2008年11月29日

バーの聖ブレンダン

 今日、29 日はもうひとりの聖ブレンダンの祝日なので、ここにもすこし書いておきます。

 手許の資料によると、疑問符つきながら 490 年から 573 年まで生きた人らしいので、聖ブレンダンと同時代人。船乗りのブレンダンとともに「アイルランド 12 使徒(Dá apstol décc na nÉrenn)」のひとりで、修道院草創期の聖人序列もおんなじ二番手。本家サイトには「親戚関係にある」とかなりはっきり書いてしまいましたが、あらためて調べなおすとそう書いてあるかんじんの資料が見当たらなくて、自分もいったいどれを見て書いたのだろうと…いまごろになって頭を掻いているしだいです。なので多数派を取って問題の箇所は訂正します。あしからずご了承ください。たんなる思いこみで筆が滑った、ということはおそらくないとは思うのですが、今後は訪問された方に誤解をあたえないように事実関係の調査にもっと注意を払います。m(_ _)m

 「バーの聖ブレンダン」のほうは、父親が Neman という名の詩人だったらしい。ということはフィリと呼ばれた階層の人なんだろうか。クロナード修道院でほかのケルトキリスト教草創期の聖人たち、コルンバ、キアラン、カニス、そして船乗りのブレンダンといっしょに聖フィニアンのもとで学んだ。このクロナード修道院時代に「年下の」ほうのブレンダンと知り合ったらしい。叙階されたあとはほかの聖人同様、アイルランド各地に修道院を建てていき、563 年ごろにバー ( Birr ) に修道院を建て、亡くなるまでそこの修道院長をつとめていた。その間、コナハト王家の血なまぐさい内輪の抗争について教会会議が開かれ、王族の一員であるコルンバをアイルランド教会から追放処分とする決議が下されると、コルンバはどこへ向かうべきか、クロナード時代からの親友でもあるブレンダンに相談したという。その結果、コルンバは 12人の弟子とともにヒンバ島( どこの島か不明ながら、一説ではジュラ島とも言われる ) 、そしてアイオナ島( イー島 )へと渡り、そこを北の布教拠点とさだめた。また一説ではこちらのブレンダンは禿げていたらしい。11 月29 日の夜にバーで亡くなったとき、はるかかなたの孤島にいたコルンバは、天使たちに守られて天に昇ってゆくブレンダンの幻影を見て、古くからの友人が召されたのを知ったという話が『聖コルンバ伝』第3章に出てきます。コルンバはある朝早く、バーのブレンダン院長が召されたから聖餐式を挙げるようにと弟子のディアルマイに命じた。弟子が、アイルランドからはそのような知らせを伝える使者は来ておりませんがと問うと、昨夜、天の扉が開き、天使の聖歌隊が地上に降りて、ブレンダン院長の霊を迎えたのを見た、全世界がとほうもない輝きを放つ光で満たされたのだ、と語ったといいます( →参考サイト)。またカール・セルマーによると、『レンスターの書』には 17人の聖職者がブレンダンという名前をもっていたと書いてあるそうです。

2008年10月25日

1050年ごろの詩?!

 たまに本屋さんに立ち寄るとたいへんな掘り出し物が出てきたりして、ある意味困る。それもけっこうお高い本。こういうときにかぎってお足があんまりない。でも資料価値があったりするとなると、やっぱりほしいかも(笑)。とりあえずは図書館頼みということになりそうです。

 その本、『総説キリスト教』は、大作ながらひじょうにわかりやすく解説してある良書でした。とはいえ立ち読みしていると、だんだん手がしびれてきた(苦笑)。オビの惹句のように、たしかにこれ一冊あればとりあえず足りるのではないでしょうか。強いて言えば、「キリスト教会と音楽」の項目がない。でもこれはいたしかたないところではある。このテーマで何冊も本が書けてしまう、というか、事典が何冊もできてしまう。ミサひとつとっても、これだけで何冊もの本が書けてしまうくらい複雑な代物ですし。逆に言えばこのへんのことをなにか調べようとしたら、あるていどの分量を読みこむ必要があるということでもある。

 手許にあるキリスト教関係書籍をざっと見ても――といってもそんなにたいした分量じゃないですが――たいていは翻訳もので、これもしかたないところ。やはり日本人著者では限界がある。そのいちばんいい例が、アイルランド教会、ケルトキリスト教関係の本。知っているかぎりでは、岩波から出ている(ひょっとしてもう絶版?)『ケルトの聖書物語』、そして日本基督教団出版局から出ている『アイルランドの宗教と文化―キリスト教受容の歴史 』くらいのものではないだろうか。絶対数じたい少ないのはこれまたしかたないけれど、立ち読みしたこの本にもちゃんと通史の項目に「ケルトキリスト教会」について簡潔ながらもきちんと書かれていて、しかもそれがひじょうに正確です。たとえば一部アイルランド人著者しか書いてこなかった、「聖パトリック来島以前からアイルランドにはすでに修道制を規範とする教会があった」ということにもちゃんと言及しているし、アイルランドへキリスト教が伝えられたのはウェールズのケルト教会経由のルートもあることがさりげなく書かれている。個人的にはこういう記述を見ると小躍りしたくなる。597年に聖コルンバが亡くなったのと相前後してブリタニアにオーガスティンたちローマ教会の宣教団が上陸して、当地の教会組織のローマ化を推進したことはもちろん、ウィットビー教会会議にいたるまでの経緯も平易に、でも正確に記述している。314年のアルル公会議にアイルランドからもすでに聖職者一団が参加していることにも触れている。ウェールズ、アイルランド、そして聖ニニアンのカンディダ・カーサのあったスコットランド西海岸にはすでにケルトキリスト教会が存在していた。そんなアイルランドにやってきたのが、聖パトリックということになる――ここが肝心な点。パトリックがアイルランドにキリスト教を伝えたんじゃありません。すでにアイルランドにはキリスト教徒はいたのです(前にも書いたけれども、聖パトリックが実在したのかどうかについては懐疑的な見方をする学者も多く、たびたび「史的パトリック論争」が持ち上がった)。またけっきょくローマ教会との論争――復活祭の日取りや剃髪型をめぐる枝葉末節的な論題――に敗れたケルト教会の影響力は、紀元800年以降急速に衰えたとも書いてありました。ノースメン(ヴァイキング)による略奪とか、大陸側でローマ教皇を頂点とする司教制度が確立された時期と一致しますね。また「聖パトリックの胸当て」について、「エフェソの信徒への手紙 6:11-4」で言及されている「神の武具」がモデルではないかとも書いてあり、これは初耳だったのでたいへん参考になりました。もしここが本屋じゃなかったら、「すいません、このへんのページだけコピーお願いしまーす!」と言いたかったくらい(笑)。

 …というわけでページを繰ったら、うれしいことにブレンダンのことも書いてありました。で、目を引いたのがこれ。「『聖ブレンダーヌスの航海記』(1050年)という詩(p.378)」…??? このへんの記述を頭に叩きこんだうえで帰宅してからさっそく調べてみた。『航海』の各写本の制作年代については、いっぱいありすぎて自分でもいちいち憶えてません(苦笑)。拙サイトものぞいてみたりして(苦笑x2)。ブノワ版『航海』が編まれたのが12世紀初頭、ついで中世オランダ語版『航海』の原型が編まれ、最古の英語版と見られるものが13世紀成立なので、そうとう古い。ひょっとしたらこれラテン語版『航海』では最古の写本とされる仏アランソン市立図書館にある写本のことを指しているのかもしれない。でも研究者のあいだでもアランソン写本成立年代についてはまちまちでして、マリオ・エスポジトによれば12世紀、カール・セルマーは11世紀だとする。なので「1050年」というのがいったいどの写本を指しているのかがいまいちわからずじまい。もうすこし調べてみようと思ったしだい。そういえばもうハロウィーンの季節。前にもここで触れたけれども、もとはSamhain(Samhuinn)というケルト諸部族の「大晦日」のお祭り。またリンク集に入れてあるこちらのblogには、'trick or treat'にまつわるちょっとおもしろいこぼれ話(?)が書かれていますのであわせて紹介しておきましょう。

2008年07月12日

ブレスト帆船祭にも登場!

 オリンピックよろしく4年ごとに開催されるブルターニュ半島フィニステール(最果ての意)県の軍港・ブレスト帆船祭。今年は唯一の日本代表として、自分も昨年ちょこっと乗った、焼津八丁櫓も参加するというので、静岡でもにわかに盛り上がっています。で、さっそく公式サイトを見てみたものの、参加している帆船があまりに多いためか、八丁櫓関係の言及は見つけられず。ところが、トップページの画像に目が釘付けになりました。おおッ!! 、わがHNでもあるCurraghが写っているではないですか!!! 

 こちらの記事を見ると、どうも北西部メイヨー州(県)クルー湾で使われているカラフ(カラハ)らしい。くわしい解説記事(英語版)にもちょっとびっくり。牛のなめし革の船体が、タールを塗ったカンヴァス張りに変わったのが1845年ごろのことらしい。ということは、バッハやモーツァルトの時代にはいまだ聖ブレンダン当時のまま、ハシバミやトネリコの木材を組んだ木枠に牛革張りという構造だったということになる。記事はもちろんと言うべきか、1976-77年にティム・セヴェリンがおこなったレプリカ船による北大西洋横断航海のことにも言及しています。そしてこれはたしかポール・ジョンストンもおんなじようなこと書いていたような気がするが、そのつぎのカナダの学者先生の説がひじょうに興味深かった。この伝統漁船とならんでアキル島の伝統漁船アキルヨールなる帆船も持ちこんでいたようですが、こちらはあきらかにヴァイキング船の子孫とも言うべき帆船。もとはオランダ語のjolからで、語源的にはyachtとも近い。

Other experts in Canada go so far as to say that curraghs were used to transport the 33 huge 3 to 5 tonne blue stones that form a circle inside the upstanding ‘sarsen’ stones that form Wiltshire’s Stonehenge in England from the Preseli Mountains of south-west Wales in around 2300 BC.

そういえばいまさっき「世界ふしぎ発見!」でもストーンヘンジ、やってましたね。おそらく日本のTVでははじめてであろう、アウー・ヘブリディーズのルイス島にあるカラニッシュ遺跡テンプルウッドの「月の踊る石台」のあるストーンサークルとかもばっちり映し出されていて、こちらもひじょうにおもしろかった。革舟カラフはストーンヘンジ時代からブリテン諸島の人が駆っていた舟なので、あの「ブルーストーン」の大石も、見た目はなんとも頼りなく、華奢ではあるけれど、このような獣皮船で運搬されたであろうことは、かなり以前から指摘されてきたことです。また記事ではボイン渓谷流域でのカラフの造り方も紹介されていますが、これはむしろウェールズ地方とおんなじタイプの、言うなれば桃太郎の乗った「お椀」型コラクルに近いもので、アイルランド西海岸で使われる耐航性能の高い「外洋航海型(ocean-going)」とはちがうもので、区別して扱うべきだと思う(→参考動画。ついでに番組に出てきたgreen manも、もとをたどれば古代ローマ神話に出てくる豊穣の神だかなんだかだったように記憶している。つまりは南方起源で、ケルトおよびピクト人の発想物ではない、ということ[→参考サイト])。

 19世紀、アイルランドをジャガイモ飢饉が襲ったとき、人々はカラフに乗って西の果て米国東海岸を目指して船出して、結果多くの犠牲者を出したけれども、それはやわいカンヴァス張りの小舟であって、ブレンダンやコルンバの使ったようなもっと大型でがっちり牛革を張って頑丈に造られたタイプの舟でなかったから。おかげでカラフ=棺桶船なんてありがたくないあだ名までちょうだいしてしまった。

 セヴェリンがディングル半島の伝統漁船カラフを調査したときは、まだカンヴァス張りの舟だったけれども、いまははるかに丈夫なグラスファイバー製の船体がほとんど。アキル島のものはブレンダン号のモデルになったケリー型とちがって船尾(艫[とも])が反り上がってないタイプのようですが、サイトにも転載しているコナーさん撮影の「コネマラ地方のカラフ」のように、小型で、四角いトランサム(船尾肋板)をもったタイプが主流のようです。それとアイリッシュ・カラフの特徴としては、ひじょうに軽い、ということも挙げられるでしょう。それゆえきちんとした船揚げ場がなくても、舟をひっくり返してみんなで担ぎ、波の来ない安全な高台へ運び揚げることができます(↓の動画参照)。

In many regions, a number of today’s curraghs tend to be shorter and feature a square transom which will more easily accommodate an outboard motor. Furthermore, modern curraghs are much heavier and are even sometimes covered in fiberglass.

 アイルランド西海岸の伝統漁船curraghは、またの名naomhógともいう。発音は「ニーヴォーグ」に近い。本家サイトにもすこしだけnaomhógについて触れていますが、どうも事実誤認をしていたようで、悪しからず訂正させていただきました。m(_ _)m カラフついでにもうひとつ、聖コルムキレ・プロジェクトというのがかつてあって、いまさっき検索途上で偶然、公式サイトらしいものを見つけました。このプロジェクトはもともと、聖コルンバ(コルムキレ)没後1400年記念の1997年、スコットランドから聖人ゆかりの地アイオナ島へとコルンバを偲ぶ航海をおこなうための企画で、National Geographic誌にも取り上げられた。このページを見たら、2003年にも北アイルランドとアイルランド共和国の平和共存をアピールするためのアイルランド島一周航海をスペインやブルターニュから参加した伝統帆船とともにおこなったみたいですね。ただしこちらのレプリカ船は、タールを塗ったカンヴァスを三重に張った船体に、船外機付き。姿かたちはコルンバ時代のカラフを忠実に再現してあるようですが、船体はさすがに本物の牛の革というわけにはいかなかったようです。



 …本題とは関係ないけれど、午後、たまたまNHKラジオ第1を聞いていたら、海洋冒険家の堀江謙一氏がしゃべっていました。波浪推進船という、いかにも堀江氏らしい斬新で、環境にもっとも負荷のかからない船での単独航海。いまはGPSがあるから現在位置を知るのもかんたんになったとか言ってましたが、使えなくなったときの用心に、昔ながらの六分儀も用意していたとか、夜中にイカやトビウオが飛びこんでくるとか、船舶往来のある水域に入るとペットボトルなどの浮遊ゴミがとたんに多くなるとか、船も出港したときとほぼおなじコンディション、ネジ一本折れなかったなど、こちらも興味深いお話が満載でした(ちなみにこちらの英文blogは自分もちょくちょく覗いているけれど、堀江氏の今回の航海についても書いています)。堀江氏は従来のアマチュア無線のみならず、日本の子どもたちと衛星電話を使ったインターネット経由でのやりとりもしていたと話していましたが、ここらへんがいまの時代の冒険航海らしいところですね。船舶用衛星電話を使ったネット通信、というのは1996年、セヴェリンが植物学者アルフレッド・ウォレスの足跡をたどる航海をおこなったときも活用していましたが、本格的に使われだしたのは、やはりここ数年のことのような気がします(corrected)。

2008年06月16日

アイルランドがリスボン条約を否決

 EUの改正条約として調印されたリスボン条約。先週、アイルランドでその批准の是非を問う国民投票がおこなわれ、開票の結果、条約は否決(反対53.4%、賛成46.6%、投票率53.1%、関連記事その1その2)。条約発効には27加盟国すべての承認が必要なため、事実上リスボン条約は暗礁に乗り上げたかっこうになりました。アイルランドのみ国民投票にかけたのは、アイルランド国内の規定のため。カウエン首相はリスボン条約推進派だっただけに、国民から突きつけられた結果にショックを受けているらしい。

 「拡大EU」と言うと聞こえはいいのですが、加盟国――アイルランドはEC時代からの古参加盟国――の一般市民からすると、あらゆる権限がブリュッセルのエリート層のみに集中し、民主主義そのものが軽視されかねない、自分たちのあずかり知らぬところでつぎつぎとことが決定されるのはまずい、という「不信感」もまた強いようです。アイルランドは自主自立志向の強い国民性、というイメージがあるので、今回は批准しないというボールを投げた、なので批准してほしければこんどはブリュッセル側からボールを投げ返すべきだ、というメッセージにも思えた。その昔、聖コルンバヌスが教皇ボニファティウス4世に宛てて「対等な立場で」物申した私信をしたためたのとおなじような感情なのかもしれない。

 アイルランドのあるニュースサイト内記事には、キャメロン英国保守党首の発言として、こんなことが書いてあります。

“The elites in Brussels have got to listen to people in Europe who do not want endless powers being passed from nation states to Brussels. They do not want these endless constitutions and treaties.”

アイルランド国内のあるシンクタンク所長もこんなこと言っています。

“This is a resounding victory on behalf of ordinary people across Europe over an out-of-touch and arrogant political elite,”

 アイルランドはいま経済が好調だから、国民は自分たちの利益重視の結論を出したのだ、という評もあるようですが、それだけでもないでしょう。基本的に欧州の人は、自分たち国民の意見を無視する独裁に走ることをなによりも警戒している。いまの欧州はある意味最大の実験をしているとも言えますが、あるていど揺り戻しはしかたないところでしょう。とはいえ環境対策ではEUは世界を引っぱっている印象を持っているだけに、このへんの擦りあわせはたしかに難しい問題かもしれない。

 アイルランドは日本よりも早くIT化が進み、税制上の優遇措置と移民を労働力として受け入れ、「ケルトの虎」の異名をとるまでに経済発展してきましたが、最近ではいっときの勢いはなくなっている。一字ちがいのアイスランドもまたIT先進国で、長らく好景気に沸いていたけれど、こちらのTimes記事にもあるように金融不安が広がって、通貨クローナの価値まで下落している。EUも、加盟国が増えれば増えるほどまとまりがつかなくなりがち。木曜日からEU首脳会議が開かれて対策を講じることになるそうですが、EUはまさに正念場を迎えているということにはちがいない。

 …EUついでにもうひとつ。EUの世論調査機関ユーロバロメーターがまとめた統計によれば、一回当たりの酒量がもっとも多いのはアイルランドだったそうです。酒の種類は特定していないものの、「一回につき5杯以上」飲むという回答率はアイルランド人34%と、EU加盟国中最多だったとか。ついでフィンランド、英国とつづき、もっとも飲まない国民はブルガリア人で、5杯以上飲む人の割合は1%だったらしい。だからといって、アイルランド人がみな飲んべえでブルガリア人は健康的だ、というわけではないが…自分も夏になると、ギネスが飲みたくなる口なので(先日飲んでた人)…。

2008年05月18日

聖ブレンダンにまつわる古い伝説

 先週16日はSaint Brendan's Dayでした。以前、「聖ブレンダンと音楽」と題して「リズモアの書」に収録された民間伝承を取り上げましたが、今回はおなじ書物から、もうひとつの古い言い伝えを拙訳にて紹介したいと思います(この伝説は「レンスターの書」にも収録されているようです)。

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3人の若い巡礼者の伝説

 アイルランドの若い聖職者3人は巡礼の船旅に出た。おおいに喜び勇んで船出した。3人は糧ももたず、ただ三枚のビスケットのみを携えて旅立った。ひとりが言った。「子猫も一匹、連れて行こう」。

 さて大海原に出ると、3人はこう言った。「キリストの名において櫂を捨て、この身をすべて主のご慈悲に委ねよう」。3人はこれを実行した。

 ほどなくして3人はキリストの加護のもと、とある美しい島に漂着した。島には薪も飲み水も豊富にあった。「われらの島の真ん中に教会を建てよう」。こうして若者たちは教会を建てた。連れてきた子猫はいずこへと消えたかと思えば、3匹の鮭をくわえて帰ってきた。こうして猫は、一日分の糧として3匹の鮭をくわえて帰ってくるようになった。若者たちは言った。「おお、神よ! このままではわたしたちの巡礼は巡礼にあらず。日々の糧は連れてきた子猫がたっぷりもたらしてくれるし、子猫が捕ってきた魚をいただくのも悲しい。今後は猫のお相伴にはあずからないことにしよう」。かくして3人は飲まず食わずで過ごしたが、まる一日経ったとき、精白していないパン半斤と魚一匹が祭壇の上にそれぞれの分あるというキリストのお告げを聞いた。3人は言った。「父なる神に代わって糧を賜りしわれらが救い主の御業に感謝を捧げよう」。

 「ではまずわたしは日々の祈りとミサとともに、150の『詩編』を歌うことにしよう」ひとりが言った。

 「わたしは日々の祈りとミサとともに、150の長い祈祷をあげることにしよう」もうひとりが言った。

 「わたしは日々の祈りとミサとともに、聖ヒラリウスの賛歌『兄弟たちよ主を讃えよ』を150回歌おう」3人目が言った。

 それから長い長い歳月、3人はめいめいの祈りをあげたが、とうとうひとりが亡くなってしまった。残ったふたりはレクイエムをあげ、彼を埋葬した。ふたりは150回の『詩編』唱を彼に代わって引き受け、分担して毎日歌った。

 ほどなくしてまたひとりが亡くなり、残る同志ひとりが亡くなったふたりの祈りをすべて引き受けたが、ひとりの身にはこれらすべての務めは重荷になった。

 そこで、たったひとり生き残った聖職者はこうひとりごちた。「神は、わたしなんかよりあのふたりのほうを深く愛されていたのではないのか? ふたりをご自分の御許へ召され、わたしはただひとりここにこうして取り残されてしまった」。

 すると天使がやってきて、彼に言った。「汝の神は、汝のそのつぶやきにお怒りだ。汝は神の恩寵なくして、かくも命長らえることがあろうか」。「ではなぜ神はあのふたりのようにわたしにも死の苦しみをお与えにならないのですか?」。天使がこたえる。「それは汝らが日々の祈りを割り振ったとき、汝らが選んだことだ。この地で『詩編』150編を選びし者は、短命になり、もっとも早く召される。150編の祈りを日課とした者は、あらかじめ定められた生をまっとうする。『兄弟たちよ主を讃えよ』を150編歌うと決めた者はこの地で生き長らえ、その後天の王国で過ごすことになる」。

 「そなたを遣わした主に祝福を。神に深く感謝いたします」。

 かくして聖職者はこの島で生き長らえて年老い、やがて聖ブレンダンが海のかなたから現れて島を訪れ、老人を祝福した。聖ブレンダンは「臨終の聖体拝領」を滞りなくあげると、老人は天に召された。その後この島では、天使たちが3人の眠る墓を守っている。(from Denis O'Donaghue, Lives and Legends of Saint Brendan The Voyager, 1895, pp.273-76)

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 この伝説、じつは『ケルトの聖書物語』に収録された『聖ブレンダン伝』に出てくる「巨大な海猫の島に住む老人」の挿話(pp.136-7)とじつによく似ているのです。『聖ブレンダン伝』では老人は、「12人の巡礼者の最後の生き残り」として登場し、子猫は海猫(!)に化けています。根拠不明ながら、編者オダナヒューはこの古い伝承の解説で、こちらの「伝説」が「原型」となって、『聖ブレンダン伝』に取りこまれた挿話が成立したと書いています。オダナヒューによれば、「12人の巡礼者の話」は8世紀後半に編まれたとされる『聖オエングスの連祷』にも出てくることから、こちらのヴァージョンがアイルランドではひろく流布していたのではと推測しています。

2). アイルランドがらみでは、つい最近こんなのも見つけました。↓



2007年09月07日

アイルランドの潮力・波力発電

 最近のアイルランドは昔のイメージとはすっかりさま変わり、いまや「ケルトの虎」なんて通称で呼ばれたりします。

 想定外の地震動に見舞われ、長期停止と点検調査を余儀なくされている原発天国日本とちがって、アイルランドでは環境に配慮した新しい発電のあり方を研究していると聞きます。

 たとえばこちら。英国のMarine Current Turbinesという会社の開発した世界でもはじめてという商用潮力発電施設。北アイルランドの汽水湖ストラングフォード湖に建設予定とのことで、これはすばらしい試みではないかと思う。設備容量は1,200kwでなんと一千世帯分の電力供給が可能とか。でも「潮力発電」ってたしか昔日本でも実験していたような気が…潮の流れの速い水域、あるいは浜名湖みたいな汽水湖に使えそうなアイディアだと思いました。同社はこれを積極的に売り込むと意気込んでいるので、北アイルランドで成功したら海洋国である日本にも売り込みに来るかもしれませんね。

 いまひとつはこちらで、波浪の力を発電に使おうという、「波力発電」。「海洋研究所」という機関がアイルランド西海岸ゴールウェイ湾北側に試験場所を提供、もっかふたつの会社がそれぞれの試験施設を設置してテストを繰り返してきたといいます。

 そのうちの一社Ocean Energyは昨年12月から試作機を海中に投入して実験をつづけててきた。波高8mを超える冬の時化を乗り切って、先月からは実用化レベルの試作機を投入してテスト稼動させているらしいです。

 アイルランドの電力事情は日本と同様、石油など化石燃料輸入に依存する割合が高いので、エネルギーの海外依存体質からの脱却をめざしつつ、環境にやさしい、シンプルな発電施設を自前で用意しようと努力中らしい。もっともアイルランドには以前から特産(?)の泥炭(peat)を燃料にした発電施設もあるにはあるけれど、どうも効率があまりよくないようで、泥炭発電の割合は総発電量の10%ほど。この前見たNHKスペシャルではないけれど、日本もいざトラブルが発生するとなかなか復旧しない、複雑で危険極まりない原発依存体質から脱却して、もっと自然エネルギーを活用した、トラブルが起きても割合早く復旧できる「シンプルな」発電所を作るべきだと感じます(→Wikipedia参考記事)。

 せんだって地元紙の読者投書欄にアイルランドに行ってきたという女性の投稿が掲載されてました。たとえばかの地のスーパー。カートはなんとコインロッカー方式!! コインを入れてカートを借り、返却時にコインがもどるシステム。おかげでいつもカートはきれいに整列。レジ袋ももちろん有料、日本円で一枚約25円。公園のごみ箱も耐久性と実用性を兼ね備えた優れもので、景勝地にも紙のチラシのたぐいはなるべく置かずかわりに案内人を配置、トイレでは節水のためのハンドドライヤーに節約型のトイレットペーパーなどなど、はじめて目にするものばかりでたいへん驚いたと書いてありました(日本の景勝地の場合、どういうわけか煙草の吸殻がひじょうに多い。黄金崎なんかも吸殻がよく落ちているので、行くたびに拾ってます…もうすこしなんとかならんか)。

 …台風一過でようやくひと息(夜半過ぎにちょっと出水してあせった)。

 …アイルランドついでにいまさっきGuinessを飲んでました…ワインも好きだがGuinessもけっこう好き(日本人のくせしてポン酒が飲めない人)。

2007年05月16日

聖ブレンダンの祝日

 Happy St Brendan's Day! 今年もまたこの季節をぶじむかえることができて、ひとまずは聖人に感謝。

 ディングル半島ではこれからが本格的な行楽シーズン、ということでいろいろなフェスティヴァルが催されるみたいですが、こちらのサイトを見ると7月になんとカラフレースが開催されるらしい。以前、そんなカラフレースのもようをYouTube で見たことがありますが、残念ながらそのクリップ、いまはもうないらしい。お祭り、と言えば今月1日のMay Day。The English Chorister の記事でもちょこっと書いた、モードリンカレッジ聖歌隊による「メイ・モーニングの合唱」や、メイ・ポール…といったお祭りが各地でおこなわれますが、これももとをたどればケルト人の年間4大祭祀のひとつ、「ビャオルタネの火祭り Féis Beltaine」に起源があります。

 …とそんな折りも折り、今年はあのホクレア号が遠路はるばるぶじ日本到着。沖縄を皮切りに順次北上中。来月は横浜にも来るらしい。見に行こうかな♪
 
 ティム・セヴェリンが復元船「ブレンダン号」に乗船して、4名のクルーとともに聖ブレンダンの航跡をたどる実験航海に船出したのが31年前の1976年5月17日の暮れなずむころ。この実験航海のために3年半をかけて入念に準備・舟の建造に当たったセヴェリンは、当然、「聖ブレンダンの祝日」当日に出航する予定でした…でもあいにく海はかなり時化て、それどころではなかった。天候不順による出航延期はよくあることですね…しかたなくつぎの日の夕方、潮が引きはじめたころを見計らって出発した、というしだい(参考→本家サイトのブレンダン号航海ページ)。
 
 来月26日は、セヴェリンがぶじ北大西洋を横断してからちょうど30年の節目に当たります…以下、引用としては長すぎるけれども、セヴェリンのThe Brendan Voyage 中、もっとも気に入っている箇所であるブレンダン号出航のくだり(pp.64-68)を試訳にて書き出しておきます(訳じたいはここ数年、ずっと放置してあったものを再利用[笑])。
 
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 5月17日、夜明け。空高く雲が駆けぬけ、積乱雲が水平線上に顔をのぞかせてはいるものの、晴れている。強風の名残のうねりが入江に押し寄せるなか、わたしは入江から道を登りつめたところに建つ二軒の民家へ向かっていた。そのうちの一軒は、入江にカラフを一艘所有するトム・リーヒの家で、彼の意見を訊きに行ったのだ。トムも長身で痩せ型、彫りの深い顔つきをした、話しぶりのおだやかなディングルの漁師連中のひとり。「ホテルにもどって休んだほうがいい」。前の晩、トムがわたしに言った。「休まなけゃいかん。舟のことは心配せんでいい。わしとせがれで、舟になにかないよう見張るから。だれか通ればすぐにわかる」。果たせるかな、そのことばどおりの人だった――明け方、ブレンダン号が万事大丈夫か確かめに入江に下ってゆくと、入江を縁取る防潮堤に黒い影のごとく静かに体をもたせかけているトム・リーヒの姿があった。おかげで助かりました、と礼を言う。「夜、子どもが何人か舟のほうへ這い降りて行ったけど、みんなここいらの子だからなにひとつくすねたりしないさ」。しかり、ディングルの子どもは誠実そのもの。子どもたちは船内も船外もくまなく探検し、懐中電燈やらナイフやらチョコレートバーやら、楽しい品物の宝庫をかきまわした形跡はあるものの、一品たりとも失敬してはいなかった。
 
 さて、入江の口に吸いこまれるように差してくる潮を眺めながら、トムにたずねた。「今日は出発できるでしょうか?」
 
 トムはじっとこちらを見て助言してくれた。「潮が変わるまで待ったほうがええ。といっても2,3時間くらいでいい。そしたらすぐ出航するんだ。ぐずぐずしてたらいかん」
 
 「なぜです、トムさん?」
 
 「空模様がおかしいからだ。これから雨風になる。風向きが北西にでも変われば大きなうねりが押し寄せて入江は大荒れだ。そんなうねりにつかまってみろ、あんたの舟の安全は保証できんね。大波を喰らってこっぱみじんだ」
 
 「わかりました、トムさん。では引き潮がブレンダン号を船揚げ場から沖へ引っぱってくれるときに出航します。伴走してくれますか?」
 
 「いいとも。航海のあいだじゅう、わしら家族が祈っとるよ」
 
 何十か月も前、ブランドン入江にはじめてやってきてまず目にしたのがトムのカラフだった。それで思い出すのは、トムがブランドン入江で定期的にカラフを出して出漁する最後の漁師だということ。わたしはふと思った。千年にもわたって生きのびてきた伝説の舟の最後の末裔がわれわれを見送るとは、なんともふさわしいではないか。
 
 夜が明けると、入江に地元の人がつめかけはじめた。人波は午前中いっぱい途絶えることなくつづく。泥だらけのトラクターに家族をぶらさげてやってくる農夫たち。行楽客も車を乗りつけてきた。ここディングルは人気の高い観光地でもある。学生は歩いてやってきた。自転車にまたがって来た人もおおぜいいる。警官が一組、粋なブルーのパトカーに乗ってやってきた。いかにも人目を意識しているふぜい。表向きは群衆整理のためなのだが、そのじつ自分たちもほかの見物人に混じってブレンダン号をのぞいてみたくてたまらないのだ。司祭のちんまりした一団は防潮堤のてっぺんに居心地よく陣取り、祝福の文句を唱えはじめる。下の岸壁では、群衆を押しのけてやってきたひとりのおばあさんがわたしの手に聖水の入った小瓶をねじこんで、言った。「みなさんに主の恵みがありますように。ぶじにアメリカへ到着しますように」。数人の修道女も声をそろえて、「毎日、みなさんがたのためにお祈りします」。わたしは手渡された聖水の小瓶を、二層舷縁内側の安全な場所におさめた。そこは、ディングル・カラフが聖水の小瓶をおさめる場所とまったくおなじところ。ディングル・カラフはどんなにちいさな舟でも、いまなおこの聖水の小瓶を備えている。クルーは全員、ジョン・オコンネル(=船体なめし革の縫い方を指南してくれた革細工の名工)から肌身離さず持っているようにと、ささやかなお守りももらっていた。彼の顔は不安と緊張でこわばっている。それはクルーの妻や家族もおなじ。「息子をよろしく」とわたしに向かってアーサーの父親が声をかける。ロルフがトム・リーヒのカラフから岸壁に上がってきた。出発前に、どうしてもこの希少種の小舟でひとっ走りしたかったらしい。いよいよ船出である。
 
 「みなさん!」。わたしは見物人に向かって呼びかけた。「手を貸してください。舟を押し出してください」。顔、肩、手がごっちゃになって、褐色の革張りの船体を押しはじめる。ズズズーッとやわらかなうめき声を発してブレンダン号は船揚げ場から水面に浮かび、入江の狭い裂け目の真ん中あたりに錨泊した。
 
 「パパ、いってらっしゃーい」愛娘アイダの澄み切った、かわいらしい声が水面を渡って響いてきた。ありがたいことに、アイダとジョーイ・マレットのふたりはすっかり遊園地気分、ブレンダン号の出航もお遊びだと思っている。
 
 「国旗を揚げよう」。声をかけると、ジョージがメインマストにするすると国旗を揚げる。各国旗は、これから寄港する順番に翻っている。アイルランドの三色旗、北アイルランドのユニオン・ジャック、スコットランドの聖アンデレ十字、フェロー州旗、アイスランド国旗、グリーンランドのデンマーク国旗、カナダのメイプルリーフ旗。そして最後が星条旗。マストのてっぺんには、白地に赤いケルト十字の燕尾型のブレンダン号のバナーがなびく。

 最後の最後までやるべきことで手いっぱい、不安や心配に駆られるいとまなどない。全員、はやく海に出たい、ただその一心である。ところが、さあいよいよというときになると、かならずといってよいほど邪魔が入るもの。錨が海底の岩に引っかかってしまったのだ。ブーツ(=乗組員のひとりアーサーのあだ名)がバカ力で引っぱるもウンともスンともいわない。エンジンつき漁船が一艘、こちらに駆けつける。「ロープをこっちに投げろ! ウィンチで巻いてやる」と叫ぶ声。漁船のウィンチがたるんだロープをピンと引っぱると、錨がはずれ、ブレンダン号はようやく自由の身になった。
 
 ちょうど頃合を見計らったかのように、風がぴたりとやんでしまった。わたしが舵を取り、ジョージはじめほかのクルーはオールを漕ぐ態勢に入る。クルーに呼びかけた。「全員、漕ぎ方はじめ!」。ブレンダン号は回頭し、ゆらりゆらりとブランドン入江から大西洋へ向かって進みはじめる。船荷満載で思うように前進しないが、入江の口から侵入してくるうねりをかきわけかきわけ進む。「こりゃまるでマンモスタンカーをボールペンで漕ぐようなもんだ」。オールのほっそりとしたブレードにちらりと目を走らせて、ジョージがぼやく。舟の両側にはカラフが一艘ずつ、いかにも軽やかに進む。うち一艘はトム・リーヒのカラフ。二艘とも、舳先にはかわいいアイルランドの三色旗を誇らしげに立てている。
 
 見物人は手を振りたくって、航海の成功を祈ると口々に叫んだ。ほどなくしてブランドン入江の口の両側にそそり立つ断崖を過ぎるとき、わたしはふり返ってうしろを見た。そのとき目にしたのはけっして忘れることもできない、わが心に鮮烈に刻みつけられる光景だった。200人、いやそれ以上の人が、ブレンダン号を最後まで見届けようとして、押しあいへしあいしながら岬の突端へ急いでいるではないか。まるで夢でも見ているかのような眺めだった――はるか西に傾いた夕陽の平板な光を背に、人々のシルエットが断崖の縁取り飾りのように浮かびあがる。その姿はとても小さくて真っ黒、一糸乱れぬアリの行進さながら、ただひとつの目的のために、断崖の最先端めざして、ひたすら斜面をよじ登っている。岬の突端からは、だんだんに小さくなって海のかなたへ消えてゆくわれらの舟が望めることだろう。これほどまでのひたむきさを目の当たりにしたことは一度もない。毎年、われらが守護聖人の祝日にミサをあげるためにブランドン山の頂に登った、かつての巡礼者たちのことが思い出され、かたじけない気持ちでいっぱいになった。どれほど多くの人が力を貸してくれたことか。どれほど多くの人が信頼を寄せてくれたことか。この人たちの期待を裏切るわけにはいかない。
 
 入江の口を完全に脱し、もはや潮流が間近の岬に舟を打ち寄せる恐れもなくなると、すぐさまセイルを揚げろと指示した。風は南西から吹きつけているから、アイルランド西海岸沿いに北進するわれわれの針路には好都合な風である。ブレンダン号の二枚のセイルに描かれた赤いケルト十字がぱっとふくらむと、ぐんぐんスピードが上がりはじめる。舟が順調に帆走しだすと、使い勝手の悪いオールを引き揚げ、船内の固定していない荷物をすべて固定した。トム・リーヒが手を振って別れを告げる。ブレンダン号の伴走をしてくれた二艘のカラフはくるりと反転すると、たちまちブランドン入江めざして漕ぎ帰る黒いふたつの点となり、波のまにまに見え隠れして視界から消えていった――ついに航海がはじまった。
 
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*横帆船ブレンダン号の帆走性能について。風力4-6の順風もしくはブロードリーチ、進行方向にたいして直角(真横)に風を受けるまでが限界。それ以上の強い逆風のときはひたすら風下側へ退却するほかなかった。

2007年05月14日

ブレア首相の思い

 英国のブレア首相が引退直前、まさに土壇場になって合意にこぎつけた北アイルランド自治政府復活の話し合い。おりしも今月12日(当時のユリウス暦では5月1日)は合同法が成立してから300年。北隣りのスコットランドでは1999年に議会が復活し、現在の「連合王国」から分離独立しようという動きさえあるとか。あんまり評判の芳しくなかったブレア首相でしたが、ではなぜ引き際に北アイルランド自治政府復活合意をなんとかして取りつけようとしたのか。

 BBCニュースサイトの記事を見て、ブレア氏がアイリッシュの血を引いていることを知り、やはりそうだったのかと納得。政権発足時から、ブレア首相は対立する強硬主要二政党代表をダウニング街の官邸に呼んだりみずから出向いたりと自治復活にむけて努力していたらしい。首相に就任してはじめて向かった先がベルファストだったり、それまでの首相とはあきらかに北アイルランド問題にたいする姿勢がちがっていたといいます。記事によると母親が北西部ドニゴールの出身らしい。「聖金曜日合意(GFA、→アイルランド外務省サイトの記事。ついでにサイトのバナー画像は美しい逆光でとらえたカラフのみごとな写真ですね…なにかしら暗示的ではある)」をとりつけたのも首相就任から一年以内だし、なみなみならぬ意気込みで取り組んでいたことがうかがわれます。

 20世紀前半まで、アイルランドは強大な隣国・大英帝国の支配下にありました。こうなったそもそものきっかけは1169年、アングロ・ノルマン連合軍が侵入したことがはじまり。そのときの総大将ストロングボウがノルマン軍を率いてウォーターフォードを攻め落とし、現在のレンスター地方を掌握したのもつかのま、となりにストロングボウの国ができてしまうことをおもしろく思わなかったヘンリー2世は1171年10月、みずから精鋭一団を率いて上陸、ストロングボウはあっさりレンスター全土をヘンリー2世に献上した…このへんからアイルランドは抑圧と破壊と独立闘争の連続、大飢饉に大量の移民…といったたいへん苦しい歴史を歩むことになります。自分はとおりいっぺんの通史しか知らないけれど、アイルランドが1921年、大英帝国圏内にとどまってはいたものの、その後ゆるやかな「英連邦」内の自治権を認められた「自由国」になり、第二次大戦後の1949年、ようやく共和国として独立を勝ち取る…そんな文字どおりの茨の道のりは日本人からははるかに想像を絶すること。われわれが想像している以上に苛烈な歴史だったと言うほかありません。日本人とアイルランド人は似ている…とときおり言われるが、長きに渡って隣国の圧政に耐えてきた歴史をもつ国と、法治国家のすべての土台をなす憲法を変えられる法案を国民そっちのけであっさり成立させるような国とはやはりたいへんな落差がある。

 北アイルランド問題…もたいへん複雑で、うかつにものを言えないのですが、直接のはじまりは1921年に自治を認められたアイルランド全32州(「県」と表記される場合もあります)のうち北部アルスター6州をのぞいた26州が英国直轄領から離脱して、国土が南北に分離してから。当時アルスターは、有名なタイタニック号を建造したことでも知られる造船の街ベルファストやリネン産業のさかんなロンドンデリーを抱え、南半分のほかの地方にくらべて豊かであったこと、アイルランドでは少数派のプロテスタント系住民ユニオニストと英国との利害が一致していたこと、のちのIRAとなる前身組織IRBなど、カトリック系の過激な独立推進派とプロテスタント系の多いユニオニストらの対立が激化したことなどがあって、けっきょく北部アルスター6州のみが現在でも英連邦の一部として取り残されたままになっています。住民同士の対立も根深くて、プロテスタント系とカトリック系とがそれぞれの地区にわかれて住み、またたびたびテロ事件や衝突が起きるなど、いまだ相互理解と和平へは道半ば、というのが現状です。

 積年の対立…はそうかんたんには解消されないでしょうけれども、つぎの英国首相になる人も、このブレア氏の「平和的解決に向けた歴史的な一歩」をムダにせず、さらに推し進めていってほしい…と願わずにはいられません。

 …最後に北アイルランド問題とは関係ないけれど、「日本におけるアイルランド年」サイトの「あなたのアイルランド人度をはかるクイズ」。けっこうおもしろいです。

2007年03月22日

「聖パトリックの胸当て」

 先日、もとBACのひとりでウィンチェスターカレッジのすばらしい少年聖歌隊員(Quirister)だったハリーくんの(とかわいい狆の恵之介くんの)情報を書いてくださるKeikoさんから、かつてコナーが作曲した「聖パトリックの胸当て」というのはどういうものなのかというコメントをいただきました。そうだった、聖パトリックと言えば「胸当て」だったな…と思いつつも――パトリックを守護聖人とする一部のカトリック教会では部分的に唱えられたりするみたいですが――大多数の日本人にはなじみのない「祈り」だろうと思います。「聖フランチェスコの平和の祈り」のほうが有名かも。かくいう自分も言われてからはじめて思い出したくらいで、ひさしぶりに本だのコピー資料だのひっくり返してみました…とはいえ手持ちの資料はたいてい「航海者」ブレンダンにかんするものばかりで(当たり前か)、恥ずかしながらパトリックについては「史的パトリック論争」以外はなにも知らないにひとしいのですが、さいわいいくつか参考資料が出てきて、オンライン版Catholic Encyclopedia にも現代英訳文が掲載されていたので、以下、試訳で紹介しておきます。

 原文は7世紀後半ごろの作で、古アイルランド・ゲール語で綴られています。

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 聖パトリックの胸当て

 わたしは今日、身にまとう
 三位一体の強き力への呼びかけを。すなわち
 万物の創造主の三位一体を信ずる。
 
 わたしは今日、身にまとう
 キリストが洗礼により降誕された力を
 磔にされて葬られた力を
 昇天し、復活された力を
 審判日に地に降臨される力を。
 
 わたしは今日、身にまとう
 熾天使の愛の力を
 天使たちの従順さにおいて
 復活し、報いを受ける望みを抱いて
 族長たちの祈りによって
 預言者たちの預言によって
 使徒たちの伝道によって
 告白者たちの信仰によって
 聖処女たちの清純さによって
 正しき人たちの行いによって。
 
 わたしは今日、身にまとう
 天の力を
 陽の光を
 月の輝きを
 火の煌きを
 稲妻の閃きを
 風のすばやさを
 海の深さを
 大地の不変さを
 岩の堅固さを。
 
 わたしは今日、身にまとう
 わたしを導く神の力を
 わたしを支えてくださる神の力を
 わたしを教え導く神の知恵を
 わたしを見守ってくださる神の目を
 わたしのことばを聞いてくださる神の耳を
 わたしにことばを授ける神の口を
 わたしを守ってくださる神の手を
 わたしのゆく手に道筋をつけてくださる神の道を
 わたしを隠してくださる神の盾を
 わたしを庇護してくださる天の大群を。
 悪魔の罠から
 悪の誘惑から
 自然の欲から
 遠くから、あるいは近くから
 おおぜいで、あるいはひとりで
 わたしに悪を企てるすべての者から
 わたしを守ってくださる。
 
 わたしは今日、こうした力をすべて呼び起こす
 わたしの体と魂に襲いかかる残忍かつ無慈悲なすべての力に抗うために
 偽預言者の呪文にたいして
 異教の黒い法にたいして
 異端の偽りの法にたいして
 偶像崇拝の奸計にたいして
 魔女と鍛冶屋と妖術使いの呪いにたいして
 人の体と魂を滅ぼすすべての邪知にたいして。
 
 キリストよ、今日、わたしを守りたまえ
 毒から、火傷から
 川流れから、死をもたらす怪我から
 わたしのもとに、あふれる御恵みがありますように。
 わたしとともにキリストがおられる。わたしの前にキリストが
 わたしの後ろにキリストが
 わたしの内にもキリストが
 わたしの下にもキリストが
 わたしの上にもキリストが
 わたしの右にもキリストが
 わたしの左にもキリストが
 砦にもキリストが
 戦車の座にもキリストが
 舟の舵にもキリストが
 わたしのことを思うすべての人の心にもキリストが
 わたしに話しかけるすべての人の口にもキリストが
 わたしの姿を見るすべての人の目にもキリストが
 わたしの話を聞くすべての人の耳にもキリストが。
 
 わたしは今日、身にまとう
 三位一体の強き力への呼びかけを。すなわち
 万物の創造主の三位一体を信ずる。

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 こんな感じの祈祷文ですが、これは別名「鹿の叫び声」とも呼ばれています。いわゆる『パトリック三部作伝記』のいずれにも目は通してないけれども、おそらくそのうちのどれかに出典があるはずです。たとえばジョーゼフ・キャンベルの大作『神の仮面 The Masks of God』の第三部「西洋神話」の巻。アイルランドについて書かれた章に、「…しかしパトリックとお供の八人、召使いのベネン少年は、(異教徒の上王・ロイガレ[またはリーレ Loiguire, p.462-3]が沿道に待ち伏せさせた)刺客たちを八頭の鹿の姿で通ってやり過ごした。列の最後には白い鳥を背に乗せた一頭の若鹿、つまりパトリックの書字板をかついだベネン少年の姿があった」(p.463)とあって、「鹿の叫び声」との関連がうかがえます。ようするにパトリック一行は、この祈りのことばという「盾」に守られたということです。その後、ターラの丘に到着したパトリックは集まった氏族長にたいし、剣からシャムロックを掴み取って、3つに分かれた葉をたとえとして用いた有名な「三位一体」についての説教をおこない、この日を境にアイルランドは異教世界から正式にキリスト教世界へと変わったとされています。

2007年03月05日

半分は自戒の意味もこめて

 先月、こんなニュースが報じられていたことを知りました。元記事のNYTimesのほうは期限切れで見られないのでかわりにこちらにもおんなじものが転載されています。

 Webはすこぶる便利な道具で、また人間は一度ラクをすると坂を転がり落ちやすい生き物なので、ついつい無批判に濫用しがち…これはなにも学生だけではなくて、いっぱしの専門家でもついはまってしまう落とし穴だったりする(これとは範疇がちがうけれどもつい最近もよその社説を盗用した新聞社の話とかありましたね)。Wikipediaだから無批判に引用すべからず、ではなくて、どんな本・辞書・事典のたぐいでも思いこみやまちがいはつきもの。なにかを引用するときにはよくよくの注意が肝要です。

 …とはいえ自分もあんまり人のことは言えないから、自戒の意味もこめて記事を読みました。拙サイトでも、たとえばブレンダンについてのWikipediaのエントリとWeb版のCatholic Encyclopedia(初版)に外部リンクを張ってあります。で、よくよく英語版Wikipediaの記事を見てみると、なんかブレンダンが「喜びの島」を求めて航海した、みたいなことを書いてある。ブレンダン(とアイルランド)と古代ギリシャ古典の産物と言っていい「喜びの島」とのつながりは、じつはずっとあと、すくなくとも14世紀ごろになって結びついた発想。当時の地図製作者はイシドールの『語源論』なども拠りどころとして、つぎつぎと「ブレンダンの島=歓喜の島または幸福諸島」を大西洋のただなかにに描くようになります。その代表格として、たとえば1362-7年製作とされるヴェネツィア人ピッツィガニ兄弟の世界図に描かれた「聖ブレンダンの島」* が挙げられます。Wikipediaの記事は、古アイルランド語で書かれた最古のイムラヴ『ブランの航海』や「常若の国 Tír na nÓg」なんかも引き合いに出しているから、それとごっちゃにした感あり。典拠とした参考文献は掲載しているものの、やや冗長で正確さに欠ける記述がやはり気になるかな…たとえば 'Many versions exist, that tell of how he set out onto the Atlantic Ocean with sixty pilgrims[2](other versions have fourteen, plus three unbelievers who join at the last minute), ...' の箇所。文脈では『航海』のさまざまな写本が現存して、それらは…という感じですが、これは誤解を招く書き方だと思う。ラテン語版『航海』では基本的に「3人のよそ者」も入れて17人。「60人」というのはじつはラテン語で5つ、古アイルランド語で書かれたものがひとつ(15世紀「リズモアの書」所収のもの)現存する『聖ブレンダン伝』のほうで、ラテン語版のほうはひとつをのぞいて『航海』のエピソードも挿入された合成もので、おそらくそちらを引いているのだと思います。これはラテン語版『ブレンダン伝』の底本じたいに問題があるから、たしかにややこしいと言えばややこしいのですが。あと 'He also encountered a sea monster, an adventure he shared with his contemporary St. Columba.' というのもいまいち判然としません。すくなくともコルンバは関係ないはず。

 更新履歴を見るとそれこそ頻繁に更新されていて(だからひさしぶりにのぞいてびっくりした)、このへんは紙の事典ではまねできない利点と言えるかもしれない。フェロー諸島の記念切手の画像もおもしろいですし(それと東方正教会でも聖人扱いされているとはこちらもびっくり。祝日は西方教会では乳母の聖イタの祝日である1月15日)。でもだからといって紙の事典より上ということはけっしてない。いっぽう紙の事典の執筆は素人ではなくて玄人の領分(当たり前)なので、そのまんま引用してもさして問題はなかろう…と思うのもまた早計だったりします。たとえば『リーダーズ・プラス』にはご丁寧にブレンダンの項目もありますが、「クリスマスの日、寂しい岩山でユダに遭遇した話は有名」と書いてあります。そしていま手許にコピーがないのでひょっとしたらこちらのカンちがいかもしれないけれど、たしか荒○宏氏の編纂した事典にもそんな記述があったような気がする。いままでいろいろなブレンダン本や資料に目を通してきたけれど、そんなこと書いてあるものにはお目にかかったことがありません。出典はなんなんだろう?? …といまだに不思議に思ってます。たぶんなにか共通の原典を見てそのまま書き写したか、あるいは後者か『プラス』の編纂者のいずれかがたがいの「引用」を参照したか、どちらかでしょう。とにかくラテン語版『航海』にはそんなこと書かれていません(ブレンダン一行は「主の日」、つまり日曜日に波が打ちつける巌に座っているユダを発見する)。

 …と偉そうなこと言ってはいるけれど、自分もときおりアホみたいな誤記をしでかすときがある。この前も追記した部分にとんでもないことを書いていたくだりがあって、あわてて差し替えたり…いつも、「もうすこしなんとかならんかなぁー…」と溜息ついているのが正直なところ――それもこれも自分の浅学非才さのせいなんですが――この手のサイトのWebmasterさんたちがよくおんなじこと言ってたりしますが、拙サイトも永久に「未完成」かなあと思います。英語版もぜんぜん捗っていないし…。orz orz

 学生が無批判になにかの文献/サイトの文章を引用するのはたしかに褒められたことではありませんが、ただ「禁止!」一辺倒ではあんまり効果はないでしょう…NYTimesの記事にもあったけれども、たとえば学生に専攻学科について、あるいは自分の得意分野についてWikipediaに記事をエントリしてみる、という試みをさせたほうがはるかに効果的ではないでしょうか。記事中に登場する、さる米コロンビア大学教授によると、学生の反応として「事典の執筆という仕事はかんたんではない」ということが体得できたようだと語っています。自分が執筆者側になってみるのがいちばんですね。

 …ブレンダンついでにこんなページも見つけました…まずおや?? と思ったのは2番目の段落の最後、'Most scholars place the narrative of St. Brendan and his voyage among other mythic seafaring legends. Brendan the Voyager, also known as Brendan of Ardfert and Clonfert was born in 484 A.D. near present day Tralee in County Kerry, Ireland. He was baptized by Bishop Erc, and educated under St. Ita, "the Bishop of Munster."'。のところ。これは'Brigid of Munster' と書こうとしてうっかりこんなこと書いてしまったんでしょう。早くミスに気づくといいんですが…。

 *…画像掲載の元ページはこちらです。ちなみに「聖ブレンダンの島」と同一視されたときもあったカナリア諸島。名前の由来は鳥ではなくて、ラテン語の犬canisから。なんでも島には羊ならぬ犬が多かったとか…。

2007年02月10日

『アイルランド地誌』

 この前、地元の図書館にビル・マッキベンの本を借りに行ったとき、ついでにアイルランド関係はなにかないかなと探してみたら、なんとギラルドゥス・カンブレンシスの『アイルランド地誌』の邦訳があるではないですか。邦訳 … が出ていたことくらい知ってはいたのだけれど、和洋取り混ぜてあっちこっち読んでいるうちにそんなことはすっかり頭から消えてました。さっそくこっちも借りて読んでみました。

 英語読みでは「ウェールズのジェラルド」と呼ばれるギラルドゥス・カンブレンシスは12世紀後半の人(c.1145-1223) で、ときのイングランド王ヘンリー2世、つづいて「失地王」というありがたくないあだ名で呼ばれる末子ジョンに仕えていたカトリック司祭の人。1170年のアングロ・ノルマン連合軍によるアイルランド侵攻後、1185年にジョン王子とともにアイルランドにやってきたときに見聞した当地の珍しい風物をときに同情をこめて、ときに舌鋒鋭く批判し、ローマ・ギリシャの古典の知識も開陳して書き上げたのがこの有名な本、というのはいちおう知ってはいたけれども、これがじっさいに日本語として読めるとはなんてすばらしいことなんだろうと感慨もひとしお。邦訳書は10年前に刊行されていたので、読んだことのある人はなにをいまさら、というところでしょうけれども … 。この一中世人による、いわば貴重な証言とも言える『地誌』をギラルドゥスが完成させたのは1188年ごろのことらしい。有名な「パトリックの煉獄」なんかもしっかり出てくるし、もちろん聖ブレンダンも、かんたんながらちゃんと書かれてあります。邦訳を読んで、もっとも驚いたのはp.127の「西の島テューリー」について書かれた章。これはこれでまた後日、サイトのほうにもあらためて追記する予定ですが、ラテン語版『航海』6章冒頭、3人の「遅れて来た修道士」を乗船させてブレンダン一行の舟がアイルランドから船出したときの描写との関連で目を見張ったのです … 。'... contra solsticium estiuale(11世紀ごろの作とされるアランソン写本版では'... navigare contra solsticium esticunum')' とあり、直訳すれば「夏至にむかって(舟を進めはじめた)」。ここの部分どうもいまいちわからなかったのですが、たとえばこちらの本(p.236,n.58)を見ますと「これは、夏至がテューレの真上で起こるとするイシドールの説を直接引いている可能性がある(『語源論』XIV § 6:4)」との脚註があり、すくなくとも当時の西欧の人は「太陽が夏至を迎える場所 = 最北の島テューレの真上」と考えていたらしい。9世紀、シャルルマーニュ(カール)帝の宮廷に仕えていたアイルランド人地理学者ディクイルも『地球の計測』という本で、最北の島テューレでは夏至前後の期間は闇夜がまったくないことを述べている … ということは「北」へ向かったのかとセルマー校訂ラテン語版から邦訳された太古先生も推測しています…ちなみにオメイラ英訳版では '...they began to steer westward into the summer solstice.(p.9)' と「西」へ向かったと解釈。… ??? と思っていたら、『地誌』には「もっとも西にある島」なんて書かれてあるじゃないですか! 

 「 … ソリヌスはテューリーがブリタニア周辺に数多くある島のさい果てにあると述べている。そして夏至のときには夜が全然なく、冬至のときには昼がまったくない、と。
 テューリー島の向こうにはよどんだ凍った海がある、とソリヌスもイシドルスも言う。イシドルスはテューリーがブリタニアの向こうにある北および西の地でもっとも遠い島であると記している。そしてその名が太陽(ソル)に由来している ―― というのはそこで太陽が夏至を迎えたり、その向こうに昼がなくなったりするから ―― という。
 しかし西方の人はこの島について無知で、西や北にある島のうちどれがそうした特徴をもつのか、あるいはテューリーとよばれるのかも知らないほどである。」

 … ということは文字どおり解釈すると、ブレンダン一行は北西方向へ船出したんかな??? 

 というわけで、サイト管理人にとってはこの一点だけでも大きな収穫でありました。それと、そのすこし前には「モスケンの大渦巻」のことも書かれてあって、こちらもなんらかのつながりがあってのことだろうか … 。

 この本はあくまでもおとなりの島国からやってきた異邦人の目から見たアイルランド、という視点から読む必要がありますが、価値観もものの見方も異なるウェールズ人司祭の目にアイルランドという土地がどのように写ったのか、という点ではすこぶるおもしろい読み物です。もっとも著者ギラルドゥスの勘違いも散見されるとはいえ…それと革舟カラフを描写した章(p.229, 3-26)。国会図書館で複写したポール・ジョンストンの本にもここのところがそっくり引用されていたので、個人的にはけっこう惹かれるものがありました。

 「 … しばらくするとそこから小舟が漕ぎだされ、近づいてくるのが見えた。それは長円形で狭く、ヤナギを編んだ外側に動物の皮をはり合わせてできていた。」

 「狭く」という箇所は「細く」のほうが感覚的にしっくりきますが、原文のラテン語がこうなっているのでしょう、たぶん(ひょっとしたら原本じたいがWebの海のどこかにひっそりとあったりして)。

 また著者がローマカトリックの司祭だからか、アイルランド特有の修道院制度を批判しているあたりも興味深いですね。パトリックの来島とキリスト教への改宗、オストメン(東方人)と自称していたヴァイキングのアイルランド侵攻 … ヴァイキングが入植するまで、都市というものが存在しなかったアイルランドにはじめて都市を建設したのは彼らだということもしっかり書いてあります。

 そしてなぜか「アイルランドと音楽の関係」ついて、数章を割いて書いているところもたいへん興味を惹かれました … 「この民が熱心におこなうことでは楽器演奏だけが賞賛に値すると思う。これに関してはわれわれが知っている民の中で断然優れている。われわれに馴染み深いブリタニアの曲のように長くゆっくりしておらず、実に速く、旋律は甘く快い。」

 これはまるであのアイリッシュ特有の、目まぐるしくぐるぐるまわる溌剌としたフィドルやバグパイプの演奏のことを言っているようではないですか! 

 「彼らがひじょうにすばやく指をあやつるのに音楽的調和が乱れないのには驚かされる。またどの点にとっても完全な技法によって、複雑な形式の、ゆたかで複雑なポリフォニーの中、心地よい速度で、異なるものが一緒になり、不調和のものが調和して、旋律が共鳴し仕上げられることにも。」

 なるほど。これを額面どおり受け取るとアイルランドではすでにポリフォニー形式が発達していたらしい。手許の音楽関係の本をひっくり返してみると、たとえば「1300年ごろ、イギリスのレディングで作られた二重カノン『夏は来たりぬ Sumer is icumen in 』は、この型の最古の例として知られている」とあって、アイルランド→英国というのは当然あるよな…とか(対位法の起源については9世紀ごろのことらしい)。

 最後にアイルランド聖人について書かれたおもしろい一節を(p.184、「当地の聖人は復讐心が強く思われること」)。

 「さてこれははっきりしていると私には思えるのだが、この民がこの世にあるとき、他の民に増して短気ですぐ復讐に走る傾向があるように、永遠の生の中でどこの聖人にも増して功徳にすぐれる人々も復讐心が強いようだ。」

 これについてはティム・セヴェリンのBrendan Voyage にも似たような記述が出てきます(初版本のp.99-100)。

 「 … (アウター・ヘブリディーズの)タイリー島もまたアイルランド人修道士が庵を編んだ場所。聖ブレンダンの時代、ここにはアイオナの娘修道院があり、一説には聖ブレンダンその人が創設者だという。これらゲール語圏の島々に伝わるキリスト教聖人伝説の力は根強くて、島人はいまでも新しい港の一角にある岩を指差してこう言う ―― モラッハダグ、『呪われし小さな岩』。島人によれば、聖コルンバはタイリー島にやってきたとき、この岩に生えている海藻にカラフをつなぎとめた。ところが海藻は切れて舟は流されてしまった。そこで聖コルンバは、おまえには今後永久に海藻は生えないだろうとこの岩を呪った。港にあるほかの岩場には海藻がふさふさ生えているのに、モラッハダグだけは何十年もはげ岩のままで、つい最近になってようやく海藻がちょびちょび生えはじめてきたのだそうだ。」

 またツノガレイをふんづけてすってんとこけたコルンバが怒って、カレイの目をふたつとも上側につけてしまったとか、おもしろい地元の伝説も紹介しています。そのすぐあとにもアイルランド人船乗り修道士が「いかに短気か」について書かれてあり、アイルランド北部の村ではサケがまったくとれない入江があって、これも昔、舟でやってきた修道士が村人になにか魚を食べさせてほしいと頼んだがにべもなく断られた、それで罰としてサケをこの入江から追い出してしまった … と、じつに聖人らしくない、いかにもアイルランド人らしい逸話も報告しています。

 … そういえばギラルドゥスもアイルランド人の金銭面でのルースさを嘆いているけれど…金は「かならず返す ―― できるだけ早く」なんてジョークを思い出してしまった。

 … それと、p.290の註67、「ミーズのタラを本拠地とするウィ・ニール朝の創設者。… 五世紀以後この王朝がアイルランドの南半分を支配する」とありますが、北半分じゃないでしょうか? 

2007年01月02日

アイルランドゲール語がEU公式言語に

 Irish Gaelic(Gaeilge)、アイルランドゲール語が今年の元日から晴れてEUの21番目の公式作業言語になった、という一報をBBCのサイトではじめて知りました…ご当地アイルランドの新聞社サイトを見たら、これは2005年6月にすでに決定していたらしい。なお公式作業言語 official working language というのはEUの「公用語」ではなくて、たとえば欧州議会で可決された主要法案がアイルランドゲール語に翻訳されたり、EU関連業務に応募するさいアイルランドゲール語でもOK、という実務レベルでEU各国で通用する言語になった、という意味。とにかくこの話はまるで知らなかった。またBBCの記事によるとアイルランドゲールとともにルーマニア語とブルガリア語も元日から公式言語として扱われるということでこれはめでたいことではないですか。ちなみに英語が主語+動詞…という語順であるのにたいし、アイルランドゲール語は逆の動詞+主語…の順番みたいです。こちらのアイルランドのサイトに、ちょっとした日常会話文例集が掲載されていました。

 日本人はとかく「一国=一言語」のような誤った先入観をもちがちです…もちろん現実はそんなに単純ではなくて、公用語がいくつもある国のほうが多い。各民族ごとにしゃべることばがまちまちという多民族国家のほうがはるかに多いわけで、日本みたいな国はほとんど例外的といってよいと思う。イタリアやドイツだって各地方に固有の言語があります(フリウリ語やラディン語、シュヴァーベン語テューリンゲン・オーバーザクセン語など)。でもこれらは独立言語というより地方方言といったほうがいいので日本ではたとえば「ケセン語」みたいなものかな…とこれは勝手な妄想です。

 アイルランドゲール語は1800年の英国併合後に使用人口が激減したり、その後の「ジャガイモ飢饉」で大量のアイルランド国民が北米大陸へと移住したせいもあって壊滅的打撃を受けたという歴史があります。1922年にアイルランド自由国として独立後、本格的な復興がはじまるのですが、それでもアイルランドゲールを話す国民の割合はいまだに全人口の半分にも達していませんし、日常的にしゃべっている人の数はさらに少ないのが現状のようですね。

 アイルランドゲールを話す国民が集中しているのがいわゆるゲールタハト(Gaeltacht)と呼ばれるアイルランド西海岸地域(北よりのドニゴール地方もふくむ)に限定されます。アイルランドで学校の教師になるにはこのゲールタハトへ行ってアイルランドゲール習得のための言語研修を受けなければならないという話を読んだことがあります。でも道路標識とかは英語併記がふつうですし、強いアイルランド訛りがあるとはいえ、大多数の国民は英語話者です。Irish Times新聞社サイト記事にも書いてあるように、EUの公式作業言語になったからといって手放しでは喜べないのがアイルランド国内の現状です(記事中のTDという略記はアイルランド下院議員の意。Fianna Fáil [フィアナ・フォイル]は「共和党」のこと)。

 おなじ島国でありながら、この点では日本語(および日本人)はほんとうに恵まれている。敗戦直後GHQに占領されたとき、志賀直哉がやけっぱちになって「いっそフランス語にしちまえ」と言った…という話を読んだことがありますが、いくら当時の困難な状況を考えてもこれはとんでもない放言ですね。アイルランドでは伝統的なダンスさえ禁じられていたときもあり、英国人憲兵に窓越しに見られてもそれと悟られないように上半身は動かさず、足だけでステップをとって踊っていたという話もあります。

 BBCの記事によるとなんとカタルーニャ語とガリシア語、バスク語はEUの半公式作業言語になっているらしい…いわゆるスペイン語と言っているのはカスティーリャ語のこと。「言語の多様性」を重視するEUの姿勢はすばらしいと思います(ただし極端な原理主義同様、偏狭なナショナリズムに陥らないようよくよくの注意が必要ですが)。

 …アイルランドゲールでふと思い出したのが、トマス・ムーアが編んだ『アイルランド歌曲集』に収められた詩のひとつ、'The Last Rose of Summer' (「庭の千草」)――そしてこの哀愁に満ちた旋律を歌うBACのエドワードの歌声も。バロウズ家のご先祖もアイルランド系みたいですね。

 …そういえば、年末、サイト関係でお世話になっているアイルランドの古地名に詳しいトラリー在住の考古学者、Breandán Ó Cíobháin 先生宛てSeason's Greetings を出したら、返信になんと「いま、日本人の若者がホームステイしているよ」!! なんでもこの若い方はアイルランド古謡に興味があるんだとか。で、アイルランドゲール語を勉強しにゲールタハトのひとつディングルに来たらしい。

 …伝統漁船カラフにも乗せてもらえるといいですね。帰国されたらわたしにもぜひアイルランドゲール語を教えてほしい…と言ってみる

2006年09月13日

聖エルベの祝日

 ローマカトリック一般には聖人として公認されているのかどうかやや? ではありますが、12日はアイルランド・マンスターの守護聖人エルベ(ラテン語名アイルベウス)の祝日でした…日本ではとっくに過ぎてもう13日だけれども、現地ではなんらかのお祝いでもやったのかな。

 ラテン語版『聖ブレンダンの航海』にも登場するこのなかば伝説化した人物について、詳しいことはほとんどなにひとつといってよいほどわかっていません。Catholic Online の項目では聖パトリックの弟子だったとあり、そういえば『航海』第12章にも「かくしてキリストは聖パトリックとわれらの父聖エルベの時代から80年このかた、われらを養ってくださったのだ」と「聖エルベの島」の修道院長がしみじみとブレンダン一行に語り聞かせるくだりがあることからしても、歴史上のエルベもまたパトリックとなんらかのつながりがあったのかもしれません。エルベもイニッシュモア(アラン諸島)の聖エンダもパトリックがアイルランドにキリスト教を布教する以前から宣教活動をしていたようなので、たしかに時代は重なってはいます…パトリックが宣教師としてふたたびアイルランドに来島したのが461年ごろ(以前はアイルランドの学校では432年と教えていた)。司教エルベの生年が不明なので単純計算はできませんが、そうとう生きながらえたらしく、『聖エルベ伝』では亡くなった年がなんと528年ごろらしい。…ブレンダンは484年ごろ生まれたようだから、もうすこし前の470年ごろと仮定して80を足せば550年ごろ…そのまま受け取ればブレンダン66歳ごろにして、この共同体の住む絶海の孤島にたどりついてともにクリスマスと新年を祝う、というサイクルを7年も繰り返したことになります。

 『航海』に出てくる24人の修道士、というのはエルベが「約束の地」、つまり「地上楽園」探索へ派遣した弟子の集まりとも言われ、またエルベ自身もともに船出したとも伝えられています。…いずれにせよ『航海』が下敷きにしているのはこの伝説です。

 もっとも物語での数字の使われ方は象徴的用法にすぎないのですが、中世を通じてさまざまな歴史資料が証言しているとおり、聖ブレンダンは数あるアイルランドの「船乗り聖人」のなかでももっとも活発にアイルランドやブリタニアの海を往き来した人だということはまちがいないところです。

 …ブレンダンつながりでよく連想されるのが「クジラ(大魚ジャスコニウス)」。世界最大の生物、blue whale(シロナガスクジラ)のことをこんどNHKが放映するみたいなので、こちらもおおいに興味あります。クジラついでに、親の実家のある西伊豆の地名がそのままついたイルカまで存在します(アラリイルカ)。

 …ブレンダンが生きた1400年以上前のアイルランド南西部というのは、いまよりはるかに過酷で生き延びるのが容易ではなかったのだろうけれども、昨今のこの暗澹たる、のっぴきならない情勢を思うと、まだそのころのほうがいくらかでもましだったのではと、ついそんなことを思ってしまう。

 …以前VoAの書き込みにあったのですが、5年前のあのとき、世界貿易センタービルで不帰の人となってしまった犠牲者に、かつてセントポール大聖堂で少年聖歌隊員として活躍していた方もいたらしい…おそらくいまキングズシンガースで活躍しているポール・フェニックスとだいたい年回りがおなじだと思うのですが…なんとも悲しいことです。

 …聖ブレンダンがいまの世界を見たらいったいなんと言うだろうか。

2006年06月04日

忘れてました

 そうでした、そうでした。gnosis関連のことに首突っ込んでいたら、すっかり失念していました…こちらのblogエントリのおかげで思い出しました(ありがとうございます!)…自分で書いておきながら忘れるとは…orz。

 イスカリオテのユダのからみでは、ラテン語版『航海』にもユダとの遭遇の場面が物語後半に登場しますが、ある意味「約束の地」到達以上に、読み手であるキリスト教徒にとっては重大な関心のあった挿話だったにちがいありません。

 そのラテン語版『航海』(セルマー校訂版)の第25章に、こんな一節が出てきます。

 …ふたたび神の人(聖ブレンダン)がユダに訊いた。「この布はなんのためにあるのか?」
 「わたしが主のしもべたちの金入れを預かっていたとき、この布を癩病人にあたえたのですが、これは自分の布ではありません。主と、しもべたちの持ち物でした。それゆえこの布はわたしにとって安らぎではなく、むしろ厄介な代物です。布が掛かっている金属の熊手は、鍋を吊り下げるために、神殿の祭司たちにさしあげたものです。わたしが腰かけている岩は、主の弟子になる前、通行人が足を取られないように大通りの溝を埋めたものです」。…
(from 'The Voyage of Brendan', in Celtic Spirituality by Oliver Davies, Thomas O'Loughlin, Paulist Press, New York & Mahwah, NJ, 1999, p.184)

 聖ブレンダン一行を乗せた舟が、命からがら「地獄の縁(アイスランド?)」から逃れて南へ向かって7日が経過したころ、毛もぼうぼうの、みすぼらしいなりの男がひとり岩の上に腰かけ、強風と高波になぶられているのを発見。好奇心がうずうずしだした修道院長ブレンダン、弟子に命じて舟をその岩へ向けて進ませると、なんとそこにいたのは「裏切り者」イスカリオテのユダだった…とここまでは共観福音書や使徒行伝からの借用だろう、ということになりますが、問題は引用部分。ユダが生前、このような三つの善行をおこなったなどということは新約聖書正典のどこにも出てきません…じつはこれ、『パウロの幻視(Visio Pauli)』として知られる文書を下敷きにしている…らしいけれども、こちらはせいぜい「地獄に堕ちた罪人たちにも毎週土曜の夜から日曜の昼まで、地獄の責め苦を中断させるようイエスが計らった」くらいが共通項で、上記の「三つの善行」の伝承が具体的になにを下敷きにしているのか、いまだに――知らないのは自分だけ?――不明です。

 …ちなみに『パウロの幻視』も、もとはグノーシス系文書の新約聖書外典でした。おなじくケルト系神学者/哲学者で、大陸で活躍したヨハネス・ドゥンス・スコトゥスが9世紀にギリシャ語原典をラテン語に翻訳して以降、とくに大陸で広く読まれた物語です。こんなとこにもグノーシスの影響が…とまたしてもグノーシスつながりになってしまいますが、関連書籍に何冊か目を通すうちに、初期キリスト教成立の歴史を知るうえで、この多種多様でウナギみたいにつるつる掴みどころのないというか、捕らえがたい現象は避けては通れないものなので、いまのところは――「ユダの福音書」のおかげかな?――門外漢なりに理解しようと集中的に読んでいます。

 グノーシスと「ユダの福音書」については、日本語版が手に入ってからまた稿を改めて書きたいと思っています(気が変わるかもしれないけれど)。

2006年05月16日

Die Sancti Brendani

 今日はわれらが聖ブレンダンの祝日…ということで、ひとり盛りあがってみる。

 それと今日は奇遇なことに、Love Actually で名演技を披露し、最新作 Nanny McPhee にもベテラン陣に負けない存在感を出している、トーマス・サングスターくんの 16回目の誕生日でもあったり…ということはこのさい置いておきます( NYでのプレミアだかなにかの写真を見ますといつのまにかすらっとだいぶ背が高くなってました…16になるんだから当たり前か … )。

 聖ブレンダンについては本家のほうにまとめてありますので興味のある方はそちらを見ていただくとしまして(…そのうち記述の不備についてお叱りが来るんじゃないかと内心戦々恐々だったりする)、ほんとはこの記念すべき日にかねてより用意していたものがあったんですが … 先方からの許可がいただけなくてあえなくボツ。しかたないから原文リンクだけ張っておきます(世の中だいたいこんなものですね)。最初これ読んだとき、視点がおもしろくてけっこう気に入っていたので、こんどの祝日用のネタとしていちおう試訳をこさえて温存していたのだけれども…。

 ひさしぶりにあれやこれや検索エンジンを駆使して Brandon Creek とか、ゆかりの地を調べてみますとけっこう出てきます。いずれサイトのほうにも書く予定ですが、ちょうど 30年前――もうそんなに経つんだ。そう言えば自分が『聖ブレンダンの航海』にハマってからすでに 10年以上経過している…――ティム・セヴェリンがちっぽけな革舟を駆って北大西洋の荒海へ船出して、いにしえの航海記録が実証できるかどうかを文字通り体を張って挑戦した「ブレンダン号航海」で、北大西洋を横断した復元古代船カラフの現物が余生を静かに過ごしている場所の画像とか、探せばいろいろ見つかります … これとかこちらとか( ちょっと画像サイズでかすぎですね … 汗 )。

 ブレンダン一族にとっての聖所で、かつては屈強な若者が祭壇をかついで巡礼登山した、ブランドン山の画像なんかもいろいろ出てきました。山頂からの眺めなんか…まさしく絶景ですね! トラリーからディングル方面へ車を走らせる場合はコネア峠という、西伊豆で言えば船原峠みたいなきつい峠越えをしなくてはならないのですが、想像していた以上にブランドン山塊って厳しい山容を呈していたということを発見したり、時間さえあればもっと調べてみたい。

 聖ブレンダンが「聖人たちの約束の地」めざして船出したブランドン入江の画像もいくつか見つけました。こちらとか。そしてついさっき見つけたのがこちらのページ。入り江に下る狭い道路には木でできた( ! )電信柱が立っているけれども、邪魔な人工物がなーんにもない。とくに右端上の、廃墟と化した石積みの古い家の画像なんか、いますぐカメラと三脚かついで撮りに行きたくなる衝動に駆られます。ここが米国の某旅行雑誌で「世界一美しい風景」に選ばれたのも、うなずける気がします。日本みたいに桜だ紅葉だ、というにぎやかな色彩の競演はないけれど、広漠・荒涼とした、冬なんか文字通り寂寥そのものの、どちらかと言えば厳しい風景に、雨雲の切れ間から突如として光芒が差しこんだり、美しい虹がパァーっと出現するのが日常茶飯事だったりするかの地の美しさは、残念ながら西伊豆ではちょっと望めそうにない( 前にもこんなこと書いたかな … )。

 こちらの画像を見ると、入り江の断崖の上はわりと平坦な地形のようです。そう言えば先月、ディングル半島とケリー一帯を舞台になんと自動車ラリーまで開催されたらしい…以前図書館から借りたビデオで見たんですが、ディングル半島の海岸沿いの絶壁を這う道路なんか、まるで昔の西伊豆の旧道そのもの。スリルを越えてかなり危ない気がする。

 そしてこちらはブランドン山へ登る道から振り返って撮影したとおぼしき、ブランドン入江を俯瞰した風景。絶景ですね。

 ディングル半島のすごいところは日本とはちがって変化のスピードがきわめて遅いこと。セヴェリンがブランドン入江から復元した獣皮船に乗って再現航海に出発したときとちょうどおなじころ、National Geographic がディングルの特集を組んだとき、波打って海まで転がり落ちる斜面を背景に地元の坊やがポーズをとっている写真が掲載されていたのですが、数年前、当時の少年がまたおんなじ雑誌に登場して驚いたことがあります…かつての少年が筋骨隆々のたくましい青年になっていたから、ではなくて、背景の山の斜面に驚いたのです。なんにも変わっていない、みごとなまでに。西伊豆とは雲泥の差です。それが日本なんでしょうけれども。こちらでは30年前当時の風景を探すことさえもはや困難な作業です。

 …最後につい最近気づいたこと。サイトの参考文献ページにて紹介してある、The Legend of St Brendan : A Critical Bibliography という本。『黄金伝説』を下敷きにした version を調べていて偶然、40年近くも前に、日本人の先生によって書かれたブレンダン関係論文が掲載されているのを発見。ひととおり目を通したはずが、完全な見落としでした。『聖ブレンダンの告白と祈り』という中世の古い英語で書かれた散文作品についての論文でして、書き出してみますと( p. 72 )、

Kuriyagawa, Fumio, The Middle English St Brendan's Confession and Prayer, Edited from Lambeth Palace Library MS 541(Keio Society of Arts and Letters, Keio University, Tokyo, 1968), pp 23.

 [試訳]「『告白と祈り』の一編纂版は、『あきらかに聖人の人気の高さから(2ページ)』聖ブレンダン作とされた。論文は、作者が『聖ブレンダンの祈り(モラン枢機卿編纂版)』から、『告白と祈り』も聖ブレンダンの筆に帰す発想を得たかもしれないと述べている」

 …とりあえずまた国会図書館にでも当たってみよう…こんどは関西館にありますなんてことにならなきゃいいけど。

[ 2014年 1月1日 追記 ]:2014年、新年恒例( ? )の「生さだ」を見たあとしばし録画したN響の「第九」を聴きつつ、図書館から借りた『フランス中世文学集 I』とか、大晦日間近に書きあげた『航海』関連記事用にアイスランドサガ関連コピーなんか探していたら、ふと、上記記事にて書いたことも思い出していまさっき、ぐぐってみたら … なんとこんなところにありました ! うれしくて、のちほど全文プリントアウトしてじっくり読もう … とはいえ、キャンベル本のつづき( The Masks of God Vol.4 : Creative Mythology )も読みたいし … 時間がいくらあっても足りんな( 苦笑 )。ついでに上記引用文中にスペリングミスがあったので、いまごろになって訂正しておきました。m( _ _ )m 

2006年03月06日

聖ブレンダンと音楽

 100年以上前(1893年)に初版が出たD.オダナヒューの Brendaniana : St Brendan the Voyager in Story and Legend, 現在はLives and Legends of Saint Brendan the Voyager(1994) と改題され、一部割愛されて復刊されています。著者オダナヒューは聖ブレンダンの霊的子孫ともいうべきアードファートの司祭だった方で、同郷出身の枢機卿モラン大司教の編纂した聖ブレンダン伝説集(1872年)に着想を得てその英語版ともいえる伝説集を独自に編んだ、というのが上記の本。当時、カール・シュレーターがおもに中世オランダ語版とそれにもとづくドイツ語版『航海』を中心とした校訂本を出版(1871年)していましたが、アイルランド人の手になる英語版はおそらくこの労作が最初だろうと思います。

 「リズモアの書」所収のアイルランドゲール語で書かれた『聖ブレンダン伝』をはじめ、当地に伝わるブレンダン伝説をいろいろと収録していてとてもおもしろいのですが、ブレンダンと音楽の関係について語る、こんな言い伝えも収められています。

 以下(pp.270-273.)、拙訳で紹介しておきます(版権は切れているので問題ないとは思いますが、クレームがきたら即引っこめます。すこしばかりの脚色つき)。


 聖ブレンダンと竪琴弾きの若者と天使の伝説

 アルタの子孫ブレンダンが世を去る7年前の復活祭の日のこと。彼はクロンファート(修道院)の礼拝堂で定時の日課を執り行い、説教し、ミサをあげていた。正午になって、修道士たちは食堂へと引きあげた。その中には皆に竪琴の調べを聴かせる若い聖職者もいた。若者は皆から、奏でる調べにたいして祝福を受けた。
 「いまこの場に院長さまがいてくれたらどんなによいか。心浮き立つ調べを三曲、弾いてさしあげるのに」。
 「院長さまはお近づきを許されまい」とほかの修道士。「院長さまがこの世の音楽を耳にしたり作られたりしたのは7年前が最後。いまは紐で結んだ一組の蝋玉を書物の上に置いてある。なにかしら調べが聞こえたらその蝋玉ですぐに耳をふさいでしまうんだ」。
 「それでもかまわない。院長様のもとへ行って、竪琴を弾いてくる」
 そう言って、若い聖職者はきちんと調律した竪琴をたずさえて部屋を出て行った。
 「中へ入れてください」
 「だれじゃ?」。聖ブレンダンが訊きかえす。
 「院長さまのために竪琴をつまびきに参った書生でございます」
 「礼拝堂の外で弾きたまえ」
 「もしよろしければお邪魔して、しばしのあいだ竪琴を弾かせていただければ幸いです」
 ブレンダン修道院長は扉を開けた。若い聖職者は竪琴を取り出すと、すぐさま院長は蝋玉を耳に詰めた。
 「蝋玉を耳からお出しにならなければ奏でません」
 「では弾くがよい」
 院長が蝋玉を書物の上にもどすと、若者は陽気な調べを三曲、奏でた。
 「書生よ、汝に祝福あれ。汝の奏でる音楽とともに。あとは天上の音楽だ」
 そう言うとブレンダン院長はふたたび蝋玉を耳に詰めて、いっさいの調べが耳に入らないようにした。
 「なぜ音楽を聴こうとなさらないのです? 演奏がお気に召さないのですか?」
 「そうではない」院長はこたえた。
 「7年前のある日、この礼拝堂で説教をし、ミサをあげ、皆の者が食堂へ引き上げた後のことじゃった。わしはひとりこの場に残り、主の御身体のもとへ歩み寄ると、主への思いが突然つのってきた。そのせつな畏れの念にとらわれ、体に震えが走った。見ると、窓際に光り輝く鳥が一羽おって、それが祭壇に飛んできた。鳥は太陽のごとき光彩を放っていたから、姿は拝めなかった。
 『汝に祝福を、そして僕よ、汝の祝福を』と光る鳥が言った。わしは鳥に言った。
 『神の祝福がそなたにあらんことを。そなたは何者なのか?』
 『わたしは天使ミカエル。汝と語るために来た』
 『かたじけなき交わりを神に感謝。じゃがなぜここへ?』
 『汝を祝福するためだ。汝の主から汝に音楽を聴かせるために来た』
 『なんとすばらしきお招き』。すると光る鳥は嘴を翼に当てて、麗しき調べを奏でた。わしは何時間も鳥の奏でる音楽に聴き入った。その後鳥は飛び去っていった」
 語り終えると、ブレンダン院長は若者の襟元にストラを巻き、こう訊いた。 「あれが心地よい調べか、書生よ? 神の前で誓う。かの天上の調べに触れたあと、いかなる地上の調べも汝の襟元のストラほども甘美な調べではない。それゆえこの世の調べはわしの耳にはなんの価値もない。わしの祝福を受けたまえ、書生よ。汝に天国を。汝の音楽ゆえに」


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 聖ブレンダンの後を継いでクロンファートの修道院長になったのは「甘美な調べの melodious」という愛称を持つフィンタンでした。フィンタンはブレンダンの死後30年にわたって院長を務めたらしい…これらをそのまま受け取ると、ブレンダンはそうとういい耳をもっていたらしい。ブレンダンの作とされる詩や祈りが残されていることからしても、音楽の才能はあったかもしれませんね。

 「…ほど甘美な音楽なし」、と聞くと、個人的にはジョン・ラッターの「キャロルほど甘美な音楽なし」(What sweeter music)が頭に鳴り響きます…。

 …ブレンダンの耳にはどんな「音楽」が響いていたのか…知りたい気もします(ついでに現在歌われているグレゴリアンチャントはソレム唱法が主流であり、往時そのままの歌い方ではありません。音楽学者の皆川達夫氏の研究によると、長崎の五島列島に伝わる「オラショ」こそ、じつはルネッサンス時代の歌唱法そのままのグレゴリアンチャントの一例だそうです。オラショということばももとはラテン語の「祈り」、oratioに由来しています)。

2006年02月28日

中世アイルランド教会はアリウス派?

 たまにはこの手のtopicも。

 ケルトキリスト教はアリウス派? との疑問にたいして、しろうとなりに調べたかぎりですが、卑見をすこしばかり綴ってみます。

 アイルランドへキリスト教が伝播したかんたんな流れ→ 聖パトリックが司教としてふたたびアイルランドに来島したとき、すでにブリテン諸島は大陸(おもにガリアから)のキリスト教化したローマ軍人などとの混血が進み、その過程で自然と島のケルト諸部族たちもキリスト教化されていったと考えられています。パトリック宣教前、ブリテン諸島のケルト人たちは――北の蛮族ピクト人はさておいて――すでに多くのキリスト教徒が存在していた。

 しかしながら当時、ガリアからブリテン諸島にもたらされたキリスト教はローマカトリックから見ると異端のペラギウス派だった。そこでローマ教皇ケレスティヌス1世は司教パラディウス、ついで――すくなくとも伝承では――聖パトリックを派遣して、アイルランドをふくめたブリテン諸島からこの原罪を認めない異端を一掃することに決めた。つまりこれだけで見ると、ケルトキリスト教はしっかりローマ教皇のお墨付きをもらった「正統派」ということになります。

 とはいえよくわからないのは、当時のアイルランド西海岸地方の状況。このころすでに聖エンダがアラン諸島のイニッシュモアに修道士養成所をこしらえてふたりのブレンダンもふくめた多くの修道士を教育しているし、スケリグ・マイケルにもすでに庵があったと伝えられている。この南部マンスターを中心としたアイルランド特有の修道院制度も、8-9世紀にはアーマー教会が当時のアイルランドの事実上の支配者だった北イ・ニール王権と結びつき、全アイルランド教会にたいして優位性を主張、西海岸地方で勢力を拡大していた修道院制度もしだいに司教制度を敷くアーマー方式に吸収されてローマカトリック化していった(ケルト修道院にも司教はいたにはいたが、あくまで修道院内の一職務にすぎず、また修道院長が兼任する場合が多かった。実権を握っていたのは修道院長のほうで、これはローマ教会では考えられないこと)。この過程で何度か宗教会議が開催され、当時ローマ教会側と衝突していた最大の問題「復活祭の日付けのちがい」について、664年にノーサンブリアのウィットビーでアイルランド教会がローマ方式を採用すると、ひとりケルト式教会暦による日付け算出法にこだわっていたアイオナ共同体は孤立、度重なるヴァイキングの略奪もあり、やがては共同体そのものが見捨てられてしまった。

 アイルランド人の書いたブレンダン本のなかには、この「復活祭の日付けのちがい」こそ、当時の地中海交易ルートを通じて東方修道制がスペイン経由でアイルランド教会にもたらされたことを示唆すると主張するものがあります(当時のアイルランドは東地中海地方へ動物の生皮や銅を輸出して、代わりにワインを手に入れていた)。エジプト・コプト教会の影響があるていどは当時のケルト教会に入っていたらしい…ことは感じますが、こちらの論文などを見ますと、大陸で信者を獲得していたとされるもうひとつの異端アリウス派の影響はあまりなさそうです。

 当時のケルト修道士の剃髪はみょうちきりんな格好で(耳から耳まで前頭部を剃り、後頭部から長髪を垂らしていた)、聖パウロの剃髪でも聖ペトロの剃髪でもなかったことが知られていますが、これはたぶん――確証はいまだないけど――ドルイドの髪型でしょう。異端信仰とは関係ないと思います。聖コルンバは同族のフィリたちを異教徒にもかかわらず援護したりしていますし。当時の異教残党も、おなじ氏族出身の修道士からすると愛すべき隣人であり、また自分たちの祖先から代々語り継いだ伝説や神話を記憶している貴重な「語り部」、情報源でした。ついでにブランドン山の頂はもともとブレンダン一族の信仰していた聖所だったようで、そこがそのままキリスト教聖人ゆかりの地になったりしています(19世紀まで巡礼路だった)。

 …というわけで、いまところ個人的にはケルトキリスト教会はアリウス派のような異端ではないと思います。アイルランド教会がローマ教会から見てかくもへんてこだったのは、混乱状態だったローマと一時期音信不通だったためと、国家や都市といった形態をとらずに絶えず遊動している氏族社会にぴたり適応した独自の修道制度が発達した結果生じた、ローマ教会とのズレないしは溝だったため――それもアイルランド人修道士から見て、予想外に深刻な亀裂のせいだったと思われます。なにしろアイルランドは「西の果て」の島国なので…

 ついでにアイスランド南西沖にあるヴェストマンナ諸島。名前はずばり「西の人」、ヴァイキングが連行してきたアイルランド人奴隷に由来します。そしてアイスランドには南東海岸を中心に、アイルランド人修道士がヴァイキング入植前に来島していた可能性を示す多くの地名(papos, papey島, papafjordなど)も残っています。

2006年02月12日

ダンテとケルトキリスト教修道院文学

 コタツの上に聖ブレンダンがらみのコピーやら書籍やらを乱雑に積んだ状態でそのまま眠りこけてしまい、ふと気づくとTV画面にはトリノ冬季五輪の開会式が映し出されていました。

 「イタリアの情熱」というテーマにふさわしく、原色の赤を多用したたいへん派手な演出が前面に押し出されてましたね。炎を吐きながら疾走する人が登場したり、真っ赤なフェラーリのF-1マシンが咆哮をあげてくるくる回転したり…しばらくするとイタリア人俳優が出てきて、ダンテ・アリギエリの有名な『神曲』La Devina Commedia から一節を朗読しはじめました…半分寝ぼけていた頭では、いったいどのへんからの引用なのか、さっぱり見当もつかなかったのですがふらふら(『神曲』は周知のとおり「地獄篇」「煉獄篇」「天国篇」と三つの部分から構成されています)、この作品がじつは中世アイルランドの修道院文学を着想源のひとつとしていることは案外知られていません。

 サイトのほうには着想源のひとつとしてラテン語版『聖ブレンダンの航海』を挙げましたが、よくよく調べてみると、ダンテ自身が直接の拠りどころとしたのは『航海』ではなくて、『トゥンダルの幻想』Vision of Tundale のほうだったらしい。こちらのほうは未読ながら、11世紀ごろには成立したとされる『アダムナンの幻想』のほうは邦訳本が出ています(松岡利次編訳『ケルトの聖書物語』岩波書店刊、1999.)。これらはいわゆる「黙示文学」もので、ケルト土着の他界観と、当時大陸で流布していた『聖パウロの黙示録』とを組み合わせたような物語です。『トゥンダル〜』のほうは『アダムナンの幻想』成立後の作品らしい。

 キリスト教の黙示文学とはひらたく言えば、この世の終わりの幻(ヴィジョン)を描写して、信仰の正しき方は天国へ、そうでない方は地獄堕ち、という話なんですが…中世アイルランドの修道院で生み出されたこれらの作品について、ひとつ特徴を挙げるとすれば、現し身のままあの世とこの世を自由に往き来できるアイルランドの世界観を表している、ということでしょうか。これはラテン語版『航海』にも当てはまります。もっともこの発想じたい、『アエネーイス』などから輸入したものともいえますが、自尊心の高いケルト人のことだから、古代より口承されてきたアイルランド創世神話群を新しく入ってきたキリスト教にどうにかうまく取りこもうとつとめた結果だったのではないか、という気がしてなりません。9世紀には成立していたと思われる『アイルランド来寇の書』も、聖書の伝承と自分たちの先祖の伝承とを「合体」させて成立していますし、100%大陸からの借り物、ということはないと思います。

 とはいえ中世アイルランドの修道院文学についてはいまだに侃々諤々、何十年も前から論争の絶えない分野ではあるけれども…。20世紀までの、「『航海物語群 immrama』じたいがアイルランド特有の伝説ではなくて大陸から移植したものに過ぎない」とする故ジェイムズ・カーニーに代表される主張は下火になっているようですが、なにしろ拠りどころとなる原典資料が決定的に不足しているので聖パトリックをめぐる伝承問題もふくめて意見の一致を見ることは当分なさそう…どっかの畑を掘り返したらすごい写本が出てきた、なんてことでもないかぎりは。

 ついでに聖コルンバヌスに代表されるヨーロッパ大陸のケルト系修道院は遠く北イタリアのボッビオのみならず、ナポリやヴィーン、果てはキエフにまでその痕跡がたどれるといわれています。なんともすごいケルト修道士の遍歴、そのすさまじい情熱。まさしく「緑の殉教」そのものですね。合唱ファンにもおなじみのレーゲンスブルクにもケルトキリスト教系修道院があったとされ、ケルト修道士が大陸各地に建てた修道院の総数は100を下回らないとさえ言われています。

 …トリノ五輪開会式、'Remember, everyone has the power to change the world!'だったと思うけれども、オノ・ヨーコさんが平和を訴えたのはいい演出だったと思う。