2011年11月27日

待降節第一主日

1). せんだって見たこちらの演奏会評の記事。映画でも美術でも写真でも、とかく芸術ものの記者さんの書く NYT の批評記事というのは総じて辛口。カーネギーホールの地元だけあって、いったいどんな演奏会評を書いたのかなとすこしは期待して見たら、やっぱりかなり ( ? ) 辛口でした。とくに ↓ のあたりが。

But probing depth and a sense of spontaneity are missing, perhaps inevitably, since Mr. Tsujii must precisely calculate every move to ensure that his fingers are above the correct keys. This was noticeable in works by Liszt, including “Un Sospiro” from the Three Concert Études and the “Rigoletto” Concert Paraphrase, both marred by stilted phrasing, as was the rendition of Beethoven’s “Tempest” Sonata.

今年が記念イヤーのリストの「ため息」や「リゴレット」の編曲版、ベートーヴェンの「テンペスト ( ピアノソナタ 第17番 ニ短調 ) 」などで、「深みと自然さ」が欠けていて堅苦しい印象を受けた、とか … でもどうなんだろ、その演奏を聴いてないからなんとも言えませんが、すくなくともクライバーンコンクール以降の辻井さんの演奏を TV とかで拝見してきたかぎりでは、「不自然さ」なんてみじんも感じなかった。それでもジョン・マストの「即興曲とフーガ」やアンコールの「雨だれ」なんかは褒めているけれども。この人にとっては、ややもの足りなかったのかもしれない。前にも書いたけれども、こと音楽の批評ってむつかしい。小林秀雄だったかな、モーツァルトの「交響曲第 40 番」を「悲しみが疾走する」なんて表現したのは。音楽批評家といってもそれこそいろいろで、ある人は「金字塔」と評した、まさにおなじ演奏会を「これがあのウィーンフィルなのか ? 」と評する人いたりで ( ほんとの話 ) 。ここまで差がひらくことはあまりないとは思うけれども、おんなじ公演を聴いた評がこんなぐあいになったりするので、軽く受けとめておけばよいのかと。とにかくカーネギーホール・デビュー、おめでとうございます ( なお、まことに勝手ながら NYT 関連カテゴリの記事は今回をもってしばらくのあいだ休止させていただきます ) ! 

2). それとこれはもうかなり前のことでいささか out of topic な感じではありますが、毎年この時期恒例のこれ。例によって中継を寝ながら聴いてたんですが、だれだったか少女聖歌隊員のファイナリストでなんと日本語を選択科目としてとっているという子がおりまして、すかさず茶目っ気たっぷりに MC のアレッドが、「ボクも日本語できるよ! 声変わりしたあとで、ウィーン少( 正確には「ウィーンの森」のほうだったと思う )」と日本に行って共演したときに覚えたんだ、と前置きして、いちばん好きなフレーズが「ボクはアレッド・ジョーンズです ! 」と、早口で披露してました。まだ覚えてたんですな! バブル期のあの当時、さかんに日本企業の TVCM に出てはたどたどしい日本語でいろいろしゃべらされていたような … 。ついでにみごと栄冠を勝ちとった少女聖歌隊員が、'Quite nice! ' と返答したのを受けて、アレッドが 'Quite nice ?! ' と突っこんでおりました。で、quite nice = very nice の意味じゃないということだけ、付記しておきます。「けっこういいわ!」くらいか。「けっこういい、だって ?! 」。それからこの子は、'Yeah, very good!' と言い直してました。

 今回、もっとも印象に残ったのは聖歌隊員の子たちもさることながら、ゲストのジョー・マケルダリーという若い歌い手さんでした。ゲストは審査員が審議中に歌を披露するわけなんですが、アゼリン・デビソンがカヴァーしたヴァージョンの「虹のかなたに」を歌いまして、これがなかなかいい! と個人的には思いました。このマケルダリーという方、 Wikipedia 記事によれば … まだ 20 歳 !! ピアノの北村さんとおない年なんだ! 最後に「今年の若き聖歌隊員」に選ばれた 2 名とともに「木枯らしの風吠えたけり」をいっしょに歌ってました。

 … 来週のこちらの番組、TOKYO-FM 少年合唱団が出演するということなので、いまから楽しみ。そして今日から、待降節 ( Advent ) がはじまる。教会暦も、今日からあたらしい一年がはじまることになります ( 念のためワタシは正式な信徒でもなんでもないが、自分の季節感が教会音楽好き、聖ブレンダン関連などなどでどうしても教会の暦を軸に動いているので、このような書き方になってしまいます。あしからず ) 。

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2011年03月27日

imslp.org も学生の作ったサイトだったんだ

 もうすこしはやく取り上げるはずだったこちらの記事。最近はここの「フリー楽譜アーカイヴ」サイトにお世話になることが多いのですが、このサイト、Facebook ではないけれど、創設者が当時19歳の中国系米国人の音楽院学生だったとは、はじめて知りました。

 ここのサイトも基本的にはWikipedia とおなじサイトテンプレートと運営方針を採用し、楽譜のスキャン取り込みから落丁がないかどうかという管理業務までほぼヴォランティア頼みの人海戦術、いまふうに言えばcrowd sourced で運営されているらしい。

 創設者はいまはハーヴァードで法律を学んでいるようですが、郎朗と同様、祖国にいたころは楽譜がほしくてもいかんせん絶対数が不足していて、思うように勉強できなかったようです。13歳のときに父親といっしょにバンクーバーに移住、一年飛び級で高校卒業後に米国最古の音大、ニューイングランド音楽院の作曲科に入学したというから、俊才なんですね。音楽のみならず、本人の弁によるとすこしばかり「PCオタク」でもあり、かつ法律関係も明るかった。というわけでいつでもどこでも、だれでも利用可能な楽譜の一大ライブラリーというアイディアを思いついたらしい(記念すべきアップロード第一号は、ベートーヴェンの「ピアノソナタ 第1番 ヘ短調 Op.2-1」だったらしい)。貧乏暮らしの音楽学生にとっては願ったりかなったりなこのサイトですが、発足後ほどなくして欧州に拠点を置く版元のUniversal Edition から著作権侵害で訴えられ、問題が解決するまでサイトをしばし閉鎖していたという。確実に版権の切れた譜面のみ掲載するためにすべての楽譜を精査しなおして、2008年6月にサイトを復帰させたといいます。

 デジタルアーカイヴ化で既存の版元ともっとも揉める項目はやはり著作権のこと。既存の版元から出ている「割高な」スコアはそれなりの理由があって高いのであって、これはこれでしかたないと思うし、たとえばグルダの「アリア」なんかはぜったいに買う必要がある。でも一愛好家がちょっとバッハのこれこれの作品のスコアを見たい、なんてときはべつに厳密な校合作業をするわけでもないので、19世紀のヴィルヘルム・ルスト編纂の版権切れスコアでもじゅうぶん用が足りる。Web 上の電子楽譜ライブラリー最大の利点はまさにここにあるわけで、電子書籍…にはいまだ抵抗のあるこちこちの石頭の自分もこのimslp.org サイトはとてもありがたい存在。記事でも版権関連で既存の版元とのいさかいを避ける目的で、'Project Petrucci' という会社組織を立ち上げて、imslp.org サイトはここの会社の所有ということになっている(なのでトップページは「ペトルッチ楽譜ライブラリー」となっている)。ユーザーはお目当ての楽譜をダウンロードするとき、かならず版権関連の「断り書き」を読まされる。あとはあなたの自己責任で、というわけ。↓

A disclaimer was made to appear before any score opens, saying that the project provides no guarantee that the work is in the public domain and demanding that users obey copyright law. The site operates from servers in Canada, where copyright law is generally looser.

“We cannot know the copyright laws of 200 countries around the world,” Mr. Guo said. “It is up to the downloader.”

 いまでもときおり版権にうるさい欧州の版元からクレームがつく場合があるようですが、現在24歳のEdward W. Guo 氏の態度はいたって明快(下線は引用者)。

He shows publishers little sympathy.

“In many cases these publishers are basically getting the revenue off of composers who are dead for a very long time,” Mr. Guo said. “The Internet has become the dominant form of communication. Copyright law needs to change with it. We want people to have access to this material to foster creativity. Personally I don’t feel pity for these publishers.”

Those who “cling to their old business model,” he added, will simply fade away.

こういうドライさ(matter-of-fact attitude)は、Facebook の創設者とも相通ずるところがあるかもしれない。もっとも本人はサイト運用で利益を得ようとはまったく考えてないらしいけれども。

 電子書籍…ですが、たとえば自分の所有する紙の本で、どうしてもこれだけはなくすわけにはいかない、というものだけ電子化(自炊??)して、Android 端末から読めるようにする、という手もなくはないかな…と、いつ大きな自然災害に見舞われるかわからない昨今の時世なので、ついそんなことを考えてしまった。そういえば以前、'My Play' というすごいサイトがあって、3GB まで自由に使える「ロッカー」スペースが与えられ、ユーザーは手持ちの音源を転送して「個人使用のみ」ストリーミングで楽しめるという太っ腹なサービスがあった(あいにく自分が参加して一年くらいでベルテルスマンに買収されてサービスは終了してしまったが)。もっとも自分のもってるブレンダン関連本なんて、電子化なんてこれっぽっちもされていない本ばっかなので、これはほとんど妄想に近い。また電子書籍関連では、けさの地元紙朝刊に、こんなおもしろそうな対談本の書評が載っていた。こちらも興味をそそられてしまうのであった(ちなみにiPhone 用有料アプリには、なんとバッハの主要作品のスコアをすべて見られるものまである!)。

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2011年03月21日

悲しい326年目

 21日は大バッハの326回目の誕生日。今日は雨降りの一日でした。以前ここでやはりバッハの誕生日にからめて「催花雨(さいかう)」について綴ったことがあったけれども、この春はなんとも悲しい催花雨の季節となってしまった。そしてびっくりしたのは、静岡地方気象台のソメイヨシノ標準木の花が5輪ほど咲いたため、同気象台から全国一はやい「桜開花宣言」まで発表されてしまったこと。原発も余震も収束してないし、当日にならないとまるでわからない計画停電さなかの開花宣言を耳にしても、虚ろに響くのみ。

 今回の大震災は869年の「貞観地震」と酷似している、と指摘する声があがっている。もしそれが事実だとすれば、じつに1142年ぶりに襲った揺れと大津波だったことになる。

 住む場所も肉親も着るものも食べるものも思い出のいっぱい詰まった「宝物」もなにもかも一瞬にして失ってしまうことは、東海地震の震源域に住む者にとってやはりことばを絶するものがある。人によっては「宝物」の内容は、自分みたいに音楽CD かもしれないし、家族の写真のアルバムかもしれない。そう、写真だ! 自分も記録の意味もこめて伊豆西海岸の風景写真とか撮影してきたから、全記録(ボツはいいとしても作品と言えるものだけでも)がすべて消滅するのは撮影者当人としてはかなり辛いものがある。と、こんなこと書いたら、大切な家族や親類を亡くされている被災者の方にたいしてはなはだ礼を逸したことになりかねないことはもちろん承知しているのですが、小心者なので、ふだんからそんなことを気にしていたりする(地元紙に掲載されていた、ペットボトルに水を入れて運ぶあの男の子の写真はほんとうに切なくなる。デジカメ全盛時代になっても、ルイス・ハインの写真とおなじく、写真には見る人の心を鷲掴みにするくらいの衝撃がいまだにあると信じている)。

 大自然の猛威を前に、とにかく人命第一なのは言うまでもない。あのおばあさんとお孫さんの高校生が9日ぶりに助け出されたという一報には、全国民が快哉を叫んだのではないでしょうか。でもいっぽうで、「海岸風景愛好家」からすれば、あの日本三景のひとつ松島の奇岩や島の一部が地震と大津波でかたちを変えた、つまり崩れた、崩落して永遠に消え去ったとの報道も同様に悲しく思う。松島湾で島めぐり観光船を営む船長さんのことばは胸にせまるものがある。「自然は元にもどせない。名勝が消え、悲しい」。

 三陸海岸はリアス式とよく言われる。今回の大規模地震で場所によっては1m 近くも「沈んだ」ようですが、行ったことはないけれど写真で見る「浄土ヶ浜」や「北山崎」あたりの海岸風景は文字どおり絶景で、あのへんはどうなってしまったのだろうと思ったりする。

 放射線に敏感な(?)欧米系メディアを見ると、震災というよりむしろ原発事故の報道ばかりが加熱している印象さえ受けますが、NYT も当然原発関連が連日のようにトップ。ふだん日本の記事なんかひと月に数本出るか出ないかなのに、津波の解説記事からプレート境界型地震のメカニズムまで、つぎからつぎへと掲載されている。そんななか、ハーヴァード大学で歴史を教える准教授先生の寄稿したこちらの回想は、個人的に心打たれる文章でした…。この先生は1990年代に現在の宮古市に滞在して地元の子どもたちを教えていた経験があるらしい。浄土ヶ浜と名付け親の霊鏡のことまで記述してあったり、生徒たちといっしょにハイキングに行き、そこで津波と戦ってきた住民の歴史を思い知らされたりといった回想がとつとつと綴られていますし、景勝のつづく美しい陸中海岸をこよなく愛していたんだなあということが読み手にもよく伝わってきます。それゆえ今回の震災に心を痛めていることも伝わってくる。とくに後半部分の、

Thousands of people are missing along this beautiful, injured coast, hundreds in the town that I called home. I am still waiting to hear from one of the groomsmen from my wedding, the owner of Miyako’s best coffee shop and a sometime reader of this newspaper. Google’s people-finder app tells me he is alive, but I have no idea where he is or how our other friends fared. As for those rambunctious boys and all of my other students, I can only hope for the best.

あたりはほんとうにいたたまれなく、切ない。

 また歴史の先生らしく、津波といった大自然の脅威の対抗措置として最新鋭の技術を投入してきたことについても触れていますが、東大と共同で進めてきた津波防災の取り組みについての言及は、他人事ではない。やはり自分の住む街の津波予想も見直したほうがよいのではないかという気がする。最近の天候もそうだけど、残念ながらもはや過去の経験則はあんまり当てにはならなくなってきている(と思う)。

The lines were drawn in the wrong place. Despite the substantial infrastructure and technological investments in Sanriku, the wave on March 11 overwhelmed large portions of Taro and Miyako. Some of the evacuation points were not high enough. The walls were not tall enough. And the costs are still being tallied(the lines = 津波マップに記載された最大波高津波到達予想ラインのこと).

 テクノロジーはたとえば安否確認の手段としてひじょうに有効だったりするけれど、いっぽうで福島の原発のような予想もつかない事態も引き起こす。テクノロジーの無批判な受容にはとんでもなく大きな代償がつくものだ、というふうに結んでいますが、たしかにそうですね…そういえば先日の地元紙に、「システム依存」がいかにこわいかについて記者が書いていたけれども、いざ停電ということになって、真っ暗闇の歩道に信号も灯らない交差点や横断歩道がいかにこわいものかを思い知った。ATM も使えない、電車も動かない、自家発電でもないかぎりなにも動かない(燃料があればの話)。当然電子レンジでチンもできないから、竹炭使用の七輪なんかも物置から引っ張り出した(けっこう暖かくて、暖房用としてもいいかも)。日本だけにとどまらないけれど、環境にやさしいとか口では言っても、それが生半可なことではないという事実をこんなかたちで思い知らされている自分がいる。これが将来の日本にとって、よい方向へと方向転換する機会になればよいがと願うのみ(NYT がいよいよ有料化するみたいです。月20本までは閲覧無料のようですが…姉妹紙のIHT はどうなのかな? BBC World News とかに鞍替えでもするか…)。

タグ:バッハ 松島
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2011年03月13日

大地鳴動の時代

 慄然、というか、ほんとうにことばもない。地震学者でさえまったく想定していなかったらしいから、完全な不意打ちだったということなのか。

 自分はそのときたまたま自宅にいて、すこし遅い昼食を終えたところだった。突然、「気まクラ」が流れていたラジカセから「緊急地震速報」がけたたましく割って入り、あ、また地震かくらいにしか思っていなかった。ところがいざ揺れがはじまったら、いつまでたってもおさまらない。おさまるどころかますますひどくなる。まるで荒海を航行する船にでも乗っているかのような、あのひじょうに気持ち悪い感覚に襲われた。たまたまNHKの国会中継も見ていたから、アナウンサーの「はげしく揺れていますッ!!」という絶叫も耳には入ったが、正直、頭が真っ白になって、国会中継がどうなったかなんてまるで記憶がない。混乱しつつテーブルの下に隠れたものの、いったいぜんたいなにが起きているのか、把握するのに時間がかかった。でもすくなくともこんな長い周期の揺れはいままで経験がないし、これはどこかで大きな地震が発生したにちがいないということだけは感じていた。

 東日本を突如、襲った今回の巨大地震。地震の規模は国内の観測史上最大のモーメント・マグニチュード 9.0 という、まったく予想だにしていないとてつもない破壊力をもった地震だった。この100年でも、M. 9 クラスの巨大地震は5回ほどしか発生していないから、世界でもまれな規模の地震だったといってもいい。東北沿岸に襲来したあの大津波の映像もショッキングだったけれども(高さ7mもある防潮堤さえ役には立たなかった)、なんといっても福島第一原子力発電所一号機建屋の外壁が吹っ飛んだ映像は心胆を寒からしめる、ひじょうに衝撃的な光景だった(核分裂反応の結果生じるセシウム137 が漏れ出た…らしいけれども、その後どうなったのか?)。

 今回は岩手・宮城・福島・茨城沖のプレート境界面がほぼ同時にずれ動いた「4連動型」だったという(3分近く揺れつづけたわけだ)。東海・東南海・南海の「3連動」と同等か、それ以上の巨大地震だというから、もう驚愕するほかない。そんなとき、『大地動乱の時代―地震学者は警告する』という1990年代に書かれた新書のことも思い出していた。まさに21世紀の日本は、まことに残念ながら、そんな時代へと突入してしまったのかもしれない。

 今後しばらくはM. 7 クラスの強い余震にもじゅうぶんな警戒が必要だし、長野県で起きたような「誘発型」内陸地震にも警戒しないといけないですね。「計画停電」の話についても、気にはなるが…。当然のことながら、NYT にも今回の震災福島第一原発の事故について報道がありましたが、米国地質調査所(USGS)によると、今回プレートがずれ動いた結果、東北日本が2.4m も移動したという(どちらの方角へ移動したのかは書いてないからわからいけれども、列島は西へ西へ押されているから西へ動いたのかもしれない)。自分もできるかぎりのことはするつもりですが、とにかくはやく収束するように祈るよりほかない。

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2011年01月29日

紙の楽譜も要らなくなる?? 

 以前、某PC雑誌にて、iPadのようなタブレット端末の使い方はいろいろあれど、バッハのころからちっとも変わってない「楽譜」としてもひじょうに有用なのではないか、というコラムを見ました。そういえば数年前、大画面のノートブックを特製の「譜面立て」に据え付け、フットペダルで「譜めくり」するという珍妙な仕掛け(contraption)が考案されて、どこかのオケかなんかでコンサートで試験的に使ってみたとかいう新聞記事も読んだ憶えがありますが、その後この手の話はとんと聞かないところをみると、やっぱり実用にはほど遠かったのかもしれない。

 でもデジカメ同様、この旧態依然たるクラシック音楽界でもついに(?)「楽譜のデジタル化、電子化」という時代の波が押し寄せてきた…のかもしれない。この記事で紹介されている「ボロメーオ弦楽四重奏団(The Borromeo String Quartet)」では、紙の楽譜の代わりにMacBook Pro を特製の「MacBook立て(?)」にデンと据えて、USBのフットコントローラ(80ドルくらいの品)経由で「譜めくり」し、さらにはプロジェクターでステージ後方のスクリーンに楽譜を大写しにしたりと、こちこちの石頭人間にはにわかには信じがたい演奏会を開いて、大盛況だという(チューナーもメトロノームも、すべてノートブックに入っているアプリが代役をこなす)。彼らのコンサートにはじめて来た聴衆はステージ上に4つのMacbook Pro(画面サイズ15 インチと17 インチの両機種) が用意され、真ん中へんに柄物の毛布で隠された配線類に驚くという(むりもないか)。クラリネットを吹くという記者も試してみたけれど、足で譜めくり、というのはタイミングがどうしてもズレてしまってやりにくかったようです(ついでにアンソニー・トマシーニという記者さんは、ピアノでバッハを弾く)。もっともこれにはそのときベートーヴェンの自筆譜(「弦楽四重奏曲 第9番 ハ長調 Op.59-3」、通称「ラズモフスキー 第3番」)をMacBook の画面に大写しにしていた、という事情もあるかと思う。ここの四重奏団は各自のパート譜ではなく、作曲家の書いた「スコア(総譜)」を見ながら演奏することにしているとか。

 こういう変わった慣行を最初に思いついたのは第1 ヴァイオリンのNicholas Kitchen 氏で、2002年、自分たちの全公演を可能なかぎり記録しようと思い立ったのがデジタル化への取り組みのそもそものきっかけだったようです。あれこれ試行錯誤しつつ、マイクや録音機材のセッティング術とかもすべて実地で身につけたらしい。

“I realized it was such a pity for so many of them not to be recorded,” he said.

Part of the motivation, quartet members said, is the powerful urge to grab onto and preserve those fleeting moments of great performances before a live audience. “For audience members it means a lot to have that memory of what they enjoyed so much,” Ms. Kim said.

もともと販売用だった公演録音ですが、最近ではこの録音作業じたいが徹底的に活用され、なんとプログラムすべてを一度録音したものをぜんぶ、「聴衆の立場になって」全員がひたすら黙って聴きとおすのだと。で、ここをああしたらいいとかこうしたらどうかとか意見を出しあい、本番では「最良の演奏」を提供するという。ここまでくるといやはやすごいもんですね。記事にもあるけれど、「弦楽四重奏」って究極の演奏形態じゃないですか。そしてもっとも保守的な分野でもある。1980年代後半にカーティス音楽院卒業生で結成されたこの四重奏団(名前は北イタリアのマッジョーレ湖に浮かぶ一連の島の名前に由来し、現在、ヴィオラ担当は邦人女性奏者)のデジタル志向には賛否両論あるみたいで、著名なエマーソン弦楽四重奏団ヴァイオリニスト、ユージン・ドラッカー氏はこんなふうに言っている。

But he called the Borromeo members pioneers. “I know they’re not the type of people to get swept up in the technology and forget to make music,” he added. “Probably more and more groups will be doing this as we go along.”

 楽譜の電子化というのも、こうしたボローメオ弦楽四重奏団の公演スタイルのある意味当然の帰結なのか? と思いきや、この着想はまったくちがった方面からやってきたという。

Mr. Kitchen decided he wanted to read his music from a full score − all four lines of the quartet together − rather than from his individual part. That requires many more page turns and makes the use of printed scores impractical.

「総譜」で演奏したい、そのためには紙の譜面じゃむりがある、というわけでたどりついたのが現在のスタイルだという。しかもこの「電子楽譜」というアイディア、なんと友人のピアニストから教示されたもので、その人はすでにおなじようなスタイルで演奏しているのだという。ピアノの譜面台にノートブックPC なんか、いったいどうやって置くんだろ? ひょっとしたらiPad なんかな?? あれだってもうちょっと軽くしないとね…背面が丸っこいのも危なっかしいといえば危なっかしいし。ピアニストといえば、

The quartet’s other pioneering work lies in its use of laptops as music readers. The technology has been around for a while. Several pianists, including Christopher O’Riley, the host of the public radio program “From the Top,” are regular practitioners. But the Borromeo is a rare ensemble that has adopted the laptop stands.

なんて記述もあります。オルガン弾きの場合は…どうなんでしょ?? 楽器じたいはコンビネーションストップとかも装備されてデジタル化は進んでいるといえるし、NHKホールの楽器かな、たしか演奏を録音する装置まで備えたオルガンまであるくらい。演奏台に造り付けになっている譜面台にiPad みたいな画面を埋めこんで、USBメモリーとかSDカードに入っている楽譜データを読み出して表示して、そいつを見ながら演奏する、譜めくり箇所は自動的にページ送りする、なんてのが万が一できるようになったら、…いっきに普及するかもね??? 

Now the members obtain scores from Web sites offering free editions, like imslp.org, PDF files provided by composers who write music with programs like Sibelius, and their own scanning. They bought advanced versions of Adobe Acrobat that allow annotations.

…ええっと老婆心ながら、ここの箇所は背景知識がないとうっかり誤読するところ(しばらく字面をニラんでいた自分…)。シベリウスっていうのは、「フィンランディア」の作曲者じゃなくて、譜面作成ソフトのこと(→日本版公式サイト)。最近の作曲家先生って、こんなんで曲を書いているんだ! そういえば以前、英国のメル友が弦楽合奏作品をコンペに出したとき、録音を聴いたワタシが楽譜がほしい! って言ったら「シベリウスもってる?」と訊いてきたのでなんのことやらさっぱりわからなかったことがありました。ほほうこれか、と思って価格を見たら…入門向け(?)の'Sibelius 6 First' でも、万札が飛ぶ(「通常版」は当然ながらもっと高い)。楽譜作成ソフトねぇ、こういうのは知っているけれど。ふつうにPDF にしてくれればよいような気も…しないわけではないですが。

 紙の楽譜…手許に「フーガの技法」とか「音楽の捧げもの」とかあるけれども、最近、マイナーなバッハのオルガン曲はもっぱらここを利用してDL して利用している自分がいる。MacBook Pro で譜面を見ながら演奏…というのはスマートフォンとおんなじであるていどは「慣れ」の問題かもしれない。でもこの前、家電量販店にていじくった某タブレット端末で電子書籍を「立ち読み」してみたけれど、どうも「すわり」が悪い。ネタにしたNYT の元記事だって、いちいちプリントアウトして鉛筆で線引きながらこのへんを書こうかなとかいまだにアナログな作業をしているし。「電子ペーパー」型の端末でも同様に立ち読みしたけれど、思っていた以上に「白黒反転」が気になって、ああじっくり読みにはまだまだ紙の本にかぎるわとひとりごちたのでした。PC 画面で新聞・雑誌を斜め読みするくらいなら抵抗はないが、『親鸞』なんかはやっぱりムリ。新聞紙面の連載を読むほうがよっぽど理解も速いし、すんなり読める。画面経由の読書って、あんがいアタマには残らないのではないかという気がする。知らず知らずのうちに読み方が雑になって、読んだ気になっただけになるんじゃないかって気がしますね。と、けっきょく電子書籍批判になってしまった(現状ではまだまだ発展途上だという印象)。なんでもかんでも電子化、というのもどうかと思うころごろなんですが、デシタル化先進国の米国では、なんと国税の納税をiPhone 経由でおこなうアプリまで登場…もはやとどまるところを知らない、「効率原理主義」。こういう話を耳にすると、心配性なワタシなんか、ついセキュリティはどうなの? と突っこみたくなる。そうそう、Android ユーザーの方はこんな話も出てきたので、いよいよ注意が必要かと。

<追記> 記事を読んで、バッハのオルガン曲「パッサカリア ハ短調 BWV.582」の弦楽四重奏編曲(!!)というものがあることを寡聞にしてはじめて知った。というわけで、こちらにも動画を貼っておくことにします。↓



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2010年10月24日

大家さん、なんとかして(泣)!

 本題に入る前に…

大家(さくらインターネット)さん、ブログソフトウェアの更新…だかなんだかでまる一日、機能停止…していたのはいいけど、ガラリと一新されたブログ作成画面はまだいいとして、Firefox 3.6では記事を書こうにも書けません(↓参照)!!! 投稿はいつもFirefoxからなので、IE8でのみ投稿フォームが正しく表示される…というのでは困るんですわ。なんでって? IE8はたしかに使い勝手はそこそこよしとしても、どういうわけかなんも反応しなくなって、タスクマネージャからkillしなくてはならない場面がたびたび発生します。当方、長々と管を巻く書き方しかできないので(苦笑)、はっきりいってIE8は信用できない。Firefoxは万一、落ちてもタブが確実に復元できる。IE8が落ちたときはアテにならないから、タブの復元はしない。なのでFirefoxから記事が書けないというのは、当方に記事を書くなと言っているようなもの。そろそろヤドカリよろしく、お引っ越しの時期ですかね(この記事はメール投稿で書いてます)…。

1). まずはこれ。ついこの前(?)、絵本についてちょこっと書いたばかりですが、「電子書籍」先進国・米国ではなんと乳幼児の「絵本離れ」が進行中だという!! 経済危機で相対的に本の売り上げが落ちた、という事情もあるものの、絵本の販売不振にいちばん影響をあたえたのは2002年に施行されたUS Public Law 107-110(No Child Left Behind Act)'、通称「落ちこぼれ防止法」なる法律らしい。全国一律規格のテストが全米の小・中学校に課されるようになり、教師の質の向上、という点では一定の効果はあげているみたいですが、反面この試験の成績の芳しくない学校は閉校(!)させられたりと、いろいろ問題になっているようです。というわけで、となりのジョーンズさんちの子どもが気になるごくごくふつうの親御さんたちは、就学年齢前のわが子に向かって、絵ばっかの薄っぺらい本をいつまでも見てるんじゃありません、さっさと「文字ばっかの」ご本を読みなさい! となり、そのとばっちりを喰らったかっこうで書店での絵本の売り上げは年々、右肩下がりだという記事です。Scholastic社でも過去3年、ハードカバー絵本の刊行点数を5 - 10%ほど減らしているとか、Simon & Schuster社でも数年前は子ども向けに刊行された本の35%を占めていた絵本が、いまは20%台に落ちているとか。

 絵本、とくると、日本ではどちらかというと情操教育という側面が強いという印象をもってますが、海の向こうではロングセラーのDr. Seuss シリーズとかは、どちらかというと「セサミストリート」的ことばの教育という側面が強い、という気がします。絵本イコールことばを幼児に教えこませる道具、という偏重した見方が強いと、いきおい絵本のもつほんとうの価値云々には目もくれず、本人はまだ読みたくもない活字の本を親がせかせるという悪循環が起こっているのではないかとも思う(記事後半にそんな話が出てくる)。絵本界では名の売れたロングセラー作家でさえ、この状況を憂慮しているという。で、本屋さんもなんとか絵本の売り上げを伸ばそうと必死です(
Borders もB & Nと同様、米国の大手本屋チェーン。下線強調は引用者)。

Borders, noticing the sluggish sales, has tried to encourage publishers to lower the list prices, which can be as high as $18. Mary Amicucci, the vice president of children’s books for Barnes & Noble, said sales began a slow, steady decline about a year ago. Since then, the stores have rearranged display space so that some picture books are enticingly paired with toys and games.

 でも三島市の姉妹都市・加州パサディナ市の本屋さんのバイヤー氏に言わせれば、絵本には活字本にはない魅力があるという。

“Some of the vocabulary in a picture book is much more challenging than in a chapter book,” said Kris Vreeland, a book buyer for Vroman’s bookstore in Pasadena, Calif., where sales of picture books have been down. “The words themselves, and the concepts, can be very sophisticated in a picture book.”

 自分から進んで読みたいのならともかく、むりやり活字本を読まされてもまた居心地のよい絵本のほうがいいという子どもたちの反応は、しごく当然のこと。絵本に拘泥するわけではないし、統一テストの成績が…と心配される親御さんの気持ちもわからなくもないが、「これが読みたい!」という子どもの意思をなにより尊重し、またそういう機会を作ってやることが大切なんじゃないかと、しがない門外漢はこの記事読んでつくづく思うのでした。幼児期の読書体験って、あなどってはいかんです。将来まっとうな大人になるのかどうか…は、案外、この短いひとときの読書体験にかかっていたりする。

2). つぎは絵本、ではなく活字の物語についての含蓄の深いコラムを。「翻訳」というプロセスは、ただたんに自作小説が外国の読者にも読んでもらえるようにするための言語変換作業にとどまらず、じつは当の小説そのものを創作している作者自身もまた「翻訳者」であり、かつ最終的にその作品を手に取る読者もまた「翻訳」という一連の営為に参加しているのだ、ということを述べたもの。この記事書いた人は『めぐりあう時間たち』の作者、マイケル・カニンガム氏(すいません、まだ読んでなくて)。

 長年、自作の翻訳者との共同作業を通じて感じたこと、また自身が物書きとして自立していく過程で「小説を書くとはどういうことか」について感じたことなども綴ったこのコラム、翻訳というものをすこしでも経験したことのある人ならば、全文を読まれて「なるほどねぇ」と頷かれる向きも多いのではないかと思います。

 小説家の視点から書かれているので、やや卓抜な比喩(?)をもちいて「小説の書き方」指南とも受け取れる箇所もあって興味がそそられます。たとえば書き出しについて。メルヴィルの名作『白鯨』の冒頭部の科白、'Call me Ishmael.' を引き合いに出し、いまやりかけのことすべてを中断させて「これを読め!」というだけの権威というか力が必要。とはいえたとえば'Idiot, read this.' なんてのは「力」はあるがこんなんで読み手は惹きつけられない。力だけではなく耳に心地よい「音楽」ないし「響き」がないとダメだ。イタリア語訳『白鯨』の冒頭部も引いて、翻訳者はただ字面の意味のみ移せばこと足れりとするのではなくて、作者が読者を引きずりこむ「響きのよさ」をも自国語で再現するように、と求めている(とはいえ…印欧語族どうしならともかく、日本語で同等の効果を狙うのはしんどいところ。ちなみに講談社文庫版では「イシュメール、これをおれの名としておこう」になっている。たしかに読み手を引きこむ「力」は感じられますね)。

 翻訳というのは、じつは書き手の心のなかですでにはじまっている。カニンガム氏いわく、書き手は心のうちにある「地球上の人間について知っているかぎりのすべて」をなんとかことばの建築として表現しようと頭をかきむしって最善を尽くすが、格闘の末にできあがった原稿はとうてい心のなかにあるこの上なくすばらしいイメージの等価物たりえないもの。心のなかにある「炎の大聖堂」とは、似て非なるものだ。こうしてできあがった作品じたいが作者の心的イメージの「翻訳」であり、それを文字どおり他言語へ置換する翻訳者は、「翻訳の翻訳」をおこなっているのだ――自分の目の前の「原文」一字一句と格闘しながら。

The translator, then, is simply moving the book another step along the
translation continuum. The translator is translating a translation.

 この過程の最終段階に読者がいる。ほかの芸術分野――映画とか舞台とか絵画とか歌とか――は、みんなが見る/聴くのはおんなじ対象物の作品にほかならないけれども、紙の上に文字のみで表現された文学はちがう。文学は、ふたりとしてまったく同一の作品を読むということはない。読み手が受け取るイメージはそれぞれにまるで異なる。ぼくのなかにあるドン・キホーテやアンナ・カレーニナ、ハックルベリー・フィンのイメージは、ほかの読み手のイメージとまったくおなじ、なんてことはけっしてない。『罪と罰』にしろ、自分が読んで受けた印象とミステリ好きの女性読者が読んで受ける印象は、同一の作品を読んだとは思えないほどの差がある。文学というのはそういう性質の芸術だ。読者もこの一連の「翻訳」に最後に参加し、やはり作者の味わったのと似たような挫折感も味わったりする。けれどもこの一連のプロセスにあるのは絶望ではなく次作にたいする期待感ないしは高揚感。当の小説を書いているほうも、それが慰めになる。つぎはもっとよくなる、もっと大胆に、もっと普遍的に人間の営みに迫った作品が書けるという消えることのない確信。こういう完璧さを求める芸術の旅路は言わば「聖杯」探求よろしく、けっしてかなえられることのない高望みにすぎないかもしれないが、人間というのはそれゆえ物語の書き手になり、翻訳者になり、読み手になり、そしてまた物語の「主題」ともなるのだ…以上、自分のなけなしのアタマで感じたカニンガムさんの主張を書き出してみました(translationという語は、たとえばこの前のBBC Radio3の Choral Evensong 放送リストに'From Lincoln Cathedral on the Feast of the Translation of St Hugh of Lincoln.' なんて書いてありましたが、こちらは「聖遺物の移動」という意味。translateもtransfer とおなじラテン語から派生した語だから、本来の用法と言えるかも)。

 翻訳という観点では、

Here, then, is the full process of translation. At one point we have a writer in a room, struggling to approximate the impossible vision that hovers over his head. He finishes it, with misgivings. Some time later we have a translator struggling to approximate the vision, not to mention the particulars of language and voice, of the text that lies before him. He does the best he can, but is never satisfied. And then, finally, we have the reader. The reader is the least tortured of this trio, but the reader too may very well feel that he is missing something in the book, that through sheer ineptitude he is failing to be a proper vessel for the book's overarching vision.

という下線部がまったくもってそのとおり。どんな名訳だって欠点はある。『聖ブレンダンの航海』について言えば、セルマー校訂版ラテン語原本およびアランソン写本版を素人なりに検討していたとき、Webの海に転がっているものから英訳の決定版と定評のあるジョン・オメイラ本まで入手できるかぎりの英訳を徹底的に突きあわせたことがあり、思えば自分にとっての翻訳学校だったような気がします。オメイラ訳にも「訳抜け(?)」もしくは誤訳(?)という箇所はあったし、ここはこっちの人の訳のほうがいいかなとかいろいろな発見があり、いろいろと勉強になりました。よく言われることですが、翻訳というのはおんなじ原本でも100人いれば100通りの訳ができあがるもの。だから翻訳はおもしろい。だから翻訳はこわいし、むつかしい。でもここでひるんでいては、先には進まず。とりあえず「一歩」を踏み出すことって大事ですよね。翻訳にかぎらず、何事もそうですよね。まずはやってみることです。なにか書きたいことがあって、いつもモヤモヤしている…そんな人は、とにかく書きだしてみることです。「リトル・チャロ」に出てきた表現も借りれば、There's no looking back ; just go for it!! 

 ところで電子書籍ないし電子出版というのは、まさにそんな人にとっては理想的な手段かもしれない。せんだって見た「クローズアップ現代」でもそんな話が取り上げられていて、たとえばシアトル在住のNASAやMS社などに勤めていたというボイド・モリソンなる書き手の例が出てきました。この人、小説家になることが長年の夢だったようで、処女作の The Ark を出版社に売りこんだものの、いつも返事はツレないものばかり。たどりついたのがAmazonのKindle版電子出版。これでなんとジャスティン・ビーバーよろしく大ブレイク ! ちなみにこの人は博士号ももち、特許も取り、俳優としても活躍しているというからすげー才人と見た。作品名にもなっている Ark は、聖櫃のほうじゃなくて、箱船のほうらしい。さっそく興味を惹かれたワタシは次作の Rogue Wave の紹介文とか見たのですが、大津波ものらしい…災害ものなら『再びの砂地獄』とかは読んでみたいと思うけれども、東海地震の震源の駿河湾にまともに向きあって暮らしているこちとらとしてはどうかなあ…ま、読んでみなければ、わかりませんけれどもね。いずれにしても大家さん、はやくFirefoxでも投稿できるように表示のバグを直してくださいませ!

unmanageable.PNG



ちょっと追記:いま、「3か月トピック英会話」では「聴く読むわかる! 英文学の名作名場面」と題するすこぶるおもしろい、かつためになる番組を放映しています! この前はじめて見て、もっと早く見ていればよかったと後悔した。自分が見たのはディケンズの『オリヴァー・トゥイスト』の'Please, Sir, I want some more.' という科白の回。孤児院でひもじい思いをしてぶっ倒れそうなオリヴァー少年。貧弱な食事に耐えかねた仲間に突き出され、ふくよかな院長先生に向かって、「もっとおくれよ!」となかば自暴自棄になって要求している場面なんですが、このオリヴァーの科白がそんなに有名だとは寡聞にして知らなかった。なにかの機会があったら使ってみようかしら。おそらく言われた相手はムッとくるでしょうけれども(性格の悪い人)。

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2010年10月03日

紙で読むか画面で読むか

 米国版Harry Potter の版元であるスコラスティック社が、今年の春に実施したという調査結果をまとめたという記事。その調査とは、子どもたちと電子書籍にかんするもの。調査対象となったのは6-17歳の子ども2000 人と、その親御さん。

 電子書籍…じたいは10年くらい前からあったけれども、もっぱら「辞書・事典」のたぐいの「電子化」にとどまっていたと思う。さらにその前には「電子ブック」という名で 8cmCD の収録データを読ませて液晶画面 ―― いまの携帯電話の高精細な画面を見慣れている世代からは想像もできないほど見にくくて貧弱な画面 ―― に表示させて読むタイプとかはあったにはあったけれども、早晩姿を消してゆきましたね。でも技術の進歩とはげにおそろしきかなで、米国 Amazon が Kindle (松明のイメージでこんなネーミングにしたのかな?? ) なる新型電子ブックリーダーを市場に投入してからは、同社の擁する豊富な電子本タイトルとともに爆発的に売れだし、ついで今年に入って例の iPad がさらに書籍の電子化の流れを加速させた感がある。

 そんな「電子書籍先進国」の米国の子どもたちの読書環境ってどうなんだろうか、と気になる調査結果ですが、たとえば電子書籍版で本を読みたい子どもは多い (当然か) けれども、そのうち3分の2 は紙に印刷された従来の「本」という体裁も捨てたくない、といいます。なんかちょっとほっとした感じ。でも調査対象の親御さんで電子ブックリーダーなどの端末をもっている人は6%にすぎないけれども、来年、わが子に電子ブックリーダーを買ってやりたいと考えている親御さんの割合は16% 、パソコンも含めて電子媒体で本を読んだことのある子どもの割合は25%、つまり調査対象の4分の1 の児童生徒が電子書籍版で読んでいるということになる。そしてまだこうした機器をもってない 9-17 歳の子どもたちのじつに57% が、電子書籍版での読書体験に興味津々だという。… こうなると子ども向け本の版元としてもうかうかうしていられない。なんとかしなければ! もちろん、紙の本ではなくて、もっともっと電子化を進めなくては! 

 かつてデジカメなるものを懐疑の目で見ていた自分が、いまやほぼなんの抵抗もなくコンパクトデジカメで撮ったりしているけれども、とうとう単行本・文庫本の世界までわざわざこんな機械を買い、電池を買ってまでして読むことになるのかなあ … というのが正直な気持ちです。写真については、もちろんいまでもリヴァーサル派。とはいえすっかり撮る回数も減ってしまった。辞書? 電子辞書というものの黎明期に登場した『リーダーズ(初版のほうね)』も、万札数枚はたいて買ったりした口だから、こと辞書にかんしてはわりとあっさり電子辞書に移行してしまって、紙の体裁にたいするこだわりとか未練とかはとくになかった (O.E.D. とか、図書館にしかない大型辞書のたぐいはべつ) 。でもさすがに単行本まで「機械」経由で読むのには、つよい抵抗がある。

 子どもの読書体験にかぎって言えば、紙の絵本、美しい装丁の物語、カラフルな図鑑のたぐいはアタマに働きかけるという点では変わりはないかもしれないが、情操に働きかける力という点ではたとえば絵本のたぐいはきょくりょく電子化は避けるべきではないのか、と思う。 iPad の国内発売がはじまったとき、たまたま見た「週刊 子どもニュース」で、その現物が出てきまして、画面には『不思議の国のアリス』の冒頭部分が表示されていた。ウサギのもっている懐中時計が端末を傾けると傾きにあわせてゆらーりゆらーりと swing するのを見て、出演していた子どもたちが触らせて! やらせて! と盛りあがってました。… それを見たとき、ああ、これって本というより「電子紙芝居」だな、と感じた。情操、とくに想像力に深く働きかける絵本のたぐいは、とくに電子化しにくいと考える。なんでもかんでも電子本にしてしまえばいいという発想はやはりまずいと思う。

 番組では iPad も Kindle も「電子ブックリーダー」として一様に扱っていたけれども、iPadはなんでもできるパソコンに近い汎用機で、「本」は一部機能でしかない。なんでも液晶がLEDで光っているそうで、しかもこれがたいへん眩しくて、人によっては睡眠障害を起こしている人もいるらしい。ちなみに買ったばっかのDesire(X06HT)の有機EL液晶もいまこれ書いてるノートブックより格段に明るくて、これくらい明るければカラースライドをチェックするときに使う「あんどん(ライトボックスのこと)」代わりになるんじゃないかしらと感じているほど(笑)。NYT のウィジェットを入れてあるから最近はもっぱらこれでめぼしいのを拾い読みしていますが、フォントは大きさを自由に変えられるしフォントの形状も気に入っているのでたしかに読みやすいけれども、ときおり眩しさは感じます(そんなには気にならないとはいえ)。たいするKindleは、「電子ペーパー」と「電子インク」で表示しているので、バッテリがなくても表示されるし、反射光で読むものなので、紙の本にきわめて近い。Wired だったか、Appleの中の人が出てきて Kindle のことを批判していた記事を見たことがあるけれども、iPadとKindleどっちがほしいかと訊かれたら迷わず後者をとると思う(まだ現物を見たこともいじったこともないけれども)。それでもやっぱり紙の本は捨てられない。 Kindle DX は3000 冊分の書籍が入っちゃうらしい。… でもこれって死ぬまで読む本の総量をはるかに超えているような…気がする。

 以前NYTにiPodにかんするコラムがあって、所有している音源の全ライブラリをたった一台の iPod に入れて持ち歩いている友人のことを書いていた人がいた。電子書籍(とリーダー端末)は、それに似ている。… すくなくとも宝くじかなんかが当たって数年、世界旅行でもしながら遊べるのであれば数千冊分の書庫を持ち歩くのはなるほどすばらしいとは思うけれども、何千曲の楽曲を持ち歩くのと同様、あまり意味がないかもしれない。

 調査結果にもどって、最後はこんなことがさりげなく書いてあります (下線は引用者) 。

The report also suggested that many children displayed an alarmingly high level of trust in information available on the Internet: 39 percent of children ages 9 to 17 said the information they found online was “always correct.”

これにかんして読者コメントをのぞいてみると、

How does this compare to those who think the same about tabloids and who uncritically acceptable from mainstream (it irks me to include Fox “News” in this) media?"
Perhaps they limit their online reading to the NY Times, and the reader comments?

「一億総白痴」…とかってことば、思い出しました。いまはあんまり流行らないけれども。自分が子どもだった時分はTVがそうでしたね。あとゲームかな (ファミコンじゃなくて、インヴェーダー…歳がバレますな) 。最近の若い人は新聞のみならず、TVも見ないそうですよ (NHK教育は見てよいと思う。そしてNHK のラジオ放送はもっとよく聴くべし) 。インターネットも気がつけばPC ではなくて、モバイル端末からのアクセスが主流になりつつあり、ある調査によると2年ほど前から世界のネット利用はスマートフォンがPC を逆転したそうです。自分もじっさいに使ってみて、たしかにこりゃ便利だ、じつによくできていると感心したり。でも以前、「叡智の禁書図書館」ブログのalice-room さんとメールのやりとりをしたときに、alice-room さんはこう書いてました。「人は安きに流れ、低きに流れる、というのをまさに地でいっている感じがします」。この一文を見たとき、瞬時に100年以上前、1899年のベルリンで当時24歳だったシュヴァイツァー博士が聞いたとされるある警句がその応答となって頭に響いた。「けっきょく、われわれはみな亜流者 (Epigonen) にすぎないのではないか? 」。これは現代文明というものは一般に思われているほど「進歩」しているわけでなくて、過去の文明遺産にただ依り頼み、惰眠をむさぼっているだけなのではないかという指摘だったようですが、我が身も含めて顧みればいまだにヒトというのはそんなもんかもしれないなあ、としみじみ考えさせられたのでした。… むしろ退化? しているような気が…してならないのです。電子黒板? すくなくとも小中学校にそんなもんいらんのでは? 地デジとおんなじで、体裁のいいこと言ってたんにそろばんを弾いているだけなんじゃないの? iPad みたいな「スマートデヴァイス」を教育利用するんなら、大学教育とか高等教育機関にかぎったほうがいいと思う。子どもにそんなもん必要ないのでは? 鉛筆と箸の正しい持ち方を教えることのほうが大切では? この件に関して以前、地元紙に柳田邦男氏が某携帯キャリア社長氏を痛烈に批判していたけれども、しごく正論だと思う (と言いながらそこのキャリア利用者です…といっても西伊豆地域での3G 回線の貧弱さには閉口した[苦笑]。ふだんはWi-Fi でつないでいるからべつにいいけど) 。そうそう、地元紙の日曜版の書評欄にもいい連載(「読んでくれますか?」)がありまして、この前の落合恵子さんの記事はよかったなあ! 詩人の長田弘氏の『詩ふたつ』という詩集のことを書いたもので、読んでいて泣けてきましたよ。詩集なんかも、絵本とならんでもっとも「電子化」しにくいジャンルだと思います。詩は「うた」で、魂の声、渾身の絶唱そのものじゃないですか。こういうものこそ unplugged、unwired の紙の本でなくては…とくに「喪失」という重い主題の詩集ならなおさらそう感じますよ。

 …そういえばけさの「読んでくれますか?」に登場したヨーコ・ゼッターランドさんからもとっておきのひと言をいただきました。'What goes around comes around.' 、「自分のしたことは自分に回ってくる」。

* … 私信からの引用について、事前にalice-room さんから承諾を得ています。

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2010年09月27日

Saito Kinen Festivalと…

…いつも切羽詰って記事のごった煮状態になってしまいますね…。

 ひとつ目は「サイトウ・キネン・フェスティバル 松本」を聴いた記者の演奏会評…なんですが、ところどころに指揮者小澤征爾氏に代表される日本のクラシック音楽の将来についても――ややおせっかいな気もするが――言及した記事。これとはべつに小澤氏本人に取材した記事もあります。最近ではたとえば郎朗(ラン・ラン)など、中国勢の活躍著しいものがありますが、日本ではそれよりずっと前から西洋音楽教育が実践されており、記事にもあるとおり西洋音楽にたいする傾倒という点ではかの国よりは長い歴史があります(恥ずかしながら、「スズキメソード」が米国ではひじょうに普及しているということを記事見るまで知らなかった)。半世紀以上もの長きにわたって米国で活躍してきた小澤氏は、米国人にとっては日本人音楽家のいわば代表格と言っていいでしょう(おなじ音楽といっても畑がちがえばまた連想される人もちがってきますが)。欧米の基準からすると松本のこの世界的にも有名な音楽祭はややちんまりしていて、記者氏が音楽祭のはじまった週に聴けたのは急遽代役として登場した下野竜也氏によるいくつかのオケ公演と、「ヘンゼルとグレーテル」からの抜粋公演のみだったらしいですが、総じて高評価。とりわけ「小澤征爾音楽塾」の若い演奏家たちがすばらしかったといいます。とはいえ音楽祭から委嘱されたという権代敦彦氏のDecathexisというのは、また難解な曲名ですね(汗)…。「カテクシス」っていう清新状態とは反対の状態を言う精神分析用語らしいですが、いったいどんな作品なんでしょうかね…。将来を嘱望される若い演奏家については、

And the uniform excellence of the youth orchestra gave further promise of a brighter future for Japanese orchestral excellence across the board.

と書いてはいますが、小澤氏ほどの大物の出現についてはメジャーレーベルの上級副社長氏の意見を引き合いに出し、

“There’s nobody that has his profile yet,” said Costa Pilavachi, the senior vice president for classical artists and repertory of Universal Classics and an artistic adviser to Mr. Ozawa. “But a lot have a following in Japan who are just not known outside Japan.”
Certainly Mr. Shimono made great strides last week in his most significant engagement to date, though so far he lacks the dynamism and charisma that Mr. Ozawa had even as a raw youth.

とか書いてあります。もっとも小澤氏のような人物は、例外的ではないかとも思うが…。みんながみんなun-Japanese relish な持ち主というわけにはいかないしね。ひるがえって当の西洋では自分たちの音楽を、とは言わないまでも音楽教育をないがしろにしている現状では、中国や日本といった東アジアの音楽家の存在なしでは西洋音楽そのものが危ういのではないか、という危機感(?)をもって結んでいますが…そんなに向こうってお寒い現状なのかな? お寒いのはこちらでもおんなじような気がしますけれどもね。ちなみに記事中、「チャロ 2」の今月のテキストにも載っていた、'in more ways than one' というフレーズも出てきます、あんまり関係ないですが(Yet the heart of the festival, in more ways than one, is the Saito Kinen Orchestra.)。

 …ここからまた雑談。先日、地元紙に論評記事を連載している経済学者先生がいるのですが、この先生はことあるごとにNYT記事を引用して、たまにはForeign Affairs Report とかも引いてくれればいいのにとか思ったりする。それはそうと、もうひとりの有名な小沢氏について書かれた12日付けの記事というのを紹介してました。以下引用すると、

 9月12日付NYタイムズ紙は「小沢氏の政治力こそ日本が必要とするものか」の署名入りの論評を出した。…然しながらネット上の人気投票では小沢氏が逆に4対1でリードしている。つまり代表選は接戦でその勝敗は最後まで見通しがつかない。「だが人気だけで首相を選んできた日本の政治に剛腕で未知の力をとり入れる必要があるのではないか」、と結んでいる。

というのは、この記事のことなんだろうか…。で、当の記事の結びを見ますと

Ultimately, political experts say, the biggest concern about Mr. Ozawa is that he keeps his cards so close to his chest that it is not clear what he really stands for, beyond broad pledges of political change. This leads some to worry that if he does become prime minister, he will just end up remaking the Democrats in the image of a traditional, Liberal Democrat-style political machine.

“He will go down in history as the hero who destroyed the L.D.P.,” said Jiro Yamaguchi, a professor of politics at Hokkaido University who has worked with Mr. Ozawa. “But will he just try to replace it with new one-party rule by the Democratic Party?”

??? …いったいどこにそんな文言が書かれてあるのだろうか…「ネット上の人気投票」の箇所は、

Public opinion appears split, perhaps along generational lines. Recent polls in major newspapers show that voters support Mr. Kan by a ratio of four to one, but online questionnaires at news sites, which may reach younger people, show Mr. Ozawa ahead by the same ratio.

ちなみにNY大学名誉教授を務めるこの先生、昨年暮れに亡くなったポール・サミュエルソン教授の親しい友人でもあったらしい(そう書いていた)。そしてquestionnaires も人気投票というより、ふつうにネット上のアンケート調査だと思う。大新聞の世論調査とネット上の調査で差が出たのは、世代間のミゾによるところがあるのではないか、と言っている。個人的には、一般市民と赤絨毯の住人とのあいだとの意識のズレのほうがよっぽどmatter of concern, something grave だと思うぞ。国内ではむしろこっちの社説のほうが有名になった感ありですが、結びの'Revolving-door leaders with constantly shifting agendas are not in Japan’s interest ― or the rest of the world’s.' というのは、まったくそのとおりですな。

 脱線ついでに、いまさっき地元紙夕刊にて見つけたこちらの話題も。なに、マニ教の絵図がなんとなんと日本国内にあったって?! 記事によると、あのマルコ・ポーロも『東方見聞録』で「少し変わったキリスト教徒」の存在を確認しているですって! 福建省にはマニ教の寺院跡まで残っているんだそうな。ということはこの古代宗教、太平洋近くまで東進していたことになる。かの地ではこの「変わった」宗教が細々とではあるけれども14世紀くらいまで生き延びていたことになりますね。とにかく二重三重にびっくりしたニュースでした。

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2010年09月11日

モーツァルトの死因研究に演奏会二題

1). まずはこちらから。引退した整形外科医にして書誌学者、ノースウェスタン大学医学部の名誉教授でもあるウィリアム・ドーソン博士という人が、モーツァルトの死因としてこれまで考えられてきた諸説のうち、Performing Arts Medical Associationという組織のデータベースに収録されている136件について、そのほとんどを調べあげた結果をこのほど同協会の発行する機関誌に発表したんだそうです。それによるとモーツァルトの死因についてもっとも古い推察記事は、作曲家の死亡した1791年12月5日から1か月と経たないうちにはやくも登場しているのだとか。モーツァルトは当時のヴィーン郊外にあった共同墓地になんの標識もなく埋葬され、その後の墓地整備などで亡骸は散逸してしまったようです(この点、まだバッハのほうがましだった)。というわけなので、以後、この大作曲家の死因についてもじつにさまざまな説が乱れ飛ぶことになる――シュテファン教会の公式記録では「急性粟粒熱」ということにはなっているけれども、耳の奇形からして「腎不全」ではなかったのかだの、「リューマチ熱」、いや「細菌性心内膜炎」だったのではないかだの、「連鎖球菌性敗血症」か、いやそれとも「尿毒症」だったのではないかだの、それこそ病名のオンパレード。これまで学者たちが立ててきた「死因」の数は、当の本人もおどろく118(!)にものぼるという。

 ドーソン博士の研究結果はこれらさまざまな死因仮説を批判的に俯瞰しようとする試みですが、これがはじめての試みというわけでもなくて、118という死因の数も、1998年に仏人内科医の発表した論文からの引用だという。

 博士自身は、これらモーツァルトの死因についての諸説をおおまかに5つのグループに分類しています。1. 毒殺説 2. 感染症説 3. 心血管機能不全 4. 腎臓疾患 5. その他。ちなみにぐぐったら、くだんの仏人内科医への反論として、「Henoch-Schönlein紫斑病」なるアレルギー性血管障害を疑う論文を見つけた。NYT記事にもまるで耳馴染みのないこの病名が死因候補として出てくる。やはり腎臓疾患の原因になるようで、「とどめの一撃」として脳内出血や肺炎も誘発することがあるという。また今年のはじめには、ベートーヴェンの頭蓋骨の破片(と言われているもの)を鑑定した結果、有力視されてきた「鉛中毒」説を疑問視する結果になった、なんて話まで載っています。

 この記事にかんしては以前のラーメンの話と同様、全訳を掲載しているブログがありまして、参考までに紹介しておきます。いずれにしても一有名作曲家の死因について、ここまで研究者が夢中になるのはなぜなんだろう…やはりわれわれはhuman interestものが好きなんだなあと思ったのもまた事実。ちなみにお医者さんには楽器もたしなむ人も多いらしい。ドーソン博士自身、現役の名ファゴット吹きなんだとか。

2). つぎはNY在住の日本人ピアニスト、木川貴幸氏(米国ではTaka Kigawaという名で通しているらしい)による先月23日のリサイタル評Le Poisson Rougeという酒の飲めるライヴハウス(?)みたいな店で開かれたというのもびっくりだが、リゲティ(「ピアノ練習曲集 第2巻」終曲の「悪魔の階段」)、ブーレーズ、トリスタン・ミュライユといった現代作品中心のプログラムに、なんとバッハの「フーガの技法」からの抜粋も組みこまれているというからさらにびっくり! 演奏者いわく、バッハのこの作品は「すべての作曲家の立つ共通の土台」だという。

In his comments between works, Mr. Kigawa mentioned that the Bach was the common ground on which all the other composers stood, in the sense that they all studied “The Art of Fugue” at some point in their compositional journeys. You wanted to believe him: his performance of the Contrapunctus 1 was sensitive and deeply considered, with its individual lines painted in subtle gradations of color and weight, and the Contrapunctus 14 had a dark hue and a deeply melancholy spirit that seemed to prefigure the fugue’s sudden ending, where Bach left it incomplete.

記者によると、ここの店で開かれるクラシックもののコンサートで、この木川氏によるリサイタルほど聴衆を集めたのは見たことがない、というからこのピアニスト、只者ではない。演奏したのは「コントラプンクトゥス 1」と「未完フーガ」だったようですが、ブーレーズの「アンシーズ」ではドビュッシーの亡霊が、またミュライユの「マンドラゴール」ではラヴェルの亡霊がピアノの上に漂っているかのような印象を受けたのだとか。いったいどんな感じなのか、作品じたいを知らないのでなんとも言えませんが…。木川氏の演奏会評ではいまひとつこんな記事もありました。おなじ日の別プログラムの評で、演奏されたのはヴェーベルン、クセナキス、ブーレーズといったひと癖もふた癖もありそうな現代作品。目の詰んだ、ハーモニー的には耳ざわりな音響の連続といったこれらの作品に、「明晰さとゆとり」を与えていたところが最高によかった、みたいなことを書いていることからして、このピアニストの解釈がひじょうに深く、compellingであることを物語っているように思う。

3). バッハついでにこういう記事もありました。なんでもNYCでは'4x4 Baroque Music Festival'なる無料(!!)のバロック音楽祭が毎年、開催されているという。記事は音楽祭4公演の初日分(26日)の演奏会評で、当日のテーマが「バッハとそれ以前の作曲家」。プログラムはトゥンダー、ブクステフーデ、ビーバー、クーナウ、ブルーンス、そしてアイゼナハの聖ゲオルク教会オルガニストだったヨハン・クリストフ・バッハ、そしてバッハの作品(ほとんどが教会カンタータとか声楽作品。ただしブルーンスのみオルガン作品で、演奏会場のセントピーター教会のオルガンで演奏)。指揮者兼通奏低音(こちらはいわゆるチェンバーオルガン)担当はエイヴィ・スタインという方。記者評によると当日の演奏会では、クリストフ・バッハの'Ach, dass ich Wassers gnug hätte' という作品の半音階パッセージで嘆きの感情をつよく意識して歌いあげたカウンターテノールのライランド・エンジェルがすばらしく、白眉だったとか。ブルーンス(「前奏曲 ホ短調」)については、

And Mr. Stein, switching from the chamber organ from which he led the vocal pieces to the church’s larger, more flexible instrument, gave an energetic and appealingly shaded performance of a Prelude by Nicolaus Bruhns.

とあり、情熱を奔放にほとばしらせる演奏というより、ほどよく抑制のきいたレジストレーションで弾いたのかもしれない(毎度この手の音楽関連記事は読むのがむつかしい、と思う。日本語で書かれた文章だって、音楽関連はみんなイメージしにくくて、難解。ことばで音楽を語るということの限界だろうけれども)。

 …NYTの記事とはまるで関係はないけれども、個人的に印象的だった報道もありました。なんとあの北島康介選手が西伊豆町の仁科小学校の児童に水泳のレッスンをつけた、という! これを報じた地元紙記事には一服の清涼剤にも似た心地よさをおぼえた。こういう機会はめったにないし、地元の子どもたちにとって、一生忘れられないすばらしい体験になったと思う(→地元紙動画ニュース)。

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2010年08月22日

エマール企画の「バッハとポリフォニー」演奏会

1). リンカーンセンターではきのうまで'Mostly Mozart Festival'という毎夏恒例の音楽祭をやっていたようですが、いまさっきNYTの音楽記事見ていたら、なぜか「バッハと多声音楽(ポリフォニー)」をテーマにしたプログラムを組んだミニ音楽祭も開かれたとか。よくよく見てみたら、なんと企画したのはあのピエール-ロラン・エマールだという! バッハのほうは6つのモテットのうちのひとつ、「イエスよ、わが喜び BWV.227」がArs Nova Copenhagen という団体によって歌われた…けれども、個人的にはエマールみずからチェンバロ/ピアノと弾き分けた、「音楽の捧げもの BWV.1079」のほうが興味津々。チェンバロで弾いたのは「トリオ・ソナタ」の通奏低音だけだったらしいけれども、「ふたつのカノン」をピアノで弾いた…らしい。弾いたのは「蟹のカノン」なのか、「探せ、されば見つからん…」という「謎かけカノン」のほうだったのか…「反行カノン」? 「フーガ・カノニカ」?? それとも「無限カノン」??? またエマールがぜひ生で聴きたかったと言わしめた、グルジアの男声合唱団による無伴奏合唱も負けずに圧巻で、当日の話題をさらったとのこと。自分はブルガリアの女声合唱団によるひじょうに珍しい当地の伝統歌謡とかの無伴奏合唱のCDはもっているけれども、ううむ、グルジアですか! ロシアも男声による無伴奏合唱の伝統はあるし、たしかにこれはおもしろそうですね。なんでもたいへん変わった歌唱法で歌われたりしたとか。'Chela'という古謡(?)ではヨーデルみたいな歌い方も出てきたらしい。グルジアには特有のポリフォニーの伝統があるみたいです。

But it was the male Ensemble Basiani from the Republic of Georgia, singing two sets of Georgian polyphony descended from an ancient tradition, that stole the main show at Tully against strong competition. Mr. Aimard said from the stage that he had first heard recorded examples of this tradition 30 years ago and had always wanted to hear it live.

現代音楽におけるポリフォニックな作品も取り上げられていて、たとえばエマールによるピアノで演奏されたのはリゲティや、現在101歳(!)になる米国の人間国宝的存在、エリオット・カーターの作品とか。デンマークの合唱団による演奏では、ほかにヤニス・クセナキスという人の作品も取り上げていたらしいが、寡聞にしてこちらの方の作品はまるで知らないので、ただ想像するほかなし。ただ、バッハの「音楽の捧げもの」から演奏された「トリオ・ソナタ」については、

The Bach sonata represented a mix of performance styles. Mats Zetterqvist, the violinist, and Clara Andrada de la Calle, the flutist, added basically modern sonorities to Mr. Aimard’s harpsichord. But Luise Buchberger, the cellist, played the continuo line with much less vibrato, ...

だったそうで、新旧折衷型(?)だったみたいですね。とにかくひじょうに興味をもちました…公演を聴かれた方とかいましたら感想などをぜひ。

 また関連記事としてはこんなのもありました。17日の'Mostly Mozart Festival' コンサートの批評なんですが、その夜開かれたコンサートでは「主役」のモーツァルトはプログラムにはなくて、生誕200年にあたるシューマンにヴェーバー、メンデルスゾーン(「ヴァイオリン、ピアノと弦楽のための協奏曲 ニ短調」というめったにお耳にかかれない作品。14歳(!)ごろに作曲したものらしい)などで構成。もうひとつのほうはもうひとりの生誕200年、ショパンのプログラム。モーツァルトが聴きたい聴衆は、エイヴリー・フィッシャーホールで開かれた本コンサート開演1時間前に開かれたプレコンサートに行かないと聴けなかったそうですが、けっこう盛況だったようで…でもこの記事によれば、聴きに来たお客さんは、音楽よりも演奏者目当てで来た人が多かったみたいです。

That hundreds did so probably was less because of the music than because of the performers: the violinist Joshua Bell and the pianist Jeremy Denk, who were also the featured soloists in the orchestra’s program.

2). …とそんな折も折、国内報道に目を転じればたとえばこんな記事とかありました。これは些細なことながら、個人的にはひじょうに気になっていたことなので、これですこしは安心(?)かな(以前、ここでも「地デジ放送の遅さ」について取り上げて問題視したことがある)。そしてもっとおどろいたのはこれ。えッ!? あのNaxos Music Libraryが公共図書館で利用可能に??? これはすごすぎ。いつも利用している図書館でもNMLを採用してくれないかな! …そのいっぽうで、HMV渋谷店が20年の営業を終えて閉店…というさびしいニュースもありましたね。…とはいえ自分はたった一度しか行ってはいないのだが…クラシックのフロアでBACのエドのautographを見たとか前にも書きましたね。とにかくAmazonが上陸するまでは、HMVとか山野楽器、それと石丸電機の3号館あたりでしか、お上りさんには「洋物CD(輸入盤)」を手に入れることができなかった。たしかにAmazonは便利だ。おかげでいままで考えられなかったような本やCDもいともかんたんに手に入れられるようになった。…でも気がついたら近所からはCD屋さんが姿を消していた。HMV渋谷店のような大きな店まで…。もっともいくら便利だからって、紙の本まですべてiPadがないと、Kindleがないと読めません、という世の中にはなってほしくないというのが正直なところ。自分の場合はあくまでも「CDアルバムを買う」というスタイルにこだわっているから、「ラヂオのうた」のような例外をのぞいて「音楽配信サービス」経由で楽曲を細切れに、せんべいのバラ売りのごとく買ったりはしない。なので、かつて流行った(?)CCCDにはほんとアタマにきていた(苦笑)。いまはもう、当時のことは「いまは昔」と笑ってやり過ごせるけれどもね。いま考えると、いったいあの騒動はなんだったのだろうか…。

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2010年08月09日

オバマ大統領は来るのだろうか? 

 以前キューバ関連の記事で、今月6日と9日がなんの日なのか、向こうの子どもたちはみんな知っているということを書きました。今日は65回目の長崎原爆忌でしたが、6日の広島原爆忌に原爆を投下した国の大使がはじめて参列したことを報じる記事NYTに出てました。

 記事はとくに主張もなくて、淡々と事実を伝えるだけの中立的内容でしたが、平和記念式典に参加した一般の人への取材もしています。20人ばかりの人に取材したらしいけれども、それによるとほとんどの人は、いまさら米国に謝罪してもらおうという気はない、とにかく65年前のあの日、広島でいったいなにが起きたのか、オバマ大統領自身の目でぜひ確かめてほしい、来てくれるだけで慰めとなる、といった意見がほとんどだったという。

While some Japanese still consider the bombings a war crime, mainstream opinion appears to be more complex, largely out of recognition of Japan’s militaristic past. In interviews with more than two dozen Japanese who visited the Hiroshima Peace Memorial this week, only one said with any conviction that the United States should apologize.

広島市長の造語である'Obamajority' も引用して、大統領訪問にたいする広島市民110万人の期待感にも触れていましたが、11月に予定されている来日では、ちょうどときおなじくして「ノーベル平和賞受賞者世界サミット」も当地で開催されるし、ここはひとつ…と思いたいところだが、向こうは向こうで中間選挙があったりで、実現するかどうかはかなり微妙。昨年プラハで演説したことを真剣に考えているのなら、せめて広島くらいは足を運んでほしいものではある。どっちかというと「革命! 闘争!」なイメージの強いゲバラでさえ、お忍びで広島平和記念公園を訪問しているし。

 そんななか、潘基文国連事務総長が現職総長としてはじめて平和記念式典に参列したのはよい知らせだったと思う。

Mr. Ban echoed the call for the elimination of nuclear weapons, saying it was time to move from “ground zero to global zero.”

 記事ではどういうわけか触れられていないが、この一年間に死亡、または死亡が確認された被爆者数は5,501人。このあらたに追加された名簿二冊が、式典で原爆慰霊碑直下の奉安箱に納められた。これで原爆死没者名簿は計97冊、死没者数は計269,446人になる。

 そしてこれは補足ですが、NYTのダイジェストにあるつぎの記述で、

On Aug. 6, 1945, the United States dropped an atomic bomb on Hiroshima, Japan, that instantly killed an estimated 66,000 people in the first use of a nuclear weapon in warfare.

「強烈な熱線により瞬時に(相生橋上空600mあたりで巨大な火の玉が発生してからわずか10秒たらずで)蒸発して」死亡した人の数が約66,000人、ということですが、直接の死亡者数として、広島市の見解では1945年12月末までに約14万人としているし、たしかそういうふうに習ったように思う(→放影研の関連ページ)。それゆえこの数字には、猛烈な爆風で吹き飛ばされて当日中に亡くなった人の数は勘定に入っていない。放射線による影響ということも考えると、原爆投下が原因で亡くなった人の数としては、当日、瞬時にという限定句つきではあるが、少なすぎると感じるのは自分だけか(同様に、長崎の39,000人という犠牲者数も少なすぎる)。

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2010年07月25日

自分が死んだら…はどうなる?

 「リトル・チャロ 2」では「間(あい)の国」なるlimboというか、日本風に言えば「賽の河原」みたいな場所が舞台になってます。この前の放送では、現世で思い切り鳴くことがかなわなかったセミのミニーが、'Everybody dies sometime.' なんて科白をしゃべってました。しかり。immortalな人なんていやしない、というわけで、だいぶ前ですが、こんな記事を見かけました…一寸先は闇、いつなんどき災害が、大地震が発生するか予断を許さない現状では、そのときになってからではやはり遅い。なので、できることからでも備えくらいはしておこうとは思っている――思っているだけでいっこうに進んではいないが…で、たとえばここの拙いブログ。資料的価値は、ひょっとしたらあるのかもしれない。アクセス解析を見ると、たとえば「ルイス・ハイン」というキーワードがやたら目についたりしたから? 、と思ってぐぐってみたら、どうもこれ中二の一学期の国語で教材になっているらしい。どうりで「ルイス・ハイン」でヒットすることが多かったんだと妙に納得したり。でも基本的にはこのブログじたい、どうなろうとこうなろうと、書いている本人はあまり頓着していない。大家のさくらインターネットの約款ではそのへんどうなっているのか、さっぱり知らないが、すくなくとも有料ホスティングの「おまけ」サービスとして提供されているものなので、おそらく支払いが滞ったら「404」エラーにでもなるんじゃないかな。でも「心残り」なのは本家サイトのほう。こっちはどこかミラーサイトでもこさえておいたほうがいいかもしれない。半永久的に残るように。あるいは門外漢のワタシなんかよりよっぽど深く研究を進めている人にあげちゃってもいいかもしれない(そんなもン、いらん、と言われるとは思うが)。

 …ときおりこんなこと考えていたりするものだから、たとえばこちらの記事なんか見ますと、これからこういう問題はどんどん増えるんだろうなあ、と思った。記事では世界最大のSNS、Facebookサイトでの「問題」が取り上げられているんですが、ようするにとっくに亡くなっているのに、「あなたは最近、◯◯さんと連絡を取ってません! ぜひ連絡を」とか、「もうすぐ◯◯さんの誕生日です!」とかいうメッセージをあいも変わらずサイト側が投げつけて、そのユーザーさんのお友だちを困惑、狼狽させている、というもの。たしかにこういうの挨拶に困りますよね。で、当のFacebookに言わせれば、

“It’s a very sensitive topic,” said Meredith Chin, a company spokeswoman, “and, of course, seeing deceased friends pop up can be painful.” Given the site’s size, “and people passing away every day, we’re never going to be perfect at catching it,” she added.

ちなみにこちらの記事によると、このFacebook、なんと全世界のユーザー総数がついに5億人を突破!! したんだそうな。…これだけの人が登録していれば、当然ほぼ毎日、ユーザーのだれかが死んでいくのだろうから、無料提供のサービスだしとてもじゃないけど処理が追いつかない、というのも無理ない話ではある。でも、'Its software is quick to offer helpful nudges about things like imminent birthdays and friends you have not contacted in a while.' というのはhelpfulどころか、はっきり言っていらぬお世話という感じもするが…。そしてほんとうに自分の知っている友だちならともかく、オンライン上で知り合っただけですぐ友だち登録ができるとはいえ、そういうのってほんとうのお友だちと言えるんだろうか…という根本的な疑問もあったりする。それにしても5憶って数字はすごすぎ。皆さんそんなに使っているのか。だからクラッカーどもがこぞってあの手この手でユーザーの懐を狙ってフィッシングやらID詐欺やらなりすましやら、攻撃をしかけてくるのだな(なのでこの手のSNSというものは苦手)。

 Facebook事業は6年前に立ち上げられ、あちらの若い起業家のご多分にもれず、起業当初は「ハーヴァード大学の学生寮」がオフィスだったみたい。最初は学生向けのSNSだったから、「死」の問題はさほど深刻ではなかった。でも6年が経過したいまではすっかり様変わりしまして、調査会社によると、「年代別では65歳以上のユーザー登録者数がもっとも多く、5月だけでも6憶5千万人が新規登録し、昨年同時期の3倍」だという。そして当然のことながら、米国の年代別死亡率は65歳以上がもっとも多いので、字体は悪くなる一方、ということになる。ヴァージニア工科大学の乱射事件の被害者の多くもこのサイトを利用していて、このときは被害者の友人知人の嘆願もあって「追悼ページ」として残されたようですが、これは例外で、根本的な解決策はいまのところないらしい。また逆にまだ生きているのに「死んだ」ことにされて、自分のアカウントから締め出されてしまった不幸なドイツ人ソフトウェアエンジニア氏もいる(その後この人はTwitterとかで「オレは生きてるぞッ!」と訴えて、ようやくアカウントを取りもどしたとか。こちらも笑えない話ではある)。

 …そういえば先日のダイジェストレターの'On this day(24日)'に、

During a visit to the Soviet Union, Vice President Richard M. Nixon got into a discussion at a U.S. exhibition with Soviet leader Nikita Khrushchev that was dubbed the ''kitchen debate.''

とありました。…お若い人は知らないと思うけれども、当時副大統領だったニクソンがモスクワで開催された米国産業博覧会場にて、ソ連共産党書記長フルシチョフと、資本主義と社会主義のどっちがすぐれているか、について「論争」したというもの。場所がキッチンの展示場だったので、通称「キッチン論争」と呼ばれています。たしか「米国では口元まで自動で食べ物を運ぶ機械が作れる」、「いいや、そんなムダなもんここでは不要だ」とかなんとか、そんなやりとりがあったように思う。で、こちらの画像もけっこう有名です。

 …ここでいつものように脱線。じつは先日、ようやく(?)、HTC Desire(X06HT)を予約しまして、お店の人に「入荷は8月末になる」って言われました。…そのときはなにも事情を知らず――知るわけもないが――つい最近になってDesireがたった3か月たらずで「販売終了」の事実を知る(→この件にかんしてはこちらのブログ様の意見がもっとも当を得ていると感じた)。…そしていつも思うのだが、ここのキャリアってTwitter経由でしか連絡がとれないのか? いきなり「Desireは今月29日予約受け付け分をもって販売終了するが、Android 2.2への対応はかならずします」とかって告知みたいなものが出たり…今回の突然の「販売終了」だって、もとはソフトバンクの人のツイートだというし。…いささか信用できない会社という印象が拭えないのであるが、このDesireについては4月末の販売開始当初から「iPhone 4を上回るほどの」品薄状態がつづき、ある記事を読んだら納期が延び延びになって、なんと3か月も待たされたなんて話も。ここはひとつ、店員さんの言った「夏休みが終わるまでには入荷」を信じましょう。というわけで熱烈な「龍馬伝」ファンの社長さま、よろしく。

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2010年07月19日

ありがちな話二題

1). まずはこちら。だいぶ前にWindowsは崩壊寸前のOSか? というコラムを書いたサンノゼ州立大学ビジネス学教授先生の書いた記事で、ティーンエイジャーとPCとの関係について、いくつか最近の調査結果にもとづいて書いてます。とりわけ低所得者層の家庭ではじめての情報機器としてのPCをティーンの子どもに買いあたえた場合、買いあたえたほうの親御さんとしては当然、裕福な子どもとの情報格差を解消し、学習のためにどんどんインターネットを活用してもらって、お勉強の成績もアップさせてほしい、と思うもの。でも現実はなかなかそうはいかなくて、けっきょく大半の子どもたちはせっかくのPCを十全には活かすことなく、ゲームばかりして無為に過ごしてしまう、ということが浮き彫りになったというものです(でもこの記事、左側のイラストを見ただけでおおよその内容の見当はついたが)。

 この点にかんして、たとえば日本では「ケータイ」の爆発的な普及がすぐに思い出されます。バスや電車内で四六時中、ケータイをいじくっている学生さん。この前も電車内で、ケータイとiPhoneの両方をいじっていた男子高校生とか見かけましたよ。米国の調査結果でも、こういう子どもたちはたしかにPCなどの情報機器を扱うスキルというものは向上している…ようですが、親御さんがなにより期待している分野にかんしてはまるで役に立たないもんらしい(以下、下線強調は引用者)。

Economists are trying to measure a home computer’s educational impact on schoolchildren in low-income households. Taking widely varying routes, they are arriving at similar conclusions: little or no educational benefit is found. Worse, computers seem to have further separated children in low-income households, whose test scores often decline after the machine arrives, from their more privileged counterparts.

この調査をおこなったうちのひとりの先生にとって、「子どもにPC」というのはかえって逆効果、みたいな結果におどろいたようですが、同年代の子どもをもつほかの人の反応はさもありなん、というもの。たしかにみんながみんな、向学心とか志のある子たちとはかぎらないし、PCにはゲームをはじめ時間を浪費する「誘惑」の要素のほうがはるかに多いので、よほど意識してないと安易な方向へ流されてしまうものなんでしょうね。また先月、全米経済研究所から公表されたばかりの調査結果も興味をひかれる。ノースカロライナ州では2000-2005年にかけてブロードバンド化が急速に進んだらしいけれども、最初にブロードバンドサービスがはじまった地区の中学生の数学の試験の得点数はこの時期を境にがたっと急降下し、またブロードバンドサービスを提供しているISPの数が4つ以上になると、こんどは子どもたちのリーディング試験の得点数がやはりがた落ちになったという。でもこういう悪影響が見られたのは、もっぱら低所得者層の家庭だったといいます。その理由はやはりといいますか、

The Duke paper reports that the negative effect on test scores was not universal, but was largely confined to lower-income households, in which, the authors hypothesized, parental supervision might be spottier, giving students greater opportunity to use the computer for entertainment unrelated to homework and reducing the amount of time spent studying.

 でも子どもたちばかり責められるものではないようにも思う。以前ここにも書いたけれども、向こうの家庭ってまだ年端もいかないうちからほいほい高価な電子端末を玩具よろしく買いあたえる親が多いんじゃないかって気がする。いまだとたとえばiPadになるかしら。またNHKラジオ第1の「地球ラジオ」ではじめて知ったのですが、あちらでは10歳くらいの女の子用の「お化粧セット」なるものがいくつも売られているという。こちとら、ただただおどろくほかなし。なんかどっか狂ってない?? そういう育てられ方をした子どもにPCをあたえてもせいぜいガジェット、つまり「おもちゃ」どまりだろう(最近のスマートフォンも、「高級なおもちゃ」のように見える)。

2). つぎは――いまさらという感なきにしもあらずですが――例の「アンテナゲート」関連。記事にはたとえば出だしで

Many expected a mea culpa from Steven P. Jobs, Apple’s chief executive. Instead, he turned the iPhone 4’s antenna problems into a marketing event on Friday.

とやんわり皮肉っている以外は、ほとんど事実関係の報道と取材にこたえた人のコメントのみではっきりいってあんまりおもしろくないんですが(ほかの記事で批判的に取り上げたものはあるのかもしれないが)、おどろくのはApple CEOの一般常識のなさ。よくも悪くもあの会社ってこの人のカリスマで成り立っているようなところがあるから、それはそれでしかたないかもしれないが、それにしても

“This has been blown so out of proportion that it is incredible,” he said[ほんとうは'But I think it’s important to understand the scope of this problem. Because the data leads you to the conclusion that it’s been blown so out of proportion, it’s incredible.'と発言していたらしい].

というものの言い方は? と思いますよ(「あまりに誇張しすぎ、信じがたいくらいに」)。アンテナが露出しているから右手でもつようにとか、そんなことユーザーにおしつける感覚もどうかと思うけれども(モトローラ社の人も、“because consumers don’t like being told how to hold the phone.”と揶揄しているし)。アンテナ露出のデザインでいこうと決めたんなら、最初からバンパーつきで売ればいいのに、と思うほうがヘンなのかな? なんかだんだん某タイマーな会社に似てきたな。たしかに革新性とかデザインの秀逸さ、UIのすばらしさは認めるけれども、たとえばバッテリが取れないとか、そういう使い勝手をあいかわらず軽視しているようなところがあるし、Time Capsuleだっけ、バックアップ用のNASも欠陥があることをわかっていながら無償交換措置を講じたのはつい最近だし。これどう見たって大名商売としか思えない。いまや一部の熱心なユーザーのみ相手にして商売しているわけじゃないのに、対応のまずさは昔のままというのは、やはりよくないと思うがいかが。記事にもあったけれども、他社製スマートフォンにも受信障害はあるといった「情報操作」みたいな主張も、フェアじゃないと思う。それによくよく見てみるとジョブズさんの主張はいささか破綻しているのではないかと…。

When a reporter said he could not replicate the signal drop on his BlackBerry, Mr. Jobs said the problem was only evident in places where the signal is weak.

もともと受信状況の悪いところで実験したら、どこの端末だって「落ち」るでしょうよ。こういう実験は、やっぱり第三者機関がテストするにかぎる(↓は、Consumer Reports誌の実験を映した動画)。



…それにしてもこれNHKも報じていたんですね…。たしかにたいした欠陥ではないかもしれないが、あまりに人を喰った対応だったので、ついムカついて記事にしてしまった(苦笑)。→国内関連記事

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2010年06月13日

「マルチタスク」にご用心

 「マルチタスク」といっても、PCの話じゃありません――われわれ人間の頭の話です。

 いまや米国にかぎったことではないと思うけれども、同時に複数の作業をてきぱきとこなす人というのがもてはやされているみたいです。でもたとえばこの記事の主人公(?)、コード・キャンベル 43歳氏にいたってはどうなんでしょうか。

 キャンベルさんはシリコンヴァレーのIT関連の起業家で、仕事柄、年がら年中PC漬け、というかネット漬け。寝るときもiPhoneは手放さない。起きているときはずっとオンライン状態。年中オンライン、といってもすべてが「仕事」がらみというわけではない。中央のモニターでプログラミングしているかと思えばその合間に私用のメールやらFacebookやらTwitterやらをチェック(!)、果てはiPhoneにiPadまで持ち出し、あげくの果てはゲームなんかやりはじめたり…おかげで家族とともに外食をどこで食べようかとか、やりかけの用事を忘れたりともっとも重要視すべき実生活での凡ミスがしょっちゅう。スライドショーではキャンベルさん宅の仕事場の画像もありますが、文字どおりのマルチディスプレイ環境(ぜんぶMacかな?)。一時間に10-20通のメールが来るようですが、返信する必要のあるものはほんの数件。でもキャンベル氏は、とにかくあっちこっちのディスプレイを見まくって、ウィンドウをやたらと開きまくって、ということが「クセ」になってしまってやめられない。いま集中すべきことに集中できない。自分なんかも飽きっぽくて、人さまのこと言えた義理ではないけれど、これはいくらなんでも「重症」なんじゃないでしょうかね、以前ここで紹介した「ネット露出狂」の人同様に。

 米国ではいつのころからか、「忙しい」というのがステータスシンボルみたいな悪しき風潮が蔓延していますが、キャンベル氏の場合はただたんに「どうでもいいような情報」でさえも取捨選択さえできずに、とにかく「いま」この瞬間に見ないと気がすまない、そういう「中毒」にかかっているように思えます。父親がこうなんだから、子どもたちにいい影響を与えるわけがない(旦那さんのことをとやかく言う奥さんにしても、Facebookの相手をしていてクッキーを何度も焼き焦がすような人なので、似た者夫婦なのかなあ、とも思った)。ところで向こうの人って平気で食卓にPCとかiPadとか持ちこむようですね。自分なんか、なんとなく油っぽいキッチンにPCを持ちこむことにたいしてすごい抵抗がある。昔は礼儀にうるさい家庭が多かったから、食卓イコールごはんを食べるところであって本を読んだり、ましてやPCやスマートフォンなんかを持ちこんだらとたんに波平さんみたいなガンコ親父のカミナリが落ちたところ。でも最近はわりと気にしない人のほうが多い。

 記事にもどりまして、キャンベルさんはもしPCとかネットとかがなかったとしても、やっぱり「同時に雑多なことをしてしまう」という生活を送ったかもしれないと言っています。昔よくいた、TVを見ながら仕事する「ながら族」といったところでしょうか(そういう自分もNHK-FMはかけっぱなし。でもTVの「ながら」ができるほどオツムもよくないし電気代ももったいないから、そういうことはしない)。でも「優先順位」というものはかならずあるもの。キャンベルさんみたいに、だいじな仕事の打ち合わせが迫っているときでさえ、「勤務先で男性の死体発見」とかいうツイートを見てすぐリンクをクリックしてしまう人。それでいて買収話をもちかけられるくらいの起業家というのだから恐れ入る。それはそれで才能のなせる技なのかも。

 でも科学者によると、人間の脳ってPC並みに「マルチタスク」というふうにはできていないらしい。結論から言えば、「マルチタスク型人間」イコール「仕事のできる有能な人」ではないということ。むしろ実態は逆で、そうでない人――「シングルタスク型?」――にくらべて仕事の能率は格段に劣るという(複数のタスクを同時進行で処理できる人のことを、「スーパータスク型」と呼んでいる)。またキャンベル氏のように玉石混交の情報の洪水をまともに受けてアップアップしている人は、そうでない人にくらべて情報から受けるストレスも高いという。しょせん人間はアナログな生き物であって、なんでもかんでもデジタル処理、というふうにはできてはいないことの証左かもしれない。

 2008年の調査によると、TVやネットなどをひっくるめた情報収集に費やす時間が1960年のそれとくらべて3倍も多くなり、べつの新しい調査ではPCユーザーは1時間あたり37回近くもメールチェックしたりブラウザを起動したりとひんぱんにウィンドウを開いたり閉じたりしているという。こういう情報洪水の引き起こす「認識力の断片化」現象はPCから離れたあとも残るという。キャンベル氏の「プッツン現象」もそのたぐいかもしれない(ふつうに注意力散漫な人というのがいるのも事実ではあるけれども)。また子どもがこの手の情報洪水という刺激に毎日、晒されると大脳の発達にとってよろしくないみたいです。大人でさえそうなんだから、当然のことと言えば当然のことかも。

Researchers worry that constant digital stimulation like this creates attention problems for children with brains that are still developing, who already struggle to set priorities and resist impulses.

 ちなみに記事のとなりにある小テストみたいなものをやってみました…。設問は

1). なによりもまず真っ先にメールチェックを欠かさない。
2). つぎはいつオンラインになるかと待ちかまえていることがよくある。
3). オンラインになったときにだれかに声をかけられると、「あともう数分だけ」と言ってしまう。
4). ネットにどれくらい時間を費やしていたかについて嘘をつく、もしくは隠し立てしようとする。
5). だれかと外出するより、ネット接続して時間を過ごすほうを選んだことがある。
6). ネットにつなぐと、憂鬱な気分・不安感から開放される。
7). テクノロジーを使って過ごす所要時間について、他人から文句を言われることがよくある。

当てはまりそうなのは2と、ときおり3かな? ようするにこれ「ネット依存度」の強さをみる検査なんかな…?? 自分は、そんなに依存していないつもりではあるんですが…。それからキャンベル氏のようなことに身に覚えのある方は、'Test Your Focus'というテストもやってみるのもいいかも。ルールはかんたんで、ふたつのピンク色の長方形のみ意識を集中させて、どれか位置が変わったらYES、もとのままだったらNOとこたえる、というもの。途中から「気をそらせる」青の長方形の数が増えたりします。

 …「仕事」といえば先週のチャロはけっこうおもしろかった。Johnny the Info Guy(笑)! 'You got it!'という決め台詞といい風体といい、なんか70年代ふうだった、とシェリーさんがコメントしてましたっけ。チャロも'Not again(日本語だと「またかよ!」という感じ)!'なんてずいぶんくだけた言い方使ってましたし。「言うだけのことは言って(Saying what he had to say, ...)」眠りこける…というか、なんでお代があの「睡魔をさそう赤い実」でなければならないのか(笑)?? それはそうと、生前のジョニーさんっていったいなにやっていた人なんですかね(謎)…。

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2010年06月06日

「ナックル姫」の快挙

1). 先日、国内でも報道されたのでなんだいまごろ、と言われそうですが、米国独立系リーグにて初登板した吉田えり投手についてNYTがスポーツ欄のトップで報じた、というのはやっぱりすごいこと。女性選手が米国のGolden Leagueで活躍するのは、10年前のアイラ・ボーダーズ選手以来二例目とのこと。アイラさんも投手だったらしいけれども、吉田さんもおなじく投手、しかも高度なナックルボールを武器に本場の打者を相手にまわすというのだから、それだけでもすごすぎるんですが、なんといってもまだ18! ですよ。もうこうなると脱帽するほかなしです。それにナックルボールも、昨年TVで見た、レッドソックスのティム・ウェイクフィールド投手が繰り出すナックルボールを見たのがきっかけで習得したというから、ほとんど独学らしい。昨年まで所属していたチームが当初予定していた所属先リーグから撤退してあらたなリーグ設立したりとごたごたしていたときにエージェンシーに手配してもらって参加した「アリゾナ ウィンターリーグ」がきっかけとなって、カリフォルニアのチコに本拠地をおく「チコ・アウトローズ」所属となったらしい。

 本場での初戦、さぞや緊張していたのでは…と思うけれども、そんな大舞台でもいかにも十代の女の子、という側面も垣間見せるところがやはり大物の片鱗か。

The night before her debut, while her teammates were in the locker room after losing their home opener to Tijuana, Yoshida leaned on the railing of the first-base dugout and gazed at the fireworks that were exploding beyond the left-field wall.

She reached into a bag and took out her camera to record a snapshot of Americana. She looked less like a pitcher ready to battle with grown men, some former major leaguers, than an excitable teenage tourist.

 ちなみに…当方、野球用語についてはさっぱりなので、すこしばかり備忘録としてメモっておきます。

And in her one plate appearance, she drove in a run by bouncing a bases-loaded single to right field.

下線部、満塁の場面でバウンド気味のシングルヒットをライト方向に打って出塁、走者を生還させたということみたい。one plate appearanceは「打席」。でも「野球」という訳語の創作もさることながら、日本語の野球用語はみんな明治の先達がこさえたものだから、そういう点でも明治の先達はやっぱりすごいなあ。

After retiring the first two batters to begin the second, Yoshida hit the next batter with a two-strike knuckleball and allowed the homer. She retired the next three batters, but then three singles and a walk evened the score in the third, as fans urged her on with chants of “Go Yo-Shida.”

a walkというのは――カンを働かせれば――日本で言うところの「フォアボール」だということはだいたい見当がつく。最初のふたりの打者を打ち取って、2イニング目はナックルで2ストライクと追いつめたもののけっきょくホームランをお見舞いされ、3イニング目は最初の打者こそ打ち取ったもののその後は三連続安打がつづき、最後は走者を歩かせたり暴投があったりで同点に追いつかれた。ここで降板。でも走者としても活躍したから、初陣としては上出来ですよ(3回まで投げて、5安打4失点)! なにせ百戦錬磨のもとメジャーリーガーとかも向こうに回しての活躍ですからね。史上二人目の女性投手のデビューとあって米国メディアはおおいに注目したそうですが、周囲のプレッシャーに負けないりっぱな活躍をされたと思います。真似しようたってできるもんじゃないですよ。それと'pop-up'は「凡フライ」。ついでに自分は恥ずかしながらshortstopという言い方を知らなかった。「一、二塁間を守る遊撃手」、ようするにショートなんですが、stopがつくんだね。これ見るとなんとかのひとつ覚えで、すぐ「オルガンのストップ」という連想が働いてしまうもので…。

 そして記念すべき初登板となった初回こそ、「これ以上ないくらいに」筋書きどおりのできだった(The first inning could not have stuck more neatly to script.)。「絵に描いたような」理想的な展開だったわけですね。そのあとナックルが「すっぽぬけ」たりして、乱れてしまいますが、そこはそれ、筋金入りのプロ根性でどんどんimprovingしてゆくでしょうね。降板後もずっと走りこんでいたそうですし(Be prepared!)。ナックルボールの練習も欠かさない。そんな彼女の真摯なプロ意識を米国の選手たちや監督も高く評価していると言います。「つねに向上する、それがプロ」ということばも思い出した。ふだんからの、不断の努力。これに尽きる。

 この記事はさすがに注目を集めたようで、本文をきちんと訳された先生のブログまであるので、あわせてご紹介しておきます。

 いずれにしても、今後の吉田投手の活躍が楽しみですね。

2). 話変わって、日曜の深夜、ふとNHK総合を見ますとセルティックがどうのこうのという番組を放映している(たぶんデジタルハイヴィジョンかなにかの再放送)。中村俊輔選手が所属していた強豪セルティックの地元グラスゴーの人たちはいまやすっかり日本びいき、なんとW杯では日本チームを応援するという人ばかり! また中村選手が活躍してくれたというのもあるけれど、こちらが思っていた以上に「日本文化」にたいする関心がグラスゴー市民のあいだで高まった、いわば「文化大使」としての中村選手の功績も紹介していてつい見入ってしまった(スポーツというものにはあまり関心のない人なので、この手の番組はめったに見ない)。日本語教室も大盛況! グラスゴー在住の日本語教師の先生が、ちょうど折よく中村選手が来てくれて運が良かった、とおっしゃってしたのが印象的でした。グラスゴー市民が、あまりにも日本びいきになってくれているので、見ているこっちまでなんかうれしくなってきた。ついでながら、現地のサッカー少年が黙々と練習していた技、なんでも「ナカターン」と言うのだそうだ。

 「ナックル姫」といい、中村選手といい、ほんと海外における日本人の活躍はめざましいものがあります。そういえばつい先日、宇宙から野口さんがぶじ帰還されましたし、宇宙といえば探査機「はやぶさ」も目が離せませんね! 国内にいると、なんかこう暗くて息が詰まりそうな暗澹たる報道ばかりなんですが、異国の地で己を奮い立たせてがんばっている日本人がおおぜいいる、ということを知るだけでも生きる力をあたえられるような気がします(ちょっと大袈裟な言い方ではありますが)。

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2010年05月24日

少数言語の最後の楽園? 

 米国、とくに NYC は「人種のるつぼ」とか言われます。全世界から移民の集まる米国のなかでも、すぐ沖合のエリス島に移民管理局があったことからか、とにかく昔からさまざまな人種・民族が片寄せあって暮らしてきた都市というのはそうはないのではないかと思います( エリス島、とくると、パブロフの犬ですぐルイス・ハインの写真作品とか思い出してしまふ )。

 そしていまはグローバル化が急激に拡大し、僻地と言われる地域もひとたび開発の手がおよぶと、壊されるのは自然環境だけではなく、土着の文化も同様に破壊されたりする。あるいは文明の利器に圧倒された少数民族がTVや携帯電話やらをもちはじめる。蒙を啓かれる、そこまではいいと思うが、その過程で悲劇も起こる。最大のものはやはりその民族が先祖代々受け継いできた文化、とくに「ことば」の消滅でしょう。ところがそんな絶滅危惧種の少数言語話者が全世界の中心みたいな NYC という大都市にはからずも集まり、その結果、この街が故国ではとっくに消滅した自分たちの言語をかろうじて維持できる「最後の砦」になっているという事実は、歴史の巡りあわせの皮肉なのだろうか。

These are not just some of the languages that make New York the most linguistically diverse city in the world. They are part of a remarkable trove of endangered tongues that have taken root in New York ― languages born in every corner of the globe and now more commonly heard in various corners of New York than anywhere else.

 こちらの記事なんですが、いやあおどろきました。イストリア-ルーマニア語族の「ヴラスキ語」とか、アラワク語族の「ガリフナ語」とか、アウストロネシア語族で西スラウェシで話されているという「マムジュ語」とか、耳慣れない言語を話す人たちがこの街に暮らし、先祖から受け継いだ自分たちのアイデンティティそのものといってもいい「ことば」を必死になって守り、つぎの世代へ伝えていこうと奮闘しているのです。NYCという都市は少数言語を話す彼らにとって、ある意味たいへんおあつらえ向きだった、と言ってもいいかもしれない。

 正確な統計はないものの、現在 NYC にはこうした消滅寸前の少数言語しか話せない人というのはけっこういまして、彼らの仲間内で話される少数言語の総数はざっと 800(!)にものぼる、というのはさらにびっくりさせられる。市内の公立学校生徒が話す言語が 176、もっとも「人種のるつぼ」状態のクィーンズ地区住民の話す言語でさえせいぜい 138 どまりという。

 記事の上の写真に写っているのはイストリア半島東北部の少数民族のことばらしいヴラスキ語ネイティヴのおばあさんとその娘さんですが、娘さんのいとこという女性は、NY 大学で言語学を教えている先生。で、あるときクィーンズ区で自分たちの母語であるヴラスキ語を守るための集まりを開いたら、先生自身もびっくりの100 人ほどが集まったという( ヴラスキ語話者のこのおばあさんは英語がほとんど話せないという )。

 またべつの言語学者先生がマムジュ語話者を探しに 2006 年、というからセヴェリンがウォレスの足跡を辿った 'Spice Islands Voyage' プロジェクトからちょうど 10 年たったときにインドネシアを訪問したけれど、けっきょく見つからずに帰国。ところが2年前、クィーンズ区である結婚式に呼ばれた。となりに座っていたのがなんと探していたマムジュ語を話す老人だった! さっそくマムジュ語でしゃべているところをビデオ記録に残したというわけで、記事左の写真の人がそうです。NYC 唯一のマムジュ語話者。またダルフール紛争難民としてお隣りのニュージャージー州に住むという男性は、こんなことを記者に言ってます。

“Language is identity,” said Mr. Salih, who has been in the United States for a decade. “So many African tribes in Darfur lost their languages. This is the land of opportunity, so these students can help us write this language instead of losing it.”

 マムジュ語話者の老人と会うことのできたカウフマン教授は、「危機言語同盟( ELA )」という専門組織の立ち上げにもかかわっていて、多くの場合「書きことば」というものをもたないこれらの絶滅危惧種言語の維持活動に尽力している。とはいえことばというものはなによりも使わないといけない。ゼリーみたいに瓶詰めしていればいいというわけではない。

 45 年前にやってきて、ロングアイランドに住むもと宝石商だった76歳のイラン人移民の男性は、マンダ語の辞書をこつこつと手作している。またニュージャージー州のパラマスとティーネックという町のシリア正教の教会では現代アラム語が教えられてもいる。現代アラム語はイエスと弟子たちが日常会話で使っていたことばの末裔で、映画『パッション』でも俳優たちがそのことばでしゃべっていた( イエスはピラト総督と話すときだけラテン語だった。'Veritas ...' )。また、1990 年というからちょうど 20 年前にベリーズから NYC にやってきたという男性。21 になる双子の長男次男はスペイン語と英語しか使用しない。まわりの移住者からも自分たちの母語が年々、聞かれなくなっているのを見て危機感を抱くようになる。いまは下の姉妹とその友だちを相手に、みずから作ったバイリンガルソングを歌うことで子どもたちにガリフナ語を教えようとしている。

“Whenever they leave the house or go to school, they’re speaking English,” Mr. Lovell said. “Here, I teach them their history, Garifuna history. I teach them the songs, and through the songs, I explain to them what it’s saying. It’s going to give them a sense of self, to know themselves. The fact that they’re speaking the language is empowerment in itself.”

 ところでアイルランドゲール語( Gaeilge [Ir.])もこうした消滅の危機に瀕した言語のひとつとして記事に出てきます。

In addition to dozens of Native American languages, vulnerable foreign languages that researchers say are spoken in New York include Aramaic, Chaldic and Mandaic from the Semitic family; Bukhari (a Bukharian Jewish language, which has more speakers in Queens than in Uzbekistan or Tajikistan); Chamorro (from the Mariana Islands); Irish Gaelic; Kashubian (from Poland); indigenous Mexican languages; Pennsylvania Dutch; Rhaeto-Romanic (spoken in Switzerland); Romany (from the Balkans); and Yiddish.

…以前「日本語論」ものの本を取り上げたとき、アイルランドゲール語についてずいぶんと失礼なことが書いてあるとちょこっと書いたけれども、日本人はなにかと「英語 対 日本語」、国際語として幅をきかせている英語に日本語が呑みこまれてしまう、みたいなステレオタイプでしか論じないところがある。でも英語を勉強するのはとりあえず世界の共通語として便利だからであって、これは母語として身についている言語とはそもそも次元のちがう話だと思う。体に染みついている母語というものは、そうかんたんに「国際語」の圧力に屈するとも思えないのですが。英語だってそのうちわかりませんよ、かつてのラテン語みたいになっちゃうかもしれないですし( 記事にくっついている動画も興味深い )。

 …おまけ。いまさっき NYT サイト内にてこんな画像を見つけた。そういえば昨年はダリ没後20周年でもあったなー。そしてもうひとつはこれ。…むむむたしかにおかしな英語表記だ。「順路」は 'Visitors' route' とか、'Follow this way' でいいような気がするけれど…。

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2010年05月10日

勝手版「Chrome OS」??

 最近、なにかとよく耳にすることば、クラウドコンピューティング。この前見た「IT ホワイトボックス」でもこの話題のクラウドについて取り上げていたけれども、たしかに一からシステムを組み上げて立ち上げていた昔とくらべればコストは安上がりですし、セキュリティ的にも強いのかもしれない (イントラネットにぶら下がっている子機がみんな 'thin' クライアントの場合、データもアプリもすべてクラウドサーバーの中に用意されているから、子機のどれか一台がヘンなものに感染しても、被害は軽微にとどまると思う。もっともこんな調査結果もあるし、どんなシステムにも欠点というのはあるもの) 。

 最近なんだか鼻息の荒い (?) Google 社は「Chrome OS」なる「基本ソフト (OS) 」をひっさげてこの分野にも進出していますが、Windows とか Mac とかとは大きく異なる点がふたつある。ひとつはLinuxとおんなじ「オープンソース」、つまり OS の設計図はだれでもただで入手可能で、自由に手を加えることができるということ。いまひとつは「クラウドベースの OS 」であるということ (→参考記事。だからなのか、開発中のスクリーンショットを見るとブラウザの Chrome みたいな画面だ。というか Web ブラウザをそのまま OS にした、という発想みたいです。この OS には「デスクトップ」という概念がないんですね) 。

 自分もこの「オープンソース運動」には大賛成で、たとえば OpenOffice とか Firefox とか使ってるし、クラウドベースのサービスなんかも使いはじめたりしている。でもこの記事には正直、おどろいた。いまやOSさえも、「勝手版」ないしは「私家版」とも言うべきオリジナル・エディションが作れてしまう時代になったらしい。とはいえにわかに「私家版 Chrome OS 」があっちこっちでも公開されるという事態は、ソースコードを公開した当の Google 社も 'unintended consequence' だったようで、「本家」の開発者と共同で開発に参画してほしいというのが本音みたい。そうは言っても Google 側は、いまの動きはあくまでもかぎられた人向けで、ただちに一般のユーザーにも広がるとは考えにくいと傍観しているもよう。でもたとえば記事に登場するワシントン州や英国マンチェスター在住の高校生とか、十代の「学生プログラマー」がGoogle提供のソースコードから「実用版 OS 」を組み上げてしまうというのはなんともすごい時代になったもんだと思わざるをえない。OS というのはハードウェア ( I/Oに外部接続機器の認識、CPU やチップセットへの対応、メモリ割り当て管理や電源管理とか) 、利用者の目に見えない部分の役割がたいへん重要で、ここでコケるといくら見てくれがよくてもとてもじゃないけどまともに使えない。だからといってあまりにも使いにくいユーザーインターフェイス (UI) でも困るし。数あるプログラミングのなかでもOS開発というのはもっとも汎用性が高く、もっともむつかしいものだと思いこんでいる自分としては、いくら昔にくらべればプログラミングの難易度というか敷居が低くなったとはいえ、やっぱりおどろくほかなし。もっとも iPhone 用のアプリとかは SDK というひとつのパッケージとして提供される公式の共通プラットフォームがあらかじめ用意されているから、各種プログラミング言語を専攻している学生さんならわりと短時間で専用アプリが作れちゃうもんらしい。いま話題の「黒船 (個人的には iPhone ではなくてこちらのほうが「本命」だとにらんでいる。もちろん、電子書籍がらみで) 」端末、iPad 向けのアプリなんかも、米国での本体発売開始と同時に700本くらいがすでに同時リリースされているくらいです。

 英国のリアム少年のこさえた「私家版 ( home-brewed という言い方を使ってますが、もとの意味は自家醸造、いまはやりの地ビールですな) Chrome OS 」はたいへん評判らしくて、USB メモリ起動可能 ( Linux ディストリビューションではすでにおなじみの感ありだが、すこしはWindowsも見習ってほしいところ)とか、Java 対応とかかなりの本格派とみた (彼のサイトから落としてテストしてみようかしら ? ) 。

He explained that his work on Chromium began partly as a way to demonstrate his computing skills and possibly open doors in the technology industry. It also sprang from an interest and belief in Google’s computing vision. “Many people don’t care about how PCs work and all the security software that comes with today’s computers. They just want to use the Internet,” he said.

 「Chrome OS」最大の特徴は 100% クラウド仕様、ということは即、インターネットに接続できなくては意味がない。ということで、OS 起動即ネット接続という作りになっているし、またソフトウェアもごてごてとローカルマシン側にはいっさい入ってないみたいだから、おそらく体感としてはネットブック以上に立ち上がりが速く、サクサクと動作も軽快、だと思われます(これ重要。MS も日本の PC ヴェンダーも、こういう時代の趨勢に逆らうかのようなOS/ハードウェアを作ってきたと思う)。つい先日見た「IT ホワイトボックス」でも、いまや「Web ブラウザ」ひとつあればたいていのことはできちゃったりする。番組では Google がおなじくオープンソースとして開発した「Android OS」のこともちらっと紹介していたけれども、HTML5 も策定中だし、W3C のエンジニアだという人がいみじくも言っていたように、「10 年後にブラウザの歴史を振り返ってみて、いまがいちばん exciting な時代だったときっと言われるにちがいない」。たしかにそうかもしれない。

 …ちなみにこの「Chrome OS」、では「公式版」はいったいいつごろリリースされるのかしら、と思っていたら、

Google is not expected to unveil the highly anticipated Chrome OS until the end of the year, and the software is expected to run, at first, only on the class of low-cost PCs called netbooks. But Mr. Wing, along with a growing number of other Google fans, did not want to wait.

だって。公式版が出たらそれも試してみようかな(WebブラウザのChromeのほうはいまのところはとくに導入する予定はないけれども)。

追記:いまさっきGoogle Mobileの公式ブログ見たら、こんな記事が目についた。なんかいっとき出回った、スキャナでさっと読み取って瞬時に翻訳する電子辞書みたいな仕掛けだと思った。さまざまなアプリを追加できる、というスマートフォンの自由度の高さはこういうところにも発揮されていると言えるけれども、これってやっぱり翻訳精度は Web 版の「Google 翻訳」ていどかな? ためしに仏語で書かれた原本とか読ませたらどんな英訳を提示するのか、ちょっと興味はあります ( →ときおりのぞかせてもらっている、柳瀬先生のブログにも「Chrome OS」について興味深い記事があったのでご参考までに) 。

 もうひとつ追記。五嶋龍さんが名門、オルフェウス室内管弦楽団との共演というかたちでカーネギーホールデビューを果たしたという記事も見つけた。

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2010年05月05日

「だだ漏れ」中毒な人が多いのかな

 NYTにあいついで掲載されたこれこれの読後感などをすこし。

 最初の記事を見ておどろいたのは、いまや日本でもすっかり定着(?)してきた感のあるTwitter(本来の字義は「囀り」、あるいは「リトル・チャロ 2」に出てくる、なにを企んでいるのかわからないランダがするようなくすくす笑いの描写としても使われたりする)サイト以外にも、じつにさまざまな「だだ漏れ(あんまりこういうヘンテコな日本語は使いたくはないが)奨励」交流サービス提供業者がいるということ(自分の現在位置までお知せするサイトまである!)。発祥の地なんだから当然と言えば当然かもしれませんが、それにしても冒頭に登場する38歳のオンラインデートサイトのコンサルタント(ようするに合法的な出会い系サイトか??)だとかいう男性が登場するけれども、この人なんか、――いまどき死語だけど――「ほとんどビョーキ」ですよ。

Mark Brooks wants the whole Web to know that he spent $41 on an iPad case at an Apple store, $24 eating at an Applebee’s, and $6,450 at a Florida plastic surgery clinic for nose work.

ご当人は、

“It’s very important to me to push out my character and hopefully my good reputation as far as possible, and that means being open,” he said, dismissing any privacy concerns by adding, “I simply have nothing to hide.”

なんておっしゃってますが…こうなるともうひとつの「信仰」に近いものがある(この人はAmazonをはじめとするオンライン通販の買い物履歴のみならず、旅行予定やなんとDNA情報まで[!!]公開しちゃっている)。やはりなにごとも好事魔多し、公開してかまわないものと非公開にすべきものという線引きはきちんと引いて、ほどほどにしておいたほうが身の安全のためだと思うぞ、まことによけいなお節介ながら。

 いま米国ではこの手の会社を起こすIT起業家に投資するのが流行っているみたい。投資家みずからそんな会社の経営に参画したり。たとえばロンドンで設立されていまはサンフランシスコに拠点を移した新興企業の場合、ユーザーにたいして「毎日、自分を撮影した画像をアップしてください」と呼びかけている。当然、この手の「なんでもみんなと共有しよう!」的SNSサイトを利用するのは、プライヴァシー関係にあまり抵抗のない(?)若い世代の人が多いようです。

While the over-30 set might recoil from this type of activity, young people do not seem to mind. The site, which gets around 300,000 visitors a month, according to the online research company Compete.com, appears to be largely populated with enthusiastically exhibitionist teenagers.

 でも…ちょっと待ったぁ! と言いたくなりませんか。たとえばBlippyなるSNSの場合、顧客の買物履歴情報をめぐって、Amazonとトラブル沙汰まで起こしている(→関連記事)。自分なんか、利用しているGmailの「Buzz騒動」でウンザリしているくらいなので(Buzzはアクセスしたこともないけど。Gmailはたしかにすぐれたサービスだということは認めるけれども、たとえば音楽関連のメールを書くとすると、脇に表示される広告に「楽譜通販ならxx」が出てくる…というのは、どう考えても人の書いた文面を「読んで」いるとしか思えんのだが[苦笑])。

 ほんの数年前までは、こと個人に直結する情報の公開について、利用する側の意識も高かったように思う(そんなこと言えば、自分がインターネットを利用しはじめた10年前にはネット上のクレジット決済でさえ嫌がる人が多かった)。それがここ2,3年で急激に(?)低下し、新手のサービスがひろく認知されるにつれてますます危機意識が低下しているというか、ほとんどなにも考えずに「○○なう」とか、わけのわからない符丁みたいなやりとりが横溢しているようにも思う(そういえば某週刊誌でTwitter批判記事が連載されていたけれども、「井戸端会議」以下でも以上でもないとかごく当たり前のコメントしか書いてないし、また発言者がだいたいWebプランナーとか、そっち方面でごはん食べている人なのに「ネットは暇人のもの」とか「集合痴」だとか書いているのって矛盾してない? もっとも「Twitter礼賛本」でひと儲けしている手合いはよろしくないとは思うが)。個人情報が筒抜けになる、ということでは全世界で推定4億人が利用していると言われているFacebookサイトなんか、年がら年中、クラッカーどもの攻撃対象になっている。それだけ「攻撃しがいのある」サイトだということだろう(Blaster騒動とかも思い出されるが、いまどきのクラッカーにしてみれば、MSサイトよりSNSサイトを狙い撃ちにしたほうが手っ取り早く稼げるとでも思っているのではないか)。もっともWebというのはもともとそういう構造なのかもしれない――通信速度やHTML規格の改訂、スマートフォンに代表される高性能な携帯端末の普及など技術的な課題が克服され、また利用者側の意識も変化するにつれ、この手の「なんでも発信、みんなで共有」的なサービスが雨後のタケノコみたいに登場するようになったように思う。YouTubeとかも典型的な例ですね。'Broadcast Yourself'と銘打っているように、いまや市井の人々すべてがbroadcastできる道具をもった、ということか(あ、ブログなんかもそうか。「即時性」についてはRSSという仕組みに負うところが大きいと思う)。

 こういった新興業者が利用者側の意識の低下につけこんでいる感なきにしもあらずですが、いちばんの問題は彼らの個人情報の取り扱い方にある。彼らから「だだ漏れ」なんてこともじゅうぶん考えられる。手っ取り早くみんなと共有することができる、おもしろいからとこの手のSNSサービスにあれこれと手を出すのは、どう考えても賢明ではないように思う。なにしろビジネスとして成立するのか、という根本的課題についてはいまところ「海の物とも山の物とも」わかっていない。気がついたら利用していたサービスが消滅してました、なんてことだってありうること(ついでにT.M.I.は'Too much information'の略。さらについでに動詞のexploitが出てくるけれども、別語源の名詞として「手柄」、「偉業」の意味のexploitもある。strand, feat, strain, forego, mean, seeなどはまったくちがう意味の単語があるので、注意が必要)。

 二番目の記事については某PC雑誌でも手短かに報じられてました。ここでまたおどろくのは、米国の歴史家が注目している点。たとえばある出来事なりを将来、調査するとき、これほど同時に多くの人が記録を書き残してくれるツールというのはいままで存在しなかったし、かつデジタルデータなので任意のキーワードで「検索」をかければ一瞬にしてほしい情報へとアクセスできる、とこの決定に喜んでいる向きがすくなからずいるらしい。以前だったらかぎられた人しか「その現場」にいなくて、そういうかぎられた情報源でしか調べようがなかった(急進的奴隷制度廃止論者ジョン・ブラウンの絞首刑の話が引き合いに出されている)。でもいまはちがう、だれもが情報を「つぶやく」ことで発信できるし、それが議会図書館に保管されれば「一大史料」へと大化けするかもしれないと期待をかけているというわけ。なんだかゴミの山から堆肥でも作るような発想みたいですが、Twitter社が提供する膨大な「過去のつぶやき」データは公開されたもののみで非公開設定の方は対象外、ということなので、意図せず個人情報が流出することはなさそう。また議会図書館側は当面のあいだは「アクセス許可した」研究者にかぎって利用できるとし、発信されて半年が経過しないと利用もできない仕組み。議会図書館側のこうした措置は、当然やっかいな「個人情報」の取り扱いに配慮してのもの。ところが、

BUT the library's restrictions on access will not matter. Mr. Macgillivray at Twitter said his company would be turning over copies of its public archive to Google, Yahoo and Microsoft, too. These companies already receive instantaneously the stream of current Twitter messages. When the archive of older Tweets is added to their data storehouses, they will have a complete, constantly updated, set, and users won’t encounter a six-month embargo(下線は引用者。以下同).

これってつまり…「だだ漏れ」ってこと??? ちなみに全世界で発信されるTweetは、一日あたりなんと約5500万件! だという。また過去4年間の総合計は約50憶件。それでもテキストデータだから、総容量は5テラバイトくらいだという。いまひとつ問題だと思うのは、「即時性」、「未編集」至上主義的な、ほとんど「信仰」に近い感覚。

“Twitter is tens of millions of active users. There is no archive with tens of millions of diaries,” said Daniel J. Cohen, an associate professor of history at George Mason University and co-author of a 2006 book, “Digital History.” What’s more, he said, “Twitter is of the moment; it’s where people are the most honest.”

As a written record, Tweets are very close to the originating thoughts. “Most of our sources are written after the fact, mediated by memory ― sometimes false memory,” Ms. Taylor said. “And newspapers are mediated by editors. Tweets take you right into the moment in a way that no other sources do. That’s what is so exciting.”

 以前書いたEarth Day関連記事と同様、こういう「信仰」も、しょせんは時代とともに移ろう一過性の時代感覚にすぎない。たとえばそのときの思いつきでつぶやいたものを一週間ほどして、忘れたころに読み返してみて、なに書いてんだとか、いかん、こんなことつい書いてしまったとか、そういうふうに感じるのが人間だと思う。つまり「そのとき書いたもの/感じたもの」がおしなべてよいとするのはあまりに短絡的だと思う。なにも手を加えない生々しいままのほうがよいという発想ないし信仰は、首肯しかねる(→関連記事)。

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2010年04月26日

火山噴火と「アースデイ」といま話題の…

1). アイスランド・エイヤフィヤトラヨークル氷河の火山噴火。専門家は東隣りのアイスランドでもっとも危険な火山とされるカトラ山に「引火」することを恐れているようですが、このほどNYTにも関連記事が掲載されてました。が、ちょっと偏向した書き方(?)という印象を受けた。

 出だしで2008年の世界同時不況で引き起こされたアイスランドの深刻な金融危機が引き合いに出されていて、人口わずか32万人ほどのちっぽけな島国で起きた金融危機の衝撃波は北大西洋を越えて英・蘭の大口預金者を直撃したと言及したあと、同国の政治評論家らしい人の発言として、「身の上に降りかかった災難の輸出という点ではかなり長けてきている――でも今回の噴火は自然の仕業であって、われわれのせいじゃない」とか引用されています。このへんはまだしも、すぐそのあとに「アイスランド国民は、このたび降りかかった災いを楽しんでいるというふうに見られないよう気をつけているいっぽうで、今回の噴火については概して安堵の溜め息をついている」というくだりはどうか。またそのあとで、

Mr. Skarphedinsson and other Icelandic politicians do not try to conceal their resentment toward the British government for its use of terrorism laws to freeze the Icelandic banks’ assets during the financial crisis in 2008. But if they are feeling any schadenfreude in Britain’s suffering, it has been well concealed, cropping up only in jokes that have been making the rounds here.

One, perhaps told with more glee by Icelanders than by mainland Europeans, has Iceland misunderstanding what Europe was requesting: “We wanted cash,” Europe says, “not ash.”

Another: It was the last wish of the Icelandic economy that its ashes be spread over Europe.

という、かなりきついジョークまで紹介している。ここだけ取り上げるとなんだかアイスランド人の国民性が疑われそうだが、過去に何度となく自然の猛威に晒されつづけている人たちなので、ちょっとやそっとじゃ動じないといったほうが正解。たしかに今回の噴火もいままでの噴火と同様、「また噴火したか」くらいの認識だろうし、またみんながのんびりかまえているのも今回の噴火が首都レイキャヴィク(アイスランドのほとんどの人口が集中している)から遠く離れた南部の海沿いで発生し、しかも偏西風に乗って火山灰がおもに東の欧州大陸へと流されたため、というのもあるかと思う。「(金融危機で迷惑を被った英国について)人の不幸を笑う」という言い方は、やはり言いすぎだと思う。いまアイスランド国民の最大の関心事は、さきの金融危機を引き起こした当事者にたいする責任追及と、その原因究明だという。特別調査委員会が12日に公表したという報告書、そのページ数たるやなんと2300ページ!! 当時の首相や中央銀行総裁などのめんめんが「経済面での監視を怠った」かどで槍玉に上げられている。また国の信用じたいが内外から問われ、いまの日本と同様、アイスランド国民自身も自信を喪失しているようです。とにかくこの記事、アイスランド国民にとってはかなり辛口に受け取られる書き方だと思う。というわけで、こちらの記事の書き方のほうがまだましかと思う。

 ところで記事にはご親切にも例の火山の発音(英語読みでの)まで書かれてあって、それによるとどうも「エイヤフィヤットラヨークト」になるらしい。最後のllは発音しないのか、発音してもほとんど聞き取れないのでしょう。最後に出てくる小説家氏の発言は、同様に火山国であり地震国でもある日本にも当てはまる。

“You never know what’s going to happen,” he said. “There’s never a dull moment in Iceland.”

2). そういえば20日って「地球の日」、アースデイでしたね…そうか、もう40年になるのか。たしか20年前のいまごろ、まだ学生時分にNewsweek誌で特集記事を読んだっけ。「スイスアルプスが危ない!」という記事で、アルベールヴィル冬季五輪に向けた開発とか深刻な排ガス汚染とか、そんなことが書いてあったかな。でも40年も経てば運動の性格じたいも変質するもの。やっぱりいまの人より当時の人のほうが、自然環境にたいする危機意識ははるかに強かったように思う。当初のアースデイでは環境を破壊する側イコール営利目的の企業という色彩が強くて、企業の経済活動そのものが悪、という敵対意識が鮮明だった。いまは、というと、アースデイの主役は攻守ところを変えまして、昔非難されていた企業側。より正確には、企業と手を組んだ環境保護団体、ということになります。その結果、企業も環境負荷のすくない商品開発を推進するようになり、また保護団体も企業に啓蒙することで自分たちの知名度もアップするという、ようするに「環境にやさしい」イコールおたがいにとって利益になる、という図式ができあがっているようです。一見、いいことのようにも思えるけれど、環境保護運動の先駆者の多くはこうした「環境にやさしい云々」というのは本来あるべき姿からは乖離していると嘆く。たとえば元祖アースデイ創始者のひとりはこう憤慨している。

“This ridiculous perverted marketing has cheapened the concept of what is really green,” said Denis Hayes, who was national coordinator of the first Earth Day and is returning to organize this year’s activities in Washington. “It is tragic.”

たしかに企業マーケティングというか、企業イメージ向上のかっこうの「宣伝」と堕している点は否めないとは思う。NYC市長みずから全市あげて環境負荷低減に取り組むと演説したとかいう話もついでに(?)紹介されてますが、それにしてもいまの米国では、飲料水ボトル(ペットボトル?)のリサイクル率って36%にすぎないんですね。ペットボトルにかぎって言えば、日本国内の回収率は50%以上で世界一らしいけれども、同時に回収率とリサイクル率とのギャップもまた世界一らしい。アースデイにもどれば、けっきょくなんでもそうだと思うが、こうした運動ってしょせんはそのときどきの社会動向を写す鏡みたいなものにすぎない。

“Every Earth Day is a reflection of where we are as a culture,” he said. “If it has become commoditized, about green consumerism instead of systemic change, then it is a reflection of our society.”

3). 週末、墓参りで西伊豆に行ってました。墓参後、ちょっとそのへんをぶらぶらしただけでも、新緑に萌える山々から発散される大量のフィトンチッドに爽やかな潮風をぞんぶんに吸いこんだおかげか、心身ともにかなりリフレッシュできたような気がします。で、そのとき親戚の家に立ち寄ってお昼ごはん食べたんですが、その親戚は某全国紙を取ってまして、一面をぴろっとめくると例のWashington Post紙の辛口コラムのことが載っていた。本日発売の週刊誌でも書いた当人が取材を受けているから、ここで喋々するまでもないけれども、ちょっと気になったことがあったのですこしだけ。

 話題の記事について、コラムニストの書いた文章を見ればだれの発言かはすぐにわかる。いちいち書いた本人に聞き出すまでもない話ではある(以下、下線は引用者)。

By far the biggest loser of the extravaganza was the hapless and (in the opinion of some Obama administration officials) increasingly loopy Japanese Prime Minister Yukio Hatoyama. He reportedly requested but got no bilat. The only consolation prize was that he got an "unofficial" meeting during Monday night's working dinner. Maybe somewhere between the main course and dessert?

 むしろ問題だと感じたのは、当日のオバマ大統領がどんなふうにことばを交わしたのか、ということ。これについて、その全国紙の一面には24日付けPost記事の要旨まで掲載されていて、それを見てえッ?! と思い、原文を見たら、

The meeting Friday followed a brief and blunt tete-a-tete between President Obama and Hatoyama on April 12 during the prime minister's visit to Washington for the Nuclear Security Summit. During the 10-minute encounter, Obama told Hatoyama that the two countries were "running out of time" and asked him whether he could be trusted. Japanese officials were so taken aback by the toughness of Obama's tone that they did not draw up a written record of the words exchanged between the two leaders, sources said.

あらま、ほんとだわ(苦笑)。ということは、「わたしの耳ではそんなこと聞いてない」というのは、ウソだったんだな。この人って、自分に都合の悪いことはみんな「聞かざる」になっちゃうらしい。というか、はっきり言ってつまんない見栄ばっか張っている印象がぬぐえない(べつにこれだけじゃなくて、ほかの発言なんかもすべてにおいて)。ヘンなとこで見栄っ張りなんだな。たしかに相手にスゴまれて「ほんとに信用してもいいのか?」と訊かれました、なんて口が裂けても言えないか。

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2010年04月19日

まさしく地獄の業火

 アイスランド南部の氷河、エイヤフィヤトラヨークル(Eyjafjallajökull, jökull=glacierの意)火山が大爆発を起こし、成層圏あたりまで吹き上がった大量の火山灰が偏西風に乗ってたちまちのうちに欧州上空に広がり、空の便に大変な影響が出ていますね。旅行客や仕事や学会などで欧州に出かけられていた方もさんざんな目に遭っているのですが、航空貨物や輸入食材(とくにチーズや海鮮、魚などの生鮮食品関係)も足止めされてしまって思わぬところにまで影響が出ています。個人的にもっともおどろいたのは、すでに上空の火山灰は北大西洋まで越えて、カナダ・ニューファウンドランドにも到達していること(参考リンク→NASAの報告ページ)。比較神話学者のキャンベルに言わせれば、これら人智の計り知れないとてつもない現象をじつに明快に「怪物」だと表現していた。TV画面で見てもあの夕陽(?)に照らされているのか、オレンジ色に染まり電光まで走らせもくもくと湧き上がるあの噴煙のものすごさときたら、言語を絶するものがある(折悪しく中国のチベット高原では大地震まで発生してしまった)。日本ではとりあえずとんでもない異変は起きてないとはいえ、たとえば今年の春の異常な天候は、やはり怪物じみたなにものかを感じずにはいられない。なんとominousな春だろうか(→関連記事)。

 ラテン語版『聖ブレンダンの航海』 23-4章に出てくる海底火山および陸上火山の噴火にブレンダン一行が遭遇したと思われる場面。ギリシャ・ローマの古典の記述を参照したのか、それとも北大西洋のアイスランドかカナリア諸島あたりの火山噴火を目の当たりにしただれかさんの証言にもとづいて語られているのか、さだかではないけれど、あのどす黒く、生き物のように刻々と姿かたちを変える巨大な噴煙を見ていると、やっぱりあの記述はじっさいに火山噴火を見た人からその恐ろしさを伝え聞いたからこそ書けたのではないか、と思ってしまう。

 NYTこちらのギャラリーページにもそのすさまじい噴煙がみごとに捉えられています。また画像投稿サイトでは特集(?)ページまで組んでいて、あらためて今回の爆発の規模がいかに大きなものであるかを感じさせられます。

 NYTに写真を寄稿した写真家は30年、アイスランドの気まぐれな火山風景を撮影している人らしいけれども、欧州全域の空の便を事実上麻痺させたような噴火は経験がないという。

But until Sunday morning he had never seen anything like the volcano that is tying up air traffic in much of Europe, he said.

 そしてここの火山は過去200年ほどはおとなしくしていたらしい…ということは富士山もそろそろ危ない?? で、大島の「御神火」とおなじく、アイスランドの人にとっても「観光客向けの噴火」とそうでないものがあって、今回はその後者にあたる。エイヤフィヤトラヨークルでは先月まで「真っ赤な溶岩流を吹き出す」タイプの通常見られる噴火がつづいていたという(これははじめて知った)。それがやっと収束したと思ったら、こんどはその近くからあらたに大噴煙を吹き上げたのだからたまらない。自然の力はやはり計り知れないし、予測不能です(専門家は、氷河とマグマが接触したために大規模な水蒸気爆発を引き起こしたと考えている。そういえば過去にもアイスランド中央部に転がる欧州最大の氷河、ヴァトナ氷河下の火山が噴火したときもこんな感じで噴煙を吹き上げていた)。

 エイヤフィヤトラヨークルあたりは『航海』に出てくる「炭のように黒い」という描写どおり、玄武岩質の真っ黒な火山岩類からできています(アイスランド南岸の断崖絶壁とその下の浜辺もみごとなまでに真っ黒)。とはいえいまのところは中国の地震とはちがって直接の犠牲者は出ていないことは、不幸中の幸いではあります。はやく噴火が収まることを祈るのみ。これだけ大量の火山灰を吹き上げているし、今後の気象異変とかも心配(→Wikipedia日本語版にも詳細な記事が出てましたので念のため。それにしても『アイスランド地名小辞典』なんて地名辞典が30年前に発行されていたとは! 昔セヴェリンの航海記録(The Brendan Voyageです)を読んでいたときに頻出するアイスランドの難読地名の発音がわからなくて、図書館とかに通って大型地図をコピーしたり、日本人OL三人組の書いた『アイスランド 何処ドコ紀行』などの旅行記なんかも手許においたりしてあったけれども…)。

posted by Curragh at 23:48| Comment(0) | TrackBack(0) | Articles from NYTimes