2017年10月02日

'0 ⇒ 1' 、「0を1に」変える物語

 今年になって、急に駅前がにぎやかになりだしたような気がした。かわいらしい女の子が描かれたラッピングバスにタクシーが走る。そんなバスやタクシーを狙って高級デジタル一眼を構える人たち。たまたまそんなラッピングバスに何度か乗ったりもしたが、悟りの遅いワタシはと言えば当初は「いったいなんなのこれ ?? 」としか思えなかった。

 そんな折も折、NHK Eテレでそのアニメ作品が全編放映、とあいなって、それならばと見てみることにした。するとこの作品にはいわゆる「教養小説( Bildungsroman )」の伝統があらたな衣装をまとって「駿河湾の片隅の町」に「降臨」した完成度の高い物語だということがわかった。

 アニメ作品、とくると、なにか小説や戯曲、実写映画などとくらべて格下のもの、という偏見を持ちがちにはなるけれど、「よいものはよいもの」が信条の人間としてはいやいやどうして! この『ラブライブ! サンシャイン !! 』という物語は細部まで計算された、感動的でさえある「少女たちの成長物語」として認めざるを得なくなった。スクールアイドルユニット Aqours の9人にはそれぞれカラーとシンボルがあるようで、このへんはなんかヴァーグナー作品とかの「示導動機( Leitmotiv )」も想起させる( Aqours というのはなんともけったいなスペリングですが、どうも aqua + our[ s ]ということらしい。ジョイスばりの「カバン語」ですな )。

 とはいえ「ラブライブなのか街おこしなのか、よくワカラン」という混沌状態なのが偽らざる現状でして、もちろんファンの方の「聖地巡礼」は大歓迎。けれども問題は、アニメ作品ならば放映期間が終わったあともこれが一過性のブームではなく定着してくれるかどうかにかかっている。以前、市役所が「高尾山古墳」保存と都市計画道路との両立について意見を募っていたから、僭越ながら一市民として意見を書き送った。書いたことはこっちの話でも通じることで、ようするに「回遊性をよくして」ということだ。このあたりはけっこう古墳が多くて、たとえば戸田[ へだ ]地区( 旧戸田村 )の井田というところに7世紀ごろの豪族の墓と言われる「松江山[ すんごうやま ]古墳群」という遺跡がある。高尾山古墳と松江山古墳群の中間地点には深海水族館と食堂街があり、いまは廃止されてしまった( これは前市長が悪い )戸田までの定期船航路を復活させて連絡し、回遊性をもたせたらどうか、ということ。駅の高架化計画が長年の懸案になっているが、もし高架化が実現したら北口にはコンヴェンションセンターがあるので、南口側には高尾山古墳のビジターセンターもくっつけた複合文化施設 ―― 図書館機能の一部をここに持ってくればなおよい ―― にしてほしい、と思っている。

 物語の主人公の高海千歌( ちかっち )がこんなことを言う場面があります。「しかもこんななにもない場所の、地味アンド地味、アンド地味! ってスクールアイドルだし」。「そして町には … えっと町には …… とくになにもないです![「それ言っちゃダメ … 」と同級生に切り返される ]」。この科白、なんかいきなり深層意識を突かれた感じがしたのはワタシだけじゃないはず。たんにアニメ作品の「聖地」としてではなく、高尾山古墳や伊豆半島ジオパークつながりでも連携して点と点を結びつけ、定期船航路も復活させてうまいぐあいに回遊性を持たせることが急務じゃないかって門外漢なりに考えております、ハイ。

 「物語の効用」、ということでは、つい先日も地元紙にこんなすばらしい話が掲載されてました。記事読んで本質を鋭く突いていると感じたのは、実家の廃工場を劇場へとみごとに再生させた東京学芸大の学生さんの指摘です。「産業の発展は重要だが、それだけでは息苦しい」。しかり !! Couldn't agree more !! 正鵠を射る、とはまさにこのこと。たかだかペイントしただけのふつーのバスやタクシーに乗車してまで「巡礼」するのはどうしてなのか。これこそほんとうに人を惹きつける「物語」の持つすばらしい効用ではないか、と思う。ふた昔前だったら「付加価値云々」なんて言われていたかもしれないが、物語はモノじゃない。人間の精神に直接訴える力を持っているから、しぜんと人がやってくるのだと思う( とはいえアニメ作品ではほぼ完全に女子 / 女性しか登場しないから、あれは一種のパラレルワールドの話なのかって気もしないでもない )。

 『サンシャイン !! 』については、すでに熱心な方がたいへんまじめに考察しているサイトとかが複数存在しているから、ワタシなんかが口をはさむ余地なぞなにもないんですけれども、比較神話学者キャンベルの著作や映画 Star Wars シリーズとかとも相通じる思想が透けて見えるのはおもしろいところ。たとえばちかっちが「いちばん大切なのはできるかどうかじゃない。やりたいかどうかだよ!」言う場面では即座に「エピソード5」の 'Try not. Do. Or do not. there is no try. ' と修行中のルークを諭したヨーダ師匠の科白が脳内反射していた( ちかっちのほうが個人の自由意志を尊重しているのに対し、こちらはどちらかと言えば運命論的ではあるが )。あ、そういえば寺の娘の国木田花丸という子は、いちおう設定では「浦の星女学院」の聖歌隊員( !!! )だそうだ。どんな歌声なのかしらって Aqours のみんなといっしょに歌ってるずら( 文学少女で図書委員、という設定も個人的にはたいへん気に入っている。脱線失礼。ついでに花丸ちゃんが学校の図書室で手にしていたのは太宰治の短編集『お伽草紙』だったが、ちかっちの実家モデルになったのはもちろんその太宰が滞在していた老舗旅館で、『斜陽』の1、2章はここで書かれた )。

 最終話にも思いがけず、 13 世紀はじめごろにフランスのシトー会修道院で書かれたと考えられている『聖杯の探求』に出てくる「森のもっとも深いところ、道も小径もないところへとめいめいは出発した[ つまり、「めいめい、すでにだれかが通った道ではない、おのれの道を進んだ」]」と通底するような印象的な科白がまたまたちかっちの口から出てくる ―― 「 μ's のすごいところって、きっとなにもないところを、なにもない場所を、思いっきり走ったことだと思う。…… 自由に走るってことなんじゃないかな … 全身全霊! なんにもとらわれずに! 自分たちの気持ちに従って!」。このへんなんかキャンベルのモットー、「自分の至福に従え( Follow your bliss. )」そのまんまって感じさえする。

 アニメ作品も今月から第2シーズンが始まるので、こちらもますますにぎやかになりそう。いずれにせよ若い人たちがたくさんやってくるのはいいことだ、とくに作品の主要舞台である内浦や西浦木負(「にしうらきしょう」と読む )地区あたりとか。でもオトナの事情( ?! )なのか、せっかくほぼ忠実に現実の街並みとか描かれているのに、第6話で駅南口の「井上靖 詩碑」がそっくり別物に変えられていたのにはいささかがっかり。あのへんもサンシャインファンの方が「のっぽパン」とか食べながらくつろいでいたりするけど、碑に刻まれた「いまこそリアル」な文字もよーく見てちょうだいね。いちおう転記すると、
若し原子力より大きい力を持つものがあるとすれば、それは愛だ。愛の力以外にはない[ If there is something more powerful than atmic power, it is love ; nothing other than the power of love. ]。

 先に挙げた太宰はじめ、井上靖に芹沢光治良、そして若山牧水と文人墨客に縁の深い土地でもあり、井上靖つながりでは映画化された『わが母の記』の撮影地でもある( 牛臥山公園とか )。Aqours と書かれた文字をたまたま見つけてそれをユニット名にしたという設定の島郷海岸はすぐその先に広がってます、ということでこのへんもご参考までに。

追記:最終話で花丸ちゃんが「黄昏の理解者ずら」とつぶやく科白。これは英語の of とおんなじで、「理解者」は発言者本人ともとれるし、相手、この場合は津島善子( 否、堕天使ヨハネか? )ともとれるけど、ワタシは前者ととりたい。「ありがとね」と予期していなかったことを言われ、ふだんは「ラグナロク( 苦笑 )」だの「リトルデーモン( 苦笑x2 )」だの、「あるナハト( nacht, なぜドイツ語 ?? )」だのとワケわからん「堕天使ワード」連発のある意味問題児の同級生は、じつはわかってくれていたんだ、と感謝してつぶやいたと考えるほうが文学大好きで創造力豊かな彼女らしい、と思うので。ついでに『サンシャイン !! 』第1シーズンはなんとも不吉な「 13 話」で終わっているけれども、キャンベルによれば 13 という数字は「変身と再生の数字」なんだそうですよ。どうりで第2シーズンが始まるわけだ。もっともこの物語は最初の『ラブライブ!』の主役の μ's の存在が大前提になっているので、いわばふたつの作品は「前奏曲とフーガ」みたいに切り離せない … ということだけれども、最初の作品を見ていなくてもじゅうぶん楽しめる内容にはなっていると個人的には思う。「地上に落とされた堕天使」つながりでは、じつはラテン語版『聖ブレンダンの航海』にも出てきますねぇ( → 拙ブログ記事参照 )。さらに脱線すると善子ヨハネが「堕天してしまった … 」とか動詞で使っているけれども、ほんらいは「だ・てんし」、「落とされた天使( fallen angel )」であるはず。

 いまひとつ、11年前の8月末に残念ながら沈没した「スカンジナヴィア」、旧船名 Stella Polaris 号の展示とかもしている「海のステージ」さんというカフェがあるんですけど、あるサンシャインファンの方の声かけで
2月、なんとファン数十名が集まって「スカンジナヴィア」の話とかを店主さんから聞いたりして一泊した、なんていう話まで地元紙に載ってました。これも「物語」の力かな。よもやこういうかたちで「スカンジナヴィア」号の記憶が、こうしてこの客船を知らない若い人たちに語り継がれてゆくとは! そういえば最終話だったか、Aqours のメンバーがトレーニングしている学校の屋上からキラキラ光る奥駿河湾の、「スカンジナヴィア」号がかつて係留されていたまさにその入江の水面が描写されていたのを見たとき、なんか感慨深いものがありましたね。

2014年08月31日

西伊豆の海から定期船航路が消えた

1). 以前からこの日が来る悪い予感はしていたが … 伊豆西海岸の海から、とうとう定期船航路が本日をもって消滅してしまいました。市長に航路継続を求めて陳情に行った人のなかには、「見捨てられたようだ」とつぶやいた方もしたらしい。そういえば伊豆箱根鉄道船舶部( 当時 )の高速船「こばるとあろー」号が廃止されたのも 11年前、2003年の今月31日のことでした。

 一連の動きを見ていると、巨大な?マークが浮かんでしまう。だってジオパークでしょ? 「深海水族館」ってまだ行ったことないけど、いま人気者らしいダイオウグソクムシなどの深海生物に興味を持ってもらったら、そのまま高速船で戸田港に運んで、そこで「戸田塩作りの体験」とか、深海魚釣り体験とか、着地型の体験サービスを楽しんでもらって、タカアシガニを食べてもらって、あるいはそのまま宿泊してもらって … それでまた高速船に乗って帰る、そんな「ひとつの線で結ぶ」という回遊性をもたせるというか、なぜそうした発想がないのだろう。なぜ、首長みずから乗り出そうとしないのだろう。沼津駅 → 沼津港 → 「港八十三番地」/「深海水族館」→ 戸田港 → 沼津港 → 沼津駅というふうに。

 また静岡市みたいに、LRT を導入するというのもひとつの手だと思う( 昭和 30年代まで、沼津駅 → 三島広小路駅間にはいわゆる「チンチン電車」が旧東海道沿いに走っていた )。クレイダーマンの住んでいる南仏ニースには、2007 年開業のトラムがある。欧州の大きな都市、たとえばパリでも20年くらい前からトラムが復活していて、今後も拡張させる計画らしい。トラムの利点を挙げればけっこうある。地下鉄みたいに穴を掘る必要がない、環境負荷が少なく、建設費用も安上がりで、なんといってもお年寄りにもやさしい公共交通。「駅」は、道路上にあるから、上がったり下がったりする必要もない。

 この前、鶴瓶さんと松下奈緒さんがやってきた安良里では、たとえばこんな体験会を開催して大盛況だったそうだ。バブルのころだったらおそらく受けなかっただろうが、いまは囲炉裏とか土壁の古民家とか、はたまた近所の名もないような神社でも「パワースポット」として売り出せる時代( 「御朱印帳」だって、いまはカラフルなものがたくさん !! )。けっして悪い発想じゃないと思う。

 そして、交通不便な過疎地域の定期船航路というのは、地元の人にとってはなくてはならない「足」、インフラのはず。そのへんのところをもうすこし考えてほしいと思う。大地震とか、陸路がズタズタに寸断されたら ―― 何年か前の土肥新田地区の地すべりみたいに ―― 海しかないでしょうに。空という手もあるが、いざというときは船を出したほうが早い。そういえば西伊豆は「ヘリコミューター計画」というのがバブルのころに持ち上がったものの、計画倒れに終わったことがある。

 伊豆西海岸の定期航路の歴史はたいへん古くて、こちらのページによると、なんと明治時代から存在していた( 1969年「第22龍宮丸が黄金崎沖で遭難者を救助」、そんなことがあったんだ!)。三島由紀夫が 1960年8月、『獣の戯れ』構想を練るための現地取材から帰京するときに乗ったのは伊豆箱根鉄道の「龍宮丸」という客船だったが、当時は宇久須や安良里にも寄港していた(「こばるとあろー」に切り替わってからは沼津 → 土肥 → 堂ヶ島 → 松崎という航路になった )。伊豆箱根鉄道以前に西伊豆航路に就航していた東海汽船の「あやめ丸」とかは船が大きくて、安良里港に入ってくるときに船底がつく恐れがあったため、「はしけ」を出してお客さんを岸壁まで運んでいた( 洋画家の中川一政が紀行文「安良里日記」を書いたころは、東海汽船の定期船航路だった )。

2). ジオパークつながりでは、今週、世界ジオパーク推薦関連で地元紙でも報じられていたけれども、日本ジオパーク委員のひとりがこんな指摘もしていた。「[ 伊豆半島という ]エリア全体の一体感醸成が必要」。しかり。でも、これがなかなかね … 伊豆半島って入江の独立性がつよくて、たがいに張り合っていたみたいなところが昔からある。たとえば宇久須と安良里は明治時代に一度、「宇久須村」として合併しているけれども、行き来が不便なうえに気質がちがうなどで、数年後には分離している[ 当時はまだ黄金崎廻りの旧国道もなくて、急峻な峠路を越えていくしかなかった ]。そうかと思えば南隣にあるおなじく漁村の田子( たご )の住民とは江戸時代に「田子島」をめぐって境界線争いしていたり( 安良里側が島に綱かけてエンコラと「しょびいた」という内容の俗謡まで残っている ) … 。

 頭では「伊豆はひとつ」とわかっていながら、いざとなると狭い市町の単位でしか物事を見られなくなってしまうというこの悲しい欠点、長いこと染みついた一種の習性みたいなものなので、そうかんたんにはなくならないと思う。おんなじ静岡県でも、このへんの住民の気質のちがいが、浜松のような遠州とこのへんの地域の大きな差だと感じる … けれども、世代交代も進んでいるし、またほかの地域から移住する人が増えればそれが刺激となって、よい方向に進めば見通しはそんなに暗くはないはず … です。

2013年07月22日

50年に一度の水害

 先週水曜日の夜、自分の住んでいるところでもかなりつよい雨が降りました。ところが、つぎの日の朝のニュースで西伊豆町の宇久須・安良里・田子( うぐす・あらり・たご )地区にていわゆる「ゲリラ豪雨」災害が発生したとの報が。そのあと親戚の伯父さんから電話があり、おまえさんとこは大丈夫かと訊かれた。そのときはじめて、安良里集落の三つある河川のうちもっとも大きな ( といっても幅の広い用水路みたいな流れだが ) 浜川が氾濫したことを知った。

 浜川の氾濫 … は、ほぼ半世紀前、三島由紀夫が当時、構想を練っていた書きおろし小説 (『獣の戯れ』)取材のためこの地に二週間ほど逗留したその翌年の 1961 年の夏に一度あった、ということをいまは亡き祖母から聞いたことがあります。当時祖母の家は川沿いにあったので、蔵が浸水してたいへんだったらしい。今回はそのとき以来の氾濫かと思いました。

 その後あらためて地元紙報道や TVニュースの映像を見ておどろいた。龍泉寺 ( りょうせんじ ) という禅寺に向かう橋のあたりで鉄砲水とともに上流から転がってきた大岩が橋の下にはまりこんで、流木などとともに川をせき止めて大量の泥水があふれたらしい。… 川の土手下にある寺の駐車場などに停めてあった乗用車がひっくり返り、民家の軒先に突っこむようにして折り重なっているではないですか … あまりの被害の大きさに絶句した。

 じつは自分も親戚の家とか浜川の近くにあるので、家具の運び出しとか手伝いに行こうかと思ってたんですが、うちの親戚宅は玄関前にあった流しが、氾濫した水に浮き上がって流されてきた乗用車に巻きこまれて下流へ流されただけで、とくに浸水被害はなかったらしい。おまえひとり来たってかえって気を遣わせるし大丈夫だ、とかそんなこんなでけっきょく行かずに終わってしまった … 田子・宇久須地区でも浸水被害があり、地元紙記事によれば人が足りない。でもそんななか、学生ボランティア派遣を専門に請け負っている NPO 法人経由で関東方面から学生のみなさん方が汚泥のかき出しや水に浸かった家具調度の運び出しなどの作業に当たられたということも聞きまして、わりと近くに住んでいながらこういうときになんの役に立たない自分が情けないとも思ったが … しょせんは言い訳なのでこれ以上は蝶々しない。また今週も空模様が気になるところなので、とにかく一刻もはやくふつうの生活にもどれますようにと、ただ祈るのみです。また田子地区の「月の浦」というところには旧国道沿いにソメイヨシノ並木があって、今年もきれいに花を咲かせてくれていたのですが、山側に建つ民家が流出した土砂の直撃を受けたらしく、道路一面土砂で埋め尽くされていた画像とかも見かけて、こちらの被害の大きさにもおどろいています。道路といえば黄金崎トンネル入口直上の急斜面も崩落して、一時片側交互通行だったようです ( いまは完全復旧 )。

 寺の墓地( 祖母の言い回しで言えば、「旧墓っ地」、川を挟んで反対側の小高い山の急斜面にへばりつくように「新墓っ地」がある )にはうちの墓もあり、どうも冠水したらしい。セキトウ( 石塔、墓石のこと )はぶじだったようだが、川に近いお墓がいくつか倒されてしまったらしくて、いまは墓のほうまで手が回らないのでまだまだ手つかずらしい。気の毒なのはお寺さんだ。本堂は床が高いから浸水は免れたようですが、母屋のほうが被害を受けたらしい。橋の下で引っかかっている大石もまだ取れてないうえ、泥まみれ状態の駐車場と寺の境内のほうはこれから重機が入るようで、しばらくのあいだ近寄れないとも聞きました。

 伯父さんによると、漁港の津波よけの「陸閘」が、あの大震災以来、常時閉鎖されてしまっていたので、そのためにあふれた川の水が行き場を失って浸水被害がひどくなったのではないか、とのこと。… うまくいかないものだ。

 … そういえばちょうど 10年前、今年とは正反対の冷夏で多雨だった夏、旧盆の法事で早朝、龍泉寺に出向いたとき、長雨の影響なのか浜川の水位が急上昇して、いまにも護岸のてっぺんに届きそうなものすごい勢いで濁流がいっきに駆け抜けていったことを思い出す。あんな川の流れははじめて見たので、これくらいはよくあることなのか、地元の人はとくに気にするまでもなくお盆の飾りを手に寺に集まってきているなあ、などと考えていた。

 春の彼岸のときに和尚さんの子どもとひさしぶりに対面して、その成長ぶりに目を細めたものですが、とにかく気を落とさず、負けないで、と言いたいです。

追記:先日、こちらの番組を見ました。東海 7県限定なので見ていない方もいるとは思うが、宇久須沖合、ちょうど黄金崎の手前あたりが映し出されたとき、後方の山が大きく削られて地肌をさらしていた光景がやけに印象的でした。あれは宇久須のキャンプ場背面にある採石場。数年前までここの砕石を積み出すための巨大桟橋が沖に向かって突き出していた。新羽田空港の滑走路を建設するさい、ここの山から掘り出した大量の砕石が使われたということも、知っておいて損はない、と思う ( ついでにいちばん上の画像は安良里漁港で、今回氾濫した浜川河口の水門すぐわきにある船揚げ場。10年前のお盆は、このへんからお飾りを海に流した。下の画像は、もっと南の波勝赤壁直下、通称「蛇のぼり」付近 )。

2011年09月11日

つぎは … 2035年??? 

 「天災は忘れたころにやってくる」とは、あまりに有名な物理学者・寺田寅彦の警句ですね。でも今年にかぎって言えば … 「忘れないうちに」余震だの、誘発地震だのが頻発、おまけに先日の台風12号禍はもうほんとうに … 世界遺産の熊野那智大社も土砂崩れで社殿が埋もれ、また「那智の大滝」展望台でも崖崩れがあったとか。あちこちで急峻な山の斜面が深層崩壊を起こし、その大量の土砂によって「堰き止め湖」が出現し、ひとたび大雨が降れば大規模な土石流が発生しかねない。何度もこんなこと言うのはつらいけれども、ほんとうにことばもない。新宮市や隣接する紀宝町の被害もひどい。2階建ての家屋まで水没 (!) するとは、このノロノロ台風による大雨がいかに尋常ではなかったかを物語っている。

 「千年に一度」の大地震と大津波といい、この風水害といい、だいぶ前にエリザベス2世が口走った 'Annus horribilis' ということばがふと頭をよぎる。

 今日であの震災 (と原発事故) からもう半年が経とうとしています … 死者・行方不明者が2万人近くいるという重い現実と、原発事故も収束していないなか、地元紙に東大地震研の都司嘉宣准教授の最新の調査結果が報じられてました( → 関連番組記事)。

 静岡県の東海地震対策は 1854年12月23日 に発生した安政東海地震 (M 8.4) をベースにしている。でも仮にこの古文書記録にもとづく調査結果が正しいとすれば、ここ静岡県沿岸一帯でも、とくに沼津市から伊豆西海岸にかけて平均して 10m 超の大津波が襲来していたことになる。

 日本は地震国だし、こちらを見てもわかるように地球表面の歪みがもっとも集中している場所のひとつがここなのだから、はっきりいってどこででかいのが起きてもおかしくない。と、頭ではわかっているつもりでも、先月1日深夜にいきなり揺さぶられたときにはほとんどなにもできなかった自分がいる。それはそうと、個人的にちょっとびっくりしたのは、おなじ都司准教授にインタビューした記事。なんと、先生の予測ではつぎの「東海地震」発生予想時期は2035年ごろではないか、という! ↓

 「過去の地震の発生サイクルをもとに二つの検証をした。一つ目は、1944年の東南海地震と46年の南海地震のペア。このペアはおおよそ百年間隔で発生するが、当時の規模は小さかったため次の間隔を90年とみる。中間の1945年を起点に計算すると次は2035年となる。二つ目は1995年の神戸地震を次の南海地震の先行型と考える。記録から近畿地方内陸部の地震の約40年後に東海・南海地震が発生する傾向があり、こちらも2035年が導き出された。次は3連動型の東海地震だろう」。

 2035年かどうかはともかくとして、今回、古文書や古地図を調査してみて、昔の人が知恵を絞って土地の堅い場所や津波被害にあわない場所を慎重に選んで住んでいたことがわかるといいます。「過去の記録は未来の判断材料になるもの。攻めの姿勢で史料を集め、郷土をわがものとして離さない人材の育成も、今後の防災の大切な柱と言える」と結んでいます。

 伊豆半島のジオパーク構想はここでもたびたび触れてきましたが、ジオパークの人材育成は即、防災面でもおおいに役立つはず。というか火山国にして地震大国の日本では、その土地の成り立ちを知ることは「減災」とほぼイコールだと思います。いま伊豆半島各地で、とくに高校生など若い人を中心にジオパーク関連の活動が盛りあがりを見せていますが、これはなにもあらたな観光の起爆剤とか、教育面で大いに役立つといった事柄にとどまるものじゃありません。なによりもこの地に住んでいるわれわれ自身の命を守るということにも直結すると考えます。でもひとつ難くせつければ、どうも静岡県東部地域および伊豆半島地域全体には、浜松など西部地区にくらべるといまいち「一体感」に欠けるところがある (→似たような感想の記者さんもいる) 。「伊豆はひとつ」とかけ声はよく聞くけれど、そのじつ半島全体がひとつにまとまってない。ジオパーク認定とその後の活動が実を結ぶかどうかは、ひとえにこの点にかかっているのかもしれない。

 あらためて被災地の方々にお見舞い申し上げます。そして一刻も早い原発事故の収束も願っている。

2011年06月12日

風評被害が心配

1). 未曾有の大震災からまる 3 か月が経過しました。いまだに行方不明の方もおられ、また震災と大津波だけでも勘弁してほしいところに、世界的に有名になってしまった東電の原発災禍。被災者の当座の生活支援、仮設住宅や雇用の問題、全国有数の漁業基地・穀倉地帯でもある東北地方の人々にとっては、とにかく一日も早く自分たちの仕事の場をなんとかしてほしい、というのは切実な願いだと思う。けさの朝刊紙面に復興会議の「第一次提言素案」なるものの要旨が載ってましたが、「土地利用をめぐる課題への対応」とか「観光の再生」とか、「災害に強い国づくり」なんてのは、手持ちの資金も底を尽き、明日どうやって生活してばよいのかもまるで見えない人がおおぜいいるなかで、いますぐすべきことなんだろうか? 南三陸町長さんが「復興構想会議はスピード感がない。財政支援など国の計画が決まらないと、町の計画は絵に描いた餅になる」と苦言を呈していたけれど、まったくそのとおりだと思う。

 そんななかでこんな話題を取り上げるのは気が引けますが、毎日、文字どおり水がわりに数十杯は飲用している「お茶」について。このほど放射性セシウムが「1kg 当たり500 ベクレル」という「国の暫定規制値」を超えたとして静岡県では静岡市葵区藁科地区の一番茶の製茶の一部で出荷自粛要請をするとのこと ( → 関連記事1関連記事2関連記事3 ) 。

 大のお茶好きだからバイアスかかった物言いをするわけじゃないですが、そもそも「暫定規制値」なるものも今回の大事故であわててこさえた数字だということを聞いた。つまりあんまりアテにはならない。で、かりに500 ベクレル … を上回ったからといって、「飲む」ときもその数字のまま、なんてことはない。放射性セシウム … というのも、第一原発の場合はほとんどが半減期が 2 年ほどと短い「134」で、累積積算値じたいもさほど心配する必要はないと思うし、そもそも内部被曝するほど飲む人なんていません ( 利尿作用があるため、わりとはやく排出される ) 。休みの日、というか家にいるときはそれこそ浴びるように静岡茶、ときには紅茶 ( すんません、こっちはティーバッグですが ) をすすりつつネットサーフ ( 言い方が古いか ) したり読みかけの洋書読んだり音楽聴いたり下手くそなバッハをかき鳴らしたりしているわけですが、「規制値超え」と聞いても当方は「煙草の受動喫煙」のほうがはるかに発癌リスクが高いと考えてますので、だからなに、so what ( マイルス・デイヴィスふうに ) ? というていどの認識でしかない ( ある週刊誌記事によると、受動喫煙の発癌リスクを放射線量に換算すると約 100 ミリシーベルト相当だそうですよ ) 。

 と、そんな折も折、あの村上春樹氏がまたまたやってくれましたね(ソユーズでようやっと念願をかなえた医師の古川聡さんもよかったですね)。これにはみなそれぞれ、「意見には個人差がある」ゆえ賛否両論あって当然なんですが、やはり「文は人なり」、人柄がにじみ出た嘘偽りのない心情の吐露だと感じました。とくに「無常」については、まちがいなく自然災害の多さも影響していると思う。かつて立松和平さんは、風景というのはそこに生きる人の内面の投影にすぎない、というようなことも言っていた。風水害、火山、地震、津波 … 日本人の精神性に投影されないはずがない。

 …というわけで、負けるな静岡茶!! とエールを贈りたいです ( ついでに「ちゃっぴー」もね ) 。

2). …「ひだまり」さんのブログを見たら、こういうリンクを見つけた。なるほど、欧州ではたがいに電力を融通しあっているんだな。ドイツの決断 … は英断かもしれないが、なんたってお隣りが日本以上に原発が稼働している国ですからね … 。でもこういう事態に遭遇して、あらためてマッキベンの本 (『ディープ・エコノミー』 ) の指摘は正しかったんだな、と思った ( →関連拙記事 ) 。

 …そういえばこの前の日曜、「放射能汚染地図」の続報につづいてこんな番組を放映してまして、「N 響アワー」のあとつい見入ってました。…でも番組で登場した宗教学者のY 先生って、ラドヤード・キプリングばりに「東西思想の対立」という視点がお好きらしい。かたや「ノアの箱舟(選民思想の代表として)」 vs. 「三車火宅の図(みんなを救済するインド・仏教的思想)」を引き合いに出したうえで、いまこそ日本の復興には後者の思想が必要だ、とかそんなことをおっしゃっていた( インドの古代の神さまって、慈悲を乞われたら助けるというルールがあるそうですよ。たとえば比較神話学のキャンベルも言及しているシヴァ神と「栄光の顔」の神話とか。あるときシヴァ神は奥さんの女神をくれと言ってきた怪物にえらく腹を立て、額にある「第三の眼」をかっと見開き、もっと大きい痩せた怪物を出現させた。食欲しかないこの怪物を見て、最初の怪物はシヴァに慈悲を乞うた。第二の怪物に「こやつを食ってはならぬ」と申し渡したら、「じゃオレはいったいだれを喰らえばいいんだ?」。これにシヴァはこたえて、「なら、自分を食え」。おおそうか! というわけでムシャムシャと脚から胴体、首と食べ尽くしてとうとう顔だけが残ったとさ[ Myths to live by, p. 103 ] 。個人的にはこっちの話のほうが興味深い ) 。でもこの対立構図、個人的にはどうも … ちょっと単純すぎません?? 番組じたいは、昨年物故された比較文明学者の梅棹忠夫氏の未完の書、『人類の未来』を中心に作家の荒俣宏氏が案内役をつとめる、そんな内容でしたが、… 梅棹氏の思想ないし炯眼ぶりはともかく、どうにもY 先生とのやりとりとか、また最後のやや強引なまとめ ( ?? ) には違和感をおぼえた。西洋の人って、そんなに「選民思想(自分たちだけが助かればよいという発想)」が強いんだろうか?? ボーターレス化したいまの世界では、たとえばサンデル白熱教授の講義に出ていた米国の参加者とかの反応を見ても感じたように、日本の震災はほんとうに「人ごとではない」という意識の人がたいへん多いのではないでしょうか。海外公演の多い邦人音楽家でさえそう言っているのだから、まずまちがいない。そしてダニエル・カールさんみたいな「われわれ以上にこの国を愛する人々」だっておおぜいいます。ドナルド・キーン先生なんか、日本国籍をとって永住するんだと言ってくれまして、もう感動もので涙が出るくらいですよ。Y 先生にはたいへん失礼ながら、いまの政治状況・社会状況を見ていますとはっきりいって「日本以外の国の人の力(ようするに「外圧」)」はぜったいに必要かと。復興会議 … の動向報道とか見聞きしてますと、日本人の知恵、ないしは議論の進め方ではけっきょくにっちもさっちもことが進まんと感じているのはワタシだけだろうか(本気でそう思っている。右往左往しているうちにまた巨大地震が発生したらどうするつもりなんだろうか)??? 

 梅棹忠夫氏について言えば、たとえば「思想というのは簡便になったカメラとおんなじで、アマチュアの視点からどんどんものを言い、一部の西洋かぶれのプロに任せきりにするな」という半世紀以上も前の主張は、とても共感をおぼえる。でも小松左京氏と云々、という関係については、当時は東西冷戦たけなわで、公害問題やら「大予言」シリーズ ( 苦笑 ) やらで、あの当時の人はたいてい「未来は暗い」となかば本気で感じていたという、そんな時代思潮が背景にはあったということも忘れてはならないと思う ( 前にも書いたが、自分が小学生のころはいまとは逆に、「氷河期が来る! 」という本が売れていた ) 。

2010年09月05日

伝統芸術の担い手という点ではおなじ

 自分は昔から西洋かぶれみたいなところがあって、子どものころはルネサンス絵画とかが好きだった(前にも書いたけれども)。そんなこんなでいまはバッハなど、バロック時代の音楽、とくに教会とつながりの深い楽器オルガンのために書かれた楽曲が大好き。おなじく教会につきもの、といえば聖歌隊。そしてこれは欧州特有の伝統だと思うけれども、なかでも少年聖歌隊員たちによる合唱が好きで、バッハのオルガン曲のCDのあいまにそんな子どもたちの心洗われる清らかな歌声を愛聴している(きのう4日は、地元紙の「歴史ごよみ」にも載っていたけれども、シュヴァイツァー博士の命日でした)。

 でもたとえば「合唱大国」のイメージのつよい英国でさえも、もう何年も前から聖歌隊員のなり手となる少年たちを集めるのがむずかしくなってきているという。もっとも少年聖歌隊員を集めるためにさまざまな努力が試みられてはいます――もう男声のみという伝統文化は古いとばかりに混声、つまり少年聖歌隊員だけでなく少女聖歌隊員枠を増やしたり、'Open Day'を設けて地域の子どもたちと親御さんに教会・大聖堂の聖歌隊がどんな活動をしているかを体験してもらい、すこしでも関心を持ってもらって体験者のなかから聖歌隊員候補を見出そう…とどこも必死です(WSKでも隊員集めには苦労している、ということも以前書きましたね。いまは日本人少年の隊員も何人か所属していますが、以前とくらべて隊員集めはどうなんだろうか)。また子どもたちのあいだでも、「教会/大聖堂の聖歌隊員なんてカッコ悪い」という意識があるのも事実です。

 …伝統文化・伝統芸術の世界は地味だし古くさいし、日々の精進も必要だし、口で言うは易くおこなうはかたしとは思う。でも若い人、とくに子どもたちのなかからこうした伝統文化の「担い手」を育てなければ、早晩この世から消滅していってしまうでしょう。西伊豆には「御船歌」というのがあって、三島由紀夫が新聞連載小説『獣の戯れ』の取材時、安良里でただひとりの謡い手に吟じてもらったという。いまやこの『獣の戯れ』の巻末に綴られた歌詞が貴重な記録となっています(たしか「とーいのさーえま(とのさま)」という呼びかけがあったように思う→御船歌神事についてくわしくは宇久須の海鮮料理屋さんのブログで)。それでももうひとつの伝統芸能「人形三番叟」については、西伊豆町宇久須(出崎神社)と仁科地区(佐波神社)でいまでも11月初旬に奉納されています。

 後継者不足はなにもごくごくローカルな民俗芸能にかぎったことではありません。たとえば詩吟。恥ずかしながら自分もあんまり関心がなくて、以前、FMで「吟詠」を耳にしたときも失礼ながらお年寄りの娯楽かなあ、くらいのとぼしい認識しかなかった。でもこれをハリのある高音、ノビのある高らかな声で朗々と吟じあげる子どもの歌い手がいたとしたらどうでしょうか。江戸初期の詩人のひとり石川丈山が作ったという「富士山」。これをなんと、地元も地元の富士宮市に住む若干9歳(!!)、小学4年生の少年がその美しく力強い声でみごとに吟じているさまをNHK静岡の夕方ニュースで見たときには文字どおりびっくり仰天した。その天才的な歌い手、前田健志くんの名前をはじめて知ったのは今年の1月下旬のことでした。2月23日にあらたに制定された「富士山の日」記念イベントで、この天才詩吟少年も出演して歌ったそうですが、その後も富士宮市内の詩吟関連の催しで引っ張りだこなんだとか。

 先日も、こんどは民放系の地元ニュース番組でもこの前田少年のことを伝えてました。師匠さんいわく、「彼はこちらがうらやましいくらい、音感がいい」。つまり耳がいいということ。これにはひょっとしたら、習いごとのピアノ、それと尺八(!)の効果もあるのかもしれない。絶対音感もあるのかもしれない。耳がいいということは、詩吟特有のあの節まわし、微妙な「こぶし(西洋音楽で言うところのメリスマ)」の半音程(? 、もしかしたらそれ以下のせまい音程?)なんかも音をはずすなんてことはない。昨年の静岡県大会中学生以下の部最年少優勝、しかも昨年度のコロムビア吟詠コンクールでも努力賞入賞!! 「兄弟弟子」のひとりのご婦人がいみじくもこう言ってました。「詩吟のアイドルです」。彼は3歳のとき、祖母の通う詩吟教室についていって、その魅力の虜になったのだというからさらに驚く。つまり詩吟歴は6年! それでもう全国大会入賞なんだから、すごすぎ。べつの兄弟弟子の人がこうも言ってました。「この子は将来、すごい歌い手になる」。9歳にしてはやくも大器の片鱗、といったところですが、とにかくこういう若い「担い手」こそ、伝統芸術にはかかせない。そういう点では詩吟の世界も、欧州の教会音楽(聖歌隊)の世界もあまり事情は変わらない、と思う。詩吟にかぎらず、三味線とか箏とか、伝統芸術に打ちこむ子どもたちはほんとうに頼もしい。英国ではヘンリー・パーセルのころとおなじく、音楽家の多くが聖歌隊出身者というケースがいまでも多い。彼らは指揮者になったり、古巣にもどって指導者になったり、すぐれたオルガニストとなって活躍し、英国の音楽界の牽引役になっている。

 前田少年の将来の夢は、「詩吟の先生になること。そして日本の伝統文化の詩吟を世界の人にも伝えたい」。詩吟の海外公演、なんてスケールが「富士山」なみにでかいですね! またこんなCDもあるそうですが、ボーイソプラノで朗々と歌いあげる詩吟ということじたい、ひじょうに稀有なことと感じるので、私家版シングルでいいから、どこかでソロアルバムとか出してくれないかしら? 

[まるで本文と関係のない追記] いまさっき見たNHKの「50ボイス」なる番組。東京芸大の学生さんたちにインタヴューしていたんですが、なんとまた珍しく、オルガン科の数少ない学生のひとりにも質問していた(芸大のオルガン科学生って10名くらいしかいないと思う)。練習室のオルガン(3段手鍵盤の楽器だった)を弾いていた女学生が出てきまして、聴こえてきたのはバッハの「トッカータ、アダージョとフーガ ハ長調 BWV.564」の出だしの16分音符進行の連続する華麗な足鍵盤ソロの部分でした。「一音入魂」とか言ってました。たしかに、あの巨大な楽器を鳴らすにはそれくらいでなくては…カプラーで連結された鍵盤の重さは半端じゃないし(←そういう問題ではない)。

2010年08月29日

6年ぶりの堪水 & バロックフルート演奏会

1). 毎日残暑が厳しいですね…というか今年は典型的な「日照り」だという気がする。droughtというほどのことではないとは思うが…。

 先日、地元紙にて国の天然記念物および名勝にも指定されている三島の楽寿園にある「小浜池」が6年ぶりに堪水した、と報じていたので、いまごろになってのこのこ見に出かけた。自分は2003年9月の水位170cm超の文字どおり「満水」時に写真を撮りに行ったことがありますが、ひさしぶりの朗報とあっては、クソ暑いにもかかわらず、見に行かないわけにはいかない(笑)。ほんとはもうすこしはやく見に行きたかったのだけれども、あいにくひどい夏風邪をひいてしまって行けなかった。というわけで、やっと見に行ってきたしだい。

 ここは公式サイトにも説明が書いてあるけれども、もともと小松宮彰仁親王が1890年(明治23年)に別邸として造営したのがはじまり。ではそれ以前はなんだったのかというと、郷土史関係の資料に載っていた当時の「三島宿」の絵なんか見ると、どうも小浜池には神社が祀られていたらしい。いまはJR三島駅へと接続する道路で分断されているけれども、楽寿園と二股にわかれた道路の真ん中にある「愛染の滝」、そして反対側に位置する「白滝公園」とはもとはひとつにつながっていた。なにしろあのへんは1万年前に富士山から流れでた「三島溶岩流」の玄武岩地帯。あっちこっちに溶岩流の露頭が顔を出してます。で、「農兵(ノーエと読む)節」にも「富士の白雪 溶けて流れて 三島に注ぐ」と歌われるとおり、富士山に降り積もった雪は雪解け水となって玄武岩質溶岩の亀裂から地下深くに浸透し、長い年月をかけてふたたび広大な麓のそこここで「湧き水」となって噴出します。有名な「柿田川」も、三島溶岩流の末端からこんこんと湧き出す「湧き水からできた一級河川」。楽寿園内の「小浜池」もとなりの「白滝公園」同様、三島溶岩流から湧き出す自然湧水の池なんですが、あいにく1960年代以降、急激に枯れて、いまでは湧き水をたたえるほんらいの姿のほうが珍しくなってしまっているほど(某東×が操業停止すれば、小浜池湧水も復活する…かも)。1954年3月に国指定天然記念物および名勝に指定されてはいるものの、ふだんは見るも無残な「溶岩砂漠」状態をさらしている。

 今回は梅雨明けと同時に雨がぱったりと降らなくなってしまったせいなのか、公式サイトによるとお盆以降、池の水位は低下するいっぽう。見に行ったきのうの時点で水位は最高水位にははるかにおよばず、112cmほど。それでもひさしぶりの堪水なので、小浜池のほんらいの姿を見ることができて、大満足。周遊道をはさんで南側の「はやの瀬」・「なかの瀬」・「せりの瀬」の湧き水も元気に噴き出していまして、三島の街中はもわあとして暑いけれども、湧水が噴出している小浜池のあたりだけはほんと涼しい風が吹きぬけていてじつに気持ちいい。岩間からこんこんと湧き出すさまは、いつまでも見ていたいくらい。それとここにはちょっとした遊園地施設と動物園もありまして、昔はゾウやキリンがいたけれども、いまは小動物中心。それでもレッサーパンダとか、ワラビーとかがいます。今年あらたに仲間入りしたカピバラ(温泉好きの伊豆シャボテン公園からやってきたメスをふくめて計3頭)もいるのですが、この暑さ…では小屋に避難して動こうともしません(苦笑、↓は堪水した小浜池・はやの瀬の湧水・中の瀬のようす)。

楽寿園の小浜池

「はやの瀬」の湧水

「中の瀬」の水草


2). もうすこし湧き水をぼんやり眺めていたいのだけれども、「御殿場高原 時之栖」にて、無料のコンサートが開かれる、との情報をKenさんのブログで教えてもらったので、こんどはそちらへ移動。無料のシャトルバスが三島駅北口から出ているので便利。

 「時之栖」ってはじめて行くところだったけれども、ホテルなど宿泊施設にテニスコートにプールにサッカー場、そして地元では有名な(?)「御殿場高原ビール」などのレストランもいろいろある複合施設(神山小学校のすぐうしろにあったとは知らなかった。帰りのバスからは富士山の雄大なシルエットがくっきりと見えて美しかった↓)。そこにある「桜の礼拝堂」という場所で、バロックフルート、つまりフラウト・トラヴェルソの演奏会が開かれました。演奏者はドイツのオケでも活躍されているという小川隆氏(Sp)と、吉田哲雄氏、田澤尚方氏(ともにAlt)の三名。内容は無料のコンサートとは思えないくらい濃くて、テレマンのソナタやファンタジー、バッハの無伴奏フルートのためのパルティータ(BWV.1013)や、19世紀のヨハネス & フランソワ・ドンジョン(兄弟なのか父子なのか不明、オペラ座でフルートを吹いていた人らしい)という人の練習曲からの抜粋、福島和夫が1962年に作曲した「フルートソロのための 宴」といった現代曲まで、じつに幅広い選曲。

 フラウト・トラヴェルソ、「横吹きの(traverso)」笛とわざわざ断っているのは、もちろん当時は縦笛つまりリコーダーと区別するため。でもバロックフルートって演奏するのはむつかしいらしい。キーもなにもないから、音程維持がたいへんらしいです。でもその音色はいかにも侘び・寂び好きな日本人の気質と相性がいいみたい。ドンジョンと福島氏の独奏曲は現代のキンキンキラキラのフルートで演奏されたけれども、バロック時代の木でできたフルートはしっとりとしてやわらかく会場を包みこむような音色が特徴。会場は礼拝堂、と言いながらじつは多目的ホールみたいなところでしたが(飾りパイプのみ立っている電子式チャーチオルガンはあった)、残響がわりと長くて、フラウト・トラヴェルソの演奏にはまさにぴったりでした。あれくらいちんまりした会場ならば、クラヴィコードのリサイタルとかもいけるかも。テレマンの作品はどれもお初に聴くものばかりで新鮮でしたし、バッハのパルティータも力のはいったすばらしい演奏でした。ちなみに演奏者の方に訊いてみたら、フラウト・トラヴェルソのピッチはA=415hzでした。

 …精神的にはすばらしい演奏を聴いておなかいっぱい、といった感じでしたが、せっかく来たのだから「御殿場高原ビール」にて地ビール…ではなくて、薪窯で焼いた本格的ナポリピッツァをいただく。…顔よりでかいあつあつのピッツァは生地もトマトソースもモッツァレラもとても美味。ビールは缶入りのやつを買いまして、あとで飲もうと思います(笑)。とにかくフラウト・トラヴェルソによるコンサートというのははじめて聴きに行ってひじょうに新鮮でしたし、小浜池の湧水とともに、リフレッシュできてよかった。たまにはこういうのもありかな(そういえばちょうどおなじころ、大橋のぞみちゃんと北海道犬のカイくんが沼津市内で映画のロケの撮影をしていたんだそうな。御殿場は夕方、とても涼しかったが帰ってきて平地のムシ暑さにぐったり。映画の撮影も暑くてたいへんだなあ)。

御殿場・夏富士のシルエット


2009年10月25日

日本丸と海王丸

 先週末、日本最大級の帆船「日本丸」と姉妹船の「海王丸」が清水港に同時入港した、と聞いて、頭の疲れる本を読んだせい(?)か、だるいしカッタルイ(静岡地方の方言です)けれども帆船好きとしてはやっぱり行くか! と気合い(?)で見に行ってきました。

 当日はいわゆるピーカンでして、ちょこんと冠雪した富士山まで見えるという絶好の写真日和。凪もよくて、まさに理想的な撮影条件。この日は「日本丸」で乗船見学、正午過ぎから「海王丸」でセイルドリル。こういうぜいたくが楽しめるのも二隻同時入港ならでは。

 「海王丸」は2004年10月に襲来した台風で被災して、無残にも防潮堤に打ちつけられるショッキングな映像を見たことがどうしても思い出されます。1996年に清水港に来てくれたときは、自分もこの練習帆船を見学しているので、あんな大きな帆船がまるで木の葉のようになすすべもなく大波に翻弄されている姿を見たときはなんとも言えない気分になった。でもきれいに修繕されて、ふたたび「海の貴婦人」にふさわしい威容を取りもどしました。いま、こうして目の前にたたずむ帆船を見ますと、船体の塗装とかつやつやしていて、「日本丸」にくらべてあきらかにあたらしい感じがします。

 で、しばし並んでアルコールで消毒(苦笑)して「日本丸」乗船とあいなったわけですが、「海王丸」のときは中の食堂とかも見せてくれたけれども、今回はデッキのみ。とはいえデッキ上では若い実習生の方々がふだん「おか」ではけっしてできないような体験を見学者にさせてくれていたのはとてもよかった。たとえばロープの結び方。「もやい結び(bowline knot)」くらいならなんとかできるけれども、ほかはさっぱり。みなさん実習生から手ほどきを受けて、がんばって挑戦されてました。またいろいろな結び方(clove hitchとか)なんかも展示されてまして、こっちのほうがはるかにおもしろかった。ロープで「とんぼ」なんか作れるんですねぇ、びっくり! また実習生さんたちは「ヤシの実」たわし(!)でデッキをごしごし磨く作業なんかも実演して見せてくれたり、子どもたちに教えたりしてました…これで「海王丸」につづいて「日本丸」にも乗船できたわけで、二大帆船はいちおう制覇、ってとこかな(二隻とも「四檣バーク型帆船」というタイプ→帆船用語について。ついでにハワイ沖の「太平洋ごみベルト水域」を調査している「海星」は、横帆マストと縦帆マストがそれぞれ一本ずつのブリガンティン型)。

 午後の「海王丸」のセイルドリルも見ごたえがありました。なにしろ俗にtall shipと言うくらいですから、てっぺんに近い「帆桁(ヤード yard、ちなみにこの手の帆船は『横帆船 square-rigged vessel』という)」までは海上からなんと40m近くもあるのですから。うっかり足をすべらせたりしたらそれこそ一大事。実習生は全員、裸足で横静索(shroud)に張られた縄梯子(ratline)をきびきびと登り、各自担当するヤードの「足場索(footrope)」を移動してヤードに取りつきます(このときもちろんセーフティ・ハーネスをヤードのロープに引っ掛けます)。各横帆はヤードに「帆縛り索(gaskets)」でくくりつけられて畳まれているので、それを解いてゆくのですが、最上部もしくはその下の「アッパートップスル(セイル)」から順番にセイルを解くみたいです。…教官による解説つきで見ていて飽きないけれども、帆船にまるで興味なし(?)の小さい子には少々退屈だったかもしれない。波止場は夏みたいに暑いし、なかにはぐったりして寝ている子とかもいました。この日は北東方向から風が吹いていたので、風をはらまないようにヤードの向きを「転桁索(brace)」でえんやこらと変えていたから、すべて展帆するまでによけいに時間がかかっていたようです(→横帆船特有の用語についてはこちらを)。

 いちばん船尾側のマストに張られた一枚の「縦帆」。これスパンカーと言うのですが、西伊豆にかぎらず、小型漁船にもふつうに取りつけられている帆だったりする。目的はおもに風に流されないようにするため。またこの手の帆船にはたいてい船首像(figurehead)というものがくっついていて、「海王丸」は横笛を吹く「紺青」、「日本丸」のほうは手を合わせて祈る「藍青」です。

 …それにしてもすごい人だかりで、暑いし、「日の出埠頭」は駅から遠いし、帰りの電車は混んでるわで、やっぱり疲れた(笑)。

2009年09月27日

1200歳の金木犀と秋の西伊豆海岸

 この前、たまたま近くまで来たので、ついでに三嶋大社名物の国指定天然記念物ウスギモクセイを見てきました。当日はピーカンで、絶好の撮影日和。週末だったせいか、けっこう人出もありました。なかには七五三かな、そんな感じの親子連れも見かけましたね。

 それにしてもここのモクセイの大木はすごい。何年か前に南側に張り出していた大枝が台風で折れたかしていまはないので、そこだけちょっとさびしい感じですが、あとは大木亭々というか、まさに威風堂々たる姿。可憐なクリーム色の花も満開、その芳香は大社境内の外、三島の旧街道筋を歩いているだけでも鼻をくすぐってくるほど強烈。思うに、これだけのモクセイの大木ってほかにあるんだろうか。樹齢1200年という大木はそう見かけないと思うが…。とにかく今年はちょうど満開の盛り(ここの樹は満開が二回あり、見たのは二回目のとき)に運良く見ることができて、よかった。長い長い年月を耐えてきた老木を見ていると、人間の生なんてほんとうにはかなくて、ちっぽけなものだ。富士川で捨て子を哀れんだ芭蕉も三島宿に立ち寄ったさい、この老木を見たのかもしれない。

 きのうは西伊豆へ墓参りに行ってました。先月のM6.5の地震で、墓石は大丈夫かしらと思っていたけれど、見たところずれてもいないし、亀裂も入ってなくて、まずはひと安心。その後親戚と待ち合わせしていたものの、ちょっとした手ちがいから本来行く予定ではなかった黄金崎公園へも立ち寄った。立ち寄ったついでにこちらも崩れてないか確認したけれど、ほんの一部、欠けた部分はあったけれども全体的に目立った崩落はなし。旧研修センター入り口にはなぜかかなーり古い「黄金崎切通しを通過する東海バス」のモノクロ写真が飾られていた(↓)。まだ舗装もしてないころだし、海側のとんがった大岩のひとつが崩れてない(1965年以降?)ころなので、戦後間もないころの撮影なのだろうか? バスの型にくわしい人が見ればわかるかもしれませんけれども。

oldpic.jpg


 その後親戚の家でのんびり休もうか、などと思っていたけれどもあいにくそれはかなわず、急に時間ができてしまったのでこちらもまったく予定外だったけれども急遽堂ヶ島に行くことに。文字どおりI found myself ... と気づけば堂ヶ島の「洞窟めぐり遊覧船乗り場」にぼんやり突っ立っていた(笑)。あいにく持ち合わせがあんまりないけれども、ええいままよ、このさいだから遊覧船にも乗ってしまえ! とばかりに「洞窟めぐり」クルーズへ。何度も来ているくせに、ここの名物にして最大の呼び物である「天窓洞」の中になぜか一度も入ったことはなかった。いまごろにしてようやくここの名物の海蝕洞内に入ってみたのですが、思っていた以上にせまい印象。干潮時だったけれども天井の張り出した岩盤とかにいまにも頭がぶつかりそう。ここの海蝕洞最大の特徴は、洞窟のほぼ中央で天井がすっぽりと抜け落ちて自然の「天窓」になっていること。「天窓」から差し込む光で洞窟内の海水は神秘的なエメラルド色に輝いて、なんというか「東洋版青の洞窟」みたいです。この手の海蝕洞というのはもちろん断層や亀裂に沿って侵食が進むものですが、ここの海蝕洞の構造は複雑で、海側に入り口がふたつ、陸側にも口をあけているところがあって、遊覧船は陸側の口までくるとやおら方向転換して入ってきたのとはべつの海側の口から出てゆきます。あんなせまい洞内で方向転換とはさすがは熟練の技。

 海上から見上げる黄金崎も美しいけれども、堂ヶ島海岸もまた絶景です。ここの地層は1000万年〜200万年前に堆積した「白浜層群」と呼ばれる海底火山の岩石層で、上部はさざ波のような模様(クロスラミナ)の発達した白色軽石凝灰質砂岩、下部には黒っぽい火山弾と礫がゴツゴツと突き出している「水底土石流」によってできた安山岩質凝灰岩層。この岩石層の特徴は、波蝕で崖の脚部がどんどん削られても上部が崩落しにくいこと。言い方を変えれば、海蝕洞ができやすい岩質です。なので「天窓洞」のような大規模な海蝕洞も発達しやすいことになります(→小山真人先生による解説ページ)。

天窓洞内部


 静岡県知事に就任した川勝氏は、伊豆半島全体を「ジオパーク」にしようとする構想をもっているそうですが、個人的には大賛成。以前ここにもすこし書いたけれども、ひとつの半島にこれだけヴァラエティに富んだ地質的景観が楽しめる場所なんてそうそうないですよ。こうした「地元の宝」をもっと有効に生かす道をもっと探っていく必要があると感じます。

 …そういえば伊豆市土肥小学校前でバスが停車したとき、運動会が開かれているのを見ました。八木沢地区にある土肥南小学校の前を通過するときも、やはり運動会の入場門を見かけました。南小は来年4月には土肥小と統合されてしまうので、最後の運動会ということになります。松崎の三浦(さんぽ)・岩科(いわしな)小学校と田子(たご)中学校もいまはなく、こんどは土肥南小と、公立小中学校の統合話を聞くたびに寂しいものがある。

2009年04月04日

火山観光地図

 先日の伊豆半島の成り立ち関連の記事でも紹介した「伊豆半島のおいたち」サイト。作成者の静岡大学の小山真人教授がこのほど、『火山が作った伊東の風景』というあたらしいタイプの地質図を出版されたとの記事が地元紙に掲載されていました。このユニークな地質図を発行した小山先生の意図は、「(従来の観光情報については)ただ『きれい』という印象だけで終わっていた。成り立ちを知れば、その景観の深みが増すのに、一歩踏み込んだ部分が欠落している」。まさにわが意を得たり、という感じ。「気軽に楽しめる地質図」というのは、新旧の火山が林立し、豊富な湯量を誇る温泉など、この半島の成り立ちと切っても切れない自然の恵みを受けながら、なぜかいままでこの手の「観光地質図」みたいなものはなかった。今回は伊東市周辺の「東伊豆単成火山群」が中心になっていますが、各火山の噴火年代と熔岩流・火山灰の分布を色分けして示し、またトイレや駐車場の場所、観光スポットの写真なども組み合わせ、散策モデルコースも併記した今回の地質図は、たんなる無味乾燥な地質図ではなくて、りっぱな観光ガイドでもあり、また防災ガイドでもある。これの「西伊豆版」がもしあったら…ぜひとも続編を作っていただきたいところです。とにかくひじょうにおもしろい試みだと思います。また小山先生はべつの日に地元紙に書いたコラムで、「伊豆東部火山群の噴火は、陸上に限ればここ三万年ほどの間にたったの十回、つまり平均三千年に一度しか起きていない」から、この火山群をむやみに恐れたり、嫌ったりすることはまちがいだ、とも述べています。この火山群がなかったらおそらく熱川などの自噴泉などもなかったし、伊豆高原や城ケ崎海岸も存在せず、場所によっては海岸線が2km以上も後退していた。伊豆半島の造形美も湯ヶ島層や白浜層、その上に乗る鮮新世−更新世の火山群の活動のおかげだし、そういう自然の恵みを認識してもらうためにも、今回の地質図発行はすばらしい試みだと思う。ときたま、買い物のついでに富士山の湧水で有名な柿田川源流部に行くこともあるけれど、観光で来ている方が、「きれいだねー」と歓声をあげている光景を見かける。最近ではヴォランティアの方々がこうしたお客さんを案内する試みも盛んになってきていますが、やはりただ「きれいだねー」と言い、温泉に入って終わり、という従来型観光からの転換を真剣に考えないといけないような気がする。ことばを変えると、観光で遊びに来る方も、伊豆半島に住んでいる住民も、いまや「自然環境」というものに無関心ではいられない時代ですし。今回の地質図発行は、あらたな観光産業のあり方についても一石を投じるものだと思います。

 造りは手を抜いていないけれど、価格は500円とお手ごろなので、近いうちに買ってみます。

2009年03月22日

特異な地質景観を生かせないか

 伊豆半島は温泉保養地として長い歴史があり、かつては文人墨客が静養のため、あるいは執筆の構想を練るために足しげく来訪してはこの地の風習や文化を織りこんださまざまな傑作を残してきました。最近では「グリーンツーリズム」が注目され、いままであまりにも当たり前すぎて見過ごされてきたものを生かすこと、たとえば漁師体験とか「棚田オーナー」として米作りに参加してもらうとか、また自然観察を兼ねたハイキングで汗を流したあとは温泉宿に泊まってもらうといった、あたらしいタイプの観光産業が伊豆半島でも盛んになってきました。以前より自分も環境破壊を伴い、一部の利害関係者の利益にしかならない従来型の「観光開発」というものでは伊豆半島にもともとある「かけがえのない宝」をどんどん失うだけと考えてきたから、「もともと地元にある'宝'を再発見してこれを観光客誘客に生かそう」という発想がようやく定着してきたかもしれない、とひそかに期待しています。

 でもひとつだけ、なぜかいまだに有効活用されていない気がするものがあります――それが伊豆半島そのものをかたち作っている特異な「地学的景観」です。伊豆半島にはなぜ温泉がそこここで湧出しているのか。いま松崎の休耕田を利用した「花畑」が見ごろを迎えていますが、田んぼのすぐ脇に松崎温泉の源泉が湧いていたりします。またなぜ堂ヶ島の「天窓洞(てんそうどう)」はなぜあのような美しい白色の岩からできているのか。なぜ「天窓」が口を開けた大規模な海蝕洞窟になっているのか。大潮の時期になると海面がふたつに割れて沖の島まで道ができる三四郎島の「トンボロ現象」は世界的に見てもひじょうに珍しいし、ここでも何度か書いた黄金崎(こがねざき)のあの奇観はどのようにしてできたのか。またなんで伊豆西海岸には沼津市の大瀬崎や戸田漁港の御浜(みはま)岬、安良里(あらり)漁港の網屋岬のような「北へ伸びる砂嘴」が発達して独特な景観を作っているのか。また「掘れば金が出て、温泉まで出た」土肥金山をはじめ、伊豆半島にはかつて金・銀・銅・マンガンなどの鉱山がいたるところにあったし、アスベスト処理工場建設予定地にされてしまった宇久須(うぐす)の白土山は、ほぼ100%に近い珪石を産出して日本のガラス産業を支えてきた歴史がある(河津温泉では、かつての金鉱の坑道から湧いた源泉を引く設備がいまだに現役)。伊豆西海岸にかぎっても、北は大瀬崎(おせざき)から南の波勝崎(はがちざき)まで、ひと目で見てそれとわかるほど多種多様な地学的景観の連続で、これだけでもツアーが組めるのではないかといつも思っています。半島一円を見てみれば、北の三島には新富士火山の「三島熔岩流」終端からこんこんと湧き出す「三島湧水群」と有名な「柿田川」があり、半島中央の田方平野には函南町から伊豆市修善寺にかけて30km以上にもわたって伸びる「丹那(たんな)断層(露頭の一部は国指定天然記念物)」があり、その先の旧中伊豆町下白岩(しもしらいわ)地区には古代の海に生息していた熱帯性大型有孔虫の「レピドサイクリナ」化石の産地もある(有孔虫化石は地層の堆積年代を示す「示準化石」として貴重なもの)。伊東市や東伊豆町あたりは「東伊豆単成火山群」がひしめいて、山焼きで知られる大室山はプリンみたいなかたちの独特な山容を見せているし、それらあたらしい時代の火山群から流出した大量の玄武岩熔岩が相模灘に雪崩れこんでできたのが城ケ崎海岸。「雛のつるし飾り」でも知られる稲取漁港北側にある通称「トモロ岬」にはこれまた珍しい「奇岩・はさみ石」があり、大川温泉手前の国道沿いには「ライオン岩」なる奇岩もある。また南伊豆町の下賀茂温泉は、半島一「自噴泉」が多いと言われていて、文字どおり下賀茂地区のあちらこちらで自噴泉が湯煙を上げていますし、「弓ヶ浜」や「白浜」、下田市田牛(とうじ)地区は美しい白砂の浜で有名です。また西伊豆(とくに沼津市内浦湾)は典型的な「沈降海岸(リアス式)」であるのにたいし、下田から伊豆東海岸へまわるとあきらかに地層が持ち上がり、それが波蝕を受けて台地状になっている「隆起海岸」に変わっているのも半島の海岸地形の特徴でもある。これはもちろん、太平洋側で繰り返し起きる「海溝型大地震」に起因するものです。とにかくかぎられた範囲でこれだけヴァラエティに富んだ火山地形と岩石層が見られる場所というのは全国的に見てもそう多くはないはず。地学好きにとっては伊豆半島はまさに「楽園」みたいなところです。バラバラになった点と点とを一本に結びつける試みがもっとあっていいのではないか、と思います。「自然観察」とくると植生や動物の観察とかになりがちですが、伊豆半島では植物相もこの特異な地質構造に由来する場合がとても多い。やはり地学的景観もふくめて企画化したほうがいいように思う。シーカヤッカーにとっても、このアプローチはけっこうおもしろいのではないかとも思います。げんにカヤックでしか行けない海蝕洞窟はたくさんあるし、記事中引用したブログの掲載写真を見まして、その造形美と透き通ったエメラルド色の海の対比はまさに強烈な印象です。

 以下、ざっと伊豆半島の成り立ちについてメモしておきます。伊豆半島の基本的地質構造は三階建て。土台の「湯ヶ島層群(西伊豆町仁科川沿いにはさらに古いと言われる「仁科層群」の露頭があるけれど、いまのところは「湯ヶ島層」を最古層とする見方が一般的)」、その上を不整合に堆積して覆っている「白浜層群」、その上に乗っているのは鮮新世−更新世のあたらしい火山群。西伊豆の「猫越(ねっこ)火山」、「棚場火山」、「達磨火山」、「蛇石(じゃいし)火山」とか、中伊豆から東伊豆にかけては「天城火山」、「宇佐美火山」、「多賀火山」とかがあります。伊東あたりはさっき書いた「東伊豆単成火山群」がさらに乗って、1989年7月に突如噴火してわれわれを驚かせた「手石海丘」もこれら単成火山群の活動と考えられています。大室山もあたらしい単成火山(スコリア丘と呼ばれるもので、活動したのは4000 - 3500年くらい前。地学的にはつい最近のことで、時代的にはツタンカーメン王あたりが生きていたころ。「東伊豆単成火山群」のひとつ「カワゴ平」火口からは、石英安山岩質軽石からなる大火砕流が発生して現在の伊豆市筏場(いかだば)地区を埋め尽くした。その規模は雲仙普賢岳火砕流の2倍と言われる。そのとき蒸し焼きにされて埋没した「神代杉(じんだいすぎ)」と呼ばれる巨大な炭化木がときおり掘り起こされたりもしている(→伊豆半島地質略図[出典:『ふるさとの自然 伊豆編』静岡県 1988])。→地層全般についてWikipedia記事

 最下層の「湯ヶ島層」が海底火山として活動したのは2000万年くらい前から1600万年前にかけて。そのころの地球は超温暖気候で、日本列島あたりは小島が点在する多島海だったと推定されています。伊豆半島はフィリピン海プレートの最北端に位置し、プレート北進とともに日本列島付近までやってきた、いわば「ひょっこりひょうたん島」。「湯ヶ島層」堆積後、ふたたび沈降した「湯ヶ島層」の浅い海ではあらたな火山活動がはじまった。これが白浜や堂ヶ島などで見られる、美しい模様(クロスラミナ、斜交層理)の目立つ白色砂質凝灰岩からなる「白浜(原田)層群」。このとき以降、鮮新世あたりにかけての火山活動による貫入岩や熱水活動によって土台の「湯ヶ島層」をつくる安山岩が激しい変質を受けて、緑色がかった変朽安山岩(プロピライト)に変化しているのも大きな特徴。黄金崎一帯ではその後硫化作用(箱根大涌谷の光景をイメージするとわかりやすいかも。また箱根火山の土台も湯ヶ島層群)・珪酸分(SiO2)に富む熱水の影響(珪化作用)が強く働き、硫黄や酸化鉄などでさらに変質と風化が著しく進んで、黄褐色・赤褐色のたいへんめずらしい色の大露頭を見せている(静岡県指定天然記念物。かつては旧国道がここの深い切り通しを抜けて走っていたが、風化の激しい岩石ゆえに崖崩れもたびたびで、残念ながらいまは廃道)。また宇久須(うぐす)の白土山や西天城高原ではこの「湯ヶ島層」が稜線を形づくり、「猫越火山」などのあたらしい鮮新世火山によっておなじような変質作用を受け、岩石中の二酸化珪素以外の成分が抜けてスカスカになった「珪石」になっている。またこの周辺では明礬石も産出している。猫越岳の火口湖は「伊豆山稜線歩道」沿いにあって、観察できる(→伊豆半島の生い立ち)。

 「白浜層」堆積後、鮮新世−更新世にかけて大規模な火山活動がはじまる。天城山や達磨山などがこの時期に形成された。達磨山ではハワイの火山に見られる「アア熔岩」などのきわめて粘り気のない熔岩が流出したため、ひじょうになだらかな山容になっている。また一説では戸田(へだ)漁港の入り江はかつての火口の一部で、火口は海に向かって口を開けていたらしい(楯状火山と言われる)。その後、現在の伊東市−東伊豆町を中心に「単成火山群」の活動が活発化し、大室山から流れ出た玄武岩質熔岩は八幡野(やわたの)・先原の台地や、城ケ崎海岸を形成した。伊豆半島が本州と衝突したのは約100万年前。これより先に丹沢山地が500万年くらい前に本州と衝突している。フィリピン海プレートの北上ともぐりこみがあっても伊豆半島が消滅しなかったのは、半島全体が熱水で温められた「軽い地殻構造」だったからだと言われている。南アルプスの急激な隆起と、富士・箱根・愛鷹といった大火山が伊豆半島の北側に集中している理由もフィリピン海プレート、北米(オホーツク)プレート、ユーラシア(アムール)プレートの三つがここで衝突しているから。それゆえ富士川より東側の静岡県東部地域には新生代第三紀中新世以前の古い地層はなく、中生代以前の古い地層群は富士川から西側、静岡−糸魚川構造線(フォッサマグナ)より西側に露出している(→参考ページ)。本州弧が逆「くの字型」にゆがんでいるのも伊豆半島の衝突が原因。

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最後に参考プランをちょっと追加しておきます。

1). 沼津市香貫山から南へ伸びる通称「沼津アルプス(香貫山地)」。白浜層からなる起伏に富んだ低山の連続で、一部湯ヶ島層の「プロピライト」が露出している(徳倉変朽安山岩層。八重坂峠・横山付近、下画像参照)。また田方平野から西側に連なる「香貫山地」の侵食の進んだ山並みと、反対側の玄岳(くろたけ)など更新世に活動したあたらしい「多賀火山・宇佐美火山」のなだらかな稜線を見れば、前者のほうがはるかに古い火山であることは一目瞭然。狩野川をはさんで西と東とで、時代の異なる火山が相対している。

徳倉変朽安山岩層の露頭


2). 淡島から西浦の海岸線、大瀬崎まで。淡島はいわゆる「溺れ谷」地形で、海に沈んだ白浜層群静浦山地をつらぬく複輝石安山岩からなる「貫入岩体」の一部。近くの伊豆の国市・大仁城山(おおひとじょうやま)の垂直にそそり立つ岩山は、周囲の凝灰岩などの柔らかい岩が侵食されてなくなったあとに取り残された安山岩質のマグマ部分が露出したもの(差別侵食)。ダイバーでにぎわう大瀬崎には、国指定天然記念物のビャクシンの最北限自生地であり、「伊豆の七不思議」のひとつ「神池」と呼ばれる真水の湧水池にはコイやフナが生息している。大瀬崎の付け根付近の海蝕崖には更新世に活動したとされる大瀬火山のアア熔岩層が美しいバウムクーヘン上の模様をなして露出している(↓は井田火山噴出物からなる絶壁に自生するヤマザクラやオオシマザクラ)。

井田火山噴出物の海蝕崖に咲く自生のさくら


3). 土肥金山めぐり。伊豆半島の温泉の泉源はすべて湯ヶ島層からで、近くの安楽寺にある「まぶ湯」もその名残り。また「龕(がん)附き天正金鉱」も貴重で一見の価値あり。熱水変質作用が広範囲におよんだ地域では石英脈に金銀鉱床を生じることが多いから、掘れば温泉のみならず、金・銀・銅・マンガン・硫黄鉱床も産出した。

4). 黄金崎から安良里港。黄金崎で典型的な珪化作用を受けた湯ヶ島層の「プロピライト」大露頭を観察したあと、「きんちゃく港」を形づくる網屋岬の砂嘴に立ち寄るコース。網屋岬にある「浦守神社」付近はウバメガシとハマボウ・ハイビスカスの大群落地。入り江の反対側になるので、歩くより手っ取り早く行ける貸しボート利用がおすすめ(ただし地元漁船の航行に注意。3枚目の画像がハマボウ・ハイビスカスの自生群落)。

黄金崎プロピライトの海蝕崖

夕映えの黄金崎プロピライト

網屋岬のハマボウ・ハイビスカス群落


5). 瀬浜のトンポロ現象。沖に浮かぶ三つの石英安山岩の島まで地つづきになる「トンボロ現象」が見られる。春と秋の大潮の時期がおすすめ。潮溜まりでは色鮮やかなウミウシなどの生物も観察できる。北隣の浮島(ふとう)海岸には逆断層つきの海蝕洞門があり、ボートで通り抜けられる。

浮島海岸の海蝕洞門から三四郎島


6). 堂ヶ島洞窟めぐり。くわしくはこちらで。南側の安城岬も近年整備されて、岬先端まで楽に行けるようになったのでこちらもおすすめ。亀の甲羅のかっこうをした「亀甲岩」が見られる(→行った方の記事)。最初の画像は、蛇島(じゃじま)に見られる地層の乱れ、「スランプ構造」。これは激しい火山活動のさい巻き上げられた浅海底堆積物、あるいは海底地すべりですべった堆積物の地層で、白浜層群の活動期にここが浅い海だったことを示す証拠。二枚目は天窓洞入り口付近で見られるクロスラミナ(斜交層理)。

蛇島(じゃじま)のスランプ構造

堂ヶ島天窓洞のクロスラミナの発達した白色砂質凝灰岩層

堂ヶ島の白色砂質凝灰岩層


7). 南伊豆町波勝崎と入間(いるま)の千畳敷めぐり。波勝崎はお猿さんで有名ですが、「伊豆の赤壁」と呼ばれる落差250m以上の赤みがかった石英安山岩の大絶壁がすばらしい(→シーカヤックで行った方の記事。昔は堂ヶ島から遊覧船が出ていたけれども、いまは廃止されたのかな?)。その先の妻良漁港には石英安山岩の貫入岩体が見られる。奥石廊崎の「あいあい岬」北側の入間地区から三ツ石岬にかけて遊歩道を進むと江戸時代の石切り場跡の「入間千畳敷」に出られる。ここは南伊豆では数少ない砂岩層(下賀茂砂岩層)の大露頭で、海食台地形をなしている。

奥石廊崎海岸から見た三ツ石岬方面


*…引用参考サイト: 「伊豆の大地の物語」。ほかにも数冊の関連文献ならびにコピーを参照しました。↓は、おまけ画像。昭和30年代後半の黄金崎切り通しを抜ける旧国道136号線。

おまけ:昭和30年代の黄金崎旧国道


2009年01月30日

ゴルフリゾート開発のときとまったくおなじ

 アスベスト。英名asbestos、もとはラテン語経由のギリシャ語で、「消されないもの」から。アスベストは角閃石系と蛇紋岩系と大別され、日本では2004年に全面使用禁止されるまで、温石綿とも呼ばれるクリソタイル(白石綿)がふつうに(!)使われてきた。かくいう自分も小学生時分、理科の実験でビーカーに入れた水溶液をアルコールランプであぶったとき、「石綿」付きの金網をビーカーの底に敷いたりして、ふつうに(!)触っていた。そういえば体育館の屋根には剥き出しで吹き付けられていたような気がする(いまはもちろん、そんなことはない→文科省のページ)。

 世界的に見てアスベストの使用禁止状況はどうなっているのか…と思ってしばらくWebを検索してみると、愛媛労働安全衛生センターのサイトに簡潔に説明してあるページを見つけた。そして日本でいままで使われてきた白石綿は、ほとんどがカナダから輸入されたものであることもはじめて知った(→参考ページ)。今後、解体工事から回収されたり既存建物のアスベスト除去工事から出るアスベストの総量が急増するという。現在、こうしたアスベストの処理はポリ袋で二重に密閉してから埋め立てる方法が主流ですが、今後は埋め立て処分場じたいが不足する。そこで、環境省は税制上の優遇措置を打ち出して、アスベスト無害化処理を推進しようとしているらしい。ようするに無害化処理事業は商売になる、ということです。

 こんな前置きをしたのも、このたび突然、以前のNHK-FM廃止問題のごとく、まったく「藪から棒」に、大都市圏から廃棄されたアスベストを大量に持ちこみ、「高温溶融炉」で溶かして有害な繊維を除去して無害化し、ふたたび道路用資材として再利用するための処理工場を西伊豆町宇久須(うぐす)地区に建設するという話が持ち上がったからです。この話を知ったときはほんとうに驚いた。アスベストの無害化処理…についてはたとえばすでに除去現場で処理できる可般式小型融解炉が造られている。実用化されているのかどうかまではわからないが、けっきょく今回の話に出てきた、「国内最大級のアスベスト高温溶融炉」というのも、実用に耐えられるレヴェルではないと思う。こういうご時世、建設業者はすぐ「環境」とか「リサイクル」とか「雇用」とか甘言を並べたてる。「雇用」といっても地元から雇い入れるのは十数人。しかも首都圏や中部圏といった大都市からかき集めたアスベストに暴露されるような職場にはたしてどれだけの人が集まるのだろうか。この誘致話に賛成している人は、御殿場・小山RDFセンターの失敗例を思い出すべきだ。そしてこういう業者の最後の決まり文句はたいてい「地域の利益」だ。ようは業者のセールストークに騙されないことが肝心かと。そしてこの話を知ったとき、ただちに思い出したのがバブル絶頂期のゴルフリゾート計画。今回とまったくおんなじで、「はじめに開発ありき」で話は進み、現地事務所も建てられた。このときたまたま区長をつとめていた伯父さんと言い争いしたことをいまでもよく憶えている。そんなもん造ったところでなんの利益にもなりゃしない、と。当時は全国でこんな開発話がもちあがり、反対運動も盛り上がったけれども、ゴルフ場開発話が持ち上がった地区にとっては住民どうしの対立から禍根が残ったところも多いはず。旧西伊豆町・旧賀茂村のゴルフリゾート開発計画はけっきょく対象区域山林を所有している地権者との交渉がまとまらず、またこのあとすぐにバブルがはじけたこともあって、けっきょく開発業者はみずから撤退したのですが、その後地元紙記事では業者の話としてこんな「捨て科白」が引用されていた。「西伊豆の人は人がよすぎる」。事前説明会が開かれたとか聞きましたが、しょせんこれは「はじめに工場誘致あり」の出来レース。少数の利害関係者が「秘密裏に」ことを進めておいて、あるていど話がまとまった段階ではじめて地元区民に説明会と称して了解を取りつけようとする。こんなだいじな話をなぜ広報紙に載せないのかといぶかる住民もいるがまったくそのとおりだ。この話、宇久須全六区の合意が取りつけられればそれでよしなんて話じゃないでしょう。安良里(あらり)や仁科、田子(たご)地区だってある。町長はじめ、行政側の責任は重大だと思う。説明責任もなにもあったものじゃない。それに今回はアスベストの再処理。こういう話が出ると決まって業者側は「ぜったい安全」とのたまう。ぜったい安全なんていう無責任なひと言ですませるなと言いたい(そしていざことが起きれば「想定外でした」と言い逃れするのが最近の悪しき風潮)。また溶融炉の保守にはいくらかかるのか。RDFセンターの失敗例とか、またこちらの記事のような事例もある。業者はそのへんのランニングコストもきちんと説明したのか。ぜったい安全ならば、東京から出たアスベストは先方で処理していただきたい。なんでまた毎日トラック40台(!!)も連ねて西伊豆くんだりまで運ばなければならないのか。エゴもいいところだ。運送途中で事故がおきたらだれが責任を取るのか。そしてこの問題は西伊豆町宇久須地区だけにとどまらない。アスベスト輸送路になる沼津市・三島市・函南町・伊豆の国市・伊豆市すべての住民の生命にもかかわってくる、きわめて由々しき問題でもある。

 大量のアスベストがもたらすかもしれない人体への危害ももちろんだが、西伊豆地方は豊かな自然を売り物にしている地域でもある。そこにアスベストがあるというだけで風評被害が伊豆半島全域に広がるのは容易に想像がつく。それを知ってか知らずか、当の開発業者は地元紙記者にたいして「観光産業との共存は可能だと思う」なんて平然と言ってのけた。「思う」ですと?! 取材した記者は、なにを根拠にしてそんなことが言えるのかと詰め寄ってもいいのではなかったか(また数日前から地元TV局もこの問題について報じています)。

 建設予定地は、旭硝子の子会社・東海興業が1937年ごろから昨年までガラス原料(近年は「ヘーベルハウス」とかの建材用)を採掘していた白土山のてっぺん。名前のとおり白く輝く珪石を大量に産出し、宇久須地区を代表する産業でもありました。現在、東海興業も出資した第三セクター会社によってガラス美術館が運営されているのは、そういう経緯があってのこと。はじめから地元にあった「宝」を生かしたこういう施設なり産業なりはまことにけっこうなことで、しかもいまは漁業体験とか農業体験とか、いわゆる「体験型グリーンツーリズム」というのがかなり注目されてもいる。黄金崎(こがねざき)はじめ、西伊豆町の美しい海岸線の沖は、いまや全国からダイバーたちを集めるようになってきてもいる。今回のアスベスト再処理工場誘致話は、「グリーンツーリズム」に汗水流してきた人たちの努力をすべて無にしてしまうものとしか言いようがない愚の骨頂と思うのですがいかが。また安心・安全が売り物の「地産地消」としての地元の食材が提供できなくなるかもしれない。西伊豆町は、いま公開されている「誰も守ってくれない」という映画のロケ地としても登場しているようですが、毎日160トン以上もアスベストを運んでくるようになったらこのようなロケ誘致もままならなくなるような気もする(ついでに「世界の中心で〜」というTVドラマは、となりの松崎町がロケ地でした)。風評被害、ということでは伊豆市土肥新田の国道136号が地滑りで落ちたとき、TV取材にかんして「風評被害」を訴える人もいた。そんなに「風評被害」が気になるのならば、「静かな時限爆弾」とも言われる有害廃棄物を大量に持ちこむ施設建設にどうして賛成できるのだろうか、とも思う。賛成している人たちには悪いが、矛盾してますね。また山のてっぺん、ということは、冬の西風をもろに受ける。万一アスベスト粉塵が飛散したらそれこそ目も当てられない。伊豆半島の西側の尾根なので、北西寄りの強風が吹きまくればいともかんたんに、「踊り子」の格好をしたバスガイドさんの乗車するボンネットバスの行き交う天城峠あたりまで飛んでいくでしょう。また「ならい」と呼ばれる冷たい北東風が吹けば、こんどはアスベスト粉塵がダイバーや漁師さんたちのいる駿河湾まで飛散するでしょう(↓は、1996年に撮影した西天城高原の育成放牧場。後方に白っぽい切羽を見せているのがアスベスト再処理工場建設予定地である白土山の珪石採掘場)。

西天城高原から白土山


 今後は廃棄アスベストが大量発生するので、たしかにこの手の施設は必要なんでしょうが、わざわざ長距離輸送してまで地方にもってくることはない。国とお役人の怠慢のツケを地方に押しつけるな。好景気だろうと不景気だろうと、結果的に地方を食い物にするだけの開発話がなくなることはない。不幸な話としか言いようがない。言いようがないとばかり嘆いていてもはじまらないので、ここは草の根で、ひとりひとりが動くことが大事だと思う。なので自分も反対署名を集めることにしました。ご賛同いただける方は、ぜひとも協力してほしいと思います(↓のバナーから署名用紙がダウンロードできます。なおこのバナーは、本家サイトのトップページにも貼ってあります)。

 自分が子どもだったころ、夏休みを過ごしたお婆さんの家の前の旧国道をひっきりなしにダンプが往き来していたのを思い出した。砕石場のある関係で田舎のくせにダンプ街道だったし、当時の地元広報紙を見ても交通事故を心配する親御さんの声が載っていました。もしアスベスト再処理施設が稼動しはじめれば、毎日40台も猛毒物質を満載したトラックが排ガス撒き散らしながら伊豆西海岸を往復することになる。これで道路が傷めば土建屋は儲かるかもしれないが、目先の利益とそこに住む人、とくに子どもたちの将来とをトレードオフにしてほしくない。宇久須の柴地区には正月行事として、「賽の神」という小正月の伝統行事があります。子どもたちが出崎神社に奉られている石仏を持っては各家を回り、「払いたまえ、清めたまえ」と一年間の無病息災を祈願するものです。願わくばこの話も賽の神さまに「払って」もらいたいものです(追記:署名は2月末をもって締め切りました。5千名以上の方の貴重な署名が集まったとのことです。まだ業者は正式に撤退していませんが、先月おこなわれた町長選挙で当選した新町長も、住民投票の結果を尊重するということですので、おそらくこの計画は白紙撤回されるものと思います)。

黄金崎夕景


2008年12月30日

夕陽は西伊豆の財産

 ここのところ風景写真を撮る暇がなくて、前回西伊豆に写真を撮りに行ったのが――ホルスト作曲の「木枯らし吼えたけり('In the bleak midwinter')」じゃないけれども――冷たい西風吹きすさぶ3年前のクリスマスの日。この時期はやっぱり富士山と夕陽。週末に行ってみることにした。

 いつだったか地元紙夕刊に、ときおり撮影に行く黄金崎(こがねざき)で村営(いまは合併して新西伊豆町)研修センター兼レストラン支配人だった方が寄稿されていて、そのお題がいかにもこの岬にふさわしかったことを思い出します――「夕陽は黄金崎の財産」。たしかにここの夕景はおそらく日本でも、いや世界的に見てもひじょうにユニークで、何物にも代えがたい魅力があります。風化侵食の進んだ、黄褐色・琥珀色の荒々しいプロピライト(変朽安山岩)断崖絶壁が夕陽を照り返し、文字どおり黄金色に染まるさまはいつ見ても感動的だし、駿河湾のかなたに沈む夕陽の眺めも荘厳ですばらしい。だいぶ前に常盤新平氏が地元紙に静岡の山間部を舞台にした小説を連載していたとき、作中人物がこんなことを言っていた――「わさび田の修道院」。黄金崎の荒々しい断崖と大海原に沈む夕陽は、まさに自分にとっても厳かな修道院か、大聖堂の大伽藍から受ける感動に近いものがある。とはいえ駿河湾に沈む夕陽というのは、伊豆西海岸のどこにいても見られるもの。写真を撮るほうから言わせると、四季折々に夕陽の表情は異なっていてそれぞれいいものだとは思うけれど、やはりこの時期、11−12月の、冬至をはさんだ時期がもっとも美しい。撮影地ガイドみたいな本には、ときどき「西風が強く吹きつける時がチャンス」みたいなことが書いてあったりするけれど、そうともかぎらない。かえって大気中の塵を巻き上げて富士山がかすんで見えなくなったりする。西風が収まったあとのほうがくっきりクリアに見えたりする。そんなときは富士だけでなく遠く南アルプスもはっきり望めます。まさに日本一の絶景。これだけお膳立てがそろった海景というのはそうないのでは、と思う。

 ひさしぶりに訪れた日は絶好の写真日和でして、コンパクトデジカメとカラーリヴァーサルフィルムを入れた35mm一眼レフと両方で撮ってました。しかも前日まで吹きまくっていた西風もなくてひじょうに幸運だった。岬背後の山の急斜面を登ったり、磯釣り師の開拓した(?)崖伝いの踏み分け道にも行ってみたり。あちこち登った下りたしていたら、すっかり膝が痛くなった(笑)。でもここの海蝕崖の色ほど、再現の難しい色合いもないのではないかといつも感じる。目で見たようにはなかなか撮れない。露光にもよるとは思うけれども、陽射しを受けると海蝕崖の酸化鉄とか硫黄成分が「焼け」て照り返す、その色合いがうまく出ない。それにしても『獣の戯れ』でここの岬の情景を的確に描写した三島由紀夫はほんとみごととしか言いようがない。「…船首の左に、黄金崎の代赭(たいしゃ)いろの裸かの断崖が見えはじめた。沖天の日光が断崖の真上からなだれ落ち、こまかい起伏は光りにことごとくまぶされて、平滑な一枚の黄金の板のように見える。断崖の下の海は殊に碧い。異様な鋭い形の岩が身をすり合わせてそそり立ち、そのぐるりにふくらんで迫り上がった水が、岩の角々から白い千筋の糸になって流れ落ちた」――風景描写とはかくあるべし、みたいな名文です(この一節は岬展望台の一角に立つ「三島由紀夫文学碑」にも刻まれている。またこのすぐあとに出てくる安良里港入港の風景描写も負けず劣らず巧みで美しい)。

 富士の眺望は最高だったけれども、残念ながらちょうど夕陽の沈む方角になかなか取れない雲がありまして、せっかくの美しい夕陽もかんじんの光が弱くなってしまい、夕景としてはいまいちだった。夕陽に染まる雲の模様はおもしろかったけれども。

 伊豆西海岸には黄金崎のほか、太田子(おおたご)海岸とか堂ヶ島、松崎の南に位置する岩地・石部・雲見の三浦(さんぽ)地区など、松をあしらった奇岩怪石の海岸線がつづき、それぞれに趣のあるすばらしい夕景が見られるし、またおなじ夕陽でも荒々しい断崖から眺めるのと人の住む入江ごしに眺めるのとではだいぶ印象も変わる。入江ごしに望む夕陽は、なんかほっこりしていてなごみます。かつて川端康成は、「伊豆は海山の風景の画廊」と絶賛したけれども、それぞれに個性的な夕景の見られる西伊豆にとって、駿河湾に沈む雄大かつ荘厳な夕陽こそ西伊豆を西伊豆たらしめているかけがえのない財産だと思う(追記。いま画像に埋めこまれたexif情報を見たら、時刻表示がかなり狂っていた。orz さっそくデジカメの設定を修正しておきました。この時期の静岡地方における日没時刻は16時36-40分くらいですね)。

黄金崎の富士

黄金崎夕景

駿河湾に沈む夕陽



2008年09月28日

狩野川台風から50年

1). 今月26日は伊豆半島、とくに口伊豆と呼ばれる狩野川流域に甚大な被害をもたらした1958年の通称「狩野川台風」襲来からちょうど半世紀の節目の日になりました。旧修善寺町熊坂地区や旧大仁町白山堂、旧中伊豆町筏場(いかだば)などは大量の土石流と洪水に人家も田畑もすべて呑みこまれ、東日本の台風災害では最悪の被害だったと言われています。図書館で伊豆半島の郷土史を綴った本とかに掲載された当時の報道写真とか見ますと、ほんとうにひどい、言語を絶する惨状です。いま手許に地元紙朝刊の特集記事があるんですが、当時の修善寺中学校など、校舎が完全に消滅している。伊豆半島だけで死者1千人以上も出しています。ちょっと脱線するけどその2年後、1960年夏に小説家三島由紀夫(三嶋大社にちなんだペンネームらしい)が当時の定期船「竜宮丸」に乗船して黄金崎(こがねざき)の断崖を見ながら安良里(あらり)漁港にやってきて、「宝来屋旅館」に二週間逗留、この漁村を舞台にした新聞連載用の長編『獣の戯れ』を書いています(作品はいまも新潮文庫から出ていて、はじめのほうに出てくる黄金崎には三島の父親が揮毫した文学碑がイソギク群落に囲まれて建っている)。

 それにしても思うのは、戦後間もないこの時期には「超」がつくくらいの大型台風が集中的に日本を襲っているということ。伊勢湾(1959)、第二室戸(1961)、アイオン(1948)、洞爺丸(1954)…ちょうどこのころは大気圏内でさかんに核実験が行われていた時期でもあるし、なにか関係でもあるのだろうか。地震も多かった。1923年の関東震災以降、1930年の北伊豆地震(「丹那断層」が30km以上にもわたって出現)、1944年の昭和東南海地震、1946年の昭和南海地震…と活動期だったことがわかる。たしか「東海地震説」の先生がバブル期に刊行した『大地動乱の時代』という新書があったと思うけれども、ここ数年、大きな地震が多いし、気になる点ではある。

 自分は狩野川台風を知らない世代ではあるけれど、2004年にひやりとした経験をした。たしか10月はじめごろだったと思うけれども、西伊豆町堂ヶ島海岸付近に上陸、あっという間に伊豆半島を西から東へ駆け抜けていった平成16年第22号台風(→関連記事)。戦後上陸した台風では史上最強と言われたあの台風は、奇しくも狩野川台風とおんなじ22号、しかもそのルートまでよく似ていた。その数日後に西伊豆に出かける用事があったのですが、道路はあちこちで寸断されたままでした。台風通過のスピードがあまりに速かったため、童謡「みかんの花咲く丘」にも歌われた伊東市宇佐美(うさみ)地区では山側から吹き降ろす猛烈な突風被害がひどかった。鉄砲水による被害もあったし、神社がまるごと倒壊したりもした。いまの狩野川には内浦湾に排水する放水路があって、警戒水域を越えると、ゲートを全開して増水した分を排水するようになっているから、放水路完成後、狩野川流域では甚大な洪水被害は起きていません。とはいえ昨今のゲリラ豪雨による突発的な出水はそれこそ毎年のようにあって、大場川流域とか沼津市大平地区とかは浸水被害の常襲地帯。思うんですが、「雨水浸透枡」のたぐいをもっともっと普及させたほうがいいのではないのか。もっともこれは上流の市町もいっせいに設置しないとあんまり効果はないとは思うが、なにもしないよりはましだと思う。そういえば2004年の22号台風被害の大きさをあらためて感じたのは、翌年春、見納めのヤマザクラの写真を撮りに船原(ふなばら)峠に登ったときのこと。バスはバイパス経由なので、旧道(国道136号)をのんびり歩きながら写真を撮っていたのですが、「頼朝の運試し石」からそのまま歩いて旧道を下って伊豆市側に出ようと思っていたら、突然バリケードが道をふさいでいて通行止め。看板を読んでみたら、22号台風の災害復旧工事のためだと知って驚いた。半年ほど経過してもまだ復旧してなかったのです。旧道はどうもこの先で道路ごと崩落していたらしい。どうりでいまさっき峠を登っていった通過車両がまた引き返してきていたわけだ。ついでながら伊豆市土肥新田地区の国道地すべり崩落現場については、いまはまだ片側交互通行の仮橋ですが、今年中には完全復旧するみたいです。それにしてもここのソメイヨシノ並木は強いな! 道路とともにだいぶ下のほうにずるずる落ちてしまっているけれども、ちゃんと花は咲かせていたのだから! 

2). 花と三嶋大社…が出てきたついでに、先日、大社に行ってきました。そう、松坂投手が結婚式挙げたところです。ここの境内には樹齢約1200年と言われるウスギモクセイ(薄黄木犀)の大木が鎮座してまして、なんとこの樹、満開の時期が二回あるんです。で、初回は惜しくも逃した(苦笑、すぐ近くにいながらカメラをもってなかった)。秋分の日、ふと思い出して大社サイトをのぞいたら、二回目の満開になりそう…と書いてあったので、デジカメひっつかんで嬉々として出かけました。書いてあったとおりにみごとな満開! そして馥郁とした香りがまた強烈。1200歳の老木がこうして可憐な花を咲かせて、その前で1歳くらいの幼児がたたずんでいる。最近涙腺がめっきり弱くなってしまったので、こういう光景に出会うとかなりぐっときますね…。季節柄か、七五三連れもちらほら見かけました。天気もよくて、「モクセイ日和」でした。ついでに最近、三島の町を歩くと必ず目につくこののぼり。「富士宮焼きそば」もそうだけど、いまは各地でご当地グルメが花ざかり。地産地消という観点からすれば、とても環境にやさしい取り組みだし、自給率も上がるしいいことだと思う。え、みしまコロッケの味ですか? 個人的にはやや微妙…かも(微苦笑)。よく言えば昔ながらの素朴な味、と言ったところでしょうか。それでも先日、三島市内のフレンチレストランの店先で買った「みしまコロッケ入りパニーノ」はちとお高いがお昼にはぴったりかも(→公式サイト)。

大社のキンモクセイ1

大社のキンモクセイ2

大社のキンモクセイ3

↓は、大社を出た後で見かけたもの。おまけ画像です…。

おまけ画像


2008年09月06日

東日本最古の畑跡か?

 ひさびさに本家サイトデザインをいじっくってました…冷房もない部屋で汗だくになって。扇風機? ええ、もちろんフル稼働中ですが、わたしというよりノートPCに向けています(苦笑)。どこかのメーカー製ノートじゃないですが、発火したらそれこそ冗談ぬきで困りますし。そうそう、低価格帯の代表格UMPCの普及にも一役買った「XO」マシン、こんどはAmazonと手を組む…らしいです(→BBCの記事国内関連記事)。今年は具体的になにがどうなるのかまだはっきりしないけれども、ひょっとしたらこんどは日本でも入手できるようになるのかしら? 

 本題にもどりまして…ラテン語版航海』の原型、アーキタイプが編まれたのが8世紀から9世紀にかけてじゃないかと言われています。古い時代の人が残したものにはおおいに興味があるほうなので、たとえばつい先日、静岡市駿河区の遺跡で出土したという畑跡の話題も興味津々。なんと東日本最古なのではないかという!! 弥生中期初頭の2300年くらい前のものらしい…こういう遺構がミカン山の斜面にいままで埋まっていたんですねぇ。ちなみに登呂遺跡には住居跡と耕作地跡がありますが、こちらは弥生後期のものと言われています。いずれにせよ今回発見された畑跡についてはくわしいことが判明するのは、もう少し先のことになりそう。

 …地元紙ついでに、こんな記事も載ってました。放牧中の牛とか羊って、たいていみんなおんなじ方向に向いていますね。統計をとったら、どうも南北方向がもっとも多いらしい。しかもこれ、なんとあのGoogle Earthを使って衛星写真にばっちり写っていた牛8510頭(!!)の体の向きを分析したんですと!!! こっちのほうがもっとびっくりだ。牛まで写っているとは…いまさっきリンク先確認のためにひさしぶりにBrandon Creekの衛星画像を見てみたら、知らないあいだにずいぶんいろんなことができるようになっていてやっぱり驚きました…山肌の色と太陽光線の向きからして撮影時期は冬らしいですが、以前、この写真は大縮尺のものしかなくて、拡大表示ができなかった。それがいまでは…入江に伸びる道路も点在する人家も堤防も、入江に注ぐ小川にかかる橋まで確認できる!! …写真サイトとも連動していて、ここを訪ねた旅行者の撮った写真画像のリンクまで表示されたり、地名まで表示できたりする。ブランドン入江の写真撮った人のなかには富士山を撮った人までいまして、箱根・仙石原あたりから撮影したということが画像の隣りにばっちり表示される…しかも周辺の観光施設とかホテルとかも地名とともにしっかり表示されるからさらに驚く。…ストリートヴューでしたっけ、Googleはいろいろと野心的で革新的な試みをつぎつぎと繰り出すおもしろさはあるけれど、ここまで「丸見え」だとちょっと引いてしまうというか、いささか不安も感じる。

2008年04月05日

花ざかりの伊豆西海岸にて

 松崎のお花畑を見に行ってきました。昨年はここにも書いたように、かんじんのさくらが惨憺たる状態だったので、風景写真好きとしては「今年こそ」という思いが強かった。けれども「伊豆半島沿岸部のさくらが満開になった」と一報を聞いた先週末、あいにくの雨・風(ほかの花にとっては催花雨と言ってしまえばそれまでだけれども)…orz orz。…さいわい、この一週間はひじょうにおだやかな日和がつづき、おまけに夜は真冬なみに冷えこんでくれたおかげで満開の花があまり散らずにもってくれた。現地に行ってみると、行く先々でソメイヨシノやヤマザクラが満開、満開。まさしく伊豆西海岸一帯が花ざかりの森、「山笑う」の状態でした。

 松崎町那賀川提沿いに植えられたソメイヨシノ並木はその数1200本とも言われ、農閑期の田んぼを利用したお花畑から県道越しに見ると、両岸ともに満開なので、まるでピンク色の幕がえんえんと川伝いに伸びているような、文字どおり桃源郷を思わせるなんとも言えない光景が広がっています。朝早くなにも食べずに出発したので、県道沿いにあるイタ飯屋さんでピッツァをいただいた(「大きいほうの」サイズを注文したら、想像以上の大きさにちょっとびっくり)。窓越しにワイルドフラワーの花畑と、満開のソメイヨシノ並木。花しか見えません(これでワインがあれば最高)。

 おなかが満足すると、歩き疲れた足を休めようと、地元有志の方が竹を組んで造ってくれた健康足湯に浸かり、しばし花ざかりの風景をただボーッと眺めてました。ここだけ日常から切り離されて、時間が止まってしまったかのようなあの感覚をふたたび抱きました(以前、堂ヶ島でべた凪の春の日に撮影していたときもまったくおなじ感覚に襲われた)。いい意味でも悪い意味でも、この国は平和だなあとつくづく感じた。もっとも「平和ボケ」は困るが…。いま戦争状態にある地域の指導者が宇宙船に乗って地球を眺めたら、たがいのいがみあいをつまらないことだと悟るのでは、というのはよく言われる譬え。そこまでいかなくても、ここへ来てみんなで足湯に浸かりつつ満開の花畑を眺めたら、たがいの心に抱く憎しみの情も薄らぐのではないかとも感じた。また日本が世界平和に貢献するというのは、どっかの国の言いなりになって自衛隊を海外派兵することではなくて、こういうことではないかとも感じる。ここ数年の動きは、いずれもなしくずし的で、「主権在民」と言いながらそのじつ国民すべての総意ではない。このへんたしかに戦前と似ているかもしれない。よくよくの注意が肝要です。

 足湯から出て、県道の反対側に行って川面を見れば、一面の花いかだ。自然風景が人間精神にあたえる影響というものはひじょうに大きいと考えているので、こういういかにも日本的な、四季のはっきりした気候とうつろいやすい風土が物事を白黒決めつけないあいまいな態度や無常観とか、「八百万の神」といった発想を生み出しているのではないかとも思う。逆に言えば、一神教的な発想は発達しにくい風土。またグノーシス主義のような、「現世をすべて否定した反宇宙論的二元論」というのも、このような風土に生を受けた人間ではありえない発想だと思う。足湯近くの花畑では、幼い子どもたちがうれしそうにはしゃいでいる。前にもちょこっと書いたことの蒸し返しになるけれど、感性の塊みたいなちいさな子どもには、「早期学習」なんていらんお世話。自然に感動する体験(sense of wonder)こそが必要で、そういう経験がまるでない子どもがやがて平気で人を傷つけ、殺してしまうような輩に成り果てるのではないかと感じる。先日、経済発展著しいインドで、受験のストレスが原因で自殺が急増している、という記事も見ました。似たような事例は、以前ここで紹介したビル・マッキベンの近著Deep Economyにも出てくる(p.196)。それによると、中国の66%の生徒が、押しつぶされそうなくらいの強いストレスを感じているらしい。それぞれお国の事情というのもあるでしょうが、人は生き生きしていることがなによりも肝心だと信じているので、こういう話を見聞きするとよけいなお世話ながら、なんだか気の毒のような気がする。

 また話がそれてしまいました。温暖化の影響が脅威に感じられる今日この頃ではあるけれど、今年のさくらのすばらしい咲きっぷりに、まずは感謝。春爛漫の伊豆西海岸にて。

田子旧道のソメイヨシノ並木

花畑とソメイヨシノ並木

那賀川のソメイヨシノ

ソメイヨシノ並木と花畑

ワイルドフラワーの花畑


2007年10月31日

現代版「魔の海」?? 

 …前の日に船舶を難破させる「魔の海」のことを書いたら――それとは関係ないか――またしても大型貨物船の座礁とは…(→関連記事1関連記事2動画ニュースNHKニュースサイト)。

 今月はじめにも大型船の座礁事故があったばかりの神子元島。そのときは遊漁船の船着き場をふさぐかっこうで引っかかってしまったものだから、遊漁船関係者の人は大迷惑。雑事にかまけてそんなこと忘れかけていたら、こんどはその目と鼻の先でまたしてもさらに大型の韓国籍貨物船(1,204総トン)が暗礁に引っかかって身動きが取れなくなってしまった。

 今回、地元紙に掲載された写真を見てびっくりしたのですが、最初に座礁した貨物船、まだいる…(絶句)。なんだか神子元島が、船舶を引きつけて難破させる磁石山にも見えたりして…。それはともかく、最初に座礁した貨物船、物理的に離礁がむずかしいのだろうか(動画ニュースによると、引き上げ準備の最中だったらしいけれども)。前回と同様、またしてもoil spillで海洋汚染。この海で生計を立てている地元の人にとっては、まさに踏んだり蹴ったりというか、泣きっ面に蜂。事故当日は晴れていて、うねりもさほどなく、視程も良好だったと聞いています。神子元島近辺は岩礁だらけでたしかに海の難所ではあるけれど、誤解を恐れずに言えばこのへんの海のことをろくに知りもしないでなるべく東京直近の針路をムリしてでも取ろうとしたために起きた事故ではないでしょうか。燃料の重油も高いことだし…。最初に座礁した船のときもとくに天気は悪くなかったですし。天気がよくて凪いでいて…という条件の日に、こんなところで座礁、というのはありえないと思う。

 1993年7月、古代中国の竹筏のレプリカを駆って太平洋横断に挑戦中だった冒険作家ティム・セヴェリンも、石廊崎沖を経て下田沖に差しかかったとき、船舶往来のあまりの「過密」ぶりに驚いたそうです(The China Voyage, p.144)。

 とにかく一刻も早く二隻の貨物船が離礁できるといいのですが。

2007年10月08日

伝統和船八丁櫓に乗ってきました

1). 数時間前からNHK-FMの「今日は一日…」をかけっぱなしにしていますが…本日のお題はなんと「ハードロック/ヘビーメタル三昧」だそうで…やたらハイテンションでガンガンの音響、バロックばかり聴いてきた耳にはやたら超高速の叩きつけるような、ねじ伏せるような強烈なビート、かつてのKissみたいなけったいな出で立ちに長髪振り乱して…みたいなイメージの強いジャンルなので、さすがにこんなのをまるまる10時間もぶっ通して聴くつもりはなかったが…いざ聴いてみたらあれれ、これ知ってる(Led ZeppelinにQueen、オジーなど)とか、ピアノでしっとりと奏でる曲あり、バラード調ありで思いのほか表現の幅が広いことに気づかされた。むろんすぐにまたガンガンガン…とシャウトがぶり返すが…。

 …それにしても「ぼくは小学5年生の男子です」とリクエストくれる子って…またAnthemというグループのひとりがゲストに来てしゃべっているのですが、ライヴやってると幼児を肩車して絶叫している父親もいるとか。で、そんなAnthemへもリクエストがきてまして、なんと6歳!! こうなるともう笑いさえこみあげてくる。ちなみに小生は、Anthemと聞くと条件反射的にBBC Radio3のChoral Evensongで歌われるほうを連想してしまう。こっちのAnthemは、まるで知らなかった。でもまぁ、たまにはいいかな、ヘビメタ。なんか気分がスカっとするのはたしか。

2). 本題。きのう、徳川家康公が駿府城に入って400年を記念して開催された「大御所400年祭」に行ってきました…といってもほんとの目的は祭りではなくて、駿府公園の外堀に浮かべられた伝統漁船「八丁櫓」のほう。10年前、かつてカツオ漁が盛んだった焼津市の有志が集まって、家康公から特別に許可されて建造したと伝えられる、八丁の櫓で漕ぐ和船「八丁櫓」を当時の建造法に忠実に復元したレプリカ(→関連記事)。

 八丁櫓は漕航だけではなくて、帆走もできます。3本の帆柱に張られた横帆のみごとなこと! 以前帆走する写真を見たとき、これいい舟だなあ、と思っていたので、またとない機会。これで、いわゆる太古から変わらない建造法で造られた帆船は、6月に見に行ったホクレアについで二度目ということになる。

 八丁櫓は全長が約13m、全幅が約2.5m。復元カラフのブレンダン号のひと回り分大きい感じ。3本の帆柱にはすでに純白の横帆が張られ、ときおり吹きつける風をはらんでいまにも動き出しそう。駿府城の堀に浮かぶ白い帆を張った美しい帆船。これだけでもすでに一服の絵です。

 意外だったのはけっこう人だかりができていたこと。大人から子どもまで、みな昔の帆船に興味津々、といったふぜいでのぞきこんでました。

 お堀に運び込まれた八丁櫓は2艘あって、神話に出てくる神の名前にちなんで「たける」、「たちばな」と名づけられています。つまりは夫婦(めおと)舟。「たける」の舳先には紺色の房飾り、「たちばな」の舳先には赤い房飾りがそれぞれぶら下がってました。

 この2艘をしばらく撮っていたら、なんと体験乗船会を開いてくれるという! もちろん乗船してみました。とはいえお堀の水深は1mしかなく、そのままでは船底がついてしまうので帆走はなし。とりあえず乗ってみて、櫓漕ぎ体験するという趣旨。

 救命胴衣をつけていざ乗船してみると、その櫓の長さに驚きます。なんと7m! で、自分も生まれてはじめて櫓を漕いでみた。けっこうむずかしい。右手で取っ手を持ち、左手で櫓の丸い先端を支えて前後に動かす。このやたらと長い櫓を操りながら体は前を向いていないといけないので、じっさいにこれで漕航したらえらい骨が折れそうだ。何時間も連続で漕いだらたぶん手の皮がむけたり、まめだらけになりそう。

 八丁櫓を静岡まで運んできたNPOの方に訊いてみると、3枚のセイルを張って帆走すると10ノットくらい出るそうです。全長13mの舟で10ノットというのは体感スピードはかなり速い。理想的な条件はもちろん順風…ですが真後ろから吹く風ではなくて、45度くらい斜め後方から吹きつける風。竜骨はあるけれど、風下流下するのであまり横風になるとどんどん風下に流される。復元カラフのブレンダン号みたいなリーボードを風下側舷側に下げたらどうかと訊いたら、たぶん効果はないと言ってました。三本ある帆柱のうち、もっとも舳先寄りの小ぶりなセイルは「矢の帆」と呼ぶそうです。

 櫓の長さにも驚いたが、船尾中央にそそり立つ舵の大きさにも目を見張った。船尾中央に舵がある船は中国のジャンク・和船特有の造り。西洋の古代船はたいてい「右舷」側後方にサイドラダーとしてくっついています。なので「舵があるほうの舷側」という意味でstarboard(=steer+board)という。乗り降りするほうの左舷はport。「港」じゃないです(笑)。

 セイルを広げていたせいか、セイルからいろんなロープやら綱やらが垂れ下がっていて、うっかり躓きそう。多くの索具類が船体をまたぐ横板に固定されていて、どれがハリヤードでどれが帆脚索か、どれがブレースかはよくわからなかった(引っ張ってみればわかったかも)。

 焼津…くんだりまで行くのはちとしんどいですが、こんどはじっさいに海に出て帆走体験してみたいです。↓はそのとき撮った画像。


a guide plate

a banner of 'Takeru'

'Tachibana'

the bowsail of 'Takeru'

onboard 'Takeru', fore

the rudder of 'Takeru'

'Takeru'

'Takeru',2


 来年7月、有名なフランスのブレスト帆船祭に日本代表としてこの焼津・八丁櫓も参加するそうです。立ったまま漕ぐ櫓をそなえた木造船というのはおそらく西洋の人は見たことないだろうから、注目の的になることはまちがいなしでしょう。八丁櫓を運ぶ費用に乗組員の旅費とかやり繰りがたいへんらしいですが、こちらのほうもいまから楽しみです。

 …また話がもどるけれども、いまさっき「ハードロック/ヘビメタ三昧」がLed Zeppelinの有名な曲「天国への階段」をもって幕とあいなりましたが、「10時間じゃ足りない! このつぎは24時間やってくれ!!」ってそれホントですか(汗)…。24時間バッハならお付き合いしますよ(笑)。

posted by Curragh at 23:22 | TrackBack(0) | ローカルな話題(西伊豆)

2007年07月28日

2. 国道136号、地すべりで崩壊!

 …英国もたいへんなことになっていますが、個人的にはこっちのほうがもっと切実だったりする。

 全国ニュースでも取り上げられたりしたのですでにご存知の方もいるかと思いますが、国道136号線が地すべりによる崩壊のため、船原峠西伊豆バイパス−土肥新田区間が不通になっています。ここはバス道路でもあるけれど、もちろんバスも折り返し運転・戸田峠経由で迂回運行(→東海バスの告知ページ)。

 崩壊地点は、よりによって中伊豆と西伊豆とをつないでいる場所(船原峠旧道との合流点−「大平」バス停との中間地点)。というか、自分もまさかあんなところが地滑りを起こすなんて予想だにしなかった。つい先日も通過したばかりなので。梅雨前線に台風で雨つづきだったし、ついこの前も雨降ってたし、地盤がひじょうに緩んでいたのが原因らしい。後日地元紙報道ではじめて知ったのですが、ここは1961年の西伊豆集中豪雨のときにも地すべりを起こしたらしい。現在の国道はその崩壊箇所を盛土して整備したとのこと。崩壊箇所のすぐ先には新鮮な牛乳からアイスクリームを手作りして売っている土産物屋兼ドライブインがあって、本来ならば書き入れ時なのに、とても気の毒に思う(→お店の応援リンク追加しました)。

 月曜の朝、長さ50mにわたって国道に複数の亀裂が走っているのを通行者が通報したのがはじまり。その後、1時間に10cm(!!)の速度で急激にずりずりとすべりはじめ、こちらのページでご覧のように、桜並木とカーブミラーもろともいまでは5mほども沈んでしまい、道路は完全な切断状態に(すでに危険なため、正確な沈下幅は計測不能とのこと)。道路の山側斜面を削って応急工事をしているさなかにもその削った斜面がまた崩れたりと、いまだ地すべりは止まらず。まだ1時間当たり4cmほどの速さですべりつづけています

 28日現在、土木事務所では国土交通省が保管しているという、災害時用の仮橋を架ける工事をしてひと月以内に復旧させたい…としているものの、数日かけて現場の地質調査をしないといけないし、いまだ地すべり運動がおさまっていないことから、いつになったら復旧するのか、具体的にはめどが立っていません(追記。つぎの記事でも書いたとおり、旧盆前の12日までには仮復旧できる見込みになりました)。

 西伊豆方面にお出かけの場合は、以下の各サイトで案内している迂回路を利用されるか、もし車でなければ沼津港から高速船「ホワイトマリン」を利用するという手もあります(→戸田運送船サイト)。また静岡方面から来る場合、カーフェりーが出ていて車ごと直接土肥港まで行けますよ(→駿河湾フェリーのサイト)。



 なお船原峠のてっぺんにはりっぱな立体交差(!)があり、戸田方面へは西伊豆スカイライン、南方面へは、棚場山稜線づたいに南進する西天城高原線へと連絡しています(→2005年春に撮った船原峠立体交差橋から土肥方面の眺め)。ふだんは対向車両さえ見かけない、こんな山の稜線づたいになんでこのような高規格道路が走っているのか? については、こちらのblog様がこたえてくれます。10年前、西天城のマメザクラを撮りに行ったとき、まさに西天城高原線建設の真っ最中でした。こんなかたちで役に立つとはまたなんとも皮肉な話ではあるが、迂回路があるのはまったくないよりはましか。

 ついでに船原峠てっぺんの立体交差から旧道へ下る取り付け道路のかたわらに、「頼朝公の運試し石」なるものがしずかに佇んでいます(こちらもおなじく2005年春の撮影。このとき、西伊豆バイパス途中にある「平石」バス停から歩いて旧136号に入り、写真を撮りながらそのまま湯ヶ島方面へ下ろうとしたら、なんと前年の台風22号で決壊した道路の復旧工事がまだ終わっていなくて、全面通行止め。画像はこのとき撮影したもの。撮ったあと、やむなくもと来た道を引き返しました orz)。なんでも伊豆半島に配流されていた源頼朝が、鷹狩りかなにかで船原峠にやってきてこの石を見かけたとき、「運が自分に味方するのならこの岩切れよ」と刀を振り下ろしたところ、みごと真っ二つに裂けた、という伝説の石だそうです。案内看板もすっかりサビつき、石じたいもクマザサに隠れて見えにくいので、よほど注意していないと気づかずにそのまま通過しそうになります。

 いずれにせよいまは早く地すべりが収まるようにと念じるしかない。やはり船原峠西伊豆バイパスが使えないのは、痛い。

11日に仮復旧しました

2007年06月15日

「伊豆 秘密の絶景」

 先週末、NHK静岡のローカル番組「フジヤマTV」で、「伊豆 秘密の絶景」と題された放送を見ました。

 いずれの隠れた名所も、かんたんには近づけない場所にあるため、地元の人以外にはほとんど知られていないところばかり。稲取港北側のトモロ岬付近にある奇岩「ハサミ岩」とか、堂ヶ島の天窓洞とおなじ時期に国の天然記念物に指定された南伊豆町・手石地区にある「弥蛇の岩屋」という神秘的な海蝕洞窟。岩石好き・地学好きなので、名前はもちろん知ってるけれども、めったにTVで見られない場所ばかりなので、番組はとても興味深かった(ゲストのコロッケさんのおしゃべりもおもしろかったけれど)。

 「ハサミ岩」のほうは、まるで合掌でもするかのように屹立するふたつの巨岩の真ん中よりちょっと上に、ちょうど合掌する手と手のあいだに橋わたしでもするかのように水平に石が連結した構造のなんともけったいな奇岩でして、昔はふつうに崖伝いに降りて行けたのですが、四半世紀前の伊豆大島近海地震のときに当時の旧道が崩壊して、陸地からは行けなくなっています(もっとも磯釣り好きの床屋の主人によれば、俗に言う「釣り人の道」はあって、「ハサミ岩」手前の断崖にロープがあるとか…さすが磯釣り師は道の開拓者[笑]。危険なので、自信のない方は陸路ではなくすなおに船に乗せてもらって鑑賞してください)。奇岩へ行くには漁船にでも乗るしかないのですが、番組でもダイビング船に乗船してハサミ岩のある海岸に上陸してました。おお、近づいてみるとけっこうでかい! 高さ20m近くはあるでしょうか。そしてこの岩はいまでも信仰の対象になっているようで、きちんと注連縄が張り渡してありました。

 「弥蛇の岩屋」のほうは、堂ヶ島の有名な「天窓洞」と同様、海蝕洞窟なのですが、規模はずっとちいさい。名前のいわれは、晴れた日に小舟で入ると、洞窟の最奥部天井付近に、金色に輝く阿弥陀如来三尊が出現するということから。ようするに洞窟内に差しこむ太陽光線の芸術、というわけなのですが、これを拝みに行くのは至難の業。最寄りの小稲漁港から小型漁船に乗せてもらうのですが、春から夏の大潮のときの干潮で快晴の午前中、しかもべた凪でないと光輝く阿弥陀三尊は拝めないのです。チャンスはひじょうにかぎられています。というわけで、自宅にいながら阿弥陀三尊を拝見することができて、こちらも大満足。もっともぼわーっとして、よくわからなかったが…。それでもたしかに三体、右上がりに並んで見えましたね。洞窟はスコットランド・アウターヘブリディーズ諸島のスタッファ島に口を開けている「フィンガルの洞窟」の日本版みたい。以前「名曲アルバム」で、メンデルスゾーン作曲の同名の序曲を放映していたとき、この海蝕洞窟の映像を見ましたが、やはりここもちいさい洞窟なので、べた凪の干潮のときでないと入れないようです。光の芸術…という点では、カプリ島の「青の洞窟」南伊豆版と言えなくもないかな。洞窟ついでに堂ヶ島の「洞窟めぐり」遊覧船。昨年11月末以来、中止されていた天窓洞内の遊覧はこのほど再開されたようです。

 最後に登場したのが驚愕小学生。伊東の城ヶ崎海岸一帯を自分の家の庭のように知り尽くしている12歳の少年地質学者です。最近、こんなすばらしい自然の遊び場がすぐ目前に広がっているにもかかわらず見向きもしないような子が増えている…と感じていただけに、こういうたくましい子を見ますとなんだかうれしくなる。かつて川端康成は「伊豆は海山の風景の画廊」と賞賛していたけれど、けだし至言です。バブル全盛期、西伊豆にもゴルフ場だの、リゾート開発という名の壊し屋集団が押しかけてきたことがあったが、伊豆半島ほど海山の自然果汁100%みたいなすばらしい土地はそうない。よく田舎はなにもない…とか揶揄されるけれども、そうではなくて、番組に出てきた伊東のこの子のように、身の回りの自然のすばらしさがわかってないだけの話。伊豆はこのままでもじゅうぶんすばらしいし、ここほど海山の自然が詰まった遊び場なんてないですよ。伊豆は自然が命。もしこれがすべて人工的な、ディズニーランドよろしく人から金を取って稼ぐ施設だらけになってしまったら、伊豆としての存在価値はなくなる。西伊豆の場合、結果として土地買収が難航し、そうこうしているうちに湾岸戦争がはじまり、バブルははじけた…おかげで大規模な環境破壊は免れた。伊豆高原には周囲の自然環境とうまく共存しているちいさなミュージアムが多いけれども、おなじ作るんならそういう施設のほうがはるかに望ましい。西伊豆町にも、「黄金崎クリスタルパーク」という地元ならではのすばらしいガラス工芸美術館があって、春先だったか、開館以来の総来場者数が100万人の大台を突破したとか聞きました。金太郎飴よろしくどこにでもある施設を建設するのではなくて、あくまで地元の宝を発掘してそれを生かす方向に活路を見出すべきです。

 …で、番組で紹介された城ヶ崎海岸の「まん丸い石」というのは、長い年月のあいだに波浪で削られ削られしてお椀状に刳りぬかれた「ポットホール」の中で、荒波に転がされてできた黒光りする、文字どおりのまん丸い溶岩で、第一級の自然の芸術品。この石は地学好きのあいだではわりと知られた存在だろうと思います。

 …そう言えば黄金崎から安良里へ抜ける、通称「大磯(おいそ)の旧道」の途中にも絶壁を降りるロープが樹の幹に結びつけられているけれど、いまだカメラを抱えて降りたことなし。高低差20m以上の急崖を降りる…ことはできるかもしれないが、問題は帰り。自分の腕力じゃ、とても登れそうにない(笑)。

 西伊豆つながりでは、先日もローカル放送で「かも風鈴」の屋台販売体験…なんてものもやってました。よくよく見てみたら、なんだ、安良里漁協のまん前じゃん! 「かも風鈴」というのは、となりの宇久須地区でガラス原料になる珪石(けいせき)が採れることから旧賀茂村時代、村おこしの一環として編み出されたガラス工芸の風鈴。とても涼やかな音色を響かせてくれるので、こんどお盆とかで現地に行ったら自家用として買ってみようかな。

 …それと、伊豆の国市・大仁地区のこちらの津軽三味線の演奏グループ。なんと先月開催された津軽三味線の全国大会「第19回津軽三味線全日本金木大会」で、団体一般の部で優勝! これはすごいこと。心から拍手を送ります。