア教会オルガニストで作曲家のブクステフーデと前任者トゥンダーの作品。例によってバッハとブクステフーデの愛娘の「こぼれ話」つき(苦笑)。「前奏曲 イ短調」とコラール前奏曲「来たれ、聖霊よ」で、演奏者はピート・ケー。この前自室の掃除をしていたら、かなーり昔のこの人の来日公演のチラシとかが出てきたり(笑)。
 
 そういえばけさの「リクエスト・アラカルト」、バッハの「マニフィカト 変ホ長調 BWV.243a」でしたね(その前にヴァルヒャによる「小フーガ BWV.578」も)。以前、「BWV.243」のほうは鎌倉のグロリア少年合唱団による実演を聴いたことを書いたけれども、こちらは初期稿で、のちにバッハはD管トランペットの輝かしい響きを追加するため、半音低く移調した版をこさえたらしい。合唱は名門オックスフォード・クライストチャーチ大聖堂聖歌隊、指揮は名オルガニストでもあるプレストン…でしたが、この音源はずいぶん子ども子どもした歌声だなあ、というのが第一印象。10年以上前に来日したときにここの聖歌隊を聴いているけれども、まるで別物のように聴こえます。

 …最後にまたしても関係ない話を。先日、強風が吹きまくったときに鎌倉の鶴岡八幡宮のご神木の大イチョウが根こそぎ倒れてしまいましたが、高校生のときに自分も見たことがあるからおどろいた(もっともこんな感情は気まぐれな感傷にすぎない、ということはわかっているけれども)。樹齢千年以上、むき出しになった幹の真ん中へんは完全に空洞で、重さを支えきれず、風圧に負けてしまったんだと思う。でも風化した岩石とちがって植物は再生できる可能性があるところが救いではある。源実朝暗殺を目撃したというこの大木の寿命は尽きてしまったけれども、新芽がふいていたらしい。根っこの部分は5メートル先に移植されるようですが、イチョウがはやく「再生」するといいですね(→関連記事)。イチョウとくると「銀杏」ですが、大木になると、「乳状下垂根」というのがぶら下がっている場合があります。たとえば西伊豆町宇久須にある「永明寺の大イチョウ」なんかがそう。晩秋の黄葉は圧巻です。

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2010年03月01日

「おおものいみ」と「ミゼレレ」

1). 先週のBBC Radio3 Choral Vespersは、リヴァプール・メトロポリタン大聖堂から。おなじ目抜き通りの反対方向には英国聖公会のリヴァプール大聖堂がありますが、前者はローマカトリックの大聖堂(なので'Evensong'とは表記しない)。くわしいことは知りませんが、英国聖公会系の礼拝ではこの時期、四旬節入りを告げる「灰の水曜日(今年は2月17日)」に有名なアレグリの「ミゼレレ(詩編51番)」が歌われるらしい。カトリックでは聖週間の最後の三日間に歌われるようです。アングリカンでこの作品が「灰の水曜日」に歌われるのは、たぶん歌詞内容のためでしょう。もっとも「悔悛」の度合いが強いから。でもあいかわらず最高音へといっきに駆け上がるトレブルのソロには身震いする。ボーイソプラノにとって、「鳩のように飛べたなら」とならんで定番ですね。そういえばこちらの曲も、聖公会系の教会ではこの時期に歌われることが多いようです。ちなみに西方教会では「四旬節」、レントですが、東方教会の用語では「おおものいみ(大斎)」と言い、復活祭の七週間前(七旬節)から節制生活に入るようです(今年の復活祭は4月4日)。ついでにBBC Musicのクリスマス特集号記事によると、かのサー・ポール・マッカートニー氏は少年時代、リヴァプール大聖堂の聖歌隊員採用試験に落っこちた、という。もし合格していたら…ビートルズは結成されなかったかも。

2). 日曜朝の「バロックの森・リクエスト」。こっちはハインリヒ・イグナーツ・フランツ・フォン・ビーバー(長い!)の「聖ハインリヒのミサ」がかかりました…歌っているのはレーゲンスブルク大聖堂の「雀たち」。ソロの子(Boy-S,Boy-A)がいまいち声量が弱くて、もうすこと元気があったほうがいいとは思ったが、美しく歌いあげておりました。あとは大好きなオルガン作品がかかりました。オランダのスヴェーリンクに学んだハインリヒ・シャイデマンの「前奏曲 ニ短調」。演奏は巨匠レオンハルト。最後もオルガン曲で、バッハのヴァイマール時代の作、「前奏曲とフーガ イ長調 BWV.536」。英国の名手ハーフォードの演奏で。わりとちんまりした曲で、ヘルマン・ケラー曰く「春の陽光がさんさんと降りそそぐような」短い前奏曲のあとにこれまた春うらら的な主題のフーガがつづきます。『バッハ事典』によると、この主題はカンタータ第152番の導入部のコンチェルトにもとづいているらしい。

 …余談ながらきのうも書いたけれども、バラカンさんが読み上げたメールに、昨今の「おむすび一個の値段で」売り買いするダウンロード販売というものにどうしてもなじめないとか、そんな内容のものが紹介されてました。そうなんだよねぇ! 音楽はアルバムで買うもの、CDで買うものというのが頭に染みついている身としてはその気持よーくわかる。バラカンさんも同意しつつも、あるとき、どうしても急ぎである楽曲がほしくなって、ダウンロード販売ではじめてそれを買ったんだとか。そう、ダウンロード販売は急ぎのときはたしかに助かる。自分の場合、「ラジオのうた」の歌詞を一部引用したくて、どうしてもいまほしい! と思ってつい(?)HMVのデジタル販売を利用してしまった。ところがこのたびあいにく店じまいとあいなり、「駆け込み」でアンドレ・ギャニオンのピアノ曲三つとマーラーの「交響曲第5番」の「アダージェット」楽章のみ購入(あまり意味のない買い方)。便利なことは認める。でも! 音楽CDを排斥するようなことだけはなんとしても反対。同様に「紙の本」が消滅することにも反対! です。あ、そういえば今日は今年が生誕200年記念イヤーのショパンの誕生日だった。

追記。いま、こんなおもしろい(?)「仮想楽器」を見つけました…なんでも「Webサイトのhtmlコードから音楽を生成する」というサイトらしい…ちなみにこのブログはこんなんなりました。本家サイトでもやってみたけど、ほんのすこしフレーズを奏でただけであっという間に終了…文字ばっかで、わりと構造が単純だからか??。

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2010年02月15日

樫本大進さんの「ゴルトベルク」

 先週の「ベスト・オヴ・クラシック」、水曜日に放送された樫本大進さんの「ゴルトベルク」がすばらしかった。シトコヴェツキーという人が編曲した版での演奏で、ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロのトリオというかたちでのものでした。こういう形態でこの長大な変奏曲(技巧的に高度なカノンが入れ代わり立ち代わり現れる)を聴くのはおおいなる喜び。最近、寝るときはきまって「ゴルトベルク(いま聴いているのは曽根麻矢子さんの録音盤)」か、グレン・グールドの残した「バード&ギボンズ作品集」を聴いていますが、とくに後者は買って大正解!! バードの「ヒュー・アストンのグラウンド」あたり、どこかにスコアがないかしら。自分でもすこしだけ弾いてみたくなった。

 ところで曽根麻矢子さんの盤のライナーに、この「ゴルトベルク」主題の「アリア」が収録された『アンナ・マグダレーナのためのクラヴィーア小曲集 第二巻』について、この「アリア」の直前に書かれたのが、なんとあの有名なシュテルツェルの歌曲、「御身がともにあるならば(BWV.508)」だという。「死と安らぎ」を歌ったこの歌曲が「眠りの音楽」の「アリア」とならんで置かれていたわけですが…たんなる偶然?? 

 また金曜日の「第1668回 N響定期公演」ではマーラーの「交響曲 第5番 嬰ハ短調」をひさしぶりに「生で」聴いた。マーラーがアルマと結婚してまもないころに作曲した作品で、心身ともに充実していた時代のもの。「ベニスに死す」で超有名になった第四楽章のAdagiettoも、じつはアルマに捧げた「愛の歌」だったらしい。出だしの楽章で金管がすこし…ということがあったけれどもそれはさておき、第四楽章が予想外にキビキビしていて気持ち速くてそっちのほうがすこし驚いた。指揮者はロシアの出身…らしいけれども、このキビキビ感が心地よくて、絶妙のテンポだったように思いました。ともすれば「感傷べったり」な演奏になりやすいので。弦楽とハープの絡みも立体的ですばらしかった。でもこの指揮者、ちょっとやかましかったかな…「ウン! ウン!」って、何度も聞こえてくるんですが(苦笑)…。ゲストの池辺晋一郎先生は、「入魂の指揮」だったと評していたようですが、なんか妙に耳障りだったのは自分だけ…? 

 …グールドが出たついでに、この前図書館から借りて聴いていた1950年代の「ライヴ・イン・ザルツブルク&モスクワ」という盤。どんなんだろうと興味津々だったけれども、やっぱりこの孤高の天才は、衆目の面前でのコンサートというものにはまるでそぐわない演奏家だったのかもしれない。とにかく演奏が荒いのです。しばらく聴いていると、「え?! これがあのグールド?」という感じで…弾き方はたしかにグルードにしかできないであろう独特な弾き方ではあったけれども…ライヴ録音のわりに「コホン!」の一声も入ってなくて、まるでスタジオ録音みたい。モノラル音源ということもあるのかもしれないけれども。

 …今週の「バロックの森」、けさはたいへん珍しくテオルボ独奏曲なんかがかかってましたね(ヴァイスの「嘆き」)。明朝はパーセルの声楽作品がかかりますが、そういえばきのうの日曜はたまたまうまいぐあいに「聖ヴァレンティヌスの祝日」でしたが、いま読んでいる本によると1556年のこの日、英国宗教界のトップ、カンタベリー大主教トマス・クランマーが司教職を剥奪された日だったらしい。「血みどろメアリー(Bloody Mary)」治世下で粛清の対象となり、3月21日、火刑にかけられ非業の最期を遂げています。現代の国教会(英国聖公会)の典礼形式や音楽は、もとをたどるとこのクランマーが編纂した『共通祈祷書』と『42箇条』(「礼拝統一令」に盛りこまれた)にもとづいています(1549年に第一次の、1552年に第二次の版を編纂している。その後も『共通祈祷書』は政治的思惑に振り回されて「改訂」がつづけられ、1662年に最終版が出た)。英語によるモテットつまり「アンセム」をはじめ、福音書朗読と詩篇唱をすべて英語で執り行うとかとか、八つあった中世以来の伝統的な「聖務日課」を「朝の祈り・夕べの祈り」に集約させたのもこの人(アングリカン・チャントと呼ばれる「英語詩篇唱」は150篇の「詩篇」をひと月で一巡するようにできている)。とにかくこの時代はカトリック信仰への急激な揺りもどしがあるかと思えば、今風に言えばたんなるこちこちの「原理主義」に走ったプロテスタント過激派が修道院や大聖堂の聖遺物箱や調度、貴重な写本や聖歌隊席までぶっ壊したという、疾風怒涛の混乱期でした――もっともこれはほんの「前兆」で、ほんとうの意味での大混乱は、「清教徒革命」時代になってからなんですけれどもね。ウィリアム・バードはまさにこの動乱時代を生き抜いた作曲家、ということになります。

関係のないおまけ→山のようなチョコレートをもらって喜ぶひこにゃん

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2010年02月06日

アンタイとバッハのBWV.593

 「バロックの森」、チェンバロつながりではもうかなり前になりますがガルッピの「チェンバロのなぐさめ」から「ソナタ 第5番 変ロ長調」というのが印象的でしたが、先々週の月曜にかかったバッハのひじょうに有名な「半音階的幻想曲とフーガ ニ短調 BWV.903」もすばらしかった。演奏者はレオンハルトの弟子でもあるピエール・アンタイ。この人は自前の古楽アンサンブルで指揮もしてまして、昨年の――早いもんだ――LFJ音楽祭にて実演をはじめて聴ききました(バッハのカンタータ二曲)。小柄な体型に似合わずエネルギッシュな指揮が印象的でした。で、チェンバリストとしてのアンタイ来日公演のもようが1日の「ベスト・オヴ・クラシック」にて放送されまして、こちらも負けずおとらず秀逸。フレスコバルディ、フローベルガー、クープラン、ドメニコ・スカルラッティ…とどれもすばらしかったのですが、バッハの「イギリス組曲 第2番 イ短調 BWV.807」も脂の乗り切った円熟の名演だったんじゃないでしょうか。プログラムもバランスがとれていたと思います。また録音もよかった。たいてい、チェンバロの実演を集音マイクでひろうとなんとも頼りない響きしか聴こえてこないんですが、今回は会場もよかった(?)のか、さほど音量をあげる必要もなくエアチェックできました。

 今週の「バロックの森」の月曜日の回ではボアモルティエの「カンタータ 冬」なんていうめずらしい曲が聴けてよかったけれども、「冬」とくれば本家(?)のヴィヴァルディの「冬(もち、「四季」の)」もかかりました。木曜朝にはブクステフーデの「テ・デウム」というオルガン作品もかかりまして、いかにも北ドイツオルガン楽派らしい、出だしからしてバリバリと豪壮に轟くコラール幻想曲ふうの作品でした。

 ブクステフーデとくると若きバッハの「リューベック詣で」がつとに有名ですが、バッハは北ドイツオルガン楽派のみならず、南欧の楽派、とくに当時の音楽の中心イタリアの、もっとも先進的だったヴェネツィア楽派からも多くを学んでいます。ちょうどそのころ、バッハの仕えていた領主の甥っ子、ヨハン・エルンスト公子が「教養旅行先の」オランダ・ユトレヒト大学から二年ぶりに帰ってきた――大量に買いこんだ楽譜とともに。そのなかには1711年にオランダで出版されたヴィヴァルディの「調和の霊感」もふくまれていた。またエルンスト公子(オランダに旅立ったときはまだ14歳!)はアムステルダム新教会の盲目のオルガニスト、デ-グラーフによる「妙技」にも強い感銘を受けていた。それは、イタリアふう協奏曲をひとりで弾いてのける、というものだった。というわけでエルンスト公子の命を受けたバッハはさっそく「合奏協奏曲」を「オルガン独奏用の協奏曲」へと編曲を開始する。ヴィヴァルディの「調和の霊感」からも編曲をおこない、こんにちBWV.593の作品番号がつけられているオルガン編曲もこのときの産物です。

 先週のBBC Radio3のDiscovering Musicという「楽曲解剖番組」では、このバッハ編曲版とヴィヴァルディの原曲とを聴きくらべしてまして、これがひじょうにおもしろかった。バッハ編曲版を弾いたのがダニエル・ハイド氏。まだ若い人ながら、名門ケンブリッジ大学ジーザスカレッジの学内礼拝堂聖歌隊の音楽監督をつとめていた人(いまはオックスフォード大学モードリンカレッジに移籍)。ストリーミング放送はまだあと一日残っているので、興味のある方はこの機会にぜひ。

 …ここでまったく関係のないガス抜き恐縮。せんだっての朝青龍関の引退…はそんなにおどろかないけれども、もっともおどろき呆れたのは某自動車メーカーの執行役員氏(?)の暴言、いや妄言。「ブレーキの違和感は運転しているあなたの感覚の問題だ」という趣旨のものでしたが、いやもうaghastするほかなし。ブレーキですよ、ブレーキ! 止まってほしいときに「あれ? なんかこのブレーキおかしい」ではおっかなくって、とてもじゃないけど運転なんかできやしないですよ。クルマは「走って、曲がって、止まる」ことがきちんとできればいい。でもこの三つのうちどれかひとつでも不具合があったりしたらもう×。これがほんとうにクルマを作っている会社の人間の発言だとはにわかに信じがたし。げんに事故だって起きているのに、なんというたわけた無神経な発言だろうか。その後国交相の批判を受けるかたちであわてて社長が謝罪会見を開くとは、ここもそうとうヒドイ大企業病にかかっているとしか言いようがないですわ。

posted by Curragh at 20:59| Comment(0) | TrackBack(0) | NHK-FM