2022年03月31日

「カメラは涙でくもった」

 ウクライナ危機が始まって早くも1か月が経過した。先月 24 日にとなりの大国ロシアがいきなり侵攻してきて以来、ウクライナの難読地名も毎日のように報じられるようになってます(首都の表記名も、現地語読みに切り替えるとか言ってました)。

 そして、最近やはり気になるのが地震の頻発ですね …… それも夜中がひじょうに多い印象がある。ただでさえ、福島県の方はお辛いのに …… 11 年前の震災ではなんとかもちこたえたわが家が、今月 16 日の激震でついに全壊になってしまった、という話も聞きます。せめてもの希望の光は、先日の大相撲春場所で、地元出身力士の若隆景関が優勝したことでしょう。福島県出身力士としてなんと 50 年ぶりの快挙だとか。静岡県出身力士もみなさんも、とくに熱海富士関の活躍に地元熱海の人たちもおおいに元気づけられていると思う。

 当たり前と言えば当たり前なんですが、最近の訳出作業はウクライナ関連が急に増えてきました。昨年のいまごろは、やはり mRNA ワクチンすらなかったので新型コロナ関連記事が多かった(もっとも、パンデミックが収束する気配もいまだなし)。いまも複数の〆切り抱えてちょっとアップアップしているのですが、そんな折、けさの朝刊をぼんやり眺めていたら、こちらの訃報記事に目がとまった。

 三留理男氏 …… と見て、ややあってああ、あの方か、とほんとうに久しぶりに思い出していました。あれは不肖ワタシが小学生だったとき、たしか課題図書かなにかで買ったのが、『カメラはなにを見たか』。これほんとに子ども向けの本なの、というくらいに、当時問題視されていたスーダンあたりの飢餓問題や戦場の写真などがバンバン出てくる。内容はもちろん、子どもでもしっかりわかるようにとてもやさしい筆致で書かれています。本の前半はカメラに興味を持った少年時代の話や投稿写真で賞をもらったことなども書かれてあり、著者の半生の記録でもあります。

 いまや記憶もあやふやながら、なお頭こびりついて離れない小見出しがあります──「カメラは涙でくもった」。げんにいま、戦場と化したウクライナの街から決死の覚悟でひとりの独裁者が勝手に起こした戦争の真実を切り取って、わたしたちに送り届けている記者や写真家が何人もいる。三留氏の遺志を継ぐ人たちと言っていいかもしれない。というか、ここ数年の世界の趨勢を見ていると、「歴史は繰り返す」を地で行っているようでなんか空恐ろしささえ感じる。いちばん驚き、かつあきれたのは、ロシア大統領みずからがいかにもかる〜い調子で「核兵器の使用」なんてほざきやがったことですな。インターネット空間も「サイバー軍」なる組織が暗躍していて、ここのところ日本企業の被害も報じられていますね。

 …… 綾小路なんとか氏じゃないが、あれから 40 数年。せっかくひさしぶりにご尊名を拝見したというのに、残念ながら逝去の報でした。享年 83。合掌。

 そしてそのとなりにお名前が出ていたのが、作家の野田知佑氏の訃報記事でした。そう、言わずと知れたあのカヌーイスト作家の方。愛犬とともに悠揚迫らずカヌーを漕ぐ姿、いまもよく覚えています。立松和平氏やC・W・ニコル氏とともに、けっこうテレビ(いまみたいな薄い液晶画面ではなくて、でかくて重たいブラウン管だったころ)にこのお三方が出てましたね。共通していたのが、当時はやっていたゴルフ場乱開発反対という立場でした(西伊豆にもその手の開発話があって、まだ若かったワタシは安良里の親戚とモメたことがある。ちなみにそれをやろうとしていたのが、東京五輪の開会式をめぐるゴタゴタや、裾野市出身の若い女性社員の過労死で問題になった、某広告代理店大手)。

 このおふたりがいまの世界を見たら、いったいなんて言うのでしょうね …… ついそんな勝手な妄想に走ってしまう、花曇りな今日このごろ。

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2022年01月31日

『くまのパディントン』名訳者逝く

 児童文学者の松岡享子先生が逝去された。享年 86 歳。謹んでお悔やみ申し上げます。

 不肖ワタシが先生のご尊名をはじめて拝見したのは、翻訳の勉強を始めてさほど日が経っていなかったころで、高校を卒業したてのときだったような気がする。いくつか課題に出されたテキストのひとつに『くまのパディントン』シリーズの1作があった。児童文学と言いながらずいぶん凝った(?)言い回しが頻出で、しがない地方のヒヨっこにはなかなか手強かったのを覚えている(テキストには、ディック・フランシスのミステリの冒頭2章なんかもありました)。

 『パディントン』シリーズ最大の特徴。それはずばり、英国流のすっとぼけたユーモア表現でしょうか。あと、イディオムの変形技(変奏)がけっこう出てくること。たとえば‘...he had something up his paw’というフレーズ。これはよく使われる慣用表現の‘to have something up one's sleeve’をもじった表現で、sleeve が paw となっているのは、もちろんパディントンがクマの坊やだから。あと、彼の得意技は、相手をジィ〜っとねめつける‘(giving)a hard stare’ですな(というかあのツブラな瞳でそれされてもたいして効果は …… あ、なんかごめんなさい)。

 ワタシがそのとき読んだのは、こちらの訳書の原書からの抜き出しでした。psychiatrist/head shrinker/trick cyclist なる語もぽんぽん出てきました。いずれも精神科医のこと。なんで shrinker と言うのかは、「誇大妄想にとり憑かれてぶくぶくに膨らんだオツムを空気を抜くみたいにしてシュ〜っとしぼませる」というイメージから。いずれにしても、駆け出しの翻訳初学者にはまことやっかいで課題提出にずいぶん手間取ったものでした(注:いまみたいにネットも Google も SNS もな〜んもない、テレクラとか個人的に不要不急なサービス全開ゴルフ場亡国論真っ盛りだったバブルに阿呆どもがパラパラと踊らされていた平和ボケ時代の話)。

 話戻しまして …… あるとき、図書館で借り出した松岡訳『パディントン』シリーズの1冊と、神保町に当時あった「タトル商会」(!)で入手した原本とを家で突き合わせてまたびっくり。「どうぞこのくまのめんどうをみてやってください おたのみしますPlease look after this BEAR. THANK YOU)」と、(子どもの音読にもじゅうぶん耐えられる)達意でみごとな日本語に移された手際の確かさに目が吸い寄せられたのを、あれからウン十年が経過したいまも鮮烈に覚えている。

 松岡先生は『パディントン』シリーズの訳者としても高名ながら、翻訳ものではやはり『うさこちゃん』シリーズでしょうね。え? ご存じない? ディック・ブルーナの『ミッフィー』シリーズの翻訳です。何年か前、松岡先生がご健在だったときに一度、なんの番組だったかもう失念して申し訳ないのですが、インタビューかなにかで TV の画面越しにお姿を拝見したことがありました。

 『パディントン』原作者のマイケル・ボンド氏、そして『ミッフィー』生みの親ブルーナ氏もとうに鬼籍に入られてしまった。松岡先生の志を継ぐ、若くて才能ある児童文学翻訳者がこれからおおぜい活躍してくれることを祈念してやまない。合掌。

追記:これは「男ことば/女ことば」の問題でもあるのですが、先だって「アタマで考えず、場の流れ(フロー)に身をまかせて行動しよう」と指南するハウツーものっぽいやや毛色の変わった英高級紙の記事を訳したのですが、そこにジェイン・オースティンの代表作のひとつ『エマ』の一節が引用されていた。引用で、しかも邦訳もあるからと図書館で借りてきて確認したのですが …… エマの科白がどうにも読みづらい。NHK のラジオ第1とかでも朗読をやってますが、たとえ手練れの局アナが読んだとしても、ちょっと放送には不向きなのでは、という印象を受けた。「もし」は禁句ながら、もし主人公エマの会話を松岡先生が訳していたら …… きっと目に映る景色はずいぶんと変わっていたことだろう。ちなみにその日本語文庫版の訳者は男性でした。

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2020年01月13日

「ボージョレの帝王」、逝く

 仕事が立てこみなにかとワチャワチャし、また世界的にもトンでもない事件や国際情勢の緊張などがたてつづけに発生するという前例のない子年の正月。そんななか、ジョルジュ・デュブッフさんが亡くなられたとの報が入った。享年 86 歳。

 ボージョレ・ヌーヴォーは世界でいちばん、理屈抜きに呑んで楽しいお酒だと思う。そのヌーヴォーの楽しさ、すばらしさをデュブッフ・ブランドで証明した功績は、まちがいなく長く語り継がれていくと思います。

 じつはメル友だったフランスの方が一昨年に亡くなったのですが、その方にデュブッフのボージョレ・ヌーヴォーのことを書いたら、「彼は作り手じゃナイよ」とたしなめられた。たしかにデュブッフさんは葡萄栽培農家ではない。デュブッフさんが自身の名を冠した会社はいわゆるネゴシアンで、その会社で契約農家から集めた原酒をアッサンブラージュ、つまりウィスキーで言う「ブレンド」を行っていたのがデュブッフさんだった。ようはブレンダー、それも名伯楽と言えるような、他の追随を許さない嗅覚、味覚の持ち主だった。有名レストランのポール・ボキューズのお墨付きを得たのち、デュブッフ・ブランドのボージョレは世界的に知られるようになり、リヨン地方の地酒でしかなかったこのガメイの醸造酒のステータスも飛躍的に向上、いまや世界のワイン好きが毎年 11月になるとここの新酒を首を長くして待つというのが当たり前になった。

 フランスワインの消費量は右肩下がりみたいですが、ボージョレワインが大好き、という日本の呑助さんはきっと多いはず。ボージョレワインの生産業者はじめ、故郷ボージョレに果たした貢献は計り知れません。

 デュブッフさん、ありがとう! 某コンビニ向け商品として、最後に醸してくれたボージョレヴィラージュ・ヌーヴォーを呑みましたが、心躍るような芳しいアロマ、ブーケのすごいこと !! 翻訳やライティングの仕事の合間に口にした 2019 年ヴィンテージのデュブッフさんのボージョレ・プリムールは、ほんとうにうまかった。Merci beaucoup, M. Dubœuf !!! 

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2019年12月04日

南アルプスの恩人、逝く

 日本の山岳写真の第一人者が亡くなった。白籏史朗氏です。

 静岡県民としては、南アルプスの自然を美しいラージフォーマット(大判写真)やハッセルブラッドなどの中判カメラで捉えた写真作品として世界に発信した功績がまずまっさきに思いつくんじゃないかって感じるんですけれども … それと静岡県主催の「秀景ふるさと富士写真コンテスト」の審査委員長を 2010 年度から 10 年間務め、また NHK 静岡主催の「富士山とわたし」写真コンテストの審査委員長も務めていたこともありました。床一面に並べられたプリント写真を長い指揮棒みたいなスティックで仕分けしていく場面も TV で拝見したことがあります。

 白籏氏は師匠にあたる富士山写真の先駆者、岡田紅陽の強力(ごうりき)みたいなことをしていたそうですが、偉大な写真家ながらたいへん気さくな方でして、ここにいる門外漢も一度だけだが、アットホームな講演会を聴きに行って、質疑応答のときに「寒さでシノゴ(4 x 5 インチの大型カメラ)のレンズシャッターのオイルが効かなくなってシャッターが壊れたことがあるのですが、先生はどんなオイルを使っているのですか?」とおよそ一般人が訊くような質問ではない質問をしたことがあります。そのときの白籏氏のお答えは「ぼくは鯨油を使っています」だったが、その後、自身の写真や主宰する写真愛好会「白い峰」の作品を前にだれとでも気さくに歓談しておられたその姿は、まだ 20 代だった自分にもとてもまぶしく、ああ、こんなふうに歳を重ねていったらすばらしいものだと思ったものでした。とにかく人徳と言うのか、まわりにすぐ人が集まる感じのやさしい人柄の方でした。

 ザイルごと転落して九死に一生を得た話とか、活動拠点が高山なので、常人にはおよびもつかないとてつもない「体験」もふつうの人の何倍もされているから、きっとそういう体験の幅の厚みがすなわち人間力だったのかとも思う … とにかく訃報に接したとき、まず思ったのはああ、先生が愛してやまなかった南アルプスをめぐって大問題が持ち上がっているさなかに逝かれてしまった、という悲嘆だった(ご自宅がなんと三島市だったのにはびっくりした。あのへんはよく通りがかっているんですけども … )。生前、「リニア中央新幹線計画はほんとうに必要なのか」という地元紙のインタビューにも応じていたそうで … 「日本の国土を蜂の巣のようにしてなんのプラスがあるのか」。利潤追求の究極のエゴとマイホーム主義で取り返しのつかない結果を招く愚だけは、なんとしても避けなければならない、と静岡県民のひとりとしてつよく思う。合掌。

 もし白籏氏の意を汲んで南アルプス保全のための署名活動とかが始まることがあれば、まっさきに署名したいと考えている。先日も地元のラジオ番組でパーソナリティーの方が、「(リニア新幹線トンネル工事予定地の)南アルプス直下の破砕帯は巨大な地下ダム。ここにトンネルを通すということは、この地下ダムをいっきに破壊する、ということだ」と卓抜な比喩で危機感をあらわにしていたのが印象的だった。

付記:「署名」、ということに関してすこしだけ補足。インターネットの普及とインフラ化にともない、いろいろなサービスがネット経由で行われるのがごく当たり前な 21 世紀前半のいまなんですが、いまひとつフに落ちないのが、いわゆる「ネットで署名運動ができちゃう」プラットフォーム。以前、高尾山古墳の保存を求める署名活動を進めていた市民団体がそこを利用していて、自分もそこを経由して署名したんですけど、他のネットサービス同様、そもそも「署名を集める」ということをまるで理解していないか、悪ノリ、ないし悪用さえしている例が目立つ気がする(いや、気がするんじゃなくて、じっさいにそう)。たとえば昨年のいまごろ、自分の住む街を舞台にしたアニメ作品『ラブライブ! サンシャイン!!』の主人公のスクールアイドル Aqours を演じる声優さんたちが晴れて紅白に出る、ということになったらなったでさっそく(?)、「彼女たちを出演させるな!」みたいなネガティヴキャンペーンもどきな「署名集め」がそのプラットフォーム上で展開されたことがある。

 ワタシ自身、かつて西伊豆町宇久須[うぐす]の旧珪石鉱山だった山のてっぺんにアスベスト処分施設を造る話が持ち上がったとき、ほんとガラにもなく署名用紙握りしめて親戚や知り合い、馴染みの床屋や写真材料店なんかに飛びこんでは、建設計画の白紙撤回を求める署名をお願いしますと頭下げて廻ったもんだ。もちろん、人によっては断られたりもした。ひとさまの署名を集めるって、よほどの cause がなければとてもできませんよ、ふつうは。紅白出場無効を求めた話については署名を集める正当性もないし、だいいちそんなことよけいなお世話もいいところで時間のムダ、ですわぁ〜、とおおいに呆れたことがあります。そして自分がそこで「署名」して以来、迷惑メールよろしく、そのプラットフォームから「署名のお誘い」メールが頻繁に来るようになった。ほんとよけいなお世話。署名すべきかどうかその当人が判断すればいいだけのこと。Amazon のような商売するためのプラットフォーマーとは根本がちがう。

 いずれにせよ署名活動のキホンはしっかり「顔出し」して、なんでそうする必要があるのか、ほんとうに署名を集めなければならないのか、を第三者にわかるように主義主張を訴えたうえで、「よろしくお願いします」と頭を下げるのが常識ではないですか。だれもかれも「署名集め」にかこつけて揚げ足を取ったり誹謗中傷まがいのことをするのはどこの世界に行ったって許されるもんじゃないって思うんですけどどうですかね。ネットが普及していちばん目につくようになったのは、この手のあと先考えない「安直人間」が爆発的に増えたこと。これには疑いの余地がない。

タグ:白籏史朗
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2019年03月18日

ドナルド・キーンさん逝く

1).ドナルド・キーンさんが逝去された。享年 96 歳。謹んでご冥福をお祈りします。

 キーンさんは、三島由紀夫をはじめとする戦後に活躍した作家たちの作品や『源氏物語』といった古典の英訳や評伝、エッセイなどの著訳書、編著をたくさん残した日本文学研究の第一人者であり、また東日本大震災後に日本国籍を取得され、日本人に勇気を与えてくれた人でもありました。以前、キーンさんの半生を取り上げた特集番組が NHK で放映されたことがあって、感銘を受けたことなんかも思い出していました。

 キーンさんの訃報のあと地元紙に掲載された追悼記事に、個人的にはすこぶる興味深いことが書いてあったので、ここでもすこしばかり引用しておきます(書き手は静岡県立美術館名誉館長の芳賀徹氏、いつものことだが下線強調は引用者)。
[松尾芭蕉の「涼しさを我宿にしてねまる也」という一句について]… これをキーン氏はどう訳しているか、ふと興味をもって調べてみると、なんと "Making the coolness / My own dwelling' I lie / Completely at ease"。従来の訳の感嘆詞「おお」や「ああ」などの思い入れを一切排して、思いっきり即物的な平淡な直訳である。これでこそ「涼しさ」そのものをわが宿にして、その中に入りこんでほっとする、という私のとりたい解釈に一致し、芭蕉の感覚と想像力の意外なほどの斬新さが浮かび上がってくる。
 前にも書いたことの二番煎じで申し訳ないですけど、著名な仏文学者で名翻訳家だった生田耕作氏が、「わたしは直訳主義です」と言い切ったという話とも、やはりつながるなあ、とひとりごちたしだい。

 ただしここで言う「直訳主義」とはいわゆる字面をなぞっただけの、日本語として読むに堪えない拙劣な翻訳とはまるで似て非なるもの、まったくの別物なんである。こういう芸当ができる翻訳者というのはそれこそ何十年にひとり、いや百年にひとりとか、そういう突き抜けたレヴェルの人だけに可能な名人芸と言ったほうがいい。ようするにそれだけ「読み」が、「解釈」が深い、ということです。

2).… で、こちらは備忘録代わりのいつものヨタ話的ななにか、になってしまうのだけれども … 先月、地元紙に掲載された静岡県立大学の英語の入試問題。この時期恒例で、けっしてヒマじゃないのについつい目を走らせてしまったら、最初の出題文がいきなり気になった。

 出典はコレなんですが、内容のあまりの偏りっぷりに、昔、読んだ翻訳学習書に出ていた例文をつい思い出していた('The car kept off on to the shoulder'、「オレの車は路肩へ路肩へ切れてしかたなかったよ」)。ようは「経済における globalism と、政治や国家がらみの globalism とは相容れないもの」ということが言いたいことのようなんですが … 19 世紀英国の政治家で実業家のリチャード・コブデンを引き合いに出したりして「正論」ぶりをさかんに(?)アピールしてはいるんですが、だいいち「自由貿易のグローバリズムは善、それを押さえつけ、制限する国際機関や国家の覇権主義的グローバリズムは悪」と、コブデンの主義主張の受け売り的なよくわかんない主張をさんざん展開したあげく、「経済のグローバリズムは富をもたらすが、政治のグローバリズムは貧困をもたらす(Economic globalism brings wealth. Political globalism brings poverty.)」という結論の出題箇所に行き着く。

 これ書いたのは「キリスト教右派」と呼ばれる「福音派」の米国人ではなくて、なんとウィーンに本拠を置く NPO 研究機関の人。経済学はハナから門外漢だが、いわゆるウィーン学派に端を発する「新自由主義」にどっぷり染まった人がそろっている組織らしい。ええっと、globalism の定義云々、という前に、なんで自由貿易を含む「自由な[a.k.a. 野放図な]」経済活動がすべてよくて、それを阻害するものはみんなダメなのか、そのリクツがわからん。コラムでは EU に世界銀行、IMF、WTO といった「国際規制機関」が槍玉に挙げられているが、どういうわけか(?)WHO まで俎上にのせられていた。なんでも「WHO の政治的グローバリストらは、肉は食べるべきではない、次世代のために肉食にどのような制限が課せられるか、といった報告書を発表して毎日を過ごしている。政治的グローバリストらは新規枠組みをつきつぎと投入しては、気候変動対策の名のもとに貧困層の生活コストを押し上げている」のだそうだ。いずれにせよ、この書き手は「経済活動放任至上主義者」であり、さんざん叩いている国どうしの関係におけるグローバリズムと、企業の国境を越えた自由な商取引とのあいだに相関関係はまるでナシ、と頭から決めてかかって疑わない人らしい。もし、そんな放任を許せばいつぞやのリーマン危機みたいな大恐慌になりかねない。そうならないために世界銀行とか IMF、各国の中央現行とかがあるわけで、と素人は考えるのだが、これって的外れなんだろうか。

 もっともつづく設問のこちらの記事はむしろよい素材というか、おお〜、なるほど! みたいな発見がありましておもしろかった。もっとも入試問題なので、おもしろいだの偏ってるだのはいっこうカンケイないのだろうけれども、余力があればこんなふうにオリジナルの原文とじっくり向き合うことは、けっしてムダにはならないと思う。長文の余談失礼。

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2018年03月02日

本邦バッハ研究の巨星墜つ

 先日、いつものように寝ながら OTTAVA 聴いていたら、耳を疑うような情報が飛びこんできた。日本のバッハ研究の第一人者のおひとりで、NHK-FM「古楽の楽しみ」案内役として長く親しまれていた礒山雅先生が急逝されていた、ということ。え … しばし絶句。そういえば最近、あんまり出番がないなぁなんて、まったくもって呑気にのほほんと考えていた口だったので、にわかに信じられない。

 報道によると、磯山先生は1月 27 日夜、「埼玉ヴォーカルアンサンブルコンテスト」の審査をつとめたあとの帰宅途上、折からの大雪で凍結した路上で転倒して頭部を打ち、病院に担ぎこまれたという。先生は昏睡状態のまま、先月 22 日、冬季五輪での日本選手の活躍が日々報じられるさなかにみまかった、とのことらしい。

 不肖ワタシが磯山先生の名前を知るきっかけとなったのが、( 磯山先生を偲んで『マタイ受難曲』の終曲合唱をリクエストした OTTAVA リスナー氏もおなじく )、「NHK 市民大学 バロック音楽[ 1988年4−6月期 ]」の TV 講座。このとき講師だったのが、磯山先生だった。先生の書き下ろされた市民大学テキストはいまだにワタシの重要な資料のひとつとなっている、と言うとかっこよく聞こえるが、ようするにここでの拙記事など書くときのアンチョコとして役に立っている。あれからまる 30 年、テキストはいまやすっかり黄ばみ、薄汚れているけれども、本文 140 ページくらいの薄っぺらな小冊子ながら、その中身の充実ぶりにはいまだに目を見張る。「古楽の楽しみ」での起きぬけの耳にも心地よいバリトンヴォイスの解説もじつに親しみやすくて、失礼ながらほかの大先生もすばらしいとは思いつつも、語り口の親しみやすさという尺度だったら磯山先生の右に出る方はおそらくいまい( と、思う )。日本におけるバッハ研究では、往年の角倉一郎先生もおられるけれども、角倉先生もさぞショックだったろう、と思う。まだ 71 歳です。聞くところによると、『ヨハネ受難曲』にかんする博士論文の出版準備中だったとか … 。

 磯山先生の著作でもっとも有名な本はおそらく『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』だろうと思うが、個人的には講談社学術文庫に収録された『J.S. バッハ』の、つぎの一文がたいへん印象に残っている( いつものように下線強調は引用者 )。
… バッハを知れば知るほど、私には、バッハは深く宗教的な人間であると同時に、狭い意味での宗教を超えた人だ、という印象が強くなってきている。大切なのは、バッハがなにを信じたかという信仰の内容ではなく、信仰に貫かれたバッハの生き方、精神の方向性なのである。
これは、「バッハあるある」的なお悩み質問、つまり「バッハを聴くのにキリスト教の信仰は必要か?」。先生自身もこの問題におおいに悩まれたすえ、到達した結論として書かれた文章です。「かんじんなのはキリストという人が実践した精神のほう」というのは、たとえばニーチェなんかも似たようなことを言っている。そんなニーチェも、じつは『マタイ受難曲』が大好きだった、という逸話が残されている( 友人宛て書簡で「今週、わたしは『マタイ』の演奏を 3回、聽きました」と当の本人が告白している )。また当然のことながら磯山先生はバッハ研究書の訳業も数多くて、近年ではクリストフ・ヴォルフの『バッハ ロ短調ミサ曲』というすごい本も上梓されている。

 ほんとはワタシのようなディレッタントが磯山先生について知ったような顔してつらつら書くもんじゃないとは思ったが、やはり個人的に影響を受けたバッハ研究者のおひとりでもあるし、「古楽の楽しみ」でもずっとおなじみだったし、まさかこんな不慮の事故でいきなり不帰の人になろうとはまったく予期していないなかったので( 当たり前ですが )、すこし思うところを書かせていただきました。バッハ研究で言えば古くは杉山好先生、そしてライプツィッヒの「バッハ・アルヒーフ」研究員も務めていた筆跡鑑定の権威・小林義武先生もすでに泉下の人だし、いまはただただ、合掌。

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2018年01月28日

伝説の宇宙飛行士に 'Nouvelle cuisine' の大御所、そして …

 2018年はしずかに幕を開けた …、と思ったらいきなりの噴火。これだから日本の自然は予測できない。いや、予測なんて言い方じたい不遜きわまりないのかも、と最近、つくづく思う。

 東海地震説から 40 年経った昨年、地元紙も
当事者たる石橋氏の取材も交えて検証記事の特集組んだりして問題提起してましていろいろ考えさせられた。それ読んで感じたのは、いまの地球物理学的知見についてとうしろうが乱暴にひとことで要約すれば「予測・予見なんてとてもムリ」ということ。地下深くで起こる地震( 直下型・海溝型ともに )の予測は残念ながらいまの科学では予測不可能、そして目に見える現象の火山噴火でさえ、今回の本白根山の突然の火口列形成と火砕サージ発生で地震と同様にいまの科学では「予見不能」ということがあらためて証明されたかたちになった、ということです。

 今回のことで思い出されるのが、2011 年3月のあの大震災。15日の火曜の夜、突然の大揺れで度肝を抜かれ、しかも震源が富士山西麓直下ということを聞き及んだとき、正直なところ、噴火するかもって真っ青になったこと。さいわいそんなことはなく、こんにちまで富士山は静穏状態なんですけれども、活火山っていつどこで噴火が始まるかなんてわかりっこないんだ、ということを痛感した。本白根山が 3000 年ぶりに噴煙を上げたとき、その場に居合わせたスキー客の方が TV ニュースの取材かなにかにこたえていたのがすこぶる印象に残ってます −−「日本人はだれでも被災者になる。生きていてよかった」。

 そんな折も折、今月は各界の著名人の訃報があいついだような気もする( レオルハルトが亡くなったのも 1月。今年ではや 6年になるのか … )。まずは NASA の伝説的宇宙飛行士だったジョン・ヤング氏。享年 87 歳。「ジェミニ」、「アポロ」、「スペースシャトル」の3つの宇宙計画すべてに参加したただひとりの宇宙飛行士で、ワタシは世代的にとくに「アポロ 16 号( 1972 年 )」で月面着陸した人、という印象が強いです。

 つづいて 20 日、往年のフランス料理界の巨人、ポール・ボキューズ氏の訃報が。享年 91 歳。フランス料理だの、'Nouvelle cuisine' だの、といったものとはまるで縁のない門外漢がああだこうだとコメントするのははなはだお門違いなのだが、ワタシがこの人の名前をはじめて知ったのは大好きなボージョレワインのムックの巻頭を飾っていた寄稿記事でした。へェ、こんなすごい人がいるんだーくらいの感覚でしたが、それでもサントリーの宣伝文句をそのまま借りれば「ボージョレの帝王」と呼ばれるジョルジュ・デュブッフ氏と仲がよくて、みずからボージョレ地区に専用の畑を持っていたらしい。そのムックの記事では日本とボージョレとのつながりについて触れて、「日本万歳。そしてボージョレに感謝」と結んでいた。ボキューズ氏が逝去したということを間接的に知ったのは、いつも見ていたデュブッフ社の公式 Instagram ページ経由だった。あれ、ずいぶんと若いころのデュブッフ氏にボキューズ氏が並んで写ってるなー、なんてのんきに思っていたら、そういうことだったのか。

 そして地元紙の「追想メモリアル」に掲載されていたのが、昨年暮れに 72 歳で亡くなった歌手のはしだのりひこ氏。その記事を読んで、もっとも心打たれたのはこのくだりでした −−「晩年はパーキンソン病と診断され、約 10 年の長い闘病生活を送った。長男端田篤人さんによると、『神はみんなの中にいる』と優しく話していたという」

 ワタシなんかはっきりいって「へっぽこぴー」なたぐいの人間なんだけれども、やはりある境地に到達した人ってみんな異口同音にキャンベルとおんなじことを言うもんだなぁ、ひとりごちたしだい。そこだよね、問題は。ワタシは根っからのアニメ好きでないにもかかわらず(『サザエさん』は例外 )、なぜ居住する街の一角をなす内浦地区を舞台にした『ラブライブ! サンシャイン !! 』にみごとにハマったのか。ひとつには、あの物語にはひとりびとりの内面に輝く原石を見つけることをていねいに描いていたから、と言える。それは言い方や捉え方によっては「神」だったり「輝き」だったりするだけ、と個人的には考える。ニーチェの言う「運命を愛する者 Amor fati 」という発想とも通じると思う。たとえば例の仮想通貨騒動。おまえはひとごとだからそんなこと言えるんだ、と誹りを受けるかもしれないが、ようはアルベルト・シュヴァイツァーじゃないけど「人間はみなエピゴーネン」ならぬ「人間はみなへっぽこぴー」だと思っていれば、こんな危ない橋を渡るわけがない。しつこいようだがここの拙いブログの隠れテーマ「健全な批判精神」が、自分の内面との対話が、徹底的・的なまでに顧客側にもなかった、ということではないのか。「利殖」なんてことばが流行っていた時代やバブルのころとなんにも変わっちゃいない、ってことだろう。取引所を責めるだけでは、またおんなじ愚が繰り返されるだけだ( とくにあの風体の社長さんに大枚預けよう、なんてユメにも思わん )。と、「おくやみ」のはずがけっきょく脱線してしまった。妄評失礼。

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2017年07月09日

パディントン生みの親、逝く

1). 『くまのパディントン』シリーズで世界中のファンから愛された作家マイケル・ボンド氏が先月 27 日に逝去された。享年 91 歳。心より謹んで冥福をお祈りします。

 マイケル・ボンドさん、とくると、以前 NHK の「グレーテルのかまど」でも取り上げられて、そのときの感想をここでも書いたりしたんですけど … ほんとうに残念だ。あともう一作くらいは書いてほしかったかな … 。ボンドさんの訃報に接したとき、すぐ頭に浮かんだのは、番組の取材を受けた際にボンドさんがおっしゃっていた第二次世界大戦のときに見たというロンドン大空襲を逃れて疎開してきた子どもの話だった。「彼らはパディトンとおなじように首から名札を下げていました。わたしはあのときの光景がいまでも忘れられません」。パディントンの首に下げられていたあの荷札、「どうぞこのくまのめんどうをみてやってください おたのみします['PLEASE LOOK AFTER THIS BEAR Thank you.']」は、そうした作者ボンドさんの原体験が投影されていたことをこのときはじめて知ったのであった。そしてこれも繰り返しになるけど、ディック・ブルーナ氏の訃報のときにはじめてお顔を TV で拝見した松岡享子先生の名訳が光る。

2). … ボンドさんの「おくやみ」記事で終わらせたいところだったが、またいつものように関連しつつ悪しからず脱線。ボンドさんの訃報に接して、手許のパディントン本をひさしぶりに繰ってみた。'... Paddington gave the man a hard stare.' というのは、前にも書いたけれどもこの子グマの癖ですな。そしてちょうど折よく( 折悪しく ?? )、「英語は 3語で O.K. 」みたいな英語関連新刊本の新聞広告なんかも目に留まりました。「 … こんないい本があるなんて驚いた」、「 3語で伝わるなんてすごい」、「英語嫌いだったが、だれかと話してみたくなった」という読者の声も紹介されてました。

 で、でかでかと例文として挙げられていたのが 'My job is an English teacher.' でして、'I ... English.' で通じる、としている。中学英語がきちんと身についていればだれだってわかる他動詞 teach が入るわけなんですけども、じゃたとえば 'He races.' なんかはどうですか。これもおんなじ「職業を表す動詞」ってやつで意味は「彼はレーサーだ」。かたちはすごく単純ですけど、ぱっとこういう言い回しが出るかどうか。

 だいぶ前ここでも米国大統領の英語として Plain English のことをすこし書いたことがあり、この新刊本の中身はまだ読んでないからよくわからないけど、ようするに中学英語レヴェルでも伝えたいことはきちんと言い表すことができますよ、ということなんだろうと思う。なのでたしかに英語嫌いの方や英語が苦手だった、という方にはとっつきやすい学習本だと思います。とはいえ編集者なんだろうけれども「たった3語でよい」みたいに言い切る書名を冠するのはワタシの性格上、どうもなあ、と思ってしまう。

 いちばん大切なのは、「発想を転換する」ということ。日本語そのまんまの発想を捨て、英語話者がふだん使っているような言い方が口から、あるいは書き出せるかどうかにかかっていると思う。これをどうにかこうにか、身に着けないことには英語を含めて印欧語族系はなかなか上達しないんじゃないでしょうか。いまひとつ例文が掲載されてまして、なんと驚くことに 'I found her smile attractive.' という典型的第 5文型の「3語書き換え」だった。こちらも学校英語をまじめにやってきた人なら即答できるはずの 'I like her smile.' で、はっきり言ってなんてことはないんですけど( もっと強く love でもいい )、書き換える前の言い回し、これどう転んでもふつうの言い回しじゃないでしょうよ。慣れてくれば、「わたしは彼女の笑顔を魅力的だと思った」→ I like her smile. への変換はぱっとできると思う( Facebook の「いいね!」ボタンも、もとは LIKE! )。すくなくとも 'I found her smile ... ' なんてヘンな言い回しを思いつく人のほうが圧倒的に少ない( はず )。

 英語的発想というのは、たとえば以前ここでも取り上げたオバマ前大統領の就任演説に出てきた '... This country is more decent than one where a woman in Ohio, on the brink of retirement, finds herself one illness away from disaster after a lifetime of hard work.' なんかがそうですね。「いままでずっと汗して働いてきたというのに、いざ退職間近になって病気ひとつでもしたらそれこそとんでもないことになりかねない」、この国はそんなひどいところじゃない、もっとまともな国なのだ、ということを述べたこの下線部あたりがきわめて英語らしい発想だと思います。

 たしかに字数は少ないに越したことはないし、誤解も少なくはなると思う。でもそれよりも have, give, take のような基本動詞とそれとセットになってくっついてくる前置詞フレーズ( 句動詞 )をマスターするほうがまだしも英語習得には役に立つと思う、経験上は。それと大統領の英語ついでにいまの大統領に関しては、ほんと indecent な言い回しが多すぎてびっくりするやら、あきれるやら。前任者とはエライちがいだ。もっともそれだって「個性」だと言えるかもしれないが、英語の使い手という観点から前任者と現大統領について言えば、「ただわかりやすいだけではない、品格と教養ある大人の英語[ 米国英語 ]」使いなのか、「子どもの喧嘩レヴェルの、下世話な単純フレーズ連発英語」使いなのか、ということに尽きるように思う。

 こういういささか人間としてどうかと思わざるを得ない人の「ついーと」なんかで英語学習するよりも、すっとぼけた英国流ユーモアの典型みたいなパディントンものを読んで英語の奥深さを追体験しつつ学ぶほうがよっぽどいいと思いますよ。「英語らしい発想」という点では、個人的にはこっちの学習本のほうがよいと思う( p.100 の 'dust' について、「dust はゴミではなくて、ホコリの意味で使われるのが一般的」と書いてあるけど、英国では trash can ではなく dust bin という言い方をする、ということも念のため付記 )。

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2017年02月27日

ブルーナ氏 ⇒ Afrojack ⇒ 雅楽とミニマル音楽

1). 「うさぎのミッフィー」で世界的に著名なオランダのイラストレーターで絵本作家のディック・ブルーナ氏が今月 16 日に逝去された。享年 89 歳。ミッフィー、けっこう好きでしたので、ちょっとさびしいですね。奇しくも『帰ってきたヒトラー』をまんま地でゆくような方が超大国の舵取り役に就任したばかりというこのタイミング( 「すべてはタイミングだった」とメアリ・ヒギンズ・クラークの『子供たちはどこにいる』の一節をふと思い出してもいた )での訃報だっただけに、いろいろと去来することが多かったのもまた事実でした。

 26 日付地元紙にはブルーナ作品の翻訳者だった東京子ども図書館理事長の松岡享子先生による追悼文が掲載されてました。また松岡先生は TV ニュースでもコメントされていて、先生のお姿もはじめて拝見したのであった。松岡先生、とくると、個人的には『くまのパディントン』シリーズを思い出す。以前にもここに書いたけれども、'Please look after this bear thank you.' を「よろしくおたのみします」とさらっと名訳されているのをはじめて目にしたときの衝撃はけっこうなもんでした( それはまだ湾岸戦争以前のことだったから、思えばずいぶん古い話 )。

 ピアニストがモーツァルトを引き合いに出して、「ああいうシンプルな作品ほどゴマカシが効かないから、じつは演奏家にとっていちばん恐ろしい」みたいなことを話すのをときおり耳にしたりする。ブルーナさんの描く絵も、一見、だれでも描けそうでいて、そのじつすこしでも線と線との間隔やバランスが乱れるだけでてんで似て非なるものになったりする( 嘘だと思ったら試しにミッフィー、母国オランダでは「ナインチェ・プラウス[ Nijntje Pluis ]」を描いてみるといい )。それとまったくおんなじことがやはり追悼文にも引用されていて、ブルーナ氏がいかに天才的なデッサン力を持っていたかについて言及し、「それだからこそ、子どもたちは、あの単純な絵の中にあたたかみとリアリティーを感じとり、くりかえし、くりかえし同じ本にもどっていくのだろうと思います」。ブルーナ氏の描き方では、まずあの「正面性」が挙げられますね。写真家ルイス・ハインとおなじ技法。感情移入しやすくする工夫の結果、「どんなときでも読者の方を向いている」スタイルに行き着いたんだろうと思われます[ → 松屋銀座でブルーナさんのデザイン展が開催されるみたいですよ ]。

 そして音楽界からも訃報が。S.S.、ポーランド(現ウクライナ)出身の名指揮者、というより世界最高齢現役指揮者、と言ったほうがいいかもしれないが、あのスタニスラフ・スクロヴァチェフスキ氏もつい先日、米国ミネアポリスにて帰らぬ人になってしまった。享年 93 歳。ただただ合掌、そして音楽の喜びを届けてくれたことに対する感謝をこの場を借りて捧げたいと思う。

2). きのうたまたま耳にしたNHKラジオ第1の「ちきゅうラジオ」で、おなじくオランダの DJ、アフロジャックさんのことが取り上げられていたので思わず耳をそばだてた。なんでもアフロジャックさんてすごく有名な DJ で、このほど病気の子どもたちのために慈善イベントを開催して、集まった寄付金にさらにポケットマネー( もちろん、半端な金額ではない )を上積みして病気と闘う子どもたちの基金に寄付したんだそうだ。もっとびっくりしたのはオランダの子どもたちにとって DJ というのはあこがれの職業でもあり、なんと学校教育現場でも DJ 講座のような特別授業みたいなことも行われているだとか。こちとらもう唖然とするほかなし。なんでも「世界 DJ トップ 10」みたいなランキングで、オランダ出身 DJ がなんと 5人も入っているというからさらにおどろき。そういえばだいぶ前ここでもすこし言及した少年歌手デーミスくんも、いまじゃその DJ ですし。なるほどねぇ、と感心したしだいです。

3). そういえばおなじ日放送の「きらクラ!」。まずは新年度以降の番組続投決定、よかったですね。でもって「オザケン」こと小沢健二さんって、なんと遠藤真理さんとお友だちだったんですね … で、さらにびっくりしたのが、小沢健二さんの紹介したデニス・ジョンソンという人の 'November' なる作品。曲が流れるなか、「これ、ある音楽がそのまま模倣されているですよ、なんだかわかりますか?」ときた。ふかわさんも真理平師匠も「?」だったみたいでしたが、このときこれを聴いてた門外漢は「なんかこれ、越天楽っぽいなぁ〜」なんてぼんやり思っていたら、なんと「こたえは、雅楽なんです」とおっしゃっていたのにはほんとにびっくりした。小沢さんによるとこのジョンソン氏、その後ぱたっと作曲の道からはずれ(!)、しばらく音信不通ののち NASA の有人火星探査計画( !!! )関連企画に参加して、現在は「5, 6 m 四方の家で」過ごしているという … ??? うーむ、なんだか 21 世紀版『方丈記』みたいなお話だ。ちなみにこの 'November' は、ミニマル音楽のはしりみたいな作品らしくて、「いまこの音源を知っている人はほとんどいないと思います」。

 で、ここからが小沢さんのすごいところ。「ピアノというまったく異なる西洋の楽器でこのように演奏されるからこそ、もとの雅楽の持っていたすばらしさが際立つ」みたいな趣旨のことを発言されていたんです。然り! 話では武満徹氏のことも引き合いに出されていたけれど、武満作品がいかに西洋音楽っぽく作りこまれていても、鳴り響いてくるのはやはり日本らしさと言うか、日本特有の音の響きであり、こうして「翻訳」されるからこそ、それを聴いた向こうの聴衆や批評家は感動する … そのような内容を話されてまして、まったくもってわが意を得たり、みたいな気分に浸ってしまった( とくに翻訳[ ここ重要 ]、という言い方を使ってくれたことに座布団 100 枚!)。とにかくいいお話が聞けてよかった。再放送希望( 笑 )

追記:先月末、地元のくせして一度も行ったことのなかった世界文化遺産、韮山反射炉を見に行ってきました。バスが見当たらず、めんどくさいので伊豆長岡駅からテクシーで行った( わりと近くてよかった )。反射炉周辺の道路もすっかり「観光仕様」に整備され、案内標識も充実しているから迷うことなく現地到着。「韮山反射炉ガイダンスセンター」で反射炉生みの親、江川英龍(号は坦庵)とその子息のこととか年表とか展示を食い入るように見つめているうちに、英龍の5男坊の江川英武がわずか 10 歳( !! )にして家督を継いだこととかいろいろ見ているうちに不意に泣けてきた( 最近涙腺弱いなあ )。ガイダンスセンターを出て反射炉本体を眺めていると、地元韮山高校の女子生徒さんがヴォランティアガイドを務めてまして、その堂に入った解説ぶりとかはたで眺めていた不肖ワタシはとてもとても心強い思いがした[本文中、つまらない誤記があったので訂正しました]。

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2016年08月07日

「あいつのものモノリスしい単神話めき ! …」、名翻訳家逝く

 先月から今月にかけて、偉大な功績を残された方の訃報があいついだ。先月 26 日には日本を代表するピアニストのひとり中村紘子さんが( 享年 72、文筆家としても名を馳せた先生なので、リンク先はあえて著作ページにしてあります )、そして 31 日には昭和の大横綱、「ウルフ」の異名をとったもと横綱「千代の富士」の九重親方が( 享年 61 )、そして個人的にとてもショックだったのが、英文学者でジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』個人全訳を成し遂げたあの名翻訳家、柳瀬尚紀先生の訃報だった[ 地元紙での扱いがあまりにもささやかだったため、はじめは気づかなかった。ちなみに「東京新聞」は顔写真付きだった。さすが ]。肺炎だったらしい。享年 73。こんなこと言うと不謹慎だが、7月 30 日で 73、と、数字まであわせなくてもよかったのに。もっともっと翻訳してほしかったのに。もっともあいかわらず悟りの遅い不肖ワタシは、柳瀬先生が現在、文芸誌に『ユリシーズ』全訳を目指して連載中だった、なんてことさえ知らなかった( mmm ... mṃm ... ṃmṃ )。

 手許にある『辞書はジョイスフル』という楽しいエッセイ( 1994 )。この本に、20 年前の 1996 年に新聞社の取材に答えていた記事の切り抜きを挟んであって、ひさしぶりに眺めてみる[ ちなみに ↑ の「mmm ... 」は、先生のこのエッセイ本文から借用した ]。「現代に問う『ユリシーズ』下」というタイトルの記事で( ということは「上」もあったわけで、そっちのほうは図書館に保存してある過去記事でも見ないとわからないけど )、先生のお写真のキャプションにこう書いてあって、いかにも先生らしいな、と微笑んだことなど思い出していた ―― 「ぼくは 1 年前より 365 日分英語ができるようになってると思う」。ということは、先生は『ユリシーズ』全訳になんと 20 年もかかり、ついぞ未完に終わってしまった、ということになる( もっともベストセラーにもなリ、映画化もされた『窓から逃げた 100 歳老人』などの邦訳に従事していたなど、一時期『ユリシーズ』完訳作業から離れていたようですが )。心より、柳瀬先生のご冥福をお祈りします(『フィネガン』邦訳についてはこちらの拙記事参照 )。

 『辞書はジョイスフル』、あらためて読んでみると、『フィネガン』翻訳の手の内もあちこちで航海、ではなく公開されてまして、そうか、「卑猥に類スるキャロル歌いめ !! ( 原文:Lewd's carol ! [ Finnegans Wake, p. 501 ])」なんてのもあったんだ、とか、その他いろいろ発見が。でも先生は、「『フィネガンズ・ウェイク』全訳で最も頭を悩ましたひとつ」と告白してもいる( ibid., p. 25 )。あいにく『フィネガン辛航紀』のほうは、いまだ未読。静岡県内の公立図書館の串刺し検索かけてなんとしてでも読んでみようと思う(『辞書は 〜 』のオビの惹句で、清水ミチコさんの評がすこぶる的を射ていておもしろい。曰く、「世界初の活字芸人である」)。

 そして先生は名翻訳者の例に漏れず、無類の辞書 / 事典好きだった。とにかく辞書大好き人間で、そのこともたっぷり紙幅を割いて書いてある。『フィネガン』にはあまたの見たこともない難読漢字が詰めこまれている感ありだが、たとえばそういう漢字ないし熟語をどうやって拾って、見つけてきたかもくわしく書いてあって門外漢にはひじょうに参考になる。『諸橋大漢和』とか、『角川新国語辞典』の「付録」とか … たとえば、
… もはや十二憑きはない、血そめつき、気さわぎ、夜迷い、単于憑き、殺め好き、 … ( III 巻、p. 310 )
なんてのは、すべてこの辞書の付録の「月の異名」を参照してこさえたヤナセ語「変奏」だそうです。で、先生によると引用箇所の「原形」はつぎのとおり。
かすみそめつき( 霞初月 )、きさらぎ( 如月 )、やよひ( 弥生 )、うづき( 卯月 )、あやめづき( 菖蒲月 ) …
 というわけで、寡聞にして知らないが、もし生前、柳瀬先生が「小学校からの英語必修化」の話を聞いたら、「とんでもない、まずは日本語でしょ、日本語は天才である !!! 」と応じたかもしれない。「1月」の異名というのがこれまたすごくて、かすみそめつきだけでなく、いわひづき( 祝月 )、履端( りたん )、質多羅( せいたら )etc., … 前にも書いたけど色の名前だって、ほんとたくさんあるのが日本語という言語。そしてそれをさらに豊かにしているのが、各地方に伝わる方言ですかね。あ、そういえば記事のお題にもした『フィネガン』の一節、そのすぐあとに「ああ、ほうかい! もうそのことはいわんでくれ[ ' ... And his monomyth! Ah ho! Say no more about it!' Ibid., p. 581 ]」とつづくけど、「ああ、ほうかい!」を見た瞬間、ワタシの頭には懐かしい祖母の声が聞こえてきた( 西伊豆の方言でもあるのです。意味はもちろん、「ああ、そうかい」)。そういえば祖母は「ウルフ」が大好きで、取り組みのときは決まって「千代、ほら行けッ、千代 !! 」とテレビ観戦していた。
凡人が『フィネガンズ・ウェイク』を読もうとすると、いかに外国語を知らないかを知る。いかに外国語に通じていないかを知る。
 そこで辞書だ。凡人には辞書がある。
 たとえばアルメニア語であれ、アルバニア語であれ、動詞のように活用のあるものはむずかしいとしても、少なくとも名詞なら凡人にも辞書は引ける。――『辞書はジョイスフル』p. 21

 こんなこと言うと怒られそうだが、SNS 全盛時代、あまりにもことばというものを大切にしていない使い手が多過ぎる。昔は原稿用紙とか便箋に( この季節だったら )手汗かきかき辞書片手に升目を埋め、読み直してまた書きなおす、みたいなことを繰り返して、ようやく第三者である読み手に読んでもらえるようにしたもんだけれども、いまじゃチョチョいと入力して( それも変換予測機能もついて )、ろくすっぽ推敲もせずすぐ送信、あっという間に全世界に公開されちゃうという、ある意味ソラ恐ろしい時代。昔も今もデマというものはあるけれども、虚報 / 誤報をツイートされれば最悪の場合、世界中を巻きこむ危険性も孕んでいるのがいまのご時世。あまりに「速報性」ばかりが偏重されている気がするのはタワシ、じゃなくてワタシだけかしら[ 以上、現場報告員、前大佐でした。名はセバスション、出はリオデジャナイヨと、だんだん日本語が怪しくなってきております ]。こういうお気軽さはなにもことばに限ったことじゃなくて、前記事で取り上げた怪物捕まえ手系ゲームにも言えることだし、世の中全般に対しても言えることではないのか、となんだか偏屈オヤジみたいになってしまった( ついでに牛3つで「犇めく」ですが、柳瀬先生によるとなんと「雷4つ」合わさった漢字まであるそうです )。

 手許にある柳瀬先生の訳書としては、いまひとつ『ダブリナーズ』もある。いつか「名訳に学ぶ」として取り上げたいと考えてます。合掌[ ヤナセ先生、あばあばあばよわん、達っぱでね !! ]。
… 冠涙にむせびて己の挽歌を、天使の機関車の泣きむせぶごとく。理非ィなる人生は遺棄るに値するや ? 唯いな !  
 この一節をキャンベルはこんなふうに紐解いている ――「人生は、それを捨てるに値するものだろうか ? 」。『フィネガン』には全編に現れる「 1132 ( とその変形 )」や 29 人の女生徒の口から各国語による「平和」が繰り出されるなど、それなりにメッセージ性もあるしプロットもある。けっして「精神を病んだ物書きの狂文」ではない。

[ 付記 ]:参考までに、本家サイト別館「ヤナセ語訳『フィネガンズ・ウェイク』を読むためのかんたんな道しるべ[ β版 ]

 … いまさっき調べたら、なんとなんといつも行ってる図書館に、Finnegans Wake 原本が置いてあったことを発見 !¿! Ulysses は借りたことあったけど、まさか『フィネガン』原本まであるとは … おそらくだれからも顧みられなくて書庫でショコんぼりしてるだろうから( 苦しい )、こんど借りてみようかな。だれがなんと言おうと、'harpsidiscord' を「破ープシコード ( I 巻、p. 37 )」としたのは、快哉ものです[ ただし、「フィネガン徹夜祭 / 本文は英語 」という但し書きは、どうなのかな、あれは英語のように見えて、じつは「字酔イス語」なので。柳瀬先生によると、『フィネガン』関連辞典 / 事典 / 注釈本のたぐいでもっとも役に立ったのが 2 冊あり、そのひとつが比較神話学者キャンベルがヘンリー・モートン・ロビンソンという人と書いた『「フィネガンズ・ウェイク」を開く親鍵 A Skeleton Key to Finnegans Wake 』だったそうです ]。

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2016年03月07日

いまごろはレオンハルト氏と、カントール・バッハ氏と …

 なにげなくぴろっと開いた、けさの朝刊。開いた瞬間、あーッと声を上げてしまった。

 マエストロ、ニコラウス・アーノンクール氏逝去の報でした。行年 86 歳。盟友レオンハルト氏は御年 83 歳で亡くなったから、すこしは長生きしたことになるのかな。年回りもたったひとつちがいで、ほとんど同級生みたいなもんですし。

 昨年 12 月 5 日、いきなり引退発表したときは、レオンハルトのときと同様、かなり深刻だったのかもしれない。目にした死亡記事によると、もう長いこと病気療養中だったとか。まったく知らなかった … 合掌。

 最後にふたつほど引用を。どちらも小学館の『バッハ全集』の解説本にくっついていた「月報」に掲載されていたもので、ひとつはお弟子さんのひとりフィリップ・ヘレヴェッヘさんのインタヴューからの抜粋ではじめてアーノンクール氏と出会ったときのこと、そしてアーノンクール氏自身のことばによる、バッハ讃を。
 「 … それは私たち[ ヘレヴェッヘさんが創設したコレギウム・ヴォカーレ・ヘントのこと ]にとってすばらしい経験でした。レオンハルト、アーノンクールという、バロック音楽に関する二人の偉大なマエストロに、現在でもそうですが、学ぶことができたのです。何がすばらしいかというと、彼ら二人があまりに違うからなのです。レオンハルトは内向的といってもいいかもしれません。それに比べ、アーノンクールはとても外向的です。そして彼はまたすばらしいオペラの指揮者でもあります。彼ら二人は根本的に音楽に対してのアプローチがまったく違います。ですから、二人からさまざまに違うことを学んだのです」
―― 『バッハ全集 教会カンタータ 5』小学館、1999 より

It has always been my conviction that music is not there to soothe people's nerves…but rather to open their eyes, to give them a good shaking, even to frighten them.' ―― Nikolaus Harnoncourt.

「音楽とは神経を鎮めたり、安らぎを与えるためだけのものではなく、人々の目を開き、心を揺さぶり、ときに驚かすためにあるものだ ―― ニコラウス・アーノンクール、『同 教会カンタータ 3 』 1998 より

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2015年08月14日

ジョン・スコット先生急死 !! 

 いまさっき知った、衝撃の悲報。なんとあの名伯楽、ジョン・ギャヴィン・スコット 先生が今月 12 日に急逝していたことが判明 !!! ほんとうにショックだ。享年 59 歳、6月に誕生日を迎えたばかり。

 ここでも何回か書いたかもしれないけれど、日本で一時期、その筋では人気の高かった Boys Air Choir。この「聖歌隊のドリームチーム」に選ばれた名ソリストくんたちは、セントポール大聖堂聖歌隊の出身者が多かった。そのセントポールで 14 年間、聖歌隊員の音楽指導に当たり、2004 年からは転じて米国ニューヨークの名門セントトーマス教会聖歌隊の指導者として活躍。その一方でたとえばこちらの拙記事とかにも書いたように、名オルガニストとして大活躍されてました。

 セントトーマスのこちらの追悼記事と英語版 Wikipedia 記事によると、スコット先生は6週間の欧州大陸でのオルガンリサイタルツアーを終えて、8月 11 日、帰路に就いた。ところが翌朝、急に気分が悪くなったようで、急性心臓発作を起こしたらしい。すぐルーズヴェルト病院へと救急搬送されたものの、意識が回復することなく、現地時間 12 日に息を引き取ったという。今年の欧州は地域によっては熱波に見舞われたようなので( チェコとかかなり暑いらしい )、知らず知らずのうちにダメージを受けていたのかもしれません。さらに悲しいことには再婚した奥さんとのあいだの最初のお子さんが来月、誕生する予定 … なのだという。

 こちらとしてはただただ呆然とするばかり。前任のセントポールの先唱者( precenter )、マイケル・ハンペル惨事会員は 2012 年にドレスデン(!)で開かれたセントポール、セントトーマスの合同演奏会やセントポールでのオルガンリサイタルに触れて、「スコット氏との思い出はいつまでも光り輝き、色褪せることはない。今日はセントポールにとってたいへん悲しい日になってしまった」とお悔やみの言葉を述べています。

 スコット先生自身も、やはり英国アングリカンの伝統と言うべきか、自分が指導してきた聖歌隊員の子どもたちとおなじく聖歌隊出身者( ウェイクフィールド大聖堂、その後副オルガニストにもなってます )で、その後ジョージ・ゲスト時代のケンブリッジ大学セントジョンズカレッジ礼拝堂聖歌隊オルガン奨学生を経てセントポールとサザック大聖堂の副オルガニストになり、1990 年にセントポールの音楽監督に就任。やはり名オルガニストとして知られるジリアン・ウィーア女史にも師事していたようです。ちなみに知らなかったが Royal College of Organist というオルガニスト養成機関でも学んでいたようで、やはり公式サイト上で今回の悲報を伝えています。ちなみにチャールズ皇太子とダイアナ王妃のロイヤルウェディングのときのオルガン演奏も、スコット先生が担当してました。

 セントトーマスでの追悼式は木曜日に執り行われたようですが、正式な葬儀の日程はこれから発表されるみたいです。セントトーマスもそうですが、とりわけセントポールでスコット先生の薫陶を受けて育ったかつての少年聖歌隊員の受けたショックはいかばかりか。

 ジョン・スコット先生の御魂安かれと祈りつつ。合掌。

追記: 来日時に撮影したとおぼしき紹介記事がありましたので → JAZZ TOKYO 関連ページ。また、Pipedreams でも追悼番組を放送したようです。

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2014年11月22日

熱い心 → 思いの強さ → ことばの力

1). 去る9月 18日、ノーベル経済学賞候補にも名前の挙がった宇沢弘文氏が逝去された。享年 86歳。恥ずかしながら宇沢氏の業績の一端でもかじることになったのは、逝去されたあとのことだった( → 先日放映の「クローズアップ現代」ページ )。

 地元紙コラムにて紹介記事を読み、にわかに興味を掻き立てられて、図書館にてこちらの本とか借りて、つづいて『地球温暖化を考える』を読んでみた。そこで感じたのは、ああ、日本にもこんなすごい大学者がいたのだ、という慨嘆でした。

 このような門外漢が宇沢氏の業績について書き散らすよりも、まずは著作を読んでみることをおすすめします。でもすこし述べさせてもらえば、宇沢氏はなにより現場第一主義者で、とりわけ弱い立場の人々を救うことこそ経済学の使命、みたいな意識が徹底していたように思います( 水俣病患者支援活動に携わったり、成田空港建設問題では住民の調停役を買って出た )。昨今の経済学者を名乗る人に、このような人っているのだろうか … 失礼ながら専門バカに終始しているような学者が多いような気がする( 「死亡消費税」なんてことを平然と言ってのける人とか )。

 以前、ここでマッキベンの『ディープ・エコノミー( 原書 )』を取り上げたことがあったけれども、いまの経済システムというのは「大量生産、大量消費」を前提にした「経済成長」ありきのもので、必ずしも「そこに生きる人間」にとって最善とは言いがたい。マッキベンの前出本にはそんな事例がいかにも気鋭のジャーナリストらしくこれでもかというくらい引き合いに出されているが、宇沢氏のもっとも言いたいことも、じつはおんなじだったと気づいた。「人間が、人間らしく生きてゆくための経済学」。現状はどうか。おカネはほんらい、人間の道具のはずなのに、われわれはおカネにがんじがらめにされて、神話学者キャンベル一流のウィットに富んだ言い方で言えば、「多くの人々は人生の大半を、金はどこから来るのか、それはまたどこに行ってしまうのかという瞑想に費やします」*。産業革命以降、資本主義とその原動力のような市場原理主義経済が続いてきた結果が、「持続不能な」現代文明を作ってしまった気がする。たとえば、これもマッキベンの著作ともカブるけれども、地球温暖化の脅威。宇沢氏の関連著作を読んで、あらためてその炯眼ぶりには脱帽した。デング熱。強大化する台風。大気循環の異変がもたらす世界的な気候変動とその結果もたらされる異常気象。宇沢氏ふうに言えば、これは「社会的共通資本」にとって著しい損失であり、もはや温暖化への対応は待ったなし … のはずなのだが、残念ながら遅々として進んでない。われわれの意識そのものを変える必要がある問題だけに、ことは容易ではない。宇沢氏もマッキベンも、インドや中国の人が米国とおなじ台数の自動車を保有したらどうなるか、みたいなことを書いているけれども、われわれ日本人だってけっして人さまのこと言えた分際じゃない。TV 受像機が一家1台からひとり1台。クルマも一家に1台どころか、各人にそれぞれ1台、いや数台といった場合もある。宇沢氏も書いているように、公共交通機関の充実こそ、真の意味でみんなにとっての「共通資本」になるのにねぇ。超高齢化社会というのに、田舎に行けば行くほどクルマ依存率は高いし、公共交通機関は赤字路線ばかりでサービスは縮小されるいっぽう。宇沢氏は温暖化問題についてもいろいろ提言されているので、IPCC の警告を受けるまでもなく、為政者はもっと真剣に検討すべきだと思う( そして、われわれ自身の意識も変えなくてはいけない )。

2). そして … これにはほんとうに愕然とした。名優、高倉健さんの突然の訃報。享年 83歳。公表されたのは今週になってからだけど、今月 10日に息を引き取られたとのこと … じつは不肖ワタシはそのころ風邪が治りかけだった。ふと、洗面所の鏡に向かって、なんでかはまったく当人も関知しないながら、ここでも書いた「あなたへ」の、あの名場面を唐突に思い出し、気づいたら鏡に向かってこぶしを軽く突き立てて、「ありがとう … 」なんて口走っていた。

 高倉さんの人となりについては、いやもうただただ驚くことばかりで、門外漢があらためて喋々するまでもないのだけれど( 志村けんさんのこちらの記事とか )、江利チエミさんの死別後、終生、独身を貫いたり、撮影中、他の人があくせく動いているからと椅子が用意されてもけっして座らなかったとか( 風景写真家の故前田真三氏は、仕事に同行していた若いスタッフがのらくらしているのを見て、ほかの人間が働いているときに休むなと一喝したなんていう話も思い出した )、「幸福の黄色いハンカチ」では出所後、ひさしぶりに食堂でラーメンにありつく主人公の気持ちを表現しようと、なんと前日から絶食していたとか、ほんと枚挙に暇がないんですが、とにかく日本男児の鏡、男の中の男、みたいなイメージがどうしても強くなりがちだが …。

 以前ここでも書いた、あの気仙沼の「水を運ぶ少年」とのエピソード( → 関連記事 )。東日本大震災後にクランクインした「あなたへ」の台本の裏表紙に拡大コピーしてもらった新聞切り抜き写真を貼り付け、毎朝、撮影に臨む前に少年の写真を眺めて「ぎゅっと気合」を入れていた、という。† じつはワタシはその話を知ったとき、少々意外な気もしていた。高倉さんのような「硬派を絵に描いたような」人までも、心揺さぶられたんだ、と。個人的にはそういうイメージではなかったんです、失礼ながら。というわけで、「あなたへ」もすばらしかったし、それ以後、すっかり高倉ファンになってしまった。次回作ってどんなのだろ、なんてのんきに待っていたら、はからずもその「あなたへ」が遺作になってしまった。もうひとりの名優、大滝秀治さんもこの作品が遺作になってしまったが … その大滝さんの迫真の演技を見て、「ひさしぶりに美しい海ば見た!」という科白にこめられた「思い」に( ご自身も 200本を超える映画に出演された大ヴェテランなのに )打たれ、涙を流した、というその謙虚な姿勢というか、真摯な態度にはほんとうに頭が下がっぱなしです。

 ワタシはあのとき、健さんは気仙沼に行ったのかな? なんて無邪気に思っていたけれども、健さんの訃報のあと、このような記事を見てさらに仰天した。
むしろ、背中に蹴りを入れられた感じ。強烈でした。ただ、後悔もしています。僕がこの話をメディアにしたため、少年はメディアに注目されてしまった。悪いことをしてしまった。いつか謝りに行かないと、といつも思っています。

TV でもこの松本少年のいまのようすとか拝見しましたが … さすが、空手で鍛えているだけあって、見ちがえるほどたくましく成長されていて、そのことにも感動しきりではあったが、この健さんの気遣いたるやどうですか。わが身を顧みて、そうやすやすと「こういうふうに歳を取りたい」なんてとてもじゃないが口にできません。

 松本少年との「手紙の交流」についても、いかにも健さんらしいなあ、と感じた。最後の主演作もまた、亡き妻の残した「手紙」の物語だったし … というか、これもまたびっくりなんですが、健さんがこれほどまで筆まめな人だったとは思わなかった。どういう話だったか失念したが、100 人の女生徒がしたためた手紙一通一通に目を通しただけでなく、それぞれに一通一通、きちんと返信を書いていた、という話を知るにいたっては、こちらはもうどこにアタマを上げればよいのかわからない。
人生は切ない。切ないからこそ、何かに「うわっ」と感じる瞬間がある

これはキャンベルとジョイスの言う「エピファニー」の瞬間であり、和風に言えば、「積極的無常感」とおんなじことだと思う。感受性ということを、とくに大切にしておられたそうです。そういえば、蒸し返しになるけど『スター・トレック』シリーズの翻訳者だった斎藤伯好氏もまた、生前あるインタヴューで感受性の大切さについて力説していた。「美しいものに触れて涙を流すことができること」。健さんは暇さえあれば、美術展などに積極的に足を運んでいたらしい。

 「不器用ですから」は、健さんらしさがにじみ出るような名キャッチコピーでしたが、器用に立ちまわるような生き方ではなく、無骨でも泥臭くても、懸命に真摯に生きることの大切さを文字どおり体現した人だったのかもしれない。文化勲章受章のときの会見でも、「( 映画で )ほとんどは前科者をやりました。そういう役が多かったのにこんな勲章をいただいて、一生懸命やっているとちゃんと見ていてもらえるんだな」というようなことをおっしゃってましたし。

 地元紙には、贔屓にしていた熱海市内の老舗喫茶店のコーヒーの話とか、「東京新聞」静岡版でも、やはり熱海の老舗ラーメン屋さんの話とか載っていて、あらためてその律儀さ、そして度量の深さ大きさにまたしても頭が下がってしまうのでした。

 こうして見てみると、宇沢さんも健さんも、けっこう似ているのではないか、と感じる。人として、真に偉大な先達があいついで逝ってしまった。そしてちょうどいま、どういうわけか総選挙になってしまった( はなはだ迷惑千万 )。まちがいなくいまの日本は、重大な曲がり角にさしかかっている。宇沢先生と健さんの霊安らかに、という気持ちと同時に、どうかこの国が誤った道を進まないように見守ってほしいという気持ちとが入り交じっている。と同時に、まだ亡くなって日が浅いというのに、健さんゆかりの人々が語る数々のエピソードを聞いているうちに、なぜか力が、勇気が湧いてくるような気もしているのも事実。「心が熱い人」の「つよい思い」が「ことばの力」となって、残されたわれわれに精神的エネルギーを与えてくれるものなのかもしれない。自分にとってのキャンベル本が、そうであるように。合掌。

*… 『神話の力』飛田茂雄訳、早川書房刊、p. 51
†… 「高倉健のダイレクトメッセージ( 「日本経済新聞電子版」から転載 )」3月 16日発信号「1枚の写真」より。高倉さんはこの写真を、イタリア在住の作家・塩野七生さんから紹介されて知ったという。

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2014年09月29日

ホグウッドまで …

 まずはじめに … 御嶽山の突然の噴火には驚きました。お昼どきで、しかも天気は快晴、絶好の行楽日和でしかも週末という、悪い条件が重なってしまいました … こんなこと書くとお叱りを受けそうだが、菊川の方の撮影されたあのものすごい動画、海外の報道機関でも転載されたりしてますが、「下山途中で」動画共有サイトに投稿されたものらしい。個人的にはそちらのほうにも驚いた。考えてみれば富士山頂からでもメール送信ができるみたいなので、すごい時代になったものだ。反面イスラム国のような酷い「使用法」もあり、言語道断ではあるが、いまほど人間がテクノロジーをどう使うべきか、を問われる時代は後にも先にもなかったのではないかって思います。

 今回の噴火は水蒸気爆発らしいが、気になるのはやはり富士山。富士山は少なくとも過去二千年ほど、山頂火口から噴火したことはなくて、1707年の宝永大噴火のような「側火口」からの噴火。それも噴火するたびにタイプが異なり、かつ場所もころころ変わっているので、はっきり言って予測など不可能だと思う。「備えよつねに」で対処するしかない、ということなのか。御嶽山も富士山も、側火口はほぼ北西−南東の断層ラインに沿って口を開けている、という点は頭に入れておいたほうがいいかもしれない。理由は、伊豆半島を乗っけてるフィリピン海プレートの沈み込む方向とおんなじ方向に圧がかかっているからです。

 ところで … クリストファー・ホグウッド氏の突然の訃報にはたまげた。ただただ、呆然としています( 今月24日逝去 )。享年 73。闘病でもされていたのでしょうか、ほんとうに驚いています。

 古楽好きとしてのホグウッド氏は、自身の設立した「エンシェント室内管弦楽団」指揮者というイメージもむろんつよいですが、個人的にはチェンバロ弾きという印象がまずもってあります … リンク先の説明では、あのレオンハルトにも師事していたらしい。レオンハルト、アラン、ブリュッヘン … 往年の名手、巨匠と呼ばれるにふさわしい名演奏家がつぎつぎと物故され、よもやホグウッド氏までとは思わなかった。大震災のあった年の暮れ、サントリーホールでのN響「第九」を振ったのは、そのホグウッド氏でした。「古楽の楽しみ」にも、鍵盤楽器奏者としてのホグウッド氏の音源が何回かかかったことがありました。また、ヘンデル作品の校訂譜を出版するなど、レオンハルト同様、「演奏もする音楽学者」でもありました。

 いまはただ合掌するのみ。今宵は、こちらのアルバムを聴きつつ、いま図書館から借りているシュペングラーの『西洋の没落』を読みながら過ごしたいと思う。ご冥福をお祈りします。

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2014年08月17日

名優と巨匠、あいついで逝く

 第一報を耳にしたときはにわかには信じられなかった。名優、ロビン・ウィリアムズ氏の突然の訃報。それも自死だというからさらに驚愕。どうも鬱病だったらしい。

 日本でも、たとえば何年か前までEテレにて放映していた「セサミ・ストリート」にも道化師みたいな出で立ちで登場したりと、子どもから大人まで、けっこう幅広い世代に知られていたんじゃないかって思います。ほんとうに残念だ。もっともっと作品を見たかったのに … 。

 家事手伝いロボットを演じた「アンドリューNDR114」、実在の異色のお医者さんの半生を描いた「パッチ・アダムス」、心を閉ざした天才青年を支える心理学者に扮した「グッド・ウィル・ハンティング / 旅立ち」、そして、個人的にはもっとも印象深かった、音楽の神童を描いた感動作「奇跡のシンフォニー」… どれもみんな、たんに泣ける作品、ではなくて、見応えがあって、大げさな言い方ながらいかにして生きるべきか、ということまで考えさせてくれる作品が多かったように感じます。

 「奇跡のシンフォニー」で共演したハイモアくんは当時 14歳くらいだったから、この超個性派とも言うべき名優からいろいろ教わったんじゃないかな。最近の報道ではなんかパーキンソン病まで患っていたそうだけれども、映画界にとってはとてつもない損失だと思う。

 そういえば今年2月、「パッチ・アダムス」での共演者のひとりでオスカー俳優でもあるフィリップ・シーモア・ホフマン氏も、ヘロイン中毒で 46歳という若さで急死したばかり。いい俳優さんがどんどんいなくなっていくなあ( 泣 )。

 と、そんな折も折、まさか、という人の訃報まで入ってきた。フランス・ブリュッヘン、行年 79歳。かつてグスタフ・レオンハルトを「現代のバッハだ !! 」と評したのはあまりにも有名な話。リコーダー / フラウト・トラヴェルソ奏者としても高名ながら、後年はみずから組織した「18世紀オーケストラ」の指揮者として全世界の古楽ファンを魅了した。モーツァルトやベートーヴェンの交響曲の録音も、バロック時代の音楽と同様、当時の楽器による、当時の演奏解釈と奏法によって再現するという手法を採用して、テンポからフレージングから音響すべてにおいて、これも大げさな言い方ながらそれまで聴いていたこれらの交響曲のイメージが刷新されたりもした … とても新鮮な響きだったことをおぼえてます。

 レオンハルトとちがって、こちらはあいにく実演に接する機会もないままで終わってしまい、いまにして思えばやっぱり残念な気がする。一度くらいは聴いておくべきだった。

 こちらの追悼記事に、
... For each of these performances, Brüggen earned exactly the same as his orchestral players, a musical democracy you felt in action whenever you watched him conduct. He seemed to share the music with his musicians rather than lead them.

というのは、「プレイヤーみんなが対等に音楽を作っていた」時代の、まさに古楽的指揮法だったんじゃないかと思います。歴史資料や様式研究にもとづき、音楽のもつ構造そのものからそのすばらしさを引き出す手法。「ブリュッヘンのアプローチ法を特徴づけるのは、解釈の介在を感じさせずに作品それ自体に語らせる、その驚くべき音楽性の高さだ。同じことはバッハ演奏にも当てはまる。ブリュッヘン指揮による『ミサ曲 ロ短調[ BWV. 232 ]』は、2時間弱の演奏時間中、ポリフォニーの持つ可能性と霊的啓示が途切れることなく讃美され、絡みつく旋律線はいわばエピファニーだった[ 以上、拙試訳 ]」。

 「ガーディアン」の追悼記事では、「長年の演奏・録音活動からほんの数コマのみ紹介するのはどう見てもおかしいが」と断ったうえで、ブリュッヘンの軌跡を辿るかたちで動画が掲載されてます。そう、たしかにブリュッヘンもまた、「比類なき音楽家( one-of-a-kind musician )」でした。いまごろレオンハルトとあちらの世界で、バッハやモーツァルトやベートーヴェンと熱く語りあっているのかな。

 おふたりのご冥福を心より祈って。


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2013年12月08日

不撓不屈の闘士、逝く

 今年は ―― けっきょく書かなかった分も含めて ―― 何人もの偉大な人がこの世界から旅立ったゆかれた。偉大な、という定義は自分にとっての、という部分が大きいですが、ネルソン・マンデラ元南アフリカ共和国大統領の訃報には、やはり格別な重さを感じた方が多いのではないでしょうか。謹んでご冥福をお祈りします。

 こちらこちらの「マンデラ語録」を見ますと、やはり真にすぐれた人というのは言うことがちがうなーと、月並みな感想で申し訳ないがほんとうにそう感じます。とくに「勇者とは怖れを知らない人間ではなく、怖れを克服する人間のことなのだ ( The brave man is not he who does not feel afraid, but he who conquers that fear. ) 」というのは、長きにわたる苛烈な投獄体験がにじみ出ているような、すごい力を持ったことばかと思う。

 前にも書いたけれどもいま、村上春樹氏の『かえるくん、東京を救う』の英訳を読む講座を「受講」してるんですが( わりとまじめに聴講しているリスナーだと思う )、この講座を通してはじめてこの短編にはドストエフスキーやヘミングウェイなどの世界文学の錚々たる面々も「かえるくん」の口を通して語られるということを知り、そしてその中にはニーチェも含まれていることも知った( 今月号テキストに出てくる )。で、これもまったくの偶然ながら、いま図書館からそのニーチェの代表作( と言っていいのかな、『善悪の彼岸』とか『人間的、あまりに人間的』とかもあるので … )、『ツァラトゥストラはこう語った』のちくま学芸文庫版(『ニーチェ全集 9』)を借りて読み進めていたところだったので、そういう目で上記マンデラ元大統領の引用を見ると、ニーチェの説く「超人」というのはこういう人のことなのでは … という気さえしてくる。

 数年前の映画のタイトルにもなったラテン語の Invictus。'morior invictus' という言い方もある。「死ぬまで屈せず」。マンデラ元大統領はロベン島の監獄に収監されていたとき、仲間の政治犯たちに、このおなじラテン語を題名にした英国の詩人ウイリアム・アーネスト・ヘンリーの作品を朗読して聞かせていたという。そんなマンデラ元大統領の人生は、和風の言い方をすれば、まさしく不撓不屈の闘士そのもののだったと思う。

 … 図らずもいま、この国では特定秘密保護法案が日本版 NSC とセット( ? )で ――昔とちっとも変わらぬやり方で ―― 可決され、為政者たちはけっきょくなにをどうしたいのだろうと不信感を募らせている人が大半なんじゃないかって思います。で、たとえばまっとうなデモ活動を「テロと同類」みたいに口走ってしまう代議士を見ていると、いやでも器の差を見せつけられる思いがする。
国家とは、すべての冷ややかな怪物たちのなかで、最も冷ややかな怪物のことだ。じじつまた、それは冷ややかに嘘をつく。そして、次のような嘘が、その口からひそかにもれる。「われ、国家は、民族なり」―― ニーチェ『ツァラトゥストラ』( 吉沢伝三郎訳 )


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2013年11月18日

サー・ジョン・タヴナー氏逝く

 昨年あたりから、なんか音楽関係者の訃報に接することが多いなあと漠然と感じていました … レオンハルト氏、別宮貞雄氏、マリー・クレール−アラン女史、最近では三善晃氏 … そしてじつは、昨夏、サントリーホールで聴いたセントジョンズカレッジ聖歌隊の来日公演で、「聖霊降臨」の場面を音楽として描写した作品(「来たれ、聖霊」 )をはじめて耳にしてひじょうに印象に残った作曲家のジョナサン・ハーヴェイ氏が、なんとその半年後に逝去されていたとの事実をつい最近になって知るしまつ。

 ハーヴェイ氏は難病を患っていたらしいけれども、タヴナー氏もまた「マルファン症候群」に長年、苦しんでいたこともはじめて知った。30 歳のときに大きな発作に襲われて以来、たびたび命にかかわる発作を繰り返し、直近では 2007年 12月にも心臓発作に見舞われたらしい(→BBC News の追悼記事)。

 現代ものにはからっきし疎い門外漢ながら、宗教声楽作品つながりでタヴナーはじめ、ペルトやグレツキなどのわりとよく知られた作品は何度か耳にしたことがあります。タヴナー作品では、やっぱり「アテネのための歌」と、ブレイクの同名詩に曲をつけた「仔羊」ですね。じつを言えばこのたびの訃報をはじめて知ったのも、この「仔羊」を冒頭に歌っていたオックスフォード・クライストチャーチ大聖堂聖歌隊による「夕べの祈り」中継を聴いていたときのことだった ( え ?! と思ってあわててスマホ操作して関連サイトとか見ていた )。

 タヴナー氏はロシア正教会に改宗したことでも知られていますが、NYT の記事とか見ますと、改宗後にはバッハも含めた西方教会の音楽に対して批判的だったことも今回、はじめて知った。もっとも後年、「正教会特有の音階によって書く音楽があまりに禁欲的で硬直化していた」ことを悟ったのちはイスラム、ヒンドゥー、ユダヤ、米国先住民の信仰などからインスパイアされた作品を書くようになったようです。

 The Guardian サイトには BBC Singers 指揮者ボブ・チルコット氏による追悼文も寄稿されていて、同氏がまだ若い歌手だったころ、「長身で日焼けした、プロンドの長髪をなびかせカリスマ性のある」タヴナー氏に仲間とともに目を見張っていたとか、「青いロールスから降りて、 自宅から2軒先にある建物に」入っていくのを目撃したなどの思い出話にこちらも思わず興味を引かれます … ちなみにその建物は当時、ロシア正教徒たちの集会所だったとか。

 「さよならだけが人生」なんではありますが、あらためてタヴナー氏のご冥福を祈りたい。そして、感動的な音楽をありがとう、と言いたいです。

 以下、各紙から拾った、いまは亡きタヴナー氏による個人的に印象に残る発言をいくつか引いておきます。

 ―― 「われわれは文字どおり暗黒時代に生きている。神性の閃きから発するものはそれがなんであれ、受け取る価値がある」(「タヴナー氏の音楽は宗教からインスパイアされているというより、宗教の代用品にすぎないのではと批評家たちから言われたことに対して」)

 ―― 「わたしは作曲をやめ、インド音楽、ペルシャ音楽など、中東地域一帯の音楽に耳を傾けた。米国先住民の音楽も聴いた。伝統的価値観にもとづく音楽はなんでも聴いた。そのとき、ある疑問が芽生えた。この西洋文明にいったいなにが起こったのか ? エゴばかりが優勢になり、それとともにしだいに神聖なるものが目につきにくい場所へと追いやられてしまったのはなぜなのだろうか ? 」

 ―― 「作品の内包する主題は、聴き手にとってさして重要ではありません。それを考え、つねに念頭に置いておく必要があるのは、作曲者であるこのわたしだけです。聴き手は思い思いに解釈してもらってかまいません」

 ―― 「マルファン症候群のたいへん怖い点は、いつなんどき解離が起こるかわからない、そしてあっさりあちらの世界へと旅立ってしまうかわからないことです。そんなわけなので、すぐ目の前に『死』が待ち構えている、という感覚があると思います。これが、わたしのものの考え方に影響を及していたとしても無理ないことです」



BBC サイトのタヴナー氏追悼関連番組リンクページ

John Kenneth Tavener, composer, born 28 January 1944; died 12 November 2013.

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2013年08月31日

シェイマス・ヒーニー氏逝く

 1994 年のノーベル文学賞は、日本の大江健三郎氏でした。日本人文学者としては川端康成につづいてふたり目で、もっかのところノーベル文学賞にもっとも近いと言われているのが、かの村上春樹氏ですね。では大江氏が受賞したその翌年はだれかというと、アイルランドの国民的詩人のシェイマス・ヒーニー氏でした。大江氏の受賞とその記念講演( 'Japan, the ambiguous, and myself' )もたいへん印象に残っていますが、アイルランド好きとしてはヒーニー氏の受賞にもおおいに興味を惹かれたものでした。そのヒーニー氏の死亡記事が、なんとも小さく地元紙に出てました。享年 74歳。

 図書館でたまにヒーニー氏の邦訳された詩集を見かけて手にとってパラパラ、くらいでまともに読んだことさえない人間があれこれ口にする資格などないのだけれども、74 歳というのはちょっと早すぎる死のように思えてならない。いまのところ直接の死因は不明ながら、かなり以前から体調はよくなかったみたいです。もと米国大統領のクリントン氏もヒーニー氏の作品が大好きだったようで、おくやみで 'our finest poet of the rhythms of ordinary lives', 'a powerful voice for peace.' とコメントしたとか。

 北アイルランドのベルーイーというところで農業を営んでいた家庭に生まれ、処女作『あるナチュラリストの死』という詩集を世に問うたのが 1966 年。検索してみると『全詩集』などけっこう邦訳もされているようですが、ヒーニー氏自身すぐれた翻訳家で、オウィディウス『変身物語』などのラテン古典から、古英語で書かれた有名な『ベーオウルフ』も現代英語訳していたり、また毛色の変わったところではヤナーチェクの歌曲集なんかも英訳しているという、ひじょうに多才な方です。戯曲も数篇、発表しています。

 ヒーニー氏の訃報のすこし前、ワタシもお世話になっている「青空文庫」創設者の富田倫生氏の訃報もありました … こちらも早すぎる死でしたが、著作権関係の話では日本も欧米なみの「70年」にしようという動きがあるけれども、ワタシも富田氏とおなじく延長には反対。でも富田氏とその仲間が「青空文庫」を立ち上げたのは、1997 年のことなんですね ! まだ一般家庭にネット接続環境がさほど普及してないころ、回線も心もとないアナログ電話回線が主流だったころのこと。いまとはちがってそうとうな苦労があったはずです。「青空文庫」というネーミングもすばらしいですね。ちなみにいまは堀辰雄の『風立ちぬ』がダウンロード件数1位だとか。どんなきっかけであれ、こういう作品が幅広く読まれるのはいいことだ。

 この前の「クラシック音楽館」で放映された N 響定演では、エルガーの編曲したバッハの「幻想曲とフーガ」が流れてました。オーケストレーションの手法とかにも興味をそそられましたが、原曲の雰囲気そのままでロマン派ふうのクライマックスへと違和感なくもっていくあたりのバランス感覚はさすがと思ったりもした。感動をあらたにしたので、ヒーニー、富田両氏のご冥福を祈りつつ、このバッハの原曲 BWV. 537 を聴いて締めたいと思います。合掌。





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2013年03月03日

Requiescat in pace ...

 たてつづけに巨匠クラスの名演奏家・音楽家の訃報が飛びこんできました。先月 22日、ドイツの名指揮者でピアニストとしてもその名を馳せた往年のマエストロ、ヴォルフガング・サヴァリッシュ氏逝去、享年 89 歳。そして先月 26 日にはなんとフランスを代表する名オルガニストのおひとり、マリー−クレール・アラン女史が逝去、享年 86 歳。そしてさらにその翌日、こんどは米国人の伝説的なピアニスト、ヴァン・クライバーン氏の訃報が入ってきた … クライバーン氏は骨癌を患っていたらしい。みずからの名を冠した国際ピアノコンクールにて本邦代表の辻井伸行さんが優勝したとき、クライバーン氏はとてもお元気そうに見えていただけに、まさか、という気がした。享年 78 歳でした。

 個人的には、わずか一週間のうちに連続で音楽家関連の訃報を聞いた、ということはちょっと記憶にないです。N 響定演に足繁く通っていた往年の音楽ファンだったらサヴァリッシュ氏の訃報に、ピアノ音楽ファンだったらクライバーン氏の訃報に、それぞれ去来するものがあったと察しますが、オルガン好きにとってはやはり仏人女流オルガニストのアランさんの訃報がなんといっても大きい。自分がアラン女史逝去の報に接したのは、ここのサイト経由でした。ここがどの報道機関よりも早くアラン女史の訃報を伝えていたように思う。

 ワタシも一度だけだったが、当時できたてほかほかの東京オペラシティコンサートホールでのアラン女史のリサイタルに接したことがある。そういえばバッハのオルガン作品の演奏をはじめて「TV 映像で」拝見したのも NHK ホールにおけるアラン女史のリサイタルでして、そのとき弾いていたのが難曲中の難曲、「オルガンのためのトリオソナタ BWV.529 」だった。楽譜なしの暗譜による演奏、助手もつけずストップの出し入れもすべてひとりでこなすという、ジャン・ギユー氏もそうだったけれども、フランスのあるオルガン流派の伝統的演奏スタイルをかたくなに守っていた。オペラシティでの演奏でもやはりそうで、一階席うしろのほうでやや見えにくかったとはいえ、その明晰な色彩感をもった、いい意味でわかりやすい演奏に聴き入っていた。

 はじめのころ買った LP … も当然、この明るくてわかりやすいアラン女史の音源で、高校の音楽室にもモーリス・アンドレ氏との共演盤があったことなんかも思い出した ( 前記事で書いたハイラーの音源のつぎに買ったのがアラン女史の「バッハ・オルガン名曲集」) 。でも前にも書いたことだけれども病気したときに聴いたヴァルヒャのレコードにいたく感銘を受け、それ以来、オペラシティでの実演に接した以外はわりと疎遠になってしまった。これはあくまでも当方の好みの問題でして、どっちのバッハ演奏がすぐれているか、という話ではない。アラン女史の 3 回にわたるバッハ全オルガン作品の録音というのは、とんでもない偉業だし、それだけでもすごいのに、ヴァルヒャを凌ぐ点として、その膨大、澎湃 ( 念のため読みは「ほうはい」 ) たるレパートリーの圧倒的広さがまず挙げられる。またアラン女史のバッハ全曲録音のいいところとして、ヴァルヒャが取りあげていない偽作・偽作の疑いありの作品もすべて漏らさず録音している点も挙げられる。そういえばあのリサイタル、終演後にホールの関係者 ? のおじさんが花束抱えてオルガンバルコニーに現れて、アラン女史に手渡していたなんてことも思い出した。ほぼ同時期に開かれたべつのオルガニストによる来日公演では、そのオルガニスト仲間の日本人の知りあい ? の幼い少年が終演後に大きな花束を抱えて出てきて、喝采を浴びたとか、という話もついでに思い出した。

 その昔『 FM-fan 』という雑誌があって、マリー−クレール・アランさんの取材記事が載っていた。それはたしか 1987 年ごろのサントリーホールでの来日公演のときだったように思う。インタヴュアー曰く、「とても気さくな方でした ! 」とあり、またそれからだいぶたったころ、こんどは「 NHK 芸術劇場」にて楽屋での一コマなんかもアラン女史のコメントとともに放映されていた。で、開演を待つあいだアラン女史はなにをしていたかというと、なんとクロスワードパズルを解いていた !! セルゲイ・ナカリャコフだったか、開演前はひたすら携帯ゲーム機いじって遊んでいる、なんて演奏家もいるにはいるが、休憩中も頭を使っているんだな、さすが巨匠クラスはちがうな、などとひとりで勝手に感動していた。クロスワードパズルがアラン女史の趣味だったみたいです。… そういえばまるで関係ない話だが、だれだったか作家の人で、ヒマなときは因数分解しているなんて言ってたな、なんてことまで思い出してしまった。話もどって 1987 年のサントリーホール来日公演の模様は NHK でも放映されていて、そのときはじめてフランツ・リストの「慰め」を聴いた。すなおにああ、これなんていい曲だと感動した。サントリーホールのリーガーオルガンの天上的な美しいストップの音色も、ひじょうに印象的だった。これがもとはピアノ曲だってことは、ずっとあとになって知ったのだけれども。ボエルマンの「ゴシック組曲」の「トッカータ」終結部の二重ペダル ( 両足で和音を演奏する奏法 ) による主題が、いまもあざやかに耳の奥に甦ってくる。

 蛇足ながらアラン女史の一家はバッハよろしく文字どおり音楽一家の家系で、父親も音楽家でアマチュアのオルガンビルダー、4人兄弟の長兄ジャン・アランは第二次大戦で弱冠 29 歳で戦死した作曲家。末の妹のアランさんは、亡き兄のオルガン作品を録音していることでも知られている。とりわけ有名な作品が「連祷」ですね。いまごろは兄と再会を果たしていねのかな … そこにはもちろん、バッハもいるだろう。なんといっても生前、アラン女史はこんなことを「告白」していたくらいですから ―― 「わたしは、バッハの忠実な侍女となってしまった」。トーマス・トロッター、ジリアン・ウィーアなど、育てた弟子も数知れず。オルガン音楽界に残した功績は計り知れない。

 … 三名の巨匠たちの冥福を祈って。

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2013年01月27日

またひとり名訳者逝く

 ときあたかも芥川賞・直木賞受賞作家発表の季節ですが、去る 22 日、直木賞作家で米文学翻訳家の常盤新平氏が逝去されたとの報に接しました。享年 81 歳。謹んでご冥福をお祈りします。

 常盤氏、とくると、静岡県人だったらまず思い浮かぶのがいまからちょうど 20 年前に連載された小説『風の姿』ではないかと思う。まだ若かったとはいえ、自分もあの物語は好きで欠かさず読んでいた。ストーリーはもうほとんどおぼろげにしか覚えてないけれども、ひとつだけ強烈に心に残っている名文句があります ―― 曰く「わさび田の修道院」。これなんてすばらしい表現なんだろう、と思ったもんです … 風景写真好きな自分も、たとえば黄金崎 ( こがねざき ) あたりなんか、ほんと自分にとっては修道院、大聖堂みたいな大切な場所だという感覚があり、ヒロインが言ったこの名科白の気持ちはひじょうによくわかる。作品執筆前の事前調査で安倍奥山中に抱かれたわさび田を見て回ったという常盤氏も、おそらく第一印象として直感的にわさび田の醸しだす「静謐な、修道院的な空気」を鋭敏に感じ取ったのではないか、と勝手に想像してます。とにかく読みごたえのある、いい作品でした。

 文芸ものの翻訳者をめざす人にとっては、常盤氏というとむしろ米国文学の紹介者という顔のほうがピンとくるかもしれない。アーウィン・ショウの翻訳者というイメージがつよかったんですが、Wikipedia 記事を見てみるとその訳業もひじょうに多岐にわたっていて、あらためて目を見張りました。

 私事ながら、常盤氏の講演会を一度だけ、拝聴したことがある。そのときはまだまだ若造だったから、話の内容にどこまでついていっていたかははなはだ疑問ではあるが、自身の翻訳に対する考え方とか、こぼれ話とか、とてもおもしろくうかがった憶えがあります。なんといっても常盤氏が米文学ものを邦訳しはじめた当時というのは、「エルメス」ひとつとってもだれも知らないような時代。猫も杓子もブランドを買いあさり … なんてのははるか先のことでした。

 また常盤氏は柳瀬尚紀氏と同様、辞書をこよなく愛された方でもありました。いつだったか雑誌の辞書特集に寄稿されていて、そのなかで辞書にドラえもんとか一号、二号なんて名前をつけていたら不謹慎だと叱られたとかって書いてありました。あたらしい辞書が刊行されると、まっさきに大きな書店に行って「表敬訪問」するとも書いてありました。

 Wikipedia 記事には常盤氏の著訳書が列挙されているので、未読のおもしろそうなのを図書館で探してみようかと思います。名訳者またひとり退場す、という思いに沈みながら。合掌。

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2012年05月27日

昨晩、あんなにお元気で話しておられたのに …

 絶句した。今年はなんだか音楽関係者の逝去があいついでいるなあ、と漠然と感じていたら、昨晩の「名曲のたのしみ」でシューベルトの「交響曲 第 1 番」と「第 2 番」をいつものようにお元気で紹介されていたのを聞いたばかりなのに … 「来週はまたラフマニノフかな ? 」とかのほほんと構えていたら、もうかなわぬことになってしまった … 日本における西洋音楽評論の草分け的存在の吉田秀和氏、享年 98 。できれば 100 までがんばっていただきたかったなあ。22 日に逝去された、ということは、「名曲のたのしみ」収録分を待っての公表だったのだろうか ? 

 … いつだったか NHK で放映された吉田氏の特集番組、思い出します。90 過ぎてもあの矍鑠とした、そしてじつにおしゃれないでたち。原稿書きの風景など、はじめて見たけれども、「こういう作業が好きなんですよ」と嬉々としてコピー譜を切り貼りしていた姿とかを思い出していた。

 最晩年のホロヴィッツがひさしぶりに来日してリサイタルを開いたとき、たしか「ひび割れた骨董」とかって酷評していたこともありましたね。ううむ手キビシイなあ、と思ったもんです。NHK ホールに国内最大級のオルガンが設置されたときも、「グロテスクだ」と一刀両断していたことも思い出される ( ワタシ自身は、あのデザインはしかたなかったと思っている。むしろあの当時のコンサートオルガンのデザインとしては、世界的に見てもカッコいいとさえ思う ) 。でも吉田氏は水戸芸術館の館長でもあり、ここの玄関ホールのオルガンが震災から復旧したばかりに届いた訃報は、やはり残念だ。

 いまごろは、西洋音楽における音楽批評家の草分けでもあったマッテゾンやシューマンなんかとあれやこれや語りあってるのかな ? いや、おなじ釜の飯を食った仲間でもあった齋藤秀雄氏と楽しく語りあっているのかな ? 合掌 ( 追記。「名曲のたのしみ」はあとまだ 5 回分の収録が残っていて、最後の収録回までこれまでどおり番組をつづけるとのことでした ) 。

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2012年01月22日

たてつづけに … 合掌

 先週の月曜朝に聴いた「古楽の楽しみ」。中世の音楽形式のひとつコンドゥクトゥスなるものが出てきたり、「ロバと酒飲みとばくち打ちたちのミサ曲」というなんともユーモラスな作曲者不詳のミサ曲 ( ? ) が出てきたりしたので、ちょっと手許のコピーを調べて中世ヨーロッパ風の「無礼講」だった正月 1 日のいわゆる「愚者祭」とか、その前、12月28日の「幼な子殉教者の祝日」に催されたという「少年司教 ( boy bishop ) 」の話とかとからめて書くつもりでした。でもこの間、たてつづけに著名な音楽家の訃報があいつぎ、そしていまごろになって、古楽復興の立役者、オランダの鍵盤楽器奏者で指揮者のグスタフ・レオンハルト氏まで逝去されていた事実を知り、しばし呆然。しかも行年 83 というのは、奇しくも 21年前の8月に亡くなったドイツを代表するバッハ弾き、ヘルムート・ヴァルヒャともおなじだった。

 レオンハルトが残した功績、というか音楽的遺産はあまりにも大きい。日本人からも数多くのお弟子さんを輩出していますし。レオンハルトの来日公演にはたいていそういったお弟子さんとか、孫弟子の先生とかが一般聴衆に混じっていることが多くて、最後の来日公演となった昨年 5月末の明治学院チャペルでのオルガンリサイタルでも BCJ の鈴木雅明氏が聴きに来ていたりした ( その後伝え聞いたところでは終演後、レオンハルトとしばし談笑していたらしい ) 。なので一音楽ファンにして門外漢の自分がかの巨匠について、あれやこれや書くのはかえって失礼な気がして気がひけるのですが、レオンハルトの貴重な実演に接したひとりとして、個人的感想を綴ってみたい。

 昨年 5月の来日公演時に書いた記事でも触れたけれども、自分がはじめてこの老巨匠の演奏に接したのは忘れもしない 1996 年 3 月、池袋西口の東京芸術劇場で、席はたしか 3 階席中央だったと思う。ご存知のようにここのオルガンはフランスのガルニエというオルガンビルダーが建造したもので、3 つの回転台にそれぞれ筍よろしく乗っかったオルガンがぐるりと回転して「ルネサンス・バロック」面、「ロマンティックオルガン」面と 3 つの「顔」をもつ楽器として有名 ( それゆえいろいろ問題もあるけれど。途中で止まったりとか … ) 。レオンハルトは「ルネサンス・バロック面」を使って演奏してくれた。スペインのアラウホとか聞き慣れない人の作品がつぎつぎに奏でられ、たしかバッハはアンコールピースのコラール前奏曲だったように思う。印象は、意外とエネルギッシュで、堅苦しさはみじんもなかった。でも氏のすらりとした長身、その端正な物腰がなんともいえずカッコよくて、「ああ、ワタシも年とったらあんなふうになりたいものだ」なんてまだ 20 代だったけれどもそんな感慨を抱いたりした。また演奏のときには眼鏡をかけ、客席に向かってお辞儀するときはさりげなく眼鏡をジャケットの胸ポケットにしまうその仕草がとてもダンディだった、という印象もあった。

 2 回目の「レオンハルト体験」は静岡音楽館 AOI での公演で、2004年6月のこと。前回がオルガンだったので、こんどはチェンバロを、と考えていたら、おあつらえ向きに静岡市での公演とあいなり、大喜びで聴きに行ったものです。レオンハルトはステージに登場すると、みずから楽器の「ふた」を立てて、やおら演奏しはじめた。自分の席は前から 5 番目で、左寄りだったから両手の動きがとてもよく見えるし、楽譜までよく見えて、ある意味ひじょうにラッキーな好位置だった。このときはフローベルガーとか大クープランとかフォルクレとかフランスものが多かったような気が ( プログラム、探したけど出てこない ) … でも当時書いた「覚え書き」をいま見ると、最後はバッハの「パルティータ BWV.767」だったようだ … 以下、その「覚え書き」からの引用。↓

―― 相対湿度が低かったせいかどうか知りませんが、当夜の公演では開始直後は客席からやたらとゴホゴホが聞こえてきました … そのうちそういった雑音は ―― たぶんチェンバロの繊細な響きに耳が慣れ、レオンハルトの演奏に集中できるようになったからというのもあるかと思うが ―― あまり聞かれなくなりましたが、代わりに演奏者自身の「オフォン ! 」が。各曲が終わり、拍手にこたえたあと、かならず咳払いしてました。高齢というのもあるかもしれませんが、かなりしんどかったのかもしれません。でもいざ鍵盤に向かうとがぜん若返り、トッカータの速い走句では右足でトントンとリズムをとり、迫力あふれる演奏でした。掉尾のコラールパルティータもまさに名演。

―― 聴衆の鳴りやまぬ拍手にこたえ、アンコールとして2 曲弾いてくれましたが、うち 1 曲はなんと例の「無伴奏ヴァイオリンパルティータ第 2 番」のサラバンド !! 弾き始めて数秒のタイムラグがあってからそのことに気づきました … このアンコール作品もまた絶品。ここでホール関係者とおぼしきオジさんから花束が ―― というより、二輪ほどの薔薇 … せっかく巨匠が来静してくれたんだから、もっとでっかい花束にしたらいかがかと。これじゃいくらなんでも巨匠に失礼です。

… あいかわらず勝手なこと書いてるな ( 苦笑 ) 。最後の来日公演については拙記事参照。

 レオンハルトなどオランダの鍵盤楽器奏者は、たいてい「助手」というのをつけない。譜めくりもストップ操作もぜんぶ自分ひとりでこなす。マリー・クレール-アラン、ジャン・ギユー、アンドレ・イゾワールといった仏人奏者や一部の英国の奏者、サイモン・プレストンなんかもひとりでこなすタイプですが、レオンハルトやコープマンに言わせると、バッハ時代まではこの「すべてひとりでこなす」スタイルが常識だったから、そうしなくてはならないという。だからいつも助手なしで弾いているんですね。

 こちらの追悼記事を見ますと、「わたしは学者ぶるのは嫌いだ。音楽家は解釈の基本原則の正しさを認識したうえで、あとは自身の感興に従って演奏すべきだ」みたいな発言もしている。レオンハルトというとどうも衒学肌の近づきにくさがあるような印象を持たれたりするけれども、ご本人はまったくそんなことは念頭になし。あるお弟子さんの回想では、レッスンを受けるために先生の家( 1605 年に建てられたお屋敷で、17 世紀の調度品でいっぱいだったという )を訪ねたら、レオンハルト先生は口笛 ( ! ) 吹き吹き、軽やかに階下へ降りてきたんだという。またコープマンによると、たまたまレッスンの持ちあわせ曲がない時なんか、「ハイ、今日はこれでおしまい」と言って打ち切ったとか。時間のムダを徹底的に省く合理主義者でもあったみたいです。またあるときはインタヴューにこたえて、「わたしは朝寝坊の芸術家なんかじゃありません」。朝早く起床する、規則正しい生活を送っておられたらしい。そして極めつけは、「レオンハルトは現代のバッハだ ! 」とフランス・ブリュッヘンが呼んだことについてどう思うか、と訊かれたときは、笑顔でこう返したという。「ひじょうに親しい友人による、愛すべき誇張です」。

 またレオンハルトは長年、生まれ故郷オランダ・アムステルダムの新教会オルガニストを務めており、チェンバロ弾きと同様にオルガン弾きとしてもまさに名人だった。そしてオルガニストとしてのレオンハルト最大の功績は、自身も好きだというスペインのアラウホとか、バッハ以前のあまり世間では知られていないオルガン作曲家の作品を、これまた世間ではほとんど忘れ去られているような歴史的オルガンを用いて数多くの録音を残したことだと思っている。こんな地味な活動を長いあいだ細々とつづけるにはよほどの情熱がなければとうてい成し遂げられないはずです。そんなアルバムが図書館から借りられるのもうれしいし、うち何枚かは手許にあるとはいえ、とうていすべてを聴ききれるものじゃない。でもこうして行ったこともない、聴いたこともない古いオルガンの響きにひとり浸る瞬間は、最高に贅沢なひとときだと感じている。

 椎名雄一郎氏のアルバムのライナーに、レオンハルトからこんなことを言われたとしてつぎのようにあります … 師、曰く、「一生、楽譜の勉強をつづけなさい」。西洋音楽、ことにバッハ時代とそれ以前の作曲家の作品を演奏する場合、まさにこの「音楽の解釈」に尽きるといってもいいから、ほんとそのとおりだと思う。「17 世紀と 18 世紀のあいだには、埋めがたい溝がある」とも言っていたとか読んだことがある。だからなおさら、土台となる「解釈」をしっかり構築しなさい、ということなのだろう ( → 来日公演の招聘元だった音楽事務所によるレオンハルトへのインタヴュー ) 。なおレオンハルト氏の葬儀は、現地時間 24日に執り行われるらしい。↓ は、12月12日、パリでの最後のリサイタル。



 レオンハルトが現地時間の16日に逝去する前、日本でも戦後を代表する作曲家の先生が他界された。別宮貞雄先生、享年 89。こちらは老衰というから、大往生と言ってよいのかもしれないが、かつての盟友、吉田秀和氏にしてみれば、もうすこし … という思いもあるのではと察します。米良美一さんの歌う「さくら横ちょう」は最高です。そして別宮先生の亡くなる前、松の内がとれたばかりの 8日には、なんと玉木宏樹氏まで逝かれてしまった。享年 68。まだ「向こう岸」へ旅立つには早すぎる歳です。レオンハルト氏、別宮貞雄氏、玉木宏樹氏のご冥福を心から祈ります。

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