2011年09月23日

最大瞬間風速 40m/sec の恐怖

 台風、すごかったですね。自分の住んでいる地域は20年ほど前に大きな台風の直撃を喰らったことがあって、そのときは三島市の大場川が氾濫、一部堤防が決壊して、30数年前の「多摩川決壊」のときのような感じで学生寮の建物がそっくり流されたことがありました。水曜日の風雨は、まさにそのときを思い出させるもので、あとで知った話ではなんと最大瞬間風速 40m/sec を超えていたとのことで、ひょっとしたら20年前の直撃台風のときよりひどかったのかもしれない。いままで経験した台風の暴風雨では過去最高だったかもしれないと知って、ちょっと空恐ろしくなりました ( 2004年10月に伊豆半島を直撃した台風22号のときとかも思い出した ) 。

 おまけに狩野川・黄瀬川水系はたった一日の大雨であっという間に増水、氾濫危険水位まで急上昇したというからさらにおどろく。げんにまたしても避難勧告が発令されたりで、過去に出水したときのこととか思い出してしまった。避難場所はとりあえず決めているから、最悪の場合はあそこに … とか考えてましたが数時間後には解除になりまして、まずはほっと一息。

 ところが翌朝、「緑のカーテン」の役目を果たしてがんばってきたゴーヤが壊滅状態になっているさまを見て、こちらにもびっくり。いままでアサガオとか這わせていたけれども、ここまで葉っぱがくちゃくちゃになって変色し、萎れてしまった、なんてことはなかった。台風によってあっけなく「緑のカーテン」は強制終了されてしまい、泣く泣く撤去。ほんとはもうすこし日よけ役をつとめてほしかったのですが … で、いまさっき TV のローカルニュースを見ていたら、静岡県内各所の被害の大きさにも衝撃を受けた。韮山地区のイチゴのビニールハウスがくちゃくちゃになっていたり、静岡市久能海岸名物の「石垣イチゴ」も壊滅的な打撃を被っている。… 被害を受けたイチゴの映像を見ていると、うちのゴーヤとおなじく、葉っぱが縮れて変色していた。なんとこれ、塩害だという。つまりうちのゴーヤも、スプレー状になって飛ばされてきた海水を浴びてしまって、こんなに萎れてしまったらしいことがわかって、さらにびっくり。駿河湾からはかなり離れているのに、塩害とはまったく予期していなかった。そういえば近所のガソリンスタンドに車が行列を作っていて ? と思っていたら、なんと塩まみれになった愛車を洗車してもらうための車列だったこともわかった。さらには近所の大きな木も傾いだりしてあのとき吹きまくった暴風のすさまじさを物語っている。そして悲しいことに、近所唯一のサクラの木までまっぷたつに裂けていた。来年の花見はほぼムリだろうなあ。

 暴風で吹き飛ばされた飛来物も多くて、どっかの家のすだれだの、プラスチック製のトタン板( ! )なんかも飛んできた。幸い停電もなければそれが当たって家が壊れたとかはなかったけれども、ゴーヤやサクラの木とかを見た自分の心のダメージは意外にも ( ? ) 大きかった。

 もっとも震災被災地に住まわれる方々の被った「二重被災」を知れば、いま書いたことなどもののうちには入らないことは、百も承知なのだが … ひとつ確実に言えるのは、やっぱり「過去データはあてにならない」時代に入りつつある、ということ。狩野川だって、大仁あたりの水位観測所で観測した水位が、堤防まであと 1m だった、という!! 狩野川放水路で放水してもこのありさまなので、ほんとうに洪水の一歩手前だったことがわかる。低地に住んでいる人は、そのうち土嚢とかゴムボートが必需品になるんでしょうか。

 … いま、「今日は一日『浜松アーカイブス』三昧 ‐ 軽音楽編 ‐ 」を聴いてます。ゲストの方がしゃべっていた、米国南部で見かけたアナログレコード売り場の話はおもしろかった。なんでもジャケットが半分カットされて、「特売品」の表示とともになんと平積み ( ! ) されて売られていたんだとか。向こうのレコードプレーヤも 30cm くらいからドスンと針がレコード盤に落下してくるという代物だったらしい。いやはや、日本じゃ考えられん話だ。これも彼我におけるものの感覚、発想のちがいというやつだろうか? 

 明日はクラシックとのことで、楽しみですが、墓参で出かけるので、たぶんあんまり聴けない。「らじる」スマートフォン対応は来月からだけれども、どうかなあ … けっきょくいままでどおり「自分がアンテナ」な MP3 プレーヤ経由で聴いたほうがすんなり聴けるのかもしれない。

タグ:台風15号
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2011年04月24日

復活祭に寄す

 中世の修道院では、復活の主日早朝に十字架とホスチア(聖体)を安置所から会堂へと運びこむための典礼式があり、おそらく成人修道士に混じって見習い兼聖歌隊員でもある少年たちもまた'Surrexit Dominus de sepulchro, Alleluia, ...' とか歌いながら行列をなして聖具を運んでいたのかもしれないなあ、とか思いつつ、けさはラジオ第1で皆川達夫先生の「音楽の泉」を聴いてました。そういえば先週の土曜日の回(こっちはNHK-FM)では、なんと、あの「六段の調」のルーツがグレゴリオ聖歌の「わたしは一なる神を信じる('Credo in unum deum' 、「ニケア信経」)」にあるのではないか、というお説をはじめて聞いてびっくりした。あいにくこの日は親類の法事で、あたふたと着替えながら聴いていたので、くわしくはよくわからないが…とにかく耳に入ってきた「六段」はたしかにグレゴリオ聖歌の「クレド」によく似ている。「六段」はじつは隠れキリシタンの音楽だった?! のかもしれない。

 でも今年のこの時期ほど、精神的にかなりこたえたことはなかったと思う。じわじわ効いてくるボディーブローじゃないけれど … 個人的にはあの巨大地震によって、とうとう「パンドラの箱」が開いてしまった、地殻にかかる歪みの均衡状態が完全に変わってしまった、と思っているので、小心者の自分はいつ「想定外の事態」に見舞われるのかと内心かなりおびえている。いや、そういう人が大半なのかもしれない。そういえば須山に猛獣を放し飼いしているところがあるけれども、言い方ははなはだ悪いながら、故立松和平さんの著作にあった言い方を借りれば、あの野生動物たちはみな「死刑宣告」されているようなものだ。もし猛獣たちが文字どおりrun wild 、なんてことになったら…それこそぞッとする(ちなみに立松さんのこのことばはサンシャイン水族館で飼われていた海獣や魚類について述べたもの)。最近、余震のほうはすこしは落ち着いてきたような気もしますが、突発的な大きな地震(誘発地震)にはひきつづき厳重な警戒が必要です。とはいえ一日24時間ずっと張り詰めているなんてことはできっこないから、けっきょく音楽へと逃避するエピキュリアンな生活へともどってしまう。

 法事から帰宅した夜、例の「白熱」教授が今回の震災について、またいつもの調子で議論参加者をリードしていたのでつい見てました。…議論を聞きながら、ふとcompassion という単語が頭に浮かんだ。おなじことの二番煎じで申し訳ないが、このことばは「ともに苦しむ」というラテン語が原義。「わたしたちも被災した方の気持ちに寄り添うことができる」、「いや、そんなことはありえない」とか、そんなやりとりが交わされていた。いまはインターネットで瞬時にして地球の反対側の人間どうしがたがいに安否確認できたりする、ある意味たいへん恵まれた時代。こうした議論を地球の裏側にいる人を相手にして同時に行えるというのはたしかにすごいことだ。でも同時に、われわれはまたあまりに複雑すぎて暴走してしまった原発という厄介者も抱えこんでいる。「トイレのないマンション」とは昔からよく言われることながら、けだし至言で、これほど的を射た言い方を知らない。現場ではいまも決死の思いで放射性物質の飛散・流出を食い止めようとおおぜいの名もなき人々が立ち向かっている。いっぽうで、当の電力会社のトップたちや「計画的避難区域」とかをやおら発表した官房長官や首相のあのおざなりな態度、木で鼻を括ったような、なんの人間的感情も伴わないあのボー読みはいったいなんなのかと怒りがこみあげてくる。

 とはいえ、いままで危ない原発でこさえた電力を使ってきたのはこのわたしたちであることも事実。もっとも東海地震震源直上の浜岡原発にかぎっていえば、いますぐ「冷温停止」すべき。中電は「12m 以上の高さの防潮堤を建設する」から大丈夫、とか言っているそうですが、いみじくも矢作恒雄氏が先日の地元紙コラムにて指摘していたように、「『(浜岡原発防波堤の高さを12m 以上とする根拠を)住民が安心する高さ』と平然と言う人々に処理を任せれば、必ず『人災』を繰り返す」。正論だと思いました。それと原発というのはけっしてコストは安上がりではない。膨大な量の核廃棄物(使用済み核燃料など)の後処理だけでも膨大な金額がかかる。前にも書いたかもしれないけれど、40年くらい前から研究が進められている地熱発電をどうしてもっと普及させないのか。アイルランドやスコットランドの実例を引いたことがあったけれども、波力・潮力発電ももっと推進していいと思う。また送電網をもっとこまかな地区別に再編すれば「大停電」に陥ることもないとは思うが … この件についてはここでも取り上げた、マッキベンの本に実例が報告されている(邦訳:『ディープ・エコノミー』)。

 このことに関してさっそく県知事が「6号機増設は認めない」と発言したら、なんと地元の一部首長さんとか有力者が「それはいかがなものか」と苦言を呈しているとか、日曜版に載ってまして、この期に及んでこの人たちは気はたしかか、と疑った。心配されている三連動型が起きたら、また「想定外」って言って逃げるんですかね? 万が一、浜岡原発で放射性物質が撒き散らされるようなことが起きれば、西風に乗ってみんな西伊豆に飛んで来る(そして首都圏にも。富士山宝永噴火を記録した、『折たく柴の記』を読むべし)。福島県民を悲しませている風評被害の二の舞、三の舞です。伊豆半島にはもうだれも来なくなる。いまだって、観光客がぱったりでどこも深刻な状態に陥っています。げんに、週末で一本道の国道(136号)があんなにすいているとは、ありえない話ではある。もっとありえないのは、静岡県産の「新茶」まで風評被害が出ていること。とくに北米輸出向けのお茶の出荷ができなくなっているという事実には正直、おどろきました … 市場に出回っているのは、摂取しても安全だと思うんですがね。

 サンデル教授もいいとは思うけれども、いままで自分のものの考え方に決定的に影響をおよぼしたのはやはり比較神話学者のジョーゼフ・キャンベルだろう。先月26日の誕生日には同財団のFB ページから著書からの抜粋が送信されてきたけれども、こういうときだからこそ、キャンベルの思想に触れるのはあながち無駄でもないと思う(もちろん、バッハの音楽もね。こういうときこそ、バッハのオルガンコラールは深く深く心に染み渡って響く。「ゴルトベルク」もいいと思う)。ずっと放置してきた Myths to live by も、まじめに完読しようと心に誓ったのであった(苦笑)。というわけで、対談集『神話の力』から、心に響く数節を引いて終わります。

… 私たちは死を理解できません。死を静かに受容することを学ぶだけです。

… 神話は詩です、隠喩ですよ。神話は究極の真理の一歩手前にあるとよく言われますが、うまい表現だと思います。究極のものは言葉にはできない、だから一歩手前なんです。

… 芝生のことを考えてください。…芝が、「頼むからよく考えてくれ。あんたがこうしょっちゅう刈り取られたとしたら、どうなると思う」と言ったとしても不思議ではない。でも、芝はそんなことを言わずに、ひたすら伸びつづけようとする。ここに私は中心のエネルギーを感じます。… 根源はいったん生命体として存在したからには、なにが起ころうがかまいません。肝心なのは、与えること、成ることです。そしてそれがあなたの内にある<成りて成る生命> であり、神話のすべてはその大事さをあなたに告げようとしているのです。

… 私は生に目的があるとは信じません。生とは自己増殖と生存持続の強い欲求を持った多くのプロトプラズムにほかなりません。… しかし、あらゆる生命体はある潜在能力を持っており、生の使命はその潜在能力を生きることだ、とは言えるかもしれません。

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2011年04月04日

ことばは剣よりも強し

 きのう3日はブラームスの命日だったそうで、そういうわけでもないんですが、ブラームスのオルガン作品集のアルバムを聴きながら書いています。そういえば10年前のきのうは、忘れもしない静岡地震の強い揺れに見舞われたときでもありました…。真夜中くらいに突如、揺れたものだからあのときはちょっとおどろいた。

 Fukushima はいまや世界で通じる用語になってしまった。もちろん現場の人は命がけで原子炉の制御を取りもどそうと必死の作業をつづけている。でもTV のニュースなんかに登場する専門家先生の話を聞いてもいったいなにがどうなっているのかがいまいちわからない。毎日のように何ミリシーベルト(単位がいつのまにか「緩和」されてしまった点は気になるが)だの言われてもピンとこない。それでも昔、核物質関係の本は読みあさったこともあり、プルトニウムが人間の生み出したなかで最悪の猛毒物質であることぐらいは知っている。プルトニウム239 なんか、半減期が2万4千年とかいいますし(語源は冥界の支配者Pluto から)。そんなもんがそこらへんに降ってきたらと思うと、だれだって背筋が寒くなる。

 ところが困ったことに、専門家の話を聞けば聞くほどますます混乱してくる。ある人はこれくらいなら人体にはほとんど影響ないと言い、ある人は安全な被爆なんてありえないという。いま高濃度の放射性物質に汚染された水が海へ垂れ流し状態になっていますが、ある専門家先生によるとすぐ海水に希釈されてとくに問題はないという。でもある週刊誌報道でコメントしていた先生によれば、淡水と混じっているからそうかんたんには希釈されないと主張している(京セラの名誉会長さんだかが、「東電には組織として慢心と弛緩が蔓延し、緊急かつ最大の危機に対処する力を失っている」と指摘しているのは正しいと思ったが)。

 おなじことは地震学者にもいえる。先日の富士宮の地震、火山学の小山先生によればやはり富士山のマグマとの関連を指摘している(M. 9 の大地震のあと、活動が活発化した活火山が13もあったそうだ)。しかしながらここでもほかの地震学者(と気象庁)によると、関係はないという。東海地震への影響については、単純には言い切れないとしながらも、1年ほど、発生時期が早まったらしいという解析結果もある(アスペリティが滑りやすくなったということ)。

 以前VoA にいたころにちょっとしたトラブルがあって、そのときある米国人メンバーの言ってくれたひと言が忘れられない ―― 'Trust in yourself!' いったいだれの言を信じればよいのか? と問うたら、返ってきたこたえが「自分を信じるんだ!」だった。自分にとって、このことばは天啓にも感じられた。以来、「健全な批判精神」の大切さをますますつよく感じることになったのでした。

 地元紙の読者投稿に、「想定外をなくせ」というものがあった。だれが最初に使いはじめたのかは知らないが、たしかに最近、なにかとすぐ「想定外でした」とのたまわれる場面がひじょうに目につくようになってきている。もちろん「想定外」はないにこしたことはないけれども、よくよく考えてみると自然にはそもそも「想定」なんてものは通用しない。なにかモノを作るときに必要に迫られて「想定」するのだから、いつかはかならず人間の都合で決めた「想定」をはるかに超える事象は発生してしまう。ようは想定外の状態に見舞われても最悪の事態に陥らないようにすればいいのだが…言うはやすく、というやつかもしれない。

 それにしてもじつに多くの国や機関から援助や義援金が提供されている事実には、ほんとうに頭が下がるし、勇気づけられる(「N響アワー」で見た、NY州立大学パーチェス・パフォーミング・アート・センターにて開かれたN響米国公演もすばらしかった! ベルリンフィルにウィーンフィルといった名門もチャリティコンサートを開いてくれたりしていますね)。そしてそうそう、春のセンバツも開催されてよかった。「がんばろう! 日本」というあの横断幕。NHK の中継でバッターが映し出されるたびに登場したあのスローガンは、嫌味がなくていい。震災発生当日、英国の新聞は一面で「がんばれ、日本 がんばれ、東北」というフレーズを日本語で掲載していて、その気持ちはとてもうれしいながら、「がんばれ」という言い方にはどこか他人行儀な響きがある。「わたしではなく、あなたががんばれ」ではなく、「あなたもわたしも苦しいけれども、みんなでいっしょにがんばろう!」と言われるほうがやはりうれしいのではないか。英語だとたとえば'Hold on, Japan!' くらいかもしれないが、これでは「がんばれ」と「がんばろう」のあいだに横たわる微妙なちがいは伝えられない。ちょっと話が飛ぶが、バッハの教会カンタータも、例外はあるけれど最後はみんなで声をあわせて歌いあげる4声体コラールで締めくくられることが多い。たとえばイエスの苦しみは、わたしの / あなたの苦しみ、みながともに共有する苦しみだ、というふうに盛りあがりを感じるような曲に仕立てられていたりする。「がんばろう! 日本」には、それとおなじ力強さ、人の心を動かす力がこめられていると感じます。

 いっぽうで、だれかさんみたいに「天罰だ」なんてそれこそ罰当たりなことを口にする人がいる。「文は人なり」って昔から言われます。ドイツでは、たとえばあのルターは、人の発することばというものを額面通りには受け取るな、といった趣旨の一種のアフォリズムを残していたりする。人の書く文章ないしはことばというもののあちらとこちらでの捉え方のちがいとも言えますが、それでもこの「天罰」発言はあまりに無神経でひどすぎる。また被災した若い人たちのことばというのもいろいろ紹介されてまして、たとえば被災地で悪化する治安について、「大人よもっとしっかりしろ!」とか、「たくさんの人が死んでいるのに新聞に『与野党協力なるか』とあって、すごくむかついた」とかあり、彼らのほうが「天罰発言」をした政治家なんかよりよほどまともなことを言っていると思わざるを得ません。

 「ペンは剣よりも強し」といいます。古代アイルランド神話群に出てくる予言者階級フィリ(fili [pl., filidh])のように、ときには人間の発することばが文字どおり人の心を斬ることだってある(彼らは敵を倒すために「諷刺(áer[発音はアイル])」という「呪い」を使った)。でも逆に人の心を支え、生きる力を与えてくれるよすがともなるのが人のことば。ことばの重みについて、いろいろ思うところのある一週間でした(Choral Evensong でも、トゥルーロ大聖堂聖歌隊の回では説教で今回の震災と津波について触れてくれていたけれども、何度か来日公演をしているイートンカレッジの回では言及はリビアのことだけでした、どうでもいいことかもしれないが)。ことばついでに、海外メディアの報道の「受信」もいいけれど、もっと日本発の情報発信を増やさないとまずいのではないかという気がする。もちろん英語で(他言語ではまずい、と言っているのではありません、念のため)。正しい情報を相手に伝える努力を怠ると、ますます疑心の目で見られかねない。英語での正しい情報発信を増やすことは、結果的に日本に、そして一部の識者から「亡びる!」と危惧されている日本語にもよい影響をおよぼすと信じている。

追記:三陸沿岸の市町はどこも壊滅的な被害を被ったのですが、南三陸町の町長さんの発案された「思い出探し隊」はすばらしい。そしていまさっき夕刊紙面で見た、こちらの話もまた、すばらしいことだ。「思い出探し隊」がほかの市町でも組織され、同学会による無償復元サービスと連携すれば、もっといいですね(重機が入るとこうした活動もできなくなるから、なるべく早いにこしたことはない)。そしてこれは個人的なことながら、静岡県東部地区出身の東北大学生有志による募金活動を見かけたので、すこしばかし寄付しました。「ちょコム」で寄付しようと思っていたので、小銭しか出せなくてすみません。m(_ _)m

 …↓は、なんとあのキース・エマーソンが書き下ろしてくれたという'To the Land of Rising Sun' という美しい作品。こちらのクリップも感動しました(英語圏にはたとえば'Our thoughts always stay with you.' とか 'Our hearts are all with you.' 、 'We are always thinking of you.' といった心にひびく言い回しがあります)。



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2010年12月31日

'Be thou my vision'

1). 2010年、顧みるとやっぱり気象がとことんおかしな年だったかな、というのがまず思い浮かぶ。春先の異常低温。静岡特産のお茶が霜害を受けたり、茶農家の方にとってはさんざんな出だしだったように思う。5月すぎても肌寒くて、そのまま梅雨。ようやく梅雨明けしたかと思ったら、こんどは一転して旱魃かと思うほどの晴天つづき、気温も「観測史上最高」を記録した地点が多数あったし、人間のみならず米や野菜など、農作物もこのわけのわからない天候に振り回された感がつよい。温暖化が確実に進行しているとも言えるけれど、自分が子どもだったころによく言われていた「氷河期到来」をいまでも警告する学者だっているわで、ことほどさように地球規模の天候というのはわからないことだらけらしい。地球寒冷化については、太陽活動の低下と関連づけている研究者が多い。たしかにここのところ黒点活動が見られないようですが、このままずっと低調、というわけでもあるまい、と素人は思うのですが、じっさいのところはどうなんでしょう? 黒点活動って11年周期じゃなかったかしら。

 …そういうわけなのか、「今年の漢字」は「暑」という一字でしたが、個人的にはけさの朝刊紙面の時事コラムじゃないけれど、「無縁」、「孤絶」という問題がおおきく取りざたされたことのほうが印象に残っているので、「絶」だろうか。でもたとえば先日掲載されていたこちらの記事みたいなほっこりと心あたたまるいいニュースだってあります(蛇足ながら、news のほんらいの発音は「ニューズ」)。勇気づけられた親御さんも多いんじゃないかな。

 けさNHK総合を見ていたら、『くじけないで』の著者、99歳の詩人柴田トヨさんを取材した番組を放映してまして、トヨさんの処女歌集がなぜこれほどまでに反響を呼んでいるのかがよくわかったような気がした。身内どうしの絆でさえ薄くなりかけて、「心の砂漠化」が進み荒廃した現代社会を生きる日本人の心の奥底へ、まさにずぼーっと、ストレートに染みこむ詩を端的に表現して書いたからだと思う。90歳をすぎてから詩作をはじめたそうですが、長い人生経験に裏打ちされたことばの重みというものがひしひしと読み手に伝わってきます…紡がれることばひとつひとつに「魂」が宿っている。これぞまさしく人の心を打つ美しい日本語の好例です。

 それにたいして、最近の日本語(とくに話しことば)の乱れようときたら…心の荒廃そのままですな。「うまー」だの、「うざー」だの…はたしてこれがヒトのことばなのか?? と思いたくなるじゃありませんか(ちなみにこういうふうにしゃべっていたのはNHKの某音楽番組に出演していたなんとか48のめんめん)。巷ではよく英語を引き合いに出してやれ日本語が国語が危ないだの喧伝されるけれども、あんがい国語の崩壊というのは「内発的」かもしれませんぞ。英語だって前にも何度か触れたように、けっして磐石な「一枚岩」というわけではありません。言語学者のなかにはなかば本気で英語が「第二のラテン語」になってしまうのではないかと心配する向きさえいるのです。話をトヨさんにもどすと、「くじけないで」も好きですが、自分としてはこちらの詩を選びたい。番組でもトヨさんの心を打つ詩の数々が紹介されてましたが、詩を見ているうちに、なんだか芹沢光治良最晩年の作『大自然の夢』を彷彿とさせる「老年文学の傑作」、という気がしてきました。トヨさんを見ているうち、ふと100歳で亡くなった祖母のことを思い出していた。そのあと自室の掃除をしていたら、自分が撮った祖母の笑顔の写真が一枚、出てきた。1992年5月に撮ったものだと思う。撮影者本人が言うのもなんだが、仏壇に飾ってあるものより出来がいいので、取り替えることにした。そのあと風呂掃除していたら、なんと新潟に住む親戚一家が突然、訪ねてきた。親の実家に里帰りしていて、ついでに立ち寄ってくれたみたいですが、4人のやんちゃ盛りの子どもたちは「風の子」そのままで元気いっぱい。ほんのちょっとのあいだだけの再会ではありましたが、おかげでこちらも子どもたちから元気をもらいました…郵便受けには仏人メル友からのカードまで届いてまして、なんだか「千客万来」というか、にぎやかな大晦日となりました。

2). と、なんだか今年はここで文句ばかり垂れ流していたようなきらいがあり、たいへんお見苦しいかぎり。きのうは昨年録画しておいた「N響の第九」を見ながらお昼を食べ、ついでにまだ残っていたボジョレ・ヌーヴォーも飲んでいた(笑)。今年の「第九」は児童合唱はなくて、いつもどおりの国立音大のみだったが、指揮者はなんとあのヘルムート・リリンク。リリンクとくるとやっぱりバッハですね。今週というか今年最後の「バロックの森」はそのバッハ最晩年の傑作「ロ短調ミサ BWV.232」で締めくくっていました。以前ドレスデン聖十字架教会聖歌隊による「マタイ」の実演に接しているので、こんどは「ロ短調ミサ」かな(できれば少年合唱つきで)! そうそう、演奏会といえばレオンハルト! いよいよ来年でほんとうの聴き納めになってしまうかもしれない、「NHK音楽祭」のアーノンクールのように。そういえばアーノンクールもバッハの「ロ短調ミサ」を振ってましたね! あれはもう掛け値なしの名演ですよ!! TV放映見ながらひとりで感動してました。レオンハルトですが、日程的に5月下旬の日曜日に開かれるオルガンリサイタルがよさそう! 場所は明治学院大学の礼拝堂。はじめて行くところだし、いまからすごく楽しみ。

3). というわけで、あと数時間で今年もおしまい。これにてこのなにを書いているのか当人も関知しないブログも店じまいするとします。今年一年のご愛顧に感謝いたしまして、さてどんな歌(詩)がよいかとここ数日間、ない知恵絞っておりましたが、今年のYCOYでリポン大聖堂聖歌隊員のトム少年が歌い、かつてアンソニー・ウェイもレコーディングした'Be thou my vision' で締めくくりたいと思います(以下訳詞は拙訳による抄訳)。これはもとになった原詩が古アイルランド語で書かれた8世紀ごろの詩のようですが、歌曲として歌われるヴァージョンはそれを若干、改変した現代英訳版のようです。いちおう中世アイルランドの修道院文学つながりのサイトをこさえている関係上、ふさわしいかもと思ったしだいです。m(_ _)m …ではこのあとはしばし読んでない本を読むとしよう。『トン・コープマンのバロック音楽講義』ほか数冊…でも買ったばかりの『そして、僕はOEDを読んだ』もおもしろいから、先に読んでしまいそう(苦笑)。

主よ、わが導きとなりたまえ

わが心の主よ、どうかわが導きとなりたまえ
あなたの存在以外 すべては無
昼も夜も 最良の思いはあなたのこと
寝ても覚めても あなたこそわが光、となりますように

この世の富にも むなしい賞賛にも疎く
いまもそしてつねに あなたのみを頼みとし
主よ、主こそ わが心最初の想いとなりますように
天の王よ、あなたの存在こそわが宝物
 
天の上王よ あなたこそ天に光り輝く太陽
勝利のあかつきには どうか天上の喜びをあたえたまえ
わが心のうちなる偉大なる心よ
いかなることが降りかかろうとも 
わが導きとなりたまえ、おお すべてを支配する主よ
わが導きとなりたまえ



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2010年12月24日

'He's making a ...'

 今日はよい子のみなさんが待ちに待ったクリスマス・イヴ…ではありますが、小アジアの聖人「司教ニコラオス」の祝日である6日がほんらいのサンタさんの日。子どもたちにプレゼントをあげる習慣の起源は17世紀のオランダで、そこから全世界へとこの習慣が広まったらしい。もらいものをして、不機嫌になったりする子どもなんていないですものね(笑)。トナカイのひくサンタさんの「そり」の起源は、なんと北欧の民話にあるらしい。とはいえ今日はほんとに寒い! 肌刺す冷たい西風がこたえる。もっとも北国にお住まいの方のほうがもっともっと難儀な思いをされているのですが…。

 さて、みんなでにぎやかにワイワイやるイヴの夜もいいとは思いますが、ひとり静かにクリスマス音楽に耳を傾けつつ、来し方行く末を顧みて、ことばを超越した存在にたいして祈りを捧げるイヴだってあっていいはず。以前ここでも紹介したけれど、小原さんの「願い〜クリスマスの日に」というすばらしい歌みたいにね。そうそう歌といえば、ときおり「ラジオ深夜便」で耳にする「明日の朝、神さまがいらっしゃるよ」という歌。はじめて聴いたとき、むむむこれはいったい…と音量をあげて聴き入ってしまった。もとはミュージカルの劇中歌だったようですが、ひじょうに強い印象を受けた歌でした(→作曲者で「クィンテット」でおなじみの宮川彬良氏のお話がこちらで聞けます)。…というわけでもないけれど、殊勝な気分になりまして、ひさしぶりに『聖書』をとってみた。なぜだかわからないが、「ルツ記」を読みたくなったもので…。個人的には「愛の章」として知られている「コリントの信徒への手紙 一」の第13章もけっこう好き。

 クリスマスとくると、個人的には恒例のものがふたつ。ひとつはNORADのサンタ追跡(笑)。もうひとつはさらに楽しみなケンブリッジ・キングズカレッジ礼拝堂聖歌隊による「9つの聖書朗読とキャロルの祭典」生中継!! 日本時間だともうまもなく、午前零時から聴取できます。今年も生で堪能できそうで、よかった。とはいえ教育TVの「NHK音楽祭ハイライト」とみごとにカブってしまうが…。

 クリスマスついでにもうひとつ。昔、クリスマスにかんするミステリのアンソロジーかなにかで、'He's making a ...' というタイトルが出てきて訳者先生は一瞬、?? と思ったんだそうです。…謎解きしたらなんのことはない、とあるひじょうに有名な歌詞の一節だったんですが、さあみなさんこれがなんだかわかりますか? ってクイズを出してもしょうがないんですが…。

 …そういえばTFM少年合唱団のクリスマスコンサート、今年は今日と明日の公演だそうです。日本語で歌われる「マリアは歩みぬ」とか「もみの木」、「エッサイの根より」というのも、ほっこりしていいですね! それではみなさんもよきクリスマスと新年を(とはいえ今年はなんだか「年の瀬」という感じがぜんぜんしないのですがね…)。

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2010年09月13日

クモの糸約3万本から作ったヴァイオリンの弦! 

 そういえば、先日こんな記事が地元紙に掲載されてました…なんと、クモの糸からヴァイオリンの弦を作ったという!!! 300匹のクモから糸をかき集めること2年、1本の弦につき約1万本を撚りあわせて、3本の弦をクモの糸だけでこしらえたというからびっくり。しかも強度もさすが(?)クモの糸だけあって、ふつうのガット弦とかにくらべて倍以上もあるらしい(クモの糸ってほんと頑丈だ。ホースで水をバンバンひっかけたくらいでは破れないし)。

 で、気になる音は、というとこれがまたいいらしくて、記事によると「奏でると、通常より重みがあり柔らかい」ですって。クモの糸は柔軟性や弾性、耐熱性に優れ、紫外線にも強い! まさに夢の繊維ですね。これでチェンバロの弦…はむりでしょうけれども、リュートくらいならいけるかも。

 いまさっき聴いた「ベスト・オヴ・クラシック」はベルリンフィルの特集で、初日の指揮はトン・コープマン! バッハの「管弦楽組曲 第3番 BWV.1068」、「マニフィカト ニ長調 BWV.243」、ハイドンの「交響曲 第98番 変ロ長調 Hob.1-98」など。「エール(アリア)」は、やっぱりよかったなあ。この曲は以前、坂本教授の「スコラ」でも取り上げられたけれども、跳躍の多い通奏低音のベースラインがあるのとないのとでは、受ける印象はたしかにぜんぜんちがいますね。オルガン用のコラール編曲なんかもそうですが、バッハ作品でいちばん感じるのはベースラインの巧みさ。まがりなりにも楽譜を見て、じっさいに弾いてみればこれがさらによく実感できる。この時代の作曲家はみな、まずは通奏低音を含むベースラインから、という発想だったとは思うけれども、バッハのベースラインの扱いとその響きの豊かさは、やはり天才的だと思う。…で、夢見心地の「エール」から、間髪入れずに「ガボット」に移るあたりはコープマンらしいところ。

 [以下脱線項目]…この前の「チャロテスト」、いちおう「地デジ(この言い方なんとかならんか、なんだか痛いほうのあれ―「切れ×」とか―を連想してしまうのは自分だけ?)」対応受像機なので、リモコンの色分けされたボタンを押しながら参戦。もちろん満点! と言いたいところだが、'I'll treasure it.' の選択肢を選ぼうとしたらなぜかとなりのボタンを押してしまって、96点。orz orz やっぱりワインの入ったアタマで受けたのがまずかったか(苦笑)。でも前回までのテストにくらべて、物語本編からの出題中心だったので、はっきりいって今回のテストは難易度がかなり下だと思う。ようするに番組をまじめに見ていればできる(はず)、という印象。

 …スマートフォンのDesireを契約して使いはじめてまだ日が浅いけれども、だんだん操作にも慣れてきた。HTC製のウィジェットもいろいろインストールされていて、公式サイトでもっとほかにもないかな、と思って見つけたのが「今日はなんの日」ウィジェット(↓を参照)。天気予報、カレンダーとならんで暇なときに眺めているとこれがまたけっこうおもしろい。この日が誕生日/命日の人というのも掲載されていて、各項目がそのままWikipediaのリンクになっていて、すこぶる便利。ちなみに13日が誕生日の人は、三嶋大社で挙式したあの松坂大輔投手とか、あとロアルド・ダール(自伝的作品の『少年』については前にもすこし書きましたね)、そして「12音音楽」のシェーンベルクなんかもそうらしい…そしてあのいまをときめく辻井伸行さんも!! 「Always 三丁目の夕日」にも出演した小清水一揮くんまで載っていた(笑)。Desireについては、またのちほどほかのことにからめて書くかもしれない。

「今日は何の日」 ウィジェット


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2009年08月11日

台風に地震に津波注意報

 けさの地震には驚きました…でもじつは、日曜の23時ごろに太平洋のはるか沖で発生した地震のときに、すでにイヤな予感がきざしていた。

 そのときはいつものように――日曜はワインをいただく日なのです――呑んでいたから、はじめ目眩? かなと思った。しばらくしてゆーさ、ゆーさとひじょうに長周期の揺れがはじまったので、地震だと気づいた。ところがこのじつに気持ち悪い揺れ、なかなかおさまらない。震源はかなり遠方のどこかだろう、くらいは感じていたけれども…すくなくとも1分以上は揺れていたと思う。あとにも先にもあんなゆっくりとした横揺れははじめてで、なんとも気味悪かった。そんな余韻覚めやらぬときにこんどはガタガタガタ…と揺さぶられたものだから、たまったものじゃありません。しかも台風最接近のときで、雷雨のさなかでした(→県の公式災害情報ブログ。今回に匹敵するくらいの揺れを感じたのは、2001年4月3日深夜に静岡市で震度5を記録した地震以来のこと。もっとも20年前の伊東沖海底噴火直前には、震度4クラスの群発地震を経験した)。

 時間が経つにつれ、もっとも揺れの激しかった静岡県中部各地の被災状況が報じられるようになった。重傷者もふくめて100人以上の怪我人が出たみたいだ、東名高速も牧之原あたりで崩落したみたいだ、とか。いちばん不気味だったのはやはり浜岡原発のこと。最近、中電は情報公開につとめているようだから、たぶん今回のこともつまびらかにしてくれるとは思う。もしなんらかの不具合が発生しているなら、なるべく早く正確な情報を開示すべきでしょう。

 そして今回、はじめて「東海地震観測情報」というものが発表されました。静岡県民だれもがみんな知っているとも思えないので、こちらをご参考までに。今後もあることだから、いままで以上にもっと周知徹底を図るべきだろうと感じています(「警戒宣言」が発令されると、たとえばATMも使えなくなる)。

 今回の地震はむろん「本番」とは直接の関係はありません。が、沈みこんでいるフィリピン海プレート内部で、しかも想定震源域にかぶった地点で岩盤破壊が起きているので、「アスペリティ」と呼ばれるがっちりくっついたプレート境界面の「固着域」にさらに負荷がかかったと見る地震学者もいます(前地震予知連会長の溝上恵教授によると、今回の震源は1974年伊豆半島沖地震で出現した石廊崎断層の延長線上に位置しているという)。あるローカルニュース番組では『火山が作った伊東の風景』著者の小山真人先生が出てまして、今回の地震について、いろいろと解説されてました。今後しばらくは最大震度5クラスの余震にたいする備えをしておくべき、ということも言ってました。またほかの先生が、今回の地震の揺れは阪神・淡路大震災のときとちがって長周期ではなく短い周期のガタガタくる揺れでしかも揺れている時間も長くなかったので、被害は比較的軽微ですんだとも言ってました。たしかにそうだったかもしれない。むしろこのていどですんだと言うべきなのか(でも民家の屋根瓦やブロック塀損壊をはじめ、駿府城の堀は崩れるし、恋人岬の「鐘」もぽっきりと倒壊してしまった。また沼津市井田付近の海蝕崖も一部崩れた)。

 地震で政府が対策本部を設置してくれたのはありがたいとは思うけれども、ちょっと気になるのは兵庫県佐用町のひどい水害。あれだけ犠牲者・行方不明者が出ているのに、政府関係者というか閣僚がだれひとり現地を訪れていないんだろうか? 首相が行った、というような話も聞いてませんし。ほかの国ではこれだけの災害が発生すればだれかひとりくらいは現場に飛ぶもんだと思うが…とにかくあれはひどすぎる。心からお見舞い申し上げます。

 …今日はヴァルヒャの命日なので、「バッハ以前のオルガンの巨匠たち」をあとで聴こうかと思います。

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2009年08月09日

A new hope

 けさの「バロックの森」でかかっていた、名門オックスフォード・ニューカレッジ聖歌隊によるウィリアム・バードの'Ave Verum Corpus'に気がついて目が覚めました。64回目の長崎原爆忌を迎えた朝にふさわしく内省的で、敬虔な音楽でした。

 朝刊をひろげると、新刊本書評欄に目がとまる。『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』というタイトルの本が紹介されてました。じつは以前から、なんで被爆した浦上天主堂の廃墟は広島の原爆ドームみたいに残されず、早々に撤去されてしまったのかということを不思議に思っていたからです。

 もっともこのことについてはすでに既刊本もあるかもしれない。書評を読むと、取材に詰めの甘さが見られる点が残念としたうえで、「浦上天主堂廃墟の撤去には米国政府の影が見え隠れする」という著者の主張を紹介している。たしかにありがちな話ではあります。「ローマカトリックの教会堂の真上に原子爆弾が炸裂した」のだから。ときあたかも原水爆禁止運動が世界的に盛り上がっていたころ。それを落としたのも――キリスト教会は宗派がたくさんありすぎてどこの信徒かは知らないが――とにかくおなじ教会の信者であるはずの飛行士たちだったろうし。いま、米国人でどれくらいの人が浦上天主堂の悲劇を知っているのだろうか。

 たいてい、落とした側の言い分は「原爆投下により、戦争終結を早めた、これ以上の犠牲者を出さずにすんだ」で片付けるもの。でも核兵器の持つ文字どおり悪魔的な破壊力をもってしては、勝者なんかいません。いま全世界には2万発(!)以上もの「悪魔的」兵器が存在していると言います。64年が経過し、被爆体験者の方の高齢化が進むいまこそ、唯一の被爆国に住む人は、核兵器廃絶の声をますます強くあげなくてはならない。東西冷戦終結時、これで核戦争の脅威も遠のくかも、と楽観的に構えていた人もいたかもしれないが、それから約20年が経過したいまはとんでもない方向へ向かっています。アタッシェケース型の超小型核兵器を持ち歩くテロリスト、というのもいずれほんとうに出てくるかもしれない、とか。冷戦後の「核拡散」問題はいまや一刻の猶予もならない喫緊の課題です。この問題については、大半の核兵器を保有している米国とロシアに重大な「道義的責任」がある。

 でもオバマ氏が大統領に就任してから、米国側の姿勢はあきらかに変わりつつあります。4月のプラハ演説もそうした姿勢の現われかと思うし、ついきのうも、オバマ大統領が来春までに包括的核実験禁止条約(CTBT)を批准する意向だと伝えられましたし。もっとも野党の共和党が上院で猛烈に反対するとは思うが…ここはひとつがんばってもらうしかない。

 そんな折も折り、NHKはひとり気を吐いて、核廃絶を願う人々を結びつける「メディア(medium=仲立ちするもの)」本来の役割を果たしてくれたと感じた。「ノーモア・ヒバクシャ」という特番がそう。核実験場にされた世界各地の「ヒバクシャ」の声をこれだけ集めて伝えたのははじめてだったんじゃないでしょうか。この番組を見て感じたのは、月並みですがやっぱり「みんなで連帯して声を上げること」の大切さでしょうか。こと先の大戦にかんしては、日本人ならだれだって関係あることですし――だれしも親戚の大叔父さんとか、ひいおじいさんとか、戦争で亡くなった人はいるんじゃないでしょうか。あるいは「銃後の守り」で空襲にあって犠牲になった大叔母さんとかおばあさんとか、かならずだれかいるはずです。でも、戦争体験者の話を聞けるのは自分たちの世代で最後になると、いま多くの若い人たちが行動を起こしているのは、まことに心強いかぎり。世界中でこうした行動を起こしている若者がいます。NHKの特番でも、広島で活動している女子高校生とイタリア人の活動家の若者とが広島平和記念公園で初対面したというシーンが流れてました。前にここでも紹介した、米国による原爆投下を取材したシカゴの少年のような例もあったし、願わくばせっかく芽吹いた「あたらしい希望」が大きくふくらみ、世界中を巻きこむ核廃絶運動として各国政府を動かす力になれば、と思う。

 北朝鮮が核実験を強行したとき、一部識者、政治家から「日本も核武装を」という声が上がったときには耳を疑った。なぜ唯一の被爆国としての立場をもっと主張しないのか、と。核兵器をもったところで、なんの得にもなりはしないということを声高に主張すべきだったのに、これはいったいなんということだろう。核兵器のみならず、戦争は絶対悪なのです! 平和憲法じたいが揺らいでいる昨今の不穏な動きはひじょうにこわいものを感じるし、はなはだ遺憾。そんななか、こうした若い人が中心となった活動には心から応援したい。一縷の希望の光かもしれない。

 ファンタジー好きな方は知っているかもしれないけれど、リヨン・スプレイグ・ディ-キャンプ(L.Sprague de Camp)という作家がいました(といっても、自分はこの手のジャンルはたいして読んではいないが)。この人とフレッチャー・プラットが共同で書いた『妖精の王国』という小説に、たしかこんな台詞が出てきます――「ひとりだろうが、百人だろうが、一万人だろうが、殺人は殺人だ」。またこの時期になると、高校時代に副読本で読んだドイツの昔話というのも思い出します――昔、あるところに馬鹿がいた。馬鹿の前を兵隊さんがやってきた。馬鹿は訊いた。「みなさんはどこから来たのですか?」。「平和からだ」。「どこへ行くのですか?」。「戦争へだ」。「なんのために行くのですか?」。「平和を取りもどすためだ」。そこで馬鹿は訊いた。「平和からやってきて、平和を取りもどすために戦争へ行くだなんて、おかしなことを言うものだ。なんで最初の平和に留っていないのだろう?」。そういえばシュヴァイツァー博士はゲーテのこのことばが座右の銘だったらしい。「はじめに行いありき」。たしかにそうですよね。この世界では、doかdo not、行動するかしないかしかない。環境問題などなんでもそうだけれど、まずはできることから行動を起こすことが大切ですね。

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2008年10月12日

基礎学問の大切さ

 米国発の金融危機からはじまったこの一週間の世界株式市場の大混乱。NYTimes電子版の記事では「ローラーコースター」にたとえていたけれども(どうでもいいけれども、紙くずを散らかすのはやめましょう[苦笑])…そういえば静岡に「曽宮一念」展を見に行ったときも、駅前の証券会社の電光ボードを食い入るように眺めていた人がいました。いずれにせよあくせく毎日働いている者のあずかり知らぬところで勝手に膨らみ、勝手にはじけ飛んだバブルのおかげで、実体経済にまで悪影響を及ぼしている。これが前世紀に世界中を混乱に陥れ、世界大戦にもつながった大恐慌に匹敵するほどの世界規模の金融恐慌にまで発展するかもしれない…などとまことしやかに囁かれてもいます。でも資本主義の暴走という点ではおんなじかもしれないが、1930年代のようなひどい事態にはならないと思う。あの当時とはくらべものにならないほど、人もモノも世界を行きかう時代。世界との距離が圧倒的に縮まり、やりとりされる情報量もまるでちがういま現在とあの当時とは単純に比べることはできないでしょう。むしろマッキベンが著書『ディープ・エコノミー』で描いているような、もっと地に足ついた経済構造に作り変えるチャンス到来と考える。原本は以前ここでも取り上げたから蒸し返さないけれども、いまの「市場原理主義」というのは、カネ→モノ→人の順番で、本来最上位に来るはずの人間の生活というものがないがしろにされ、ひいては自然環境の破壊をもたらす「持続不可能な」構造的問題を抱えている。不況になればなったで市井の人々は難儀するし、さりとて好景気になってもいまは昔とちがってみんなのサラリーが上がるわけでもない。賃金は据え置きのままで社会保障費負担ばかりがますます重くのしかかる。頼みの綱の預貯金とて長年つづいたゼロ金利政策のせいで知らないところで――どういうわけか――かつての不良債権のツケとかを間接的なかたちで払わされている。ゼロ金利で失われた国民資産はたいへんな金額だといいます。けっきょくこれは、政治も経済も、いっときのバブルという名の「危ない綱渡り」ゲームばかりに興じていて、「ほんとうに大切なもの」を見極めた社会作りを怠ってきた結果でしょう。はじめて'subprime mortgage'という金融商品の存在を知ったときは呆然とした。マッキベンも書いていたけれども、いまの米国人は――われわれもふくめて――身の丈にあった生活をしていない人が多いのではないか。そもそも返済能力のない人(insolvent)にむりやり住宅ローンを組ませてまで住宅や不動産を買わせ、そのローン売買を証券化して世界中の投資機関にばらまいた、とはいったいどういうこと…経済学者のS先生という方が地元紙朝刊にコラム掲載していて、米国の経済事情はさっぱりな自分はときおり読んでいるのだけれども、先生に言わせると「金融工学の悪用だ」と言い切っている。金融工学…というのもさっぱりですが、S先生に言わせると「19世紀末のノーベルによるダイナマイト発明に匹敵する」んだそうな。ようは道具の使い方が悪かったんだと。そうかねぇ、エコノミストや経済学者といってもピンキリ、こうした危なっかしい取り引きを黙認してきた罪は重いのではないかな。警告を発していたけれどもだれも聞いてくれませんでした、と言い訳する人もいるけれども。問題なのは、いまのマネーゲームという名のミダス王は、実体経済とはまるでかけ離れたところでバブルを生み出してははじけさせ、なんの関係もない一般市民まで巻き込んで後始末を強要することにある。もっとも新聞記事を読むと17世紀の「チューリップ・バブル」が記録上最古のバブル経済とその崩壊だったようですが、どこまでがバブルで、どこまでがそうではないかという見極めがつきにくい点が、こうしたバブル現象を性懲りもなく繰り返してきた要因のひとつだと書いてはあったけれども、けっきょくこれとて、人間が「ほんとうに大切なもの」を見る目を失っているからにほかならない。いま一度シュヴァイツァー博士の重いことばに耳を傾けるべきです。

 と、ここまでは前置き。世界中が「悪夢の一週間」として右往左往しているさなかに、日本人4名がノーベル物理学賞・化学賞を受くという吉報が飛びこんでもきました。でも受賞対象となった研究を見ますと、こんなご時世に警告を発しているかのような分野です。受賞者の方々はいずれも基礎研究、基礎学問の世界で長年、人知れず尽力された方ばかりなのです。こういう世界は、目先の利益でころころ姿勢を変えるいまの風潮とはまるで相容れない。とくに基礎研究分野では日本は世界的に立ち遅れていることは、もう何年も前から指摘されていること。「こんなもん研究してなんの役に立つんだ」というものが、何年か経ったのち、だれも思いもつかないかたちで突如として現れ、直接・間接的に世界を変えていく。ある研究者が、自分の大学とほかの大学とのあいだに相互アクセスできるように回線を張って、電子メールのやりとりができるように四苦八苦していたら、あるときこんなこと言われたという。「用件があれば、電話があればこと足りる。そんなもん研究してなにになる?」。いまやメールは、電話とファックスといった旧来の手段では考えられない膨大な情報を、世界中の人相手にローコストで瞬時にやってのける。下村先生の「緑色蛍光蛋白」だって、オワンクラゲから採取された蛍光物質のおかげで「癌細胞の蛍光マーカー治療」という画期的な治療法が編み出されてもいる。けさの地元紙記事にも、「すぐに役に立つものばかりでは、基礎的なことをやる人を失っていく。日本はこのままでは駄目だ」と下村先生と親交のある研究者の方が嘆いていた。

 物理学賞…のほうは、この前頓挫したCERNのLHCとも関係のある分野で、はっきり言ってこっちのほうは理解することじたいがむずかしい。なので手っ取り早く「こどもニュース」を見ました(苦笑)。南部先生ら3名の先生方の業績は、せんじつめれば当時、4つしか見つかっていなかったquarkの組み合わせのうち、理論上はあとふたつ存在するされていた「トップ」と「ボトム」を発見したこと(ちなみに原子核中の陽子・中性子はクォーク3つからなる複合粒子)。「こどもニュース」の解説を見ていて、「反粒子」なる用語をはじめて耳にした。「対称性の破れ」のことを指しているのだろうか。子どもでもわかりやすいように例によって擬人化された素粒子が出てきて、ビッグバンのときに、一方の片割れ「反粒子」が脱落して、素粒子だけが残ったという(LHCでは陽子どうしを光速に近い猛スピードで衝突させれば、まだ発見されていないヒッグス粒子の存在を確認できるかもしれない…と言われていた。ヒッグス粒子/ヒッグス場は、「質量」を生み出している根本ではないかと推測されている素粒子/場)。…この話聞いている最中、突然、どういうわけか頭にいにしえのグノーシス創世神話が蘇ってきた。アイオーンはめいめい男女一対の存在だったけれども、最下位のアイオーンにいたソフィアが過ちを犯して片割れの言うことも聞かずに醜いヤルダバオート(=デミウルゴス)を産み落とし、みずからも天界(プレーローマ)から冥界へと落下しかける。つまりそのとき「この世と時間」というものが生まれたわけですが、ここが「粒子−反粒子」の話と妙にダブってしまいます。ティム・セヴェリンが復元カラフのブレンダン号の航海記で、中世のヨーロッパ人は彼らなりの理解で世界を知っていたと書いていたけれども、まさしくそんな感じがする。彼らもまた、本質的にはけっこういい線を突いていたのかもしれない(ちなみにquarkなる語はもとはジェイムズ・ジョイスがあの奇天烈な小説、Finnegans Wakeで用いた造語)。

 なにごとも学問は基礎が大切だし、科学においてはとくにこのような基礎研究がなによりも大切…なはずなのだけれど、現実世界ではやたら時間がかかり、すぐに目に見える費用対効果をあげないこの手の分野はないがしろにされがちです。今回の邦人研究者4名のノーベル賞受賞は、なんらかのメッセージが込められているのかもしれませんね。

 ついでにとめどない科学の専門分化・細分化について書かれたコラムも先月、地元紙に掲載されてました。金融工学にせよ科学にせよ、道具の使いようによっては人類にとっては百害あって一利なし的な悪夢に陥ることもある(マンハッタン計画とか)。いまやあまりにも細分化された科学技術、テクノロジーが暴走しないためにも、異分野との「科学コミュニケーション」がきわめて重要だとコラムの書き手は説いています。たしかにそのとおりですね。ことに日本では、すぐ「これはだれだれの専門」とか言って、風通しが悪くなったりしますね。こういう縦割りの壁は壊さないと。「専門家→一般市民」という一方通行もよくない。専門家といっても、ただの専門バカという場合だってある。科学技術関連にかぎらず、大量の情報が世界中を飛び交っているいまの時代でそんな旧態依然のことをつづけていたら、かなり致命的なことになるのではないでしょうか。よくdigital divideと言うけれど、真に問題なのは「人間にとって、真に必要で有用な科学技術とはなにか」という視点でリスキーで暴走しかねないものと、そうでないものとを選別する力だと思う。これはマッキベンも『人間の終焉』でおんなじようなことを書いています。「これはいいけれど、こっちはいらない」。いわゆるgeekというのはどんな分野にもいるけれど、彼らは基本的に妄信的テクノロジー信仰者なので、常識的に考えればバカバカしい荒唐無稽な未来でもバラ色だと喧伝したりする。そういうインチキ・イカサマに惑わされない知識、これこそがまさしくいまを生きる人に求められている知恵だと思います。なにをどれだけ知っているかは問題ではない。どれが真に大切なのかを見極められる目をもつことが重要なのです。

 ちなみに記事はアイルランドの教育熱心さにも触れていまして、「ケルズの書」を所蔵している有名な図書館のある国立トリニティカレッジの授業料は、なんと無料! なのです。そう、アイルランドでは公立大学の授業料はただ。ちなみに国立博物館も美術館も自然史博物館も近代美術館も、入館料はロハ。一概に比較はできないが、このへん日本はもっとアイルランドを見倣うべきだと思う。

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2008年08月09日

広島とゲバラ

 今日は63回目の長崎原爆忌。新聞には、浦上天主堂での早朝ミサで手をあわせて祈る老婦人の写真が載っていました。

 いつだったか忘れたけれど、あるTVドキュメンタリーを見ました。そこではなんと、あのチェ・ゲバラが文字どおりゲリラ的(!)に広島の平和記念公園を訪問し、原爆資料館や慰霊碑を見て回っていた、というものでした。資料館にはゲバラ本人がばっちり写っているモノクロ写真まであるというからさらに驚きました。

 そしてついせんだっても、週刊誌の巻頭ページにゲバラの娘アレイダ・ゲバラさんがかつて父親が訪れた広島の平和記念公園を訪問しているときの写真が掲載されていました。そしてカストロ議長も、2003年に広島を訪問して原爆犠牲者の慰霊碑に献花していたんですね。こっちのほうは恥ずかしながら知らなかった。カストロが被爆地広島を訪問しようと思い立ったのも、そもそもゲバラに「日本へ行くのなら、ぜったい広島に行くべきだ」と強く勧められたためであったとか。きちんと約束を果たしたというわけですね。また今年はちょうどエルネスト・ゲバラ生誕80周年でもある('Che'というのはニックネームです、念のため)。

 キューバは1962年10月、ケネディ−フルシチョフのころの冷戦のとばっちりを受けたいわゆる「キューバ危機」を経験しているから、ことさら核兵器というものに敏感なのかもしれない。とにかくゲバラの帰国報告を受けたあと、キューバでは子どもたちに広島・長崎の悲劇を教えるようになった。番組の取材でも、「8月6日はなんの日か知ってますか?」と訊かれた子どもたちがみな、間髪入れずに「広島に原爆が投下された日」と答えていたのにもびっくりした(ちなみにおなじ第二次大戦敗戦国ドイツでは、なんと「ベルリンの壁」さえ知らない若者が増加中という! …日本もドイツも事情はあんまり変わらないみたいですね)。

 キューバ、とくるとすぐカストロの独裁国家というイメージが浮かぶ。でもひとつ独裁者カストロを褒めていいとすれば、信念を貫き通している点だと思う。たしかに共産圏のご多分に漏れず、政治犯の収容施設はあるし、人権監視機関ヒューマン・ライツ・ウォッチの報告書にも表現の自由がきょくたんに制限されていると非難されてもいる。以前、NHK-FMのオーディオドラマでキューバ生まれの作家レイナルド・アレナス Reinaldo Arenasの遺作『ハバナへの旅』が放送されてました。ラジオドラマ版では、先日亡くなったソルジェニーツィンじゃないけれど、キューバを「島そのものが牢獄」だと表現していた。もっともこの人のこの作品は自由奔放な同性愛者の視点から描かれているので、あんまり参考にはならないかもしれないが…。カストロの信念は、とくに子どもたちの教育機会の平等ということにも現れていて、たとえばここでも取り上げたビル・マッキベンのDeep Economyにも、キューバでの教育水準の高さが書かれています(p.76)。キューバでは、大学進学を志す者はすべて大学に入れるし、生徒にたいする教師の割合もスウェーデンとおなじだという。

 またべつの機会に見たTVドキュメンタリーでは、キューバの老人ホームに暮らす100歳を越えたすごい日本人移民(!)のおじいさんを取材していた。「超」高齢化社会を迎えた日本では、頼みの綱であるはずの医療費がどんどん削られている。かたやキューバは1996年にいちだんと強化された米国の経済封鎖にもめげず、医療費がなんとタダ同然という。印象的だったのはたったひとり、異国の地に骨を埋めようとしているおじいさんの驚きのこもったつぶやき。「なんで日本では家族みんなで暮らさないのか?」。たしかに独居老人の数は年を追うごとに増えているし、「孤独死」も日常茶飯事の感がある。キューバは単純に経済的見地からだけ見れば日本とはくらべようもないほど――これは米国による経済封鎖と旧ソ連崩壊後の共産圏消滅による経済的孤立の影響が大きい――貧しい貧しい国で、お菓子さえ満足に買えないような国なのに、TVに映し出されていたお年寄りのなんと生き生きとしていること! とにかくはじめて知ることばかりで、その前に見たゲバラの話といい、はっきり言って衝撃的だった。またマッキベンは、「グローバル化した世界では、島国ももはや島国ではない」…それゆえ旧ソ連崩壊後、共産圏との貿易の道が絶たれたキューバは文字どおり経済的には世界地図から消滅したも同然の深刻な経済危機に見舞われたものの、いかにしてそれを克服したかについても興味深く綴っています。前に書いたことの繰り返しになるけれども、都市型農業というか、首都ハバナの遊んでいる土地という土地を、すべて小規模農園として再生させ、文字どおり国を挙げて「地産地消」に取り組んだという。農薬や化学肥料を買う金はないから、必然的に無農薬・有機栽培になる。そのためにはただ土地を囲って鍬を振っていてもダメで、専門知識が必要になる。一夜にして世界の孤島になったキューバ市民はにわか農民だったが、彼らを技術指導したのが大学で専門知識を身につけた若者たち。そんなキューバはいまや世界で最も進んだ医療先進モデルとして全世界から視察団が訪れるようになったし、自国の経済的苦境にもかかわらず、海外の医療支援にも熱心で無料で留学生を受け入れてもいる…ハード面では日本の医学はたしかに世界随一かもしれないが、「医は仁術」ということがきちんと実行されているキューバと、いったいどっちがいいのだろうか…ひじょうに考えさせられる番組でした。ちなみにカストロの実弟ラウル・カストロが新議長として実権を握りましたが、ラウル色を出そうということか、せんだってパソコンやDVDプレーヤの購入自由化を発表していましたね。もっともインターネットはまだダメらしいが…キューバでは携帯電話も高嶺の花。でも電車に乗っている人みんながみんな携帯画面とにらめっこ、バスの中でも運転士が注意しているにもかかわらず携帯をいじくっている女子高生とか当たり前のように見かける国と、はたしてどっちが幸せなんだろうか。いまの携帯電話はネット接続が当たり前だから、携帯サイトやメール機能を悪用した陰湿ないじめの報道なんかもよく見聞きする。秋葉原の無差別殺戮事件のときも、やめろと言っているのに記者気取りなのかどうかは知らないが、血を流してこと切れかかっている被害者に携帯カメラのレンズを向けて撮りまくってる、それこそ氷のように冷えきった異常な光景が見られたと言いますし。そして街頭にはそれこそ無数の防犯用監視カメラが溢れている。ある意味これはキューバ以上の監視社会じゃないかと思いますがね。ほんとにこんな社会が人間的で暮らしやすい社会と言えるのかって本気で疑問に思いますよ。キューバ以上に歪んでいるんじゃないでしょうか。あるいはキューバの人が、日本では親殺し子殺しが多いとか自殺者が年間3万人以上も出ているとか知ったらぶったまげるんじゃないでしょうか。キューバはたしかに貧しいかもしれない。でもすくなくとも自然にも人間にも「持続可能な」やさしい視点があるように思う。

 キューバが米国のもくろみとは真逆にいまだもちこたえているのは、盟友ゲバラの遺言をきちんとまっとうしているフィデル・カストロというひとりの独裁者の揺るぎない信念に負うところが大きいように思う。キューバにかぎって言えば、独裁体制=悪という単純な図式は成立しない。もっともカストロを擁護しているわけでも英雄視しているわけでもない。ただ、北朝鮮やかつてのルーマニアとはちがう国だということです。

 6日の広島原爆忌のとき、核保有国として二番目に(やっと?)お隣の大国・中国代表も参列した。米国はじめ、ほかの核保有国にたいしても広島市は原爆忌式典に参加するよう呼びかけてはいるものの、米国もフランスもいまだ出席ならず。それでも希望はある。2年前の原爆忌のとき、NGO団体の招きでシカゴに住む14歳の少年がやってきた。この少年は、学校の授業ではおざなりにしか教わらなかった広島・長崎に投下された原爆のことをもっとよく知ろうと、同級生とともに反核を訴える短編映画をみずから制作、作品は核拡散防止条約(NPT)再検討会議でも上映されたという。広島・長崎では被爆者の取材もこなしたこの少年はこう言ったそうです。「米国に原爆投下を悪く思わない人がいるのは、事実をよく知らないから。原爆投下は史上最悪の決断だった。二度と起こしてはならない」(彼の制作した映画はこちらで見られます)。昨年のいまごろは、イタリアの子どもたちが折った千羽鶴を届けてくれたバイク乗りたちのことを書いたけれども、今年はなんと言っても沖縄全戦没者追悼式で感動的な詩を朗読してくれた小学生がすばらしかった。グノーシス文書「トマスによる福音書」じゃないけれど、命の道をこの少年に教えられたような気がする。ある対談番組で、いわゆるワーキングプアの青年が、いともあっさりと「戦争にでもなればいい」と暴言を吐いたのを見たときには正直激しい憤りを感じたものだが、「みんながしあわせになれるように ぼくは、世の中をしっかりと見つめ 世の中の声に耳をかたむけたい。そしていつまでもやさしい手と あたたかい心を持っていたい」というこの少年の詩には、ほんとうに心洗われるような思いがした。While there's life, there's hope, anyway(追記。ひょっとして、と思ってAmazonを検索したら――FirefoxはデフォルトでAmazonの在庫も検索できるので便利です――マッキベンの本の邦訳が出ていた。買わなくちゃ。ついでに『暴走する資本主義』も図書館から借りて読んでみよう…その前に『解読 ユダの福音書』も手許に届いてもう何日も経っているから、そろそろきちんと読まないと…).

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2008年07月20日

奥が深い「ボウイング」

1). いまさっき「N響アワー」を飲みながら見てました…鍵盤楽器関係ならすこしはわかるけれど、弦楽器の「運弓法(ボウイング)」についてはまるで門外漢もいいところなので、第一コンサートマスターの篠崎史紀氏による「知って得するボウイングのはなし」。ひと口にボウイングと言っても、おなじモーツァルトの聴きなれた曲でもボウイングひとつちがうだけでこうも印象がちがってくるものか、と感心することしきり。'sul ponticello'とか'sul tasto'といったボウイング奏法の用語とともに、じっさいの演奏も見ることができて、ビデオを回していなかったのが悔やまれました。なるほど、ストラヴィンスキーの「春の祭典」ではダウン・ボウがやたらと多い、というか作曲者がそう指定してあるのか。そういえば「春の祭典」は初演のときがえらい大騒動だった、というのは音楽史上つとに知られた事件。先週の「ベスト・オヴ・クラシック」はパリ・シャンゼリゼ劇場からの公演録音も流れましたが(そのうちアレクサンドル・タローのリサイタルではバッハのBWV.971のイタリア協奏曲が演奏されてました)、そのシャンゼリゼ劇場が、「春の祭典」初演会場。なんでもサン-サーンスもいて、出だしのファゴットの旋律を聴くなり、「いまのはなんという楽器かね?」とフン然と席を立って出て行ったという話を読んだことがある。そのあとは聴衆が賛美派・非難派まっぷたつに割れて喧々囂々、取っ組み合いにまでなったそうです。このバレエ音楽のもつある種暴力的であまりに耳障りな不協和音の連続が、あまりに衝撃的だった、ということかもしれない。いずれにしても20世紀という「けっして明るくはない」世紀の幕開けを告げ、はちきれんばかりに豊満になったロマン派との完全な決別をしめすターニングポイントになった作品にはちがいない。

 番組ではほかにホルストの「組曲 惑星」から「火星」もかかってました。それでまた脱線すると、NASAがおもしろい画像を公開しました。木星の「大赤斑」が、接近してきたちいさな渦巻きをパクっと飲みこんで、また吐き出した、というもの。NASA関係者の言い方がまた、ふるっています。「前代未聞の惑星を舞台にした『パックマン』ゲーム」。米国人って「パックマン」好きな人けっこういるみたいですからね…ついこの前もNYTimesサイト内で見かけたばかりだったし(笑)。単純ゆえに飽きがこないという典型的なゲームなのかも。

2). アレッドが案内役をつとめるBBC Radio3のThe Choir。いまさっきいつも聴いているChoral Evensongを聴こうかと思ったら、なぜかストリーミングがunavailable。なのでこっちを聴いてみたらけっこうおもしろいです。なるほど世界の「舟歌」特集ですか。たしかにこれってさすがのNHK-FMでも特集として取り上げたことはない分野だと思う。さすが目のつけどころがちがうな! 

 (以下追記)…とここまで書いておきながら、突如としてOSそのものが固まってしまったorz。どうやっても復旧できなかったから、けっきょく電源断。ちょっと飲みすぎ(?)たし祝日だしそのままお昼くらいまで寝てました(蒸し蒸してたまらん…)。で、いまさっき立ち上げて、Firefoxを「開いていたタブを復元するか」と訊いてきたので、タブ復元を選んで起動させたら、なんと!! 、書きかけの記事まで復元されて出現したのでちょっとびっくり。ま、たいしたことは書いてないとはいえ、一から書き直し(rewrite from scratch)を覚悟していたので、時間と手間の節約になってよかった。最新版にしてから起動にやたらと時間は食うわで個人的にはこれってなにかのバグかと疑っていたフォクすけブラウザですが、こういう使い勝手のよさはさすが。最新版のIE7でこういう芸当ができるのかどうなのか、は知りませんが。というわけで、日曜に投稿しようと思った記事なので、日付けもきのうにしてあります。

 おまけです。ちょっと気になるバナー広告があって飛んでみたら、スペインでこんな博覧会やってるんですね。日本ではちっとも報じられてないみたいですが…とはいえこういうマスコットキャラクターにかけては日本人のほうがやはり一枚上手というか…あるキャラクターを見てどう感じるかというのはたぶんに国民性に左右されるから、「シンプソン一家」や「スポンジボブ」を見てcute! と感じる向きもいればなんじゃこれ? と思う向きもあるでしょう…でもすくなくともこのシュモクザメみたいなフルービーよりスカリンひこにゃんちゃっぴーのほうがまだましかと思ったりもする。しかしこちらは…なんだかムンクの「叫び」みたい(笑)。

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2008年02月02日

最悪のタイミングで風邪orz

1). 花粉症がそろそろはじまるというこのとき、風邪をひいてしまった。orz やわらかいティッシュペーパーを使っているとはいえ、かんでばかりいるから鼻はもうヒリヒリ。扁桃腺は腫れ、痰はからむし痛いし苦しいわで眠れない。さいわい平熱よりほんの少しだけ高いていどの微微熱くらいとはいえ、本人はかなりつらいです。きのうは一日臥せっていたけれど、今日は図書館に本を返しに行かなくてはならなかったので、花粉にたいする完全防備をかためて出かけました。

 図書館で「世界史」関連本の書架を何気なく見ていたら、こんな本が目に飛びこんできた。?? と思って手に取ると、カバー写真はアイルランドのどっかの海岸線。なんとなんとプラトンの書いた「アトランティス」大陸というのは沈んでいない、それはいまのアイルランドだ、と言うからただでさえ熱っぽいのにこちらもヒートアップ(笑)。著者はスウェーデンの地理学者氏らしい。おもしろそうとは思ったが、体調のことを考えて今回は借りなかった。またにしますか。とりあえず音楽関連本のみ借りました(→原本版元の関連サイト)。

 世界史関連ではほかにこんな本も。ブレンダンがまさに生きていた西暦535年になにかとんでもない天変地異があったらしい。手許の南海地震関連記事の切り抜きにも、大分県の池の地層をボーリング調査したら、250-500年代に大津波の痕跡があることが判明している。さっそく図書館でパラパラ拾い読みしたら、世界各地で535年以後数年間、太陽光がほとんど射さない、異常に寒冷な時期があったという。アイルランドつながりでは、このころから血なまぐさい内戦状態に入り、北イ・ニール王族がだんだん覇権を握るようになり、「アイルランド上王」を名乗るようになったんだとか(pp.179-186)。また535年を境に、旧来の古ゴイデリック語が衰退し、古アイルランドゲール語へと取って代わられた…なんて説も初耳! 英語版Wikipediaの記事を見たらたしかに6世紀なかばごろには古アイルランドゲールに切り替わってますね。もっとも古アイルランドゲール以前の古ゴイデリック語の名残は、オガムと呼ばれる線刻文字としていまでも西海岸地方各地に残っています。例を挙げれば、ラテンアルファベットの'i'だったら縦線上に丸点(dot)5つ。'n'なら縦線右側へ横棒5つ。Munsterという地名ももとはこのゴイデリック由来の古アイルランドゲール語Mumhaだったらしい。そうか、それでブレンダンは弟子を連れてどこか新天地を求めて船出したんだな、で、たどり着いたのが北米東海岸のどこかなんだな(もちろんこれは個人的妄想。セヴェリンの実験航海に代表される「北米大陸到達説」は前世紀半ばごろまで一種の流行を見せていた)! いずれにしてもこちらの本もいろいろ突っこみどころ満載のようですね。

2). ほんとはいろいろ書きたいことはあるのだけれど、いかんせん体がついてゆきません。本来もっと早く書くべき予定だった記事もけっきょくなにも書けずじまい。しかたないので、手短かにまとめてメモしてお茶を濁すとします。

 まずはこちら。とにかくぶじでなにより。いまどきのセイラーって、みんなWebをじょうずに使いこなしていますね。ヘイデルダールの孫がおこなったバルサ筏「タンガロア」号航海のときもそうだったし。今年の春にはまた堀江さんがマーメイド号で出航するらしいけれど、長旅のぶじを祈ります。それと、NYTimes記事ではこちら。また人工衛星のfree fallですか。燃料に有毒物質が使われているとか。気になりますね。それともうひとつはこれ。へぇ、いまどきのDJってiPod使ったりするんだ! DJの世界もいまやアナログ機器離れが進んでいる、ということでしょうか。画像左側のPacemakerなる携帯タイプは日本市場にも投入されるそうですよ。また動画投稿サイトのDJ版みたいな共有空間も用意してあるらしい。このへんがいかにも、という感じではあるが、やはり時代の流れを感じるな…。

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2008年01月20日

雪が降りそう

 昨夜見た「世界ふしぎ発見!」。ロッホ・ネスの有名な怪獣を取り上げていたのでつい見入ってしまいました。ネス湖ってほんとうにでかいですね。地形図を見ただけでも地殻変動由来で形成された湖だ、ということは素人目でもわかりますが、じっさいの映像で見るとスコットランド特有の――アイルランドも似たようなものですが――ころころ変わる気まぐれな天候とあいまって、絵心、いや写真心をくすぐられる絶景の地だと感じました。とにかくあんな広大な湖から怪獣探し、というのは、英語の慣用表現にもある「干し草の山から針一本(look for a needle in a haystack)」というやつですね。それでもさすが地元の人となると目撃談がごろごろ。科学的な証拠はないけれども、これだけ状況証拠がそろうとなにかがいても不思議ではないかな、とも思えてくる。

 番組でも紹介されていたとおり、ネッシーと思われる怪獣の最古の記録は7世紀、第9代目アイオナ修道院長アダムナン(またはアドムナーン、Adomnán)によって書かれた『聖コルンバ伝』の記述…なんですが、それよりも地層好き・岩石好きな自分がうなったのは、イングランド南西部、ドーセットシャーの通称「ジュラシック海岸」。なんと三畳紀・ジュラ紀・白亜紀の岩石層が連続して見られる稀有な海蝕崖地形!! はじめて見て、これだけでも得した気分。地層では、アイオナ島のすぐ近くにあるスタッファ島。メンデルスゾーンの序曲でも有名な、「フィンガルの洞窟」がぽっかり口を開けた柱状節理の断崖絶壁海岸も出てきました。おお、内部まで行けるんですね! でもたしかここは干潮のときしか立ち入れないとか聞いたことがあります。

 伊豆半島でもいろいろ珍しい岩石層や鉱物があったりする。旧河津鉱山で採掘された「河津鉱」に「欽一石」とか(けさの地元紙日曜版にも掲載されてました)。「あいくるしい」というドラマのロケ地にもなった旧中伊豆町の下白岩地区には、1,000万年以上前、南方洋上で活動していた海底火山だったころの名残りである「レピドサイクリナ」という有孔虫化石の産地としても知られ、静岡県指定天然記念物にもなっています。なんでレピドサイクリナ化石を含んだ地層が重要かというと、それが地層の年代を示す「示準化石」で、しかも伊豆半島産出の化石はほかの地域で産出した化石と年代が大きく食いちがっているため、伊豆半島の北上・衝突を裏付けるものとして貴重な証拠のひとつであるからです。

 当時、新生代第三紀中新世-鮮新世にかけて、地球は超温暖化状態で、いまの日本列島のあたりもちいさな島が散らばる多島海であったと想像され、気候も熱帯なみに暑かったようです。ここ数年で、極地の海氷・棚氷、ヒマラヤなど高山地帯の氷河とシベリアあたりの永久凍土が急激に溶けはじめているのは周知の事実(だからいまあの赤ちゃんマンモスは東京駅前のビルにいる)。これは昨年ノーベル平和賞を受けたIPCCの発表を待つまでもなくこの100年あまりの人間の経済活動が引き起こした気候変化(climate change)であることはまちがいないようです。近いうちにそのへんの事情についてひじょうに考えさせられる、ビル・マッキベンの本を読んだのでそのことを書こうかと思っています。

 …いまさっきの「気まクラ」で、大介さんが「バッハは一年中聴いてもいい」というようなことをおっしゃってました。それを聞いたとき、頭に浮かんだのは偉大な写真家、アンリ・カルティエ-ブレッソンがあるインタヴューでこたえたことば。記者: 「音楽はなにが好きですか?」。ブレッソン: 「まずバッハだ、そのつぎは…バッハだ! 三番目は…やはりバッハだ!」

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2007年12月23日

カピバラ+火星の接近

1). この季節になるとゆず湯なんかいいですね、冷え切った体の芯まで「ぬくとまって(ぬくとい=暖かい)」。伊豆半島なんてすぐそこにあるけれど、案外地元の人間というのは温泉とは縁がなかったりする。なので、毎年この季節になると地元紙を飾る名物記事がこちらのカピバラの親子の温泉浴(→YouTubeで見つけた関連動画と伊豆シャボテン公園サイトの紹介ページ)。しかもただ温泉に入るだけではない。なんとゆず湯!! ネズミの仲間ではもっとも大きいと言われるカピバラは、じつはたいそうな温泉好きらしい。地元TVニュースなんか見ると、ほんと気持ちよさそうに目を細めて首まで湯に浸かっていたりして、なんともうらやましいかぎり。そういえば来年の干支でもあるので、記事にもあるとおり年賀状の図柄にはぴったりですな。

2). カピバラとはまったく関係ないけれど、いま「ベーオウルフ」がなんと映画になっていますね。Wikipediaを見たら、以前にも映画化されていたらしい。へぇ〜、そんなに人気あるんだ! と思って、以前からちょくちょく訪問していたこちらのすばらしいサイトを見たら、果たせるかなちゃんと映画を見ている! してその出来は…と思いきや、なんだ、原作に忠実じゃないんだ、それは残念。巷には、いにしえの神話伝説に題材を求めたゲームが流行っているようですが、今回の映画作品もどうやらそのたぐいらしい。

 …Wikipediaついでにそろそろ聖ブレンダンの邦訳項目とかは追加されてないかしら、と思っていたらやや、発見してしまった。先月できたばかりのできたてほかほか新鮮な記事。英語記事を邦訳したもので、ちらっと見たらこんな箇所が目にとまった。

 …この旅の中、彼は『聖ブレンダンの島』が植物で覆われるよう計らったという。

上記訳の原文は'... On his trip, Brendan is supposed to have seen a blessed island covered with vegetation.'で、ただたんに「航海中、草木に覆われた楽園島を見たとされる」でしょう。とはいえ原文にも問題があって、そのすぐあとに'He also encountered a sea monster, an adventure he shared with his contemporary St. Columba.'とつづく。下線部分はなにを典拠にして書いたのか不明。自分もいろんな文献資料を見てきたけれど、ブレンダンとコルンバがふたりして冒険云々…なんて話は寡聞にして知らない。ひょっとして「年上の」バーのブレンダンと混同したのだろうか(こちらにしてもコルンバを破門に処した教会会議の席上、コルンバからどこへ旅立てばよいかと助言を求められたにすぎない)。

 …そんなこと言うんならあんたが書いたらどうだと横槍が入りそうですが、たいしたことないとはいえ聖ブレンダン関連サイトを曲がりなりにも立ち上げている者がはたして記事を書いていいものかどうか。長々としたWikipedia編集規約もざっと目を通したことがありますが、「中立の立場で書くこと」という約束事に抵触しそうだし記事を書くにも――百科事典なんだから当たり前だけれど――細々とした制約ごとが多いわで面倒くさいしそもそも自分はその器じゃない。もっと博識な方が書くべきだと考えているので、ここで書いたことも妄評多謝ということでお願いするしだい。

3). …再接近はもう過ぎましたが、夜になると美しくオレンジ色に輝く火星が見えますね。2週間ほど前にはじめて気づきました。楕円軌道を描いて公転する火星は、だいたい2年おきに地球に近づくみたいですが、いま国立天文台サイトをのぞいてみたら、今夜と明日の夜にライヴ中継するみたいだ。

 いまは広帯域通信網の整備が急速に進んだこともあって、ライヴ中継画像のWeb配信が盛ん。こちらのようなポータルサイトまであります。言い方を変えれば自分がいつどこで監視されているかわからないオーウェルばりの監視社会の到来かとも思いますが、火星や月など天体の中継とか街角、景勝地のようすとかだったら、常識の範囲内で運用すれば大丈夫かとは思う(はた迷惑な盗撮はもちろんご法度)。とはいえGoogleの衛星写真画像の鮮明さ…には正直不安をおぼえる。この前某民放の旅番組で、行き当たりばったりにGoogle Earthで検索した見ず知らずの人の家を訪問する…という内容を見たのですが、あんなふうに自分の家が上空からはっきりと特定されてしまうのはやっぱりこわいしイヤだ。残念ながら世の中良心的な人ばかりではないですし。少々考えさせられる番組でした。それに、たしかにこうして家でのんびりくつろぎながら世界中のいろんな場所の映像を楽しめるのはそれはそれで楽しいのですが、自分の足で現地に出向き、自分の目で見る楽しさには勝てない(安全ではあるかもしれませんが)。個人的に行きたいところは、それこそ山のようにわんさかあるんですけれどもね…。

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2007年09月29日

WikiScannerにザヒ博士

 いま「名曲のたのしみ/わたしの試聴室」を聴いてるんですが、アントワーヌ・タムスティという人のヴィオラ独奏によるバッハの「無伴奏パルティータ BWV.1004」。有名なシャコンヌ――怒ったレオンハルト大人(「たいじん」と読みます、念のため)をまたしても思い出す――つきの作品ですが、ヴィオラ独奏盤はたしか今井信子さんも出していたと思う。以前「バロックの森」で聴いたような気が…とにかくヴィオラで弾かれると、カン高いヴァイオリンよりもこの作品のもつ内面性というか、深みがさらに増すように思えて、自分としてはヴィオラによる独奏ヴァージョンのほうが好きです。レオンハルトや曾根麻矢子さんによるチェンバロ独奏版も好きでこっちもよく聴いています。そういえばけさの「バロックの森」では、往年の名手ヴァルヒャにリヒターとドイツ人バッハ弾きによるオルガン曲(「おお人よ汝のおおいなる罪を嘆け BWV.622」と有名な「ニ短調トッカータ BWV.565」)がかかってました。

 マクラが長すぎました…本題です。

1). 先週末に見たNHKの「つながるテレビ」。Webをネタにするような番組はあんまり好きではないけれど、いま話題のWikiScannerが取り上げられていたのでつい見てしまった。これ作った人――現役の大学院生――まで登場しまして、へぇ、この若い人が…とまずは感心しきり(画像にSafariブラウザが写っているから、この人はMac使いらしい)。ログインしている利用者までは調べられないけれども、ログインせずに書きこみしている利用者のIPアドレスは特定できるので、たしかにこれはおもしろいツールですね。いまでは日本語版も用意されていますが、一発で検索できるのは国の機関とか大企業とかでごく限られているので、まだ発展途上と言ったところでしょうか。ためしに――意地が悪いのは承知のうえ――nhk.or.jpでIPレンジを調べて、関連会社のアドレスで検索したら「高見映」とか「源義経」とかいちおうNHK関係の検索語が出てくる…と「山ねずみロッキーチャック」??? 懐かしいなぁ、芋づる式に「フランダースの犬」とか「ハイジ」とか思い出したりして…NHKついでに「タップ」なんてのもまた思い出してしまった。皆さん、お仕事もたいへんでしょうに、Wikipedia記事の追加・加筆にも熱心なようです。

 と、またしても脱線。本筋にもどしまして…「全員参加型百科事典」Wikipediaにはいろいろ問題もあるけれど、壮大な実験であることに変わりはない、と思う。でもあきらかに偏った書き方をした記事、というのはだいたいわかるものではないかな。記事を書く側にそれなりの責任がともなうのは当然だけれども、読み手も安易に鵜呑みにするのではなくて、批判精神が肝要だということでしょう。とはいえ自分もなにか適当な解説記事がないと、ついWikipediaの英語版・日本語版にリンクを張ったりするから、自制すべきかもしれない。ともあれ前にも書いたことですが、記事中にあるWikipediaのリンクはあくまで参考の目安にすぎないということをお断りしておきます(→WikiScanner関連参考記事)。

2). いまひとつは4時間まるまる「ザヒ・ハワス」みたいな番組。いまや知らない人はいないくらいに日本でも顔が売れている感ありのエジプト考古学最高会議長官のザヒ博士ですが、一昨年米国でツタンカーメン王の財宝関連の巡回展を開始したとき、NYTimes取材記事は「エジプト考古庁のショウ・ビズ(ファラオ)」という見出しをつけるほど、かなりの出たがり屋というか、とにかく自分が主役じゃないと気がすまない人らしい。Timesの記事は公平な視点に立って書かれていると思う。それでもツタンカーメンのミイラのCTスキャン調査とか、ピラミッドに隠された未知の部屋やオシリスの墓の発見とか、いろいろと功績もあるので「天才」かどうかはべつにして、エジプト考古学史上に名前を残す学者先生だということは認める。でもTimesの報道でも引用されているThe Sunday Times Magazineの評に「ザヒ・ハワスに逆らってただですむ者はひとりもいない」とあるように、自分を敵に回したり、自分に「報告」するより先にマスコミに「こんなものを発見したよ!」とかしたらもうたいへん。エジプトでの発掘許可は取り上げられ、最悪の場合は追放なんてことも。「ハワス博士はメディア大好き人間」と記事中に引用されているように、Discovery Channelとかで古代エジプトのシリーズものに「主演」しているものだから、行く先々で見知らぬ米国人に声をかけられたらしい。「いまやわたしはスターだよ、それも故国エジプトの映画俳優以上の大スターだ」と言ってはばからない博士のこと、今回の「日本デビュー」はさぞかしご満悦だったでしょう。そうそう、バハレイヤ・オアシスへの移動の車中、えなりさんが日本の俳優だとこたえると、「きみは有名か?」なんてさっそく訊いてましたしね。名前が売れているかどうかも関心事のようで。

 ところがこの番組、どういうわけかゲストに専門家がひとりもいない。吉村先生が無理だったとしてもだれか代わりくらいいなかったのだろうか。さすがに全編4時間も見てられなかったので、ツタンカーメンのところとかちょこちょこ録画したり、ようするに「ながら」で見ていたのですが、番組最後、えなりさんが偶然見つけた…という墓のシーンが気になると言えば気になった。名前からしてミイラ谷(1万体以上も眠っているらしい)だし、「このあたりにミイラがあるはずだ」とも言われてもいたようなので、だれが掘ってもひょっとしたら墓は発見できたのかもしれないが、なんだか演出臭を感じてしまった。だいいち現場にザヒ博士本人が立ち会っていないことじたいどうかと。それでもバハレイヤ・オアシス周辺の砂漠の奇岩の映像ははじめて目にして自分も驚いたから、見たのは正解だったとは思うけれども。

 …それと、いまさっきひさしぶりに博士の公式サイトのぞいたら、先月はじめに来日してたんですね、ちっとも知らなかった。

... They(NHKのこと) are planning a(sic) to film a program live from Egypt on recent archaeological discoveries. MTV is also planning to make a four-hour documentary in Egypt. I found during my visit that the pharaohs are alive and well in Japan today!

…へぇ、NHKでも放映するんだ。さすがはエジプト考古学の宣伝マン、売りこみのうまさにかけてはApple社のジョブズC.E.O.といい勝負ですな。

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2007年09月16日

The Swingle Singers!!

1). BBC Radio3の先週日曜にオンエアされた番組から二題。まずはこちら。アレッド・ジョーンズが案内役をつとめる人気番組The Choir。このときのゲストが、あの往年の名ヴォーカルアンサンブル、The Swingle Singers!! 1963年に結成以来、メンバーは若返っていますがいまだ現役。これだけ息の長いグループというのも珍しいと思いますが、元祖Les Swingle Singersの創設者ウォード・スウィングルが今月80歳の誕生日を迎えることを記念してこの人気番組に呼ばれたんだとか(→ほかのSwingle Singers関連ページ)。

 のっけから彼らのデビューアルバムJazz Sebastien Bachからの一曲を例によってスキャットで料理していますが…恥ずかしながらこんな曲まで当時ダバダバダバ…ってやっていたとは知らなかった。聴こえてきたのはなんと「フーガの技法 BWV.1080」の9番目の曲、「12度転回対位法による基本主題と新主題の4声二重フーガ*」!! もう唖然とするほかない。これが40年以上も前に録音されたのだから、さらにびっくり。アレッドもスウィングル氏に質問していましたが、そもそもは「人間の声を楽器として使う」ということを目的としてこのア・カペラグループを結成したんだとか。多少のアレンジが施されているとはいえ、原曲の小気味いいリズム感、いまふうに言えばgroovyな感じをよく醸しだしている、まさに快演。それにしても…このフーガを「歌ってしまう」というのはほんと恐れ入る。聴いていて、ふと、グールドが街行く人の声を適当に録音してフーガ作品として仕上げた作品を聴いたときのことを思い出した。

 以前ここにもちょこっと書いた「真夏の夜の偉人たち」。最終回はバッハでして、坂本龍一さんたちがバッハをサカナにおしゃべりしてましたが、スウィングル・シンガーズの録音もかけてました…で、当たり前ながら当時はあとからミックス…ではなくてぶっつけ本番、メンバー全員文字どおりひとつに声をあわせてバッハ作品をスキャットで歌ってしまったことに「すごいレヴェルですよね…」と一同、感嘆の声をあげていました。

 いまはア・カペラヴォーカルグループが大はやり、Take6とか有名どころは数あれど、ここまで幅広いレパートリーをすべて人間の声だけで鮮やかに料理してしまうこの技巧の冴えはどうですか。デビューアルバムのバッハだって、いま聴いてもちっとも古臭く感じないですし。番組後半にかかったバッハの「バディヌリ」なんか、作曲者本人が聴いたらさぞ目を丸くするだろうと思うくらい、ひじょうに生き生きとして、まったく新しい作品として生まれ変わっています(向こうではこの手の「ヴォイス・パーカス」のことをbeatboxingと言うらしい)。それでいてオリジナル作品のもつフランス風付点リズムの特徴はしっかり活かしている、というか強調している。また古い声楽曲マドリガルを電子楽器の伴奏に乗せて歌ってもいて、この「古楽と現代音楽とのフュージョン」という手法も、たとえばEnigmaとかスペインのElbosco、英国のLiberaにも通じるところがある気がしますね。そうそう、スタンフォードの「ブルー・バード」も歌ってました! 個人的にはBACのエドの声のほうが好きだけど…。

 先週日曜夕方の放送なので、そろそろタイムリミットにはなりますが、経験的にこちらでは真夜中くらいまでならアクセスできますのでまだの方はこの機会にぜひどうぞ!

2). おなじく先週のChoral Evensong。北アイルランドの「アイルランド国教会」、アーマーのセントパトリック大聖堂から。聖パトリックゆかりの地らしく、オルガンヴォランタリー直前に歌われた閉式前の聖歌唱にはあの「聖パトリックの胸当て」でした。だれの作かはわかりませんが、歌っているのが'Charles Wood Summer School'のユースクワイヤなので、ひょっとしたらウッドの作品なのかな、それともアイルランドなのでスタンフォードなのか…。後半ではオルガン伴奏に金管も加わり、「胸当て」の歌詞のように力強い聖歌だったのがひじょうに印象的でした(→参考リンク「胸当て」の英訳)。

*...「12度の転回対位法」について、くわしくはこちらのすばらしいサイト様に丸投げします…が、かんたんに言うと、まず基本主題が新主題のオクターヴ上の声部に現れ、ついで上下関係を入れ替えて両主題がふたたびからみあって現れる。このとき新主題が基本主題の12度上に提示されるので、12度の転回対位、または二重対位と言います。

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2007年07月07日

買うべきか、それが問題だ

 先日、メールチェックしていたらAmazonジャパンからこんなお知らせが来ていました。

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 あの『ユダの福音書』のcritical edition が先月、ようやく刊行されたみたいですね。例のごとく例の版元から邦訳本が出るとは思うけれども、どうするか…こっちも買うべきだろうか…自分のことだからたぶん買うとは思うけれど。自分が興味あるのは、すでに「先行」刊行された『ユダ福音書』ではなくて、「チャコス写本」に収められたほかの文書、『ピリポへ送ったペトロの手紙』と『アロゲネスの書』、『ヤコブ(黙示録)』のほう。『ピリポ…』と『ヤコブ』のほうは『ナグ・ハマディ文書』にも収録されているので、こっちのほうはどんなふうなのか。もっとも『ユダ福音書』のほうもその後の研究成果とかあらたな知見が反映されて、こまかな部分が変わっていたりするとは思うけれど…。5.000円が高いのか安いのか…は買ってからのお楽しみ。

 こちらのIHT の記事(もとはNYTimes 掲載記事。しかしまあずいぶんでっかく'Harrry Potter' とありますねぇ…)。ああそうか、Harry Potter シリーズが完結するのか。この長編物語の結末についてはいろいろとかまびすしくて、熱心な読者からは「楽しみを奪うな!」と顰蹙を買うほどの加熱ぶり。写真にも写っている16歳の熱心な「ポッタリアン」は、

'I think it was a ploy by someone inside to get more hype about the book and get more money off of it,'

ですと。たしかにそんな気もしますね。

 米国での版元Scholastic社と言うと、個人的には教育関連ものの版元、というイメージが強いのですが、児童書もけっこう出していますね。そういえば昔、神保町の三省堂書店で開かれた洋書バーゲンセールかなんかで一冊、絵本を買ったような気が…自室のどっかに転がっているとは思うけれど。また高校生だった時分、学校に教育関連書籍の売りこみに来た人がいまして、その人からスコラスティック社から出ていたペーパーバック版の子どもむけ国語辞書、つまりは英英辞書を買ったことがあり、いまでもときたま引いたりします…。

 記事中、それとはまるで関係のない枝葉末節にも目がとまりました。さるファンサイトの主宰者について書かれたくだりで

'We're absolutely convinced that Harry Potter is not going to die,' said Mr. Spartz, who founded the site when he was 12. (He's now 20 and will be a junior at the University of Notre Dame in the fall.)

おおッ、カール・セルマー校訂版『航海』のもともとの版元を抱える名門大学ではないか(それにしても12歳のときにサイトを立ち上げたって…かなり年季がはいってますね!)。そしてリンク集にもブックマークしているように、ここのオンラインラテン語辞書にはいつもお世話になってます…(→大学公式サイト)。

 …今夜は――あいにくの曇天だが――「七夕」(追記。真夜中すぎに念のため庭に出てみたらまるでカラフのようにきれいな三日月が浮かんでましたが、空全体に薄雲がかかっていたせいか、星はあんまり見えませんでした)。そして来たる11日は、「ベネディクトゥスの会則」で有名なヌルシアの聖ベネディクトゥスの祝日。今年もここまであっという間だったような、そうでもないような…。

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2007年07月01日

西暦578年からつづく老舗企業?!

 土曜の早朝になんとなく見たNHK総合「視点・論点」。「老舗(しにせ)の力」と題して、拓殖大学教授の野村進氏が出てました。昨今の企業不祥事も引き合いに出しつつ、じつは日本は世界有数の老舗企業大国でもある、というお話。で、この話を聞いてもっとも驚いたのは、なんと創業が西暦578年という会社が奈良にある、ということ。578年! ブレンダンの生きていた時代から1.400年あまりもつづいてきたことになります(宮大工の会社らしい)。ほぇーっ、そんな会社あるんだ…と感心しきり。

 話のポイントは野村氏の著作『千年、働いてきました―老舗企業大国ニッポン』の内容と一致しているみたいですが、時代の波をくぐりぬけて存続してきた老舗企業の多さというより、それらに共通するのが「代々受け継いできた古代の人の技術・知恵」をたいへんうまく時代の最先端 (state of the art)を代表するような製品づくりに活かしている点にある、ということ。たとえば日本最古といわれる鳥取の旧岩美銅山。ここで長年にわたって培われた精錬技術が、こんどは大量に廃棄処分される携帯電話などの端末から金銀銅といった貴金属を取り出す作業に生かされている。廃棄された携帯電話をゴミの山ならぬ文字どおりの宝の山に変えた、と。そういえば、ぶじ解体工事の終わった高松塚古墳の石室。先日「クローズアップ現代」を見て、やはり古代に人の高い技術力を知って驚きました。石室の壁を床からはずそうとしたら、床石と石壁との接合部には紙切れ一枚も入る隙間さえなく、まさにぴったり組み合わさっていたというのです。これは当然、解体するほうとしてはやっかいな問題。現場監督の石工の方(かつてイースター島で、倒壊していたモアイを復元した人でもある)がさんざ知恵を絞ったあげく、思いついたのは、「やっとこ」みたいな特殊な金具で側面を挟んでほんのすこしもち上げ、あいた隙間に金物屋で仕入れてきた金属製の「ころ」を何本も入れること。「ころ」も古代人の発明した技術。昔の人の知恵・技術の高さはやはりすごい、と感じたしだいです。自分の好きな楽器オルガンだって、いまでこそ送風装置(blower)とかストップアクションなんかは電気式、レジストレーションの組み合わせを記憶するコンビネーション記憶装置もコンピュータ制御が当たり前ですが、いまだに手鍵盤は「てこ」の原理で連結されたトラッカーアクションという昔ながらの方式を採用しているのがふつうです(バロック時代のオルガンを忠実に模倣した楽器の場合、ストップアクションも昔ながらのトラッカー式を採用している場合もあります)。19世紀、ロマンティックな楽器が増えたころ、バーカーレバーに代表される「空気式」や「電磁石式」のアクションが実用化されたりしたけれど、これらのアクションで連結された鍵盤では鍵を押し下げてから空気弁が開き、パイプから音が出るまでどうしてもタイムラグが発生します。ようするに反応が鈍い。けっきょくオルガニストにとって、指の動きに瞬時に反応する理想的なアクションは昔ながらのトラッカー式しかない、ということで、現代の技術も導入しつつ、いまではコンサート用大オルガンも、鍵盤だけはトラッカー式アクションが主流になっています(舞台上に移動式のコンソールをもつ一部のコンサートオルガンの場合、移動式のほうは当然電線でつながれた電気式を採用しています)。

 野村氏の本、未読ですが、「筆ペン」で有名な「呉竹」なんかも出てくるし、おもしろそうですね。

 こうした日本の「元気な」老舗企業、とくると思い出すのが身近にある老舗、東海部品工業。伊豆半島の真ん中、伊豆市(旧天城湯ヶ島町)にネジ製造工場がありますが、じつはHDDに使われている精密ネジ、ほとんどがここで生産されているのです。世界中のノートPCの内蔵HDDには、みんなここのネジが使われていると言っていいくらい。番組では、携帯電話の送受信部に使われているのがじつは日本の老舗企業の技術だ、とも言ってました。ということは、あのiPhoneだってその会社から供給された技術がないと通話もできない、ということか。

 番組を見終わって、最近、企業の不祥事ばかりが目につくけれども、こうしてまっとうにがんばっている会社だってたくさんあるわけですし、TVもこうした元気な会社をもっともっと取り上げてほしい、とも感じた。

 …日本人の快挙、とくると、やっぱりチャイコフスキー国際コンクール。ヴァイオリン製作部門で邦人が優勝をさらった、との一報に接したときもおおッ、と思いましたが、こんどはなんとヴァイオリンの演奏部門でも優勝者が! この前のミス・ユニヴァース世界大会でも静岡県出身の方がみごと女王に選ばれたばかりだし、世界を舞台に活躍する日本人がどんどん出てくるのはほんと喜ばしいし、励みになる。

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2007年06月25日

VoA: Signing-off

(DISCLAIMER: the following entry is a personal note addressed mainly for the current VoA members, so if you find this boring, please go and visit another, more interesting blogs or Web sites!)

As some of you already knew, I withdrew from the mailing list, after a chain of seemingly barren, so absurd controversy on obvious child abuse cases.

The problematic thread was quickly deleted from the archives by the moderator, however, the banned list member from NYC started, in turn, an unashamed attempt to restore his membership, sending an unsolicited E-mails to the several list members, including me. Soon responses full of disgust and opposition began to be pouring onto my in-box; at first I ignored all of them, for I don't want to be involved in the controversy, totally off-topic. But after all, I found myself engulfed in the battle.

All I want to emphasise is, such abusers must be kicked out of the musical world of boychoirs at any cost. No matter how the banned member is trying to suit the matter for his own scenario, quoting the figures or documents(?)which explain as if the felony were treated as mere small foibles of human beings, all of his quotation is merely a cover-up for the odious crime against innocent boys of tender age.

Through the engagement of the conflict, I also came across a far appalling. horrible fact: at least two of the choirmasters among the ex-list members from the U.S. were actually such abusers and right now serving time! What is worse, another list member confessed that he had been fondled by such an abuser-master, and another, the worst fact (to me)was also revealed. In a word, the VoA list group has had such child molesters, and right now, potential offenders still lurking at large; this might be regarded as the Webmaster's arrogance or overlook, too, and which is a rather threatening fact as well. He once mentioned under the thread of the Manchester incident in 2002, that he wondered whether such matter might happen in girls choir under female leaders! This quite non-political correct and too carefree remark vividly reminds me of the selfish sender's claim that a bunch of feminists are trying to destroy the age-old tradition of boychoirs in the Continent and the U.K. How ridiculous assertion! Now we are aware of WHO is trying to demolish the rich tradition of boychoirs in the Continent and the U.K. in particular.

Another incredulous fact is a British list member who also joined the battle somehow supported the American poster who explicates his too one-sided argument. I rebut him rather emotionally as now I look back over my own responses; still, it has turned out that he is another breed of such a 'supporter' or a hypocrite. He seemed to be puffed up with his own rightfulness, arguing plausibly that there is no perfect person with no fault; he even quoted an irrelevant, curious parable of a Kurdish girl who was killed by the local folks, outraged at her own choice of her soon-to-be-husband. To my astonishment, he dared to say that the boy abuser should be handled as the Kurdish girl, who are 'demonised' by a society that he/she belongs to! Soon after receiving such outrageous reply, I joined to counterattack him too, arguing the Kurdish girl's tragedy was quite another matter, you should not mix up with the cases of such child abusers. Anyway, both the British guy and the original attacker never seem to acknowledge their own faults, followed by the abominable facts hidden behind the list, all of the string of those depressing events made me mad, and they all are exhausting as well; a battle fatigue began to sap my own sanity. So I decided to leave.

The unsolicited sender and the British NEVER seem to be aware of any anguish that the boys and their parents have been suffering. This common, callous attitudes held by both of them could be hardly comprehensible to me. They are merely trying to manipulate the simple fact that some of the boys damaged by their abuser-masters, asserting their far-fetched, one-sided and too selfish and arbitrary points of view, so be careful, watch out. They are 'wolves in sheep's clothing'.

Again I remind all of you, that such sexual abusers against boys must be left marooned in the furthest, remotest island of their own, away from the musical world of the boychoirs and its true music lovers; they should be kept off from the rich musical tradition and its organisations that we love.

Since then, I even find disgusting the word 'boychoir', so I'll be away from the particular topic for the time being.

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2007年05月06日

大家の調子が悪い

 BBC Radio3のChoral Evensong を聴きながら書いています。この前の日曜はグロスター大聖堂の中継。「夕べの祈り」でバーンスタインの「チチェスター詩編」なんか演奏するのですね。さすが、という感じ。かつてアレッドが歌っていた独唱部分は、カウンターテナーが歌ってました。夕方まで聴いていたNHK-FMでは、マーラーの「一千人の交響曲」をやってまして、フィンランドのカントレス・ミノレス(ヘルシンキ大聖堂少年聖歌隊)も出演してました。ここは実演には接したことはないですが(TV中継だけ)、声質はいかにも子どもらしいすなおな響きで、日本のTOKYO-FMに近い印象を受けました(このあとのNHK教育の「名曲アルバム選」ではバッハづくしなので見なければ。そしてマーラーのほう、聴きながら足踏み(!)オルガンで音出していたので、終結部コーダが聴こえてきたとき、ついでにハモるように音を出したら、たしかに変ホ長調の主音上の長和音で終わってました)。

 せっかくの連休で、いままで書こうと思っていてなかなかできなかった記事をpostしてきたのですが、どうも人がやる気になるときにかぎって大家の「さくらのブログ」の調子が悪い。大家のお知らせを見ても、つい先日、サーバ設定の不具合が原因、とあり緊急メンテナンスをおこなった旨書いてありました。で、いっときよくなったかなと思いきや、きのうもきのうで、わりと気合入れて書いた記事を投稿しても反映されない、というか「真っ白」。??? と思ったけれども、MTにはしっかりアーカイヴされていたので最悪の場合にそなえて念のため自分のマシンにバックアップしておきました。ようやく正常表示されたのが今日の夕方になってから。

 いままでも調子悪いときはあったけれども、ここまで長引くとさすがに腹も立つ。どうせたいしたこと書いてないとはいえ、もうすこしなんとかなりません? 拡張子がphpなので、DBソフトはMS社謹製のSQL Server かなんかを使っているんだと思うけれど(フリーのMySQL のほうかもしれないが)…それとも投稿が反映されず、長時間にわたってRSSフィードの読み込みにも失敗しているから、CGIになんらかの不具合があったのか? ほかの「さくらのブログ」ユーザーの方も、同様に嘆いておりました。

 ここで本題からはまたしてもはずれますが…いや脱線につぐ脱線はいつものこと。このblogではいっとき海外からのTBスパムがひどかったため、TBのみ承認制もしくは過去記事については受けつけない設定にしてあります。コメント欄についてはとくに制限するつもりはありませんが、たまにトンデモないコメントがきたりします。まことに勝手ながら、こちらが不快に思うコメント、ないしあきらかにいかがわしいサイトもしくはほかの訪問者の方が不利益をこうむる詐欺サイトなどへの誘導を目的としたもの、根拠もないのに特定の個人をけなすようなコメントについては遠慮なく消去しますので以上disclaimer とさせていただきます。

 …いつごろ生まれた「新語」かは知らないが、flog(=fake blog)という言い方があります…いわゆる「サクラ」のblog。あきらかに事実無根のでっちあげを書くとか、あるいはどっかの企業の宣伝目的で記事を書いて、報酬をもらっているようなある意味スパムそのものなblogのことです。そして、残念ながらMySpace もそんないかがわしい空間のようだ(→こちらの記事)。

 もっともこちらのように、きちんと企業名を掲げて書いているblogにはなんら問題はない。まずいのは、企業名を伏せて匿名で、第三者を装って誇大宣伝、ちょうちん記事を書くようなblogなのです(→参考記事)。

 …いまさっき「名曲アルバム」見ました…それで思ったのは、欧州の人って、寒かろうが暑かろうが、歩きジェラートが大好きだなということです。ドイツつながりでは、こんなのも。たしかトラバントって、エンジンフードとかボディの一部が厚紙(段ボール?)でできているとか聞いたことあるけれど…。

posted by Curragh at 23:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々の雑感など

2007年05月04日

コルボ指揮「レクイエム」を聴きながら

 いま、「今日は一日クラシック三昧/フランスのハーモニー編」を聴いています。というか、「映画音楽三昧(DJのひとりが「入水自殺」を「にゅうすい」と読んでましたが、「じゅすい」のほうがふつうでは?? …)」、「合唱コンクール三昧」からずっとかけっぱなし…とくに後者では、あの暁星小学校聖歌隊の歌う「ほほう!」が印象的。団員すべてが少年の声、というのはあきらかにちがいがわかる(そうでない場合ももちろんあるけど)。けさの「バロックの森」、D.マンロウ指揮ロンドン古楽コンソートの録音からいくつか流してました。

 そしていま、巨匠ミシェル・コルボ指揮、フォーレの「レクイエム」を聴きながら書いています…こちらは「1893年版」と言われる版を使ったもので、管弦楽は小編成のみ。よく演奏されるのは1901年出版のフルオーケストラ版なので、こちらのほうが作曲者の意図に近いとされています。管弦楽が小編成ゆえ、コーラスの美しさが強調されていて、自分もこちらのほうが好きです('Pie Jesu' とかはやっぱりボーイソプラノで聴いてみたかったが)。

1). 銀座・松屋ではさきごろ「再発見」された、『星の王子さま』の原画をふくむ展覧会をやっているみたいで…この前、『受胎告知』を拝みに行ったついでに銀座に立ち寄ったときにはまだ開催されてなくて、けっきょく見に行けずじまい。各地を巡回するようですが、あいにく静岡には来ないようです。orz

2). 最近、ちょっとひっかかったこと二題。まず『受胎告知』を見に行った日の夜。NHK総合では懐かしきカーペンターズの番組をやってました。カレンさんの歌声はひさしぶりに聴くなぁ〜と思いつつ、ライヴの貴重な映像なども楽しむことができて個人的には大満足。そのとき目にとまったのが名曲Yesterday Once More を歌っている場面。ぼんやり字幕を見ていたら、急にあることを思い出しました。

 '...Those were such happy times
And not so long ago
How I wondered where they'd gone

But they're back again
Just like a long lost friend
All the songs I loved so well...'

下線部分、手許の国内盤(ポリドール)の訳ではこうなってます。

「…そんな幸せなひとときは
 それほど昔のことじゃないのに
 あの歌はどこへ? とどんなに心配したことか」

10年以上前だったか、西森マリーさんがここの部分はそういう意味ではない旨、語学関係の雑誌に書いてあったのを見たことがあります。で、西森さんのほうが正しい。'And not so long ago...'のかかり方がちがう。正しくはそのつぎの部分にかかってます(だから過去-大過去になっている)。その肝心な部分、NHKの字幕ではどうなっていたか、半分眠りながら見ていたためにまるで憶えてません…。orz

3). 図書館から借りてきた『イギリスの修道院』という本(→本家サイトの「参考文献」ページにアップしました)。姉妹版の『イギリスの大聖堂』とあわせてたいへんおもしろく、勉強になる本ですが、「復活祭論争」の舞台になったウィットビー大修道院の章で、「…修道院長ヒルダの名声が高まるにつれ、イングランド北部から南下してきたケルト系のキリスト教会の勢力と、南から進出してきたローマ教会系の勢力がその支配圏をめぐって争い、キリスト教会分断の危険性さえ生じた(p.97)」という箇所が気になるといえば気になった。なんか、ケルト教会がスコットランドから南下してきた…みたいな印象を強く受けます。たしかにコルンバのアイオナやエイダンのリンディスファーンはケルト教会にとってブリテン諸島における布教拠点ではあったけれども…たとえばウェールズのクランカルヴァンにはブレンダンゆかりの聖カドク設立の修道院共同体があるし、聖マロ(仏ブルターニュ半島サンマロはこの聖人から)もここでブレンダンに教育されたという伝承があります。またコルンバの先生であるフィニアンもやはりウェールズで、ダヴィッドやギルダスといった人の修道院にいましたし。こうしたイングランドのケルト教会にはすでに伝統があり、314年開催のアルル宗教会議にも3人の司教を派遣していました(うちひとりはヨーク司教)。アングロ-サクソンやジュート族などの侵入で西へ西へと追いやられたブリトン人(アイルランドとおなじケルト系)のキリスト教会とカンタベリーを拠点とするローマカトリック教会は、はじめはたがいに協力しあってアングロ-サクソンの布教活動にあたっていたものの、大陸ではコルンバヌスとガリア教会の衝突があり、また復活祭の日付けを統一する必要性が高まるなどしてしだいに軋轢が高まった。復活祭の日付け問題を中心に論争が繰り広げられたあげく、けっきょくケルト教会がローマ側に「譲歩」したのがウィットビーでの宗教会議でした。アイオナ側が最終的に譲歩するのはもっとあとのことで、論争終結までに100年もかかりました。最後まで頑強に抵抗していたのがアイオナ共同体だったから、たしかに「北のケルト系教会 vs. 南のローマ教会」と言えなくはないけれど…以上、一読者の感想でした。ついでにウィットビー修道院長聖ヒルダは女性です(ノーサンブリア王族出身で、エイダンに乞われてハートルプールに修道院を設立。のちウィットビーにも修道院共同体を創設した。祝日11月17日)。

4). 『芸術新潮』4月号。「イギリス古寺巡礼」という特集記事が気に入ったので買いました。こういう特集でも組んでくれないと見られないような珍しい教会とかも図版でふんだんに紹介されていて、眺めているだけでもすこぶる楽しい。聖カスバートで有名なダラム大聖堂(と少年聖歌隊の写真)も載っています(p.16のあまりに「現代風な」ロマネスク時代の犬とウサギの彫刻には笑ってしまいました)。ページを繰っているうちに、イングランドの歴史について概説したページ(p.34)の記述が目にとまった。「…いまから5, 6000年前、あのストーンヘンジを築いたのも彼ら(=ケルト人)です」。ええっとケルト人が現在のソールズベリ平原にやって来たとき、すでにストーンヘンジはありました(笑)。イングランドの巨石建造物はケルトの産物ではなくて、もっと古い新石器時代から青銅器時代にかけてで、イベリア人のものだと言われています。『リーダーズ』巻末の英米史年表でもそう書いてありますが。それともうひとつ気になったのが、「…当時の西欧はゲルマン民族の移住により、キリスト教を忘れた異教の地となったのですが、イギリスも例外ではありませんでした」。たしかにそれまでのケルト系教会は南西部へ後退はしたものの、当時のイングランドはペラギウス派などの異端も横行していた。そこで教皇ケレスティヌス1世はなんとかしてこの異端をつぶしてローマカトリック化しようとした。そのとき派遣されたのがかの聖パトリックではないか、と言われています。ついでにローマを占領した西ゴート族アラリック王は、異端アレイオス(アリウス)派のキリスト教徒で、すでにアレイオス派のゲルマン人は多かった。なので当時の西欧世界は異教の地…というより異端の地だったと言ったほうがいいかも…西ローマに侵入したゲルマン系異民族で非キリスト教徒(異端アレイオス派もふくむ)だったのは、のちのフランク王国を築くフランク族のみだったらしい(→こちらの西洋キリスト教史サイトの解説も参照。簡潔にまとまってます)。西ローマ帝国は皮肉なことに、異端とはいえクリスチャンの異民族に滅ぼされたかっこうになります。もっとも8世紀、聖ボニファティウスが伝道するまで、フリジア以東の欧州北部はあいからわず異教徒の世界でしたが。

 …コルボ氏の「レクイエム」は終始ゆったりとしたテンポで進行していました…'Pie Jesu' も一言一句、聴く者の耳に刻みこむような感じで歌われていました。音楽評論家の吉村渓氏の話ではじめて知ったのですが、フォーレは、「聴く者の心を動かすのに大きな音は必要ではない」と言ったとか。おお、けだし至言ではないか! 本日のコルボ氏の演奏はまさにそのことばどおりでした。手許に30年以上も前のコルボ氏による「名盤(アラン・クレマンというボーイソプラノを起用した盤)」があるので、のちほど本日の公演と比較するために聴いてみようかと思ってます。

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2007年02月03日

Candlemasと節分

 今日は節分…ついこの前元旦だと思ったらもう2月か…。きのう2日はローマカトリックでは「主の奉献」日、かつては「聖母マリア御潔めの祝日」と呼ばれていた日で、英語での別名は「ろうそくのミサ(聖燭祭) Candlemas」。じつはこれケルトと関係があったりします…2月1日は「ゲールの聖母マリア」とも称されるアイルランド第二の守護聖人、聖女ブリジッド(ブリギッドまたはブリード Brigid, c.456-c.516)の祝日。ケルト古代神話に出てくる知恵・牧畜・炎の女神ブリードまたはブリガンティアと同一視されたりする、なかば伝説上の女子修道院長です。アイルランド教会の「聖女」については8世紀ごろに編纂された『ケーリ・デ、オエングスの教会暦』によると総勢120人はいるらしいのですが、伝記として現存しているのはブリジッドもふくめて4人のみ。『聖ブリジッド伝』としては6つが現存していて、最古のものは7世紀に書かれたとも言われています。研究書でよく引用されるのは2番目の伝記で、コジトスス作とされるもの。コジトスス版では、ブリジッドは聖パトリックの友人でもあったらしい…とはいえこれは年代的にどう考えても無理があるけれども…。クロンファートのブレンダンを教育した乳母イタ(祝日1月15日)もこの4人にふくまれています。2月2日はもともとインボルグという春の到来を祝うお祭りの日で、光と火の女神ブリジッド(ブリード)に捧げられた祭りだったらしい。具体的にどんな経緯でカトリックの祝日として取り入れられたかは知りませんが、言ってみればサヴァン祭のようなものかな。こちらはハロウィーンとしていまも残ってますし。よくキリスト教は異教徒に不寛容…と言われるけれども、原始キリスト教の時代は当然のことながら欧州は異教徒だらけ、ラテン文明圏の教父にとってまさに暗黒世界というか、野蛮人か人食い民族の世界にひとしいものだったので、それなら異教徒のシンボルや祝日を抱きこんだほうが得策だし改宗もさせやすいと考えたのはむしろ当然ななりゆき。じき40日のLentに入り、今年は4月8日に復活祭となりますね。あのEaster Eggも本来はキリスト教とは無関係のものですが、「生命再生のシンボル」として、いわば万国共通の卵を組み合わせたところがミソなのでしょう。あ、そういえば今月14日のSt Valentine's Dayなんかもそうか。ヴァレンティヌスという名の殉教者はふたりいて、ひとりはローマの司祭、もうひとりはテルニの司教だった人。そして「小鳥たちが愛を交わす日」という民間伝承ではそれが2月14日ということになっているらしい。その連想、というかうまいこと利用して、「恋人の守護聖人」の祝日になったようです。ちなみに英国における「恋人たちの祭」としてのヴァレンタイン・デイは、『カンタベリ物語』で有名なチョーサーの時代にはすでに存在していたらしい。

 聖ブリジッド…というと、10年ほど前に見た「フィオナの海」というアイルランド映画の一シーンを思い出します。孫娘フィオナを引き取って育てている老夫婦の家で、おばあさんがかまどの火を消す場面。聖ブリジッドへの祈りを唱えながら火を消すのですが、これもおそらく異教時代の火祭の名残りかもしれません。聖ブリジッドの設立した女子修道院キルデア(Kildare、もとはCell Dara, 「樫の樹の教会」の意)では、ブリジッドが召されたあと、修道女たちが「ブリジッドの火」を絶やさず燃やしつづけていたというから、「火をつかさどる女神」の祭のかがり火→聖女ブリジッドに捧げる祭→教会暦採用…なんかなと妄想しております。ちなみにギラルドゥス・カンブレンシスも有名な『アイルランド地誌』で、この「キルデアのかがり火」について書き残しています(邦訳は青土社刊、「第34-36章」参照)。とはいえこのおばあさん、じいさんのことは「この迷信深い老人が('Superstitious old man!')」なんて毒づきながらかまどの灰を棒でかき混ぜて火を消しているんですが、そういう自分もブリジッドのことを引きあいに出しているくせに…なんて思ってしまった。

 西の最果ての島国では「光の春」を祝う火祭、かたや東の最果ての島国では「節分」。…いずれの場合も冬から春への季節の変わり目を重視していたわけで、よく言われることだけれどもアイルランド(ケルト)と日本の古来からの風習にはこうした類似点がすくなくないですね。だからこそ親近感を感じるのかもしれませんが。

 「ろうそくのミサ」にもどると、ローマカトリックの公式解釈ではもちろんブリジッドうんぬんは関係なくて、「ルカ福音書」の有名な「シメオン賛歌 Nunc Dimittis(2:22-35)」から。「あなたは異邦人を照らす光」ということばを記念してろうそくをともす、ということが起源になっています(→参考ページ)。

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