2009年09月23日

『アイルランドの文学精神』

 『ケルトの聖書物語』の著者である松岡利次先生渾身の著作。一昨年にはすでに刊行されていたのに、知ったのはつい最近、『アイルランド・ケルト文化を学ぶ人のために』という4月に出た本の「ケルト神話と中世航海文学」の項目章末に挙げられていた参考文献リストを見てからでした(遅すぎ、武蔵)。→版元紹介ページ。

 副題に「7世紀から20世紀まで」とあるように、数多くの手写本が残されるようになる7世紀以降のアイルランド文学を俯瞰していますが、それだけにとどまらず、アイルランド文学という土壌に一貫して流れる彼らの文学精神について平明に語ることに重点を置いています。これはかなり異色で稀有な著作だと感じました。

 自分自身はいわゆる「ビッグハウスもの」とか「詩人の学校」とかはおろか、現代アイルランド作家についてほとんどなにも知識を持ち合わせていないから、この手の本はほんとうに貴重。読み終えて、6世紀ごろ作の『聖コルムキレ賛歌』にはじまり、90年代のアイルランド版バブル時代の作家メアリー・バークの『イー・ブラジル』*とかドウナル・ルエインの『俺はアイルランド人――ここから救い出してくれ』までの文学が孤立した点ではなくはじめて一本の線としてつながり、古より一貫して通底するアイルランド人の「意識の流れ」というものがようやくにしてわかってきたかとも思う。これはひじょうに大きな収穫でした。

 承知のとおりアイルランドの歴史は苛烈を極める搾取と偏見、差別の歴史でありますが、「それでは彼らの言語面ではどうであったのか」という点について、他国からの侵略というものに頻繁にさらされたことのなかった日本人から見るとまことに想像を絶するものがある。近代以降、アイルランド人の大半は本来のことばであるアイルランド・ゲール語を捨て、「アイルランドの」英語話者として生きる道を歩まざるを得なかった。反動として、ダグラス・ハイド博士らの「ゲール文芸復興運動」などが盛んになりますが、異国の地にあってそのようすを冷静に眺めていたジョイスやベケットたちはそこに巣食う偽善性、偏狭な原理主義を敏感に嗅ぎ取り、彼らの運動そのものを諷刺、パロディ化した。おなじ国の人間でありながらもはや母国語に立ち返ることもままならず、かといってよそ者の言語にして植民地時代から宗主国によって押し付けられた英語にも心の奥底に秘めた思いを託すこともできず、また北アイルランド問題に代表されるように文字どおり国家そのものがいまだに引き裂かれた状態にあるなか、この異常な「言語の二重状態」によって精神までもが引き裂かれつづけている――アイルランド文学とはつまるところ、この異常な言語情況が作り出した一種の奇跡にして怪物と言えるのかもしれない。

 初期キリスト教時代のアイルランド人聖職者は国際語にして共通語だったラテン語を完全に我がものとして、ラテン語そのものを皮肉った『西方風の語り(Hisperica Famina)』なるとてつもない奇作まで創作している(作者はたぶん大陸にいたアイルランド人学者。ある意味この作品はジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の先駆けとも言える)。でもジョイスたちの綴る英語(もどき)の小説になるとあきらかに事情がちがう。言ってみればそれは、聖コルンバヌスが革舟カラフを駆って大陸へと布教旅行して身につけた「外国語」としてではない。彼らの乗ったそのおなじカラフがその後「棺桶船」に変わり、大飢饉に見舞われた祖国を捨て、生き延びるためにやむをえず海へと乗り出すしかなくなったアイルランドの農民が世渡りをするため、生きていくために身に着けることを余儀なくされた「外国語」として、だと思う。この絶望的にどっちつかずの状態に陥れば、人は失語症になるか、やたらくたらとしゃべりつづける饒舌のいずれかになるしかない。アイルランドの文学者たちは後者を選んだ――でも彼らの内面は分裂したまま。ある者はゲール語にこだわりつづけてゲール語でものし(『アイルランド地誌』のカンブレンシスも槍玉に挙げられる)、ある者は「みずからが英語話者のくせして、母国語を復活せよというのは偽善だ」として英語で書きつづけ、前者を、ひいては自分たちの国民性までも痛烈に皮肉り、パロディ化してしまう者…いままでこういう視点で考えたことがなかったので、このへんにくるともう圧倒されっぱなし。著者の書き方がはたしてこの「言語二重性問題」を言い得ているのかどうかはまた批判する向きもいるかと思うが、個人的にはそのとおりかも、と思う。歴史を通じてアイルランド文学のひとつの特徴として感じるのはたとえば時間の流れの歪み、あの世とこの世の「結界」のあいまいさ、徹底的に「笑いのめす」諷刺精神、そして何十にも入れ子になった複雑なパロディ化だと思う(もっとも「饒舌さ」、「話好き」については中世写本の楽しい「落書き」にも見られるように、彼らの生来の特徴と言える)。

 いまひとつ、終末思想というものはどこの世界にもあるとは思うけれどもアイルランド人聖職者たちはことのほか興味を示して、パロディ化した作品をいくつも残しています(『天の王国の悲しきふたり』、『聖アダムナンの幻視』、『常新舌』、『終末の兆し』など)。これについてもやはり彼ら独特の「無常観」が反映された結果かもしれない。『アイルランド来寇の書(Lebor Gabála Érenn)』は最初の植民から最後の「ミールの息子たち」、つまりいまのアイルランド人の祖先がやってくるまでの「神族」たちと人間たちの果てしない興亡を、ひとりの「変身しつづける、死に切れない人間」の目から描いています。また「地上楽園」のごとき形容をされるアイルランド特有の「異界」も、じつはこの世の対蹠地(antipode)、一種のパラレルワールドにすぎず、苦しみもあれば争いごともある(『コンラの冒険』、『ネラの冒険』など)。でももう「死んでも死に切れない」という苦しみからはいずれ解放される! ――「最後の審判」のときこそ、まさにこの世の「時間」というものが消滅するからだ…世の中を見てみればたとえばノースメン(ヴァイキング)来寇とか、堕落した大修道院どうしの血なまぐさい闘争とかが頻発する。当時の写本に書き写された物語群は額面どおりに受け取るものではなく、「それが書かれた時代背景」というものが反映されているもの。加えて、フィリと呼ばれた特権階級の詩人たちから受け継いだこのような「ぐるぐると果てしなく生々流転しつづける」物語が好きという、アイルランド人の精神的嗜好というものをかんがみる必要があると思う。その後はアングロ・ノルマン軍の侵入、だんだんに強化される宗主国の政策とカトリックの弾圧と差別、そして母国語抹殺の悲劇…とまさに現し世の悲惨を味わい尽くしたかのような茨の道のりが彼らの文学作品に深く深く影響している。また古代アイルランドの残影がいまだに現代文学にも見受けられる。たとえば「呪い」。例として挙げられている「死ね、カイアル!」に代表される呪いは詩人階級などが勢ぞろいして執行される儀式になっていたという(古代アイルランド社会では公衆の面前で恥をかかされることは万死に値することと考えられていたらしい。かつての日本にも「恥の文化」はあったが…)。なんだか日本の「丑の刻参り」みたいですが、そうはいっても彼らの過酷な言語環境はこちらとではまるで比較にならない。日本はむしろアイヌの人こそ、「言語を失う筆舌に尽くせぬ悲しみ」というのを肌身で知っているように思います。またある作家が自分の名前からゲール語長母音記号の「ファダ」を取り去ることがいかにつらい決断だったか、についても書かれていましたが、われわれにはおよそ計り知れない「大事件」にちがいないと察します。

 ひところのように単純に「ケルト的(Celtic)」とくくられることはなくなってきたとはいえ、やはりアイルランド人とその文学遺産に見るケルトの精神とはなにか、を深く考えさせられる一冊であることにはまちがいありません。虚心坦懐に、貪欲に、そして真摯に彼らの文学精神を学びたい向きには必読の書です。

 巻末の「アイルランド文学年表」。6世紀末の『聖コルムキレ賛歌』にはじまり、20世紀まで列挙された作品の蓄積は壮観そのもの、身震いさえ覚えます。著者は「あとがき」で近現代ものは大幅に割愛せざるを得なかったと書いていますが、それでもこれだけの作品群の分類と、時代を超えて縦横無尽に語るそのステーリーテリングの巧みさには目を見張りましたし、またなぜか心慰められたりもした――『方丈記』にも相通じる無常観とか、7-8世紀の隠修士たちの書き残した美しい自然詩(当時としてはこの手の自然詩というのはほかに例がない)とかには、たしかに日本人の心の琴線に響くなにものかがあると思う。でもアイルランド文学というのは、輝かしい黄金時代の呪縛からいまだに逃れられず、「私たちは生きているが、私たちは死んでいる(『ダ・デルガの館の崩壊』から)」という状態でこのやりきれなさから脱出しようと必死に活路を見出そうとしているのかもしれません。また19世紀の土地測量に伴う「地名の英語化」がいかに土着の文化と記憶を破壊したかについても言及しています(p. 76の「ケリー州のアイルランド語使用地域コルカ・グイーネ[=ドゥヴネの子孫の意]」(Corca Dhuibhne)というのは、現在のディングル半島一帯を支配していた古王国の名前で、英語名Dingle(Peninsula)へと変えられた[→観光局サイト]。ちなみにこんな記事も見つけました)。

*...「イー・ブラジル(Hy-Brasil)」はいわゆる「楽土」、「楽園」のことですが、これについてはカーニーらによるとUí Breasailに由来する可能性は否定しないものの、アイルランド土着のことばではないという。「ブラジル島」がはじめて地図に出現するのは1325-30年ごろのカタルーニャの地図上だという。その後ピッツィガニ兄弟やアンドレア・ビアンコらの地図に描かれるようになり、1853年になってもなおこの空想の楽園が'Hy-Brasil Rocks'として英国人フィンドレーの地図に記入されていた。『聖ブレンダンの航海』がらみでは、p.108『西方風の語り』中、「…風の話に続いて、集まった人びとの衣服について触れている。紫の衣をまとい、白い衣をまとい、真紅のローブをまとうというのである」というのは、たとえばchp.17に出てくる「三組の聖歌隊の島(堅き者の島)」の聖歌隊の描写、「少年組は白、青年組は青、壮年組は真紅の」衣服をまとっていたという記述にどことなく似ていると感じた。

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2009年08月23日

『アトランティスは沈まなかった』

 以前から目をつけていた本。やっと借りまして、読んでみました(Amazonで探したら、原本はあいにく品切れみたい)。

 著者はスウェーデンきっての気鋭の地理学者・地形学者にして、海底測量のプロでもある(→公式サイト)。なんでもこの先生、1991年にアイスランド南岸沖に浮かぶ比較的あたらしい火山島サートセイ(Surtsey Is.、セヴェリンのThe Brendan Voyageにもこの島の記述が出てくる)にて学術調査をおこなったり、同年にスウェーデンの王立科学協会から「リンネ賞」を授与されたりと、相手にとって不足なし。内容ですが、プラトンの伝える「アトランティス伝説」は、なんとなんとアイルランドがモデルだった?! という衝撃的なもの。…1960年代にサントリーニ(テラ)島の発掘調査をした学者先生の書いた本とかちょこっと読んだ者にすれば、まさにこれは驚きとしか言いようがない。しかも著者は、アイルランド各地に残る「巨石文化遺跡」こそプラトンが描写した「ポセイドンの宮殿」である可能性が高い、なんて言っています――これはほんとうに驚き。たまたま先月、「世界ふしぎ発見!」にてアイルランドにおける巨石文明について見たばかりだったから、いやがうえにも読み手の気分も高揚しようというもの。

 著者はまず専門である地形学的アプローチから、プラトンの記述する「アトランティス」と現在のアイルランドとを比較しています――デジタル地形モデル(DTM)という科学的手法も援用しての検討によると、どちらもきわめてよく似ているという。プラトンの対話篇『クリティアス』によれば、アトランティス島は全体的に海から急角度で高く突き出したような地形だが、町とその周囲は平坦な野で、そのぐるりを丘が囲んでいて、それが傾斜して裾が海に没している…島は細長い形をしていて、中央部で縦の長さ3000スタディオン、幅が2000スタディオンあった、という。「スタディオン」という計測単位を著者はアレグザンダー・トームの提唱する「巨石ヤード」から約166mだと割り出していますが、これを現在のアイルランド島に当てはめると…縦が2932スタディオン、幅2038スタディオンでその差は3%以下!! アイルランドの地勢といえば、真ん中が平野で周囲を丘(山)に囲まれ、それが傾斜して裾が絶壁をなして海に没しているという、ふつうの島とは反対の特徴を持つ。この点もアトランティスの記述とぴたり一致する(ふつうの島は、中央部に山が聳えているもの)! 

 …とまあこんな感じで、自分の立てた「仮説」のまちがいを立証しようとする、科学的に正統な手法にのっとって逐一検証しています。冷静に分析を進める科学者らしい記述はたいへん説得力があり、推論もたいへん刺激的でおもしろい。アトランティスの海没については、紀元前6100年前ごろに発生したとされる「ストレッガ地すべり」による大津波と、その後しばらくして発生した北米大陸における氷河湖の破滅的な決壊と急激な海面上昇(全世界の海面がいっきに30cm上昇したという)、つまりは「津波と洪水」によって、ドッガーバンクにあった浅瀬の島が沈んだという伝説とひとつになったのではないかと書いています。こういうことは古文書ではよくあることで、アイルランド北西部スライゴーにそびえるノックナリという山のてっぺんに鎮座している女王メイヴの石塚とされるものについても、もともと石器時代の遺跡なのに後代の鉄器時代の鉄血女王が埋葬されているというのは奇妙だとして、やはりふたとおりに伝わっていた伝承がごっちゃになった可能性を指摘してもいます(メイヴは、「クーリーの牛捕り」に出てくる伝説的な女王。先月見た番組ではここに「立ったまま」埋葬されているとか言ってましたが、いまだに発掘調査はされたことがないという)。また有名な「ニュー・グレンジ」などの巨石遺跡の集まる「ブルー・ナ・ボイネ」とかの関連については、なるほどと思わせる「仮説」を展開しています。

 ただ…プラトンの著作には謎めいた物質として「オリカルコス(現代ギリシャ語では「真鍮」のことらしい)」なるものが出てきて、これについても詳細に検討していますが、このへんにくるとやや迷走(?)ぎみに。アイルランドはたしかに銅の産地として地中海地方とも交易していたらしいから、なんらかの鉱物を指しているのはまちがいない。ここでは語源的アプローチから検討していますが、アイルランドの古代ラテン語名Hiberniaはアイルランド南部にあった銅鉱山の町ヒベルニスから来ていること、銅の語源はkýpros(英語のcopperもここから)であり、「イベリア」という地名とともにヒベルニアに由来しているのではないか…というのはなんだか強引だなあ(イベリアってたしか川の名前かなんかから由来しているんじゃなかったっけ? ちなみにギリシャ語のÉriuがアイルランドゲール語の国名Éireの語源。Hiberniaは「冬の国」からきているというのが一般的)。最後の二章(「自由な思索は偉大だ」、「神話と科学」)にいたっては、本論からかなりはずれて(?)現代文明批判めいてくるのも気になる。もっとも、mtDNAの解析結果の話はすこぶる刺激的でした…なんとなんと、ヴァイキングよりはるか昔、アイルランドの「船乗り修道士」のはるか以前に、オークニー諸島など北方の島々から人間が北大西洋を(つまり復元船ブレンダン号とほぼおんなじ「飛び石ルート」で)横断して北米大陸へと渡った形跡が見られるという! 解析ではアイルランド本島の人間ではなくて北方の島の人間らしい。『アイルランド来寇の書』に悪者として描かれている巨人のフォモーレ族は、しばらく支配したのち「北の海」へと追放されたという。ドッガーバンクの「沈んだ島」の住人だったのかもしれない。それが津波と大洪水で北大西洋ルートが絶たれ、結果的に「失われた大陸」伝説として残されたのではないか、などなど(蛇足ながら、p.149の「ハプログループXの頻度図」説明文中の「西方諸島」というのはスコットランド西の海に連なるアウター・ヘブリディーズ諸島を指す)。

 破滅的な自然災害が起きれば、当然、それ以前の世代の技術も文化も記憶もすべては途絶え、いったん「無」に帰すものです。この紀元前6100年前に起こった津波と、その後襲った海面上昇(大洪水)によって、「失われたアトランティス」という「物語」が語られはじめたということは、おおいに考えられる話です。『ギルガメシュ叙事詩』とか「ノアの箱舟」というのも、もとをたどれば世界的規模で人類を襲った同一の自然災害の「記憶」にほかならない、と思う。年代的にもほぼ一致すると思うけれど、この点はどうなのかな? 

 また最後のほうで、まがいものの神話(嘘、プロパガンバ)と何千年ものあいだ伝えられてきた「神話」との区別の大切さを問うているくだりはとても共感できる。

「…伝説を理解することは、わざと創られた神話を理解することとは根本的にことなる。なぜなら、話そのものは正確なかたちで保存されてきたとしても、状況のほうが――アトランティスの場合のように地理的状況や、文化的状況等が失われていることも、少なくはないからである。当然のことながら、まず我々が第一に行わなければならないのは、いま自分がどのような種類の神話を扱っているのかということを知ることだ。次に、自分が知らずしらずに持っているかもしれないさまざまな思いこみを意識化し、それを正しく評価しようとつとめなければならないのである(p.185)」。

 読み手にはあくまでも「批判的に」考えることをしきりに強調しているけれども、著者は自分の主張にはかなーり自信があるとみた。あとはほかの分野の専門家が協力して「反証さがし」をすることですね。もしその過程でどうしてもこの野心的なスウェーデン人学者先生の「仮説」がひっくり返せないのなら――そのときはじめてこの大胆な仮説が「定説」となるのかどうか。

 ここでちょっと余談。著者は有名な「タラの丘」の遺構について、「アイルランドの伝説によれば、ここは古代の王たちの宮居だったという(p.104)」と書いているけれども、個人的にはここもやや難ありだと思う。伝統的に「タラ上王(ハイ・キング)」を主張していたのは国土の北半分を支配していたイ・ニール王族のみで、南半分のマンスターの覇権氏族オーガナハト氏族は独自の王権を主張していたようだから、かならずしも「アルスター・コナハト・レンスター・マンスター」と「タラの丘」のあるミーズの五地域に割拠していた王が一堂に会して祭祀をとりおこなったり、だれだれが「上王」だと取り決めたとは思えない。たしかにタラは伝説の民「ダーナ神族」以来、歴代の王の即位の場としても使われてきたらしいけれども、歴史的裏づけに乏しく、その地位についてはやはりイ・ニール側が一方的に主張しているにすぎないように思う。具体的に文書に言及が出てくるのはかなりあとの7世紀ごろ、北イ・ニール族がアルスター・コナハトへと進出して五地域の支配均衡を破ったときからだと思われます。たとえばムルクーはこの急激に伸張してきたイ・ニール王権の中心地だったエヴァン・マッハ、すなわちアーマーにある教会をパトリックが設立したものとして権威づけ、ローマ教会から派遣された正統な使徒パトリックの司教座のあるアーマーを全アイルランド教会に君臨する首位教会として認めるように書いたりしている。ムルクー以外で、「タラの丘」の祭祀の権威性と聖パトリックとを結びつける文書は見つかっていない。またパトリック自身が書いたとされるふたつの文書には、「アーマー」についての言及すら見当たらないから、ムルクーらパトリック伝記作者の言う「アーマー教会の首位権」というのも疑わしい。それと、タラの丘にあったという「運命の石」がスコットランドに移され、最後はイングランドのウェストミンスター・アビイの「戴冠の石」となったという伝説がある(p.114)…なんて珍説、はじめて聞いた(笑)。→A.D.500ごろのアイルランド王権について書かれたサイトを見つけた。ひじょうに参考になりました(追記。ニュー・グレンジ遺跡の入り口前にでんとある渦巻き文様の有名な石。最近、大気汚染? のせいなのか、赤黒く変色してきたという。そういえばTVで見たときも、やや赤っぽく薄汚れていて、こちらのほうも気がかり)。

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2009年01月10日

『オバマ演説集』

A: 「最近、なんか新しい本読んだ?」
B: 「うん。基本的に売れている本は買わないほうだけど、たまには例外もある。次期米国大統領の代表的演説を集めた本で、薄っぺらいんだけど、CDまでついて、千円。これで米国英語の勉強ができるなら安いもんだよ」
A: 「かんじんの中身は?」
B: 「CNN記者の書いたバラク・オバマの生い立ちからはじまって、あとは2004年民主党大会での伝説的演説とか、大統領候補指名競争での演説とか、指名受諾演説、そして11月4日の『勝利宣言』までを収録してある。もっとも全文を掲載してあるのは伝説的な名演説として知られる2004年の党大会基調演説だけだけれどもね」
A: 「一読してどうだった?」
B: 「けっこう勉強になるよ。とくに英語らしい発想が。こういうときはこう言えば通じるのか、みたいな」
A: 「具体的には?」
B: 「たとえば、'The American Promise'と題された指名受諾のスピーチ。『共和党ブッシュ政権二期8年で、米国民の生活は急激に悪化した。まさしくこの国は正念場に来ている。この国は、もっとよくなるはずだ』という趣旨のことを言ったあと、具体例としてまずオハイオ在住の定年を間近にひかえたある女性のことを引き合いに出している。

 This country is more decent than one where a woman in Ohio, on the brink of retirement, finds herself one illness away from disaster after a lifetime of hard work.

 下線部、英語を学ぶ日本人にはちょっと思いつかない、ひじょうにcolloquialな発想の構文だと思う。意味わかる?」
A: 「ええっと、『病気ひとつ分だけ、disasterから離れている自分に気づいた』?」
B: 「そういうこと。ようするに、いまの共和党政権下の米国では、いままで骨身を削って国のために働いてきたというのに、いざ退職目前になって、病気ひとつでもしたらとんでもないことに陥ってしまう現実に気づいた、ってこと。すごく英語らしい発想だなあと感心しましたよ。おんなじこと言うのにこういう発想は思いつかなかった。とはいえ内容は深刻。米国のことというより、日本のことを言われてるみたいな気がして」
A: 「すでに地方医療は疲弊しているし、医療保険制度も危なっかしいよね。ほかには?」
B: 「やっぱり米国人というのは、子どものころからdebateとかで鍛えられているから、聞いている人を納得させるような話の技術がしっかりしているというか、内容も理路整然としていてとてもわかりやすい。中学生にはまだむりだけれど、高校生のリーダーとして勧めたいくらい。日本の報道ではやたらに'Change!'を連発する『ワンフレーズ政治家』ではないか、みたいな言われ方をされていたけれど、自分がブチあげた定額給付金にかんする発言がそれこそ猫の目みたいにころころ変わる『矜持』首相とぜんぜん『器』がちがうよ。市井の人の目線に立った具体的な発言が多いし、なにしろ自分の足で見て歩いて、市民の意見をちゃんと聞いているってことがよくわかるんだ。たとえば2004年の民主党大会基調演説で、

 Now, don’t get me wrong. The people I meet -- in small towns and big cities, in diners and office parks -- they don’t expect government to solve all their problems. They know they have to work hard to get ahead, and they want to. Go into the collar counties around Chicago, and people will tell you they don’t want their tax money wasted, by a welfare agency or by the Pentagon. Go in -- Go into any inner city neighborhood, and folks will tell you that government alone can’t teach our kids to learn; they know that parents have to teach, that children can’t achieve unless we raise their expectations and turn off the television sets and eradicate the slander that says a black youth with a book is acting white. They know those things.

とか」
A: 「ちょっと見せて…フーン、2004年の演説って自分の両親のことから話しはじめているね。お父さんって、英国領ケニアの掘っ立て小屋で、山羊を追う生活をしながら学校に通ってたんだ。爺さんは英国人の召使い兼料理人で、息子、つまりバラクの父親にもっと大きな夢を託していた。そんな期待にこたえて息子は苦学して米国へ留学、そこで運命の人と出逢ったということか。母親はカンザス出身で、その父親って、パットン将軍の部隊に所属してヨーロッパ戦線を行軍してたんだ。母親は銃後の守りについていて、戦後、連邦住宅局(FHA)の援助で家を買ったけれども、けっきょく一家はハワイへ移住したんだね」
B: 「そのあとで、こんな文章がくる。

 My parents shared not only an improbable love, they shared an abiding faith in the possibilities of this nation. They would give me an African name, Barack, or ”blessed,” believing that in a tolerant America your name is no barrier to success. They imagined -- They imagined me going to the best schools in the land, even though they weren’t rich, because in a generous America you don’t have to be rich to achieve your potential.

They're both passed away now. And yet, I know that on this night they look down on me with great pride.

They stand here -- And I stand here today, grateful for the diversity of my heritage, aware that my parents’ dreams live on in my two precious daughters. I stand here knowing that my story is part of the larger American story, that I owe a debt to all of those who came before me, and that, in no other country on earth, is my story even possible.

 下線部なんか、日本人でもなんかグッときちゃうよね。こうつづけたあとで、200年前の「独立宣言」から「われわれはみな平等であり、生命・自由・幸福の追求という侵されざるべき権利を創造主からあたえられている」を引用している。うまいと思わない? またイラク戦争については、こう言っている。

 And John Kerry believes that in a dangerous world war must be an option sometimes, but it should never be the first option. 」

A: 「戦争はあくまで最終手段であって、最初に戦争ありきじゃない、ってことだね。こういう視点はたしかに一匹狼的カウボーイのような現大統領にはなかった」
B: 「選挙演説だから、たとえば指名受諾演説では中低所得者層には減税をおこなうとか、聞こえのいいこともたしかに言っているとは思う。でもどの演説も一貫して筋道が通っているし、これはたんなる党利党略の小手先のレトリックじゃなくて、人柄がにじみ出ているからだと思うよ。前回の日本の衆院選挙を引き合いに出して、オバマ演説に魅了された人々を『ワンフレーズに踊らされているだけなんじゃないのか』ってコメントしてた人がいるけれど、そうだろうか。米国民、とくに勝利の原動力となった若い有権者が、オバマさんの演説を真摯に受け止め、この人に賭けてみよう、いまこそ過去のもろもろのしがらみを捨てて、『米国の進むべき道を変えなくては』って考えたから、オバマさんが勝ったんだと思うよ」
A: 「対訳形式で、とてもわかりやすい。訳はどう?」
B: 「お手本みたいな邦訳で、翻訳の勉強にもなるとは思う。ただひとつだけわからないのは、22ページ冒頭部、'Thank you, Dick Durbin. You make us all proud.'の訳が、『あなたはわれわれ全員に誇りを与えてくれています』になってること。自分は'You make us all proud of you.'の省略した言い方だと思ったが、どうなんだろ?」
A: 「それだと意味が逆になるね。それはそうと、ほかに印象に残ったフレーズとかある?」
B: 「そうね、『指名受諾演説』で環境政策についてはこんなふうに言っている。

 And for the sake of our economy, our security, and the future of our planet, I will set a clear goal as President: in ten years, we will finally end our dependence on oil from the Middle East.

Washington's been talking about our oil addiction for the last thirty years, and John McCain has been there for twenty-six of them. In that time, he's said no to higher fuel-efficiency standards for cars, no to investments in renewable energy, no to renewable fuels. And today, we import triple the amount of oil as the day that Senator McCain took office.

Now is the time to end this addiction, and to understand that drilling is a stop-gap measure, not a long-term solution. Not even close. 」

A: 「おおッ?! たった10年でアラブのあぶら売りとは手を切るってホント?」
B: 「本気じゃないかな…環境問題ではいまや欧州がもっとも進んでいる。マッキベンの本じゃないけど、いまが原油埋蔵量のピークで、いずれ枯渇することは昔から言われつづけていることだしね。日本は太陽光発電とか、省エネ技術はひじょうに高いものをもっているのに、国を挙げて売りこみをかけるとか、そういう意気ごみというか働きかけが弱い気がする。もっとも太陽光発電については、補助金制度が復活するみたいだが。このままだと排出量取り引きでも損をするような気がするね。ついでに最後の'Not even close.'は、'Not even (a) close solution.'を省略した言い方ね。おんなじ名詞にかかるから、close一語だけでわかる」
A: 「'cap & trade'ね。批判的な人も多いけれど、げんに世界はそういう方向に動きはじめている。後ろ向きなことばっか言っててもはじまらないんじゃないかな。このままではいいように使われて、そのまま捨てられるような気がするよ」
B: 「排出量取り引きはあくまで暫定的なものだと割り切ったほうがいいと思うよ」
A: 「おや、環境には背を向けてきた現大統領、なにを思ったのかこんな記事が」
B: 「NYTimesの社説でも取り上げられてるよ。米国にあるすべての自然保護区を合わせた合計面積よりも広い、北マリアナ諸島周辺海域を天然記念物として残し、この海域での漁業や鉱物資源の掘削を禁ずるって。でもまたなんでいまかな(笑)? 社説によると、たしかにひとつの自然保護区としては世界最大級だけど、じっさいに保護される海域は200海里制限いっぱいではなくて50海里まで、商業目的ではない『釣り』はOK、マリアナ海溝直上の海域は対象外…らしいよ」
A: 「なにもしないよりはましか。それに、タイムズって民主党寄りの論説書くでしょ。あんなでかい本社ビル建てたはいいけれど、いまや逼迫する運転資金の担保になってるって言うじゃない」
B: 「たしかにここは民主党寄りだよね」
A: 「でも『オバマ演説集』はおもしろそうだな。思うんだがこの本、英語でプレゼンとかスピーチとかしなくちゃいけない人にとっても役に立つよね? ならオレも読んでみるか――買わずに、図書館で(笑)」

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2008年12月21日

『クリスマス音楽ガイド』

 Joyeux Noël! と言うにはまだ早いけれども…この季節にふさわしいこちらの本を紹介しましょう。

 著者の言を待つまでもなく、この季節は――商業主義であれなんであれ――巷には音楽、それもクリスマスにまつわる音楽、音楽であふれます。クリスマス用に作曲された「歌」だけでもそれこそ膨大な数にのぼります。音楽好きにとってもこの季節は特別なもの。12月がくると、信徒であるなしに関係なく、やっぱりクリスマス音楽が聴きたくなるものです。クリスマス音楽には、古今東西を問わず作品としてすぐれている曲/歌も多い。クリスマスコンサートとかに行きますと、「天にはさかえ」とか、「荒野の果てに」とか演奏されたりします。でもこれらは「耳なじみ」でありながら、じつは知っていそうで意外と知らなかったりする。この本はその数え切れないほど存在するクリスマスの歌のなかから「正統派」に絞って――著者はご自身がプロテスタントゆえ、収録した曲もおもにプロテスタント系だと断ってはいますが――収録しています。とはいえそんなに「偏り」はないような気がする。たとえば英国キャロル(「ひいらぎとつたは」、「グリーン・スリーヴズ」旋律による「古いものはみな」、「牧人ひつじを」)あり、フランス古謡(「荒野の果てに」、「たいまつ手に取り」)あり、英国国教会(アングリカンチャーチ)賛美歌(「天にはさかえ」、「もろびとこぞりて」、「まぶねのなかに」)あり、中世ドイツのキャロル(「エッサイの根より」、「マリアは歩みぬ」、「いまこそ声あげ」)あり、ルター派のコラールにもとづくもの(バッハ作と言われる「まぶねのかたえに(「シェメッリ歌曲集」、BWV.469)」、ルター作詞の「いま来たりませ」、「暁の星のいと美しきかな」)あり、そのほか古謡にもとづくもの(「ウェンセスラスはよい王様」、「いざ歌え、いざ祝え」)あり、しかもこれらが教会暦にしたがって、つまり「待降節第1主日」から1月6日の「主の公現日(顕現日、エピファニー)」まで順番に並んでいて、どの歌がどの日に歌われるものなのかがわかるように書いてある点がいい(教会暦では待降節から「新年」がはじまる)。章ごとにコラムがあり、たとえば「サンタクロース」についても、子どもたちにプレゼントを渡す日はもとは12月6日の聖ニコラオスの祝日だったとか書いてあるし、ドイツ語でなんで大晦日がSilvesterと呼ばれるのかとか、教会ではなぜクリスマス当日ではなくて前日のイヴが重要なのかとか、読んでいておもしろい(そしてためになる)薀蓄もさりげなく織り交ぜてあるところもいいですね。たしかに耳で聴いてそれでよければいい、という向きもあろうかとは思うが、その歌がどの日に歌われ、あるいはどんなふうに生まれたのか、どんな歌詞なのかということがわかればもっと楽しいし、歌にたいする理解もおのずと深くなるはず。なのでこの本、意外と類書がありそうでじつはなかった分野かもしれない。そしてこの本、すばらしいことに著者(教会オルガニスト)自身による演奏CDまでくっついています。ご本人は謙遜されていますが、演奏もすばらしい。なんだかオルガンによる、クリスマス・カラオケメドレーみたいな趣きさえしてきます。「キリスト教会におけるクリスマス音楽」について、もっと知りたい人にはまさにうってつけの入門書だと思います。各曲にはそれぞれかんたんな譜例も掲載されているので、じっさいに音を出してみるとさらに楽しい気がしますね。かくいう自分も、絶対音感がないゆえ、「久しく待ちにし」ってどんな曲? と思ってじっさいに音を出してみたら、なんだ、行列聖歌の「来たれ、エマニュエルよ('O Come, O Come, Emmanuel')」でした(苦笑、拍子線なしのグレゴリアンチャントの譜面なので、見ればわかりそうなものだったが)。

 またシャルパンティエの「真夜中のミサ」、ダカンの「ノエル」、バッハの「クリスマス・オラトリオ BWV.248」、コレッリの「クリスマス協奏曲」といった名曲もあわせて紹介されています。これらの作品は、すべて今週の「バロックの森」でかかりますから、聴いたことのない方はぜひ。
評価:るんるんるんるんるんるんるんるん

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2008年12月15日

『キリスト教修道制の成立』

 以前、紹介したジム・ロビンソン博士の「ユダ福音書」関連本の訳者先生による論考集。書名を見ればわかるとおり、「そもそもキリスト教における修道制度というのはいかにして成立したのか?」ということに焦点を絞った本です。古代教会成立史についてはそれこそ膨大な文献の蓄積があるので、修道制度成立についてもタネ本、ではなくて歴史資料がたくさんあるのかと思いきや、意外にもそうでもないらしい。初期修道制度、とくるとエジプト(アントニオスやパコミオス)とシリア、トルコ(大バシレイオスなど)かな、と思うのですが、一次資料という点で見ると、わりと記録が残っているとされるエジプトでさえ、「修道制度のはじまり」を伝える史料の絶対数がすくなくて、シリアにいたってはさらに残っていないという。この史料のすくなさゆえに19世紀末以降、おびただしい数の論考が残されてきたのでしょうね。でもこれはバッハ研究と同様、「先行研究の消化」に陥りやすいことも意味している(『聖ブレンダンの航海』にかんする研究史も似たようなもんですが)。

 著者の戸田先生は、エジプトにおける修道制度成立を論じた古今東西の論考・文献を批判的に検討しつつ、ではこんにちにいたるまで霊的影響をおよぼしているキリスト教修道制度はいったいどんなふうにはじまったのか、を論じています。のちにオリゲネスが断罪されるきっかけを作ったとも言われる「砂漠の哲人修道士」、ポントスのエウアグリオス(A.D.345-399)なるちょっとエキセントリックな(?)人についてもくわしく論じているので、まるで門外漢の読者にはとても興味深かった。でもこの本を読んでみよう、と思った最大の理由はほかでもない、いままで探していたのに見つからなかった、「『ナグ・ハマディ文書』とパコミオス共同体との関係はいかに?」という問いに答えてくれそうな論考が収録されていたから(「グノーシス主義と修道制」pp.161-176)。

 「ユダ福音書」騒動以降、この「グノーシスと初期修道制」の関係はずっと気になっていたことでした。以前紹介したデコーニック女史の本とか、岩波の『ナグ・ハマディ文書』の序文とかを見たかぎりでは、どうも関連性は薄そう…というのが「定説」みたいです。でも戸田先生はそうとも言い切れないのではないか、と「ナグ・ハマディ」パピルスの冊子状写本(codex)の製本補強材(cartonage)に、「父パホーム(パコミオスはラテン語の翻字らしい)」、「修道士(monachos)」ということばが書かれてあり、定説化している「古紙流通」由来の雑多な紙片で閉じあわされているというよりは、写本の書かれた当時すでに存在していたパコミオス修道共同体とのつながりは当然あると考えたほうが妥当だ、という主張には目を見張った。現存する「ナグ・ハマディ」写本群のすくなくとも一部は当のパコミオス修道院と関係がある(かも)! もっとも、そのすぐあとで展開されている主張には即座にうなづけないような…第二写本の奥付けに書かれた「霊の人」については、それが即写本中文書に出てくるグノーシス的な意味合いで使ったのだろうか(パコミオスの共同体ではこの「霊の人」という用語を、修道者の「霊的進歩度」をはかる物差しとして使っていたらしい)。書き写したのは当の修道士だったかもしれないが、もともと修道院は過去の知的遺産を蓄積する図書館みたいな役割も担っていたから(当時読み書きできるのは修道士や司祭、司教くらいのもの。ちなみに時代は飛ぶがカール大帝も文盲で、なんとか読み書きできるようになろうと、宮廷に招聘したアイルランド人修道士教師のもとでお勉強していたらしい)、ここはふつうに、すでに過去の遺産と化したグノーシス関連著作をひたすら書き写しては暇なときに「読書」していた、ただそれだけだったような気がします。もっともそんな気がするだけで、なんの裏づけもないけれども。「霊の人」と書いていたからといって、即グノーシス的思想まで理解していた、とは言い切れないように思う。ようするにひとつの「古典」として扱い、読んでいたのではないでしょうか。過去の文学遺産を書き写して後世に伝える、という仕事ができるのは修道士くらいしかいませんでしたし。このすぐあとでエジプトにおける初期修道制度全般とグノーシスとの関係を論じた部分があり、こちらの(いちおうの結論としては)ほうは、「禁欲主義という点では似てはいるけれども、グノーシス主義者は神話的・理論的な思想を掲げ、いっぽうキリスト教修道制側の著作では実践的・倫理的省察重視」としたうえで、「内容がこの教義上の相違に明示的にかかわらない限りは、或る修道者が正統信仰を有しかつ「グノーシス主義的」著作を読む、ということがありえたのかもしれない」とあって、ようするにここは「古典として読書」したと解釈してもあながち的はずれではない気がしますね。もっとも正統信仰と言ってもまだまだ流動的で、一口に「教義上の問題」といってもそれこそいろんなケースがあった。このへんはたしかに著者の言うとおり、もはや一般論でくくれる範囲を超えているので、このへんなんとも言えないことだけはたしかですね。でもこういう研究を日本語で読める、というのは頼もしいし、一読者としてはたいへんありがたい。もっとこのへんの突っこんだ研究が出てくるといいですね。

 ほかにもたとえば「最初の隠遁者テーバイのパウルスは実在したか?」とか、「『アントニオス伝』の史料価値をめぐって(これは聖アタナシオスの真筆なのか)」とか、「キリスト教修道制の成立とマニ教――エジプトとシリアの場合」とか、読みごたえのある興味深い論考が目白押しの感ありです。このへんの疑問はたしかに突っこんで考えたことなんかなかったから、ひじょうに新鮮でした――もっとも聖ヒエロニムスによる『聖パウルス伝』ははっきり「創作」だと言ってもいいとは思うけれども、じつはこれエジプトより伝え聞いた話をヒエロニムスが「修道者の父」とされる聖アントニオスにたいする批判もこめてものした作品ではないか、という主張はひじょうにおもしろいと思いました(余談ながら、ラテン語版『航海』26章に出てくる「聖パトリックの修道院にいた隠修士パウルス」の話は、もちろんこの本家の聖人伝をアレンジしたもので[隠遁先が砂漠から絶海の孤島へと置き換えられている]、かつ8世紀に起こった「ケーリ・デ」運動の影響も認められると思う。つまり齢140の老パウルスにして「ブレンダン院長のほうがわしよりも勝っておる」と言わしめるあたりが、婉曲ながらもかつての「放浪修道士」たちへの批判になっているようにも感じる)。

 エジプトにおける修道制度成立について考察した本なので、当然というか、『砂漠の教父たちの金言』とかパラディオスの『ラウソスに献じるキリスト者列伝』も出てきます。こちらにかんする論考も、当の史料名こそ聞いたことはあるものの具体的にはさっぱり、という門外漢にはひじょうに有益でした。いくら「世捨て人」として「砂漠へ隠棲した」といっても、ハナから人跡未踏の過酷な砂漠地帯へのこのこ出向くような無謀な真似はありえません。そのへんは『聖アントニオス伝』にも書いてあることです(はじめは町外れに隠遁していたが、彼の評判を聞きつけた訪問者が押しかけるようになり、ついには「ナイル川沿岸から歩いて三日三晩かかる場所」へと隠遁せざるをえなくなった)。また同時にこれは当時、すでに「砂漠で苦行する隠者」がみんなの人気者だったことを逆説的に物語ってもいるところでもある。シリアの柱頭隠者聖シメオンみたいに、修道制度が確立される以前の揺籃期には、とにかく奇行以外のなにものでもない「苦行」に励む修道者が大勢いたのもたしかです。シメオンのように柱のてっぺんに座して修行する人もいれば、7年間生野菜のみ食べて生きたとか、20夜ずっと眠らなかったとか、7か月間蚊に刺されつづけたとか。…はっきり言って「イエスの教え」とはあんまり関係ない「苦行」の数々(笑)。でも著者先生も指摘されているように、エジプトの場合は修道者(隠修士)が人里すぐ近くの場所から「段階的に」砂漠奥深くへ退いていったことは、『砂漠の教父たちの金言』に収録されたことば、「生命も死も隣人から来る。われわれが兄弟を得るならば神を得、兄弟を躓かせるならば、キリストにたいして罪を犯す」、つまり世間での対人関係がうまく築けない人は砂漠の隠遁生活もうまくいかない、という教えを見てもうかがえます。シュネシオスという410年に司教になった人の『ディオン』なる著作では、修道者の「ござ作り」について言及しているとかありますが、修道制揺籃期(一般に3-4世紀にかけて)はまず――キリスト教以前の禁欲集団、フィロンの伝えるテラペウタイとかユダヤ教の急進的な一団とかの影響についてはいまだ諸説紛々――町外れに三々五々、それぞれ庵を編んで暮らし、場合によっては定期的に教会堂へ出向いては聖体拝領にあずかったり、手仕事でこさえたもの、つまり「ござ」とか「籠」、「網」といった日用品を売りさばいて生活の足しにしていたゆるやかな禁欲的集まりがあり、それがいっぽうではパコミオスのような共住型修道共同体へと発展し、また逆にさらに人里離れた砂漠へひとり隠棲する修道者が出てきた、というふうにとらえていいような気がします。そして「修道者の父」といっても、アントニオスが最初の修道者だったわけではむろんなくて、当時すでに大勢の「苦行者」がいたこと、ときとして彼らは――柱頭行者聖シメオンみたいに――市井の人々の人生相談的相手だったこと(いまふうに言えば、カウンセラーの達人)、つまりは相当数、そんな「苦行者」が町外れにいたことを、これら史料は暗示しています。こういうのは、周辺領域に目を配ることが肝心で、当時の時代背景の理解なしでは修道制成立の事情も理解しようがない。手許の文献とかもざっとだがあらためて目を通してみたりすると、一種の社会運動的盛り上がりがあったような気さえしてきます。そういう一団のなかから聖アントニオスやパコミオスたちが出てきたのではないか、と。

 ひとつ、おなじ修道制度といっても日本の禅寺の「修行僧」とこれら修道者と決定的にちがう点は、キリスト教の場合、修道士はあくまでも「町の聖職者」、つまり叙階された司祭・司教にたいして忠実であったこと、換言すれば彼らに支配される側にとどまったことという指摘はたしかにそのとおりで鋭いと思いました(註のp.67)。だから気性の激しいアイルランド人修道士(たとえば一本気な聖コルンバヌスとか)は後年、ローマ教会に属するガリアの聖職者たちと衝突したんだな。このへん、仏教のみならずマニ教とも決定的に異なる点です(マニ教では独身の出家者はエリート集団として一般の信者と完全に区別されていた。のみならず一般信者の「布施」で生活していたので、このへんも「ござ」をこさえて自活していた正統教会の修道士とは決定的に異なる)。

 以上、この手の本の性質上、ややとっつきにくい点はあるものの、概して読んでおもしろく、勉強になります。初期キリスト教修道制に興味ある人は読んでおいて損はなし、と思います。またエウアグリオス論の最後で著者先生が私見として述べている、「宗教にまつわる最も深刻な対立は、宗教と宗教の間に存在するのではなく、同一の宗教の内部にこそ存在する。対話が最も必要なのは、宗教と宗教の間においてではなく、むしろ同一の宗教の内部においてであり、その最も必要な対話とは、同一の宗教の内部で、知識人と非知識人の間で行なわれるべき対話なのである――もし宗教がなお、真理を自らのものと称しようとするのであれば」(pp.186-7)という主張もたしかにそのとおりかもしれない…と感じました。評価:るんるんるんるんるんるん

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2008年07月28日

『ブログスフィア』

 これはビジネスブログについて書かれた本。Web2.0と言われて数年が経ちますが、90年代がWeb黎明期・検索の時代だとすれば、いまはまちがいなくブログやポッド・キャスティングの時代と言えるかもしれない。ふたりの著者のうちスコーブルという人はマイクロソフト(MS)社に勤めていたときに自身のブログをはじめて、歯に衣着せぬ物言いで公然と上司に何度も噛みついたりと物議を醸しながらも、「悪の帝国」とかなんとか、それまでなにかと叩かれていたMS社の企業イメージまで「改善」してしまったという、伝説的な男…らしい。この本の執筆じたいがスコーブル氏のブログをベースにして、のべ100人以上の企業人ブロガーに取材して、ビジネスブログとはどうあるべきか、を説いています(ちなみに自分がblog[Weblog]ということばをはじめて知ったのはNYTimesこの記事でした。当初はいったいなんのことなのかさっぱりだったのがいまではウソみたいだ)。

 企業人のブログ、というものにてんで関心はなかったけれども、読みはじめたらこれがけっこうおもしろい。著者ふたりはけっして「ブログ崇拝者」ではないし、この新参「超個人的」メディアのもつ限界も示唆してはいるけれども、全体を貫く主張は、従来の「マス・マーケティング」手法はもはや通用しない、いまや企業は顧客と真摯に向きあって「裸の会話(Naked Conversations, 原題)」をしなければならない時代になった、この波に乗り遅れればあなたの企業価値も問われかねませんよ、逆にこのあらたなツールをうまく活用すれば、いままで考えてもみなかったようなことが起きるかもしれない…というもの。巨大企業のトップからフランスのTシャツ売り、はては川崎市の歯医者さん(!)まで、世界各国の100人以上のブロガーに取材して豊富な「成功例」と「失敗例・教訓例」を取り混ぜて書かれた内容には、ときおりいささかどうかとも思ったりする部分もあるけれど、おおむねうなづけるお話。Webは双方向性メディアと言われるけれども、ブログが登場してWebは真の意味で双方向性を獲得した。戦後ずっと主流だった「一方通行な土足マーケティング」よりも、正直にありのままを顧客にたいして伝える「対話型」マーケティングのほうが、結果的には信用してもらえる。なにかクレームコメントが寄せられたときでも、黙殺するのではなくブログを通じてきちんと対応しさえすればさほど損失も大きくならずにすむ。逆に顧客の声を無視したり、ブロガーの批判になにもこたえない態度をとれば、とんでもない代償を払わされるし、長期にわたって信用も落としかねない。たとえばTypepad開発元のシックス・アパート社はソフトを有償化すると突然発表したのち、轟々たる非難を浴びたが、ブログというチャネルを通じて真摯に対応した結果、顧客の理解も得られ、会社存亡の危機をなんとか乗り切った、なんて事例が書いてある。後者の「悪い例」としては、ノートパソコンのシリンダーロックで知られるケンジントン社やクリプトナイト社、インテル社の対応のまずさが挙げられている。

 ビジネスブログと一口に言っても大企業の勤め人が運営するブログもあれば、ごくごく一部の人にしか知られていない穴場的なお店の店主が綴っている場合もあり、この本に登場するブロガーも立場や地位などそれこそ千差万別というよりなんだか玉石混交の嫌いもなきにしもあらずではあるが、大企業より「地元密着型の」中小企業のほうがブログ効果が大きいとも。例としてニューハンプシャーのHorse Feathersというレストランもそんな成功例として紹介されています。

 ちなみにアイルランドではお隣の英国と較べてビジネスブログは意外と少ないらしい。お国柄を考えると、英国よりアイルランド人のほうが饒舌というか、語り好きのような気もするのでたしかにこれは意外かもしれない。そしてこちらがアイルランドのビジネスブログの例として挙げられていたブログ。このブログを書いているラフティ氏に言わせると「バーに無料無線LANが整備されるようになればね」。日本も無料で利用できるWiFi網というのは、アイルランド同様まだ普及していない。もっと整備されれば地方でも、毎月携帯キャリアに高いパケット料金を払わずとも安定した高速回線に接続できるのに、と思うのですが(青森だったかな、たしか無線LANを街中に整備する試みがおこなわれているのは)。

 とはいえブログはけっして「投資利益率(ROI)」のように数値化できるものではない。むしろ社会貢献のひとつとしてとらえるべきだ、というのはごもっともな意見です。ブログというのは性質上、――個人で綴るものにしろビジネスブログにしろ――とにかく時間がかかるもの。はじめから「手っ取り早い顧客獲得マーケティング」みたいな安易な気持ちでブログをはじめるとブログ界(blogosphere)から手痛いしっぺ返しがくる、と安易な金もうけの道具としてブログを利用することの愚を戒めてもいます。

 もっとも説得力ある主張だと思ったのは、ブログという双方向メディアの登場によって、顧客と企業の力関係が逆転した、というもの。たしかにそれは感じます。いまや主導権は美辞麗句ばかり並べ立てる製品製造元の広告ではなく、その製品を買って使うほうにある。悪い例として槍玉にあげられた企業の失敗は、そんな顧客や個人ブロガーの声というものを見くびったために引き起こされた事例がほとんど。たしかにブログなるものが登場したてのころは、ほとんどの大企業が、こんなもんいっときの流行りにすぎないだろうとタカをくくっていたと思う。でもほんの数年でそんな予想はみごとにくつがえされた。それというのも、多くのブロガーがこの伝達手段のもつ可能性の大きさに気づいたからにほかならない。

 もっともこの本が書かれた時点では、いま問題になっているあからさまに悪質な「ブログもどき(迷惑ブログ)」とかフログ(flog)がもたらしている弊害についてはたいして触れられていないし、「ブログべからず集」も常識の範囲内、というか、考えればわかるだろうということが多い。いくら本音がいいからと言って身内をあげつらうような言動はかえって信用を失うし、情報開示していいものといけないものくらいは区別がつかないと困る。ようはバランス感覚を磨け、ということで、これはなにもブログにかぎったことじゃない。また終わりのほうの章で紹介されているテキストブログに変わる「新興技術」についても、たとえばMS社の人が開発中とかいう「人生をすべて記録する(?)」ことを目指す'MyLifeBits'なるプロジェクトとなると、もう話についていけない。自分は超がつくほどアナログ人間を自称しているので、オフラインの時間こそ大切にしたい。写真を撮りに行ったり演奏会に行ったり本を読んだり。いくら便利な道具でも、人間が道具に使われるようになったらおしまいだと思うわけ。

 また、ブログがほとんど金をかけずに売り込みたい製品を宣伝できるもっとも効率のいいツールになったりもする事例も紹介しています。そうやって成功した例として、ICQとフォクすけブラウザ(Firefox)、スカイプの例を挙げています。Firefoxの場合、NYTimes紙にも全面広告を出したけれども、ブログのほうがはるかに多くの利用者を獲得できたという(本に出てくるブレイク・ロスくんは、昨年年頭のTime誌のカヴァー・ストーリーにも出てきて、スタンフォードをやめてParakeyなる会社を興してたそうですが、いま調べたらFacebookに買収されたみたいです)。あるいはTreoというスマートフォン製造元パーム社のブログが当てになんなくて、個人の立場から率直に製品の感想を綴ったブログが世界中のTreoユーザーからアクセスされるほどの人気を博し、生活まで変わってしまった人の話とかも紹介されています。

 ふたりの著者も認めているように、この双方向性を武器にするブログという個人メディアが今後どうなるのか…さらに発展するのかそれともそうではないのか、はだれにもわからない。でも企業も顧客も「対等の立場で会話できる時代」になったことは歓迎すべきことだとは思うし、そのきっかけのひとつになったのがブログだと言う主張はたしかにそうだと思う(ただしいわゆる「ロングテール効果」については、この本に書かれているほどバラ色ではないと思う)。またブログの特徴として、RSS機能のすばらしさも紹介されています。たしかに従来のDMよりははるかに顧客側に配慮されていると思います。RSSは従来のDMとちがい、なにか製品情報とかサービスが入り用になったとき、RSSアグリゲーターで購読するだけですみ、個人情報とトレードオフにする必要がないから。自分もたとえばとあるリユースマシン専門ショップの在庫状況をRSSリーダーでチェックしていたりする。いままでだったらいちいちブラウザで見にくるとか、個人情報を登録する必要に迫られたところ。ブログを巡回している人はたいていRSSリーダーを使っていると思います。あれはたしかに便利ですねぇ。自分も使いはじめてその効率のよさ・使い勝手のよさを知った口です。

評価:るんるんるんるんるんるん

 蛇足ながら、こんなサービスがあります。ついでにここのblogを「採点」していただきました(笑)。性別年齢はかなりいい線行ってますが、「もっと主張を」というのはそうかなあ? という気がする。けっこう辛口ですよ。でも「自己規制」はいちおう厳しいほうだから、ボツにしたネタも多いし、バランス重視のスタイルなので、そう思われるかもしれない。それともうひとつ、「ゴーストライターをめざせ」って…褒めてるの、けなしてるの??? 

blog通信簿


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2008年04月21日

『巨石/イギリス・アイルランドの古代を歩く』

 とにかくこの本はおもしろい。視点がとてもユニークで、いままで類書がありそうで、じつはなかった。イングランド・ウェールズ・スコットランド・アイルランドに数多く残っている「巨石」遺跡群を、10年以上もかけて美しい写真に記録してきた、「巨石遺跡見て歩記」(→著者サイト巨石関連ページ)。じつは岩石好きでもあるので、紀元前のヨーロッパ各地で隆盛を誇った「呆れるほど」でかい石を積み上げた遺跡にもおおいに興味あり。そんなとき、たまたま図書館でこの本を見つけて読んでみて、その内容の濃さ、紀行文としてもじつに楽しく読めるひじょうにバランスのいい書き方に引きこまれた。版元にはよくぞこんな本を出してくれましたとまずは言いたい。巨石遺跡ものでは、以前、『ケルト・石の遺跡たち』というおんなじようなテーマの紀行も読んだけれども、「檜皮色」、「利休鼠色」など豊富な色の語彙はおおいに勉強になったものの、いかんせん掲載写真が口絵をのぞいてぜんぶ白黒。こちらのほうはすべてカラー図版、それも「あとがき」で著者自身書いているように、「巨石の魅力にとらわれてしまった」その情熱がひしひしと伝わってくる傑作ぞろいです。つまり紀行としてもすぐれ、写真集としてもすぐれている。とくに著者もここがもっとも印象的な巨石遺跡、と太鼓判を押すアウター・ヘブリディーズ・ルイス島にあるカラニッシュ遺跡の写真(pp.206-7)をはじめて見たときには、野草の咲き乱れるただなかに林立する石柱の美しさに息を呑んだ。ほかの巨石群の写真もいずれ劣らぬすばらしいカットの連続で、眺めているだけで楽しくなってきます。スコットランドやアイルランド、ウェールズ各地の写真は、当地の気まぐれな天候のためなのか、ライティングもさることながら雲の形もじつにいいですね。ほんとよく撮れています。

 もちろん歴史的な背景…についても幅広い文献から引用されていて、巨石文化を知るかっこうの入門書にも仕上がっています。写真といい、文といい、著者の力量と熱意にほんと脱帽です。そうか、巨人伝説とかかわりのある巨石も多いのか。そういえば古オランダ語韻文による『聖ブレンダンの航海』の一写本にも、聖ブレンダンが汀に打ち上げられた巨人のされこうべを見つけ、生き返ってキリスト者として生きるかどうか訊く話があったことを思い出した。似たような話は『ケルトの聖書物語』に収録された「リズモア本」版の『聖ブレンダン伝』にも出てきます。村全体がすっぽり入った巨大なエイヴベリーのストーンサークルは圧巻。ケルト教会がらみでは、「宝のケルン」という意味のケァーンホリーの項目(p.177)で、アイルランド聖人を多数輩出したことで知られる聖ニニアンのカンディダ・カーサ修道院(現在のウィットホーン)のことが書いてありました。へぇ、湾ひとつはさんでこんな石室墓の遺跡があったんだ。個人的にはカラニッシュのサークルもおおいに心惹かれたけれども、オークニー諸島にある「ステンネスの立石群」(pp.192-95)と呼ばれるストーンサークルの名残りをとどめる石柱。なんとも印象的な姿かたち。スパッとナイフで切り落としたようなひじょうに薄い石の柱、というか石の板のような砂岩の柱が何本もすっくと立ち、先端はいずれも鋭く尖っています。これなんか見覚えがあるなー…なんて思っていたら、これはアンドリュー・スウェイトくんがゲスト参加した、キングズ・シンガーズのアルバム、Landscape & Timeのジャケットにも使われているじゃないですか! …気に入ったついでに、ここの画像を探して、つい最近まで「壁紙」として使ってました(笑)。該当ページによると、この遺跡はもっとも初期の巨石遺跡のひとつで、紀元前3200年ごろのものらしい。気の遠くなるような話です(ついでながらクライド湾に浮かぶアラン島のストーンサークル取材では、島の郵便局の家族の家にステイしたそうですが、そこの小学生の男の子がわんさともっていたのはなんと「日本のアニメキャラクター」のおもちゃだったとか[ポケモン?]。日本のアニメキャラクターが、おそらくほとんどの日本人が名も知らぬ離島にまで進出しているとはある意味すごいお話ではある)。オークニー諸島では、有名な「スカラ・ブレイ」ももちろん出てきます。

 ストーンヘンジに代表される巨石文化ですが、だいたい紀元前4000-1000のあいだに造営されたものらしい。ストーンヘンジの場合、いっきにいま見るような石組みを組んだのではなくて、まず最初は土塁のみのシンプルな構造で、その後近くの「ウッドヘンジ」のような木の柱をサークル内部に立てた時代、ブルーストーンを配置した時代とつづき、いまのような姿に建設されたのが紀元前2300年以降のことだと言います。つまり長い年月にわたってその姿は二転三転していたということ。一説には、いまのストーンヘンジ遺跡は未完成のまま放置されたものではないかとも言われています(前にも書いたことだが、けっしてケルト人やドルイドの「作品」ではありません、念のため)。

 コーンウォル州の民家の庭にある「穴あき石」とか、寄り添うように佇む「三つの石柱(著者も言っているように、物言わぬ石というより人間みたいだ)」といった巨石群もユニークでおもしろい。とくに後者、なんとゴルファーの聖地、セントアンドリューズにほど近いところにあるゴルフ場のフェアウェーにあるという!! それもまたびっくりさせられる。ウェールズでは、ダストカバーにも使われている「ペントレ・アイヴァン」のドルメンの写真もみごとな夕陽とともにとらえられていて、まるで巨石が著者に向かって、「この一瞬を逃さずに撮ってくれ」と語りかけているようにも思える。石が写真を撮らせたんだな。カラニッシュ遺跡ではなんとひじょうに大きな虹まで写しこんでいます。アレッドの故郷、ウェールズ州アングルシー島からは石室墓遺跡が紹介されています(pp.230-2)。いわゆるドルメンはもともと「塚」を盛った墳墓だったのが、表土が剥ぎ取られて石の「骨組み」だけが残ったというものがほとんどですが、アングルシーの石室墓は「塚」が残っていて、アイルランドのニューグレンジ遺跡とおなじく、崩壊していた塚をのちに修復したものらしい。でもこちらははじめから石室墓だったのではなくて、もとはストーンサークルだったようです。こんな小さい島に、石室墓が30以上もあるとか。

 巨石をもちいた大規模墳墓はアイルランドからブリテン島に伝播したらしいけれども、ストーンサークルのたぐいは逆にブリテン島のものが古く、それがアイルランドに伝えられたらしい。またストーンヘンジ遺跡近くの小学校建設予定地を発掘調査したら初期青銅器時代の人骨が出てきたのですが、それがなんとなんとこの土地の人ではなくて、はるかアルプス地方で育った人だということが判明した、なんてすごい事実も紹介されています。アイルランドとコーンウォル地方はすでに錫と銅の交易で人の往き来があったし、ポール・ジョンストンによると、紀元前のころからアイルランド人は地中海地方まで交易を行っているし、古代人のネットワーク、横のつながりはわれわれの想像をはるかに超えて活発だったのかもしれない。

 ドルメン、とくると、すぐ思い浮かぶのはアイルランド・クレア州の荒涼としたバレン高原。ポールナブローンのドルメンの項目(pp.258-261)には、おもしろい話も書いてあります。遺跡に乗ったり触ったりするべからず、というお決まりの注意書きのほかに、「この周りで"小さなドルメン"を作らないように」というのもあるんだそうです。たしかに以前、ここで撮影された写真には、そんな観光客のこさえた「ミニドルメン」がわんさかと写ってました。著者の言うごとく、巨石文化時代の人がなんのために、どうやってこれら摩訶不思議な建造物を残したのかはしょせん現代人にはわかりっこない…けれども、ひょっとしたら、こういった「遊び心」というのは、巨大な石を組み上げた古代人とどこか相通じるものかもしれません。

 「岩の間を歩いていると、自分がいつの時代のどこにいるのかわからなくなってくる、1920年代の超現実派の画家たちが描いたどこにもあり得ない風景の中を散歩しているような心持ちになる、そんな時間が好きなのだ。そして、この5000年前の人たちが造った度を超して大きな石の庭を、私はとても美しいと思う(「あとがき」より)」。一読者としては、よくぞこれらの遺跡を撮ってくれました、と著者に拍手を送りたい。5段階評価:るんるんるんるんるんるんるんるん

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2008年04月07日

『バッハ――伝承の謎を追う』

 気がついたら最近、バッハ本のたぐいを読むことがすっかりおろそかになってしまいました。これはイカンと思い、初学者に立ち返り――頭が目の粗いザルなので、いつまでたっても初学者ではあるがそれには目をつむるとして――本邦バッハ研究の第一人者のおひとり、小林義武先生のご本をまず読むことにしました。小林先生は筆跡鑑定や「透かし模様」の調査からバッハの真作・偽作を鑑定し、また未完のまま残された「フーガの技法」の「ほんとうの」作曲年代を特定した功績でつとに有名です。この本はそんな小林先生が、ドイツでの長い研究生活にひと区切りを打って日本の大学で教鞭をとるため帰国されたさいに、いままでの自身の研究成果を中心にまとめたものです。

 音楽芸術全般に言えることだと思いますが、こと18世紀以前のバロック音楽を演奏するさい、一見ひじょうに地味にも見えるこうした研究抜きには楽曲そのものの「解釈」はおぼつきません。直感的な演奏解釈というのはむろん、あってしかるべきだしそのへんは個々の演奏家の判断にゆだねられる範疇とはいえ、個人的には、いやしくもバッハ演奏家はあるていど「音楽学者」である必要があると考えます。なぜならバッハ以前の音楽演奏上の慣習というのは、古典派以後一度ほぼ完全に廃れ、忘れ去られてしまったものだからです。「17世紀とそれ以降の音楽について、演奏習慣において埋めがたい断絶がある」と言ったのはレオンハルト。このような現状で、理想的なのはやはり「演奏家と音楽学者が手を組んで協力(p.92)」することだという先生の主張はもっともだと思う。

 最初の章はバッハ研究を、伝記研究と作品研究に大別して説明しています。すこぶる興味深かったのは、小林先生の専門である「古文書学的調査」について。セヴェリンは『聖ブレンダンの航海』をたどる実験航海を顧みて、「歴史探偵」になぞらえている。ここでも基本的にはおんなじで、残された手がかりを頼りにバッハ創作の現場をたどりなおす試みとして描かれています。作曲者が使用した紙と透かし模様の調査とか筆跡鑑定といった過程もわかりやすく説明されている。いわば高度な知的ゲーム、推理と謎解きです。バッハ研究者はすぐれた「探偵」でなくてはなりません。また「資料批判(正文批判)」の項目では確実にバッハのオリジナルに遡及できる系譜(stemma)研究についても書かれています。これとてブレンダン伝承関連の写本研究者のやってることと基本的にはまったくおんなじなので、こういうのを読むとなんだかワクワクしてくる。

 またバロック音楽にはキルヒャーに代表される当時の音楽論に出てくる「音楽修辞学」とか、「情緒論」といった事柄についても書かれています。「マタイ」のアリアの譜例では、くねくねとうねる「蛇」の音型が引き合いに出されている。「バッハの声楽曲においては音型論による表現方法が顕著に見られ、そこにはさまざまなフィグーラがあふれている。そのためカンタータや受難曲あるいは言葉と間接的に結びついたオルガン用コラールを分析する際には、ただ単に構造、和声、転調等々の純音楽的要素にのみ着目していたのでは片手落ちである(pp.31-2)」。そういえばかつてシュヴァイツァー博士は『J.S.バッハ』で「オルガン小曲集」のことを、「バッハ音楽語法の辞典」と書いていましたっけ(いまそれを聴きながら書いている)。「音型論」については拡大解釈に走る危険があるとしながらも、小林先生がひじょうに批判的なのが、一種の流行りもののような数象徴について。もっともひどいのはたぶん「フーガの技法」がらみの珍説(?)かなあ、とも思ったが…このくだりで紹介されている「バッハと13」という論文には笑ってしまった。Bachは数字で表せば14。晩年、ローレンツ・ミツラーから「音楽学協会」入会を勧められたバッハはわざと入会を先延ばしして「14番目の会員」としてやっと入会した。とはいえ楽譜上の数字なんて――昔はやった聖書に隠された数字のミステリーだかなんだかみたいな話だが――探せばいくらでもこじつけはできるもの。上記論文はそれを皮肉ったものらしい。なんだか「13番目の使徒」ユダみたい。

 忘れられた演奏習慣についてもいろいろ教えられることが多かった。通奏低音のしかるべき奏法、付点音符の「長さ」をめぐる論争、フェルマータの問題、バッハ作品における多義的なスラーの解釈、バッハ時代の装飾音の正しい奏法とか、知っている事柄もあるにはあったがもう目からウロコの連続。付点音符の長さについては、たとえば「フーガの技法」6つ目の「フランス様式による変形主題と縮小転回形主題による反行フーガ」。16分音符と付点8分、異なるリズムどうしでじつにややこしい! でも当時の理論書によると、フランス序曲風の付点リズムについては明確に複付点のように弾くこととはっきり書いてあるらしい。だからレオンハルトはそのように弾いたんだな(16分音符進行も付点音符進行のごとく弾いている)。

 またフェルマータの問題では、たとえばオルガン独奏用に編曲されたコラールを見れば一目瞭然、歌詞各行の末尾にのみ、つまり定旋律の末尾にのみ終止マークがついています(「ペータース」のV巻とか)。これはもちろん、「音を伸ばす」意味じゃありません、念のため。こうした記譜上の習慣を知らないとわけわからんことになる。

 オルガン好きにとって、pp.79-82で書かれてあることはひじょうに目を引きました。たしか以前レオンハルトの実演でクラヴィーアのために作曲されたといわれる「7つのトッカータ BWV.910-916」のひとつを聴いた憶えがあるけれども、じつはこれオルガン作品だったらしい。米国の学者が唱えた説なんですが、なんでも楽譜――確認してないがたぶんオリジナルではない筆写譜しか残ってないと思う――には「手鍵盤用」とタイトルの横に指示書きしてあるのがその証拠なんだとか。でももっとも驚いたのは、じつはバッハは早くからピアノフォルテを知っていた、という!!! 1733年6月16日付ライプツィッヒの新聞に掲載された演奏会予告によると、コレギウム・ムジクムを率いてバッハが「当地ではまだ聞かれたことのないチェンバロ(p.82)」を弾いて協奏曲を演奏する旨、書いてあるというからびっくり!! ということは、一連のチェンバロ協奏曲もじつはピアノ協奏曲にほかならなかった、ということか? たしかに一連の「チェンバロ協奏曲」ものの録音盤を聴くと、せっかくの「主役」が弦楽合奏に掻き消されることが多々あるので…となると、「フーガの技法」も…使用楽器としてピアノがバッハの念頭にはあったのかしら??? 

 また晩年のバッハ作品に見られる「古様式」についても具体的に書いてあって勉強になりました(バッハはルネッサンス以前の音楽における「定量記譜法」にも精通していたらしい)。「平均律第二巻」の「フーガホ長調 BWV.878/2」の譜例が引かれていて、パレストリーナにまで遡るスタイルらしい(もっとも「純粋な」パレストリーナ様式ではない。あくまでバッハの時代に即して変形されたもの)。またバッハ作品…とくると、避けて通れないのが膨大な数にのぼる偽作。その総数なんと700曲! 偽作か真作かを見極めるのがいかに骨の折れる困難な大仕事かも書かれてありますが、偽作一覧表を見ますと、ヘルマン・ケラーの『バッハのオルガン作品』に収載されているいくつかの作品も偽作の疑いがあるらしい(そのうち「小さな和声の迷宮 BWV.591」をふくむ数曲についてはケラーもはっきり偽作と書いてある)。でもたとえば「ペダル練習曲 BWV.598」も小林先生の一覧によると疑問符つきながらバッハの真作ではないようだ。またバッハ生誕300年直前の1984年に米国で発見された「ノイマイスター・コラール集(BWV.1090-1120)」もすべてが真作ては言えないという(発見されたのは筆写譜、それも19世紀のもの)。たとえばBWV.1096の「光にして日なるキリスト」はパッヘルベルの作品だということが判明しているという。自筆譜が多く残されている作品、たとえばカンタータでも偽作と断定されたものは11曲あり、また自筆譜が多く残っていると言っても総譜ではなくパート譜の断片しかなかったりする場合もけっこうあるし、「マタイ」も「ヨハネ」も初演稿は失われているので、ほんとうのオリジナル自筆譜というのはバッハの総作品から見ればかなり少ないと思う。オルガン曲にかぎれば、筆写譜が大半。「6つのトリオソナタ」や後期作品に自筆譜が残されているにすぎない。有名な「ニ短調のトッカータ BWV.565」にいたっては18世紀後半の筆写譜でのみ伝えられていて確実にバッハの作品と断定できるほど裏づけとなる系譜もないことから偽作説まである、というのは前にもすこし触れました(一説にはヴァイオリン曲だったとも。以前「バロックの森」でそんな演奏を聴いた覚えがあります)。とにかく各章、著者自身の研究成果の紹介とともにバッハ好きにはたまらない、スリリングな読み物と言っていいほど知的興奮に満ちたお話がポンポン出てきます。

 最後の章は「ロ短調ミサ BWV.232」について。ここでも自身の研究成果、つまりバッハの生涯最後の作品は「フーガの技法」ではなくて、こちらの「ロ短調ミサ」である、とともにいろいろおもしろい話が紹介されていますが、たとえばいまだ論争の的である最終楽章「われらに平安を与えたまえ(Dona nobis pacem)」についての考察。'pacem(paxの対格、英語で言えばpeace)'というラテン語に、欧州において長きに渡ってたがいに争った新旧キリスト教の歴史を踏まえて、バッハはこの最終楽章で平和の訴えを込めたのではとする見方、なるほどと思いました。「ロ短調ミサ」では、作曲技法上の総合、つまりパレストリーナに遡る古様式とロンバルドリズムやアリアや協奏曲形式など近代的な技法との統合にとどまらず、型破りとも言える構成をもつこの作品は、キリスト教信仰における新旧教会の対立をも超越している。「すなわち、歴史上数多くの教会音楽の中でも最もキリスト教的なものに属するこの作品は、同時にその信仰上の枠を破り、異教徒を含むすべての人間に仕えることになる(p.287、太字強調は引用者)」。バッハの音楽が日本人にもおおいなる感動をあたえるゆえんです。

 「ロ短調ミサ」にかぎらず、たとえばシュピッタが「二楽章のオルガン交響曲」とまで呼んだ「偉大な」「前奏曲とフーガ ホ短調 BWV.548」ではダ・カーポ形式にトッカータと協奏曲形式を一体化させてもいるし、「ロ短調の管弦楽組曲 BWV.1067」ではいかにもフランス風な組曲形式にイタリア生まれの協奏曲を合体させていることも指摘しています。ようするにバッハという人は、なにかひとつの形式、お手本とする作曲家の作品を徹底的に研究し尽くすタイプの、いかにも勤勉なドイツ人気質の音楽家で、完全に自家薬籠中のものにしてしまうと、またあらたな形式や技法の習得に励む。その繰り返しでどんどん使える音楽語法が増えてゆく。その到達点こそ、古様式と新様式の対立を超えた楽曲形式どうしの融合、そしてすべての信仰上の対立を越えた、全キリスト教会(バッハの内なる、一種のecumenism)的な声楽作品をもって掉尾とした。小林先生はそんなふうに、この「ロ短調ミサ」に込めたであろうバッハの意図を説得力をもって推測しています(蛇足ながら、「ホ短調フーガ BWV.548」の主題はその特徴的な音程の広がりから、「楔」というあだ名がついています。そして技巧的にきわめて難しい主題でもある)。

 一読して、バッハという人は厳格な対位法形式を自由自在に操ったばかりか、古様式も新様式もお手のもの、南欧・北欧において受け継がれてきた音楽の伝統まで、いっさいの対立を超越してみごとに総合してしまった。24すべての調で前奏曲とフーガを作ろう、としたのもバッハが最初だし、ある意味バッハという人は真の自由人だったのではないかと思う。そんなバッハ音楽を愛する人にとって必読書というのは年々増えるいっぽう――小林先生からしてすでにバッハ研究書・論文のたぐいはひとりの人間が一生かかってももはや読めないほど膨大な分量に達していることを認めている――けれども、この本も必携の一冊だと断言していいと思います。ということで評価は最高のるんるんるんるんるんるんるんるんるんるん

 …小林先生については、こんなページを見つけました。で、ここのオルガンもたいへん立派な楽器であるのに少々びっくり。地震のときは大丈夫だったんかな…。

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2008年02月11日

『キリスト教と音楽』

 先日、図書館の音楽書籍関連の書架を見ていたときにこの本がたまたま目にとまり、自分の勉強もしくは復習のつもりで借りてみることにしました。

 猫も杓子も速読、速読の時代でありながら、本を読むのは遅いほう。そんな自分でも、この本は一気に読めました。著者は有名な音楽学者先生ですが、いままで書きためた原稿を一冊にまとめたと言いながら、講演調の「です・ます」体で書かれた本文はひじょうに読みやすく、ただでさえとっつきにくいキリスト教と西欧音楽の歴史についてじつにわかりやすく項目別にまとめています。この手の音楽は好きだが手軽で体系的に教えてくれる入門書はどれを選べばいいの? と迷っている音楽好きにはもってこいの本だと思います。

 内容は教会暦と音楽との関係、たとえば待降節・四旬節・受難節・復活祭といった季節と音楽との関係、ウルガタ訳と現代英訳・新共同訳における詩編番号の食いちがいについて(たしかにこれにはいつも悩まされる orz)、教会とオルガンについて、レクイエムについて、聖母マリアを讃美する音楽について、オラトリオとオペラはどこがどうちがうのかについて、いろいろおもしろいエピソードも交えて楽しくおしゃべりしてくれます。初歩的なところとしては「アヴェ・マリアを歌うのはローマカトリックのみ」とか、「授賞式などで流れる例の音楽はヘンデルのオラトリオから」とか(「ユダス・マカベウス」中の「見よ、勇者は来たる」)。バッハつながりでは、たとえば「クリスマス・オラトリオ」は6つすべてが演奏されたわけではなくて、顕現日までの12日間の定められた日に割り振って演奏されたことを書いています(とはいえ「バロックの森」で年末に前半3つを流したあと、先月の終わりになって後半3つをかけるとは…あいだが空きすぎて、すっかり忘れてました)。また金澤先生はオルガンについてもたいへんくわしくて、たしかサントリーホールのオルガン・レクチャーコンサートでは進行役を務めていたと思う。で、読み進めるうちに個人的に驚いたのが、pp.79-82で出てくるボローニャの歴史的銘器。前にも書いたけれども、パレストリーナの珍しいオルガン音楽を集めたCDもこの本と一緒に借りて、聴いてみたらこれがじつにいい。なんとそのオルガンこそ、この本に書かれている、ボローニャのサン・ペトロオーニ教会の500年以上も前に建造されたすごい楽器だった! 「…イタリア人にとって重要なのは音色的に美の極致をきわめることであり、多種多様な音色をもつことには関心がありません(p.80)」というのは、この耳で当のオルガンの響きをCDで聴いているのでほんとそのとおりだと思う。ボローニャのこの歴史的銘器はじつに美しいプリンツィパル・コーラスを聴かせてくれます。イタリアの古オルガンはゴシック様式そのままの、基壇に演奏台があり、その上にフルー管が林立するタイプ。本来は足鍵盤なしの一段手鍵盤のみの楽器ですが、CDライナーを見ると手鍵盤の音域はF2-A5の4オクターヴ強(ただし一部半音鍵のないショートオクターヴ)にプルダウン式の足鍵盤を備えた楽器、調律はA4=470hzのミーントーンらしい。たしかに音色の変化には乏しいけれど、それがちっとも単調に感じないのが不思議。とにかく心地よい響きです。人の声とも相性は抜群によいと思います。当初オルガンは声楽の訓練用としても使われたし、この美しい響きを聴けば、オルガンという楽器が合唱音楽とともに発達してきたということがよく理解できます(現存最古のオルガン譜というのが――なぜかまた――英国のロバーツブリッジという大修道院に保管されていた写本だというのは知りませんでした)。また10世紀ごろ、ウィンチェスター大聖堂にあったという大オルガンの話も出てきます。教会暦ついでに、いまはちょうどカーニヴァルも終わって四旬節。Choral Evensongも「灰の水曜日」の中継をセントオールバンズ大聖堂からやってましたが、その前の主日(日曜日)、チェスター大聖堂からの中継では「イエス奉献の祝日(2月2日)」ということで、聖書朗読箇所も有名な「ザカリアの頌歌(Nunc Dimittis)」の出てくるルカ伝2:22-40でした。そのへんのこともわかりやすく書いてあります。

 キリスト教と音楽との深いつながりを中心に書かれていますが、古今東西の教会音楽の名曲もたくさん紹介されています。なかには埋もれてしまった作品もけっこう出てきます。なかでも気になったのが、1969年にジョン・タヴナーが書いたという「ケルトのレクイエム」。おお、どんな曲なのか気になるなぁ…。それと、ヘンデルの有名なオラトリオ「救世主(メサイア)」では、初演はダブリンだったということも書いてありましたね(先生もおんなじこと言ってますが、本来このオラトリオはクリスマス時期ではなくて、復活祭あたりに演奏すべき作品です。レクイエムについては、たとえばフォーレやデュルフレの作品に出てくる'Pie Jesu'も、もとは続唱(セクエンツィア)の'Dies Irae'の最後の節が独立したものということも書いてあります('Dies Irae'の歌詞はけっこう長いのです)。続唱ついでに前にも書いた'Stabat Mater'についてもくわしく書いてあります(pp.200-03)。「万霊節に歌われるミサ(p.42, p.156)」とありましたが、中世の寄進礼拝堂では個人の魂の救済を祈るミサとして日常あげられていたのが、14世紀以降は「死者の日」のためのミサになったとか読んだことがある)。

 なおp.183とp.213の年代表記が100年ズレているのが惜しいところ(モンテヴェルディの没年が100年あとの1743年になっている)。

 読んでためになるばかりか、読んで楽しいキリスト教音楽入門書と言えます。なので評価はるんるんるんるんるんるんるんるん(最高は音符5つ)。

*... なお西洋音楽史については、Kenさんのblogもとても参考になりますのでご紹介しておきます。

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2008年01月28日

Deep Economy

 『自然の終焉』で知られる環境保護派の作家ビル・マッキベンが昨年上梓したこの本。昨年暮れにかけて読んでみました。タイトルのDeep Economyというのは昔、環境保護運動のひとつとして現れたDeep Ecologyにひっかけたもの。内容をかいつまんで言えば、いまの経済構造は基本的に人間を幸福にはしないシステムで、構造じたいを変革しなくてはいけない――小手先の対処療法ではなく、経済システムつまり「お金の流れ方」じたいを変える、それもできるだけ早く。地球の温暖化という不幸を招いたのもそもそも「見えざる手」に任せた自由放任市場経済と、大量生産・大量消費型社会にある。いまや「もっと多く」という鳥は「よりよい暮らし」という鳥とおなじ樹の枝にはいない(pp.1-2)。われわれに残された選択肢はひとつしかない。では急速に迫り来る温暖化にたいして、「よりよい暮らし」にするためにはいかなる手段が残されているか。

 著者はまず「食」を取り上げて考察しています。米国では長年、大規模農場経営を通して力を得たアーチャー-ダニエルズ・ミッドランドやカーギルなどの大企業が市場を牛耳るかたちで大量生産した穀物を、某世界最大手スーパーの系列会社が加工し、それらをスーパー側が大量販売するという構図がつづいています。大規模農場経営といっても、じっさいには「業務委託契約」を結んだ農家が親会社のマニュアル通りに作付けする。そのときひじょうに高価な作業機械もローンを組まされて買わなければならない(そしてもちろん親会社へのロイヤリティも払わなくてはならない)。もし天災とか大停電でも起きて契約どおりの収穫をあげられなければ、それは即契約打ち切りを意味する。つまりは使い捨て。これを「現代の農奴制度」と批判した人までいる。いっぽうで、このような大規模経営型農業しか飢餓を救う道はないと説く科学者もいる。このような大規模型農業は大量の燃料、つまり石油を使いまくる。また大量輸送機関の発達により、旬の食材が季節外れのときでもスーパーの店頭に並ぶ現状も問題だと指摘。「米国人はデンマーク産のシュガークッキーを輸入し、デンマークは米国産のシュガークッキーを輸入している。レシピの交換だけですめばこんなムダはしなくてすむ(p.65)」。マッキベンによると、サウジアラビアや湾岸地帯にある世界最大級の油田は予測より早い時期に枯渇することがわかってきた(p.227-8)。では飢餓を減らすためには原油を大量消費する、「バイオテクノロジーのサイドオーダーつき(p.66)」の一部大企業主導型の農業しかすべはないのだろうか。だがそれでは人間が住めなくなるほど温暖化が進行してしまうことだけはあきらかだ。

 マッキベンは、じつは「1エーカー当たりで確保できる食物は小規模農園のほうが多い。1ドル当たりでより多くの食物を産み出すのが大規模農場(p.68)」と言い、いま米国各地で広がりを見せている「ファーマーズ・マーケット」こそ地球温暖化時代のあるべき農の姿と見る。「ファーマーズ…」はここ数年、日本でもよく見かけるようになりましたね。米国では「CSA(community-supported agriculture)農場」と呼ばれ、運動発祥の地は「スローフード」とおなじくイタリアかしら、と思っていたらなんと当の米国だったらしい(p.81)。この20年でCSA農場は急速に拡大しているという。米国でCSA運動がはじまったきっかけというのも、一部農家が大企業独占の食と農のあり方に疑問を感じたかららしい。「7600万人の米国民がなんらかの食物由来の病気に罹患している。うち30万人が入院、5千人が死んでいる(p.61)」。でもほんとうに変えるべきは食の生産・加工・流通システムというより、大量生産された食材を「もっと安く買いたい」という消費者側の意識だという。英国の鶏肉生産現場では生産コストを抑え、安価な値段を維持するために安全が犠牲にされている事例が紹介されている(どっかの国でもあったような…)。「人びとは安い食料品を求めているんだ」(p.61)。この「食料品はより安く」という考え方こそが不幸の根っこだと主張する。「米国民は給料の11%を食費に当てている。これは第二次世界大戦前にわれわれの祖父・祖母が払った対価の半分にも満たない(p.54)」。食べ物の安さと引き換えに病気持ちが、そして肥満が増えた、ということか(米国人の4人にひとりが肥満)。英国でも学校給食の献立をめぐっていろいろすったもんだがあったようですが、ファストフード天国はなにも欧米にかぎったことではありませんね。その結果がゆがんだ食糧生産の現場であり、それで大もうけしている一部の大企業ということになる。こうして大量生産された食料品が山と詰まれたスーパーの光景もしょせんまがいものでしかない。「あらゆるものをもとの原材料に解体する魔法の杖があったら、振ってみればいい。ブドウ糖果糖液糖の池が建物の半分を満たすだろう(p.90)」。ただでさえ安い穀物価格のほとんどは流通・加工業者に回り、栽培農家に落ちる金などいくらもなく、「貧困率は保守層の多い広大な穀倉地帯のほうが都市圏より高い。ひとり当たりの収入が最も低い郡の9割はミシシッピ河以西の穀倉地帯に集中している(p.57)」。

 むろんCSA式農法がすべてを解決してくれるわけではない。でもいくらかましな未来にするためには、食もグローバリゼーションから脱却しなくてはならない、というわけです。著者はもっとも食べ物が少なくなる冬、CSA農場から調達する地元の食材――地産地消というやつですね――だけで過ごせるか実験してみた。結果はもちろんできるにはできるが、それだけではない、人間にとって大切なもの、つまり共同体という意識を認識したと言います。地産地消はいまや日本でもおなじみの感がありますが、米国ではCSA農場がまさにこれで、しかもエネルギーもたいして消費しない。著者お得意の言い方では、「10分の1のエネルギーで10倍の会話(p.128)」。事実、食材流通の大企業はこういった土地と人間とのつながりを切り離すことにより、「効率最優先」での「安価な食材」を「大量の油」を消費して売り、莫大な利益を上げている。でもこれではいずれ社会そのものが破綻する。
 
 このような経済構造の社会がどこかで破綻すればことは米国だけにとどまらない。ここがグローバリゼーション最大の弱点でもある。電力もおんなじで、一極集中型の発電ではダウンしたときのダメージははかり知れないし、だいいちエネルギー効率もはなはだ悪い(pp.145-7。かつて言われた、原発は「トイレのないマンション」で寿命も30年ほどしかない、という警句を思い出した)。それより分散型というか、「自分たちの地域の電力は自分たちで」、つまり「電力供給もファーマーズ・マーケット方式で」おこなったほうがじつは効率がよかったりする。マッキベンはこの「分散型発電」をインターネットにたとえてもいる。もっとも米国人は――自分から見るととくにそう見えるが――あまりに省エネルギーというものに無頓着すぎる。「米国民はいつの時代も、エネルギー消費のチャンピオンだ。富裕な西ヨーロッパ諸国にくらべても、米国人が消費する化石燃料は2倍だ(p.143)」。こんなとほうもない電力消費大国ですが、著者によるとムダなエネルギー消費をきょくりょく抑えれば「分散型発電」でじゅうぶん間に合うらしい(太陽光発電では先端を行く日本の事例も紹介しているけれど、補助金が打ち切られたあとも着実に発電量は伸びている…というのはやや疑問[p.147])。お手本はフィンランド、オランダ、デンマークといった北欧諸国の政策(pp.143-7)。とにかく米国中の商用・居住地区の南向きの屋根に太陽電池パネルを広げれば、米国内の電力総需要の4分の3はまかなえる計算になるという(p.147)。むろんこれら省エネ社会を後押しするためにも、連邦政府がいまの予算配分の仕方を見直し、金の使い方を変えることも必要だということも書いている。

 産業革命以降、つぎつぎと大量輸送機関が実用化され、米国では「T型フォード」の大成功をきっかけに車社会となり、大量消費のみならず人の往き来も世界規模に拡大したのはいいけれど、なにごとにも限界はある。化石燃料の消費を抑えるためにはすこしでも無駄な化石燃料の消費は減らさなくてはならない。技術革新のおかげで水素を燃料に走るバスとか(アイスランドの首都レイキャヴィクの事例。p.152)が紹介されていますが、ようするにあまりに自家用車に依存しすぎていることも指摘。米国は国土が広いから、あるていどしかたないところもあるけれども、とにかくドイツのような中心市街地への自家用車乗り入れ制限、あるいはバス優先交通などをもっと積極的に取り入れよとも訴えている(pp.153-4。米国内の事例としてコロラド州ボールダーの乗り合いバスや、かつてボストン-ウィスコンシン間を結んでいたトロリーバスを引き合いに出している)。レイキャヴィクの画期的な水素燃料バスですが、アイスランド人は車を買う余裕があるし、好景気による首都のスプロール現象とあいまってせっかくのバスも宝の持ち腐れだという。バス会社の人いわく、けっきょくそれは「個人主義というアメリカン・シンドロームだ」だと。

 効率最優先型経済では「もっとも持っている者」すなわち一部の大金持ちとそうでない大多数の人とに必然的に分かたれる(だから当然格差も生じる)。マッキベンは食の事例でも述べているように、金の流れと人々の意識を変えることで、「一極集中」のグローバリゼーション型経済ではなく「みんなに公平に金が回る」一種のローカリゼーション型経済へと変えようと主張する。そうすればすくなくとも「持続可能な」社会に近づけることができる、と。でもそれは大量の二酸化炭素ガスを排出した「第一世界」についてはたしかにそうでしょう。では貧困にあえぐ「第三世界」ではどうなのか。「ファーマーズ・マーケット型地域社会」ではたして貧困から脱却できるのか。

 マッキベンは経済発展著しい中国の現状を取材し、「持続可能な未来」と題された最終章で途上国における最善策とはなにかを考察しています。中国でも米国追随型というか、代々その土地に根付き、細々と生計を立てている農民を強制退去させてまで大規模開発を推し進めている、というのはよく耳にすることです。でもそんなことばかりしていたら、とてもじゃないが資源も環境も――そして水もいずれ近いうちに消滅する(げんに中国各地では貴重な帯水層の枯渇が深刻らしい。これは当然、砂漠化の進行となって現れる。だからここ数年、日本に飛来する黄砂がひどい。おかげで花粉症もひどくなる orz)。「もし中国人がわれわれのようなやり方で食肉を消費したら、全世界の穀物収穫高の3分の2を使い切ってしまう。もし彼らがわれわれとおなじ数の自家用車を保有し乗り回したら、全世界の原油総産出量に加えて、一日当たりあと1500万バレルを使い切ってしまう(pp.184-5)」。なるほど…。そのすぐあとの文でレスター・ブラウン博士のコメントも引用されてはいますが、ここまで読むと、限りある化石資源をこれまでバカスカ消費しては大気中に放出しつづけてきたのはほかならぬ米国人じゃないですか、と言いたくなる(捕鯨だってそう。昔捕りまくっていたのは欧米諸国のほう)。もっともこれにかんしては日本人もふくめていわゆる先進国の人間みんなにひとしく責任はあるけれども、ちょっとこのへんの書き方はimbalanceというか、どうしても引っかかるものがあった(おややや、と思い、年末に読了したもののまたはじめから読み直す破目に orz)。マッキベンはこうつづける。「米国民のエネルギー消費量は平均的メキシコ国民の6倍であり、平均的インド国民の38倍、平均的エチオピア国民の531倍だ。これがどういうことなのか、おおよその見当がつくだろう。残る世界のほとんどが、われわれとおなじ消費量レヴェルに近づいたらどうなるのか。べつの惑星が必要になる、それも数個分だ」。さらにこうつづく。「ここで大事なのは、われわれがもつべきで、彼らはもつべきではない、ということではむろんない。西洋型消費社会を発展途上国に拡張しても成功しないということだ(p.186)」。中国政府の副環境相という人がドイツの雑誌の取材にこたえて、「急激なペースで進んできた中国経済の奇跡はまもなく終わる。環境のほうが先に脱落するからだ(p.188)」。ここまで読まされたほうとしては、それなら米国人はピルグリム・ファーザーズの時代のように、あるいはアーミッシュのようにもっとつましく生きるべきだと思うのですが、そう感じるのはここにいるボンクラだけかしら? たしかに環境破壊をきっかけに滅亡した文明って過去にもいろいろありました。正月に見たTV番組でもローマ帝国の事例を紹介していたことを思い出した。

 前世紀まで、世界経済は社会主義体制と資本主義体制とに分かれて優位を競っていたけれども、「われわれの側が勝った。より多くのモノを作ったからにとどまらない。自由の拡大と恐怖の縮小をもたらしたからだ(p.225)」。でもいまや温暖化による環境の激変はいかなる戦争をも凌駕する最大の脅威となっている(「ガイア理論」で知られる英国の科学者ラヴロックは、「閾値」はすでに越えてしまった、事態は急速に悪化していると言い、「今世紀が終わるまでに数十億人が死ぬ」と警告している[p.230])。資本主義経済でも計画経済でもない、「唯一残された希望は、どこか中間で折り合いをつけるしかないかもしれない(p.226)」。途上国の開発は必要だが、われわれの社会を手本にしてはいけない。富める国に住むわれわれもまた変わらなくてはならない、という。Fair tradeのことにも言及していますが、「ある意味で、地域経済についてこれまで議論してきたことは、フェア・トレードということである(p.175)」という一節のみ。ようするにカーギルにより多くの金が落ちるのではなく、食べ物を生産している農家、林業に従事している業者により多くの金が回る経済構造にすべきだということ。つまるところマッキベンの目指す持続可能な未来というのは、日本で言うところの「足るを知る」志向の――従来の成長一辺倒ではなくて――「田園型」社会しか選択肢がない、ということ。正月、地元紙の特別紙面にも持続可能な将来の社会として、「ドラえもん型社会」と「サツキとメイ型社会」とに大別して紹介されていたけれども、マッキベンの理想とする社会構造は後者の「サツキとメイ型」と言い換えてもいいかもしれない。

 なんかちょっと肩透かしを喰らったような印象がぬぐえないのですが、マッキベンの視点のユニークな点は、われわれの生活スタイルを変えるための理由づけ。環境保護というより、むしろ「人間の幸福」のために変えなくてはいけないんだ、と言っていることです。永らく西欧社会を動かしてきた原動力の自由市場経済というのは、経済効率を優先するあまり、地縁血縁や地域社会といったしがらみから「個人」を解放した、というか、いまや個人は孤独な「超個人(hyper-individual)」になってしまった。グローバリゼーションはいい意味での効果もあるにはあったが、同時にさまざまな絆から切り離された個人(人と言っていいかもしれない)も多数生んできた。たとえば「うつ」になる子どもの割合は貧民街の子どもより富裕な郊外住宅地に住む子どものほうが高い傾向がある(pp.113-4)。これはつまり両親の労働時間が長すぎるということ。金稼ぎが主で、生活が二の次。子どもはベビーシッター任せ。誕生日祝いも宿題の面倒も自転車の乗り方を教えることも放棄してまで、いまの生活水準(高画質TVとかジャクジーとか高級車とか)を維持するためにひたすら働く。また自由主義経済が強大になったあまり、テロリストからも狙われるようになった。もはやこの社会は安全でさえなく、社会保障さえもお寒い(このへん、マイケル・ムーア監督の例の映画を見たらもっとよくわかるかも。まだ見てないけど)。米国人の4分の3が、となりにだれが住んでいるのか知らない(p.117。もっとも日本人は米国の現実を笑えない)。2歳の幼児の語彙のうち10%がブランドネーム(p.113)。離婚率も、個人主義の高い地域で高い。「サン・ベルト地帯住民の離婚率は、古い伝統の残るニュー・イングランド住民とくらべて2倍(p.101)」。また、米国人は友だちや家族と過ごす時間より仕事の時間と個室にこもってネットサーフしている時間のほうが長い(pp.100-1)。いずれにせよ人間というのはひとりだけでは生きてはいけない。あまりに自意識過剰になったゆえに、周囲を思んぱかることもなく、てんでばらばら、めいめい勝手なことをしている。それが「超個人(そんなの関係ねぇ! 的人種)」。自分はなんらかの共同体に帰属しているんだという意識がさらさらないから先進国中、米国では国内犯罪率も高い、という。米国はもっと欧州を見倣うべきだ。欧州人は「エネルギー消費がわれわれの半分」、「ドイツとフランスを例にあげれば、米国の労働者にくらべて時間当たりの生産高が高い」、「ヨーロッパ人は生活するために働く。その逆ではない。彼らは米国人より多くの時間を家族とともに過ごす。離婚率が米国とくらべてはるかに低いのも、それと関係があるのかもしれない」、「ヨーロッパ人における自由の定義とは共同体内での自由。個人がどれだけのものを持っているか、ではなくて、個人がどこに所属しているか、だ」。なのでヨーロッパ人の69%が環境保護を喫緊の課題ととらえ、半数以上の人がいまの生活様式を根本的に見直すべきと考える。いっぽうで米国人はと言うと、環境問題について心配しているとこたえたのは「4人にひとり」。(pp.222-5)。一言で括ってしまえば国民性の相違ということだろうが、これはそうかんたんには変えられないくらい根が深いと思う。献辞に名前が出てくるウェンデル・ベリーを思わせるラディカルな記述としては、経済成長をGNPとかGDPというひとつの価値基準に当てはめて論じるのはいまやそぐわないとして、GNPの代わりに「幸福指数」というのを使っているブータンの例を挙げたりもしている(p.217)。たしかにマッキベンの言うとおりに、物質面での豊かさすなわち経済成長イコール人間の幸福という等式はいつまでもつづくわけはなくて、あるところまでくるとGNPとかGDPとかは個人の幸福とは関係なくなる。一見豊かな国に住んでいるのに自殺・アル中・うつはちっともなくならない。日本の場合、「1958年から86年にかけて、ひとり当たりの収入は5倍に増えたものの、生活の満足度が高くなったという報告はない(p.36)」。

 マッキベンのこの本はそのユニークさゆえ、突っこみどころがないわけではないけれど、総じていい本だと思う。けれどもいまひとつもの足りない気がする。正月にTVにも出ていた、ニコラス・スターン博士のいわゆる「スターン・レヴュー」のこととか、どう思ってんのかな? 第二版はfollow-upというか、増補版にしてほしい。そしてこの本は「経済」を主題として書かれたものではあるけれど、ダストカバー背面を見たら分類は「社会学」になっていた。経済も社会学も同じコインの裏表だからこのへんはいいか…。

 でもたとえば「京都議定書」には批准していないとはいえ、すでに民間レヴェルでは連邦政府の尻を叩く動きも活発に見られるようになってきたし、米国人というのはまとまるときはとてつもない団結力を発揮する国民性だと思っているので、マッキベンの言うように、まだ間に合うのかもしれない。むしろ問題なのは、日本人ではないかしら。夏には地球温暖化問題を中心にサミットが開催される予定だけれども、大多数の日本人の意識は温暖化対策先進国の欧州にくらべてはなはだ薄い(それでも今年の正月は、くだらない番組が多いなか、温暖化問題を取り上げた番組がいくつか放映されていたのは好ましいことだと思う)。せんだってさる週刊誌に、「環境なんかやってる場合か」なんて見出しが躍っていた。言うまでもなく株価急落がらみの記事ですが、いまや世界の市場では二酸化炭素ガスの排出権取引が大きな流れになりつつある。企業の格付けにも影響をおよぼすほどだとも聞きます。最近の日本を見ていると、なんだか鎖国でもしているんじゃないかと思えてくる。

 なお今回から読んだ本の評価を5段階評価でつけてみることにしました(以前読んだ本の記事にも順次追加していきます)。今回は少し辛めで、るんるんるんるんるんるん

 参考までに、NYTimesの書評はこちら。マッキベンの主張には、いい意味でも悪い意味でも自分の住むヴァーモント流儀というか、そういうローカルな発想は感じられますね。

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2007年10月19日

『イギリス大聖堂・歴史の旅』

 以前、志子田光雄・富壽子夫妻の好著『イギリスの大聖堂』を読んだことがあるが、こちらは一昨年刊行された英国版古寺巡礼ものの最新刊と言っていいでしょう。

 この本は、本邦の英文学者三名が英文学の文士たちの足跡をたどる取材をしている過程で、ごく自然な成り行きで威容を誇る各地の大聖堂に魅せられ、大聖堂巡りをした旅をまとめたもの。英国における大聖堂建立の歴史を知るばかりでなく、一旅人の視点から書かれた紀行文でもあるので、読んでいるほうも現地で著者たちとともに大聖堂巡りをしているような、旅行記ものならではの楽しい錯覚をおぼえます。大聖堂の歴史は時の権力者との確執や争いの連続でもあるので、大聖堂じたいの歴史のみならず英国王室史に大聖堂ゆかりの著名人の話、そして著者たちの体験した旅先でのハプニングなどがほどよく織り交ぜられて、読み物としてひじょうにおもしろい。この手の本はどうしても「お堅い」イメージでとらえられがちですが、軽妙洒脱かつユーモラスな語り口とのバランスが絶妙な味わいを醸しだしています。英国大聖堂聖歌隊の音楽を愛聴している音楽好きの人にもぜひ座右の書に加えてほしい一冊です。

 中世大聖堂特有の建築用語についても巻頭で平易に解説してくれます。たとえば身廊(nave)が中世ラテン語の「舟」から来ていること、たいていの大聖堂は上から見ると十字架のかたちをとっていること、西側に正面玄関があり、朝陽の昇る方角に至聖所つまり祭壇の安置された内陣がある。補足ですが、フランスの大聖堂ではたいていそのうしろに後陣(apse)を配し、ちいさな礼拝所を放射状に配置していますが、英国の場合は大幅に拡張されて後方にいくつか張り出すかたちで私的な礼拝堂(chantry)や聖母に捧げられたLady Chapelがくっついている大聖堂が多い(ダラムのように例外的に西側に増築している場合もある)。そして宗教改革以後の分類上の呼び名であるOld FoundationとかNew Foundationとかについても一覧表を付しています。

 「読んで楽しい英国大聖堂ガイド」のおもむきのあるこの本、ケルトつながりでも思わぬ発見がありました。たとえば大学町ケンブリッジにも近いノリッジ大聖堂。なんとケルト十字を彫りこんだ背もたれのある主教座がある! なんでもイングランド最古の主教座(当時はもちろんカトリックなので司教座が正しい)なんだとか。リポンやヨークにはすでに聖コルンバのアイオナ修道院門下の修道院や教会があったので、そのつながりかもしれない。公式サイトの説明では、当時のまま残っているのは礎石の破片だけで、その上にあらたに木製の背もたれをくっつけたらしいので、本物は石の破片だけということになる。礎石は、この地に大聖堂が建立された時期よりも古いアングロ・サクソン時代の教会にあった司教座らしい。またリッチフィールド大聖堂の訪問記では、リンディスファーン修道院で教育を受けた創設者聖チャド(672年2月没)の話や、個人ではじめて英語辞書を編纂したサミュエル・ジョンソン博士の話も出てきまして、興味は尽きません(聖チャドは天に召される一週間前に天上の妙なる調べを聴いた…というくだりもおもしろい。出所不明のブレンダン伝説に、やはり「天上の音楽」を聴いた…という話があります。リッチフィールドついでに、7日放送BBC Radio3のChoral Evensongでここの聖歌隊が歌ってましたが、有名なスタンフォードのト長調カンティクルではひじょうに清らかなコリスターのソロが印象的でした)。またヘレフォード大聖堂の訪問記では有名な世界地図(Mappa Mundi)と鎖でつながれた本の図書館(chained library)の話も出てきます。'Mappa Mundi'には「6つの聖ブレンダンの島、幸福諸島」として大西洋上に聖ブレンダンの島が描かれています(その位置はおおよそ現在のカナリア諸島あたりらしい)。

 リポン大聖堂の項目(p.232)には、ウィットビーの宗教会議(664年)にも触れられていて、ひょっとしてと思い、「参考書目」一覧を見てみたらやはりペンギン・クラシックスのThe Age of Bedeがあった…とここまではよかったのですが、かんじんの編著者名が誤植(苦笑)。D.H.Framerではなくて、正しくはFarmerさんです。とはいえ、リポン大聖堂の創設者がウィットビー大修道院での論争でアイオナ・アイルランドのケルトキリスト教会派を論破した当人の聖ウィルフリッド(St Wilfrid)でもある。念のためThe Age of Bedeに収録された、エディウス・ステファヌスの書いた「聖ウィルフリッド伝」を確認してみると、ウィットビー会議のすぐあと、17章にリポンに教会を建てたことが書いてありました(→リポン大聖堂サイト内沿革ページ。「モグラの穴のように小さい、人一人通るのがやっとの狭い階段(p.227-8)」を下ると、掲載画像にもある7世紀に造られたという聖ウィルフリッドの礼拝所がある。もとはこの上にバジリカ聖堂が建っていたらしい。現在の聖堂は4代目のようです)。

 リポン大聖堂訪問の記述でおかしかったのは、オルガン席から突き出した手首の彫刻のくだり。掲載写真を見ると、手だけが伸びてなんだか気味悪いですが、これはオルガニストが演奏を中断せずに聖歌隊へ合図するためのもの…らしい。大聖堂サイトにも説明があって、1695年というからバッハがまだ10歳のボーイソプラノくんだったころ、リポン大聖堂のオルガンが再建され、そのさい演奏台の位置が変わったためにオルガニストが聖歌隊へ指図できなくなってしまったため、レバー仕掛けで動かす「手」をくっつけた…とのこと。この手、いまでも動くのかしら?! 

 グリーンマンとか天井の梁飾りであるボスの凝った絵柄とか、現物を見に行った人ならではの記述も目白押しですが、音楽関係では聖歌隊席のミゼリコード(misericord)にもきちんとページを割いているところがうれしい。これは跳ね上げ式椅子の裏側に彫られた浮き彫りのことで、名前の由来は修道院全盛時代、徹夜の日課で立っていられなくなった修道士がつかのま寄りかかるために使った「慈悲の支え」から。お尻の下敷きになるものなので、神聖な図柄はご法度。なのでグリーンマンとか牛とかレスリングをしている男とか、当時の世相を反映したものや異教時代の異形の図案がふつうです(エクセター大聖堂のミゼリコードには牝のケンタウロスとか、男女の人魚が太鼓を支える図とかひじょうにおもしろい彫刻が施されている)。以前『アレクサンダー・ロマンス』の写本だった(?)か、首なし「胴体人間」の挿絵を見たことがありますが、それに近い「首から手足の生えている」怪物に、「胴体に顔がある」怪物なんて図柄もある。リポンにもそういう胴体人間にグリフィンとか怪物をあしらったミゼリコードがある。とはいえひじょうに変わっているのはノリッジ大聖堂のミゼリコードで、先生役の修道士に尻をひっぱたかれる子どもやドラゴンと闘う人といった中世の傑作に混じって、なんとサッカーでゴールキーパーがファインセーヴしている場面もあるという!! もちろんこちらは現代の彫刻家の作品。

 またこういう大聖堂にはヴォランティアのガイドさんもおおぜいいますが、印象的だったのがリンカーン大聖堂の老ガイドの話(p.200)。もと英空軍のパイロットだった退役軍人の紳士で、数年前に心臓疾患の大手術を受けて奇跡的に助かり、以来リンカーン大聖堂のヴォランティアガイドとして余生を人々のために捧げる決心をしたんだそうです。たいていガイドさんは有料で、そのわりに知識がともなっていない場合が多いらしい。でもこの老紳士はそうではなくてひじょうに博学、かつほんとうに親身になって日本から来た客を迎えてくれたと言います。掲載写真の日付けを見ると5年前のことらしい。いまでも元気に活躍されているといいのですが。

 「胴体人間」のミゼリコードを「ニコちゃん大王」になぞらえたり、随所にすっとぼけたおもしろい書き方をしていますが、p.86の、ベリー・セントエドマンズ大聖堂を訪問したくだりも個人的にはけっこう好きですね。聖堂脇の公園――宗教改革以前は大修道院だったところ――でパンとジュースだけのわびしい昼食をとっていたら、リスがじっとうかがっている。ベリー・セントエドマンズ大修道院は貧者への太っ腹な施しで有名だった。「貧しき者にもお裾分けを」というふうに見えた著者、しかたなくパン屑をくれてやった。こんどはクロウタドリやらロビンやら小鳥の群れが餌をねだりに来たのでまたパンをわけてやった。「おかげで、我が貧しき食事はさらに貧しくなったが、聖エドマンドのお導きか、『多くの貧しき民』にささやかな施しができて、心はほのぼのとなった」。

 でもこの本で取り上げられているのは代表的かつ有名どころの大聖堂のみ。じっさいにはイングランドのすべての大聖堂を巡った…ようなので、ぜひとも続編を刊行してほしい。

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2007年08月10日

『修道院』vs.『修道院』

 本家の「参考文献」ページにも追加した故今野國雄先生の著作『修道院』。よく西欧のキリスト教修道院は日本の禅宗と比較されたりもしますが、そのじつ成り立ちと歩んできた歴史はひじょうに複雑で、日本語で「わかりやすく」案内した本となると、本書のほかには朝倉文市先生の同名書名の『修道院』(講談社現代新書刊)くらいのものでしょうか。翻訳ものもいくつか出ていますが、いずれも入門書的なものではなくて、かなり専門的なものばかり。邦人研究者で「西欧における修道院の歴史」を平易なことばで解説したものはおそらくこの二冊くらいのものだと思います。で、どちらか一冊を、ときたら、自分だったら今野本を推すでしょうか。でもできれば二冊あわせて読んでおきたい。

 今野本のほうは、「はしがき」にも触れられているとおり、たんなる修道院の通史というより、修道院でつづけられてきた「労働」の変遷をとおして、西欧の職業観、ひいては西欧型資本主義社会の成立にあたえた修道院の影響に的を絞って概観しているところでしょうか。朝倉本は、修道制度のはじまりから中世末期までの正統的通史。こちらも前者と劣らず西欧の研究書からの引用が多く散りばめられて門外漢にとってひじょうに勉強にはなりますが、惜しむらくはやや散漫な書き方で、少々わかりづらい。読みやすさという点では今野本のほうが上かと思います。

 アイルランドで栄えた独特の修道院制度について、両書ともきちんと書いていますが、朝倉本のほうには「…『聖ブレンダンの航海』によって知られるクロンフォート(ママ)によって建立されたクロンフェルト修道院などがよく知られている(p.77)」というのは正直なところ、??? なんですが。

 だいたいにおいて両書とも、さほど意見の対立はありませんが、ひとつ目を引いたのは尊者聖ベーダの書き残した『ウェアマス/ジャロウ大修道院長伝』と、のちに中世以降の西欧修道院制度で事実上の標準規則となる「聖ベネディクトゥスの会則」について。ベーダは自分を育ててくれた兄弟修道院であるウェアマス-ジャロウ(イングランド北東部ダラム州)の歴代院長についてときに感動的な筆致で伝記をものしています(たまたま英訳本をもっていたのでこちらも全編読んでみました)。相違点は、当時ベーダが「聖ベネディクトゥス会則(または戒律)」を知っていたかどうかについて。ベーダは『修道院長伝』中、かつての修道院長ベネディクト・ビスコープが5回もローマに旅しては、カッシオドルス校訂による『聖書』など貴重な写本をいくつも渉猟しては自分の創建した修道院に持ち帰ったと書いています。で、この偉大なる院長が中風で長患いの床に伏せていたとき、修道士たちに向かって自分の編んだ修道院規則を守るよう説くのですが、それが大陸滞在中に立ち寄った17の修道院規則をベースにしてこさえたものだという。今野本のほうは、さきにベーダ自身、「会則」を知らなかった可能性があることに触れた(p.74)あとで、こうつづきます。

 「…ベーダはこれら修道院の名を明記していないが、その中にモンテ・カッシノが含まれていないことは確かである。当時そこは廃墟のままであったからである。(p.83)」

 朝倉本では、

「…ジャロー修道院におけるベーダの活躍した時代の生活は、『聖ベネディクトゥス戒律』に従ったという証拠はないけれども、ベーダの記述からカッシノ山の『戒律』ときわめて類似していたと推定することはできる。(p.94)」

 ペンギンクラシックス版英訳本(The Age of Bede, p.187)を読んでみると、のっけから、教皇大グレゴリウスの『対話』第二巻冒頭の聖ベネディクトゥスの生涯についての書き出し部分(「尊い生涯を送った人がいた。その名は恵み深い『祝福されし者』と呼ばれていた。幼少時より円熟した心をもち、おこないは年に似合わず、どんな欲望にも魂をゆだねることはなかった」)と書かれてあることからしても、ベーダ本人は「会則」を知らなかったわけではないらしい。とはいえ英訳者によるまえがき(pp.32-3)では、一部の学者やジャロウのベーダ博物館(たぶんここのことだと思う)はジャロウ大修道院と「会則」との関連性を強調する傾向があると指摘した上で、じっさいには各地の修道院規則が融合している場合がほとんどで、当時のジャロウが「会則」を採用していたと単純には言い切れないと慎重な見方をしめしています。それでもすくなくとも7世紀後半にはブリテン諸島にも「会則」が伝わっていたということは言えるかと思います。さらに西隣りのアイルランドではどうだったか知りませんが、すくなくとも聖ブレンダン当人が生きていた時代はどうだったかと言えば、まさに同時代人であったベネディクトゥスのこさえた「会則」なんてブレンダンが知っているはずもないから、5-6世紀アイルランドのマンスター地方では土着の慣習、たとえばドルイドの戒律などがそのまま修道院規則へと移行して適用されたと考えるのが自然でしょう。もっともブレンダンの死後2世紀を経て編まれたラテン語版『航海』で「会則」を意識した書き方(第2章や第12章など)をしているのは、急速にローマカトリック陣営に取りこまれていった時代のケルト教会として、権威づけのために必然的に出す必要があったからと考えるのが妥当だと思います。

 今野本のほうは中世以降、宗教改革時代から第二ヴァティカン公会議以後の前世紀までの動向にも触れられています。「オックスフォード運動」なんかももちろん出てくる。ルターについてもけっこうこまかく書かれています…それもそのはず、ルターはもともと「四大托鉢修道会」のひとつアウグスティノ隠修士会所属のひじょうに熱心な修道士だったから。あまりに熱心すぎて、結果、当時のローマカトリックの腐敗にたいする怒りも強かったんだと思う。この時代になると、かつての「改革」修道院シトー会もいまは昔、フランチェスコ会など、積極的に辻説法に出るタイプのあらたな修道会に取って代わられていった。今野本でおもしろいと感じたのは、日本でも馴染みのあるイエズス会創始者イグナティウス・デ・ロヨラと熱血修道士ルターが似ている、と書いてあるくだり。結果的に方向性がちがっただけで、両者とも「霊的生活の再生」を掲げた点においてはコインの裏と表と言うか、あまり変わりはなかったという指摘にはなるほど、と感じました。

 ただあいにく今野・朝倉両書とも「西方教会」系修道院のことにほとんどの紙数を割き、「東方教会」系修道院のことはたいして触れられていない点が惜しい。何年か前にギリシャのアトス山修道院のことをNHKのTVで見たことがありますが、今後は東方教会系修道制度を扱った本を探そうかな。アイルランドの修道制は、エジプトのコプト教会やシリアあたりで大バシレイオスが始めたとされる修道制度に近いと言われることが多いので。

 キリスト教全体の通史としては、ジャーナリスティックに書いているポール・ジョンソンの『キリスト教の2000年』などのほうがすこぶる楽しい読み物に仕上がっていると思いますが、修道院の通史でもそんな本がもっともっと出てこないかな(→ヌルシアの聖ベネディクトゥスについて参考ページ)。

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2007年05月05日

The English Chorister: A History

 …は、イングランドにおける少年聖歌隊員の歩んできた「歴史」に焦点を当てた労作。昨年暮れにAmazon Japan に注文したのですが、届いたのは1月末。翌月から暇な時間はこの本の読書にあて、復活祭の日に読了。「少年」聖歌隊員が主役の本なので、「こどもの日」にあわせてみました(笑)。


The English Chorister, dustcover


plate pages


 著者はもとケンブリッジ・セントジョンズカレッジ聖歌隊学校長だった人らしい。「まえがき」で、著者は「この本は 'Choral Foundation' に属する少年聖歌隊員コリスターの歴史について」書いたものだと述べていて、教区教会(parish church)の子どもの聖歌隊員は'choirboys', 'choirgirls' としてはっきり区別しています。上記の「コーラル・ファウンデーション」なる用語、強いて訳せば「聖歌隊を擁する(大聖堂・修道院)組織」くらいでしょうか。

 歴史ものなので、まずはじめはキリスト教会と「少年歌手」の関係からはじまり、時代を追って進んでゆきます…のっけから2世紀に書かれた一種の手引書『ディダケー』だの、ディックス師の唱える「聖餐式における4つの動作形」だの、「オクシリンコス・パピルス」だのが出てきます。後者については、穀物の勘定書きの裏に、エジプトの礼拝で使われた、現存最古の「独唱聖歌」がギリシャ記譜法で書かれているとか。すぐそのあとでこんどはケルト教会が登場。当時の聖職者は見習いの若者とともに「共同体」を形成していたのがふつうでしたが、そこに少年の歌い手がふくまれていたかどうかについてははっきりしたことはいまだにわからない。「…いずれにせよブリテン島のキリスト教会は異教徒アングロ-サクソン人侵略者の手に落ち、彼らから逃れた聖職者たちはケルト教会の支配する辺境地帯へと落ちのびた。彼らの教会はローマ教会とはほとんど別個の、ほかのキリスト教世界からも隔絶された存在となり、しだいに特異な典礼方式を発展させていった」(p.2)とケルト教会についても言及しています(中世初期はケルト式のほかにアンブロジウス式、モサラベ式など数多くの地方典礼があり、ローマ式もそんな一地方典礼に過ぎなかった)。尊者ベーダの『イングランド教会史』も何箇所か引用され、ノーサンブリア王族の娘聖エルフリードがわずか3歳で聖女ヒルダの女子修道院に「捧げられた」話とか、ベーダ自身、7歳のときにウェアマス大修道院におなじように捧げられ、そこではこんにち大雑把に「グレゴリアンチャント」と呼んでいる形式の単旋律聖歌を歌っていたと思われる…とか出てきて、内容はけっしてやさしくはないけれどもあたらしい発見がいろいろあって、この時代のアイルランド-ブリテン諸島のキリスト教会・修道院、そこで奏でられていた音楽に興味ある者としては、本筋とはまるで関係のないところで楽しめる本でもありました(p.10の「献身者」の図版について、まったくおんなじものが志子田光雄・富壽子著『イギリスの修道院――廃墟の美への招待』にも掲載されています)。

 修道院に捧げられた子どもはoblate、「献身者」と呼ばれ、エルフリードのように王族とか貴族のような高い身分の一族から修道院に預けられるのがふつうでした(だから当時の「献身者」制度は貧乏人の口減らし手段ではなかったし、子どもたちが受ける教育水準も高かった)。それが、時代をくだって「ベネディクトゥス会則」やクリュニーやシトーなどの改革修道院運動を受けて、こうした「献身者」の慣例は廃止され、聖務日課で修道士に混じって聖歌を捧げる子どもの姿が一時的になくなります。彼らの代役として歌うようになったのが、施し物分配所で養われている孤児たち。修道会に属さない、参事会員(canons regular)の運営する「在俗の」大聖堂でもそんな少年たちの澄んだ歌声が響いていた。とはいえ当時の記録では、たとえばエクセターとソールズベリ大聖堂では14人、セントポールでは8-10人、ヨークミンスターでは7-12人、ウェルズでは6人+リーダー格の年長者3人とわりと少人数の構成だったらしい。少年聖歌隊員の人数の変遷は時代を追って3つの一覧表としてまとめられています。また当時、ソールズベリ司教エドマンドは典礼や聖歌隊のあり方について細かい規定をさだめ、宗教改革時代までイングランドの大聖堂ではこの規定に即した典礼方式がひろく普及していました(セイラム式典礼 Sarum Use)。そして施し物分配所の学校が、英国における聖歌隊学校の前身となります。はじめは単旋律聖歌のオクターヴ上を「斉唱」するだけだった少年たちも、やがてオルガヌムなど初期ポリフォニー形式が流行すると、高音声部トレブルの歌い手、コリスターとして重宝されるようになります。

 コリスターという呼び名がはじめて登場するのが13世紀後半で、ラテン語でchorista、またはqueristaと表記されていたものが英語化したとか。それ以前はただたんにpueri(子どもたち)と呼ばれていた。で、各地の修道院に幼い「献身者」が捧げられていた時代の聖歌隊員は少年も少女もいたけれど、少女のほうはヘンリー8世の修道院解散令が出されたときに聖堂内で歌うことを禁止された(20世紀後半に復活するまでは)。王室礼拝堂チャペルロイヤルのコリスターにかんする最古の記録は1303年らしい…そして王室礼拝堂の聖歌隊長は「徴用」の名のもとで、ほかの聖歌隊から才能ある少年歌手を公然と「誘拐」していた(!)という話にはちょっとびっくり。もちろん大聖堂の少年聖歌隊員だけでなくて、イートンカレッジやウィンチェスターカレッジ、オックスブリッジの付属礼拝堂少年聖歌隊員についても多くのページが割かれています。

 この本、引用文もこれまた多くて、古英語…で書かれたものなどしばらく考えてもわからん綴りの単語がけっこうあったり(whartとか。図書館に行ってO.E.D. をひっくり返したらどうもthwart の意らしい)。また中世に流行った「少年司教」の話とか(pp.68-73、註にもあるけれど、少年司教の話は『ブルーワー』にも載っている)、王政復古時代の章では王室礼拝堂聖歌隊にいた少年の話が海軍大臣ピープスの有名な日記に出てくるとか(pp.129-130)、ちょうどシェイクスピアの活躍したころ、セントポールや王室礼拝堂の子たちがプロの「俳優一座」として一時期活躍していたとか(pp.113-125、ちなみに男装した娘、なんて役もあり、相手役と恋に落ちて…という筋書きの芝居に出演していた!)、とにかく興味深い史実がてんこ盛りの本です。

 1400年以上にもわたる、イングランドの少年聖歌隊員たちの壮大な歴史絵巻を読んだ感想としては、当たり前のことながら彼らが所属していた教会同様、権力争いに巻きこまれ、はげしく翻弄されつづけた歴史だった、ということです。ヘンデルが活躍していた時代から19世紀、「オックスフォード運動」が盛り上がるまで、教会の典礼とその音楽に人々が無関心になると、教会音楽のレヴェルも低下、聖歌隊のレヴェルも文字どおりどん底(この時代の作曲家ホーキンスのあまりに簡素かつ凡庸な作品を、著者は皮肉交じりに「彼のハ短調マニフィカトは18世紀のミニマリスムと言えるかもしれない(p.148)」と評している)。リンカーン大聖堂は「最低の聖歌隊」と揶揄され、ウェルズ大聖堂では、少年聖歌隊員があろうことか身廊を遊び場にしてボールを蹴って遊んでいた(!)とか、ウソみたいなホントの――ある意味笑える――報告もけっこうあります(p.162-3。ちなみに1338年制定のウェルズ大聖堂の儀典法では、少年たちに境内で遊んだり石を投げることを禁じている。orz で、この当時、ウェルズの少年たちは3人一組でひとつの寝台をあてがわれ、「年少者がふたり並んで寝て、そのあいだに逆向きで年長者が眠ったので、真ん中で6本の足が絡みあっていた(笑)」p.28)。

 ほかに、こんな挿話もあります…。↓

  • 中世、ベネディクト会系のダラム大聖堂では修道士が召されると、その亡骸を埋葬の日の朝8時まで聖アンドリュー礼拝堂に安置し、近親者がふたり、寝ずの番をした――施し物分配所の少年歌手も二手に分かれ聖歌隊席で跪き、夜が明けるまでひたすらダヴィデの詩編歌を一晩中、歌っていた(p.59、さすがにこれは子どもならずともこわい、というか嫌な日課です。自分だったら断るかも)

  • 16世紀、少年聖歌隊員たちの音楽教育として、管楽器やヴィオール、オルガンをマスターする課程が取り入れられた。とくに英国でユニークなのが、少年隊員たちによるヴィオール合奏団の活躍。これは「少年歌手一座」の発展時期と一致していた(pp.108-09)。…ということは、この前はじめて耳にした、トレブルヴィオールというのも演奏していたんかな?? 

  • 素行の悪いオルガニスト兼少年聖歌隊長に殺されかけた主任司祭を救った少年聖歌隊員がいた(! p.100-01)ついでに礼拝の最中、殴り合いのいさかいを起こす成人聖歌隊員がいたり…。

  • 祭服を着用し、きちんと行列して入堂…という習慣もじつは19世紀後半、「オックスフォード運動」による典礼改革を受けたあとから(意外とあたらしいんですね)。たとえばウィンチェスターカレッジの「クィリスター」たちは1939年まで、カソックなし、私服の上からじかにサープリスをまとっていた(p.196)

  • 5月1日・メイデイの日の出にあわせてTe Deum を歌うオックスフォード・モードリンカレッジ聖歌隊の恒例行事。1840年の記録ではモードリンタワーてっぺんから下にいる若者衆にめがけてなんと生卵(!)を雨あられと投げつけた。これに怒ったモードリンカレッジ神学部長ジョン・R・ブロクサムが「サープリスを着用して塔に登り、脱帽して朝陽ののぼる東を向いて歌う」ようにさだめた(p.207、ちなみにYouTube にもつい先日のメイデイで歌うモードリンカレッジのビデオがありました)。

  • 第一次大戦中の7月7日、いつものようにセントポールの子どもたちが朝の祈りで歌っていると対空砲火がはじまった。彼らの150m先に爆弾が着弾、大音響で爆発しても、子どもたちは平然と勤め上げていた(! p.250)

  • 教会組織に属さない独自の少年合唱団を英国ではじめて率い、活動したもと聖職者がいる(pp.218-21、Liberaの先駆け的存在? この方は現在も元気、米寿88歳)。

 つい最近の事例としては、セントポール大聖堂少年聖歌隊在籍時にオルガニストとしてもデビューコンサートを開いた神童ベン・シーンくんのこともすこし書いてあります(p.270)。それと、聖歌隊学校の運営がいかに厳しいかの実例として、あのテュークスベリー・アビイ・スクールのことまで書いてあります(「…テュークスベリーもまた例外ではない。2006年春、学校側は今学期いっぱいで閉校すると発表したが、ディーン・クローズ・スクールが編入受け入れを申し出たため、少年聖歌隊員の歌声はかろうじて将来を保証された」p.221)。

 …そしてこれはしかたないけれども、ちょっと誤植が目についたかな。たとえば巻末索引の「トマス・モア」の項目(p.359)。首だけでなく、ページ番号まではねられています(…)。

 またp.51の譜例および記述には問題ありと英国のVoAメンバーが申しておりました。当時の少年歌手の出せる最高音は現在のピッチではソプラノ譜のそのまた上の変ロ(B-flat5)…という説を著者アラン・モールド氏は採用していますが、p.293の註77で著者自身認めているように、「ほとんどの研究者はこのウルスタン説を受け入れていない」(なにッ?! じゃなんで本文にこの説を引いたのか??)。現在のピッチではどうも中央ハから12度上のト(G5)で、原曲の調号はフラット一個らしい(聴いたことないし譜面も見たことないからこれ以上のことはよくわからないけれど)。

 そして最後に本題とは関係ないことだし蛇足でもあるけれど…Tewkesbury Abbey School を文字どおり「…大修道院付属学校」と表記してあるのをたまに見かけますが、Westminster Abbey 同様、名前だけが残ったにすぎないので(中世に栄えたイングランドの修道院はヘンリー8世の大修道院・小修道院解散令により徹底的に破壊、所領を没収され、グロスターやウィンチェスターなど一部が国教会[英国聖公会]の'New Foundation' として再編された)誤解を招く表記だと思う。ここはじっさいにはアムハーストという人が買い取った、「私立の」聖歌隊学校(independent school)なので(活動拠点としている聖堂も、もとは名前どおり大修道院付属聖堂だったものを、修道院解散令以後テュークスベリーの町の大聖堂として再興したもの)。

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2007年02月19日

『人間の終焉』

 ビル・マッキベンの最新邦訳書(原題はEnough--Staying human in an engineered age)、ということで図書館から借りて読んでみましたが…はっきり言ってこわいです。ある意味オカルト・ホラーものを読むより背筋が寒くなる内容。

 俗に言うGNR、「遺伝子操作」、「ナノテクノロジー」、「ロボット工学」の三点セット。これらを著者が「テクノ熱狂者」と呼ぶ一部の研究者や製薬などの業界、野放図な市場原理に丸投げしたままでいると近いうちにとんでもなく恐ろしい事態に直面する危険性が高い、と警告している本です。

 遺伝子操作…そういえば近くにそんな関係の独立行政法人研究機関があって、春になると構内に植えられているいろんな桜がきれいだな…とかそのていどの認識でしかなかったのですが、double helixの発見者であるワトソンをはじめ、一部の研究者はすでに暴走をはじめているらしい――遺伝子操作にはふたとおりあって、ひとつは「体細胞遺伝子」のみをいじって遺伝由来の難病患者の治療に援用するというものと、「生殖系列遺伝子操作 germline engineering」というもの。前者は治療される側の患者一代かぎりでおしまいになるので、とくに問題にはならない。大問題なのは後者で、いわば「改造人間」を試験管から創り出すようなもの。いったんこれがなしくずし的に広まればそれこそ「霊長類ヒト科」という生物じたいが地球上から消滅してしまう恐れがある。生まれた子どもはすでに研究者/バイテク業界、そして親から「身長はこれくらいがいい」とか「快活な性格で」とかまるでカタログから商品でも選ぶかのようにあらかじめ「選択」されてしまう(designer babies と呼ぶらしい)…これがなんでまずいかと言えばたとえば両親から受け継ぐ遺伝子以外の遺伝情報まで、生まれる前、胚の状態のときに勝手に書きこまれてしまう。そうして生まれた子はもはやヒトとは言えない。またこの分野というのは日進月歩以上のものすごい速さでつぎつぎと改良――いや改悪――が進むのがつねなので、そうやって「改造された」子どもがそれこそPCのOSよろしくあっというまに「型落ち」して、さらなる「超人間」に置き換えられてしまう…となんかSF映画とかウィリアム・ギブソンのNeuromancer ばりのとんでもないことがまさに「現実」になりつつあるらしい…もっとも韓国で起きた例の胚性幹細胞(ES細胞、いじりようによってはなんにでもなる万能細胞…らしい)がらみのでっちあげの前に刊行された本ですので、「クローン人間」というのはまだまだ先かと…でも悠長に構えていたらいつのまにか得体の知れない、人間なのかサイボーグなのか区別のつかない新生物に取って代わられることはけっしてありえない話ではなくてげんに進行中だって言うのですからほんと恐ろしい話です。

 いままで孤立した点として開発が進んでいるかに思えていたロボットやナノテクノロジーについても、最初の「遺伝子操作」と面的に結びついたらいったいどうなるのか。…ロボットといえば、「アンドリューNDR114」という映画はいい話ではあったし、R2-D2も子どものときから好きなんだけれども…これらがひとつに結びついたときにはひょっとしたら、人類にとって古くて新しい問題でもある「不老不死」が実現するとか、電子レンジみたいな「分子生物学的に組み替えてしまう万能マシン」に干草でも突っこんでジャガイモが生産できれば非効率な畑作は必要なくなるとか…ドラえもんの「ひみつ道具」じゃあるまいに! もうこのへんにくると、ふつうの感覚の持ち主ならば精神科でも受診したらと勧めもしたくなるような話がそれこそごろごろ。

 自分も人間なので、目先にぶらさがったニンジンの誘惑には弱いし、この点はじつは著者自身も本音がのぞくところ(p.296-7)があるとはいえ、基本的には著者同様、「もうたくさん!」だと思う(原題のEnoughはびっくりマークつきだと強調されて「もうたくさんだ、いいかげんにしろ」くらいにまで強まります。おそらくこっちのほうが本音でしょう)。ダース・ヴェイダーのようなぶざまなかっこうに成り下がってまで「永遠の命」をほしいとも思わないし、地球が膨張した太陽に呑みこまれるまで生きようとも思わない(せいぜいがいまやりかけのライフワークと呼べるものが終わってから召されたいです)。これら「テクノロジー万能教」信者みたいな研究者は思考まで1と0に単純化されて、いざ実現したらどうなるかといったことにはあんまり思いがおよばないらしい…複雑怪奇な数式を解き、難解な理論をそらんじることのできる、言ってみれば「天才」と呼ばれる集団のくせして…「不老不死」について書かれたくだりを読んでいますと、素人としてまず頭に浮かぶのは推進派の言う「死ぬ恐怖から解放された」世界、ではなくて、いつまでも腹立たしい人間が死なない世界、もっと悪くすればそんな一部の手合いが独裁者パルパティーンとして永遠に支配するような暗黒面の「破滅(地獄)」を想像してしまいますがね…悲観論者? たしかにマッキベン以上にペシミストだっていうことは自他ともに認めるところですが、この本に引用され、散りばめられた彼らの言明をまじめに読めば読むほど…冗談ぬきに彼らのオツムのていどを疑いたくなります。いつまでも人生のつづく世界では、かえって命の尊さとかかけがけのなさなんてだれも考えなくなるんじゃないでしょうか。昔、認知症のおじいさんを写真家である孫が亡くなるまで撮りつづけた話をTVで見ましたが、最後の一枚、棺に納められ上半身だけ見えるおじいさんの亡骸と、棺台のそばで無邪気に遊ぶ曾孫のモノクロ写真を見たときは…ことばにならないほど感動して涙があふれた。遺伝子操作したがっている研究者の描く未来では、そんな感傷は過去の話。もう死ぬことはないのだから。でもそれはわれわれが認識するようなヒト科の生物ではない。

 遺伝子操作の話にもどると、本人のあずかり知らぬところで勝手に改造を施された子どもが、そんな両親を親として敬うと思いますか? …この本のあとがきを書いているのは訳者ではなくて、こちらの社会学者の先生なのですが、例として「養子縁組」を引き合いに出しています…当たり前のことですが、真実を「告知」されるだけでもさぞ、と思いますが、そんなときに「あなたが頭のいい子だから引き取った」とかなんらかの「条件つき」で告知したらどうなるか。その子は自分の存在を「無条件で」受け入れられていないことに深く傷つくでしょう。子どもが事実を事実として受け入れ、成熟するにはまずもって「無条件で」里親に受け入れてもらうことしかない。人間の「感情」は、大脳生理学以上に不可思議で奥が深く、きわめて複雑なんです! 遺伝子操作された子は最初から選択肢も奪われた状態で生まれてくるので、ただでさえ親殺しがはびこっているのに、これではいったいどうなることか。ところが当の推進派(と「改造人間の子ども」の親)の言うには「よりよい子どもにするため」、「よりよい能力をもたせるのはその子のためになる」、「自分たちよりすぐれた能力をもたせるため…」などなど…その「よりよい」って判断基準はなんなの、と逆に問いたくなります。そんなことよけいなお世話じゃないですか。そうやってじゃんじゃん改造され増強された――こうしてバイテク企業は金もうけに励む――「超人間」の行き着く先は、たぶん昔のSF映画に出てくるような、頭ばかり異常に発達して手足は退化した、例のタコみたいな火星人もどきでしょう。そうなったらだれが責任を取るんですか。ミケランジェロの彫刻とか、古代ギリシャ・ローマのみごとな彫像を見たことがないんだな。人間はいまのままでもじゅうぶん「美しい」…自分の場合、見かけはあまり美しくはないとはいえ…。「遺伝子改造→解放」にはけっしてならないことぐらい、わかるはず。けっきょくは一攫千金狙いですか。いかにも市場原理最優先の資本主義らしいですな。

 そして笑えるのが、遺伝子操作推進派やロボット工学の研究所にはなんと「専属の伝道師」までいるという! 「神は、人間が神とともにある者になることを意図した。クローニングやDNAの再設計は、神とともにある者になる、最初の本格的なステップ(p.279)」ですと。つまるところ、彼らは――なんたる皮肉――自分たちが嫌悪しているはずのアルカイダなどの原理主義者とコインの裏表の関係でしかない。やっていることはたいして変わりません

 彼らの言う「バラ色の未来」なんてたんなる妄想の所産、というかインチキ商品を押し売りするセールストークとなんら変わりません。遺伝子レヴェルではたしかにハエ? だったっけ、それよりちょっと多いくらいの存在にせよ、人間はそんなに単純じゃない。人間はハエとはちがいます。「ハエ男」の映画じゃあるまいに。ようするに生殖系列遺伝子操作推進派の人たちは、遺伝子をいじることにかけては天才でしょうけれど、未来を見通す目はふつうの人以上に曇っているらしい(p.243-4)。

 …という感じで、いまならまだ引き返せる、と歴史上の例として引き合いに出されているのが、うれしいことに江戸時代の日本(…条件づきではありますが)。当時最新のテクノロジー、鉄砲(火縄銃)を――その気になれば大量生産してアジア大陸を侵略することもできただろうに、そうはしなかった。鉄砲を捨てた日本はその後鎖国政策を取り、世界史上まれに見る長い間、曲がりなりにも平和を享受してきたことを取り上げています。米国からはAmishの生活スタイルが参考になると書いています…それとおお、鄭和まで出てきます…そういえば昨年、NHKでも取り上げていたかな、鄭和の巨船艦隊の偉業は…引用されている文献として『中国が海を支配したとき』もあります…これもってる! …でもまたしても書棚のどっかに突っ込んだまま、ろくに読んでないorz。もっともマッキベンは、鄭和艦隊のあとの中国のことに力点を置いているのですけれども…。

 ようは、「もうたくさん、これ以上はいらん」という選択肢、切り札がまだあるということ。環境問題ではずいぶんとalternativeという生活態度が選択されてきたように思いますが(有機農法とかフロンガス全廃、風力発電とかスローフードとか)、このGNRにもおんなじ選択肢がまだ残されているということに希望を託して結論としています…音楽だったら、最近はMIDI音源の組み込まれたサイトもずいぶん増えて、それはそれでおもしろいとは思うけれども、たとえばこれも昔TVで見た、「息子がピアノでバッハを弾いた。ミスタッチもあるけれど、心をこめて。それを聴いた父親が一言、『感動したよ』」という黒人家族の話。自分もおんなじですね。楽器を流暢にだが機械的にただ弾いているだけのロボット演奏家より、人間の子どもの演奏のほうがよっぽどいい――技術的にはロボットのほうが上であったとしても。

 …いまさっきやってた「青春アドベンチャー」の「不思議屋料理店/ママの得意料理」も、これらと似たような話でした…息子を「幼稚園受験」に合格させるため、自分の手料理のレシピをつぎつぎと不思議屋料理店へ差し出してゆく若い母親。大切な手料理の作り方と引き換えにしてまで息子の受験を成功させようと奮闘するも、息子は落ちてしまった。料理店に話がちがうと夫ともに抗議に行ったら、「ちゃんといつもどおりのレシピで作りましたか?」――夫と息子の大好物であるオムレツは作らなかった。夫は、でもまだオムレツが残ってる! と妻を励ます…と、まるで『プチ・ファウスト』みたいな内容でした。なんだかマッキベンが書いていることとどこか共鳴していると思いませんか? 大切なのは、誘惑に負けずに「ほんとうに大切なもの」とそうでないものとを天秤にかけて、引き換えにしないことです。それだけの「知恵」にかけては、「テクノユートピアン」たちより、われわれふつうの人間のほうがはるかに勝っているはずです。

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2007年01月08日

The Sea Craft of Prehistory

 昨年暮れの話で恐縮ですが、モスクワアカデミー公演(12月1日)に出かける前、国会図書館にちょっと立ち寄って調べ物。こんどはすこしは新方式にも慣れ(?)、その前に来館した折複写できなかった諸宗教における修道制度(日本の禅宗もふくむ)について書かれた事典の「アイルランド」項目とかをわりとスムースに複写してもらい、出来上がり待ちのとき、ふと複写室のまん前にある昔ながらの洋著者カードのキャビネットに目がとまり、英国人船舶史研究家Paul Johnstone の著作とかはないかな♪ とじつに軽ーい気分でカードを繰っているうち、ひょっとしたら…とオンライン検索にかけてみるとなんと出てくるではないですか。The Sea Craft of Prehistoryという本。!! と即閲覧手続き。パラパラめくると、さっそくアイルランド・ブリテン諸島の獣皮船について書かれた章が目に飛びこむ。時間がなくなってきたのでとり急ぎこの章のみ複写してもらいました。午後4時近かったけれどもなんとか即日受け取り扱いになりぶじ複写を受け取るとそのまま有楽町線に飛び乗って演奏会場のカテドラルマリア大聖堂へ向かいました。

 この本はひらたく言えば世界中の古代船について、徹底したフィールドワークにもとづく研究成果の集大成みたいな本です。著者ポール・ジョンストン氏は英国海軍時代に古代船に興味を抱き、以来BBCの考古学番組のホストを務めるかたわら、いわば一介のアマチュアの視点からいままで本格的に調査されることもなかった古代船について研究したきた人です。この本は草稿のみ書き上げられたあと、著者が亡くなってしまったため、著者の友人だった編者マグレイル氏が校訂出版したもの。編者は明らかな重複・書き損じ以外、なるべく著者の残した草稿の形を尊重したとのことで、いわば古代船の調査研究に生涯を捧げた著者ジョンストン氏渾身の「白鳥の歌」、とにかく労作です(編者によると草稿にあった4章と10章は4章として統合、8および10-12章にはあらたな知見を追加、18章は独自に追加したもの)。

 日本の古代船についてももちろん章が割かれてまして、太平洋のカタマランやカヌー、丸木舟(刳り舟)に中国のジャンク船の原型になったと言われる東南アジアの竹筏、さらにはいまだにイヌイットがアザラシ漁に使う獣皮船ウミアクも網羅してあります…これほど世界中の古代船について包括的に書かれた類書はおそらくないだろうと思います。

 複写したのは'The British Isles : skin boats' と題された章。アイルランドでいまだに使用されている伝統漁船カラフおよび英ウェールズ地方の「お椀型」小型網代舟コラクルの起源と歴史が、これら古代船をかたどった出土品も交えて論じられていて、起源は中石器時代にまで遡る可能性が高いこと、紀元前4千年前に伝わった農耕文化によって獣皮船がさかんに用いられるようになったこと、ストラボンなど古代ギリシャ人による記録とデザイン上の共通点から、ブリテン諸島のケルト人が紀元前からすでに地中海地方と活発な交易活動をおこなっていたことなどを指摘しています。

 これを読んで収穫だったのが、アイルランド国立博物館に収蔵されている「デリー州ブロイター出土の黄金のカラフ」についても書かれてあったこと。いままで、この金でかたどられたカラフが紀元前1世紀ごろの作ということしか知らなかったのですが、これが1891年に農夫によって発見されたこととか、さらにはマストやオールがのちの時代に追加されたものではなくこのカラフの模型にもともと備わっていたもの…ということもはじめて知りました。つまりカラフはラテン語版『航海』に書かれてあるとおり、りっぱな「帆船」として使われていたということで、これはきわめて重要な部分です。それと「バントリーカラフ」も。ブレンダンゆかりのディングル半島・バントリー湾を見下ろす高台の牧草地にひっそりと佇む石柱の片面に、まるで天をめざして漕いでいくかのようにカラフが生き生きと浮き彫りにされているんですが、この舟については考古学専門誌Antiquity にもジョンストン氏自身がさらに詳しく分析した論考を寄稿しています。こちらの石柱はもとは十字架型だったみたいで、8世紀ごろ、ちょうど『ブランの航海』やラテン語版『航海』のプロトタイプが書かれたと推定される時代に建てられたものと言われています。

 それといまひとつおもしろかったのはアダムナン作『聖コルンバ(コルム・キレ)伝』に出てくるコルマックという修道士の挿話。わりと有名な話ではありますが、『聖コルンバ伝』にはかの有名なネス湖の怪物も出てきます。お話はコルマックという修道士が「絶海の砂漠」を求めてひとり漂流するというもので、ブレンダンのときと同様に「ともに船出することができない者supernumeraries」というのが出てきてコルマックの船出はそのせいで2回とも失敗に終わる(このモチーフは現存する航海譚immrama の多くに共通して現れます)。3度目にしてようやく船出するわけですが、セイルを目いっぱい張って2週間航海したとき時化に遭遇、舟ははるか北、「人間の住む世界の境界を越えた」海域へと流される。そこでこんどはいまだかつてだれも見たことのない恐ろしい「海の怪物」がわんさか大群をなして舟にやってきて、船体を覆う革をいまにも破りそうな勢いで襲いかかってくる。その姿は「蛙くらいの大きさで、恐ろしい棘をもち、空を飛ぶというより泳ぐように、いっせいにオールに群がった」。そのときコルマックの窮状を察知した聖コルンバが神に祈ると、このけだものどもはいっせいに退散、風向きも北に転じて、からくもコルマックのカラフはこの危険な海から脱出した…。

 一見奔放な想像力の産物と思われる記述も、じっさいの北大西洋の地理と当時の漂流者の体験談にもとづくとした上で、この身の毛もよだつような怪物についても現実の目撃談から生まれたものと示唆しています。で、ここでジョンストン氏が提示した怪物の正体というのが…なんとカツオノエボシ!! この猛毒の電気クラゲはメキシコ湾流に乗ってはるかアイスランド沖にまで運ばれることがあるという事実からも可能性は高いとしています…たしかにカエルみたいにブヨブヨだし、おそろしい棘(触手)もありますねぇ…ちなみにこの毒クラゲ、駿河湾にもけっこう多くいまして、ときおり海岸に打ち上げられています。目にも鮮やかなブルーの風船みたいな物体を見たら要注意! 触らないでください。

 それと、カラフを駆ってケルト修道士がアイスランドにまで達していた可能性についても、『植民の書』とかディクイルの『地球の計測』を引き、さらにはアイスランド南東岸に多く見られるアイルランド人聖職者を連想させる地名と関連づけて述べています。ここで興味を惹かれたのはうちパパフィヨルドPapafjord の一角にある「数軒の円形の石室」とおぼしき遺跡がいまだ――この本が書かれたのは四半世紀以上前だが――きちんと調査もされずにいると書かれた箇所。アイスランドにはこうした「ヴァイキング以前に来島したかもしれない先行移民」の住居跡というのがほかにもあり、いずれも本格的な調査もされずに放置されているらしい。もしいまだにそうだとしたら、なんだかひじょうにもったいないというか、残念な話ですね…。

 …と、300ページ近い本のうち読んだのはここまで(それと図書館内で読んだ日本の古代船についての章)。厳密に言えば「最近読んだ本」とは言えないのですが、個人的にはひじょうに印象に残った本だ、ということであえて書いておきました。図版多数で眺めるだけでもけっこう楽しめます。

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2006年12月03日

『図説 キリスト教聖人文化事典』

 モスクワアカデミー合唱団の来日公演を聴きに東京大司教区の総本山、カテドラル聖マリア大聖堂に行ったときのこと。まだ開場時間まで小一時間ほどあり、たまたま入り口の売店(スペースセントポール)に立ち寄ってみたら、書棚のまん前、まるで買いなさいと言わんばかりに鎮座ましましているこの本を発見。手に取ってパッと開いてみたら、いきなり飛び込んできたのが大魚と聖ブレンダンの有名な木版画の印刷されたページ?! …ほんとうはここで大聖堂のイタリア製新オルガンのCDだけ買うつもりだったのですが、予算もかえりみず、こちらのやや大判の本もつい衝動買いしてしまった…。ま、代表的な聖人はみんな網羅されているし、いずれにせよリファレンスとして手許においておく必要があるので、これはしかたないか(もちろん大聖堂の新オルガンのCDも買いました。閉店時間だったのに、対応してくれたお店の方、ありがとうございましたm(_ _)m)。

 で、開場を待っているあいだ――外は寒かったので――となりの関口会館の玄関ホールに逃げ込んで、そこでざっと読んでみたのですが、これはおもしろい。ここ十数年、原書房からはこの手の『なんとか事典』、『なんとか百科全書』のたぐいが毎年のように刊行されていて、しかもそのほとんどが翻訳もの。そのエネルギーたるや、まことに敬服してしまうのですが、以前自分も原書房刊行のキリスト教関連の『事典』を買ったことがありまして、いまでも重宝しています。奥付けを見ますと、なんと先月20日に出たばかりの新刊本ではないですか! 

 内容は「家族と家庭」とか「宣教と旅」といったジャンルべつに聖人を紹介するというスタイルをとってまして、alphabetical orderに並んではいません。今月6日が祝日の聖ニコラウス(サンタクロース)ももちろんいますし、聖ヴァレンティヌス(ヴァレンタイン)、聖アンブロシウス、使徒アンデレ、ペトロ、ユダ(もちろんイスカリオテじゃないほう)、聖パウロもいます。トマス・アクィナス、尊者ベーダ、セビリャの聖イシドール(Etymologiae『語源論』)に聖ヒエロニムス(聖書のラテン語俗語ウルガタ訳)、東方修道制の祖大バシレイオスにエジプトの聖アントニウス、ジャンヌ・ダルクに聖マルタン(トゥールの聖マルティヌス。ここの修道院には地中海のレランス島修道院とともに、アイルランド人修道士が多くいたと言われる)などなど。アイルランド関連では前にもちょこっと書いた聖エイダンつながりで聖カスバート(出身はケルト系ではなくてアングロサクソン)をはじめ、もちろん聖パトリック(パトリキウス)に聖コルンバ、聖コルンバヌスもいます…。毛色の変わったところでは、シリアにいたと伝えられる、柱頭隠者聖シメオンなんてのもちゃんと載っています(このエキセントリックな方は没するまで36年間、高さ20m近い柱の上で苦行に励んだ)

 で、かんじんの聖ブレンダンの項目(p.71、「船乗りのブレンダヌス」)なんですが…「アメリカ発見?」という小見出しの下の記事で、気になる箇所が。

 「(中略)…1人の天使が彼らに告げて、彼らはいま天国に近いところにおり、いつの日かこの国は迫害を逃れてきた者たちの安全な避難所になるだろうと言うのだった(のちにこの予言は、避難民を乗せたメイフラワー号やその他の船がアメリカに着いたことで成就したと考える人もいる)」

 …そんなこと書いてあったっけ? と、オメイラ教授による英訳版『聖ブレンダンの航海』第28章(p.69、以下拙訳)を見ますと…

 「(中略)『…そなた(ブレンダン修道院長)が最後の旅に発つ日も近い。そなたの父祖たちとともに眠りにつくために。長い年月が過ぎ去り、キリスト教徒に迫害の波が押し寄せたとき、この地はふたたびそなたの後継者たちに知られるようになる。島は、目の前を流れるこの河でふたつに分かたれている。ご覧のとおり島は果実に満ち溢れ、夜の闇が落ちることもなく、とこしえに変わることはない。なぜなら島の光は主キリストから発しているからです』」

 どうも著者の勇み足(?)みたいですね。あと革舟の構造について、「やなぎ細工の枠に革を張り…」と訳出されているんですが、たとえば「格子状に組んだ木枠に」とか、言い方がかなり古臭いけれども「網代に組んだ木枠に」のほうがよいかと…原文はたぶんwickerworkだろうから、そうしたんでしょうけれども…当時のカラフはいまのカラフより大型で、トネリコ材を使って骨組みを組んだようなので、「やなぎ細工」はちょっと誤解をあたえかねない書き方のように感じます。それと、扉カバーにでかでかと書かれた原表題。A TREASURY OF SAINTS 100 Saints : Thier Lives and Times とあり、カバーをはずして本の背を見たらやっぱり。これ自分でもよくやってしまうんですよね、thierって…。ま、どうでもいいことではあるが、なんとなくカッコ悪いな。

 でもこの本の全体的な記述は信頼できるし、豊富なカラー図版とともに見ているだけでもとても楽しい読み物です。本家サイトの「参考文献」で紹介してある、三交社から出ている『聖人事典』よりも読んでいておもしろい。このへんの本作りのうまさはさすが、と言うべきか(のちほど本家サイトにもこの本を追加しておきます)。

 …そしてまったく関係ないけれど、今日3日は「歌う星の王子さま」ことジョゼフ・マクマナーズくんの誕生日でしたか…14歳、歌のほうはまだ大丈夫かな?

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2006年11月25日

『癒しの楽器 パイプオルガンと政治』

 …は、かねてから興味をそそられた本。行きつけの本屋にでも行けばあるかなと思っていたけれどけっきょくなくて、長らくAmazonの買い物かごに入れっぱなしにしてあったこの本を取り寄せてみることにした(→こちら)。

 著者はときおりTVでも拝見する気鋭の政治学者…なんですが、じつはじつは筋金入りのオルガン好きで、政治学者になる前は指揮者志望(!)で、芸大を受験したほどの実力者。2度にわたる芸大受験のほうはけっきょく小泉和裕氏に競り負けてしまい、慶応大へもどった、なんて書いてあるからこれはすごいつわものだなあ、とまず著者の草野氏その人におおいに惹かれました。

 こういうきちんとした素養のある人が書いているので、たんなる「人の揚げ足取り」に終始した本ではもちろんありません…俎上に乗せているのは、みんなの税金で建設された公共施設に納入された大小のオルガンが、どんな経緯を経て選定・購入が決定され、施設に設置されたあと、公共財としての役目を果たしているのか、ということ。このテーマで本をものすきっかけになったのは、バブル以降、日本の音楽ホールににわかに設置されだしたオルガンが、じつはあまり活用されていないことを告発した内容の新聞記事を目にしたことでした。で、サバティカル休暇をもらった著者は、全国の公共ホールを廻って市民の税金で買われたオルガンの実態調査に乗り出した。その結果あぶり出された、いかにも日本的な事象を本書で端的に分析しています。

 ただでさえ一般の人には馴染みの薄いオルガンという楽器がどのように公共ホールに納入されたか、徹底的なフィールドワークをもとに報告しているくだりなんか、もうほんとうにおもしろくて一気呵成みたいな感じで読んでしまいました。おそらくここまで楽器購入の舞台裏を明かしたのはこの本がはじめてでは。海外ビルダーのオルガンを買うときの仲介業者としてまず思いつく松×楽器商会とかヤ○ハと、ほとんど「学閥ギルド」といってよい日本オルガニスト協会とのつながりなんか、このへんのhuman interestものが好きな向きにはもうたまらない。そのへんのことがもっとも事細かに書かれているのが東京芸劇大ホールの例の「回転」オルガンの納入ケースでして、こけら落としからすでに故障つづきだったらしい…4月に聴きに行ったイートンカレッジでも、練習中に回転台が途中で止まってしまった…ことがあったようですし。10年前に聴きに行ったオルガンリサイタルでも、前日やっぱり故障してオルガンが回転途中で止まってしまい、技術屋さんが徹夜で修理した、なんて裏話をオルガニストみずから話してましたし。ここのオルガンはいい意味でも悪い意味でもオルガン好きのあいだではつとに有名ですね。楽器の響きじたいは個人的には好きなんですが、もうすこしなんとかならんかねぇ…ついでにホールじたいの設計も、いかにもバブル真っ盛りのころらしくて、防災上の問題も指摘されていますし。

 草野氏が言われるごとく、いやしくも税金を使うのだからオルガン導入までの過程をガラス張りにすべきだろうし、楽器の選定委員も、いくらあるビルダーの製作したオルガンが大好きだからって、かならずその特定業者が落札できるよう、本来公正であるべきの入札を事前にお膳立てするというのは、オルガンという楽器の特殊性を勘案したって、非常識と言わざるを得ない――一台何億円もする大オルガンではなおさらです。そしてさらに問題なのは、税金で購入した、本来「みんなのもの(公共財産)」であるはずのオルガンを、選定委員を独占している日本オルガニスト協会員でなければ触わることまかりならぬ、みたいな風潮。個人的にも以前からこの楽器にまつわる「閉鎖性」には辟易していたので、まさにわが意を得たり、と思うことばかりでした。

 …しかし日本オルガニスト協会って、もともとNHKホールの大オルガン(旧東独カール・シュッケ社製、なお92ストップと書いてあるのは誤りで、1973年の建造当初は90ストップの楽器。ふたつのストップは1985年の改修工事で追加された分)を団体見学するために必要に迫られて組織された、とはこれまたびっくり。

 草野氏は全国各地、40箇所ほどの公共施設に導入されたオルガンから活用事例をいくつか詳述していますが、本来練習用として一括購入すべきポジティフオルガンのない施設がほとんどだとか、一般市民対象のオルガンスクール開催がきょくたんに少ないことも挙げ、もっと多くの市民にオルガンを触れられるようにすべき、とも主張しています。う〜ん、正論ですね。笑えるのが何箇所か、ホールでオルガンに触れようとしたら、「規則なんだから」の一点張りでなんと履歴書を書かされた、という話。自分が聞いたかぎりでは、本場欧州で教会やホールのオルガンを触わるのに履歴書を書け、なんて失礼なことを要求されるなんてことはない。「あなたは聴く人、弾くのは日本オルガニスト協会員のわたしだけ」ではオルガン好きなんて増えるわけがない。クラシック音楽全体で集客力が落ちて四苦八苦、というご時世でそんなことやっていたら、そのうち全国の公共ホールのオルガンは完全に放置されるに決まってます。楽器にとってもこれはゆゆしき事態、不幸この上ないこと。楽器は使って音を出してこそ花でしょう。

 …ちょうど1年前、静岡音楽館AOIでコープマンのリサイタルが開かれたときに見かけた、オルガン大好き小学生の男の子でも気軽に参加できるようなオルガンスクールがぜひとも必要だと強く感じます…みんなの公共財を自分たちの占有物のようにカンちがいしているようでは、オルガンリサイタルじたいが先細りになり、かんじんのオルガン好きも増えないし、けっきょく自分たちの活躍の場が奪われる事態にもならないとはかぎらない。面倒でも聴衆の裾野を開拓するよう努力することは、プロの演奏家ならばどんな楽器奏者にとっても避けては通れない共通課題でしょう。

 オルガンにかぎらずハード偏重のこの国では、よそに負けない音楽ホールを作りました、見栄えがいいからオルガンも設置しました、でもあとは知らない、良きにはからえ、ということがあまりにも多すぎます…。これにはむろん行政側の怠慢もあるんでしょうけれども。著者は、日本でのコンサート事業におけるオルガンの位置づけはけっきょく「壁に描いた花」みたいなもの、ホールにオルガンがあろうとなかろうとコンサート収益にはさして影響がない…ということを書いたあとで引き合いに出したのが、静岡県に住む者としては鮮烈に記憶している、浜松アクトシティ中ホールの仏コアラン社製のオルガンの最悪の事例。たしか10年ほど前のことだったと思うが、ホールの保守作業にあたっていた警備会社の社員があろうことかスプリンクラーを誤作動させ、オルガンに毎秒2トンもの水がかけられずぶ濡れ(!!)になってしまった…コアラン社長みずから被災状況を調査、修理可能と判断して、その後まる2年かけて腐った木製部品やら金属パイプやらをはずして取り替える、という、オルガンの歴史はじまって以来前代未聞の事態になってしまった。補修費用2億円という金額ばかりが話題になったものですが、ここでコアラン社長が漏らしたことばがやけに印象に残っています。「オルガンにもっと愛着を感じてほしい」。金額でしか価値判断ができず、楽器をたんなる「ハコモノ」としか見ていない日本人にたいする痛烈な批判でした(ちなみに欧州のオルガンビルダーはどこも零細企業で、コアラン社にいたってはわずか12名で切り盛りしているとか)。

 …この本を読んで、個人的にもっとも興味を惹かれたのが、だれにでも自由に触れられるオルガンはかくあるべし、という好例として、二子玉川にある松本記念音楽迎賓館のオルガン(9ストップ、ベルギー製)について書いています…ここの楽器のことはまったく知らなかった。おお、しかもチェンバロまである! とあっては行かない手はない(笑)。でもその前にもっともっと練習しないと…せめて手鍵盤だけでも。

 この手の本はどうしてもおかたい内容になりがちですが、この本の場合、著者の草野氏ってほんとにオルガンが好きなんだなぁ…そんな熱い思いがひしひしと伝わってくる、読んでいてとても楽しい本でした。政治関係の本なんかまるで読んだことのない自分が、この手の本でこんな楽しい読後感を味わうとは思ってもみませんでした。これだけでも収穫かな。

 最後にオルガンスクールについて。静岡音楽館AOIの場合、ホール側はたしかにこの本が指摘するようにオルガンスクールは開催していないけれども、静岡市内の民間カルチャースクールで講師をつとめている女流オルガニストがスクールを開いてまして、ときおりAOIのケルン社製オルガンを使わせてもらっているそうです。

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2006年06月28日

『星の王子さま』

 今年はサン-テグジュペリがLe Petit Prince を故国で出版して60周年、しかも版権切れも手伝ってあちこちの出版社からさまざまな訳者の手になる邦訳がつぎつぎと刊行され、本屋に行くと『ダ・ヴィンチ・コード』に負けずに『星の王子さま』コーナーができてます(ちなみに明日、29日はサン-テグジュペリの106回目の誕生日、しかもこんなサイトまであるとは。さしずめハイジの公式サイトみたいなものかな?)。

 もう2週間以上経つでしょうか、NHK-FMで「ラジオ深夜便」を聴いていたら、『星の王子さま』の朗読劇を3日連続でやっていました。朗読に耳を傾けているうちに、ひさしぶりに原作を読みたくなりました。

 というわけで、あらためて読み直してみました(岩波版、2000年刊)。いろいろな邦訳が出ているけれど、朗読を聴いたときの言い回しが似ていたのでたぶん底本として使ったのは岩波版じゃないかと思います(もともと翻訳出版権をもっていたのが岩波なので)。

 あらためてサン-テグジュペリってすごい作家だなーと感嘆。訳者内藤濯氏の訳もお見事と言うしかない(タイトルはほんとに名訳ですね)。そしてこの作品を読むと、年を重ねるにつれますます頭を掻くことが多くなるような…とくに星の勘定ばかりしている実業家のいる星のくだりなんか。凡百の本を読むより『星の王子さま』一冊を読んだほうがよっぽど「人生にとって大切なこと」を教えてくれると、歳をとるにつれますます強く感じます。原作者自身による挿絵つきのこの宝石みたいな小品は、たしかに子ども向けに書かれてはいるけれども、「かつて子どもだった大人」こそ読まなくては…と思う。

 作品に登場する王子さまは、「子どもの姿をした老人」のようにも見えてきます…受け答えが哲学的でとても深くて、重い。キツネとヘビも重要な役回りですね。キツネと王子さまの会話なんか、そのままプラトンの「対話篇」みたいです。そういえばいまさっき読んだ『ナグ・ハマディ文書II 福音書』所収「トマスによる福音書」の、復活したイエスと弟子たちとの「問答」にもどこか似ているなー…だからってグノーシス的だとは申しませんが。そして王子さまと夕陽のエピソードは、なんだかとても切ないですね…「だって…かなしいときって、入り日がすきになるものだろ…」。「一日に44度も入り日を眺めるなんて、あんたは、ずいぶんかなしかったんだね?」という科白、泣けてきます。

 そういえばかつて――もう30年以上も前――この作品が映画化されたことがありました。だいぶ前、某大型書店にて昔の洋画のチラシやパンフレットのバーゲンセールを開催していたとき、映画版『星の王子さま』のパンフレットも目にしたことがありました。最近ではミュージカルにもなっているし、英国BBCのTV版に王子役として抜擢されたのが、来月はじめに来日するマクマナーズくんですね。映画のほうはずいぶん幼い感じの王子さまでしたが、BBC版のマクマナーズくんの王子さまのほうが、どちらかといえば原作に近いかも。いずれにせよ金髪少年であることが絶対条件ですね(笑)。ついでに箱根に「星の王子さまミュージアム」なんてものまであるんですね、知らなかった(行ってみようかな…)。

 …心に余裕がなくなりかけたり、落ちこんだときにはまたこの珠玉の名作を取り出して、王子さまに励ましてもらおうかな。自分の好きな音楽を聴きながら。

BBCのミュージカル版では
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2006年06月17日

Saint Brendan & the voyage before Columbus

 もう先月下旬のことになるのであんまり「最近」ではないんですが…昨年刊行されたこちらの絵本本家の「参考文献」ページのほうにも追加してありますが、一読した感想をこちらにもちょこっと書いておきます。


cover of the book

inside of the book


 著者は米国東海岸メリーランド州キャロル郡で心理学カウンセラーの専門家として、公立学校を巡回して活動している博士号を持つ人…らしい。なんでも長男の名前というのがブレンダン…だそうで、それがきっかけで『聖ブレンダンの航海』に関する子ども向けの物語を書こうと思い立った…かどうかはさだかではありませんが、たぶんきっかけのひとつにはなったのでしょう。

 挿絵を担当したMarnie Saenz Litz(スペイン系かな?)という女性の方は、なんとワシントンD.C.のグランド・ハイアットホテルの広報部にいた方で、現在は独立してフリーで活動している…でも鮮やかな色使いの絵はどうみてもプロの絵描きで、おそらくいままでも挿絵画家として何冊か出しているのでしょう。

 …とはいえなんともよくわからん組み合わせだなあ…と思いつつ読んでみると、『聖ブレンダン伝』と『聖ブレンダンの航海』を下敷きに、著者独自のアレンジを加えて「語りなおした」絵本でした。中世アイルランド聖人の航海譚を現代アメリカの子どもにわかりやすく説明しただけの本、というより、「新しい物語」としてrewriteされているのがおもしろい点かな。挿絵の革舟はティム・セヴェリンの復元船をベースに描かれてはいますが、風下に流されるのを防ぐリーボードがなんとオール?! として描かれていたり、「聖人たちの約束の地」に住んでいたのが色黒のNative Americanだったり…でもここはやっぱりティム・セヴェリンの実験航海でもそうだったように、到着地はカナダ東海岸あたりのほうがよかったかも。革舟は獣脂(セヴェリンの復元船では羊毛脂)で防水加工されていたと推定されますが、北寄りのルートだと流氷が浮かぶほど海水温が低く、冷たい海のために脂が溶け出さずにすみ、長期間の航海にもじゅうぶん耐えられただろう、ということがわかっています。でも挿絵の原住民を見るかぎりでは、ほとんど裸同然で、どう見ても熱帯のほうですねー(ヴァイキングが入植したのもカナダ東海岸のVinlandでしたね)。

 聖ブレンダン伝説にもとづく「創作」ではありますが、物語はブレンダン誕生から聖女イタの養育所に預けられた少年時代、育ての親である司教エルクによる教育、師とともに沖合いの小島に庵を結ぶ修道士の訪問、島の修道士から聞いた大海原のかなたにあるという「約束の地」へのあこがれ、師エルク亡きあと修道士仲間を集めての舟の建造、船出、巨大なクジラ・ジャスコニウスとの出会いや火山・氷山との遭遇をへて、めざす「約束の地」への到着、故国への帰還とブレンダンの死、そしてその後…と全32ページのうすっぺらい本のわりにはけっこう細かく書けていると思います。

 そして驚いたことに、Catholic Onlineにもきちんとした書評が掲載(!)されています。ちなみにこの絵本の対象読者年齢は4〜8歳。当然のことながらきわめてやさしい英文で書かれているので、小中学生の英語の勉強にもうってつけ…かも。

 …最後に、岩城宏之氏と現代ハンガリーを代表する現代音楽の巨匠、ジェルジ・リゲティ氏の冥福を祈りつつ。
posted by Curragh at 23:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近読んだ本

2005年12月31日

Aled, the autobiography

 年末年始は――いつものことながら――たまった和洋書をあっちこっちひっくり返してはつまみ読み、ということの繰り返しです…。

 ブレンダン関連では、T先生より貴重なラテン語文献を貸していただいたり、重複して買ってしまったとのおことばに甘えてこれまた貴重なBrendanianaの復刻版を譲っていただいたり、Celtic Spirituality なる大部のアンソロジーを買ったり聖ブレンダン本としては最新刊のこの小冊子を買ったりと、充実した一年でした。

 あとはサイトのほうにすこしでもこの成果を反映できるといいのですが。
とりあえずはながらく手つかずのまま放置していた英語版作成でもはじめるか…それと、なるべくCSSを導入して異なるブラウザ環境でもだいたいおなじように見えるようにしたい…のですが、あんまりはかどってません。

 中身で勝負とはいえ、accessibility も大切ですので。いろいろ思案中です。

 ブレンダン本に偏りがちな読書ですが、今年読んだなかでもっとも印象に残ったのはAled the autobiography。20年くらい前、100年にひとりの天才トレブル歌手として鮮烈にデビューしたアレッド・ジョーンズ。自分も数年前に中古CD屋でたまたま見かけた廃盤の国内盤を4枚、あわてて買い占めたりしたものですが、華やかなボーイソプラノ時代が終わったあと、王立音楽アカデミーに入学してときおりディースカウに師事して歌の研鑽を積んでいた、ということ以外はなにも知らず、現在でも音楽活動しているんだろうかなどと思っていたら、2001年に「大人」の歌手として再デビュー、ユニヴァーサル移籍後はなんとLiberaのロバート・プライズマン氏プロデュースのアルバムをたてつづけに出すなどみごとな復活を遂げていたのでした…。


inside 'Aled, the autobiography'


 はたち前に一度来日してウィーンの森少年合唱団公演にゲスト出演して「ヘンゼルとグレーテル」で語り役を務めたり「ピーターと狼」の朗読を録音したり、某月刊音楽雑誌に「アレッド・ジョーンズのおしゃべり日記」を連載したりと日本でも引っ張りだこだったアレッド。いまやニ児の父親として子育て真っ最中…みたいです。

 さてそんなアレッドですが、今年の春、ついに自伝本を出した、というのでさっそくAmazonで買って読んでみました(ほんとうは昨年の今ごろ発売されるはずだった)…暇なときにのんびりかじり読みしていたせいか、買ってから約半年後のいまごろになってようやく読了…でも彼がこれまでどんな人生を歩んできたかがよくわかっただけでなく、歌手として人として、とても尊敬できるすばらしい大人になっていた、ということにすなおに感動しました。

 巻頭、チャールズ皇太子/ダイアナ妃夫妻からホームコンサートで歌ってほしいとケンジントン宮殿の居室に急ぎ招かれたことから書き出され、帝王切開で1970年12月29日(!)にこの世に生を受けたこと、やんちゃでいたずら坊主だったバンゴール大聖堂少年聖歌隊員時代、美声を見出されたあとの活躍、エディンバラで女王陛下の御前チャリティコンサートで大失敗したこと(「キャッツ」のMemoryを歌っている最中に歌詞をど忘れ、適当に歌詞をでっち上げて[!]歌ってしまった)、Walking in the airの世界的なヒット、ポップスター並みの熱狂的歓迎を受けた日本での思い出(宿泊先に陣取っていた十代のファンとともにパチンコ[!!]で遊んで、あとで大目玉を食らったなんてことまで書いてあります)、王立アカデミーの学生生活、舞台俳優養成学校時代、ミュージカルに主役としてデビューしたこと、BBCをはじめとする英国メディアへの出演、宗教音楽番組Songs of Praiseのプレゼンターとして酷寒のフォークランド諸島から中継した思い出、生涯の伴侶との出会いなどなど、英国人、いやウェールズ人らしいユーモアたっぷりな語り口で綴っています。

 ただ、いまだに邦訳の話が出てこないのはいささか残念。読み物としても楽しく、かつ良質な自伝なのに…。

ちょっとだけ追加
posted by Curragh at 18:38| Comment(2) | TrackBack(0) | 最近読んだ本