2016年04月29日

音楽の解釈と、「ことば」の解釈と

 いま、Ottava にてジョン・ラッター珠玉の名曲「地上の美のために For the Beauty of the Earth 」を聴きながら書き出してます。

1). 先だってこういう拙記事を書いたりしましたが、もうすこし書き足しておきます。昨年暮れの恒例「N響の第9」。常任指揮者就任記念としてエストニア出身のマエストロ、パーヴォ・ヤルヴィ氏を迎えての公演だったんですが … フタを開けたら超特急な演奏で口あんぐり。マエストロ曰く、「スコアのメトロノーム指示に従った」とのことで、ようするにいままでの名だたる指揮者たちの「解釈」は作曲者の意図を無視していた、と。ベートーヴェンがわざわざこういう指示書きをしているのだから、多少なりとも演奏に反映させよ、というのが言いたいことだったようです。

 で、念のためいつも行ってる図書館で『ベートーヴェン事典』とか見てみると、このベートーヴェン交響曲作品における「メトロノーム表記問題」、ことはそう単純じゃあないようで。まず「8番」までの「速度指定」は 1817 年 12 月 17 日付ライプツィッヒの新聞に「一覧表」というかたちで発表したものだという。で、たとえば「3番」、俗に「英雄」とか「エロイカ」とか呼ばれている作品の最初の主題提示部での歴代指揮者によるテンポ一覧が掲載されてまして、本文に「 … ここでも、古楽器オケ世代の中核を担ってきたノリントン、アーノンクール、ガーディナーが快速を競ってタイムを短縮してきたことが判明する」とあったのにはちょっと笑ってしまった。やっぱり「快速」かぁ〜、みたいな( 一覧を見ると、「最速」はジョルディ・サバール指揮ル・コンセール・デ・ナシオンによる演奏で、付点2分音符[=1小節 ]= 60!)。もっともだからと言ってずっとインテンポ 60 でゴリ押ししているわけではなくて、どの指揮者も演奏に「緩・急」はしっかり入れてます。ここが大事なところ、こういうのがその音楽作品をいかに演奏するか、という「解釈」になります。

 「第9[ ほんとは「第九」と漢字で書きたいけれど表記を統一しておきます ]」はどうかと言えば、1824 年作曲者自身による指揮の初演時、すでにメトロノームじたいはあったけれども、「メトロノームの数字が登場するのは、やはり初演よりも大分後になる[ 引用者注:ワタシだったらここはひらいて書く。ワタシみたいに「おおいたあと」なんて誤読する向きも、いないとは限らないから。ついでに小学校にあがったばかりのころ、TV の天気予報で「ハロウ警報 … 」ということばを聞いて、てっきりハロウ=hello, 外国人警報だとアホなカンちがいをしていた ]」。

 ちなみにこのベートーヴェンの「メトロノーム表記」を遵守すべし、というのはいわゆるいまはやりの「受容」のしかた、ないし「解釈」の主流らしいです。もしいまの時代に Compact Disc Digital Audio が開発されていたら、「約 74 分」という規格は通らなかったかもしれない。

2). この前、ようやく『 21 世紀の資本』を読了 … 図書館の順番待ちのお鉢がようやくまわってきて( というか、みんなが飽きはじめた頃合いと言ったほうが正確か )、いざ読みはじめたらたしかにバルザックとかオースティンとかの引用もおもしろく、むつかしい数式もないにもかかわらず、全体としては意外と(?)難物で、けっきょく買っちゃいました( 苦笑、もう自分の本だから自由自在にポストイット貼ったりアンダーライン引きまくり )。ちょうどそんな折も折、って毎度こればっかのような気もするが … そのピケティ教授、世界中で大騒ぎされている例の「パナマ文書」、いったいどう思ってんだろうなー、なんて漠然と思っていたら、Le Monde 電子版上の自身のコラムにしっかり寄稿していた。もちろん印刷して目を通して、せっかくあのぶあちい本( 苦笑 )読んだことだし、我流で訳してみようかな … と思っていた矢先、もう日本語版「抄訳」が公開されてました。

 全文対照して読んでみたら、「抄訳」と言いながら手練れというかけっこううまく訳されてまして[ 当たり前か ]、これはこれで勉強になった( かな?)。たとえばうまい「省略」例をいくつか挙げれば ――
... In 2016, the Panama Papers have shown the extent to which financial and political elites in the North and the South conceal their assets.
… 16 年の「パナマ文書」が明らかにしたことが何かというと、先進国と発展途上国の政治・金融エリートたちが行う資産隠しの規模がどれほどのものかということだ。

... Let’s take each topic in turn.
… 順を追って見ていこう。

... In other words, we continue to live under the illusion that the problem will be resolved on a voluntary basis, by politely requesting tax havens to stop behaving badly.
… つまり、私たちは「お行儀よくしてください」と頼めば、各国が自発的に問題を解決してくれる、そんな幻想の中にいまだに生きているのだ。
などなど。fiscal という語を「税の / 税制 / 金融」と適切に訳し分けているのもよいですね。ついでに「ペーパーカンパニー」というのは shell company と言ったりする。つまり「殻」だけで、中身[ 実態 ]はカラッポということ。「パナマ文書」関連で個人的な感想を言えば、アイスランドの国家元首( !! )が出てきたり、北朝鮮や IS 関連まで出てきたりと、呉越同舟ならぬ、「おなじ穴の … 」、英語で言えば 'It takes one to know one' というやつですかね、これは … さるスーパーの休息コーナーにて一息入れていたとき、ふと「東京新聞」がほっぽり出されているのに目が留まってつい広げて読んだりしたんですけど( 苦笑 )、「公正な税制を !! 」と訴える人のなかに、奨学金の返済に追われる女性会社員の切実な声も掲載されていた。一部のカネ持ちが優遇され、自分たちは割りを食っている、と。そのことば、現都知事さんこそ聞いてほしい、と感じたしだい。

 … と、ここでまた脱線すると … 先日、本屋さんでとある版元のフェア(?)をやってまして、「神話」もののハードカバーシリーズ本がいくつも平積みになってました … 立ち寄ってみたら、なんと 20 年以上も前(!)に、その筋では有名な「欠陥翻訳時評」の俎上に載せられてしまった訳書まであった ―― あった、というか、この本そもそも初版が 1991 年、湾岸戦争の年ですよ( 覚えている人がどれくらいいるだろうか。ちなみに不肖ワタシは都内でなんとか新聞の人につかまって戦争協力反対の署名をしてしまった、なんてことも思い出した )。奥付を見るとすでに何刷か重版していて、いくらナンでもこりゃないだろ、と気が遠くなる思いがした。

 そもそもこの訳者先生ってそは何者、と思ってあとでちょこっと検索かけたら、なんか商社マンかつ詩人だったようだ。ま、それはそれでべつにいいんです。二足だろうが四足だろうがワラジ履いたって( 喩えが古すぎるか )。さる高名な先生が言っていたように、出来さえよければ、一定レヴェルの及第点さえ取れればそれでいいんです。シェイクスピア戯曲翻訳者としても知られた福田恆存氏が常盤新平氏に語った話だったか、忘れたけど、「うまく訳してあるところとそうでないところとの差をなるべくつめろ」と言ったんだそうです。片岡義男氏だったかな、「全編、平均 80 点くらいで訳すこと」とか書いていたのは。でもこのご本 … だいぶ前に静大図書館でコピーしたキャンベルの寄稿文のこと書いた拙記事で、ついでに言及したアイルランド人ケルト学の碩学でロイヤル・アイリッシュ・アカデミー会長を務めたこともあるプロインシャス・マッカーナが 40 数年も前( !! )に書いたこの本の邦訳の「でき」は … 門外漢のワタシから見てもそうとうなもんですよ、これ( 苦笑 )。*

 たまたま単行本化されたこのときの「時評」本は持っているし、とりあえずひとつだけ例をここでも孫引用させていただくと[ 下線強調は引用者 ]、
... Irish literature leaves us in little doubt that the druids were unremitting antagonists of the Church in a long-drawn-out ideological struggle which ended in the virtual annihilation of the druidic organisation( P. Mac Cana, Celtic Mythology, p.137 ).

アイルランドの文学を読むと、ドルイドは、その組織が実質的に壊滅する日までの長期的な思想的闘争の期間、ずっと教会にたいして休むことなき敵対者だったのではないかとの、かすかな疑いが残る。…( p. 278 )

 … ここの箇所、古代アイルランドのドルイド / フィリ支配社会と、新参者の初期キリスト教会側との抗争についてちょこっとでもかじったことある向きは、まさかって思うはず。原文は下線部分を見ればわかるようにただの否定( ベン・ジョンソンがシェイクスピアをくさした 'Small Latin and less Greek' とおんなじ用法の little )だから、文意はほぼ真反対、ということになり、当然、そのあとの文章ともつながらなくなる。こういうのは「解釈」云々以前の問題。なのでこういう「ひび割れた骨董[ 吉田秀和氏ふうに ]」、あるいはもっとかわいく「シドいほんやくだ[ 寺田心ちゃんふうに ]」がよくもまあ麗々しく生き残っているものかと、なんかよくわかんないけどハラが立ってきた( 苦笑 )。そしてなんと当の「時評本」にも、「ちなみに、本書は 1996 年 7 月現在、第五刷まで出ているが、ここに指摘した箇所を修正したにとどまる。もちろん、実際はほかに修正すべきところが数知れず … 出版社、翻訳者の良心を疑う」とまで書かれてます。おやや、本屋で見た「最新版」、いま例に挙げたとことか、直ってたっけ ?¿? 訳者先生は故人のようですし[ ついでながら「時評」にも瑕疵があって、「マッカーナ女史」ってあるけど、この先生はれっきとした男性です。後日談:あらためて本屋で確認したら、今年3月時点でなんと九刷 !! でした。しかもほんとだ、例に引いた箇所はしかるべく訂正されており、初版本の「はじめに」第一文冒頭の「古代ケルト族の結合は、… 」なるヘンテコな言い回しも「古代ケルト族のまとまりは、… 」と訂正されてました。とはいえ開巻 1 ページ目からして ??? できわめて文意がたどりにくいのはあいかわらずだったので、この際だからどっかオンラインの洋書古書店にて原本買ってみようかと思います ]。

3). … 昔、「 Creap を入れないコーヒーなんて … 」という TVCM があり、またなんとかスウェットという飲料水がいまだに売られていて、おそらく英語圏の人は見るたびに失笑していたんじゃないかって思う( 誤記訂正、ここで言いたいのは英語圏の人間が「クリープ」という音の響きを聞いて連想するものについて )。そういえばだいぶ前にここでも書いた、近所のスーパーの誤記っぽい表示( DAIRY FOODS とすべきところを DAILY FOODS )としちゃってる件。この前そのスーパーがリニューアルオープンしたので、ついでに確認したら … なんも直ってなかったりして orz

 ところがつい最近、教えてもらったんですけど、欧州だか英国だか、とにかく向こうではこういうブランド名があって、しかもあの BBC のリポーターまでそのブランドの服着て TV に映ってるときたからまたしてもオドロキです … 最初、このブランド名を見たとき、「え、なにこれ? ビールのことかしら ?? 」なんて考えていた。こういうことばのプレイとミスプレイ、なにも日本だけじゃなかったんですねぇ、とここでお時間が来たようで。

… 一定レヴェル以上の「解釈」のちがいによる表現の相違 / 書き方の差異については、もうこれは究極的には読み手それぞれの好みの問題になってしまうと思う、音楽作品の演奏とおんなじで。もっともこういうところで訳者それぞれの解釈の深さがもろに現れるので、こわい、と言えばこわい。でもそんなこと言ってたらいつまでたっても翻訳なんてできない( 苦笑 )。たとえば、たまたま手許にある邦訳書のある箇所をべつの人が訳した事例にこの前、Web 上の写真関連の記事でお目にかかった[ 下線部、あえて個人的な好みを述べさせていただくなら、「無慈悲にも溶けゆく時の証拠」と動詞的に読み下した訳語表現のほうが好きです。欧文系はこのような「名詞表現」がひじょうに多く、これをそのまま日本語化するとどうしても言い方が堅くなる、つまり日本語としてこなれなくなる。もっともこのさじ加減も程度の問題ですが ]。↓
1). すべての写真はメメント・モリである。写真を撮ることは、他人の死、弱さ、移ろいやすさに参加すること。すべての写真は、瞬間を正確に切り取って凍結することで、無慈悲にも溶けゆく時の証拠となるのだ。

2). 写真はすべて死を連想させるもの[ メメント・モリ ]である。写真を撮ることは他人の( あるいは物の )死の運命、はかなさや無常に参入するということである。まさにこの瞬間を薄切りにして凍らせることによって、すべての写真は時間の容赦ない溶解を証言しているのである。
── スーザン・ソンタグ『写真論』 近藤耕人 訳、1979, p. 23.

付記:こちらの電話募金、ウチの「黒電話」でも障害なく(?)できたので、こちらの番号もひとつ前の投稿記事分とあわせて紹介しておきます[ 29 日付で受付終了ってちょっと店じまいが早すぎ ]。ちなみにお若い人は知らないかもしれないが、「黒電話」はいざというときは最強 … かもしれませんぞ。電源は電話線からとっているので、電話線さえ生きていれば物理的には使用できるため。とはいえいまの子どものなかには、ホントに黒電話の使い方を知らない子がいるようだし、これも時代の流れなのかと思ったしだい。

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2015年09月08日

「だけしか」⇒ 'your wife' ⇒ 健全な批評

1). もうだいぶ時間が経過しているけれども、『文藝春秋』を買いまして、今年の芥川賞受賞作品二編、楽しませていただきました。個人的には「流行りものは読まない( 苦笑 )」というモットーがあるんですが、率直な読後感としては、どっちもそれぞれ味があっておもしろいなあ、と。ラストの神谷さんのぶっとび(?)ぶりとか、「早う迎えにきてほしか」が口癖ながら、さらさらその気のない祖父さんと孫の( ちぐはぐな )やりとりとか、どちらもさすが、と思ったのでありました。

 でもってこれは内容ではなく、表記のことで気になった点がひとつだけ … 偶然にも、両作品には「 … だけしか … 」という言い回しが使われていて、引っかかるものがあったのも事実でした。
… 最初は神谷さんにまつわることだけしか綴っていなかったノートに、最近では漫才のネタや雑感までもが書き込まれ、もはや自分の日記のようにさえなっていた。――『火花』

… サロン代わりに通院している老人たちは一割から三割だけしか医療費を負担せず、…
――『スクラップ・アンド・ビルド』
だけしか、ねぇ。昔、文章教室みたいなとこで注意されたことに、まさにこの「だけしか」があったもので。もっとも「言語」というものは生き物、ナマモノなので、時代を経てだんだんに移り変わるもの。おそらくいまの若い読み手がここの箇所見ても、とくになにも感じずにすすっと先に進むと思う。ある意味、世代がわかる箇所、と言えるのかも。

 ついでに『火花』は、作中のコンビ名「スパークス」と引っかけているのかな、と思っていたら、こちらのブログ記事によると、又吉さん自身の以前のコンビ名も引っかけてあるらしい。小説の仕掛け、ってことかな。

2). この手の「文芸もの」、とくに散文で書かれた「小説」というジャンルは、翻訳という観点からもひじょうにむずかしいものであることはまちがいない( もっともこと外国語で書かれたものならどんな文書ドキュメントの類いでも、それぞれ骨を折る部分はたくさんあるけど )。たまたま時おなじくして、図書館からこういう本を借りて読んでいたら、キャサリン・マンスフィールドの短編 The Stranger( 1920 ) の一節が孫引用されていた。著者の故鈴木主税氏は、マッキベンの処女作『自然の終焉』をはじめ、ベストセラーになった『大国の興亡』など、ノンフィクション本やだれも手を付けないような(!)大部の著作をたくさん邦訳された大先生。引用されているのは、慶応大学教授だった鈴木孝夫氏のエッセイ『ことばの人間学』でして、こちらの鈴木先生は、
"We can't go quite so fast," said she. "I've got people to say good-bye to ―― and then there's the Captain." As his face fell she gave his arm a small understanding squeeze. "If the Captain comes off the bridge I want you to thank him for having looked after your wife so beautifully." Well, he'd got her. If she wanted another ten minutes ―― As he gave way she was surrounded. The whole first-class seemed to want to say good-bye to Janey.
の太字箇所がどうしても解せなかったんだそうです( ここは、前年に結婚した欧州大陸に住む長女を訪問する10 か月[!]の船旅を終えて帰ってきた妻 Janey を、やっとの思いで出迎えた旦那の Hammond 氏とのやりとり )。

 著者の鈴木先生は、「鈴木孝夫の英語力は、… とびきり優秀な日本人の水準をもはるかに抜いているそうだから、われわれ平凡な日本人が英語の文章の細かいニュアンスをどの程度まで理解できるのか、まったく心もとない話だ」と書いています( pp. 132 − 36 )。

 英語力に自信をお持ちの方、太字箇所をどう思われます? オチを言うと、「コロンブスの卵」的な話になってしまうんですけども … 不肖ワタシがここんところを読んだとき即座に思ったのは、いつぞやここで取り上げた The Da Vinci Code がらみの的外れな指摘だった。はっきり言って、この手の英文を正しく解釈する、読解するというのは、もう語学的にどうのこうのという話じゃない。感覚、いや直感としか言いようがない。でもってワタシはマンスフィールドの上記作品が収められている原本( Collected Stories of Katherine Mansfield, Penguin Books, 1981 )を図書館で借りて、ついでに現在入手可能な邦訳としては唯一ではないかと思われるこちらの本も借りて、じっくり読んでみた。するとたとえば、
Would she really not be long ? What was the time now ? Out came the watch ; he stared at nothing. That was rather queer of Janey, wasn't it ? Why couldn't she have told the stewardess to say good-bye for her ? Why did she have to go chasing after the ship's doctor ? She could have sent a note from the hotel even if the affair had been urgent. Urgent ? Did it ―― could it mean that she had been ill on the voyage ―― she was keeping something from him ? That was it ! He seized his hat. He was going off to find that fellow and to wring the truth out of him at all costs. He thought he'd noticed just something. She was just a touch too calm ―― too steady. From the very first moment ――
なんてことが書かれてあったり、このハモンドさんという人がどういう人で、どういう気持ちをわが愛妻 ―― だれの手にも渡してなるものか ―― に抱いていたのかがこの物語中、暗示されている箇所がそこここに見受けられます。とくれば、ここは奥さんがそんなダンナさんの心情をなかば見透かしたように your wife とことさら強調したのも、なるほどと思われるはずです。

 当方、この手の本が大好きなこともあって、前にも書いたけれども、手許にはキャンベル本の翻訳者、故飛田茂雄先生の『翻訳の技法』なんかもあったりします … でも最終章の「長文演習課題文」をよくよく見ると、ちょっと不適切というか、ナゾナゾのオチがわかるかわからないかで訳が決まってしまうような問題もあったりします( わが子にメスを入れられない外科医の「母親」の話とか )。こういう問題ないし限界は、どうしてもこの手の「翻訳指南本」にはつきものかもしれない。もっとも、「読めば読んだぶん、誤訳は減る」とは思うが、これさえアタマに入れさえすれば、いま目の前にひろげてある英語原文なり原本なりが正しく読めますヨ、なんてことはむろんありえない話で … 浜の真砂は尽きるとも、で[ ちょっと喩えがヘンか ]。Ninety Six を '96' と書いちゃったりする軍人さんだっていたくらいですし…。

3). こういう話を持ちだしたのも、どうも巷では「他人様の揚げ足取り」にすぎないことがあまりにも横行しているような気がするからでして … そういうあんたはどうなんだ、とくるかもしれないが、だれが見てもこれおかしいでしょ、ひどいよね、というものしか取り上げていない( はず )。少なくとも書いている本人はツマラン揚げ足取りはしていないつもりでいる。ここのところ「パクリ狩り」が流行っているようですが、しかるべき教養と知識を持った人がしかるべき批判ないし批評をするぶんならなんら問題はないし、どんどんすべきだと思う。翻訳がらみでは誤訳の指摘、ということがすぐ思い浮かぶが、上記の例にもあるとおり、どんな達人だってまちがえることはある。『愛するということ』改訳(!)者の鈴木晶先生はかつて、アフリカで kite が飛んでいる、という箇所を「凧」としたり、「麦畑で踊っても、麦の穂は折れない」という空気の精みたいな伝説的バレリーナの記述に出てきた corn を「トウモロコシ」とやって、舞踏史の専門家から「こんなことも知らない人がバレエの本を訳しているとは」とコキおろされたんだそうな(『翻訳は楽しい』pp. 130 − 31 ) [ 前にも書いたかもしれないが、飛田先生も似たようなこぼれ話を告白している。ロンドン地下鉄の意味の tube を「試験官」と誤記したゲラ刷りを見た校正者から誤訳の指摘を受けた、と ]。

 … さんざ揚げ足取りしておいて、「ほんとうの」問題の本質には目もくれず、「祭りだワッショイ」でハイおしまい、では、この国の言論空間はますます風化浸蝕に晒されるだけだろう、自戒の意味もこめて。

 というわけで、最後はひさしぶりに ―― いや、性懲りもなく? ―― 小クイズ。出典はこちらの本。米国の詩人 Galway Kinnell という人の書いた詩集から 'Farewell' の一節。これは本文で書いたような前後関係とか感覚とかはまったく関係なしに、文芸ものの翻訳者を志す学習者だったら一発で「正しく」読み取ってほしいところ。ちなみにこの本によると、邦訳では下線箇所がそれぞれ「手や顔を洗う」、「二、三人ずつ」になってたんだそうです。ちなみにオケが演奏していたのは、ハイドンの有名な「告別[交響曲第 45 番]」。
The orchestra disappears ――
by ones, the way we wash up on this unmusical shore,
and by twos, the way we enter the ark where the world goes on beginning.

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2015年05月26日

「過ぎし春」⇒ 『ミリアム』⇒ 『殺し屋』

1). 先日の「きらクラ!」。最初のほうでグリーグの「過ぎし春」がかかったんですが、リスナーさんからの指摘によると、なんとこれほとんど「誤訳」に近い邦訳なんだそうです。原歌詞は、「これで春も見納め」みたいな内容なので、「最後の春」、「惜春」くらいではないか、とのことでした。うーむ。これに関連してふかわさんが、「日本人ってあんまり '往く春' を嘆いたりしませんよね」みたいな発言をしていた。「夏は、過ぎちゃったねとか、惜しむのに。春の場合、夏に対する期待度のほうが高いのかな?」。「過ぎし春」と訳した人は、なんか「夏の名残りのバラ[「庭の千草」の原題 ]」みたいな感覚で訳したのかな ?? 

 それはそうと、この手の誤り、ないし誤解を招く邦題表記ってほかにもあって … メンデルスゾーンの「無言歌」とか、ヴェーバーの「舞踏への勧誘」なんかもそのたぐいかな。前者は「歌詞のない歌」くらいの意味だし、後者は … 前にも書いたけれども、なんか保険の勧誘みたい。ブラームスの「ドイツ・レクイエム」、これもなあ … 「ドイツ語によるレクイエム」なら許容範囲内なんだけれども。ご承知のように「レクイエム」というのはローマカトリックの「死者のためのミサ」で歌われるものなので、あまたある「ミサ曲」同様、ふつうはラテン語の典礼文。作曲者当人は、これはそうじゃないヨという意味もこめて、「あるドイツ語によるレクイエム Ein deutsches Requiem 」と名づけた … はずなので。

2). この前、だいぶ昔に買った翻訳指南書巻末に収録されている「翻訳演習問題」なるものをアタマの体操だと思ってやってみました。演習課題はふたつあって、そのひとつが『ティファニーで朝食を』のトルーマン・カポーティの鮮烈なデビュー作にしていきなりのO・ヘンリー賞受賞作となった傑作短編『ミリアム』冒頭部なのであった。翻訳にも得手不得手というのがあると思うけれども、小説、とりわけよく書けている短編作品ほど、意外とむつかしかったりする。ワタシにとって『ミリアム』が、まさにそんな短編で、どうせやるなら課題部分だけなんてケチなこと言ってないで全訳しよう、なんて意気込んだはいいが後半、物語がいよいよ暗ーい展開になってくると、小説作品特有の訳出のむつかしさとあいまって、精神的にかなりバテてしまったという、なんとも情けないことになってしまった。orz

 で、指南書の「訳例」のみならず、プロの手になる既訳書はどうなってんだろ、と思い、とりあえず2冊を図書館から借りて原文と突き合せて読んでみた。以下、三者の冒頭部分の訳を並べてみます。
A訳:
H・T・ミラー夫人がイーストリバーにほど近い改築した赤砂岩造りの快適なマンション( 二部屋キチネット付 )で一人暮らしを始めて数年が経っていた。夫人は未亡人で、主人のH・T・ミラー氏がそこそこの額の保険金をあとに残してくれていた。夫人の趣味の範囲はせまく、とりたてて言うほどの友だちもなく、角の食料品店より遠くへ足を延ばすことは滅多になかった。マンションのほかの住人は夫人の存在に全く気づいていない風であった。それというのも、彼女の着ているものはごくありふれていたし、髪の毛はグレーがかった白色で、短くカットし、無造作にパーマをかけているだけという具合だったから。それに化粧せず、顔だちは平凡で人目を惹かず、この前の誕生日で六十一歳を迎えていた。夫人は積極的に何かをするということは稀れで、二つの部屋を常に塵一つ無いよう几帳面に片づけ、時たまタバコを一本吸い、自分の食事をこしらえ、カナリヤの世話をするぐらいのものであった。

B訳:
ミセス・H・T・ミラーは、イースト・リヴァー[ ニューヨーク州のマンハッタン島とロング・アイランド島の間の海峡 ]に近い、リフォームされた褐色砂岩造りの気持ちのいいアパート( 二部屋にキチネット )に、もう数年ひとりで暮らしている。彼女は寡婦だった。だが夫がかなりの保険金を遺してくれた。彼女の興味は狭く、とりたてて友だちもなく、角の食料品店より遠くまで出かけることはめったになかった。アパートのほかの住人たちは彼女の存在に気づいていないようだった。着ているものはごくありきたりで、髪は灰色がかった鋼色で、短く切って、わずかにウェーヴがかかっている。化粧品は使わなかった。顔立ちは平凡で、目立たず、先の誕生日で六十一歳になっていた。自分からしたいことを何かしたりことはなかった。ふたつの部屋を清潔に保ち、ときどきタバコを吸い、自分の食事を作り、カナリアを一羽世話していた。

C訳:
ミセス・H・T・ミラーは、もう何年も、イーストリヴァーにほど近い、改築されたブラウンストーンの快適なマンション( キチネット付きの二部屋 )にひとりで暮らしていた。彼女は夫を亡くしていたが、夫のH・T・ミラーは彼女がひとりで生活していくのに困らない程度の保険金を残していた。彼女の生活はつましい。友だちというような人間はいないし、角の食料品店より先に行くこともめったにない。マンションの住人たちは彼女がいることに気づいてもいないようだ。服は地味。髪は鉄のような艶のある灰色で、短く切って、軽くウェーブをかけている。化粧品は使わない。容貌は十人並みで目立たない。この前の誕生日で六十一歳になった。彼女の一日は決まりきっている。二つの部屋をきれいにする。ときどき煙草を吸う。食事の支度をする。カナリアの世話をする。
 こうして並べてみると、音楽作品の演奏とまったくおんなじことが翻訳にも言える ―― おなじ原文でも、訳者が3人いれば3通りの、100 人いたら 100 の翻訳ができあがる、ということ。訳者によって、こうも奏でられる和音、テンポ、アーティキュレイションがちがってくるものか。こういう差は、やはりいわゆるノンフィクションものより、小説作品のほうが顕著に現れてくるように思う。ちなみに出だしの一文は、'For several years, Mrs. H. T. Miller had lived alone in a pleasant apartment ... ' と、ふつうは文末にくる副詞句がいきなり出てきて、それから主語・述語の順番になってます。これはもちろん作者の力点が for several years にかかっている、いわゆる倒置法になっているので、こういう原文の力点の位置はしっかり訳出しなくてはならない。音楽作品の演奏で言えば、作曲者の強弱の指示を的確に捉えてその通りに演奏する、ということとおんなじです。なので上記三つのうち、この箇所でもっとも原文に忠実なのは、A訳ということになります。

 もうすこし先、数年来のひとり暮らしをつづけているH・T・ミラー夫人が、たまたま手にとった新聞[ うちふたつの訳では「夕刊」となっているけれども、'afternoon paper' は厳密に言えば「夕刊」とはちがうものらしい ]の映画欄で見つけた近所の劇場でかかっていた映画のタイトルが気に入って、ふだんは着ないビーバー毛皮のコートを苦労して着て、居室の玄関口の明かりをひとつだけ点けっぱなしにしておいて、細かな雪が降る中、アパートメントをあとにする。映画館に着くと、すでに長い行列ができていて、最後尾に並んだ。で、原文はこうつづいています。
A long line stretched in front of the box office; she took her place at the end. There would be (a tired voice groaned) a short wait for all seats. Mrs. Miller rummaged in her leather handbag till she collected exactly the correct change for admission. The line seemed to be taking its own time and, looking around for some distraction, she suddenly became conscious of a little girl standing under the edge of the marquee.
下線部、A訳では「『どのお席も今しばらくの待ち合わせでございます』と疲れた沈んだ声がした」、B訳では「どなたもただいまの回の終了まで少しお待ちいただきます( と疲れた声がうめくように言った )」、そしてC訳では「行列のなかから、これはかなり時間がかかりそうだな、とうんざりしたような声が聞えた」となってます。

 自分も最初、この描出話法をA、B訳のようにとっていた … けれども、よくよく考えてみるとなんかヘンです。カポーティがこの短編を発表した当時、1940 年代のニューヨークの映画館って、たとえばこんな感じなんだろうけれど、切符売り場の売り子さんの声が、'a tired voice groaned' なんて聞こえるんだろうか? ミラー夫人が並んでいた最後尾って、劇場からどれだけ伸びていたのかな? すぐあとに、謎の少女ミリアムが、劇場入り口の marquee の端の下に佇んでいた、とある。だいたい観客のほうだって、いまの上映がハネる時間くらいおおよその見当はついているはずだし( このあとほどなくしてミリアムとミラー夫人は待合室に案内され、「今の回の上映終了まであと 20 分です」と告げられる。ということは、その前に待合室にいた客が今の上映を見ているあいだにミラー夫人たちの行列が入ってきて、待合室で今の回がハネるのを待つということだろうと思う )、売り子がわざわざもうすこし待ってくれ、なんて声をかけるのか ??? と思ったので、ワタシもC訳のように解釈しました … とはいえC訳も、なんでまた「改変」したのかなって思うんですけれども。「あともうすこしで入れ替えさ( と疲れたような唸り声が聞こえた )」くらいでいいんではないかな、と考えます。ちなみにこの箇所、念のため英国人のメル友にお伺いを立てたら、「並んでただれかさんの発言だと思う」とのお答えでした。

 さらにこの『ミリアム』、かつて出ていた大学のリーダーだかなんだかの註釈書の注にヘンテコなのがあったらしくて、ミラー夫人の亡夫の形見であるカメオのブローチを奪ったミリアムが、そのブローチを身につけたまま夫人が出したサンドウィッチをがつがつ平らげる場面で、
Miriam ate ravenously, and when the sandwiches and milk were gone, her fingers made cobweb movements over the plate, gathering crumbs. The cameo gleamed on her blouse, the blond profile like a trick reflection of its wearer.
とつづきます。で、下線部の注が、ある註釈書では「早撮り写真」となっていたとか(?)。文意は、カメオのブロンドの横顔は、少女の顔をトリックで映し出しているように見えた、ということ。


3). 飛田茂雄先生の著書『翻訳の技法』に、ヘミングウェイの短編『殺し屋』の一節が俎上に載せられてます。『ミリアム』同様、こちらも負けじと(?)いろんな訳者の方による邦訳が出てるんですが、ここで飛田先生が問題視したのが、つぎの箇所[ → 原文 ]。
"You talk too damn much," Al said. "The nigger and my bright boy are amused by themselves. I got them tied up like a couple of girl friends in the convent."
"I suppose you were in a convent."
"You never know."
"You were in a kosher convent. That's where you were."
さて下線部、「ほんものの尼寺[ いくらなんでも尼寺はないでしょう !! ]」、「ユダヤ教の修道院」、「ユダヤ人も OK の修道院」、そしてなんと「ゆすりの入る刑務所(!)」なんてのもあるんだそうです … 。で、引用者の飛田先生が示した訳は、「お清らかな修道院」。『ランダムハウス』を見ますと、「(1)適正の,ちゃんとした,正統な,公正な,合法[適法]の」とあります。

 さびれた田舎町のダイナーにやってきた殺し屋ふたりが、店番の十代の白人少年と厨房にいた黒人の調理人をぐるぐる巻きに縛り上げてしまう。それを見た殺し屋の相方が、「尼僧院のシスターカップルよろしく、こっちのおふたりさんはお楽しみだ」と品のない軽口をたたく。それを受けての 'You were in a kosher convent.' なんだから、たとえば「おめえはマトモな尼僧院にいたんだな。そうにちげえねぇ[ おっとこれは「きらクラ!」の真理平師匠の十八番でしたっけ ]」くらいじゃないのかなあ、と妄想する。なんでこういう解釈になったのか … は、ご想像にお任せします( 苦笑 )。convent は、やはり「女子修道院 / 尼僧院」にしないとまずいんじゃないかな。男の修道士が入るのは、『聖ブレンダンの航海』つながりでもさんざ見てきた用語の monastery なんだし [ もっともここは頭韻を踏んでいる感じなので、あんまり convent じたいにはこだわらないほうがいいかもしれない、軽口なんだし。「お清らかな」を使うとしたら、もうそのまま「お清らかなシスターを相手にしてたんだ。そうにちげえねぇ」のほうがパンチが効いているかもです ]。

 関係ないけど、このセクション直前のページには、「ポケットいっぱいの変化」なる珍妙な日本語表現が。??? と思ってみたら、なんのことはない、'like a pocket full of change' だった。もちろん「小銭じゃらじゃら」のほうですね。そういえば「小銭」と「転地療養」を引っかけた、マーク・トウェインの駄洒落だか地口だかを見たことがありましたねー。

付記:『翻訳問答 英語と日本語行ったり来たり』、この対談本は、すごいです !! 文芸ものの書籍翻訳者を目指している方は、まずもって必読の「翻訳指南書」と言えませう。ワタシもページ繰りながら、『ミリアム』で雪の降るなか映画がハネるのを待っていただれかさんみたいに、うなってばかりいました。あ、そういえば「花子とアン」の村岡花子さんオリジナル訳版『赤毛のアン』では、シュークリームがなんと「軽焼きまんじゅう( !!! )」になっているとか。時代ですね。だれだったか「翻訳なんて、30 年ももてばいいほう」っていう名言を吐いた人がかつていた。またカポーティはあるインタヴューに、「ジョイスは『ダブリナーズ』が書けたから、『ユリシーズ』が書けた」と答えたんだそうです。

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2014年06月16日

「聖杯」⇒ ひとの翻訳にケチつけるということ

 … 前回の「聖杯」がらみの記事、じつはこれから書くことの伏線だったりします。

 いまやどこのネット通販サイトでも、利用者による「レヴュー」が当たり前になってます。それはそれでたしかに便利です。これこれの商品ほしいな、という場合、いちばんいいのは「買った人の意見」を読むこと。これがずらっと並んで一瞥できるんだから、ある意味理想的なシステムだと言えるかもしれない。

 とはいえ、世の中好事魔多しというか、そうそう喜んでばかりもいられなくて … たとえば「サクラ( 春に咲く花じゃないよ )」、「なりすまし」などのステルスマーケティングとか呼ばれるじつにセコいことする輩がいたり。何事もモノゴトというのはいい面悪い面があります。それは致し方ない。

 でもようはバランスかと。いくら「言論の自由」があったって、どんな勝手なことコメントしていいってわけにはいかない。発言にはつねに責任( 文責 )が伴うもの ―― たとえそれが著名人が書いたものであれ、市井の人であれ。

 自分もすでに何度も「書評」みたいな記事を投稿しているから、あまり他人様のことは言えないながら、ことひとさまの「翻訳」についてコメントするときは、よくよくの注意が肝要かと思う。

 たとえば ―― なんかいまごろって感じもしないではないが ――『ダ・ヴィンチ・コード』翻訳者の先生の書いた翻訳指南書について、こんなとこで勝手に孫引用して投稿した方には申し訳ないが、とにかくこういう評が目に入ってきた。
私は英語の専門家ではありません。… その程度の人間が読んでも、この本の翻訳は疑問が多くあります。本当に英語が出来る人は翻訳者にならないのかもしれません。彼らに魅力的な仕事にしない限り、今後も悪訳が増産されることでしょう。

 へぇ、そうなの? と思い、『ダ・ヴィンチ・コード』から転載された演習問題セクションを「検討」したという箇所を調べるため、『パルチヴァール』ついでにさっそく邦訳書( ハードカバー2冊 !! )と原本( The Da Vinci Code : A Novel, Doubleday 版ペーパーバック )も図書館から借りだして、俎上に上げられた「翻訳指南書」とあわせて首っ引きで見てみた( 余談ながら、ブラウンのこのミステリ、たしかにおもしろいですね !! この小説の映画版で司教役だったと思うが、演じた俳優さんが休暇中にたまたまやってきたプールサイドを見回したら、そこにいたみんなが寝そべって The Da Vinci Code を熱心に読んでいた、なんてことをインタヴューかなにかでこたえていたこともついでに思い出した )。

 文章心理学というのが正式な学問なのかどうかいまいちはっきりしないけれども、子どものころから駄文ばっか綴ってきたしがない門外漢でも、書かれた文章からだいたいのことがわかったりします(「文は人なり」と言うごとく )。たとえば対案として出された「母性信仰」では、この本に何度も出てくるキーワードのひとつ the sacred feminine に対する訳語としてふさわしくないことは明白( 物語の後半で 'The goddess. The sacred feminine'. という言い回しも出てくるし )。あるいは「椅子に座っていれば上体だけを伸ばすのです。小さな声で聞こえるということは、上半身が彼女に近づいているから」という指摘もどうかと … だってふたりはタクシーのバックシートでしゃべっているんだし、このすぐあと運ちゃんが盗聴していることに気づいたソフィーがラングドン教授の上着胸ポケットからピストルを抜き取って( てっ!)運ちゃんに突きつけ、哀れな運ちゃんはつまみ出されて「オートマしか運転できない」ラングドン教授がハンドルを握るハメになる(苦笑)。

 「カリスはカトリック教会の用語 … 現物は寿司屋の湯飲みよりもまだ大きい … その絵を読者に伝えるのに杯という訳語は妨げになる」という指摘について。この手の文章は直前の章からのつながりで見ないと。昔、「聖杯」は Sangreal / Sangraal( 原文イタリック ) と呼ばれていた、との説明に事情がさっぱり呑みこめないソフィー嬢に、「つまり 'Holy Grail' のことだ」とつづけたラングドン教授。ホーリーグレイルのことだと聞かされたソフィー嬢、でもそれってキリストの cup という、ただそれだけのことじゃないの? と返す。ここで問題の箇所がつづく。
"Sophie," Langdon whispered, leaning toward her now, "according to the Priory of Sion, the Holy Grail is not a cup at all. They claim the Grail legend ―― that of a chalice ―― is actually an ingeniously conceived allegory. That is, that the Grail story uses the chalice as a metaphor for something else, something far more powerful." ... ( p. 176 )

ここで言いたいのは、もとは最後の晩餐でイエスが使用し、かつアリマタヤのヨセフがイエスの亡骸を引き取るときに流れでた血を受け取ったという cup 、つまりローマカトリックの聖体拝領で使う chalice は、じつは Holy Grail なるものが意味するもっととてつもないもののメタファー、アレゴリー、記号として利用されている「仮の姿」なんだ、それはとても込み入っていて、そいつがほんとうに意味しているのは … と、そういうことだろうと思う。「カリス」という言い方をどうしても出したければ「杯」にルビをふればそれですむ話。ここでは教会で使われるカリスが具体的にどういう姿形のものかはさして重要ではないと思いますね。ラングドンにとって重要なのは Holy Grail 。このあと Grail は頻出するが、chalice のほうは見たところ出てこないですし、最初の chalice が不定冠詞つきなのもそういう理由からではないかな( 日本語表記だと、どっちもおんなじ「聖杯」になってしまうが )。イタリックについては、ブラウンという人は内的独白も含めてやたらと使って効果を上げる書き方をしているだけかと( chalice ていどの単語でイタリック強調というのはふつうはないはず )。

 また、「この場合は on なので雨が顔の表面にある」ので、「雨が顔を覆い視界がはっきりしない」にすべきだというけれど、日本語としてヘンじゃないですか? じっさい、ここの場面は土砂降りなんだし。邦訳書の「目をあけてまわりを見ようとしたが、顔を打つ雨が視界を曇らせた」のほうが、個人的には「小説の描写がくっきりと絵として浮かぶ」んですけれどもね。

 そして、「翻訳業の人たちは著者の日本語に違和感がないようですが、それは彼らが学生時代から英語が好きで、… 人工的な日本語に慣れているからだと思います」。言わんとするところは、ようするに翻訳業の人はおしなべて母国語でモノを書く能力に問題あり、ということなんでしょう。

 こういうこと書く人は、商品としての文章を書くことがいかに大変か、あるいはいわゆる「文芸もの」を専門とするプロの翻訳者( と編集者、校正者 )がどれだけ訳文に神経を使っているかをおそらくご存じない( 逆に、ワープロソフトなんかで文章を綴る人のほうが気になる。とくに漢字の使い方が。Web 上のニュース記事も含めて、漢字の分量に気を使わない書き手が多すぎる )。'on' のことを指摘した箇所も、文脈を考えて発言しているとはとても思えない。「各部の寸法が気味が悪いほど正確に1対 Φ の比を守っている」からも、それは明らかです( 原本にもしっかり 'PHI'、'1.618' って何度も書いてあるし、そうしないとこのあとの重要な展開につながらない。「著者はPHIが Φ であることに気付いていないようです」というのは、いくらなんでも著者に対して失礼 )。

 自分もたまーに似たようなことを指弾したりした前科があるけれど、すくなくとも当人は「揚げ足取り」はしていないつもり。前にも書いたけどどんな高名な先生の仕事でも叩けばホコリが出るのが翻訳。個人的には、まちがいより日本語として読むに堪えない「悪訳」のほうが問題( もちろん誤りは少ないに越したことはない )。そしてやはり首を傾げたくなるのは、「本当に英語が出来る人は翻訳者にならない」と断じているくだり。いくらソース言語がネイティヴ並みにできたって、それを過不足なく、達意の母国語に翻訳する能力が伴わなければ、それこそだれにも買ってもらえないでしょう。と言ってもどこぞやの「超訳」は、冗談抜きにぶっ飛んで「跳躍」しているので、問題外ですけれども。

 以上、ひとさまの翻訳にケチつけるときは最低限、原本と訳本をそろえてからにしてください。いまや子どもでも、モバイル端末からあっという間に自分の書いた文章が全世界へ発信できちゃう時代。軽い気持ちでなさらないようにお願いします。

付記:『ダ・ヴィンチ・コード』に出てくる「黄金比」がらみでは、こんな記事にもぶつかった。あや? と思って原本( p. 100 )開いたら、たしかに 'He pronounced it fee.' ってありました。

 ジョークで、しかも相手は「フィー」と発音しているので、ひょっとしてこれ 'pee' と引っかけてんのかな、と門外漢は思ったが … そうすればすぐあとの "PHI is one H of a lot cooler than PI ! " ともつながるんじゃないかと…。

 それと、語学ついでにこういう本も先月出たみたい。「なか見! 検索」で立ち読みしたら … 認知言語学云々は興味深いながら、掲載図版になんとなく既視感が … もっとも高校生とかにはとても役に立ちそうな本だと思った。前にも書いたけれども、昔、「前置詞3年、冠詞7年」と言った先生がいた。それだけ習得に時間がかかる、ということ。なのでこんどはその「冠詞編」を上梓していただきたいですね! 

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2013年10月21日

いろんな「蛙」が思い思いに鳴いている

 いま、ハルキにはまってます。といっても『色彩を持たない … 』を買いました、ということではなくて、以前こちらでもすこし触れた、「英語で読む村上春樹 / 世界のなかの日本文学」講座の原テキストである、『かえるくん、東京を救う』。

 ルービンさんの英訳のすばらしさ … もさることながら、原作の持つ魅力にまず引きこまれました … 残念ながら物故された、もと灘校の国語科の先生ではないですが、ひとつの原作を英訳と比較しながらじっくり読み進めるという、このなんとも贅沢かつ時代逆行的な精神がまず気に入った。前にも書いたことでまた引っ張りだすのはどうかとは思うが、一介の門外漢でさえ、どう考えてもいまの「会話一辺倒」、a.k.a. 「ペラペラ信仰」はおかしいと感じる( もっともペラペラ信仰じたいはバブルのころから、いやはるか昔からあったが )。ウソだと思ったらじっさいにテキスト買って、講座を聴取してみるといいです。それこそ思いもよらなかった発見があると思いますよ。

 いくつか具体例を出すと( 注:今月のテキストです ):
'Calming down?' 原文:「少しは落ち着かれましたか ? 」
これはたんに 'Calm down?' と断定的な言い方より、ちょっと後ろに引いた、柔らかい物言いになる。太字強調箇所に注目。英訳では進行形にすることでみごとに移し替えている。

... slapping his webbed hand against his thigh. 原文:... 水掻きのある手でぴしゃっと膝をたたいた。「膝」は knee ではなく、thigh としたほうが英語では自然な言い方。

... in case he was being made the butt of some huge, terrible joke.  原文:( どっきりカメラとか )そういう種類の大がかりな悪い冗談にひっかけられているのかもしれない。terrible の代わりに 'bad joke' とすると、「下手なジョーク」、つまり「寒い冗談」の意になってしまい、相手に伝わらない。

'Fine, I see, I see ! ' 原文:「わかりました」( と片桐はあわてて言った )。これも以前書いたことだがもし相手が怒ったような顔で 'Fine!' と返したら、それは「すばらしいですね」ではなく、「もういい ! 」ということ。ちなみに場合によっては 'Please !' でもおなじ意味になったりするのでこれも要注意。

村上氏の原作とルービン訳をこうして仔細に比べて見ていくと、翻訳者の息遣いまで聞こえてきそうで、個人的にはたいへんおもしろい。もちろんふつうに英語の勉強にもなるし、一石何鳥もの効果がある( と思う )。

この前の回ではその英訳者ルービンさんがスタジオでしゃべってまして、聴取しながらメモってました。で、ちょっとおもしろいな、と感じた点をいくつか書きだしてみます。↓

最初、『世界の終わりとハードボイルド』のリーディング( 翻訳出版候補の原本を速読してレジュメを書き、版元に提出して企画会議の資料にする作業 )を頼まれたときは、なんと「いやいや引き受けた」。→ すぐにそのおもしろさにハマり、英訳。→『ニューヨーカー』誌に発表。邦人小説家の作品が『ニューヨーカー』誌に掲載されたのは、村上春樹が最初だった。

カタカナ語のもつ「特別な雰囲気」について、「村上作品には非日常的なバタ臭さがある」として、「とくに初期作品にはカタカナ名の食品( スパゲティとか )が多く登場しており、そこにも意味がある」と指摘。「ふつうに英訳すると、そのバタ臭さが消えてしまう」。

どうしても不明な点は作者本人に訊く。『ねじまき鳥クロニクル』のときに、ブラウンなのかブラックなのか、不明な表記があり、問い合わせると単純なタイポだった。

最初、村上氏は自身の英訳作品をあまり読んでいなかったが、『ノルウェイの森』あたりからチェックも兼ねて読みはじめたという。

「原作者と翻訳者が村上氏 - ルービン氏のような関係を築けるというのはなかなかないことだ( 沼野先生談 )」

村上作品のべつの英訳者のスタイルについて:「Jazzy な用語を使って、バタ臭さを表現している」が、ルービン氏は「なるべく plane な英語で翻訳するよう努めている」。

仕事について:「ピアニストが毎日、運指の練習をするように、とにかく毎日練習することが大事 ! 」。
「翻訳家は演奏家に似ている」。

解釈のちがいについて:
「知的に翻訳するのではなく、気持ちをまず第一に、感じたように訳す。自分ではあまり意識していない」。

20 年以上前に英訳したこの作品をあらためて読み返してみて:「あんまり悪くないと思う ! 」

テキスト今月号のコラムにはあの芭蕉の「古池や 蛙飛びこむ 水の音」がどんなふうに世界に紹介されているか、その実例を数多く掲載してまして、こっちもおおいに興味を惹かれた。

The old mere ! / A frog jumping in / The sound of water. ( 正岡子規訳 )

Into the ancient pond / A frog jumps / Water's sound ! ( 鈴木大拙訳 )

The ancient pond / A frog leaps in / The sound of water. ( ドナルド・キーン訳 )

ちなみに手許のある本にはキーン氏とおなじく近代日本文学の海外紹介に尽力された故サイデンステッカー氏の訳例が載っているので、こちらも引用しておきます。
The quiet pond / A frog leaps in, / The sound of the water.

ほかの人の訳とサイデンさんの訳でまずちがうのは、冒頭の「古池」のところ。ancient でもなく old でもなく、quiet としている点に、苦心の跡がうかがえます。おそらく 'ancient pond' では「古代の池」みたいになり、old pond だと水が腐った( ? )みたいに思われるのを避けたのではないかと察します。

またテキスト今月号には、巨大な「かえるくん」の鳴き声が各国語版ではどのように訳されているかについても誌面を割いていてこれまたおもしろい。仏語訳ではほぼ原作そのまま踏襲して再現されているとか、伊語訳では一部改変してあるとかありますが、独語訳、ポーランド語訳、露語訳では英訳版と同様に独特なオノマトペは無視して、それぞれの国で標準的な鳴き声に置き換えているらしい。ちなみに自分もこのたびはじめて知ったのだが、英語圏でのカエルの鳴き声の一般的表記は 'ribbit ( gribbit )' なんだそうです。

… そういえば昔、「トムとジェリー」なんかに出てきた大きなクシャミをするときの擬音語「アッチュ( ョ ) ーっ ! 」。昨年夏に『くまのパディントン』シリーズ最新刊を読んでいたとき、ちょうどそんな例が出てきたことも思い出した。バードおばさんから、とっ散らかった部屋をきれいに片づけて掃除するように言われたパディントン、掃除中にクシャミしたくなり、手にしたちりとりの中身をふん撒けそうになり泡食ってカーペットの隙間をベリベリ開けた、という場面で出てきます。
A loud tishoooo echoed round the bedroom ... ( Paddington Races Ahead, p.63 )

付記:昨年度のマン・ブッカー賞ロングリストに載った英国のある小説を読んでいたら、'He lacked colour.' なる一文が出てきて、即座に『色彩を持たない … 』を思い出した。使っている意味合いは、けっこうちがうのかもしれないが。ちなみに今回も惜しくも文学賞受賞を逃した村上氏ですが、最新の訳書『恋しくて - Ten Selected Love Stories』ではなんと本年度受賞者のカナダのアリス・マンロー女史の一編も訳出されているとは、なんという偶然か(このとき、いまひとり候補にあがっていた米国のジョイス・キャロル・オーツの古い短編 Is Laughter Contagious ? をたまたま読んでいた人)。

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2011年11月28日

備忘録ていどに …

 いちおうここは、巷で売れているものについてはあまり取りあげない方針で記事を書いてますが、先月亡くなられたジョブズさん公認の評伝について感じたことを少しだけ。

 「セガンティーニ展」で書いたように、先日、ようやくこちらの巡回展に行ってきまして、「アイルワースのモナ・リザ」はじめ、すばらしい絵画作品の数々をたっぷり堪能してきまして、個人的に大満足! でした。

 そのことはまた後日書くとして … 美術展のあと、ひさしぶりに静岡の街に来たのでついでに本屋さんにも立ち寄った。洋書コーナーがあり、行ってみてまず目に飛びこんだのが National Geographic の黄色い表紙。『欽定訳聖書』の特集。これはおもしろそう。日本語版が出たら目を通してみようかしら。で、そのまま視線を上へ移すと … ウォルター・アイザックソン著の例の評伝本がデンとこちらを見据えてまして、なにげなく手にしたら … 重ッ ! なんとこの本、本文だけで 700 ページ近いとんでもない分厚さ。性格がひねくれているので、とりあえず最終章の最後の部分、'Coda' という見出しではじまるパラグラフを立ち読み。あまり具合のよくないときに、死や神の存在について、ジョブズさんが著者に語ったということばで閉じられています。オン / オフスイッチのくだり、ジョブズさんにとってはなんだか人生をオン / オフする装置にも思えたんでしょうか。

 そのすぐあと、こんどは邦訳本のあるコーナーに行っておんなじ箇所を立ち読み。なるほど! これはメモメモ … ( 笑 ) すくなくともその箇所は鏡で写したような訳文だったと思います。

 帰宅して、ちょっと気になったものだから訳者先生のブログ記事ものぞいてみました。こういうふうにきちんと回答される翻訳家先生というのは、まずいないでしょう。お人柄というか、ひじょうに良心的だし、なにしろ正直です。そうですよ、こんな分厚い本をこれだけの短期間で訳了する、なんてことふつうではありえない ―― それも下訳者も使わずに、ご自分だけで!! 超人的としか言いようがありません。まったくもって頭のさがる思い。てっきり数人で分担して脱稿したのかと思ってましたから。

 Amazon の書評で指摘されていたらしいんですが、見たかぎり、あきらかなケアレスミスはべつとして、なんというかほとんど「好みの問題」 … という気がした。もちろん自分も SW シリーズは好きだし 1978年の初公開時に見ている人なので、これが当初 3 つずつ計 9 つのエピソードで構想されていたことも知ってますが、邦訳本の訳でもとくに問題はないかと …。「の」が連続するのはだれだっていやなので、自分だったら「 SW シリーズ後半部最初の三部作」みたいに端折るかもしれない。とくにケチつけるようなところでもないんじゃないかな? 「先駆ける」と「先立つ」の指摘についても、語感の個人差ではという感じです。

 難関の 'the excess, the permission and warmth after the cold salads, meant a once inaccessible space had opened' については、門外漢のアタマではただたんに A, B, and C after ... というふうに思えるんですが … 。前後関係の説明を考慮してたとえば「冷たいサラダを経て示されたあの度が過ぎた量、許しとあたたかさ ―― かつて近づきがたかった空間が開けた、まさにそのとき」くらいの感じになるのかなーと思ったり … 。'... somebody said ...' の指摘についても、いちいち「だれそれが言った」なんてできないですよ。これは英語の癖みたいなもので。ためしに川端とか読んでみればいい。ようは、多すぎず少なすぎず、サジかげんしだいかと思います。また ' "...," he said, "..." ' のようにふたつにわかれた科白というのもよくあるけれども、生理的にしっくりこなかったら科白部分をひとつにまとめたってかまわない。

 自分もエラソーにここで「ヘンてこな翻訳本」について書いたことがあったけれども、すくなくとも重箱の隅をつつくような、揚げ足取りのような記事は書いてないつもりです。自分だってヒドいまちがいを何度もさらしてひとりで勝手に恥かいたりしてますし。ここで取りあげる訳本は、そんな自分でも首をかしげざるをえない本だけです ( 具体的にどんな本なのかはもう喋々しないけど ) 。いまひとつ解せないのは、最初に指摘した方はせっかくの指摘をなぜすぐに引っこめてしまったんだろうか、ということ。ひょっとしたら英語が専門の先生なのかな? ついでに比較神話学者キャンベルの『神の仮面』という本の邦訳。おなじく Amazon の読者評にて、「神話のイメージを期待して購入したが失敗。書いてる内容が意味不明」とありましたが、あれはまちがいなくヒドい翻訳の見本みたいな本。誤訳のみならず、とにかく日本語として読めたものじゃありません。ひとつの文に「の」が 4 つも連なっていたり。改訳をせつに希望。できれば分厚い 4 巻もの原本すべてを完訳してほしい ( 叶えられそうにないだろうけど)。

 ついでに … 「セガンティーニ展」を見に行ったおり、ジョブズさんの追悼特集を組んだ Time も買いまして、評伝本の著者アイザックソン氏が 'American Icon' と題する記事を寄稿してました。それによると2004年の夏、著者を散歩に誘ったジョブズさんみずから、自分のことを書いてくれないかと切り出したみたいですね ( 追記。有名になった 'Stay hungry. Stay foolish.' というジョブズさんのことばですが、自分だったら「ハングリーであれ。愚直であれ」と訳したい ) 。

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2011年09月04日

Web 翻訳だって (絶句)

 昨晩、ものは試しと「名曲リサイタル」を「らじる★らじる」で聴取してみました。 … 思っていたよりなかなか使い勝手もいいし、なにしろあのホワイトノイズがないのがいい。もっともFlash ファイルに埋めこんだ mp3 かなんかの「圧縮音源」のはずだから、じっさいには FM 波のほうが音質としてはいいのかもしれない。でも人間の耳にはその差はほとんどゼロに近い (? 、音質がややフラットな気がするのは気のせいか) 。いずれにせよ難聴取地域にお住まいの方にとって、これは天恵といえるかもしれない。げんに巷の評判はすこぶるいいみたいです。 BBC Radio Online の iPlayer に慣れている人間としては、やっと NHK-FM も … という感覚のほうがつよいのですが、来月からはなんとスマートフォンでも聴けるみたいなので、これは楽しみ。さすがのBBC Radio もスマートフォンでは聴取できないですし。しかしなんだかな、つい数年前、 2011年 には NHK-FM は廃止するだのトンデモ暴論が飛び出してきたものですが、その 2011 年にわれわれ聴取者に選択肢が増えたとは、なんとも皮肉な展開ではあります。ちなみにワタシは、「らじる」をノートブックの音質の悪いスピーカではなく、USB 接続の FM トランスミッタで足許のラジカセに飛ばして聴いております(BBC Radio3 の Choral Evensong もそうやって聴取している)。

 いまひとつ巷で話題になっている (?) のは、こちらの邦訳本。この本のことをはじめて知ったのは、立ち読みした先週号の『週刊アスキー』の記事でした。

 一読者として勝手なことを言わせていただきますと、大気には酸素も窒素も含まれているがごとく、昔から翻訳には誤訳がつきもの。人間の仕事なので、完全無欠な翻訳というのはそうめったにありません (とくに一般教養書や人文科学系は。まれに文学系でも「これは?」という邦訳本はあります) 。一文まるまる訳抜けしたり、black とあるのにいつのまにか brown に化けていたり。固有名詞の表記だって裏をとるのはたいへんですし。でもこの本の場合はそういう次元の「欠陥翻訳」でさえない。なんでそんなに急くのか? なんで上下巻同時でなければならないのか?? 

 版権の期限が … なんて弁解してますが、「修正版」を出すくらいなら多少時間がかかってもはじめからまともな訳本を出せばいいだけの話。でもほんらいならばこんな本、絶版回収でケリをつけるべきもの。版元の「詫び状」は、ことばこそ平身低頭ながら、あっさり「修正版」と交換しますなんて、よくもまあぬけぬけと。読者をコケにしている。それだったらほかのもっとマシな、この手の翻訳書に明るい版元から刊行してもらったほうがいいんじゃないかと。たいていこの手の翻訳本って、ウン千円もして高いですし (おまけにこの「下巻」って 500 ページ近い大著) 。

 それにしても … 山岡先生の訃報を聞いたばかりだというのに、よもやこんなわけのわからん「悲喜劇」が起きていようとは、それこそ「想定外」でした。

 いったいどこのだれが Web 翻訳という「機械翻訳 (いや、「クラウド」翻訳かしら? ) 」に放りこんだ「文字の羅列」にすぎない「訳文」を印刷に回そうなんて血迷ったこと思いついたかについては問わない。ただ今回の事例は、ますます手抜きがまかり通る世の中になりつつあるのではないかという危惧の念をいっそう強めたのであった。たとえば昨今、名のある全国紙の社説やコラムがしばしば剽窃されたとか剽窃してしまいましたとかって報道されてますよね。また大震災発生直前、はからずもここで「なにかがおかしい」と京大カンペ事件のこととかも書きました。たしかに昔も「絶版回収」の憂き目にあった不運な、ほんとに不運としか言いようのない翻訳書は何冊かありました。でも思うに、健全な批判精神で「欠陥翻訳」を指弾できる、たとえば急逝された山岡先生みたいな「おっかない波平さん」みたいなご意見番が睨みを効かせなくなっているのをいいことに、いやただたんに怖いもの知らずなのか、その両方かは知りませんが、この手のあまりに非常識かつ度を超えた「やっつけ仕事」、「手抜き仕事」には、人さまの書いた文章の盗用やケータイを悪用したカンニング行為とかと通底する mentality を感じますね。われわれ読者の「蒙を啓く」のが社会的使命のはずの出版社、ひろい括りでは新聞社などの報道機関も含まれるけれども、そういう仕事に携わる人からしてこのざまでは … 。

 いまひとつ思うのは、監訳者はいったいなにをしていたのか、ということ。そんなに時間がないのなら、引き受けなければいいのに。文芸ものはともかく、この手の「ノンフィクション」読み物というのはえてして翻訳専業の人ではなくて、その本が扱っている分野のいわゆる専門家が翻訳するケースが多い。できがよければ万々歳ですが、よろしくない場合がけっこうあったりする。先日書いた記事でも触れたけれども、たとえば大学のエライ先生がゼミの院生とかに下訳を依頼するケース。改訳版が出る以前のエーリッヒ・フロムの『愛するということ』なんかがそう。'He saw a film.' が「フィルムを見つめた (???) 」になっていたとか (もちろん映画を見たということ)。

 でも今回のケースは明らかにちがう。だって翻訳という作業そのものを投げちゃってるんだし。よくそれで麗々しく名前出せますねと問いたい。そもそもこの邦訳チームには、原著者にたいする敬意というか原本にたいする思い入れとか愛とか、なにもなかったんだろうか? 口じゃ「本書の原書は名著です」なんて言っておきながら、その原本および原著者を裏切ったのが、ほかならぬ自分たちだということに思いを致さなかったんでしょうか?? 

 かつて「翻訳は男子一生の仕事」と豪語されていた高名な仏文学の翻訳家先生がいました。申し訳ないけど、このアインシュタイン本を担当された訳者ならびに編集者チームにいくらその金言を言って聞かせたところで、なんとかの耳に … で終わってしまうかもしれない。

 ちなみに Web 上の機械翻訳ですが、ドラえもんの「ほんやくコンニャク」ならいざ知らず、概して使いものにはならない。訳し漏れはさすがにゼロだけど、こんなんだったらはじめから自分でこさえたほうが楽だとか思ったり。仏文 → 英文という変換は、意外と使えるけれども、英日とか日英となるともうとたんに怪しくなる。試しにある Web 翻訳を使ったら、Dr Zahi Hawass が「ザヒ 家 博士」となっていて、倒れた (笑) 。

 … いま、届いたばかりのウェンデル・ベリーの古典的エッセイ集 The Unsettling of America を読みはじめたところなんですが、貪欲かつ「省力化・効率化」一辺倒な商業主義が農と食、ひいては米国社会そのものを破壊しかねないと 30 年以上も前に警告した表題作には、こんな一節がありました。

We have taken the irreplaceable energies and materials of the world and turned them into jimcrack "labor - saving devices."

貴重な資源から製本した書籍をまたぞろ金かけて回収するくらいなら、一発で消せる電子書籍版のほうがよかったかもね。デジタルデータの利点でもあり欠点でもあるのは、まさにこの「消去しやすさ」にあるのだから。

 … 今日 4日は、シュヴァイツァー博士の 46 回目の命日でありました。

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2011年01月23日

冠詞ってむつかしい! 

 この前、「リトル・チャロ 2」のラジオ版講座のテキストを買いに行ったおり、ふと「3か月トピック英会話」のテキストも目に入ったのでついでに立ち読み。ふんふん、来月はじめの放送分は冠詞・定冠詞か。これはおもしろそう…録画しておこうかな、などとひとりごちて帰る(こちらのテキストは買わなかったが)。この前録画したものを見たのですが、なるほど、英会話におけるリズムに焦点が当てられてまして、ちょっと新鮮でした…だいぶ前、欧米人はけっして単語単位でなんか発話しているわけではなく、意味内容のひとかたまり(チャンク)でいっきに話す、抑揚の起伏も単語単位ではなくて「チャンク」単位、このひとかたまりの単位で聞き取れる / 話せるようになることが重要、みたいな特訓講座のような広告を語学雑誌で見かけたことも思い出していた。大西先生の書いた番組のテキストには、「3か月、とにかく歯を食いしばってがんばってください」みたいなことも書かれていました。時間はないが、とにかくいま、英会話の必要に迫られている人はこの番組で学ぶのはとても効果的だと思うし、なんたって出費もテキスト代だけですみますし。

 以前にも書いたけれども、その昔「前置詞3年、冠詞8年」と言われていたくらい、この英文における最小単位語句は、日本人学習者泣かせの最たるものかもしれない(関係詞とか仮定法、12時制もややこしいと言えばややこしいけれども)。以下は自分自身への戒めも含めた備忘録。

 たとえばテキストにも載っていたような、

My daughter married a guy from London.

My daughter married some guy from London.

のちがい、即座にわかるでしょうか。また、関係詞で「限定」されているから先行名詞は定冠詞でくくられる、ということを鵜呑みにしてはいないだろうか(↓下線部)。

In our cathedral there was an organ of which we were very proud, as it was one of the biggest in the kingdom; not much like the organs you see nowadays of course; but it had two rows of keys and a lot of pipes, and it took ten men to keep the bellows supplied with wind.(Sydney Nicholson, Peter : The Adventures of a Chorister 1137 - 1937, p. 32)

なんでか、というと、ここではじめて登場する一台の'organ' だから。つづく'the organs you see nowadays ...' というのは、「みんながこんにち見て知っているようなたぐいのオルガン」なので、定冠詞がつく。また、たとえば幼い男の子が父親に向かって、

This is a book I bought yesterday!

と言ったら、その子の父親ははじめてそのbook を見せられていると想像できる。もし「パパが買ってくれたのはこの本だよね?」みたいな感じで見せに来たら、その子は、

This must be the book you bought me yesterday!

みたいに言う(はず)。

 また居酒屋で「ビール一杯、ください」と言いたいときは、

I'll have a beer, please.

みたいに言えばいいと思う。この不定冠詞 a は文字どおり「(不特定多数のビールのうちの)一杯」だから。では最初に挙げた例文の'a guy' と'some guy' のちがいは? 後者は、たとえば嫁さんの父親が、「ロンドン出身とかいうなんだかわからんウマの骨なんか」みたいな気持ちがこめられている。これは不定冠詞と可算・不可算名詞にくっつくsomeとのニュアンスのちがいの問題ではあるが、文芸翻訳、ことに英米の小説の翻訳を仕事にしたいという人はこれくらいの注意深さが必要だということです。

 名詞の可算・不可算も冠詞の使い分けについでつかみにくい。拙い英文メールとか綴っていて冠詞および名詞の可算・不可算問題にぶつかると、辞書とにらめっこするか、アタマを掻きむしっている(大袈裟に表現してみました)。まあそれでも、

There is no room for misunderstanding.

みたいな文なら文字どおり「誤解の余地なく」すんなりわかる。学校ではnews, information, water, fish なんかは「不可算」だと教えられる(fish については基本的には「単複同形」)。でもたとえばanxiety, possession, disappointment なんかは複数形になるとそれぞれ「個々の心配の種」、「所有物」、「がっかりさせられる人・物」という具体的な対象物を指す。可算・不可算両方とも可能な名詞ってひじょうに多くて、French food と表記する場合があるかと思えば、dairy foods と表記できる場合もある。後者は、たとえば「チーズ、牛乳、バター…」といった具体的な乳製品を売っている売り場なんかに使える。あ、それで思い出したけれども、いつも買い物に行っている某スーパー。あそこの乳製品売り場って'daily foods' と麗々と表記してあるから、いいかげんに店長さんに誤記を教えてあげたいと思う今日このごろ(苦笑)。

 定冠詞the については、いまひとつ基本的な使い方として「直前の名詞の繰り返しを避ける代名詞」にも使われますね。たとえばSaint Brendan と書いたあと、すぐthe Irish がどうしたこうしたとかつづいたら、「そのアイルランド人」つまり聖ブレンダンその人のことを言っているのであって、けっして「アイルランド人(全体)」という意味ではありません、念のため。

 不定冠詞のちょっと変わった(?)使い方として、あきらかにだれでも知っているような「固有名詞」にくっつく場合もあったりします。たとえば'a Mt Fuji in Japan ...' みたいな文。Mt Fuji なんて日本の象徴とも言うべき日本最高峰の火山、知名度だって世界的だと思うのに、なんでまた不定冠詞がくっついているのか? この文は、たとえば「日本にある、えーとなんだったかな、たしか『富士山』とかいう山…」という気持ちが表れている。知っているくせに、「わざと」言っているのかもしれない。'Did you know of a Pooh bear?' ときてもおなじ(「パディントン」でもいいけど)。「プーさん」は一頭しかいないしあのおなじみの「プー」さんなんですが、「あのプーさんとかいう熊の子」くらいの気持ちになる。「あなたも知っているあのプーさん」だったら、ふつうにthe Pooh bear になると思う。またsun, earth, moon なんかは「ひとつしかなく、かつなにを指しているかが明らか」なので、定冠詞つきで表記される。

 以上まとめ:不定冠詞 a:one among many。定冠詞 the:the only one。

「だれでもよいから、英会話のできる人を雇いたい」と言いたいときは'I want to employ a guy who can speak English well.' で、「とにかくだれだっていいから」が強調されると'anyone who can speak ...' もしくは'any guy who can speak ...' というぐあいになる。
また「話者の断定的な気持ち」が強いときなんかもthe を使ったりする。

As a result of the two wars, ...

As the result of the two wars ...

では、こめられているニュアンスがまるでちがう。前者は「両大戦の結果であろうか、…」、後者では「両大戦のまぎれもない結果として…」となって、ほとんど書き手の結論というか、主張になっている。そしてもちろん'He decided to wash his Cadillac. He loved the car.' ときたら、the car = his Cadillac ということ。定冠詞the の概念は、「既知との遭遇」もしくは「情報共有のしるし」ととらえていいように思う。

本日のおまけ:最近、とんでもないクソ番組を垂れ流していたことが発覚して個人的にもかなり頭にきた英国BBCですが、こんな興味深い記事がありました。8000Hz 以上の領域で「特有な輝き」が発揮されるのですって。それはそうと、音楽というものはそういう物理的要素のみで決まるものではなく、またこの調査を行った教授先生が言うような、「人工合成」聖歌隊(?、ようするにロボットみたいな存在に歌わせるということみたいなので、いまはやりのなんとかミクというやつか??)の開発にも役立つみたいなこと書いてありますが、音楽というのはもっともっと深い芸術だと思うぞ。

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2010年10月25日

中英語ってこんな感じ

 25日は、英詩の祖と言われるジェフリー・チョーサーの命日だそうです(1400年)。当時はグレゴリオ暦じゃないから、若干、ズレているのかもしれませんが、とにかく今日らしい。
 
 チョーサーの生きた時代は英語史上では「中英語」と呼ばれる時期であり、チョーサーの書いた英語は綴りの古さをのぞけば現代英語にかなり近いものとも言われています。とはいえ…チョーサーの書いた作品でもっともよく知られている『カンタベリー物語』の原文(↓)を見ればわかるように、見た目も用語法もだいぶちがう。手許の本によれば、たとえば'my dear sister' となるところが'my sister dear' と後置修飾だったり、'to have his rest' となるところで'for to have his rest' と余計な(?)forまでくっついていたり、反対に複数形なのにそれを示す接辞がなかったりとか。以下、グーテンベルク・プロジェクトおよびこちらの解説サイトから冒頭部分を引用しておきます(下線は引用者)。
 

Whan that Aprill, with his shoures soote
The droghte of March hath perced to the roote
And bathed every veyne in swich licour,
Of which vertu engendred is the flour;

Whan Zephirus eek with his sweete breeth
Inspired hath in every holt and heeth
The tendre croppes, and the yonge sonne
Hath in the Ram his halfe cours yronne,
And smale foweles maken melodye,
(That slepen al the nyght with open eye)
So priketh hem Nature in hir corages
Thanne longen folk to goon on pilgrimages

And palmeres for to seken straunge strondes
To ferne halwes, kowthe in sondry londes;
And specially from every shires ende
Of Engelond, to Caunterbury they wende,
The hooly blisful martir for to seke
That hem hath holpen, whan that they were seeke.


 チョーサー時代の英語の発音って基本的にはローマ字読み、綴り読みらしいですが、なんだか英語じゃなくてどこかほかの地域の言語みたいに聞こえる箇所も多い(汗)。↓
 


 ついでながら比較のために、印刷業者のカクストンが底本にしたという英語で書かれた最古の『聖ブレンダンの航海』(c.1300)の冒頭部分も引いておきます(下が現代英語文、拙訳はこちらで)。

Seyn Brendan, þe holi mon, was ʒend of Irlonde.
Monek he was of harde lyue, as ich vnderstronde,
Of vastynge and penaunce inou; abbot he was þere
Of a þousend monekes þat vnder him alle were.

So þat it byuel in a day, as our Lordes wille was,
Þat Barynt, anoþer abbod, to him com bi cas.
Seyn Brendan him bisoʒte anon þat he scholde him vnderstronde
And telle of þat he hadde iseie, aboute in oþer londe. ...


The Blessed Saint Brendan came from Ireland. He was, so I understand, a monk leading a strict life of much fasting and self-denial ; he was abbot there over thousand monks who were all under his authority.

It so happened one day, as was the will of our Lord, that another abbot, Barynt, chanced to come to him. Saint Brendan presently requested him that he would recollect and recount what he had seen here and there in other lands.

from W.R.J. Barron and Glyn S. Burgess, The Voyage Of Saint Brendan: Representative Versions Of The Legend In English Translation, With Indexes of Themes and Motifs from the Stories, pp. 284-5.

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2010年10月17日

to doかdoingか

 先週の「リトル・チャロ2」を聞いて感じたことなどをすこし。

 大昔、ナムタカは鳥族の戦士だった。蛇族とのあいだで激しい戦いが起こり、怒りに駆られたナムタカが武勲をあげて、神々(? 、鳥族の神ということか?)から「永遠の命」を授けられ、爾来1万年このかた、「神々の乗り物」として生きてきた、というお話でした。――ただしこの「永遠の命」というのは、自分の愛妻と過ごす時間というものをすべて犠牲にして得たもの。というわけで今回はいつもより増して、格言めいた言い方がぽんぽん出てきます(でも若き戦士ナムタカって、なんとなく暗黒面に落ちるアナキンを彷彿とさせるような気が…しないわけではないですが)。

 「ぼくってなんのために生きてんだろ?」とやおら形而上学的疑問にとらわれてしまったチャロに、上述したようなみずからの過去も引き合いに出して、生きる道を諄々と説くのですが、

'Listen, Charo. To live ... is to have limited time. Limited time to shape the future. Limited time to follow your dreams...'

手許にいくつか現代英語用法について書かれた本とか転がっているのですが、そのうちの一冊を見ますとたとえば「文頭の主語としてto不定詞を用いることはいまではほとんどない」みたいなことが書いてある。諺なんかでもたとえば'Seeing is believing.' なんて言いますね。また「この本はむつかしくて読めない」だったら、わざわざ 'To read this book is very hard.' なんて言わない。'This book is very hard to read.' と言う/書くほうがふつうの言い回しだろうということは自分でも察しがつく。文頭にくる「名詞的用法」のto不定詞構文は古臭くて、いまでは副詞的用法のto不定詞くらいしか口語では使われなくなっている、とも書いてあります。たしかにそうでしょうね。でもここの科白、古めかしくするためにto不定詞主語をもってきたというより、やはりこういう言い方しかないのではないかと感じます。あんまりたしかな根拠はないけれども、'Seeing is believing.' の場合、動名詞主語は「見たこと」というすでにおこなった動作が前提になっていると思う(動名詞はたんに動詞概念を抽象化しただけなので「動き」には関係ない、と書いてある本もある)。反対に、ナムタカのこの科白ではそういう「動き」はまるでなくて、ただ漠然と「生きる」ということを指しているに過ぎない。もっと言えば、まだ「動き」がない状態。つまりこれから先のことを言っている。だから動名詞主語ではなく、to不定詞主語をもってきて、後半も「…とは…ということだ」というかたちでまとめているのではないか、と思いました。'Living is having limited time to follow your dreams.' という文は、なんだかおかしいと思う。ここはやっぱり'To live is to have limited time to ...' という言い方のほうがすんなり通るような気がする。シェイクスピアにも'To be, or not to be, that is the question' という人口に膾炙した一文がありますが、これを'Being, or not being ... ' みたいにしたら、なんだかヘンです。

 …最後のナムタカの科白で'Nothing lives that does not die.' というのが出てきます。こちらもまた含蓄の深い言い方だなあとは思いますが、老婆心ながらひと言。関係代名詞thatでひとくくりにされた二重否定で、「死なないもの=いつまでも生きているものすべては生きてはいない」、つまり「生とはかならず死がある」ということ。'Nothing that ...' とつづかないのは頭でっかちにならないために整形しているから。やはりシェイクスピアの'All's well that ends well!' とおんなじかたちですね。

 また以前すこし書いた 'Off we go!' みたいな語順のひっくり返った言い方。せんだってこの「応用型」というか、やや複雑に見える構文を見かけたのでついでに取り上げておきます。↓ 

Deep inside the computer worm that some specialists suspect is aimed at slowing Iran’s race for a nuclear weapon lies what could be a fleeting reference to the Book of Esther, the Old Testament tale in which the Jews pre-empt a Persian plot to destroy them.

こういうちょっと複雑に見える構文を見たら、なにはさておきまず本動詞はどれか(太字)という点を押さえるようにすれば、あとはなんとかなる(と思う)。ちなみに例文は、シーメンス社製の制御用ソフトを攻撃するStuxnetなるマルウェアが世界で問題になっているが、じつはこれイランの核施設を狙ったものではないか、という一部識者の見方を紹介しているNYT記事の冒頭部分。'what could be ...' 以下が主語。

 …本題とは関係ないけれど、ついでに手許の古いペーパーバック(SWの「エピソード6」のノヴェライゼーション)に日本語の「班長」が英語化したものが出てきます。文法書を本棚から取ったらぽろりと落っこちてきたので、このさいだから紹介しておきます。エンドアという月で行方不明になったレイア姫を探していたハン・ソロやルークたち一行が、ここの原住民のイウォーク族に捕まってしまった場面で、ソロ船長が相棒のチューバッカに警告するところ。

"Careful, Chewie," Han cautioned from across the square. "He must be the head honcho."

(James Kahn, Return of the Jedi, p.107)

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2010年09月19日

ハサミとチャロは使いよう

 …この拙いブログも気がつけば記事がたまりもたまったり、その数570台に迫ってきました。で、以前、アクセス解析を見ていたら、検索キーワードのひとつに「チャロで英語力はほんとうにつくのか?」というものがありました…なるほど、そう感じている向きもきっとおられるだろう、と思いました。

 前回のシリーズは、よくあるタイプの英語講座仕立てで、栩木先生が物語に出てくる言い回しから問題を作り、解答を懇切丁寧に解説するという構成になってました。週ごとに「鑑賞のポイント」というページはあったにはあったけれども、補足ていど。ところが今回の「ミドルワールド」ものからはガラリとテキストの作りも変わりまして、解説が「使える表現」と「心にしみる表現」とに分かれ、さらには「語句の本質に迫る」という小コラムみたいなものまでくっついています。

 テキストだけでなく、放送の内容じたいも前回とはまるでちがって、最初はなんだこれ、と感じていた。…なんだか「雑談」みたいなノリだったので。でも聴取していくうちに、はたと気がついた(前にも書いたかもしれないが、田舎者は悟りが遅い)――今回の講座の狙いは、たとえば英語で書かれた小説などをより深く読めるように聴取者を導くことなのだ、と。14日分の放送では講師の松本先生が、「それぞれの科白にこめられた感情を読み取りましょう!」と言っている(下線強調は引用者)。なので、「短期間で最低限これだけのことは言えるようになりたい」とか、そういう目的だったらほかの講座を探したほうがいい。やはり「書きことばとしての英語」をいかに深く読めるようになるか、ということに尽きるような気がする。

 というわけで、それまで「雑談」ぽく聞こえていた講義のなかに、ただたんに字面を追うだけの皮相的な理解にとどまらず、ほんとうに言わんとしているところを「感じる」ようになるための有用なヒント、要諦みたいなものが随所に散りばめられているということに気づきはじめた。「使える表現」では「発信するときに使える表現/言い回し」をレクチャーしているけれども、卑見によればそのあとの「心にしみる表現」における松本先生と出演者二名との「雑談(に聞こえるところ)」にこそ、「書きことばとしての英語をいかに深く読むか」を考えさせてくれるヒントがたくさん隠されている(と思う)。とくに「…これってどういう気持ちですかね?」という先生の質問とか。書きことばとしての英語に接するときの日本人の態度はけっしてよろしくない、と昔から感じている(自分も含めて)。つまり字面だけ追って、ここの先行名詞はこれこれで、これは'make up one's mind'というイディオムで、これは仮定法でここは第五文型で…みたいなところで「わかった、わかった」としてしまうような態度。もちろんこういう「表面的な」理解は大切だし、とくに書きことばとしての英語を読もうとする場合、必要最低限の理解(解釈)だとは思う。でもたとえばペンギンのムウの科白、'I would if I could!' にこめられた、したくてもできないというどうしようもない苛立ち、焦り、怒りが感じられるようになってはじめて「読めた」と言える(反対に、ドゥーマの'Maybe you should move your feet faster.' という発言には、nonchalanceというか、とくに深く考えもせず相手の立場も斟酌せずに「もっと脚を速く動かしたら?」となんの気なしに投げつけた感じがします)。またムウが自分の脚の遅さについて、'I'm such a slow runner.' と言っているのもじつに英語らしい発想の言い方。いわゆる形容詞 + 動作者(-er形)というかたちですが、'He is a good organist.' と聞いて、てっきりプロのオルガニストかと思いきや、じっさいには「彼はオルガンをじょうずに弾く」と言っているにすぎない。

 …前週分の放送では、小悪魔ランダが'I almost had him!' とほくそ笑む場面がありましたが、「あともう少しだ」も使う場面によってさまざまな言い方になったりします。鋸でなにかを切っていて、「あともうちょいだ!」と言う場合なら'Almost enough!' だろうし、「あともう少しだけ!」だったら前々週の放送でチャロがムウに言っていた、'Just a little longer!' がぴったりでしょうし。真の英語力というのは、こういう使い分けが瞬時にできるようになることではないかといつも思っている(ところで「ラジオ英会話」でもおなじみのKatie Adlerさんて、ひょっとしたらランダの声役なのか!?)。

 次週の回では、'The next day his fever breaks.' という言い方が出てくる。breakもさまざまな意味をもつ基本動詞のひとつですが、核となる意味(core meaning)として「壊す(壊れる)」、「割る(割れる)」が挙げられています。だから「その記録は破られた」は'The record was broken.' 、思春期の少年の声変わりも'His voice has broken.'みたいに言える。名詞として'have a break' というのもよく使われる表現ですが、「なにかつづけていたことを急にやめる」からこのように言える。またbreak downという句動詞
になると、「急に泣き崩れる」という意味ににもなったりします。たとえばだいぶ昔に読んだGood-bye, Mr Chipsにも、'And at that ―― both then and often when he recounted it afterward ―― Chips broke down.' という言い方が出てきます(→こちらの第11章末部分)。それと、'Shall I mail these letters?' という例文も掲載されていたけれども、動詞のmailは米語表現ですな。英国だったらpostになるところ。

 英語はラテン語経由の外来語英語表現が多くて、なにかとはやりのcomplianceなんかもその一例ですが、じつはbreakとかcutとか、そういうもっとも基本的な単語(とくに動詞)ほど意味範囲が広くて、習得に時間がかかる。つまりはむつかしいということになります。前置詞と冠詞も同様にやっかいですね。時制という概念も日本語にはないものだから、たしかに戸惑ったりする。でも向こうの人はべつに意識して使っているわけではなくて、あくまで気持ちの問題――「ハートで感じる…」の大西先生が言っていたような感覚で使っているのだと思う。仮定法過去という表現も、現実の自分とはちがう「遠い」世界を仮定して言っているから現在時制ではなくて、一歩引いた過去時制になる、という感じの理解でいいのではないかと思います。もっとも英語史から見た仮定法用法の変遷についても、考える必要はあるかもしれませんが、実用ではこれでまちがいではないはず。

 …なので今回のシリーズは、とくに英文を深く、正確に味わいたいという向きにはうってつけなのではないか、と感じます。チャロのテキストで登場人物に感情移入できるほどに英語の科白が読めるようになれば、これをきっかけとしてどんどん興味の赴くままに多読すると、さらに力はつくでしょう。多読、といってもなにもむりしてTimeとかは読まなくたっていい(苦笑、最近Amazonで買い物するとよくついてくる)。TimeよりはNewsweekのほうがいい(と思う。Timeが好きで読むのなら、それでもいいのですが)。薄っぺらいリーダーのたぐいはたくさん出ているし、「対訳もの」でもいい。National Geographicが好きなら雑誌のみならず公式サイトとかもどんどん目を通せばいいし。スマートフォンを持っていたら、NYTなんかは専用のガジェットもあるので、気になった記事から片っ端から目を通すのもいい。ある作曲家が好きならその人の伝記なんかもいいかもしれない。IT関連が好きなら、関連ブログなんかそれこそ無数に存在するし、とにかくなんでもいいからいっぱい読むことこそ、遠回りのように見えてじつは近道ではないかと思います。発信型という言い方がもてはやされてはやウン年、という感じですが、発信するからには大量のインプットがぜったいに必要です。最近、路線バスの車内掲示もマルチリンガル表記になって、これはこれでいい傾向ではありますが、いかんせんその英文が自分でもそれとわかるほどヒドかったりします… 'Please restrain yourself from using your mobile phone.' なんてのがあったりしてなんだかしゃっくりが出そう。「携帯電話のご使用はお控えください」を日本語の発想のままでそのまんま引き写した言い方。ネイティヴの人に言わんとしていることがこれで通じるのかな?? 'Please do not use your cell phone while on board.' とかじゃ、ダメなのかな? 

 チャロにもどりまして、個人的にはルビーの'Everyone is good at something.' という科白もすこぶる印象的です…こういうのはしっかり覚えて、いざというときにさっと使えるように自分の表現の持ち駒としたい。…もっとも「情報屋ジョニー」氏の過去生も気になってしかたがない(笑)。

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2010年05月29日

チャロの黄泉下り

 ラジオ版の「チャロ2」聴いてるんですが、正直申し上げて、初回放送分を聴いたときにはなんだかついていけないな〜と思ってしまった。それでもめげずに(?)聴取しているうちに、ムウの話(Episode 7)のあたりからようやく感情移入できるようにはなったかな。でも聴いていてなんだか眠たいと感じるのは、前のシリーズとちがって、今作では具体的な「演習課題」があんまりないからだろうか(講師の松本先生は、「字幕なしで洋画を楽しめるようになること」を目標のひとつとして挙げている)。個人的には前シリーズの佐藤先生・栩木先生の「教え方」のほうが好きだったですね。

 前回とは打って変わって舞台設定がいきなり――ほんとにいきなり――「ミドル・ワールド(間の国)」なる異界。なんか「中つ国」みたいだ、というのはこのさい忘れて(笑)、翔太の魂を必死に「現世(うつしよ)」に連れもどそうとするチャロを見ているうちに、ふと「大教皇グレゴリウス一世がトラヤヌス帝を引き上げる」話を思い出してしまった。

 これは中世ヨーロッパではかなり知られていた話だったようで、グレゴリウス一世(在位590-604)が、「五賢帝」のひとりトラヤヌス(在位98-117)がほかの罪人と同様に地獄で苦しみを受けるのはしのびない、どうか天へ引き上げるようにと涙ながらに主イエスに懇願する、という内容。話そのものの起源はもっと古くて、8世紀初頭にオリジナルと思われる話が記録されているとか。それ以降、大教皇グレゴリウスの偉大さを称える伝説の一部としてさまざまな脚色が加えられたりもした。1150年ごろにレーゲンスブルクで書かれたとされるKaiserchronikという叙事詩にも出てくるし、神学者オータンのホノリウス(ホノリウス・アウグストドゥネンシス)も「正しい判断の結果として異教徒が地獄の劫罰から救い出せるのであれば、なおのことキリスト教徒にもそれが適用されてしかるべきだ」と説教にも引用しているとか。

 …余談はともかく、先週の回を見てふと思ったこと。魔女(??)ランダが'You will lead Charo to me!'と言った科白。willを使ってますが、たぶん100年前だったらshallを使っていたところだと思う。たとえばWebsterは以下のように規定しているという。

「…shallは一人称では単純未来、二人称・三人称では『決意・強制・義務・必要』などを表し…法律文や決議文などで『するものとする』の意で用いられ、…willのほうは一人称では『意思・義務・必要』を、二人称と三人称では『単純未来』を表し…」(中村保男・谷田貝常夫著『英和翻訳表現辞典』 研究社出版刊 p.474)

 もとのコピーが見当たらなくて申し訳ありませんが、アーノルド・ベネットという英国の小説家の書いたエッセイ(Daily Miracles、たしか邦訳本『自分の時間』所収の話だったと思う)にも、神様(?)だかが「あいつにはもうこれこれのものはやらない」みたいな科白が出てきて、'He shall not ...'と書かれてあるのも思い出した。上記引用で「するものとする」という意味のshallは、たしかにいまでも幅広く使われていますね。あとは'Shall I 〜?'、'We shall see.'みたいな決まり文句くらいですか。ほんとうにshallは見なくなった、と自分でもそう思う。昔だったら'I shall be twenty next month.'と言っていたものが、いまではwillに取って代わられていますし。ついでにノートブックに入れてある『ランダムハウス』には、「{米}では will が普通で, shall を用いるのは形式張った場合に限られる. {英}でも will を用いる傾向が強い. {話}では I'll, we'll となる」とありました。

 …ここで急にNHK-FMへと脱線して…今週の「バロックの森」は「聖霊降臨祭にまつわる音楽」でしたね(今年は今月23日)。カンタータなど声楽作品がメインでしたがオルガン曲も多くて、リューベックの聖マリア教会オルガニストだったトゥンダーの「コラール前奏曲 “来たれ聖霊、主なる神よ(かかったのはヴァルヒャ盤。使われているのはカペルの聖ペトリ・ウント・パウリ教会のアルプ・シュニットガーオルガン)"」、そのトゥンダーの後継者ブクステフーデの「前奏曲とフーガ ト短調 BuxWV.163(レオンハルト盤)」、バッハの「オルガン小曲集」からBWV.631と632の2曲(リオネル・ロッグ盤)。このうちもっているのはヴァルヒャ盤だけだけど、レオンハルトのブクステフーデもいいですね。そしてけさの放送はあいにくほとんど寝ていたのでよく覚えていないが(苦笑)、テレマンの「パリ四重奏曲集」から「四重奏曲 第1番 ト長調」でレオンハルト&クイケン兄弟盤だから、たぶんこれはもってる(レオンハルト50周年記念盤で)。しかも明日の「リクエスト」、のっけからバッハのオルガンコラール「クリスマスの歌によるカノン風変奏曲 "高き御空よりわれは来たれり" BWV.769」ではないか! 1747年6月、ローレンツ・ミツラーの音楽学術協会にバッハが「14番目の会員」として入会したときに提出したもの。ついでに例のカノン譜(「ゴルトベルク」低音主題にもとづく「6声の三重カノン BWV.1076」)の紙片をもってこっちを睨みつけている肖像画も入会時に提出したもの。ルターのクリスマスコラールにもとづく5つのカノン風変奏からなり、主調はみんなおんなじハ長調。あとへ行くほど手の込んだカノン技巧が繰り広げられ、4番目と最後の変奏ではBACH音型も出てくる。また最終変奏では6度、3度、2度、9度の反行形で応答する四種類のカノンとなり、コラールの各行がストレッタでたたみかけるように重なってます。とても快活なコラールパルティータで、カノン技法がどうのこうの、といったことは抜きで聴いて楽しい作品です。いかにもクリスマスという感じ…だいぶ季節はずれではあるが。

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2010年04月30日

'bigoted'ひとつで大騒動

1). 以下、かんたんにメモ書き。総選挙さなかの英国で、ブラウン首相のオフレコ問題発言が物議を醸していますが、BBCニュースによると、とくに問題になったのは'She's just a sort of bigoted woman'という部分だったらしい。

 けさの朝刊紙面の記事を見たら、「首相が使用した『bigot』は、『自分の考えに凝り固まって、それ以外の意見を持つ人に不寛容な人』の意味。英国ではかなり直接的な表現で、人種差別主義者らに対して使われる場合がある(下線は引用者、以下同)」と書いてありました。手許の辞書(『リーダーズ』)でbigotedを引くと、「頑迷な」、もとのbigotでも 「偏狭頑迷な人、頑固者」とじつにあっさりした語義しか載ってなくて、新聞読むまでこの形容詞が英国でこのような印象をひとに与える、ということまでは知らなかった(語源は『ランダムハウス』には「[1598.<中期フランス語(古期フランス語ではノルマン人に対するフランス人の蔑称(べっしょう)として)]」とあるからもとはアングロ・ノルマン語から入ってきたらしい)。知っていて損はないとは思うけれども、'bigoted'は使わないほうが無難な単語みたいですね。またおなじく新聞記事で、「まったく台無しだ。あの女をおれに質問させるべきではなかった」となっている個所は、'That was a disaster - they should never have put me with that woman. Whose idea was that? It's just ridiculous...'という発言部分みたい。典型的な仮定法過去の言い方。すぐあとに'I don't know why Sue brought her up towards me'とつづくから、それも考えたうえでもうすこし自然な日本語にリライトするなら、「よくもあんな女に会わせたな。だれの発案だ? まったくバカバカしい…なぜスーはあの女を連れてきたんだ?」くらいでしょうか。BBCの記事を見ると、参考になる表現がほかにもいろいろと出てきます。たとえば'I'm afraid that sometimes you get picked up by a microphone in this way, saying something that yes you don't believe, but you say in the heat of a moment.'。「今回のような発言をマイクがひろってしまうことは残念ながらときおり起こってしまうものです。ついカッとなってあんな心にもないことを口走ってしまいました」くらいだと思うけれども、なるほど、「ついカッとなって」は'in the heat of a moment'なのか。

 そういえば以前、英国人はいまだにことば遣いでその人の階級を判断するようなところがあると、もと常葉大大学院教授先生の書いたコラムで読んだことがあった。たとえば上層中流以上の人は「昼食」を'lunch'と呼ぶのにたいして、労働者階級では'dinner'と言うとか、午後4時ごろのお茶の時間を前者はたんに'tea'と言い、後者は'afternoon tea'と呼ぶとか。また相手の発言が聞き取れなかった時の定番、'Pardon?'というのは英国中流以上の人からはいまだにひどく嫌われていて、彼らは'Sorry ... what?'と訊き返すとか、上層中流以上の人はこんにちでも食事の最後に出される甘い食べ物を'pudding'と呼び、彼らより低い階層が使う'sweets', 'afters', 'dessert'とかの言い方は受け入れがたいもののようだ、とか書いてありまして、こちらもたいへんおもしろかった(上層中流以上の人はトイレを'loo'とか'lavatory'と呼び、それ以下の階層の人はふつうに'toilet'を使うといったことまで書いてあった。辞書には「英略式」としてlavvieも載ってました)。

 …とにかく「口は災いの門」ですな。おなじく気の短い人なので、他山の石にしたいと思ったしだいです。orz

2). 先日、いつも行っている図書館にあるO.E.D.を見ていたら、ひょんなことから英国特有の「クワイヤオルガン(choir organ)」の見出しも発見してしまった。ついでにchoristerの項目もさっそくコピー(笑)。本来は二段手鍵盤のみのタイプのオルガンを指すことばだったのですが、これについては以前「チェア・オルガン」が訛ったものと書いたような気がする(O.E.D.の見出しにも'choir organ, chair organ'と併記してあった)。O.E.D.(Vol. III, p.153)にもおんなじような断り書きが書いてありました。

'The latter is the original name. Choir organ, if not a blunder to begin with, has often been wrongly substituted for chair organ in printing 17th c. documents; and thus, even writers of repute have erroneously alleged that it was the original.'

 また'chorister'についてはもとは'queristre'と綴り、初出は1360年ごろらしい。The English Choristerにはラテン語表記の'chorista'の初出が1267年ごろとある。

 …といましがた、映画「奇跡のシンフォニー」で教会のオルガンを弾きこなしていたフレディ・ハイモアくんが出ているページを発見。でかくなったねー、そして声も低くなったねー(当たり前だが)。「アーサーと魔王マルタザールの逆襲」という作品について話していて、前作に引きつづいてtitle roleを演じたんですって。ちっとも知らなかった。

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2009年06月06日

ふたたび「人が重点か、動作が重点か」

 米国版文章読本みたいな本、The Elements of Styleについて書いた記事で、ついでに引き合いに出した第5文型のよくある文例(知覚動詞+人+原形動詞または動詞の現在分詞形)にかんして、遺伝子工学や特許関連の現役翻訳者でもあるKeikoさんから手厳しい批判をいただきました。で、言い出しっぺとしてもこれは徹底的に調べなおさないと、ということで大西本・田中本をはじめ、調べられるかぎり文献や辞書事典類に当たってみました(立ち読み数時間、図書館でも数時間。本屋さんではもちろん、これはと思うものは買いましたよ[笑])。

 Keikoさんの主張は、すべて転記するのはしんどいのでこちらをご覧いただくとして、まずはじめに当方の非について自己批判。まずこちらの書き方がまずくて、少々行き過ぎだった点は率直に認めて、反省しなくてはならない。とくに「教える側が…」以下のエラソーな書き方とか。また当方の思いこみもあり、誤解を招くようなところがあったことも、率直にお詫びします。あらためてこのよくある文例について、虚心坦懐に見ていくと、「正しい捉え方」はつぎのように言えると思う。

 'I saw him sing a song.' の場合。田中本によると、'him(he) sing(s) a song'ということを見たということで、じっさいにその現場を見たというわけではない。'I saw him singing a song.'の場合はもちろん、目の前で歌っている当人をこの目で見たことになる。原形の場合は、'him(he) sing(s) a song'がひとかたまりのイメージ。ing形の場合は、「いま目の前で見ている」感じ。

Keikoさんはこの動詞ing形における、「躍動感」というものを当方が誤解しているとし、意味上の主語である「人」ではなくて、あくまで「わさわさ動いている感じ(大西先生ふうに言えば)」に「力点」がある、そこを見落としていると指摘しています。

ここまでが当方のエラー。ではKeikoさんが言うように、松本先生の本に書いてあることは「そういう目新しい(奇抜な?)理論」なんでしょうか? 

 そのとっておきの実例を、ほかならぬKeikoさん自身からちょうだいしました。「くまのプーさん」シリーズの一冊、『プーのほっきょくテンけん(Expotition to the North Pole, 邦訳は石井桃子訳)』からの一節です(→原文はここで読める)。重複を顧みずにここにももうすこし長く引用します(下線は引用者)。

But Pooh was getting something. Two pools below Roo he was standing with a long pole in his paws, and Kanga came up and took one end of it, and between them they held across the lower part of the pool; and Roo, still bubbling proudly, "Look at me swimming," drifted up against it, and climbed out. "Did you see me swimming?" squeaked Roo excitedly, while Kanga scolded him and rubbed him down. "Pooh, did you see me swimming? That's called swimming, what I was doing. Rabbit, did you see what I was doing? Swimming. Hallo, Piglet! I say, Piglet! What do you think I was doing! Swimming! Christopher Robin, did you see me--"

But Christopher Robin wasn't listening. He was looking at Pooh. ...(pp. 119-120)

小川の水溜りにドボンと落ちたカンガルーの子どもルーが、流されつつも「見て見て! ぼく泳いでるんだよ!」とアップアップしながらプーさんたちに必死にしゃべり、そしてプーさんたちの渡した'pole'にようやっとつかまって岸に這い上がった場面。下線部をよくよく見ると、ほんとうに言いたいことはただたんに「いまなにしてたと思う? 泳いでいたんだよ!」という「動作」というより、「うさぎさん、ぼくのやってたこと見た? 泳いでいたんだよ! やぁ、こぶた、聞いてよこぶた。ぼくなにしてたと思う? 泳いでたんだよ! クリストファー・ロビン、見てた? ぼくねぇ…」と、周りから見ればどう見ても流されているだけのルーが、「ぼく、泳いでたんだよ!」と「まさに泳いでいた自分」に注目してほしい、と言っているところがこの科白のほんとうの「力点」だと思うのです。幼い子って、よく言いますよね、「ねぇねぇ見た見た? ぼくいまねぇ…」みたいなこと。この「力点」について、松本先生はさらりと書いているだけだから、たしかに誤解を招く書き方ではあるかもしれない。でも誤りではないように思う。もっともすべてがこの通りにくくれるものではないことは認めなければならないけれども、すくなくとも「文章全体の力点」という点ではあながち的外れとは思えない。

 もうひとつの実例もKeikoさんから提供していただきました。こちらは『オックスフォード実例現代英語用法辞典(Practical English Usageの日本語版)』に載っていた例文。

Watch me jump over the stream. (p.367)

「私がこの小川を飛び越えるのを見ててごらん」なんてずいぶん悠長な訳がついてましたが、我流に訳せば、「見てて。この小川を飛び越えるから」。この訳文、どこに「力点」があるかと言えば、意味上の主語である「自分」がこれからおこなう「動作」にありますね。また「原形不定詞」について、当方の書き方のまずさゆえ、Keikoさんに誤解をあたえてしまったところがある。もちろん現在形とは別物ですし、僭越ながら出題したクイズは、いつもの悪い癖で「ついで」に出したもので、本題とは関係ありません。では動詞原形とはどういうものなのか。Keikoさんは「原形そのものには、なんの力もないといってもいい。真っ白の赤ん坊の状態なのです」と書いていますが、田中本にはこうあります。「(動詞の)原形にはテンスもアスペクトもなく、時間的に中立で、しかも、動作の場合は『未遂行の状態(いまだ遂行されていない状況)』が前提になる」、「現に起こっている何かというよりも、むしろ『行為の未遂行』ということから『何かをこれから行う』あるいは単に『何かをする』ということを表現するということである」(『文法がわかれば英語はわかる!』pp.110-1。下線は引用者)。ここが、松本先生の言う「原形の場合は『動作』に力点がある」ということと重なると思われるのです。「動作が未遂行」の状態というのは、おのずと読み手ないし聴き手の関心が「そのあとどうなるのか」のほうに移りますね。なので松本説がとりわけ「奇説」というわけではないと思います。たしかにそこまで「踏みこんで」書いている本は見当たらないけれども。

 断っておきますが、松本先生の本は翻訳技術にかんする本なので、英語学習者はあんまりこの点にこだわる必要はないかもしれない。でもことばの深層構造を考えるうえでは、一見、おんなじことを伝えているだけに思える第5文型のこの二通りの用例には、微妙に伝えたいことのニュアンスがちがうということは、やっぱり言えると思う。たとえば「ゾウの鼻は長い」と「ゾウは鼻が長い」とでは、微妙に伝えたいことがちがいますよね(え、なに、わからんですと??)。蛇足ながら説明しますと、前者では「鼻」に、後者では「ゾウ」にそれぞれ重点がくる。二通りの第5文型の文例はこれと似ています。洋の東西を問わず、ことばというものはじつに奥が深いと思います。

 …Keikoさんいかがでしょうか? 「キアーロ」していただけましたか(「気まクラ」ふうに)? 以上当方のお詫びと自己批判、そして独断と偏見のなるべくないように努めた拙い分析でした。

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2009年03月30日

チャロ――'Journey home'

 チャロの冒険譚、ついに完結! しましたね。最終話見ているうちに、ミュージシャンのジェフ・ジョンソンが『聖ブレンダンの航海』に触発されて制作したアルバム、Prayers of Saint Brendanのスリーヴノートに寄せたトマス・ロウヘッドという作家のことばを思い出しました。'Journey Home'というサブタイトルが暗示しているように、おそらくこのジョンソンのアルバムは、「聖ブレンダン一行は、故国へ帰還するために航海に出た」という点に注目していると思う。そう考えてみればたしかにそう。生きて帰らなければ自分たちの体験したさまざまな驚くべき出来事を修道院で待っていた兄弟たちに語ることもできなかったし、『航海』として編まれることもなかった。また、旅から帰ってきた人というのは、もう旅に出る前とおなじ人ではない。ある意味、つらい長旅を終えてぶじ帰還した人というのは、「生まれ変わる」。四国八十八か所のお遍路さんとか、サンチャゴ・デ・コンポステーラなんかを思い出してみるといい。旅(航海)というのは、未知の世界へ飛び出すと同時に、自分の「内面」への旅に出発(船出)することでもある。旅に出た人はいやおうなしに己と向き合うことになる。そして最後の'Navigatio'という曲にはこんな歌詞が出てくる。

So let my ship sail like Brendan's,
Let it carry me home.

「ブレンダン自身の祈り」というより、もう歌い手であるジョンソン自身の「祈り」みたいな一節です。

 話をもとにもどして…とにかく全50話からなる仔犬チャロの冒険物語にも、どこかこのアルバムと通じるところがあるように感じます。チャロの場合は意に反して遠い異国の地にたったひとり取り残されたわけですが、「翔太のもとに帰る」ための長い長い道のりで、もう迷子になる以前のチャロではなくなっています。大げさな言い方をすればこれは一種の「発展小説」のような気がします。

 また先週、原作者わかぎゑふさんのお話もたいへんおもしろかった。わかぎさんはチャロの物語を書き進めるうちに、「英語の勉強用の話なのに、なぜここまで書かなくてはならないのか」とふと疑問を感じたということも正直に述べていました。たしかにそうかもしれない。でも、高名なさる先生も書いていたように、日本人の英語にたいする学習態度というのはあまりに「冷淡」すぎる、と思う。tree=樹、face=顔とただ機械的に置き換えて表面的に暗記しているようでは、わかったことにはなりません。「気持ちをこめる」ことこそ肝心なのです。なのでこの「チャロの英語講座」はそういう点でも大成功していると思います。げんに「英語学習ではじめて感動した!」とか涙したとか、感情移入に成功した聴取者の投稿をたくさん見ました。チャロ…とくると、ひとつ気になったことが。わかぎさんは言及してなかったけれども、急に売れはじめた小説家のエイミー・チャンって、あれ実在の小説家エイミ・タンのもじりですよね(笑)? それと、もと警察犬シリウスの吹き替えって、「新感覚☆わかる使える英文法」に出てきたズッコケ捜査官ジャックを演じていたマイケル・ネイシュタットさんだったんですね、いまごろ知った(笑)。

 …突然ですがここで――長いあいだずっとほったらかしにしたあげく、なんですが――先日のクイズのこたえを書いておきます。

1). Quite a few people wanted to hear what she had to say. 後半部を言い換えると、'something she had to say'、もとどおりの文章に直すと、'she had something to say'となります。関係文でひっくりかえっているだけ。意味は、「彼女の言い分を聞きたがっている人もけっこういた」。

2). 英語で「ポチ」にあたるのは'Fido'。「忠犬」といったところです。

3). こういう場合は、'Almost enough!'という言い方が便利です。enoughというのは、「必要最低限のものがある」ということ。けっしてplentyの意味ではないので注意。enoughと同義語でラテン語起源のかたい言い方として、sufficientという形容詞もあります。

4). ヒントにも書いたとおり、「時計の打つ時間が長い」から午前零時前の数時間は'the long hours'と言います。 

 もうひとつ。'Jane ran over to Tomoko, who was still standing there.'で、「なぜコンマが必要なのか」というようなことも書きました。ここはもちろん付加情報、つまりあってもなくても意味が通じるから、というのと、もうひとつは固有名詞がくる場合はすでにわかりきっていて対象を限定する必要がないため、「制限用法」ではなくコンマつきの「非制限用法」になります。関係詞の「制限用法(限定用法)」というのは、たとえばつぎのような場合です。

“I found some videos that gave me pretty good information about how it mates, how it survives, what it eats,” Tyler said.

これは先日、ここでも紹介したタイラー少年の科白なんですが、that以下を省いたら文意が成立しない。「どんなビデオなのか」を説明する部分で「特定」しないとわけがわからないからです。あるいは、'This is all that is left.'(残っているのはこれだけ)みたいな場合。これもthat節以下を取ったら具体的にはわからない(anything, all, somethingなどにつづく関係詞はthatになることが多い)。また、

I like candies, which are sweet.

という場合は「キャンディはみんな甘い」から、非制限用法で書かないとまずい。'I like candies that are sweet.'とは書けない。こう書いてしまうと、キャンディには甘いのや辛いのがあるようなイメージなってしまうのでおかしい。慣れないと使い分けのむつかしい関係詞の「制限用法」と「非制限用法」のお話でした。おあとがよろしいようで。

おまけ: こんな動画も見つけました。

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2009年01月12日

チャロの英語力テスト

 きのうの「特集 リトル・チャロ ケータイで試そうあなたの英語力」。Beaujolais-Villages Nouveau最後のボトルを開けて飲みつつ、参戦(笑)。もっとも本人は大まじめ。とはいえ携帯ない人なので、手書きのメモ取りながらですけど。Googleスマートフォン、国内仕様版が出たらいよいよ買うかな(笑)!

 過去問見ていただければ早いんですが、意外とこれあなどれませんよ。全問正解パーフェクトな方って…すごいと思いますよ。胸張っていい。で、今回の結果は…3問、まちがえた(苦笑)。最初の「穴埋め」で、「it takes 人」構文を選ばなかったこと('It takes one to know one.'という言い回しを思い出せばよかった…)、「発音」でcloudとcrowdにしてやられたこと、最後のトモコの科白をきちんと聞き取っていなかったこと、の三つを落としたのでその分減点…orz とはいえ最初の配点を書き漏らしたので、どのていどの減点かは不明。最上位のSランクはむりとしても、次点のAランクには入っているかな? 

 昔、「バイリンギャル」という意味不明な用語が流行ったことがありましたが、帰国子女だからといってすべて知っているわけじゃありません。イディオムなんか、そうと知らないかぎりanybody's guess(これもイディオム)で答えなくてはならないし。でもさすが静岡出身の森さん、発音とか聞き取りは満点ですね。これはやっぱり耳を鍛えるしかない。だから、『英語耳』っていう教材は興味があります(笑)。あるけれど、たとえばこの前地元紙投書欄で見かけたような、「10年以上も教わってしゃべれないのは日本式学校英語教育のせいだ」みたいな論調はいただけない。だいいち単元の絶対時間数が少なすぎる。またあまりに会話偏重すぎる。学校の先生を頼りにしすぎる(苦笑)。文法事項軽視の会話に偏った教え方では、たとえば'He has something to tell you.'はわかっても、'There is something he has to tell you.'になるととたんに躓いたりする。また'Would you like to have some tea?'と流暢に言えても、なんで仮定法を使うかということに考えがおよばない。英語を読んだり書いたりする力もバランスよく身につけさせるのが理想的だと思う。なんだかんだ言っても、Webの世界はいまだに英語中心ですし。では日本人教師のかわりに日本語がまったくしゃべれないネイティヴスピーカー教師に任せれば、子どもたちはみんなひとりで海外旅行できるくらいの英語力が身につくのか、と問われれば、こたえはおそらくNO。そんなにことが単純なら世話ないですよ。誤解を恐れずに言えば、新渡戸稲造のような英語使いの達人を輩出したような明治時代の、ほとんどスパルタ式みたいな教授法のほうがまだましかと感じます。

 オバマさんの演説集を読んだ方のブログとか拝見しますと、「シンプルでわかりやすい英語でしゃべっている/書かれている」から感心した、みたいな意見が多く見受けられました。米国ではすでに何年も前から「大統領の使う英語」というのは、「簡潔な英語(Plain English)」と呼ばれ、いまでは公文書のほとんど、NewsweekU.S.News & World Reportなどの雑誌記事もこのような発想の英語で書かれている。移民の国ならではという事情もありますが、いわゆる「お役所ことば」、やたらまわりくどくてわかりにくい表現、難解な専門用語をふりかざす言い方はやめて、だれもがひとしく理解できるという意味での「英語の標準化」を目指そう、ということで、そのルールにのっとった英語をしゃべったり、書いたりしなくてはいけない…ようです。なので大統領英語にかぎって言えば、平易な英語表現というのはなにもオバマさんだけの専売特許ではなくて、もうすぐ任期切れのいまの大統領だってそうです。ちょっと気になったので一筆しておきました(→参考:SECのPlain Englishハンドブック紹介ページ)。

 「チャロテスト」にもどりまして…「勘違い英語」設問で、'make it happen'と'let it happen'のちがいが説明されていました。使役動詞で強制的なニュアンスが強いのはmake。getとhaveは、頼んで、または自発的になにかをやってもらうという感じ。letは「そうなるのを許す、認める」という感じ。だから、「故意にやったことではなくて、結果的にそうなっちゃった」ということを説明する場合はかならず'let it happen'になる。

 また脱線してしまいますが先日、地元紙に「オバマは英語がうまい 次は英米人教諭の採用義務化ですか」なる論説が掲載された。2013年度からの高校学習指導要領で決められた方針、「英語の授業は英語で」にかんして地元紙主筆が持論を述べたものなんですが、そのマクラが…ちょっとこっけいというかおかしい。なんでも著名な学者や評論家先生の懇談会で現首相の英語力が話題になって、ひとりの出席者が「彼はカリフォルニアの西海岸英語だから品がない」なんて発言していた…らしい。自分はVoAにいたときから、ロスアンジェルス在住のもと合唱団指導者の方とたまさかやりとりしているけれど、そんな失礼なこと言ったら怒られますよ。というか論説のテーマといったいどういう関係があるのか、このマクラは…としばし考えていたりして(苦笑)。ただし、「英語をしゃべる、外国語を使って意思を伝えるという能力と読解や作文という能力とは別ものだ」という理屈ははなはだおかしい。訊いてみればいい、「わたしは話すことはできるが文章は一筆も書けません」なんて人がいるだろうか? 冗談じゃない。こういうことを平然と書かれては困る。さらには「…しゃべれる、話せる、語り合えるようになるまでには訓練が要る。時間も要る」なんてことまで書いてあります。では訊くが英語で書かれたペーパーバックを読んだり、あるいはまともな英文が書けるようになるのは「訓練もいらず、時間もかからない」ほどかんたんなんですか? こっちのほうがはるかにむつかしいですよ。なに言ってんだこの人、という感じ。

 以上、しがない門外漢の備忘録。最後にちょっと頭の体操をして終わることにします。

1). Quite a few people wanted to hear what she had to say.
↑で書いたことの応用。'have to'に注意。たんに隣り合っているだけです。

2). 「ポチ」に当たる、英語圏でわりとよくある飼い犬の呼び名は? 

3). 「あともうちょいだ」を英語で言うと? 
ヒント:たとえば、計量カップに100ccの水を注いでいるとき、あともう一息でぴったり100cc、というような場合。almostを使います。

4). the small hoursは「午前零時から朝4時ごろ」にかけて、では午前零時前の数時間は――'the ○○○○ hours'。 
ヒント:「柱時計」の打つ回数を思い起こせば…。

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2008年12月06日

サンタさん追跡の季節

 今日はサンタさんのモデル、聖ニコラオスの祝日。明日がミラノ司教聖アンブロシウス。飛んで12日がブレンダンやコルンバなど、アイルランド聖人を多く教育したクロナードの聖フィニアンの祝日になってます。12月はクリスマスだけでなく、最初の殉教者ステファノ(26日)に使徒ヨハネ(27日)、カンタベリー大聖堂内で殺されたトマス・ア・ベケット(29日)など、有名どころの祝日が並んでいます。そして、またNORADがサンタさんの追跡をはじめる季節でもあります(笑)。

 前置きはこれくらいにしまして…せんだって地元紙に「語異夢中」なる連載がはじまりまして、初回がオバマ次期米国大統領の決まり文句、'change'でした(仏語では語尾にrがくっついてchanger、シャンジェになる。もとはラテン語cambireからですが、『ランダムハウス』によるとどうもこれ究極的にはケルト語起源らしい。英語も仏語も形がさほど変わらないことからわかるように、アングロノルマン語経由で英語化した単語)。

 記事では『ランダムハウス』の語義説明も引き合いに出して、「原形をとどめないほど変えること」だとし、おなじ「変革」でも「改革」にあたるのはreformであると書かれてました。日本では住宅リフォームみたいな誤用がまかり通っていますが、本来はこういう使い方が正しい。家の改装は、renovation(動詞形 renovate)とかremake、建て替えはrebuildとかremodelになると思う。でも歯医者に行くのに100ドル札が飛ぶような国ながら、選挙人を選ぶという形でも、国の代表を選ぶ選挙に国民が参加できるというのはやはりうらやましくもある。変革ついでに、社会にcommitしてなんらかの「変化」をもたらす場合によく使われるのが'make a difference'というフレーズ。'You can make a difference.'と、人をはげます場合にも使えるので、この言い方も覚えておくと役に立つかもしれません(仏語 changerについて興味深いブログを見つけましたので紹介しておきます)。

 先週の「チャロ」、マルゲリータの科白に'See? That's what I'm talking about.'というのがありました。これを見て、昔、読んだコメディタッチの短編ミステリを思い出した。たしか'Are you telling me what I think you are telling me?'だったと思います。弁護士(じつは詐欺師)がさるダイナーに突然やってきて、店主に遺産相続話をもってきた。まんまと丸めこまれた店主、得意顔で雇われマネージャーの主人公にそのことをじらすような調子で話す。そのとき店主に聞きかえした科白です。見た目なんだかまどろっこしいような気もしますが、こういう言い方をするのが英語の発想法なんだとそのとき感じたものです。

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2008年07月21日

翻訳はむずかしい

1). 折りに触れて書いてきたことかもしれませんが、翻訳、とりわけ文芸ものは難物です。おんなじ原本でも、訳者が変わっただけでがらりと作品の印象が変わったりする。でも版権というものがある以上、当然のことながらある作品の日本語出版の権利は一作品につき一出版社にかぎられる。ことばを変えれば、ひとりの訳者、またはその訳者に代表される翻訳チームにかぎられます。タッチの差で版権を取れず口惜しい思いをした、なんて話もよく聞きます。

 せんだってさる週刊誌に『ハリー・ポッター』シリーズの邦訳は噴飯ものだ、という記事があって、ふだんはあまりこの手の雑誌を買わない人ながら、つい買ってしまった。で、読んでみたら、高山宏先生とかがいろいろとおかしな箇所を指摘していたりする。ただし記事を読んで気になったのはいわゆる誤訳のたぐいではなくて、「手水場(「ちょうずば」と読む)」、「旅籠(「はたご」と読む)」といった、最近めっきり見かけることもなくなった死語(?)になりかけたことばの数々。時代劇じゃあるまいし、なんと「下手人(!)」なんて言い方まで出てくるという。個人的にはこういうことば選びの無神経さのほうがはるかに重大かと思うのでした。

 イジワル爺さんじゃないけれど、さっそく図書館に行って邦訳本第一巻第一章のコピーをとり、それを原文と突きあわせて読んでみた。まだこのへんはそんなにひどい箇所、ヘンテコな部分はなかったように思いますが、やはりなんか読んでいてすわりが悪いというか、科白にやや難ありという印象を受けます。以下、ざっと目についた箇所を列挙してみます(→は拙訳案。ノンブルは邦訳本のページ数)。

・(ダーズリー氏は)ずんぐりと肉づきがよい体型のせいで、首がほとんどない。そのかわり巨大な口ひげが目立っていた。→大柄ででっぷりと肥えた体型で、首はほとんどないくせして口髭だけがやたらと太く目立っている。(p.6)

・どこを探したってこんなにできのいい子はいやしない、というのが二人の親バカの意見だった(下線強調は引用者)。→夫妻にはダドリーという名の幼い男の子がいて、夫妻によればウチの子ほどよくできた子などこの世にはいないと言うのだった。原文にはないけれどもあえて訳には入れる、という補足訳をしないといけない場合はままあるが、ここは不要。( ibid. )

・そんな絵に描いたように満ち足りたダーズリー家にも、たった一つ秘密があった。→ダーズリー家には、望みのものはなんだって揃っている。ただし、秘密もあった。( ibid. )

・――くだらん芝居をしているにちがいない―― →でもダーズリー氏はすぐに、これはなにかバカげたイベントにちがいない、と思いはじめた。(p.9)

・五人の社員を怒鳴りつけ、…→入れ替わり立ち代わり五人の社員を怒鳴りつけた。'He yelled at five different people.'というのはたぶん役職のちがうさまざまな部下を5人叱ったということだろうと思う。つまりダーズリー氏がこの工場すべてを取り仕切っているということを暗示しているように思います。(ibid.)

・「すみません」ダーズリー氏はうめき声を出した。→「失礼、」ダーズリー氏はうなるように言った。この横柄でブタみたいなおっさんの言う科白とは思えないところが問題。(p.11)

・小さな老人はダーズリー氏のおへそのあたりをやおらギュッと抱きしめると、立ち去って行った。→そう言うと、ちっぽけな年寄りはダーズリー氏の腹のあたりに顔をうずめてしっかと抱きしめ、その場を立ち去った。それとすぐあとの「幻想」も「妄想」のほうがいいと思う(ibid.)

・――わしらにかぎって、絶対にかかわりあうことはない……。
 ――[改行]なんという見当ちがい(太字強調は邦訳文のまま)―― [改行]ダーズリー氏がトロトロと浅い眠りに落ちたころ、…→ ――しょせんわしらにはあずかり知らぬことさ。[改行]ダーズリー氏の見込みは大はずれ。[改行]ダーズリー氏はしだいに浅い眠りに落ちていったころだったかもしれないが、塀の上の猫のほうは目をつぶる気配さえなかった。(p.15) ついでにすぐあとの「やっぱりそうか('I should have known')」(p.17)は逆ではないかと…。

・ダンブルドアはやさしく言った。→ダンブルドア教授はなだめるようにこたえた。(p.19)

・「…、何が彼にとどめを刺したのだろうかとか」。ヴォルデモートは逃亡して姿をくらましただけなのに「とどめ」はいただけない。(p.21) ただしこちらの記述を見ると、邦訳のままでもよいのかもしれないけれど…というかこれってまるでシスが滅んだものと思いこんでいたジェダイ騎士団みたいな話だな。

・「ハリー・ポッターを、伯母さん夫婦のところへ連れてくるためじゃよ。…」→「ここに来たのは、ハリーポッターを伯母さん夫婦の家に預けるためだよ」。「連れてくる」とすると、赤ん坊というより歩ける子どもの手を引いてやってくるような印象をあたえるからまずいと思う。(p.23)

・「――母親がこの通りを歩いている時、お菓子が欲しいと泣きわめきながら母親を蹴り続けていましたよ。ハリー・ポッターがここに住むなんて!」→「――あたしは見たのよ。あのせがれが菓子を買ってくんなきゃヤダヤダって、この通りを歩いてくる道すがらずーっと母親を蹴っ飛ばしていたんですから。こんなヒドイとこにハリー・ポッターを住まわせる気ですか?」(ibid.)

・ダンブルドアは半月メガネの上から真面目な目つきをのぞかせた。→「おっしゃるとおり」ダンブルドア教授はそう言って、半月型メガネの上縁ごしに真面目くさった目つきをしてみせた。(p.24)

・「でもご存知のように、うっかりしているでしょう。…」→「でも軽はずみなところがないとは言えないでしょ」(p.25)

 自分のもあくまで試訳ですので、『ハリー・ポッター』シリーズを愛読している読者のなかには、もっといい代案があるという人もいるでしょう。上記試訳は自分の読んだかぎりの印象にもとづいてこさえたものにすぎないので、誤読・誤解もあるかもしれない。なにしろ原本も邦訳も今回はじめて一部分とはいえ目を通したわけなので…それでもあえて一読者として言わせてもらえば、登場人物にふさわしい科白というものを考えていない訳が多すぎるように感じます。だれがだれだかわかんない、みたいな。それと漢字の使い方もやや気になる。ひらいたほうがいい箇所まで漢字になっている。最近の文芸ものをあまり読んでいないような気もします。それとこれは週刊誌記事でも指摘されていたけれど、全体としてお話がすっと流れていない。なんだかまどろっこしい。もっと推敲すべきだと思います。原文にはない改行箇所もやたらと多い。改行すれば読みやすくなるってもんではないと思いますがね。

 「訳者あとがき」を見ますと(いちおう、これもコピーをとった)、日本語の語感の鋭いご友人に読んでもらって意見を聞いたとか書いてあります。そしてこちらも見ますと、当然のことながら、やはりご自分で全訳されたわけでもないらしい。それゆえいろいろ調べてみると、あちこちで訳語の不統一が目立つようです。こういうのも――一般教養書ならともかく小説では――ちょっと困る。

 あ、それと'Deathly Hallows'についてもいろいろ語っていますが…「イギリス人でも知らない単語です」なんていくらなんでもそりゃひどい。ためしに図書館のO.E.D.を引いたら、

2 In pl. applied to the shrines or relics of saints ... In the phrase to seek hallows, to visit the shrines or relics of saints...

とあり、またこの調べ物サイトを見たら、O.E.D.その他の引用として、

Hallows can refer to saints, the relics (including remains) of the saints, the relics of gods, or shrines in which relics are kept.[5][6] Since the essence of these saints or gods were often considered present at their shrines and in their relics, hallows came to refer to the saints or gods themselves, rather than just their relics or shrines.

とあって、複数形では聖人そのものというより聖遺物箱やそれを奉った場所を指すこともあるとはっきり書いてある。ついでにHalloweenももとをたどればhallowからきた単語で、All Hallow Eveの短縮形。O.E.D.にはHallowmas, Hallow-tide, Hallow-fire(bonfire)といった単語も挙げてありました。

 翻訳…ついでに、図書館で見たある本に、『ハリー・ポッター』イタリア語訳にもうっかりミス(?)による誤訳があるとか書いてありました。ダンブルドア校長の名前Dumbledoreは、古英語で「蜂(=bumblebee、マルハナバチ)」も意味する単語らしい(『リーダーズ』には載っていた)。それをイタリア語版の訳者は、英語のdumb(唖)ととり、イタリア語でもそのまんまProfessore Silencio、「だんまり教授(?)」なる訳語を当ててしまったとか(こちらの記事によると、このまちがい、原作者も知っているようですが、「イタリア人読者は気にしていないようね!」ともこたえてもいるみたい)。げに翻訳とはむずかしき哉。*

2). 本題とはまるで関係ないが、今日いちばんの印象深いニュースもすこしだけ。いまさっきNHKのニュースを見ていたら、なんと「定家本」より古い『源氏物語』の異本「大沢本」が完全なかたちで見つかった、というもの。なんでもいままで行方不明だったらしい。そして「定家本」とは異なる部分もあるとか。こういう話を聞くと無性にわくわくするたちなので、備忘録ていどに書き足しておきました。

*...Dumbledoreについてすこしだけ追記。念のためO.E.D.で確認したら、英方言としてこの単語が載ってましたが、語源的にはdumb+dore(doreはdroneする昆虫)らしい。というわけで、イタリア語版は語源的に見ればそんなにはずれてない(?)かもしれない。

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2008年05月05日

『赤毛のアン』も100周年

 「3か月トピック英会話」で放映中の原書で読む『赤毛のアン』。連休真っ只中にいままでの放送分をまとめて放映していたので、さっそく見てみました(こういうときでもないと、じっくり見られないし)。

 『星の王子さま』は内藤訳で読んでいたけれど、恥ずかしながらこちらのほうはいまだにきちんと読んだことがない(ようするに知らない)ので、いい機会だと思って見てみるとこれがけっこうおもしろい。TV番組なので、内容はどちらか言うと「プリンスエドワード島紀行」みたいな感じではありますが、それでも島の自然の美しさには心打たれるものがある。以前放映された『アヴォンリーへの道』とかも思い出しました。ちょうどときをおなじくして、翻訳者で番組講師をつとめる松本侑子さんが、地元紙に『赤毛のアン』関連のエッセイを寄稿されてました。

 見ていて思ったのは、『赤毛のアン』も『星の王子さま』も、けっして色あせることのないすばらしい「読み物」だなあ、ということ。主人公がひじょうに魅力的に、生き生きと描かれていて、なんとなく見はじめたとはいえ、すぐにお話の世界に引き込まれた。やはり「古典」というのは、なるべくしてなるんだ、とあらためて感じたしだい(言い出したらきかない頑固なところはどことなく「王子さま」と似ているかな)。

 文学好きのアンの科白にはそこここにシェイクスピアや聖書の引用が出てきます。番組でも言っていたけれども、はじめてグリーン・ゲイブルズにやってきたとき、自分をコーディリアと呼んでくださいと頼むところなんか、いかにもという感じ。ほかにもアーサー王伝説とかも出てくるそうですが、けっきょくすぐれた児童文学というのは大人の読者の鑑賞にも耐えられる作品にほかならない。逆に言うと、すぐれた児童文学を書けるのはよっぽどの名手でなければならない。どうりでマーク・トウェインも絶賛したわけだ(「古典は酒だが、わたしの本は水だ[つまりみんなが読む]」という名文句も思い出した)。

 今回、松本先生の紹介でいろいろとアンの「名(迷?)科白」の数々にお目にかかったけれども、語学的に笑えたのはダイアナと「親友になる誓い」をたてる場面。「誓う」という意味でswearと言ったのに、ダイアナのほうはもうひとつの悪い意味しか知らず、「そんなことできないわ」と返すところ。

"Will you swear to be my friend forever and ever?" demanded Anne eagerly.

Diana looked shocked.

"Why it's dreadfully wicked to swear," she said rebukingly.

"Oh no, not my kind of swearing. There are two kinds, you know."

"I never heard of but one kind," said Diana doubtfully.

"There really is another. Oh, it isn't wicked at all. It just means vowing and promising solemnly."

"Well, I don't mind doing that," agreed Diana, relieved. "How do you do it?"

こういうところでアンがことばをよく知っている少女だということがわかる。またアンがギルバートを石板(!)でぶんなぐる有名な場面のあと、ギルバートが先生に「自分が悪い」と打ち明けるところで'Gilbert it was who spoke up stoutly.'とある。強調構文なのですが、冒頭部がさらにひっくりかえって、さきに先生に詫びを入れたのは「ギルバートのほうだ」ということが強調されている(ついでに"You mean, hateful boy!" she exclaimed passionately. の'mean'は、動詞のmeanではありません、念のため。本来の形は"You [are] mean..."。アンのたたみかけるような科白ではよくbe動詞が省かれているので注意)。

 いまも昔も、「これだけできればペラペラ」みたいな商売がありますが、あるていど基礎ができたら、「もっと深く理解する」訓練をしないといつまでたっても相手のことばの背後に隠れた「気持ち」が理解できないし、また英文もきちんと読めない、と思います。外国語なので、このへんの理解の落差はあるていどしかたないことではありますが、たとえば孤児院から引き取られたアンが自分の生い立ちをリンド夫人にとつとつと語る場面、

"Were those women--Mrs. Thomas and Mrs. Hammond--good to you?" asked Marilla, looking at Anne out of the corner of her eye.

"O-o-o-h," faltered Anne. Her sensitive little face suddenly flushed scarlet and embarrassment sat on her brow. "Oh, they meant to be--I know they meant to be just as good and kind as possible. And when people mean to be good to you, you don't mind very much when they're not quite--always. They had a good deal to worry them, you know. It's very trying to have a drunken husband, you see; and it must be very trying to have twins three times in succession, don't you think? But I feel sure they meant to be good to me."

この科白からはアンの意地らしさというか、アンの気遣いが伝わってきます。

 …そう言えばもうかなり前のことになるけれど、地元紙に掲載されたある若者の話も思い出した。その人は『赤毛のアン』を読んでいたく感動し、肉体労働のアルバイトをしてお金をためて、ついに憧れの地、プリンスエドワード島へ行って、島の美しい自然を写真におさめた。帰国後、ふたたび島を訪問しようとしたが、道路工事の現場で交通事故にあい、志なかばで亡くなってしまった。遺作展が開かれたそうですが、番組を見終わったあとで、この青年の気持ちというか思いの深さというものがようやく理解できたような気がする。この物語にはそれだけの力があるということです。

 …それでまた思い出したのが、NHKラジオ第2放送でやってた「原作で読む世界文学」という番組。20年ほど前になるかな、自分はこの番組を通じてはじめて『チップス先生さようなら』の原書を読みつつ、英語の勉強をしたのは。すっかり黄ばんだペーパーバックがいまも本棚の隅っこに収まっているけれど、ひさしぶりに読んでみたくなりました(とはいえいまは大急ぎで図書館から借りている音楽本を読まなければ…orzこっちはこっちで興味深い本なんですけれどもね)。

*…Anne of Green Gablesの引用はすべて「グーテンベルク・プロジェクト」サイト内の該当ページから。

posted by Curragh at 23:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 語学関連

2008年04月27日

チャロにはまってます

 自分はいままでNHK-FM専門、「ラジオ放送=音楽!」というステレオタイプな図式しかなかった。でも「チャロの英語実力講座(教育TVの番組もあわせて)」をなんとはなしに聞いているうちに、「ラジオ第二放送」の語学関連講座もけっこうおもしろいことに――いまさらではあるが――気づきました。ご存知のように「NHKラジオ第二」はお勉強専門ラジオ局。なので通信制高校向けの講座もいろいろあって、高校で履修する「音楽I」なんて講座まであってびっくり。講師には、さる方面でもつとに有名な(?)青島広志先生もいらっしゃる。

 今日、たまたまNHK-FMから第二放送に切り換えたら、「ラジオ英会話」をやっていて、「リスニング力増強」というプログラム。で、よくよく聞いてみたらなにやら英語ニュースで、なんと「このたびツタンカーメン王のミイラが石棺から引っ張り出されて、温度調節された透明保護ケースで展示されることになった」というニュースでした。たしかに「お顔」は発掘以来はじめてお披露目になったわけですし、これでいくばくかのreal moneyが落ちればなおいい、とはいえ一部には「王の眠りを妨げるべきではない」とする意見もありました。蛇足ながら追加すると、王のミイラ調査は1926年で、番組で言っていた1922年というのは王墓の発見された年です、念のため。いまひとつは「王の顔がintactだった」というくだり。王のミイラははっきり言って保存状態は最悪で、しかもカーターたちが調査したときにバラバラに解体してしまったので、かろうじて損壊を免れたのがお顔だけだった、ということです。その後、どこのだれの仕業か知らないが、ビーズの胸飾りを肋骨ごとぱっくり切り取って持ち去った罰当たりな輩もいるらしいですし。ツタンカーメン王のニュースにつづいて、クイズ番組(? ニュースもそうだけど、これって役者さんが演じているのかしら)のリスニングになりました。そうそう、残念ながらスイスはユーロじゃないんですね、スイスフラン(Swiss Franc)。「最新型ノートPC」、当て損ないました(笑)。

 英語関連では、いま教育TVで「『赤毛のアン』への旅」という講座をやってますね。いいなー、楽しそうで(笑)。そうか、『赤毛のアン』って初版が出てから今年でちょうど100年になるのか、知らなかった。『星の王子さま』に負けてませんな。

 自分も「耳」をもっともっと鍛えたいと思っていたので、これは渡りに船かも。リスニングを鍛えるのにラジオは最適な道具。そういえば数年前、WebベースのTOEIC対策講座みたいなものを半年ばかりやってみたことがありました。この手の「ネット通信教育講座」の走りではなかったかと思う。で、じっさいに会場に行ってみて問題用紙めくったら、まるでちがっていたので正直あせった(苦笑。ちっとも対策になってないじゃない!!)。

 …そんな自分の机上には、たまーにしか開かないラテン語入門みたいな本とかコピーとかがいかにも手持ち無沙汰然として転がっていますorzorz。両方いっぺん、というのはなかなかできないですね…。努力はしているんですけれども。

 ちなみにチャロくんの講座はちょっとお遊び気味なTV版よりラジオ版のほうがいいと思う。それこそ毎日毎日、やってますから。一週間ずっと聴講していればけっこう身につくと思いますね。それとチャロ講座のいいところは、「Web連動型」であること。テキストにはないテスト問題があったり、聞き逃した放送をまとめて聞けたり、これはWebベースならではですね。TV版のテストでは放映されたアニメの場面も出てきますし。なんでもそうだとは思うが、「継続は力なり」、やはり「毎日触れる」のが肝要なのだろうと思います(だれだ、自分のことは棚にあげて、なんて言っているのは?)。

WSKも出演するらしい
posted by Curragh at 23:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 語学関連