2016年04月10日

「復活祭蜂起 100 周年」

 本家サイト顧問 Breandán Ó Cíobháin 博士からひさしぶりに届いた便りを中心に書いてみたいと思います。

 博士はいま、「ヴェントリー歴史協会」という団体の常任幹事をしておりまして、こんどの週末開催予定の「復活祭蜂起 100 周年記念式典」の準備におおわらわなんだそうです。近年、博士はご高齢のためか[ 不肖ワタシもここ最近、あちこちにガタがきていることを自覚してます … ]、いろいろと医者通いが多くなり、難読固有名詞を含む現地語発音に関するワタシの質問になかなか答えられずに申し訳ない … といわゆる「季節のご挨拶」のころにそんなふうに返してきてくれます( なのでこちらのページがいまだ未完成で、訪問される方にはまことに申し訳ないんですが、事情をご勘案ください )。

 で、そんな博士から先日、今年のイースターメッセージをいただきまして、添付ファイルがいろいろくっついてます。? と思って見てみると、今年はアイルランド国民にとって歴史の転換点となった一大事件である「復活祭蜂起」からちょうど 100 年。「復活祭蜂起」はイースター明けの 1916 年 4 月 26 日月曜日、首都ダブリン市中心部にある中央郵便局( GPO )をパトリック・ピアス[ 現地語ではポードリー・ピアス Pádraig Pearse ]ら 15 名を含むアイルランド人男女約千人が占拠し、「アイルランド暫定共和国樹立宣言」を読み上げた。折しも第1次大戦のさなかだったが大英帝国はすぐに重装備の正規軍を派遣、この英国軍相手に反乱は1週間つづき、ピアスら首謀者 15 名が処刑されたという一連の反乱のことです。当初、アイルランド国民の多くは彼らの性急な行動を非難する声さえあげたものの、さっさと幕引きしたい英国側が首謀者たちをろくに裁判にもかけずに次々と処刑したため世論は一変、その後の英愛戦争開戦へとつながった。ある本の言い方を借用すれば、「反乱指導者たちは、望みどおり自分の生命を犠牲にすることによって、過去 700 年におよぶ英国のアイルランド支配を終わらせることを確実にした」。

 添付文書の内容は、その「復活祭蜂起」の中心的役回りだった3人と、アイルランドの西の果てディングル半島のちっぽけな漁村ヴェントリー[ 現地語表記 Ceann Trá、もとは Fionntrá で英語化された際に転訛したもの、意味は fair strand、「美浜」ってとこかな ]と「意外な」関係があった、というもの。こんどの週末に開かれる記念式典では Ó Cíobháin 博士も ' FIONNTRÁ 1840 − 1920' という演題で講演するようです。

 以下、Ó Cíobháin 博士の了承も得て記念式典文書を拙訳にて全訳したものを紹介しておきます。なおアイルランドゲール語[ 綴りはすべてケリー方言 ]と英語のふたつの言語で書かれてますが( こういうのを「自己翻訳」と言うのかどうか )、必要に応じて「 Google 翻訳」なんかの力も借りて[ 前にも書いたが、印欧語族どうしの翻訳精度はけっこう高い ]、いちおう博士にとっての「ほんらいの母国語」であるアイリッシュゲールで書かれた文書も参照しています。おなじ書き手であっても、やはり若干の異同があり、拙訳にもそのへんをすこし反映させていただきました( アイルランドのことわざなど )。また「フィアナ( フィン )物語群」のひとつ「ヴェントリーの戦い[ フィントラーグの戦い ]」については、しんがりに付記してあります。




CUMANN STAIRE FIONNTRÁ / Ventry Historical Society
COMÓRADH 1916 Commemoration
‘Lia os a leacht’

ヴェントリー歴史協会
1916 年「復活祭蜂起」100 周年記念式典に寄せて


「彼らの墓に石碑を建て」

 ヴェントリーの名を世紀を越えて世に知らしめている唯一の称号が、『フィントラーグの戦い Cath Fionntrá 』の舞台がここだった、ということだ。フィアナ騎士団と英雄カイルテ・マク・ローナーンが「世界王」からアイルランドを守ったことを語る『フィントラーグの戦い』は 19 世紀以降、英語に訳されてひろく一般に知られるようになった数少ない「フィアナ物語群」のひとつであり、おなじ19世紀にアイルランド独立を目指して組織された急進派「フィニアン団」の名前もこの有名な伝説から採られたと言われている。

 19 世紀中葉、ヴェントリー村がいわゆる「スープキャンペーン」と呼ばれる英国教会[ アングリカン ]への改宗運動の本拠地に選ばれると、アイルランドとイングランド国民の関心はこの寒村に集まった。教員養成大学や教会、小学校、そして移住者用「コロニー」まで新設された。ただし、このころ当地のイリアンパイプス奏者トマース・オ・キネージェからアイルランド語歌謡を採譜したのは、じつは地元のアイルランド教会[ 英国教会派 ]聖職者シェイマス・グッドマン師である。この有名なグッドマン歌謡集に収められている 1,100 余りのアイルランド語歌謡のうち、4分の3 ほどがキネージェから採譜されたものだ。このアイルランド語歌謡集は現在、ダブリン大学トリニティカレッジ[ TCD ]にある。グッドマン師は 1879 − 96 年の 17 年間、TCD 教授でもあった。

 20 世紀初頭にヴェントリー村の将来を決定づけたのは観光と、文芸およびアイルランド語復興運動の興隆だった。村には2棟のゲストハウスが新築され、国内のみならず欧州大陸や英国からの観光客をもてなした。そのうちの1棟「眺海荘 Sea View 」の逗留客には、1904 年に( TCD およびダブリン高等研究所アイルランド語学教授だった )トマス・F・オライリー、TCDでグッドマンに師事した劇作家のJ・M・シング( 婚約者だったモリー・オルグッド嬢宛て書簡をここで書いている )、1907 年にはおなじくアイルランド語学者ショーセフ・ロイド[ ジョーゼフ・H・ロイド、アイルランド全土の郵便本局所在地およびダブリン市内の街路名のアイルランド語表記名をはじめて発表した ]、そして 1909 年にはアイルランド語学者でゲール語連盟にも参加していたイヴリーン・ニコルズ( 当時 24 歳、滞在最終日にブラスケット諸島沖で溺死 )がこのゲストハウスに滞在した。ニコルズ嬢の事故死後、「アイルランド婦人参政権連盟」代表を公然と名乗ったメソジスト教会員グレタ[ マーガレット・エリザベス ]・カズンズもここに宿泊している( カズンズ女史はハンナ・シーヒー−スケフィントン女史とともに同連盟の共同設立者 )。

 上述した滞在客のひとり T・F・オライリーは従兄弟のマイケル・J・オライリーの関心を惹いたようで、1912 年、マイケル・オライリーはヴェントリーに別荘を建てている。もっとも彼の場合は、ダブリンでアイルランド語を手ほどきしたヴェントリー出身のショーン・アン・ホータ氏の影響かもしれない。マイケル・オライリーが別荘を建てたのは、自分の家族にもアイルランド語の会話に浸れる環境を与えるためだった。1913 年、同様の目的で近所に居を移してきたのが、デズモンド・フィッツジェラルドアーネスト・ブライズのふたりだ。フィッツジェラルドはヴェントリーの沿岸警備隊詰所を間借りし、ブライズのほうは近くの農場で働こうとしたが、けっきょくリスポール村の海沿いの教区キナードへの転居を余儀なくされた。

 伝説の戦いの場と宗教上の鋭い対立という接点があるとはいえ、よもやこの長閑なヴェントリーに、一帝国の解体を画策する国民運動において傑出した個人を複数名見出すことになるとは思わないだろう。オライリーは「アイルランド義勇軍」創設者のひとりであり、彼とフィッツジェラルド、ブライズら3名はヴェントリーで義勇軍の組織と訓練に当たった。ダブリンから仕入れた情報を持ってオライリーが定期的に訪れると、決まって夜を徹しての長い討議に入った。彼らは 1915 年、「英国土防衛法」により摘発されてケリー州から追放された。その後オライリーは 1916 年の「復活祭蜂起」のさなかにダブリン中央郵便局内で戦死、フィッツジェラルドは逃亡した。残るブライズはアイルランド全土の義勇兵募集のかどで国外退去処分を言い渡されて、当時刑務所として使用されていた英オックスフォード城に収監され、彼らの蜂起をそこで知ることになる。このふたりは 1921 年樹立のアイルランド自由国政府閣僚となったが、フィッツジェラルドはその後米国へ渡り、インディアナ州ノートルダム大学哲学科客員講師となった。

 復活祭蜂起の舞台となったダブリン市以外でこれほどの革命の大物が見い出されるのは、1912 − 14 年のゲールタハト地区ヴェントリーくらいのものだろうが、「蜂起」100 周年の今年、心に留めていただきたいのは、記念式典の主目的として「和解」を掲げているということである。オライリーはケリー州北部、バリロングフォードの裕福な「英国教会派」の家庭で育てられた。彼は米国人実業家を父に持つナンシー・ブラウン嬢と結婚し、新婚旅行の際は「グランドツアー」として欧州各地で数か月を過ごした。驚くことに彼もまた父と同じく「治安判事」として1903−07年の「官報」にその名が挙げられているが、それとは裏腹に、彼の愛国主義は明白になっていた。妻ナンシーもアイルランド語を学び、その後「アイルランド婦人義勇軍 Cumann na mBan 」副総裁となる。ダブリン市のマウントジョイ刑務所の収監者への面会を断られると、刑務所前でハンガーストライキを行ったこともある。

  フィッツジェラルドはロンドン生まれだが、父はコーク州、母はケリー州の出身。ロンドン市内の詩人グループと交流したのち渡仏し、当時の習わしだったミューズ探しに旅立つ。彼の妻メイブル・マコーネルは、ベルファスト市で商売に従事する長老派家庭の出身である。マコーネルはクィーンズ大学ベルファスト卒業後、ロンドン大学大学院に進み、ゲール語連盟に参加した。彼女は一時期、G・バーナード・ショーやジョージ・ムーアの秘書を務めており、米国人詩人エズラ・パウンドとも知り合った。のちにアイルランド婦人義勇軍書記となった彼女はアイルランド内戦時、夫とは異なり共和国側についた。

 南アントリム州のアイルランド教会派農家出身のブライズは 1909 年、ダブリンから帰郷してバンゴール市の新聞社「北部ユニオニスト」紙記者となる。ダブリン時代に彼は劇作家ショーン・オケイシーの影響で IRB とゲール語連盟に加わった。自由国政府の財務大臣時代、彼は政府からアベイ座[ アイルランド国立劇場 ]への補助金を獲得した。のちに彼はアベイ座運営責任者、その後館長に就任し、長くその座にあった。

 19 世紀アイルランドにおいて、かくも多様なバックグラウンドを擁する綺羅星のごとき個人が政治的、文化的革命家として一堂に会した場所がこのような寒村だったことは、1916 年復活祭蜂起記念式典をあらゆる角度から祝うことを望む者にとって、これは注目に値する。彼らの動機とその後の運命には、真に文化的価値あるものの保全と、アイルランド国民間の真の宥和促進を願う人すべてにとってひとつの行動規範が示されている。「人々は出会うが、山々は出会うことがない」。彼らの功績は永く記憶されるべきものなのだ! 

 『ヴェントリーの戦い』はフィアナ騎士団のひとりキールと、彼とともに滅ぶ運命にある動物たちの死で終わっている。彼の亡骸は妻クリーと騎士団によって南の海岸、こんにちもキールにちなむ地名で呼ばれる浜から運び出された。クリーは「吼える入江 Géiseann Cuan 」という美しい詩を朗唱すると、キールに寄り添い、悲嘆のうちに事切れた。すぐにふたりはおなじ墓所に葬られた。「そして、彼らの墓に石碑を建てたのがこのわたしだった」とカイルテは言った。「『キールとクリーの墓』として知られるように」。

© Dr Breandán Ó Cíobháin & Curragh( webmaster of The Voyage of Saint Brendan the Abbot )

「ヴェントリー歴史協会」: 2009 年 4 月 8 日設立。協会設立趣旨:ヴェントリー地区の歴史と文化を調査研究し、その結果を複数メディアを通じて普及すること、考古学的遺構と出土品の保全、ならびにヴェントリーの現住民と遠隔地で暮らす出身者が共有する歴史および独自性を再認識する記念イベントを開催すること。




付記『ヴェントリーの戦い』について:『ヴェントリーの戦い Cath Fionntrá 』は、参照先記事にもあるように、フィアナ騎士団長フィン・マク・クウィル( フィン・マク・ヴォルとも )、一般的にはフィン・マクール[ ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』にも象徴的に出てきますね ]として知られている古代アイルランドの英雄のひとりが活躍する一連の物語サイクル「フィアナ物語群」に含まれる最古の挿話のひとつ。12、3 世紀ごろ編纂されたと言われる『古老たちの語らい Acallam na Senórach 』にすでに収録されている[「フィアナ物語群」の舞台はおもに東部レンスターと南部マンスター地方で、女王メイヴやクー・フリンなどが登場する「アルスター物語群」とは対照的。これにはもちろん当時のアイルランドの政治状況が反映されている ]。あらすじは、「世界王 Dáire / Dáiri Donn 」を名乗る侵入者が、自分の妻と娘と出奔した( !! )首領フィンに報復するという口実で大船団を率いてディングル半島ヴェントリーの美しい浜に押し寄せた。フィンと息子オシーン、フィンの甥カイルテ・マク・ローナーンとフィアナ騎士団はトゥアタ・デ・ダナーン[ ダーナ神族 ]の支援も取りつけからくも侵入者を撃破、だがその代償として夥しい戦死者を出した。そのなかのひとりキールの亡骸を探す彼の妻クリーは、ヴェントリー湾南の浜でようやく亡き夫を発見した。夫は敵の上陸阻止には成功したものの、溺死してしまった。クリーは悲嘆に暮れて「吼える入江 Géiseann Cuan 」を切々と歌いあげると、その場に事切れた。ふたりの亡骸はカイルテによっておなじ墓所に手厚く葬られた。

 なおこの挿話についてはこちらの書籍がたいへん参考になりました。なんと聖ブレンダンのことまで書いてある !! というわけで、こちらの本ものちほど本家サイト「参考文献」リストに追加します。

本文とまったく関係ない追記:この前、いつものように「古楽の楽しみ / リクエスト・ア・ラ・カルト」を聴いていたら、な、なんと、あの松川梨香さんがこの日かぎりで番組降板 !!! 週末の朝のひととき、あの春の薫風のごときさわやかなリスナーからのお便り紹介と楽曲紹介にひそかに癒やされていた身としては( て、はさすがにもう古いか )文字どおり寝耳に水だったので、ちょっとがっかり。いえいえ、後任の大塚直哉先生がイヤだ、なんて言う気はさらさらないですよ !! 大塚先生は、一度だけ、 静岡音楽館 AOI にてオルガンの実演に接したことがあるし、先生の「CLAVIS 〜 鍵」はお気に入りの 1 枚でもある。

2015年06月28日

「ブルターニュもの」⇒ 『狐物語』⇒ 『ティル・オイレンシュピーゲル』

 本家サイトのこのページにも書いたことではありますが、本日のお題は『狐物語』と『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』についての蛇足、じゃなくて、補足です。

1). まずのっけの『狐物語 Le Roman de Renart 』からの引用科白ですが、出典は『冥界往来 ――「聖ブランダンの航海」』と題された、松村剛先生による東京大学外国語学科研究紀要から。恥ずかしながらいままで『狐物語』のすばらしい校訂本が、3名の日本人学者の手によりとっくの昔に発表されていた事実を知らずにいまして、この前、いつも行ってる図書館の仏文学系の書棚をなんとはなしにぽかんと眺めていたら、目の前に白水社刊の『狐物語』のハードカバーがでんと鎮座していた。にわかに興味を掻き立てられってなんか最近、こういうパターンが多いですがそれはさておき、さっそく聖ブレンダンの引用箇所を確認してみると、あやや、なんか字面がちがいます。
「一つお尋ねしたいんだが、どうしてヴィエルをもっていないんだね」
「オトトイ、同業者ガオラカラカッパラッタアルヨ。
めるらん王ノ話ヤ鷹ノ話ヤ、
あーさー王の話デゴザレ、とりすたんノ話デゴザレ、
聖ぶらんだん様ノ(すい)(かずら)ノ話デゴザレ、
ぶるたーにゅノ楽シイ小詩、ナンデモ聞カセテヤルヨ」
――「第十話 ルナールが染物屋になった話」、p. 195

この本は先に刊行した校訂本( Le Roman de Runart édité d'après les manuscrits C et M, France Tosho 2 vol. 1983, 1985 )を底本に全体の約3分の2を邦訳したもので、これはさらに 2002 年に岩波文庫版としても出版されている( いま手許にあるのは岩波版。訳者によれば、こちらはさらに抄訳版で、改訳版でもある )。

 松村先生の論文に引用されていた箇所は 1948 年、マリオ・ロックによって刊行が開始された校訂本のもので、写本の系統では β 群と呼ばれる写本群のうち、代表格とされるB写本が底本となっているという( ロックは校訂作業の完了を見ることなく他界し、ロックの遺志を引き継いだ研究者によってようやく 1999 年[!] に、B写本の校訂作業は終わった )。こちらのほうはあいにく未確認のままだが、とにかくこういうヴァージョンもあるよ、ということだけは確認できたしだい。

 そもそもこの『狐物語』、もっとも古い「原作( 最初の6篇と言われる )」を書いた作者は、その「続編」を書いたと主張する作者の言うところでは、ピエール・ド・サン−クルーという人らしい。もっともこの作品は途中から脚色が変わって、もともとの原作に近い初期の枝篇では主人公の悪たれキツネとその伯父で宿敵でもあるオオカミはあくまで動物として描写されていたものが、時代が経つにつれて当時の中世ヨーロッパにおける人間社会そのもののパロディに変質している。おおまかな写本の系統は α、β、γ の3つあり、α と β 群に属する写本はみな前後の脈絡がバラバラの枝篇で構成されていて、つまりはピエール・ド・サン−クルー以降、いろんな逸名作者が入れ代わり立ち代わり書き継いでいった、ということを示している。『聖ブレンダンの航海』同様、こちらも中世ヨーロッパのベストセラーだったわけなんですが、こっちは痛烈な社会諷刺の効いた「ファブリオ」とでも呼ぶべきもの。「聖ブランダン」の名前が出てくるくだりは、染物屋の井戸にはまって全身真っ黄色になったルナールが、宿敵イザングランと出くわしてとっさに異国の旅芸人になりきって、デタラメなフランス語をしゃべって、自分はいろんな芸ができる、トリスタンとイズー、アーサー王、メルラン、そして聖ブレンダンの話やブルターニュの小詩[ レー ]を知ってるヨ、と吹いている場面。ブレンダン関連で重要な点は、ブレンダンの言及が他ならぬ「ブルターニュもの」との関連で語られていることで、おそらくこの悪ギツネめの念頭にあったのは、1121 年ごろに成立したと思われる修道士ブノワによるアングロ・ノルマン語版だったにちがいない。ちなみにピエール・ド・サン−クルーが最初の「枝篇」を書いたのが 1175 年ごろとされている( それにしても聖ブレンダンが「すいかずら」作者に化けているとはこれいかに。ちなみにマリー・ド・フランスの「すいかずら[ のレー ]」は、やはり白水社のこの本で読むことができる )。

 『狐物語』の現存写本で最古のものは 13 世紀とされ、完全なかたちで残っている写本は 14 点、断片のみ現存する写本は 19 点、うちひとつがなんと! 広島大学附属図書館にあるというからびっくり。ラテン語版『聖ブレンダンの航海』、そして『エネアス物語』共訳者のひとりでもある太古先生の出身大学 !! なんだか不思議な縁を感じます。

 「ファブリオ」は中世仏文学の一ジャンル、のような印象を受けるけれども、時代は下って 13 世紀のドイツにおいて、なんの前触れもなく(?)、こんどは「聖ブランダーネの御頭」として甦り、さらにそれがそっくり借用されるかたちで『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』として顔を出したりするから、少なくとも作品が書かれた 15 世紀、というからちょうど「揺籃期本」が出回っていたころも依然として聖ブレンダンの知名度、あるいは人気は高かったということは言えると思う。引き合いに出されたものがあれ、なんだっけ、というのでは笑い話になりませんから。でもまあ、ブレンダン修道院長に関して言えば、どこの地域でも、またいつの時代でも、人間の世の中というのはそういうもんかもしれないが、「神格化」されるか「茶化し」の道具にされるかのどっちかで、しかもこの両者はおなじコインの異なる面、という気がする。ヤーヌスですな、いや、トリックスターか。アイルランド修道院文学もそうかな。「ケーリ・デ」霊性刷新運動の高みが、その後の修道院の堕落とノースメンの襲撃による修道制度そのものの衰退にともなって、こんどはそういう歴史じたいをパロディにして茶化した『マッコングリニの幻想』としてすべてがひっくり返され、笑い飛ばされることになる。

2). 『ティル・オイレンシュピーゲル … 』のほうは本家サイトにも書いたように、故 阿部謹也先生の邦訳本( 岩波文庫版 )を読んだんですが … かのゲーテも、『狐のラインケ』から着想した詩があるみたいですが、『ティル・オイレンシュピーゲル … 』にも『司祭アーミス』のみならず、『狐のラインケ』の借用があるというから、ここでも線はつながっている。でもひとつ、こちらのイタズラ者の主人公の特徴を言わせてもらえれば、『狐物語』のほうにもそういう傾向はあったが、とにかく徹頭徹尾しようもないスカトロ野郎で、行く先々で … を垂れている。阿部先生の邦訳本にも揺籃期本のものからだろうか、当時の木版画が転載されているけれども、オイレンシュピーゲルが … を垂れている場面の描写の多いこと多いこと、見ているうちになんだかこっちまでトイレに行きたくなってくる( 苦笑 )。

 聖ブレンダンにもどると、松村先生の論考にも指摘されていたことだけれども、やはり当時のフランスではアーサー王、メルラン、トリスタンなど、一連の「ブルターニュもの」の系譜につながるものとして[ おそらくブノワのアングロ・ノルマン版 ]『聖ブレンダン[ ブランダン ]の航海』は認識されていたことだけは、確実に言えると思う。だから、こちらのフランス中世文学案内本の巻末の「フランス中世文学史年表」にもあるように、『聖アレクシス伝』、『聖女フォワの歌』、『ロランの歌』と並んで『聖ブレンダンの航海』が明記されていることは、個人的にはとても喜ばしいことではあります。

 ちなみにティル・オイレンシュピーゲルが「聖ブランダーヌスの頭蓋骨」を持ち歩いて「説教」していたのは、ようするに平信徒の庶民から体よく有り金を巻き上げるための「口実」として使っていたもので、じっさいにはもちろんブレンダンのされこうべでもなんでもなくて、「おそらくどこかの墓地から拾ってきた鍛冶屋の頭蓋骨」。おなじダマされるんなら、ちっとも笑えない三文芝居を打つ「振り込め」より、まだこっちのほうがはるかにましだろう、とふとそんな思いがよぎったりもした。

2014年06月15日

『航海』⇒ 『パルツィヴァール』⇒ 「聖杯」

1). この前、静大附属図書館にてはじめてお目にかかった、The Celtic Consciousness という本。書庫から引っ張りだしてもらったはいいが、想像をはるかに超える大部の本( 642ページ! )で、しかもでかいときた。図版入り( あのダリ直筆の色紙みたいなものも掲載されていた )ということもあってかやや光沢紙っぽい高級な造本になっていて、とにかくでかくて重いので、細心の注意を払ってありがたく複写させていただきました。m( _ _ )m

 で、問題の比較神話学者キャンベルの寄稿文というのは編者ロバート・オドリスコール氏の序文のすぐあと、事実上の巻頭を飾る格好で掲載されており、注も入れて 30ページほどの分量。なんでもこれカナダのトロント大学にて開催された同名の国際会議の講演録みたいな本でして、その講演の順番で収録されている。というわけで、キャンベルはそのケルト学関連の国際会議の最初の登壇者だったみたいです。

 その「開会の辞」みたいな講演でキャンベルはまず祖父と祖母の話をしています … 前々からキャンベルさんはアイルランド移民の子なんだろうと思ってたんですがやはりそうだったようで、祖父リンチ・キャンベルはアイルランド西海岸のメイヨー州の生まれ。セント・パトリックス・デイにはニューヨークの5番街をさっそうと馬に乗って(!)パレードの先頭に立っていたとか。祖母マクフォーンの出身がスコットランド東海岸のダンディーで、孫がケルト学の会議の場でこうしてしゃべっている姿を見たらふたりともきっと鼻高々だったろう、などと書いてありました。

 で、そのとき( 1978年2月 )の本題は、'Indian Reflections in the Castle of the Grail' 、「聖杯城におけるインドの反映」、あるいは「聖杯城に映じたインドの影」くらいだろうか … とにかくアーサー王伝説を専門に研究し、かつ古代インド哲学にも精通していたキャンベルらしい講演タイトルではあります。で、またなんという奇遇か、ちょうどその時分に読みかけの『創造的神話』の巻の箇所がやはり「聖杯伝説」をメインに扱った章( 'The Paraclete' )だった。おかげで図書館から借りた 40年ほど前に刊行された貴重な邦訳本『パルチヴァール』とともに、このキャンベルの寄稿文はおおいに門外漢の理解を助けてくれたのでありました。

 かんじんの聖ブレンダンがらみでは、やはりキャンベル特有のというか、たいへんユニークな解釈を披露していて軽く「目からうろこ」状態。この本のもっと先のページには生粋のアイルランド人ケルト学者のプロインシャス・マッカーナ教授の講演も収録されていて、そっちのほうも附属図書館内でささっと眺めていたらやっぱり(?)聖ブレンダンが出てきた。とりあえずそのページも複写しておいたけれども、手許にある本( The Otherworld Voyage )所収の論考とほぼ似たかよったかで、よく言えば標準的というか、オーソドックスな書き方。キャンベルは「外の人」の視点から自在に語っているような印象を受けました( 以下、訳出部分はあくまで試訳なので、ようするにこういうことを言っているという要旨ていどに読んでください。そしてキャンベルが底本とした『航海』はセルマー校訂本のほうではなく、1920年に刊行された古い本のヴァージョンにもとづいており、「7年」つづいた航海をなんと「40年[ てっ !? ] 」とするなど、若干、話の筋が異なってます )。

 たとえば … 「大魚ジャスコニウス( ラテン語版『聖ブレンダンの航海』10章 )」の「尻尾に食らいつこうとしているものの、体の大きさゆえそれができない」イメージが表すものについて。「『ケルズの書』にも、そんな尻尾を食らう怪物を表現した箇所があり、それはいわゆる『トゥンクページ』に出てきます。… この『尻尾を食らう怪物』が表しているのは世界を取り巻く大海と呼ばれるもので、これは世界の主だった神話群すべてに見られるモティーフです。たとえばギリシャ人の言うオケアノスの彼方にはヘスペリデスという黄金のリンゴと不老不死の幸福諸島があります。これはアーサー王伝説に登場するアヴァロン( リンゴの島 )とぴたり一致し、あの謎めいた場所に立つ『聖杯城』とも一致するものです」。

 ブレンダンとそのお供の一行が「エルベの島の共同体」で島の 24人の修道士たちとともに最初のクリスマスを過ごしたときのこと。一日の聖務日課最後のお祈りをあげ、修道士たちがめいめい寝室へと引き上げたあと、島の修道院長とブレンダンはそのまま礼拝堂に残り、窓から火のついた矢が飛んできて祭壇前の燭台をすべて灯してまた外へ飛び出していく奇跡を目撃した、という場面があります( 同『航海』12章 )。キャンベル流の解釈では、「『こんなふうに燭台が灯り、しかも芯が短くならない。なんとも不思議なことだ』とブレンダンは島の修道院長に言う。彼らは永遠と時間との接点に来たのです。時間の中にある永遠性です」。

 「鳥の楽園」のくだり( 同 11章 )では、「大木( =世界樹 )の枝が見えないくらいの白い鳥の群れ」について、こんな趣旨のことも書いてます。「聖杯伝説では、… この奇跡の器は天から、『中立の天使たち』によって地上にもたらされたとあります。彼らは天界での戦いのさい、ルシファーの側につかず、かつ神の側にもつかなかった天使たちです」。ここでキャンベルは、この「白い鳥の姿をした堕天使」たちが、それ以前にブッダによって説かれた「中庸の道( 中道 )」を発見し、対立物のくくりのいっさいない自分たちの状態を歓喜して歌っていると解釈して、その起源をサンスクリットの「無条件の歓喜」ということばに見出し、ひいてはこのことへの「覚知」のしるしとしてのちに登場したのが、「聖杯」なのだ、とも言ってます( Robert O'Driscoll, op. cit., pp.6−7 )。この「歌」のあとで登場する「聖エルベの共同体の島」では反対に「沈黙」の支配する地になっている。「聖杯」を天から地上世界にもたらしたのがどっちつかずの「中立的天使」だった、というのがもっとも重要なポイントです

 このあとで、伝統的にパトリックのアイルランド来島の年号と言われている「432」という数字について、キャンベル本読者ならまた例の話か、というシンボルの話になるので飛ばして( たとえば『生きるよすがとしての神話』や『神話の力』、『宇宙意識』を参照してください )、 「望みの食べ物が尽きることなく出てくる器」の話はたとえばノヴァスコシアあたりにいたアルゴンキン族の神話伝承にも出てくる、なんていうのはひじょうに興味をおぼえた。もっともキャンベルは ―― 講演地がカナダで、しかもセヴェリンの実験航海成功の直後ということもあってか ―― 歴史上のブレンダンという人がじっさいに革舟に乗って「新世界」までたどりついたとかではなく、北米のネイティヴ・アメリカンもまたこのような神秘的な深層意識を持っていたのだとつづけてます。そして、近くにあるのになかなかたどり着けない、選ばれた人にしか立ち入ることを許されない「聖人たちの約束の地」は、その意味合いではそのまま「聖杯城」にも当てはまるという。ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの2万5千行近い長大な中世ドイツ語韻文の完訳本『パルチヴァール』なんか読むと、たしかにそのとおりですね。ちなみにワタシとしては、この一連の「アーサー王もの」をざっと俯瞰してみると( 俯瞰と言えるほど読みあさっているわけじゃないから、おかしな言い方なのは承知のうえで )、初期の「書きことば」による時代の作品はアーサー王が文字どおり主人公、つまりラテン語版『航海』で言えばブレンダン院長、ということになるんですが、時代が下ってクレティアン・ド・トロワの『ペルスヴァル、または聖杯の物語』とか逸名作者の手になる( キャンベルによればシトー会士だった聖職者 )『聖杯の探求』になると、冒険の主役はもはやアーサー王ではなくて、円卓の騎士、高潔の人ガラハッド、『赤毛のアン』に引用されているテニスンの『国王牧歌』の( あんまりよくない意味で )モデルになった「荷車の騎士」ランスロット( ランスロ )、そしてエッシェンバッハが主役に据えた「パルツィヴァール( ペルスヴァル )」といったぐあいに変質している。これはブレンダンの話でいえば、たとえば前にもちょこっと書いた『聖マロ伝』なんかがそれに当たるかな。主役はもはや師匠のブレンダンではなく、若き弟子のマロに取って代わられる( リンク先拙記事にも書いたように、『聖マロ伝』にも出てくる大魚[ おそらくクジラ ]の背で復活祭を祝うという話は、いわゆる「ブレンダン伝説群」に含まれる最古のモティーフでもある )。とにかくこういう変遷の仕方はいずれの物語でも似ています。

 で、ここから先は「聖杯伝説」群の話になるのですが、いままで漠然としか知らなかった「聖杯」というものがどういう素性のものなのか、やっとイメージができつつある。もっとも手許には田中仁彦先生の著書『ケルト神話と中世騎士物語』とかもあるにはあったし、↑ でも挙げたキャンベル本も何度となく目を通していたとはいえ、いまようやっとのことで、ほんとうの意味でこれら「聖杯伝説群」を理解しつつある自分がいる。「聖杯( 古仏語 graal / greal, プロヴァンス語 grazal, 中高ドイツ語 gral )」を最初に登場させたのはクレティアン・ド・トロワ … が参照したとされる、今では失われた「原典」らしい( フランドルのフィリップ伯爵とかいう人の持っていた本だとか )。

 いま読んでるキャンベル本によると( ibid., p. 525 )、「円卓」ということばがはじめて使われたのはアングロ・ノルマンの詩人ヴァース( 1100−1175 )の『ブリュ物語』( c. 1155年 )だという。聖杯( グラール )を、イエスが最後の晩餐で使用した杯、「カリス( chalice )」として最初に登場させたのがロベール・ド・ボロンの『アリマタヤのヨセフ[ 邦訳では『聖杯由来の物語』]』であり、さっき挙げたシトー会士の作品と、もうひとりのべつのシトー会士が書いた「円卓の騎士」ものに出てくるガラハッドはこのボロンの話では登場しない、「聖杯」のそもそものルーツとしては、いくらでも食べ物の出てくる「大釜( デンマーク・グンデストルップ出土の有名な銀製大釜のようなもの )」などが挙げられる … etc.,etc.

 ではエッシェンバッハの「聖杯」もまた「カリス」として登場するのか? とくるとこれがそうではなくて … なんと !! それも錬金術とも関係の深い、いわゆる「賢者の石」みたいなものだったというからおどろき。* ちなみにエッシェンバッハが底本としたらしい、クレティアンの『ペルスヴァル』では、この「聖杯」は杯でも石でもなくて、なんと「皿」または「お椀」( → 『聖杯物語』彩色写本に描かれた「アラン王にグラールを授ける司教ヨゼフ」、1300年ごろ )!!! しかもほぼ同時期にウェールズ語で書かれたとされる『エヴラウグの息子ペレディル』というヴァージョンでは、「聖杯城で見せられたものは杯でもお椀でもなく、ふたりの乙女に捧げ持たれた大皿に乗った男の首」だったという !!!! 

 ラテン語版『航海』にもどると … 聖ブレンダン一行は念願かなって「聖人たちの約束の地」訪問ののち( あっという間に )、故国アイルランドへと帰還して修道院の皆から大歓迎を受けるのですが、その後あっけなくブレンダン院長は天に召されてしまいます。キャンベルはこれを、「現実の時間と異なる時間、永遠性の世界から対立物のペアになった現実世界」へと帰ってきたためにすぐ死んだ、と捉えています。ようするにこれ最古の航海譚と言われる古アイルランドゲールで書かれた『ブランの航海』や、もっと言えば『浦島太郎』の世界です。異界(=あの世)を訪問して、生きて帰ってきたはいいが、あっけなく死んでしまうというあのモティーフです。
(「常若の国」の住人で、ケルトの海神マナナーン・マク・リルの娘の警告にもかかわらず、誤って落馬してアイルランドの渚に触れたとたんにぼろぼろの老人と化した英雄オシーンのように )同様な運命は、『ブランの航海』「女人の国」から帰還したブランの一行のひとりが受け、そして聖ブレンダンもまた、40日の「聖人たちの約束の地」滞在ののちアイルランドに帰国するや、たちまち死んでしまい、天に召されてしまいます( ibid., p. 13 )。

*… 「(「聖杯」ってなに? と訊くパルツィヴァルに隠者トレフリツェントがこたえて )… そこに住んでいる彼ら一団の食べ物のことから話そう。彼らはある一つの石によって養われている。その石の種はまじり気のない純なるものだ。それについてご存じなかろうから、ここでまず名前を教えよう。その石はラプジト・エクシルリースというのだ。この石の力によってフェニックスは燃えて灰になるが、この灰がその鳥をよみがえらせる。こうしてフェニックスは羽が生え替わり、その後明るく輝いて、以前と同じように美しくなる。人間もこの石を見れば、どんなに病み衰えていようとも、その後一週間は死なずに生きながらえることができるのだ。その皮膚は決して生気を失うことはない。乙女であろうと、男であろうと、皮膚はその石を見たときと変わらず、その人の若い盛りの始まる頃の色艶そのままと言わざるをえない。もしその石を二百年の間見ていれば、ただ髪の色が灰色になるだけで、この石は、人の肉や骨がその若さを保つ力を与える。ところでこの石はグラールとも言われている。
 そして今日はこの石の上にお告げがくだるが、石の最高の力はまさにこのお告げの力によるのだ。今日はキリスト受難の聖金曜日で一羽の鳩が空から舞い降りて来るのがかならず見られる。… その輝く白い鳩は、ふたたび空へ舞い戻ってゆく。今そなたに話した通り、この鳩は聖金曜日ごとに聖石の上に聖餅を運んで来るが、聖石はそれによってこの世のかぐわしい、楽園のそれに比すべき飲み物、食べ物を得るのだ。それは大地の生みなすもののすべてである。さらにこの聖石は、天の下に住む一切の鳥獣、飛ぶもの、駆けるもの、泳ぐものすべてを与えてくれる。このようにして聖杯は聖杯騎士団に俸禄を授けているのだ」。

―― ヴォルフラム・フォン・エッシェンバハ『パルチヴァール』p. 250 。邦訳版( 1974年、郁文堂刊 )では固有名詞の読みを一貫して「中世語読み」として発音した表記を採用しているため、ほかの既訳本とは表記が若干異なっている。

2014年05月16日

番外編:エリウゲナと『自然の区分』

 『聖ブレンダンの航海』12章「聖エルベの島の共同体」のくだり。一日の聖務日課の締めくくりとなる「終課( ad completorium )」を皆であげたあと、島の共同体の修道院長と聖ブレンダンはそのまま礼拝堂に残って、「霊的な光」がやってくるのを見届けた。「霊的な光」は矢となって窓から堂内に飛びこみ、祭壇前に据えられていた燭台すべてを灯したかと思う間もなくふたたび飛び去っていった。

 そのときブレンダンは島の修道院長に、こんな形而上学的な質問をぶつけます。
「物体の中で非物体の光が物体のように燃えるとは、どうしてそのようなことが起こりうるのでしょうか?」
'Quomode potest / in corporali creatura lumen incorporale corporaliter ardere ? '

この箇所、オメイラ教授の英訳本( The Voyage of Saint Brendan, Journey to the Promised Land, 1976 ; repr. Colin Smythe, Gerrards Cross, 1991, 1999., p. 32)では、
'How can an incorporeal light burn corporeally in a corporeal creature ?'

になってます。オメイラ先生は「まえがき」で上掲文を引いたうえで、「… これはまさしく9世紀の哲学者ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナが大著『自然の区分( De divisione naturae )』で書き記した疑問である。この科白にもそれが感じられる。だがほんの一瞬にすぎない。そしてそのこたえも聖書の一節であって、エリウゲナではない」のように書いてます( ibid., p. xvii - xviii )。

 自分もここの箇所をはじめて読んだとき、「ずいぶんもってまわった訊き方するなあ」と感じたんですが … この作品は兄弟格の『メルドゥーンの航海』と比べて、「素朴な洗練さ」があると英訳者先生は評してます。なのでよけいにこのブレンダンの科白が目立ちます。

 ちなみにいま読んでるキャンベルの Creative Mythology にも、ショーペンハウアーの、なんの著作かはよくわかんないながら、とにかくその著作に引用されたかたち( つまり孫引用 )でエリウゲナがひょっこり顔を出してます( エリウゲナの言う「神」=ショーペンハウアーの言う「生命に対する意思」 ということみたい )。

 ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナの生涯についてはよくわかっていない。手許の『ブリタニカ』のコピーによると、「851 年頃西フランク、シャルル禿頭王( はげてなかったとする説あり[ 苦笑 ] )の宮廷学校の教授となった。神学論争に巻き込まれ、その結果『救済予定について』De praedestinatione を著した。この著作は論争をしずめなかったばかりか、かえってそれを激化させ、バランス( 855 )とラングル( 859 )の宗教会議で断罪された。またシャルル王の命を受けて、偽ディオニュシオス・アレオパギタの著書( 5世紀後半に成立 )や証聖者マクシムスの『両議論』De ambigua を翻訳した。… 」とあります。

 トマス・ケイヒルの『聖者と学僧の島』には、博学・博覧強記にしてどうやらアイルランド出身者らしく(?)こうと思ったら妥協を許さず、「みずからの意思」を貫いた学者だったエリウゲナの迎えた「最期」のこととかも書かれていますが、上記リンク先記事を見るかぎりこのわりと知られたエピソードも後世に作られた話のようですね。

 「第一の自然は、創造し、創造されない自然 / 第二の自然は、創造されて、創造する自然 / 第三の自然は、創造されて、創造しない自然 / 第四の自然は、創造せず、創造もされない自然」というのは正直ワタシのアタマでは難解すぎて( 苦笑 )、… でもたとえば、『ケルト ―― 伝統と民俗の想像力』という本にある解説とか読むと、どうもエリウゲナという人の考えていた神とか世界観は、意外にも(?)砂漠の一神教の伝統の中にいながら、そのじつ「汎神論」的だったりします … こういうものの発想が、エックハルトやクザーヌス、さらにはショーペンハウアーにまでつながっているのかとも思う。いずれにせよ後世に与えた影響は決して過小評価してはならない、重要な学者だったことはまちがいないと思います。

 … というわけで本日 5月 16日、「聖ブレンダンの祝日」をぶじに迎えることができたことに、心から感謝をこめて。

追記:きのういつも行ってる図書館で、こんな本を閲覧。そうそう、近くにこういう貴重な資料があったのに、いま読んでいるキャンベル本の調べ物でいつも反対側を向いて( つまり、背中を向けて )ニーチェだのカントだのショーペンハウアーだの漁っていたから、記事書くまで気がつかなかった。ほかにも借り出した本( いわゆるひとつの、「花子とアン」関連 !! )が複数あり、とてもじゃないがこんなボリュームのある大作を家に持って帰るのはムリだったので、とりあえず必要な箇所のみ複写。また後日、加筆するかもしれない。本家サイトでもここでも『ブリタニカ』の表記どおり「ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナ」としたけれど、ジョイスみたいに別人の「ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス」とかとの混同を避けるためと、けっきょく下線部は「アイルランド人」ということを繰り返している冗語表記であることから、いまではヨハネス・エリウゲナもしくはヨハネス・スコトゥスと書くのがふつうみたいです( また上記平凡社の本によると、Johannes Scotus Eriugena という表記も正しくなく、ほんらいは Scottus と書くべきらしい)。

2014年02月01日

聖バーリンド ⇒ 「トリスタン( ブレンダン )跳び」

 以前からちょくちょくここでも書いているように、ジョーゼフ・キャンベルの代表作のひとつ『神の仮面』四部作の最後の本である Creative Mythology を、暇さえあればせっせと読んでいるところなんですが、この本の第2部第4章は、ゴットフリート・フォン・シュトラースブルクという有名な中世叙事詩人の著した『トリスタンとイゾルデ』を中心に論じてます。で、またしても聖ブレンダン関連でメモ書きていどにお茶を濁したくなり、以下、思いつくままに書きだしてみる。

1). この章でキャンベルは、まずトリスタンと彼の叔父さんにあたるマルク王の住む「世界」のちがいを述べ、マルク王の居城ティンタジェルのある世界は、あらゆる時代の恋人たちすべてが入るヴェヌスの山、そこにある「水晶の寝台(トリスタン物語における「愛の洞窟」)」とは正反対の場所であり、後者はわれわれの内にあり、かつ外にある自然そのものだ。その失われた、だが完全に忘れさられてはいないこの内なる世界は、ケルト神話や民間伝承では「常若の国」とか「波の下の国」とかの名前でなぞらえられ、またランスロットが育てられ、「エクスカリバー」が授けられた「湖の精(女神)の国」も、そして瀕死のアーサー王を乗せたはしけが向かった「アヴァロン島」、つまり「林檎の島」も、この「波の下の国」と同一モティーフであり、死からの復活を象徴する( アーサー王の負った 15という傷の数も、月の満ち欠けの日数と一致するというのは偶然なのだろうか )。そして聖母マリアに抱かれるイエスのイメージ「ピエタ」の象徴するものも、また深手を負ったトリスタンの向かったダブリンのイゾルデが象徴するものも、みなおなじひとつのモティーフの一例なのだ、みたいに書いてます。で、「アーサー王の死」で引用されているのが、モンマスのジェフリーの書いた『聖マーリン伝( 聖メルラン伝 )』で、「(『ブリタニア列王史』につづいて )のちに書いた『聖マーリン伝』のなかで、このおなじ年代記作者は、アーサー王を乗せた舟の船頭はバリントゥスというアイルランドの老修道院長だった、と付け加えている」とキャンベルは書いてます( pp. 184−5)。

 この『聖マーリン伝』ですが、ありがたいことに現代英語訳したサイトまであって、そこの注釈によると、
Geoffrey may have got his Barinthus from an early tradition in which he was god of the sea and the otherworld rather than from the Navigatio Brendani as is sometimes suggested.
とあります。

 また、こちらのブログ記事ではさらに突っこんでバリントゥスとケルト神話の海神マナナーン・マク・リルとの関連について書いてます。キャンベル本ではすこし先のページで、このケルト版プロテウス、マナナーン・マク・リル( Manannán mac Lir )について書いてますが、もう文脈が切り替わってまして、バリントゥスについてはあとにも先にも( 322ページから先はまだ読んでないから、わからんけど )言及されているのはここだけです。

 ラテン語名バリントゥス、アイルランド・ゲール語名バーリンドは、本家サイトでも書いたように、アイルランド中部オファリー州エグリッシュ郡にある教区ドラムカレンの修道院長をつとめ、550年ごろに没したと伝えられている人ですが、マナナーン・マク・リルとの関連では、Barri という語が一種の添え名となって、たとえばフィンバー( Saint Finbarr、コーク市の守護聖人 )などに「化けて」いるという主張もあり、なんとも言えませんが、どうもジェフリーはこっちの連想でアーサー王を乗せたはしけの船頭を修道院長老バリントゥスにしたのかもしれない。

2). ラテン語版『聖ブレンダンの航海』を下敷きにブノワという名のベネディクト会修道士がアングロ・ノルマン語で著したとされる、『聖ブランダンの航海』。「参考文献」ページにも挙げたように、すでにこちらの版本は松村剛先生が「冥界往来 ――『聖ブランダンの航海』」として 20年以上も前に発表していますが、ブレンダン( アングロ・ノルマン読みでブランダン )修道院長とお供の一行が、隠者バーリンド( 同様に現地語読みでバラン )から聞いた、「地上楽園」目指して船出する場面。ここで、こんな一節が出てきます。
… ブランダンは皆に接吻し出発した。…
とある岩までやってきた。いま、平民が「ブランダン跳び」と呼ぶ岩である。
この岩は海に向かってながくのび、岬のようであった。
この岬の下に船着き場があり、
そこで海に川の急流が流れこんでいた。…

「ブランダン跳び」について、松村先生の訳注( p.69 )を見ますと、これはラテン語版に出てくる 'saltus virtutis ( 奇蹟の野 )' の saltus を、「跳躍」を意味する salt に移し替えたものとしたうえで、ベルール作『トリスタン物語( ブリタニエのトマによる『トリスタン物語』およびトマ作品を底本にしたゴットフリート作品とは「異なる」系譜、いわゆる「流布本」系に属するもの )』に出てくる「トリスタン跳び」を想起させる、と書いてます。

皆様がた、この岩山の中途に
大きな広い岩石が突き出ていた。
トリスタンはいとも軽やかにそこへ降り立つ。
吹き上げる風が服を膨らませ、
まっしぐらに落下するのを防いだからだ。
コーンウォールの人々は今なおこの岩石を
「トリスタン跳び」と呼んでいる。*
だいぶあとのほうでも、トリスタンが「ウェールズ跳び」、「ヴァヴレ跳び」を競ったとかって出てきます。いずれも訳注では「不明」とある。どうもトリスタンは、足腰が天才的なまでに発達した若者だったらしい。世が世なら、オリンピック選手になれたかも( 笑 )。そうそう、音楽好きにとってはこの名前、「トリスタン和音」でも有名ですな。

 ついでにこのトリスタンという名前。ゴットフリート本では名付け親( 育ての親、ほんとうの両親はすでに亡くなっている )が「さてトリステというのは悲しみのことであって、このような数奇な運命のためにこの子はトリスタンと名付けられ、早速洗礼が施されて、そう命名された」† と出てきます。手許の『ケルト事典』によれば、この人名はもとのかたちが「ドラスタン」であり、アーサー王伝説の騎士の名前としても取り入れられ、語源的にはピクト人の言語からケルト語に借用されたのではないかと書いてます。いまひとつトリスタンものの作者として、アイルハルト・フォン・オーベルゲという 12世紀に生きたドイツの詩人がいます。この人の手になる『トリストラント( Tristrant 1170−90 )』が、現存する「トリスタンもの」最古の形らしい。キャンベル本に話をもどせば、このトリストラント → 実在のホウス城主トリストラムとなり、つぎの章ではその「サー・トリストラム、かの恋の伶人が、短調の海を越え … ( 柳瀬尚紀訳 )」と書かれた『フィネガンズ・ウェイク』と、『哲学者の薔薇園』を中心に論じることになります。さらについでに、トリスタンが一騎打ちのためすぐ沖合の小島に渡るとき、またダブリン湾を帆船から降ろされた「小舟」に乗って漂流する場面について。この「小舟」、キャンベル本ではいずれも coracle とあり、これはあきらかにアイルランドの伝統漁船カラハ( カラフ )のことだと思う。ただしウェールズなどで見られる一寸法師でも乗りそうな「お椀型」のコラクルではないはず。ゴットフリートの物語では、「軍馬一頭と武装した人が一人やっと運ばれるくらいの大きさ」とあるけれども、川下り用途のコラクルではまさかないだろう、と思う。やはりここはカラハではないかな。当時は文字どおり「革舟」で、わりと頑丈だったし、カンヴァス張りになったあとでもたとえばディングルでは牛とか家畜の運搬用として、数十年前まで活躍していたという事実もある。

* ...『フランス中世文学集 I 信仰と愛と』新倉 俊一 / 天沢 退二郎 / 神沢 栄三 訳編( 白水社刊、1990年 )より。

† ... ゴットフリート・フォン・シュトラースブルク著『トリスタンとイゾルデ』については、1976年に刊行された石川敬三氏による邦訳版から。この本の恩恵は、個人的には計り知れず。こんなすばらしい邦訳が、30数年も前( 1976年、奇しくもセヴェリンの「ブレンダン号」出航の年。奥付によれば定価 4,000円也 )に刊行されていたとは、まったく寡聞にして知らなかったし、この本が、いつも行ってる図書館の書庫に眠っていたこともまことに幸運としか言いようがなかった。まずこの本、なにがすごいかって、しっかり原本の行数が書かれていておかげでキャンベル本の参照箇所と逐一、対照できたし、訳者先生によるトリスタンものの系譜および解説、それに登場人物一覧に舞台となった当時のヨーロッパの地図まで巻末に付されている !! 巻頭口絵には当時としては保存状態のよいカラー図版の「ゴットフリート・フォン・シュトラースブルクの肖像」やキャンベル本とおんなじ英国チャーツィー修道院跡のタイル画も掲載されている。むろん翻訳もすばらしくて、「いとやさしく」とか「ゆめゆめ … 」とか古風な言い方が適材適所に散りばめられていて、それが一種の講談調になって耳に心地よく響く。あの当時の大学の先生による翻訳って、一般教養書はおろか文芸ものまで読みにくいいわゆる「悪訳」が横行していた時代だったけれども、この邦訳はまるでそんなところがなくて、その点もおおいに驚かされました。そしてなんといってもちょっとわかんない箇所とかあったらいまなら Web とか Google 先生とかにお伺いを立てればたいていのことは( あくまでたいていのことですが )なんとか間に合うし家にいながらにしてチョチョいとわかっちゃったりするんですが、この物語の邦訳本が出たころというのは、もちろんそんな「お気楽な」わけにはいかない。要所要所に付された訳注とか見ていると、訳者先生の苦労はいかばかりだったかと、思わずにはいられない。「あとがき」によれば、この本はさらに古い「初訳」本に改訂を加えたいわば「第二版」みたいですが、「初訳」はどこも引き受けてくれる版元がなくて、なんと自費出版だったという。で、初訳刊行当時のことを振り返って、こんなふうに述懐しています。ここを読んだとき、胸に熱いものがこみ上げてくるのを禁じえなかったのでありました( ちなみにこの邦訳本刊行当時、ワタシはまだ年長さんでした )。
その当時は … 難解なところにぶつかっても、誰に相談するでもなく、頼れるものはただ書物だけであった。ひとりこつこつと五年ほどかけてようやくひととおり訳し終えたのであったが、この千枚に近い原稿を何度も清書し、校正を全部みてくれた荊妻のほかには手伝ってくれる者は一人もいなかった。それが今は訳者の周囲にも中世ドイツ語・ドイツ文学の勉学を志す者が次第に集まるようになり、少なからず元気づけられている … 。

2014年01月12日

中期英語版『聖ブレンダンの告白と祈り』

 以下の記事、本家サイト「参考文献」ページの更新事項ともカブッてますが、補足ていどに書いておきます。

 いちおう人並みに用事が立てこんでいた年の暮れもなんとか終わり、気が抜けたのか( ? )、「生さだ」見ようと思っていたのについコタツでうとうと … 気がついたら年を越して小一時間が経過していた( 苦笑 )。コタツの上にはキャンベル本だの、図書館から借りた「トリスタンとイゾルデ( トリスタンとイズー )」関連本だの、伊藤了子先生による一連のアングロ・ノルマン版『聖ブレンダンの航海』のコピーだのを広げて店開きしたまんまぐーすか寝ていた、というわけ。

 「生さだ」を見つつ、手許のコピーとかちらちら見ているうちに、あれ、そういえばかなーり前にここでも触れた、Fumio Kuriyagawa なる日本人先生が書いた、中期英語で書かれた『聖ブレンダンの告白と祈り』*とかいう作品についての論考って … ぐぐったらひょっとして見つかるんじゃないの、あの記事書いた当時はさっぱり引っかからなかったけれども、いまじゃ海外のみならず、ようやく( ? )国内の有名大学でも過去の論文とかが一定の条件つきながら Web 上で一般公開されるケースが多くなってるし、もしかして … と思っていたら、こんなとこにあるじゃない( 汗 )!! とりあえず寝て、翌日さっそく PDF 文書をすべて印刷して、目を通してみた。ざっとまとめると、以下のような記事と判明( 注:ラテン語で書かれた Oratio Sancti Brendani のローマ写本については手許の The Legend of St Brendan : A Critical Bibliography の表記を採用 ):

著者 厨川 文夫 … 1907年7月30日生 - 78年1月16日没;英語・英文学者、慶應義塾大学名誉教授。

『中期英語散文版 聖ブレンダンの告白と祈り( 以下、『祈り』 )』は、つぎの6つの古写本が現存する。

1). Lambeth Palace Library Ms. 541, fol. 150b - 165a, 15世紀
2). Cambridge University Library MS. Hh. I. 12, fol. 52a - 59b, 15世紀
3). Queen's College, Oxford MS. CCX, fol. 1a - 10b, 15世紀
4). British Museum MS. Harl. 1706, fol. 84a - 87b, 15世紀
5). Bodleian Library, Oxford, MS. Rawlinson C. 699, fol. 162b - 179a, 15世紀
6). Bibliothéque Nationale, Paris, MS. anglais 41, fol. 162b - 176a, 16世紀

この『祈り』が聖ブレンダンの名前を冠している背景に、中世を通じて各国語に翻訳・翻案されたラテン語版『聖ブレンダンの航海』の人気の高さがあったことは明白である。
cf., ラテン語版『聖ブレンダンの祈り』 British Museum MS. Addit. 33.773, fol. 2a -fol. 2b :

「祝福されし修道士ブレンダン、この祈りを書き記す。この祈りは、彼が七つの海を渡り終えたとき、聖なる大天使ミカエルによって示された。彼は『約束の島』を求める航海に出、七年のあいだそれを探しつづけ、七年のあいだ復活の主日を祝いつづけた。そして、その航海を終えたのちの主のご復活の日に、この祈りを賜った …… 神のご威光により、聖ブレンダンに示されし祈り … 」

ラテン語版は9つの写本が現存。刊行されている唯一のエディションはパトリック・F・モラン枢機卿編纂によるラテン語写本『聖ブレンダン行伝』で、底本にしているのは単一のラテン語写本( MS Rome, Biblioteca Nazionale Centrale, Sessoriano, 127, ff. 81r - 111v. B., 14世紀 )にかぎられている( ちなみにモラン編纂版が底本としたローマ写本は、出だしからして大英博物館蔵の写本とまるで別物で、いわゆる連祷[ リタニー ]形式でえんえんと綴られている )。

ここで取り上げる中期英語版『祈り』が、これらラテン語写本を底本としているかどうか、についてはこれまで調査がおこなわれてこなかった。

ラテン語写本( British Museum MS. Addit. 33.773, fol. 2a -fol. 2b )と中期英語版写本とを比較したかぎりでは、中期英語版が上記ラテン語写本を直接の底本として書かれたとは考えにくいとの結論に至った。

以下の分析では、『祈り』は、ある個人が特定の罪を告白しているというより、宗教的教訓の書であることが明らか。『祈り』は7つの部分に分かれている。

1). はしがき( 5 - 39 )
2). 七つの大罪( 40 - 126 )
3). 十戒( 127 - 291 )
4). 肉体の五つの感覚について( 292 - 344 )
5). 肉体救済のための七つの行い( 345 - 405 )
6). 霊的救済のための七つの行い( 406 - 429 )
7). 結び( 429 - 443 )

使用言語、各写本間の関係、制作年代、作者などについての詳細な調査は、またの機会を待たなければならない。

テキストについて;
底本:Lambeth Palace Library Ms. 541, fol. 150b - 165a 。読みの異なる箇所については Cambridge University Library MS. Hh. I. 12, fol. 52a - 59b 上の語句を欄外に記す。前者は未刊行、後者は R.H. Bowers が自身の校訂版で底本として使用した写本。

凡例:1. イタリック体は、底本写本に頻出する略記を補った箇所。
2. 句読法と大文字については編者によるもの。
3. 単語の分割は標準的な分割法を用いた。
4. 各段落は、底本上の段落を示す印と対応する。

以下、その古い英語で書かれた『祈り』原テキストがつづく。

ようするに、これはたんなる当該テーマに対する一論考というより、図書館の片隅で埋もれていた古写本を、もうひとつの古写本と突き合わせて足りないところを適宜補ったりっぱな校訂版、critical edition として当時の学部機関誌上に発表したものでした … 恥ずかしながら、Wikipedia 記事にて著者の厨川文夫教授のお名前をはじめて知ったしだい。学生時代になんとあの『ベーオウルフ』も邦訳された先生でもあるとか。これはなんというめぐり合わせかとも思いました。

 一見、英国とはあまり縁のなさそうにも思えるアイルランドの船乗り聖人に、ジェフリー・チョーサーの生きていた時代のめちゃくちゃ古い時代の英語を専門とする厨川先生は、いったいどういういきさつで興味を持ったんだろうか … と、ここにいるボンクラはふとそんなこと考えたりもしたんですが、はじめてこのことに触れた以前の記事でも書いたように、とにかく 40数年も前に、日本人の研究者が聖ブレンダンがらみの「校訂版」をすでに発表していて、しかもそれが学者仲間でわりとよく引用されていることからしても、厨川版はこの分野では知名度の高い、言い換えれば「多くのほかの研究者から信頼されている」校訂版だということもわかった。… 厨川先生とはまったく面識がないながら、なんかすごくうれしい気がした。

 … 余談ながら、「トリスタンとイゾルデ」関連本について。こちらはもちろんいま読み進めているキャンベル本(『神の仮面 第4巻 創造的神話』。いまやっと 300 ページを越えたところ。まだまだ先は長い … なんせ本文だけで 678 ページもある大作なので )の影響なんですが、じつはブノワ編アングロ・ノルマン版『航海』にも、ことによったら作者ブノワが「トリスタン伝説」から借用したとおぼしき単語が出てくるんですなあ。ほかにもちょっと書きたいこととかあるので、この件については稿を改めまして、また後日に。

*... 'confession( s )' はローマカトリックでは昔、「悔悛の秘蹟」などの表記でしたが現在では「ゆるしの秘跡」という言い方が一般的。なのでここではとりあえず「( 罪の )告白」という訳語を当てておきます。

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2013年03月31日

Iona の語源は ? 

 最近、こちらの Web マガジン ( ? ) を知りまして、この号を見たらなんか聖コルンバゆかりのアイオナ島の名前についての考察記事みたいなものが載っていたものだから、くだんの記事だけプリントアウトしておきました。

 で、よくよく読んでみると、へえ、そうなの、という事実がいくつか目にとまったので、ここにも備忘録として書きだしてみることにしました。

 アイオナ島はメンデルスゾーンの名曲でもその名を知られる奇観「フィンガルの洞窟」で有名なスタッファ島と向きあう ( といっても距離はそれなりに離れているが ) ような感じに位置するインナー・ヘブリディーズ諸島の小島。ここでいきなり脱線だが、スタッファ島の真っ黒な柱状節理の絶壁って、卑近な例で言えば松崎町の烏帽子山や堂ヶ島北側の浮島 ( ふとう ) 海岸、南伊豆町入間 ( いるま ) 漁港近くの海蝕崖に見られるのとおんなじような、地下から登ってきたマグマがそのまま冷え固まったものだと思われます。ようするに隆起したあと差別侵食を受けて、堅固な溶岩の岩体だけが残ってそれが岩山になったり海蝕崖になって姿を現しているのでしょう。米国の「デヴィルズタワー」なんかもそうですね。

 アイオナは現地語のスコットランドゲール語では Ì Chaluim Chille 、「コルムキレの島」と呼ばれているそうなんですが、コルンバの前、はじめてこの孤島にやってきたケルト人というのは … 当然といえば当然のことながら、ドルイドたちも含まれていた。なんでもここには彼らの学校があったそうで、引用されている作家トマス・ブルフィンチの説によると、ハイランダーたちはときおりこの島のことを「ドルイドの島」を意味する、 Innisnan Druidneachという言い方で呼んでいたという。

 その後の古い文献や記録では、Ey あるいはより正確には Ii という呼び名を使っていたらしい。「イー」とは、ただたんに「島」の意。たとえばこれは the River とだけ書いて『聖書』に出てくる「ユーフラテス川」を指したり、the City とだけ書いて「世界の首都たるローマ」を指すような、そんな箔をつけた呼称だったようです。

 聖コルンバ来島後、こんどはこの「島」がかの聖人と結びつけられて、「コルンバの島」、Ii-Cholum-chille となり、これの崩れた語形の Icolmkill が残っている ( これはもとは中英語の呼称だったらしい ) 。この島名の古文書の表記は Hii だったり Hyona だったり I-hona だったりとさまざまだが、'Iona' という表記はひとつも見られない。そしてブルフィンチはコルンバのヘブライ語形を Hyona とする説を退けて、これは他の呼び名同様、れっきとしたゲール語の名前、Ii-shona の転訛であり、「聖なる島」を意味する、としている。アイオナはラテン語で記述した歴史家から Insula Sancta と言及されていた。この「聖なる島」、Holy Isle は、その昔アイオナの修道士の一派がノーサンバーランド沖に浮かぶ孤島リンディスファーンに授けた名前。この「ホーリー島」は、リンディスファーンのもうひとつの呼称としていまなお使われている … とここまで書いて、若干唐突な感ありではあるけれども、英語版 Wikipedia 記事に出てくる説を紹介しています。名づけて「イチイ説」。日本人の感覚ではある場所に渡来した人=単一言語話者、みたいな図式でつい物事を考えがちですが、じっさいには鉄器時代以降、ヘブリディーズ諸島にやってきた人というのはそれぞれ話すことばもバラバラだった。それゆえヘブリディーズ諸島各島の名前の由来、となるとどうしても一筋縄ではいかない。アイオナもそんな島のひとつということになる。

 イチイって向こうではあんまりいいイメージのない植物なんですが、スコットランドの著名な地名学者ウィリアム・J・ワトソンによると、もともとアイオナという名のもっとも古い形はオガム文字で「イチイのある場所」を意味していたという。Ivo- というかたちがそれで、ここからなんと ! ラテン語版『聖ブレンダンの航海』冒頭に登場するオーガナハト王族の氏族名 Eogan も派生しているという !! これは初耳。マナナーン・マク・リルの里子名も、「イチイの男」くらいの意味だという ( Manannán mac Lir, マク・リル=「海の子」 ) 。

 本文中にも言及のある 2003 年に作成された「地名一覧」のアイオナの項目を見ると、
Iona, Ì, Ì Chaluim Chille or Eilean Idhe.
The English name comes from a misreading
of Ioua which may be "yew island". The
Gaelic name Ì is generally lengthened to
avoid confusion to Ì Chaluim Chaluim,
"Columba's Iona", or Eilean Idhe, "the isle of
Iona". A native of Iona is an Idheach, and the
island was known as Ì nam ban bòidheach,
"Iona of the beautiful women".

もとのかたちは Iona ではなくて Iou ( v ) a ということか ? まるまる引用されている英語版記事によれば、この「誤読」による転訛は 18 世紀、「島嶼小文字書体」で書かれたもうひとつの異字体 Ioua の u と n の字面が似通っているために起きた転写ミスに由来するとしている。IouaIvova の派生形で、この Ivova がすなわち「イチイのある場所」という意味。

 以上、ベーダやアダムナンなどの記録した古文献や学説を整理すると、おおまかな共通項が浮かびあがってくる。アイオナという地名は 1). 「ドルイドの島」から 2). 「コルンバの島」を意味するいくつかの呼び名へと変化し、うちひとつが 3). スコットランドゲール語の Ii-shona 、ラテン語でいう Insula Sancta を意味していた。アイオナは太古の異教時代から特別な島だったわけですね。

 … ところでついこの前、あまり先例のない「生前の禅譲」によって招集されたコンクラーヴェにて新教皇フランシスコが選出されたわけですが、この conclave というラテン語、そのまんま「コンクレイヴ」として英語化してもいたんですね。意味は「秘密会議」。この国ではべつの意味での「密室会議」があいも変わらずまかり通っている … ような気はしますが。そして今日はイエス復活の主日、イースター。もっとも大多数の日本人にとってはさくら花ざかりのこの季節には、「花祭り」のほうがしっくりくるかもしれない、と墓参りで西伊豆に行ったときに思ったのでした。

2012年10月28日

ジョイスと聖ブレンダン

 以前、『聖パトリック祭の夜』という書名で出ていたケルト学者鶴岡真弓先生の本に聖ブレンダンについてジョイスがどこかで言及していたような … とおぼろげな記憶をたどって書いたことがありました。その本はいまあいにくかんたんには取り出せないところに眠っているので ( 苦笑 )、手っ取り早くヤナセ語訳『フィネガン』を返却しに図書館に出向いたおり、ついでに鶴岡本のほうも見てみた。いまは平凡社ライブラリー新書となって、『ジョイスとケルト世界』という書名に変わってます。で、あったあったこれこれ、と該当箇所をメモしてそのときはそのまま帰宅したんですが、後日、「アラン島の漁夫の蜃気楼」と題されたそのささやかな紀行文 ( 初出 Il Piccolo della Sera, September 5, 1912 ) はきっと Web のわだつみのどこかにあるはずだからあとで探してみよう、でもいまはもうすこしヤナセ語訳『フィネガン』を理解する助けがほしい、というわけで、筑摩書房から出ている『世界文學体系』シリーズから『フィネガン』抜粋が収録されている巻を図書館でパラパラ繰ったら、なんとなんとその「アラン島の漁夫の蜃気楼」がきちんと完訳されて載ってるじゃないですか ?! というしだいで該当箇所のコピーを手許に置いてこれを書いてます。

 1912 年に書いたということは、そのときジョイスはまだ 30 歳。鶴岡本にて興味を掻き立てられたワタシは、いったいどんな内容の寄稿文なんやろ ? と期待しつつ読んでみました。

 聖ブレンダンの箇所はつぎのくだり。↓
… 十世紀ののちにふたたび、アラン島の貧しい漁夫、聖ブレンダンの使徒にして競争者を盲いさせた蜃気楼が遥かに、靉靆 ( あいたい ) として、大洋の鏡の上にゆらめき現れるのだ。

 クリストファー・コロンブスは周知の通り、最後のアメリカ発見者のゆえに後世の人びとから名誉を授けられた。このジェノアの航海者がサラマンカで嘲笑される一千年前、聖ブレンダンは、われわれの船が今近づきつつある裸の海岸から、見知らぬ世界へと錨を揚げ、大洋を渡ったのちフロリダの海岸に上陸したのだった。当時、島は木が生い茂り、土地は豊饒だった。林の端に彼はアイルランドの僧たちの隠棲の場所を見つけた。これは西暦四世紀に王家の血統を引く聖者エンダによって作られたものである。この隠れ家から聖フィニアン、のちのルッカの主教が誕生する。ここに幻視者聖フルサが住み、夢想を凝らしたが、彼は、アイルランドの聖者暦の記述によるとダンテ・アル [ ママ ] ギエリの先駆者だという。… ダンテは、コロンブス同様、魂の三つの分野を訪れ、それを描いた最後の人であるという理由で後代から讃えられているのだ ( p. 144 )。

 … なるほど ! というわけで、やっぱりありましたジョイス原文もあわせてどうぞ。↓
Again, after about ten centuries, the mirage which blinded the poor fisherman of Aran, follower and emulator of St. Brendan, appears in the distance, vague and tremulous on the mirror of the ocean.

  Christopher Columbus, as everyone knows, is honoured by posterity because he was the last to discover America. A thousand years before the Genoese navigator was derided at Salamanca, Saint Brendan weighed anchor for the unknown world from the bare shore which our ship is approaching; and, after crossing the ocean, landed on the coast of Florida. The island at that time was wooded and fertile. At the edge of the woods he found the hermitage of Irish monks which had been established in the fourth century after Christ by Enda, a saint of royal blood. From this hermitage came Finnian, later Bishop of Lucca. Here lived and dreamed the visionary Saint Fursa, described in the hagiographic calendar of Ireland as the precursor of Dante Alighieri.

 前ページの「訳注」にも、この紀行文冒頭に出てくる表現について書いてあるんですが、それが「大きなのように ( 眠る神聖な島アランモア ) 」とありまして、では、と思って本文見たら、クジラじゃなくて「サメ ( 鮫 )」だった。??? 、手っ取りばやく原文見たら、'a great shark' だった。ジョイスのこの記述は正しいかな。ロバート・フラハティ監督の映画「アラン Man of Aran ( 1934 ) 」でも、迫力ある「ウバザメ」漁をするシーンとかありましたから ( ついでにウバザメは見た目は強面ながら、性格はきわめておとなしい ) 。「アイルランドの聖者暦」=聖人と殉教者の記念日を網羅した当時の教会暦。『オイングスの聖人暦』など。聖フルサについてはこちらなど。

 邦訳で気になったのは「地図」という訳語。あたらしい大西洋航路が開拓され、「荷物や乗客のかなりの部分は将来ゴールウェイに上陸し、ダブリン、ホリーヘッドを経由して直接ロンドンに行くことになるだろう」とあるので、状況からして「航路図」あるいは「海図」じゃないかって気がするんですが … 。当時、聖ブレンダンが上陸したのはもっと南の水域、サルガッソー海にも近いフロリダあたりと同定する説もひろく流布していたから、ジョイスもそう思ったんでしょう。

 クロナードの聖フィニアン ( 470 - ca.549 ) はブレンダンやカドク、コルンバを教育した人ですが、こっちのフィニアンは別人で、モーヴィルの聖フィニアンという人。ローマで教理などを学んだとき、貴重なウルガタ訳聖書写本を持ち帰って帰国し、現在の北アイルランド・ダウン州ストラングフォード湖に浮かぶ島に修道院を開いて弟子を教育したと伝えられてます。そのおなじ北部アルスターの王族の出だったコルンバは、こっちの師匠のもとでも修行していたのですが、師匠の門外不出の詩編写本「カタハ」をめぐって対立、けっきょくこれが流血の惨事を招き、その責任を教会会議で問われたコルンバは「バーの」ブレンダンに相談、12 人の弟子とともにヘブリディーズ諸島へ向けて「自己追放」、エグザイルに出帆し、そのまま二度と故国の土を踏むことなく、597 年 6月 9日、コルンバ75 歳のとき、アイオナ島にみずから建てた修道院で息を引き取った … のだけれども、北イタリアのルッカ主教というのは、寡聞にして知らず、Web 上を渉猟してもそのことに言及しているサイトなりページなりは見当たらなかった。それでもジョイスの引用した紀行文はとても新鮮でみずみずしささえ感じられる、とても印象的かつやや感傷的な文章だと思いました。後半、島民が「おはようございます、と言い、ひどい夏でしたね、まったくありがたいことで [ 神を讃えようではありませんか ] 、と付け加える」とある。これはアイルランド人特有の「よけいな付け足し」、adding の癖を述べた箇所ですが、ここの箇所、なんだか日本人の持つ「諦観」、「しかたがない」というあの感覚に似てませんか ? ちなみにここの原文は、
An islander, who speaks an English all his own, says good morning, adding that it has been a horrible summer, praise be to God.

 そういえばいつだったか、出雲大社のことを特集していた TV 番組がありまして、アイルランドの「常若の国」や「地下王国」とそっくりな国づくり神話のエピソードが出てきてびっくりしたことがある ―― 先住民族があとからやってきた征服民に土地を明け渡す代わりに、自分たちの住むべつの世界 ( 異界 ) を求めた、という点で。恥ずかしながら日本にもそんな神話伝承があるとは知らなかった。小泉八雲じゃないけれど、こちらの「妖怪」とあちらの「妖精」、あるいはドルイディズムに見られるオーク信仰と鎮守の森 … かたや世界の西の果て、かたや世界の東の果ての島国。キャンベルじゃないけど、探れば探るほど、共通項が出てくるもんだと感じたしだい。

 … ヤナセ語訳『フィネガン』、ついに「フィン成ーれ」!! 読みきった。… 知恵熱 ( ? ) かな、なんか風邪ぎみで少々だるい感じ。ヤナセ語訳を理解するために、宮田抄訳版『フィネガン』も併読してますが、例のふたりの選択、じゃなくて洗濯女の会話に出てくる「ブレンダンの鯡沼むこうのマークランドの葡萄土では、… ( I - 8, p. 398 )」のくだり。宮田訳版 ( p.252 ) の脚注によると、「ブレンダンの海はスカンディナヴィア人による大西洋の呼称」とあり、出典が Annotations to Finnegans Wake という注釈本だった。むむむむ … 「ブレンダンの幸福諸島」とか、「聖ブレンダンの島」なんてのはよく見かけたが、「聖ブレンダンの海」というのはあいにくお目にかかったことがない。スカンディナヴィア人は周知のごとくノースメン、ヴァイキングの末裔だから、そういうふうに北大西洋を呼んでいたとしてもいっこう不思議ではないのでありますが … 「ヴィンランド」のほうは有名ですけど。ついでに「踊り樹とサットン石 ( II - 3 ) 」のなぞも解けたんですが、こっちはまたのちほど。

 最後に「ブレンダンの鯡沼」のくだりを原文と併記しておきましょう。ヤナセ語訳、宮田訳とを比べてみるとまたをかし。
And all the Dunders de Dunnes in Markland's Vineland beyond Brendan's herring pool takes number nine in yangsee's hats.

[ ヤナセ語訳版 ] それにブレンダンの鯡沼むこうのマークランドの葡萄土では、鈍頭 ( どんず ) のスコトゥスたちがみんなヤンキー帽かぶって九番を取るって揚子よ。

[ 宮田抄訳版 ] それにブレンダンのニシン池の向こうのマークランドの葡萄国のダンのドンちゃんたちはみんなヤンキー揚子江 ( ヤンツェー ) 帽に九番を使うって。

[ おまけ:『筑摩世界文學体系』版 ] それにブレンダンの鰊の水たまりの向こうのマークランドのヴァインランドに住むダンダーズ・ド・ダン一族はみんなヤンキー帽子の九サイズをかぶっているそうだ。

引用者注:ヤナセ語訳の「鈍頭のスコトゥス」には、ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスが響いている … 気がするなぁ [ 追記:Dunders de Dunnes にはひょっとしたら『旧約聖書』の「士師記」に出てくるダン族も響いているのかもしれない ]。

2012年10月14日

『フィネガン』と音楽

 以前ここでもちょこっと触れたこちらの本。さっそく図書館から借りて読んでみたのですが、ヤナセ語訳で躓いている人にとってはまさに格好の書といえるでしょう。そんなあんたはあれよく読めるねぇ、なんて短足、じゃなくて嘆息が聞こえてきそうではありますが、なんのなんの、そこいらじゅうに原作者が仕掛けた穴リヴィアにハマってばかりですわ。でも上掲書の p. 152 に、にわかには信じられない証言が引用されていたりする。
『進行中の作品』をジョイス氏が朗読するのを聞いたことのある者は、その技巧の実にリズミカルな美しさを知っている。それは耳に快く、自然の作品のもつ有機的な構造によって成り立っており、氏の耳が作り出す母音と子音の一つ一つを丹誠込めて伝える音楽的な流れである。

… ワタシもヤナセ語訳版を読んでいて、つい声に出してみたくなってしまったりする。ようするにリズムというか語呂がいいというか。もっともヤナセ語訳では漢字のもつ可能性が極限にまで追求されているから、たとえば「気斑屋の竈で娘がパン粉ねり … 」なんてのはたんに「音」として聞いただけではおもしろさが伝わらず、やはり「視覚的に」読む必要がある ( ちなみにこの「気斑屋のパン」はおなじ章に二回、出てくる ) 。さらについでに中世フランスでひろく流布した一連の物語群主人公の「狐のルナール」まで登場。その前の章だったか、たしか『デイヴィッド・コパフィールド』まで変奏されて出てきた ( 笑 ) 。

 というわけでこの本、『フィネガン』読書案内本としても秀逸で、なんといってもわかりやすい。前にも書いたけれども『フィネガン』とくると 20 世紀初頭のあの気違いじみた当時の欧州そのまんまの「狂文」のようにも思われるかもしれない。じっさいそうだと思うが、同時にいかにも昔ながらのアイリッシュの諷刺文学の系譜を強く意識した作品だなあとも感じる。冒頭部の拙い試訳をつけた『西方風の語り』しかり、そのあとにつづく『マッコングリニの夢想』しかり。宮田本ではダンテや「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」や錬金術など、おもに大陸における中世文化を引きあいに出しつつ論じていますが、その中で音楽好きにとって注目すべき章があります。それがそのものずばり「音楽」と題された一章 ( 上述の引用文もその章から ) 。

 ヤナセ語訳『フィネガン』を読みだしてはじめて気づいたのは、じつに多くの音楽関連語が登場することだった。バッハやベートーヴェン、グルックやヴァーグナーといった人名はおろか、「グィードの手」とか「聖セシリア」、オルガンやチェンバロにヴァージナル、リュートにテオルボ、ハーディ・ガーディ、そしてたとえば「こりゃまた変耳喋調 ( へんにちょうちょう ) な ! 」なんてのまで出てくる。楽器名に注目すると、宮田先生も指摘されているとおり、どういうわけか古楽器系が多くて ( たしかサックバットもあった気がした )、すでに書き出しから登場していたりして。↓
riverrun, past Eve and Adam's, from swerve of shore to bend of bay, brings us by a commodius vicus of recirculation back to Howth Castle and Environs.

Sir Tristram, violer d'amores, fr'over the short sea, had passencore rearrived from North Armorica on this side the scraggy isthmus of Europe Minor to wielderfight his penisolate war : ...

ジョイス語で書かれた何回も難解な作品ではあるけれど、下線部は音楽好き、古楽好きなら一目瞭然ですよね ? そう「愛のヴィオラ」、ヴィオラ・ダモーレ。というわけでこの楽器の演奏者の方、誇っていいです ( 笑 ) 。ここのヤナセ語訳は、このことば遊びのほうは捨てているみたい ( 「サー・トリストラム、かの恋の伶人が、 … 」のような表記だった )。ちなみに宮田先生の解釈によればこの violer には violater / tor が重なりあうとし、意味としては「ヴィオラ・ダモーレを奏でる愛の破戒者サー・トリストラム」 という感じになるみたい。なるほど !! 

 ヤナセ訳はたしかに日本の地名とか「貝喩原薬軒」とか、やりすぎな感も否めないけれども、たとえば宮田訳「 ( 双子の兄弟のショーンが片割れシェムをくさして ) 変な奴なのさ。野菜魂の髄まで中世魔 ( p.154 ) 」という箇所。ここがヤナセ語訳版ではこうなっている。「気味悪いやつだったぜ、ほんとさ、そりゃあもう魂臨菜 ( こんりんざい )、昼邪 ( ひるじゃ ) つきあいきれないくらい中世だった ( 『第三巻』p.51、原本では p. 423 ) 」。「暗い中世」ね。ネクラなんだな ( 苦笑 ) 。この筆男シェム、ヤナセ語訳でもそれとなくほのめかされているけれども、作者ジョイスの分身的役割も担っているらしい。

 … いずれにせよいまだ巻その三を読みつづけているところなんですが、最後にヤナセ語訳に出てきたブレンダンを拾っておきたいと思います。『フィネガン』第三巻第三章は、作品として刊行する前にジョイスが Haveth Childers Everywhere というタイトルで発表していたもの。これは H.C.E. の「声」が、霊的手段でもって「市長 ( p.285 以降 ) 」だったときの自分の功績についてくどくど長広告というか「言い訳」しているくだりで終わっている章なんですが、ここになんと二回も出てくる ( アー然 ! すんませんヤナセ語化してしまいました ) 。「ハイブラジル・ブレンダン延期電」と「リスモアからケープブレンダンまで」。前者の原文は 'High Brazil Brandan's Deferred, midden Erse clare language, Noughtnoughtnought nein.' で、下線部はたぶん Hy-Brasil をもじったんでしょう ( 「イー・ブラジル」についてはこちらの拙記事の末尾参照 )。後者のほうは、ひょっとしたら博覧強記のジョイスのこと、『リズモアの書』に収められた『聖ブレンダン伝』が念頭にあったのかもしれない … とこれはなんの根拠もない個人的妄想。ここの箇所の原文は、'It would be the finest boulevard billy for a mile in every direction, from Lismore to Cape Brendan, Patrick's, if they took the bint out of the mittle of it.' その前の章のショーンの独白にも一回、「ブレンダンのマントルがケリーブラシリア海を白く染め … 火と劔を運ぶ破約の地から … 」というふうに出てくる ( 原文は 'from the land of breach
of promise with Brendan's mantle whitening the Kerribrasilian sea ...' )。

2012年09月23日

『西方風の語り ―― ヒスペリカ・ファミナ』

 ここでもたびたび言及してきた『西方風の語り ( Hisperica Famina )』なるもの。松岡先生の『アイルランドの文学精神』を読んではじめてその名を知り、いったいどんなものだろうと思いつつ時は過ぎ、キャンベル本で見かけたジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』引用文がきっかけで図書館で借りたヤナセ語訳文庫本を読んですっかり『フィネガン』にハマり、芋づる式にますます『西方風の語り』そのものにも興味をもつようになりました。というわけで、最近は暇ができるとせっせと Web の海を航海、じゃなくて検索しては情報や資料になりそうなものを渉猟して過ごしてました。

 で、だいたいどんな作品なのか、おぼろげながら全体像が見えてきた。以下は一門外漢による report in progress, 中間報告的な備忘録。

1). 当初、『西方風の語り』こそ、『フィネガン』の先駆ではないか、と思っていたけれど、内容的には徹底的な諷刺が散りばめられている『マッコングリニの夢想 ( 成立時期は 11 - 12 世紀 )』のほうがより『フィネガン』に近いかも。でも「かばん語」やら新語 ( ? ) やらを武器に、「当世風」とされていたローマのラテン語語り ( アウソニア風という言い回しを使っている ) のもつ歯切れの悪さや華美で婉曲な言い方を攻撃するという趣旨の話 ( 話というより、いくつかの韻文が不完全なかたちで残されたもの ) であり、ヘブライ語やアラビア語起源のことばがむりやり ( ? ) ラテン語化されて出てくるところなどはどこか『フィネガン』を生んだジョイスとも通底するのではないか、ある意味通奏低音となって現代の「英語で書かれた」アイルランド文学にも響いているのではないか、という印象はやはりあります。

2). 筋立ては、いまふうに言えば「ことばのレスリング」みたいな話。あるときアイルランドの修道院にやってきた流暢な「アウソニアの語り」を口にする賢者一団と、それを追っかけて鼻にかけている若者。その集団に対抗せんとして、こちらもまだ年若い学僧もしくはその見習いが「西の語り」、つまりヒベルノ ( 島嶼 ) ラテン語で応戦して、高慢ちきな相手のハナをへし折ってやろうとする。そうして作った謎めいた韻文がいくつか収録されている、そんな内容だと言っておきます … まだ手許の資料すべてに目を通していないから、この記事は今後しばらくは改訂する予定。一説ではこれのほんとうの原作はスペイン人修道士が書いたもので、のちにアイルランドに「留学」していた修道士ないしは写字生 ( 学僧 ) が翻案したものが現在残っている文書、だという。テクストは A から D まで 4つの稿本があるらしい。成立年代は思いのほか古くて、650 - 667 年ころで、これはちょうど『ダロウの書』が制作されたのと同時期、ということになる。中世に大学ができる前のお話とはいえ、なんとなく「カルミナ・ブラーナ」に出てくる「放浪学生」を彷彿とさせる感じ。

3). とりあえずの底本として、リヴァプール大学の H.A. ストロングという先生が 1905 年に発表した考察および冒頭部分の英訳と、1917 年に米国人言語学者レオ・ウィーナーの著作から引いた「A-テクスト」をベースに拙訳を起こしてみました。… とはいえこれが苦労の連続。なにしろ「A-テクスト冒頭は底本にあまり手が入れられた痕跡がなく、したがってあとにつづく韻文詩にくらべれば翻訳もさほど困難ではない」なんてウィーナー先生はご本にて書かれていらっしゃるけれども、たったふたつの英訳 ―― ともにほぼ百年前の ―― を読み較べるとなんかこう、いささか収まりの悪い食いちがいが目につき、ええいままよと無謀なのを百も承知のうえ、自分でもヒベルノラテンで書かれた原文に当たるしかなくなった。図書館にて『羅和辞典』なんかを引きまくり、それでも不明な箇所は頼りにしている Web 上のラテン語辞書サイトに当たったり、Wiktionary などほかのサイトにもお伺いを立てたり … なので叩き台にもならないような拙い仕上がりではあるけれど、きょくりょく「校合」したつもりの訳を以下に ( ワタシの頭には、「『フィネガンズ・ウェイク』には、ほぼ七十に近い言語が用いられている。だからといって数十か国語を習得しなければ読めないのではない。… 凡人が『フィネガンズ・ウェイク』を読もうとすると、いかに外国語を知らないかを知る。いかに外国語に通じていないかを知る。そこで辞書だ。凡人には辞書がある」というヤナセ先生のことばが響いていた ) 。試訳は、ll. 1 - 86 まで。
おおいなる歓喜が、わが胸の洞に火をつける。われはわが肺からあらゆる悲しみを蹴散らし、いっぽうで歓喜の血潮も抑えこむ。われは見た、高名なる知識の求道者、貴 ( あて ) なる都市の風を味わう者、毒に満ちし語りの論法を編み出す人々を。かように華やいだ修辞の使い手集団、この先三方に広がる土地のいずこへと向かうというのか ? 荒涼たる地の果て、寂寥とした道を捨てしこれら修辞の名手たちとは、そは何者か ? 語りという彼らの富を差し出すものか ? それともこの若い門人のあいだで死をも厭わぬ論争を引き起こすのだろうか、そうではなく和平の笏を甘受するものか ? 情け知らずの戦士の一団は一にも二にも、激しい戦いの最前線に馳せ参じ、白い服を紅の血筋で染めるものであろう ? この憔悴した漕ぎ手たちは、泡立ち咆哮する大浪に打ちのめされた難船者か ? それとももっとありふれた災厄に見舞われ、非業の死によって隣人を失った人々か ? いったいいかなるご高説をのたまわすというのか ? どの修辞家に従えと ? われは修辞学上の決闘を挑まん、知の格闘技に熱中する諸君を統べる強者に。以前、われは一度に三人と相手して打ち負かした ―― 意気地なしに雄々しい同朋、そして力に勝る巨人をも捩じ伏せた。それゆえわれは並の対抗者とは勝負せず。彼らの矢が猛然とわが身に降りかかったとき、われはすぐさま剣を抜き、自惚れの人台を叩き斬る。われは木の円盾かざして四肢を覆う。鉄の刃を振りかざし、その毒が、ひょろ長い口からでまかせ君を切り捨てよう。われは一度の格闘にて同輩たちを打ちのめさん。

この華麗なる話法は輝き、いかなる毒も盛らず。絶妙なる均衡と落ち着きを払った、その無難な立ち居振る舞い。歌うような、甘美なるアウソニアの語りで満たされし喉よ。それは蜜蜂の大群が巣穴を行きつ戻りつ流れる蜜を吸い、口吻で住処を整えるのが習いのごとし。かくして輝かしいことばの射手 * の御歴々、ここに集わん。これほどの一団は過去に現れたことはなく、かつこれからも人の世でかようにこれ見よがしの賑々しい集団というものは決してお目にはかかるまい。だが注意せよ、諸君の足許には諸君のことばが通じない蛇がいて、諸君めがけて毒矢を放つだろう ―― 百花のごとき諸君がこれら蛇の危害から救ってくださるようにと、果てしなき天の玉座の支配者に懇願しないかぎりは。われはこの現し世にて、西方の地を支配する王笏を得ん。ゆえにわが唇から這い出るのは、粗野かつ卑俗な語り。もし永らくイタリア語りの軛に繋ぎ留められていたなら、われもまた朗々たる語りの奔流がわが口をつき、都会風の洒落ことばがただちに迸りでるはずである。 ―― 君はいったいどんなお楽しみを目論んでいるのかね ? 母なる樫の木を斧で切り倒し、教会の箱型お堂に葺く厚板にでもするのかね。それとも純金を炎吹き出す炉にくべ、鎚でしたたか打って三日月飾りでもこさえる気かね ? それとも弦を掻き鳴らしては誉め歌を呼び起こすのかね ? それともドクゼリの虚ろな茎を心地よき調べで満たすのかね ? 

しかしわれは透徹した眼差しで見抜いている、君の目に映じているのは、芳香に満ちた牧草地を逍遥する綿羊の群れにすぎないことを。** 君がひたすら無駄骨折ってつき従うはことばの射手たち。双肩に緋色の箙を携え、白い肢体には白い外套をかけ、身体にぴたり合った白い服をまとっている君。君が耳傾けているのはそは深遠なる学問的語りではない、君は、一介の教師集団をただいたずらに追っているだけなのだ。ここで君にわが彗眼を披露しよう、平衡のとれしわが思考を。それは故郷の君の土地のこと。君はそこで田舎の楽しみに興じてきた。羊の囲いはみな湧き出る温水の泉の傍に立つ。*** 君の牛はいずれも伸び放題の草を食み、君の年老いし母は涙で頬を濡らす。君の子どもたちは泣き、その声は花咲く野にくぐもったこだまとなって響いている。君の奥方は見知らぬ男と楽しき床入りを祝っている。これらすべてが君に告ぐ、ただちに故郷 ( くに ) へ帰れ、と。

* … H.A. ストロング英訳版では ‘arcatorum’ を ’closet [philosophers]’ と解釈している。「( 引き篭もりの ) 穴熊賢者」? 
** … 「だがわれは不審の眼差しで待つ。なぜなら君が見るのは … ( L. ウィーナー英訳版 ) 」。なおストロングは ‘curv[/u]anam’ を「日除け」と解している。
*** … 「羊の囲いはみな扉が開いたままである ( L. ウィーナー英訳版 ) 」。


1. H.A.Strong, “Note on the Hisperica Famina”, The American Journal of Philology, Vol. 26, No. 2, 1905, pp. 204-212.

2. Leo Wiener, Contributions Toward a History of Arabico - Gothic Culture Volume I, 1917, pp. 74 - 94.

3. The Hisperica famina, edited with a short introduction and index verborum by Francis John Henry Jenkinson; with three facsimile plates. Published 1908 by The University Press in Cambridge [Eng.] .

4). そういえば『西方風の語り』の最新の校訂本は、四半世紀も前に書かれたこれみたいですが、あいにく日本 Amazon にはなし。某女子大の図書館に一冊、納本してあるという情報は得たものの、「紹介状がないとダメ」とか。… 以前、オ・キーヴァン先生が学生時代に友だちだったという日本人はどうしているか、ついででいいから調べてくれないか、との依頼を受けたとき、上智の「聖三木図書館」に行けばカトリック関連でなんか引っかかるかな、と思ってのこのこ出かけたことがある。「学食 ( !! ) 」を突っ切って行ったときの恥ずかしさと言ったらなかったけれども、とにかく図書館利用のさい紹介状なるものは要求されなかった。大学によりけりなのかな ? 

 … ジョイスの『フィネガン』、ついに巻その三に突入。のっけから「聞け! … 聆け ! 」と書簡運搬人ショーンに呼ばわる物見の声 ( ? ) ではじまっている。「西の語り」をもって「自分の実力はこんなにも高い ! 認めてくれ ! 」みたいに絶叫する作者の若い学僧とが重なってくるようだった。

2012年07月22日

いまごろになって「天下の奇書」と出会うとは

1). 以前、こんな記事を書いたことがあったけれども、とうとう見つかったようですね、「ヒッグス場 ( こっちの言い方のほうが正しいらしい )」。いろいろ見聞するに、やっぱり昔の人って「当時なりのやり方で」この世界、ひいてはすべての存在の根源たる宇宙というものを意識し、理解しようとつとめていたんだなあ、とつくづく感じます。当たり前のように聞こえるかもしれないが、世界各地の創世神話って、たいてい「混沌」からはじまり、秩序あるこの世界、時間に縛られたこの世界というものが「神」によってこさえられたとかって、出だしですよね。アイルランドの場合、そもそもの世界の成り立ちを語る創世神話はないみたいですが、たとえばわが国の『古事記』なんかを見ますと、

 ―― 夫 ( そ ) れ混元既に凝りて、気象未だ効 ( あらは ) れず。名も無く為 ( わざ ) も無し。誰か其の形を知らむ。

とか書いてある。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」は、「創世記(1:1-2)」。キャンベルの『神話の力』には、アリゾナの原住民ピマ族の神話と『ウパニシャッド』からこんな引用が出てきます。「初めに、至るところに闇だけがあった ―― 闇と水だけが。やがて闇がところどころで固まり、厚くなった。集まっては別れ、また集まっては別れ …… 」。… 「初めに、大いなる自我だけがあり、それがひとりの人間の形として映っていた。映っているそれが見いだすものはそれ自身でしかなかった。そして、その最初の言葉は『これは私だ』であった」。… キャンベル先生の好きな ( ? ) グノーシス派の『ナグ・ハマディ』には、こんな文書も収められている。

 「… 私はそれらの ( 文字を ) 、肉なるものの創造に役立てるために与えたのである。なぜなら、その者なしでは何物も存在できず、そのアイオーンが生きることもできないからである」―― 「われらの大いなる力の概念」から。引用出典は岩波書店刊行の『ナグ・ハマディ』叢書最新刊から(p.114)。

 そういえばこんな画像も見かけた。その伝でいけば、さながらヒッグス粒子は「これはわたしだ」と言った大いなる極小の自我だ、というふうにも言えるかも。ついでにグノーシス関連で調べ物をしていたら、いつのまに岩波書店は『ナグ・ハマディ』叢書の最新刊としてチャコス写本の「ユダ福音書」邦訳を出したんだろうか。図書館で見つけてびっくらこいた ( 上記引用した本です ) 。ついでに 'MASS' は、「質量」と「ミサ」を引っかけている、なんていうのは不要な説明かもしれないが。

2). 最近、空いた時間を「翻訳演習」と称して比較神話学者ジョーゼフ・キャンベルのさまざまな著作から適当に拾いあげて ( FB のフィードや手許の本から ) 、気に入った部分を我流に試訳をつけたりして過ごしてます ―― へたくそなバッハの練習もどきみたいなものも織り交ぜながら ( 最近は暑いしくたびれるので、こっちのほうはあんまりやってない ) 。既訳本が手許にあれば、自分の学習のため、そちらも書き写してます。なんでそんなことやってんの ? と言われても、やってる当人にもよくわかんないです ( 苦笑 ) 。「写経」みたいなもんですかね。

 しばらく前より、手許にあるキャンベルの『神の仮面 第 3 巻 西洋神話』コピーから、アイルランド関連のページとか読んでまして、ついでに著者による「あとがき」も読んでいたら、あにはからんや、あの天下の奇書、ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の引用で締めくくられていた ('utterly impossible as ...' ではじまる最初のパラグラフ最後の文)。

 … うむむ。なんなんだ、この呪文みたいなのは ?? というわけで、手っ取り早くいま借りている本を返しに図書館に行ったついでに、日本語版『フィネガン I 』を借りてきてしまいました。とりあえずパラパラ繰ったら … !!!!! これ、すごすぎです。キャンベルは若かったとき、『「フィネガンズ・ウェイク」を読み解く親鍵』といういまだに利用されつづけている解読本みたいなものを出版していますが、いやあ、ヤナセ訳はぶっとびですね。なんと注釈はひとつもなし ! これならなんとか「20 世紀文学の最高傑作」に数えられるこの奇天烈な物語を解読、いや快読 ( ? ) できそうな気がしてきた。

 机上のノートPC の両脇にはいま読んでる本とか積んであるんですが、そんな一冊がその柳瀬先生のものされた『辞書はジョイスフル』という本。1994 年刊行というから、奇しくもキャンベルとモイヤーズの対談を NHK 教育の「海外ドキュメンタリー」にて視聴し、はげしい衝撃を受けたころに買った一冊ということになる。まだ Windows 95 も Web も Google 先生もなかったころ (当時出たばかりの『リーダーズ』電子辞書版は万札はたいて買っていたけど)、たったひとりで『フィネガン』を邦訳しようと愛猫とともに「航海」に乗り出した柳瀬先生。『聖ブレンダンの航海』みたいに 7 年半かかってフランス革命の記念日に脱稿したというのだから、ご友人の清水ミチコさんの言い方を借りれば「世界初の活字芸人」による、まさしく「偉業」です。

 いま、ひさしぶりに『辞書は … 』を読んでみると、おもしろい話がそれこそ本からあふれ出そうなくらいのてんこ盛りで、内容的にはちっとも古くなってない。たいてい名翻訳家というのは、偏執的なまでに辞書好き、辞書オタク、ギークなんである。柳瀬先生は当時出たばかりの CD-ROM 版『広辞苑』をワープロに入れて使用していたらしい。多種多様な言語がごった混ぜになっている『フィネガン』の翻訳に、なんと日本語の持つ多種多様な「表意」を「視覚的に」見せようとする斬新な発想による前代未聞の技法を編み出して個人全訳を成し遂げています。↓ は、その冒頭部のヤナセ訳。

川走 ( せんそう )、イヴとアダム礼拝亭を過ぎ、く寝る岸辺から輪ん曲する湾へ、今も度失せぬ巡り道を媚行し、巡り戻るは栄地四囲委蛇 ( H.C.E. ) たるホウス城とその周円。

原文: riverrun, past Eve and Adam's, from swerve of shore to bend of bay, brings us by a commodius vicus of recirculation back to Howth Castle and Environs.

[ 注:冒頭の riverrun は誤植ではない。思うに、「ゴルトベルク」とおなじく、「ずーっとひとすじにおわりのいとしいえんえん」で終わる巻末から、またひっくり返ってもどること、円環を暗示しているのではないか ? とこれはワタシの妄想 ]

ありがたいことにこのヤナセ訳、原本のノンブルまでご丁寧についてまして、問題の箇所がすぐわかった。そしてこれは前にも書いたことだけど、アイルランド人の体にはこういう血が流れているのだろうか。中世アイルランドの生み出したトンデモ物語としてたとえば『マッコングリニの夢想』などがありますが、ジョイスの『フィネガン』は、さながら中世のパロディ『西方風の語り ( Hisperica Famina ) 』の 20 世紀版といったところだろうか。英語力にとりわけ自信のある方はとくに、 ↑ でリンクした箇所とか、読んでみてください。一読しただけで、もともと英語という言語の持っている「可塑性」に加え、ジョイスの地元アイルランド・ゲールはおろか、印欧諸語族はじめ、トルコ語や、なんと日本語の「武士 ( !!! ) 」まで英語化して溶かしこんでいる。柳瀬先生言うところの「ジョイス語」、造語のたぐいもすごいが、こうした多義的な「かばん語 ( portmanteau words ) 」の大洪水です ( Hispericaじたいが、「ヘスペリデス」と「ヒベルニア」を引っかけた当時のかばん語だという ) 。そういえば『神話の力』には『親鍵』について、キャンベルがあとで知ったという、この作品にこめたジョイスの真意が明かされている箇所がありますが、まさしく全人類の歴史が一夜の悪夢として凝縮されている、そんなとてつもない作品です。そして、ここがいちばん肝腎なところだが、ヤナセ訳は読んですこぶるおもしろいです。

 アイルランド・スコットランド関連だけでもかばん語化した箇所はそれこそ引きも切らず。「ブレナン峠」なんていうのまで出てきます ( おそらく聖ブレンダンにちなんだ地名として ) 。ほかにも「フォ猛烈 ( モーレつ ) どもがツアー歯・デ・ダーナンを砕き、… 蹴ヴィンと天上へ投げ上げ、… 」、「ギャローうぇーっと侃々諤愕」、「同ルイッド同志」や「フィ似アン同志」とか、「愛和ランド」、「燃エール本海」、「ブラン、ブラン、カンブラン ! 」以下省略 … 。

 柳瀬先生は、『辞書は … 』の「まえがき」で、こんなふうに書いてます。
 
まず、おそろしくものを知らない。だから、しょっちゅう辞書を引く。
 そして、翻訳という仕事をやっていると、しょっちゅう知らないことに出くわす。だから辞書を引く。
 … とりわけ七年半の時間とエネルギーをつぎこんだジェイムズ・ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』の全訳作業中は、連日連夜、寝ても醒めても、言葉を探しに探さねばならなかった。だから辞書を引きに引いた。

 この本には柳瀬先生のインタヴュー記事の切り抜きも差しこんであって、そっちは 1996 年のもの。「現代に問う『ユリシーズ』」という見出しで、12 章に出てくる謎の語り手が『オデュッセイア』にも出てくる「犬」であることを突き止めた話とかが載ってました。で、翻訳について、こんなことを語っています。
 「注釈本の翻訳を並べるなら、それはもう翻訳ではないんですね。翻訳というのは、注釈を参照しながら、批判を加える往復運動。注釈を取捨選択し、自分の読みを確認しながら、注釈をなんらかのかたちで日本語に反映させたり、溶かし込む、という方法を僕は取っているつもりです」。

 実例として、Throwaway のことば遊びを引きあいに出しています。競馬新聞を「うっちゃる」動詞の throw away と、馬名の Throwaway 。ヤナセ訳ではそれぞれ「もういらない」、「モイラナイン」に置き換えている。これについては、
 「そこは、そう変えなければ生きのいい会話がどうしても出てこない。そういう構造や、仕組み、トリックなりが翻訳できないようであれば翻訳ではないんですね」。

 ヤナセ訳で『フィネガン』を読んでいると、なんというか、心地よいリズムが感じられます。字面の見かけは英語ながら、そのじつ重層的な意味ないしは多国語も響いてくるというわけで、音楽でいえば英国のトマス・タリスの「 40 声のモテット」みたいな、「ことばの織りなすポリフォニー」のような作品じゃないかと思えてきます。そういえばジョイスという人は、じつはピアノも玄人はだしだったらしい。

 柳瀬先生の不断の、ふだんの努力もさることながら、これぞキャンベルの言う「至福を追い求めよ」の典型的な一例、と言えるのかもしれない。

2012年05月20日

同一人物だった orz

1). いま、「気まクラ」改め「きらクラ ! 」を「らじる」にて聴きながら書いてます。自分のことをタナに上げて人さまのことを言えた義理ではないが、そうそう、前回放送分を聴かれた方はご存知かと思いますが、つい、「バッハのメヌエット … 」と口を滑らせてしまったチェリストの遠藤真理さん。当方もそのときすかさず「え ? ボッケリーニじゃ … 」と思ったんですが ( しっかり聴いてはいなかった人 ) 、そのうち忘れた ( 笑 ) 。で、いまちょうど、そのことを指摘するリスナーのお便りが紹介されてました。たしかいまをときめく若きピアニスト牛田智大くんが、たった 2 歳で両手で弾いてしまったとかいう作品がこれではなかったかな。でもあいにくこの「メヌエット」はバッハの真筆にあらず、クリスティアン・ペツォルト氏の作品なり ( → 関連拙記事 ) 。

2). ここからが本題。前回記事で、「フィオナン・カムはディングル半島のローカルな聖人か ? 」と書きました。もしや、と思ってアードファート教区司祭だったオダナヒュー師の Lives and Legends of Saint Brendan the Voyager のページを繰ったら、あった。… フタを開けてみればなんだ、なんですが、この人は『リズモアの書』所収の『聖ブレンダン伝』に出てくるフィナン・カムその人でした。orz 綴りが一字、異なっただけだったのに、そのことにまったく気づかずにいた。そしてこの部分、本家サイトでも「少年時代のブレンダン」としてしっかり書いてあった。情けない、書いた本人が完全にこの人のこと忘れているという、ていたらくぶり。

 … とはいえ、「この日からブレナンの顔には神々しい輝きが満ちあふれ、その眩しさゆえに少年の顔を見られるのはフィナン・カム以外、だれもいなくなった」という一文だけじゃ、印象には残らない ( 苦笑 ) 。ちなみに原文はファダなしの Brenainn だったので、「ブレナン」としています ( オショーバン博士の論考の表記は Bréanainn で、本来はこちらのほうが正式らしい。ちなみに『リーダーズ・プラス』はさすがというべきか、ちゃんとアイルランドゲール語表記名 Brenainn [ ただし読みは「ブレニン」としている ]も収録している。さらについでに昔、NHK 教育でやっていた「幻の民 ケルト人」では、『聖ブレンドンの航海』と訳されていた ) 。

 というわけで、オダナヒュー本の、フィナン・カムに関する注釈を読んでみました。それによると聖フィナン・カムは 6 世紀前半、ディングル半島に住むキリスト教徒の両親のもとに生まれ、ほどなくしてブランドン山西麓にあるブレンダン建立の修道院に預けられ、師匠ブレンダンの弟子となり、後年、和風に言えば「衣鉢を継いだ」修道院を建てるよう師匠に言われたんだとか。オダナヒュー師は「おそらく」と条件つきながら、フィナン・カムをブレンダンの親戚筋の人だとしている。Finan ( Fíonán ) という名前の聖人は「『癩病者』聖フィナン」と「レイン湖の聖フィナン」、そしてエイダンの後を継いでリンディスファーン修道院長となったフィナンも含めてなんと 11 人 ( !! ) もいて、とくに「癩病者」と「レイン湖」のフィナンとブレンダンつながりのフィナン・カムはたがいの祝日がごっちゃに混同していることなども書いてありました ( さすがにその件についてここで書き出すのはいいかげん煩雑になるので、全省略 ) 。レイン湖というのは、キラーニー湖沼群のひとつでラテン語版『航海』冒頭で言及される、マンスターの覇権王族オーガナハト・ロッカ・レインの本拠地だったところ。ちなみに 812 年にノースメンがアイルランド南部のマンスターに侵入したとき、当時のオーガナハト族の王が撃破したことがある。話もどってフィナン・カムですが、現在のオファリー州 Kinnitty ( 異綴りあり、オファリー州は「バーの聖ブレンダン」のいたバーの所在地で、アイルランドのちょうど真ん中へんにある ) に修道院を建て、またキラーニー湖沼群に浮かぶ島イニッシュファレンにも修道院を建て、たびたび故郷ディングルに帰っていたという。

 ところで … いまさっき自分の「Google ドキュメント」を見たら、「Google ドキュメントは間もなく Google ドライブにアップグレードされます。Google ドライブをファイルの新しい保管場所としてご利用ください」…。「Google ノートブック」→ いま「Google ドキュメント」となかば強引に移行させられた人としては、「こちとらのあずかり知らぬところでそんなこと勝手に決められちゃ、困る」としか言いようがない。

 … とそんな折も折、こんどは 20 世紀最高のバリトン歌手ディートリヒ・フィッシャー-ディースカウ氏が逝去されたとの報が。… ホイットニー・ヒューストン、ドナ・サマー、クラシックでは別宮貞雄氏や玉木宏氏、グスタフ・レオンハルト氏に名トランペット奏者モーリス・アンドレ氏など、今年は著名な音楽家・演奏家の訃報がやけに多いような気がします … ディースカウ氏はドイツ・リートの名演が有名ですが、個人的にはバッハの受難曲などの録音の仕事も忘れてはいけないと思う。合掌。

2012年05月16日

出航の地はディングル半島ではなくて、もっと北 ?! 

 今日は「聖ブレンダンの祝日」。昨年はいろいろあって、正直、どうなることかとおおいに不安だったのですが、気がつけばもう一年が経過していた。ぶじでいられるというのは、ほんとうにありがたいかぎりです。そういえば今月 29 日は、忘れもしないあの故グスタフ・レオンハルト氏の文字どおり最後の来日公演、それも大好きなオルガンのリサイタルを聴いてからはや一年でもあるので、レオンハルト氏を偲んでまたいろいろ音源を聴いてみたいと考えてます。

 前にも書いたけれども、当方が勝手に本家サイト特別顧問にさせていただいているアイルランド・ケリー州トラリー在住の古地名学の権威、Breandán Ó Cíobháin 博士。いま博士は昨年の調査航海の補完のため、アイスランドを再訪する予定でいるらしいのですが、そういえば昨年、博士からいただいた貴重かつたいへん興味深い資料について、ここでなにも書かなかったことに思い至り、ブレンダン関係のことに絞ってここですこしご紹介しよう、と思い立ちました。いつも思いつきで書いてしまって、まことに申し訳アリマセン ( あんまり計画性のない人 ) 。m(_ _)m

 昨年の調査航海の概要についてはDingle News関連記事ページ下に PDF ファイルのダウンロードリンクがあるので、そちらをご参照ください。そして自分の手許の資料はいまひとつありまして、それはディングル半島とその南隣に突き出すイヴェラ半島における、船乗り聖人に由来する古い地名についての考察です ( 文書名は 'Ecclesiastical Structures of the Early Christian Period in Corca Dhubhne, Co. Kerry' ) 。そこで博士が指摘しているのは、たとえばディングル半島およびイヴェラ半島に残る初期キリスト教時代の遺構に見られる特徴はよく似ており、おなじような遺構が北西海岸のゴールウェイ、メイヨー州にも見られること、またこの時代の西海岸特有の記号文字オガムについては、アイルランド南東部カーロウ / キルデア以外では 'MARIANI', 'VITALIN' といった人名が記録された唯一の例がディングル半島に残っており、「長老 ( presbyter ) 」を示す 'QRIMITIR' なる肩書きを記したオガム文字はアイルランドの他の地域にはなく、この地域でしか発見されていないこと、ディングル半島西部の教会跡に残る後期オガム文字にはラテン文字の使用が見られることなど、はじめて知ることばかりでアタマは刺激されっぱなし。コーゲド ( cóiced, 「5分の1」の意 ) と呼ばれる、古くからの領地区分でのマンスター地方の守護聖人はラテン語版『航海』にも登場する聖エルベ ( アイルベウス ) だけれども、ディングル半島の守護聖人がフィオナン・カムなる人だということもはじめて知った。こっちはだれだろ、と思ってオンライン版 Catholic Encyclopedia にあたってはみたものの、項目はなし。ローカルな聖人、ということかな。こちらの解説ページによると、修道院創設期の紀元 5−6 世紀の人みたいですが。

 というわけで、ブレンダン関係の古地名について、かんたんに書きだしてみます。

1). 元来ケリー州中央部に拠点をおいていたキアリー・ルアフラ氏族は、8 世紀が終わるまでに、北部にいたアルトリー・カイル族を吸収し、アルトリー族の守護聖人だったブレーナン [ 原文はアイルランドゲール語表記 ] をそれまで彼らの守護聖人だった Carthach / Mochuda に代えて祭るようになった。これら 3 名の守護聖人について注目すべきは、彼らの創設した主要な修道院共同体はいずれも故郷マンスター西部 ( Iarmhumha ) ではなく他の地域にあり、彼らに対する崇拝はマンスターでは下火になっていった。アードファートは、マンスター西部地域に残るブレーナンが創設した唯一の共同体である。近隣のブランドンウェル ( アイルランド語名 Muileann Bhréanainn ) および 15 km 南東に位置する Uaimh Bhréanainn は、ディングル半島外の、マンスター西部に現存する数少ないブレーナンに捧げられた地名である。

2). 11 世紀までキアリー族の支配階級だった Uí Fhearba 一族の封土 ( 現在のブランドン山東麓一帯、ブレンダン生誕の地とも言われるフェニト、その東隣のトラリー市にも近い ) では、ブレーナンに由来する地名はいよいよ少なくなり、唯一「ブレーナンの泉 ( Tobar Bréanainn ) 」と 「ブランドン山 ( Cnoc Bréanainn ) 」のふたつの地名によってのみ記念されている。後者はラテン語版『聖ブレンダン伝』では「ブレンダンの野 ( Saltus Brandani ) 」、『航海』では「ブレンダンの座 ( Sedes Brandani ) 」とされ、ブレーナン出航の地と云われている。… ‘Cnoc Bréanainn’ という地名は、12 世紀後半になってはじめて登場する。いっぽうで『ブレンダン伝』と『航海』は 8 世紀ごろから大陸においてテキストが発展していることから、この呼称が故郷の地で最初に使用されはじめたのは 12 世紀になってからかもしれない。ブランドン山の西側に、ブレーナンに捧げられた泉が 5 つあることは、ノルマン人入植者のあいだでブレーナン信仰が高まった結果と言えるかもしれない。このブランドン山麓地域では彼は守護聖人であり、年1回の巡礼登山が何世紀にもわたって行われてきた。それどころか、12 世紀には北部地域における『聖パトリックの煉獄』に相当する、『聖ブレンダンの煉獄』に言及した文書まである。

『聖ブレンダンの煉獄』!! いったいなんぞや、それ ?!! これはちょっと調べてみる必要があるかも。

 さてここで昨年の調査航海の文書にもどると、個人的にはひじょうに気になる内容が書いてあります ( 下線強調部 ) 。↓

1). ブレンダンは現在のケリー州トラリー地域に居住していたアルトリー・カイル族の出身。彼の創設した主要な修道院共同体は現在のゴールウェイ州南西部に位置するクロンファートであり、小規模な修道院がコナハト州北西部にいくつかある。

2). 見過ごされがちな事実だが、ラテン語版『聖ブレンダンの航海』に代表される「航海物語」は、すでに 7 世紀後半に編纂されたアドムナーンの『聖コルンバ伝』に「コルマックの航海」としてその原型的な挿話のかたちで現れている。

3). 奇妙なことに、ラテン語版『航海』では元来北西部ドニゴール州にある「石の山 ( スリーヴ・リーグ ) 」だったブレンダン出航の地が、スリーヴ・リーグからクレア州北西海岸、そしてケリー州ディングル半島の「ブランドン山」山麓直下へと遷移してきた。これが示唆するのは、キアリー・ルアフラ氏族がブレンダンを一族の守護聖人に据えたことなど、当地でのブレンダン信仰が 11 世紀ごろまで拡大していったということなのかもしれない。

4). イヴェラ半島沖のヴァレンシア ( アイルランドゲール語では「オークの茂る地」を意味するダルリイ Dairbhre ) 島には、「ブレンダンの祠の泉 ( ‘Tobar Ula Bhréanainn’ ) 」という地名が残っている ( イヴェラ半島の現地語名は Uíbh Ráthach [ おそらくウィベ・ラータハ ]で、英語名はこの発音が転訛したもの ) 。

下線部で博士が指摘しているのは、おそらく『聖ブレンダン伝』に見られる記述を根拠にしているんだと思う。でも「クレア州」というのは … よくわかんないから、ご本人に直接訊いてみないとわからない。前にも書いたけれども、成立年代はおそらく『ブレンダン伝』のほうが先。『航海』の 3 章に出てくる、「出航 → 聖エンダのアラン島訪問 → ブランドン山麓の狭い入江にもどって舟の建造 → また出航」なんて奇妙なルートはどう考えても「もともとふたつの航海だったものをひとつにまとめた」とか、原典を改変したものと考えられます。ちなみに『ブレンダン伝』の該当箇所は、『リズモアの書』所収の版ではつぎのようになってます。「そこで、ブレンダンはコナハトの地へ行き、すばらしい大きな船を造りました。それは立派で巨大でした。彼はその船に一行と一族を乗せて、いろいろな植物と種も積み込みました ( 松岡利次編訳『ケルトの聖書物語』 p.133 ) 」。蛇足ながら本家サイトですが、先日、めでたく ( ? ) カウンターが 2 万ヒットを超えました。先週末自分がリンク先修正のために踏んだら、ちょうど20,100 でした。非常時に備え、どこか避難先 ( ミラーサイト ) をもっか探索中。

 最後に、こちらの動画をどうぞ。



2012年01月03日

『カンブレの説教』

 本題に入る前に … 元日恒例の「ウィーン・フィル ニューイヤーコンサート」。あっちこっち詰めこみ ( ? ) 読書のしすぎのせいか、やや睡眠不足状態でぼーっと見入っていたら、「ウィーン少 ( WSK ) 」のめんめんが金色に輝くオルガンバルコニーに参集しはじめているではないか ?! 録画、録画 (笑)! … とあせって録画機の電源を入れたりして ( 起動、遅ッ! ) … 。WSK は前半と後半でそれぞれ 1 回ずつ登場しましたが、「ニューイヤーコンサート」出演はなんと 14 年ぶりだそうで … それはそうと、団員は前回出演時みたいにお客さんに花を配ったりしたのかな? 歌っていたのは、どこのコアかな … ? それから大晦日の朝に放送していた、スペインの大作曲家ビクトリアの声楽曲がたくさんかかった NHK-FM の特番も最高 ! でした。ダ・ペラザとかナザレとか聞いたことのない作曲家のオルガン曲とかもかかりまして、大満足 ( 演奏者はパワー・ビッグズ ) 。ウェストミンスター大聖堂聖歌隊の清らかそのものの歌声もすばらしかった。

 … 「積ん読」の本を読み進めることが正月三が日定番の行事みたいになりつつありますが、ひさしぶりにブレンダン関連本を見ているうちに、ふと本家サイトでもほんのすこしだけ触れた『カンブレの説教』というものが妙に気になってしまって、手っ取り早くこちらの記事を見ました。以下、備忘録ていどにメモしておきます。

 ラテン語版『聖ブレンダンの航海』 17 章で、ブレンダン一行は「聖歌隊の島」に上陸します。島の聖歌隊は少年、青年、老年組と三つのグループに分かれていて、少年組は白、青年組は青、老年組は赤の服をそれぞれまとっていた、とあります( → 関連拙記事 ) 。

 白、青、赤 … 子ども隊が白、若者隊が青、というのはすんなりわかる。純真無垢とか若さとか。で、老年組の赤は、拙記事にも書いたように高位聖職者というか教会の位階を示唆する色、という印象をまず受けます。でも『航海』邦訳者の太古先生が指摘するように、『カンブレの説教』に出てくるおなじ白、青、赤の三色の喩えもからんでいる … かもしれない。

 『カンブレの説教』は古アイルランドゲール語で書かれた最古の説教文書と言われているもので、成立年代は 7 − 8 世紀ごろ。カンブレというのはフランスのカンブレ市のことで、8 世紀、カール大帝の時代に当地の司教に仕えていた写字生によって筆写された写本が原典らしい。リンク先記事 ( 出典や引用元の記述もしっかりしているので、信頼性は高いと思う ) によると教父文書や聖書の引用はラテン語、注解はアイルランド語で書かれてあるらしい。ただし一部の単語にはファダなどの長母音記号がなく、おなじ母音を連続して綴るなどの特徴があるとか。内容は、「わたしについて来たい者は自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従え」というマタイ伝など聖書からの引用句を提示したあとで注釈、つまり「説教」を述べる、という構造になってますが、不完全なかたちで終わってます。最後に、アイルランド修道院文学関連本でときおり引用される「三つの殉教」についての説教が出てきます。

 「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました ( 『新共同訳』より ) 」という使徒パウロのことばを引き、つぎのように説きます。

神のために愛するものすべてを捨てるのが、「白い殉教 ( bán martre ) 」。
深い悔い改めのうちにおのれの欲望 ―― 「Eテレ」で再放送していた故梅棹忠夫氏ふうに言うと、「業 ( ごう ) 」―― を捨てるのが「青い殉教 ( glas martre ) 」。
使徒たちにならって、キリストのためにみずからの肉体の破滅をもいとわず十字架を負うことが「赤い殉教 ( derc martre ) 」。

 ブレンダン一行が見た「島の聖歌隊」や「隠者パウルス」などは「白い殉教」に当たり、もとは当時のアイルランドの慣習法による刑罰のひとつ「氏族からの追放」がキリスト教的に昇華したものと言われています。ちなみに中世のアイルランドでは、追放刑は死刑につぐ重罰だったという。これのもっとも有名な例は、アルスターの王族出身の聖コルンバでしょう。コルンバは「カタハ」と呼ばれる詩編をめぐる血なまぐさい闘いの責任を取り、かつあらたな布教地を求めて故国を捨て、12 人の弟子とともにカラフに乗りこみスコットランドへ向けて船出したと伝えられています。

 本家サイトでははじめ「緑の殉教」としていたのですが、この 'glas' という単語、緑とも青ともとれるようで、手許の本を見たら「緑」派と「青」派で分かれてたりする ( 苦笑 ) 。ほかの用例では「顔色の悪さ」を示す「青白さ」という意味で使われていたりする … ということもこのたびはじめて知ったので、両方併記に改めました。

 前にも書いたけれども、英語の 'compassion' というのは「ともに苦しみを分かちあうこと」がもともとの意味。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」というパウロのことばにたいし、「他者とともに苦しむ者はだれでも、その心に十字架を負っている」と『カンブレの説教』は説いていて、相通ずるものを感じる。

 … そういえば今週末、こちらの番組でイングランド北東部の港町ウィットビーが登場する、とのことで楽しみ。以前ここでも書いたけれども、ウィットビーはいわゆる「復活祭論争」の地としても知られているから、そんな話なんかも出てくるかも。

2011年05月23日

約100年ぶりの訪問と火山噴火ふたたび

 しかたないとはいえ国内メディアは余裕がないのか、↓の歴史的訪問についてはたいして報じてなかった(地元紙も国際面でわりと小さい扱い)。でも個人的にはこれすごくおどろいた(→ 関連動画記事)。

 英国君主としてのアイルランド訪問は、祖父のジョージ5世以来、じつに約100年ぶりに実現したことになる。たまたま聴取したこちらの語学番組でも今回の訪問が取りあげられていたけれども、おそらく現女王たっての希望だったのではないかと察します。在位期間が歴代2位になったようなので、長年の願いがかなったことには感慨深いものがあったのかもしれない。げんにダブリン城にて開かれた晩餐会でスピーチしたとき、英国による長い植民地支配について、「苦難に遭ったすべての人に心を重ね、深く思いをささげる」と述べていることからもうかがい知ることができます(→ ディングル地元紙サイトによる報道記事。なお記事中の 'Tánaiste' なる単語はアイルランド語で、「副首相」の意。ついでに 'Áras an Uachtaráin' という語は、「アイルランド大統領官邸」。Islandbridge には、独立戦争時の犠牲者を追悼する施設があり、女王はここに献花した)。



 … 今回の女王のアイルランド訪問、ちょうど折よく(?)「聖ブレンダンの祝日(Lá Fhéile Bhreanainn)」とぶつかり、そしてそんなときに21世紀版「ブレンダンの航海」プロジェクトがスタートしたわけですが、航海最初の一週間、乗船中の Ó Cíobháin 博士からもらったメールによりますと、海は時化ているものの、メイヨー州北方沖にある孤島イニッシュグローラ(Inishglora, Ir. Inis Glóire )まで順調に帆走したとのことです。ちなみにこの島はブレンダン創建と伝えられる修道院があったとされるアイルランド西方沖の小島のひとつ。くわしい情報は本家サイトの「関連ニュース」ページにて。

 … しかし、アイスランド南東にあるグリムスヴォトンという大きな陸上火山までこのタイミングで噴火するとは … 帆船 Ar Seachrán 号乗船の先生方も、かつてティム・セヴェリンが古代カラフ復元船で航海したときに目の当たりにした『聖ブレンダンの航海』を彷彿とさせるような出来事や光景に遭遇するのでしょうか … それはともかく航海中の安全を祈るのみ。もっとも当のみなさん方は、けっこう楽しんでいるのかもしれませんね。

2011年05月16日

Brendan Voyage ふたたび

 本日は『聖ブレンダンの航海』管理人としては、一年でかなり重要な日、「聖ブレンダンの祝日」。本家サイトの更新を見ていただければ察しがつくかと思いますが、よもや自分が間接的とはいえ、かのアイルランドの聖人にかかわる大がかりなプロジェクトを目撃することになるとは、ほんと夢にも思っていなかった。

 3月17日の「聖パトリックの祝日」からしばらく経ったころ、アイルランドゲール語の古地名学の権威にして拙サイト顧問(とこちらが勝手に考えている)Breandán Ó Cíobháin 博士からメールをいただきまして、読んでみたら、なんとなんと博士じきじきに提案したというIonramh Bréanainn 、「ブレンダンの航海」なる調査航海をこのたびおこなう運びとなったこと、一路アイスランドめざしてブレンダンの祝日当日にスケリグ・マイケル島から出航する、とにわかには信じられない内容が書かれていたのでこちとらもうびっくり仰天。なんでも知り合いの考古学者先生がアイスランドにて、ヴァイキング入植前のアイスランドに一足先にアイルランドから北大西洋を越えて渡ってきたアイルランド人船乗り修道士が生活していたらしい「洞穴」を発見したという、こっちもまたびっくり仰天な大発見(かも)があり、こちらもふくめて6世紀以降、ブレンダンやコルンバなどの船乗り修道士・船乗り聖人たちが縦横にカラフを駆って寄港した島々にゆかりの史跡・遺構を訪ね、彼らが歴史に刻んだ航跡(功績でもある)をあらためてたどり、正当に評価しよう、というのが目的のれっきとした学術研究調査航海なんでそうです。いやー、これはじめて聞いたときは気落ちしていたときだけに、同行するわけでもないのに妙にわくわくしてしまって勝手にヒートアップ(笑)! 航海に使用するのはAr Seachrán という名前の全長45 フィートの帆船、スキッパーは同艇船長のPaddy Barry 氏で、今回の航海計画をÓ Cíobháin 博士といっしょに立案した人。各分野の専門家の人数名(詩人もいるとか)も乗船するらしい。

 検索してみたら、こちらの地元紙サイトくらいしか報じてなかったけれども、先週、Ó Cíobháin 先生からWord 文書ファイルをもらいまして、寄港地の詳細がわかりました。それによるとスケリグ・マイケル出港後、イニッシュグローラなどブレンダンがかつて創立したとされる修道院があったアイルランド北西岸沖の小島に寄りながら北上し、アイオナ島、そしてブレンダンとコルンバ会見の地ヒンバ島(Hinba)ではないかと推測されるEileach an Naoimh(別名 Holy Isle)島、オークニー諸島(有名なスカラ・ブラエ遺跡も訪問予定)、シェットランド諸島に寄港したあと、いっきに「羊の島」、「鳥の楽園」のフェロー諸島へ。主要都市トアスハウンのある本島ストレーモイ南西端に位置する「ブレンダンの入江(Brandansvik 、なおここは1976年にティム・セヴェリンが復元カラフのブレンダン号による大西洋横断航海を敢行したさいに寄港したところでもある)」とも呼ばれている当地の文化遺産地キルケビュー(Kirkjubøur)に立ち寄り、絶海の孤島にしてラテン語版『航海』に出てくる「鳥の楽園」のモデルではないかとされるミーチネスを経てアイスランド南岸へ。南岸沿いにあるPapafjordur, Papafjardaro などアイルランド人聖職者をにおわせる名前の島々や入江を通過して昔、火山噴火で有名になったヘイマエイ島や、アイルランド人奴隷に由来するヴェストマンナエイヤル諸島(Vestmannaeyjar)を経由して軽飛行機にて本土のSeljaland へ飛び、そこで上述した新発見の洞穴を調査するとのことです。帰路はセント・キルダ島などに立ち寄り、順調にいけば7月8日にゴールウェイ州のCorr na Rón という港に帰港する予定とのことです。またこの航海日程は細部も凝ってまして、たとえば夏至の来月21日には9世紀、カール大帝の宮廷に仕えていたアイルランド人修道士ディクイルが『地球の計測 (De Mensura Orbis Terrae)』で記録した光景 ―― 真夜中でもシラミがとれるくらいの陽光がとどく最果ての島テューレ ―― もしっかり体験するとか。

 アイルランドからアイスランドの往復で、寄港地立ち寄りもふくめた合計距離はなんと2,300 マイル(海里、1海里は1,852m)にものぼる大航海。とにかく航海の無事を祈るのみ。どうか実り多きexpedition になるように、と地球の反対側からエールを送ります。Ó Cíobháin 先生からまたなにか連絡がありましたら、本家サイトにて逐次告知します。

2010年12月05日

早いもので5年目に

1). 月日が経つのは早いもので、この脱線だらけの拙いブログももう5年目に突入(?)。さいわい大きな事故や怪我もなく、たいした病気にもかからずに過ごせただけでもありがたいと思わないといけないのだろう。

 先日、ひさしぶりにAmazonサイトにてブレンダン関連本を漁っていたら、こんな本に出喰わしました…なんでも「おおむね全長20フィート未満の、驚くべき小型船で成し遂げられた傑出した大航海の数々」を集めた本、ということらしい。この本ですが、9ページの後半から「ゴールウェイの聖人、6世紀の聖職者ブレンダン」の話が出てきました…いちおう『聖ブレンダンの航海』というタイトルも出てくるけれども、引用されているのはおもに『聖ブレンダン伝』から。『ブレンダン伝』の4つの版にはラテン語版『航海』の挿話との混淆が確認されているので、おそらくこの人はそれら「混淆版」か、あるいはオダナヒュー編纂のBrendaniana(初版は1895年発行、現在はLives and Legends of Saint Brendan The Voyagerという書名で復刊されている) かなにかを参照して執筆したのかもしれない。で、しばらく「立ち読み」していたら、つぎのくだりが出てきました。

The best clue to sorting out the whole Brendan legend is the fact that the earliest recorded versions of the story appear at the same time that Viking raiders were attacking the west coast of Ireland.

むむむなるほど、たしかにそうですね! ヴァイキング(ノースメン)のアイルランド来寇がはじまったのが793-5年のあいだだとされています。『ブレンダン伝』の祖型成立が780年かそれ以前、『航海』成立は780-800年ごろと推測されるので、時期的にはほぼぴったし、ということになります(『航海』校訂版編者カール・セルマーによれば原作者は10世紀、現在のロレーヌ地方に避難していたアイルランド人修道士で学者だった人らしいけれども)。アイルランドとくるといま、向こうは巨額の財政赤字の穴埋めで主要銀行を実質国有化したりとたいへんですね…ユーロもどんどん価値が下がっているし…。とはいえかの国の赤字よりこの国の赤字のほうが、GDP比でははるかに多いらしいけれども(算出方法によって異なるみたいだから素人にはなんとも言えませんが)。本つながりでは、この前、地元紙朝刊の一面に『そして、僕はOEDを読んだ』というなんとも刺激的な書名が載ってました。こういう本、惹句を見なくても買いたいほう(笑)。自分が思う「おもしろい本」というのは、こういうたぐいのもの(『アイバンのラーメン』もいろいろ考えさせられることが多くてよかったです!)。ほかにはやはり地元紙日曜版の書評欄に載っていた、『知はいかにして「再発明」されたか』という本もおもしろそうで、図書館に入らないかしらといまから期待してます。

2). ところでこの前の日曜から教会の暦はあたらしくなりまして、はやくも2010年の「待降節(Advent)」になりましたね…日本人なんで、「待降節」というより「師走」、なんかこうせわしくて、気ばかり焦ってしまいます…本家サイトの英語版の更新も遅々として進まず…orz これはひとえに自分の怠慢のせいなんですが。読まなくてはいけない本とかもあいかわらず抱えているし…。

 BBC Radio3のChoral Evensongでは恒例のセントジョンズ カレッジ聖歌隊によるAdvent Carol Service がまだ聴けます(深夜1時過ぎくらいまで)。ページには当日の式次第とキャロル、朗読箇所と朗読者について掲載されているPDFファイルのリンクがあるので、リスニングの勉強に役立つかも。

 …Android端末の「今日は何の日」ウィジェットによると、本日は音楽関連では、バッハも作品を写譜していたというヴァイオリニストで作曲家のヨハン・フリードリヒ・ファッシュ(1758)やシュトックハウゼン(2007)といった人の命日だそうですが、なんといっても今日は「神童」モーツァルトの命日でもある。というわけで、今宵の「N響アワー」はプレヴィンさんの弾く「ピアノ協奏曲 第24番 ハ短調 K.491」を聴きながらボジョレ・ヌーヴォーを飲むとするか(某スーパーで千円くらいで売っていたヴィラージュ・ヌーヴォーは喉ごし軽くていいんですすが、やや酸味のきついアッサンブラージュだと思った。ちなみにその新酒は「ペットボトル」ではありません、念のため。でもおんなじ「ヴィラージュ・ヌーヴォー」でも造り手と畑のちがいでずいぶんと香りと味がちがうもんだ。このへんがボジョレ・ヌーヴォーの奥深いところかな)。

2010年11月20日

聖マロの祝日 & mission complete!

1). 今月15日はブルターニュの聖人、聖マロ(またはマフトゥス、マクロヴィウス)の祝日でした。マロは『聖ブレンダン伝』とも関係があり、ブレンダンの「約束の地」探求の二度の航海でお供をした弟子のひとりだとも言われています。聖マロについては「大魚ジャスコニウス」の記事ですこしだけ触れたことがありますが、もうすこし備忘録として追記しておきます。

 聖マロ(古ブルトン語で'warrant of light'の意らしい)は520年ごろ、ウェールズにて生まれたようです。聖ブレンダンは一時期ウェールズに滞在したことがあり、当地のスランカルヴァン(Llancarfan)修道院長も務めていました。マロはそこの修道院でブレンダンから教育を受けて、地元の伝承によれば、ブレンダンの二度にわたる航海もそこから出帆した…らしい。のちにマロ自身も「船乗り修道士」としてブルターニュ半島のAleth(現在のサン-セルヴァン地区にある岬。こちらにかつてあった大聖堂の記事あり)にやってきて、当地で庵を編んでいた隠修士アーロンの弟子になったとか。のちにこのアーロンは当地の修道院長となったが、ほどなくして亡くなり、Aleth修道院長のあとを継いだのが聖マロだったらしい。亡くなったのはフランス革命前まで存在していた旧サント司教区のArchambiacで、618, 620または622年のことだと言われています。聖アーロンおよび聖ブレンダンが6世紀に建てた修道院跡が、現在のサン-マロ市になったという。

 師匠のブレンダンとのつながりについては、『聖ブレンダン伝』に出てくる「復活祭を大魚の背で祝う話」および「死んだ巨人族の話」が、『聖マロ伝』に出てくる同一の挿話とよく引き合いに出されます(→関連拙記事。また両者とも「ふたつの航海」を語っている点も共通している)。『聖マロ伝』は5つの版が現存しており、ほぼ正確に成立年代が判明しているのは「助祭ビリ」の書いたとされるVita Sancti Machutiで、865 - 872年ごろ *。ビリは、すでに存在していた「底本」の「欠点を補って」あらたに書き下ろしたと司教ラトウィリへの献辞で書いています。その「底本」とされるのが「逸名作者によるマロ伝」。「短い版」と「長い版」があり、どちらがよりオリジナルに近いとされているかについては諸説あり。これらの版の成立はある学者によれば9世紀前半、825年ごろだという。残りふたつについてはもっとあとの時代の作で、12世紀以降のもの。これらの版ではもはや時代錯誤的な「驚異的な航海」というモチーフは削られ、「それを読みたければ『聖ブレンダン伝』を見よ」という但し書きまでついているらしい。

2). それはそうと、「はやぶさ」、すごいですね!! これで文句なくmission complete! というわけですね。イトカワのものらしい微粒子は、橄欖石、輝石などが検出され、その鉱物成分比率は地球に落下してくる隕石とおんなじだったそうです。ただし隕石は当然のことながら、大気圏突入時のものすごい高温で焼かれて、「変質した」岩石。たいするイトカワ由来の微粒子はそうではない、太陽系生成時からあまり組成の変わっていないもので、それを持ち帰ってきたというから、これはたいへんな快挙です。それとそうそう、岩石ついでにやっと『伊豆の大地の物語』を買いました…。堂ヶ島で見かける、真っ白の凝灰質砂岩層に突如、ボコっという感じで出現するあのトゲトゲの真っ黒の岩塊。あれって、堆積しつつあった火山灰層に文字どおり落下してきた「水中火山弾」なんですね! 知らんかった。それがそのまんま、変質もしないで露出しているってたいへん珍しいことらしい。なるほどだから世界中の地質学者が伊豆西海岸の特異な地質構造に注目しているわけか…。とにかく伊豆半島の地学好きの人はこの本、ぜったいに買いですよ!! とはいえ黄金崎については、あんまり載ってなかったなー(がっかり)。この前、ひさしぶりにあそこに行ってイソギクの写真撮ってきたんですが、海蝕崖に露出している岩石層はたしかに珪化作用をつよく受けた湯ヶ島層の変朽安山岩(プロピライト)だけれども、どのへんが変質を引き起こした貫入岩体なのかが素人の悲しさ、いまいちわからない。断層の向きとか岩石層の堆積時の傾斜とかはなんとなく想像がつくけれども、貫入岩体じたいも変質が進んでいるから、見た目ではよくわからないというのがある。それにしてもどんどん崩れていくなぁ…。もっとも数十万年後には伊豆半島西海岸は静岡側とくっついてしまって、駿河湾が消滅するみたいだから、われわれの存在なんてじつにはかないものではある(数十万年 - 100万年前に伊豆半島が本州弧と衝突する以前は「足柄海峡」というのがあいだにあって、現在の駿河湾も旧足柄海峡とおなじ運命をたどると著者の小山先生はみている)。

3). そんな折も折、「週刊こどもニュース」打ち切りの報を聞きました。公式には「じっさいの視聴者は高齢者ばっかし」だったのでもうやめた、ということらしいけれども、ほんとのところはかさむ制作費では…と勘ぐりたくなる。あの手作りの模型にしても、材料費プラス人件費がそうとうかかっていると思われるほどよくできているし、そのへんが公共放送ならではという感じもしたんですがね…子どもたちがじかに取材に出かけるというのもよかったんですけれども、これも時代の流れですかねぇ。後継番組は「もっと幅広い視聴層にわかりやすくニュースを解説する番組」だそうですが、そういう番組ってすでにいろいろあるのでは? 「子ども向け」と銘打っているから存在価値があったのでは?? 

* ... 以下、J. Wooding edit., The Otherworld Vorage, p.161-3. を参考にしました。

2009年07月04日

アイルランドの巨石文化!

 いまさっき見た「世界ふしぎ発見!」。個人的にはひさびさのヒットでした。アイルランドの巨石文化! で、くどいようだがニューグレンジやダウス、ナウスの巨大なマウンド(塚)遺跡とか、バレン高原(リポーターの竹内さんの立っていた壮大な海蝕崖「モハーの断崖」のあるところ)のドルメンとかは、紀元前250年くらいから波状的に上陸して定住しはじめたケルト人の作ったものではなくて、彼らが来る以前から住んでいた先住民族がこさえたもの。ケルト人渡来以前のアイルランド古代史を伝える神話のひとつ『アイルランド来寇の書(Lebor Gabála Érenn)』には、聖書の物語と自分たちとを結びつけるような書き方がされていて、はじめにやってきたのがノアの孫娘のひとりケシルで、その後つぎつぎと神話的種族が攻めこんできては興亡を繰り広げていたという。最後から二番目にやってきたのが「ダーナ神族(Tuatha Dé Danann、「女神ダヌーの種族」)」と呼ばれる神族で、アイルランド各地に残る巨石建造物を残したのは彼らだと言われています。この人たちは、イベリア半島から来たらしいから、ひょっとすると現在、独立問題でもめているバスク人の先祖ともつながりがあるかもしれない(バスク人もケルト系)。イベリア半島とブリテン・アイルランド諸島とは紀元前から交流があったことがわかっています。最後にアイルランドに上陸したのがケルト系の「ミールの息子たち(「ミレシアの息子たち」という言い方もある)」。そういえば「ダグザの大釜」というのが「ダーナ神族」の「神器」のひとつだったようですが、11年前に上野の東京都美術館でそんな伝説を彷彿とさせる「ゴネストロップの大釜」というみごとな遺物を見たことがあります(もっとも「ダグザの大釜」とは直接の関連はないけれども。こちらの「大釜」はデンマークで発掘されたもの)。今回の番組では、この謎多き「ダーナ神族」の残した巨石遺跡にスポットを当てて紹介していたし、なんといってもはじめて目にするものばかりでとてもおもしろかった。有名なニューグレンジ周辺にあるダウス(Dowth、「闇の丘」という意味らしい)とナウス(Knowth、こちらは「光の丘」)のふたつのマウンドについては、文字どおり本邦初公開の映像だったのではないでしょうか。ナウスのほうは、以前ここでも紹介した『巨石/イギリス・アイルランドの古代を歩く』の著者サイトにも写真が掲載されていますが、大きな塚のぐるりをかわいらしいケルン状の「小塚」が18も衛星みたいに取り巻いているという、ひじょうにユニークな遺跡です。ここの羨道取材、よく許可がおりたものだと感心した。なにしろこの手の「古墳(と以前は考えられていた)」型遺跡の内部ってなかなか撮影許可がおりないんですよね…ふつうのスティル写真でも。そしてここナウスの墳丘の羨道は、欧州でも最長だというからさらにびっくり。最奥部はニューグレンジとおなじく、円錐状に石が積み重なっていて、そこだけ天井が高く造られていたのも印象的でした。説明役の巨石文明研究家先生の言われるとおり、たしかにここはまちがいなく天文台的施設だったんでしょうね。日時計まであるし(世界最古らしい)。そしてあのぐるぐるの渦巻き文様。これはキリスト教化されたあともずっとケルト人のデザインとして残って、たとえばケルト十字の円環にも現れているし、『ケルズの書』の随所にぐるぐる渦巻いているのが見られますね。この世の無常を象徴するかのようなあの渦巻き文様、起源をたどっていくと、おそらくダーナ神族が残したと言われるニューグレンジやナウス、ダウス遺跡に見られる渦巻き文様になるんでしょうね(→参考サイト)。

 ストーンサークルやドルメンの中に入るとほんわかして暖かい…ダウジングの金属棒が激しく反応してくるくる回転する…というのは竹内さんにかぎらず、『巨石〜』の著者も、そしてほかの人もたいていおんなじこと言っているから、不思議ではあるけれどもわりとだれでも体験できるみたいです。ワタシもほんわか体験してみたい…。

 それはそうと、メイヴ女王の話まで出てきたけれども、あれってれっきとしたケルトの「英雄物語」伝承ではないかと…「アルスター物語群」のひとつで、英雄クー・ホリンが活躍することでも知られる「クーリーの牛捕り」なんかに出てくる、おっかない女王さまじゃなかったかしら? でも伝説の女傑メイヴって、立ったまま埋葬されていると伝えられているんですね。それは初耳でした。

 …「ミールの息子たち」に征服されてしまったダーナ神族は、体が小さくなって、地上世界を彼らに明け渡すかわりに、自分たちはドルメンなどの巨石建造物から「シイ」と呼ばれる地下世界(異界)へと退いたという…つまりは「妖精」になったという。数多く残っているアイルランドの妖精伝承はここからきています。またおなじくケルト色の濃いブルターニュ半島では海の中に「イスー」という「異界」があると言われています。とはいえ…映画版の『ハリー・ポッター』の魔術の世界と「ダーナ神族」とを結びつけるというのは…いささか飛躍しすぎ? まぁたしかにあとからやってきた「ミールの息子たち」とその子孫にしてみれば、ニューグレンジ遺跡なんか魔術以外の何者でもなかったんだろうけれども…べつの言い方をすれば、新石器時代の欧州各地に巨石建造物を残して消えていった「謎の文明種族」の高度な知識や技術も、ここですべてゼロになって彼らととともに永遠に消滅してしまった、ということ。ここで過去の記憶にひとつの大きな断絶があったわけですね。それゆえケルト人たちには彼らがどうやってこんな巨大な建造物を造ったのか、まるでわからなかった。またガーゴイルの語源についてはおもしろかったけれども(「うがい」して体から禍々しいものを出すということですね。もとは古フランス語の「のど」から)。たしかにあれ、アイルランドや英国のみならず、欧州大陸各地の大聖堂にはかならず「雨どい」としてガーゴイルたちが乗っかってますね。「グリーンマン」についてはケルト起源というよりは古代ローマ起源説をとるけれども、ガーゴイルの起源はどうなんだろ? こちらを見るとどうも古代地中海地方起源みたいですけれども…。

 20年ほど前にNHK教育で放映された「幻の民 ケルト人」というBBCのドキュメンタリーで、案内役のフランク・ディレイニーがゴルフ場の電動カート(?)みたいな小型乗用車に乗って、でっかい赤い風船を追いかけるシーンがありまして、「'Celtic'ということばはつかみどころがない」というようなことを言ってました。「ケルト的」と言われていたものが、捕まえてみたらじつはそうではなかった、というのはわりとよくあることだったりする。「ケルト的」ということばには注意する必要があります。

2009年03月16日

アイルランド系米国人にとっては

 明日17日は聖パトリックの祝日。きのうは富士山も見えたしおだやかな天気だったので、おそらく東京でのパレードはにぎわったことだろうと思います(いま、NHK-FMでジョン・ギロック氏のオルガンリサイタルを聴きながら書いています。前にも書いた、昨年ギロック氏が開いたメシアンのオルガン作品全曲演奏会からの抜粋)。

 アイルランド人にとっても、「新世界」へ渡ったアイルランド移民にとっても「聖パトリックの日」は自分たちのアイデンティティを再確認するための重要な日だろうとは思いますが、半年ほど前、まったく偶然にもWall Street Journalオンライン版になぜか(?)こんなコラムが掲載されているのを発見。書かれたのはけっこう古くて、2005年3月11日。たしかに書き手の言うとおり、アイルランド系米国人にとっては聖パトリックよりもむしろ聖ブレンダンのほうがお祝いするのにふさわしいかもしれないですね。コラムはわりとくだけた調子で書かれてはいますが、セヴェリンたちの実験航海に触れ、また「ブレンダンは北大西洋を横断して北米大陸に到達したかもしれない」という立場をとる海事史家サミュエル・エリオット・モリス*なども引き合いに出していることからして、この書き手もまた「アイルランド人修道士がレイフ・エイリクソンより一足先に新世界へ到達した可能性はある」という説を受け入れている人のようです。ひるがえってラテン語版『航海』では「聖人たちの約束の地」の位置はだいたいドニゴール海岸沖の「歓喜の島」からそんなに離れていない海域ということを暗示していて、また『航海』は文字どおりの記録というよりは文学的要素の強い「航海物語」ですので、ブレンダンにかぎらずマーノックとかほかのアイルランド人修道士がはたして北大西洋を渡って北米大陸までやってきたのかどうか、なんてことはけっきょくわかりません。でもすくなくともセヴェリンの実験航海によって、彼らの使った「牛の革を張った舟」というものにはじゅうぶんな耐航性能があるということは証明されているので、その可能性が100%ないわけではない。「ランス・オー・メドウ」のような考古学的証拠が見つかれば、そのときこそ彼らがヴァイキングより早く北米大陸に到達していたことが立証されるとは思うけれども、わからないままでもこれはこれでロマンがあっていいのではと思います。そしてこれは関係ないことながら、カナダのノヴァスコシアあたりの伝統音楽はアイルランド色が濃くて、ゲール語を理解する住民もけっこういるらしい。というわけでわたしも飲もう(笑)。Slàinte! 

*…モリスの著書The European Discovery of America: The Northern Voyagesには「聖ブレンダンとアイルランド人 A.D.400-600」と題して、北米大陸発見との関連でブレンダンと『航海』が紹介されています(pp.13-31)。