2008年12月07日

フルネ氏のこと

 先月3日の文化の日に、フランスを代表する世界最高齢の指揮者、ジャン・フルネ氏が逝去されていたことをいまごろになって知りました(遅すぎ…)。巨匠ですから、おそらく地元紙にも訃報くらいは掲載されていたはずだとは思うけれども、気づかなかったorz …それも「明日のNHK-FMはなにやるのかな?」と番組表を見て、「ジャン・フルネ追悼」という見出しが飛びこんできて愕然とした。てっきりお元気だとばかり思っていたのに。3年前に引退記念公演を、ほかならぬこの日本で開いてくれた親日家のマエストロ、長いあいだありがとうございました、という気持ちでいっぱいです。95歳だったので、奇しくもシュヴァイツァー博士とおなじ歳で亡くなられてしまいました(→東京都交響楽団の関連ページ)。

 その「フルネ追悼特集」を組んだのは、けさの「20世紀の名演奏」。おなじく「レクイエム」を作曲しているモーリス・デュリュフレがオルガンを弾いているフォーレの「レクイエム」とか、フランス近代ものを中心にかかりました(「レクイエム」ついでに、最近、'Dies irae'の作詞者が聖フランチェスコの高弟にして伝記作者としても知られるトマス・ダ・チェラーノ Tomaso da Celanoなる人だったらしいことを知りました)。合掌。

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2008年08月30日

あまりに悲しすぎる結末

 アフガニスタンで農業指導活動に従事していたNGO「ペシャワール会」の伊藤和也さんが誘拐され、殺害された悲報には、多くの方が衝撃を受けたと思います。静岡県出身者なので、当然地元紙は連日のように報じていますが、現地情報が二転三転、「解放」かと思いきや、一転して最悪の結末を迎えたことを最初に知ったとき、「話がちがうじゃないか!」と思わず口走ってしまった。

 伊藤さんの所属していた日本人NGOの人たちは、ヘロインの原料になる違法なケシ栽培から小麦などの作物に転換する農業を地元の農家に教える活動をつづけていたらしい。ただ、度重なる旱魃と飢饉で国内治安がかなり悪くなり、昨年から段階的に日本人スタッフを帰国させるようにしていたという。いまごろこんなこと言うのもおかしいけれども、同NGOの農業指導に当たったという方が、伊藤さんから受け取った最後のメールに「8月中旬の帰国はキャンセルしました」と言っていました。そのとき帰国できていれば…とやはり思ってしまう。

 伊藤さんが現地で撮影したという写真も見ました。かの地ではよほど信頼されていないかぎり、女性や子供の写真は撮れないといいます(最悪の場合は撃ち殺されるとも)。一面花畑のなかで生き生きとした表情の子どもたちを見ていると、ほんとうに現地の人の信頼が厚かったんだなあということがひしひしと伝わってきます。誘拐されたと知った村の人がそれこそ総動員で捜索に当たり、その数千人とも聞きました。それだけアフガニスタンの人に慕われていたまだ31歳の青年に、どうしてこんなむごいことができてしまうのだろうか…伊藤さんを誘拐した実行犯というアフガニスタン人の写真も見たが、目がうつろだと思った。悲しいことだが、アフガニスタンにかぎらずどこの世界でも「話をしても通じない」人種というものはいるもの。自分たちの不利益となると手段を選ばない。

 静岡県関係者でこのような不遇の最期を遂げたのは、4年前の橋田信介氏の場合もそうだった。米軍の攻撃で目を負傷したイラク人少年に日本で治療を受けさせようと奔走していたさなかのことだった。さいわい、この少年は来日して目の手術を受けることができたとはいえ、悲しい事件ではあった。

 内戦状態にある国、治安の悪い国へ民間の援助団体の人が活動するのはたしかにいろいろ問題をはらんでいるとは思う。現地スタッフはみんな悔しがっていたといいます。志半ばで倒れた伊藤さんの遺志はかならず引き継ぐと誓い合ったそうですが、マザー・テレサの言った「われわれの最大の敵は、無関心」ということばのように、みんなが関心を持ってできるところから行動することの尊さを身をもって教えてくれたようにも思います。まだまだ生きるべきだった故人にたいして「おくやみ」というのはおかしいとは思うが、いまはただ合掌するほかない。

追記。こういうサイトもあります。わたしも署名しました。

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2008年04月12日

小川国夫氏まで…

 小川国夫氏が逝去された。80歳、まだまだ召される歳ではないと思っていたのですが…。文学関係では、今月2日に児童文学者の石井桃子さんが亡くなったばかり。大物があいついで逝かれ、まさに巨星堕つ、という感じです。もっとも小川作品をまともに読んでいない者が、こんなこと書くのははなはだお門ちがいであることは百も承知なんですが、やはり静岡県ゆかりの作家なので、座視するのも忍びない、と思ったので…(→関連記事1、→関連記事2)。

 小川氏は1956年、単車で欧州各地を放浪した体験をもとに綴った『アポロンの島』を世に問うて以来、ずっと生まれ故郷の藤枝市を拠点に活動されてきた。小川氏は生前、「故郷にあるのはことばであり、それこそが母国語であり、故郷に生きることでしか文学は生まれない」と語っていたそうですが、これはなんと深みのあることばではないですか。静岡県で文学同人活動をされている人にとって、文字どおり燈台みたいな偉大な書き手だった、という印象がある。小川氏同様、静岡で文学を志す人の精神的支柱、ということでは、おもに児童文学で活躍された谷本誠剛氏も思い出されます。小川氏はついこの前、たしか新年に地元紙に記事を寄稿されたばかりだったのに、残念でなりません(故郷藤枝には、小川氏の作品もふくむ郷土ゆかりの作家の貴重な資料を展示した文学館が昨年秋に開館している)また小川氏は、ローマカトリックの信徒でもありました。遅まきながら、氏のキリスト教関連の著作をなにか読んでみようかと思います。自分の読書の好みとして、随筆とか紀行ものが好きなので、そちらのほうも探してみようかな。とにかくいまたはただ、ご冥福をお祈りするばかりです。合掌。Requiem aeternam dona ei, Domine: et lux perpetua luceat ei. Requiescant in pace.

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2007年10月21日

あまりに早すぎる死

 JICAの青年海外協力隊員としてアフリカ・ザンビアに派遣されていた若い女性が急逝した…という記事が土曜日の地元紙夕刊一面に掲載されていて、自分もわが目を疑いました。紙面には足踏みミシンを前にして、村の娘さんたちとはちきれんばかりの笑顔を見せている写真も掲載されていました。享年26歳。神様はときとしてなんと無慈悲なのだろう。

 「しずおか異国通信」という、海外で活躍されている静岡県出身の方が寄稿する短い連載コラムがあって、たとえばパリ在住のエッセイストという女性は、「パリは表通りはきれいだが一歩路地裏に入ると犬の糞だらけ」とか、現地に住んでいる人ならではのおもしろくてためになる話が読めます。絶筆となった最後の短信文には、日本のふろしきよろしく使いようによってはなんにでも使える「チテンゲ」なる布のことを書いていました。電気・水道なしの村で、旅立つ前に習得した裁縫技術の指導にあたって現地女性の自立支援をしたり、収入向上のためのローンの仕組みづくりにも取り組んでいたらしい。

 4月、現地を訪問した妹さんに、「楽しくてたまらない」と話していたという。任期は来年3月までだったらしい。今月6日、脳内出血で倒れ、志半ばで亡くなられた。臨終のさい、ひと粒の涙を流したという。

 自分もふくめていまの日本人は、自分はなにもしない反面、人の揚げ足取りのようなクレーマーが多い気がする(そう言えばそんなお題の本がベストセラーになってもいる)。かなり昔、あるTV番組でシュヴァイツァー博士にかんするクイズを放映したとき、回答者のひとりが当時、晩年の博士を批判する風潮があったことに触れて、「なんだかんだ言ったって行動した人がいちばんえらい。よっぽど強い意志がなければ、あんなひどい状況で50年も活動できるわけがない」と発言していたのを思い出す。そう、じっさいに行動した人がいちばんえらいのです。

 とにかくほんとうに残念でならない。ご本人もさぞや無念だったろう。老若男女問わず情けない事件の報道ばかりが目につく昨今ですが、彼女のような気高い志をもった若い人はまだまだたくさんいるので、きっと彼女の遺志を継いでくれる人が現れると思います。合掌。

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2007年09月01日

サイデンさん逝く

 『雪国』、『伊豆の踊り子』など川端文学の名英訳者で、『源氏物語』の英訳など、数々の訳業を残して日本文学界に多大な貢献をしたエドワード・サイデンステッカー先生が亡くなられた。享年86。今年の春に自宅で転倒して頭部を強打、昏睡状態に陥り、そのまま意識はもどらずに召されてしまった…とのこと。てっきり元気なものと思っていただけにちょっとショックでした(→NYtimesの記事)。

 はじめて知ったけれど、サイデン先生はもと海兵隊員で、硫黄島作戦にも参加していたらしい。硫黄島、と言えば例の星条旗の写真がひじょうに有名ですが、あの写真を撮った隊員ジョー・ローゼンソールもちょうど一年前(8月20日)に94年の天寿をまっとうしたことをふと思い出した。

 永らく日米を往復する生活を送っていたけれど、昨年春に日本永住を決意されたばかりだったというのに…。

 日本人以上に日本文化にたいして造詣が深く、その博覧強記ぶりに舌を巻くような外人ならぬ「内人」とでも言うべきすごい方はほかにももちろんいるけれど、こと文学においてはサイデン先生とドナルド・キーン先生ほど傑出した人もいないと思う。ちょうどときおなじくして地元紙にはさまってくるお坊さんの書いたコラムを見たら朝青龍問題に触れて、「『日の下開山』の意義と心構えは、外国生まれには理解がむづかしかろう」との一文があったが、すぐれた文物を見抜く目をもった人ならば日本人だろうが外国人だろうが関係ないことだと思う。よくありがちな「日本固有の伝統文化は外国人には理解できない」的発想ですね。あの横綱の場合は、ただたんに性格の問題かと思う。日本文化に精通した「内人」は昔からけっこういますよ。ラフカディオ・ハーンなんかもそうですね。身近な例では、旧清水市にも「ウィーン生まれの日本男児」と言いたいくらいの日本人以上に日本人な人を紹介した地元TV局の番組を見たことがありますし(こちらはもと「ウィーンの森少年合唱団」団員だったという経歴の持ち主)。逆に、クリスチャンでもなんでもない日本人がバッハの音楽を聴いて涙するのもおなじこと。ドイツ人でなければダメとか日本人でなければダメ、ということはけっしてない。日本語についてはいまどきの人のほうが日本語がからきしできない人が多いのではないでしょうか。「トレンド」というカタカナ語は知っていても、「スウセイ」を漢字で書けないとか。以前おんなじこと書いたかもしれないが、「心のおけない友だち」をまるで逆の意味にとってしまうとか。

 そうは言っても、さしものサイデン先生をして川端文学は「翻訳不可能」と言わしめてもいる。たとえば『雪国』冒頭のあの印象深い書き出しのサイデン訳は

The train came out of the long tunnel into the snow country. The earth lay white under the night sky.

となっていて、サイデン先生は「夜の底が白くなった」の部分について、「nightとwhiteと韻を踏ませることで表現した」と述べています。とにかく翻訳に際して苦労されたことだけはたしかです(「国境(くにざかい)」ということばも英訳文のリズムを優先してあえて訳さなかったらしい)。

The quiet pond
A frog leaps in,
The sound of the water.

 こちらは有名な芭蕉の句のサイデン訳。五七五に対応するかたちで英語の3行詩にまとめています(ただし頭韻・押韻・フットは無視)。「古池や…」を'the quiet pond'と表現を変えたことについてもたしかどこかで苦労話を読んだ憶えがあります。当たり前ですが、ここをまんま'old pond'にしたらそれこそばかげていてぶち壊しです。

 知らぬ間に来て泊まっていたのかと疑って、島村がまくらもとの時計をひろうと、まだ六時半だった。(『雪国』)

... Shimamura glanced around the room, wondering if she had come in the night without his knowing it. He picked up the watch beside his pillow. It was only six-thirty.

 原作とサイデン訳とを比べてみると、日本語と英語でおなじ状況を言うのにこうもちがうのかとあらためて感じます。主語と人称代名詞の有無、文意を正確に伝える必要最低限の補充とそれに伴うセンテンス分けなど、和文英訳という観点から見てもまさにうってつけの教材でもあります。

 日本文学の英訳ついでに思い出しましたが、ある小説で、酔っ払って「トラ」になった…という箇所をなにを思ったか、「彼はtigerになった」みたいに誤訳した英訳者がいるとか。げに難しき日本語哉!!

 自分自身の勉強のためにも、ひさしぶりにサイデン先生の英訳版『伊豆の踊り子』と原本とをならべて読んでみようかな。合掌。

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2007年03月24日

ヘフリガー氏逝く

 17日、奇しくも聖パトリックの祝日にスイス出身の名テノール、エルンスト・ヘフリガー氏が故郷ダボスで亡くなった。享年87歳。急性心不全だったらしい。先月だったか、NHK教育の「思い出の名演奏」で、1992年に来日したときのもようを放映してました。歌っていたのは、すべて日本歌曲。そのときはじめて知ったのですが、ヘフリガー氏は本場欧州の超一流歌手としてはひじょうに希なことですが、日本歌曲をなんと日本語で歌う、ということを晩年のレパートリーとしてまじめに取り上げていたようです。当然のことながら当時、ヘフリガー氏のこの野心的ともいえる試みは日本の聴衆に深い感銘をあたえたらしい。じっさいにヘフリガー氏の熱演を見ていると、ドイツ人歌手が日本語で歌う、ということがまったく新奇に聴こえない。ヘフリガーと言えば、かつてカール・リヒター指揮「マタイ受難曲」での福音史家の名演ぶりがすぐに思い出されるのですが、日本歌曲を歌うその姿もじつに説得力があり、日本歌曲の普遍性、すばらしさを再認識させてくれました。あのとつとつと優しく語りかけるような歌い方が、聴く者の心を深く揺さぶります。涙が出るほど感動しました。

 昨今のテノール歌手はたいていがオペラ畑の歌手。ヘフリガー氏はオペラにも出演したけれど、どちらかと言えばドイツリートの大家という印象が強いですね。まちがいなく20世紀を代表するドイツリート歌手のひとり、と言えるでしょう。合掌。

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2006年12月23日

バーベラ氏逝く

1). 18日の地元紙朝刊の訃報欄。扱いこそ小さかったけれども、見覚えのある名前と顔写真が。アニメーション作家ジョゼフ・バーベラ氏でした。享年95歳。死因は老衰らしい。ロス郊外の自宅で息を引き取った、ということなのでりっぱな大往生、と言えるかもしれません。

 バーベラ氏、というと、往年の名コンビ、故ウィリアム・ハンナ氏(2001年に90歳で逝去)との合作アニメ作品がいくつか思い浮かびます…「スクービー・ドゥー」、「原始家族フリントストーン」、「宇宙家族ジェットソン」、「ヨギ・ベア」、「チキチキマシン猛レース」…でもなんといってもこのコンビの名声を高めたのはMGM時代に制作された「トムとジェリー」シリーズでしょう。

 自分も子どものころ、TVで再放映(何回目?)していたのをよく見ていました。10年以上前にも地元放送局が旧シリーズと新シリーズをつづけて放映していたとき、なるべくすべて録画しようとして録りためたVHSテープをいまだに何本も保管していますが、たまに見てみるとけっこうおもしろくて、懐かしさも手伝ってついつい見入ってしまいます。いまにして思うと、この「トムとジェリー」シリーズを通してはるかな大国アメリカとその文化というものを知ったような気がします。アニメというといまや日本発の作品が世界中を席巻している感ありですが、かつて漫画(cartoon)とアニメーションは、実写映画とならんで米国大衆文化の象徴的存在のように評されていました。自分にとっての「トムとジェリー」はまさしくそんな作品。たとえば上下べつべつに動くあの妙ちきりんなドア。たいてい体の大きなトムのほうが痛い目にあわされるのですが、あれがDutch doorなる代物だと知ったのは高校生になってからでした。オイルヒーターやディスポーザーなどをはじめて知ったのもこの「トムとジェリー」から。でも短編映画として製作された初期シリーズは日本と米国が戦っている最中の作品なので、たとえば中間部に挿入される独立した短編には「引退したB-29」の一家、なんてものも登場したりで時代性が反映した作品もひじょうに多いし、当時の米国人の理想のライフスタイル観がどんなものなのか、考現学ふうに見直してみるのもおもしろいかもしれません(ちなみに好きな作品はトムとジェリーがたまさか「休戦」する「メリークリスマス!」とか、ジェリーの親戚ペコスおじさんがドタバタを巻き起こす「ひげも使いよう」、主役ふたり(二匹?)は出てこないけれども「へんてこオペラ」は最高に笑えます)。

 国内の多くのニュース配信サイトでも、「トムとジェリー」生みの親の死について報道していますが、NYTimesの訃報記事によると、アニメーターになる前は銀行勤めのほかにも脚本を書いたり、なんとアマチュアのボクサーだったときもあったり(コナン・ドイルもボクシングはかなりの腕前だった)と、いろいろな職業を経験していたみたいですね。

 …国内でもここのところ訃報があいついでいますが、下田海中水族館に36年ものあいだ「勤続」していた雌のオキゴンドウ「ジャンボ」までとうとう逝ってしまった。何度か城山の麓、深い入江にある水族館に行って「ジャンボ」もふくめたイルカショーを見たりしたので、やはり寂しい。

2). …きのうのNHK-FM「ミュージックプラザ第1部 クラシック」。オールクリスマス楽曲で、帰宅してすぐラジカセの電源を入れるととたんに聞き覚えのある歌声が。ひさしぶりにBACのMerry Christmasの収録曲を聴きました。書棚から、ニューカレッジの演奏会場で買ったCarols for Christmas Morning と女子パウロ会が出している「オルガン選曲集/ヨーロッパのクリスマス」、それと山野楽器で買ったハノーファー少年合唱団の歌とナレーションの楽しい「降誕物語」とBACのアルバムも取り出してみる。これからえんえんと聴いてみようかな。

 …そういえば夕方6時前、オランダ・アルクマール(ヴァルヒャが2度目のバッハ・オルガン作品全集の録音のときに弾いたシュニットガー改作の歴史的オルガンがある街)のチーズ造りの話を放映していたとき、おお、これまたどこかで聴いたことのあるソプラノヴォイスが…と思っていたら、懐かしのリアム・オケインではないですか。流れたのはたしかR.シュトラウスの「あすの朝」だったと思います。

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2006年11月04日

巨星堕つ

 白川静先生が亡くなられた。先月30日のことだったらしい。

 齢96にしてなお現役の漢字語源研究者で、地元紙にも「白川博士の漢字ワールド」という、NIE(「教育に新聞を!」運動)協賛の特集記事をときおり掲載して、そのつど自分も「へぇ〜!!」と感心しきりだった。

 白川先生についてはNHKの特集番組かなにかで見て知った、というていど、『字統』のみ図書館でちょっと閲覧したていどなんですが、その学問研究にたいする真摯な姿勢と言うか、求道者という言い方がぴったりな「わが道をゆく」的な物腰がなんともカッコよくて、日本にもこんなすごい大先生がいるんだと強く印象に残っています。NHKテレビで見たときは、京都のご自宅書庫で文字どおり古今の漢字学文献に埋もれて虫眼鏡片手に黙々と研究をつづける姿、午後3時きっかりに「哲学の道」を散歩される姿が映し出されて、その規則正しい生活ぶりはどこかカトリックや正教の修道士然としていた。漢字語源にかんする分野の研究はほとんど白川先生が独力で切り開かれたようなものなので、いわゆる「学閥」とも無縁で、その意味でも真の学究者だった。また漢字の成り立ちについての解説もほんと「目からうろこ」で、これまた驚かされることが多かった。最近、英語学習でも「語源」から系統立てて学ぶことの重要性が説かれているけれども、漢字もまたしかりで、小中学校の国語とくに漢字学習もたんに暗記するばかりではなくて、もっと「漢字の成り立ち」から芋づる式につながるような教授法にしなければほんとうに身につかないのではと思う(自分自身、漢字のど忘れのひどいことは棚にあげてはいるけれどorz)。ことばの学習では、なんの脈略もない単語どうしをいっぺんに覚えようったって生理的に受けつけないのでテストが終わればすぐに忘れてけっきょく非効率。やはり「語源」とか、「成り立ち」とかで系統立てて学習したほうが、一見回り道に見えて一番の早道のような気がする。ことばは歴史・文化にほかならないのだから、いくら語彙が豊富でも、ことばの周辺領域まで学ばなければそれこそ「木を見て森を見ず」で終わってしまうでしょう。

 …と思っていろいろ検索して見たら、なんとおあつらえむきにこんな記事が。そうそう、これこそ理想的な学習法ですね。たんなる詰め込みではだれだっておもしろくもなんともないけれども、漢字の成り立ちをわかりやすく説明することから入れば自然と興味がわいてくる、興味がわけば自分からその先が知りたくなる。子どもってそういうものだと思います。

 「お釣りは…からになります」、「あちらで…お伺いください」などヘンテコな日本語がまかり通り、「心のおけない親友」がまったく逆の意味に取られたりと、日本人相手に日本語が通じなかったりするこのご時世に、またひとり偉大な「ことばの教師」が逝ってしまった。合掌。

 …それと直接関係はないけれど、文学つながりでは『ソフィーの選択』で有名な米国人作家ウィリアム・スタイロン氏も1日に逝去されたとのこと。享年81歳。

 …ついでに有名なことではあるが念のため。「目からうろこ」は聖書(新共同訳版)「使徒言行録」第9章18節、「すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった」から派生した表現です(サウロは偉大な伝道者聖パウロのもとの名)。ついでに「豚に真珠」も。有名な「山上の説教」でイエスが述べたとされる説教から(「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう」Matt.7:6.)。

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