2012年05月20日

同一人物だった orz

1). いま、「気まクラ」改め「きらクラ ! 」を「らじる」にて聴きながら書いてます。自分のことをタナに上げて人さまのことを言えた義理ではないが、そうそう、前回放送分を聴かれた方はご存知かと思いますが、つい、「バッハのメヌエット … 」と口を滑らせてしまったチェリストの遠藤真理さん。当方もそのときすかさず「え ? ボッケリーニじゃ … 」と思ったんですが ( しっかり聴いてはいなかった人 ) 、そのうち忘れた ( 笑 ) 。で、いまちょうど、そのことを指摘するリスナーのお便りが紹介されてました。たしかいまをときめく若きピアニスト牛田智大くんが、たった 2 歳で両手で弾いてしまったとかいう作品がこれではなかったかな。でもあいにくこの「メヌエット」はバッハの真筆にあらず、クリスティアン・ペツォルト氏の作品なり ( → 関連拙記事 ) 。

2). ここからが本題。前回記事で、「フィオナン・カムはディングル半島のローカルな聖人か ? 」と書きました。もしや、と思ってアードファート教区司祭だったオダナヒュー師の Lives and Legends of Saint Brendan the Voyager のページを繰ったら、あった。… フタを開けてみればなんだ、なんですが、この人は『リズモアの書』所収の『聖ブレンダン伝』に出てくるフィナン・カムその人でした。orz 綴りが一字、異なっただけだったのに、そのことにまったく気づかずにいた。そしてこの部分、本家サイトでも「少年時代のブレンダン」としてしっかり書いてあった。情けない、書いた本人が完全にこの人のこと忘れているという、ていたらくぶり。

 … とはいえ、「この日からブレナンの顔には神々しい輝きが満ちあふれ、その眩しさゆえに少年の顔を見られるのはフィナン・カム以外、だれもいなくなった」という一文だけじゃ、印象には残らない ( 苦笑 ) 。ちなみに原文はファダなしの Brenainn だったので、「ブレナン」としています ( オショーバン博士の論考の表記は Bréanainn で、本来はこちらのほうが正式らしい。ちなみに『リーダーズ・プラス』はさすがというべきか、ちゃんとアイルランドゲール語表記名 Brenainn [ ただし読みは「ブレニン」としている ]も収録している。さらについでに昔、NHK 教育でやっていた「幻の民 ケルト人」では、『聖ブレンドンの航海』と訳されていた ) 。

 というわけで、オダナヒュー本の、フィナン・カムに関する注釈を読んでみました。それによると聖フィナン・カムは 6 世紀前半、ディングル半島に住むキリスト教徒の両親のもとに生まれ、ほどなくしてブランドン山西麓にあるブレンダン建立の修道院に預けられ、師匠ブレンダンの弟子となり、後年、和風に言えば「衣鉢を継いだ」修道院を建てるよう師匠に言われたんだとか。オダナヒューは「おそらく」と条件つきながら、フィナン・カムをブレンダンの親戚筋の人だとしている。Finan ( Fíonán ) という名前の聖人は「『癩病者』聖フィナン」と「レイン湖の聖フィナン」、そしてエイダンの後を継いでリンディスファーン修道院長となったフィナンも含めてなんと 11 人 ( !! ) もいて、とくに「癩病者」と「レイン湖」のフィナンとブレンダンつながりのフィナン・カムはたがいの祝日がごっちゃに混同していることなども書いてありました ( さすがにその件についてここで書き出すのはいいかげん煩雑になるので、全省略 ) 。レイン湖というのは、キラーニー湖沼群のひとつでラテン語版『航海』冒頭で言及される、マンスターの覇権王族オーガナハト・ロッカ・レインの本拠地だったところ。ちなみに 812 年にノースメンがアイルランド南部のマンスターに侵入したとき、当時のオーガナハト族の王が撃破したことがある。話もどってフィナン・カムですが、現在のオファリー州 Kinnitty ( 異綴りあり、オファリー州は「バーの聖ブレンダン」のいたバーの所在地で、アイルランドのちょうど真ん中へんにある ) に修道院を建て、またキラーニー湖沼群に浮かぶ島イニッシュファレンにも修道院を建て、たびたび故郷ディングルに帰っていたという。

 ところで … いまさっき自分の「Google ドキュメント」を見たら、「Google ドキュメントは間もなく Google ドライブにアップグレードされます。Google ドライブをファイルの新しい保管場所としてご利用ください」…。「Google ノートブック」→ いま「Google ドキュメント」となかば強引に移行させられた人としては、「こちとらのあずかり知らぬところでそんなこと勝手に決められちゃ、困る」としか言いようがない。

 … とそんな折も折、こんどは 20 世紀最高のバリトン歌手ディートリヒ・フィッシャー-ディースカウ氏が逝去されたとの報が。… ホイットニー・ヒューストン、ドナ・サマー、クラシックでは別宮貞雄氏や玉木宏氏、グスタフ・レオンハルト氏に名トランペット奏者モーリス・アンドレ氏など、今年は著名な音楽家・演奏家の訃報がやけに多いような気がします … ディースカウ氏はドイツ・リートの名演が有名ですが、個人的にはバッハの受難曲などの録音の仕事も忘れてはいけないと思う。合掌。

2012年05月16日

出航の地はディングル半島ではなくて、もっと北 ?! 

 今日は「聖ブレンダンの祝日」。昨年はいろいろあって、正直、どうなることかとおおいに不安だったのですが、気がつけばもう一年が経過していた。ぶじでいられるというのは、ほんとうにありがたいかぎりです。そういえば今月 29 日は、忘れもしないあの故グスタフ・レオンハルト氏の文字どおり最後の来日公演、それも大好きなオルガンのリサイタルを聴いてからはや一年でもあるので、レオンハルト氏を偲んでまたいろいろ音源を聴いてみたいと考えてます。

 前にも書いたけれども、当方が勝手に本家サイト特別顧問にさせていただいているアイルランド・ケリー州トラリー在住の古地名学の権威、Breandán Ó Cíobháin 博士。いま博士は昨年の調査航海の補完のため、アイスランドを再訪する予定でいるらしいのですが、そういえば昨年、博士からいただいた貴重かつたいへん興味深い資料について、ここでなにも書かなかったことに思い至り、ブレンダン関係のことに絞ってここですこしご紹介しよう、と思い立ちました。いつも思いつきで書いてしまって、まことに申し訳アリマセン ( あんまり計画性のない人 ) 。m(_ _)m

 昨年の調査航海の概要についてはDingle News関連記事ページ下に PDF ファイルのダウンロードリンクがあるので、そちらをご参照ください。そして自分の手許の資料はいまひとつありまして、それはディングル半島とその南隣に突き出すイヴェラ半島における、船乗り聖人に由来する古い地名についての考察です ( 文書名は 'Ecclesiastical Structures of the Early Christian Period in Corca Dhubhne, Co. Kerry' ) 。そこで博士が指摘しているのは、たとえばディングル半島およびイヴェラ半島に残る初期キリスト教時代の遺構に見られる特徴はよく似ており、おなじような遺構が北西海岸のゴールウェイ、メイヨー州にも見られること、またこの時代の西海岸特有の記号文字オガムについては、アイルランド南東部カーロウ / キルデア以外では 'MARIANI', 'VITALIN' といった人名が記録された唯一の例がディングル半島に残っており、「長老 ( presbyter ) 」を示す 'QRIMITIR' なる肩書きを記したオガム文字はアイルランドの他の地域にはなく、この地域でしか発見されていないこと、ディングル半島西部の教会跡に残る後期オガム文字にはラテン文字の使用が見られることなど、はじめて知ることばかりでアタマは刺激されっぱなし。コーゲド ( cóiced, 「5分の1」の意 ) と呼ばれる、古くからの領地区分でのマンスター地方の守護聖人はラテン語版『航海』にも登場する聖エルベ ( アイルベウス ) だけれども、ディングル半島の守護聖人がフィオナン・カムなる人だということもはじめて知った。こっちはだれだろ、と思ってオンライン版 Catholic Encyclopedia にあたってはみたものの、項目はなし。ローカルな聖人、ということかな。こちらの解説ページによると、修道院創設期の紀元 5−6 世紀の人みたいですが。

 というわけで、ブレンダン関係の古地名について、かんたんに書きだしてみます。

1). 元来ケリー州中央部に拠点をおいていたキアリー・ルアフラ氏族は、8 世紀が終わるまでに、北部にいたアルトリー・カイル族を吸収し、アルトリー族の守護聖人だったブレーナン [ 原文はアイルランドゲール語表記 ] をそれまで彼らの守護聖人だった Carthach / Mochuda に代えて祭るようになった。これら 3 名の守護聖人について注目すべきは、彼らの創設した主要な修道院共同体はいずれも故郷マンスター西部 ( Iarmhumha ) ではなく他の地域にあり、彼らに対する崇拝はマンスターでは下火になっていった。アードファートは、マンスター西部地域に残るブレーナンが創設した唯一の共同体である。近隣のブランドンウェル ( アイルランド語名 Muileann Bhréanainn ) および 15 km 南東に位置する Uaimh Bhréanainn は、ディングル半島外の、マンスター西部に現存する数少ないブレーナンに捧げられた地名である。

2). 11 世紀までキアリー族の支配階級だった Uí Fhearba 一族の封土 ( 現在のブランドン山東麓一帯、ブレンダン生誕の地とも言われるフェニト、その東隣のトラリー市にも近い ) では、ブレーナンに由来する地名はいよいよ少なくなり、唯一「ブレーナンの泉 ( Tobar Bréanainn ) 」と 「ブランドン山 ( Cnoc Bréanainn ) 」のふたつの地名によってのみ記念されている。後者はラテン語版『聖ブレンダン伝』では「ブレンダンの野 ( Saltus Brandani ) 」、『航海』では「ブレンダンの座 ( Sedes Brandani ) 」とされ、ブレーナン出航の地と云われている。… ‘Cnoc Bréanainn’ という地名は、12 世紀後半になってはじめて登場する。いっぽうで『ブレンダン伝』と『航海』は 8 世紀ごろから大陸においてテキストが発展していることから、この呼称が故郷の地で最初に使用されはじめたのは 12 世紀になってからかもしれない。ブランドン山の西側に、ブレーナンに捧げられた泉が 5 つあることは、ノルマン人入植者のあいだでブレーナン信仰が高まった結果と言えるかもしれない。このブランドン山麓地域では彼は守護聖人であり、年1回の巡礼登山が何世紀にもわたって行われてきた。それどころか、12 世紀には北部地域における『聖パトリックの煉獄』に相当する、『聖ブレンダンの煉獄』に言及した文書まである。

『聖ブレンダンの煉獄』!! いったいなんぞや、それ ?!! これはちょっと調べてみる必要があるかも。

 さてここで昨年の調査航海の文書にもどると、個人的にはひじょうに気になる内容が書いてあります ( 下線強調部 ) 。↓

1). ブレンダンは現在のケリー州トラリー地域に居住していたアルトリー・カイル族の出身。彼の創設した主要な修道院共同体は現在のゴールウェイ州南西部に位置するクロンファートであり、小規模な修道院がコナハト州北西部にいくつかある。

2). 見過ごされがちな事実だが、ラテン語版『聖ブレンダンの航海』に代表される「航海物語」は、すでに 7 世紀後半に編纂されたアドムナーンの『聖コルンバ伝』に「コルマックの航海」としてその原型的な挿話のかたちで現れている。

3). 奇妙なことに、ラテン語版『航海』では元来北西部ドニゴール州にある「石の山 ( スリーヴ・リーグ ) 」だったブレンダン出航の地が、スリーヴ・リーグからクレア州北西海岸、そしてケリー州ディングル半島の「ブランドン山」山麓直下へと遷移してきた。これが示唆するのは、キアリー・ルアフラ氏族がブレンダンを一族の守護聖人に据えたことなど、当地でのブレンダン信仰が 11 世紀ごろまで拡大していったということなのかもしれない。

4). イヴェラ半島沖のヴァレンシア ( アイルランドゲール語では「オークの茂る地」を意味するダルリイ Dairbhre ) 島には、「ブレンダンの祠の泉 ( ‘Tobar Ula Bhréanainn’ ) 」という地名が残っている ( イヴェラ半島の現地語名は Uíbh Ráthach [ おそらくウィベ・ラータハ ]で、英語名はこの発音が転訛したもの ) 。

下線部で博士が指摘しているのは、おそらく『聖ブレンダン伝』に見られる記述を根拠にしているんだと思う。でも「クレア州」というのは … よくわかんないから、ご本人に直接訊いてみないとわからない。前にも書いたけれども、成立年代はおそらく『ブレンダン伝』のほうが先。『航海』の 3 章に出てくる、「出航 → 聖エンダのアラン島訪問 → ブランドン山麓の狭い入江にもどって舟の建造 → また出航」なんて奇妙なルートはどう考えても「もともとふたつの航海だったものをひとつにまとめた」とか、原典を改変したものと考えられます。ちなみに『ブレンダン伝』の該当箇所は、『リズモアの書』所収の版ではつぎのようになってます。「そこで、ブレンダンはコナハトの地へ行き、すばらしい大きな船を造りました。それは立派で巨大でした。彼はその船に一行と一族を乗せて、いろいろな植物と種も積み込みました ( 松岡利次編訳『ケルトの聖書物語』 p.133 ) 」。蛇足ながら本家サイトですが、先日、めでたく ( ? ) カウンターが 2 万ヒットを超えました。先週末自分がリンク先修正のために踏んだら、ちょうど20,100 でした。非常時に備え、どこか避難先 ( ミラーサイト ) をもっか探索中。

 最後に、こちらの動画をどうぞ。



2012年01月03日

『カンブレの説教』

 本題に入る前に … 元日恒例の「ウィーン・フィル ニューイヤーコンサート」。あっちこっち詰めこみ ( ? ) 読書のしすぎのせいか、やや睡眠不足状態でぼーっと見入っていたら、「ウィーン少 ( WSK ) 」のめんめんが金色に輝くオルガンバルコニーに参集しはじめているではないか ?! 録画、録画 (笑)! … とあせって録画機の電源を入れたりして ( 起動、遅ッ! ) … 。WSK は前半と後半でそれぞれ 1 回ずつ登場しましたが、「ニューイヤーコンサート」出演はなんと 14 年ぶりだそうで … それはそうと、団員は前回出演時みたいにお客さんに花を配ったりしたのかな? 歌っていたのは、どこのコアかな … ? それから大晦日の朝に放送していた、スペインの大作曲家ビクトリアの声楽曲がたくさんかかった NHK-FM の特番も最高 ! でした。ダ・ペラザとかナザレとか聞いたことのない作曲家のオルガン曲とかもかかりまして、大満足 ( 演奏者はパワー・ビッグズ ) 。ウェストミンスター大聖堂聖歌隊の清らかそのものの歌声もすばらしかった。

 … 「積ん読」の本を読み進めることが正月三が日定番の行事みたいになりつつありますが、ひさしぶりにブレンダン関連本を見ているうちに、ふと本家サイトでもほんのすこしだけ触れた『カンブレの説教』というものが妙に気になってしまって、手っ取り早くこちらの記事を見ました。以下、備忘録ていどにメモしておきます。

 ラテン語版『聖ブレンダンの航海』 17 章で、ブレンダン一行は「聖歌隊の島」に上陸します。島の聖歌隊は少年、青年、老年組と三つのグループに分かれていて、少年組は白、青年組は青、老年組は赤の服をそれぞれまとっていた、とあります( → 関連拙記事 ) 。

 白、青、赤 … 子ども隊が白、若者隊が青、というのはすんなりわかる。純真無垢とか若さとか。で、老年組の赤は、拙記事にも書いたように高位聖職者というか教会の位階を示唆する色、という印象をまず受けます。でも『航海』邦訳者の太古先生が指摘するように、『カンブレの説教』に出てくるおなじ白、青、赤の三色の喩えもからんでいる … かもしれない。

 『カンブレの説教』は古アイルランドゲール語で書かれた最古の説教文書と言われているもので、成立年代は 7 − 8 世紀ごろ。カンブレというのはフランスのカンブレ市のことで、8 世紀、カール大帝の時代に当地の司教に仕えていた写字生によって筆写された写本が原典らしい。リンク先記事 ( 出典や引用元の記述もしっかりしているので、信頼性は高いと思う ) によると教父文書や聖書の引用はラテン語、注解はアイルランド語で書かれてあるらしい。ただし一部の単語にはファダなどの長母音記号がなく、おなじ母音を連続して綴るなどの特徴があるとか。内容は、「わたしについて来たい者は自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従え」というマタイ伝など聖書からの引用句を提示したあとで注釈、つまり「説教」を述べる、という構造になってますが、不完全なかたちで終わってます。最後に、アイルランド修道院文学関連本でときおり引用される「三つの殉教」についての説教が出てきます。

 「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました ( 『新共同訳』より ) 」という使徒パウロのことばを引き、つぎのように説きます。

神のために愛するものすべてを捨てるのが、「白い殉教 ( bán martre ) 」。
深い悔い改めのうちにおのれの欲望 ―― 「Eテレ」で再放送していた故梅棹忠夫氏ふうに言うと、「業 ( ごう ) 」―― を捨てるのが「青い殉教 ( glas martre ) 」。
使徒たちにならって、キリストのためにみずからの肉体の破滅をもいとわず十字架を負うことが「赤い殉教 ( derc martre ) 」。

 ブレンダン一行が見た「島の聖歌隊」や「隠者パウルス」などは「白い殉教」に当たり、もとは当時のアイルランドの慣習法による刑罰のひとつ「氏族からの追放」がキリスト教的に昇華したものと言われています。ちなみに中世のアイルランドでは、追放刑は死刑につぐ重罰だったという。これのもっとも有名な例は、アルスターの王族出身の聖コルンバでしょう。コルンバは「カタハ」と呼ばれる詩編をめぐる血なまぐさい闘いの責任を取り、かつあらたな布教地を求めて故国を捨て、12 人の弟子とともにカラフに乗りこみスコットランドへ向けて船出したと伝えられています。

 本家サイトでははじめ「緑の殉教」としていたのですが、この 'glas' という単語、緑とも青ともとれるようで、手許の本を見たら「緑」派と「青」派で分かれてたりする ( 苦笑 ) 。ほかの用例では「顔色の悪さ」を示す「青白さ」という意味で使われていたりする … ということもこのたびはじめて知ったので、両方併記に改めました。

 前にも書いたけれども、英語の 'compassion' というのは「ともに苦しみを分かちあうこと」がもともとの意味。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」というパウロのことばにたいし、「他者とともに苦しむ者はだれでも、その心に十字架を負っている」と『カンブレの説教』は説いていて、相通ずるものを感じる。

 … そういえば今週末、こちらの番組でイングランド北東部の港町ウィットビーが登場する、とのことで楽しみ。以前ここでも書いたけれども、ウィットビーはいわゆる「復活祭論争」の地としても知られているから、そんな話なんかも出てくるかも。

2011年05月23日

約100年ぶりの訪問と火山噴火ふたたび

 しかたないとはいえ国内メディアは余裕がないのか、↓の歴史的訪問についてはたいして報じてなかった(地元紙も国際面でわりと小さい扱い)。でも個人的にはこれすごくおどろいた(→ 関連動画記事)。

 英国君主としてのアイルランド訪問は、祖父のジョージ5世以来、じつに約100年ぶりに実現したことになる。たまたま聴取したこちらの語学番組でも今回の訪問が取りあげられていたけれども、おそらく現女王たっての希望だったのではないかと察します。在位期間が歴代2位になったようなので、長年の願いがかなったことには感慨深いものがあったのかもしれない。げんにダブリン城にて開かれた晩餐会でスピーチしたとき、英国による長い植民地支配について、「苦難に遭ったすべての人に心を重ね、深く思いをささげる」と述べていることからもうかがい知ることができます(→ ディングル地元紙サイトによる報道記事。なお記事中の 'Tánaiste' なる単語はアイルランド語で、「副首相」の意。ついでに 'Áras an Uachtaráin' という語は、「アイルランド大統領官邸」。Islandbridge には、独立戦争時の犠牲者を追悼する施設があり、女王はここに献花した)。



 … 今回の女王のアイルランド訪問、ちょうど折よく(?)「聖ブレンダンの祝日(Lá Fhéile Bhreanainn)」とぶつかり、そしてそんなときに21世紀版「ブレンダンの航海」プロジェクトがスタートしたわけですが、航海最初の一週間、乗船中の Ó Cíobháin 博士からもらったメールによりますと、海は時化ているものの、メイヨー州北方沖にある孤島イニッシュグローラ(Inishglora, Ir. Inis Glóire )まで順調に帆走したとのことです。ちなみにこの島はブレンダン創建と伝えられる修道院があったとされるアイルランド西方沖の小島のひとつ。くわしい情報は本家サイトの「関連ニュース」ページにて。

 … しかし、アイスランド南東にあるグリムスヴォトンという大きな陸上火山までこのタイミングで噴火するとは … 帆船 Ar Seachrán 号乗船の先生方も、かつてティム・セヴェリンが古代カラフ復元船で航海したときに目の当たりにした『聖ブレンダンの航海』を彷彿とさせるような出来事や光景に遭遇するのでしょうか … それはともかく航海中の安全を祈るのみ。もっとも当のみなさん方は、けっこう楽しんでいるのかもしれませんね。

2011年05月16日

Brendan Voyage ふたたび

 本日は『聖ブレンダンの航海』管理人としては、一年でかなり重要な日、「聖ブレンダンの祝日」。本家サイトの更新を見ていただければ察しがつくかと思いますが、よもや自分が間接的とはいえ、かのアイルランドの聖人にかかわる大がかりなプロジェクトを目撃することになるとは、ほんと夢にも思っていなかった。

 3月17日の「聖パトリックの祝日」からしばらく経ったころ、アイルランドゲール語の古地名学の権威にして拙サイト顧問(とこちらが勝手に考えている)Breandán Ó Cíobháin 博士からメールをいただきまして、読んでみたら、なんとなんと博士じきじきに提案したというIonramh Bréanainn 、「ブレンダンの航海」なる調査航海をこのたびおこなう運びとなったこと、一路アイスランドめざしてブレンダンの祝日当日にスケリグ・マイケル島から出航する、とにわかには信じられない内容が書かれていたのでこちとらもうびっくり仰天。なんでも知り合いの考古学者先生がアイスランドにて、ヴァイキング入植前のアイスランドに一足先にアイルランドから北大西洋を越えて渡ってきたアイルランド人船乗り修道士が生活していたらしい「洞穴」を発見したという、こっちもまたびっくり仰天な大発見(かも)があり、こちらもふくめて6世紀以降、ブレンダンやコルンバなどの船乗り修道士・船乗り聖人たちが縦横にカラフを駆って寄港した島々にゆかりの史跡・遺構を訪ね、彼らが歴史に刻んだ航跡(功績でもある)をあらためてたどり、正当に評価しよう、というのが目的のれっきとした学術研究調査航海なんでそうです。いやー、これはじめて聞いたときは気落ちしていたときだけに、同行するわけでもないのに妙にわくわくしてしまって勝手にヒートアップ(笑)! 航海に使用するのはAr Seachrán という名前の全長45 フィートの帆船、スキッパーは同艇船長のPaddy Barry 氏で、今回の航海計画をÓ Cíobháin 博士といっしょに立案した人。各分野の専門家の人数名(詩人もいるとか)も乗船するらしい。

 検索してみたら、こちらの地元紙サイトくらいしか報じてなかったけれども、先週、Ó Cíobháin 先生からWord 文書ファイルをもらいまして、寄港地の詳細がわかりました。それによるとスケリグ・マイケル出港後、イニッシュグローラなどブレンダンがかつて創立したとされる修道院があったアイルランド北西岸沖の小島に寄りながら北上し、アイオナ島、そしてブレンダンとコルンバ会見の地ヒンバ島(Hinba)ではないかと推測されるEileach an Naoimh(別名 Holy Isle)島、オークニー諸島(有名なスカラ・ブラエ遺跡も訪問予定)、シェットランド諸島に寄港したあと、いっきに「羊の島」、「鳥の楽園」のフェロー諸島へ。主要都市トアスハウンのある本島ストレーモイ南西端に位置する「ブレンダンの入江(Brandansvik 、なおここは1976年にティム・セヴェリンが復元カラフのブレンダン号による大西洋横断航海を敢行したさいに寄港したところでもある)」とも呼ばれている当地の文化遺産地キルケビュー(Kirkjubøur)に立ち寄り、絶海の孤島にしてラテン語版『航海』に出てくる「鳥の楽園」のモデルではないかとされるミーチネスを経てアイスランド南岸へ。南岸沿いにあるPapafjordur, Papafjardaro などアイルランド人聖職者をにおわせる名前の島々や入江を通過して昔、火山噴火で有名になったヘイマエイ島や、アイルランド人奴隷に由来するヴェストマンナエイヤル諸島(Vestmannaeyjar)を経由して軽飛行機にて本土のSeljaland へ飛び、そこで上述した新発見の洞穴を調査するとのことです。帰路はセント・キルダ島などに立ち寄り、順調にいけば7月8日にゴールウェイ州のCorr na Rón という港に帰港する予定とのことです。またこの航海日程は細部も凝ってまして、たとえば夏至の来月21日には9世紀、カール大帝の宮廷に仕えていたアイルランド人修道士ディクイルが『地球の計測 (De Mensura Orbis Terrae)』で記録した光景 ―― 真夜中でもシラミがとれるくらいの陽光がとどく最果ての島テューレ ―― もしっかり体験するとか。

 アイルランドからアイスランドの往復で、寄港地立ち寄りもふくめた合計距離はなんと2,300 マイル(海里、1海里は1,852m)にものぼる大航海。とにかく航海の無事を祈るのみ。どうか実り多きexpedition になるように、と地球の反対側からエールを送ります。Ó Cíobháin 先生からまたなにか連絡がありましたら、本家サイトにて逐次告知します。

2010年12月05日

早いもので5年目に

1). 月日が経つのは早いもので、この脱線だらけの拙いブログももう5年目に突入(?)。さいわい大きな事故や怪我もなく、たいした病気にもかからずに過ごせただけでもありがたいと思わないといけないのだろう。

 先日、ひさしぶりにAmazonサイトにてブレンダン関連本を漁っていたら、こんな本に出喰わしました…なんでも「おおむね全長20フィート未満の、驚くべき小型船で成し遂げられた傑出した大航海の数々」を集めた本、ということらしい。この本ですが、9ページの後半から「ゴールウェイの聖人、6世紀の聖職者ブレンダン」の話が出てきました…いちおう『聖ブレンダンの航海』というタイトルも出てくるけれども、引用されているのはおもに『聖ブレンダン伝』から。『ブレンダン伝』の4つの版にはラテン語版『航海』の挿話との混淆が確認されているので、おそらくこの人はそれら「混淆版」か、あるいはオダナヒュー編纂のBrendaniana(初版は1895年発行、現在はLives and Legends of Saint Brendan The Voyagerという書名で復刊されている) かなにかを参照して執筆したのかもしれない。で、しばらく「立ち読み」していたら、つぎのくだりが出てきました。

The best clue to sorting out the whole Brendan legend is the fact that the earliest recorded versions of the story appear at the same time that Viking raiders were attacking the west coast of Ireland.

むむむなるほど、たしかにそうですね! ヴァイキング(ノースメン)のアイルランド来寇がはじまったのが793-5年のあいだだとされています。『ブレンダン伝』の祖型成立が780年かそれ以前、『航海』成立は780-800年ごろと推測されるので、時期的にはほぼぴったし、ということになります(『航海』校訂版編者カール・セルマーによれば原作者は10世紀、現在のロレーヌ地方に避難していたアイルランド人修道士で学者だった人らしいけれども)。アイルランドとくるといま、向こうは巨額の財政赤字の穴埋めで主要銀行を実質国有化したりとたいへんですね…ユーロもどんどん価値が下がっているし…。とはいえかの国の赤字よりこの国の赤字のほうが、GDP比でははるかに多いらしいけれども(算出方法によって異なるみたいだから素人にはなんとも言えませんが)。本つながりでは、この前、地元紙朝刊の一面に『そして、僕はOEDを読んだ』というなんとも刺激的な書名が載ってました。こういう本、惹句を見なくても買いたいほう(笑)。自分が思う「おもしろい本」というのは、こういうたぐいのもの(『アイバンのラーメン』もいろいろ考えさせられることが多くてよかったです!)。ほかにはやはり地元紙日曜版の書評欄に載っていた、『知はいかにして「再発明」されたか』という本もおもしろそうで、図書館に入らないかしらといまから期待してます。

2). ところでこの前の日曜から教会の暦はあたらしくなりまして、はやくも2010年の「待降節(Advent)」になりましたね…日本人なんで、「待降節」というより「師走」、なんかこうせわしくて、気ばかり焦ってしまいます…本家サイトの英語版の更新も遅々として進まず…orz これはひとえに自分の怠慢のせいなんですが。読まなくてはいけない本とかもあいかわらず抱えているし…。

 BBC Radio3のChoral Evensongでは恒例のセントジョンズ カレッジ聖歌隊によるAdvent Carol Service がまだ聴けます(深夜1時過ぎくらいまで)。ページには当日の式次第とキャロル、朗読箇所と朗読者について掲載されているPDFファイルのリンクがあるので、リスニングの勉強に役立つかも。

 …Android端末の「今日は何の日」ウィジェットによると、本日は音楽関連では、バッハも作品を写譜していたというヴァイオリニストで作曲家のヨハン・フリードリヒ・ファッシュ(1758)やシュトックハウゼン(2007)といった人の命日だそうですが、なんといっても今日は「神童」モーツァルトの命日でもある。というわけで、今宵の「N響アワー」はプレヴィンさんの弾く「ピアノ協奏曲 第24番 ハ短調 K.491」を聴きながらボジョレ・ヌーヴォーを飲むとするか(某スーパーで千円くらいで売っていたヴィラージュ・ヌーヴォーは喉ごし軽くていいんですすが、やや酸味のきついアッサンブラージュだと思った。ちなみにその新酒は「ペットボトル」ではありません、念のため。でもおんなじ「ヴィラージュ・ヌーヴォー」でも造り手と畑のちがいでずいぶんと香りと味がちがうもんだ。このへんがボジョレ・ヌーヴォーの奥深いところかな)。

2010年11月20日

聖マロの祝日 & mission complete!

1). 今月15日はブルターニュの聖人、聖マロ(またはマフトゥス、マクロヴィウス)の祝日でした。マロは『聖ブレンダン伝』とも関係があり、ブレンダンの「約束の地」探求の二度の航海でお供をした弟子のひとりだとも言われています。聖マロについては「大魚ジャスコニウス」の記事ですこしだけ触れたことがありますが、もうすこし備忘録として追記しておきます。

 聖マロ(古ブルトン語で'warrant of light'の意らしい)は520年ごろ、ウェールズにて生まれたようです。聖ブレンダンは一時期ウェールズに滞在したことがあり、当地のスランカルヴァン(Llancarfan)修道院長も務めていました。マロはそこの修道院でブレンダンから教育を受けて、地元の伝承によれば、ブレンダンの二度にわたる航海もそこから出帆した…らしい。のちにマロ自身も「船乗り修道士」としてブルターニュ半島のAleth(現在のサン-セルヴァン地区にある岬。こちらにかつてあった大聖堂の記事あり)にやってきて、当地で庵を編んでいた隠修士アーロンの弟子になったとか。のちにこのアーロンは当地の修道院長となったが、ほどなくして亡くなり、Aleth修道院長のあとを継いだのが聖マロだったらしい。亡くなったのはフランス革命前まで存在していた旧サント司教区のArchambiacで、618, 620または622年のことだと言われています。聖アーロンおよび聖ブレンダンが6世紀に建てた修道院跡が、現在のサン-マロ市になったという。

 師匠のブレンダンとのつながりについては、『聖ブレンダン伝』に出てくる「復活祭を大魚の背で祝う話」および「死んだ巨人族の話」が、『聖マロ伝』に出てくる同一の挿話とよく引き合いに出されます(→関連拙記事。また両者とも「ふたつの航海」を語っている点も共通している)。『聖マロ伝』は5つの版が現存しており、ほぼ正確に成立年代が判明しているのは「助祭ビリ」の書いたとされるVita Sancti Machutiで、865 - 872年ごろ *。ビリは、すでに存在していた「底本」の「欠点を補って」あらたに書き下ろしたと司教ラトウィリへの献辞で書いています。その「底本」とされるのが「逸名作者によるマロ伝」。「短い版」と「長い版」があり、どちらがよりオリジナルに近いとされているかについては諸説あり。これらの版の成立はある学者によれば9世紀前半、825年ごろだという。残りふたつについてはもっとあとの時代の作で、12世紀以降のもの。これらの版ではもはや時代錯誤的な「驚異的な航海」というモチーフは削られ、「それを読みたければ『聖ブレンダン伝』を見よ」という但し書きまでついているらしい。

2). それはそうと、「はやぶさ」、すごいですね!! これで文句なくmission complete! というわけですね。イトカワのものらしい微粒子は、橄欖石、輝石などが検出され、その鉱物成分比率は地球に落下してくる隕石とおんなじだったそうです。ただし隕石は当然のことながら、大気圏突入時のものすごい高温で焼かれて、「変質した」岩石。たいするイトカワ由来の微粒子はそうではない、太陽系生成時からあまり組成の変わっていないもので、それを持ち帰ってきたというから、これはたいへんな快挙です。それとそうそう、岩石ついでにやっと『伊豆の大地の物語』を買いました…。堂ヶ島で見かける、真っ白の凝灰質砂岩層に突如、ボコっという感じで出現するあのトゲトゲの真っ黒の岩塊。あれって、堆積しつつあった火山灰層に文字どおり落下してきた「水中火山弾」なんですね! 知らんかった。それがそのまんま、変質もしないで露出しているってたいへん珍しいことらしい。なるほどだから世界中の地質学者が伊豆西海岸の特異な地質構造に注目しているわけか…。とにかく伊豆半島の地学好きの人はこの本、ぜったいに買いですよ!! とはいえ黄金崎については、あんまり載ってなかったなー(がっかり)。この前、ひさしぶりにあそこに行ってイソギクの写真撮ってきたんですが、海蝕崖に露出している岩石層はたしかに珪化作用をつよく受けた湯ヶ島層の変朽安山岩(プロピライト)だけれども、どのへんが変質を引き起こした貫入岩体なのかが素人の悲しさ、いまいちわからない。断層の向きとか岩石層の堆積時の傾斜とかはなんとなく想像がつくけれども、貫入岩体じたいも変質が進んでいるから、見た目ではよくわからないというのがある。それにしてもどんどん崩れていくなぁ…。もっとも数十万年後には伊豆半島西海岸は静岡側とくっついてしまって、駿河湾が消滅するみたいだから、われわれの存在なんてじつにはかないものではある(数十万年 - 100万年前に伊豆半島が本州弧と衝突する以前は「足柄海峡」というのがあいだにあって、現在の駿河湾も旧足柄海峡とおなじ運命をたどると著者の小山先生はみている)。

3). そんな折も折、「週刊こどもニュース」打ち切りの報を聞きました。公式には「じっさいの視聴者は高齢者ばっかし」だったのでもうやめた、ということらしいけれども、ほんとのところはかさむ制作費では…と勘ぐりたくなる。あの手作りの模型にしても、材料費プラス人件費がそうとうかかっていると思われるほどよくできているし、そのへんが公共放送ならではという感じもしたんですがね…子どもたちがじかに取材に出かけるというのもよかったんですけれども、これも時代の流れですかねぇ。後継番組は「もっと幅広い視聴層にわかりやすくニュースを解説する番組」だそうですが、そういう番組ってすでにいろいろあるのでは? 「子ども向け」と銘打っているから存在価値があったのでは?? 

* ... 以下、J. Wooding edit., The Otherworld Vorage, p.161-3. を参考にしました。

2009年07月04日

アイルランドの巨石文化!

 いまさっき見た「世界ふしぎ発見!」。個人的にはひさびさのヒットでした。アイルランドの巨石文化! で、くどいようだがニューグレンジやダウス、ナウスの巨大なマウンド(塚)遺跡とか、バレン高原(リポーターの竹内さんの立っていた壮大な海蝕崖「モハーの断崖」のあるところ)のドルメンとかは、紀元前250年くらいから波状的に上陸して定住しはじめたケルト人の作ったものではなくて、彼らが来る以前から住んでいた先住民族がこさえたもの。ケルト人渡来以前のアイルランド古代史を伝える神話のひとつ『アイルランド来寇の書(Lebor Gabála Érenn)』には、聖書の物語と自分たちとを結びつけるような書き方がされていて、はじめにやってきたのがノアの孫娘のひとりケシルで、その後つぎつぎと神話的種族が攻めこんできては興亡を繰り広げていたという。最後から二番目にやってきたのが「ダーナ神族(Tuatha Dé Danann、「女神ダヌーの種族」)」と呼ばれる神族で、アイルランド各地に残る巨石建造物を残したのは彼らだと言われています。この人たちは、イベリア半島から来たらしいから、ひょっとすると現在、独立問題でもめているバスク人の先祖ともつながりがあるかもしれない(バスク人もケルト系)。イベリア半島とブリテン・アイルランド諸島とは紀元前から交流があったことがわかっています。最後にアイルランドに上陸したのがケルト系の「ミールの息子たち(「ミレシアの息子たち」という言い方もある)」。そういえば「ダグザの大釜」というのが「ダーナ神族」の「神器」のひとつだったようですが、11年前に上野の東京都美術館でそんな伝説を彷彿とさせる「ゴネストロップの大釜」というみごとな遺物を見たことがあります(もっとも「ダグザの大釜」とは直接の関連はないけれども。こちらの「大釜」はデンマークで発掘されたもの)。今回の番組では、この謎多き「ダーナ神族」の残した巨石遺跡にスポットを当てて紹介していたし、なんといってもはじめて目にするものばかりでとてもおもしろかった。有名なニューグレンジ周辺にあるダウス(Dowth、「闇の丘」という意味らしい)とナウス(Knowth、こちらは「光の丘」)のふたつのマウンドについては、文字どおり本邦初公開の映像だったのではないでしょうか。ナウスのほうは、以前ここでも紹介した『巨石/イギリス・アイルランドの古代を歩く』の著者サイトにも写真が掲載されていますが、大きな塚のぐるりをかわいらしいケルン状の「小塚」が18も衛星みたいに取り巻いているという、ひじょうにユニークな遺跡です。ここの羨道取材、よく許可がおりたものだと感心した。なにしろこの手の「古墳(と以前は考えられていた)」型遺跡の内部ってなかなか撮影許可がおりないんですよね…ふつうのスティル写真でも。そしてここナウスの墳丘の羨道は、欧州でも最長だというからさらにびっくり。最奥部はニューグレンジとおなじく、円錐状に石が積み重なっていて、そこだけ天井が高く造られていたのも印象的でした。説明役の巨石文明研究家先生の言われるとおり、たしかにここはまちがいなく天文台的施設だったんでしょうね。日時計まであるし(世界最古らしい)。そしてあのぐるぐるの渦巻き文様。これはキリスト教化されたあともずっとケルト人のデザインとして残って、たとえばケルト十字の円環にも現れているし、『ケルズの書』の随所にぐるぐる渦巻いているのが見られますね。この世の無常を象徴するかのようなあの渦巻き文様、起源をたどっていくと、おそらくダーナ神族が残したと言われるニューグレンジやナウス、ダウス遺跡に見られる渦巻き文様になるんでしょうね(→参考サイト)。

 ストーンサークルやドルメンの中に入るとほんわかして暖かい…ダウジングの金属棒が激しく反応してくるくる回転する…というのは竹内さんにかぎらず、『巨石〜』の著者も、そしてほかの人もたいていおんなじこと言っているから、不思議ではあるけれどもわりとだれでも体験できるみたいです。ワタシもほんわか体験してみたい…。

 それはそうと、メイヴ女王の話まで出てきたけれども、あれってれっきとしたケルトの「英雄物語」伝承ではないかと…「アルスター物語群」のひとつで、英雄クー・ホリンが活躍することでも知られる「クーリーの牛捕り」なんかに出てくる、おっかない女王さまじゃなかったかしら? でも伝説の女傑メイヴって、立ったまま埋葬されていると伝えられているんですね。それは初耳でした。

 …「ミールの息子たち」に征服されてしまったダーナ神族は、体が小さくなって、地上世界を彼らに明け渡すかわりに、自分たちはドルメンなどの巨石建造物から「シイ」と呼ばれる地下世界(異界)へと退いたという…つまりは「妖精」になったという。数多く残っているアイルランドの妖精伝承はここからきています。またおなじくケルト色の濃いブルターニュ半島では海の中に「イスー」という「異界」があると言われています。とはいえ…映画版の『ハリー・ポッター』の魔術の世界と「ダーナ神族」とを結びつけるというのは…いささか飛躍しすぎ? まぁたしかにあとからやってきた「ミールの息子たち」とその子孫にしてみれば、ニューグレンジ遺跡なんか魔術以外の何者でもなかったんだろうけれども…べつの言い方をすれば、新石器時代の欧州各地に巨石建造物を残して消えていった「謎の文明種族」の高度な知識や技術も、ここですべてゼロになって彼らととともに永遠に消滅してしまった、ということ。ここで過去の記憶にひとつの大きな断絶があったわけですね。それゆえケルト人たちには彼らがどうやってこんな巨大な建造物を造ったのか、まるでわからなかった。またガーゴイルの語源についてはおもしろかったけれども(「うがい」して体から禍々しいものを出すということですね。もとは古フランス語の「のど」から)。たしかにあれ、アイルランドや英国のみならず、欧州大陸各地の大聖堂にはかならず「雨どい」としてガーゴイルたちが乗っかってますね。「グリーンマン」についてはケルト起源というよりは古代ローマ起源説をとるけれども、ガーゴイルの起源はどうなんだろ? こちらを見るとどうも古代地中海地方起源みたいですけれども…。

 20年ほど前にNHK教育で放映された「幻の民 ケルト人」というBBCのドキュメンタリーで、案内役のフランク・ディレイニーがゴルフ場の電動カート(?)みたいな小型乗用車に乗って、でっかい赤い風船を追いかけるシーンがありまして、「'Celtic'ということばはつかみどころがない」というようなことを言ってました。「ケルト的」と言われていたものが、捕まえてみたらじつはそうではなかった、というのはわりとよくあることだったりする。「ケルト的」ということばには注意する必要があります。

2009年03月16日

アイルランド系米国人にとっては

 明日17日は聖パトリックの祝日。きのうは富士山も見えたしおだやかな天気だったので、おそらく東京でのパレードはにぎわったことだろうと思います(いま、NHK-FMでジョン・ギロック氏のオルガンリサイタルを聴きながら書いています。前にも書いた、昨年ギロック氏が開いたメシアンのオルガン作品全曲演奏会からの抜粋)。

 アイルランド人にとっても、「新世界」へ渡ったアイルランド移民にとっても「聖パトリックの日」は自分たちのアイデンティティを再確認するための重要な日だろうとは思いますが、半年ほど前、まったく偶然にもWall Street Journalオンライン版になぜか(?)こんなコラムが掲載されているのを発見。書かれたのはけっこう古くて、2005年3月11日。たしかに書き手の言うとおり、アイルランド系米国人にとっては聖パトリックよりもむしろ聖ブレンダンのほうがお祝いするのにふさわしいかもしれないですね。コラムはわりとくだけた調子で書かれてはいますが、セヴェリンたちの実験航海に触れ、また「ブレンダンは北大西洋を横断して北米大陸に到達したかもしれない」という立場をとる海事史家サミュエル・エリオット・モリス*なども引き合いに出していることからして、この書き手もまた「アイルランド人修道士がレイフ・エイリクソンより一足先に新世界へ到達した可能性はある」という説を受け入れている人のようです。ひるがえってラテン語版『航海』では「聖人たちの約束の地」の位置はだいたいドニゴール海岸沖の「歓喜の島」からそんなに離れていない海域ということを暗示していて、また『航海』は文字どおりの記録というよりは文学的要素の強い「航海物語」ですので、ブレンダンにかぎらずマーノックとかほかのアイルランド人修道士がはたして北大西洋を渡って北米大陸までやってきたのかどうか、なんてことはけっきょくわかりません。でもすくなくともセヴェリンの実験航海によって、彼らの使った「牛の革を張った舟」というものにはじゅうぶんな耐航性能があるということは証明されているので、その可能性が100%ないわけではない。「ランス・オー・メドウ」のような考古学的証拠が見つかれば、そのときこそ彼らがヴァイキングより早く北米大陸に到達していたことが立証されるとは思うけれども、わからないままでもこれはこれでロマンがあっていいのではと思います。そしてこれは関係ないことながら、カナダのノヴァスコシアあたりの伝統音楽はアイルランド色が濃くて、ゲール語を理解する住民もけっこういるらしい。というわけでわたしも飲もう(笑)。Slàinte! 

*…モリスの著書The European Discovery of America: The Northern Voyagesには「聖ブレンダンとアイルランド人 A.D.400-600」と題して、北米大陸発見との関連でブレンダンと『航海』が紹介されています(pp.13-31)。

2009年02月23日

復活祭論争について

 本家サイトの一部記述訂正について悪しからずdisclaimerです。いわゆる「復活祭論争」の箇所ですが、最近、アイルランドで中世史を研究されていた方のブログを拝見したとき、ふと気になっていま一度664年ウィットビー大修道院での復活祭論争について、手許の資料をひまなときに精査してみました。結論から言うと、ちょっと誤解をあたえかねない書き方だったので、書き改めました。

 「復活祭論争」については学者先生の書かれた著書でも、たとえば「…ローマと直接結びつく南イングランドの教会と異なって長いあいだ孤立してきたケルト教会の宗規の違いは、衝突とはいかないまでも、論争を生み出さずにはいなかった(『キリスト教史 3』p.28)」とか、「…イングランド北部から南下してきたケルト系のキリスト教会の勢力と、南から進出してきたローマ教会系の勢力がその支配圏を巡って争い、キリスト教会分断の危険性さえ生じた(『イギリスの修道院――廃墟の美への招待』p.97)」といった記述があったりします。でもじつはアイルランド本土の教会、とくに南部マンスターやキャシェルではこれより早く復活祭日付のローマ式算定を採用していた。はっきりそう書いてある本の当該ページをもう一度繰ってみたら、しっかり傍線まで引っぱってあった(苦笑)。というわけでこの問題、いま一度整理しておこうと思います。

 まずウィットビーでのローマ方式採用にいたるまでのおおまかな流れです。↓

AD 605-617 ローマ教会から派遣された三人の司教がアイルランドの司教兼修道院長宛てに書簡を送る
628 教皇ホノリウス一世がアイルランド教会へ書簡を送る(Bede, HE II-4)
629, 630 アイルランド教会がこれを受けてマー・レナ教会会議を開催、ローマ方式への統一を決定するも、アイオナなど北部教会はこれに従わなかった
631-3 アイルランド教会側は裁定を仰ぐためローマへ使節を派遣、マンスターなど南部教会のみローマ方式採用
639-40 北部教会が教皇ヨハネス四世へ書簡を送るも、教皇は彼らを「クァルトデキマニ」* の異端とみなす
664 ウィットビーの宗教会議でカンタベリー大司教を代表するイングランド南部教会代表ウィルフリッドにアイオナ代表コールマンが論破される。コールマンはアイオナへもどり、のちに30人の修道士を同行してアイルランド西海岸沖の孤島イニッシュボーフィンへ隠遁
697 バーの教会会議でアイルランド本土教会はローマ方式採用を全会一致で決定、アイオナ共同体のみ孤立する
716 アイオナ共同体、アイルランド在住アングロ-サクソン人司教エグバート(Ecgberht)の説得により最終的にローマ方式へ譲歩
[註]HEはHistoria ecclesiastica gentis Anglorumの略記

以上、ざっと見てゆくと、重大な疑問がわいてきます…ウィットビー宗教会議は、はたして「ケルト系教会vs.ローマカトリック教会」という構図だったのか? 結果的にはたしかにそうだったかもしれない。けれども、664年のウィットビー会議までのあいだ、すでにアイルランド本土教会とアイオナなどスコットランドのケルト系教会とは、あきらかな温度差がある。これは630年のマー・レナ教会会議のあと、ダロウ修道院長だったキュミアンが、アイオナの修道院長にローマ方式への転換を説得する書簡の存在からしてもうなづける。ウィットビー会議の顛末を報告している尊者ベーダの『イングランド教会史(第3巻25章)』ではどうなってんのかと思ってこちらのサイトを見たら、会議でケルト派の主張をぶったのは聖コルンバの流れを汲むリンディスファーン司教コールマン(前任者は聖フィナン、祝日は今月17日)で、イングランド・北部教会ともども現地語に長けていたロンドン司教ケッド(ヨーク、リッチフィールド司教聖チャドの兄、このすぐあとペストで病没)をオズウィ王など現地語しか話せない人への通訳として立てていたとある。ようするにアイオナ−リンディスファーンつながり。アイルランド本土教会の代表が参加していたとはどこにも書いてない。書かれてはいないけれども、北部教会側がローマ方式受け入れという「事実上の敗北宣言」をしたのであらためて意思統一を、ということで開催されたのが697年のバー教会会議。ここではじめてアイルランド教会側は全会一致でローマ式復活祭計算を採用するも、頑固なアイオナ側はまたも拒否した、という結果に。けっきょくアイオナ側が折れるのは8世紀になってからです。

 イングランドにおけるこの「復活祭論争」を描いたベーダの書き方を見るかぎり、なにやら劇的で当地では対立が激しかったらしい印象…を受けるのですが、これはケルト教会への敬意を払いつつも、ローマカトリック側の視点から描いた作者の筆によるところが大きいように思う。アイルランド本土では、いかにもアイルランドらしくわりと緩慢に受け入れていったらしい。つまりベーダやほかの伝記作者(エディウス・ステファヌスとか)が伝えるような激しい論争、ということではなかったような印象を受けます。いくつか資料を探してみたけれども、この一連の騒動は、結果的に「アイルランド系教会がローマカトリック教会側と歩調をあわせた」、ただそれだけのことににすぎないようです。たぶん彼らは自分たちがローマ側に「敗れた」というふうに認識すらしていなかったかもしれない。なので、やっぱり「アイルランドのケルト教会vs.ローマ教会」のような単純な図式は成立しない。アイルランド側では一部とはいえすでに「ローマ式復活祭日取り算定」を受け入れているし、「孤立していた」わけでもなくて、ましてや「異端」とみなされてもいなかった。当時はまだローマ教皇の権威がそれほど強くなくて、典礼方式も各地方教会によって異なり、ガリア式典礼、モサラベ式典礼、アンブロシウス式典礼、ケルト式典礼ありとまさしくバラバラ。もっともベースになっているのは「ローマ式典礼」だったけれども、大陸での社会秩序が落ち着いてくるにつれて発言力を増したローマ教会は、地方教会にも教皇を頂点とする司教区制度を徹底させるようになる。当然、氏族中心の修道院共同体だったアイルランド教会にもローマカトリック式司教区制度へ改めるように働きかけはじめる(パトリック来島以前に存在していた初期アイルランド教会では、ブレンダンの教師でもあったエルクはじめ、司教はいたにはいたけれど、あくまで従来の氏族社会に適応させたものでローマ教会のそれとはまったく異なる。のちに修道院長の権限が強くなると司教兼任の修道院長も多数出てきて、ローマ教会側はこれにも不満だった)。そうこうしているうちにこんどはヴァイキングがやってきて、アイルランド各地の修道院は大混乱に陥る。こういう不幸な出来事が重なって、アイルランドでは11世紀のクリュニー改革運動をへて12世紀にはシトー会などの定住型修道院に置き換わっていった…と考えていいのではないかと思っています(またこの時期はノルマン人とともに来島したアウグスティノ会などの托鉢修道会も活動をはじめていた。イングランドではウィットビー会議以降、部分的にベネディクト戒律を採用していた修道院が多かったこともあって、ベネディクト会系修族に置き換わった共同体も多かった)。以上、disclaimerと備忘録まで。

*...クァルトデキマニは、ユダヤの「過ぎ越しの祝日(ニサン月の14日目)」に復活祭を祝う古い慣例。314年アルル宗教会議で全教会がローマ教会と同一日付で復活祭を祝うことが決定、325年のニケア公会議ではローマ教会はアレクサンドリア方式(復活祭を3月21日春分後最初の満月のあとにくる主日とする)を採用、このときクァルトデキマニ方式は異端として破門された。ちなみにアイルランド使節がローマ滞在中の631年は、ローマ教会とアイルランド伝統派との復活祭は前者が3月24日、後者が4月21日とひと月近くも(!)ずれていた。

参考文献: J.F.Webb, D.H.Farmer trans. & ed., The age of Bede, p.15, pp.22-3, pp.116-8.

William M. Johnston ed., Encyclopedia of Monasticism Vol1, pp. 265-8.

盛節子 『アイルランドの宗教と文化――キリスト教受容の歴史』、pp.182-8.

2009年02月08日

アイルランドもたいへんだ

 かなり前なんですが、NYTimes電子版にアイルランド経済の窮地について報じた記事がありました。記事が掲載されたあと、先月中旬に現アイルランド首相カウエン氏が来日していたことはあいにく知らなかったけれども。寡聞にしていまのアイルランドについては現地に住まわれている邦人の方のブログとか、あるいはこんなニュース速報サイトとかで知るのみではなはだ心許ないけれども、Times記事を見るかぎりでは日本にも増してかなり深刻な事態に陥っているようです。とくに南西部の地方都市リメリック(ブレンダンを養育した聖女イタ[祝日1月15日]ゆかりの地)の窮状は酷い。失業率なんと14%、地区によっては70%にも跳ね上がっているというから驚く。記事でも紹介されている不動産王の話とかを額面どおりに受け取るかぎりでは、「ケルトの虎」と呼ばれた経済成長も、けっきょくのところ「アイルランド版不動産バブル」に踊っていたふしがある。もっともこれはアイルランドだけの現象ではなくて、ITの普及に伴って加速度的に「金融のグローバル化」が波及したいまでは全世界的に「同時不況」の荒波に呑みこまれている。スペインやフランスなどほかのEU諸国もアイルランドと似たような苦境に陥っています。アイルランドは1990年代までは欧州一の最貧国と言ってもいい状態だったから、「ケルトの虎」と呼ばれるまでに建て直した政府の政策じたいは評価していいように思う。でもなんでもそうだけど、ここにも落とし穴があった。外資依存経済だったから、いざ金融危機が表面化するとみんないっせいに自分の手許に資金を残そうとあせるから、アイルランド経済へ投資されていた資金がこんどはいっせいに逆流しはじめる。「サブプライムローン」の証券化なんて、はっきり言って米国はじめ実体経済(メインストリート)から乖離し、欲望の赴くままに暴走した金融機関の身から出た錆で、われわれ庶民にはあずかり知らぬことなんですが、いったん信用収縮がはじまると外貨依存度の高い国ほど、いままでとってきた政策が裏目に出てしまう。アイスランドがその典型的な例で、国じたいが資金枯渇状態になってしまった(そのアイスランドでは女性首相が誕生しましたね)。アイルランドはEU加盟国ではもっとも早く「国内銀行口座の預金全額保護」を打ち出して国民には歓迎されたけれども、ほかのEU諸国の金融機関や預金者、とくにとなりの英国の銀行と預金者はこのとばっちりをもろに喰らうことになって、当たり前だが顰蹙を買う結果にもなった(→参考記事)。さらにドイツもアイルランドにならえとばかりに自国銀行口座の全額保護に走ったから、EU諸国の足並みは乱れっぱなし。そんなこんなでいま、対円ユーロ安になってるんだろうか? …先日、Amazonの「買い物かご」をチェックしたら、ユーロ圏の本やらCDやらのあまりの値崩れに驚愕した(最大2000円も安くなっていた商品があった)。そういえばポンドも対円相場が値崩れして、英国国内盤CDも安くなっている。このようにモノもカネも一瞬のうちに世界を駆け巡ってしまうところが、80年前の大恐慌時とは決定的に異なるところ。なので「この世界同時不況から最速で脱出する」なんてことはだれが見たって――経済にまるでうとい自分でさえ――笑止千万なことは一目瞭然。自分だけお先に失礼、なんて芸当は「グローバル経済」にどっぷりつかってしまっている現状ではどう考えてもできっこない。地方銀行でさえサブプライムローンの不良債権を抱え、われわれの働く賃金だって低賃金の国に引っぱられる時代なんですから。それにこのたびの金融危機だって、もとをたどっていったらじつは日銀が長年取ってきた「ゼロ金利政策」ではないかと指摘する声もあったりする。ツケがまわりまわってきたということか。

 いずれにせよいまの経済構造は望ましい方向へと変えていかないと、もっとたいへんなことになりかねないと思います。マッキベンやオバマ新大統領じゃないけれども、いまの経済構造は「ほんの一握りの人のみ」にカネが集中し、あまねく人間を幸福にはしないシステムだし、また温暖化もふくめて「持続可能なシステム」とはとうてい思えない。たぶん何十年か後には、まさしくいまこのときが、人間の歴史の分岐点だったと書かれるでしょうね。もっともこんなこと書くと反論がくるかもしれない。あまねく人間を幸福にする、なんてことはできない、と。でもいままでのやり方が行き詰っている以上、「もうすこしましな」方向へと進むべきだと思う。

 Times記事にもどると、リメリックの最貧地区で一所懸命、奉仕するニューヨーカーのフランシスコ会青年修道士の話が紹介されています。「ある男性が奥さんと息子と娘を射殺した話がありました。彼は借金漬けだったんです。富の追求に汲々となる人々が見出すのは、けっきょくこれではまだ足りない、まだ足りないという渇望感だけなんですね」。いまこそ「足るを知る」という発想が世界規模で必要とされている時代もないのかもしれない。

参考文献:浜矩子著『グローバル恐慌――金融暴走時代の果てに』(岩波書店、2009)

2008年11月29日

バーの聖ブレンダン

 今日、29 日はもうひとりの聖ブレンダンの祝日なので、ここにもすこし書いておきます。

 手許の資料によると、疑問符つきながら 490 年から 573 年まで生きた人らしいので、聖ブレンダンと同時代人。船乗りのブレンダンとともに「アイルランド 12 使徒(Dá apstol décc na nÉrenn)」のひとりで、修道院草創期の聖人序列もおんなじ二番手。本家サイトには「親戚関係にある」とかなりはっきり書いてしまいましたが、あらためて調べなおすとそう書いてあるかんじんの資料が見当たらなくて、自分もいったいどれを見て書いたのだろうと…いまごろになって頭を掻いているしだいです。なので多数派を取って問題の箇所は訂正します。あしからずご了承ください。たんなる思いこみで筆が滑った、ということはおそらくないとは思うのですが、今後は訪問された方に誤解をあたえないように事実関係の調査にもっと注意を払います。m(_ _)m

 「バーの聖ブレンダン」のほうは、父親が Neman という名の詩人だったらしい。ということはフィリと呼ばれた階層の人なんだろうか。クロナード修道院でほかのケルトキリスト教草創期の聖人たち、コルンバ、キアラン、カニス、そして船乗りのブレンダンといっしょに聖フィニアンのもとで学んだ。このクロナード修道院時代に「年下の」ほうのブレンダンと知り合ったらしい。叙階されたあとはほかの聖人同様、アイルランド各地に修道院を建てていき、563 年ごろにバー ( Birr ) に修道院を建て、亡くなるまでそこの修道院長をつとめていた。その間、コナハト王家の血なまぐさい内輪の抗争について教会会議が開かれ、王族の一員であるコルンバをアイルランド教会から追放処分とする決議が下されると、コルンバはどこへ向かうべきか、クロナード時代からの親友でもあるブレンダンに相談したという。その結果、コルンバは12人の弟子とともにイー島 ( ヒンバ島 ) 、そしてアイオナ島へと渡り、そこを北の布教拠点とさだめた。また一説ではこちらのブレンダンは禿げていたらしい。11 月29 日の夜にバーで亡くなったとき、はるかかなたの孤島にいたコルンバは、天使たちに守られて天に昇ってゆくブレンダンの幻影を見て、古くからの友人が召されたのを知ったという話が『聖コルンバ伝』第3章に出てきます。コルンバはある朝早く、バーのブレンダン院長が召されたから聖餐式を挙げるようにと弟子のディアルマイに命じた。弟子が、アイルランドからはそのような知らせを伝える使者は来ておりませんがと問うと、昨夜、天の扉が開き、天使の聖歌隊が地上に降りて、ブレンダン院長の霊を迎えたのを見た、全世界がとほうもない輝きを放つ光で満たされたのだ、と語ったといいます(→参考サイト)。またカール・セルマーによると、『レンスターの書』には17人の聖職者がブレンダンという名前をもっていたと書いてあるそうです。

2008年10月25日

1050年ごろの詩?!

 たまに本屋さんに立ち寄るとたいへんな掘り出し物が出てきたりして、ある意味困る。それもけっこうお高い本。こういうときにかぎってお足があんまりない。でも資料価値があったりするとなると、やっぱりほしいかも(笑)。とりあえずは図書館頼みということになりそうです。

 その本、『総説キリスト教』は、大作ながらひじょうにわかりやすく解説してある良書でした。とはいえ立ち読みしていると、だんだん手がしびれてきた(苦笑)。オビの惹句のように、たしかにこれ一冊あればとりあえず足りるのではないでしょうか。強いて言えば、「キリスト教会と音楽」の項目がない。でもこれはいたしかたないところではある。このテーマで何冊も本が書けてしまう、というか、事典が何冊もできてしまう。ミサひとつとっても、これだけで何冊もの本が書けてしまうくらい複雑な代物ですし。逆に言えばこのへんのことをなにか調べようとしたら、あるていどの分量を読みこむ必要があるということでもある。

 手許にあるキリスト教関係書籍をざっと見ても――といってもそんなにたいした分量じゃないですが――たいていは翻訳もので、これもしかたないところ。やはり日本人著者では限界がある。そのいちばんいい例が、アイルランド教会、ケルトキリスト教関係の本。知っているかぎりでは、岩波から出ている(ひょっとしてもう絶版?)『ケルトの聖書物語』、そして日本基督教団出版局から出ている『アイルランドの宗教と文化―キリスト教受容の歴史 』くらいのものではないだろうか。絶対数じたい少ないのはこれまたしかたないけれど、立ち読みしたこの本にもちゃんと通史の項目に「ケルトキリスト教会」について簡潔ながらもきちんと書かれていて、しかもそれがひじょうに正確です。たとえば一部アイルランド人著者しか書いてこなかった、「聖パトリック来島以前からアイルランドにはすでに修道制を規範とする教会があった」ということにもちゃんと言及しているし、アイルランドへキリスト教が伝えられたのはウェールズのケルト教会経由のルートもあることがさりげなく書かれている。個人的にはこういう記述を見ると小躍りしたくなる。597年に聖コルンバが亡くなったのと相前後してブリタニアにオーガスティンたちローマ教会の宣教団が上陸して、当地の教会組織のローマ化を推進したことはもちろん、ウィットビー教会会議にいたるまでの経緯も平易に、でも正確に記述している。314年のアルル公会議にアイルランドからもすでに聖職者一団が参加していることにも触れている。ウェールズ、アイルランド、そして聖ニニアンのカンディダ・カーサのあったスコットランド西海岸にはすでにケルトキリスト教会が存在していた。そんなアイルランドにやってきたのが、聖パトリックということになる――ここが肝心な点。パトリックがアイルランドにキリスト教を伝えたんじゃありません。すでにアイルランドにはキリスト教徒はいたのです(前にも書いたけれども、聖パトリックが実在したのかどうかについては懐疑的な見方をする学者も多く、たびたび「史的パトリック論争」が持ち上がった)。またけっきょくローマ教会との論争――復活祭の日取りや剃髪型をめぐる枝葉末節的な論題――に敗れたケルト教会の影響力は、紀元800年以降急速に衰えたとも書いてありました。ノースメン(ヴァイキング)による略奪とか、大陸側でローマ教皇を頂点とする司教制度が確立された時期と一致しますね。また「聖パトリックの胸当て」について、「エフェソの信徒への手紙 6:11-4」で言及されている「神の武具」がモデルではないかとも書いてあり、これは初耳だったのでたいへん参考になりました。もしここが本屋じゃなかったら、「すいません、このへんのページだけコピーお願いしまーす!」と言いたかったくらい(笑)。

 …というわけでページを繰ったら、うれしいことにブレンダンのことも書いてありました。で、目を引いたのがこれ。「『聖ブレンダーヌスの航海記』(1050年)という詩(p.378)」…??? このへんの記述を頭に叩きこんだうえで帰宅してからさっそく調べてみた。『航海』の各写本の制作年代については、いっぱいありすぎて自分でもいちいち憶えてません(苦笑)。拙サイトものぞいてみたりして(苦笑x2)。ブノワ版『航海』が編まれたのが12世紀初頭、ついで中世オランダ語版『航海』の原型が編まれ、最古の英語版と見られるものが13世紀成立なので、そうとう古い。ひょっとしたらこれラテン語版『航海』では最古の写本とされる仏アランソン市立図書館にある写本のことを指しているのかもしれない。でも研究者のあいだでもアランソン写本成立年代についてはまちまちでして、マリオ・エスポジトによれば12世紀、カール・セルマーは11世紀だとする。なので「1050年」というのがいったいどの写本を指しているのかがいまいちわからずじまい。もうすこし調べてみようと思ったしだい。そういえばもうハロウィーンの季節。前にもここで触れたけれども、もとはSamhain(Samhuinn)というケルト諸部族の「大晦日」のお祭り。またリンク集に入れてあるこちらのblogには、'trick or treat'にまつわるちょっとおもしろいこぼれ話(?)が書かれていますのであわせて紹介しておきましょう。

2008年07月12日

ブレスト帆船祭にも登場!

 オリンピックよろしく4年ごとに開催されるブルターニュ半島フィニステール(最果ての意)県の軍港・ブレスト帆船祭。今年は唯一の日本代表として、自分も昨年ちょこっと乗った、焼津八丁櫓も参加するというので、静岡でもにわかに盛り上がっています。で、さっそく公式サイトを見てみたものの、参加している帆船があまりに多いためか、八丁櫓関係の言及は見つけられず。ところが、トップページの画像に目が釘付けになりました。おおッ!! 、わがHNでもあるCurraghが写っているではないですか!!! 

 こちらの記事を見ると、どうも北西部メイヨー州(県)クルー湾で使われているカラフ(カラハ)らしい。くわしい解説記事(英語版)にもちょっとびっくり。牛のなめし革の船体が、タールを塗ったカンヴァス張りに変わったのが1845年ごろのことらしい。ということは、バッハやモーツァルトの時代にはいまだ聖ブレンダン当時のまま、ハシバミやトネリコの木材を組んだ木枠に牛革張りという構造だったということになる。記事はもちろんと言うべきか、1976-77年にティム・セヴェリンがおこなったレプリカ船による北大西洋横断航海のことにも言及しています。そしてこれはたしかポール・ジョンストンもおんなじようなこと書いていたような気がするが、そのつぎのカナダの学者先生の説がひじょうに興味深かった。この伝統漁船とならんでアキル島の伝統漁船アキルヨールなる帆船も持ちこんでいたようですが、こちらはあきらかにヴァイキング船の子孫とも言うべき帆船。もとはオランダ語のjolからで、語源的にはyachtとも近い。

Other experts in Canada go so far as to say that curraghs were used to transport the 33 huge 3 to 5 tonne blue stones that form a circle inside the upstanding ‘sarsen’ stones that form Wiltshire’s Stonehenge in England from the Preseli Mountains of south-west Wales in around 2300 BC.

そういえばいまさっき「世界ふしぎ発見!」でもストーンヘンジ、やってましたね。おそらく日本のTVでははじめてであろう、アウー・ヘブリディーズのルイス島にあるカラニッシュ遺跡テンプルウッドの「月の踊る石台」のあるストーンサークルとかもばっちり映し出されていて、こちらもひじょうにおもしろかった。革舟カラフはストーンヘンジ時代からブリテン諸島の人が駆っていた舟なので、あの「ブルーストーン」の大石も、見た目はなんとも頼りなく、華奢ではあるけれど、このような獣皮船で運搬されたであろうことは、かなり以前から指摘されてきたことです。また記事ではボイン渓谷流域でのカラフの造り方も紹介されていますが、これはむしろウェールズ地方とおんなじタイプの、言うなれば桃太郎の乗った「お椀」型コラクルに近いもので、アイルランド西海岸で使われる耐航性能の高い「外洋航海型(ocean-going)」とはちがうもので、区別して扱うべきだと思う(→参考動画。ついでに番組に出てきたgreen manも、もとをたどれば古代ローマ神話に出てくる豊穣の神だかなんだかだったように記憶している。つまりは南方起源で、ケルトおよびピクト人の発想物ではない、ということ[→参考サイト])。

 19世紀、アイルランドをジャガイモ飢饉が襲ったとき、人々はカラフに乗って西の果て米国東海岸を目指して船出して、結果多くの犠牲者を出したけれども、それはやわいカンヴァス張りの小舟であって、ブレンダンやコルンバの使ったようなもっと大型でがっちり牛革を張って頑丈に造られたタイプの舟でなかったから。おかげでカラフ=棺桶船なんてありがたくないあだ名までちょうだいしてしまった。

 セヴェリンがディングル半島の伝統漁船カラフを調査したときは、まだカンヴァス張りの舟だったけれども、いまははるかに丈夫なグラスファイバー製の船体がほとんど。アキル島のものはブレンダン号のモデルになったケリー型とちがって船尾(艫[とも])が反り上がってないタイプのようですが、サイトにも転載しているコナーさん撮影の「コネマラ地方のカラフ」のように、小型で、四角いトランサム(船尾肋板)をもったタイプが主流のようです。それとアイリッシュ・カラフの特徴としては、ひじょうに軽い、ということも挙げられるでしょう。それゆえきちんとした船揚げ場がなくても、舟をひっくり返してみんなで担ぎ、波の来ない安全な高台へ運び揚げることができます(↓の動画参照)。

In many regions, a number of today’s curraghs tend to be shorter and feature a square transom which will more easily accommodate an outboard motor. Furthermore, modern curraghs are much heavier and are even sometimes covered in fiberglass.

 アイルランド西海岸の伝統漁船curraghは、またの名naomhógともいう。発音は「ニーヴォーグ」に近い。本家サイトにもすこしだけnaomhógについて触れていますが、どうも事実誤認をしていたようで、悪しからず訂正させていただきました。m(_ _)m カラフついでにもうひとつ、聖コルムキレ・プロジェクトというのがかつてあって、いまさっき検索途上で偶然、公式サイトらしいものを見つけました。このプロジェクトはもともと、聖コルンバ(コルムキレ)没後1400年記念の1997年、スコットランドから聖人ゆかりの地アイオナ島へとコルンバを偲ぶ航海をおこなうための企画で、National Geographic誌にも取り上げられた。このページを見たら、2003年にも北アイルランドとアイルランド共和国の平和共存をアピールするためのアイルランド島一周航海をスペインやブルターニュから参加した伝統帆船とともにおこなったみたいですね。ただしこちらのレプリカ船は、タールを塗ったカンヴァスを三重に張った船体に、船外機付き。姿かたちはコルンバ時代のカラフを忠実に再現してあるようですが、船体はさすがに本物の牛の革というわけにはいかなかったようです。



 …本題とは関係ないけれど、午後、たまたまNHKラジオ第1を聞いていたら、海洋冒険家の堀江謙一氏がしゃべっていました。波浪推進船という、いかにも堀江氏らしい斬新で、環境にもっとも負荷のかからない船での単独航海。いまはGPSがあるから現在位置を知るのもかんたんになったとか言ってましたが、使えなくなったときの用心に、昔ながらの六分儀も用意していたとか、夜中にイカやトビウオが飛びこんでくるとか、船舶往来のある水域に入るとペットボトルなどの浮遊ゴミがとたんに多くなるとか、船も出港したときとほぼおなじコンディション、ネジ一本折れなかったなど、こちらも興味深いお話が満載でした(ちなみにこちらの英文blogは自分もちょくちょく覗いているけれど、堀江氏の今回の航海についても書いています)。堀江氏は従来のアマチュア無線のみならず、日本の子どもたちと衛星電話を使ったインターネット経由でのやりとりもしていたと話していましたが、ここらへんがいまの時代の冒険航海らしいところですね。船舶用衛星電話を使ったネット通信、というのは1996年、セヴェリンが植物学者アルフレッド・ウォレスの足跡をたどる航海をおこなったときも活用していましたが、本格的に使われだしたのは、やはりここ数年のことのような気がします(corrected)。

2008年06月16日

アイルランドがリスボン条約を否決

 EUの改正条約として調印されたリスボン条約。先週、アイルランドでその批准の是非を問う国民投票がおこなわれ、開票の結果、条約は否決(反対53.4%、賛成46.6%、投票率53.1%、関連記事その1その2)。条約発効には27加盟国すべての承認が必要なため、事実上リスボン条約は暗礁に乗り上げたかっこうになりました。アイルランドのみ国民投票にかけたのは、アイルランド国内の規定のため。カウエン首相はリスボン条約推進派だっただけに、国民から突きつけられた結果にショックを受けているらしい。

 「拡大EU」と言うと聞こえはいいのですが、加盟国――アイルランドはEC時代からの古参加盟国――の一般市民からすると、あらゆる権限がブリュッセルのエリート層のみに集中し、民主主義そのものが軽視されかねない、自分たちのあずかり知らぬところでつぎつぎとことが決定されるのはまずい、という「不信感」もまた強いようです。アイルランドは自主自立志向の強い国民性、というイメージがあるので、今回は批准しないというボールを投げた、なので批准してほしければこんどはブリュッセル側からボールを投げ返すべきだ、というメッセージにも思えた。その昔、聖コルンバヌスが教皇ボニファティウス4世に宛てて「対等な立場で」物申した私信をしたためたのとおなじような感情なのかもしれない。

 アイルランドのあるニュースサイト内記事には、キャメロン英国保守党首の発言として、こんなことが書いてあります。

“The elites in Brussels have got to listen to people in Europe who do not want endless powers being passed from nation states to Brussels. They do not want these endless constitutions and treaties.”

アイルランド国内のあるシンクタンク所長もこんなこと言っています。

“This is a resounding victory on behalf of ordinary people across Europe over an out-of-touch and arrogant political elite,”

 アイルランドはいま経済が好調だから、国民は自分たちの利益重視の結論を出したのだ、という評もあるようですが、それだけでもないでしょう。基本的に欧州の人は、自分たち国民の意見を無視する独裁に走ることをなによりも警戒している。いまの欧州はある意味最大の実験をしているとも言えますが、あるていど揺り戻しはしかたないところでしょう。とはいえ環境対策ではEUは世界を引っぱっている印象を持っているだけに、このへんの擦りあわせはたしかに難しい問題かもしれない。

 アイルランドは日本よりも早くIT化が進み、税制上の優遇措置と移民を労働力として受け入れ、「ケルトの虎」の異名をとるまでに経済発展してきましたが、最近ではいっときの勢いはなくなっている。一字ちがいのアイスランドもまたIT先進国で、長らく好景気に沸いていたけれど、こちらのTimes記事にもあるように金融不安が広がって、通貨クローナの価値まで下落している。EUも、加盟国が増えれば増えるほどまとまりがつかなくなりがち。木曜日からEU首脳会議が開かれて対策を講じることになるそうですが、EUはまさに正念場を迎えているということにはちがいない。

 …EUついでにもうひとつ。EUの世論調査機関ユーロバロメーターがまとめた統計によれば、一回当たりの酒量がもっとも多いのはアイルランドだったそうです。酒の種類は特定していないものの、「一回につき5杯以上」飲むという回答率はアイルランド人34%と、EU加盟国中最多だったとか。ついでフィンランド、英国とつづき、もっとも飲まない国民はブルガリア人で、5杯以上飲む人の割合は1%だったらしい。だからといって、アイルランド人がみな飲んべえでブルガリア人は健康的だ、というわけではないが…自分も夏になると、ギネスが飲みたくなる口なので(先日飲んでた人)…。

2008年05月18日

聖ブレンダンにまつわる古い伝説

 先週16日はSaint Brendan's Dayでした。以前、「聖ブレンダンと音楽」と題して「リズモアの書」に収録された民間伝承を取り上げましたが、今回はおなじ書物から、もうひとつの古い言い伝えを拙訳にて紹介したいと思います(この伝説は「レンスターの書」にも収録されているようです)。

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3人の若い巡礼者の伝説

 アイルランドの若い聖職者3人は巡礼の船旅に出た。おおいに喜び勇んで船出した。3人は糧ももたず、ただ三枚のビスケットのみを携えて旅立った。ひとりが言った。「子猫も一匹、連れて行こう」。

 さて大海原に出ると、3人はこう言った。「キリストの名において櫂を捨て、この身をすべて主のご慈悲に委ねよう」。3人はこれを実行した。

 ほどなくして3人はキリストの加護のもと、とある美しい島に漂着した。島には薪も飲み水も豊富にあった。「われらの島の真ん中に教会を建てよう」。こうして若者たちは教会を建てた。連れてきた子猫はいずこへと消えたかと思えば、3匹の鮭をくわえて帰ってきた。こうして猫は、一日分の糧として3匹の鮭をくわえて帰ってくるようになった。若者たちは言った。「おお、神よ! このままではわたしたちの巡礼は巡礼にあらず。日々の糧は連れてきた子猫がたっぷりもたらしてくれるし、子猫が捕ってきた魚をいただくのも悲しい。今後は猫のお相伴にはあずからないことにしよう」。かくして3人は飲まず食わずで過ごしたが、まる一日経ったとき、精白していないパン半斤と魚一匹が祭壇の上にそれぞれの分あるというキリストのお告げを聞いた。3人は言った。「父なる神に代わって糧を賜りしわれらが救い主の御業に感謝を捧げよう」。

 「ではまずわたしは日々の祈りとミサとともに、150の『詩編』を歌うことにしよう」ひとりが言った。

 「わたしは日々の祈りとミサとともに、150の長い祈祷をあげることにしよう」もうひとりが言った。

 「わたしは日々の祈りとミサとともに、聖ヒラリウスの賛歌『兄弟たちよ主を讃えよ』を150回歌おう」3人目が言った。

 それから長い長い歳月、3人はめいめいの祈りをあげたが、とうとうひとりが亡くなってしまった。残ったふたりはレクイエムをあげ、彼を埋葬した。ふたりは150回の『詩編』唱を彼に代わって引き受け、分担して毎日歌った。

 ほどなくしてまたひとりが亡くなり、残る同志ひとりが亡くなったふたりの祈りをすべて引き受けたが、ひとりの身にはこれらすべての務めは重荷になった。

 そこで、たったひとり生き残った聖職者はこうひとりごちた。「神は、わたしなんかよりあのふたりのほうを深く愛されていたのではないのか? ふたりをご自分の御許へ召され、わたしはただひとりここにこうして取り残されてしまった」。

 すると天使がやってきて、彼に言った。「汝の神は、汝のそのつぶやきにお怒りだ。汝は神の恩寵なくして、かくも命長らえることがあろうか」。「ではなぜ神はあのふたりのようにわたしにも死の苦しみをお与えにならないのですか?」。天使がこたえる。「それは汝らが日々の祈りを割り振ったとき、汝らが選んだことだ。この地で『詩編』150編を選びし者は、短命になり、もっとも早く召される。150編の祈りを日課とした者は、あらかじめ定められた生をまっとうする。『兄弟たちよ主を讃えよ』を150編歌うと決めた者はこの地で生き長らえ、その後天の王国で過ごすことになる」。

 「そなたを遣わした主に祝福を。神に深く感謝いたします」。

 かくして聖職者はこの島で生き長らえて年老い、やがて聖ブレンダンが海のかなたから現れて島を訪れ、老人を祝福した。聖ブレンダンは「臨終の聖体拝領」を滞りなくあげると、老人は天に召された。その後この島では、天使たちが3人の眠る墓を守っている。(from Denis O'Donaghue, Lives and Legends of Saint Brendan The Voyager, 1895, pp.273-76)

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 この伝説、じつは『ケルトの聖書物語』に収録された『聖ブレンダン伝』に出てくる「巨大な海猫の島に住む老人」の挿話(pp.136-7)とじつによく似ているのです。『聖ブレンダン伝』では老人は、「12人の巡礼者の最後の生き残り」として登場し、子猫は海猫(!)に化けています。根拠不明ながら、編者オダナヒューはこの古い伝承の解説で、こちらの「伝説」が「原型」となって、『聖ブレンダン伝』に取りこまれた挿話が成立したと書いています。オダナヒューによれば、「12人の巡礼者の話」は8世紀後半に編まれたとされる『聖オエングスの連祷』にも出てくることから、こちらのヴァージョンがアイルランドではひろく流布していたのではと推測しています。

2). アイルランドがらみでは、つい最近こんなのも見つけました。↓



2007年09月07日

アイルランドの潮力・波力発電

 最近のアイルランドは昔のイメージとはすっかりさま変わり、いまや「ケルトの虎」なんて通称で呼ばれたりします。

 想定外の地震動に見舞われ、長期停止と点検調査を余儀なくされている原発天国日本とちがって、アイルランドでは環境に配慮した新しい発電のあり方を研究していると聞きます。

 たとえばこちら。英国のMarine Current Turbinesという会社の開発した世界でもはじめてという商用潮力発電施設。北アイルランドの汽水湖ストラングフォード湖に建設予定とのことで、これはすばらしい試みではないかと思う。設備容量は1,200kwでなんと一千世帯分の電力供給が可能とか。でも「潮力発電」ってたしか昔日本でも実験していたような気が…潮の流れの速い水域、あるいは浜名湖みたいな汽水湖に使えそうなアイディアだと思いました。同社はこれを積極的に売り込むと意気込んでいるので、北アイルランドで成功したら海洋国である日本にも売り込みに来るかもしれませんね。

 いまひとつはこちらで、波浪の力を発電に使おうという、「波力発電」。「海洋研究所」という機関がアイルランド西海岸ゴールウェイ湾北側に試験場所を提供、もっかふたつの会社がそれぞれの試験施設を設置してテストを繰り返してきたといいます。

 そのうちの一社Ocean Energyは昨年12月から試作機を海中に投入して実験をつづけててきた。波高8mを超える冬の時化を乗り切って、先月からは実用化レベルの試作機を投入してテスト稼動させているらしいです。

 アイルランドの電力事情は日本と同様、石油など化石燃料輸入に依存する割合が高いので、エネルギーの海外依存体質からの脱却をめざしつつ、環境にやさしい、シンプルな発電施設を自前で用意しようと努力中らしい。もっともアイルランドには以前から特産(?)の泥炭(peat)を燃料にした発電施設もあるにはあるけれど、どうも効率があまりよくないようで、泥炭発電の割合は総発電量の10%ほど。この前見たNHKスペシャルではないけれど、日本もいざトラブルが発生するとなかなか復旧しない、複雑で危険極まりない原発依存体質から脱却して、もっと自然エネルギーを活用した、トラブルが起きても割合早く復旧できる「シンプルな」発電所を作るべきだと感じます(→Wikipedia参考記事)。

 せんだって地元紙の読者投書欄にアイルランドに行ってきたという女性の投稿が掲載されてました。たとえばかの地のスーパー。カートはなんとコインロッカー方式!! コインを入れてカートを借り、返却時にコインがもどるシステム。おかげでいつもカートはきれいに整列。レジ袋ももちろん有料、日本円で一枚約25円。公園のごみ箱も耐久性と実用性を兼ね備えた優れもので、景勝地にも紙のチラシのたぐいはなるべく置かずかわりに案内人を配置、トイレでは節水のためのハンドドライヤーに節約型のトイレットペーパーなどなど、はじめて目にするものばかりでたいへん驚いたと書いてありました(日本の景勝地の場合、どういうわけか煙草の吸殻がひじょうに多い。黄金崎なんかも吸殻がよく落ちているので、行くたびに拾ってます…もうすこしなんとかならんか)。

 …台風一過でようやくひと息(夜半過ぎにちょっと出水してあせった)。

 …アイルランドついでにいまさっきGuinessを飲んでました…ワインも好きだがGuinessもけっこう好き(日本人のくせしてポン酒が飲めない人)。

2007年05月16日

聖ブレンダンの祝日

 Happy St Brendan's Day! 今年もまたこの季節をぶじむかえることができて、ひとまずは聖人に感謝。

 ディングル半島ではこれからが本格的な行楽シーズン、ということでいろいろなフェスティヴァルが催されるみたいですが、こちらのサイトを見ると7月になんとカラフレースが開催されるらしい。以前、そんなカラフレースのもようをYouTube で見たことがありますが、残念ながらそのクリップ、いまはもうないらしい。お祭り、と言えば今月1日のMay Day。The English Chorister の記事でもちょこっと書いた、モードリンカレッジ聖歌隊による「メイ・モーニングの合唱」や、メイ・ポール…といったお祭りが各地でおこなわれますが、これももとをたどればケルト人の年間4大祭祀のひとつ、「ビャオルタネの火祭り Féis Beltaine」に起源があります。

 …とそんな折りも折り、今年はあのホクレア号が遠路はるばるぶじ日本到着。沖縄を皮切りに順次北上中。来月は横浜にも来るらしい。見に行こうかな♪
 
 ティム・セヴェリンが復元船「ブレンダン号」に乗船して、4名のクルーとともに聖ブレンダンの航跡をたどる実験航海に船出したのが31年前の1976年5月17日の暮れなずむころ。この実験航海のために3年半をかけて入念に準備・舟の建造に当たったセヴェリンは、当然、「聖ブレンダンの祝日」当日に出航する予定でした…でもあいにく海はかなり時化て、それどころではなかった。天候不順による出航延期はよくあることですね…しかたなくつぎの日の夕方、潮が引きはじめたころを見計らって出発した、というしだい(参考→本家サイトのブレンダン号航海ページ)。
 
 来月26日は、セヴェリンがぶじ北大西洋を横断してからちょうど30年の節目に当たります…以下、引用としては長すぎるけれども、セヴェリンのThe Brendan Voyage 中、もっとも気に入っている箇所であるブレンダン号出航のくだり(pp.64-68)を試訳にて書き出しておきます(訳じたいはここ数年、ずっと放置してあったものを再利用[笑])。
 
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 5月17日、夜明け。空高く雲が駆けぬけ、積乱雲が水平線上に顔をのぞかせてはいるものの、晴れている。強風の名残のうねりが入江に押し寄せるなか、わたしは入江から道を登りつめたところに建つ二軒の民家へ向かっていた。そのうちの一軒は、入江にカラフを一艘所有するトム・リーヒの家で、彼の意見を訊きに行ったのだ。トムも長身で痩せ型、彫りの深い顔つきをした、話しぶりのおだやかなディングルの漁師連中のひとり。「ホテルにもどって休んだほうがいい」。前の晩、トムがわたしに言った。「休まなけゃいかん。舟のことは心配せんでいい。わしとせがれで、舟になにかないよう見張るから。だれか通ればすぐにわかる」。果たせるかな、そのことばどおりの人だった――明け方、ブレンダン号が万事大丈夫か確かめに入江に下ってゆくと、入江を縁取る防潮堤に黒い影のごとく静かに体をもたせかけているトム・リーヒの姿があった。おかげで助かりました、と礼を言う。「夜、子どもが何人か舟のほうへ這い降りて行ったけど、みんなここいらの子だからなにひとつくすねたりしないさ」。しかり、ディングルの子どもは誠実そのもの。子どもたちは船内も船外もくまなく探検し、懐中電燈やらナイフやらチョコレートバーやら、楽しい品物の宝庫をかきまわした形跡はあるものの、一品たりとも失敬してはいなかった。
 
 さて、入江の口に吸いこまれるように差してくる潮を眺めながら、トムにたずねた。「今日は出発できるでしょうか?」
 
 トムはじっとこちらを見て助言してくれた。「潮が変わるまで待ったほうがええ。といっても2,3時間くらいでいい。そしたらすぐ出航するんだ。ぐずぐずしてたらいかん」
 
 「なぜです、トムさん?」
 
 「空模様がおかしいからだ。これから雨風になる。風向きが北西にでも変われば大きなうねりが押し寄せて入江は大荒れだ。そんなうねりにつかまってみろ、あんたの舟の安全は保証できんね。大波を喰らってこっぱみじんだ」
 
 「わかりました、トムさん。では引き潮がブレンダン号を船揚げ場から沖へ引っぱってくれるときに出航します。伴走してくれますか?」
 
 「いいとも。航海のあいだじゅう、わしら家族が祈っとるよ」
 
 何十か月も前、ブランドン入江にはじめてやってきてまず目にしたのがトムのカラフだった。それで思い出すのは、トムがブランドン入江で定期的にカラフを出して出漁する最後の漁師だということ。わたしはふと思った。千年にもわたって生きのびてきた伝説の舟の最後の末裔がわれわれを見送るとは、なんともふさわしいではないか。
 
 夜が明けると、入江に地元の人がつめかけはじめた。人波は午前中いっぱい途絶えることなくつづく。泥だらけのトラクターに家族をぶらさげてやってくる農夫たち。行楽客も車を乗りつけてきた。ここディングルは人気の高い観光地でもある。学生は歩いてやってきた。自転車にまたがって来た人もおおぜいいる。警官が一組、粋なブルーのパトカーに乗ってやってきた。いかにも人目を意識しているふぜい。表向きは群衆整理のためなのだが、そのじつ自分たちもほかの見物人に混じってブレンダン号をのぞいてみたくてたまらないのだ。司祭のちんまりした一団は防潮堤のてっぺんに居心地よく陣取り、祝福の文句を唱えはじめる。下の岸壁では、群衆を押しのけてやってきたひとりのおばあさんがわたしの手に聖水の入った小瓶をねじこんで、言った。「みなさんに主の恵みがありますように。ぶじにアメリカへ到着しますように」。数人の修道女も声をそろえて、「毎日、みなさんがたのためにお祈りします」。わたしは手渡された聖水の小瓶を、二層舷縁内側の安全な場所におさめた。そこは、ディングル・カラフが聖水の小瓶をおさめる場所とまったくおなじところ。ディングル・カラフはどんなにちいさな舟でも、いまなおこの聖水の小瓶を備えている。クルーは全員、ジョン・オコンネル(=船体なめし革の縫い方を指南してくれた革細工の名工)から肌身離さず持っているようにと、ささやかなお守りももらっていた。彼の顔は不安と緊張でこわばっている。それはクルーの妻や家族もおなじ。「息子をよろしく」とわたしに向かってアーサーの父親が声をかける。ロルフがトム・リーヒのカラフから岸壁に上がってきた。出発前に、どうしてもこの希少種の小舟でひとっ走りしたかったらしい。いよいよ船出である。
 
 「みなさん!」。わたしは見物人に向かって呼びかけた。「手を貸してください。舟を押し出してください」。顔、肩、手がごっちゃになって、褐色の革張りの船体を押しはじめる。ズズズーッとやわらかなうめき声を発してブレンダン号は船揚げ場から水面に浮かび、入江の狭い裂け目の真ん中あたりに錨泊した。
 
 「パパ、いってらっしゃーい」愛娘アイダの澄み切った、かわいらしい声が水面を渡って響いてきた。ありがたいことに、アイダとジョーイ・マレットのふたりはすっかり遊園地気分、ブレンダン号の出航もお遊びだと思っている。
 
 「国旗を揚げよう」。声をかけると、ジョージがメインマストにするすると国旗を揚げる。各国旗は、これから寄港する順番に翻っている。アイルランドの三色旗、北アイルランドのユニオン・ジャック、スコットランドの聖アンデレ十字、フェロー州旗、アイスランド国旗、グリーンランドのデンマーク国旗、カナダのメイプルリーフ旗。そして最後が星条旗。マストのてっぺんには、白地に赤いケルト十字の燕尾型のブレンダン号のバナーがなびく。

 最後の最後までやるべきことで手いっぱい、不安や心配に駆られるいとまなどない。全員、はやく海に出たい、ただその一心である。ところが、さあいよいよというときになると、かならずといってよいほど邪魔が入るもの。錨が海底の岩に引っかかってしまったのだ。ブーツ(=乗組員のひとりアーサーのあだ名)がバカ力で引っぱるもウンともスンともいわない。エンジンつき漁船が一艘、こちらに駆けつける。「ロープをこっちに投げろ! ウィンチで巻いてやる」と叫ぶ声。漁船のウィンチがたるんだロープをピンと引っぱると、錨がはずれ、ブレンダン号はようやく自由の身になった。
 
 ちょうど頃合を見計らったかのように、風がぴたりとやんでしまった。わたしが舵を取り、ジョージはじめほかのクルーはオールを漕ぐ態勢に入る。クルーに呼びかけた。「全員、漕ぎ方はじめ!」。ブレンダン号は回頭し、ゆらりゆらりとブランドン入江から大西洋へ向かって進みはじめる。船荷満載で思うように前進しないが、入江の口から侵入してくるうねりをかきわけかきわけ進む。「こりゃまるでマンモスタンカーをボールペンで漕ぐようなもんだ」。オールのほっそりとしたブレードにちらりと目を走らせて、ジョージがぼやく。舟の両側にはカラフが一艘ずつ、いかにも軽やかに進む。うち一艘はトム・リーヒのカラフ。二艘とも、舳先にはかわいいアイルランドの三色旗を誇らしげに立てている。
 
 見物人は手を振りたくって、航海の成功を祈ると口々に叫んだ。ほどなくしてブランドン入江の口の両側にそそり立つ断崖を過ぎるとき、わたしはふり返ってうしろを見た。そのとき目にしたのはけっして忘れることもできない、わが心に鮮烈に刻みつけられる光景だった。200人、いやそれ以上の人が、ブレンダン号を最後まで見届けようとして、押しあいへしあいしながら岬の突端へ急いでいるではないか。まるで夢でも見ているかのような眺めだった――はるか西に傾いた夕陽の平板な光を背に、人々のシルエットが断崖の縁取り飾りのように浮かびあがる。その姿はとても小さくて真っ黒、一糸乱れぬアリの行進さながら、ただひとつの目的のために、断崖の最先端めざして、ひたすら斜面をよじ登っている。岬の突端からは、だんだんに小さくなって海のかなたへ消えてゆくわれらの舟が望めることだろう。これほどまでのひたむきさを目の当たりにしたことは一度もない。毎年、われらが守護聖人の祝日にミサをあげるためにブランドン山の頂に登った、かつての巡礼者たちのことが思い出され、かたじけない気持ちでいっぱいになった。どれほど多くの人が力を貸してくれたことか。どれほど多くの人が信頼を寄せてくれたことか。この人たちの期待を裏切るわけにはいかない。
 
 入江の口を完全に脱し、もはや潮流が間近の岬に舟を打ち寄せる恐れもなくなると、すぐさまセイルを揚げろと指示した。風は南西から吹きつけているから、アイルランド西海岸沿いに北進するわれわれの針路には好都合な風である。ブレンダン号の二枚のセイルに描かれた赤いケルト十字がぱっとふくらむと、ぐんぐんスピードが上がりはじめる。舟が順調に帆走しだすと、使い勝手の悪いオールを引き揚げ、船内の固定していない荷物をすべて固定した。トム・リーヒが手を振って別れを告げる。ブレンダン号の伴走をしてくれた二艘のカラフはくるりと反転すると、たちまちブランドン入江めざして漕ぎ帰る黒いふたつの点となり、波のまにまに見え隠れして視界から消えていった――ついに航海がはじまった。
 
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*横帆船ブレンダン号の帆走性能について。風力4-6の順風もしくはブロードリーチ、進行方向にたいして直角(真横)に風を受けるまでが限界。それ以上の強い逆風のときはひたすら風下側へ退却するほかなかった。

2007年05月14日

ブレア首相の思い

 英国のブレア首相が引退直前、まさに土壇場になって合意にこぎつけた北アイルランド自治政府復活の話し合い。おりしも今月12日(当時のユリウス暦では5月1日)は合同法が成立してから300年。北隣りのスコットランドでは1999年に議会が復活し、現在の「連合王国」から分離独立しようという動きさえあるとか。あんまり評判の芳しくなかったブレア首相でしたが、ではなぜ引き際に北アイルランド自治政府復活合意をなんとかして取りつけようとしたのか。

 BBCニュースサイトの記事を見て、ブレア氏がアイリッシュの血を引いていることを知り、やはりそうだったのかと納得。政権発足時から、ブレア首相は対立する強硬主要二政党代表をダウニング街の官邸に呼んだりみずから出向いたりと自治復活にむけて努力していたらしい。首相に就任してはじめて向かった先がベルファストだったり、それまでの首相とはあきらかに北アイルランド問題にたいする姿勢がちがっていたといいます。記事によると母親が北西部ドニゴールの出身らしい。「聖金曜日合意(GFA、→アイルランド外務省サイトの記事。ついでにサイトのバナー画像は美しい逆光でとらえたカラフのみごとな写真ですね…なにかしら暗示的ではある)」をとりつけたのも首相就任から一年以内だし、なみなみならぬ意気込みで取り組んでいたことがうかがわれます。

 20世紀前半まで、アイルランドは強大な隣国・大英帝国の支配下にありました。こうなったそもそものきっかけは1169年、アングロ・ノルマン連合軍が侵入したことがはじまり。そのときの総大将ストロングボウがノルマン軍を率いてウォーターフォードを攻め落とし、現在のレンスター地方を掌握したのもつかのま、となりにストロングボウの国ができてしまうことをおもしろく思わなかったヘンリー2世は1171年10月、みずから精鋭一団を率いて上陸、ストロングボウはあっさりレンスター全土をヘンリー2世に献上した…このへんからアイルランドは抑圧と破壊と独立闘争の連続、大飢饉に大量の移民…といったたいへん苦しい歴史を歩むことになります。自分はとおりいっぺんの通史しか知らないけれど、アイルランドが1921年、大英帝国圏内にとどまってはいたものの、その後ゆるやかな「英連邦」内の自治権を認められた「自由国」になり、第二次大戦後の1949年、ようやく共和国として独立を勝ち取る…そんな文字どおりの茨の道のりは日本人からははるかに想像を絶すること。われわれが想像している以上に苛烈な歴史だったと言うほかありません。日本人とアイルランド人は似ている…とときおり言われるが、長きに渡って隣国の圧政に耐えてきた歴史をもつ国と、法治国家のすべての土台をなす憲法を変えられる法案を国民そっちのけであっさり成立させるような国とはやはりたいへんな落差がある。

 北アイルランド問題…もたいへん複雑で、うかつにものを言えないのですが、直接のはじまりは1921年に自治を認められたアイルランド全32州(「県」と表記される場合もあります)のうち北部アルスター6州をのぞいた26州が英国直轄領から離脱して、国土が南北に分離してから。当時アルスターは、有名なタイタニック号を建造したことでも知られる造船の街ベルファストやリネン産業のさかんなロンドンデリーを抱え、南半分のほかの地方にくらべて豊かであったこと、アイルランドでは少数派のプロテスタント系住民ユニオニストと英国との利害が一致していたこと、のちのIRAとなる前身組織IRBなど、カトリック系の過激な独立推進派とプロテスタント系の多いユニオニストらの対立が激化したことなどがあって、けっきょく北部アルスター6州のみが現在でも英連邦の一部として取り残されたままになっています。住民同士の対立も根深くて、プロテスタント系とカトリック系とがそれぞれの地区にわかれて住み、またたびたびテロ事件や衝突が起きるなど、いまだ相互理解と和平へは道半ば、というのが現状です。

 積年の対立…はそうかんたんには解消されないでしょうけれども、つぎの英国首相になる人も、このブレア氏の「平和的解決に向けた歴史的な一歩」をムダにせず、さらに推し進めていってほしい…と願わずにはいられません。

 …最後に北アイルランド問題とは関係ないけれど、「日本におけるアイルランド年」サイトの「あなたのアイルランド人度をはかるクイズ」。けっこうおもしろいです。

2007年03月22日

「聖パトリックの胸当て」

 先日、もとBACのひとりでウィンチェスターカレッジのすばらしい少年聖歌隊員(Quirister)だったハリーくんの(とかわいい狆の恵之介くんの)情報を書いてくださるKeikoさんから、かつてコナーが作曲した「聖パトリックの胸当て」というのはどういうものなのかというコメントをいただきました。そうだった、聖パトリックと言えば「胸当て」だったな…と思いつつも――パトリックを守護聖人とする一部のカトリック教会では部分的に唱えられたりするみたいですが――大多数の日本人にはなじみのない「祈り」だろうと思います。「聖フランチェスコの平和の祈り」のほうが有名かも。かくいう自分も言われてからはじめて思い出したくらいで、ひさしぶりに本だのコピー資料だのひっくり返してみました…とはいえ手持ちの資料はたいてい「航海者」ブレンダンにかんするものばかりで(当たり前か)、恥ずかしながらパトリックについては「史的パトリック論争」以外はなにも知らないにひとしいのですが、さいわいいくつか参考資料が出てきて、オンライン版Catholic Encyclopedia にも現代英訳文が掲載されていたので、以下、試訳で紹介しておきます。

 原文は7世紀後半ごろの作で、古アイルランド・ゲール語で綴られています。

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 聖パトリックの胸当て

 わたしは今日、身にまとう
 三位一体の強き力への呼びかけを。すなわち
 万物の創造主の三位一体を信ずる。
 
 わたしは今日、身にまとう
 キリストが洗礼により降誕された力を
 磔にされて葬られた力を
 昇天し、復活された力を
 審判日に地に降臨される力を。
 
 わたしは今日、身にまとう
 熾天使の愛の力を
 天使たちの従順さにおいて
 復活し、報いを受ける望みを抱いて
 族長たちの祈りによって
 預言者たちの預言によって
 使徒たちの伝道によって
 告白者たちの信仰によって
 聖処女たちの清純さによって
 正しき人たちの行いによって。
 
 わたしは今日、身にまとう
 天の力を
 陽の光を
 月の輝きを
 火の煌きを
 稲妻の閃きを
 風のすばやさを
 海の深さを
 大地の不変さを
 岩の堅固さを。
 
 わたしは今日、身にまとう
 わたしを導く神の力を
 わたしを支えてくださる神の力を
 わたしを教え導く神の知恵を
 わたしを見守ってくださる神の目を
 わたしのことばを聞いてくださる神の耳を
 わたしにことばを授ける神の口を
 わたしを守ってくださる神の手を
 わたしのゆく手に道筋をつけてくださる神の道を
 わたしを隠してくださる神の盾を
 わたしを庇護してくださる天の大群を。
 悪魔の罠から
 悪の誘惑から
 自然の欲から
 遠くから、あるいは近くから
 おおぜいで、あるいはひとりで
 わたしに悪を企てるすべての者から
 わたしを守ってくださる。
 
 わたしは今日、こうした力をすべて呼び起こす
 わたしの体と魂に襲いかかる残忍かつ無慈悲なすべての力に抗うために
 偽預言者の呪文にたいして
 異教の黒い法にたいして
 異端の偽りの法にたいして
 偶像崇拝の奸計にたいして
 魔女と鍛冶屋と妖術使いの呪いにたいして
 人の体と魂を滅ぼすすべての邪知にたいして。
 
 キリストよ、今日、わたしを守りたまえ
 毒から、火傷から
 川流れから、死をもたらす怪我から
 わたしのもとに、あふれる御恵みがありますように。
 わたしとともにキリストがおられる。わたしの前にキリストが
 わたしの後ろにキリストが
 わたしの内にもキリストが
 わたしの下にもキリストが
 わたしの上にもキリストが
 わたしの右にもキリストが
 わたしの左にもキリストが
 砦にもキリストが
 戦車の座にもキリストが
 舟の舵にもキリストが
 わたしのことを思うすべての人の心にもキリストが
 わたしに話しかけるすべての人の口にもキリストが
 わたしの姿を見るすべての人の目にもキリストが
 わたしの話を聞くすべての人の耳にもキリストが。
 
 わたしは今日、身にまとう
 三位一体の強き力への呼びかけを。すなわち
 万物の創造主の三位一体を信ずる。

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 こんな感じの祈祷文ですが、これは別名「鹿の叫び声」とも呼ばれています。いわゆる『パトリック三部作伝記』のいずれにも目は通してないけれども、おそらくそのうちのどれかに出典があるはずです。たとえばジョーゼフ・キャンベルの大作『神の仮面Masks of God』の第三部「西洋神話」の巻。アイルランドについて書かれた章に、「…しかしパトリックとお供の八人、召使いのベネン少年は、(異教徒の上王・ロイガレ[またはリーレ Loiguire, d.462-3]が沿道に待ち伏せさせた)刺客たちを八頭の鹿の姿で通ってやり過ごした。列の最後には白い鳥を背に乗せた一頭の若鹿、つまりパトリックの書字板をかついだベネン少年の姿があった」(p.463)とあって、「鹿の叫び声」との関連がうかがえます。ようするにパトリック一行は、この祈りのことばという「盾」に守られたということです。その後、ターラの丘に到着したパトリックは集まった氏族長にたいし、剣からシャムロックを掴み取って、3つに分かれた葉をたとえとして用いた有名な「三位一体」についての説教をおこない、この日を境にアイルランドは異教世界から正式にキリスト教世界へと変わったとされています。