2024年09月30日

戦後まもない頃に AI 到来を予言していた N・ウィーナー

 せんだって読んだこちらの本。この本を読む前にここにも書いたショシャナ・ズボフの『監視資本主義』の邦訳ももちろんすばらしいんですが、どっちかオススメしろと言われたらアセモグル本のこちらの訳書を推すかな。理由は、いわゆる独自理論臭さがあまり感じられない(歴史的事実にもとづき慎重に考察を論述するスタイルで、ズボフ本に散見されるようなポエティックな箇所もない)のと、読みやすい、という点で。理想的には上記2冊を読んだほうがいいとは思うが、アセモグル本の日本語版は上下巻と分かれているため、そこがとっつきにくいという向きもいるかもしれない。

 ワタシは仕事の裏をとるために下巻をまず読んだんですが、これだけでも読む価値のある本だと思いますよ。とくに好感が持てたのは、いまや子どもでも知ってる AI(人工知能)と、技術革新と民主主義の危機について論じた章。時間のないオイソガ氏さんは、まずはここだけでも目を通すべきかと。

 とくに心惹かれたのは、戦後まもない頃、すでに 21 世紀の AI 天国(?)時代の到来を予言した寄稿文の原稿があると紹介されていたくだり(同訳書 pp. 149−151)です。書いたのはマサチューセッツ工科大学(MIT)教授だったノーバート・ウィーナー(1894−1964)という科学者で、当時勃興しつつあったオートメーション技術を人間の役に立つようなかたちで発展させよ、という「機械有用性」と言われる概念を支持した人。1950 年代に刊行された翻訳技術に関する本に、すでに機械翻訳が英仏語間で試験的に行われていた実例が書かれていた話を以前、ここでもちょろっと書いたけれども、ちょうど時同じくしてこのような原稿が書かれていたとは。ウィーナーの著作や論文には、ズボフ女史の言う「スマートマシン」を想起させる内容も含まれている。

 この原稿についてはこちらの NYT 記事に詳しく書いてあるとおり、行き違いと本人にもはやその気がなくなったというのもあって、原稿が書かれてから 63 年後の 2012 年にたまたまカール・ポパーの調べ物をしていた学者が「再発見」されるまで、ずっと MIT の書庫に眠っていたらしい。しかも日の目を見てから 10 年ほどでシンギュラリティ的展開を見せているいまの世界を書いた御本人が見たら …… きっと嘆息されるに違いない。そういえば OpenAI で退職者が相次いでいるとかっていう話を海外ニュースでも見かけますが、ここの組織はかなり変わっていて、持株会社的な役割の非営利組織の下に OpenAI を含む「子会社」がつながっている、という形態。こういう特殊なかたちにすることで「研究者の暴走」を食い止めている転ばぬ先の杖的な構造に敢えてしているのですが、そんなのもうやめたら? ということでゴタゴタが起きているようです。いままでインターネットやクラウドや IoT などの IT 技術がらみで、こんなことって起きたでしょうか? 今回のお家騒動を見るだけでも、AI 界隈がこれまでとは一線を画する危険性を孕んでいる、ということが門外漢にもわかろうというもの。以下、印象的な箇所のみ拙訳で引用しておきます。
いまや一般人でも、「動力機械ではなく、計算する機械によって成立する機械の新時代が間近に迫っている」ことを良く認識している。この手の新しい機械には、人間の労力や能力を機械の労力と能力に置き換えるというより、かなり高レベルの判断が要求される場面以外の、ありとあらゆる人間の判断に取って代わる傾向がある。このあらたな置き換えが起これば、私たちの生活に多大な影響をおよぼすことはすでに明らかだが、それがどのようなものなのか、一般人は知る由もない。
…… 人間の体の構造にもっとよく似た機械の理解も進み、いままさにそうした機械が製造されようとしている。それらは工業生産の工程全体を制御し、ほぼ従業員のいない工場の実現さえ可能になるだろう。
…… 未来のマシンエイジにわれわれが頼ることになる装置は、そのほとんどが反復的であり、しかも明らかに大量生産方式で製造可能である。
…… 人間と、人間が制御する強力な機関との関係を論じるとき、民話に登場する格言的な知恵のほうが、社会学者の手になる本よりはるかに役に立つ。過去のどの民族においても、「人間は自らの意志に見合った権力を与えられると、それを正しく使うより間違って使う可能性のほうが高く、賢明な使い方ではなく愚かな使い方をする可能性のほうが高い」というのが、賢者と目されていた人びとの共通認識だった。

 …… 然り! としか言いようがない。聖ブレンダンがらみの記事でも似たようなことは何度か言及したけれども、昔の賢者をバカにしてはいけません。滅亡の足音が大きく聞こえてくるのは、まさに過去から学ぶ謙虚さを忘れたときなんです。

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2024年04月11日

『シリコンバレー式 よい休息』

 最近、仕事の裏をとるための読書がよくあります。これはこれで「知は楽しみなり」で良しとしても、なかにはなんてヒデぇ本! みたいな噴飯ものもある。本を読みなさい、とは言うものの、明らかに良書どころか悪書のたぐいは昔から引きも切らずでして、「読書案内」的なガイド本より、「☓☓☓という本が本屋に平積みされているが、貴重な人生の時間のムダ遣いだから読まんでいい」的な、反面教師的反骨精神的忖度一切ナッシングの読書案内本もあっていいような …… 気がする今日このごろ。

 今回はラッキーなことに、真に掘り出し物とでも言うべき1冊と巡り会えた。それがお題の本(日本語版は 2017 年 刊行)。原題はあっさり Rest でして、ひと口に言えば、「正しい休息のとり方指南書」といった本。著者は邦題にもあるように、シリコンバレーを拠点に活動してきたコンサルだから、ある意味ハウツー系、自己啓発系のビジネス書と言えるかもしれない(しかし『シリコンバレー式◯◯』という書名の本のなんと多いこと)。

 それでものっけからディケンズ、ポワンカレ、ダーウィンとジョン・ラボック、ベルイマンなど錚々たる面々の休息にまつわる興味深いエピソードが最後の章までてんこ盛りで、読んでいて飽きない。経験上、この手の本はなんとか科学と銘打って、「成功の法則」を伝授します的な胡散臭さが漂うものなんですが、それはこちらの思い過ごしだった(この点で、個人的な基準はパスした本)。物理学者のアルバート・マイケルソンという人の逸話も、映画『リバー・ランズ・スルー・イット』原作本を書いたノーマン・マクリーンの思い出話(!)というかたちで出てきたり、トーマス・マンやアンソニー・トロロープにヘミングウェイ、最近ではスティーヴン・キング、そしてあの村上春樹氏(『走ることについて語るときに僕の語ること』、2007)や、IPS 細胞で一躍時の人になった、山中伸弥氏のエピソードまで出てくる! 

 ただし、休息というのはなにもシエスタをとれとか体を休めろ、と言っているのではない(短い昼寝は創造力を回復させるから有効、とこの本でも推奨されてはいるが)。つまり休息とは必ずしも「物理的に体を休める」ことではない。チャーチルのように風景画を描いたり、名著『夜と霧』で知られる精神科医のヴィクトール・フランクルのように山登りをしたり、クォークに関する先駆的実験で 1990 年のノーベル物理学賞共同受賞したヘンリー・ケンドールのようにフリークライミングに興じたりするのも、りっぱな休息≠スりえるのだということを、最新の脳科学実験の結果も交えて楽しく語り聞かせてくれる(DMN[デフォルトモード・ネットワーク]の働きとか)。

 そうは言っても、たとえば「戦略的休息」といったキーワードを見ると、やはりこの本の想定読者はビジネスパーソンなのだ、ということに気づく。だから広義のビジネス書と言っても間違いではないが、べつに会社で働いてなくてももっと健康的に過ごしたい、と願う一般庶民にとってもいますぐ実行可能なヒントがたくさん詰まっているし、ときには「これってオラも実践しているじゃん」みたいに膝を叩く場面もあった。また、「仕事と休息は対立するものではない」という主張もすばらしい。誰しも経験的に納得しているはずなのに、社会的要請に人間関係のシガラミといった、さまざまなプレッシャーをかけられて、いつの間にか「仕事 vs. 休息」という二項対立のワナにはまりこんで身動きがとれなくなっているのかもしれない。
労働と休息は白と黒、あるいは善と悪のように対立するものではない。むしろ両者は、生活の波の異なるポイントと見なすことができる。谷のない山頂はなく、低地のない高地はない。どちらも、互いがなければ存在し得ないのである。(p.6)

 休息法≠フ具体例としてこの本が提案しているのは……
❶ 仕事や研究に集中的に取り組むのは、4時間が限度。有名な「1万時間の法則」も出てくるが、じつは適切に休息をとることではじめて最高のパフォーマンスを発揮できることが判明している(ラボック、スコット・アダムズ)、トロロープ、ディケンズ、ヘミングウェイ、アリス・マンロー、サマセット・モーム、ノーマン・マクリーン、ソール・ベロー、エドナ・オブライエンガブリエル・ガルシア=マルケスなど)
❷ 歩くこと(キルケゴール、トーマス・ジェファーソン、ベートーヴェン、C・S・ルイス、スティーブ・ジョブズ[ウォーキング会議]、ダニエル・カーネマン、チャイコフスキーなど)
❸ 昼寝をとること(チャーチル、J・F・ケネディ、リンドン・ジョンソン[あとのふたりはチャーチルの習慣にならって昼寝をとっていた]、レイ・ブラッドベリ、J・R・R・トールキン、村上春樹、ウィリアム・ギブスン、トーマス・マン、S・キング、サルバドール・ダリなど)
❹ 中断すること(ヘミングウェイ「次にどうなるかがわかっている時に、その日の仕事を終える」、サルマン・ラシュディ、ロアルド・ダール、マリオ・バルガス・リョサなど)
❺ 息抜きと回復(アイゼンハワー、ライマン・スピッツァー、ケビン・シストロム[Instagram 創業者。2010 年にメキシコにて休暇中に写真共有型 SNS を着想した]、ブライアン・メイ、ベン・カゼズ[コンピューター科学者でバリトン歌手]など)
❻ 遊ぶこと(この本で「ディープ・プレイ」と呼ばれる活動的休息のことだが、ようするに仕事以外に何かライフワークを持て、ということ。そういえば昔、翻訳教室の先輩生徒だった方が「SE はライスワーク、翻訳はライフワーク」とすばらしいことをおっしゃっていたのを思い出す。出てくる人はマクリーンのシカゴ大学時代の先輩マイケルソン、トールキン、ブラム・ストーカー、フランクル、ヘンリー・ケンドール[ハーケンの発明者でもある])

あと、「長期休暇」に関して述べた章もあるけれども、これはいわゆる「研究休暇(サバティカル休暇)のことで、バカンスではない。でもこの本が引用した実験結果によれば、バカンスがもたらす幸福感って、せいぜい1週間が限界らしいですよ。休暇は長ければ長いほどよいわけじゃないってことです。言われればたしかにそうだろうとは思いますが(もうすぐ皆さんの大好きな GW が巡ってくるけれども、連休明けのあのグッタリ感を思い出せば納得されるでしょう)。

 そして最終章の「現在、わたしたちは、ストレスと過剰労働を名誉なこと、真面目さと献身の証しと見なしているが、それは近年の傾向にすぎない」「疲れ果ててパニックになっている人を、最も真剣に働いていると見なすのは、間違いだ」(p.283)という指摘と警告はまったくそのとおりで、とくに日本企業に言えるのではないかと強く感じたしだい。最後の「遊び」については、1970 年代に書かれた古い本ながら、日本人の「間違った遊び方」に警鐘を鳴らしているという点でいまも読む価値があると思っている、こちらの文庫本も併読されることをお勧めしたい(「日本の古本屋」サイトで探せばあるかも。かく言うワタシも何度かお世話になっている)。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるん
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2024年02月22日

『監視資本主義』

 2007 年初頭に放映されたこちらの番組の記憶はいまも生々しい。とくに印象的だったのが、「すべてを Google に依存している」と言い放った青年。最近の買い物でさえ、Google の履歴に頼ると言うほどのヘビーユーザーで、しかも Google の広告アフィリエイト収入だけで食べていたのだから当時としてはかなりの衝撃度だった。もうひとつ、やはり澱のごとくアタマの隅にこびりついて離れないのが、Googleplex と呼ばれる Google 本社の壁面のとある落書き(?、抱負だったのかも)だった──「Google 帝国を作る」(!)

 実際、Google って何をしている会社なの? と問われて即答できる人っているんだろうか。新聞を見ても「ネット検索最大手」くらいのものだろうし、IT 専門家にしてもそれこそ十人十色で答えはバラバラになるんじゃないかと。以前、Google 幹部に取材したという内幕本も買って読んだことがあるが、イマイチ腑に落ちなかった。そして最近、その Google 傘下の YouTube で、オルガン演奏を収めた動画クリップを大きな液晶画面の TV で見ようかなと思って再生すると、フーガの演奏がいきなり途切れ、代わりにうっとうしい広告が何本も落下傘部隊のごとく出現して画面いっぱいに映し出される。

 いまやこうした IT の巨大企業は Google だけじゃありません。Facebook 改めメタ、往年の Microsoft に Apple、そして洋書屋にすぎなかったのがいまや地球最大級の通販サイトに急成長した Amazon。これらと数社を加えた大型ハイテク企業7社を総称して「マグニフィセント・セブン」と呼ぶらしい。

 MS と Apple はともかくとして、では最初の Google と後発のメタはいったい何をして利益を出しているのだろう、とギモンに思う人はいまだに多いだろうし、利益のすべてが広告料収入なはずない、といぶかる向きも少なくないと思う。

 そこでとうとう、と言うか、その長年のモヤモヤにひとつの解答だけでなく、こうした「征服者」たちへの抵抗を訴える警世の書の邦訳が 2021 年に出た。著者は米名門大学の名誉教授という肩書きで、社会心理学者。2009 年に落雷による火災で自宅が全焼し、そのとき著者を励ましてくれた最愛の夫にも先立たれるという不幸に見舞われた。30 年ほど前、台頭しつつあった情報通信デジタル技術とどう向き合えばよいかについて、地方の製紙会社の若い幹部社員に疑問を投げかけられた著者はそれ以降、一貫してこの「スマートマシン」問題の本を発表しつづけてきた。この本は、いわば集大成的なところがある。

 本文だけで 601 ページもあるたいへんな労作で、「52 人のデータ科学者」への取材も含む膨大な調査結果をもとに書き下ろされ、Google をはじめとする IT ユニコーンたちが今後どのような社会を築こうとしているのかについて精緻な考察を展開しています …… で、読後感なんですけれども、Google やメタをとくに俎上に載せて、彼らの所業を 16 世紀のスペイン人征服者の「征服の宣言」になぞらえたり、全体主義との結びつきの論考など違和感もないわけではないが、まずもって a must read な1冊である点は異論なし。ヘンリー・フォードらに代表される 20世紀の管理資本主義とはまったく別物の、最終消費者という顧客に対するサービスではなく、ほんとうの顧客(この場合は広告スポンサー企業)に対し、われわれユーザーの「行動余剰」という名の原材料を「抽出」して、それをサービスとして提供することで利益を得るという、かつて経験したことのない種類の資本主義が全世界を席巻しつつある、との主張はなるほど頷けるお話ずら、と感じたしだい(そういえばつい先日、NYC 当局が TikTok など複数の SNS 運営会社を相手取ってカリフォルニア州地裁に提訴した、との報道も見かけた。「インターネットの世界で大量の有害な情報にさらされ、若者たちの精神衛生上の危機が深まっている」と NYC 市長は訴えているが、もっともな話)。

 旧 Facebook 時代のメタがやらかした例の世界最悪と言われた個人情報漏洩事件(ケンブリッジ・アナリティカ事件)も、もちろん出てきます。もっともはじめの章で、「(本書の)目的は、この3社を批判することではない。むしろそれらは、監視資本主義の DNA を精査するためのペトリ皿なのだ」(p. 25)と断ってはいるものの、結論を述べた最終章(p.598)では政治学者のハンナ・アーレントを引用して、「監視資本主義の実態を語ろうとすると、わたしは必ず憤りを覚える。なぜなら、それらは人間の尊厳を貶めているからだ」と告白しているところからして、この本が書かれたのは監視資本主義とその親玉たちに対する激しい怒りにあるのは間違いない。どうりで最近、やたらと広告攻撃をけしかけてくるのだナ(そしてこれまた付き物の、ユーザーに不利な「使用許諾書」を一方的に押し付けてくる商法にも言及している)。

 アーレントは全体主義を論じた著作で知られているけれども、ある意味、監視資本主義(とその企業体)はそれ以上にタチが悪い。こちらが知らぬ間にそんな手合が放った刺客ならぬ常時監視(と、行動余剰の抽出とそれの無断提供)デバイスがあふれるようになり(いわゆる「モノのインターネット/IoT」製品群で、大人気のルンバも例外にあらず)、FB「ユーザーはもはやプライバシー保護を期待できない、と言い切った」メタ創業者のような監視資本家たちが提供する巣≠ノ囲い込まれた。究極的には、われわれ個人に最後に残された聖域まで強奪しようとする、と著者ズボフ女史は警告する。コレはひじょうに正鵠を射た指摘かと思う。不肖ワタシも、ポケGO に夢中の女子高生に道路に突き出されてあやうく車にはねられそうになった経験がありますし。こちとらにはさっぱり理解不能な世界ながら、ああいう顧客層って、この本で言うところの「行動修正」されちゃった人たちなんでしょうね、きっと。自戒の意味もこめて、自分までこの身を監視資本家連合に差し出さないよう、おおいに気を引き締めなくては、と決意をあらたにしたしだい。

 行動経済学だかナッジ理論( C・サンスティーンの『実践 行動経済学』の言及もあり)だかなんだか知りませんが、世の中そんなことばかりがもてはやされ、さも良いことのように喧伝されているフシがあるなか、古代ギリシャの秘儀(ミステリー)集団も顔負けの秘密主義のヴェールで事業の真の目的を覆い隠し、詭弁を弄してこちらをケムに巻いている Google やメタなどの巨大 IT 企業の実態を豊富な実例とともに暴露するこの本は、真の意味でまっすぐスジの通った良書と言ってよいでしょう。ピケティへの言及もいくつかあるけれども、この本もまた、監視資本家とその取り巻きが決まり文句のように繰り出す「不可避性」についてもしっかり批判している(cf., pp. 252−3、またはピケティ『資本とイデオロギー』のpp. 871−2)。
…… この新たな仕事の多くは、「個人化」(パーソナライゼーション)の旗の下で行われているが、それはカモフラージュであって、陰では日常生活のプライバシーに切り込む侵略的な抽出操作が進められている。(p. 20、丸括弧はルビ表記)
 ズボフ女史も繰り返し言及しているけれども、ワタシも(ほかのみなさんもそう感じていると思うが)ずっと前から、「便利なサービスをほぼロハで利用できているわれわれユーザーは、けっきょく Google という巨人の手の上でホイホイと踊らされているにすぎないのではないか」という漠然とした疑念(と不安)を抱いていたほう。なのでそのものずばり人形遣い彼らを踊らせろといった用語や見出しを見ますと、ああ、やっぱりそうなんだってストンと腑に落ちる。
3世紀以上にわたって、産業文明は人間にとって都合のいいように、自然をコントロールしてきた。その目的のために、機械によって身体の限界を超越し、克服してきた。その結果を、わたしたちはようやく理解し始めたところだ。海と空の繊細なシステムはコントロールを失い、地球は危機に瀕している。
 今、わたしたちは、わたしが情報文明と呼ぶ新しい時代の始まりにいて、それは同じ危険な傲慢さを繰り返そうとしている。…… 今回の目的は、自然(ネイチャー)を支配することではなく、人間の本質(ネイチャー)を支配することだ。(p. 590、丸括弧はルビ表記)
 また、こうした論考と主張の裏付けを、もっと巨視的な歴史から問い直しているのもこの本の書き方の特徴と言えます。とくに行動主義心理学の提唱者バラス・F・スキナーとからめて論じているのは個人的には新鮮な観点だった(スキナーは人間の自由意志を否定し、ある人がどのような行動をとりうるかについては「個人の外にある変数によって説明できる」、つまり適切な環境を与えれば適切な方向へ導くことができると主張した。彼の『自由と尊厳を超えて』という著作(1971)は当時、チョムスキーをはじめ、多方面で論争を引き起こしたことでも知られる)。

 この本では Google と同じく、行動余剰という資源を最初に発見した Apple についてはわりと好意的(?)な記述にとどめているけれども、人類の未来までもが圧倒的な知の蓄積を頼みとする監視資本主義家たちの手に握られているわれわれに残されている道は、「抵抗せよ」、そして「もうたくさんだ!」と表明することだと著者は結んでます。もうたくさんだ、just ENOUGH! …… これってずいぶん懐かしい響きがする。そう、ビル・マッキベンのこの本でした。けっきょく東洋の人間にはおなじみの「足るを知る」という中庸の道がもっとも妥当な道かと。もっともそれは監視資本主義にかぎったことじゃないですが。個人的にいちばんハラが立つのは、ふつうに辞書サイトとか表示しても、明らかなデマ・虚言広告がしれっと表示されること。PC 版なら広告ブロッカーで非表示にすることはできるが、スマホのブラウザだとうっとうしいことはなはだしい。広告を表示させる企業のアルゴリズムには、当該のバナー広告の表示基準がハナからないという、なによりの証拠です。著者ズボフ女史はこれについて、「極度の無関心の観点からは、良い目的と悪い目的は等価と見なされる」(p. 580)と書いている。シッチャカメッチャカ支離滅裂の混沌状態になろうが、利益になればそれでよし、というわけです。

追記:巻末の分厚い原注まとめページもていねいに追いながら読み進めたんですけれども、一点、第 10 章の原注(p. 112の 42)を見て FT の元記事を確認したら、どうも日本語版(p. 362)の記事公開日付が誤記のようです。ちなみにその FT 引用部分は、「今後そのゲームは小売業者やその他の者に現金を運んでくる、という見方が急速に高まっている」。あと細かいことながら、p. 598 の「同情してほしい」は、感覚的には「哀れんでほしい」の pity ではないかと愚考するものですが、どうなんでしょうか。

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2023年02月11日

『公式より大切な数学の話をしよう』

 邦訳書名(原題はオランダ語の Plussen en minnen『プラスとマイナス』)だけパッと見すると、なにやら 10年くらい前に一世を風靡(?)した、米国人政治学者の書いた本っぽくも思えますが、そちらの先生が説いた「政治的な正義の話」より、ダンゼンこっちのほうが目からウロコが落ちるだろうし、役にも立つと思われます。

 著者はなんと! まだ 20 代の若き天才数学者のステファン・ボイスマン氏。といっても、某週刊誌に「私の愚妻が〜」などと差別用語丸出し寄稿文を長年連載しつづけてきた先生のような思想的に偏った人でもありません。「文は人なり」って申しますが、それはオランダ語原文から直接邦訳された訳文からもいきいきと伝わってきます。

 のっけから、「数学は何の役に立つのか」と「そもそも論」からいきなり入る。この手の一般教養書(いまはあまりこう呼ばないのかもしれないが)を手にとる読み手なら、だれしも必ず抱く通過儀礼のようなこの大きなギモンに真正面から切り込んでゆく。しかも著者自身、「本書は、高校時代の自分に向けて書いたとも言えるが」と告白しているように、かつては公式やグラフの使い方を丸暗記する必要がなぜあるのかと、数学の素養もなにもないワタシとおんなじギモンを抱いていたという! 

 こういう経歴の持ち主が書いた本がおもしろくないはずがない。2018 年にオランダ語初版が刊行されるとたちまちベストセラー入りして、日本語も含む世界 18 か国で翻訳出版されているというのもうなずけるお話ではあります。

 数学の本、とくると数式がゴチャゴチャ出てきてイヤずら、という向きはワタシも含めて大多数かと思いますが、この本で出てくるのは高校までに習った図形の面積や円柱などの立方体の体積を求める公式くらい。著者が繰り返し説いているのは、「数学は現実世界と無縁な抽象世界」ではけっしてない、ということ。公式はあまり出てこない代わりに、わたしたちの身近な応用例をこれでもかってくらいにバンバン提示してきて、それこそ息もつけないくらいです。そんな数学の応用例として、いきなり(?)大阪の地下鉄路線が登場したのには目を丸くしたが(p.19、微苦笑)。数学の歴史について書かれた章はまんま人類がたどった歴史でもあるし、それを読めば(ヒトの赤ちゃんには目に映る物体について、すでに足し算・引き算ができる可能性があるとする研究の引用もあったりとこちらもすこぶるおもしろい)、古代メソポタミアやエジプトのような、わたしたちの祖先が築いてきた文明社会から現代社会にまでつづく人類の営みには、使い方の問題はむろんあるが、数学的思考と、数字や計算式といった数学のツールなくしては実現不可能だったことがしつこいくらいに具体例を紹介して語ってくれる(それゆえ古代ギリシャ人が、音楽を数学の一分野とみなしたのも当然の話。この本によると、古代ギリシャ人は自然数をなによりも重視していたそうですが、そのギリシャでピタゴラス音律が生み出されたのもよくわかる話ではある)。

 ワタシももちろん数学が苦手(なのに、なぜか工業系高校だったが。ドイツの数学者ベルヌーイの名前をこの本でひさしぶりに見たときは、「いやぁベルヌーイの定理か、懐かしいずらぁ」ってひとりごちたもの(これはたとえばポンプなど、流体力学系装置の設計に応用される。ついでにその手の文書で head と出てきたらたいていは「水頭」の意味だと思ってよい)。この本には微積分の応用例もたくさん出てくる。橋や自動車や飛行機といった乗り物の安全設計や建物の構造計算、天気予報(数値予報という言い方を聞いたことがあるでしょう)、果ては政府統計でもちいられる経済予測や税制にまで、人間の活動する分野はほぼすべてではないかっていうくらい、微積分のお世話になっていることを力説する。

 数学ってたしかにとっつきが悪い。数字にもいろいろ種類(有理数・無理数・自然数・素数・因数)があり、数学を数学たらしめている最大の要素である抽象性が、さらにとっつき悪さに拍車をかける。けれども、「こんなのなんのために勉強するのか? 学校ではもっと社会に出て役立つことを教えればよい」などというのはただの詭弁であり、危険でさえある実例も引いている。それは確率と統計の話だ。

 確率と統計 ── は、この前ここでも紹介した本がまさにそんな内容だったが、この数学の本にもやはりその重要性と落とし穴が、憶測ではなくしっかりしたファクトにもとづいて書かれている。そして、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックがまだ終息していないいまを想起させるような、 170 年くらい前の話も出てくる。
1850 年ごろ、人々はコレラに苦しんでいた。断続的に流行が繰り返されるなか、感染経路は明らかになっていなかった。原因についてはいくつかの説があり、「悪い空気(瘴[しょう]気)」、つまり悪臭を吸うことで病気になると広く信じられていたが、怒るとコレラにかかりやすくなるという妙な考え方もあった。コレラに倒れることがないように、楽しく穏やかにすごしましょう ── ニューヨークの住人は 1832 年と 1844 年にこんな通知を当局から受け取っている。コレラは水を媒介して感染するのであって、本人が怒っているかどうかは無関係であるという正しい原因を予想した者もいた。(ibid., pp.178−179 )

 21 世紀の人間は、この一節を見てとても笑えまい。

 また統計をめぐっては、相関関係と因果関係をゴッチャにする分析やそれを根拠にしたウソ八百(?)のでっち上げがあとを絶たないんですが、この点についても、「ニコラス・ケイジ(!)と溺死者数の関係」のグラフを引いてたいへんわかりやすく、そして的確な警告を呼びかけてもいる。統計統計ってみなさんすぐ口にするが、トランプ政権時代の司法長官の悪用例(pp. 187−88)のように、これを正確に「読み解く」のは、じつはけっこう難しい(おなじことは、X 線写真、つまりレントゲン写真にも言える。そのせいで少年王ツタンカーメンは「後頭部を殴られて」暗殺された、なんて説がでっち上げられた)。

 そして著者は巻末、バッハの「ゴルトベルク変奏曲」のアリア主題よろしく、また最初の出発点にもどってくる。
毎日の生活のなかで、複雑な計算式を目にすることはまずない。それでも、これは 15 歳のときの僕に向けて言いたいが、身のまわりにあるものは数学が研究した(ママ)ことの成果なのだ。複雑な構造の建物、天気予報、大量のデータに基づく世論調査や予想、検索エンジンや AI。数学の基本的な概念がわかっていれば、これらのことはもっとよく理解できる。(ibid., p. 249)

 検索エンジンのアルゴリズムとして、Google のページランクの計算原理なんかも出てくるけれども、そうそう、Google 以前の検索エンジンってほんと使いものにならなかった。インターネット黎明期なのだから、それもしかたないとはいえ(イン○トミのことね)、それがいまではなんですか、あの ChatGPT というのは。つい先日、Microsoft が自社のブラウザの検索エンジンに順次搭載するってニュースで報じられてましたけれども、これもまた高度な数学を応用した成果。もっとも危険性はある。こういうことが究極まで進んだ世の中が果たしてよいものかどうかは、数学とはまた違う次元と異なる視点でじっくり考え、検討する必要がある。つまり、そのためにも数学以外の学問は存在するわけでして、文学や音楽といった芸術一般も含め、それを身につける、教養を身につけることがなぜ必要かという問いにもつながってくると思う。これは勉強というより、人はなぜ学ぶ必要があるのかという問いです。古代ギリシャの有名な数学者もまた似たようなことばを残しているけれども、勉強、いや学問というものは、「すぐに役に立つか立たないか」で判断したらぜったいにマズいと思う。それがあるなしで、人の一生が変わってしまうこともありうる。それがあったからこそ生きるよすがとなったというケースもある。ようは、生きるために必要なんですよ。

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2023年01月05日

「統計」もクリティカルに見よ

 昨年の初夏だったか、日経新聞に広告が出ていたこちらの本。著者は現役の英 FT 紙シニアコラムニストで、BBC ラジオ番組のプレゼンターでもある人。「統計にダマされるな」的なご本かと思いきや、『データ探偵(The Data Detective : Ten Easy Rules to Make Sense of Statistics)』という原書名が暗示するように、統計のウソを暴くことより、統計とはそもそもどんなもので、どのように扱えばよいかを 10 の方法として提示し、論じた本になります。

 たとえば「とっさの感情には注意する」、「俯瞰する」、「背景を知る」……とかはなんか既視感ありあり。「背景を知る」なんて、拙訳書に出てくるクリティカル・シンキングの技術として語られるものですね。なので共通項はかなり多い、という印象がまずあった。「とっさの感情には注意する」では、著者自身の失敗例(グラフの時間軸も確認せずリツイートした話)もさらけだして、その危険性を訴えてます。ほかにもあのフローレンス・ナイチンゲールがじつは「近代統計学の母」的存在でもあったことなどの歴史トリビアも満載で、教えられるところは多い。「公的統計の存在を重視する」では、ギリシャとアルゼンチンそれぞれの公的統計部門のトップが被った妨害工作の事例なんかも暴露されていて、このへんはよくあることですけれども、ジャーナリストたる原著者の腕の冴えが光っている。しかし公的統計の信頼が揺らいじゃったら、それこそわたしたちの生命財産に直結しかねない。そういえばこの国でも、ついせんだって似たような失態があったような …… 。

 ただ、この本を読んでもっとも印象に残ったのは、COVID-19、つまり新型コロナウイルス感染症のパンデミック(世界的大流行)初期の混乱を記述したくだりです。「疫学者、医療統計学者、経済学者といった現代のデータ探偵たち」が、「生死にかかわる判断を手探りで模索する状態」だったが、「数週間が経つ頃には、彼らの捜査と探索のおかげで、ウイルスの主な特徴と、そのウイルスがもたらす疾病の性質について、多少なりと把握した全体像が浮かび上がってきた」。
無症状の感染者も多数いることがわかった。…… 若者よりも高齢者において大幅にリスクが高いこともすぐに明白になった。感染致死率の合理的な推定値も出た。…… 特に、イギリス国家統計局などの機関が実施・分析する適切な検査の価値はどれほど大きかったことか。パンデミックという戦争において、統計は、いわばレーダーに相当する存在だった。
…… 正確でシステマティックに収集された数字というものを、ふだんの私たちがどれほど当然視しているか、これ以上にありありと描き出す例はほかに考えつかない。…… 私たちは、「嘘、大嘘、そして統計」などと気軽に口に出し、統計のありがたみを軽んじる。今回のコロナ危機は、統計データが出そろっていないと状況がどれほど混乱するものか、私たちにあらためて思い出させている。
 最近、この手の本でときおりお目にかかるのが、tribalism という単語。この本にも顔を出していて、「同族意識」と訳されています。で、たいていこれはどっちかの陣営(同族)から見た「真実」しか見ないというきわめて偏向した態度を助長し、すんなりケリがつくはずの話も尾ひれがついていっそうややこしくして、対立を先鋭化させたりするのですが、そんな陥穽にはまらないためにも統計、とくに公的機関の発表する統計をないがしろにしてはいけませんよということも強調されています。その最たる実例としてやり玉に挙げられているのが、くだんの放言ばっかかましていた米国前大統領の話。しかし、もっとも信頼に足るはずの公的統計も、このような政治的圧力の前に歪曲されるリスクがどこの国にも起こりうることは、引き合いに出したギリシャとアルゼンチンの教訓で警告しています。

 あと、よく言われることですけれども、この手の本にはたいていダニエル・カーネマンの著作『ファスト&スロー』からなにかしらの引用があったりするものですが、この本ではたとえば「出版バイアス」が、公正な研究成果をゆがめかねないものとして出てきます。たとえば、世間をアっと言わせる、意外性のある論文のほうが出版物として世に出る確率が高い、というのも出版バイアスの一例。そのじつ、真に価値あるデータなり統計は、じつに地味ぃ〜なグラフやチャートのほうだったりする(でもこちらはなかなか出版されない)。またそれとはべつに「速い統計」(拙速な集計データによる統計)と、「遅い統計」という用語も持ち出しているけれども、たとえ信頼できそうな「遅い統計」でも、「個人的な印象のほうを信じるべき場合」は、ゼロではない。世の中の問題すべてが数値化され、見える化されて、表計算シートに転記できるものばかりじゃないから(マスク着用問題なんかがそうかも。呼吸器系に問題があると自覚していれば、統計的に問題なくても予防的に着用するのはごく当たり前の行動でしょう)。

 昨今はやりの AI(人工知能)やアルゴリズムについても、新型インフルエンザの予測に失敗した「Google インフルトレンド」プロジェクトを引き合いに出して警鐘を鳴らしてます。こと統計学に関する本にはほとんど縁がない人間とはいえ、やはり統計と無縁では済まされない時代に生きている者のひとりとして、この本は読むべき1冊だと思ったしだい(数式はいっさい出てこないので、その点はご安心を)。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるん

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2022年10月29日

お金の使いみち考

 仕事柄、ウラをとるためにいろいろな参考文献を読む(否、読まされる?)ことが多々あるんですが、先だってもこちらの本を読みまして、すこし思うところがあったのでまたしても妄評多謝ということでお願いします。

 著者が主張していることはたいへんシンプルです。慈善事業、たとえば数か月前に来日したこちらの方が奥さま(当時)と設立した超がつくくらい有名な財団とかに寄付する場合、キャッシュフローや費用対効果(B/C または ROI)もすごく大事、だからくれぐれも大切なあなたのお金がほんとうに世の中に役立てられているか、貧困にあえいでいる人びとの援助に有効に充てられているか、批判的に考えて(これまたクリティカル・シンキングですかね?)からにしましょうね、というもの。

 著者はなんと! 28 歳であのオックスフォード大学の哲学科准教授となった俊英で、たしかにそのとおりでございます、と最初は思いました …… でも、とくに6章の内容はオラのアタマではやや大きなハテナマークがついてしまい、そのまま呑み込むのも気分悪いからこの場を借りて吐き出してみようと思ったしだい。たとえばこんな一節はいかがですか? 
…… ベンジャミン・フランクリンは 1790 年、アメリカ議会に奴隷制廃止を嘆願する書簡を記した。議会はこの嘆願について2日間議論した。奴隷制の支持者たちからはとめどない反論が押し寄せた。…… それでも、奴隷制は撤廃され、今ではそうした反対意見を養護するのは不可能だ。女性、黒人、LGBT の人々の権利向上を訴えてきた活動家たちの行動が正しかったといえるのは、すぐに成功する確率が高かったからではなく、成功した場合の見返りがあまりにも巨大だったからなのだ。(p.99)

下線部を読んで、「ちょっとなに言ってんのかよくわかんない」とツッコミたくなった。ことばのあやってやつかもしれない。しかしこの本はそこここにこの手の功利主義的な発想が顔を出していて、その点、誤解されぬようにということなのか、巻末注にも「効果的な利他主義」と功利主義は似て非なるものだと先回りして断ってもいるが、こういう「活動家」の人たちは、そもそも見返りなんて期待すらしていない(はず)。みずから信じるところこそ、世の中をより良くするはずだ! そういう内なる理想を追求する情熱に突き動かされておのおの活動しているものだと思いますけれどもね。原文見てないからなんとも言えないが、ここは個人的には「直感に反する(counterintuitive)」箇所で、経験とも反して引っかかってしまった。

 引き合いに出したのは、政治家になるべきかどうか決めかねて、著者(この手の意識高い系の後輩が進むべきキャリアに関してコーチングもやっている人)にお伺いを立てに来た女子大生の話のくだり。彼女は、どうすれば世のため人のためになる費用対効果が最大化されるキャリアに就けるのか、「寄付するために稼ぐ」か、政治家になって影響力を直接振るえる立場の人間になるか、どっちがよいかわからない、と著者に助け舟を求めているわけなんですが、有権者の立場から言わせれば、まだなんの経験もないヒヨッコ同然の(失礼)世間知らずの高学歴なだけの人に投票しようなんてぜったいに思わないですね、悪いけど。ワタシが著者の立場だったらこう訊き返しますわ。「あなたの政治家になりたいという志には、そのていどの覚悟しかないのか?」って。政治家にほんとうになりたい若者には、キルケゴールばりに「あれか、これか」なんて迷いはないでしょう。

 なんかこう、この本は全編が費用対効果のモノサシしかないんです。慈善事業だって人さまからカネを集めて行うりっぱなビジネスだ。だからキャッシュフローを見て、「行っている活動がほんとうに世の中を良くすることに寄与しているのか、現地の人の役に立っているのか、ワタシのおカネはほんとうに役立てられているのか」という視点に立って寄付するのは、ひじょうに重要だと思う。いくら非営利の慈善事業だからって、寄付している人はある意味、投資家とおんなじだし。ただ、「その事業内容は人さまや世の中を変えるためにほんとうに効果的か?」というモノサシだけで十把一絡げにされては当事者はかなわないんじゃないかって思ったりもする。新型コロナウイルスのメッセンジャー RNA ワクチンが好例だと思いますよ。このワクチン、なんか急ごしらえに作られたみたいな都市伝説(?)が一部でまことしやかに流布していたりするんですが、事実ではない。開発にはじつに 30 年もかかっていて、実用化まであともうちょい、のタイミングでまさかのパンデミックになっただけの話。だから世の中、なにが役に立つかなんて最後までわからんものだ、とここにいる門外漢は考える(そのワクチンのおかげで、いまこうして書いていられる。オラはもう4回め打ったずら)。

 ただ、当の女子大生からすれば、不安だったからそう尋ねたんでしょう。それだったら引用もされている、スティーヴ・ジョブズが 2005 年にスタンフォード大学で行った卒業生へのはなむけのスピーチの引用のほうがよっぽどマシかと思う。この本では、「あなたの夢と情熱」にやみくもにこだわると、かえって道を誤る恐れがある(ダ・ヴィンチも言ったとされる、「できることとやりたいこととのギャップ」を指摘している)とジョブズのスピーチを批判的にとらえ、ジョブズ自身もまた日本で禅僧になろうとしていたりと行きあたりばったりを繰り返したすえ、「しかたなく」入ったコンピューター業界で道が開けた、みたいなふうに書いてありますが、だからって自分の心の声を聞かなくていいということにはならない。どんなキャリアに適性があるかなんて、本人もよくわからない。でも、ほんとうにやりたいことは捨てるべきではないと思う。「これがなければワタシは死ぬ」くらいの覚悟があるのなら、どんな嵐にも動じないだろうと思うから。というかこの本の後半では、試行錯誤を奨励してもいるんですよね …… 費用対効果の最大化ガ〜と言っているかと思えば返す刀でこう来たりと、よくワカリマセン。

 たとえば、この先、どうしようかと白紙状態の人が費用対効果式の計算のみで晴れて弁護士になったとしましょう。もちろん世の中には良い弁護士もいれば、弁護士の風上にも置けないトンデモナイ輩もいる。アメリカだったら、後者のほうが多いかもしれない(訴訟大国だから、ようするに儲かるんです)。もし就職先がそんなトンデモ弁護士事務所だったとしたら、はたしてこの若き弁護士は「ほんとうに世のため人のため」の働きをしてくれる、りっぱな弁護士になるでしょうか? 

 けっきょくそれを最終的に左右するのは法律の専門知識ではなくて、哲学だったり文学だったり歴史だったり、まったくカンケイがなさそうに見え、本業になんの役にも立たないと一般には思われているムダな「教養」をどれだけたくさん身に着けているかどうかだとオラは思ってます。

 会話のおもしろい人っていうのは間口が広い。アメリカはよくパーティー文化の国、パリピ連中ばっかでお付き合いするだけでクタクタになる、とは、かつて日系企業の駐在社員さんたちがこぼす定番のネタみたいな話でしたが、ほんとうに英語ができる人というのは、話がシェイクスピアから『空飛ぶモンティ・パイソン』にトンでも会話のキャッチボールを自分なりに相手に返せる人です。弁護士の実例では、昔、TV でこんな趣旨のすばらしい答えを返した米国人青年弁護士がおりましたよ──「ぼくは、世の中の弱い人たちをひとりでも多く救いたくて弁護士になった」。

 話をもとにもどして、明日は比較神話学者ジョー・キャンベルの命日。で、その次がみなさんお待ちかねの ❝Trick or treat!❞ な日なわけですが(⇒ こちらの拙記事)、キャンベルはお金の使いみちについて、こんな趣旨のことを講演で話してます。「食事にお金を使うより、精神の糧となる本に使ったほうがいい。食事の場合はもっと安価で同じくらいの栄養価がとれるが、本の場合は代わりがきかない」。また、キャンベルが若かったころ、自身は「金儲けするような手合を侮蔑していた」そうなんですが、後年、そんな不倶戴天の敵たち(?)とも交友を重ねるにつれて、「たとえばアートとか、ビジネスの収益で得たお金の一部でも回すのが、しかるべき使い方ではないか」とも言ってます。この点に関してはまったく同感ですわ。ダ・ヴィンチやベートーヴェンくらいまでの時代で言う「パトロン」みたいなものです。

 ただし、いまの NFT ってのはいただけない。暗号資産ベースで使いにくい。そもそも暗号資産が胡散臭い。昨今、わたしたちの生活を直撃しているドル円為替も真っ青の乱高下相場。そういうリスクマネーというものは通例、地政学的危機やエネルギー危機、政策金利の大幅な引き上げといった金融引き締め政策が開始されると ❝マニー(鬼塚夏美ふうに)❞ の流れが逆回転して、「ミーム株」とか暗号資産みたいな高リスク資産から潮が引くみたいにいっせいに引いてゆくもの。だから現状の NFT は解決すべき課題がまだまだ多いと感じてマス。

 なんか悪口みたいになってしまったけれども、この本に出てくる計算の根拠とか統計に関して補強したい向きは、まずはこちらの本を読んだほうがいいと思うずら。次回はよほどのことがないかぎり、この本について書く予定。今回、紹介した本の評価はるんるんるんるんるんるん

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2022年08月18日

けっきょく二元論なのでは…? 

 ジェフ・ホーキンスというすごい方がいる。iPhone もなにもなかった 30 年くらい前、伝説のパームというモバイルコンピュータの先駆とも言うべき携帯型情報端末(PDA)を世に送り出して、「モバイルコンピュータの父」の異名をとり、しかもその後、ほんとうにやりたかった脳の構造を解明する理論構築のため、自前の脳科学研究所を設置したりと型破りどころか、かなりぶっとんだ経歴をお持ちの先生でもあります。

 とはいえ、さてなんでこの本を読もうかと思ったのかさえすでに記憶の彼方に行っちゃっているボンクラな脳しか持ち合わせていない当方なぞ、それこそ月とスッポンなのでどうしようもないわけですが、せっかく読んだのでまた好き勝手に読後感などを書き散らすしだい。たぶん、なにかの記事を訳していたときにこの本の引用が出てきたものと思っていたが、直近の仕事で提出した当方の元訳稿を探してもそれらしいのが見当たらず……? ま、これはどうでもいいマクラですね、失礼しました。

 本の内容は3つに分かれておりまして、まずわたしたちの大脳新皮質の仕組みに関する「1000の脳理論」の解説、つぎにそれを応用した「真の意味での汎用 AI のあり方」について、最後が「わたしたちの脳が持っている知識をいかにして保存するか」、それも人類絶滅後にやってくるであろう知的な地球外生命体に対してどのようにボトルメッセージとして残せばよいか、その方法をかなり具体的に(!)考察してます(以下、引用文の下線強調は引用者)。

 神経科学者が本業の著者先生によると、どうも私たちの「知能」というのは、「大脳新皮質の皮質コラムそれぞれに座標軸があり、各座標軸によってモデルが立てられ、それにもとづいて世界像が作られていくプロセス」なんだそうです。よくあるだまし絵のたぐいも、なぜその絵がそう見えてしまうのかの説明もきわめて説得力に富んで、前半はとても刺激的でおもしろく感じた。ただ一点、「大脳新皮質 vs. 遺伝子の命令に忠実な古い脳」という対立構造が気になってはいた。完全に使い物になる汎用AI(AGI)の話は良しとしても、最後の「人間の知能」と括られたセクションの数章は、にわかに首肯できない書き方で、個人的には完全な蛇足とさえ思えた。ま、いくら天才肌の先生でも、いわゆるテクノユートピアン的な発想がよほどお好きな読み手でないと、先生の繰り出す「論理的な推論」、というか完全なる妄想の世界に取り残されて目をパチクリって感じ。そして巻頭から漠然と感じていた、「大脳新皮質 vs. 遺伝子の命令に忠実な古い脳」という対立構造がここにきてむくむくとアタマをもたげてくるからさらにタチがよくないときている。

 どこが問題か。たとえば、無思慮な判断や行動(「…専制君主を支えるポピュリスト運動も、人種差別や外国人嫌いのような古い脳の特性にもとづいている」[p. 283]!)の原因が、だいたい「遺伝子の命令に忠実な古い脳」にされちゃっている点。もっとも古い脳も大脳も複雑に結びついていますと書いてはあるんですが、なんかこう、大脳新皮質のつくり出す「幻影(マーヤ)」にすぎないであろう、何万通りもの座標系モデルが映し出すわたしたちの知能の成果とも言うべき知識だけを人類が絶滅したあともなんとしても遺したい、地球外生命体にもぜひ見てほしい。そうお考えのようです。
…… 知的機械をつくる目的のひとつは、人間がすでに行っていることを複製することだろう。コピーをつくってばらまくことによって、知識を保存するのだ。この目的で知的機械を使いたい理由は、私たちがいなくなったずっとあとまで知識を保存し続けることができ、ほかの星のような私たちには行けない場所まで知識を広められることにある。[p. 296]

そりゃたしかにわたしたちは、言ってみれば「138億年前のビッグバンの遠い遠い残響、わたしたちの肉体じたい、究極的には星屑にまでさかのぼれる」んですが、マーク・トウェインが言ったとか言わなかったとかいう、「地球からすれば、人間なんて微生物みたいなもの」的な発言のほうが信憑性を感じてしまうタチなので、つい「かつて存在したホモサピエンスの知識なんて、知りたいと思う地球外高等生物が果たしているのかなぁ」なんて思ってしまうんです。

 この本は読み進めるにつれて、けっきょくお決まりの二元論的な話にはまり込んでいるという印象がどうしても拭えなかった。『利己的な遺伝子』のドーキンスが序文を寄せているくらいだし、似たような傾向になるのはしかたないが、個人的にはこういうところにいかにも西洋人的な傲慢さを感じる。※ なぜコロンブスやマゼランみたいな人があちらの世界から出てきたり、かつての大英帝国みたいに、自分たち以外の非白人・非キリスト教徒の民族からなる国家や地域を支配するまっとうな権利がそなわっていると思ってたりしていたのか。たしかに当時の西欧諸国は政治や経済のみならず、啓蒙思想や人権など、他の民族より優れた思想と、なんと言っても合理主義とルネサンス期以降の自然科学の発展と、それらが後押しした産業革命もすでに経験済みだったから、音楽の世界における楽譜と同様に、いまに至るまで近代文明をリードし、「自分たちこそ世界標準である」との自負がおそらくあるのでしょう。しかし東洋の人間からすると、鈴木大拙師じゃないけど、大脳も古い脳もともに分かちがたく結びついているのであって(ふたつを分離する発想ないし意図がわからない)、一方の上位版の機能のみ持ち上げるってのはどうなんでしょうか。

 人の「意識」は、たしかにその人が肉体的な死を迎えればこの世界から立ち消えてしまうでしょうけれども、ドイツ語で言うところの「時代精神(Zeitgeist)」みたいな集合的な意識というのは確実に残って、後世に伝えられていくと思うんですね。比較神話学者のキャンベルがさかんに強調していた「脳は意識の容れ物」説も、おそらくそんな意味だったのではと思う。テスラ CEO よろしく著者ホーキンス先生もえらく火星移住に熱心なようですが、庶民的発想では、核戦争や気候変動で人間が地球を住めなくしたら、その道義的責任はどうなってんのかってまず思いますね。地球はもう住めない! なら新天地の火星へ移住しよう! そのための火星環境の大改造は汎用 AI たちにやらせてね、みたいな話はどう考えても不遜だし、あまりに人間中心のそしりは免れないでしょう。だいいちそんな地球にしてしまったら、いくら火星コロニーの建設に成功しても子孫に対していったいどんな顔を向ければよいのやら。また、その過程でどれだけの動植物などの生命体が絶滅することか。──こういう感傷まで、まさか「遺伝子の命令に忠実な古い脳」のせいにはしませんよね? 

 著者は「あとがき」で第1部について、「…途中、そこで終わりにすべきかどうか熟慮した。一冊の本に書く内容として、新皮質を理解するための枠組みだけで十分に野心的であることはたしかだ」と書いています。……個人的にはそのほうが何倍もありがたかったかも。「1000の脳理論」を応用した汎用 AI の話なんかはすこぶるおもしろかったですし。

※……ドーキンスが序文で引用している、同業の進化生物学者で認知科学者のダニエル・デネットの近著『心の進化を解明する/バクテリアからバッハへ』の原書(From Bacteria to Bach and Back、2017)は読んだことがある。原書は手許にあるし、日本語版は図書館にあるしで、こちらもいずれは取り上げたい、と思ってもう2年以上が経過した(苦笑)。内容的にははっきり言ってこっちのほうがムズかったずら。「カルテジアン劇場」ってのももちろん出てきます。

評価:るんるんるんるん

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2021年06月20日

『専門家の予測はサルにも劣る』

 …… という本を、仕事の調べ物をしていたときに図書館で見つけまして、さっそくこちらも借りてきた。初版発行が 2012 年。もっとはやく読んでおけばよかったとひさびさに思えた、個人的にはヒット本でした。

 日本語版はずいぶん人を食ったというか、小バカにしたような書名(原題は Future Babble )ではあるが、このカナダ人ジャーナリストの書き方は読んでいるほうがシャッポを脱ぐ(「こうもり」が通じず、「ダイヤル式黒電話」がなにかもわからず、ことばのプロの端くれであるはずのニュースアナウンサーが「軽々[けいけい]に」、「夜店(よみせ)」とかを誤読する世の中なので、こういう言い回しがすでに「死語の世界」入りしていないことを切に願いつつ)ほど、かつてのジェントルマン的潔さと言いますか、とにかく終始一貫、「真摯」で内省的でストイックであり、この点はおおいに見習いたいとさえ感じた。訳がいいから、そのように感じたのだと思う。

 この本では古今の専門家による「未来予測がいかに当てにならないか」の多数の実例が俎上に上げられ、アンコウの吊るし切りよろしくスッパスッパと一刀両断といったおもむきで容赦なく批判されている。過去の名だたる学者、たとえばいっとき日本でもすこぶる人気が高かったアーノルド・トインビーに、キャンベル本でもおなじみの『西洋の没落』のシュペングラー、そしてなんとなんと、あのミスミステリー作家のマイケル・クライトンも例外ではない。

 で、ここにいる門外漢がいちばん驚いたのが、そのクライトンなんですね。映画化もされた『ライジング・サン』という本。じつはろくすっぽ読んだことがなかったので、この本ではじめて内容を知って愕然とした。こんなこといま書いたら即三振アウトずら! いくら日本人に西洋びいきが多いからって、こんな「無意識下の差別」丸出し小説はイカンやろ、と思ったしだい。

 しかし驚くのはまだ早かった。クライトンがこの小説を書いたのは、バブル真っ只中の時代におもに米国で吹き荒れていた「日本脅威論(あるいは、日本スゴイ論)」に乗っかったついでに自作を売って儲けてやろう的な発想があったらしいこと。ようするにあの当時の米国市民にとって、「日本脅威論」はトランプ的な「ディープステート陰謀論」のように、米国社会のトレンドだったということです。これは逆に言えば、「そんなことはない。日本経済なんてそのうち失速する」と主張しようものなら、コテンパンにされかねない時代背景があった、ということ。その証拠に当時、この手の根拠薄弱な「日本脅威論」ものが売れに売れて、そんな本の日本語訳で書店は溢れていたものだ(神保町の某大型書店でもその手の逆輸入された「日本脅威論」本がベストセラーになり、げんにワタシもそんな本の平積みの山を見たことがある。就職氷河期世代以降の人には信じられない話だろう)。

 著者によれば、いつの時代も「専門家の予測など当たった試しがない」。1970 年代から 80 年代にかけてはやった「ピークオイル」説にしてもそう(いまも原油は枯渇していないし、昨年のコロナ禍で原油価格は初のマイナスを記録した)。とはいえ人間はダニエル・カーネマンの研究で有名になった数々の「認知バイアス」があるから、「世界が、基本的に不確実で予測不能であること」はアタマではわかっていても、高名なその道の「専門家」を称する人びとの立てる「未来予測」なるものを必要とする「需要」が途絶えないかぎり、この手の「予測本」も消えることはないと書く。では門外漢の一般市民のわれわれはどうすればよいか。

 著者によれば、専門家はふたつのタイプに大別されるという。ひとつが「キツネ」型、もうひとつが「ハリネズミ」型。で、未来予測のアテのならなさは両者共通としつつも、参考にするなら(鵜呑みにしていいというわけではもちろんなし)「キツネ型」専門家の予測のほうがまだマシ、と書いています。専門家といっても、確率的には「コイントス」と大差ないようですけれども、「キツネ型」のほうがまだ人間的に信用のおける学者の場合が多いようです。

 加えて、専門家には「専門しか知らない」タイプと、キャンベルのような「ジェネラリスト」タイプがいる。個人的にはもちろん、ジェネラリストな専門家の書いた本なり論文なりのほうが一読に値すると思っています。最近、日本にかぎったことじゃないでしょうが、カネの亡者というか、目先の利益にファウストよろしくあっさり魂を売っているような専門家もけっこういるから、要注意です。

 それにいまはインターネットもある。専門家といっても昔みたいにウカウカしていられません。真実ではない情報を垂れ流せば、たちどころに奇特なネットユーザーのネットワークが立ち上がって、査読やファクトチェック結果を発表する世の中。300 ページ超のこの本を読み終えて思ったのは、たとえモットモラシイ話に聞こえても、「ほんとうにそうなのか?」とまずは自分のアタマで考えることがいちばん大切、ということです。

 ほかにも予測本ものの著者として、これまたベストセラーを連発していたポール・ケネディ、『第三の波』のトフラー、昨年、ユヴァル・ノア・ハラリと NHK の特番に出ていたジャック・アタリ、ポール・クルーグマンなどが出てくるけれども、『不確実性の時代』で有名なガルブレイスは挙げられていなかった。繰り返すけれども、この本はなにも世界的に名を知られる学者や研究者のイイカゲンさをあげつらっているのではなくて、こういうすぐれた頭脳、すぐれた知性の持ち主でさえも間違えてしまうメカニズムとはなにか、それをとことん探った本です。

 10 年前のいまごろもそうだったように、いままた「専門家」と呼ばれる人びとが TV のワイドショーとかに呼び出されて、持論を展開している。原発事故と未知のウイルスの共通点は、「専門家でさえわからないことが多すぎる」こと。TV に映し出されている専門家が「キツネ型」か「ハリネズミ型」かにも留意して、注意深く話を聞く必要がある。そして聞きっぱなしではなく、自分のアタマで考えること。言い換えれば、エーカゲンな予測に、そもそもたくましい妄想の産物でしかない「○○陰謀論」にあっさり引っかからないだけの literacy を身につけることこそ、21 世紀のいまを生きるすべての人の責任かと思う。それさえ怠るような御仁は、それこそ自称5歳の女の子に「ボ〜っと生きてんじゃね〜よ!!」と一喝されるでしょうな。

※ 本文最後の一文の訳について。おそらくこれ下ネタのオチでしょうね。Google Books で検索かけても、当該箇所の原文が表示されなかったから、なんとも言えませんけれども。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるんるんるん

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2021年06月16日

Seeing is believing なこぼれ話

 えっと、いきなりではありますが本題に入る前に …… 不肖ワタシ、ようやく(?)自分の名前で出るはじめての翻訳書がこのほど刊行の運びとなりました。いわゆる「献呈本」はとっくに来ておりまして、手にとったときは──じつはタイポなどがありまして、せっかく苦労して仕上げたのにすなおに喜べないのもまた事実──もちろんそれなりに感慨はあったんですが、とにかく拙訳書につきましてはまたのちほどここでも詳しく書きます。というか、訳者としてはキチンと書くのが努めだとも思いますので。というわけで、トシだけはとってるくせにヒヨッコ翻訳者なワタシがエラソーなこと書いちゃイカン、ということは痛いほど承知はしておるのですが、黙ってられない性分ゆえ、そしてまたいちおう同業者の「告白本」の体裁をとってもいるし、ひとこと述べさせていただこう、と思ったしだい。

 じつはこの本、そのスジではかなりよく知られ、そこそこ売れているみたいです。じつはワタシも訳書が出るまでそれなりにスッタモンダがあったため、書かれてある苦労談とかはすごくよくわかる。二番煎じになるけれども、書籍を出版する場合って、たいてい書面の契約書はありません。だいたいが口約束で済まされます。ほかの業界だったらまずありえない話ですが、これが長年の慣行ってやつです。

 せっかく1冊まるまる翻訳したのに勝手に出版中止にされ、その責任を問うているのに版元に誠意が感じられず、やむなく提訴 …… という話、ワタシも間接的に知っています。訴訟まではいかなかったものの、「悔しくて一睡もできなかった」と精神を病む寸前まで追い込まれたなんて話も聞いたことがあります(この話、けっこう名前の知られた YA ものの翻訳の大家の証言なんですぞ)。

 しかも食えない。だから糊口をしのぐため、なにかしら「兼業」するしかない仕事だったりする。おまけに売れる本は売れるでしょうけれども、それ以外は鳴かず飛ばず、重版がかかることなく初版で品切れ絶版、なんてのが常態化してウン十年経っているでしょうか。そんなこともあってか、翻訳者唯一の収入源である翻訳原稿料でさえ、「印税」方式ではなく「買い切り」方式(ケチ…!)もかなり増えている。さらに悪いことにはクラウドソーシング全盛時代、アウトソーシングして翻訳者を募集するのはいいけれど、そんな募集はたいてい名の知れたプロ並みの要求をしてくるくせして相場無視の法外な稿料しか払わないところがほとんどときている(ある意味、ブラック業界化している。1冊まるまる訳すのにいったいどれだけの費用と時間と労力がかかっていると思ってるんですか)。

 だから、この本で著者が嘆いているのはホントよくわかるんですが …… ハッキリ言って共感できません。なぜか。文章心理学的に、というか、生理的に受けつけないのかもしれない。

 かんたんに言うとこの本、終始一貫、「ワタシは悪くない、被害者だ、悪いのは○○」とこんな調子なんです。それに注意深く読むとこの方、ワタシなんか足許にもおよばない英語力と「翻訳力」があるにもかかわらず、最終的に翻訳稼業から足を洗って警備員になるしかなかったのが、ほかならぬご自身の学習能力の欠如にあるとはまるで思い至っていないのがものすごく歯がゆくも思う。言い方はたいへん失礼ながら、詐欺被害に遭いやすいカモタイプかもしれない。最悪の事態を想定せず、物事はきっと「ご自身に都合よく」回るだろうと考えているフシがある。

 ちょっと手厳しいと思うが、とりあえずそんな「書き方」の例を、ワタシの感想(大かっこ内)も混じえて書き出してみる(下線は引用者)。話の内容は、「翻訳品質に関心のない編集者」について。↓
私はすでに旧訳が出ている原書の新訳を依頼されたことが何度かある[ソレハソレハ]。…… ではそういう場合、私は何をするか。私はその機会をうまく利用して自己PR 用の資料を作るのである[ご苦労さまです]。その資料は、私の文と旧者の文が[もうすこしなんとかなりませんかね?]比較できるようにしたものである。ただ、編集者も忙しい人たちであるから、私は新訳と旧訳がすぐに比較[←トル]できるよう、著しい差が出ている箇所を強調して示している[ちょっと待った。そのすぐ前で「私が翻訳書担当の編集者についてもっとも驚いていることは、彼ら[ママ]翻訳のクオリティーに対する関心があまりにも薄いことである。彼らにとって最大の関心事は売れたか売れなかったかであり、売れない翻訳書は翻訳のクオリティーに関係なく『失敗作』なのである」ってご自分で書いていますよね? せっかく作ったはいいが、ロクに目も通されないことくらい、察したらどうですかね …… その労力をほかに振り向けたほうがよいのではなくて ?? ]。これを見せることで、
 (ほら、この翻訳家はここをこう訳してるでしょ。でも同じところを私ならこう訳すのです。この違いがおわかりですか。どちらの翻訳家の訳で読みたいですか)[ある女性編集者のことを「上から目線」とクサしておきながら、あなたも大したものじゃないですか! というかオラにはおっかなくて、とてもじゃないがこんなマネできっこないす。それにこれはズルい。後出しジャンケンみたいで。そもそも編集者が旧訳と比較して判断するなんてことはないでしょう]
 と私の翻訳のクオリティーを吟味してもらおうと思っているのである。

と、こんな感じ。

 さらにイヤ〜〜な書き方もある。出版翻訳から警備員に転身したいまはきれいさっぱり、「後悔などあろうはずがない」なんてどっかで聞いたような科白を引用するのはよいが、なんとなんと脚注に「本書をお読みの翻訳書担当の編集者で私の自己 PR 用の資料を見てみたいと思う方は喜んでお見せします。ただしなんらかの仕事を私に依頼していただくことが前提です。連絡先は ……」!!! こちとらもう口あんぐり。未練たらたら感満載じゃございませんか。

 まだまだある。「売れる本にしたいので、W 先生に監修者になってもらおうと思っているのですが、よろしいでしょうか」と訊いてきた編集者に対し、「出版社はそれでも売れればいいだろうが、それでは私が困るのだ」
とこんな感じで押し問答がひとしきりつづいたあと、「だって○○さんって、なんでもない人じゃないですか」と言われ、深くショックを受けた著者はこう書く。
なんだなんだ、なんでもない人とはなんだ。私はなんでもない人なんかじゃないよ。…… 実際、こっちはイギリスの名門の大学院から修士号を取得しているんだよ。出版翻訳家になるのだってたいへんなんだよ。なのになんで私がなんでもない人なんだよ。そういうあなたはどれだけ立派な人間なんだよ。だいたい、人のことをなんでもない人なんて言う資格があなたにあるのかよ

「つい〜、“sell word”に“buy word”で」と言った小原鞠莉じゃないけれども、こんなの読まされたらついそう言いたくなってしまうじゃないですか。というかこれ「藁人間論法」じゃないですかね。ちなみに監修者として名前の挙がった W 先生は、アーノルド・ベネットの超有名なロングセラー本を翻訳した大先生。さらについでに、「イギリスの名門の大学院」のある大学は、世界ランキング 50 位中の 42 位でした。

 それとそのすぐあとにもこの「翻訳品質に関心のない編集者」の話は尾を引いていて、
旧訳を新たに訳し直すときって翻訳のクオリティーを高めて出したいからではないの? もしそうでないのなら、なぜ新訳を出したがっているの?

そのときそうギモンに感じたのなら、その旨直接お伺いを立てればよかったんじゃないですか? 

 さも自慢(?)話ふうに得々と書いている箇所も多くて、この著者はそうとう粘着質な人と見た。トラブった編集部宛てにファクスを執拗に送りつけて業務妨害スレスレのこともしていますし。こういう暴露本って、だいたい著者の独善ばかりが目につき、ハナにもつくという代物がほとんど。以前図書館で見かけた「元郵便局員」が書いた内輪ものの本とおんなじ臭いがした。たしかにワタシも精神的に不安定になりかけたことがあり、この本を知ったときは「またなんとタイミング悪く、こちらの士気を挫くような本が出たもんだ、それに売れてるらしいし」なんて思ったもんだが、いざ読んでみたら、「いや、待てよ。ひょっとしたらひょっとして(Are you telling me what I think you're telling me?)」みたいな本かも、とも思っていた。で、読んでみたら後者だった。思い込みの強さという点ではワタシも似たかよったかだが、著者もまた思い込みの激しい人であることは、書かれた文章の行間から芬々と漂う。

 思うんですが、たしかに翻訳作業って孤独で、とにかく「ひとり」で自己完結しているようなイメージの強い仕事ではある。究極のテレワークと言ってもいいかもしれない。でも1冊の翻訳書を世に出すには、翻訳者がひとりいたってできるわけがない。校正者がいて、編集者がいて、校閲者がいる。発行人がいて、印刷と製本会社の従業員の方々がいる。書店に配送する人に、そしてもちろん、書店でその本を売ってくれる販売員の方々がいる。それを買ってくれる読者がいる。エラソーなこと言ってほんとうに申し訳ないのだけれども、この人にいちばん欠落しているのは、「自分は翻訳出版チームの一員だ」という意識じゃないかって気がします。この手の人は最後までひとりで完結する、Amazon Kindle のような電子本で個人出版すべきだと思う。コレならすくなくとも理不尽な言いがかりをつけられる心配はないですし。

 というわけで、こんな内容ですので、この本につきましてはいつもの書評もどきの扱いとはせず、「選外」とさせていただきます。あ、それともうひと言。ここの版元のこのシリーズ? はけっこう評判がいいそうで、新聞広告でもときおり見かけたりします。しかしながら新聞広告出してる本で「読む価値のある本」、「読むべき本」というのは、ワタシにかぎって言えばまずないです。ワタシが読みたい本は、新聞広告に載らない本ばっかなので。

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2021年05月28日

日本版 “Translation Studies” の必要性

 たまたま図書館で見かけたこちらの本。いかにもみすず書房らしいテーマの本だと思ったら、懐かしの『翻訳の世界』を取り上げた研究論文を叩き台にして書き上げたというのだから、ちょっとビックリ。ついにこんな本が出るほど、「わが青春の日々はすでに過ぎ去り」というか、昭和は遠くなりにけり、なんだなァと思わずひとりごちた。

 月刊誌『翻訳の世界』は、とてもユニークな立ち位置の雑誌だった。内容も硬軟織り交ぜ、とにかく「翻訳」と関係するものは時事問題(湾岸戦争、通信社の舞台裏、『悪魔の詩』事件、国際結婚 etc……)からマンガまで、来るものは拒まず的な言論雑誌だった。しかもなんたる皮肉か、もともとの発行元は「大学翻訳センター」、現在の DHC なんですぞ。しかもこの雑誌のよかったところは、対立意見や主張などおかまいなく、幅広い執筆者が精力的に記事を書いていたことだ。運営する翻訳学校の広報誌的役割(広告塔)も果たしていたから(これはしかたないこと。民間企業が刊行している「商業誌」だったので)、自社宣伝がハナについていたとはいえ、いまどきこんなおおらかな内容の言論雑誌は望むべくもないだろう、と思う(いまの国内の言論がいかに歪められているかは、書店に並んでいる本や雑誌を見れば一目瞭然)。

 本書の著者も巻末に慨嘆しているように、「あのころは多文化・多言語主義というものが十年後には当たり前の社会が来ると感じていた。しかし、これが全くの誤りであり、今は逆行しているように感じることも多い」。

 せんだってここにも書いた systemic discrimination もそう。当たり前だと思って意識してないから、ことはややこしくなる。そんな一例が、すでに 1986 年の『翻訳の世界』誌上で当時、『過越しの祭』で芥川賞を受賞した米谷ふみ子さんのインタビューとして載っていることも紹介している。
日本でもあります。アメリカはまだ法律によって保護されてるんです。日本の場合は法律もないでしょ、偏見に対して。だから危ないです。日本に住んでる日本人はそのことを知らない。…… 教えやすいし、操作しやすい。右向け言うたらみんな右向きますよ。違うことしたくないから。それが嫌な人はみんな出ていってしまう。──「マイノリティの生活経験を伝えたい」から

 英国やドイツでは「人種主義的な差別発言や言動は禁止されており、差別的なことを口にしただけで拘束されることもある」くらい厳しいにもかかわらず、このインタビューが掲載されてから 34 年後の欧州では新型コロナのパンデミックに悪乗り(?)したかのようなアジア系住民などに対するレイシズムの嵐が吹き荒れたことは記憶に新しいところ。

 といってもこの本は、かつて日本に存在したユニークな雑誌をただ懐古してるんじゃなくて、そういった言論雑誌というレンズを通して見たトランスレーション・スタディーズ、「翻訳論(カタカナ語とはニュアンスは異なってはいるが)」の可能性について論じた本。駆け出しのペーペーがこんなこと言うのは口幅ったいのですが、この本読むまで正直、「翻訳論」の必要性について真面目に考えことはなかった。ある意味、「技法と実践」のみに拘泥していたのかもしれない。柳父章さんとかはもちろん知っていたし読んでもいたけれども、海外ではこの手の「トランスレーション・スタディーズ」が盛んで、ご多分に漏れず大学制度「改悪」の進んでいるらしいイングランドの大学(著者の勤務先)では翻訳を学ぶ専門の学部や学科が存在している、と知ってすこぶる新鮮だった。こういう専門学部では、たんに翻訳技術を教えるのではなく、それをはるかに超えた「学問としての翻訳」を教えているという。たとえば、実際の仕事で必ずと言ってよいほど悩みのタネとなる背景知識の調べ方や習得などについても教え込み、このへんが日本国内で翻訳を教える民間学校とは決定的に異なるところだと書いている。

 「雑誌の分析だけでなく、インタビューという手法を取り入れた」とあるように、後半は『翻訳の世界』に携わった関係者諸氏のインタビューで構成されてますが、ここで一点、気になった点が。発行元が運営していた翻訳学校の当時の生徒になぜインタビューしなかったのかな、と。あいにくこちとらも数年間、定期購読していた『翻訳の世界』が山のようにあったけれども、とっくの昔に一部だけ残してすべて処分してしまったし(いまにして思えばモッタイナイことしたかも。地元の図書館に寄贈するという手も考えたが、先述したように「広報誌」的性格がイヤだったため、断念)、お声がけしてくれれば(あるわけないが)、喜んで差し上げたものを。

 あと印象に残っているのは、「翻訳を深めようとすればするほど、その政治性とイデオロギー性を確認することになる」とか、スラヴ文学者の沼野充義先生が著者のインタビューで、「アカデミックな研究の営みは、…… 自由なものでなければならないのではないか。すべてを既成の規範にはめて考えていたら、新しいものは生まれない。翻訳研究の場合も、一定の枠組みからはみ出すところにむしろ豊かさがある」として、欧州生まれの「トランスレーション・スタディーズ」の亜流ではない、1970〜80 年代にかけて芽生えつつあった、日本独自の「翻訳研究」の経験と実践を活かすよう述べていることはひじょうに示唆に富む発言だと思った。

 「翻訳とイデオロギー」ということでは、もうすぐ日本語版が出るトマ・ピケティの新作『資本とイデオロギー』のテーマとも重なる部分がけっこうあります。というわけで著者の次回作もおおいに期待しております。

評価:るんるんるんるんるんるん

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2021年04月15日

"systemic discrimination"

 前にも少し書いたことですけれども、昨今、急激によくお目にかかるようになったワードがあります。“systemic discrimination”です。

 たとえば手っ取り早くオンライン英和辞書なんか見てみますと、
構造[組織]的(な)差別、〔社会の構造・制度などと一体化しているような〕深く根付いた差別
なんてあって、わかったようなわからないような、隔靴掻痒感満載なんですね(一般に辞書の定義なんてそんなものだが)。

 こういう抽象的概念に近い横文字って、たとえば「エンパワーメント」のようにいつの間にかカタカナ語化して意味もよくワカランまま定着、というパターンがじつに多い。それじたいが悪い、と言っているんじゃなくて、「その用語、しっかり理解できていますか?」とつねに自問自答する姿勢が大事だとまずは言いたい。

 で、わかったようでまるでわかってないこの“systemic discrimination”。でも、こんな記述を読めばどうですか。
人種差別主義者があれほど肌の色にこだわるのが不思議でならない。有色人種が怖いから、憎いから差別するのではない。有色人種は地位が低い。階級が低いと差別し、自分のコミュニティーに異文化が入り込むのを嫌がり、白人が高い地位につく機会が多いから、白人の方が“優れている”と無意識のうちに思い込んでいる。
 なるほど、そういうことだったのかって、思いますよね? “systemic discrimination”とは、無意識のうちに刷り込まれた意識が、じつはりっぱな人種差別、レイシズムに発展するんだってことがこの一文を読めば伝わってくるではないですか。

 これ書いたのはタン・フランスという人。パキスタン系移民3世として英国北部のサウスヨークシャー州に生まれた人で、世界的に人気のあるリアリティーショー「クィア・アイ」のファッションコーデ担当、と言えば、知ってる人は「ああ、タンだね!」って思われるだろう。とこんなこと書いてる本人は、タンさんに取材した記事の訳出を依頼されるまでまるで知らなかった口なんですが、たまたま図書館にタンさんのメモワール本があったので、あわてて借りて読んでみたらすっかり自分までファンになってしまった。それほど人として魅力的で、なんて懐の広い人なんだろうって、ようは自分にはないものをタンさんの内に見つけたってことにすぎないんですけれども、それでもこの本は内容もすばらしくて、読んだことないって人にはぜひおススメしたいと思ったしだい。

 筆致はとても軽く、心のおけない親友に打ち明け話をしているかのようなノリで幼少期から現在に至るまで話が進んでいくのでじつに爽快な読書感なんであるが、そのじつ、書かれてある内容は、ふつうに書いたらまずまちがいなく暗く、沈んだ気持ちにさせられることまちがいなしの「重さ」がある。ここがすばらしい。こういう文章はなかなか書けない。これはひとえにタン・フランスという人の人柄がなせる業。「文は人なり」だ。

 “systemic discrimination”ということでは、たとえば自身の生まれもった肌の「浅黒さ」をなんとかして隠そうと従姉の使っていた漂白クリームをこっそり塗っては「神様、肌を白くしてください」とお願いしていたそうです。これだけでも胸が詰まる話ですが、人種差別主義的なイジメを受けたことをはじめ、「『クィア・アイ』のスター」として一躍、セレブの仲間入りを果たした現在もなお、空港の入国審査で足止めされ、別室で「検査」を受けるというくだりなんかは読んでいてやや信じられない、という思いさえ抱いていた。ちなみに英国はもともと階級意識が強く、住むところも労働者階級、中流階級、上流階級とはっきり色分けされている地区がいまだに存在しているような国。タンさんはこの本で、そんな英国でも NHS という医療制度は米国に比べてはるかにすぐれていると評価してはいるが、こと“systemic discrimination”に関しては、「僕らはいまだに、9月 11日が来るたび、危険な人種として身元確認作業を受けている」現実、その他いわれのない差別、根拠のない偏見にもとづく理不尽な扱いを受けたことなど、これでもかってぐらい具体的事例を挙げて、それでも「軽いノリで」書いてくれている。

 昔、まだ日本が「ナンバーワン」だともてはやされていたころ、日本人カップルがベツレヘムの紛争現場の真っ只中にフラフラ入り込んで、イスラエルとパレスティナ双方の兵士が撃ち合いを中断したって話、以前ここでも書きましたが、わたしたちもまた、肝に銘じなければならないと思う。やはり周囲を海に取り巻かれている島国で暮らし、それがアタリマエみたいに感じていると、ほんとうの意味でのリアルな世界がまるで見えなくなる。そういう意味でも、日本人ではない人の手になるこのような著作とその翻訳は、意識してでも読まないといけない。そういうふだんからの、「不断」の努力って必要だと思う。

 あと、これは付け足し的な話ながら、日本人以外の著者の本を(原書にせよ、邦訳本にせよ)触れることの効用を書いておきたい。

 たとえば、こんなコラムを見たとする。
……私の米国の知人は引退した普通のサラリーマンだったが、90 歳をこえるまで税金や医療費の申告をパソコンでやっていた。
ちなみにこの引用文、日本がいかにデジタル化の波に乗り遅れ、このままではヤバいぞと警告している(つもり)の定期コラム。かつて「ナンバーワン」だと言われていた技術大国日本はなぜデジタル化の流れではこんなにも出遅れてしまったのか、と「海外の人」から質問されると、「日本は旧来のやり方では非常に優れた仕組みを構築してきた。それがゆえに、デジタル化への対応を軽くみてしまった。別にデジタル技術に頼らなくてもやっていけると甘く考えていたのかもしれない」と答えるようにしているという、「なに言ってんだこの大学教授は、ダイジョブか?」とココロの中で毒づいていた口。

 米国では PC で確定申告は当たり前。どころか、公教育も州によってバラツキはあるだろうが、ほぼオンラインネットワーク化されていて、だいぶ前に見たヴァイオリニストの五嶋龍さんが自宅で仕上げたアサインメントをインターネット経由で学校に送信していた場面とかが印象に残っている。

 で、タンさんの本ではその米国における確定申告については、こんなふうに書かれてたりする。
アメリカに住むようになって一番悩んだのは、何といっても税金問題だった。最初に渡米したとき、アメリカ人がまさか税金の申告を自分でするとは知らなかった。個人が申告した税額を政府が信用するなんて、不条理だと思う。一度、知り合いの確定申告の様子を見せてもらったとき、あれも控除、これも控除って処理していた。アメリカの確定申告って、頭さえうまく回れば基本的には抜け道がいっぱいある。確定申告を一般人にやらせるのはおかしい。だって、ものすごく複雑なんだもの! それでいて、ミスすればうるさいほど指摘してくる。確定申告がアメリカ国民にとって必須の義務なら、学校の必修科目にするべき! だけど自分の税額は自分で計算しなきゃいけないのが現実。
「英国の医療費無料制度(NHS のことね)は百害あって一利なし」と言い切った夫ロブ・フランスのお父さん(つまり義父)に、タンさんは「英国に何年お住まいでした?」と訊く。すると義父は「住んだことはない」。「だったら医療費の話は誰から聞いたんです?」。「FOXニュースでやってた」!!! 

 …… 当たり前のことですけれども、新聞掲載のコラムだからって鵜呑みにするな、批判的に読め、ってことですかね。で、当方も昨年夏からフリーランスになったんで、この前はじめて(!)、「いーたっくす」なるものを恐る恐る使って申告したんですけど……申告じたいはわりとスムーズだったかな。でも、マイナカードの取得やら申告のために必要なオンラインツールがこれでもかってあって、そっちの下準備がタイヘンだった。もう少しなんとかならんのかねぇ …… って嘆息混じりだったんですけれども、ここで得難い教訓もありました。貧乏人こそ、しっかり確定申告すべきですゾ(還付金は貴重です、あと控除申告で使う領収書ももちろん忘れちゃいけない)!! 

評価:るんるんるんるんるんるんるんるんるんるん

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2021年04月09日

『翻訳家の書斎』

 宮脇孝雄氏、とくると、日本を代表する英米文学、とくにミステリもの翻訳の大家。当方みたいのがこんなとこで取り上げるのはオコガマシイかぎり …… とは思うのだけど、図書館でパラパラめくっていたらめっちゃおもしろかったので、古い本(1998 年刊行)ではあるけれど、文芸ものの翻訳はいかにすべきかを考える上ではずせない書だと思ったのであえて触れておきます。もっとも、いわゆる「書評」めいたことは今回はいっさいやらず、ただ個人的にツボなところのみ取り上げるにとどめておきます。

 外国語辞書の版元として有名な研究社はかつて、「一流翻訳家が手の内を開陳する」みたいな本を立て続けに出していた時期がありまして、たとえば机の上にいつも置いてある飛田茂雄先生の『翻訳の技法(1997)』もそのひとつ。でも宮脇先生のこのご本は雑誌の連載コラムをまとめたものだからか、とにかく読んで肩の凝らない、翻訳よもやま話的な本。にもかかわらず、翻訳のカンどころはしっかりおさえてあるのはさすがです。

 本を開いてまず飛び込んでくるのが、「翻訳家の書斎にある道具」という章。なんでも英米の通販商品カタログはひじょうに重宝するとか書いてありまして、一例として Mars Bar に Victor なんてのが出てくる。前者はチョコレートバー、後者はなんと! オーディオメーカーではなくて、「ネズミ捕り器」の名前だという !! 

 でも、とイマドキの人は思う。べつにこんなのそろえなくても、ググればいいじゃん !! そう。たいていの調べ物はいまや Google で(ほぼ)一発 O.K. な時代。Google、恐るべし、いろいろな方面で。いまのところ個人的にはメリットのほうがデメリットを上回っているから、いつだったかここで書いたことをもう一度引っ張り出して繰り返せば、「コンテンツプロバイダーという巨人の手の上で踊らされてるだけじゃないかって気がする」自分がいる。

 とはいえたかだか 20 数年前の翻訳の現場といまとを比較してみれば …… やはり唖然とする。原書に出てくる映画の邦題がワカラナイとくれば、昔はそれこそ国会図書館だのどこそこへ問い合わせだのとやたら手間がかかり、行きもしないのに(!)NYC の地図とか商品名事典(薄っぺらいくせして5千円はした)とか持っていて、出てくるたびに引っ張り出して調べるのがおそらくどんな翻訳者にとっても当たり前だったと思う。

 いまはラクなもんです。でも出版不況かなんだかはよくわかりませんが、最近とくに思うのが、「単価下げ」、つまりダンピング。そういえばついこの前も第一人者と呼ばれる出版翻訳者の方が赤裸々に暴露した本とかその筋では話題になってましたっけね。駆け出しのペーペーながら、中身はちょっと気になるところではある。ただ、どれだけ MT(機械翻訳)技術が進化しても、あるいは AI の支援を受けた MT が「人力」翻訳を脅かすすようになっても、それを理由に人間の翻訳者の労力を無視した労働対価を押し付けるのは出版人云々以前の、人としてどうなん? という低レベルな話になってくる。ついでに、いまはアナウンサーをはじめ、「日本語のプロ」でなければならぬ人々の日本語レベルがどんどん低下しているように思えてならない。「え? なんでこんな言い回しがダメなの?」ということもしばしば。そのうち「ゆめゆめ〜」とか「いきおい〜」も、「〜なんだ」と同様、死語の世界入りする日も近い(「〜なんだ」は、川端作品にも出てくる過去を表す述語表現)。

 気持ちが暗くなるんで宮脇先生のご本にもどると、「翻訳家の仕事」や「小説を翻訳するということ」、あと誤訳に関して書かれてある章は、戒められる思いがした。とくに、「『翻訳家』という立場は、はたで見るより危ういもので、少し手を抜くと、たんなる『翻訳支援家』になってしまう(pp.47−8)」というくだりとか。ここの一文は、宮脇先生が当時(!)、アキバの PC ショップにて数万円は下らない「翻訳支援システム」の実演販売を見て食指をそそられたときのことと絡めて書かれてあるセクションの締めくくりの文章になります。

 最後にとっておきの一文と名訳を。おなじセクションの最後に紹介された話がまたケッサクだったので、ここでも引用しておきます。
 翻訳者というのは、もっと独立した存在であり、ある面では独裁者なので、自分の責任においては何をやっても許されるのではないかと思っている。
 もちろん、先の例のように、あとあと矛盾が起こるような誤訳はまずいのだが、翻訳者がびくびくしていたのでは、いい訳文が書けるわけがない。
 私がまだ 20 そこそこのころ、敬愛するある翻訳家に初めて会ったとき、前々から疑問に思っていた点を尋ねたことがある。その人の翻訳に少女が一人出てきて、原文では別の髪型になっているのに、訳文では「ポニーテールの少女」となっていたのである。
 未熟な私は、「もしかしたら、あれは誤訳ではないでしょうか?」と尋ねた。
 するとその人は、「おれはポニーテールが好きなんだ」と答えた。
 翻訳者は独裁者であっていい、と悟ったのはそのときのことである。

 ご本にはもちろん、古今の翻訳家の訳例もいろいろ収録されていて、そこだけ読んでも楽しいんですが、思わず脱帽、参りましたと言いたくなるスゴイ名訳もありました。それが、1987 年に王国社から出ていた『不思議の国のアリス』の 'Who are You?' の訳(p.58、訳者は北村太郎氏)。なかなかこうは訳せませんよ。なにがスゴいかって、原文の持つ韻まできちんと日本語に置き換えているんですぞ。一発芸的かもしれないが、不肖ワタシはしばしうなったままじっと凝視しておりました。とりあえず使えそうな手はいつか使えるはずだから、持ち駒としてメモっておこう。

「あーた、だーれ?」

補足:音楽関連の「珍訳」についても少し触れられてました。たとえば『謎のバリエーション(苦笑)』とか(もちろんエルガーの『エニグマ変奏曲』のことじゃね)。

 日本語表現では、こんなことも指摘していました(太字強調は引用者)。
 クラシック音楽に関する文章を読んでいると、独特な言い回しが出てくることがある。気になって仕方がないのは、「手兵」という言葉である。
 たとえば、有名な指揮者が、手塩にかけて育てたオーケストラを使って、演奏会やレコーディングを行ったとき、「巨匠カラヤンが手兵ベルリン・フィルを率いて……」などと書く。
 絶大な権力を持つ指揮者を陸軍大将か何かになぞらえたくなる気持ちもわからないではないが、「手兵」というのはいかにも時代錯誤ではあるまいか。……
 …… 考えてみれば、クラシック音楽にかぎらず、外国のものをどこか仰々しく輸入紹介するのは、ついこのあいだまでの私たちの習慣だった。昔は漢語で凄んだが、近ごろはカタカナで凄んだりする(インテリ用語にそのたぐいの言葉がある)。
 「手兵」、たしかによく見ますわ。そして最後の一文、ここ最近の「反知性主義」とか「フェイクニュース」とかの不穏な動きは、ある筋から一方的に情報や価値観を押しつけられ、そのせいで割りを食ったと不満を募らせている一部「大衆」の反逆を出現させたその一端というか萌芽の要因のひとつにも感じられたしだい。いまでもそうじゃないでしょうかね、某都知事あたりの会見見てればその口から出てくるのは横文字の奔流。ご丁寧にパネルにゴシック体で大きく書かれてもいたりで。こういうのばかり見させられ、そのじつ「3密は避けて」とか言ってる張本人たちがこれまた信用ならんときている(直近のニュースでも流れてくるのはそんな情けない話ばっか)。ことばが人の心におよぼす影響を侮るなかれ。特大のブーメランとなって跳ね返ってきますよ。

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2020年06月30日

読んでみたら意外と…?

 国家安全保障担当補佐官という仕事には、ありとあらゆる無理難題が目の前に立ち現れる。こんな仕事のどこに惹かれて、私はこの重責を引き受けただろうか? 混乱と不確実性とリスク、大量の情報を処理し、つねに決断を迫られ、とにかく膨大な作業量に終始圧倒される仕事。人間の個性とエゴが国際舞台で、アメリカ国内で衝突し合う。こういったことにおもしろさを見出だせないような人は、ほかの仕事を探すしかない。この仕事にはどう考えてもうまく行かないだろうというときに、パズルの各ピースがぴたりとはまる瞬間がある。そんなときは爽快感さえ覚えるが、この感覚を部外者に話してもほとんどの場合、共感されることはない。
 トランプ政権の変質について、包括的な説を提示することはできない。どんな説をもってしてもそんなことは不可能だからだ。しかしながら、トランプ政権の軌跡に関するワシントンの紋切り型の常識は誤りだ。知的に怠惰な層にとっては魅力的に映るこのトランプ像は、当時広く受け入れられていたものだ。すなわち、つねに突飛な言動を繰り出すトランプは大統領に就任して 15 か月間、未経験の場所で感じる所在なさと「大人たちの枢軸」に抑えつけられ、自身の行動にためらいがあった。しかし時間が経つにつれトランプは自信を深め、「大人の枢軸」たちも次々と離脱してすべてがバラバラになり、いつしか周囲は 「イエスマン」しかいなくなった、というものだ。
 いきなり失礼。これはいま全世界で話題(?)の、こちらの本の Kindle 版の第1章出だしから試訳をつけてみたものになります。

 いつものワタシらしくない? そう、つねづね「流行りものは見向きもしない」ことをウリにしてきた人間としては、なんだか不戦敗みたいな、「長いものに巻かれた」ような気もなくなくはない、のではあるけれど、とりあえず第2章途中まで読んでみて、読み物として意外とおもしろいなコレ、というのが偽らざる感想でありました。

 米国の現政権については、たとえば要職のひとつであるこの「国家安全保障担当補佐官」にしても、最初に就任したマイケル・フリン氏から現職のロバート・オブライエン氏まで、代行者もいれてなんと6人も入れ代わり立ち代わり交代しているという混乱ぶり。で、その入れ替わり立ち替わりぶりについて、もと「中の人」だったボルトン氏が詳細に記述しているのが、冒頭の章ということになります。全体のプロローグ的な書き方にもなっており、ここだけ読んでもけっこう楽しめるんじゃないかと思われます。

 とはいえこの本、当然のことながら、現代の米国政治ものが好きな人向けではある。この前、地元ラジオ局の朝の情報番組でアンカーを務めているキャスターがなんと! 「英語学習の近道として最近、多読がいい、ということが言われていますので、ワタシ、この本予約しちゃいました! で、さっそく読み始めたんですが…」、1行目の 'National Security Advisor' で1分ほど考えていたとか。この手の本を原語で読みたいというその意欲の高さはまことにあっぱれながら、たとえば「ラダーシリーズ」あたりから始めてみるのはどうでしょうか。いきなりコレは敷居が高かったかも …… もっとも話題の本ですし、番組前フリのネタということで紹介したエピソードなんでしょうけれどもね。

 ついでにわが国の防衛相殿もこの本を読むのを楽しみにしていたそうなんですが、「売り切れて手に入らなかった」とか。ハテ? Kindle 版ならすぐにでも読めるのに知らないのかな、とかよけいなお世話ながら思ったりもした。

 Kindle 本なんで気になったとことかどんどんマーカー入れつつ読み進めたんですが、たとえばまだ副大統領候補だったときに会ったマイク・ペンスは「筋金入りの強力な国家安全保障政策支持者。彼とはすぐ、外交と防衛政策上の幅広い問題について意見を交わした」とあり、ウマが合っていたらしいことが垣間見えたり、最初の国防長官だったマティス氏がオバマ政権時代の元国防次官ミシェル・フロノイ氏を副長官に推していたのは「理解しがたかった」と酷評していたり。また現政権の最初の国務長官だったティラーソン氏が自分を副長官に据えることにとんと無関心だったことについて、「私が彼の立場だったなら、当然、同じように感じていたことだろう[Of course, had I been in his shoes, I would have felt the same way.]」なんて典型的な仮定法の例文みたいな言い回しが出てきたり。

 個人的に笑えたのが、「トランプは大統領としてのブッシュ親子と両政権を忌み嫌っていた。そこで思ったのは、こちらが10年近くもブッシュ両政権に仕えてきたことを失念しているのではないか、ということだった。そしてトランプはころころ気が変わる。ケリーの説明にずっと耳を傾けていると、彼はよく逃げ出さずにいられるものだと思った」というくだり。いかにもって感じですな。

 こういう確実に売れる本というのは納期がキツくて、いまごろ訳者先生はネジリ鉢巻で訳出作業に当たっていることでしょうが、翻訳書と言えばなんと! ジョーゼフ・キャンベルのこちらの新訳もいつのまにか出ていたんですねぇ、これにはビックリした。まさか新訳が出るなんて予想もしてなかったもので … おそらく原書はこの拙記事で一部を紹介した本だと思う。こちらは近いうちに花丸氏御用達の本屋さんに行って探してみるつもり。

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2018年12月31日

fake news と「ワルツ王」と

 早いものでもう2018年の大晦日ですよ。… 昨年、個人的にすこし異動があって労働時間が短くなりまして、職場環境が変わったのを機になかばフリーの文筆業みたいなことを始めました。もちろん翻訳も。金銭的にも実力的にもまだまだだと痛感はしているものの、それでも今年になってからわりと仕事が切れずに入りはじめたりと、軌道に乗っているとは恥ずかしながら言える状態じゃないけれども、昨年よりは進歩したのかな、という感じ。じつは電子書籍の個人出版にも興味があり、折よく(?)書きたいテーマも持っていることだし来年はそういうものにも果敢に挑戦してもいいかな、などと妄想だけはたくましくしている、今日このごろ。

 で、とあるクラシック音楽関連サイトに寄稿している記事の調べものとして図書館から借りたこちらの本。「ワルツ王」ヨハン・シュトラウス2世を中心とした音楽一家のシュトラウスファミリーのことを書いた伝記もののノンフィクションなんですが、これが読み始めたらじつにおもしろい。だいたいクラシック関連の翻訳本ってその道の専門家が訳す場合がほとんどで、翻訳専業の人が訳した本は半分もないんじゃないかと思う。1987 年に刊行されたずいぶん古い本ではあるけれど、内容といい、ウィンナワルツ好きにはたまらない一冊だと自信をもってお薦めしたい本です。

 で、開巻早々、シュトラウス一族の先祖にはユダヤ系が含まれているのは公然の秘密なのにもかかわらず、「その遺産を狙っているユダヤ人の連中は、彼の現世の子孫の幾人かに今や屈辱的な生活をさせようと細工している」などと書き立てた、当時のナチス政権の息のかかった反ユダヤ主義の新聞に掲載されたこの広告について書き出されています。ようするにさすがのナチスもシュトラウス一族の音楽は「第三帝国のラジオとコンサートのレパートリーに欠くことができなかった」から、弾圧するわけにもいかなかった、ということらしい。この記述を見て、当たり前のことながら捏造記事、つまりインチキイカサマペテン記事というのはいつの時代も、どこの国でも地域でも存在していた、という単純な事実をあらためて確認したしだい。

 この伝記本にはほかにも『フモリスト』というウィーン(ほんとうはヴィーンと表記したいのだが、ここは訳書表記に統一)の雑誌のシュトラウス2世関連記事にも虚報があったり、シュトラウス2世の最初の伝記を著したルートヴィヒ・アイゼンベルクによる、シュトラウス2世の傑作オペレッタ『こうもり(1874)』ウィーン初演回数の「不正確な、誤解を招く記述」とかも紹介しています。シュトラウス2世をはじめ、父ヨハン・シュトラウス1世、ヨーゼフとエドゥアルトのふたりの弟など、じつはバッハ一族にも負けないくらいの音楽家一族でもあったシュトラウス一家についてはまったくと言ってよいほど無知だったので、今回はなんだか得した気分でもありました。

 シュトラウスファミリーのいままでの個人的イメージは、ウィンナワルツやポルカといったダンス音楽作品をたくさん書き、また『ラデツキー行進曲』など、お正月気分を盛り上げてくれる「軽い」音楽を書いた人たち、くらいの印象しかなかった。でもじっさいには「ワルツ王」シュトラウス2世はヨハネス・ブラームスやリヒャルト・ヴァーグナー、リヒャルト・シュトラウス、名指揮者アルトゥール・ニキシュに、ロシアの作曲家でピアニストのアントン・ルビンシテインなど、錚々たる面々から賛辞を贈られるほどの大物音楽家のひとりであり、地元ウィーン社交界のみならず、当時のヨーロッパ大陸ではその名を知らぬ者はいないほどの超有名人だった。その名声は米国にも届き、自前の管弦楽団を引き連れて驚くべき長距離移動と長期間の公演を行ったりと、移動手段も限られていた当時のことを考えると超人と言ってよいくらいの活躍ぶり。それと、ベートーヴェンの『第九』で有名な、シラーの「歓喜に寄す歌」を引用したワルツ『抱き合え、汝ら百万の友よ』なる作品まであるんですね〜。末の弟のエドゥアルトは晩年、人間不信(?)のようなところがあり、反対を振り切って貴重な遺産でもある兄たちの作品を含むシュトラウス管弦楽団の膨大なレパートリーの楽譜類を大量に溶鉱炉にくべちゃったとか。現場に居合わせた工場従業員の証言によれば、「オリジナルな草稿や未出版の作品を含む楽譜の山が燃え尽きるのに、午後の2時から夜の7時までかかった」という! 

 そんなシュトラウス2世、意外や意外に書かれた作品と相反して(?)内省的かつおカネにうるさい人だったようで、とくに晩年は心気症要因と思われるさまざまな病気にも罹っている。典型的な夜型で、「嵐の夜には、いちばん美しい夏の夜の二倍も」作曲ができると書いた手紙も残っています(ちなみに晩年、別荘テラスで作曲中のシュトラウス2世を撮影した写真とか見ると、いわゆる立ち机で立ったまま仕事をしていたみたいです。腰にはよいかもね!)。「死」というものを病的に嫌い、なんと自分の親をはじめ、夭折した弟ヨーゼフの葬儀にさえ出席を拒否したとか、ヨーロッパ中の聴衆を踊らせてきた作品を書いた張本人がまったくワルツが踊れなかったりと、とにかくはじめて知ることのオンパレードです。癇癪持ちでもあり、精神分析的に見ると扱いづらさという点では大バッハといい勝負かも。

 そんな欠点もいろいろ持ち合わせているシュトラウス2世ですが、ベルリンの劇場主が贈ったという墓碑銘が心を打ちます。
50年の間、ヨハン・シュトラウスは、姿こそ見せなくとも、文明世界のほとんどすべての娯楽施設の現場にいた。幸福な人々がのびのびと楽しみを求めるところには、必ずヨハン・シュトラウスの霊がかたわらにいた。彼の作品が世界に貢献した幸福と享楽の量をはかれるとしたら、ヨハン・シュトラウスは今世紀最大の恩人の一人と見てよいだろう。

 というわけなので、もうすぐ始まる新年恒例のウィーンフィルのニューイヤーコンサートは、例年にも増して心して耳を傾けようかと思っています。

 この本を一読して思ったこと。それは冒頭にも挙げたように、この本の著者ピーター・ケンプという英国人がシュトラウス一家にかんする文献資料を渉猟して、かつての伝記作家の誤記ないし不注意なども丹念に拾いだし、訳者先生のことばを借りれば「正統的な証拠集めによって再検討」して本を書いたこと。これ、いやしくもモノ書き稼業の人間にとってはもっとも大事なことなんじゃないでしょうか。どうも最近、トマ・ピケティの『21世紀の資本』に出てくる r>gなる不等式の話じゃないけど、米国はじめ世界中の主要な国々のトップがそろいもそろってナチスドイツ、いやそれ以前の社会にまで時計の針をもどそうもどそうとしているのがひじょーに気になる一年でもありました。そしてもちろん、クラカタウ火山崩壊による突然の津波という悲劇や米国カリフォルニア州の大規模森林火災、北海道や大阪北部の地震に西日本を襲った豪雨災害など、2018年の戌年は地球温暖化の影響によると考えざるを得ない前例のない風水害も世界各地で多く発生した一年でもありました。

 ワタシは基本的に「個人がめいめいを救う努力をつづけていれば結果的に世界も救うことにつながる」と信じている派ですが、環境問題についてはこれはもう「意識」を変える以外にない。すべてはそこからかな、と思います。今年もこのとりとめのないブログをお読みいただき、妄評多謝。最後にウィーン少年合唱団による、『美しく青きドナウ』をどうぞ。




本の評価:るんるんるんるんるんるんるんるん
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2016年05月23日

『聖杯の探索』 & others

1). 前記事で書いたお題の本、だいぶ前に読んだ『エネアス物語』同様、page-turner でして、遅読なワタシでも 2 日ほどで読みきれた。時間ができたので、せっかくだから読後感まじりにラテン語版『聖ブレンダンの航海』および『聖ブレンダン伝』と似ていると思った箇所なんかを備忘録ていどにメモっていきます。
第 1 章「ガラアド[ ガラハッド ]の到着と聖杯探索の出発」:聖霊降臨祭( ! )当日、年老いた賢者が手を引いてアルテュール王[ アーサー王 ]の宮廷に連れてきた「待望の騎士」と聖杯の出現と消滅、聖杯探索の冒険[ aventures, この語はキーワードをなす最重要語句なのだが、訳者先生の言われているように、邦訳文では文脈に応じて冒険 / 幸運 / 偶発事など適宜訳し分ける必要がある、ようするに翻訳不可能語 ]の挿話は、ラテン語版『航海』冒頭の「聖バーリンドの話」と構造的によく似ている。「弟子の選抜」は聖杯探索に出かける円卓の騎士に、というぐあいに。
第 2 章「さまざまの冒険」:「ガラアドがそこ[ 白衣の修道院、つまりシトー会修道院 ]に来て門を叩くと、修道僧たちが外へ出てきて、かれを遍歴の騎士とよくわかっているらしく、親切に馬から助けおろしてくれた( p. 49 )」。当時の修道院には日本風に言えば寺院の宿坊があって、坊さんたちは旅人や「遍歴の騎士」、病人や物乞いなどが訪ねてきた場合は断らずに丁重にもてなして宿を提供した、という当時の慣習をそのまま記述していると考えられる( これは「聖ベネディクトの修道戒律」にもとづいている )。同様に『航海』でも、たとえば第 12 章「聖エルベの修道院の島」で、ブレンダン一行もまた島の修道士たちに手厚くもてなされ、また当時のアイルランド教会で歌われていた独自の聖歌をそのまま引用したとおぼしき箇所がある。

また騎士ガラアドが受ける< 墓地の冒険 >に出てくる悪魔の描写は、『航海』第 7 章の「修道士の死」に出てくる悪魔と酷似している;

< 墓地の冒険 >「おい! ガラアド、イエス・キリストの従僕よ、それ以上おれに近づくな。おれはここでずっと安楽にくらしていたのに、おまえが来ると、ここから出て行かねばならなくなるではないか」( p. 64 )

『航海』第 7 章 < 修道士の死 > 「神の人[ ブレンダン修道院長のこと ]よ、なぜおれを 7 年のあいだ暮らしてきた住処から追放し、自分の相続財産から遠ざけるのか[ 'Cur me, uir Dei, iactas de mea habitacione, in qua iam per septem annos habitaui, et facis me abalienari ab hereditate mea ? ' ]」。
こうわめいて「黒い子ども」の姿をした悪魔が盗みを働いた修道士の胸から飛び出す。

< 隠修尼の庵でのペルスヴァル >「さて物語の語るところによれば、ペルスヴァルはランスロと別れた後、隠修尼の庵に戻ったが、これは彼女から、自分たちの手を逃れた例の騎士の噂を聞けると思ったからである」以降( pp. 116 −8 );ここで隠修尼がペルスヴァルに騎士との決闘を思いとどまるように忠告する場面は、たとえばリズモア書所収の古アイルランドゲール語版『聖ブレンダン伝』に出てくる聖女イタの挿話とよく似ている。聖イタはブレンダンの乳母で、動物の血で汚れた舟[ 革舟カラハを指す ]ではあなたの目指す「聖人たちの約束の地」へはたどり着けまいと忠告する。ついでにこの尼さんはペルスヴァルがそれと知らずに死なせてしまった「寡婦の母親」の最期についても彼に語る。

第 7 章「コルブニックからサラスへ」:
 「イエス・キリストの従僕よ、前へ出なさい。そして、そなたがあれほどまでに見たいと望んでいたものを、見るがよい」
 そこで、ガラアドは進み出て、聖なる< 器 >の中を見る。見るとすぐ、かれはじつにもう激しく震え出す ── 現世の肉なる者が天界のものを目にするとすぐに。( pp. 414 ff. )

 目的を果たした主人公があっけなく身罷る、というのも『航海』最終章のブレンダン院長のあっけない昇天を記述した箇所が思い出される。
 キャンベル本でもたびたび引用されている、「森のもっとも深いところ、道も小径もないところへとめいめいは出発した」というくだりに代表されるように、この物語には「めいめい、おのれの道を進んだ」といった記述が頻出する。作者が「逸名のシトー会士」らしいということはキャンベル本でも、そして訳者の天沢退二郎先生による「解説」でも書いてあるとおりで、その流れでふつうに解釈すると、ひょっとしたら福音書の記述[ cf. Mk 16:15、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」とか ]あたりを意識しているかもしれないが、キャンベルはここを読んだとき、おそらく直観的に「個人のヨーロッパ」の誕生を見出したんだと思う。

 一読した印象としては『航海』同様、やはり中世修道院文学の典型と言っていい作品だと感じた。でもこれはなにも教条主義的であるとか、説教ばっかりとか( ランスロにしろペルスヴァルにしろ、この物語では世捨て人みたいな「隠者」や「賢者」が彼らに対してお説教を垂れる、もしくは「幻夢」の解明といった箇所がやたらと多いのもまた事実だが )、そういう読みはちょっと一面的にすぎるとも思います。なんたってここでは情けないほどコテンパンに書かれちゃっているガラアドの父ランスロ卿ですが、そんな[ シトー会的に ]ダメ人間丸出しなランスロについても、ちゃんと救われる記述が用意されていたりと( < 僧の死 >、p. 191 など )、弱い人間という点ではこの物語の影の主人公はやはりランスロかなあ、と。ランスロはだから、オジサン的にはなんか肩入れしたくなってしまう好人物( 苦笑 )。これに対して息子の「高潔な」騎士、騎士の鑑たるガラアドは、言ってみればシトー会的理想人であり、父親とちがって情欲さえもまるでなくて( 苦笑 2 )およそ人間くさくない男、というか、年齢的にどう考えてもまだはたちにもならない少年騎士です。だから、聖杯の中身 ── 生身の人間の目が正視するにはとても耐えられないもの ── を目の当たりにしたとたんにぐったりして、臨終の秘蹟にあずかってそのまま昇天、という結末はいささか気の毒でもある。もっと人生を楽しんでからでもいいのに、って思ってしまった。

 BBC ドキュメンタリー「幻の民 ケルト人」でのプロインシャス・マッカーナ先生の言い方を借りれば、『聖ブレンダンの航海』は「火が点いたみたいに」あっという間に大陸ヨーロッパに広まっていった、中世アイルランド教会の修道院文学の一典型だとすれば、シトー会の思想の色濃いこちらの『聖杯の探索』も、まちがいなく当時書かれた修道院文学の最高峰だったろう、と思います。でも物語としてのおもしろさまで骨抜きにしていないところがすばらしい。むしろこっちの点こそ称賛すべき。キャンベルも当時の一修道会の思想は認めつつ、物語としての完成度の高さはしっかり評価している。そうでなかったらのちのちまで残らなかったでしょう。

 この本、あいにく絶版らしくて、もうすこし早く知っていればよかったなあ、といささか悔やまれる。というわけで評価は るんるんるんるんるんるんるんるん

 … ところでその訳者先生による「訳注」に、すごいことが書いてあった。↓
343 頁 < 不思議な帯革の剣 >── この剣はクレティアン・ド・トロワ『ペルスヴァルまたは聖杯の物語』第 4712 行に出てくる( 白水社版『フランス中世文学集』第二巻所収拙訳 231 頁が初版でこれを<< 不思議の柄の剣 >> としているのは信じられない誤訳 )

こんなふうに正直に告白されている先生には、はじめてお目にかかった。翻訳という営為に対する真摯さが感じられて、なんかこう、胸が熱くなったのであった。

2). それでもってふたたび前記事のつづきです。新訳版『千の顔をもつ英雄』。断っておきますけどワタシは今回の新訳を評価してます。だからこそ苦言を呈したいと思ったしだい。ほんとは書かずにダンマリ決めてようかとも考えたが、やっぱやめた( 苦笑 )。タネ明かしの前に、僭越ながら拙試訳をまずは書き出しておきます。
 たとえばコンゴで、目を赤くした呪術医の前を通りがかり、その口から発せられる夢幻のような意味不明の呪文に興味をそそられ耳を傾ける。あるいは中国の神秘家、老子の短詩を抄訳で読み、目を開かれた思いがして歓喜に浸る。時にはトマス・アクィナスの深遠な議論の硬い殻をこじ開け、イヌイットの奇怪な妖精譚を読んで突然、光り輝く真の意味に気づく── そこに見出すのは、姿かたちがいかに変わろうとも、これらはみな驚くべき一貫性を持つひとつの物語にすぎない、という事実であり、単に見知ったり聞いたりする以上に、自分で経験すべき事柄のほうが多いのだ、ということを抗しがたいほど繰り返し示唆してもいる、ということである。
 いかなる時代、どのような環境においても、人間の生きる世界にはあまねく、人間が紡ぎ出すさまざまな神話が花開いてきた。神話は霊感の生ける泉であり、そこから人間の肉体と精神の活動が生み出す限りの事象が生み出されてきた。神話は、宇宙の尽きせぬエネルギーの秘められた入り口であり、この開口部を抜けて人間の内面へと流れこみ文化的発露を促してきた、と言っても言い過ぎではないだろう。さまざまな宗教、哲学、芸術も、先史時代や歴史時代の人間社会の諸形態も、そして科学技術の重要な発見や眠りを乱す夢でさえ、みな一様に神話という名の根源的な魔法の円環から湧き上がってくる。

[ 原文 ] Whether we listen with aloof amusement to the dreamlike mumbo jumbo of some red-eyed witch doctor of the Congo, or read with cultivated rapture thin translations from the sonnets of the mystic Lao-tse; now and again crack the hard nutshell of an argument of Aquinas, or catch suddenly the shining meaning of a bizarre Eskimo fairy tale: it will be always the one, shape-shifting yet marvelously constant story that we find, together with a challengingly persistent suggestion of more remaining to be experienced than will ever be known or told.
Throughout the inhabited world, in all times and under every circumstance, the myths of man have flourished; and they have been the living inspiration of whatever else may have appeared out of the activities of the human body and mind. It would not be too much to say that myth is the secret opening through which the inexhaustible energies of the cosmos pour into human cultural manifestation. Religions, philosophies, arts, the social forms of primitive and historic man, prime discoveries in science and technology, the very dreams that blister sleep, boil up from the basic, magic ring of myth. [ 下線は引用者 ]
 じつはここの箇所、名翻訳者だった飛田茂雄先生が自著『翻訳の技法』上で、初訳本( 1984 )の冒頭部を引いたあと、みずからみごとな訳例を掲載しているところでして、ワタシは拙い試訳文をこさえたあとで改めて飛田先生の訳例と突き合わせて、そりゃもう顔からグリフォンよろしく火が出るような思いがしたんですけど、飛田先生の訳文はとにかくすばらしい、というほかない( pp. 64 − 8、蛇足ながらワタシは最後の一文を、近所の柿田川湧水群の「湧き間」のイメージで訳した。ちなみに飛田先生は「噴火口」のイメージで訳出してます )。

 新訳本の冒頭部は、なんというか、初訳本よりはたしかにマトモにはなっていたが、それでも? をつけざるをえない箇所が散見される。もっとも人によってはこんなもんどうでもいい、言ってることがわかりゃいいんだ、という感想を持たれる向きもいるでしょう。でも以下に引用するように看過するには忍びない問題点がいくつかある。
 コンゴの呪術医が充血した目でわけのわからない呪文を唱えるのを醒めた目で面白がって聞いたり、神秘主義者老子の詩句の薄っぺらな訳を教養人の気分で喜んで読んだり、たまにトマス・アクィナス … の難解な説の固い殻を砕いたり、エスキモーの奇抜なおとぎ話の輝くような意味がふとわかったりするときも、私たちの前にあるのは常に、形は変わっても驚くほど中身は変わらない同一のストーリーであり、これから知ったり聞いたりすること以外にも経験するべきものがあることが執拗に暗示されている( pp. 17 − 8)。
 下線部の訳、はっきり言ってワタシの頭ではまるで理解不能[ だし、これではキャンベルの言わんとするところが的確に伝わらない ]。出だしの dreamlike もなんで落としたのかな? こういうところこそ、イマジネーションを働かせてほしいところだと思うのに。thin はただたんに「ページ数がなくて薄い」の意のはずで、初訳本のような「浅薄に翻訳したもの[!]」なんてのよりはましかもしれないが、ふつう日本語で「薄っぺらな訳」ときたら、読み手は「中身のない翻訳なのか」って取るんじゃないでしょうかね。あともうすこし先の「 … 神話の象徴とは … そのひとつひとつが、自らの根源となる胚芽のような力を、損なわれることなく内に抱えているのである」というのもよくわからない … 'They are spontaneous productions of the psyche, and each bears within it, undamaged, the germ power of its source.' の訳ですが、「神話は、精神[ プシケ ]が自ずと産み落としたものであり、そうして産まれたそれぞれの神話にも、あらたな神話を生み出すおおもとの根源の力が損なわれることなくそのまま内包されている」くらいだろうと思うのだけれども。ようするにここでキャンベルが言いたいのは、精神が自ずと産みだした神話というもののなかにもその神話を生み出したおおもとの力がそのまま備わっていて、そこからまた新たなる神話がこれまたぽこぽこ自然発生的に生まれるのだ、ということだろう[ ひょっとしたらそういう含意でこういうふうに書いたのかな … 謎 ]。

 個人的にはこの手の本は、『宇宙意識』の名訳がある鈴木晶先生の手で出してほしかったなあ、と思う。キャンベルの神話解釈って( わたしはユング派なんかじゃありませんよ、という本人の弁にもかかわらず )、ユング流の精神分析ないし深層心理学的アプローチが基本になってると思いますので、そっち方面に明るく、かつ達意の日本語が綴れる先生のほうがより適任かと老婆心ながら思われます。それとこれはこちらの語感とあちらのそれとのちがいだろうが、「出立」とか「処女出産」という訳語選定もなあ … 。ところでこの新訳本、ワタシとおなじく期待していた向きがひじょうに多かった(?)と見えて、手許の買った本の奥付見たら、今年 2月時点でなんと四刷 !!! だったら再々校、できますよね、『 21 世紀の資本』みたいに ??? 

 翻訳で思い出したが、いま図書館からこちらの本も借りてます … 『マルタの鷹』の翻訳者、でピンとこない人も、映画にもなった『探偵物語』の作者、とくればああ、あの人かと思われるはず。英米ハードボイルドものやミステリものの名翻訳家だった小鷹信光先生のご本です。小鷹先生は昨年暮れ、80 を前にして逝去されてしまったけれども、巻末のことばがすごくずっしりと重く響く[ 太字強調は引用者 ]。
[ 小鷹先生が俎上に載せたさる邦訳本の批評について、おなじく大先達の深町眞理子先生がやんわりと小鷹先生側のまちがいを指摘して ]これと同じような誤りを、この 30 年間、私は無数に繰り返してきたのだろう。そのすべてを拾いだせば、誤訳の山が築かれるに違いない。翻訳にあたっておそろしいのは、大多数の読者がそれに気づいていないことである。だが、おそらく当の翻訳家自身も気づいていないこの誤りに気づいている無言の評者がどこかにいる。そのことを肝に銘じて、新しい仕事にとり組まねばならない。自戒もふくめて、これをこの本の結びにしよう。
 あいにくこちらの本も版元品切れみたいです。復刊望む !! 

付記:こちらのサイト、すごすぎる! 小鷹先生が生前収集していたというヴィテージものペーパーバックの表紙コレクションなんかもう、往年の LP ジャケットコレクションみたいで熱燗、ではなくて圧巻のひとこと。さらについでにこの本もほしかったりする。

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2015年11月07日

『バッハの生涯と芸術』

 前の拙記事で書いたように、フォルケルの書いた『バッハ伝[ 過去に何点か邦訳が出ているようですが、ここでは岩波文庫版を取り上げます ]』をさっそく通読。以下、読後感などを備忘録ていどに。

 バッハ研究に携わる人にとってはおそらく次男坊たちの書いた『故人略伝』とならんでバッハ評伝に関する「最古の」一次資料であることはまちがいないこの『バッハ伝』ですが、「この芸術家のために不滅の記念碑を建て、… ドイツという名の名誉に少しでも値する者は … 」、「この際、私の目的とするのは、ただただドイツの芸術にそれ相応の記念碑を建て、… 」、そして結語の「そしてこの人間 ―― かつて存在し、そしておそらく今後も存在するであろう最大の音楽詩人であり最大の音楽朗唱者たる彼は、ドイツ人であった。祖国よ、彼を誇るがよい」などからも感じられるように、バッハという名が即ドイツ( 国家 )と結びつけられ、「神格化」されて語られている部分が多くて、言ってみれば「バッハ伝」というより、「リュリ讃」ならぬ「バッハ讃」といったおもむきです。

 ヨハン・ニコラウス・フォルケルの生きた時代は、ヴィーン会議後に成立した「ドイツ連邦」成立と重なるころで、そういう意味では「熱烈な愛国者精神」というものが全編にわたって溢れていてもちっとも不思議ではない。それゆえ「バッハの息子たちから直接聞いたバッハの逸話」に、多少の「お手盛り」があるのは否めず、この著作( 著者本人は「論文」と言っている )を読むときは、「どこからどこまでが事実にもとづき、どこからどこまでが著者のお手盛りか」を意識しながらとくに注意して読む必要があると思う。

 そうは言ってもこの著作に描かれたバッハのエピソードはおおいに興味惹かれるのも事実。だいぶ前に書いたことながら、たとえば作曲の際、鍵盤楽器で音出ししながら曲作りする人を「クラヴィーアの騎士」と呼んで揶揄したこととか[ p. 86 の記述では「指の作曲家( あるいはバッハが後年名づけたように、クラヴィーア軽騎兵 )でしかありえない」]、親戚のヨハン・ゴットフリート・ヴァルターによればなんでもヴァイマール時代の若き巨匠バッハは、「自分はどんな鍵盤作品でも初見でつかえることなく弾ける」とつぶやいたそうで、そこで一週間後、自宅にやってきたバッハに一泡吹かせてやろうと画策した話とかは、以前もほかの本や資料で読んだ憶えがあるのでなるほどこういうことだったかと改めて確認したり( こちらの話は、バッハがクラヴィーアの譜面台に載っかっている楽譜を片っ端から初見で弾くクセがあり、ヴァルターは決して初見では弾けない「難曲」も混ぜて置いてあったんだそうな。その結果、「彼がその楽譜をめくって、端から弾いている間に、彼を招いた友人[ ヴァルターのこと ]は、隣りの部屋に朝食の用意をしに行った。数分たつと、バッハは改悛を余儀なくされるように仕組まれている曲に来て、それを弾き通そうとした。しかし弾き始めてまもなく、一つの箇所で立ち往生をした。彼はその箇所をじっくり眺め、あらためて弾き始めたが、そこまで来ると、また閊えてしまった。『駄目だ』―― 彼は隣室でくすくす笑っている友人に向かって『なんでも弾いてのけられるなんてもんじゃない。とんでもないことだ!』と叫びながら、楽器を離れた[ pp. 67 − 8 ] 」)。大バッハでさえもつかえちゃう「難曲」って、いったいどんなのだったんだろ ?? 

 そしていまひとつは、フォルケル自身もまたすぐれた音楽家で、バッハと同様にオルガニストでもあったので、作品の様式や演奏、作曲といった事柄については「盛られ」ている点は注意が必要とはいえ、この点に関するフォルケルの記述はすなおに受け取っていいように思う。たとえばバッハは「自作の曲を弾く時は、大抵テンポを非常に速くとったが、その生気に加えて、演奏にこの上なく豊かな多様性を与えることを心得ていたので、一曲一曲が彼の手にかかると、まるで弁舌のように物を言った。彼は、強い激情を表そうとする時には、他の人たちがよく打鍵に過度の力を加えるのとは違って、和音と旋律の音型、すなわち内面的な芸術手段によって、それを行った[ p. 73 ]」とか、あるいは弟子に対して、「彼らにむずかしい箇所を緩和してやるために、彼は一つの見事な方法を用いた。すなわち、彼らがこれから練習することになっている曲を、まず全曲つづけて弾いて聴かせた上で、こんな風に響かなければならないのだ、と言った[ p. 121 ]」とか。

 そして、フォルケルの伝記にバッハ作品の特徴として何度か出てくるのが、「歌唱性」です。これは特筆に値する気がする。ヴァルヒャもまったくおんなじようなことを指摘して、弟子たちに「まずは歌うように」と教えていたこととも重なり合います[ そしてヴァルヒャ自身、そのようにして練習もしていた。いつだったかインターネットのどこかで BWV. 1018 のオブリガートチェンバロパートを、その上に乗っかるヴァイオリンパートを「歌いながら」練習していたヴァルヒャの録音ファイルを聴いたことがある]。
… 個々の声部に自由な、よどみない歌を持たせようとするため、… 当時の音楽教科書ではまだ教えられていない、彼の偉大な天分が彼に吹きこんだ方法を用いた。

… いくすじかの旋律、それはいずれも歌うことのできるもので、それぞれ時を得て上声に現れることができ、…

… バッハは … 自分の個々の声部に、まったく自由な、流麗な歌をうたわせようとした …

… 全曲をすべての声部において音符から音符へと転回させることができ、しかも澱みない調べや澄んだ楽節に少しの中断をも生じさせないくらいになった。それによって彼は、どんな音程の、どんな動き方の、どんなに技巧的なカノンをも、いかにも軽やかに、流れるように作って、それに用いた技法を少しも気づかせず、むしろそれをまったく自然な曲のように響かせることを学んだ[ このくだり、たとえば「ゴルトベルク BWV. 988 」の第9変奏「3度のカノン」を耳にすればたちどころに納得されると思う ]。

[ コラール歌詞に作曲する際のバッハの教授法について書かれているくだりで ] … 彼の内声部は、時には上声部として用いることができるほど、歌い易いのである。彼の弟子たちもそれらの練習において、そのような長所を目ざして努力しなければならなかった。
 そして「バッハの作品」と題された第9章では、取り上げた楽曲について、ご丁寧なことに「譜例」までついてます。寡聞にして知らないが、この手の音楽家の「評伝もの」で、このように「譜例」つきなのは、これ以前にもあったのだろうか … 故吉田秀和氏だったか、クラシック音楽評論に「譜例」を添付するやり方は自分あたりが元祖だ、みたいなことをおっしゃっていたけれど、その伝でいけばフォルケルの『バッハ伝』も、「譜例」を使用した嚆矢、ということになるのかな[ とはいえ、p. 175 の図 16 の BWV. 546 フーガ主題のプラルトリラーが、通例耳にする演奏よりふたつ前の4分音符にくっついてますが< → こちらの原文 PDF ファイルの p. 81 > … ]。ちなみに「教師としてのバッハ[ 第7章 ]」では、バッハがいかに教え上手だったかが具体的に語られていてとてもおもしろい。

評価:るんるんるんるんるんるん

関係ない追記:木曜夜の NHK-FM「ベスト・オヴ・クラシック」で流れた「ベルリン・コンツェルトハウス室内オーケストラ演奏会」。同楽団リーダーの日下紗矢子さんをゲストに呼んで、パッヘルベルの「カノン ニ長調」とかおなじみヴィヴァルディの「四季」全曲とかとにかく楽しい放送でしたが( 再放送希望!)、その日下さんの「ドイツと日本の楽団員のちがいについて」のコメントがすこぶる印象的だったのでこちらにもメモっておきます。

 日本の楽団員は、「全体練習前に完璧に予習をすませていて、いつでも準備万端、ほとんど手直しなし」。対するあちらの楽団員というのは、「全体練習前に予習するなんて団員は皆無で時間が来ればさっさと帰る、だがいざ練習にかかると短期間で仕上がる。その集中度は眼を見張るものがある」と、およそそんな趣旨のことを言ってました。列車はダイヤ通りにきっかり来る、荷物は期日通りに届かなければイライラする、何事もタイムテーブル通り杓子定規に事が進むのは当たり前、みたいに思っている国民性がこういう場面でも発揮される、と言えるかもしれないが、同時に根がひねくれているワタシみたいな天邪鬼は、おおやけの義務あるいは仕事と個人の生活との線引きが明確かつ真の意味で効率的な欧州人のやり方はすばらしい、と思ったりもする。30 数年も前に刊行された岩城宏之さんの『岩城音楽教室 / 美を味わえる子どもに育てる』というすばらしい本をこの前買ったんですが、ページを繰ってみて、それこそ目を見張る記述がそこここにある。日下さんのコメントとも重なる部分も多いので、また日を改めてなにか書く … かもしれないってこればっかでスミマセン。

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2015年04月11日

The Masks of God:Creative Mythology

1. ここでもヨタ話ついでに何度か突っついてはちょこちょこっと触れてきた感ありの、ジョーゼフ・キャンベルの『神の仮面』4部作の総まとめ的な最終巻、『創造的神話』。本文だけで数字がきれいに並んで 678 ページ( 偶然?)、ページを繰れば繰ったで、infra, pp. 〜、supra, pp. 〜 ってやたら出てくるし、当然のことながら前の巻の参照まであったり、本文注もわんさとあり、またエロイーズ、ゲーテ、カント、ショーペンハウアー、ニーチェ、ダンテ、アクィナス、スピノザ、オルテガ、ジョイス、マン、デューイ、エマソン、ヘンリー・アダムズなどなど世界文化史に登場する錚々たる面々の引用が、ときには数ページにもわたって転載されていたりと、いったいどこをどうやってまとめればよいのか、この本を半分ほど読み終えたときはほんとからっぽのアタマを抱えて右往左往していた( 苦笑 )。ちなみにプロフェッサー・キャンベル氏がこの壮大なシリーズを書き終えたのは、最初に出た『原始神話』からなんと 12 年後のことだった( 巻頭の「『神の仮面』完結に寄せて」より。ついでながらこの巻頭の辞は全巻の冒頭にあり。でも著者曰く、「喜びに満ち、豊かな実りをもたらしてくれた」12 年だったそうです )。初版刊行は 1968年、アポロ計画まっただ中のころです。

 巷で話題のトマ・ピケティ教授の、負けずに分厚く重たい労作に倣って(「 r > g 」)、あえてこの本のもっとも言いたいことを数式化すれば、
c≠=x
ということになる[ 以下、数式はいずれもこの本に出てくるものをそのまま引用 ]。っていったいなんのこと? でしょうけれども … 無理やりひとことで要約すれば、西欧諸国の正統的な( 組織宗教としての )キリスト教聖職者の教える「神」というのは、数式化すれば「cRx」、どこだかわかんないけど、ここではない「外」におわす神と地上の人間との「関係の神話( マッキベン本にあった、「社会性の神話」というのは、たぶんこれのこと )」だが、ほんらい人間と「神」という名前の「全存在の根底をなす究極の存在」との関係は、古代インドの『マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド』に出てくるような「梵我一如[ 不二一元 ]」、つまり「汝はそれなり」、c=x なのだ、だが現実的にはこの世界というのはありとあらゆる二項対立からできており、そうとも言えないc≠x ではあるものの、あえてこの「不従順な」世界に「喜んで」留まり( ボーディサットヴァ )、c≠x だけれども、もともとはc=xなのだ、と自覚すること、いまひとつは、よそから伝播しただれかさんが肩入れしている「地域的な神」ではなく、古ノルド語の Norn、 古英語の Wyrd、自分自身の「運命」と向きあい、だれがなんと言おうがその道 ―― だれも通ったことのない道、「森のもっとも暗いところを通る道」―― を歩むこと、そしてその道しるべ、道案内になってくれるのが、かつて神話を語り聞かせていたシャーマンの代わりを果たす真の芸術家であり、それはジョイスの言う「精神はひきとどめられ、高められて、欲望や嫌悪を超越する」* 「静的な」芸術でなければならない … 。

 と、こんなふうに書くと、さも、「なんだ、よくあるたぐいの西洋人による東洋神秘思想礼賛か」と早合点しそうだが、じつはそうでもないのが、この本の著者のいちばんユニークなところ。そのために取るべきアプローチは、インドや中国といった伝統的な東洋思想にはなくて、じつは中世の西ヨーロッパにおいて開花した、「確固たる個人」という発想にあると説く。で、その最高の例としてなかば称賛して微に入り細を穿って取り上げているのが、12 世紀ドイツの騎士にしてミンネゼンガーのヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ作と言われる長大な叙事詩『パルツィヴァール』。ついで、ゴットフリート・フォン・シュトラースブルク作と言われる『トリスタン』も物語を再現するかたちで収録してあります。それに先立って「アベラールとエロイーズ」のやりとりなんかが引用されていて( たとえば「修道誓願したのは、[ 自分の意志ではなく ]あなたさまがそうなさいとお命じになったからです」 )、そのついでに(?)静岡県東部地方ゆかりの白隠禅師による「和讃」の一節なんかも引用されていたり( p. 64 )で、自由闊達にあっちへ飛びこっちへ飛びする特有の書き方についていけない向きには( 既訳書も含めて )なんだこれ、となるでしょう。はっきり好き嫌いが分かれる本ではある。それとラテン語版『聖ブレンダンの航海』つながりでは、以前書いたこちらの拙記事も。ちなみに老婆心ながら、キャンベルは「神」という名前[ 仮面 ]イコール「全存在の根底であり、かつ前存在を超越したなにものか」というふうには考えていない。このへんは、やはり恩師ハインリッヒ・ツィマーや、若いころ知り合ったインド哲学者の影響なんだろうと思うが、第3部に当たる『西洋神話』の巻に、「神は、存在するとも、存在しないとも言えない」というふうに書いている。ようするに、人間の不自由な「言語」の範疇を飛び越えちゃってるんですな。とりあえず「神」と言ったり、「トリックスター」と言ったりしているだけなんです。このシリーズのタイトル『神の仮面』というのは、そういう意味。人智を超えた「超越者」には、民族・地域・歴史といったフィルターのかかった「仮面」がかけられている、そういう表面上の「仮面」だけで判断するな、そういう警告でもある。

2. かいつまんで全体の構成( 手許のメモがこれまたけっこうな分量なので、以下はあらましのみの略記。そして本文を抜き出した箇所は、あくまで暫定的な拙試訳 ):

I.「古代の葡萄樹」
Ch. 1 経験と権威:
創造的神話は … 神学のように上から押しつけられたものではなくて、成熟した個人から発する洞察、思考、そこに映じた幻像から生じるものであり、それは個人の価値ある経験に則したものである。
ルーマニア・ピエトロアセレから出土した「オルフェウス教儀式用の碗( 器 )」について:
1). 3−4世紀の作、当時のローマ帝国辺境地帯だった中欧一帯に住むゲルマン民族にもオルフェウス教は知られており、グノーシス−マニ教の異教の強い影響が西進して現在の南仏あたりまでおよんでいた。「ちょうどこのおなじ時期、『愛の儀式』を奉じるトルバドゥールたちと、『聖杯』伝説群が発生した」。
2). オルフェウス=漁師というイメージは、古くは紀元前2千年ごろ、古代バビロニアの「魚守」の封印にも登場する。漁師 → イエス → 「[ 聖杯伝説の ]漁夫王」。
1−16の「道行き」場面はそれぞれ現世の生・死・天・黄泉の国を象徴し、陰と陽、太陽と月、昼と夜などの「対立物のペア」を表す。
3). pp. 24−6, 紀元後 300年ごろの円筒印章の封印「オルフェウス−バッコス」像について:すべての目に見える対立物のペアのそもそもの存在の源では、それらはみなひとつ → 「大地母神」のイメージ → 世界創造の原動力としての「女神」→ そこから派生する「イエス=オルフェウス−バッコス磔刑」の図像。
4). 前出の「ピエトロアセレの碗」中心円の図像群は、紀元前 3500年ごろの古代シュメール王国の封印に刻まれた「自らを食らう力」のイメージとおなじである。「生滅を延々と繰り返すこの神は、ありとあらゆる生き物の真理を表している ―― 食べ、そして食べられる」。オルフェウス教の入門者は、イニシエーション過程において、自然のヴェールを突き抜け、永遠の命( 存在 )がすべての生き物に宿ることを悟る。「ピエトロアセレの碗」中央に座す「世界創世の女神」の足許には、彼女のシンボルたる葡萄の蔓が巻きつく。イエスもまた、この葡萄のたとえを最後の晩餐のとき、 12弟子に語る。「これはこれからわたしが流す血だ …」。
「ひとことで言えば、おなじシンボル、おなじことば、おなじ秘儀が、古代異教の葡萄にも、そしてキリスト教の新しい福音の葡萄にも息づいている」…
1600 年2月に火刑に処せられたジョルダーノ・ブルーノ →『旧約』に語られているは科学、歴史、数学ではなくて、「一種の倫理のみ」。ブルーノ誕生の5年前、コペルニクスが「地動説」を発表する。…
10−12 世紀にかけて、教皇を頂点とする西方教会絶頂期、各都市が大聖堂建設を競い合っていたころ、すでにその体制の崩壊が始まっていた → 『トリスタン』、『パルツィヴァール』;これらの作品は、真に優れた肖像画同様、「押しつけられたもの」ではなくて、「個人の内面の発露」だった → 「ヴァーグナーはゴットフリートに従い、ヴォルフラムに従い、ショーペンハウアーに従い、そして最終的には自分自身にのみ付き従った」…
イメージ、シンボル、神話的動機、英雄の業績といった世界に無尽蔵にある精神的遺産という宝庫、または辞書を意識的に活用したのが[ たとえば ]ジョイスとマンで、同時に彼らはそこに地域的で、斬新な主題をも持ちこんでいる。
「生ける神話」とは、「予測のつかない、前例のない正覚から生まれるものだ」。
「過去において存在した文明はそれぞれに固有の神話を伝達する手段であり、その神話はおのおのの文明を代表する賢人たちによって解釈や分析がなされ、その意味が明かされるにつれて各文明の性格も形成されていった。それと同じことがこの現代世界においても進行している。自然科学の成果が人間生活に応用された結果、それまで存在していたあらゆる文化的境界線は消滅し、その影響をまったく受けない固有の文明というものはひとつたりとも発展しえないとさえ言えるだろう。この世界ではひとりびとりがそれぞれの神話の中心、そして各人の知覚可能な性格はいわば化体した神であり、そこで見出すべきものは、" 経験として" 探求される意識なのだ。そのためのモットーは、デルフォイのアポロン神殿入口に刻まれたあの格言、すなわち『汝自身を知れ』である。各人それぞれの『汝』こそがこの地上の中心であり、それはローマでもメッカでもエルサレムでも、シナイやベナレスでもない。その『汝』とは、先に引用した12世紀の『24 賢人の書』に書かれたあの常套句で言えば、「神は知覚可能な球体であり、その中心は至るところにある( 下線強調は引用者、p. 36 )」。

Ch. 2 転換した世界:
:「伝統的な神話とは、原始神話であれ高度な文化圏における神話であれ、個人の経験に先立って存在し、個人の経験を統制するものだ。これに対し、本書で言う『創造的神話』とは、個人の経験から生まれたものであり、その表出である」。以下、アベラールとエロイーズ、ブリターニュのトマ → ゴットフリート → ヴァーグナーの「楽劇」へと論が進み、セネカによるアリストテレスの引用(「偉大な精神にして狂気の混じっていなかった者はひとりもいない」)、ショーペンハウアーによるドライデンの引用、おなじくショーペンハウアーの主著『意志と表象としての世界』から、音楽について書かれたくだりの引用( 絵画はイデアの反映にすぎないが、音楽は、「[ 世界 ]意志」それじたいである )。「[ 世界 ]意志」は、古代インドの 'Tat tvam asi'、「梵我一如」とほぼおなじもの。

Ch. 3 ことばの背後に潜むことば:
「本書で扱っている神話は、個人の経験から生れたものであり、教義、学問、政治的利害、種々の社会改革プログラムから派生したものではない。エロイーズ、ダンテ、ラビア・アリ・バスリ、ゴットフリート、ヴァーグナー、そしてジョイスらのことばから読み取れる類の経験とは、愛の持つ純粋さ、荘厳さそのものである … 本書で扱う数々の神話は、自らの精神が欲していることと自らの実践、知識、発言とを一致させ、なんとか折り合いつけようと試みる勇気を持った男と女の創造物、あるいは啓示とも言える。言わば手紙を瓶に入れて大海原に漂わせるような試みであり、神やダンテ、地元の司祭かはたまた新聞が、天国行きであれ地獄堕ちであれ、だれからなんと宣告されようがいっこうにかまわない。それでも他者の天国より、自分自身の個性から発した地獄のほうがまだましというものだ。… ( p. 85 )」;
「科学者と歴史家は時間と空間とに区切られたこの歴史に仕える … これに対して創造的芸術家は人間に瞑想への覚醒を促す。外に向いた精神に、再びわれわれ自身の意識との接触を呼びかける ―― 歴史のあの断片、この断片への参加者ではなく、存在という意識そのものの一部として、その精神として。それゆえ、ひとりの人間の内面世界から、自らが経験した衝撃を表現することによって、直接に他者の内面世界へそれを伝えることが、彼ら芸術家の仕事になる。それは単に、ひとりの脳内から、情報や説得といった事柄を表明することではない。空間と時間という『無』を超えて、ひとつの意識の中心から、もうひとつの意識の中心へと効果的に伝達する手段なのだ。… かつてはそれが、神話の果たしていた役割だった … だが、こんにちの世界では、共有経験が一種の飛び領地として成立するような、閉じられた境界線などどこにも存在しない、という事実もある。神話を発生させるような共同体など、どこを探してももはやないのだ」;
ドイツの劇作家・詩人ゲアハルト・ハウプトマンの引用:「詩を書くことには、ことばの背後に潜むことばを響かせることが含まれている」。
以下、「A.D. 2−3世紀ごろのオフィス派[ 拝蛇教 ]の翼の生えた蛇の聖杯」とか、「ガッフーリオの『音楽実践法』に掲載された『天球の音楽』図( 1496, pp. 99−103)」とか、「ケルト神話における牡猪と[ 太陽を象徴する ]馬」と「トリスタン伝説」についての興味深い関連、「ベーオウルフ」の語源、そしてなんと(!)、日本の「スサノオ」伝説まで出てきて、とにかくてんこ盛りながら、悪しからず省略。最後がイスラム世界との関連といわゆる「グノーシス( 出た! )」との関連について、論を展開しています … とりあえずここでは以下のごとく要約:「当時、古代ギリシャの科学と哲学の唯一の宝庫はササン朝ペルシャ、グプタ朝インド、そして西方世界において唯一残った灯火であるアイルランドだった( p. 133 )」。ついでに「ヘビ」信仰は、世界各地で見られるもの、つまり神聖な自然のシンボルとしてごくありふれていたというわけなんですね。それを誘惑とサタンの象徴みたいに貶めたのは … 。

II. 「荒れ地」
Ch. 4 愛の死:
「アヴァロンは、古ウェールズ語の 'Afallen' [ アヴァレン ]、すなわち「リンゴの樹( afal=リンゴ )」と同語源である。かくしてこのケルト的な『波の下の島』と、ギリシャ・ローマ神話の『黄金のリンゴのなる幸福諸島( ヘスペリデス )』との類似性は明らかだ。さらには生と死の、ふたつの世界における偉大な女神の『常世の園』なる概念そのものとの類似性もまた浮かび上がる ―― そして、人類のさまざまな神話を検討してきた本シリーズがひじょうに数多くのページを割いて論じてきたのも、この偉大なる女神の『不死の園』についてなのだ。この『偉大な女神の支配する楽園』と同一の主題が、『永遠の生命の樹』とともに、先に挙げた、トルバドゥールの歌った『夜明けの歌( アルバ )』冒頭の詩節にさえ響く ―― その一節で、乙女はサンザシの樹の下、恋人をしっかと抱き寄せる。キリスト教の『ピエタ』は、死んだ救い主が聖母マリアの膝の上に抱かれ、後に蘇ることを表象する像だが、これもまたその意図された概念は同じである。アーサー王が 15 の深傷を負ったというのは、たんなる偶然と片づけてよいものだろうか。月もまた、15 日目に満月となり、再び欠けはじめ、死へと向かい、暗黒の3日間[ 新月 ]を経て復活する。さらには、瀕死の重傷を負ったトリスタンがオールもなく、虚しく漂流するにまかせた小舟で最初の航海を行ったとき、辿り着いた先はダブリン湾で、この舟は彼を確実にイゾルドのいる城へと送り届けたことになる。これもまた『波の下の国』の同一モティーフの紛れもなくひとつの変奏であり、イゾルド、湖の貴婦人、そして『ピエタ』における母なる女神が究極的に意味するところはみな同じ、つまり『光の息子』の支配する昼の世界とはあらゆる面でまるで異なる世界なのである( pp. 185−6 )」。以下、英チャーツィー修道院遺跡から出土したタイル画のイラストとともに、ゴットフリート・フォン・シュトラースブルク作『トリスタン』と、対応するヴァーグナーの楽劇との比較検討、そしてピカソの「ゲルニカ」と古代シュメールが発祥らしい、「太陽を象徴する[ 軍 ]馬」と作品に出てくるぺったんこな「張りぼて」の馬( と対峙する牡牛 )との関連について。オルテガの『ドン・キホーテをめぐる省察』の引用。p. 225 で、'... to place him in a coracle, equipped only with his harp, ... 'とあるのは、やっぱ革舟カラハでしょう( 辞書の挿絵なんかによくある、あの一寸法師の乗ったお椀みたいなやつじゃなくて )。

Ch. 5 フェニックスの炎:
トリスタン伝説を下敷きにした Finnegans Wake の対応箇所 → HCE と ALP、トリスタンとイゾルト etc., この世界におけるあらゆる対立物 → 「おお、幸いなる罪人!」と、Finnegans Wake の対応箇所 → 最初のアダムの堕落とそれにつづく第二のアダムの「覚醒」… は、ともにおなじアダム、われわれ人間ひとりびとりに他ならない → だが、キリスト教象徴に対するカトリックの聖職者たちの解釈と、ジョイスのそれとは天地ほども開いている。cf. Ulysses の対応箇所( 「フロリー・キリストよ、スティーブン・キリストよ、ゾーイー・キリストよ、ブルーム・キリストよ …」 ) → 異界の支配者マナナーン・マク・リルのくだり → HCE と ALP の「試練の床」、ユングの言う「夜の海の航海」、「左手の道」。
ユングの著書『転移の心理学』( 16 世紀の錬金術の書『哲学者の薔薇園』の挿し絵を材料にして転移現象を論じている )から、メルクリウスの泉などの一連の挿絵を引き、Finnegans Wake の「ジュート塚」=「肥え場」=「肥え山」と「ドーラン家のベリンダ」および作品の書き方との類似性の指摘( 当時の錬金術師もまた、自分たちの術を秘術として封印している ) → Finnegans Wake にさまざまに姿を変えて登場するジョルダーノ・ブルーノ → 「左手の道」は感覚、心といったものが直接、通う道で、理性や知性の通う「右手の道」と対置されている → エリオットの『バーント・ノートン』に出てくる「回転する世界の静止する一点」。
ユングによれば、これら一連の「レトルト容器内の化学的変容過程」は、じつは当事者の深層心理と深い関わりがある → 彼らは錬金術を通じて、彼らなりに、この世界を理解しようとした →「深層心理的であり、かつ表層心理的原初科学ないし疑似科学」。
8世紀にオマーン王子によってアラビア語で書かれ、12 世紀になってラテン語訳された錬金術本には 'Corascene Dog' という犬が出てくる → ゴットフリート本『トリスタン』に出てくる犬と、Ulysses で浜辺でスティーブンが見た飼い犬との相違点( イゾルトへの思慕と苦悶を癒やす犬、対して恐れを抱かせる浜辺の犬 ) → 『音楽の実践』挿画が暗示しているように、どちらもおなじ犬、かたやイゾルトを見て天上へと飛翔する精神状態、かたや奥底に沈潜する自身のエゴを見せられ恐れにかられる精神状態 → 作品のちょうど中心部分で「激しい雷鳴」が轟き、変化の始まりを告げる → エリオット『荒地』にも、雷鳴を表す擬音が出てくる → イエスの「ひと粒の麦」の譬え → ジョイスはこのがちがちに硬直化し、人間を互いに引き裂いている乾ききった不毛の「荒地」に轟く雷鳴 → cf. Ulysses 「第 15 挿話 キルケ」…
15 世紀の神秘家ニコラウス・クザーヌスの引用:「… 神にあっては、いかなる違いも存在しない」。

Ch. 6 バランス:
「トリスタン」伝説と、フィン・マク・クウィル( フィン・マクール )の若き妻グラーネとディアルミド・ウア・ドゥヴネの悲話とのつながり[ 太古欧州大陸の生贄として屠られる猪の神、猪がトリスタンの脛に負わせた深傷との類似性、「ドゥムジー−タンムーズ−オシリス」 ];ダブリンの丘に横たわる「巨人」としてのフィン・マクールの伝説 → 『フィネガンズ・ウェイク』;ディアルミドとグラーネの悲話と「トリスタン( イゾルト / マルク王 )」伝承が結びついたのは、ウェールズで、 11 世紀前にはそれがさらに拡張されたヴァージョンがブルターニュ半島へと伝わったらしい。
「トリスタン」つながりでは、日本のスサノオ伝説との偶然の一致についても言及( p. 303 脚注、トリスタンが恋人への目印として流した「小枝」と「箸」 )
「対立物の共存に至る扉」への道を知ること → 『フィネガン』全巻を通じてジョイスが「歌っている」こと(「歓喜と悲しみ、暴力と愛、男と女、剣とペン、損得、昼と夜[ ibid., p. 180 ]」) → トーマス・マン『魔の山』;個人を社会的束縛と奉仕、勲功によって評価するギリシャ神話とマルク王における昼の世界がもたらす悲劇、それに対するケルト神話や北方詩人たちの作品に見られる夜の世界やゴシックの森と海霧の世界では、ひとり、ないしはふたりの未踏の道をおそれず進む「気高い心」のみが静寂の中で聴くことができる歌が流れている。
『魔の山』→ ジョイス作品とは一見、正反対の主題を扱っているように見えるが … そのじつ技法的にはおなじだったりする( 示導動機[ ライトモティーフ ]、ニーチェとヴァーグナーの影響 )。
「神話の真の理解者は、学者ではなく、これら語り手の後継者とも言うべき詩人、芸術家たちだ( p. 309 )」;1902年、マンの短編『トリスタン』刊行、1903年、『トーニオ・クレーガー』刊行。1922年にジョイスの『ユリシーズ』が、ついで 1924年にマン『魔の山』が刊行;両者を比較すると、作品の「力点」は異なるが、ともにライトモティーフを効果的に使用していること、神話的主題が繰り返し現れること、ショーペンハウアーの言う「歪像鏡」に映じるようなバラバラになった像の手法を用いている。→ 霊的なものと地上的なもの、形而上的なものと倫理的なものとが交差する面とをすべて解消した者などいない →「イロニーは、異なる方向にとってともにイロニーであり、真ん中のものである。どちらにも属さず、どちらにも属するものである」→ ゴータマ・ブッダの言う「[ 苦楽 ]中道」… 。
カントの『学として現れるであろうあらゆる将来の形而上学のためのプロレゴメナ( 1783 )』;数式風に表せば、a:b=c:x → 「超越的存在に対する人間の位置づけ」を、西洋の正統的キリスト教世界の解釈に従って数式化すると、
                cRx
B.C. 6−8世紀、古代インドの哲人ウッダーラカ・アールニが息子に語ったことばされる「梵我一如[ 不二一元 ]」、つまり「汝はそれなり」で、数式化すれば、
                c=x
ただし、『マンドゥーキャ・ウパニシャッド』によれば、この状態に到達するには四つの段階があるという。→ なので現実的に見れば個々の人間と超越者との関係は、
                c≠=x
ショーペンハウアー式の解釈では、「c≠=x」は「意志としての世界」であるのに対し、「cRx」という「関係性の神話」は「イデアとしての世界」。ニーチェの語彙では、デュオニュソスとアポロンに対比され、古代インドにおいてはシヴァとヴィシュヌーの世界になる。
ゲーテ( ニーチェとともに、マンとシュペングラーに影響を及ぼした )による「4つの時代精神区分」→ 『魔の山』ではセテムブリーニがゲーテの言う第三の「哲学の時代」に、論敵レオ・ナフタが第四の「散文の時代」にそれぞれ対応 → デモクラシーとテロル → シュペングラーが指摘しているように、ある時代の頂点は、それを覆す動きが胎動を始めるときでもある → 啓蒙主義全盛時代のルソー(「自然に帰れ!」)、その中世( 13 世紀 )版のジャン・ド・マンの『薔薇物語続編』に出てくる「母なる自然」、および両者の主張の奇妙な一致とか → B.C. 4世紀の「犬儒派」ディオゲネス、古代インドのゴータマ・ブッダなども含めて、すべて時代の絶頂に出現している点が共通している。「外側から、そして歴史家の視点からは黄金時代に見える文明の一時代も、ひとたび内面からの視点に転じれば、それは荒れ地になりかねない( p. 389 )」。

III. 「道」と「生」
Ch. 7 磔刑:
アーサー王伝説の起源はケルト神話にあるが、ケルトの伝承の下層には、B.C. 7500−2500 ごろに欧州大陸各地に流布した新石器時代−青銅器時代の神話遺産群が横たわっている。cf. 「妖精の丘」、「波の下の国」、「常若の国」、「女人の島( アーサー王伝説の「アヴァロン島」)」に住む「偉大な女神」とその配偶神など。→ これらはみな、究極的には近東中核部における最古の農耕都市国家群から、著者言うところの「神話発生地域」から派生している。
鉄器時代の有名なケルト伝承、たとえばコンホヴァル王の二輪戦車を駆る戦士たち、フィン・マク・クウィル[ フィン・マクール ]率いる巨人なども、このもっとも流布した系統から派生したもの → 第二の「神話発生地域」は、現在の東欧から西南アジア地域にかけて → ベーダ( 吠陀 )、ホメロス、アイルランド神話に登場するこれら好戦的な神々、二輪戦車、戦いの賛歌も、もとをたどれば単一の、現在印欧語族と呼ばれる母体から生れたもの → ただし、インドとアイルランドでは青銅器時代初期の概念および神話体制が後年の戦いの神々にまつわる信仰を吸収していったのに対し、欧州大陸では逆に、好戦的な男性神と地域に根ざした豊穣を生む女神信仰との衝突・結合の結果、アーリア系の戦闘の神々によって代表される道徳および霊的体制が優勢となった( アルタミラ、ラスコーなど、狩猟中心の太古の時代の洞窟壁画 )。
「不具の漁夫王」について:聖杯伝説と漁夫王の背後にあるケルト神話群では、回転する車輪や城といった概念は必須の付き物である( p. 416 ) → 図版 48 の「ローマ属領ガリア時代の車輪を持つ神の像」の車輪の車軸数も6本 → これら車輪のイメージは、B.C. 700 年ころのインド『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』などに現れている → ギリシャ神話の「永久に回転する燃える車輪に縛りつけられたイクシオン」;ピュタゴラス( B.C. 582−500?)、ゴータマ・ブッダ( B.C. 563−483 )のころになって、それまでの「肯定的な」イメージが一変して、「妄想・欲望・暴力・死の燃えさかる車輪」という否定的イメージに取って代わられる → カミュの「シーシュポスの神話」に見る「不条理」→ 不具王の負った傷と回転する車輪のおよぼす苦痛は、存在それじたいの機能としての苦悩を認識する等しい象徴であり、たんにあれやこれやの条件下で偶発的に生じる類いのものではない( p. 424 ) → 十字架につけられたキリスト、苦しみ、かつそうではない「菩薩」と、炎の車輪に括りつけられ罪を償うイクシオンと「荒れ地」の不具の聖杯王 → 四者いずれも「その根源は関連性がある、いや、ある意味ではおなじとも言えるが、その意味するところはそれぞれに異なる。同一の実在に対する経験と判断の仕方、ないし表出の仕方が四者四様なのだ( p. 427 )」
ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ作『パルツィヴァール』について;「聖杯」は「その石はラプジト・エクシルリースという」。つまり錬金術師たちの言う「哲学者[ 賢者 ]の石」とおなじもの。

Ch. 8 「聖霊」:
ヴァーグナーの舞台神聖祝典劇「パルジファル」は、エッシェンバッハの原典が大きなテーマとして掲げているもの / 重要な登場人物( コンドヴィラムルス )が出てこない。ヴァーグナーにとって「聖杯」とは、キリスト教会で伝統的な「十字架上のイエスの血を受けた杯」にすぎない( テニスンの『国王牧歌』も同様 ) → だが、これはエッシェンバッハの「原典」にはまったく存在しない。
「原典」中のパルツィヴァールは、「中世のスティーブン・ディーダラスと言ってもよいかもしれない」。対して、16 歳ほど年長のガウェインは、「ある意味、[ レオポルド・] ブルームになぞらえられるだろう」。以下、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ『パルツィヴァール』物語の要約と、合間に「間奏曲」として、「象徴の復権」、「神話の世俗化」、「神話発生地域」が挟みこまれた、ちょっと毛色の変わった書き方になってます。いずれも「アーサー王伝説」成立過程を中心に詳述。

IV. 「新しいワイン」
Ch. 9 「神」の死:
1630年;ガリレオへの異端審問、「ダンテとジョイスの時代のちょうど中間点」→ フローベニウス「記念碑の時代( 過去5千年 )」→ トリスタンと「聖杯」の詩人たち、クザーヌス、エックハルト、ダンテ、ヨハヒムらの「中世ゴシックの欧州」で花開いた新時代(「世界文化の時代」)。1339 年、「名前と形式という分野」に振り下ろされた「オッカムの剃刀」は、「形而上学を心理学へと変えた」。→ その反動としてたとえば『キリストに倣いて( c. 1400 )』など。神秘主義者クザーヌスの説教( 見方によってころころ変わる絵を引き合いに出しての神の認識に対する解釈 )
「新しい宇宙( 観 )」:「正統信仰」vs.「理性」、中世以来のキリスト教的世界観の崩壊;1115 年、アクィナスとほぼ同時代にすでにこの「崩壊」の兆候が始まっていた → 科学的手法による研究と、自然エネルギーを得て動く機械とが、さらに拍車をかける;ロジャー・ベーコン、ビュリダンの「インペトゥス論」、ニコル・オレーム … 対して、ルター、カルヴァンらの「宗教改革」者と、「対抗宗教改革」者は、立場はちがえど、ともに「迷信にまみれていた」点ではおんなじ。
1431 年 ジャンヌ・ダルクの魔女裁判と火刑 → その間、「大航海時代」;1492 年 コロンブス「新世界」発見、1519 年 マゼランの「世界周航」など;エラスムス『痴愚神礼讃』1511 年 初版刊行;
異端審問の嵐の時代、その時代の産物が、たとえば一連の「ファウスト」ものの「揺籃期本」群( 最初の本;1587 )、マーロウの戯曲『フォースタス博士』1604 年刊行
1600 年( ジョルダーノ・ブルーノ火刑 );ヘンリー・アダムズ、「人類史上における、宗教支配の時代から、機械支配の時代へ移行する分水嶺」
c. 1440 年、グーテンベルクの活版印刷術発明 …
「新しい神話へ向けて」;
1. 「生ける神話」の第一の機能は、「正しい宗教的機能」、ルドルフ・オットー「名前と形式を超越した、究極の神秘を認識したときに個人の内面に目覚める畏敬、謙遜、尊崇といった体験と、それを維持する」機能。
2. 科学的知見にもとづく宇宙観。
ジェイムズ・ハットン『地球の理論』→ 従来のキリスト教的な「若い」地球を化家具的に論駁;「現在露出している岩石層は、それよりも古い時代の岩石層の残骸の上に形成されているのがほとんどである」→ cf. ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』冒頭部、[ ヴィーコの ]「循環説」
3. かつての神話のような、「ある確定された秩序体系の正当化とその維持」なる機能はもうない → [ デューイのことばを引いて ]「個人は、それぞれ各々の存在である。」、「すべては移ろい変わる![ ニーチェ ]」、「汝 … すべし」という名のドラゴンはいない … が、そこにこそ危険が潜む。虚無主義、ニヒリズムのふたつの側面[ ニーチェ ];
積極的ニヒリズム:精神の高められた力が顕現したもの
受動的ニヒリズム:精神の力の凋落、ないし退歩

4. 以上のことから必然的に導かれるのは、「主体としての個人、そしてそれぞれの調和」を図る最適な神話像。ローレン・エイズリー:「集団倫理が個人倫理と異なるのは、名前も顔も持たないことだ … 時間世界では、みなただひとつの、かけがえのない生を営んでいる。それゆえ、『楽園』の神秘は自らの内面にこそ、求められるべきである( The firmament of Time, 1962 )」。

Ch. 10 地上の楽園:
B.C. 1500−1250、アーリア系諸部族がギリシャ、小アジア、ペルシャ、インドへと侵入したとき、彼らの原始的な「家父長神神話」が、もともとその土地に根付いていた「普遍的な女神」信仰と創造的に結びついた。インドにおけるプラーナ、ベーダーンタ哲学、タントリズム、後の仏教の教義などに影響を与える。ギリシャではホメロスやヘシオドス、悲劇、哲学、秘儀、科学として現れた。
おなじころ、中国大陸でも商( 殷 )が成立。近東では、フェニキア、カナン、アラビア人などセム系諸部族が大勢を占めていた → アスタルテ [ 古代セム族の豊饒と生殖の女神;フェニキア人、カナン人の神 ] について;ラングドン「西セム系部族では、母なる女神が、彼らにとってもっとも重要な地方神よりも、宗教上では高位の地位を与えられていた」→ が、祭司エズラの時代になると、こうした女神信仰は完全に廃され、「時代遅れな」古代シュメールの世界観とともに、「砂漠の一部族民のみに通用する神話」が書き記された( 他の女神信仰と混交した地域では、このようなことはなかった ) → 原始キリスト教団は、いわば「借り物の象徴と借り物の神を事実として提示していた … あらゆる地方神はみな悪魔であり、自然は罪だった」→ その後の「十字軍」などの反異端運動の失敗;聖アウグスティヌスの時代にも「ペラギウス派」が広まっていた。借り物の神は、過ち;『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』と『創世記』の「楽園追放」のくだりとの比較。
ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』は、「あるレベルで見れば、古代エジプトの『死者の書』のパロディでもある」。
→ 古代インド哲学における「人生の4つの段階」と、ダンテの『饗宴』 巻 IV に出てくる「人生の4段階」との比較。
トーマス・マン『魔の山』について;「マンは、ベルクホーフのサナトリウムを錬金術師の『ヘルメス容器』に明示的になぞらえている」→「ヴァルプルギスの夜」の描写とその後の雪山での遭難時に見たギリシャの風景と、ジョイス『ユリシーズ』15 挿話「キルケ」との比較。また、降霊会でハンス・カストルプが「明かりを点けた」のに対して、『ユリシーズ』のスティーブン・ディーダラスは逆にトネリコのステッキで「シャンデリアを壊した」。
ユングの言う「アーキタイプ[ 元型 ]」について;集団的深層心理の見る「夢」である → インドのシヴァ神には、陰と陽とが一体化した太古のイメージ。→ 図9の「イエス=オルフェウス−バッコス磔刑」は、そのヨーロッパ版で、十字架にかけられた贖い主に焦点が移っている → 関係性の神話、つまりcRx。これに対して菩薩、ボーディサットヴァは、「それぞれが、自身の知覚できる仏性という鏡写しとして認識する」、つまりc≠=x。
cf. 『ユリシーズ』の「フロリー・キリストよ、スティーブン・キリストよ、ゾーイー・キリストよ、ブルーム・キリストよ、キティ・キリストよ、リンチ・キリストよ…」

 … で、最後は以下のように結んでいます。
覚醒した意識の領域、つまり[ ゲーテの言うような ]固結した世界においてさえ、いまや永続するものなどなにひとつ存在しない。旧来の神話も持ちこたえられない。旧来の神もまた例外ではない。かつて人びとは何世代にも渡って基準となるひとつの固定的制度に過度に縛られた生を送り、神の寿命は何千年という単位で考えられてきた。だが現代はそうではない。基準という基準が押しなべて流動的になり、そのため個人もまた否応なしに自身の内へと突き返され、「成りて成る」みずからの内面へと、冒険の森へと入り道なき道を歩み、自身の誠実さをもって、知覚可能な自身の「聖杯城」へ至る体験に踏みこまざるをえない ―― そこでは自身の体験と愛、忠誠と行為における誠実さと勇気が試される。この内面の冒険の道案内を務めるのは、いかなる形態であれ、もはや[ バスティアンの言うような ]民族的基準にもとづく神話ではありえない。そうと悟ったとき、それらはたちまち過去の廃れた神話、場違いな神話と化し、洗い流されてしまう。現代にはいかなる境界線もなければ、いかなる神話発生地域もない。いや、神話発生地域は各人の心の中にこそ存在する。個人と、そこから自然に湧き起こる多元的共存の感情 ―― 神の衣をかぶらない理性的な世俗国家の庇護のもと、おなじ精神を有する男と女とが自由につながりあうといったこと ―― これこそ、現代世界においてもっともまっとうに開けた可能性なのである。めいめいがそれぞれに対する権威の創造的中心をなし、「周縁は存在せず、その中心はどこにでもある」クザーヌスの円の内にあり、各人が「神のまなざし」の焦点となる。
 だから、規範となるべき神話像は、[ バスティアンの言う ]「民族思念」( サンスクリットの deśi、「地域」 )ではなく「原質思念」( サンスクリットの marga、「道」 )を介して理解される。そのためには「聖ドミティラのカタコンベ天井画 ( 図1)」のように、ひとつの神話だけでなく、死んで固まった過去のシンボル体系を複数、「知的に使用する」ことである。そうすることで、はじめて個人は創造的イマジネーションの中心が自己の内面にやってくるのを予感し、それに息吹きを与えることができるようになる。そこからその人自身の神話が生まれ、「[ モリー・ブルームのように ]ええそうよ Yes 、だって … 」という人生の可能性が開けてくるかもしれない。しかしながらパルツィヴァールの場合と同様、最終的にはその内面の導き手となるのは自己の気高い心、ただこれのみであり、対して外界からやってくる導き手になるのは美のイメージ、神性の輝きであり、これがその人の心に「アモール」を呼び覚ます。これこそその人の本質のもっとも奥まったところにある種子、「かく成りて成った」道程を歩む「全存在」と同質の種子である。このような生を創造する冒険における成就の基準は、本書で取り上げ、検討してきたありとあらゆる物語に見い出される。それはかつての真理、かつての到達点、かつての教義が示した「意味」、そしてかつて約束された贈り物といった、過去のもろもろを捨てる勇気、つまり外なる世界に対しては死に、そして内面からの誕生へと向かうことである。( pp. 677−8)

 まあなんというか … やはり前にも書いたことながら、「あいつはユング派だ[ から、気をつけろ ]」みたいなことを言われる余地は、たしかにいっぱい(?)あるかもしれない。これも以前書いたことの蒸し返しになるけど、キャンベルは若いころ、シュペングラーの『西洋の没落』を読んで、「私は友人たちと座り込んでは、不気味な姿を現し始めたこの未来観について議論を交わし合い、どうしたらこれを論破できるのかを必死に考え、この危機に瀕した移行期にも『明るい』側面はないものだろうかと思いをめぐらせ」ていたそうです。** この点はワタシと正反対で、筋金入りの「ポジティヴな」人生観の持ち主だったんだろう、と思う。シュペングラーとともに首ったけになっていたのがレオ・フロベニウスで、この人はいまだに「正統な」学問分野からは事実上、無視されているような民俗学者さんだったみたい。キャンベル先生もまた、古プロヴァンス語の語形変化がどうのこうの … といった「たこ壺」的かつ指導教官にがんじがらめにされる、狭い意味でのアカデミズムがよほど性に合わなかったとみえて、「博士号を取るための研究」をあっさり放棄したそうな。

 キャンベルの「比較神話学」というのは … 昔見たビル・モイヤーズとの、あの歴史的対談番組「神話の力」以来、上述したようにとにかく博覧強記ぶりばかりが目についていたけれど、大震災以降、あらためて著作をつぶさに読んでいくと、いわゆる「頭でっかちな」学者先生、あるいは「専門バカ」とは、まるで対極にいた人だったことがわかってきた。つまり、すべてがご自身の人生体験から得られた教訓と分かちがたく結びついている、ということ。机上で、アタマだけで「思念をいじくりまわす」ことにはまるで関心がなかった人だった、ということです。げんにこの本にも、そういう「アカデミズム」の殻に閉じこもっている学者先生を批判する箇所が散見されますし。

 「おのれの至福についてゆけ」とか、ローマカトリックのような排他的かつ「外のどこかにおわす神」という発想ではなく、古代インドの奥義書などに見られるような、「汝がそれだ」、アートマンとブラフマンはもっとも深いところにおいておんなじだ、という神秘思想への傾斜も、自身の身体体験を通じて、自然とそうなっただけなんだろうな、という気がしてくる。人間、自然がいちばん、ついで物事の道理が通っていることがいちばん。キャンベルはただの根の明るい、いかにもアメリカ〜ンな性格の学者だったわけでなく、徹底的な合理精神と批判精神の持ち主でもあった、ようするに、人としての「バランス」が取れていたように思う( 反対に、徹底的にインバランスな人 )。「文は人なり」、書いたものを読めば ―― 外国語で、しかも内容が内容なので、誤読は避けられそうにないが ―― おおよそどんな考えの持ち主で、どんな性格の人なのかくらいは想像がつく。一見すると、「なんだ、ユング派か」だろうけれども、読んだあと、よくよく考えてみると、言っていることはやっぱりまちがってないよなあ … と。プロフェッサー・キャンベルが、生涯かけて読み解いてきた世界各地の「神話・伝承」、そして現代の担い手である芸術家( でも、なんでヴァーグナーだけなの? ベートーヴェンは? もっともシラーの「歓喜の歌」は引用されてはいたが[ 苦笑、正確にはニーチェ『悲劇の誕生』の孫引用 ])の手になる作品の「解読」にも、じつはひじょうに深い、深い「真理の一歩手前」の思想がある。キャンベルは太古のシャーマン、ケルトのバード( bard、バルド )、あるいはフィリ( fili )が現代に憑依したかのような、ストーリーテリングの名手として名高いけれども、すぐれた思想家としての業績もまた、もっと再評価されてしかるべきだと思います … ってあまりにも長くなってしまったので、本日はこのへんで( 書いてる途中、奇しくも「N響定演」ライヴにて、そのヴァーグナーの「トリスタンとイゾルデ」からいくつか曲が演奏されてましたね )。

* ... ジョイス『若い芸術家の肖像』、大澤正佳訳、p. 382.
** ... キャンベル『生きるよすがとしての神話』、飛田茂雄訳、p. 93.

評価:るんるんるんるんるんるんるんるんるんるん

付記:最近、またあらたにキャンベル本を買いました。これは、未発表の原稿および講演などから、世界各地の神話の「地下水脈」をなす、すべての母たる「女神」の神秘にまつわるお話を一冊にまとめたもの。そして、ふとした拍子に見つけたこちらの本も、気になっている … 立ち読みした感じでは、ユングとエリアーデも含めた「評伝」ものみたいですね。

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2015年01月24日

『大衆の反逆』

 つい先日もすこし触れたんですが、この本は半世紀以上も前に初の邦訳が刊行されて以来、異なる版元と訳者の手で邦訳本が刊行され、またかつて大学でもこの本( 原書? )をテキストに使用していたくらいだから、いまごろ読んでいるワタシなんかが読後感をちょろっと書いても、二番煎じどころの話じゃないことは承知してますし、検索すればわかるとおりすでに有名無名問わずじつに多くの書評がネットの海に浮かんでますので、とりあえず「あくまで」個人的に思ったこととかを少し書き足してみようかと思います。以下、こちらの訳書を取り上げてみます( 下線強調箇所は、邦訳文にある「傍点」強調箇所に対応 )。

 この本で言う「大衆」とは、一般的な意味の大衆 … ではなくて、「精神的に烏合の衆と化した」人間( の群れ )のこと。本文にもあるけれど、ようするに「スノッブ」な人のこと。と、こんなこと書くと、なんだポピュリズム批判本か、と思われるかもしれない。たしかにそういうたぐいの批判本の嚆矢( 「こうし」と読む )みたいな本ではあります。事実、当時の欧州でもっとも話題になり、かつ反論もたくさん書かれたのは、キャンベル本にも再三、引用されているシュペングラーの『西洋の没落』などを筆頭とする、「欧州が支配する時代はもう終わった」みたいな「欧州没落論」本でしたし、たとえばそこには若きシュヴァイツァーがたまたま耳にしたという「けっきょく、われらはみなエピゴーネンに過ぎないのではないのか?」という嘆きもまたその時代思潮と共鳴している。シュヴァイツァー博士がのちに現代文明批判と文明の再建を考察した著作(『文明の頽廃と再建』)を世に問うたのは 1923 年。奇しくもキャンベル本にこれまた引用がよく出てくるトーマス・マン『魔の山』とジョイス『ユリシーズ( 青本 )』刊行もちょうどこのころ( 1924 年と 22 年 )だし、エリオットの『荒地』もまたしかり( 1922 年 )。このホセ・オルテガ・イ・ガセットのベストセラーもまた、ふたつの世界大戦に挟まれた 1930 年に初版本( La rebelión de las masas )が出版されている( 以下、著者名はオルテガと表記 )。

 なので、この手の本を読むときはこういう時代背景抜きには考えられないし、当時のスペイン国内の事情というのもアタマに入れつつ注意深く読む必要があります。でもたとえば巻末近くで、「今や『ヨーロッパ人』にとって、ヨーロッパが国民国家的概念になりうる時期が到来している。しかも今日それを確信することは、11 世紀にスペインやフランスの統一を予言するよりもはるかに現実的なのである。西欧の国民国家は、自己の真の本質に忠実であればあるほど、ますますまっしぐらに巨大な大陸国家へと発展して行くだろう」という一節は、まるで現在の欧州連合( EU )を予感させるような書き方ではないですか。もっとも、前記事でも書いたように、いままたあらたな嵐というか、不穏な空気が日増しに強くなってきていることも事実ではあるけれど、全体としての流れというか、根本的な方針じたいはけっしてまちがった方向には進んでいないと思う。後ずさりしつつあるのは … いったいどこの国でしょうか? 

 オルテガによれば、「当時の」欧州大陸に最大の危機をもたらした「大衆の反逆」は、古代世界、たとえば帝政ローマにもあったのだという … しかもそれはローマ帝国の版図( 「はんと」と読む )最大、まさに怖いものなし向かうところ敵なしのはずだった絶頂期、紀元 150 年以降に顕著になったとし、ホラティウスが時世を嘆いた歌も引いている( p. 71 )。そして、それ以前の地中海文明が絶頂に達したときも、同様に「犬儒派」が出現したことを指摘し、「ヘレニズムのニヒリスト」と呼んでいる( pp. 154−5 )。オルテガの論によると、中世、ルネサンスと経て 17 世紀、18 世紀までは「いまだ達せず」の「準備時代」と信じられてきた。それが市民階級の台頭と権利の獲得、そして産業革命以後の技術的進歩とともに「生活水準の上昇」がかつてない規模で進行した結果、「ついに達せり」、19 世紀という頂点を迎えた。ところが … 頂点に達した、ということは、あとはひたすら下り坂なわけで、「あまりにも満足しきっている時代、あまりにも達成されている時代は、実は内面的に死んでいるのに気づく( p. 73 )」。というわけで、シュペングラーの登場、となるわけですが、オルテガはそういう「欧州優位の時代」が過ぎ去り、当時まだ若い国、たとえば米国とか共産主義革命直後のロシアとかが支配するというふうには考えなかった。「人間の生が潜在能力の次元においていかに増大したか」と指摘して、一面的かつ恣意的な当時の「没落論」を「[ 没落なる表現は ]不明確で粗雑( p. 67 )」と釘断じ、その代表格であるシュペングラーもまた、「彼の著作が公にされる以前から、多くの人は西欧の没落について論じていたのであり、彼の著作が成功を収めたのは、… 万人の頭になかにそうした危惧や心配が前もって存在していたからである」( p. 183 )とも書いている。

 オルテガの思想 … は、この本しか読んでないから口幅ったいことはうっかり書けないが、ひとつ言えるのは、いわゆる一般的な意味での保守の論客でもなければ貴族趣味な思想家でもない、ということ。「今日の保守派も急進派も、ともに大衆である点では変わりがない( p. 143 )」。では、オルテガの言う人としての理想像とはなにか? 「私にとって、貴族とは活力に満ちた生と同義語である( p. 110 )」。あら、なんかこれどっかで見たような … 「世界に生命をもたらすこと、そのためのただひとつの道は、自分自身にとっての生命のありかを見つけ、自分がいきいきと生きることです( キャンベル / モイヤーズ著『神話の力』p. 264 )」。オルテガはさらにつづけて、「つまり自分自身を越え、… 自らに対する義務や要求として課したもののほうへ進もうと、つねに身構えている生のことである」。で、このような生の態度と真反対なのが「無気力な生」であり、そうしいう生き方を送る人々を「大衆」と呼んでいる。労働者階級とか資本家階級とか、そういう括りじゃないです。その証拠に、「大衆という言葉を … 特に労働者を意味するものと解さないでいただきたい。私の言う大衆とは一つの社会階級をさすのではなく、今日あらゆる社会階級のなかにあらわれており、したがって、われわれの時代を代表していて、われわれの時代を支配しているような人間の種類もしくは人間のあり方をさしている」とはっきり断っている( p. 157 )。

 また「大衆」とともに当時、台頭してきたまったく新しいタイプの科学者、つまり「前代未聞の科学者のタイプ … ただ一つの特定科学を知っているだけで、しかもその科学についても、自分が実際に研究しているごく小さな部分にしか通じていない人間」、つまり「専門家」と呼ばれる人々も「いかにばかげた考え方や判断や行動をしているかは、その気さえあれば誰にでも観察できること」と書き、「彼らの野蛮性こそがヨーロッパの堕落の最も直接的な原因になっている」と手厳しく指弾している( pp. 161−2 )。

 でもそれは同時に「現在の人間は自分たちの生は過去のあらゆる生よりも豊か」になり、「過去のあらゆる生よりもスケールが大きいと感じ」させた原動力とも言える。ここで当時の欧州大陸でもてはやされた感のある「没落論」を一蹴してもいるのだけれども( キャンベルによれば、オルテガとは大西洋を挟んで向こう側、米国の小説家スタインベックもまたシュペングラーのこの本におおいに衝撃を受けていたという )。科学技術の進歩によって、「今日の生は、今までのあらゆる生に比べて信じがたいほど大きな可能性の領域」をもたらしたのはたしかにそのとおりとしても、それはたとえば欧州列強の苛烈な植民地支配の上に成立していた、という事実に関してはまったくと言っていいほど触れられていない。こういう姿勢は、たとえばシュヴァイツァー博士が黒人との関係について言ったとされる、「黒人は子どもである。子どもに対しては権威なしではなにもできない。… だから、黒人に対してはつぎのことばがふさわしい。『わたしはおまえの兄弟だ。だが、兄だ』」ともある意味通底する認識に立っているのは否めないと思うし、げんに欧州が世界の支配者であることをやめてしまったら、「幼い諸民族が見せているうわついた光景は嘆かわしい。ヨーロッパが没落し、したがって支配をやめたと聞くや、諸国民や、まだ国民になりきっていない民族は、とび跳ね身ぶりをしてみせ、逆立ちをしたり、胸を張って背伸びをしたり、自分自身の運命を支配している大人の風を装ったりしている。そのため、世界のいたるところで『民族主義』が松茸のように頭をもたげている」とも書いている( p. 185 )。なのでやはり批判的に読む必要はある。

 ただ、ここで言う「民族主義」が、宗教を笠に着た自称「国家」を名乗り、それこそ無法のかぎりを尽くす、どう考えても人道や倫理にもとる行為を平然と行っている連中が存在する、という昨今の現状を鑑みると、オルテガが 80 年以上も前に指摘したことはそんなに的外れではない気もする。むしろ、何十年も先を見抜いていたかのごときその炯眼ぶりにあらためて驚かされることのほうが多い。たとえばこういうのはどうですか。「われわれは現在、平均化の時代に生きている。財産は平均化され、異なった社会階級間の文化も均等化され、男女両性も平等になりつつある。それどころか、諸大陸も均等化されつつある( p. 67 )」、「われわれの時代になって、国家は驚異的な働きをする恐るべき機械となるに至り、多数の正確な手段を用いて驚くべき効果を発揮している。それは社会のまっただなかに据えつけられており、その巨大なレバーを作動させ、社会のいかなる部分にも電撃的な作用を及ぼすにはボタンを一つ押しさえすればよい( p. 169 )」。

 話をもどして、「19 世紀が産みだした人間は、社会生活の実効面では、他のすべての時代の人間とは別なのだ … 以前は金持や権力者にとっても、世界は貧困と困難と危険の領域だった( pp. 100−1 )」。こういう19世紀的なあらたな大衆の出現を世襲貴族( 相続人 )になぞらえ、文明の恩恵を被っておきながら、「それらが生まれながらの権利ででもあるかのように、自分たちの役割は、文明の恩恵だけを断固として要求」し、ひとたび飢饉に見舞われれば「こともあろうにパン屋を破壊する」。こういう「甘やかされた」大衆が台頭した結果、サンディカリスム、ファシズムという名の「相手に道理を説くことも自分が道理を持つことも望まず、ただ自分の意見を押しつけようと身構えている人間のタイプがあらわれた( p. 118 )」。ゆえに彼ら( と、ボルシェヴィズム )は「いずれも野蛮への後退なのである( p. 140 )」。皮肉なことに、祖国スペインはその後、オルテガが危惧していたことが現実になり、独裁体制が長きにわたってつづくことになるのだけれども … 。

 この本に出てくる「国民国家」というのはいわばキーワードで、ニーチェの言う「怪物」じみた、暴走する存在の「国家」とはまるで異なる、という点にも注意を払う必要があるように思う。オルテガの言わんとしている「国民国家」とは、「古代のポリス、あるいは血によって限定されているアラビア人の『部族』よりも、国家という純粋な観念により近いものを表していると言えよう。… 国民国家は、共通の過去を持つ前にその共通性を創造しなければならないのであり、しかもそれを創造する前に、共通性を夢み、欲し、計画しなければならない( p. 230−1 )」。どういうことかって、たとえばいまの EU みたいなもの、としかボンクラには言いようがない。もう少しあとに、こんなことも書いてあります。「今日もしわれわれが、われわれの精神内容 ―― 意見、規範、願望、想像 ―― の決算書を作ったとすれば、それらの大部分がフランス人の場合はフランスから、スペイン人の場合はスペインからもたらされたのではなく、ヨーロッパという共通の背景から来ていることに気づくだろう。… 仮に平均的フランス人から、彼が他のヨーロッパ諸国民から受けいれて使用しているものや考え方、感じ方を取り去ったとすれば、思わず恐怖をおぼえるだろう。そのとき彼は、そうした状態では生きることができないことを、そして彼の内的所有物の五分の四が、実はヨーロッパの共通財産であることに気づくだろう( p. 237 )」。これに反し、「ある人びとはすでに老衰した原理を極端に、しかも人為的に強化することで現状を救おうとしている( p. 241 )」。これがオルテガの見る「国家主義」の正体。「しかし、こうした国家主義はすべて袋小路である。国家主義を未来に向けて投影してみていただきたい。そうすればたちどころにその限界が感じられるだろう。そこからは、どこへも出られないのだ。国家主義は、つねに国民国家形成の原理と反対の方向を目ざす衝動である。… ただわずかに、ヨーロッパ大陸の諸民族集団によって一大国民国家を建設する決断のみが、ヨーロッパの脈動を再びうながすことになるだろう。そのとき、ヨーロッパは再び自信を取り戻し、必然的に、自分自身に多くの要求を課すにいたるだろう(ibid.)」。

 そう、これがまさにヨーロッパたらしめている点ではないか。こういう発想こそ、じつは欧州の優位というか、環境問題・南北問題・資本原理主義の弊害 … と、けっきょくなんだかんだ言っても 21 世紀のいまもなお、「自由民主主義」体制が世界の趨勢になっている最大の理由なんだろう、と思う。もっと言えば、確固たる個人というものの考え方。個人というものがはっきり確立している。日本も含めて東洋では、どっちかと言うといまだに世間の同調圧力のほうが個人に優っている傾向は強い。もっともこの本によると、スペインでも世間の風当たりというのは、そうとう強いものらしいが … 。で、この個人という点において、じつはオルテガもキャンベルも案外、共通しているんじゃないかって思うのです。たとえば「『世襲貴族』はどういう生を生きることになるのか、彼自身の生か、それとも傑物であった初代の生を生きるのか? そのどちらでもないのだ。彼は他人の生を演ずるように、つまり、他人でも自分自身でもないように宣告されているのである。当然ながら、彼の生は真正さを失い、他人の生の単なる代理か見せかけに変質せざるをえない。… 生とはすべて、自己実現のための戦いであり、努力である。私が自分の生を実現させるに当たって直面する困難こそ、まさしく私の能力を目覚めさせ、行動をひき起こすものなのだ( p. 146 )」という書き方なんか、字面がちがうだけでようはキャンベルもその優位性を認める、欧州人による「( 真の自我、という意味の )個人の発見」という点において、まったくおんなじことを主張しているとしか思えない( 否、勝手気ままなだけの「甘やかされた」個人主義は、オルテガの言う「大衆」にほかならない )。

 というわけで、あいかわらず悟りの遅い門外漢にとって、オルテガ本との出逢いはキャンベル本にも負けず劣らず強烈な印象を残したのでした … 。たしかに地球温暖化が深刻になりつつあるいまからすると、西欧近代の物質文明に対する批判とかももう少しほしいかなとか、近代西欧が生み出した資本主義と世界にはびこる拝金主義的傾向とその思いもよらぬ反動などを考えると、当時はまだまだ素朴だったのかな、とも感じたりはする。するけど、初版本刊行後これだけの歳月が経過しながら、なお色褪せない卓抜な警句と比喩の散りばめられたこの近代大衆論、もうすごい、としか言いようがない。凡百のポピュリズム批判本と一線を画しているのは、やはりオルテガという思想家の投げかける、鋭く、そしてひじょうに深い人間洞察にあるのではないかと思う。人間精神の内面に対するその洞察力の深さには、ただ目を見張るほかなし。とにかく深い。キャンベル本にもときおり出てくるオルテガの若いころの著作『ドン・キホーテをめぐる省察』は、あいにく絶版の全集本にしかないようなので、また日をあらためて大きな図書館とかに行って探してみたい、と思ったしだい。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるん

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2013年11月11日

『海外ミステリ 誤訳の事情』

 本家サイトがいちおうの完成を見るまでは、ひたすら ―― でもないか、ヤナセ訳『フィネガン』のように脱線することもしばしば ―― 聖ブレンダンおよびラテン語版『航海』関連書を読み漁っていたものですが、そのあいまにときたまですが、どういう風の吹き回しか海外ミステリ小説なんかも読んだりすることもありました。だれだったか、某競馬ものシリーズの定番の訳者先生の訳文を評して、「新聞記事みたいな訳文が好き」とかおっしゃっていた方がいたことも思い出した。

 先日、地元図書館でたまたま海外文学ものの書棚前に来たとき、なんか妙にユルいダストカバーのこの本が目にとまり、バッハのカンタータ全集のついでにとこっちも借りて読んでみたら、これがけっこうおもしろい。10 年前にすでにこんな本が出ていたとは、遅かりし、由良之助 !! 

 たとえばオビに、「なぜ刑事はとつぜんデンマーク人を探しに行ったのか / 「なんで ? 」と思った人は 104 ページへ」とある。これなんかたまさか冷やかすていどのミステリ門外漢でも、なにをまちがえたのかはわかる。と言っても、いまどきの人だったらだれだってああ、あれか、とすぐ思い当たるエラーだとは思うが( ハラが減っては戦ができぬ、と思ったかどうかは知らないが、ようするに刑事はパン屋さんに行ったんですね )。

 またしても寡聞にして知らなかったが、著者の直井氏はもと商社マンで、米国ニューオーリンズとかヒューストンあたりにけっこう長く駐在していた人らしい。エド・マクベインと親友で、長いつきあいなんだとか。なんてスゴい人だろう。海外ミステリ好きが昂じて、作品の舞台になった土地をあっちこっちと訪ね歩いてきた人でもあるらしい。

 いわば海外ミステリものの目利きみたいな人なんですが、マルタの鷹協会の月報に、誤訳指摘のコラムを書いていたつながりでこの本を著したようです。日本語訳文の語感の問題から、ミステリにつきものの銃火器関連の知識を縦横に駆使して原作者の知識不足まで指摘したりと、内容的にはかなーり辛口。でも、世に言う「誤訳指摘本」と一線を画しているのが、全巻通して流れているユーモアと、やさしい視線です。それがもっともよく現れているのが、やはりこの本のユル〜い装幀。借りる気になったのも、はっきり言えばこの本のユルい装幀画に尽きる( 笑 )。ふかふかのあたたかいふとんのように見えて、カバーをめくったらなにやらキラリと光るものが出てきた、そんな印象。

 また、「書いている側が名前を出し、書かれている方々を匿名に」した点が人間的にも好感が持てます。例外的にお名前が出ている訳者先生もおられるが、たいていの場合はよい仕事をされた方。もっとも「映画字幕翻訳の大御所」だった某先生の場合は、「チャンドラーならこの翻訳家と思われていた人の省略ぶりには、いささか驚いた」。

 「重箱の隅を徹底的に」突いたとありますが、むしろ問題視しているのは訳者ならびに編集者の attitude のほうだと感じた。ミステリというジャンルはいわゆる通俗小説、消耗品と割り切っているのではないか、と「あとがき」で苦言を呈しています。たとえばある訳書で、はっきり言ってケアレスミスのたぐいのつまらない誤訳を担当編集者に伝えたら、「迷惑そうな顔をして ―― 確かに迷惑なのだろうが ―― 文脈の大きな流れとして間違ってなけゃいいじゃありませんかと」言われたんだそうな。やっぱ図書館で読むにかぎるな、そのていどの矜持で世に出された邦訳本じゃね。

 ちょっと脱線すると、たとえば大部のノンフィクションとかの場合、一部を端折った「抄訳」という場合も多かったりします。で、一字一句厳密に訳出した「完訳」との見分け方があるんです。「訳者あとがき」に、「本書は … XXX を訳出したものである」とかなんとか書いてあったら、十中八九、抄訳つまり部分訳と思ってまちがいない。きちんと全訳した場合はちゃんと、「 XXX を全訳したものである / 完訳したものである」と書いてあるはずです。そういえばかなり昔、さるジャーナリストの書いたカラヤンの評伝邦訳が出て、それが『レコ芸』の書評に取り上げられてたんですが、「調べてみたらかくかくの章が抜け落ちている。けしからん」みたいなことが書いてあった。この評者先生自身、ドイツ語圏の音楽関連本の邦訳を多数ものされていて、「オレはすべて全訳しているのに、なんなんだこのていたらくは ?! 」と思ったのかもしれない。でも、一般教養書とかノンフィクション本の場合ではこれはわりとよくあること。ものによっては必ずしも最初から最後まで日本語にしなくたってかまわない。げんに手許の『中世キリスト教の典礼と音楽』というすばらしい訳書だって、全訳ではないけれど、だから困った、不便だ、と感じる点はないですしね。むしろ問題なのは、全訳にしろ抄訳にしろ、中身の訳文でしょう。いくら全訳したからって、あまりに読むに堪えない訳だったら、だれも大枚はたいて買うことはないでしょう、たとえそれが Kindle 本で廉価で投げ売りされていたとしても ( そして残念ながら、キャンベル本にもそのたぐいの迷訳[ ? ] が紛れこんでいたりする。『千の顔をもつ英雄』とか、『神の仮面』上下巻とか )。

 話をもどして、上記とおなじようなケアレスミスのたぐい、たとえば sawhorse を「馬」、字幕の意味の subtitle を「副題」とやってしまったようなことは、だいたい見当がつくけれども、料理名、地名、略語、役職名の表記、作品に出てくる映画の邦題はどうするかなど、いつものように付箋ペタペタ貼りながら読み進めていったらたちまち付箋だらけになって、ぜんぶ紹介できないのが残念。ただ、ひとつだけつよく印象に残ったのは、ミステリ作家っていう人はどうも古典、とりわけシェイクスピア作品の引用が大好きな人が多い、ということ。たとえば『ハムレット』。有名な第三幕第一場の長い独白( 'To be, or not to be ... ' を含む独白 )箇所から引用したタイトルだけでも、著者調べによればもじりも含めてなんとその数 21 篇あったという。警部がさらりと『ハムレット』からの引用句を口にしたり … あ、そういえば、やはり図書館で、『流れよわが涙、と警官は言った 』なんていうタイトルの SF 小説があったことも思い出した。こういう音楽関係もぽんぽん出てくるから、やはり翻訳はむずかしい。音楽関連については、直井氏のこの本では南北戦争時代の軍歌と、On Top of Old Smoky が取り上げられてました( 俎上に上げられていたのは、これを「グレート・スモーキー山脈」ととらずに、「古びた煙突」としちゃった訳書。以前ここでも Museum と大文字で始まっているにもかかわらず「ミュージアム」と手抜き訳した本のことを書きましたね )。引用、というのではハクスリーの短編集 Mortal Coils ( 1922 ) も出てきて、じつはこれじたいがおなじ『ハムレット』の引用でもあるんですが、ワタシはキャンベル本の影響で、ハクスリーとくるとつい『知覚の扉』のほうを思い浮かべる( これももとはブレイクの詩『天国と地獄の結婚』からの引用、つまりキャンベルは孫引用している )。そんなこと言ったら、映画「スターウォーズ」のエピソード 6 で、今際の際にあるヨーダがルークに向かって、「おまえは、自分の父と対決して倒すことが使命となったのじゃ。果たしてその重荷に耐えられるか ? 」と問うけれども、これだって見方によっては、「おまえは自分の運命に耐える力があるのか」というハムレットの自問が響く、ということも言えないことはない。ついでに一箇所だけ、千慮の一失と言うべきか惜しいと言うべきか、「ハスクレー」という誤植があったのはご愛嬌。

 著者の該博な知識にまたしても脱帽、ではありますが、俎上に上げられている英語圏ミステリの訳書は、なんかこう刊行からウン十年経っているような、古本がちょっと多いような気がするのも事実。終章に「先人たちと現在」とあり、戦後まもないころの海外ミステリの「珍訳」、たとえば『くまのプーさん』を「漫画本」とした訳書とか、あとその当時のヘンテコ訳として「エリントン公爵のピアノ(!)」なんてのも引き合いに出していますが、こんどもし続編を書かれるようなら、ぜひここ 10 年以内に刊行された海外ミステリ訳書について書いてほしい、とも感じたしだい。
 
 こういう読んで楽しい、もちろんおおいに頭を掻かされ勉強になる「誤訳指摘本」は、希少だと思う。そしてなにより、それでも邦訳ミステリが大好きでたまらない、という姿勢がビンビン伝わってくる。だからこその「辛口批評」なんですね。とにかくもし、海外ミステリものの翻訳者を目指している若い人が、この拙いワタシの評を見たら、なにはともあれ一度はこの本を手に取ってしっかと読むべし。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるん

付記:先日、キャンベルの創作作法について書いたんですが、例の黄色いリーガルパッドと呼ばれる筆記用紙。じつはこの本にもその説明が出てきまして( p. 114 )、そうか、向こうでは法曹界の人間が使う場合が多いのか、ということに思い至った。そういえば「ソーシャル・ネットワーク」だったかな、なんかそんな筆記用紙が出てきたような気が … 世の中には万年筆や原稿用紙なんかにやたらとこだわりを持つ人が多いらしいけれども( 自分もそう )、ググってみたらリーガルパッドにもいろいろあって、そんなリーガルパッドを解説しているブログ記事とか眺めているうちになんか急に( ? )自分もほしくなってしまって、地元の文房具屋に行ったらたまたま Mead のパッドが置いてあったのでとりあえず買って、さっそく使ってみた( 影響されやすい人 )。名前くらいしか聞いたことのなかったこの米国生まれの黄色い剥ぎ取り式筆記用紙、いやービックリ、こんな使いやすいものがあったんかと目から鱗状態です。この点に関しても、間接的にはキャンベル先生のおかげかもしれない。満寿屋さんの原稿用紙もすばらしいが、ちょっとしたメモ書きなら断然、こっちのほうがいい。この前も、「英語で読む村上春樹」で英訳者のルービン先生のお話を聴きながらこのリーガルパッド上に要点を走り書きしていた。これからはこれでいこう。ただ買ったパッドは日本人の感覚からするとちょっとでかい気がするので、ジュニアサイズのものも買おうかなと、思案中。ついでにリーガルパッドで思い出したけれども、たしか iPhone / iPad 標準搭載のメモ帳って、デザインがまさしくこれですよね ? 黄色い帳面を再現したような感じで、罫線のかけ方までそっくりだ。もっともあちらはデジタル端末のメモ帳なので、それなりに便利な使い方とかあるのかもしれないが( iPhone / iPad で作成したメモは Mac でも即編集可能、もちろんその逆も可なところとか )、視認性という点ではどうなのかなあ、と。じっさいに紙のリーガルパッドを使ってみると、視認性という点では断然紙のほうがいいような気が … とこれは個人の感想です。

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2013年08月05日

『それでも、読書をやめない理由』

 前記事のつづき、というわけでもないんですが、あの中身のひじょうに濃いショーペンハウアーの小著にはしおりと地元紙書評欄の切り抜きがはさんであって ―― 切り抜きを挟んだ当人はそんなこととっくに忘れている ―― それがこの本を取り上げた書評記事だった。というわけで、おんなじ読書関連ですし、せっかくだからこちらも書いてみる気になりました( 笑 )。

 この本、「日本語版によせて」という巻末の著者のことばを引くと、本書は「思いもよらない状況から生まれた。本の虫以外のなにものでもなかったわたしが、突然本に集中することが難しくなったのだ。原因のひとつはテクノロジーにあった。より正確にいうなら、テクノロジーがもたらすノイズだ。… 現代的で、何重にもつながった過剰ネットワーク生活にひしめく、あらゆる注意散漫の元。… 本書を書いた目的は、この問題を特定し、言葉にすることによって、注意散漫の悪循環からなんとか抜け出す」ために書いた、という。著者デヴィッド・ユーリン氏は「ロスアンジェルス・タイムズ」の文芸担当記者で、現在はカリフォルニア大学大学院で創作を教えている人。

 「テクノロジーがもたらすノイズ」、とは言い得て妙。この手の「ノイズ」って、いまじゃ著者言うところの Twitter や FB に代表される SNS、ブログのたぐいなんでしょうが、昔はやっぱり TV ですかね。あまたの英米文学ものの翻訳を手がけてきた中田耕治氏だったかな、原稿書きの仕事はコタツの上で、しかも目の前の TV もつけっぱなしで、とか書いていたのは。でもひねくれた一読者から言わせれば、「それってけっきょく、当人の心の持ちようでどうにでもなるんじゃ … 」とつい、横槍を入れたくなるところではありますが、この著者の場合はそうはいかなかったようで … あるとき著者ユーリン氏は、『グレート・ギャツビー』を課題としてレポートを提出しなくてはならない中学生の愛息に、「文学は死んでるね。だれも本なんて読まないんだ」と出し抜けに言われたことにおおいに衝撃を受けた。反論しようにも、悲しいことに愛する息子から繰り出された強烈なパンチをお返しする反論さえ浮かばない。それもそのはず、「本の虫」であったはずのこの自分でも、「ひょっとしたらそうなのかも」と、本を読むことに集中できなくなっている自身を顧みて疑念に駆られているのだから … 。

 かくして、なぜ、こうなったのか ? ほんとうに「文学は死んだ」のか ? もうだれも本を、つまり「物語」を読まないのか ? ということを、いままで著者が読み親しんできた小説家やエッセイストの作品から引いた文章から、そして最新の脳科学研究の報告まで引いて、文字どおり徹底的に考察を進めた本です。考察、と言ってもそこはそれあくまで個人的体験にもとづくエッセイなので、文学・物語の本質について考察したかと思えば『グレート・ギャツビー』をめぐる息子との一件にもどったりと、ショーペンハウアーの本とは正反対のテイストで「ヒトが本を読むということ」について綴ってます。読みようによっては読書論というより、父と息子の物語、もっとはっきり言えば愛する息子ただひとりのために書いたような、そんな本です。これはこれでおもしろい書き方だと思う。著者も言っているように、いろいろな読み方ができるというのは、いわゆる文学 / 物語の本質だと思うから。

 ありがちな、「最新テクノロジーの媒体 vs. 旧来の媒体」という図式では語っていない。一個人の視点から綴られたこの本の語り口はときおり散漫になりがちではあるけれど、一貫しているのはメディアとかテクノロジーとかいうモノではなく、真に問題なのはそれをどう活かす / 使うか、その結果出てきたもの、いまふうに言えばコンテンツのあり方にある、という点。グーテンベルクが活版印刷を発明した当時は、「紙に印刷された本」こそ、時代の最先端をゆくテクノロジーであり、それゆえ旧来の情報媒体とその文化、たとえば写本文化を支持するような立場の人からは非難されたりした。あたらしい媒体が登場するたびにわれわれの脳内も「作り変え」られてきている、という研究結果なんかも紹介されてておもしろいけれども、「あたらしいテクノロジーの使い方」ということでは、「かぎりのない現在時制」という点が、こと本を読む行為にとってははなはだ邪魔になる、とも指摘している。
… ( テクノロジーは )存在することさえ知らなかったものに近づく機会を与えてくれる。… とはいえ、少なくともわたし個人は、… 特殊なケースだと考えている。過飽和状態のわたしたちの文化は、絶えず存在し続ける "今" の上に崩れてきつつあるからだ。より日常的にわたしが抱くのは、知的な意味でも感情的な意味でも表面だけをかすめているような感覚や、なんとなく漂っているような感覚のほうだ。そんな感覚の中で、時間と文脈は、錨を失い漂流している。これこそが、わたしの注意散漫の本質だ。

「どんなときも、世界があまりにも手近にある」。言われてみればたしかにそうで … ゆえに「思いついたその瞬間に Eメールをチェックできる」し、また、「リアルタイム至上主義」みたいな 21世紀のいまを考察した最近のエッセイからこうも引用する。「スピードが、それだけで価値を持つ時代になってきた」。

 対して、本を読むという行為で流れる時間というのはちがう。「真の読書」は、「余裕が必要」で、「瞬間を身上とする生き方からわたしたちを引きもどし、わたしたちに本来的な時間を返してくれる」。たとえて言えば、新幹線ではなく鈍行、クルマではなくテクシー( ちょっと言い方が古い ? )。ワタシは日ごろからよく歩いているのですが、おやこんなところに花が咲いてたとか、けっこういろんな発見があって飽きないですね。クルマは、もちろん悪いとは言わない。交通事故さえ起こさなければ。なんたって地方在住者にとっちゃ「足」ですし。荷物がかさばるときなんかも自家用車でもレンタカーでも、とにかくクルマはあったほうがいい。でも「ちょっとそこまで」行くのにもクルマを乗り回すような御仁がじつに多い。前にも書いたかしら、故阿久悠さんが何十年も昔、「日本人は自家用車を持つようになって傲慢になった」と書いていたと聞いてますし。ときには歩きもいいもんですよ。老化は足腰からくるって言いますし。

 話もどして、本を読むという行為のもたらす効用は、なにも本来的時間をとりもどすことにとどまらない。「読者は本と一体化する」、これこそがまさしく本を読む醍醐味、本を本たらしめるものだと著者は書く。
… ( 『ネット・バカ』の著者ニコラス・カーは ) 読書とは心の状態や体験を描き出す方法、あるいは刻みこむ方法であると述べている。読書とは、それによって人生の認識にいたる、人生のひな形である、と。… 読書とは、自己認識の一形態であり、それが達成されるのは、逆説的だが、自己を他者と重ね合わせたときである。それは、わたしたちをきわめて具体的に変化させる抽象的なプロセスだ。

 それじゃ、いま流行りの電子書籍( おどろくことに、米国人の著者でさえ、ふだんの生活では電子書籍リーダーが使用されている場面をあんまり見たことがないという ! )はどうか。画面上に表示されるテキストデータを読む行為は、紙の本と変わらぬ効用をもたらしてくれるのか ? 

 以前、iPad にプリインストールされているらしい『不思議の国のアリス』について、「電子紙芝居」だと書いたおぼえがあります。もはや電子書籍上で読むというのは、ただ白地の画面に並んだ活字の列を読むことだけにとどまらない。飛び出す絵本よろしくキノコが転がり出てきたり、派手なアニメーションや、音楽なんかも流れたりする。こういうご時世なので、米国の物書きのなかにはさっそく最新テクノロジーを駆使した作品( 紹介されているのはプレゼンソフトを使用した章のある小説 )をものする人も出てきている。こういう「作品」を読むことも、読み手の精神を豊かにし、想像力を深め、人格を形成するような読書になる、と言えるのか ?? 著者自身、すでに iPad も Kindle も持ち、『シェイクスピア全集』から『ザ・フェデラリスト』までさまざまな本を揃えている。そんな著者曰く、「どんな形であれ、すべてはテキストがあってこそ成り立っている … そして、読書の質が上がるかどうかは別として、本を読むという行為はさまざまな形態のもとに存在しうる」。… なんでもすぐにこたえを求め、即「白か黒か」と判断をくださずにはおれないいまの悪しき風潮、というのはわかっちゃいるんだが、やっぱりワタシとしては性格的に、「うまくボカしたな」と思ってしまった。

 でもこの本、読書論というのをはるかに超えて、米国人の精神的崩壊について、ある大学の卒業式におけるオバマ大統領の意味深な発言について( 「情報は気晴らしとなり、娯楽となり、… そうした情報のあり方はあなたたちを圧迫しているばかりか、わたしたちの国や民主主義さえ、これまでになく圧迫している」。とくに下線部に注目 ! )、米国の中学生が受ける文学の授業の内容について ( びっくりするくらいの本格的な作品解釈、そして詳細なレポート提出まで課される。ある意味、ひじょうに古典的な学習方法 )、そしてなんといってもこの本じたいが、古今のすぐれた英米文学読書案内としても読める( ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』について、「正直に認めよう。わたしも全部読んだわけではない。まだ読み終わりそうにもない」というのは、この人の人柄が出ていて好感が持てる )。個人的にはこっちのほうにおおいに惹かれた。知らない作家がぞろぞろ … とりわけ「最初から脱線して全編余談という傑作」だという、大バッハの息子たちと同時代人のロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』なんか、読んでみたいですねぇ。また、冒頭に出てくる、ジョーン・ディディオンが 40 数年も前に書いたというエッセイ集からの引用箇所なんか、なんとなく以前読んだウェンデル・ベリーの The Unsettling of America とも通底しているようにも感じた。

 他人の著作からの引用、ということでは、前出のディディオンのエッセイに、この本の内容を要約しているような箇所がありました ――「わたしは、もっぱらみつけるために書く。自分は何を考えているのか、何に直面しているのか、何がみえているのか、それは何を意味するのか、何が欲しいのか、何が恐ろしいのか」。「書く」を「読む」と言い換えれば、そのままわれわれ読み手の問題になりますね。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるん

余談:再三、この本で取りあげられていたスコット・フィッツジェラルド。『グレート・ギャツビー』以外はなにも知らなかったが、『崩壊』というエッセイ集、このたびこの本を読みまして、興味を惹かれました。フィッツジェラルド … がらみでは、手許の古い翻訳指南書の記述も思い出した。曰く、フィッツジェラルドの文体って「庄野潤三の文体によく似ており、言葉の選択が極度に慎重で、センテンスは透明で明晰さがあり、おだやかに押えて書いてありながら、文章に陰影と量感と静かな気品があって、詩心の豊かさを感じる」。なお個人的なこだわりとして、こうしてディスプレイ画面上にキーボード叩いて文章を綴るのと、原稿用紙に向かって手書きで綴るのとでは、書いた文章に対する心理的距離があきらかにちがう、と感じている。昔、まだまだ「ワープロ専用機」全盛時代だったころ、故飛田茂雄氏がワープロで作成した文章についてこんなこと書いていた。飛田氏は訂正だらけの手書き原稿を編集者に渡すのが心苦しかったらしく当時からワープロ肯定派で、整然と印字された原稿は「客観的に読み返すことができます」と評価していた。これは裏を返せばどんな駄文でもそれらしくかっこうのついた文章に「見えて」しまうということでもある。同様に、ディスプレイ上に表示された活字の列を目で追うのと、紙の上に印刷された活字の列を目で追うのとでは、やっぱり心理的に違和感がある。たとえば RSS リーダーとかに表示される新着記事の一覧を無造作に「飛ばし読み」、「ななめ読み」している自分に気づく。この「読んだ気になっている」という問題は、電子書籍も含めたハイパーテキスト世界全般に言えることなんじゃないかと思っている。みなさんはどうですか ? 

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2013年07月29日

『読書について / 他二篇』

 じつはこの岩波文庫版、かれこれ 16年くらい前に『知性について』とともに買っておいたくせに、いまごろになって読み終えたという … 忘れていたわけじゃないんですが。後者については、これから読むつもり。

 ひじょうに有名な、文字どおりの名著ですのでワタシみたいなのがあれやこれやと読後感を述べることないんですが、キャンベル本をいろいろ読んできた手前、なにかと引用されているショーペンハウアーですから、ちょうどいい機会だしこのさい二冊ともしっかり読んでおこう、と殊勝にも思いまして … 「箴言警句の大家」と言われるだけあって、さすがに言い得て妙、みたいな箇所がたくさんある。たくさんありすぎて、目移りするくらい。全体通しての印象としては、やはり正鵠を射たことばというのは、いつの時代でも通用するものなのだなあ、ということです。
読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである。 … かりにも読書のために、現実の世界に対する注視を避けるようなことがあってはならない。 … 心に思想をいだいていることと胸に恋人をいだいていることは同じようなものである。我々は感激興奮のあまり、この思想を忘れることは決してあるまい。―― 「思索」から

ドイツやその他の国でも、現在文学が悲惨をきわめているが、その禍根は著作による金銭獲得にある … このような現象に伴ってまた言語が堕落する。… 翻訳の途中で原著者の説に改訂、加工を企てる翻訳者についてもここで一言しておくべきである。彼らのこのふるまいをいつも私は無礼であると思っている。汝、非礼なる翻訳者よ、すべからく翻訳に価する書物を自らあらわし、他人の著作の原形をそこなうことなかれ。… 我々は他人の文章の中に、文体上の欠陥を発見すべきである。それは自分でものを書く際にそのような欠陥におちいらないためである。… 単純さは常に真理の特徴であるばかりか、天才の特徴でもあった。文体は美しさを思想から得る。似而非思想家の場合のように、思想を文体によって美しく飾ろうとしてはならない。文体とは所詮、思想の影絵にすぎないからである。ものの書き方が不明瞭、もしくは拙劣であるということは、考えが曖昧であるか、もしくは混乱しているかのいずれかであるということである。… ドイツ語の悪文は実に長い。互いにもつれ合った挿入文がいくつもその間に割りこんで、ちょうどりんごを詰めた鵞鳥のような文章である。… ドイツ人ほど自分で判断し、自分の判断で判決を下すことを好まない国民はいない( 下線は、邦訳文では傍点強調箇所 )。――「著作と文体」から

読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである … 読書にいそしむかぎり、実は我々の頭は他人の思想の運動場にすぎない。… 熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる。食物は食べることによってではなく、消化によって我々を養うのである。それとは逆に、絶えず読むだけで、読んだことを後でさらに考えてみなければ、精神の中に根をおろすこともなく、多くは失われてしまう。… 悪書を読まなすぎるということもなく、良書を読みすぎるということもない。悪書は精神の毒薬であり、精神に破滅をもたらす。良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。―― 「読書について」

 この三篇は、『付録と補遺』という、ショーペンハウアー晩年に編まれた小論集から抜き出されたもので、ほんらいはこの大部の小論集に収められた全文を読まなくてはいけないとは思うけれども、この三篇だけでもショーペンハウアーという哲学者がどんな思想の持ち主だったかを知るにはじゅうぶん、という気がする。訳文はいささか古くて、いちいち「である」調がめにつく嫌いはあるけれど、それでも原著者の卓抜な警句、とりわけみごとな比喩表現には舌を巻いた。

 小論三篇中いちばん長い「著作と文体」では、たとえば「匿名批評家」の害について憤懣やるかたなしといったふぜいで一席ぶっているけれども、よくよく読んでみるとどうも当時、ドイツ語そのものの「改悪運動」が起きていたらしいことがわかる。このへんの事情についてはまるで知らず、ショーペンハウアーの檄文によって推測するのみなんですが、日本語でいえば一連の「当用漢字」策定までの騒動とかがこれにあたるのかもしれない。とにかくショーペンハウアーは当時のこうした悪しき風潮、とりわけ台頭しつつあった「ジャーナリズム」が先頭に立って国語としてのドイツ語を切り刻んでいると嘆き、「無頼漢的三文文筆家が国文法を乱し、国語の精神を台なしにしているのである … ドイツ語はまったく大騒動に陥った」。でもこれっていまの日本語の置かれた状況にも当てはまるような … わけのわからない国籍不明語が跳梁跋扈するいまの日本語。なんでもかんでも短く切り詰めてしまう世の風潮。その結果、もてはやされているのは一回耳にしただけではなんのことだか見当もつかない、なにかの符丁・隠語のような短縮語とカタカナ語の氾濫、いっぽうで「憮然とした」とか「気のおけない」とかの言い回しが本来の意味で理解されなくなりつつあり、あるいは「ら」抜き / 入れことばとか … 。そして、こうした問題というのはいつの時代にもあるもんだなあ、ということも感じたしだい。それと「ドイツ人ほど自分で判断し、自分の判断で判決を下すことを好まない国民はいない」という一文、「ドイツ」人を「日本」人に変えたってそのまんま通用しますな。

 翻訳関係でもっとも耳に痛い警句は、おなじく上で引いた「著作と文体」の一文ですね。たしかに辛辣だ。イタリアだったか、「翻訳者は裏切り者」という諺があるのは … ショーペンハウアーは当時のインテリ必須の古典語の素養が当然あるから、この本の中で名前を出しているアイルランド人神学者・哲学者のエリウゲナの『自然の区分』とかも原文ですらすら読めたのかもしれないが、われわれふつうの読者はやっぱりこのような「翻訳」がないと、とてもムリですよ。たしかにどんな翻訳だって叩けばホコリが出るものではあるけれど … でも「まともな翻訳」だったら、そっちで読んだほうが断然、理解ははやいし正確に読めますよ、確実に。この論文でショーペンハウアーは翻訳者を「無礼者」呼ばわりしているけれども、ひょっとしてショーペンハウアー自身は自分の書いた本が翻訳されるのがうれしいどころか、がまんならぬ卑劣な行為、と本気で思っていたのかな ? そりゃなんだって原文で読めれば、苦労はしないですよ。でもきょくたんな話、『聖ブレンダンの航海』みたいな中世初期アイルランド特有の「島嶼ラテン語」で書かれた作品とか、だれでも読めるわけもなく、またセルマーのような学者が写本を突きあわせて校訂した版もあるとはいえそれ自体が欠点を抱え、なおかつ不明な箇所、「スカルタ」のような特定不能な語だってたびたび出てくるわけで … というわけで、翻訳はやっぱり必要な言語行為だと思いますね。翻訳してくれる人がいるおかげで、ショーペンハウアーのこのすばらしい本だってわれわれみたいなごくふつうの日本人読者でも読めるわけですし ―― たとえそれが誤訳を含み、かつ原著者の意図した通りの修辞と表現をそっくりそのまま再現していなくても ( どんなすぐれた翻訳にも誤訳はあるものだし、間然するところのない完璧な翻訳、というのも存在しない )。

 … いま読みかけのキャンベルの『神話の力 IV 創造的神話』に、ショーペンハウアーの「天球の音楽」に関する引用があったりするんですが、「思索」にもそんな表現がひょっこり顔を出していたりします … 。↓
… 思索家自らの思索はパイプオルガンの基礎低音のように、すべての音の間をぬってたえず響きわたり、決して他の音によって打ち消されない。

これなんか好き者としましては、いかにもドイツ人らしい音楽のたとえだなあなんて感心してしまう。蛇足ながら「基礎低音」とあるのはオルゲルプンクト、「オルガン点」という長ーく引き伸ばされた低音のことで、バッハ作品にも頻繁に出てきます。言いたいことは、読書を通じて他人の思想を取りこむことに汲々とするあまり、「常識や正しい判断、事にあたっての分別などの点で学のない多くの人に劣る」学者とちがい、真の思想家は「すべてを消化し、同化して自分の思想体系に併合することができる」。そのちがいをオルゲルプンクトになぞらえたもの。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるん

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2013年04月29日

番外編・「JIJI い放談」

A:よオひさしぶり ! 待ったか ? 
B:かれこれ 2 年ぶり ? いやもっと長かったか。そんなには待たなかったけど。
A:で、本日のお題は … いま話題の本かね ? 
B:お題を決めたってどうせすぐ脱線するけど。
A:村上さんの例の最新作、スゴいねェ、たった一週間で初版 100 万部だってよ ! 
B:オレは流行りものは嫌いなんだが、村上さんについてはご自身すぐれた翻訳家でもあるし、前々から気になる存在ではあったんだね。で、前作 … はなんだかすごく長そうだったんで ( 苦笑 ) 遠慮したから、今回の作品は手ごろな長さだし、しばらくしたら地元の本屋をのぞいてみようかなって思ってたんだけど … なんかどこも品切れ入荷待ちみたいだね。流行にもいろいろあれど、とにかくこういう「純文学もの」が売れる、というのは、本屋さんにとっては手放しでうれしいことなんじゃないかな。
A:村上さん、とくると、あんた的にはやっぱり『翻訳夜話』かね ? 
B:うん … 最近、再読してみた … その本の中でご本人が「予告」していたとおり、その後サリンジャーやフィッツジェラルドの新訳を上梓されて、調べたら『夜話』の「続編」まで 10年前にすでに出ていたりして ( 笑 )。
A:あれはまるまる『キャッチャー・イン・ザ・ライ』翻訳の話だよ。
B:… チャンドラーの『長いお別れ』の新訳も手がけているんだね、すごいなあ … 。でも自他ともに認める「翻訳刊行点数の多さ」だけれども、これってぜんぶ、自身が気に入った小説だけを翻訳したものなんかなあ ? 
A:たしか『翻訳夜話』に、「机の左手に気に入った英語のテキストがあって、それを右手にある白紙に日本語の文章として立ちあげていくときに感じる喜びは、ほかの行為では得ることのできない特別な種類のもの」とか、書いてなかったっけ ? 
B:「翻訳の神様」というタイトルのまえがきの一節だよね、それ ? ということはいちおうご自身が気に入った本だけを訳しているというふうに考えていいのかな ? そういえばかなり古い翻訳指南書に、「自分の考えとまったく相容れない内容の原著を翻訳するぐらい心理的に苦痛」なことはないって書いてあったことも思い出した。
A:でも現実には … 。
B:翻訳専業でやっている人に言わせれば、そんな贅沢は許されない、自分の好きな原本だけを翻訳できるなんて、しょせん大作家先生にしかできない芸当だ、なんて嘆き節が聞こえてきそうだな。
A:村上さんていわゆる下訳者って使うのかな ? そういうケースって多いじゃない。
B:たしか『夜話』に、「下訳というようなものはまったくなしで、まず自分で翻訳します。それを何度も何度もチェックして、文章を揃えて、プリントアウトして編集者に渡して、その稿を柴田さんがチェックして、… そのコピーを僕がもらって、二人で持ち寄って、ああでもないこうでもないと討論して、そうやって最終稿を仕上げます」とかって書いてあるよ。
A:まるまる一冊、ぜんぶ翻訳するんだ、そりゃすげえ。よっぽど「ヨコのものをタテにする」のが好きなんだな。
B:いまじゃ PC の画面見ながらエディタかワープロソフトで打ちこみだろうから、その物言いはちと古い気がするが。
A:昔は縦書き原稿用紙に … 。
B:文字どおり「ヨコのものをタテに」していた。ペラ何枚、という言い方もとっくに死語かしら ? と吉田秀和氏ふうに言ってみる。とにかく『翻訳夜話』は、とくに英米文学ものをよく読む人とか、そっち系の翻訳者を志している人はまず読んだほうがいい、must な一冊だと思うね。
A:… その手許にあるのは … 。
B:最近、「新書」って売れ筋みたいで … 昔からそうかもしれないけれど、なんか本屋に行っても文芸ものの文庫本より、すこし判型の大きな新書もののほうがベストセラーリストによく入っていたりするよね ? 
A:刊行点数はやたら多いが … 。
B:玉石混交、いやもっと言えば「悪貨が良貨を … 」という印象。いわゆる「平積み」してあるコーナーで何冊か手に取ってパラパラ繰ったりするけど、「なんでこんなのがそんなに売れてんのかねェ ? 」と首を傾げるようなものも多くて ( 苦笑 )。
A:で、その新書本はアンタ的には正解だと ? 
B:そのギャク。オレは「これは買うべき本、これは図書館で借りて読むべき本」とはっきり分けている。蔵書 … ったってたいした量の本を持っているわけじゃないが、ほいほい買うわけにもいかないでしょ、いつリストラされるかわかんない一介の底辺労働者なんだから … それに物理的にもうムリ。コープマンみたいに庭に書庫を立てるわけにもいかんし ( 笑 )。だから、あえて名は伏すが、以前、庶民の味方の図書館を目の敵にするような内容を週刊誌に寄稿していた人とかいたけど、トンデモ発言だね、ありゃ。
A:… 図書館員は全員、書店で研修を受けよ、そうすれば一冊の書籍を売るのにどれだけ苦労するかが身をもってわかる、みたいな記事だったっけ ? 
B:それそれ ( 笑 )。バカじゃないのこの人ってそのときは思ったよ。そういうこと言う人に訊いてみたい。あなたは調べ物で図書館を利用したことが一度たりともないのかってね。
A:その人ってたしか、「売れ筋の本ばかり何部も所蔵する公立図書館の傾向」を問題視していたよね ? 
B:だからって図書館じたいをまるで商売敵のように扱うのは論外も論外。音楽 CD でもおんなじこと言ってるけど、ほんとに必要だと判断したら買いますよ、紙の本だろうといま流行り ( ? ) の電子書籍だろうと、その人にああだこうだと言われるまでもなくね。買うか買わないかを決めるのは読者であって、本を書いた人じゃない。その人の書いた本ってまるで興味のない分野ということもあってか読んだことないし、読んでない本についてあれやこれや言うのは「これはワタシの飲んでいないおいしい / まずいワインです」と言っているようなものなので本来は慎むべきなんだが、たいていそういうこと言う人の書いた本って書き散らし系が多くて、ツマラないときている。
A:じゃその本もそんな一冊 ? 
B:いや、けっしてそうじゃない … 最近よく TV とか出ている若い論客のひとりで、それまでちっとも知らなかったからちょっと興味を惹かれて、それじゃなんか読んでみるのが一番、と思って借りてきたんだけど … なんつーか、ひとことで評すれば、「なんとも挨拶に困る」って感じ。
A:… なんか先の大震災で飛び交った流言を検証した内容みたいだが ? 
B:「日本は『震災大国』であり、… 今回の大震災からも、私たちは多くのことを学び、その教訓を後世に残していく必要があります … 今回のような大震災の場合、流言やデマは、直接的な暴力を発生させるだけでなく、救命のための機会損失を生みます … 非常時においても、流言やデマが広がりにくい環境をいかにして作っていくのかという課題が重要」… というのはしごく当然で、正しい。でもたとえばそのすぐあとに「個人のリテラシーだけに頼らない」とあって、「しかし、災害が起きてから、短期間でこの社会にいる全員のリテラシーを上げるのは困難 … リテラシーの底上げに関しては、普段からの備えとして常にやり続ける必要がありますが、それだけでは議論としては不十分」とある。で、有効なのが「流言ワクチン」というものなんだが … 「歴史に学ぶということ … の重要さです … 過去の流言やデマの事例を知っておく。… 流言に対する抵抗力を持つ人が増えると、単にその個人が流言を鵜呑みにしにくくなるだけでなく、その流言の拡散する速度を抑え、範囲を小さくすることもできます。それはまるでワクチンを接種する人が増えることで、個人が病気にかかりにくくなるだけでなく、集団的にも病気が蔓延しにくくなるのと似ています」… 。
A:え ? けっきょく情報リテラシーの底上げにはなってるんじゃないの ? 
B:と、思うよね ? ずっとあとのほうに有名なオーソン・ウェルズの「『宇宙戦争』事件」を分析した本の引用が出てくる。その本には、当のラジオドラマの内容を信じてしまった人と、そうでない人とのあいだにどんなちがいがあったのかを吟味して、学歴や経済階層といった項目を比較検討している。
A:で、その結論というのは … 。
B:「彼は、個人の『批判能力』に注目し、『多方面にわたる教育の機会を提供する必要がある』」。
A:それって個人の情報リテラシーを上げることとおんなじだよね ? 
B:この本の言う「ワクチン」と、この米国人社会心理学者の言う「結論」との差が、よくわかんない。だから、挨拶に困るっていうこと。なんか全体的に書き散らしたというか、拙速な感じも否めないし。
A:「静岡ガンダムが倒壊した」なんて話、ホントに流れてたの ? 
B:オレもそれは初耳。この本ではじめて知った ( 苦笑 ) 。「集合痴」の一例ってやつかね。
A:だいいちあれおまえんとこで震度 4 だったろ ? はるかに離れた静岡でそんな被害が出るわけがない。よっぽど地盤のやわい場所でもないかぎり。
B:あのとき震源が富士山の南西麓直下だったから、真剣に噴火を恐れていたよ。でも知るかぎりではそんなことどこの機関も公には報じたり、発表したりというようなことはなかったから、杞憂だったんかなって思ってた。
A:でもついこの前、新聞に載ってたぞ、そのこと。
B:どうしても地下深くのことだから、解析結果が出てくるまで時間がかかる。でもまだまだ安心はできんがね。
A:流言といえば、富士山山梨県側の林道だったか、300m にわたって地割れがどうのって TV のワイドショーが騒いでいたな。
B:肝心なことについては黙し、どうでもいいことには飛びつくんだね。どう見たってあれ大量の雪解けのせいでしょ ? もし火山活動だったら全山、そうなってなきゃおかしい。
A:たまに積雪が少ない冬とかあると … 。
B:やっぱりニュースになったりする。富士山の年間積雪量が最大になるのは、じつはいまなんだけどね。それよりも旧春野町の茶畑で進行中の地すべり。テレビ朝日系列のワイドショーで、レギュラーの人が地質的なことを訊かれて、「富士山の火山灰とか影響があるんですかね ? 」と平然としゃべっていたのには、おどろくやら、あきれるやら。
A:知らないなら知らないって言えばいいのに。
B:常識を疑う。地図を見ろって感じ。静岡県の地質は西へ行くにしたがって時間を遡っているというおもしろい特徴がある。茶畑のあるあたりは中央構造線に近い四万十帯と呼ばれるひじょうに古い時代の堆積層で、断層活動による破砕が進んでいるところ。ちょうど富士川河口あたりから、駿河トラフの延長と考えられている富士川断層帯がほぼ南北方向に大地を切っていて、そこを境に東側が時代的にぐっとあたらしい堆積層、ようするに新富士火山や箱根火山、そして南から本州を押しつづけている伊豆半島がつづいている。だから、日本で一番高い火山と日本一深い湾と言われている駿河湾がそこにあるというのは、必然的にそうなる理由があるんだね。
A:この本にもどると … ちょっと見た印象として、いかにも「マニュアル世代の意見」だなあって感じがするんだが。
B:そこが最大の問題点じゃないかと思う。ワクチンだの、処方箋だの、そういう物言いも気になる。残念ながら、災害なんて流行語みたいになったけれども、それこそ想定外のことばっかだよ。これこれの本を読んで学習したから、もう大丈夫、なんてことはないのにね。
A:避難訓練は大事だが … 。
B:本番になったら、それも忘れろって「釜石の奇跡」と言われたあの防災学の先生が言ってたよ。
A:でも専門家の言だからといって … 。
B:鵜呑みにするな。専門家も人の子、それにそういうときにかぎって、わざとウソを垂れ流す輩が決まっているから始末におえない。最後は自分で判断するしかないんだよね。もっともいざ情報弱者になったら … 自信はないな。もともとダマされやすいほうだし ( 苦笑 ) 。
A:… それとこの本、大急ぎで出版したせいなのか、もっとも肝心な点についてはなんも書かれてないような気もするな。
B:ほのめかしていどならあるけどね。流言研究云々 … はけっこうなことながら、ほんとうに問題なのはリテラシー底上げのための教育と、あとあらゆる分野にわたって進行している「過度の専門分化による弊害」をどうするか、かな。その本にもそのへんのことが書いてあったよ。「科学分野については詳しい方も、経済分野についてはおかしな理屈を鵜呑みにしてしまうというようなことは往々にしてあります」って。
A:だから、それが問題なんだ。そのへんをなんとかしないと … なんか昨今、「ここのサイトで見たから、これは正しい情報だ」とか、そんなふうに自分ではなにも考えようとしない人が多すぎるんじゃないか。
B:「流言ワクチン」という言い方に違和感があるのは、けっきょく、自分が判断をくだすべきことさえ、他人任せにしちゃってるんじゃないかという気がしてならないから。何事もそうだけど、ふだんの、そして不断の積み重ねこそが大事だって言いたいよね。ちょっと話がトブけど、あるとき「ラスト・クリスマス」っていう古い映画が深夜放送で放映されてて、懐かしくて見ていたら、難病の子どもが病院を抜け出てどっかへ行っちゃう場面があるんだ。で、当然のことながら、両親は医者に詰め寄ってはげしく責めたてる。で、ずっと黙って聞いていた医者が、やおらこう訊き返すんだよね。「それじゃ、あなたがたはどこにいたのですか ? すこしでもあの子のそばにいてやれなかったのですか ? 」って。
A:いざことが起きると、他人「だけ」を責める人ってふつうに多いよね。どこの国も似たようなもんだとは思うが。
B:責任はひとりびとりにひとしくあるのにって、最近つよくかん感じるよ … 原発の問題とかそうだよね。むつかしいけれども。
A:で、ほかの著作とか読んだ ? 
B:うん、いちおう … 最新刊とかも目を通したけど、なんというか、やっぱり挨拶に困るというか … とくに「サクサクコツコツ」という言い回しがね。いったいどういうことって感じ。なにをそんなに結論を急いでんだろ ? そんなにかんたんに解決できる「処方箋」なんてありはしないのにね。以前読んだ、Happy for no reason の著者とおなじ落とし穴にはまっている気がする。ようするに、進むべき方向がちがうんじゃないですか、ということ。
A:若い論客に幻滅した ? 
B:そういうわけじゃないが … ジョイスを引き合いに出すまでもなく、いずれ世代は選手交代し、若い人が主役に立ち、そしてワシら「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」だ。… でも最近よく TV で見かける若い社会学者の言動を見てると、やはりこの本書いた人と物事の捉え方、考え方はある種通底したものがあるように感じるよ。

余談:こちらの訳者、じゃなくて役者さんも、ずいぶん年とったなあ … 。念のため記事タイトルは、かつて TBS 系列で放映されていた日曜朝の名物対談番組、「時事放談」のもじり。

posted by Curragh at 20:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近読んだ本