2010年02月07日

通り名は'ジェリー'

 こちらの共同通信配信の記事を読まれた方も多いかと思いますが、探してみたら元記事はどうもこれらしい。

 言わずと知れたホールデン少年の「反抗の」物語、『ライ麦畑でつかまえて』の作者、小説家 J.D.サリンジャー氏が 91 歳で逝去しましたが、晩年を過ごしたのはニュー・ハンプシャー州のコーニッシュというコネティカット川沿いの人口わずか 1,700 人の片田舎だったという。でも共同通信配信記事でも「要約」されていたように、けっしてrecluseだったわけじゃなくて、地元住民からは「ジェリー」と呼ばれて親しまれていたそうです ( → サリンジャー生前のコーニッシュ取材記事 )。

 もっとも最初から気やすく、というわけでもなかったみたい。世界的なベストセラー作家になった直後に人目を避けるようにしてこの地に移住してきたことから、当初口をきいたのは大人の住民ではなく、大作家であることをなにも知らない子どもたちだけだったらしい。その後は住民のあいだで「 'ジェリー' 氏のことは物見高いよそ者にはいっさい口外しない」というのがいわば不文律になったようです。

How far afield the directions went “depended on how arrogant they were,” said Mike Ackerman, owner of the Cornish General Store.

 …こう発言しているのは左の画像でピザこさえている人 ( なんとなく「フルハウス」のジョーイみたい ) 。ずいぶん意地が悪いですな ( 失礼 ) ! 

 その当人が亡くなったいま、住民がすこしずつ、このジェリー氏との思い出を話しはじめた――たとえばプレインフィールドにある Philip Read Memorial Library という図書館の常連で、Plainfield General Store というお店には毎日、閉店前にやってきて買い物をし、「マディソン郡の橋」みたいな「屋根つき橋」を渡ったところにあるウィンザーというとなり町にあるスーパーマーケットにも現れ、またそこの軽食堂でランチを食べていた。南に隣接するマサチューセッツ州にあるダートマスカレッジ図書館にも足繁く通っていたという。また 50 年代のサリンジャー氏は、ウィンザー高校の生徒たちと交流していたとも。ここ数年、ほとんど自宅から外出することはなかったらしいけれども、ローストビーフの出る費用 12 ドルの教会の夕食会は大好きで常連だったという。一時間半くらい前に教会にやってくると、時間になるまでらせん綴じのちいさなノートになにかを書いていたという。給仕している子どもたちに「チップ」をはずむ、数少ない参加者でもあった。キルト編みの達人でもあった二番目の夫人コリーン・オニールさんは、とくに町のことに熱心で、町にまたがる広大な土地を買い上げて、開発による破壊からコーニッシュの静かな環境を守ったという。最後に教会の夕食会に出席したのが昨年12月、亡くなるまでの2回はコリーン夫人が食事を持ち帰っていたらしい。

 …いま「紙に印刷された」本がアマゾンの Kindle に代表されるような「電子媒体」に取って代わられるかもしれない、という時代ですが、個人的には「辞書・事典」のたぐいはしかたないとしても、あんなもので小説とか読む気はさらさら起きない。新聞記事は抵抗ないかもしれないが…げんに NYT はこうして「電子版」を引いているし。また Google の進めている「電子図書館構想」とかもどうなのかな…あっちこっちでものを書いて食べている人々・出版社とそうとうやりあっているけれども … サリンジャー氏がこの怒涛のごとき趨勢を見たら、いったいなんと言うのだろうか。

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2010年01月29日

バロックオルガンの精密なレプリカ

 じつは昨年暮れ、こんな興味深い記事があったということをいまごろ知りました。音楽関連 … なのに扱いはなぜかScienceだったというのも、気づくのが遅くなった理由かもしれない。

 コダック社創業者ジョージ・イーストマンは苦労人だったから、自身が成功を収めたあとは積極的に慈善事業へも寄付をしたりしていますが、教育にたいへん熱心で、教育機関を設立してもいます。イーストマン音楽大学もそのひとつ。で、ここのオルガン科教授陣にスウェーデン・イェーテボリに本拠を置く古オルガン修復の専門家集団の創立者であるオルガニスト先生が2000年に加わり、ロチェスターの米国聖公会クライスト教会に新オルガンを建造することになった。新楽器建造の方針は、「盛期バロック時代オルガンのレプリカ」。できればバッハ自身が演奏した可能性のある楽器を再現すること。でもいざ調査をはじめてみると、教会の西入口上にあらたに設置されるオルガンロフトにぴったり収まるような楽器が見当たらない。そのとき教授陣が目をつけたのが、1776年に建造されたリトアニアの首都ヴィリニュスにある聖霊教会に現存する後期バロック型オルガン。バルト三国は旧ソ連邦だったため、原理主義的な共産主義政府からオルガンを守るため、リトアニアのオルガン建造家によって長いことこの楽器は「塩漬け」状態で封印されていた。皮肉なことにそれが幸いした。欧州の現存する古オルガンは、後世の「修復」を受けているのがつねで、とくに19世紀以降の「修復」によってかえってオリジナルの「響きのよさ」が完全に損なわれ、最悪の場合はまるでべつものの楽器に「改造」されたりした場合がひじょうに多い。リトアニアのこの楽器の製作者は東ザクセンで活躍したアダム・ゴットロープ・カスパリーニという人。カスパリーニは叩き上げの職人 ( journeyman ) で、カスパリーニが建造にかかわった楽器のうちすくなくとも一台は、バッハその人が検査したことがわかっているという。

Then they thought of the Vilnius organ. It had been built 26 years after Bach died, but Casparini had worked as a journeyman on at least one organ that Bach had tested, and could have known him.

 20世紀前半、ロマンティックオルガンに代表される建造のあり方を見直し、「バッハへ帰れ」と唱えたシュヴァイツァー博士の運動の影響もあってか、第二次大戦後は一転して「ネオバロック様式」の楽器が中心になり、当時の楽器の建造法などもさかんに調査されたりした。けれどもこれらの楽器の大半は「成功していない」。そう取材にこたえているのは、なんと日本人オルガンビルダー、横田宗隆氏という方。寡聞にしてお名前は存じあげなかったのですが、こちらのページにも紹介されていて、日本人って器用なんだなあと感心しきり ( 典型的な不器用人 orz ) 。

 計画発足からまる4年は、オルガンの各部材の調査と製作にかかった。使われている釘の寸法からなにからなにまで計測しまくって図面を引いた――集めたデータはなんと電話帳数冊分にもなったというからこれだけでもすごい話 ( オリジナルは演奏不能のため、将来のレストアのためにも正確な資料作りが必要だった ) 。苦労してやっと完成させた楽器を米国に運びこみ、建造をはじめたのが2007年。楽器が組み上がるまでさらに一年かかったというから、このような「古楽器」を精密に再現するのがいかに難事業かがわかろうというものです。当然、ストップのコンビネーションとかスエルペダルもなし。そしていまや常識となっている「送風機 ( ブロワー ) 」もなくて、送風までなんと人力 ( ! ) 。徹底的です ( 足踏み式の、巨大な革製のふいごで風を送る ) 。

 金属パイプはオリジナル楽器とおんなじ配分の錫と鉛の合金。それを ―― 伊・マショーニ社同様 ―― 一本一本ていねいに手作り。木管はマツ材で、こうしてこさえられたパイプはぜんぶで2200本以上。二段手鍵盤と33のストップもすべて昔ながらのローラーボードにトラッカーアクション ( オークとシナノキ材 ) で各パイプと連結されています。金属ワイヤとか滑車のたぐいはいっさいなし。

 こうして2008年10月、新しいけれども古いオルガンは晴れてこけら落としの連続講演会と演奏会でデビューとあいなる。いまは日々のミサなどの礼拝に使われるほか、イーストマン音楽大学のオルガン科生徒の授業に使われてもいる――米国でバッハ時代そのままの楽器を演奏できるのは、まさしくここだけというわけです ( → イーストマン音大オルガン・プロジェクト内の関連ページ ) 。

But if you play it right, added Stephen Kennedy, the musical director at Christ Church, it will do you proud. “It’s fabulous for hymn-singing, and the lighter sounds have incredible vitality,” Mr. Kennedy said. “It screams with joy.”

 … ところで取材中の記者が聴いたという「神の子は来たれり」というコラール前奏曲って、BWV.724のほうなのか、それともBWV.703のほうなのか ??? 音声ファイルも聴いてみましたが、なるほど温かみのある音色で、アンドレアス・ジルバーマン製作の楽器の響きにも似ているかなと思った ( 秋に退職した NYT のもと編集者氏が All the stops なんて米国におけるオルガン通史本まで書くほどのオルガン好きだった、というのも興味を惹かれた ) 。

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2010年01月23日

どこでも風力発電にまつわる問題はあるものだ

1). まずはこちらから。米国東海岸マサチューセッツ州の景勝地ケープコッド沖に浮かぶナンタケット島。そのちょうど中間、ナンタケット海峡のほぼ中央の海上に巨大な風力発電用の風車を130基、建設する計画があるらしい。地元先住民のマシュピー・ワンパノアグ、アクィナー・ワンパノアグ部族が建設反対を表明していて、この二部族代表の要請を受けた国立公園局(NPS)が4日、「歴史登録財」の対象になったと発表したことで、計画はさらに遅れることになった、という。

 'Cape Wind'と名づけられたこの大型風力発電所計画、2001年に建設計画がもちあがった米国初の海上風力発電計画で、州知事も計画を積極的に後押し。風車の建設予定水域はなんとマンハッタン島がすっぽり入るほどの広さ。二部族のおもな反対理由は――「日の出を迎える儀式ができなくなる」こと。海上に風車が林立したら伝統儀式ができなくなって困る、先祖代々の埋葬地も汚される、あの海域には先祖の残した遺物も眠っている、と猛反対。国立公園局の決定は風力発電所計画じたいを頓挫させるものではないけれど、計画の変更もしくは「移転」ということもありうる、という。内務省長官が先住民代表と発電会社とのあいだで3月1日までに合意に達するようにとも言っているそうですが、それでもダメなら長官自身が「歴史的遺産の保存に関する諮問委員会」という第三者機関の意見を聞いたうえで判断するとか…それでも国立公園局の決定という追い風を受けた反対派側は訴訟を起こすかもしれない(反対派にはこういう団体もいる)。記事の書かれた時点でつぎの週に、内務省長官は反対派先住民代表と開発業者双方と直接会って話を聞く予定とも(じっさいに会ったかどうかは知りませんが)。ちなみに「頑強な」反対派のなかにはナンタケット海峡を見下ろす高台に家屋敷をもつ故ケネディ上院議員もいたという(ナンタケット島は超高級避暑地でもある)。

 じつは伊豆半島でもこの風力発電所建設が問題視されていて、たとえば東伊豆町奈良本の背後にそびえる尾根づたいに10基ある風力発電用風車の騒音問題があり、また石廊崎背後の山稜線沿いにも風力発電施設がすでに建設され、今年から運転を開始するということも聞いた。またいま調べてみたら西伊豆町安良里の背後にそびえる標高605mの大野山あたりも風力発電用風車の建設予定地に入っていて、びっくりした。当然、高規格道路の走る西天城高原にも同様の計画が…「風早峠」あたりだろうか。船原峠付近に建設計画があることは承知していたけれど、このせまい半島内でこれだけ風車建設計画があると、これではかえって自然環境にダメージをあたえかねない。かつてのゴルフ場とおんなじだ、という反対派の方の書かれた文章も読んだ。いまのところは「浮体式」と呼ばれる海上用の巨大風車の計画はないようですが、「クリーンエネルギー」という大義名分のもとならなにやってもいいわけではむろんない。あのばかでかいブレードの風切り騒音は深刻のようだし、東伊豆の発電施設であったように、勝手に自損事故を起こしたりして、運用効率的にも問題があるように感じる。こちらのNEDO報告書によると、洋上発電タイプは稼働していない時間、「ダウンタイム」が多いみたいです。

 自分はまだ石廊崎の施設を至近距離で見たことがないけれど、けっきょく問題なのは建設予定地の自然破壊と自然景観の破壊、そして周辺住民の健康被害に尽きるように思う。「バードストライク」など、野生動物にたいする影響もある。ナンタケット海峡の風車は高さ134mにもなる。これが130基も出現したら…事前の環境調査では自然環境にたいする影響は「わずか」だとして計画は推進されたという経緯があるようですが、ほんとに「わずか」なんだろうか。こんな超大型風車ではなくて、マッキベンが『ディープ・エコノミー』で書いていたように、各居住地区ごとに小型発電を設置させたほうが、メンテナンス面でも効率がいいんじゃないでしょうかね(国内の風力発電施設関連では、環境省が4月から低周波音による健康被害の実態調査にはじめて乗り出す予定で、東伊豆町の風力発電施設も調査対象になるという)。

2). 話変わりまして、みなさんは歩行中、ケータイをいじくってませんか? ワタシは――前にも書いたか――ケータイに夢中になっている女子高生の自転車にはねられそうになったことがありますが、こっちの事情もおんなじらしくて、こんな記事が目にとまった。このほどまとめられたオハイオ大学の調査によると、2008年だけで、携帯端末をいじりながら歩いていたことがもとで怪我をして救急にかつぎこまれた人がなんと1000人以上もいたという。この数字は前年度比で2倍、前年度はその前の年度とくらべて2倍近くて、ようするに2008年は2年前にくらべて4倍近い数の人が携帯端末が原因で事故にあっている(この手の調査ははじめて行われたという)。もっとも調査を指導した教授に言わせればこの数字は「氷山の一角」。たしかにコケたりぶつかったりすべったり転んだりしても、たいした怪我もない場合は多いですよね。車を運転しながら…はもちろんご法度ですが、歩いていてもやっぱり「注意散漫」になることが証明されたかたちです。

 また西ワシントン大学で心理学を教えるアイラ・ハイマン教授によると、画面を見てテキストを打ちこんで、ということをしなくても、ただ「通話」しているだけでも「目の前のものをちゃんと見ていない」、「非注意性盲目」という現象に陥るという。教授は学生のひとりに道化の格好をさせてキャンパスの中央広場で一輪車に乗ってもらったら、携帯で通話しながら通りがかった学生は、一輪車のクラウン学生を見ているにもかかわらず、それが脳に「認識」されることなく、文字どおり「右から左へ」抜けちゃっていて、クラウン学生を認識したのは25%にすぎないという。おなじ「会話」でもふたりで会話しながら歩いていた学生のほうが認識率は倍以上だったようなので、携帯電話での「会話」が脳にあたえる影響のほうが深刻だ、ということを暗示している。おなじ「ながら」なら、まだガムを噛み噛み、のほうが「繰り返しの行為ですっかり慣れ、無意識のうちに」できるからまだましだという。これにたいして携帯での通話のほうは、聞くことのみならず見ることにかかわる脳機能も使うから問題だ、ということらしい。米国ではこの手の事故、やはりiPhone発売後から急増しているみたい。ちなみに、

Cognitive psychologists, neurologists and other researchers are beginning to study the impact of constant multitasking, whether behind a desk or the wheel or on foot.

の下線部、behind the wheelというのは「ハンドル(steering wheel)をにぎって」、つまり「運転しながら」。

 カリフォルニア大学の神経科学者先生ももっともなことを言ってます。

“An animal would never walk into a pole,” he said, noting survival instincts would trump other priorities.

典型的な仮定法の文章ですが、たしかにそうだよね。

 …そういえばNYTって来年から有料化…するみたいですね。具体的にどうなるのかはよくわからんけれども(→国内関連記事)。

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2010年01月11日

METの騒動と15歳の新星

1). まずはMET関連の記事から。初耳だったがMETは自前で児童合唱団をもっているようで、そこの合唱団を20年以上にわたって引っ張ってきたエレナ・ドリア女史。寡聞にして知らなかったが米国では有名な合唱指導者らしくて、METの児童合唱団の卒業生には女優のエミー・ロッサムもいるとか。名伯楽、と言いたいところではありますが、昨年のシーズンしょっぱなの1月、突然、辞職してしまったという。この件について当初MET側からはなんの公式発表もなくて、最近MET側が明らかにしたところでは、ドリア先生は「退職した」。でもシーズン途中の突然の辞職というのは常識的に考えにくい。ということで辞めた本人に取材を申し入れたら、取りつく島もなく断られたという。

 こちらの記事に動画がありますが、かなーり強面の女性とみた。じっさい、子どもたちにとってはそうとうおっかない鬼(?)先生だったようで、その指導方針をめぐって子どもたちの親と対立することがあったらしい。辞任した直接の原因となったのは、言うことを聞かないある女子団員との揉めごとだったようです。

 記事によるとここの児童合唱団は総勢約125人という大所帯で、今シーズンは「トスカ」や「三部作」、「魔笛」などに出演していた。合唱のクラスは週一回、90分から2時間ほど。オーディションで出演者を選び、本番および長時間の稽古にも報酬が支払われるけれども、学校を休んでいいのは週二日だけという。

 でもいくら指導が厳しいとはいえ、たとえばこういうのはどうなのかと思う。

Corkie Jarrett said her son Sky was a member of Actors’ Equity when he joined the chorus but dropped out when he won a part in a workshop for the musical “How the Grinch Stole Christmas.” That angered Ms. Doria, Ms. Jarrett said.
“She felt that Sky was kind of not being loyal,” Ms. Jarrett said. “I was intimidated by Elena’s kind of fierceness, but it was clear to me that she was fierce about the children’s chorus because she wanted it to be great.”

これって「二重契約」にならない? こんなことされたらだれだって怒るわな(引用中のミュージカルは、米国では有名なDr.Seussの絵本が原作)。

 ドリア先生がとくにうるさかったのは行儀作法と時間厳守。とはいえただガミガミ厳しいだけじゃなくて、入団試験のときに子どもたちに歌わせるのはなんと'Happy Birthday'の歌。かつてNYTの取材を受けたとき、ドリア先生は基本的な指導姿勢として、「子どもたちには舞台上でやってはいけないことはぜったいにさせない。あくびしたり、時計をちらちら見たり、鼻に手を当てたりとか。それとつねに自分のほうを見る癖をつけるつけるようにしている。自分が指揮者の代わりだから」とこたえたそうです。

 インタヴュー番組に出演したときは、「子どもたちにはMET最高の歌い手になってほしい。それに耐えられないのなら、テニスでもしていればいい。いまのところ、みんながんばっていますけれども」みたいにこたえていたドリア先生。大多数の団員はドリア先生が好きだといいます。音楽にとどまらず、人としていろいろ学んだと感じている子どもたちが大半のようです。

 いまの指導者はもとニューヨーク市立オペラ児童合唱団を率いていたアンソニー・ピッコロ(なんかかわいらしい名前だ)氏。あたらしい指導者のもとでもおおいに活躍してほしいものですね。

2). 音楽つながりではこっちの記事も目にとまった。カナダ・オンタリオ出身の15歳のシンガー、ジャスティン・ビーバーなる少年。こういう記事を見ますと頭に思い浮かぶのは天才少年カントリーシンガーのビリー・ギルマンですが(1988年生まれだからもう21になるんだね。ということはけさ再放映されていた辻井伸行さんとおない歳か)、時間がないからほんの二、三のみ、歌っている動画を見たけれども、見たかぎりでは例の五段階評価でいくと「うまうま」ではなくて「うまい」と「ふつう」のあいだくらいか(「紅白」で歌っていたボイル女史は「うまい」かな?)。身長が160cmあるかないかのようだから、声変わりの進み方がゆっくり目みたい(この数か月で半音、下がったとのこと)。ビリーくんと決定的にちがうのは、記事の扱いにも現れているけれども、シンガーというよりいわゆるティーンアイドル。でも従来のアイドルとまるでちがうのは、一般のファンが彼をスターダムへと押し上げたこと――YouTube世代のスターということですね。

 ジャスティン少年が12歳のとき、地元のタレントコンテストに参加したら二位に入り、当日見にこられなかった家族や友だちのためにYouTubeに自分の歌っている動画をアップしたときからことははじまったみたいです。まったく偶然にそれを見た、アッシャー・ロスなるラッパーを「発見した」マネージャー氏が興味をかきたてられ、ついにジャスティンくんが住んでいたオンタリオの小学校を突き止め、学校側を説き伏せて彼の家に電話を入れたのだという。その間、YouTubeの動画――アッシャー自身やクリス・ブラウンの曲のカヴァーも含まれていた――は口コミで広がって、すでに彼の固定ファン層が形成されていたらしい。彼の家庭はいわゆるシングルマザー世帯で、貧乏だったという。地元のコンテストに出たあと、ギターをかついで劇場前の路上で歌ってみたらなんと3000ドル(?、米ドル換算??)近くも稼ぎ出して、その金ではじめて母親とディズニーランドに遊びに行ったという(彼はギターのほかにピアノとトランペットの演奏も自己流で身につけ、またドラムも習っていたという)。いまは母親とともにアトランタに移住して、アッシャー氏とともに共演したりとたいへん忙しいようです(この記事の取材のときにはロードアイランド州プロヴィデンスのホテルでライヴ、つぎの日はアトランタへとんぼ返りでまたライヴ)。

 思春期まっただなかのジャスティン少年、最近はちっとも言うことをきかないと母親は嘆いておりますが、本人はけっこうけなげなことも言ってます。

“I grew up with not a lot of money,” Justin replied. “We never owned a house. I want to buy my mom a house.”

 ティーンエイジャー(と彼女たちの母親も)の追っかけがすごいらしいジャスティン少年のもっかの楽しみは、アトランタの自宅に帰ったら、現地でできた友だちとビデオゲームをすること。そして、運転免許試験を受けに行くことも楽しみにしているようです。

 声変わり後、この子がどんな歌い手になるのかはわからないけれども、お手本のアッシャー氏のような感じの歌い手になるのかな? 

おまけ:ウィンチェスター大聖堂の構内って、なんと冬場はアイスリンクになるんですねぇ。知らなかった。それにしても手袋もはめずに、みんな元気だな…(人一倍の寒がり)。

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2010年01月03日

携帯端末にもセキュリティ対策の時代

 …この年末年始、大晦日の記事でも書いたように「読んでない」和洋書をあっちこっちつついて過ごしてました。もちろんNHK-FMも聴きながら。このあとは恒例の「NHKナゴヤ・ニューイヤーコンサート」が放映されるので、そちらを楽しむつもり。

 こちらはクリスマス前に出た記事ですが、個人的にちょっと気になっていた事柄なので、ここでもかんたんに触れておくことにします。スマートフォンの普及で、いよいよ「電話」なのか「PC」なのか、よくわからなくなっている携帯端末と呼ばれるもの。とくにiPhoneとかGoogle社のAndroid OS搭載端末あるいは――国内では未発売ながら――WebOS搭載のPalm Preなんかがそうですが、前から思っていた疑問として、セキュリティ対策はいったいどうなってんだろうと。iPhoneの場合、Apple社は自社以外のプログラムをOSのバックグラウンドで動作させない仕掛けにしているらしいから、たとえばPCで言うところのノートン先生などのサードパーティ製のセキュリティソフトウェアは通常、インストールできない。でも記事にもあるように昨年、新手の「不正な」プログラムがNokia製の携帯端末を乗っ取り、所有者の口座から不正送金させていた、ということがKaspersky Labから報告されているみたい。こんな記事が出てはや数年が経つけれど、いまや「ウイルス対策ソフトが欠かせなくなるような時代」になったと思う。

 若いITベンチャー起業家がそれこそごまんといる米国ではやっぱりそういうところに目をつけた新興企業(と彼らに投資するIT投資家)がいまして、記事で紹介されている、サンフランシスコにあるLookout社もそのひとつ。創業者は南カリフォルニア大学を卒業した20代の若者3人組。記事が書かれた段階ではWindowsMobileとAndroid搭載端末用の提供にとどまっているようですが、いずれはiPhoneとBlackberryでも使えるようにするとのこと。「スマートフォン専用セキュリティソフト」というのははじめて耳にしたけれど、データのバックアップに消去、盗まれた端末がどこにあるのかを検出する機能などを備えているという。また、Basic版のみ無償提供とのこと。

“It feels a lot like it did in 1999 in desktop security,” said John Hering, Lookout’s 26-year-old chief executive, who for years has done research demonstrating security vulnerabilities in phones. “People are using the mobile Web and downloading applications more than ever before, and there are threats that come with that.”

App Storeに代表されるように、携帯端末用の「オンラインソフト」または「Webアプリ」が何十万と存在するようになり、これらの端末使用者はかつてないほどWeb上からいろんなアプリをダウンロードしている。ようするにPCとなんら変わらない状況。この手のセキュリティソフトの商売をする側としては、タイミング的にいまがまさにぴったりだった、というわけです。

 で、彼らの「製品」は、いわば「スマートフォンのノートン先生」みたいなものかな。でも彼らがおこなったという、「携帯電話のセキュリティはいかにもろいか」という実験結果には驚いてしまう。2005年、この3人組は、アカデミー賞受賞式会場近くに張りこんで、短距離ブルートゥース通信を使って赤絨毯を歩くセレブたちの携帯端末をスキャンした。その結果、ジャックされる危険性のある「脆弱な」端末がなんと100台もあったという(というかこの実験、法律に抵触するような気が…またとあるセキュリティ関連会議席上で、1マイル離れたところの携帯電話をブルートゥースを使ってジャックできたとのこと)。

 またLookout社では「携帯端末を守る」ということでは、たとえばバッテリをさらに長持ちさせるような仕掛けも開発中だという。

“The tipping point will be when we’re using the phone to shop and conduct banking,” Mr. Moss said. “The more you do with the phone, the more valuable a target it becomes.”

 ひるがえって日本ではどうなんだろうか。携帯電話はいまや財布としても使えたりするし…携帯で遊べるなんとかというゲームもいいけれど、セキュリティ対策は大丈夫なんだろうか、と他人事ながら気にはなります。また、こういう新興企業は日本でももっと出てきていいような気もするけれども…。PCのセキュリティという点では、もう「パターンファイル型」は時代遅れになりつつあるようですね(→関連記事)。

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2009年12月07日

21世紀のヴァージル・フォックス?!

 この前、たまたま目に留まったこちらの記事。タイムズスクエア近くのSt. Mary the Virginという教会のエオリアン-スキナー社製オルガンを使って開かれた、キャメロン・カーペンターなる若いオルガニストのリサイタル評なんですが、掲載写真を見てもわかるとおり派手派手ないでたちです。なんでもこの日のリサイタルはテラークレーベルにライヴ録音するということで、楽曲間の拍手はご遠慮くださいとの演奏者本人のお願いが祭壇前に設置された大画面モニター(!)に表示されたとか。

 プログラムもちょっと変わっていて、演奏者自身の編曲によるショスタコーヴィチの「祝典序曲 op.96」、バッハの「トッカータ ヘ長調 BWV.540」、5つの「前奏曲とフーガ」をつなげた(!)独自アレンジ作品(「オルガン一台によるバロックオペラ集」とのこと)に、自身の作曲した「BACHの名前によるセレナード」(当日になってリストの「BACHによる前奏曲とフーガ」と差し替えられたらしい)。

 ど派手ないでたちに負けず劣らずその演奏スタイルも派手みたいですが、バッハの5つの「前奏曲とフーガ」組曲(?)では、たとえば「前奏曲 ロ短調(BWV.544だと思う)」では間奏部ごとにひんぱんにレジストレーションを変更したり、「フーガ イ短調(ふたつあるけれど、有名なBWV.534のほうだと思う)」の出だしでは細かに揺れ動く16分音符進行がだんだんに強まり嵐のごときペダルソロへともってゆく、そんな演奏だったようです。

 カーペンターさんの公式ページにあったプロモーションクリップも見てみましたが…あのくねくねと絶え間なく流れるように鍵盤上を駆け巡る「足の妙技」にはびっくり。派手なスタイルにショーマン的なところは往年のヴァージル・フォックスとかを彷彿とさせます(フォックスは文字どおり「両脚で立ち上がって」コーダの和音の二重ペダルを弾いたりととにかく目立つ演奏スタイルだった)。ライヴ録音されたのだから、いずれはAmazonなんかでも買えるかと思うので、いちおう考えてみようかしら。

 …今年の「聖ニコラオスの祝日」は運のいいことに日曜でしたね(6日)。そして今年もまた、この季節がやってきた(笑、動画を見たら、背景の富士山が「大沢崩れ」まで再現されていて、すごくリアルでした)。ついでに昨年のいまごろに書いた拙記事の最後にちょこっと出した、'Are you telling me what I think you are telling me?'なる一文。「いまあんたがおれに言っていると思っていることを、あんたはしゃべっているのか?」。これふつうの日本語の科白にしたら、「それって、ひょっとしたらひょっとして…」くらいではないかな。そして今日7日は、東南海地震が発生したり、またNYTニューズレターの「今日はなんの日」にもあったけれども、現地時間では真珠湾攻撃のあった日だったりと歴史的事件のあいついだ日ではありますが、キリスト教会系では「東西教会が和解した」日でもあったりします。1965年のこの日、当時のローマ教皇パウロ6世とコンスタンティノープル大主教アテナゴラス1世は1054年にたがいに破門しあった「大シスマ」以来、はじめて相互破門を解消すると共同宣言を発表しました。組織宗教というものはどこでもそうかもしれないが、ささいな一点が譲れない一点となって分裂したりするものです。東西キリスト教会の場合、教会暦のちがいとかいろいろあったけれども、最大の「譲れない一点」はいわゆる「Filioque(=from the Son)問題」。これが決定的な対立を生み、東西教会が大分裂することになったのでした(なお、こちらのブログ記事によるとサン・ピエトロ大聖堂の「聖なる扉」脇に、この「歴史的和解」について、ギリシャ語とラテン語と併記するかたちで碑文が刻まれているという)。

 …本文とまるで関係ないけれど、Googleって日本語入力ツールまでリリースしているんですね…知らなかった。いちおう評判がいいらしいので、ためしに使ってみようかと思います(とはいえ最近のGoogleって企業買収しまくっていますな…CEO自身がそう明言してますし。たとえばこちらなど)。Googleといえば、ひっそりと(?)こんなオンライン辞書サービスまで開始していたりして…。

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2009年11月23日

新型インフルとエマール

1). まずは16日付けの演奏会評から。前日の日曜にこの春、改装オープンしたアリス・タリー・ホールにておこなわれたピエール・ロラン・エマールのピアノリサイタル評。プログラムはモーツァルトの「ピアノ・ソナタ K.284(最初、この記事を見たときにはK.282と誤記されていた)」。「デュルニッツ」という呼び名のついているピアノ・ソナタで、モーツァルト弱冠19(!)歳のときの作曲。つづいてジョージ・ベンジャミンという人のPiano Figuresなる作品に、シュトックハウゼンが1960年代に改訂版を出したKlavierstück IX(直訳すれば「ピアノ作品」)というふたつの現代作品をならべ、最後にベートーヴェンの「『エロイカ』の主題による15の変奏とフーガ 変ホ長調 作品35」、いわゆる「エロイカ変奏曲」という難曲を配置したものでした。この楽曲配列はいかにも、という感じ。

 評者によると、エマールの演奏じたいはfascinatingでよかったけれども、問題はほかのところにあった。記事タイトルにもすでに暗示してあるとおり、この日の演奏会、演奏者自身も集中力がそがれてしまうほどに、客席の「咳」が多かったそうです。

Mr. Aimard played the sonata with elegance and brio. At times he seemed distracted by the uninhibited coughing. During one coughing bout, he actually lost his place for a moment.

 それにもめげずにエマール氏、シュトックハウゼンの作品の前に作品紹介をしたそうで、何度も繰り出される鋭い和音を通して音響という現象を探求している記念碑的作品だと紹介したあと、「とりわけ咳はもっともよく響く音響現象で、ときには音楽におおいに介入してきます」みたいにさりげなく忠告してみせたりして…でもけっきょくこのリサイタル、エマール氏にはまことにお気の毒ながら、咳がやむことはついになかったらしい。それでもヴェーベルンの「子どもたちの作品」なる十二音作品をアンコールで弾いてくれたりもしたのですが、その最中でこんどは咳攻撃ではないべつのとんでもない攻撃が発生。

As an encore he played a short, hushed 12-tone “Kinderstück” (“Children’s Piece”) by Anton Webern. As the performance ended and the final delicate pitches lingered, the beeps of a cellphone filled the hall. Mr. Aimard looked annoyed. Who could blame him? There were no more encores.

…演奏者、さすがに切れちゃったかも(苦笑)。

2). でもこの咳、たんなる「演奏会場における騒音問題」ではなくて、評者が示唆しているとおり、新型インフルエンザ…の流行と関係ありそうです。9月の記事ですが、新型インフルエンザの大流行警戒中、ということもあるし、エマール氏の演奏会評見ていたらどうしてもこちらの記事のことが連想として出てきてしまったので、いったんボツにしたけれど紹介しておきます。

 記事は、City Criticなる女性記者が新型インフルエンザのパンデミック対策として、こちらの会社の用意した「完全防備キット(防護服にマスクにゴーグルに手袋、殺菌消毒ナプキンすべて込みで69ドルとか)」で全身かためて、じっさいにニューヨークの街に出て実験してみた、というもの。実験したのが9月だったから、紙でできた防護スーツはとにかく暑い。地下鉄なんかとくにそうで、冗談ぬきで倒れそうになったとか(そんな思いまでしなくても…)。街の人の反応もさまざまで、このけったいな出で立ちの記者をなるべく見ないようにしていた人がけっこう多かったとかいうのもおもしろかったのですが、B&Nの子ども本コーナーにて店の売り子さんから、「そのウィルス完全防備服はどこに行けば手に入るのか」と声をかけられた。もともとこのセットは未知の病原菌とかに感染して発病した患者と接触する人向けの商品。こんなものとてもじゃないけれど日常使用には向かないと言いかけたら、

She cut me off. “By the time you need it,” she said, “it’s too late to order.”

 この人の気持ちはよくわかる。いざ必要、となったらなったで、在庫なしとかよくあることだし(ふだんからの備蓄が重要ですな)。けれどもニューヨーク市衛生局長に言わせれば、

Dr. Thomas A. Farley, the city’s health commissioner, has often said that simple things like washing your hands and staying home if you feel sick are the most important precautions(下線強調は引用者).

しかり。

 また記者にたいしてはこうもこたえています。

As for gear, he told me, carefully, “If someone were taking care of a relative who clearly had an influenza-like illness, if they were in constant close contact, there might be some value to them wearing gloves or wearing a mask.”

Goggles? “I don’t think the virus gets into the eyes.” Paper suit? “No,” he said, “I don’t think so.”

Back to the mask, Dr. Farley noted that it is best worn by those with a virus, not those trying to ward it off.

 最近、「新型インフルエンザ対策マニュアル」みたいな文庫本をつい買ってしまったのですが、「看護のしかたは季節性インフルエンザとはまったく異なります」とあって、挿絵を見てあらためて憂鬱な気分になった――マスクと眼鏡(ゴーグル)、手袋まではめて、まるで記事に出てくる「完全防護服」ではないか。…この手の本を見てしまうと、自分の考えは甘かったかも、とどうしても思ってしまう。それでもとにかく、罹患した場合の対処法とか具体的に書いてあるので、足りないところは追って備えることにしよう。

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2009年10月17日

新聞週間に合わせたわけではないが

 15日からはじまった毎年恒例の新聞週間(知らない? さては新聞、読んでませんな)。いままで書いた記事でも「地元紙」ネタが数多く出てきますが、自分は印刷媒体・活字メディアの新聞というものはぜったいに必要なものと考えています。理由は基本的にラジオとおんなじでして、「いろんな立場にある、いろんな人の意見が読める」こと、「自分の知らない情報・見たことのない世界を手軽に知ることができる」こと。そしてときおり、いいかげんな記事も見られるとはいえ――あのNYTでさえ、「記事捏造報道」で大騒ぎになったことがある――プロ記者の取材記事は徹底的に「裏を取る」ことが大前提になっているので、いちおう信頼して読めるということ。また、リーマンショック以降のあまりに急激過ぎる世界的な金融恐慌の流れをかいつまんで説明してくれたり、最新技術について、あるいは想定東海地震の現状について、簡潔にわかりやすく書いてくれる記事とかはとても役に立つし、ありがたい。また読者の投書欄もわが意を得たりといい件もあれば、目からウロコの卓見ありと、これまた読んでおもしろい。書評欄も好きで、おそらく読むことはなさそうな新刊本の内容とかもかんたんながら知ることができるし、文化・芸術欄の記事も各方面の識者の寄稿文とかも手軽に読めたりする。また「時の人」というインタヴュー記事も読んでいて楽しい(囲碁の最年少名人位についた井山裕太さんと、第41回体操世界選手権でみごと日本人最年少優勝を果たした内村航平さんという、ともにはたちのお二方の快挙がきのうと今日連続で載っていた)――こういう多彩な情報・報道を掲載してくれるということが新聞の最大の利点。とはいえいまはネットニュースというものがあり、またGoogleによるニュース検索サービスとかが幅を利かせている時代で、自分より若い人のあいだでは新聞を取っていない人のほうが多数派になりつつあるようですね。でも新聞の肩を持つというわけではないが、たとえば日本のIT業界を引っ張っていると言われている人たちのほうが、じつは新聞を人一倍、熱心に読んでいたりする。以前、そんな人たちに取材した特集記事を読んだことがありますが、たとえばある若い経営者は朝、5つ、6つの全国紙をテーブルに広げてじっくり読み較べすることから一日をはじめるという。

 そんな折、Googleがまた(?)あらたなサービスを開始したと先月14日付NYTにありましたFast Flipというもので、じっさいにその「実験」サイトに行ってみると、NYTはじめ、BBC NewsIHTWashington PostNewsweekなど、30社(TechCrunchなど電子版のみの媒体も含まれている)ほどの電子版の紙面がそのままキャプチャされた画面が並んで出てきます。ページを繰るような感じでどんどんスクロールして、見たいと思ったらその記事を掲載している新聞社サイトに直接ジャンプして閲覧、という仕掛けらしい。2002年に「Googleニュース検索」システムを開発した担当者(名前からはどうみてもインド系)によると、従来のネットニュースは紙の媒体にくらべてブラウジングのスピードが遅すぎ、これをもっとスピーディにすればより多くの記事も見てもらえるし、版元の広告収入も増える、ということで開発したんだとか。もっともこれは表向きの主張にすぎず、米国の新聞各社はどこも青色吐息、広告収入の激減をGoogleが提供しているような「ニュース記事検索サービス」が自分たちの記事に「ただ乗り」しているせいだという怒りの声を沈めるため、Googleは彼らの敵ではなくて味方であることをアピールすべく作った、というのがほんとうのところでしょう。

 参加している数社でさえこの「実験」を、業界最大の懸案である「広告収入の激減」を食い止める解決策にはなりえないといぶかっている。米国の新聞業界における広告収入の依存率は日本より高いらしいから、名前の知られた版元がつぎつぎとつぶれ、雇われている記者たちが突然、路上に放り出されたりしている。NYTでさえ運転資本まで危なくなるという自転車操業状態で、まだ建て替えたばかりのあたらしい本社ビルを売却したりと台所事情はひじょうにきびしい。Googleのこの実験サービス、へたするとただでさえ苦しいのに、さらに首を絞められかねない。でもいまの危機的状況ではGoogleにうまいこと言いくるめられているかもしれないが、しかたないという。

Of course there is a concern,” said Martin A. Nisenholtz, senior vice president for digital operations for The New York Times Company. “That doesn’t mean you don’t participate.”
He added that Fast Flip could help showcase sites like The New York Times better than current aggregators like Google News do.

かなり苦しい胸の内のようですね。

 手許にいまひとつ地元紙から切り抜いておいた記事があります。「危機に立つ新聞の課題・情報の一覧性大切に」という大学の先生が寄稿したコラム。米国新聞業界の窮状を引き合いに出した上で、あらためて活字ジャーナリズムに問われているものはなにかを論じています。よく言われる「速報性」。ネットのほうが紙の新聞より情報伝達という点では速いが、ネット上の情報というのは基本的に読み手が無意識のうちに選択したものに限定されやすいという欠点がある。これはようするに自分と相容れない意見・情報には耳をふさぎ、目をつぶることにひとしい。「このことは、主権者である市民にとって大切な、自分と違う意見や直接関係のない情報にも触れ、公の立場で物事を考える、という仕事を難しくしかねない」。「伝えるべきことをいち早く伝え、論ずべきことをいま論じ、権力や社会の動きに警鐘を鳴らす。それがジャーナリズムの仕事だ」。

 …地元紙については、誤植が目に付くだの、わりとケチつけていることが多かったりするけれども、たとえば浜岡原発一号・二号機の「廃炉」問題とか、全国紙よりも先駆けて取材したことは評価されていいと思う。地域密着型の地元紙の存在は、自分にとってはやっぱり大きい(そういえばいま開催中の「浜松モザイカルチャー(浜松立体花博)」のこととかもくわしく書いてあって読んで楽しい。ちなみに浜松市の出品作品は楽器の街・音楽の街浜松を表現したすばらしい作品でして、中央部分はオルガンをかたどっている)。

 情報をいち早く得るというのは目的ではなくて手段にすぎない。多様なものの見方、そして議論の場を提供するということは、新聞(そしてラジオも)という既存メディアにとってやはり大切なことかと感じます。もしそれがおろそかになったら、そのときこそサイバー空間上を飛び交う雑多でごたまぜになった「情報の嵐」に呑みこまれてしまうかもしれない。

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2009年09月30日

'Ponyo'に川越に東京パン事情

 たまった記事第二弾(orz)。駆け足で行きます。

 「崖の上のポニョ」がPonyoとして先月から米国でも封切り、という記事。わりと好意的な評でして、ポニョの顔が奈良美智氏の描くむすっとした女の子の絵に似ているとかはちょっと笑えたが、いま流行りの3-DとかCGとかはいっさい使わずにすべて人間の手で描いた「芸の細かい」ことが売り物の和製アニメ作品という点を高く評価してもいます。

The softly smudged field of grass that surrounds Sosuke’s house like a blanket is striking partly because you can see the touch of the human hand in each blade. The blurred pastel quality of the grass, the softness of this green mantle, convey a feeling of comfort that in turn summons up words like warmth, home, love.

観た人のコメントとか見ると、好き嫌いがはっきり分かれる映画みたいですね。とはいえこれ書いてる本人は観ていないから、なんとも言えんが…前にも書いたけれども、あの歌。あれ一度耳にしただけでみごとに刷りこまれてしまった人なので、あれだけでもうたくさんという感じ(笑)。大人の鑑賞にも耐える作品だと思うけれども、評者の言うごとく、やはり子どもにこそ見てもらいたい映画かと。内容とは関係ないことながらポニョの父親をなんと! リーアム・ニーソンが吹き替えているとは…なぜか「クワイ-ガン・ジン(SWのEP1ね)」を思い出してしまった自分…。

 つぎは旅ものから。なんとかつての城下町・埼玉県川越市が紹介されている! しかも――もう終わっちゃいましたが――例の「朝ドラ」のことまで出てきます(当たり前か)。

Its streetscape is so authentic that NHK, the national television broadcaster, is filming one of its serialized morning dramas in Kawagoe, a city of 330,000.

でも記事の書き手が教師として川越市に住んでいた20年以上も前に知ったように、ほんとうの賑わいというのはこんなものじゃなくて、10月に開催される「川越まつり」だそうです。3トンもある山車が何台も繰り出すそうなので、なるほどたしかにこれは見ごたえありますね。記事には「川越まつり会館」とか「小江戸」と称される古い町並み、とりわけ「蔵」について取り上げています(こうした古い蔵は「一番街」というあたりに集中しているらしい)。いまではこうした歴史的建造物も、瀟洒な喫茶店とか蕎麦屋とか蒲焼屋になっていたりして観光の人気スポット的存在。とにかく「昔の東京」を知りたければ、東京からは遠い「明治村」よりまずはすぐ近くの川越市に行くべし、と言ったところですか(ドラマや映画のロケ地としても知られる「大正浪漫夢通り」も紹介されています。また「スライドショー」には人力車も写っていたが、浅草でも見かけたし、伊豆西海岸の松崎町でも町役場の人がヴォランティアでがんばって営業しています)。

 「旅もの」ではそれより以前に、アイルランド南部の港町コーク(冒険作家ティム・セヴェリンが住んでいるところ)で過ごす36時間なる記事もありましたね。町中心部から北側の丘に聳える聖アン教会(1722年建立)の鐘楼からの眺めは絶景ですねぇ(有料。8つの鐘も鳴らせるみたい)。スライドショーも見てみましたが、市民の台所、'English Market'って400年もの歴史があるのか。リー河沿いにある「フィッツジェラルド・パーク」もとても美しい。木立が水面にまで垂れている雰囲気が、どことなく柿田川にも似ている。もちろんアイルランド名物のパブもありますが、フランシスコ会系修道院だったところにはなんとビールの醸造所まであります。でも個人的には「バター博物館」がおもしろそう。

 最後はこちらの記事。かつて在京の欧州人は故国のおいしいバゲットが恋しい、と思っていたが、いまでは逆で、故国のパンよりほかならぬ東京のパンのほうがおいしい! らしいです(こちらの元記事はどうもIHTからの転載らしい)。いわゆるパン屋、というより高級ブティックのおもむき。売り物も、乱雑に積み重ねてではなくて、手袋をはめてひとつひとつていねいにディスプレイする。で、当然のことながら、お値段も少々張る(引用記事中の「円」マークが逆スラッシュになってしまった。orz ちなみにWindowsのディレクトリツリーで「円マーク」として表示される部分は、本来はこの逆スラッシュで表示されるべきもの)。

The price tags will raise eyebrows: The average cost of a small baguette is \380, or $4, while pain de campagne made from natural yeast and domestic, organic flour can go up to \800.
Yuko Ohashi, a bread journalist ― yes, there is such a profession these days ― said: “Compared to buying a new blouse or a pair of heels, bread is so much more accessible, yet it generates the same kind of fashion experience.”

“The opposite of that experience is buying a toxin-laden, factory-manufactured bread that’s cheap and abundant and ultimately fattening,” she said. “Bread made from scratch, with natural yeast and organic ingredients, won't do that kind of damage.”

毒入りではないパンはこういうお店で、ということか。なんとか製パンの安いパンって、体に悪いんだろうか…って毎日食ってる本人はいたってピンピンしているから、いまのところは大丈夫みたいだけれども。ついでに「田舎風パン(pain de campagne)」とか「素朴なパン(pain rustique)」という言い方もはじめて知った。というわけで、もはや欧州の物まねではない、「東京スタイル」として確立したひとつの芸術になった、という。

Mr. Asano claims that Tokyo bread has reached a stage where it is no longer a Japanese rendition of an exotic Western product, but an artistic commodity that exists in its own right.

 …ここでいつものように脱線して、週末に聴いた「バロックの森」。おおなんですと、ジョスカン・デ・プレってあのダ・ヴィンチと知り合いだった?! ダ・ヴィンチがミラノにいたころの話だそうだから、ひょっとするとあの傑作「最後の晩餐」とかも見ているのかもしれませんね。バッハの「カンタータ第1番」もかかったけれども、あれってたぶん「カンタータ全集」のものでしょう。それといまさっき聴いた「インストルメンタル・ジャーニー」。おなじくバッハの「オルガンのためのトリオソナタ BWV.527」の第2楽章がかかったけれども、オルガン独奏ではなくてオーボエとチェンバロによる演奏でした。たまにはこういう演奏盤もしっとりとしていいですね(追記。先日、地元紙夕刊にも川越市のことが載ってまして、蔵造りの町並み、「時の鐘」、大正浪漫夢通り、一番街のこととか紹介されてました。なるほど、歩いてゆくとどんどんタイムスリップする町並みですか。東京からもそんなに遠くないし、時間があったら行ってみたいですね)。

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2009年09月19日

記事がたまりすぎた(苦笑)

 いま「N響定演」を聴きながら書いています。オール・メンデルスゾーン・プロ。「フィンガルの洞窟」、「スコットランド交響曲(第3番 イ短調)」といったおなじみの名曲の組み合わせ。指揮はオルガン・チェンバロ演奏家でもあるホグウッド氏。ホグウッドさん率いる「エンシェント室内管弦楽団」は、いまや「バロックの森」でもおなじみの感あり。

 このトピック、あんまりひさしぶりなので、印刷しておいた記事がたまってしまいました。orz 備忘録ていどに書き留めるだけなので、はなはだ散漫な書き方になってしまうのは平にご容赦を。とりあえずここひと月くらいのあいだに目に留まったものからいきます。まだつづきがあるので、それは後日ということで。

 NYTってiPhoneがらみの記事がほんと好きみたいですね。ほかにネタはないのか、というくらいに(もちろんありますが、技術関連ではなぜかiPhoneもの記事がやたらと目立つ)。そんな数あるiPhone関連記事では、たとえばこんなのがありました。重たくてかさばる、「印刷された」テキストブックなんか持ち歩きたくない学生さん向けのiPhone用教科書閲覧アプリ。記事で紹介されているような大手教科書版元数社が設立した会社から出ているPDF版の「電子テキストブック」を買って、それを手持ちのノートブックのブラウザに表示させて読む、というもの。で、2007年からはこのiPhone版が出たのですが…これが使いにくそう(苦笑)! そりゃそうだ、せいぜいがPC画面で見るために設計されたPDFファイルをむりやりiPhoneのちいさい画面に押しこんで読もうという代物ですから。しかもダウンロードしながら読むものだから、Wi-Fi接続でもいちいちページを開くだけで10何秒かかかる。それに文字なんかつぶれて読めないから、拡大する必要がある。拡大すれば、ページのいちばん下まで行くのに何度もスクロールする必要がある――めんどうくさいことこの上ない。それだったら印刷されたふつうの本の体裁のほうが早くない? 自分も最近はすっかり電子辞書が手放せなくなっているけれども、うろ覚えの単語なんか紙の辞書のほうが手っ取り早かったりする。なんでもかんでも電子版で、というのは賛成できない。そういうのは一種の幻想にすぎないと思う。

 子ども用の「おもちゃ」とておなじこと。こちらの記事を見てはじめて知ったのですが、米国では読み書きができる年頃になると、さっそくそういう子どもを当てこんだテキストメッセージに特化した携帯ツールがいくつも出ていて、ちょっと驚く。人格形成途上にある子どもたちに、これらハイテクなおもちゃ(?)がほんとうに必要なんだろうか。ご丁寧に就学前の子ども、小学生、プレティーン用とそろっていて、なかにはTwitterとかMySpaceとかのSNS投稿機能やGPS、そして――日本ではすでに当たり前になっているが――カメラまで搭載している(といってもせいぜい320万画素ていど)。それでも記事で紹介されている製品ではPeekという会社のProntoあたりは見た目BlackBerryぽくて、使い勝手のよさそうな印象は受ける。でもこんな高級なおもちゃって、ほんとうに子どもたちに必要なんでしょうかねぇ?? ちなみにPronto(イタリア語のpronto[もしもし]から?)端末の価格は60ドル、メッセージ送信できるアカウントは5つまでで、テキスト無制限サービスはひと月15ドルかかるんだそうです。そういえばシャープから電子辞書型の「ネット端末」が出ましたが、このKindleなみにお高い値段では、ふつうにネットブックかなにかでつないでネットサーフしたりブログ書いたりメール書いたりしたほうがまだましかも(苦笑)。またこの手の端末では、いまひとつPalm社から年末商戦に投入予定のPixiなる新製品も紹介されてました。PalmはPalmPreというスマートフォンがかなり受けているらしいのですが、こちらはそれよりさらに薄くて、画面もやや小さめ。でもGPSとか8GBのストレージという同程度の機能は受け継いでいるとか(→国内関連記事。Pixiの価格はまだ未定)。

 みんながこういうハイテク通信機器をやたらと使うようになれば、それを支える通信網にも当然、負荷がかかる。とくにiPhoneは3GSになってから米国のキャリアAT&T社のネットワークにかかる負荷が急増したものだから、利用者の多いニューヨークとかサンフランシスコとかの大都市圏で「通話が切れる」、「テキストメッセージが送れない/遅れて届く」なんて事態になっているという。記事を見るかぎり、AT&T社は必死にiPhone3GSユーザーの通信需要に追いつこうと基地局を2千以上も設置しつづけているらしいけれども、なんだか自転車操業的印象です。iPhoneユーザーが2年契約でAT&T社に払う金額は「通常の」スマートフォンの倍の2千ドルだそうですが、もしこの状態がつづいて、ほかのキャリアからもiPhoneが使えるようになれば顧客が流出しかねないという、なんとも皮肉なことになっています。同社のiPhoneユーザー数は900万人、ほかのスマートフォン利用者は2千万人。ということは単純にAT&T社のネットワーク網が脆弱だ、とは言えないように思う。記事冒頭にも'a data guzzler'とあるし、前にも書いたけれども「iPhone中毒」な方が多すぎるということなのかもしれない。

Owners use them like minicomputers, which they are, and use them a lot. Not only do iPhone owners download applications, stream music and videos and browse the Web at higher rates than the average smartphone user, but the average iPhone owner can also use 10 times the network capacity used by the average smartphone user.

いまや「Web閲覧」はiPhoneから、という人が主流になりつつある(すくなくとも欧米では)。でも動画や音楽、App Storeのダウンロードとかみんながいっせいにやりはじめたら…必然的にネットワークに負荷がかかってきますよね。

 とはいえかりにAT&T社以外のキャリアがiPhone3GSを販売するようになればなったで、そのキャリアもいずれはAT&T社とおなじ問題に直面するだろうから、次世代通信規格の4G網の整備を急ぐ必要があると言う人もいる(そういえば先日、NTTが米国市場に参入するとかニュースで言ってましたね…どうなることやら)。

Globally, mobile data traffic is expected to double every year through 2013, according to Cisco Systems, which makes network gear. “Whether an iPhone, a Storm or a Gphone, the world is changing.” Mr. Munster said. “We’re just starting to scratch the surface of these issues that AT&T is facing.”

 でもここでたいへん気になるニュースが。インドの学者チームの発表によると、ここ数年、世界各地で発生しているミツバチの謎の失踪事件。その「犯人」がどうも携帯電話基地局の出す強烈な電磁波らしい…これはたいへんです。もしこれが事実だと検証されたらそれこそ一大事です。いずれはこの問題も技術革新で解決できるのかもしれないが、それができないのであれば、携帯通信網をとるか、ミツバチをとるかの選択を迫られるかもしれない。個人的にはもちろん人間の勝手な都合でミツバチを絶滅させるわけにはいかないから、ミツバチをとる。ほかの電磁波は大丈夫なんだろうか。Wi-Fi網とか、いま急速に整備の進むWiMAXとかは…。

 けっきょく、いまの人間の技術というものは、なにかをトレードオフにして成り立っていることがほとんどだと思う。ひとつ進歩すれば、あるいは便利になれば、ひとつなにかを永久に失う。もうそろそろこういうことはやめないと、とんでもないことになりそうでひじょうにこわい気がする。

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2009年07月25日

なにごともていどの問題かと

 せんだってこんな記事が出てました。日本の「ケータイ」は技術的には世界最先端でも、世界市場には受け入れられていない。なぜか? というもの。

 記者も書いているように、たしかに日本の携帯電話――もはや電話ではないような気もするが――インターネットやメールはもちろん、電子マネーにもカメラにもなり、音楽プレーヤーかと思えば乗車券にも早変わり。TVのワンセグ放送も見られるし、最近ではなんと「鍵」(!)にもなるんだそうな。火付け役となったのは10年前――もうそんなに経つのか――ドコモのi-mode。メールについては、PCでメールというと「私書箱方式」で、メールクライアントソフトを起動して自分からメールサーバーへ取りに行かなければならない。これにたいして携帯電話のメールは、ポケベルの技術を応用してメール受信を直接、受信者の携帯端末にも知らせてくれる、「プッシュ式」というもの…らしい。おかげで(?)日本ではいたるところ、携帯端末でネット閲覧しているような人が巷にあふれるようになる。

Japan has 100 million users of advanced third-generation smartphones, twice the number used in the United States, a much larger market. Many Japanese rely on their phones, not a PC, for Internet access.

 こんなに多機能かつ高性能な「和製」携帯端末がいまだに世界進出できないのは、その進化のスピードが速すぎ(これにはせっかちな国民性もあるかもしれないし、通信会社側にも新機能を追加さえすれば顧客がもっと増えるという思いこみがあるだろう)というのと、i-modeのような「排他的」サービスで顧客を囲い込む商売に走ったというのもあるでしょう。世界では第二世代型携帯が普及さえしていない1990年代に日本ではすでに実用化されているし、第三世代型でも、あのiPhoneでさえ先代でようやく対応した通信技術はとっくに普及していたけれど、皮肉なことに、これが結果的に世界市場から「孤立」していったひとつの原因としている(日本国内の「第三世代型」携帯を使っている人の数は米国の倍だそうだ)。で、そうこうしているうちに、国内市場は飽和状態、新規契約が伸び悩むようになる。数年前からNTTやNECなどが世界市場進出をうかがってはいたけれど、すでに遅かった。いままで急激に伸びる国内市場ばかりに目が行って、世界基準で設計してこなかったツケがまわってきたというわけ。で、いまは欧米でのiPhoneフィーバーを見てもわかるように、世界的に「スマートフォン」が大人気。そういえばオバマ大統領って大のBlackberryファンで、けっきょく側近を説得してホワイトハウス内での携帯使用を認めさせたんだとか。

 ポーグさんの記事なんかもそうだけど、Timesの記事ってどうもiPhone偏向のような気がしないでもない。それでもたとえばUIとか端末のキー配置をとっても、日本の携帯端末はけっして使い勝手がいいとは思えない。何回かあのテンキーみたいなキーボードで入力したことがあるけれど、自分にはとてもむり。よくあれで「ケータイ小説」とか書けるもんだ。たしかに多機能かもしれないが、真に使い勝手をよくしたとか、なにかgroundbreakingなものがない。逆に、「こんな機能、ほんとうに必要なのか?」と疑問に思うことのほうが多い。たとえばカメラ。1メガピクセルの解像度なんてほんとに必要なの? たかが携帯にくっついているレンズに。それだから盗撮魔が増えるんじゃないですか? 秋葉原の事件のときも思ったけれども、携帯カメラって個人的には好きではない。

Then there are the peculiarities of the Japanese market, like the almost universal clamshell design, which is not as popular overseas. Recent hardware innovations, like solar-powered batteries or waterproofing, have been incremental rather than groundbreaking.

 日本のモノづくりって、たとえば昔の「汎用コンピュータ」とかを考えても、ゼロから設計する場合がほとんどで、他社製品との互換性とか、共用できる部分がかぎられているか、まったくない場合がほとんどだったように感じる。これはつまり、開発費用にそのまま上乗せされるわけで、i-mode開発者としても知られる慶応大の先生によると、日本国内での携帯端末開発費用はざっと100億円(!)もかかるそうです。記事に出てくるソフトバンクモバイルの上級副社長さんによりますと、「こうした取り組みは限界に近づいている」。ようするにカネがかかりすぎるのです。

 最近流行りの「ネットブック」。ブームの火付け役は台湾のOEM下請け生産していたAsusとかAcerで、彼らのアプローチの仕方は日本メーカーとはちがっていて、当初から発展途上国も含めた世界市場を視野に入れていた。PC販売最大手のHPとかDellとかは、そんな彼らの安価でWeb閲覧に特化したようなちっちゃい「ネットブック」を冷笑していたけれども、結果的には台湾メーカー側の読みが当たって、いまやPC売り上げではAcerがDellを抜いて世界第二位。縦割りで硬直化した日本のモノづくりと売り方の発想にも問題ありだと思いますね(→NYT関連記事)。

 とはいえ…米国ではかなーりiPhone中毒な方が多いみたいで…たとえばちょっと古いけれどこの記事に出てくる求職中の45歳の方。自分は'a gadget person'ではないと言いつつも、職探しのために買ったはずのiPhoneにハマって、いまや眠れないときなんかもついついいじってるんだとか。

“Basically, I’m walking around with a minicomputer in my pocket,” he said. “And it’s a part of me now, an appendage.”

 前にもこんなこと書いたけれども、自転車乗りながらケータイいじってる女子高生とかいますね。電車やバスでも、ケータイとにらめっこしている人を見ないときがない。ちいさいお子様連れの母親も、子どもよりケータイのせせこましい画面をにらんでいる時間のほうが長かったりする。さんざん携帯端末を売りさばいておいて、いまごろになってなおざりにしてきた「正しい使い方」を子どもたちに教えはじめる携帯キャリアも出てきたり、「学校裏サイト」とか、思いもしなかった子どもたちの使い方(悪用)に待ったをかける動きが出てきたり、いまだにケータイなるものをもってないおっさんは「なんだろうねぇ」と思うわけです。なにごとも節度というか、ていどを超えたらアカンと思います。現首相の決め台詞じゃないけれど、「道具に使われるようではダメ。道具を使うのはあくまでも人間」。そうそう、この前見た地元紙の読者投稿にもこんなのがありましたよ。静岡市在住の86歳の方からでして、電車内で友達と会話しながら一瞬の休みもなくケータイの操作をしている女子高生についてこう書いてました。「…彼女たちからケータイをとったらおそらくなにも残らないでしょう。ケータイに使われてばかりいないで、時には沈黙、思索の時間も持ってください。余計なことかもしれませんが、ケータイは自分の小遣いから買ったのでしょうか(下線強調は引用者)」。これを読んだとき、ただただ頷くほかありませんでした。携帯端末は、スマートフォンもふくめてある意味ubiquitous computingないしはubiquitous communicationを実現させたかもしれない。でもいまの「携帯事情」を見ていますと、ubiquitousということにどれだけの意味があるのか、と根本的な疑問が湧いてきてしまう。まだインターネットも携帯もなかったころに出たマッキベンの本『情報喪失の時代』で赤裸々に書かれていた、「まがいものの情報化社会」をいまだ超えていないのが現実なんじゃないでしょうか。

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2009年07月19日

語りつづけることこそ大切

 先日、いつものようにTimesのダイジェストレターを眺めていたら、こんな見出しが目に留まりました。

Issey Miyake: Hiroshima
The clothing designer and Hiroshima survivor on his moral responsibility to speak out against nuclear weapons.

世界的にその名を知られたあの三宅氏がNYTに寄稿している、とあっては読まない手はない。そう思ってコラムを読んで、さらに驚きました。三宅氏も被爆体験をもつひとりだったとは、まったく知らなかったからです(広島生まれということさえ知らなかった。また母親は被爆して3年もたたないうちに原爆の放射線のため亡くなったという)。

 寄稿された文章――'This article was translated by members of his staff from the Japanese.'とあるから、たぶん事務所のネイティヴのスタッフか、英語に堪能な日本人スタッフかが英訳したのだろうと察します――を見ますと、「原爆生還者」というレッテルを貼られるのが嫌で、これまで自身の被爆体験を公にすることはなかった。服飾デザイナーの道に進んだのも、被爆体験をなるべく思い出さないようにつとめ、かわりに「創造的で破壊されないもの、美しさと喜びをもたらすもの」を考えていたほうがいい、服飾デザインの世界に引き寄せられていったのも、それがモダンで楽天的な創作形式に思えたからだという。いままではそうやってきたけれども、4月にオバマ大統領がプラハでおこなった「核廃絶」を希求する演説を聞いて、心の奥底深くに沈めていたなにかを呼び起こされた。いまこそ、被爆体験をもつひとりとして、「オバマ大統領の言う『閃光』を生き延びた者として発言する個人的、倫理的な責任があると気がついた」と書き、オバマ大統領に広島原爆忌平和式典への出席を強く求めて締めくくっています(→国内関連記事)。

 広島ではオバマ大統領の平和式典出席を求める活動がおこなわれていますが、一読しての感想として、60年以上ものあいだの三宅氏の心の葛藤というか、苦しみというものをひしひしと感じます。押し殺すように吐き出された渾身の叫びだと思う。前にもすこし書いたけれども(後述)、あのチェ・ゲバラが隠密で(!)広島を電撃訪問して、「原爆慰霊碑」にしっかり献花までしてくれていた、という事実を知ったときにはほんとうに感動した。ぜひオバマさんもあとにつづいてもらいたいと切に願います。

 それよりも気になるのは、最近の不穏な動きのほうです。やっぱりこれは、「平和ボケ」というやつなんでしょうか…キューバの子どもたちが8月6日と8月9日がなんの日か知っているのに、被爆の当事者であるこの国の若い人のなかにはすでになんの日かわからない人がいるという事実は情けないかぎりだし、また「文民統制」を逸脱した発言を繰り返したあげく更迭された航空自衛隊のトップというのもいましたね。岩石は雨風にさらされて風化し、海蝕崖ならば波蝕を受けてどんどん崩れ、粉々に消えてしまうのは自然の摂理というものですが、64年前の戦争で犠牲になったあまたの魂のためにも、あのような悲惨な戦争は二度と起こしてはならないという思いを日々、あらたにしなければならない。そのためにはどうしても戦争体験を風化させない不断の、普段の努力は怠ってはいけないと思います。しかしながら、沖縄戦や広島・長崎のような「地獄絵」を体験した当事者にとっては、思い出すのもつらくて、ましてやほかの人に話すなんてことはできないと考えている人もまだ多い気がします。それでもやはり、長い沈黙を破って重い、ひじょうに重い口を開いた三宅氏のように、勇気をもって語っていただきたいと思います。そしてそれを聞いたわれわれや、もっと若い世代の人は、こんどは自分たちがそれを語り継がなくてはならない。この努力を怠る、またはこの語りが途絶えてしまったら――そのときこそ岩石の場合と同様、「戦争の記憶」はどんどん風化してしまう。そうなってしまったとき、気がついたら取り返しのつかないところまで来てしまうかもしれないし、そのときこそほんとうに人の世に終わりが来てしまうかもしれない。とにかく「語り」つづけることがなにより重要かと考えます。ことばには力がある。オバマ大統領の発言が、三宅氏の心に届き、長いあいだ抱えこんでいたものを解放して、ようやく重い口を開くことができたのだと思う。これは米国ではしかたないことかもしれないけれども、たとえば「トリニティ」の実験場跡地なんかは観光客でにぎわっている。そんな米国人のなかにも三宅氏のコラムに感銘を受けて、行動を起こす人が出てくるかもしれない。そういえばゲバラがらみの拙記事で、シカゴに住む少年が広島・長崎に落とされた原爆に取材した短編映画を撮ったこととか書きましたが、とにかく彼我を問わず、三宅氏のこの「重い告白と提言」がきっかけとなってよい意味での連鎖反応が、とくに若い人のあいだで起これば確実に世界はよりよい方向へ変わると思う。

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2009年06月15日

Billy Elliotにスコット先生

 まずはこちらの演奏会評から。先月26日に、もとセントポール大聖堂聖歌隊の名伯楽、ジョン・スコット先生とシンフォニア・ニューヨークの演奏会が開かれたそうです。会場は「ニューヨーク倫理文化協会」という、聞いたことのない場所(→公式サイトを見たら、どうもここのコンサートホールらしい)。写真で見るかぎりちんまりしていて、古楽演奏にはいい感じ。この演奏会、とても毛色が変わっていて、バロック時代に流行った舞曲、シャコンヌ尽くしのコンサートだったのです。タイトルもずばり、「シャコンヌの芸術とエクスタシー――スペインの街道からバッハの精神へ」。内容もじつに興味深い。スペインのフアン・デル・エンシーナという人の作品からバッハの有名な「シャコンヌ」までをたどるこの演奏会では、踊り手まで登場して、当時のシャコンヌがどんな舞踏だったかを見せてくれる。こんなおもしろい企画の演奏会がなんとadmission free! 事前予約を取らなかった聴衆が長い行列を作ったそうです。

 以前「バロックの森」で、シャコンヌは中米のメキシコあたりが起源だという話を聞いてちょっとびっくりしたことがあるけれども、記事にもそのへんのことが書いてありました。そしてこれはよくあることながら、シャコンヌが流行り始めたころ、教会側はこんな猥雑なダンスはけしからんということで禁止したケースもあったという。

The chaconne, a dance form with roots in the Renaissance and its heyday in the Baroque, traveled to Europe from Latin America and was considered so lascivious in its early days that churchmen inveighed against it and it was banned in places.

 'its foundation is a proto-Minimalist repeating bass line...'というのは、ちょっとおもしろい言い方ですね。たしかにミニマル音楽って、どことなくシャコンヌとかパッサカリアに似ている気がする。おんなじ低音主題が何度も何度も反復するところとかが似ている。

 シンフォニア・ニューヨークというのは古楽オケみたいですが、当日の演奏会では室内楽編成。ジョン・スコット先生はチェンバロ、つまり通奏低音担当で出演。記者の耳には、パーセルの「ディドーとエネアス」の嘆きのアリアが白眉だったようです。バッハの「シャコンヌ」を独奏したClaire Jolivetの演奏も非の打ちどころのない、しっかりとした構成でしかも劇的なきりりと締まった演奏だったとのこと。シュテルツェルの「御身がそばにあるならば」って、BWV.508のアリアかな? 踊り手が当時の衣装を着、仮面をかぶってシャコンヌのダンスを舞ったのはリュリの「アルミードの悲劇」や「アシスとガラテ」など。シャコンヌっていったいどんな踊りだったんだろうか。やはり複雑なステップを踏むのかな? 

 …とそんな折、今年もトニー賞発表の時期になりました。2005年に英国ウェストエンドで上演されて大ヒットしたミュージカル版'Billy Elliot, The Musical(日本では「リトル・ダンサー」という原作映画の邦題のほうが通りがいい?)'、ブロードウェイでも上演されていたとは、寡聞にして知らなかった。トニー賞のミュージカル部門の候補になったという記事を見たときにそのことをはじめて知りました。で、結果は――予想通り? ――受賞したのですが、予想外(?)だったのは最優秀主演男優賞・最優秀作品賞に脚本賞など、10冠だったこと。ついで多く賞をとったのが「子の心、親知らず(原題はすごくて'God of Carnage')」という新作コメディと'Next to Normal'というミュージカルがそれぞれ3部門で受賞。とくに「ビリー・エリオット」のほうは、英国興行でもそうだったけれども主役は三人の少年俳優の回り持ち。なので三人いっぺんに同時受賞! こういうことはひじょうにまれだとのことです(→Wikipediaの記事)。「ビリー・エリオット」と「メアリ・ステュアート」、「エクウス」の三作品はすべてブロードウェイ興行前にウェストエンドで上演された作品だという。またアンジェラ・ランズベリー(「ジェシカおばさんの事件簿」の人、「ナニー・マクフィーの魔法のステッキ」にも出ていた)は今年齢83になるそうなんですが、なんと「陽気な幽霊」という作品で演劇部門の助演女優賞を受賞。アンジェラ女史はトニー賞をはじめて受けたのが43年も前のことで通算5回目の受賞になり、これはジュリー・ハリスとならんで最多記録タイらしい。こちらもすごい記録ですね。

 でも「この不況にかかわらず」、演劇やミュージカルを観るお客さんの出足が好調だったとはいえ、当のお膝元でも年々、トニー賞授賞式のもようを伝えるCBSの視聴率は落ちていっているようで…今年の場合はABCで放映していたNBAファイナルの第2戦が競争相手でした。授賞式のもようは見てないからよくわからないけれど、のっけから候補作品と音楽を組み合わせた派手なパフォーマンスが10分間、繰り広げられたとか。視聴率を稼ぐための演出だったのかもしれないですね。

 「ビリー・エリオット」で演出を手がけたスティーヴン・ダルドリーさんは、映画版の監督にして「愛を読むひと」だったかな、新作映画の監督でもあったんですね。最後に主役を演じたひとりの科白を。

“And we want to say to all the kids out there who might want to dance, never give up,” Mr. Kulish added.

何事もあきらめない、つづけることが大事ですよね。

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2009年05月31日

Web版翻訳学校みたいなもの?

 きのうからあまり寝ていない…けれども気合を入れて(?)書くことにする。

 Web2.0と言われて久しいですが、国境のないWebの海ではなにが問題かって、やっぱりでんと立ちはだかることばの壁でしょう。先日ふと目に留まったこちらの記事。Web上ではいろいろなサービスがあるのだから、「ことばの壁」を低くする試みもあれやこれや紹介されています。

 自分の場合、たとえば目の前の仏語で書かれたサイトなりブログなりをなんとかして読み解こうとしたら、あらかじめ「お気に入り」登録してある「Google翻訳」とかDictionary.comとかの多言語横断オンライン翻訳サイトを呼び出して、原文をコピペするか、ページのリンクを打ちこんでまるごと英訳(機械翻訳というやつ)してもらいます。で、一瞬のうちにできあがった複数の英訳を検討しつつ、手持ちの仏語辞書でも確認するという感じになります。でもじつは人の力で、しかも無料で利用できるサイトもいまやかなり増えている、ということも記事を見て知りました。

 ちょっと前まではWebの世界と言えば使用原語の大半が英語で、なかばWebの公用語みたいなイメージさえもっていたのですが、いまはもうそんなことはない。じつに多種多様な言語で書かれたサイトが急増しています。たとえばWikipediaなんかがそう。左コラムを見れば、アイルランドゲール語とかアラビア語、エストニア語とかに訳された(あるいは、その言語による書き下ろし)記事のリンクがずらりと並んでいて、ある意味壮観です。いまやこのオンライン百科事典は200以上の言語版が利用可能だそうです。ハーバード大学バークマンセンターの研究者のことばを借りれば、いまや「多言語インターネット」の時代です。

 こうなってくると、ますます翻訳の必要性が高まってくる。とりあえず英語だけわかればいい、ではすまされなくなってきている。でもこういった――言い方ははなはだ不適切ながら――マイナーな言語では、自分が利用しているような機械翻訳、自動翻訳サイトもあまり役には立たない。けっきょく、「その言語がわかる人にお願いする」しかない。でもいまはよくしたもので、ヴォランティアとしてせっせと日夜、そんな「マイナー言語翻訳需要」にこたえている人がいるというのだから、ありがたいことこの上ない。

 記事で写真が紹介されている台湾人男性の場合、時給100ドルでプロの通訳者として働くかたわら、一日に2,3時間はGlobal Voicesという相互翻訳サイトで翻訳ヴォランティアとして活動している。サイトの共同管理人でもあるので、その分のささやかな報酬は受け取ってはいるけれども、あとは無償活動。またTEDというサイトのほうは、見た感じYouTube動画にキャプションを入れたような作りになってますが、これ見ててけっこうおもしろい。考えてみればYouTubeだってほとんどが原語のままで垂れ流されているわけだし、こうやって日本語字幕入りにしてくれればほんとありがたい。この手のサイトは今後も増えそうな気がしますね。

 でもここで利用者にしてみれば、当然の疑問もわいてくる――従事する人がすべてヴォランティアの翻訳って品質はどうなの、と。例に挙げられているGoogle in Your Languageというプログラム(Google社のプロダクトを120言語に翻訳するサービス)では、公開前に会社側が事前チェックする体制。LinguaとTEDサイトではバイリンガルの二次翻訳者が原稿チェックするという。TEDメディアでは、当初このサービスをはじめたとき、そのほとんどをプロ翻訳者に依頼するつもりだった。ところが「こちらが呼びかけなくても無償で翻訳作業を引き受けてくれる」情熱をもったファンがおおぜいいて、できあがった翻訳を見たらまずまずのレヴェル。かつてAmazonサイトで書評担当ライターが利用者による「無償の」書評に押されてお役御免になったのとおんなじことが、ここでも起こったわけです――報酬を払ってまでプロのライターを雇う必要なんてあるのだろうか? というわけで昨年秋からは、翻訳キャプション作業のほとんどを世界中に散らばるヴォランティア翻訳者に任せることにしたそうです。

“The volunteers are deeply committed to making the best translation, and they don’t care how long it takes them,” she explains. “There is a passion there that you don’t get from hired guns.”

 機械翻訳がどこまで進化するか、にもかかってくるとは思うけれども、翻訳って辛気臭くて(言い方が古い?)しんどいですし、はたして「無償奉公システム」がいつまでつづくのか疑問でもあるのだけれども…でもこと翻訳にかぎって言えば一種の芸事みたいなものだし、外国語のできる人というのは自分が見つけた外国のおもしろい作品、あるいは感動した作品をほかの人にも伝えたい! という情熱にとらわれるものなんじゃないかしら。その気持ちはとてもよくわかる。ダマスカス在住のLinguaサイトヴォランティア翻訳者(アラビア語−英語間の翻訳)いわく、

“I enjoy the challenge of translating between two very linguistically and culturally different languages,” says Anas Qtiesh, an Arabic-English translator and editor living in Damascus who volunteers 15 to 20 hours a week with Lingua. The work also brings him exposure and experience, he says.

 ここで脱線して、僭越ながら自分の経験もすこし。『もうひとつのノーベル平和賞 平和を紡ぐ1000人の女性たち』というたいへん分厚い本、というか人名鑑が刊行中なのですが、これもそういった「情熱をもったヴォランティア」による翻訳の結晶です(→公式サイト)。「千人のピース・ウーマンの記事を千人の交響曲、じゃなくて、翻訳者で邦訳しよう!」という趣旨に共鳴して――手持ち無沙汰だったというのもある(笑)――自分も参加しました。この前図書館に納本してあるのを見たんですが、細かな用語用法とか、訳文じたいもずいぶん手を入れられていて、個人的にはひじょうに参考になり、かつとても勉強になりました(全体的にはかぎられた字数におさめるためにさらに簡潔で締まった文体になっていた)。言ってみれば翻訳学校みたいなものだったかな。この手のノンフィクションものは分量が分量なだけに、翻訳があがったあとの事実関係やら用語用法の統一などの校合作業と校正がひどく骨の折れる仕事です。なので監修者の方によると刊行まで3年もかかってしまったとのこと。自分もこの企画に参加して、「商品になる訳文とはいかにあるべきか」みたいなことを考えさせてもらって、とてもよかったと思う(といっても自分の役回りは1000分の1にすぎませんが)。遅まきながらこの場を借りてお礼を述べさせていただきます(自分の書いた訳文に他人から手を入れられるのがいやな人は、翻訳という作業には向いていない。もっともだれだって自分の書いた文章に手を入れられるのはあんまりいい気はしないとは思うけれども、翻訳作業というのは共同作業でもあるし、ましてはお金をかせぐ翻訳なんて、並大抵のことではできません)。

 …NYTといえば、最近紙面(?)が変わった。Global Editionというのは、IHTと合体したから、ということなのかな? そしてちょうど200年前の今日は、ヨーゼフ・ハイドンが亡くなった日であり、また今年は「聖霊降臨祭(Whitsunday)」とも重なっている。ここでNYTからここ一、ニ週間の「歴史ごよみ」を引用してみると、

On May 18, 1980, the Mount St. Helens volcano in Washington state exploded, leaving 57 people dead or missing.

On May 19, 1935, T.E. Lawrence, also known as "Lawrence of Arabia," died in England from injuries sustained in a motorcycle crash.

On May 21, 1927, Charles A. Lindbergh landed his Spirit of St. Louis near Paris, completing the first solo airplane flight across the Atlantic Ocean

On May 25, 1925, John T. Scopes was indicted in Tennessee for teaching Darwin's theory of evolution.

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2009年05月24日

氷河溶解が引き起こしたこと

 ここ百年来、急激に進行した地球規模の気候温暖化のために、北極の海氷をはじめ、世界各地の氷河が急激に溶けているということは、いまや子どもでも知っています。その結果、南太平洋のサンゴ礁の島々が水没の危機に瀕しているということも知っています。ところが、これとは逆に、氷河が後退したために「海水面が後退した」という場所があるのです。

 この取材記事を見て、正直驚いた。以前、なにかのTV番組だか、雑誌だかに書いてあったことがいまこうして現実に起きていると思うと、背筋の寒くなる思いがする――それもこちらの予想をはるかに超えるスピードで進行中というから、さらに不気味である。どういうことか、というと、記者さんがひじょうにうまい譬えを使ってこう書いています。

Relieved of billions of tons of glacial weight, the land has risen much as a cushion regains its shape after someone gets up from a couch. The land is ascending so fast that the rising seas ― a ubiquitous byproduct of global warming ― cannot keep pace.

アラスカ州州都のジュノー近辺で起きている「異変」とは、氷河という「重し」がなくなった陸地が急激に隆起し、その速さゆえ海水面がどんどん後退している、ということです。話には聞いていたけれども、いざここまでvividに書かれた記事を目の当たりにすると、ほんとうに恐ろしい気がする。もっとも専門家によれば似たような現象はここ200年でグリーンランドとかでも起きている…と言ってますが、ジュノーとその近辺ほど隆起が急激な場所はないとのこと。ジュノー近郊ではメンデンホール氷河などが毎年9m以上(!)も後退し、その結果、おそらくだれもいまだかつて経験したことのない猛烈な勢いの「隆起」と海岸線の「後退」を経験しているという。2007年にはジュノー市長主催の専門家会議が開かれ、「史上最速の速さで」海岸線が後退している事実をふくめ、今後の予測を盛りこんだ報告書が作成されています。

 記事に出てくるゴルフ場オーナー一族が移り住んだグレイシャー湾付近のGustavusという場所は、半世紀前には海の底だったという。それがいまでは陸地化して、結果的に地所が海側へ「広くなった」ので、いまはそこで9ホールのゴルフ場を経営しているという。土地はいまも隆起しつづけているので、将来的にはさらに9ホール増設するつもりというけれども、「あたらしく出現した土地」の一部を自然保護区とすべく、もっかNGOのNature Conservancyと協議中だとか。そして米国地質調査所の地質学者ブルース・モルニア氏によると、まさにこの近辺の土地が北米大陸でもっとも隆起の急激な地域だという――その速度は年間約3インチ、というから一年になんと8cm近くも土地が盛り上がっていることになる(ちなみに駿河湾ではフィリピン海プレートの沈みこみで、陸側のユーラシアプレートが年平均3cmくらい西北西に移動しているらしい)! このように土地が増えた分、「境界線をどうするか」というある意味避けては通れない俗っぽい問題も出てきているけれども、やはり自然環境の急激な変化と固有種の絶滅がいちばん危惧されます(とくに4000エーカーもの野生保護区域の大湿地帯)。海水面が下がる、ということは地下水面も下がり、小川や湿地が干上がり、消滅することでもある。そうなるとアラスカの自然の代名詞とも言うべきsalmon――鮭にも影響が避けられない、とジュノー市長ブルース・ボテリョ氏は危惧する。また氷河溶解とともにかつて氷河が削り取った大量の土砂が海まで運ばれてガスティノー海峡に堆積するという問題も発生している。メンデンホール氷河から流れ下った堆積物は海峡を埋め立て、干潮時には海峡がほとんど干上がってしまうありさま。このままではジュノーの反対側にあるダグラス島もいずれは陸続きになると、専門家会議報告書の執筆者のひとりが言う。最新の水路図をもたずにやってきたシーカヤッカーは、へたするとすっかり干上がって草ぼうぼうの浅瀬で艇を運ぶはめにもなりかねない、そんな場所まであると言うのです。

 またこの地域は日本もふくめた環太平洋の「プレート沈みこみ帯」の一部でもあるので、沈みこみ運動によってさらに隆起が加速されていると見ている研究者もいる。太平洋プレートが北米プレートに沈みこむにつれ、ジュノーとトンガス国有林あたりがさらに隆起するという。地殻変動も加えたこの地域の今後の隆起量は予測不能だというから、ちょっと末恐ろしい気がする。「沈みこみ」ということでは、大陸側プレートは氷河の重しが消えていくぶん軽くなっているわけだから、「プレート境界型」大地震の発生間隔が早まったりはしないのだろうか。このへんもちょっと気になる。

“When you combine tectonics and glacial readjustment, you get rates that are incomprehensible,” Dr. Molnia said.

 地球温暖化の影響を昔の写真といまの写真とならべて実感させる写真集とか売ってますが、写真というのはこういうときに力を発揮しますね――そういった「物言わぬ」被写体を見ていると、どうひっくり返ってもここ百年の急激な温暖化は、われわれ人間の経済活動が原因としか言いようがないとやはり感じます。かつてウェンデル・ベリーの本にも書いてあったけれども、「自分はみんなとおんなじように生活しているだけだ」という意識ではもうダメだということ。温暖化問題は、ひとりひとりが真剣に考えなくてはなりませんね。その点、いまの若い人に広がっていると言う「3ない消費」というのは、定着すればとてもすばらしいことだと思う。もっとも昔ながらの幻想――「大量消費型経済」でなければ景気が良くならないといったような考え方――は、いいかげん捨てなくてはならない。自然環境と折り合いつけた「持続型経済」へと根本から作り変えないといけない。われわれの未来は、この危機を乗り越えられるかどうかにまさにかかっているのではないかと思います(地球気候については、自然変動分というのもあるから、年によっては暖冬ではなく寒冬だったりする。ちょうどセヴェリンがブレンダン号航海に乗り出していた1976-77年は、北半球では世界的に猛烈な寒波に襲われた。そういえばそのころはよく水道管が凍ったし、珍しく雪も降った。また関係ないけれども、当時はいまとは逆に「氷河期が来る!」みたいな本がよく売れてもいた[苦笑])。

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2009年05月06日

'Strunk & White'が50周年

 先月21日付の記事ですが、米国の大学生が必ず(?)贈られる、もしくは読まされる「文章指南書」のThe Elements of Style、通称Strunk and Whiteが今年で出版50周年を迎えた、というもの(ほんとうの初版はストランクの自費出版本で1918年。記事は、コーネル大学でストランクの教え子だったホワイトが改訂した「共著」としての出版から50周年ということで書かれている)。この「英語版文章作法」の本、米国では知らない人がいないくらい有名な本で、記事を見たとき、「ああ、そういえばこんな本あったな…」と念のため調べてみたら、なんといつも行っている図書館に第三版の邦訳本があることまで発見した(笑)。ただ、こっちのほうは長らく絶版だし、英文を書くための心得本というからには、原語で読んだほうがいい、というわけでこれの「初版」がこちらのサイト様にありましたので、ありがたく読ませていただきました…例文の古さ、やや矛盾した箇所など欠点もあるものの、これが20世紀はじめに書かれたものとは信じられないほど、とてもモダンな文章指南本だと思いました。

 ところが…米国の編集者に作家、記者なら一度はみんなお世話になっているはずのこの本、こちらの'Room for Debate'なるページでは英語の専門家とか識者からさんざんこっぴどく叩かれている。むしろコメントを投稿している一般読者のほうが、「『ストランク&ホワイト』叩きはやめろ!」とばかりに擁護的な意見が目立つという、ちょっとおもしろい展開になっています(註:262ものコメントすべてに目を通す時間なんてないから、はじめのほうだけ。でも、ハワイのヘレンさんという方の投稿、'Considering that most high school students can’t even write a simple sentence anymore this is STILL a great book for “Style” and “Grammar.”/ After forcing students to read these books I can finally read their essays without a headache...'というのには、ちょっと苦笑。このへんの事情は日本も米国もあんまり変わりないのかな?)。たしかに識者の言い分もわかるけれども、どちらかと言うと「揚げ足取り」のような印象をぬぐえない。電子メールもなかったころの「文章読本」なので、ほかのこの手の本同様、読者はあるていど批判的に読む必要はあるかと思う。たとえば'six people'より'six persons'のほうがよいとか、三人称単数形の人称名詞を受ける場合はhe一語でいい、なんて主張にはとくに…またshallの用法説明もwillが幅を利かせている現状から見るとたしかに古臭い(ヨーダに逃げ道をふさがれた銀河皇帝の科白も、昔だったら'You shall not stop me!'とでも言ったところ)。とはいえ、いまごろになってはじめてこの有名な「小さな本」初版を読んでみると、やはり英文を書く上でとても役に立つヒントが散りばめられているように感じます。とくに「パラグラフ・ライティング」、段落の展開の仕方および力点の置き方などについては、ほとんど日本では馴染みがないと思うので、「ネイティヴに通じる英文を書きたい」という方は、やはり一読しておいて損はないと思います('III. Elementary Principles of Composition'以下参照)。

 具体的にはすでに上記リンクのサイトにぜんぶ列挙してあるから、丸投げしておくとして(笑)、「初版本」を読んで目についたものだけ備忘録ていどに書いておきます。

 もともとの原著者ストランク教授の言わんとするところは、やはり「簡潔であれ」に尽きます(のちに共著者になるホワイトによれば、ストランク教授は「まちがいよりも優柔不断な書き方のほうがもっと悪い」と思っていたらしい)。wordiness, redundancyは避けるべきとしていて、たとえばわれわれ日本人もよくやりがちな「悪い例」として、関係詞の無用な濫用を戒めてもいます。

×→Trafalgar, which was Nelson's last battle
○→Trafalgar, Nelson's last battle

×→He is a man who is very ambitious.
○→He is very ambitious.

×→he is a man who
○→he

また文意があいまいになりやすい受動態は避けて能動態をとか、notを使わず肯定文で書くように…などの指示も、「人種の坩堝」・米国で自分の言いたいことを過不足なく相手に伝えるためにはあいまいな書き方、わかりにくい書き方はご法度だというストランク教授の強い信念が伝わってきます(もっとも、「正しい例」にもあんまり必要とは思えない[?]受動態があったりしますが)。

×→He was not very often on time.
○→He usually came late.

 セクション18の項目について、すこしだけ補足。英文では「先頭に来るものがいちばん目立つ」から、主語になる語句以外のものが先頭に来た場合のみ、書き手が強調して書いているということ。物語ではよく'Off he went, ...'とひっくり返った語順の文が出てきたりしますが、これも一種の強調表現。また英語散文はふつう散列文(loose sentence)という形ですが、「文意が最後まで読まないと成立しない」掉尾文(periodic sentence)が出てきたときは、そこがもっとも力点の置かれている文章になります。ふつうの語順の文(散列文)では通例「うしろのほう」に力点がくるから、正しい例として挙げられている'Humanity, since that time, has advanced in many other ways, but it has hardly advanced in fortitude.'では、but以下が書き手のいちばん言いたいことになります(付記。'I saw him sing.'は、「黙っているのではなくて、歌っていた」ことに力点が、'I saw him singing.'は「ほかならぬ彼が、歌っているのを見た」ことに力点がある)。

 'Room for Debate'で、Ben Yagodaというデラウェア大学の英語(国語ですね)の先生が、

Broader still is the final chapter, “An Approach to Style,” written by E.B. White himself. He offers a list of guidelines, including “Place yourself in the background,” “Do not affect a breezy manner” and “Do not inject opinion.” “The approach to style,” he concludes, “is by way of plainness, simplicity, orderliness, sincerity.”

White purports to be talking about “style” but is really advocating a particular style. It is a style of absence: absence of grammatical mistakes, breeziness, opinions, jargon, clichés, mixed metaphors, wordiness and, indeed, anything that could cloud the transparency of the prose and remind readers that a real person composed it.

と書いているのを見て、戦中戦後の一時期はやった、バロック音楽の解釈にかんする論争も思い出した(「新即物主義」、Neue Sachlichkeit)。たしかに「書き手は姿を見せるな」とか「意見をはさむな」というのは、むりなことではある。演奏にせよ文章にせよ、書き手の「主観」はどうしても入りこむものだから(下線強調は引用者)。

 以前、米国の政府刊行物および新聞・雑誌のたぐいはPlain Englishで書くのが基本になっているとここで書きましたが、じつはその源流がまさにこの本にあると言えると思う。50周年記念版も出たことだし、いい機会だからこのさい便乗して買って、英文の書き方の基本をしっかり身につけよう、と筆者はかたく決心したのであった(強意構文のつもり[笑])。「英文の書き方本」としては、いまひとつOn Writing Wellという名著もありますね(こっちも2006年で30周年だったらしい)。ついでに最近、Webサイトの文章とか見て気になるのは、書名や誌名などの固有名詞の表記法。ペーパーバックなり英字紙なり見てみればわかるように、本来はイタリックで書くべきところですが、ことWeb上のテキストにかんしては必ずしもこれが守られているわけではないようですね(おなじことが日本語文章にも言える。書名や新聞紙名は本来は『』で囲うもの。また漢字の使用について、無頓着な人が多すぎる)。

 …brevity、ね。さしずめいつもここで綴っている駄文は、『ストランク&ホワイト』に言わせれば悪文の見本市ないし展覧会ですな。いっつも脱線してばかりいて、なに言ってんだか本人もよくわかってなかったりしているし(苦笑)。

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2009年04月26日

最近話題な方二名

1). 最近話題な方、とくると、やはりスーザン・ボイルさんでしょうか。YouTubeでいっきに'instant celebrity'になってしまったとはいえ、もとは英国の新人発掘番組でブレイクしたのがことのはじまり。当然のごとく(?)NYTimesもこの話題の記事が出てました。とはいえ…なんだかちょっとヘンです。歌は、自分もYouTubeで聴いたけれど、アルトの美声の持ち主、という印象。でも若いときから教会のヴォランティアとして歌っていたらしいから、正式な歌唱法の訓練は受けていないとはいえ、喉には自信があったらしい(だからこそ応募したわけですが)。英国=合唱大国、というイメージが強すぎるせいか、観客のあまりのおおげさな反応にかえって? と感じたのも事実。ボイルさんなみに歌える人なんて、けっこういるんじゃないかしら、と。この違和感はいったいなんだろう…と思っていたら、そうか、こういうことだったんか。

Miss Boyle’s performance has been significant, too, in that it has unexpectedly provoked a debate about prejudice against the not so young and not so beautiful.

... In a blog on The Huffington Post, the feminist writer Letty Cottin Pogrebin said that she had e-mailed multiple copies of the original YouTube clip, with the subject line “Ageism Be Damned,” to the people on her “Women’s Issues” e-mail list. Many of the women who saw it, she said, wept as they watched.
“I’d wager that most of our joyful tears were fueled by the moral implicit in Susan’s fairy-tale performance: ‘You can’t tell a book by its cover,’ ” Ms. Pogrebin wrote.
The audience and judges “were initially blinded by entrenched stereotypes of age, class, gender and Western beauty standards,” she added, “until her book was opened, and everybody saw what was inside.”

歌そのものではなくて、容姿と歌声とのギャップに注目が集まった、ということらしい(苦笑)。でもこれはずいぶんと失礼な話ではないですか。顔で歌うわけじゃあるまいし(一部「容姿」で売っている人気歌手さんとかはべつとしても)。「表紙を開いてみなければどんな本なのかわからない」とくると、これはもう音楽とかは関係ない次元の話。でもあのおおげさな観客と審査員の反応を見ると、いかに向こうの大多数の人が、「人を見かけで判断する」ということにふだんなんの疑問も感じていないかがあぶり出されたように思える。またこの手の過剰反応をまのあたりにすると、英国における「年齢差別」とか「階級差別」、「性差別」というものがいかに根強いかがはからずも露呈したようにも感じる。労働者階級の子どもが、ユダヤ系の子どもをいじめたりということも日常茶飯事だと聞きますし。なんだかこの記事、全体的にたんなるhuman interestものだった感じ…ついでにこの記事を読んだとき、ヨーダがルークに言った科白、「わしを見よ! わしを見かけで判断するのか?」というのも思い出した。この'Britain’s Got Talent'、セミファイナルは来月23日だそうで、もっかボイルさんの目標はこのセミファイナル突破だということです(どうでもいいけれど、審査員席の前面にならんだバツ印って…)。

2). つぎは日本でもたいへん顔の売れた方に取材した記事。エジプト考古庁の顔、あのインディアナ・ジョーンズのかっこうをした考古学者ザヒ・ハワス博士。NYTimesでこの方の記事を見るのはこれで二回目ですが(掲載記事はもっと多いと思うが)、こちらはよくある人物紹介記事のおもむきながら、突くべきところはきちんと突いている。そうそう、博士には他人の功績もみんな自分ひとりの功績みたいに喧伝する癖がありますね(ん? そういえば『ナグ・ハマディ』英語版編者のロビンソン博士なんかもそうか)。

In the seven years since he was named general secretary of the Supreme Council of Antiquities, Dr. Hawass has been in perpetual motion. He personally announces every new discovery, was the force behind plans to construct 19 new museums, approved the restoration of nine synagogues in Cairo and has contributed to countless books, documentaries, magazine and newspaper articles all promoting Egyptian antiquities ― and, of course, himself.

There are Egyptian antiquities workers who complain that he takes credit for their accomplishments.

 記事によると、ザヒ博士って首都カイロの北東にある村の出身で、アレクサンドリア大学でギリシャ・ローマ考古学で文学士をとった2年後の1969年に検査官として考古庁入りしたらしい。その後フルブライト奨学金を得て渡米、1987年にペンシルヴェニア大学から博士号を送られた。エジプト考古最高会議事務局長に就任したのが2002年というから、わりと最近ですね。

 日本のTVにもたびたび登場しては発掘現場の生の声を聞かせてくれる、という点については評価できるし、げんに博士のショウマン効果なのか、エジプトを訪れる観光客の間でもひじょうに受けがいい。つまり好むと好まざるとにかかわらず、ザヒ博士なくしてはエジプトに落ちる金も少なくなってしまう、というのが現実ということです。

“Whether we like it or not, he is a star, and he lives the life of a star,” said Mahmoud Ibrahim Hussein, chairman of the antiquities department at Cairo University. “When he goes to a place, people gather around him to talk to him. Many professors give lectures; but people pay more to hear Zahi speak.”

でも、TVとかで博士がぶっている「仮説」には首をひねりたくなることもしばしば。たとえばツタンカーメン王墓のまん前で見つかった例のKV.63についてのザヒ博士の仮説なんかはとくに(下線強調は引用者)。

When a tomb was found in the Valley of the Kings three years ago, he surmised that it was built for King Tut’s mother, a sure way to drive up ratings, even as scientists involved in the dig rolled their eyes. The chamber was most likely a storage room, they said at the time.

ひさしぶりに公式サイトのぞいたら、先月下旬に今年の調査は終了したこととか書いてありました。発見された壺の調査も終わって、13番の札のついた壺にはミイラ作り用(?)の寝台の破片が入っていたらしくて、こちらはルクソールの博物館で公開展示されるみたいです。発掘者によれば、この「墓」は、アメンヘテプ3世時代から存在していたようだ。ただし、

There is no evidence of a burial but the embalming materials were introduced during several intrusions late in Dynasty XVIII. This occurred during or very close to the time of Tutankhamun.

だそうでして、ミイラ作りの材料とかはツタンカーメン王治世に近い時代に何度か持ちこまれた形跡ありですが、ここが「埋葬場所」であったかどうかについては証拠なしとはっきり書いていますね。

 ちなみにあのトレードマークになっている帽子、おなじものをなんとブッシュ前大統領にも差し上げたんだそうです。で、そのとき奥さんがこう言ったそうです。

“I gave one just like this to President Bush,” he said with the casual tone of a name dropper. “His wife said it was too small for his head. He was very disappointed.”

…前大統領ってそんなに頭が大きかったんだ…というか、こんなことまで記者にしゃべる人ってのも、どうかとはと思いますが(苦笑)。

3). 最後にこちらを。ついに(?)YouTubeがオケを組織してカーネギー・ホールでコンサートを開いた(→公式サイト)!? まだビデオクリップをまともに見てないからなんとも言えませんが、すくなくとも記事見るかぎりでは、いささか難があったようで…たとえばプロコフィエフの「ピアノ協奏曲 第2番」の終楽章。終わりまで演奏するかわりに、途中から「くまんばちの飛行」になったり、取り上げた音楽もヴェツィア楽派のガブリエーリから、現代の作曲家まで15曲、しかもどれもが一部分のみだったらしい(ブラームスの「4番」第3楽章ではじまり、チャイコフスキーの「4番」の終楽章で終わった)。なんでこんな切り張りないしは寄せ集め(a potpourri)にしたのか、については指揮者マイケル・ティルソン・トーマス氏の意向による。このYouTube楽団は送られてきた演奏ビデオをもとにオーディションで選ばれ、世界中から集まった総勢96名の団員からなる。参加者の出身国は30か国にものぼり、できるかぎりさまざまな時代と様式とを取り入れようとした、ということらしい…でも、ちょっと欲張りすぎたという印象を受けますね。またタン・ドゥン氏がこのYouTube楽団カーネギー・ホ−ル公演のために書き下ろしたという作品も「初演」されたりして、プログラムはなんと3時間もの長丁場! たとえ演奏された楽曲が「切り張り」だったとはいえ、全員顔をそろえての練習はたったの二日だったというから、これはこれで快挙だったのかも。

Subtlety? Well, that takes more rehearsal time.

もっと練習時間があって、欲張らないふつうのプログラムだったらなおのことよかったと思う。いまひとつ「耳障り」なことといえば、

Naturally, given the sponsors, the video components of the concert were pervasive, with a cavalcade of clips from the audition entries and introductions to the pieces that zoomed in on the cities in which they were composed. There were so many spotlights and projectors in the hall that pianissimo passages in the music had to compete with the whirring sounds of ventilating fans.

…こういうの、音楽を聴く側からするとひじょーに困るんですけれどもね! 安っぽい演出なんて、いらないんじゃないの? それにしても、YouTubeもずいぶんおもしろいことやるもんだ(というか、記事を読むまでこの企画じたい知らなかった)。記者のことばを借りると、バスケットボールチームじゃなくてオーケストラでよかったのかも(笑)。

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2009年04月13日

これは使ってみてもいいかも

1). 先日、Timesこんな記事が出てました。記事で紹介されているWebベースの文書作成ソフトZoho Writer、2005年に設立されたZohoという非上場のヴェンチャー企業の製品だそうで、ちょっと興味をそそられました。

 MS社はこの手の「オンラインベースサービス、しかも無料」のオフィス統合ソフトというものには否定的で、2010年以降にリリース予定の次期ヴァージョンのMS OfficeにもWebベースで動かせる機能は組みこむらしいですが、あくまで個々のマシンにインストールしたOfficeの補助機能としての位置づけにとどめている。たとえば出張先とか空港で、どうしても文書にアクセスして手を入れなくてはならない場合、といったいわばstop gapとして利用することを想定して開発しているらしい。Webベースの「オフィスアプリ」はGoogleをはじめとしていくつかありますが、いまはまだ進化途上。MS社のOffice製品の統括者に言わせると、競合他社の多くが「弊社Office製品にすでに搭載されている機能のコピーに多大なエネルギーを費やしている」となんか余裕みたいですが、じっさいにはWeb版オフィスソフトのほうが機能面で進んでいたりする。Zoho社のオフィススィートの場合、複数の人が同時におなじ文書やスプレッドシートを編集できる。更新するたびにメールに添付したり、という手間も要らない。いつでもどこでも手を入れられる、というのはやはりWebベースアプリ最大の利点ではないかと思います。また複雑な数式も入力できる。Open OfficeにもMathという数式エディタが標準で入ってますが、Webベース版でははじめてでは? そしてモバイル版も用意されているし、オフラインでも作業のつづきができる、とかなり使い勝手がよさそうです。

 Web関連技術は文字どおりの日進月歩、いや分刻みに急激に変化しつづけているから、その人間離れした速さに利用者側がさっぱりついていけなったりする。そんな最先端の情報通信技術を自認する当の開発元にしても案外、そういうところがあるかもしれない。いまのところMS社は自社のOffice製品がいちばんという自負が強いけれども、「うさぎとかめ」よろしく、気づいたらZoho社のようなヴェンチャーにあっさり追い越されていた、なんてこともありえない話ではない。日々進化しつづけるWebベースサービスにどんどん顧客を取られるようになって、はたと気づいたときにはこんどはMS社が懸命に追いかける側になるのかもしれない(ゲイツ氏はインターネット黎明期のころ、「PC通信だけでじゅうぶん」みたいなことを言っていたらしい。でもけっきょく数年後、Webブラウザと抱き合わせたWindows95を売り出すことになる)。

 いまさっき記事中のリンクをたどっていったら、Zoho社の日本法人(?)なのか、すでに日本語にローカライズされたサイトが表示されて少々驚いた。で、ここの文書作成ソフトがどんなもんかちょっと見てみたら、けっこうおもしろそうですね。Zoho社のオンラインオフィス製品は個人使用については無料、商用利用については10ユーザーまでは無料、11人目から課金するというシステムみたい。公式サイトを見たら、けっこういろいろなサービスが書いてあったのでこちらにもちょっとびっくり。いわゆるSOHOに携わっている人にはかなり使えるツールなんじゃないでしょうか。しかもMS社の製品を買うよりもはるかに安いし、機能もけっこう豊富。これはMS社のOffice陣営にとって、かなりの脅威になるかもしれませんね。

2). 最近、ブログよりも手軽に発信できるとして人気のあるTwitter。残念ながらこちらのほうは、いまだに情報発信ツールなのか、SNSの仲間なのか判然としないのですが、こちらの記事を見ますと、米国では当の本人が書いているというより、第三者が「代書」している場合が多い、というお話。なかには記事で紹介されているNBAの選手みたいに、試合の最中でもまめに発信していたりする人もいるけれども、ブリトニー・スピアーズや共和党大統領候補者だったロン・ポールなど、多くは「ゴーストライター」に書かせていたという。もっともスピアーズのほうは最近では「チームブログ」みたいになってきて、スピアーズ本人が書いたのか、マネージャーが書いたのか、読者が見てひと目でわかるように署名入りで投稿している。政治家の場合は「選挙運動」のひとつの道具という使い方もあるので、あるていどいたしかたないとはしても、芸能人の場合はどうなんでしょう? ファンというのはやっぱり本人が書いているもの、と信じているものなんじゃないかな。ある有名なラッパーのブログ管理人は、

“He doesn’t actually use Twitter,” Mr. Romero said of 50 Cent, whose real name is Curtis Jackson III, “but the energy of it is all him.”

なんてこと言ってますが、書くったって、最大140文字の制限内ですからねぇ。

The famous, of course, have turned to ghostwriters for autobiographies and other acts of self-aggrandizement. But the idea of having someone else write continual updates of one’s daily life seems slightly absurd.

と言うのは、もっともだと思う。こういう「代筆(?)」を生業としている人もいるわけで、こちらの情報サイトにふたりいる「代筆屋」のひとり、26歳のフリーライター女史は、記事の最後でこんなこと言っています。

She said she had been considering trying to get other ghost Twitter clients. “I don’t think I could ghost Twitter for 100 people,” she said. “More like 10 clients. I think I would have to get to know them.”

しょせん宣伝・マーケティングの道具、と言ってしまえばそれまでですが、最大140文字のコメントを投稿できないほど「お忙氏」の方は、他人を雇ってまでむりに情報発信しなくてもいいのでは? 

 そしてこちらはおまけ。これ書いた女性記者は、一度iPhoneを購入してみたもののけっきょくなじめず、iPhoneを買った販売店にそれを突っ返してBlackBerry端末に契約変更してしまった人。ネックになったのは、やはり画面上での文字入力だったみたいです。米国発のiPhone関連記事で批判的な記事はあんまりなかったものだから、つい目に留まってしまった(苦笑)。

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2009年03月21日

米国の学校司書事情

 学校司書とくると、図書館にこもって年中、蔵書整理に明け暮れているか、児童生徒の質問にこたえて最適な本を見つける手伝いをする、そんなイメージがわいてきますが、いまや司書を取り巻く状況は一変して、とてもそんな悠長なことは言ってられないようです。

 Times紙の文芸評論でよく名前をお見かけするMotoko Richさんの書いたこちらの記事。「読書の未来」と題する一連のルポシリーズで、その第三弾がブルックリン地区の小中一貫校に勤める学校司書さんの話。日本でも子どもたちの本離れが言われて久しいですが、インターネット発祥の地米国でも事情はおなじ。「ただ本を書架に出し入れしているだけの時代は終わったのよ」と語る54歳の図書館司書ロザリア先生にとって、そんな「Web時代」に生きる子どもたちに必要な能力、「情報リテラシー」を身につけさせるのがおもな仕事。たとえば、Web上に無数にある大量の情報を鵜呑みにしないように、あきらかな嘘のまじっているサイトを備え付けのノートブックで閲覧させて体験させるとか。またPowerPointを使ってプレゼンを作らせたり、オンラインゲームを作らせたりする司書さんもいるとか。いやはやたいへんだ。以前、9歳のタイラーくんの事例をここでも紹介しましたが、たしかに生まれたときからWebというものが存在しているいまどきの子どもにとってはWeb、あるいはインターネットは日常生活の一部になっているし、こんなかたちで「正しい活用法」みたいなものを教えてくれないと、たしかに危険だと思う。こういうことを教えられるのはやっぱり情報・知識の専門家である司書がもっともふさわしいかもしれない。

 もともとロザリア先生は旦那さんと美容院を経営していた人で、息子の学校の図書館でヴォランティアとして司書業務にかかわったことがきっかけで大学に入って本格的に図書館学を学び、学校司書資格をとって、同業者のきょうだいの紹介でここの学校に赴任したという。自己紹介のときに、たんに司書ですとは言わずに、「自分は情報リテラシー教師」だと言ったとか。最初のうちは本の見つけ方とかデータベースの使い方、基礎的な調査能力を身につけさせるといったことでしたが、そのうちURL(URI)の読み方とか、Webサイトのコンテンツに書き手の根拠のない先入観があるかどうかという批判的な判断の仕方といったやや高度な内容に移っていったそうです。こういう「情報リテラシー」というのは、やっぱりWebとかデジタルコンテンツのみでは獲得できないと思う。記事中ロザリア先生も似たようなこと言っているけれど、こういうときこそ「紙に書かれた本」の出番、ことばを変えれば古いタイプのリテラシーが身についているかどうかが大きくかかわってくるように感じる。そこでロザリア先生は児童に書評を書かせる。でもいまや学校の宿題もWebで提出し、勉強に関する質問も学校内SNSでやりとりする時代(英国人メル友によると、英国の学校でもいまやオンライン課題というのは当たり前らしい)、生徒の書いた書評は図書館のオンライン蔵書目録に掲載しているとか。

Combining new literacy with the old, Ms. Rosalia invites students to write book reviews that she posts in the library’s online catalog. She helped a math teacher design a class blog. She urges students to use electronic databases linked from the library’s home page.

 ロザリア先生が赴任したとき、この学校の図書館の蔵書はひどいありさまだった。NYCの公立学校で学校司書を配置しているのはたったの三分の一。うち小学校には司書配置義務さえないという。

Before Ms. Rosalia arrived, the library was staffed by a teacher with no training in library science. Some books in the collection still described Germany as two nations, and others referred to the Soviet Union as if it still existed.

たしかにこりゃひどいわ(笑)。で、ロザリア先生は「図書館改革」を断行、どこでもそうだけどすくない予算の割り当てをなんとかやりくりして何百冊もの蔵書をあたらしい本と入れ替えたり、市議会や協賛企業の援助も取りつけて29台のノートブックPCと、電子ホワイトボードも導入した。これだけでもたいしたものですが、NYCらしい問題もありまして、たとえば移民の子は英語の読めない子も多いから、7年生でもじっさいには2年生レヴェルの本を用意しなくてはいけないとか。こういうときは導入した電子ホワイトボードが活躍、ロシア移民の子たちは「イズヴェスチヤ」とか大写しにされると大喜び。またロザリア先生は児童がよく知っているティーンズマガジンのサイトを写したりして彼らの興味を惹こうとする。こんなロザリア先生の取り組みにはまわりの先生も教えられることが多いようで、

Even teachers find that they learn from Ms. Rosalia. “I was aware that not everything on the Internet is believable,” said Joanna Messina, who began taking her fifth-grade classes to the library this year. “But I wouldn’t go as far as to evaluate the whole site or look at the authors.”

 最後のロザリア先生のことばはたしかにそのとおりだと思う。

“You can read magazines, newspapers, pictures, computer programs, Web sites,” Ms. Rosalia said. “You can read anything you like to, but you have to read. Is that a deal?”

「読みたいものを読めるようにすること」――読む媒体はいまや千差万別。活字もあればデジタルコンテンツもある。肝心なのは、ロザリア先生が言っているような「情報を判断する力」だと思う。これを身につけるにはやはりWeb上のコンテンツとかデジタルメディアだけでは不足で、本などの活字媒体も必要不可欠。ようは新旧メディアにはそれぞれ得手不得手があるので、それらをじょうずに使いこなすことが大切かと。どちらかいっぽうを切り捨てるようなやり口というのは根本的にまちがっている。日本ではデシタルコンテンツの活用ばかりが話題になりがちで、たとえば対面授業なのにわざわざ(??)携帯電話を使って勉強させるというような試みをTVで見たことがあるけれど、まったくわけがわからん。通信代をかけてまでそんなことする必要があるのか。もっとも通信業者は喜ぶかもしれませんが。目の前の情報を鵜呑みにしない健全な批判精神を養うという点においても、自分でものを考える力を身につけさせるという点においても、どうしても「本」の活用は必要だと思いますね。

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2009年03月15日

PowerMeter、Kindle2にヘレヴェッヘ

1). まずはこちら。「スマートフォン」ならぬ「スマートグリッド」分野に先月、Googleが進出することを発表したというものですが…まずはじめて知ったのは、米国の家電製品、たとえば「皿洗い機」にはすでに「スマートグリッド」対応型電力計と「対話」できるチップが埋めこまれているという。「スマートグリッド」というのは、情報技術と組み合わせた次世代型の電力網のことで、米国はじめ、アイルランドなどEU諸国でも導入の動きが活発になっているらしい。米国の場合は、電力供給網がつぎはぎだらけでたびたび停電に見舞われるという事情もありますが、「スマートグリッド」対応型電力計(スマートメーター)に交換すると、いままで用なしだった「皿洗い機」埋めこみチップと通信して深夜電力で皿洗いさせる、なんてことが可能になる。同様にハイブリッドカーの場合、スマートグリッド圏内ならどこでもいいから接続して充電をはじめると、自動的に電気代を教えてくれるし、またつなぎっぱなしにしておくと自動的にもっとも安い時間帯に充電してくれる。電気代を払う人からすれば経済的だし、また電気のムダ遣いもきょくりょく減らせる、といいこと尽くしのようなスマートグリッドに――最近なにかと物議を醸してはいますが――Googleが、得意のWeb技術を生かしたスマートグリッド対応ソフト、「パワーメーター」の売りこみ攻勢をかける、ということみたいです。「パワーメーター」は、Web経由で自分の消費した、もしくは売った電力がリアルタイムでわかるソフト。とはいえ「パワーメーター」普及には、これを組みこんでくれる開発元を見つけないとはじまらない。Googleとしては数か月以内にサービス提供したい考えのようですが、あいにくこれを組みこんでくれる協賛企業がまだ名乗りをあげていないようです。それでも国を挙げてこうした取り組みをしているのはけっこうなことではないかと思う。日本はもともと省エネ技術が進んではいるけれど、米国発の「スマートグリッド」という発想はおもしろいと思う。うちには「深夜電気温水器」がありますが、電気を喰う冷蔵庫とかにもこの手のチップを埋めこんで、電力計と通信しながらうまく配電してくれればもっと経済的で省エネにもなるかなという気もしますが…もっとも最近はTV(かなり古いので、地デジ…にはさらさら興味ないけれどいずれ買い換えることになりそう)をあまり見ていないせいか、電気料金がその分安くはなっています。とはいえどうしても冬は高くなってしまいますね(→国内関連記事)。

2). おなじみポーグ氏による新製品レヴュー。今回はAmazonが普及に躍起になっているあのKindleの新型について。すいさんのコメントに返す形で書いたことの繰り返しになるけれど、日本ではたぶん「電子辞書+電子ブックリーダー」という体裁のほうが売れるような気がします。Kindle2って、見た目ちょっと大きくないですか? もっとも「おんなじページを表示しているかぎり電池は喰わない」とか、「携帯キャリアとの提携で、無線LAN接続していなくても書籍のダウンロードが可能、通信代などはすべて書籍・雑誌ダウンロード代金に含まれている」、「初代にくらべてひじょうに薄く、メモリ容量も7倍に増えているがけっして'熱く'ならない」、「将来的には携帯電話など他デバイスへの転送も可能、読みかけの箇所からいつでも読める」、「Wikipediaで調べ物ができる簡易型ブラウザ搭載」、「スクリーン階調は初代の4段階から16段階まで増え、写真画像が鮮明に表示され、文字の大きさも6段階で変えられる」、「音声読み上げ機能もついている(これについては修正版を出すみたい)」。

 もっとも最後の「音声読み上げ」機能はほんとに機械的、抑揚もなにもあったものじゃないから評者曰く、

Kindle voices have some peculiar inflections and pronunciations ― they sound oddly Norwegian, sometimes ― and, of course, they’re incapable of expressing emotion.

だそうで、あんまり期待しないほうがいいみたい。現在Kindle2で読める媒体は書籍が24万タイトル、雑誌が22、新聞がNYTも入れて30紙、ダウンロードして読めるようです。とはいえバッテリーがiPhoneのような内蔵型で取替えできないとか、メモリーカード増設もできない仕様に変更されてもいます。たしかにこれ一台で好きなときに書籍をダウンロードして読める、というのは森林資源の保護には役に立つかもしれない。でもこれは精密な電子機器。落としたら一大事。そうじのときにしょっちゅう本とかバサバサ落としている自分なんかにはちと危ない(苦笑)。そしてもちろん購入書籍は「古本」として売ることもできない。またきょくたんな話、AmazonがつぶれたりKindle事業から撤退した場合、せっかくのライブラリーが全滅になる可能性だってある(当分のあいだは大丈夫だとは思いますが)。でもたとえば絶版本のたぐいがぜんぶKindleひとつで読めるようになったら…辞書についでいよいよ書籍も「電子化」してしまうかもしれない。でもポーグ氏同様、自分も紙の本はなくならないと思いますね――当分のあいだは。

3). 最後に「桃の節句」の日付けのこちらを。リンカーンセンターにリニューアルオープンしたアリス・タリー・ホールで今月1日に開かれた、フィリップ・ヘレヴェッヘ指揮コレギウム・ヴォカーレ・ヘント合唱団および管弦楽団によるバッハ最後の傑作、「ロ短調ミサ BWV.232」の演奏会評。ベルギー出身のヘレヴェッヘ氏、記事ではじめて知ったけれども、大学時代は音楽のほかに医学と心理学も学んでいたらしい。けっきょく音楽の道へ進むことになったわけですが、そんな異色とも言える経歴が演奏にも反映されていると記者は感じたようです――たとえば冒頭、'Kyrie eleison'の幾重にも重なる合唱の入りの箇所では苦悩に苛まれつつも神を希求する心情というか、不安を感じるいっぽうで、神がこの祈りをきっと聞いてくださっているというしずかな確信といったぐあいに人間の相反する感情が絶妙に表現されていて、それがこの日の「ロ短調ミサ」演奏をすばらしいものにしている、というぐあい。

 また当日の合唱は、力強さと自然な豊かさがあり、'Hosanna in excelsis Deo'の喜ばしい8声二重合唱部分ではホールの音響効果も手伝って、透明感がありとてもクリアな響きで、すこぶる好印象だったようです(とはいえ演奏会評というのはむつかしいもの。CD評なんかもそうですが)。当日は最後の合唱がアンコールされるなど、聴き手はおおいに満足だったみたいですね。

 で、記事ではそんな歌い手さんたちを賞賛しているわけですが、名前を挙げられているカウンターテノールのダミアン・ギヨン氏とテノールのハンス-イェルク・マンメル氏はなんと! こんどのLFJでも出演されるというから、いまから楽しみ(たまたまチケットがとれた公演にお名前が出てました。こういう偶然もあるのですね)。

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2009年02月14日

花粉爆発!

 本題に入る前に…今日、聖ヴァレンタインの祝日はなんとひどい日! …杉花粉症の人にとってはもう最悪。かくいう自分も朝から目がはれぼったくまた鼻水攻撃で、ほんとどうしようもない。この時期は「小青竜湯」と点眼薬が必需品で、今月になってから服用していたけれども、今日になっていきなり「1立方メートル当たり2000個の花粉」がこれまた吹きすさぶ強烈な南風に乗って飛びまくったのだからたまらない。たちまち体が悲鳴を上げてしまった。ドイツの人は冬、日照不足ゆえ軽い鬱になるとか聞きました。ドイツ人から見れば今日みたいなバカ陽気は――静岡市なんて夏日ですよ! ――うらやましいかぎりかもしれないが、冗談ぬきでうっとうしいし、気が滅入る…今年の夏は、日本もいまのオーストラリアみたいな酷暑になってしまうのであろうか…ひじょうに心配です。

 ひと月前の記事で申し訳ないけれど、へぇ、いまやYouTubeが検索エンジン代わりなんですか。子どもにとっては細かい活字読んでちまちま探すよりも、お目当てのものをさくっと動画サイトで視覚的・直感的に探し当てたほうが手っ取り早い、ということか。こういう、ある意味斬新な使い方って、たいてい最初は子どもからはじまりますね。なんでも昨年11月分の比較では、YouTube上で検索した件数がYahoo! サイト上で検索した件数を上回っているとか。投稿動画件数が増えれば増えるほど、的確なヒットを返す確率も上がる…のは当然としても、動画ベースの検索がテキストベースの検索に取って代わるなんてことはたぶんない。YouTubeの製品管理部の人が言っているように、動画とテキストなどがいろいろ組み合わさったかたちの検索が今後主流になるのかもしれないが、動画という性質上、おのずと限界がある。9歳のタイラーくんのように、カモノハシがどんな生き物か、を調べる場合はWikipediaなどの文字中心の情報より、YouTubeにカモノハシの生態を生き生きと捉えた動画があればそっちのほうがはるかにわかりやすいかもしれない。けっきょく調べる人がそれぞれの目的に応じてどんな情報を得たいかによって検索スタイルは変わってくると思うんですが、米国ではタイラーくんのようにまず動画投稿サイトで検索、それからGoogleとかYahoo! でサーチする、という使い方がだんだん幅を利かせているらしい。

“When they don’t have really good results on YouTube, then I use Google,” said Tyler, who is 9 and lives in Alameda. Calif.

宿題で動画投稿サイトを利用するとなれば、「まるごとコピペ」みたいな悪い意味での「省力化」に走ることもないかもしれないけれど、できれば図書館でも資料に当たってほしい、と言うのはすでに頭が古い世代の言い分かしら? あんまりこういう手段ばかりに頼ると、ますます自分でモノを考えなくなるのではないかとついよけいな心配もしてしまう。枝葉末節のことながら記事中に出てくる'Bakugan Battle Brawlers cards'っていったいなんだろ…日本のアニメ関連らしいけれど(ついでにおなじ記事を取り上げたこんなブログ記事も見つけました)。

Tyler’s father, Mr. Kennedy, who is a product manager at Nokia, said he has watched Tyler and his friends going from the Wii to the computer and back to the Wii enough times to understand how much the use of online video is changing. “All of us who are a certain age think of video as a medium associated with television, and not as a reference,” Mr. Kennedy said. “It’s another method of search that we don’t fully appreciate.”

自分も動画投稿サイトを調べ物の手段として使うことはあるけれど、それはたとえばGoogleの検索結果に引っかかった場合くらい。これはYouTubeがGoogleの子会社になったという事情もあるとは思う。またごくたまに、「だれかまたバッハのオルガン曲を弾いていないかな?」とYouTubeで探すこともある。あるけれども、ふだんの調べ物で使うという発想はない。もっともこれは使っているPCが古い、というのもあるかもしれない(動画サイトは表示されるまで時間がかかる)。むしろ検索で使うのは、Amazonサイトかもしれない。CDとか、洋書とか。和書でも書名を思い出せないときとかキーワードで検索して、見つかればこんどはそれが図書館に納本されているかどうか図書館サイトへ行って調べたりしますね。あ、明日、CDを返さなくては(笑)。

追記。NYTブログページにもYouTube使いタイラー少年発見。さらについでに父上のブログ上にも掲載記事を自慢げに掲げる姿で登場していたりして(笑)。

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2009年01月18日

二次喫煙ならぬ三次喫煙の害

1). まずはこちらの記事から。「二次喫煙(受動喫煙)」というのはすでに耳なじみの感ありですが、喫煙者の紫煙を直接、吸いこまなくても「受動喫煙の危険」があるということが、今月号のPediatricsという学術誌に発表されたという(→Pediatricsの掲載論文[PDF])。

 この研究結果を発表したのはハーヴァード大学医学部小児科准教授のウィニコフ博士らのグループ。具体的には当の論文記事を読んでみないとなんとも言えないけれど、たとえば前日、だれかが煙草を吸った部屋に翌日入ると、カーペットやカーテン、その他調度品類の表面にくっついている煙草の発癌性物質を吸いこむことによっても有害である、ということ。とくに乳幼児のいる家庭では要注意だと強調しています。「受動喫煙」は、車のウィンドウをちょっと開けて煙草の煙を逃がしたり、子どもを外に出してそのあいだ家の中で吸う、という「配慮」をしても、なおダメということで、ようするに喫煙習慣そのものを捨てなさい、ということです。

 またウィニコフ博士らは2005年9−11月にかけて、乱数にもとづいて自動生成した番号に電話をかけ、全米1500人から聞き取り調査もおこなっています。それによると、「二次喫煙」の害については非喫煙者で95%、喫煙者で84%の人が認識しているものの、「三次喫煙」については当の用語がまだ耳慣れないためもあってか、「前日だれかが喫煙した部屋に翌日入ってきた乳幼児・子どもがその部屋の空気を吸うと、彼らに健康被害をおよぼす危険がある」ということをきちんと認識している割合は、非喫煙者で65%、喫煙者で43%のみだったそうです。

Third-hand smoke is what one smells when a smoker gets in an elevator after going outside for a cigarette, he said, or in a hotel room where people were smoking. “Your nose isn’t lying,” he said. “The stuff is so toxic that your brain is telling you: ’Get away.’”

たしかに煙草のあの臭いっていつまでもしつこく残っていますね。なるほど、「鼻はウソつかない」わけだ。問題なのは、煙草にふくまれる有害物質には猛毒物質もけっこうあるということ。ブタン、鉛、砒素、シアン化水素(!)、それと驚いたのが、ポロニウム210という放射性物質。これ、2006年にもとKGB職員だったロシア人毒殺に使われたものですよ。このあたらしい知見については、こちらの専門家の書かれたブログにも書いてあるので、あわせて紹介しておきます。「残留受動喫煙」ですか。うまい訳語ですね(→Daily Telegraphサイトの関連記事)。しかしこの話題、日本のメディアではちっとも取り上げられていないような気がする。taspoだっけ、あんなんでお茶を濁しているような国ですから、しかたないかも。

 関係ないけれど、全国ではじめて受動喫煙防止条例制定を目指している神奈川県知事さんが、なんと! 20日におこなわれるオバマさんの大統領就任式(the Inauguration Day)に招待されたっていうから、こちらもびっくり。

2). 先日のUSエアウェイズの事故。まさしく間一髪でしたね。ほんと、奇跡的な不時着でした。で、こちらの記事を見ますと、いわゆる「バード・ストライク」って、飛行機の歴史が始まったときからあったんですね…。野鳥との衝突記録でもっとも古いのは、なんと1912年だそうで、キティ・ホークでライト兄弟が初飛行してからわずか9年後のこと。鳥と衝突したあと、カリフォルニア州ロングビーチ沖に墜落して、操縦士が亡くなったという。また1962年、というからまだケネディ大統領の時代、ボストン空港から離陸しようとしていたプロペラ機がムクドリの群れと衝突、四基あるエンジンのうち三基が鳥を吸いこんで失速、ボストン湾に突っこんで乗っていた62人が犠牲になるという痛ましい事故も起きているらしい。ニューヨーク近辺では2006年12月、ケネディ空港から離陸直後のボーイング767機がオオアオサギを吸いこんで急遽引き返し、乗客は代替機に乗り換えてもらったということがあった(そういえばそんなことあったな)。今回、事故の起きたラ-ガーディア空港では2003年にも、やはり離陸時に雁の群れと衝突、一基のエンジンが使えなくなり、ケネディ空港に緊急着陸したという。

 記事読んで思ったんですが、離陸時に鳥とぶつかる事例が多いですね。そしてこれがもっとも危険な事例でもある。離陸時は当然、ほぼフルパワーで上昇していますから。また渡り鳥の場合、渡りの季節に高度8千フィートあたりで衝突する事例が多く報告されているそうです。渡り鳥の飛行高度上限は1万2千フィートくらいですが、高度3万7千フィート上空で渡り鳥と衝突したなんていう事例も一件、報告されています。空港周辺から鳥を追い払う対策はいろいろ講じられてはいるものの、どうにもならないときは

But sometimes, the airports have been forced to relocate the flocks, or in the most extreme cases, kill them.

“As a last resort you have to do lethal control to convince the rest of the flock that we mean business,” said Russell DeFusco, a member of the steering committee for Bird Strike Committee USA, a group that collects data on bird strikes.(mean businessは「本気だ」という意味)

けっきょく、対処法はこれくらいのもの。何度か追っ払っていれば相手も学習するかもしれないけれど、自然の摂理にしたがって行動している相手なので、むつかしいところではある。もっともエンジンメーカー側も不測の事態に備えた衝突試験はやってるようで、記事によると、エンジンを最高出力まで上げたあと、スズメからサギくらいの大きさの鳥まで、いろんな鳥の死骸を実際に吸わせて、その結果、最低50%の出力を維持できたものだけ合格品として出荷しているんだそうです。とはいえ今回は「ニ基同時に使い物にならなくなった」というきわめて異常なケース。問題のエンジンは着水時に機体からもげて、ハドソン川のどこかにまだ沈んでいるらしい。まずはエンジン引き揚げですね。ちなみに座礁したクジラのようになってしまった機体はいま、バッテリー・パーク近くに係留されているとか。

3). 最後にこちらの記事についても少しだけ。最近の急激な不況で、共働き夫婦もたがいに離れ離れに暮らさなければやっていけない、という話。欧米人はなによりも家庭最優先の人が多いから、配偶者や子どもと離れて暮らすのはさぞ苦痛に感じることかと思います。でもいまはそうも言っていられない。とはいえ、昔の船乗りみたいに何年も生死不明、なんてことはない。たとえば印象的な記事上の写真。Skypeを利用して、PCモニター――iMacだ――越しにわが子に漫画本(? 、しかしこの'The Adventures of Captain Underpants'って…いかにもアメリカンなキャラクターですな)を読み聞かせている、というのはひと昔前なら考えもしなかったこと。子どものしつけなど、いろいろ問題もありますが今後このような「別居結婚」状態の家庭というのはますます増えそうだという。おかげて愛の深さを感じる夫婦もいれば、記事最後に出てくる女性のように離婚を決意される方もいる。

“My short-term project in Europe gave me a new perspective on our 22-year marriage,” said one woman, who asked that her name not be used. “It basically opened a whole new vista on my life and convinced me it was time for a divorce.”

 米国人にかぎって言えば、家庭を犠牲にしてでも仕事をしなくてはならない人ってけっこう多いかと思う。帰宅してもすぐノートPC開いて仕事のつづき、みたいな人を以前TVで見たことがある。欧州の人のほうが、まだしも人間らしい生活を送っていると言えるかもしれない。オバマ政権になったら、米国民の生活もいい方向へ「変わって」いくといいですね。もっともいちばん変わんなきゃなんない国はどこか、についてはむろん承知してはいますが。

posted by Curragh at 17:47| Comment(0) | TrackBack(0) | Articles from NYTimes