2010年12月26日

聖エルベの共同体の島(Navigatio, chap.12)

 ラテン語版『航海』12章で、聖ブレンダン一行の舟は切り立つ断崖絶壁の島にたどりつきます(人を寄せつけない「絶海の孤島」然とした小島の描写はすでに6章で、また後半では26章の「隠者パウルスの島」にも見られる)。40日、島のぐるりを堂々巡りしたあげく、三日間の断食ののち、「舟一艘がやっと入るくらいの」狭い隙間を見つけて舟を入れ、島に上陸。上陸地点にはふたつの泉が湧いていて、ひとつは清水が、もう一方からは濁った温かい水が湧いていた(温泉か?)。島に上陸して、さてどちらへ向かおうかと思案していたら、島の修道院共同体の長老がひとりやってきて、一同を歓迎した。そこから200mほど進むと、この長老の所属する島の修道院があった。修道院内の食堂に案内され、足を洗ってもらい、島の修道士たちとともに席についた。修道院長が歓迎と神への感謝を述べ、また自分たちは「聖パトリックと聖エルベ以来80年このかた」この島にいると言い、年もとらず体も弱くなっていないと言った。どこからともなくもたらされるという純白のパンと清水の湧く泉から汲んだ水、ひじょうに美味な根菜をともに食した。それがすむと一同は礼拝堂へ向かい、日没前までに「晩課」などすべての日課を終え、就寝前におこなう「終課」の詩編を歌った。ブレンダン院長が礼拝堂を観察すると建物は正方形で、水晶でできた祭壇、聖餐杯や聖体皿など一様に立方体をなしていた。祭壇は三つあり、中央の主祭壇前に三本、残るふたつにそれぞれ二本ずつ燭台があった。一同はそれぞれの僧坊へ引き上げたが、ふたりの修道院長だけは夜通し、礼拝堂に残った。好奇心旺盛なブレンダン院長は島の修道院長に、「沈黙」の規則など島の共同体の生活について質問した。島の修道院長はこたえた。わしらはこの島に来て80年になる。わしらは神を賛美するとき以外は声を発しない、それ以外は身振り手振りの合図のみだ。みな、世の人を蝕む悪い霊には当たらないから、だれひとり病を得る者もいない。これを聞いたブレンダン院長は、「わたしたちもここに留まってもよろしいでしょうか?」と尋ねた。「それはなりませぬ。すでに神はそなたに示されたはずですぞ。そなたは14人の弟子とともに故国へ帰還しなければなりません。そこがそなたの埋葬される地なのです。『遅れて来た兄弟』については、ひとりは『隠修士の島』にとどまることになるじゃろう。残るひとりは悲惨な最期を遂げるじゃろう」。ふたりがこのように会話しているまさにそのせつな、火のついた矢が窓から跳びこみ、7本の蝋燭をつぎつぎに灯して反対側の窓へ飛び去っていった。島の修道院長によると、「シナイ山の麓で燃える柴」とおなじで、これは「非物質の霊的な炎」であり、蝋燭はもとの長さのままだし、朝、灰も残ったりせんのじゃ。さてブレンダン院長がおいとましようとすると、島の修道院長はこう告げた。「まだ出帆してはなりませぬ。ご公現の祝日(the Epiphany)の八日目までこの島にとどまることになっているのじゃ」。

 というわけで、1月6日の「主の公現」から一週間後の日曜まで「聖エルベの共同体の島」にブレンダン一行は世話になり、決められた期間が過ぎたのちにまたあてどなく航海をつづけることになります。『航海』ではこの「聖エルベの共同体の島」、「羊の島」、「鳥の楽園島」、「大魚ジャスコニウス」が重要な舞台装置として機能し、かつそれぞれが教会の暦と密接な関係にあるところがおもしろいところ。ブレンダン一行は11章で、「鳥の楽園島」に棲む鳥から「クリスマスを『聖エルベの島』で過ごすことになる」と告げられています。つまりクリスマス期間は「エルベの修道院共同体の島」で、四旬節後の受難節(洗足木曜日)には「羊の島」へ、復活祭は「大魚ジャスコニウス」の上で、聖霊降臨祭後第八日目までは「鳥の楽園島」で過ごし、これを7年繰り返したのちにめざす「聖人たちの約束の地」にたどりつく、という設定になってます。

 マンスター王国の守護聖人聖エルベ(祝日9月12日、ラテン語名アイルベウス)についてははっきりしたことはあまりわかりませんが、こちらの記事にもあるように528年ごろに亡くなったマンスター国(ムウの国)エムリの修道院共同体創設者で、司教だった人でもあります。また8世紀初頭には成立したと推定されるアイルランドゲール語で書かれた『巡礼聖人たちの連禱(Irish Litany of Pilgrim Saints)』にも登場し、「マンスターの男たち24人がエルベとともに船出し、『約束の地』を再訪した。この世の終わりの日まで彼らはかの地で生きながらえる」と描写されています。ブレンダン関連では4つの祈りの言葉が含まれていて、うち三つは『聖ブレンダン伝』とつながりのある内容で、『航海』とつながりの深い祈禱文はこの「24人のマンスターの男たちと聖エルベ」だけです。研究者には、この「聖エルベと24人の修道士」というモティーフの出典はいまでは失われた伝承ないし記録にあるのではないか、とにらんでいる人もいます。『航海』ではパトリックとともに出てきますが、じっさいにはアイルランドにおける修道院共同体創設期に活躍したほかの「アイルランド南部」の聖人たちとともに、パトリック来島以前からキリスト教宣教に勤しんでいたと考えるほうが自然です(マンスターなどアイルランド南部ではウェールズおよび聖ニニアンのカンディダ・カーサで学んだ修道士たちがすでに活動していた。聖エルベも聖エンダもそのひとりで、ブレンダンもこの系譜に連なる。一説によればエルベは当地の支配者オイングス(Óengus)王族出身で、このへん北の代表格の聖コルンバを想起させる)。

 島の共同体の礼拝堂の記述は、ほぼ確実に「ヨハネの黙示録」とか「民数記」にも出てくる記述(「黙示録」1:12 の「天上のエルサレム」とか)が下敷きになっていると思われます。島の修道士11人がブレンダン一行を歓待したときに歌ったという行列聖歌(「神の聖人たちよ、住まいよりいで真理とまみえよ。この場所を聖別せよ、住まう者を祝福せよ、そなたの下僕たるわれらの平安を守りたまえ」という内容)は、校訂版編者セルマーによるとアイルランド特有の聖歌だとか(具体的には不明)。でもすぐあとの客人のもてなし方とかは「聖ベネディクトゥス会則」にのっとったものになっています。

 いまひとつ特異なのは、後半になっていきなり神学的というか、エリウゲナばりの形而上学的な言い回しが出てくるところ。「非物質の光が物質のなかで物質的に燃えるとはどういうことなのでしょうか?」とブレンダン院長は島の修道院長に質問するくだりなんですが、ブレンダンは島の共同体に一種の修道院の理想像を見出したのか、ほんらいの航海の目的を忘れ(?)、自分たちも島の共同体にとどまりたいとまで申し出ています。また、最初にブレンダン一行を出迎えに来た「長老」の顔は、「光り輝いていた」。なんだかこの島の共同体、なんとなく「約束の地」に次ぐ「修道士にとっての地上楽園島」という「におい」が感じられます。

 じつは『航海』に登場する「聖エルベの共同体の島」とそっくりな話が、8世紀初頭に成立したのではないかとされるイムラヴ、『コラの息子たちの航海(Immram curaig Ua Corra)』に出てきます。こちらのヴァージョンでは島に住む修道士は12人で、『巡礼聖人たちの連禱』中の、エルベとともに船出して帰って来なかった12人の修道士たちのことを記録したべつの祈禱文を下敷きにしていると考えられます。島に住む12人の修道士の顔もやはり光り輝いており、また『航海』よりも明確に「修道士の楽園島」のような記述になっていて、温泉のみならず、なんと「宝石(!)」まで産出します。『航海』も『コラの息子たち〜』も下敷きにしているのは『巡礼聖人たちの連禱』および『聖エルベ伝』だろうと思われますが、いまでは散逸した「もうひとつの原典」の存在もまったく考えられないわけではありません。むしろ共通の未知の伝承から、ひとつは『コラの息子たち〜』へ、そしてもういっぽうの系譜から『航海』へと取りこまれていったと考えても不自然ではありません。ただしこれは現時点ではたんなる推測にすぎない。確実な史料なり物証がないからです。ラテン語で書かれた『航海』とゲール語で書かれた『コラの息子たち〜』との関係ですが、後者は後代に大幅に書き換えられた形跡が見られることから原作の正確な成立年代についてもよくわかっていないため、もともとの「原作」からして『航海』と直接、深い関連性があるのかどうかについては『メルドゥーンの航海』のようにははっきりしていません。要調査、ということかな。

 …というわけで、クリスマス第二祝日にして使徒ステファノの祝日は、クリスマス期間中に「エルベの共同体の島」で過ごしたブレンダン一行にあやかりまして、今年最後の『航海』関連記事といたします。

けさの「音楽の泉」!

2010年05月16日

遅れてきた三人(Navigatio Chs.7,17,24)

 ラテン語版『航海』には、「遅れてやってきた三人(または「三人の余所者」)」というモチーフが出てきます。

 このモチーフの最古の例というのが、690-700年ごろにアイオナ修道院長アダムナン Adomnán によって書かれたとされる『聖コルンバ伝』中の、修道士コルマックの話らしい(コルマックの挿話については、以前ここでも「カツオノエボシ」との関連で書いたことがありましたっけ)。「絶海の砂漠」を求めたコルマックの航海はむなしくも三回とも失敗に終わり、それにもめげずにふたたび航海に乗り出そうとするコルマックにたいし、聖コルンバは「修道院長の許可を得ていない者」とともに船出しては目的はかなえられないと警告しています。これに呼応するかのように、『メルドゥーンの航海』でも同様に「望ましくない者」が「禁忌(geis)を破って」メルドゥーンの舟に乗船したために嵐に遭遇、父親の仇の住む「殺人者の島」を通り越してしまいます(→拙記事)。同様なエピソードは『聖ブレンダン伝』にも登場し、またアイルランドゲール語で書かれた『コラの息子たちの航海』や、『ブランの航海』にも出てきます(ただし、いずれも数が途中で変わったり不完全な記述のまま終わったりしている)。そして「望ましからざる者」の数が「ふたり」もしくは「三人」に増えています。

 そこで問題になるのは、「この中でどれがどれを下敷きにしているのか」なんですが、この件もまたいまだに意見の一致を見ていません。もっとも個人的には「航海に連れて行ってはならない者」という発想が、究極的にはどこから来たのかについてもよくわからないのであるが…。

 『メルドゥーンの航海』の場合、メルドゥーンから航海について意見を求められたドルイドが、メルドゥーンにたいして舟はこう造れとか、乗船者の数は17人だとかいろいろ「お告げ」をします。時化で目的地を通過してしまったとき、メルドゥーンは遅れてやってきた三人の乳兄弟をしかります。「こうなったのは、きみたちのせいだ!」。ようするに、ドルイドが課した「禁忌」を守れなかったゆえの結果、ということ。この「三人の余所者」挿話のうち、「乗りこんだ人数」と「航海から生きて帰れなかった者」の数の一致という点において、また「破ってはならない掟」という点においても、いちばん整合性がとれているのはこの『メルドゥーンの航海』であり、ストライボシュや故ヴァルター・ハウフなどの研究者は、この挿話にかぎれば、『航海』も『コラの息子たちの航海』も下敷きにしているのは『メルドゥーン』ではないか、と推測しています。

 この「三人の余所者」ですが、『聖ブレンダン伝』では「船大工、鍛冶屋、道化師」であり、『航海』では「遅れてやってきた三人の修道士」です。前者では、二度目の航海に出発してまもなく、まず最初に道化師が化け物のような大ネズミの大群に食われてしまいます。島をあとにすると、こんどは鍛冶屋が病死。「船大工」は? 最後までどっかに消えたままです。『コラの息子たちの…』では『ブレンダン伝』と『メルドゥーン』双方から借用したと思われるような「折衷型」で、やはり「船大工」と「道化師」、「若い従僕」が出てきますが、従僕のほうは航海をともにまっとうして、ブリテン島に渡ってそこで亡くなっているので、「望ましからざる余所者」として数に入れてよいものか、疑問です。

 『航海』では「だれもいない館」の島で「馬勒を盗もうとした修道士」が死に、つづいて「三組の聖歌隊の島」でひとりを残し、そして「炎の山」の島、つまり地獄の口がぱっくり開いている島で残る最後のひとりが悪魔に連れ去られてしまう、という筋立てになっています。『メルドゥーン』と大きく異なる点は、「禁忌」という点がぼやけていること、数の整合性がかならずしも取れていないということです。「三人の修道士」はだれかから航海の足かせになるとか言われているわけでもなく、また航海の妨げとなるような役回りでもないからです。ブレンダン修道院長は、「この兄弟は正しい行いをしたので、神はそれにふさわしい場所を用意されている。ただしおまえたちにはむごい仕打ちが待っているだろう」と予告します。でも最初に命を落とす修道士は、地獄に落ちたわけではなく、修道士に「馬勒(ネックレスという説もあり)」を盗ませた張本人、つまり7年のあいだその修道士を住処としていた「真っ黒の少年」が修道士の胸元から飛び出し、修道士の魂はブレンダン院長のとりなしのもと、「光り輝く天使たちに受け取られた」とあります――どう転んでもこれは「むごい仕打ち」とは言えません。わからないのは聖ブレンダンの科白の、'Iste frater bonum opus operatus est...Vobis autem preparabit teterrimum iudicium(セルマー校訂版)'の下線部。「おまえたち」というのが、そのじつたったひとりしか指していないのかもしれない。『ブレンダン伝』にしても航海から生きて帰れない人数はふたりなのか、三人なのか判然としないところからして、『航海』も、ことによったら『メルドゥーン』も、「三人の余所者」の原形はじつは「ふたりの余所者」だった可能性がある(ストライボシュ)。つまり『航海』の原型となった物語でも、ひょっとしたら「ふたりの余所者」というかたちだったのかもしれません。

 前に書いた「三組の聖歌隊の島」は『メルドゥーン』に出てくる「笑いの島(ch.31)」のキリスト教的アレンジともとれるし、修道士はその島から生きて故国へもどることはなかったという点も似ているといえば似ている。また「だれもいない館の島」は、そのまま「監視猫の島(ch.11)」の話とも重なり合う。アイルランド神話によく見られるような「禁忌」という意味合いはだいぶ薄れてはいるものの、アイルランドゲール語で書かれた『航海譚 immrama』やラテン語で書かれた『航海』に、「三人の余所者」というかたちで不完全ながらも残った、ということだけは言えるかもしれない。

 …今年の「聖ブレンダンの祝日」は折よく日曜日でしたね。Beannachtaí na Féile Brénainn! このあとは「音楽の捧げもの」でも聴こうかな…。

2010年05月03日

三組の聖歌隊の島(Navigatio, Ch.17)

 ラテン語版『聖ブレンダンの航海』17章には、聖歌隊の島まで登場します。出発時にブレンダン修道院長が予言したとおり、遅れてやってきた三人の修道士のうちのひとりがこの世の終わりまでこの島にとどまることになります。

 島の名前は「強き者たちの島('insulae virorum fortium'[MS. Alençon])」というもので、ここのエピソードは兄弟分の『メルドゥーンの航海』ではたとえば31番目の「笑いの島」にも似ていると言えるかもしれない(→関連拙記事)。

 この島は異様に平坦で、聖ブレンダン一行にはほとんど海面すれすれに思えたほどだった。広大な島にはたわわに実った「真紅と白の果実(原語では'scalta')」でいっぱいだったけれども、ほかの種類の樹はなし。聖ブレンダン一行が島についたのは朝10時ごろ。上陸すると、修道院長が予見したとおりに三組の聖歌隊が現れ、詩編第84番の8節目「聖人たちはいよいよ力を増して進み、ついにシオンで神にまみえることでしょう」を歌いながらやってきた――聖歌隊の先頭が少年組(pueri)で彼らの服の色は白。二番目が青年組(iuuenes)で、着ているのは青色の服。最後、つまり三番目が壮年組(seniores)で、着ていたのは真紅のダルマティカだった。それぞれの聖歌隊のあいだには投石器で石を放れるくらいの間隔が空いていて、順番に立ち止まっては詩編歌を唱和しといったふうにえんえんとお勤めを繰り返していた。晩課、15の「都へのぼる歌」を歌い終えると、島全体がまばゆく光り輝く分厚い雲に覆われ、彼らの姿は見えなくなったが、あいかわらず「早朝の祈り(朝課 prima)」まで、詩編を朗々と唱和する彼らの歌声だけは響いてきた。雲がかき消え、日の出を迎えると、すぐに島の聖歌隊は三つの詩編を歌いはじめた。三時課(午前9時)で三つの詩編を歌い、第90番をアレルヤつきで歌い終えたのち――ということは六時課、正午くらいか――彼らは「穢れなき子羊」を捧げて、こう唱和した。「この聖なる主の御体と救い主の流された血を永遠の命として受け取りなさい」(セルマーによると、この詩は5世紀のアイルランド人聖人セフナル(St Sechnall[Secundinus])という人の作らしいけれども、個人的にはよくわからない。一説によると、聖セフナルはパラディウスの使節のひとりだったらしい)。

 ここで青年組からふたりが紅色のスカルタでいっぱいの籠を抱えて聖ブレンダン一行のもとへやってきて、われらの兄弟をひとり島に置いてゆくように、この島の果実を受け取り、平安のうちに船出されるようにと言った。遅れてやってきた修道士のひとりはほかの仲間たちと抱擁して別れを告げると、修道院長聖ブレンダンとも別れの抱擁をした。「息子よ、この世で神から賜った恩寵の大きさを忘れるでないぞ。さあ行け。そしてわれらのために祈っておくれ」。そして一行は島をあとにしてふたたび大海原に乗り出した。一行は船上で紅色のスカルタを絞り、その果汁を飲んだが、スカルタひとつだけで12日間はもちこたえ、口の中にはずっと蜜のような味が残った。…

 「三組の聖歌隊の島」はだいたいこんな感じで終わってますが、重要と思われるのはその順番。古代ケルトやゲルマン社会ではたいていの場合、地位の高い者が先頭に立つ、という習慣があったらしい。でもケルト学者故ジェイムズ・カーニーによれば、これがキリスト教到来とともに逆転してしまったらしい。それが反映されている一例として、有名な『クーリーの牛捕り(Táin Bó Cúailnge, クーリーは現代英語読みなので、本来は「クアルンゲ」と書いたほうがいいかも)』を挙げています。アルスターの英雄クー・フリンと西隣りのコナハト国の屈強な女王、メイヴとのあいだで繰り広げられた壮大な一大戦記を描いた「アルスター物語群」のひとつですが、この中で、自国軍とレンスターなど近隣からの援軍がメイヴ女王の居城であるクルアハン(Cruachain, Cruachuの古名で、現在のラークロアン遺跡だと考えられている)に集結するくだりが出てきます――アルスター王コンホバル(Conchobar mac Nessa, 英語綴りではConorで男性名Connorはここから派生)の息子コルマック(Cormac Conn Longas, 「クーリーの牛捕り」の前話、「ウシュネの息子たちの流浪 Longas mac nUislenn」で父王コンホバルの謀略に怒り、ほかのふたりの戦士とともに隣国コナハトへと逃れていた)の軍勢が到着したとき、隊列は三つに分かれていて、最初にやってきたのが短く髪を剃り、膝丈までの服とまだら模様の外套を着ていた戦士たち。二番目がもうすこし長い髪で、脛までとどく衣と深い青色の外套。最後にやってきたのが肩まで髪を伸ばした戦士たちで、頭巾のついた刺繍の施された真紅の服と足先まで届く外套をまとっていた(→Táin Bó Cúailnge オンライン版テクスト。参考リンク→コンホバル王および「ウシュネの息子たちの流浪」関連サイト)。最初と二番目の隊列が到着したとき、女王メイヴはだれからも問われていないのに「コルマックはまだだ」とこたえ、三番目つまり最後の隊列がやってきたとき、「コルマックが来た」とこたえたという。

 おなじくカーニーによると、Vita Kentigerniという聖人伝では、ケンティゲルン(? 具体的に何者なのかは知らなかったが、こちらの記事によるとどうもスコットランドの人でグラスゴー市の守護聖人らしい)のもとに到着した聖コルンバの一行が少年・青年・壮年と三つのグループに分かれ、出迎えたケンティゲルンの一行もおんなじように「年齢順」に三つに分かれて、「聖人たちはいよいよ力を増して進み、ついにシオンで神にまみえることでしょう」と唱和したとある――つまり『クーリーの牛捕り』のコルマック到着の場面ではこういったキリスト教化されたあとの習慣がひょっこり顔を出しているということになる。そして奇しくも『航海』に登場する「強き者たちの島」の聖歌隊が一行を出迎えたときにも、このおんなじ詩編を歌っている(「ベネディクト戒律」ではどうなってるのか知らないが、すくなくとも当時、客人を歓待するときにはふつうに歌われていたものらしい)。ちなみに現在の西方教会の聖歌隊席の席順も基本的にはおんなじで、最前列に子どもつまり少年聖歌隊員、そのうしろにお兄さん隊員、最後列に最年長の聖職者クラスの席といった順番になっている。

 最後に得体の知れない(?)スカルタなる果実について。記述をていねいにひろうと、1). 球のような丸くてでかい果実で、いずれもおなじ大きさ 2). 真紅と白とふたつの色があり、3). 絞ると大量のジュースがとれ、4). 一個のスカルタを絞った果汁1ポンドをそれぞれ1オンスずつ分けて各人にあたえたら、5). 12日間はもちこたえ、6). そのあいだ口の中にはずっと蜜のような味が残った、そんな果実だったらしい。1). について、スカルタ一個を手にとったブレンダン自身が、「こんなに大きなスカルタは見たこともないし読んだこともない」と言っているから、すくなくとも当時のアイルランド人はこの果実を知っていたことが想像されます。と言ったっていったいなんのことやら、さっぱりではあるが…このあとで「ざくろのような香り(Ch. 18)」とか出てくるから、それっぽいものかなあと勝手に妄想しています(ちなみに原文に「12等分した」とあるのはもちろん乗船人数と数があわない。こういう矛盾は古文書ではよくあること)。

 …というわけで、いま「今日は一日“ラ・フォル・ジュルネ”三昧」を聴いています…。早いもんだ、バッハをテーマとしたLFJからもう一年が経ってしまったのか…。

2010年04月04日

ジャスコニウス(Navigatio, chap.10 ff.)

 今日は2010年の復活祭(くどいけれども復活祭は移動祝祭日。中世のクリュニー系修道会とかでは受難週間のあいだ控えられていた「アレルヤ唱」がいっせいに歌われたりした)。ということで、ひさしぶりに原点回帰してみようかと思いました(笑)。

 ラテン語版『航海』の10章以降、たびたび登場する「大魚ジャスコニウス」はこの航海譚全体の構成にとって、きわめて重要な舞台装置でもあります。古アイルランドゲール語のiasc(=fish)からの造語だと言われていますが、以前ここでも紹介したこちらの木版画とかでは「うろこ」の生えた大魚、ということになっている。ブレンダン一行は「洗足木曜日」に「羊の島」に上陸し、そこに住む――というか、彼らの到着を待っていた――「給仕」役の若い人(たぶん同郷人で島の隠修士)から歓待を受け、聖土曜日、ふたたび船出してとなりの「石だらけで草も生えていない島」に向かう。修道院長だけ残して修道士らは上陸し、復活祭の朝が開けるまで、徹夜の祈りをささげる。夜が明けて、歌ミサをあげながら修道士たちが塩漬けにするための生肉と、「羊の島」から持ってきた魚を運び出した。火を起こし、鍋をかけた。薪をさらにくべ、鍋がぐつぐつ煮え立ったそのせつな、いきなり足許の「島」がぐらりぐらりと「波打ち」はじめた。たちまちパニックに陥った修道士たちはカラフにひとり残っている修道院長に助けを求めながらあわてふためき逃げもどった。「島」は、修道士たちが起こした火と鍋を乗せたまま、海原の彼方へと去っていった。「わが子よ、恐れるでない。われわれがいたのは島ではなく、魚だ。あの魚こそ海洋に泳ぐすべての生き物の王者で、尾と頭を合わせようといつも試みているが、胴の長さゆえにそれができずにいる。名前は、ジャスコニウスという」。

 『航海』全編をとおしてこの挿話はたいへんおもしろく、また聖ブレンダンを象徴する場面として、この「大魚ジャスコニウスと聖ブレンダン」という組み合わせの木版画や絵が多く残されてもいるし、またブレンダンのアトリビュート(聖人を表象する事物)としてもこの「大魚(クジラ)」が採用されていたりもする。「うろこ」は生えているけれど、描写からしてもやはり「クジラ」以外には考えにくいから、ほぼジャスコニウス=クジラと見做していいように思います。

 また研究者のなかには、『航海』と『聖ブレンダン伝』双方に共通して登場し、またその後スピンオフとでも言うべき『聖マロ伝(マロはブレンダンの弟子のひとりで、のちの「サンマロ」の名前の由来となったブルターニュの聖人)』にも登場するこの「ジャスコニウス」の挿話を、「もっとも古くから流布している聖ブレンダンにまつわる伝説」の生き残りではないか、と考える人もいる(オルランディやマクマフーナなど)。ちなみにこの「クジラに乗った聖ブレンダン」という伝承は11世紀にはいろいろな記録に現れていて、たとえば1090年ごろに書かれた『聖ダヴィド伝』にも、バレというアイルランド人修道院長がウェールズからの帰路、大海原のただなかで聖ブレンダンに会った話を伝えている。それによると聖ブレンダンが海の怪物の背の上にいておどろくべき暮らしをしていたといい、そのブレンダンがこれからウェールズの聖ダヴィドに会いに行く、と言ったとか。

 ひるがえって『航海』に出てくるジャスコニウスの話は、『ブレンダン伝』とは細部が食いちがっています(『ブレンダン伝』と『航海』の相関関係についてはこちらの拙稿参照)。『航海』では「羊の島」にいた給仕の予言したごとく、聖土曜日の夕方から復活祭の「正午(六時課のお勤めにあたる)」にかけて「大魚(もしくはクジラ)」の上にいたことになっています。『ブレンダン伝』のほうは、聖土曜日の夜から復活祭明けの月曜日の朝まで、まるまる二日二晩、滞在したと書いています。『聖マロ伝』もこの点については『航海』ではなく、『ブレンダン伝』を下敷きにしたと思われ、聖マロ一行もほぼおなじ時間をこの「大魚」の上で過ごしています。また『航海』においては、「なんでそのまま『羊の島』にとどまって復活祭をお祝いしないのか?」という疑問も湧いてきます(わざわざジャスコニウスに上陸しに行く)。

 この件も仔細に検討すると、どうも「いまは失われたがかつて存在していた聖ブレンダン伝説の原型」みたいなものがあったのではないか、と推定する研究者がすくなからずいます。彼らによれば、その流れを汲んでいるのが『ブレンダン伝』や『マロ伝』で、『航海』の作者はこの「クジラの背に乗った聖ブレンダン伝説」をうまく取り入れたのではないか、という(マクマフーナ)。

 『ブレンダン伝』に登場する「大魚」は5年(『リズモアの書』所収のゲール語写本では7年)の航海のあいだ、復活祭の時期になるとかならずブレンダンの舟の至近に出現して、その場所(というか海域)はばらばら。たいする『航海』のほうは、かならず「羊の島」と「鳥の楽園島」の中間水域にとどまり、まるでブレンダン一行の舟を待ち受けているかのようです。どちらの設定が、語りとしておもしろく、また効果的なのか。そう考えるとどうも『航海』の作者がすでに流布していた「クジラに乗った聖ブレンダンの伝説」を自身の舞台装置の一部として取り入れたのではないか。たしかにそう考えたほうが自然ではあります(ストライボシュ)。もっともほんとのところは『航海』の作者さんをつかまえて訊くしかないでしょうけれども。

 また直前の「羊の島」では聖ブレンダン一行が自分たちの食べる分と、それとはべつに「穢れのない子羊」を一頭つかまえて「主の復活」を祝って捧げる、という場面が出てきます(chs.9, 15)。ここがどうもよくわからない。文脈からすると、「主の受難と復活を記念するための」なんらかの供犠(過ぎ越しの祭のような)をおこなったものと思われますが、ブレンダンが生きていた時代のアイルランド教会でこの手の「供犠」がおこなわれていたのかどうか、については資料がなくて、いまだにわからずにいる。もっとも17章の「三組の聖歌隊の島」でも同様に「穢れのない子羊を捧げ」とあり、じっさいに行われた儀式を描写したというよりむしろ本来の意味での「ミサ聖祭(とくに「聖体拝領」)」を読者に想起させようというひろい意味でのメタファーとしてこう書いたのかもしれない(本家サイトにも書いたことだがいまや英訳版の定番であるオメイラ教授訳本では、なぜか'pisces'がfleshと訳されている)。

 また、15章でブレンダン一行がふたたび大魚ジャスコニウスに一年ぶりに上陸したとき、一行は「アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌」を歌いながら下船した、とあります。現在の西方教会で、この旧約外典の当該箇所の朗読なり読誦なりが聖土曜日に行われるのかどうか、については寡聞にして知りませんが、すくなくとも正教会では聖土曜日に歌われるようです(ローマカトリックでは主日[日曜日]に歌われるらしい)。ひょっとしたら東方教会色が濃いといわれている中世アイルランド教会の性格が、こういうところにひょこっと顔を出しているのかもしれない(なお「アザルヤの祈りと〜」は英国聖公会系やルター派でも「賛美せよ(Benedicite)」というカンティクルとして歌われたりする)。

 また『航海』では究極的な出典としてPhysiologusがあり、リヴァイアサンとしてのジャスコニウスは、ヨナを呑みこんだ「大魚」とおんなじだと言える。つまり「イエスの黄泉下り」を先取りしている(とキリスト教学者は解釈している)ヨナの物語のように、『航海』においてもジャスコニウスが象徴しているものは「黄泉下り」と「復活による救済」、ということになる。なのでどうしても教会暦における「主の復活」と関連づけなくてはいけない。現存する『航海』写本の原作者は、そう考えてわざわざ大魚ジャスコニウスを重要な舞台装置として固定し、かつリヴァイアサン的性格も取り去って、「聖ブレンダン一行の助け(27章ではジャスコニウスみずからブレンダン一行と舟を乗っけて「鳥の楽園島」へと向かう)」となる役回りに仕立てあげたのではないか、と思う(ジャスコニウスが「輪っか」になろうと四苦八苦していた、というのはたとえば21章に出てくる、正体不明の海の怪物の大群もおんなじように輪っかになって「透き通った海」の海底にたたずんでいた、という個所の変奏でもある→関連拙記事)。

 …そういえば今日は「花祭り」でもありましたね…(これは当方の早トチリで、潅仏会は8日でした。まことに汗顔の至り)。

2009年08月02日

『メルドゥーンの航海』

 この前図書館から借りて読んでいた名著普及会の『世界神話伝説大系41, アイルランドの神話伝説 II』。初版はなんと80年前(!)に出た本で、すでに『メルドゥーンの航海』が邦訳されていたとは、いまごろではあるけれどようやく知るにいたる(苦笑)。編者の八住氏ってどんな人なのかさっぱりなんですが、アイルランドのケルト部族を評して、「制度があまりに強い権威をもち、人々の上に君臨する時、それは常に冷厳な公式と化し、人間の心を解放する代りに鎖を与えるものである。…しかしケルト族は、その中に本当の人間らしい生活の息吹をもっていないところの一切のものに対しては、反抗したのであった。非精神的であり、そして単に外部的な形式にのみ流れる一切のものの支配に対しては、敵対したのであった(p.209)」という一文は、ある時代におけるひとつの「ケルト受容史」ともとれるけれども、かなり正鵠を射た言い方のような気がします。

 ラテン語版『聖ブレンダンの航海』の祖形ではないかと言われる古アイルランド語で書かれた航海譚(immram、複数形はimmrama)、『メルドゥーンの航海』。あらためて読んでみると…やっぱりよく似ています。もっともモティーフによっては現存するimmramaに共通して出てくるものもあります。たとえば『メルドゥーンの航海(以下、『メルドゥーン』)』「女人の島」の挿話は、話の内容もほぼそのままに『ブランの航海』にも登場します。また「常若の国、ティール・ナ・ノーグ(Thír na nÓg)」から帰ってきた主人公が「浦島太郎」状態で帰ってきて、禁を破って故国の土を踏んだ瞬間に300歳の年寄りになったり、灰と化したりというのも有名な『常若の国オシーンの物語』にも出てくるし、『ブランの航海』にも出てきます。なので『メルドゥーン』と『航海』がよく似ていると言ってもとくに不思議はないかもしれない。でも両者は物語の構成においてかなり似通っています。『メルドゥーン』の場合、主人公はいかにもという感じの典型的なケルトの若武者。父親を殺した連中に仇討ちするために3年と7か月あてどなく航海する物語が、『航海』では修道院長が「聖人たちの約束の地」を求めて7年航海する物語に変わっています。『メルドゥーン』と『航海』ともに、元来はおんなじひとつの「原型」から派生したものではないかと考える人もいます。いずれにせよこのへんの写本どうしのつながりというか、関係についてはたいへんむつかしい問題なので、いまだに結論は出ていませんが、『メルドゥーン』と『航海』には密接な関係があるという一点においては意見が一致しています。現存するヴァージョンはふたつあり、ひとつは8-9世紀ごろ成立したと考えられる散文版、いまひとつは10世紀初頭に成立したと考えられている韻文版です。

 以下、『メルドゥーン』のおおまかな構成と、あきらかにおなじモティーフと考えられる挿話を記してみます(以下は、中央大学人文科学研究所編 『ケルト――伝統と民俗の想像力』所収の松村賢一「冒険と航海の物語」から抜粋。底本は、『レカン黄書』その他に収められた写本から校合したホイットリー・ストークス校訂による『メルドゥーン』。丸括弧は対応する『航海』の章)。

メルドゥーンの出自。アリルはアラン島の勇敢な族長で、ほかの封建領主の王国を略奪するため王につき従ってきた。そのとき彼はある修道女を手篭めにした。メルドゥーンはそのとき生まれた子で、アリルはその後部族の襲撃にあい、教会で焼き殺されてしまう。修道女はひそかに親しい王妃にメルドゥーンを養育してもらうことにした。ある日、メルドゥーンに負かされた戦士仲間が腹立ち紛れに「おまえは王妃のほんとうの息子ではない」とほのめかし、ショックを受けたメルドゥーンはそのことを王妃に問いただす。やむなく王妃は真実を告げる。それを聞いたメルドゥーンは三人の乳兄弟とともに父親の国を訪ねた。父親が焼き殺された教会の廃墟で、ある男から仇討ちするよう言われ、ドルイドから舟の建造と日取り、乗船者の人数についてお告げを受けた。ドルイドによると乗船者は17人にせよという。彼らが船出するとき、三人の乳兄弟が汀へ駆け寄り、どうしても乗船させてくれと懇願する。やむなくメルドゥーンは三人を乗船させ、ドルイドの禁を破ったまま出発する(chp1-5,「三人の余所者」)。

1. 殺害者の島 一行は上陸しようとするも、暴風が吹き荒れてはるか沖に流される。怒ったメルドゥーンは三人の乳兄弟に向かって、「きみたちのせいでこうなったのだ」と責める。

2. 巨大な蟻の島。三日目の朝、波の砕ける音が聞こえてきたかと思うと巨大な蟻がメルドゥーンたちを食べようと海になだれこんだ。恐ろしくなって逃れ、三日三晩逃げつづけた。

3. 大きな鳥の島。三日目の朝、木々が繁った島におびただしい数の色鮮やかな鳥の群れがいた。数羽捕まえて舟に持ちこんだ。

4. 馬の形をした怪物の島。四日目の朝、大きな砂地の島に着く。体は馬で、犬のような脚を持った怪物がいた。ふたたび沖へ舟を出すと、怪物は大きな丸石を投げつけた。

5. 巨大な馬が疾走する島。一行は広大な島に着いた。ふたりが上陸するが、巨大な足跡や風よりも速い馬の疾走を見てあわてて舟にもどる。

6. 鮭の家の島。飲まず食わずの一週間が過ぎ、巌の聳え立つ島に着く。崖っぷちには無人の家があった。高波とともに無数の鮭が転がりこんだ。ひとりひとりに酒と食べ物、寝台が用意してあった(chp.6)。

7. 林檎の島。長い航海で一行が飢えに苦しんでいると、高い崖で囲まれた島を見た。メルドゥーンひとりが上陸して、林檎をとる。これが四十日間の食糧となる。

8. 体を回転させる野獣の島。こんどは石垣をめぐらせた島を見た。島では一頭の獣が、表皮はそのままで内側の骨と肉がぐるぐる回転し、小休止ののちに肉と骨は静止して皮のほうが水車のように回転した。メルドゥーンたちに気づいた野獣は逃げる彼らに石を投げつけた。ひとつがメルドゥーンの盾を突き抜けて舟の竜骨に食いこんだ。

9. 咬みあう馬たちの島。しばらくして馬の格好をした動物がたがいに咬みあい、血潮の海になっている島を見た。恐ろしくなって早々に離れた。

10. 獰猛な豚と黄金の林檎の島。飢えと乾きの船旅ののち、一行は黄金色の林檎がたわわに実った美しい島にやってきた。日中は洞穴にすむ獰猛な豚が林檎を貪り食っていて、地面が焼けつくほど熱かったので夜のうちに上陸して林檎をもいで舟に積みこみ、出発した。

11. 監視猫の島。林檎が尽きてひどい飢えと乾きに苦しんでいたとき、一行の前にちいさな島が見えた。真っ白で雲にも届くほど高い城壁に囲まれていて、周囲に家が集まっていた。そのうちもっとも大きな家に入ったが、だれもいなかった。しかし一同の食事と酒、寝台が用意してあった。部屋の中央には四本の柱が立ち、その上を猫が跳び回っていた。乳兄弟のひとりが首飾りを盗んで出ようとすると、猫は火のついた矢のごとく彼に跳びかかり、彼は燃えて灰になってしまった。メルドゥーンは猫に非礼を詫びて首飾りをもどすと、灰を海岸にまいて島を離れた(chp.7)。

12. 黒と白の羊の島。三日目の早朝、一行は青銅の塁壁で仕切られた島に着いた。仕切りの中には黒と白の羊がいて、大男が羊を分けていた。ためしに枝を投げ入れたらそれぞれの色に変色したので、恐ろしくなって島を離れた。

13. 豚と大きな牛の島。三日目、一行は美しい豚が群れる大きな島に来た。子豚を捕らえて調理し、舟に持ちこんだ。大きな牛もいた。山から流れる川に槍の柄を浸すと、火で燃えたように消滅した。このことを残りの者に伝えると、一行はこの島から離れた。

14. 水車の島。ほどなくして彼らは水車のある島に着いた。ひとりの巨人が水車番をしていて、おまえたちの国の穀物の半分はここで碾かれ、妬ましいものもすべてここで碾かれると言った。

15. 嘆き悲しむ者の島。つづいて黒装束をまとった人たちが嘆き悲しむ島に来た。くじびきで、メルドゥーンの乳兄弟のひとりが島に上陸してようすを見ることになった。すると彼も島の人とおなじように泣きはじめた。彼を連れもどそうとしたふたりもまた泣きはじめた。四人の従者がすっぽりときれをかぶって上陸、ふたりを連れ帰ったが乳兄弟は残した。

16. 四つの柵の島。一行は金と銀と銅と水晶の四つの柵で仕切られた島にやってきた。それぞれに王、女王、戦士、乙女がいて、乙女たちのひとりが一行に食べ物と酒を運んできた。三日間もてなされたのちに目が覚めると島も乙女の姿もなく、海上の舟にいた。

17. ガラスの橋の島。その後、一行はガラスの橋がかかり青銅の扉で閉ざされた要塞のある島に着いた。白い衣を着た乙女が出てきて、一同を海辺の大きな家に招きいれた。翌朝目が覚めると、彼らは海上の舟にいた。

18. 鳥の歌う島。かなたから鳥の歌う声が聞こえた。島に近づくと、さまざまな色をした無数の鳥が木々に見え、賛美歌のような歌も聞こえた(chp.11)。

19. 隠者の島。鳥の歌う島からすこし離れた海上に無数の木の繁る島があった。そこで彼らは衣服の代わりに長い白髪で全身を覆った隠者に遭遇した。隠者はアイルランドからカラフで巡礼の船旅に出たが、神の定めによりこの島に留まっていると話した。三晩の歓待ののち暇を告げると、隠者は「ひとりをのぞいて、あなたがたは全員故国へ帰ることができるだろう」と予言した(chp.26)。

20. 不思議な泉の島。三日後、黄金の壁が張りめぐらされた島を見た。ここにもうひとりの隠者が住んでいて、やはり長い髪の毛で全身覆われていた。泉があり、教会暦にしたがって乳漿水、ミルク、ビール、葡萄酒が湧き出していた。ここでも天使に食べ物を与えられ、三日間滞在した。

21. 巨人の鍛冶屋の島。また長い航海をつづけていると、はるかかなたに島が見えた。巨人の鍛冶屋は接近してきたメルドゥーンたちめがけて真っ赤に焼けた鉄の塊を投げつけた。塊が落下した海は瞬く間に煮え繰り返った(chp.23)。

22. 透き通った海。それから一行は水晶のような透き通った海に出た。海底の小石までよく見通せたが、怪物も生き物もいなかった。(chp.21)。

23. 雲の海。つづいて一行は雲か霧のかかったような海に出た。海底には要塞と美しい国、高い木に棲む恐ろしい怪物を見たので、早々にここを離れた。

24. 予言の島。また海中に島が見え、こんどは島の住人が「やつらだ、やつらだ」と叫んでいた。ひとりの大女が木の実を投げつけてきた。波間に浮かんだ木の実を拾い集めてその場を離れた。島民たちは、メルドゥーン一行を予言に出てくる島を滅ぼしに来た者たちと思っていたらしい。

25. 水のアーチの島。この島では一方から川が噴き上がり、虹のように弧を描いて反対側の岸へ流れ落ちていた。その下にいても濡れず、槍で鮭を刺すこともできた。無数の鮭が地面に落ちていたから、一行は拾い集めて島を後にした。

26. 銀の柱と銀の網。一行が舟を漕いでいると、巨大な銀の柱を見た。各面の幅が櫂二本分の長さで、四方あわせて八本分だった。柱の頂はひじょうに高くて見えない。柱の頂上からは巨大な銀の網がかかっていた。一行の舟が網目を通りぬけたとき、従者のひとりが網目を切り取った。「故郷に帰りついたら、これをアーマーの聖パトリックの祭壇に置こう。この不思議な体験を皆に信じてもらうために」。すると柱の上のほうから力強い、澄んだ声が聞こえたが、なにを言っているのかはわからなかった(chp.22)。

27. 柱の上の島。やがて彼らは一本の柱が支えている島にやってきた。島の入り口は閉ざされていたため、彼らはそのまま航海をつづけた。

28. 女人の島。やがて一行は広大な島に着いた。大きな要塞があり、中では17人の乙女が風呂の用意をしていた。乙女の一人がメルドゥーンたちを招き、女王の歓待を受けた。食事が終わるとそれぞれ寝室へ行き、夜をともにした。女王はメルドゥーンに、ここでは生老病死もなく、夜ごと宴があり、なんの苦役もなく、とこしえの命を授けられる、と言ってここにずっととどまるようにと言った。一行は島に三か月とどまったが、彼らには3年の月日が過ぎ去ったように感じた。故国へ帰りたいと訴えるものが出てきて、メルドゥーンは女王が留守のうちに舟に乗って島を離れようとした。馬に乗って海岸へやってきた女王は糸巻きの毬をメルドゥーンに投げつけた。毬球はメルドゥーンの手に張りつき、女王は毬玉をたぐり寄せてふたたび彼らを3か月、とどまらせた。こんなことが三度つづいたあと、従者のひとりが女王の投げた毬球を受けた手を切り落とした。女王は悲鳴をあげて泣き出した。メルドゥーンたちはようやくこの島から離れた。

29. 酔いを誘う果実の島。長いあいだ波間に揺られ航海していると、うっそうとした森の島に来た。果実をたわわに実らせた木を見てこれをもぎ取った。果汁を絞り出して飲むと、前後不覚の深い眠りに落ちてしまった。メルドゥーンは水で薄めるように指示し、この薄めた果汁をいくつも容器に入れて出発した(chp.13)。

30. 隠者と鷲の島。やがて一行は湖のある大きな島に上陸した。島にはちいさな教会があり、教会に入るとバーの聖ブレンダンの巡礼でただひとり生き残った者だという隠者に出会った。一行は羊の肉を食べて三か月を過ごしたが、ある日、南西から飛んできた大きな年取った鳥を見た。嘴には大きな枝をくわえ、枝の先には大きな果実がたわわになっていた。つづいて大きな鷲が二羽加わり、鳥たちは枝から身を取っては岩に叩きつけて割り、湖にほうりこんだ。湖は果実の汁で真っ赤に染まり、大きな老鳥はその湖に入った。三日間浸ったのち、若返って飛び立った。これを見た従者が湖に入って水を飲むと、視力が強くなり、歯も髪の毛も抜け落ちない体になった。一行は隠者に別れを告げ、羊の食糧をもって出発した。

31. 笑いの島。広大な島に着いた。おびただしい人の群れが笑っているのを見て、ふたたびくじびきでだれが上陸するか決めた。こんどは最後まで残っていた乳兄弟が当たり、彼が上陸すると彼もまたおなじように笑いはじめた。舟にもどろうともしなかったので、一行は彼を残して島を離れた。

32. 炎の城壁の島。それから一行は炎の城壁が張り巡らされた島にやってきた。この城壁は回転し、入り口が彼らの目の前に来ると、黄金の楽器をもった人たちが楽しげに宴会を開いているなど、島の光景がよく見えた。

33. トラハの隠者の島。長い航海のすえに、波間はるかかなたに白い鳥のようなものを見た。近づくとそれは全身白髪に覆われた人間だった。隠者はかつてトラハの島の修道院で料理番をしていたが、食べ物を勝手に換金して得た金とともに島から逃げ出したと語った。その後時化にあい、波間に座っていた人が現れ、おまえは悪霊のうごめく海に流されてしまったのだと言い、この人の言われるとおりに木のコップだけ残してすべてを海中へ放りこみ、波が砕ける小さな岩に降り立った。それ以来このかた7年ものあいだ、川獺が鮭と美酒を運んできて自分はそれを口にして生きてきたのだと語った。そして、「あなたがたは全員、故国へ帰り着くだろう。そしてあなたは父上を殺した者どもを要塞で見つけるであろう。だが彼らを殺してはならぬ、許しなさい。神がこれまで幾多の危難からあなたを救ったのだから」と言い聞かせた(chp.26)。

34. 鷹の島。ある島に着くと、牝牛や牡牛、羊がいるだけで家も城砦もなかった。そこで羊の肉を食べ、鷹の飛んでいく南東のエリンへと舟を進めた。

35. 殺害者の島と一行の帰還。夕方、ちいさな島を見た。最初に上陸しようとして失敗した、殺害者たちの島だった。一行は上陸して城砦に向かった。城砦では夕食の最中で、メルドゥーンの父を殺した者もいた。族長はメルドゥーン一行の苦難に満ちた航海をたたえて歓待し、彼らのために新しい着物も用意した。

帰還。メルドゥーンは自分の国へと帰り、人々にこの航海のことを話した。切り取られた銀の網は、アーマーの聖パトリックの教会の祭壇に捧げられた(chp.29)。

この航海譚の結末で、作者(?)らしい人が名乗ってこう結んでいます。「かくしてエリン(アイルランド)の大賢者『麗しのエー』は、この物語をかくのごとく綴った。みずからの心の喜びのためのみならず、のちの世に生きるエリンの人々の喜びのためにそうしたのだ」(→『メルドゥーンの航海』現代英語訳ページ)。

2009年05月16日

「聖人たちの約束の地」(Navigatio, chap.28)

 本日は、聖ブレンダンの祝日。今年もぶじに迎えることができました(新型インフルエンザが気がかりではありますが…ちなみにいまはもう使わなくなった「豚インフルエンザ」は英語ではスワイン・フルー swine fluと申します)。昨年11月ごろ、こんな興味深い記事を見つけていたのですが、つい先日になってようやく目を通した(苦笑)…なかば放置状態だったけれども、タイミングとしてはちょうどよかったかも。

 ラテン語版『聖ブレンダンの航海』のクライマックスであり、ブレンダン修道院長一行の旅の目的地でもあるこの「聖人たちの約束の地(Terra repromissionis sanctorum)」。この物語が中世ヨーロッパ中で人気を博したのは、聖人がいわば「地上楽園」を見つけるために長く苦しい航海に船出する、という筋立ての妙に尽きると思います。キリスト教徒から見れば「地上楽園」とはほかならぬ「エデンの園」、つまり神から与えられた、原罪を知らない人間本来の場所を再発見する物語ですし、またギリシャ・ローマ時代から知られている「幸福諸島」という名の「地上楽園」を再発見する物語としても受容されてきました。* このブレンドのさじ加減がまさに絶妙だったからこそ、西ヨーロッパ最果ての地から生まれた一航海譚にすぎないこの物語が大陸でも受けたのだと思います。『航海』とはきょうだい関係にある『メルドゥーンの航海』や、古アイルランド語で書かれた現存最古の航海譚『ブランの航海』(成立は7世紀ごろ)とこの『航海』が決定的にちがう点は、やはり知名度の高さです。ラテン語版『航海』だけで125もの写本群が確認されていることからしても、もしこれら『航海』写本群がなかったら、船乗りとしてもすぐれていたアイルランド人修道士の活躍を伝える資料というのは、後世に伝えられなかったかもしれません。

 リンクした記事は、サンチャゴ・デ・コンポステーラ在住のフリーライターの人が書いたもので、聖ブレンダン、もしくはブレンダンに代表されるアイルランド人船乗り修道士は北米大陸の発見者だったのかどうか、というもので、トピックじたいはとくに目新しくはないけれども、ここでもすこしだけ検討してみたいと思います。

 『航海』第28章で登場する「聖人たちの約束の地」には、つぎのような特徴があります(第1章ではブレンダンに先んじて上陸した聖バーリンドの話にも簡潔に出てくる)。1). この土地(あるいは、島)は、たがいの顔も見えないほど「濃い霧にすっぽりと包まれている」こと。2). ブレンダン一行が40日間、歩きまわっても「この土地には終わりがなかった」こと。3). 40日後のある日、土地の真ん中を東から西へ滔々と流れる大河のほとりに出るが、河はあまりに広くて「渡れそうになかった」こと(ここで「若い人」に出逢い、「この河を渡ってはならない」と忠告される)。4). 広大な土地には果実(「アランソン写本」現代仏訳では「リンゴ」になっている。オメイラ訳では'fruit')のたわわに実った樹々が茂り、土地の石はすべて宝石だったこと。5). 闇夜が訪れることがなく、永遠に「昼」がつづくこと。ここで注意すべきは、この航海譚にはアイルランドの船乗り修道士の実体験とキリスト教的要素、古典からの借用などが渾然一体となって、境界線がきわめてあいまいになっているということです。5)はあきらかに聖書、とくに「天上のエルサレム」を描写した「ヨハネの黙示録」が発想源だと考えられるし、3)の「土地(あるいは、島)をふたつに分かつ大河」というのも、いわば「この世」と「あの世」との「結界」を暗示しているとも取れます。2)にしても、果実のたわわに実る樹々が茂る土地…という「常春」を思わせる記述も、たとえばギリシャの歴史家ストラボンは紀元前50年ごろに「幸福島」について言及しているし、またアイルランド以外の古代世界に流布していた「幸福諸島」にも見受けられます。もっともこれについてはアイルランド土着の伝説的要素もあるていど反映されていると考えたほうが自然だから、かつてのアイルランド人研究者たちに主流だった、なにがなんでも「古典からの借用」という発想はすんなり受け取るわけにはいきませんが。

 リンク先記事を見ると、たしかに北大西洋を自分の家の庭のように日常的に往き来していたアイルランド人修道士が「北大西洋の探検家リスト」の上位に来ていいと思うし、もっと注目されていいとも感じますが、「ブレンダンが北米大陸に一番乗りで到達していたのかどうか」という議論に火をつけたとも言えるジェフリー・アッシュの本 Land to the West(1962)に出てくる具体例、たとえば「かたまった海(chp.14)」=「サルガッソー海」というのはちょっとどうかと(アッシュらによるじっさいの北大西洋地理との検討は、オメイラ教授英訳本の「はしがき」にも紹介されている)…『航海』の該当箇所ではこの「かたまった海」の位置は、「眠りの泉の島」から見て北の方角。そこからさらに西風に押されて東進して、「羊の島」へともどってくる(chp.15)。「魔の海サルガッソー」はたしかに有名だけれども、はるかに南に位置しているから、ここでは的外れのように感じる。「聖人たちの約束の地」の地理的特徴をそのまま現実の地理に額面どおりに適用するのも、方向ちがいだと思う。

 ティム・セヴェリンが1970年代後半に行った復元船による北大西洋横断航海も、ほぼ同時代にあいついで刊行されたアッシュやモリソンらの著作の影響をほぼまちがいなく受けています。そのセヴェリンの実験航海記 The Brendan Voyageについて、『航海』英訳者ジョン・オメイラ教授がTimes Literary Supplement(14 July 1978)紙に書評を書いていますが、どうも先生は自分の訳書を「無断引用」されたのがそうとうカンにさわった(?)みたいで、「『航海』28章ではブレンダン一行は『東へ向かった』とはっきり書いてあるのに、彼はあくまでもアメリカへ向かったことにしたいようだ」とばかりにかなり辛辣に批判しています。もちろん、オメイラ教授の言い分は正しい――『航海』に出てくる「約束の地」というのは北米大陸ではなくて、聖マーノックのいる「歓喜の島(Insula Deliciosa)」からさほど遠くない「西の海上」のどこかにあることを暗示しているから(もっとも、セヴェリンのおこなった実験航海の価値じたいは否定しない。じっさいにおなじような航海を追体験してみなければ見えてこない事実というものは確実にあると考えているから)。

 リンク先記事には、アダムナンの『聖コルンバ伝』(7世紀)とディクイルの『地球の計測』(9世紀)が出てきます。『コルンバ伝』中の修道士コルマックの挿話に出てくる「人間が越えられない海」では、カツオノエボシだかクラゲだかなんだか知らないけれども得体の知れない「海の怪物」に襲撃されたことが書かれていて、いっぽうディクイルの『地球の計測』には最果ての地としてアイスランドが出てきます。両者とも、時代的には古い『航海』の言及がなぜかありません。著者の結論では、『航海』に出てくる「約束の地」のいかにもケルト伝説的な書き方(リンゴの樹、永遠の光)と、当時広まっていた「対蹠地(antipodes)」という「異界」発想まで引っぱりだして、この物語の読み手にとってもブレンダン一行がたどり着いたのは現実に存在する土地ではなく、「異界」だったと認識していたから、その後「新発見された陸地(ないしは島)」とは認識されずに終わったのではないかと結論づけています…でもオメイラ教授の言い分じゃないですが、『航海』第28章では、あくまでこのブレンダン一行のめざした「聖人たちの約束の地」というのは、アイルランド北西海岸沖に浮かぶ「歓喜の島」から遠くない「西の海のどこか」に霧にすっぽり覆われて存在していたと考えるのがもっとも合理的な解釈です。『航海』のどこを突いても「北大西洋を横断した」と思わせる記述は見出せない。具体的物証にも欠けているので推定にすぎないが、アイルランドの船乗り修道士たちが到達した最果ての地は、いまのところアイスランドかせいぜいグリーンランドまでだと思われます――いずれにせよ「聖人たちの約束の地」は、現実の北大西洋の地理と古代以来の「地上楽園」という、ある意味普遍的な「理想郷」、「桃源郷」、ジェイムズ・ヒルトンの小説 Lost Horizonに出てくるShangri-laのような「到達可能だが非現実の異界」として描かれているから、ヨーロッパ大陸の知識層読者の心を惹きつけ、その結果として『航海』の写本がつぎつぎと量産されるようになったのだろうと思います(リンク先記事に掲載されている画像の出典は、1362-67年にかけて、ピッツィガニ兄弟が製作した世界図に描かれた「カナリア諸島の聖ブレンダン」から)。

*... 「地上楽園」としての「エデンの園」については、たとえばカルタゴの神学者テルトゥリアヌス(c.A.D.160-225)が『護教論』Apologeticusで、「神々しい美しさを湛えた楽園は聖人たちの魂を受け入れるべく指定された場所」だと書き、またアレクサンドリアのオリゲネス(A.D.185?-254?)も、聖人が「天国」で永遠の生命を受ける準備として「地上楽園」に入る、と書いている。

2009年03月02日

作者がわかった

 新年明けたら書こう書こうと思っていたら、もう3月(苦笑)。「ブレンダン関連」とはいってもそんなにたいしたネタではないんですが、前にもここで取り上げた、原書房から出ている『図説 キリスト教聖人文化事典』という本にも掲載されている、こちらのけっこう有名な木版画について。たまたまリファラー解析見ていたら、こちらの方のおもしろいブログ記事がありまして、なんとここで木版画の出典がわかってしまった(本家サイトまでご紹介くださって、汗顔の至り)。またこの件について、『航海』邦訳を出されたT先生に新年のご挨拶も兼ねましてお伺いを立てると、初版本で現存するふたつの異刷りのうちの一点が売りに出されているという事実も教えていただきました(しかしお値段が…orz)。この場を借りまして、お礼を述べさせていただきます。m(_ _)m

 この本、1621年に、オーストリア・ニーダーエスターライヒ州にあるベネディクト会ザイテンシュテット修道院長だった、カスパール・プラウティウスなる人物が、1493年のコロンブス(イタリア語ではクリトフォロ・コロンボ Cristoforo Colombo)第二回目の航海に同行したベネディクト会士の宣教師の功績をたたえるために書いたらしい。まずはじめに『聖ブレンダンの航海』を引き合いに出して、つづいて偉大なる先達の航海を語る、という構成で、問題の「ジャスコニウスの背でミサをあげるブレンダン一行」の版画は、『航海』を語った前半部に印刷されています。

 こちらのブログとか見ますとほかにも興味深い木版画が見られますが、これら木版画の作者は、ヴォルフガング・キリアンなる人物だということもわかった。もっともこの手の「絵柄」というものは当然、当時の時代を反映したものなので、一見するとわかるとおりブレンダン一行の舟は素朴な革舟というよりまるでコロンブスたちが乗り組んだような立派な木造船として描かれている。それにしてもこのジャスコニウス…なんとなくかわいいな(笑)。これをもっと丸っこくしてキャラクター商品をこさえたら、受けるかも(それはないか)。

 この本、じつはまだ興味津々な箇所がありまして、リンク先ページのつぎの一文が、音楽好きにはひじょーに気になります。夜も寝られないほどに(ほんとは花粉症で寝付けない)。↓

Also, on p. 35–36 is given an example of purported native American music, with both words and notation.

以前「バロックの森」で、「シャコンヌ」はじつは中米起源だというようなことを聞きました。ひょっとしてこのつながりでなにかヒントになりそうなことが書いてあるのかもしれない…とはいえだれかが英訳してくれないかぎり、残念ながら原典は読めそうにない(せいぜい部分的にしかわからない)、いやそれ以前に入手さえできっこない(笑)。またこの本、コロンブスを手厳しく批判していることでも知られているらしいです。

 …例によって関係ないことながら、最後はやっぱりこちらにも触れたくなりました。30代のダ・ヴィンチの自画像発見か?! という衝撃的ニュース。でも問題のフォリオ、パっと見で「顔みたいなものが描かれているな…」と気づきそうなもんだと思うが…。輪郭とか500年以上経過しているのにもかかわらず、けっこうくっきりしているのは画像加工でも施されているのかな? なるほど、30代のレオナルドはたしかにハンサムですね! 音楽ついでにダ・ヴィンチはリュートの演奏も玄人はだしだったらしい。リュートってたしか一本だけのぞいてあとは二本ずつ弦を押さえるから、弦の本数が15とか19とか奇数になったりすると思った(すこし調べたら24本の楽器もありました。テオルボは何本あるのかな?)。そしてバッハもリュートをこよなく愛していて、「リュート組曲」や「リュート独奏用パルティータ」とか、何曲か残していますね(BWV.995-1000, 1006aとか)。

2008年03月17日

『航海』が先か『聖ブレンダン伝』が先か(Navigatio, chap.3)

 今日はアイルランドの国民的祝日、「聖パトリックの日」。だから、というわけではないですが、記事もひさびさに聖ブレンダンへともどりたいと思います(ほんとはもっと前に書くつもりだったのが、風邪ひきやらなにやらでえんえん回り道したあげく、ようやく本来の針路へもどってきたような感じ)。

 ラテン語版『航海』第3章。聖ブレンダンは14人の旅のお供を連れ、修道院を継ぐ後継者を決め(これはたぶん「ベネディクト戒律」の影響が見られる部分)、いよいよ出発するわけですが、さてここでのブレンダン一行の行動には読み手としては首をかしげることになります。↓

 …(40日の断食を済ませたあと)聖ブレンダンは兄弟たちに暇を告げ、のちに後継者となる修道院の副院長にすべてをゆだねて、14人のお供とともに西の方角、エンダという名の聖なる父の住む島へと向かった。一行はその島に三日と三晩、とどまった(The Voyage of Saint Brendan, trans. by J.J.O'Meara, pp.7-8)。

聖エンダは現在のアラン諸島イニッシュモア島に庵を構えていた聖人で、マンスター王オエングスからこの島を与えられ、ここで数多くの修道士を養成したことで知られています(ブレンダンもそのひとりだと伝えられる。祝日はもうすぐ、今月21日。あら、奇しくもバッハの誕生日とおんなじ!)。言わば師匠のもとで三日間滞在したということなんですが、このあとではじめて大海原を航海するカラフの建造にかかっています(第4章)。これどう考えてもヘンですよね。順番が混乱しているというか、逆というか(聖エンダの島へはどうやって行ったのか? セヴェリンのレプリカ船はブランドン入江出航後、まっすぐ北上してアラン諸島へ寄港している)。

 この不整合に着目して、ラテン語版『航海』と『聖ブレンダン伝』の成立年代について考察した研究者がいます。それがオランダのストライボシュ女史です。

 先生の労作The Seafaring Saintの主題は12世紀に成立したといわれる古オランダ語韻文による『聖ブレンダンの航海(Reis van Sint Brandaan)』ですが、その成立過程において、アイルランドのimmramaや『ブレンダン伝』、『航海』についてもかなりの紙数を費やして論じていて、ひじょうに刺激的な本です。で、先生の導き出した「もっとも可能性の高い」結論は、ラテン語版『航海』は『聖ブレンダン伝』に出てくる2度の航海をひとつの「7年の航海」として語りなおしたものでは、というもの。それがひょこっと顔を出している箇所こそ、第3章のつじつまのあわない記述だと言います(pp.132-4, pp.278-2)。

 『聖ブレンダン伝』は7つの写本が現存しており、うちふたつは古アイルランドゲール語で書かれています。岩波から出ている『ケルトの聖書物語』にはそのうち15世紀に編纂された通称「リズモアの書」に収録されている写本が挿入詩をのぞいて訳出されているから、手っ取り早く内容を知りたい向きはこちらを入手されるとよいでしょう(本家サイトの「参考文献」ページでも紹介しています)。

 『聖ブレンダン伝』では、ブレンダン一行は最初の5年におよぶ航海(邦訳版底本である「リズモア書」所収のケニーによる分類番号VB6写本のみ、7年になっている)が徒労に終わると、養母である聖女イタのもとへ行った。彼女はブレンダンに、「死んだ動物の血で汚れた獣皮船ではかの聖別された島へはたどり着きません。しかし木で造った船ならば、その島を見つけることができるでしょう」と助言した。ブレンダンはそのことばどおりにこんどは60人が乗船できる大船を建造し、自分たちも乗せてくれとせがんだ大工と鍛冶屋と道化師も乗せ、その船に乗って「エンダが住み、ププがいる」島を訪ね、そこでひと月ほど逗留したのちに航海に出る、という筋立てになっています(岩波版ではpp.133-4)。

 『ブレンダン伝』と『航海』には共通要素がほかにも多く出てきます。三人の遅れて乗船した者、ユダとの邂逅、大魚の背で祝う復活祭などなど。ストライボシュ女史およびイタリアの研究者オルランディ教授の見方では、これらはみな『ブレンダン伝』では単純なかたちの挿話にすぎないが、『航海』ではそれぞれが拡大されている場合が多い。だから『ブレンダン伝』の作者が『航海(もしくはそのプロトタイプ)』を下敷きに書いた、というよりも、『航海』の作者が『ブレンダン伝』を下敷きにしたというふうに考えたほうが自然だ、ということです。両者の関係および成立年代についてはいろいろな主張がありますが、基本的には自分もこちらの主張を採用し、本家サイトにも『ブレンダン伝』のほうが成立年代が古いという学説にもとづき両者の成立年代を書いてあります(ただし現存する『ブレンダン伝』の5つの写本には『航海』の要素が合成されているから、話はややこしくなる)*。

 またストライボシュ女史は『聖ブレンダン伝』よりラテン語版『航海』のほうが成立年代は新しいのではないか、という根拠として、「大魚(クジラ?)ジャスコニウス」の挿話も指摘しています。こちらも『ブレンダン伝』より『航海』のほうが手のこんだ話になっていて、おそらく『フィジオログス』なども下敷きにして書いたのではないかと推測しています。また『ブレンダン伝』に「大魚の上で復活祭を祝う」という発想をもたらしたのは、現在では失われてしまったブレンダン伝説――書き言葉にせよ口承にせよ――にもとづくかもしれないとも述べています。こちらのほうはまた後日、こちらで書くかもしれない(忘れてたりして)。

 ラテン語版『航海』第3章における不整合は、ただたんに原作者がディングル半島の地理に疎かったためかもしれない。もしそうだとしたら、カール・セルマーの言っているように、大陸に逃れたアイルランド人修道士のブレンダンを信奉する一派が、修道院長の功績を記録として残すために書いたのかもしれない。

 『航海』と『聖ブレンダン伝』、それにまつわるアイルランドゲール語で書かれた一連の「航海文学」との関係は、オルランディ・ストライボシュ両氏によれば、つぎのようになります。

1). ラテン語版『航海』成立年代は800年ごろ。ゲール語による「航海譚(immrama)」は、最古のものは7-8世紀に成立。

2). ラテン語版『航海』の作者が『ブレンダン伝』から挿話を借用した可能性のほうが高い。

3). 『ブレンダン伝』の原型には2度の航海と、「大魚の上で復活祭を祝う」エピソードが含まれていた(これを下敷きにしてスピンオフとも言うべき『聖マロ伝』が書かれた。後者にも酷似した「大魚」の挿話が登場する)。

4). 『聖マロ伝』には、現存しない『ブレンダン伝』航海部分からの借用とおぼしき箇所が見られる。

5). アイルランドと大陸双方に、「大魚に乗った聖ブレンダン」という伝説が11世紀にはひろく知られていた。

6). 『ブレンダン伝』の原型物語は、失われたと推定される「ブレンダン伝説」に近かったかもしれない。ここからブレンダンものの伝承が書き残されてゆく。

7). 『メルドゥーンの航海』の原型になった物語の後半部分から、『航海』のプロトタイプが派生した。両者のプロトタイプが結合して『航海』となり、それぞれ独立した伝承として伝えられたのち、オランダ語韻文版『航海』へと発展する。

『メルドゥーンの航海』原型後半部分

『航海』原型
↓   ↓
『航海』   オランダ語版『航海』

(ibid. p.142)

* .... 『聖ブレンダン伝』と、ラテン語版『航海』における構成関係をかんたんに示した表。(VB6,7はゲール語、それ以外はラテン語写本。現存写本はすべて12世紀以降に筆写されたもの。出典:The Seafaring Saint, p.132)

『聖ブレンダン伝』と『航海』との関係

*... 3のエピソードはおそらく底本テキストが失われたために、唐突に終わっている。

2007年10月30日

グリフォン襲来!(Navigatio, chap.19)

 少年・青年・壮年からなる三組の聖歌隊のいる「強き者たちの島」に「遅れてやってきた三人」のうちのひとりを残して出航した聖ブレンダン一行。Scaltaという、なんだか素性のよくわからない大きくて丸い果実を絞ってその果汁を乗組員で分けあって飲み、またあるときは三日の断食をして過ごした。何日か経ったとき、一羽のばかでかい鳥が飛来して、ブレンダン院長の膝に赤い果実の房が実った枝を落としていった。一行はこちらの果実もともに分けあって食べた。三日の断食をふたたびおこなっていると、行く手にふたたび島が現れた。島は、さっきの大きな鳥が運んできたのとおんなじ色の果実が葡萄の房のごとくいたるところたわわに実り、島の空気はザクロのようなかぐわしい芳香に満ちていた。聖ブレンダン一行は下船すると、40日間、島にとどまってこの自然の恵みをいただいて体力を快復させると、ふたたび出帆。するとこんどはグリフォンが「はるかかなた」から突如として出現、一行に襲いかかる。グリフォンは「鉤爪」をかっと広げ、いまにも修道士たちをつかもうとする。そのせつな、果実の房のついた枝を落としてくれた大きな鳥が現れ、グリフォンと闘いはじめた。グリフォンは両目をえぐられてしまい、一行からは見えなくなるほどの高さにまで上昇して逃げようとした。だが鳥のほうもしつこく追撃、ついにはグリフォンを仕留めた。グリフォンの死体はブレンダン一行の舟のまわりの水面へと落ちてきた。彼らを助けた鳥はもと来た方角へ飛び去っていった…。
 
 と、こんな感じで古代以来のひじょうに有名な鳥――というか鷲とライオンの合体した獣であるグリフォン(原文griffa、またはグリフィン)に襲われた挿話が出てきます。それもやや唐突に。個人的には、怪鳥グリフォン襲来もさることながら、ブレンダン一行を助けた神の使いであるもう一羽のでかい鳥のほうが怪物じみているような気が(笑)。いやそれともこのグリフォンがたんに弱すぎるのか。
 
 ダンテの『神曲・煉獄篇』ではベアトリーチェの乗った二輪戦車を引っぱる役回りのグリフォン、ここでは見てのとおり神の僕に食いかかった悪魔の使いとして描かれています。深読みをすると、まだ「遅れてきた修道士」の最後のひとりが残っているし、24章ではこの最後に残った修道士は地獄の口である火山に投げこまれるという悲惨な最期を遂げることになるので、ひょっとしたらそこから遣わされて来たのかもしれない。いっぽうやっつけたほうのでかい鳥についてはとくに細かい説明もなく、文字どおりいきなり飛んできては葡萄みたいな果実の差し入れをしたり、グリフォンを倒したり…。こちらの鳥のほうはもうすこし調べてみないとよくわからない。とにかく言えるのは、ここに登場するグリフォンは「空飛ぶ四足獣」というより「鉤爪」とはっきり書いてあることから、中世の物語によく出てくるような鷲の化け物のたぐいの怪鳥であること、べつの怪鳥と闘うということです。寡聞にして知りませんが、グリフォンがほかの鳥と闘う、なんて話ほかにもあるんだろうか? 
 
 グリフォンのことを調べていたらたいへん詳しく解説しているサイトを発見しました(それにしてもよく調べてあるなー…脱帽)。もちろん図書館でもいろいろ参考になりそうな本も当たってみましたが、グリフォンの最古の記録であるヘロドトスの『歴史』に出てくるアリステアスなる人物の話から、大プリニウスの『博物誌』、アイスキュロスの『縛られたプロメテウス』、ソリヌスの『奇異事物集成』、アエリアヌスの『動物について』、フィロストラトスの『テュアナのアポロニウス伝』だの、いろんな人がそれぞれにグリフォンについて語ってはいますが、鳥どうしで闘うなんて話はなし(とはいえすべて「また聞き」で、現物を見たという目撃談ではない)。貪欲な人間や馬を目の仇にしているという話はよく見ますが。ちなみに紹介したサイトのページにもラテン語版『航海』の挿話がそっくりそのまま引用されていますが、これはオメイラ教授による英訳文。ジョー・ニッグとかいう人の書いたグリフォン本からの引用とあるので、「引用の引用」ですね。

 ラテン語版『航海』の作者はなにを参考にしてこの哀れなグリフォンの挿話を書いたのか? おそらくプリニウスもソリヌスも読んで知っていたのだろうし(ケルト修道士はおそらくプトレマイオス天文学も知っていた)、『フィジオロゴス』とかも読んでいたのかもしれない。中世では「めっぽう強くて恐ろしい番人」というイメージで語られることの多いこの怪獣は善と悪両面の象徴として引き合いに出されるので、『アレクサンダー・ロマンス』のように戦車か何かを引いて空を飛んだりして主人公を助ける役回りのときもあれば、人間を引き裂いてしまう悪魔としても描かれたりします。で、かき集めた資料を見たかぎり、ラテン語版作者の参考にした本があるとすれば、おなじ聖職者つながりで聖イシドールの『語源論』ではないかと思う。こちらのほうは、『神曲』に出てくる善きグリフォンではなくて、「人間を見ると、すぐ引きちぎる」というまさに悪役として登場しますので。ちなみに『フィジオロゴス』のほうは、キリスト教の寓意としてグリフォンが出てくるので、これでは役目が正反対になってしまいます。また13章に「かたまった海」の挿話が出てきて、23-4章には悪魔どもがわんさかいる「鍛冶屋の島」「火の山」がともに北の方角に位置することから、グリフォン=極北の生き物という連想も、原作者の頭にはひょっとしたらあったのかもしれない。

 それともここで出てくるグリフォンの話は、もっと深い意味でもあるのだろうか? 異教時代の怪獣を天から遣わされた何者かがやっつける、というのは、たとえば「ドイツの使徒」聖ボニファティウスがキリスト教の神の力を見せつけるために、当地のゲルマン諸族の信仰の対象だった雷神トールの神木であるオークの大木を斧で切り倒したくらいのインパクトが当時の読み手にはあったのだろうか。それとも『リズモアの書』に収められた説教用「聖ブレンダン伝」みたいに、このグリフォンの挿話も娯楽的要素をもたせるために追加したのだろうか。もっとも古くから流布していた聖ブレンダン伝説というのは大魚の背に乗った話で、それが姉妹編とも言うべき航海譚『メルドゥーンの航海』のエピソードと結びついてラテン語版『航海』の祖形が生まれた…という説があるので、こういう可能性もなきにしもあらずという気がします。
 
 またラテン語版『航海』を下敷きに成立したとされる古オランダ語版をもとにシュヴァーベン方言で書かれた散文物語Sankt Brandans Seefahrt(14-5世紀ごろ成立)では二回目に出てくる「魔の海(Klebermer, the Liver Sea)」のエピソードにもグリフォンが出てくる。ラテン語版『航海』13章のような「かたまった海」を想起させる海域で、船が難破して動きが取れなくなる、まさしく魔の海として描かれています。「…何隻もの船は魔の海に粘り着いて身動きが取れず、中には人びとが死んでいたからです。無数の怪獣グリフィンが船内に舞い降り、人びとを捕らえ、連れ去っては食らってしまったのです。(藤代幸一訳、p.24)」。しかしながらこっちのグリフォン(グリフィン)の挿話の下敷きになっているのは、当時ドイツを中心に広く流布していた『エルンスト公』というバイエルン公爵を主人公にした荒唐無稽な冒険物語やヘブライ人旅行家による記録、あるいは『千夜一夜物語』の「シンドバッドの航海」に出てくる怪鳥ロックの挿話、『アレクサンダー・ロマンス』などで、ラテン語版『航海』とはおそらく関連性はありません。あくまで大陸で流行っていた、「東方の神秘」を扱った物語群から取られたものと思われます。オランダの中世史研究家ストライボシュ女史によると、『エルンスト公』とドイツ語版の底本・古オランダ語韻文で書かれたDe reis van Sint Brandaanは、「魔の海」と「磁石山」とグリフォンがセットになって出てくる最初の物語だという。ちなみに船乗りシンドバッドがヨーロッパで知られるようになったのは13世紀以後のことなので、ラテン語版『航海』原作者がこのアラビアの物語を下敷きにした可能性はありえないと思う。

 グリフォンなど、この手の空想動物については書き残した当人である大プリニウスやヘロドトス、パウサニアスらはその実在を疑っていたようだけれども、おおかたの人は中世にいたるまで実在を信じていた。グリフォンのほかにも大ダコみたいなクラーケンとか、いろいろけったいな怪獣がうろついていたわけですが、さて現代のわれわれがそんな人たちのことをnaïveだと一笑に付すのはあたらない。中世ヨーロッパの人から見たいまの世界というのは、きっとえたいの知れない怪物が跳梁跋扈しているように見えるにちがいありません。

2007年09月24日

『航海』とオルガン(Navigatio, chap.15)

 ラテン語版『聖ブレンダンの航海』15章。「聖エルベの島」の修道院で「主のご降誕」の季節、つまりクリスマス期間(1月6日まで)を過ごした聖ブレンダン一行は、「眠りの泉の島」−「かたまった海」を経て、四旬節明けのある日、ふたたび親切な世話人(procurator)の住む「羊の島」に到着します。その日がちょうど「洗足木曜日(Maundy Thursday)」。「聖なる三日間」最初の日に当たり、以後、クリスマスは「聖エルベの島」、「洗足木曜日」から「復活祭」までは「羊の島」・「ジャスコニウス」・「鳥の楽園」で過ごすというサイクルを7年、繰り返して目指す「聖人たちの約束の地」へとたどり着きます。

 さてその15章、「鳥の楽園」の鳥たち(いわゆる堕天使の一種だが鳥の姿をして描かれるのはアイルランドに特有のものらしい)が聖務日課に定められた詩編歌を歌うのを聴きつつ復活祭週を過ごしたブレンダン一行。つぎの日曜日、予告どおりに「世話人」の若い人がカラフを漕いでやってきて、一同食事の席につくと、「お告げ」を告げる役回りの鳥が群れから一羽やってきて、ブレンダン一行の革舟の舳先に舞い降りた。そのとき鳥は「翼を広げ、大オルガンのように鳴り響かせた」とあります。ラテン語版最古の写本と言われるアランソン写本版でも同様に「鳥は舳先に舞い降りると翼を広げ、まるで大オルガンのような音を鳴り響かせた」とあります。

 オルガン好きとして、この描写は以前からひっかかっていた箇所でもありました…そんなこと言ったらそれこそ引っかかる箇所だらけですが(笑)。たいていはこっちの理解のていどが足りないんでしょうけれども(苦笑)。

 ブレンダンが生きていた時代に「大オルガン」があったかどうかと訊かれれば、こたえはたぶんノーでしょう。オルガンはもとをたどれば笙とかパンフルートと同様、音階順に並べた縦笛から発達した楽器です。記録上もっとも古いオルガンはいわゆる「水力オルガン(ヒュドラウリス、hydraulis)」というもので、こちらは移動も可能な組み立て式。言ってみれば「ストリートオルガン」の元祖みたいな存在で、屋内というより外で演奏されていた楽器。ローマでは、たとえば有名な円形競技場の「コロッセオ」でも演奏されていたらしい。かの暴君ネロも好んで弾いていたとか。だいぶ前、この「ヒュドラウリス」を復元してじっさいに演奏してみる、というなんとも興味深い実験がなんと静岡で(!)おこなわれたことがありましたが、ブレンダンの生きていた時代には水に代わってふいごで空気を送り込む方式、「ニューマチック」式へと進化したけれども、けっして「大型」の楽器ではなかった。

 カール大帝(シャルルマーニュ)が新生西ローマ帝国皇帝として戴冠する前の757年、東ローマ帝国皇帝コンスタンティノス5世(コプロニュモス)がカールの父・フランク王ピピンに「巨大なオルガン」を贈った、という記録があります。当時のオルガンは世俗の楽器で、宮廷儀式で使われたようですが、教会につきものになったのは10世紀以降のこと(ある本の受け売りで確証はないが、英国ではすでに800年ごろから教会に導入されはじめたらしい)。教会の楽器としてのオルガンの最古の記録は10世紀、英国ウィンチェスター大聖堂に設置されたという大オルガン。400本のパイプをもち、70人のふいご手、ふたりがかりで演奏され、その大音響はウィンチェスターの町じゅうに鳴り響いた、つまりはやかましかったと言います(→「楽器の女王オルガン」サイト内ページ)。

 以上ざっと見たあとで問題の箇所にもどると、楽器の大型化と教会への導入…はどんなに古くても8-9世紀以後のことだと言えます。なのでこの箇所は作者の生きた時代の風物が反映された部分と考えるのが自然です。「ベネディクトゥス会則(戒律)」なんかもそうですし。原型となったもともとの物語にはおそらくこんなたとえはなかったと思います。鳥の翼の音がいかに大きかったかという比喩としては、やはりウィンチェスターにあったとされる楽器のようなものを推定するほかない。ブレンダン時代のアイルランドにそんな楽器があったのか? 材料の観点から見れば、そこそこの木材と錫や鉛が採れればできるので、可能性はまったくゼロとは言えないけれども(5世紀当時、アイルランド人は特産の銅をカラフに積みこみ、地中海地方まで航海して交易していたことを示唆する記録があります)。

 当時の「大オルガン」について。ゴシック様式の大聖堂がつぎつぎと建設されていた時代、もはやそれまでのちっぽけな音しか出せないオルガンでは聖歌隊の歌を支えきれないと考えたんでしょう、製作家たちはこぞってオルガンの大型化に乗り出しました。いわゆるゴシックオルガンというもので、ウィンチェスターだけでなくランス、ミュンヘン、リモージュなどの大聖堂に設置されていたようです。当時の大オルガンは数百のパイプをもっていましたが、鍵盤は一段のみ、風箱と基壇が一体になった「ひとつの大オルガン」鍵盤が特徴です。音域は当時、聖歌隊が歌っていた詩編唱、アンティフォナなどの声楽曲に合うように作られ、はじめは20鍵くらいだったようです。ゴシック後期の楽器になると、音域も3オクターヴくらいにまで拡大していきます。初期の楽器では鍵盤はひじょうに大きくて、ちょうどカリヨンの鍵盤のように、こぶしでひっぱたいて演奏していました。ドイツの音楽学者プレトリウスはその著書Syntagma musicumに、ハルバーシュタット大聖堂にあったとされるゴシックオルガンの鍵盤図を載せていますが、その当時の鍵盤が復元されてもいます(→ハルバーシュタットの関連記事)。

 このもっとも古いタイプの「ゴシックオルガン」の流れを引き継いでいるのがイタリアの教会に見られる古オルガン。パイプ群がそそり立つ基壇直下に演奏台があり、手で弾く鍵盤が一段あるのみ。足で弾く鍵盤はありません。ストップのない楽器もあります。ストップはもっとあとの時代、15世紀以降の発明です。その後パイプ群がそれぞれ独立した小オルガンとして各自の鍵盤を備え、足鍵盤が追加され…とだんだんとバロック時代のオルガンに近い形に発達していきます。

 ちなみに演奏可能な最古のオルガンは、スイス・シオンにあるノートルダム・ドゥ・ヴァレール教会の「燕の巣」型オルガン。1390年製作のもので、たしかパワー・ビッグズによる演奏盤があったと思います。

2007年06月29日

聖ペトロの祝日(Navigatio, chap.21)

 6月29日は使徒聖ペトロの祝日。ラテン語版『聖ブレンダンの航海』第21章冒頭で、この日、ブレンダン一行が使徒ペトロの祝日を祝うミサを船上であげていたとき、海がにわかに澄みわたり、海底にあるものすべてが手にとるように見えた…とあります。『航海』では唯一、日付けがはっきり特定できる箇所です(あ、そう言えばこの前の日曜に見た「こころの時代」。「エルサレム派」を代表するペトロのライヴァル、パウロの「コリント第二の手紙」についてやってましたっけ。異邦人にも救いがあると説くパウロの教えと伝道旅行がなかったら、おそらくこんにち見られるような「世界宗教」としてのキリスト教の土台は形成されなかったでしょう)。

 この「透き通った海」にやってきたブレンダン一行、海底を見るとこんどはえたいの知れない生き物の大群が。恐れをなした修道士たちはこぞって修道院長ブレンダンに、もっと静かにミサをあげるようにと進言した。それを聞いた院長は呆れ顔で、「おまえたちはかの大魚[ジャスコニウス]の背の上で『詩編』を歌い、かつ薪をくべ、火をおこして肉を煮たりしたではないか! どうしてこれらの生き物を恐れるのだ?」と諭すと、ありったけの声を出して朗々とミサをあげはじめた(このへんなんだか笑える)。するとブレンダンの詠唱を聞いた生き物の大群、海底から浮上するや、カラフの周囲をぐるぐる、一定間隔を置いて泳ぎだした。ブレンダンがミサをあげ終えると、生き物の大群はいっせいに四方八方に散って視界から消え去った。聖ブレンダン一行の舟がこの「透き通った海」を渡りきるのに、追い風を受け、帆を目いっぱい揚げて航海しても八日かかった…とつづきます(セルマー校訂版)。

 さてこの正体不明の「海の生物」ですが、以前よりこの章については問題があるというか、よくわからない部分があります。ひとつはこの「謎の生物」について。いまひとつはその直後のややけったいな比喩です。

 1976年、奇しくもティム・セヴェリンの復元船「ブレンダン号」がアイルランドのディングル半島から出航した年に刊行されたダブリン大学教授ジョン・J・オメイラ氏による現代英訳本(pp. 49-50)では、この生き物に――どういうわけか―― 一貫してfish という訳語が当てられています。底本のセルマー版および現存最古の写本のひとつと言われる「アランソン写本(Manuscrit d'Alençon, Codex 14, ff. 1r-11v.)」ではいずれも diversa genera bestiarum とあり、たんに「生き物」一般を指す単語です。なぜオメイラ教授がbestiarum(bestia)にfish とあえてイメージを限定するような訳語をあたえたのか…という点がいまだにわかりません。その前に出てくる「固まった海」(第14章)が「人を眠らせる泉のある島」からは北にあり、「透き通った海」のつぎに氷山との遭遇を思わせる「水晶の柱」が浮かぶ海域があることから、ともに北の方角にあることが推定されます。さらにお供の修道士がその「異様さ」に恐れをなしていることから、どうもただの「魚」というわけでもなさそう。今年はじめにここでも取り上げたポール・ジョンストンの労作 The Sea Craft of Prehistory 中に引用された『聖コルンバ伝』の一部を見てもわかるように、カツオノエボシ…とは特定できないまでも、修道士一行が出くわした「謎の生き物」も、なんとなくクラゲっぽい気がしますね。

 しかも底本のセルマー版にはご丁寧に註釈までついてまして、'These monsters may have been a shoal of jelly-fish.(p.90)'とはっきり書いてありました。orz

 ふたつ目の比喩について。セルマーのテクストからはじめて邦訳を完成させたT先生の訳では「無数の動物が互いに頭を前の尾に寄せて休んでいて、その様子が円形に作られた町がひとつそこにあるかのように見えました(p.56)」となっている箇所。「アランソン写本」では、

'... Et prae multitudine tales videbantur sicut civitas in girum applicantes capita ad posteriora jacendo.'

となっている部分。オメイラ先生はここを

'... They were so numerous that they looked like a city of circles as they lay, their heads touching their tails.'(repr., Gerrards Cross, 1999, p.49)

と訳しています。なるほど、うまい訳し方です(苦笑)。

 「アランソン写本」の現代仏語訳の註を見ますと、「ここはふたとおりに解釈が分かれ、翻訳が難しい」ともあります。頭を接しているのが自分の尾――つまり尻(posteriora)なのか、すぐ前にある尾なのか。大魚ジャスコニウスよろしく、自分自身が輪っかになっていたのか、それともみんなが数珠繋ぎになっていたのか…いずれにせよこの生き物の大群は海底に巨大な円形を描いてじっとしていた、ということらしい。

 …そう言えば29日はi-Phoneの米国本国での発売日でもあったなー。NYTimes の技術関連コラムリスト、デイヴィッド・ポーグ氏の新製品紹介ビデオでもおもしろおかしく取り上げられています…ポーグ氏熱演(?)のこのクリップ、おちゃらけぶりはいままで見たなかでも最高かも(とくに 'He's got an i-phone!' とi-phone をもっていることがバレて、みんなに追いかけられるシーンとか)。