2020年05月31日

ネット時代のパンデミック

 TV や新聞などで新型コロナ感染症(COVID-19)関連の報道があると、決まって「米ジョンズ・ホプキンズ大学によると」が、枕詞のように出てくる。そのソースとなっているのがこちらの特設サイトで、じつは 3月9日時点の拙記事で張った参照リンクも、じつはココでありました。個人ブログとしては、国内でもわりと早くここのサイトをリンクというかたちではあるが引用したんじゃないかなって思ってます。

 最近、COVID-19 関連で検索すると、「COVID-19 に関する注意」という但し書きがやたらと出現する。それだけデマないし「裏をとってない」信憑性の疑わしい情報源の引用が多い、ということなんでしょうが、統計数字にかぎって言えば、もし上記の同大学特設サイトを引いていないような Web サイトやブログ、ツイートだったら、話半分に聞いておくていどでよい、ということです。

 ところでここのサイト、地元紙とほぼおなじ内容のこちらの記事によると、同大学システム科学工学センターの女性准教授と、中国出身の大学院生のおふたりがたったの半日(!)で完成させ、公開にこぎつけたものだったらしくて、そっちにもビックリした。いまさっき確認したところ、3月投稿時とレイアウトがまったく変わってないことから、特設サイトの完成度もけっこう高かったんじゃないかって気がします。とにかくこれすごいですよ。数字関連で確認したいとき、ここの特設サイトは must です。

 COVID-19 がらみでは、なにかと評価の芳しくない日本の対応。厳格なロックダウン下に置かれたロサンゼルス市内に家がある超有名邦人アーティストには、「[日本は]狂ってる」とかなんとか言われたり。たしかに向こうの基準ではなにやったってそう見えるだろうし、「三密は避けましょう」などと、あいも変わらず曖昧な言い回しで茶を濁すのが大好きな国民性ですので、内心、忸怩たる思いはあるものの、かろうじていまのところは最悪のカタストロフィは回避できてるのかな、と。ただ、「第2波のただなかにいる」と発言している首長さんがおられますが、実態はただの「再流行」的なものであり、未知の感染症エピデミック / パンデミックの「第2波」と同一ではない、ということだけは言いたい。ほんとうの「第2波」は、残念ながらこれから襲来すると思う。高温多湿の真夏の日本でこのウイルスの活動がどうなるのかは神のみぞ知る、としか言えないものの、とにかく「第2波」が来る前にワクチンが開発されるようにと、それだけを祈っている。

 祈ってはいるけれども、ワタシは例の江戸末期の「疫病退散」妖怪ブームについては、なんだかなあ、と思ってしまう。英国発祥という医療従事者への拍手、もいいけれども、もっと大切なところはそこじゃないだろ、と感じてもいる。医療や介護、あるいは物流の過酷な現場で働かざるを得ないいわゆる「エッセンシャルワーカー」に対する世間の人びとの態度もまた、失望させられることのほうが多い。いまさっきも英 Financial Times 見てたらこんな記事があって(下線強調は引用者)、
Other ordinary jobs are suddenly perilous too. Chefs, security guards, taxi drivers and shop assistants are dying at higher than average rates from Covid-19 in the UK. The British government, desperate to revive the economy, has told millions to return to work. Little wonder many are scared to do so.
失職して困ってる人にとってはつべこべ言っていられない、というのが偽らざる気持ちとしてあると思うが、そう、そこなんですよね、この新型感染症のほんとうにコワいところは。この前、いつも行く理髪店で散髪してきたとき、ご主人はマスクだけでしたが、そのうちあのアクリルシールドもかぶらないといけなくなるかもしれないし、こっちもマスクがはずせなくなるかもしれない。あるていどは「新型コロナ禍以前の日常」にもどれるかもしれないが、パンデミック以前の世界は二度ともとどおりにはならんでしょう。こちらの意識を徹底的に変えるほかない。

 最後に、こちらの番組の感想をすこしだけ。気がついたら、未知の感染症パンデミックに世界が覆われていて、いままで当たり前だと思っていたことがつぎつぎと変更を余儀なくされる、あるいはまったく不可能になる。そんな「不安な時代」であっても、やはり人は「パンのみに生きるにあらず」な生き物ですので、どうしても精神を支えてくれるものが必要になる。クラシック音楽家も容赦なくこの感染症禍に見舞われて世界的に仕事が蒸発して、にっちもさっちもいかなくて困ってる人もいれば、自宅隔離状態になっている人もいる。

 でもたとえば、いまはやりの「Web 会議システム」とかを駆使して、活動休止中のオーケストラ団員が指揮者もいないまま在宅で、ロッシーニの歌劇『ウィリアム・テル』の「序曲」を奏でる、というのはなんとすばらしいことだろうか! そしてこれを動画配信サイトで全世界に向けて発信し、いままでクラシック音楽に縁のなかったリスナー層を取り込むことに成功してもいる。

 総じて、社会インフラとしてのインターネットの普及と、それを支える技術の急速な進歩によって、30 年くらい前までは実現不可能だったことがいともあっさりとできちゃったりするから、そういう点ではひじょうに恵まれていると言える。翻訳の仕事だってぜんぶネット経由で訳稿の納品ができますし(というか、紙媒体の納品はありえなくなっている)。その気になればなんだってできると思うんですよね。文字どおり empowerment だと思う。もっともオケなんかはやっぱりコンサートホールのライヴを聴くにかぎるんですが、たとえネット経由であっても、ひとりひとりの「想い」が真摯でパワフルであれば、それは聴き手にもズキューンと伝わると思うのです(個人的には、演奏家の自宅が映し出されるのも新鮮な感覚あり。とくにジャン・ギアン・ケラス氏のフライブルクのお宅の部屋、インスタのストーリーズに公開してもおかしくないほど「映え」てましたね)。

 その音楽はもちろんなに聴いたっていいんですけれども、かつて自分が病気で臥せっていたころは、ヘルムート・ヴァルヒャの弾くバッハのオルガン作品集の LP レコードが心のよりどころで、ヴァルヒャによってバッハ音楽の深淵な世界に誘われた気がする。上記番組では、世界に名だたる演奏家のめんめんがそれぞれの「想い」を胸にベートーヴェンやドビュッシー、フォーレの楽曲を演奏していたんですが、演奏してくれた全 10 曲中なんと 4曲がバッハだった。そう、こういうときこそバッハなんだよ !! 庄司紗矢香氏は「毎朝、瞑想と自分に向き合うために」バッハの一連の『無伴奏』ものを弾く、とおっしゃっていた。ピアノのラン・ラン氏はバッハ弾き、というイメージがあまりなかったんですけど、こんなご時世ではやはり「宇宙を思わせるバッハの音楽」一択、という趣旨のことをおっしゃっていて、バッハ好きとしてはたまりませんでしたね。

posted by Curragh at 03:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近のニュースから

2020年04月27日

トム・ハンクスとタイプライター

 COVID-19 がこれほどまでに世界で猛威を振るう、いわゆるパンデミック禍になろうとは、そしてつぎつぎと著名な音楽家や芸能関係者が斃れるとは、ほんの数か月前までだれひとり予測した人なんていなかっただろう。

 そんななか、米国の名優、トム・ハンクス氏も奥さんとともにこの新型コロナに感染した、との一報を聞いたのは志村けんさんが急死するすこし前のこと。それから …… 日本国内でもこの 21 世紀型疫病のパニックとでも言える状態に陥り、あれほど「PCR の全員検査は必要ない!」と、国民のほうではなく医師会(?)のほうしか向いてないのではという不可解な発言をワイドショーで繰り返していた某医師(といっても、現場には立ってないのね)が、ここにきてヤバいとでも思ったか、「PCR 検査を増やすべき!」旨に宗旨替えしたりと「専門家の言」なるものがいかにアテにならないかの証左を 2011 年3月のときとおなじく見せつけられたりと、ホントしょーもなく暗い話ばかり、出るのはお足とため息ばかり、な今日このごろではあるが、ここにきてふたたびハンクス氏のお名前を見かけて? と思ったら、この窒息状態をつかのまスカっと吹き飛ばしてくれる、なんとも heartwarming なすばらしいお話をおみやげに持ってきてくれた。

 ハンクス氏が COVID-19 に罹患したのは映画の撮影で訪れていたオーストラリア。で、全快(?)したのかな、とにかくお元気になられたハンクス氏のもとに、地元の8歳の小学生から手紙が届いた。なんでもその子はコロナという名前を持つ少年で、ハンクス氏の体調を気遣ったあと、パンデミックを起こしている新型肺炎ウイルスとおなじ名前のために学校でいじめられて悲しい、とあった。そしたらハンクス氏直筆の返事が来まして、自身が吹き替えで出演した有名なアニメ映画の科白の「ぼくはきみの友だち('You got a friend in ME.'、ついでにここの in は「なかで」ではなく of とおなじ同格の in で、字義どおりには「わたしという友だち」になる)」まで引用して(ワタシは有名な歌のタイトルを引いたのかと思った、どっちでもよいが)、なんとなんと、マニアなら垂涎の的であろう、スミス・コロナ製の手動式タイプライターまでプレゼントしちゃったんである !!! 

 ご本人のインスタ投稿、見たんですけど、なにこれスゲー、グランドピアノよろしくピッカピカじゃん!、とガラにもなくコーフンしまして、「にわか」タイプライター好きになってしまったほど。たまたまいま手がけている仕事がまさにそんな話だったものだから、よけいにうれしくて、文字どおり快哉を叫んでましたね。

 知ってる人は知ってるが、じつはハンクス氏、超がつくほどのタイプライター好き。好きが高じて買い足し買い足ししたタイプライターのコレクションなんと 180 台、らしい(新潮クレスト・ブックス特別冊子『海外文学のない人生なんて』インタヴュー中の、ご本人の弁から。ちなみに作家デビューもしており、短編集『変わったタイプ[2018]』が同叢書から出てます。カッコイイ人ってのは、なにやってもサマになるんですなぁ)。

 ハンクス氏、ついでにコロナ少年もタイプライター沼に道連れ(?!)にしようというのか、「使い方をまわりの大人に教えてもらって、返事を送ってね ♪ 」と返信まで所望。このサプライズにもちろんコロナ少年は大喜び、公開されている動画クリップとか見ますとほんと瞳を輝かせ、嬉々として黒光りする名機で 'Dear Tom,' と打ってました。

 ちなみにスミス・コロナやレミントンランドはタイプライターの製造元として一世を風靡した事務機器メーカー。年代ものの手動式完動品は中古のノートPC なんかよりはるかに高くて、きっとこれもお高いんだろうなぁ、となんか下世話なことも思ってしまったしだい。ワタシだったら、仏語や独語などで使用される「アクセント記号」も打てる「デッドキー」を備えた欧文仕様タイプライターがほしいかも……インテリアどまりになりそうですがね。

posted by Curragh at 18:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近のニュースから

2020年03月09日

沈黙の春 2020

 世界保健機関(WHO)のお偉いさんが、「新型肺炎ウィルス[COVID-19]の世界各地における epidemic な流行のため、医療用マスク供給に数か月の遅延が発生している。だから "widespread inappropriate use" はやめるように」と、記者会見で発言していたらしい(誤解なきようここでも断っておきますが、今回の事態はまだ世界的大流行、つまり pandemic ではなく、リンク先記事にもあるように現時点はまだ "the coronavirus epidemic" にとどまっている。世界における COVID-19 のリアルタイムの状況についてはこちらを参照)。

 こんな物言いを聞くと、世界的なマスク不足がなんかワタシのような花粉症持ちの人間のせい、みたいな言い方のようでちょっとどうかと思ったり。メディアもメディアで、このエチオピア人の WHO トップのとなりに座ってたライアンという人が、「マスクをしたって予防にはならない」と発言しただけなのに、なぜかマスクは不要なのかという、「マスク不要論 / 役に立たない説」に加担しているしまつ(そうは言ってない)。

 基本的に欧米の人ってよっぽど具合が悪くならないかぎり、マスク着用の習慣がないし、もしマスクつけて外を歩けば、とたんに白い目で見られる国がほとんど(聖ブレンダン関係で大のアイルランドびいきだけれども、この件についてはおそらく似たかよったかでしょう)。

 前出の「ガーディアン」記事を見るかぎり、この発言は「医療従事者でさえマスクや防護服が足りなくてたいへん困っているから、ほんとうに必要ではない人は使用するな」という趣旨だったことがわかる。なのにメディアやワイドショーではさも「WHO トップが《マスクは不要》と言っているが … 」みたいな振り方をしている。fake news ってこうして始まるんですな。

 新型肺炎騒動は収束するどころか、世界経済全体にも暗い影、『スター・ウォーズ』シリーズじゃないけどまさしくPhantom Menace となって覆いはじめた感がある。専門家でさえ意見が1週間前と後で変わってたりして、とにかくシッポをつかむのがこれほどむずかしい、タチの悪いウィルスははじめてだ。そうは言っても、いくら SARS の経験が日本国内でなかったからとはいえ、SARS 禍を経験済みの台湾[中華民国]はそれなりに成果を上げているのだし、日本ももっと学ぶことはあると思う(ついでに、いまのお医者さんはかつての肺結核も含め、感染症の恐ろしさを肌身で知らない人がほとんどだということも、対策が後手後手に回った一因かと個人的には感じている)。

 今回、こうした事件が起きてもっともつよく感じたのは、人間という動物の本性。自他ともに認める西洋かぶれでさえ、たとえばローマのサンタチェチーリア音楽院の院長みずから、「東洋人学生のレッスンはすべて停止する」旨の通達を出した話にはポカンと口が開いてしまう。ふだんはオクビにも出さないくせに、いざこういうことになると手のひら返して「ウィルスだ、ばっちぃ !!」とわめきたてる大衆。もっとも人種偏見は日本人も人のこと言えないから、こういうときはあるていど起こることなのだろうが、言われたほうはたまったもんじゃない。

 また、こうした浮足立っているときは必ずと言ってよいほど、根拠のないデマが流れる。今回もまたしかりで、いつぞやの石油ショック(!)よろしく、トイレットペーパーがまたぞろ店頭から消えた。なんでこうなるのか、ホントこちらの理解を超えているのですけれども、歴史を顧みれば、とにかくこういうことが繰り返されてきた(メアリ・ヒギンズ・クラークのスリラー小説『子どもたちはどこにいる』に、ほぼ 100 年前にパンデミックを起こしたインフルエンザ「スペインかぜ」のことが出てくる。よもや 100 年後にこんなことになろうとは …)※。

 こういう「不安な時代(ハイドンの作品に、『不安な時代のミサ』というのもある)」に決まってぞろぞろ現れるのが、デマゴーグ、そして火事場泥棒を働く者たち。たしかに首相の判断はクソだった。なにいまごろ入国規制してんだよ。ごもっとも。でも、あなたはどうなんですか、という問題も忘れてはならない。個人を責めてるんじゃない。たとえば仕事ならしかたないところもあるが、この時節柄に遊びでとなりの国に行ってきて、いざ帰ろうとしたら日本政府側から足止めされて困った、とはどういうことか。門外漢にはまるで理解しがたし。自分ごととして考えてないからなんでしょうね。

 30 年くらい前だったか、パレスティナとイスラエルがドンパチやっているその「戦闘」のただなかに、これまたなぜか? 日本人の新婚さんらしいカップルがふらふらっとやってきた。それまで撃ちあっていた双方の兵士が呆気にとられ、なんとも間の抜けた空気が流れた「珍事件」があった、という話を読んだことがある。ホントかどうか、確かめようがないけれど、もしこれが事実ならばこの話ほど日本という島国に生まれ育った人間の本質があぶりだされている話もないではないか、って思う。はっきり言いますが、いまこのときに、人類にとって未知の新型感染症が地域的流行を起こしている国や地域に行くべきなんでしょうか? 他者を責める前にいま一度、よくよく考えてくださいね、というのがウソ偽りない気持ちではある。

 子どもたちも気の毒だし、なんたって受験シーズンを直撃した今回の新型ウィルス禍。春のセンバツをはじめ大相撲やマラソンが縮小開催されたり、人の集まるイベントは軒並み中止、まるで9年前のあの日のようだ(原発処理もまだまだなのに…)。その追悼式典まで中止になってしまった。

 はやく混乱が収まることを祈るしかないが、最後に、日本とおなじく一斉休校措置となったミラノの校長先生が、イタリアの文豪アレッサンドロ・マンゾーニを引いたメッセージには胸を突かれる思いがした ──
外国人に対する恐怖やデマ、バカげた治療法。ペストがイタリアで大流行した 17 世紀の混乱の様子は、まるで今日の新聞から出てきたようだ」。

※ …… 引用書名をカン違いしていたため、悪しからず訂正しました。
posted by Curragh at 15:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近のニュースから

2020年02月20日

『ラブライブ!』は、遊びじゃない!! 

 先週末、前にも書いたとおり『スター・ウォーズ エピソード9』と『ラブライブ! サンシャイン!! Over the Rainbow』の 11 回目鑑賞をしてきたばかりというのに、こんなニュースがそれこそ「藪から棒」に飛びこんできた。

 まず結論から申し上げると、個人的には猛烈に怒っている。というか、いまから 85 年前にスペインの思想家オルテガ・イ・ガセット(1883−1955)が代表作『大衆の反逆』で書いたような、そのまんまの展開に戦慄さえ覚えた。こんなことを野放しにしていたら、芸術文化活動全体に波及しかねない。というわけで、この悲しいニュースを知ってからはずっと悶々として過ごすこととあいなってしまった。

 こんな「フェイクニュース」の発信源はだれか、はこのさいどうだっていい。知っている範囲で書くと、「多様性」と HN に謳う一個人が、悪名高き SNS の Twitter(ほら出た …)上で、「なんでこのポスターに描かれている女の子のスカートは透けているの…?」とじつにかる〜〜い、のほほんと発信した一文がことの発端。するとこの「声」に呼応するシス・エターナルよろしく、非難の声が澎湃(どうせ読めないだろうからルビィちゃんふっとくわ、「ほうはい」ね)と同 SNS 上で沸き起こり、とうとう当事者の JAなんすん(ご苦労さまです)がすべて撤去した、というもの。フェミニストだかなんだか知らんが、この人たちの炯眼ぶりには『トムとジェリー』じゃないが、アゴが地べたにくっつくほどに、まっこと驚くほかなし。JA さんにはせめて、「安心してください、穿いてますよ!」のユーモアひとつくらい、あってもよかっただろう。

 彼らの主張ないしその結果について、問題点がいくつかある。まず、1). 非難の矛先を向ける先をまちがえている。「描き方が不穏当」と言いたければ、どうぞ制作会社にその旨お伝えください。不特定多数の第三者に向かってこういう不用意な発言をして知らんぷり、というのは、まさにオルテガの言う無責任な「大衆」そのもの。いや、これは「一億総トランプ化」なのか(ワタシが小学生だった当時、下田市にやってきたジミー・カーター元米国大統領は現職大統領に対し、「Twitter をやめろ!」と言ったそうな。むべなるかなではある)? 
…… 社交においては「礼儀作法」が姿を消し、文学は「直接行動」として罵詈讒謗に堕している。……
 手続き、規則、礼儀、調停、正義、道理! これらすべてはいったい何のために発明されたのだろうか。…… 文明とは、何よりもまず、共存への意志である。人間は自分以外の人に対して意を用いない度合いに従って、それだけ未開であり、野蛮であるのだ。野蛮とは分離への傾向である。だからこそあらゆる野蛮な時代は、人間が分散していた時代、分離し敵対し合う小集団がはびこっていた時代であったのである。
──── オルテガ・イ・ガセット / 神吉敬三 訳『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫刊、いつものように下線強調は引用者)から

 2). 「表現の自由」=何を言ってもかまわない、匿名なら何を言ってもおとがめなしと思いこんでいる。かつてアイルランドのケルト人氏族は、人間のことばの持つ力をたいへん恐れていた。相手を呪えばその呪いが矢となって相手を射抜くとさえ考えていた。ひるがえって SNS 全盛のいまはどうか。情報が情報が、と言いながら、そのじつ情報の最小単位たる「ことば」がこれほど軽んじられ、悪用されている時代などかつてなかったのではないか。Twitter に関してはホントは言いたいことがいろいろあって、それはまた別の機会に書くつもりだが、よく耳にする「災害時に威力を発揮する」なんていうのも幻想に近い。最近の身近な例を引くと、台風 19号が伊豆半島に上陸したとき、「狩野川の氾濫が始まったようだ」というデマを見かけたことがある。北伊豆地区を中心にたしかに甚大な浸水被害は出たけれども、じっさいには「内水氾濫」のたぐい。狩野川の堤防はしっかり持ちこたえていた、なんてことがありました。こっちも垂直避難を考えていた矢先だったので、さすがにこのツイートには凍り付いたが、こういうときにもっとも役に立つのは TV の「データ放送」だ、ということを再認識させられた。もっとも Twitter だってツールですので、「助けてくれ!」と発信すれば、だれかの目に留まる可能性はある。でも、個人的にはこういうじつにクダラナイことでただ無益に時間を浪費するだけの壮大な資源と労力の無駄遣い、という印象しかない。人生はあっという間に終わるよ。

 以前、おなじ SNS 投稿の内容でも Twitter と Instagram でその反応が正反対になった、という海外のおもしろい報道を読んだことがあります。前にも書いたかもしれないが、写真好きなワタシは Instagram はけっこう好きでして、ヒマなときはよくみなさんの作品とか見ていたりする。おなじ SNS でなんでこうも反応が分かれるのかっていつも感じるんですけど、ひとつは「文字ならだれでも表現可能で、すぐ反応があるから」というのがその根底にあるように思う。写真ってだれでも撮れるようでいて、そうでもない(もっとも、日本人だから日本語の文章を書くのはかんたんだ、と思ったらそれはちがう。いまじゃ漢字も知らず、「心のおけない」も誤解する読み手が大多数で、国籍不明語ばかりが跋扈する)。

 3). 一連の示威行為は威力業務妨害。一部の悪質なクレーマーのせいで、ほんらい、果たすべきタスクが正常に終わらない、もしくは遅延を被った場合、これは威力業務妨害ではないのか。あろうことか、弁護士を名乗る人間まで、「スカートが透けている」に乗っかって攻撃している。そこで先生方にお尋ねしますが、あなたがた、高海千歌のスカートが「透けて」いるのはだれが見てもまぎれもない「事実」でしょうか? あるいは、この PR ポスターのせいで、だれかが明らかに損害や苦痛を被りましたか? 法廷ではこういった事実の「証明」が必須かと愚考しておりますがいかが? もしあなたがたが証明できない場合、あきらかな「誹謗中傷」に当たりませんか? 弁護士って人権とか差別とか、まずもって弱者を擁護する側であって、「多数という驕り(「100分 de 名著」NHK テキスト『大衆の反逆』の表紙から)」に味方することではないと思いますがいかがですか。

 最後に、この『ラブライブ!』シリーズを誤解している向きがホント多くてそっちにも驚いている。聖地民のひとりとしてこの作品を通じて個人的に感じたこと、それは劇場版『Over the Rainbow』で Aqours のメンバーのひとり、渡辺曜のいとこの渡辺月の科白とまったくおんなじことだ。
気づいたんだ。ぼくたちはなんのために部活をやってるのか。父兄の人たちも。…… 楽しむこと。みんなは、本気でスクールアイドルをやって心から楽しんでた。ぼくたちも、本気にならなくちゃダメなんだ。そのことを Aqours が、Saint Snow が気づかせてくれたんだよ。ありがとう ……

 2018 年の暮れ、Aqours の声優さんたちが紅白のアニメ枠で出場したとき、さる女性芸能評論家が作品を観たこともないのに、「メイドカフェみたいな格好で出場するとはどういうことだ」とコキおろしていたことがあった。こういうのを偏見差別と言うんじゃないですか。オタクがどうのこうのとのたまうのも侮蔑表現やね。あなたたち一度、ここ沼津に来て視察でもなんでもすればよろしい。地元の人間からクレームが出ていないのに、あることないことないまぜにしてフェイクニュースをばら撒き、せっかく築き上げてきた「宝物」をこれ以上、ぶち壊しにする権利などだれにもないはず。この作品をきっかけに結婚された方、移住された方、写真をたくさん撮って地元民でさえまるで気づいていなかったすばらしさを表現してくれた方、ドイツやポーランド、香港からはるばる「なにもないところ」だと思いこんでいたこの街に「まちあるきスタンプ」や缶バッジをたくさん付けて観光に来てくれる海外のファンに対し、失礼だと思わないのか。また彼らは、長井崎のすぐ下の入り江に停泊していた「スカンジナビア」号の思い出さえ、蘇らせてくれた(「浦の星」の「星」は、おそらくスカンジナビアのもとの船名「ステラ・ポラリス[北極星]」からではないかと言われている。また TV アニメ第2期オープニングに登場する「桟橋」状の背景も、かつてスカンジナビアにつながっていた桟橋がモデルらしい)。それが、自称「おもてなし」精神の民族の態度なのか。片腹痛い、片腹痛いですわ! 『ラブライブ!』は、遊びじゃない!! 

 不肖ワタシだってこの作品に出会い、芹沢光治良から内浦の地理・歴史にいたるまで、制作スタッフのリサーチの本気度の高さに心打たれて、こちらの記事でも書いたように、『《輝き》への航海 ── メタファーとしての「ラブライブ! サンシャイン!!」』という小冊子まで書いてしまった。それもこれもみな、「楽しむこと。みんなは、本気でスクールアイドルをやって心から楽しんでた。ぼくたちも、本気にならなくちゃダメなんだ」ということを教えてもらったからだ。
「生き生きとした人間が世界に生気を与える。これには疑う余地はありません。生気のない世界は荒れ野です。…… 生きた世界ならば、どんな世界でもまっとうな世界です。必要なのは世界に生命をもたらすこと、そのためのただひとつの道は、自分自身にとっての生命のありかを見つけ、自分がいきいきと生きることです」────ジョーゼフ・キャンベル、ビル・モイヤーズ / 飛田茂雄 訳『神話の力』から
 ひとつ補足事項。Aqours の前の物語の主人公 μ's を描いた『ラブライブ!』でも、やはりネットのデマで炎上した案件があったらしい。また、「卑猥だ」と言っている人は、こちらのキャラについてはどう思ってんのだろうか。

posted by Curragh at 14:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近のニュースから

2020年01月20日

Ghosn is GONE !! 

 年末年始、↑ の方のかなり長め(原文で約6千語)の取材記事を訳出していたちょうどそのとき、ま・さ・か・の海外逃亡劇発生! で、こちらの予想どおり(?)クライアントさんから「悪いけど最短で入稿してほしい」旨の督促が。というわけで、短時間勤務 + こっちの納品で正月どころか、ホントぶっ倒れそうになりました。orz

 で、ワチャワチャしながらも入稿した訳出記事が、やはり年末年始もっとも注目された国内ニュースのひとつなのはまちがいない、ということもあってか、いわゆる「ヤフトピ」にも転載されてました。自分が手がけたこの手の翻訳仕事で「ヤフトピ」さんに転載されるのはこれまでも数回、あるにはあったが、なんせ日本中の人を敵に回したかのようなこのトンデモおっさんのトンずら劇のこと、コメントがハンパない(ずらぁ〜!)。

 こちらがこさえた訳文にはもちろん編集の手が入って、チェックも受けて晴れて掲載、とあいなるのですが、以前にも書いたように「全訳一挙掲載!」のようにとくに断わりのない邦訳記事はすべて「抄訳」扱いになります。だからといって原文を書いた記者ないしコラムニストの言っていること、趣旨じたいには影響のないように微妙なサジ加減はしっかり利かせているので、とんでもなく論旨からかけ離れた、明らかに別物、というのはほとんどないはずです。

 ただ、今回のような急ぎの仕事、たとえば出版系なら映画の原作ものとか「著者来日、緊急出版!!」みたいなたぐいにはある意味しかたないかもしれないが、その限りではない。昔の実例だと『大国の興亡』なんかが代表例かもしれませんが … このへん、翻訳者の仕事を奪うのではと危惧されてもいる AI とか、MT と呼ばれる機械翻訳テクノロジーがさらなる進化を遂げれば、現在ではとうてい不可能な短期間の納期でそれこそ「早い、安い、うまいラーメン」よろしく、「へい、一丁あがり!!」な翻訳商品を仕上げられるようになるのかもしれません。もっとも、どうなるのかはわかりませんけれども。

 転載記事のコメント欄ですけれども、内心、ちょっとドキドキしつつも拝見させてもらいました。で、思ったんですが、記事の内容よりも、日本語版の記事タイトルがお気に召さなかった方がたくさんおられたようでして、「大企業のトップに友だち、ハァ ?! なに言ってんだこの記者、大企業トップが孤独なのは当然じゃんか !!」といったお叱り(?)にも近い指摘がほとんどだった。言っておきますが、タイトルは編集サイドが考案したもの。で、翻訳本のタイトルもほぼ九割は、編集サイドが「売れるように」と知恵を絞って考えだしたもの(Webメディアだと、いわゆる SEO 対策みたいなことになるのかと思う)。で、翻訳者はとにかく中身で勝負、記事本文を、理想を言えば「鏡写しにしたような」日本語訳文に落とし込むのが仕事になる(こちらがまだまだ未熟者なのか、それともよほどの手練れでないと到達不能の境地なのか、いまだに「鏡写し」的な出来栄えとはほど遠いのは日々、反省しきりではありますが)。

 で、みなさんのコメントに目を通しているうちに一点だけ引っかかったコメントがありまして、引用記事はとうに削除の憂き目にあっているものの、ここですこし言い訳をしておきます。

 問題の個所は(下線強調はいつものように引用者)、
この状態は 2020 年以降も続くはずだった。2つの公判のうちひとつが春から開始され、検察と日産の元同僚側は、会計上の広範な不正行為と、企業の資産を私的利益のために横領したと訴える予定だった。対してゴーンの弁護団は、不正行為はいっさいしていないと反論し、自分はルノーとの合併に反対する日産経営陣および日本政府の策略にはめられた被害者だと主張するつもりだった。いずれの公判でも有罪が決まれば、ゴーンは 2020 年代を日本の拘置所で過ごす可能性が大きかった。
ついでに自分が書いたのはこっち ↓
この状態は 2020 年以降も続く。ふたつの公判のうちひとつが春から開始され、検察と日産の元同僚側は、会計上の広範な不正行為と、企業の資産を私的利益のために横領したと訴える。対してゴーンは不正行為はいっさいしていないと反論、自分はルノーとの合併に反対する日産経営陣および日本政府の策略に絡めとられた被害者だと主張。いずれの公判でも有罪が決まれば、彼は 2020 年代を日本の拘置所で過ごすことになるかもしれない。

[原文記事]... These conditions will persist well into 2020, when Ghosn begins the first of two trials for what prosecutors and his former colleagues at Nissan call a pervasive pattern of financial misconduct and raiding of corporate resources for personal gain. He denies wrongdoing, saying he’s the victim of a plot by Nissan executives and Japanese government officials to prevent further integration with Renault. A guilty verdict in either case could put the 65-year-old in a Japanese prison through the 2020s.

「はず」、というのはもちろん、当の本人がズラかったから編集サイドで追加したんでしょう。コメント主の方がミソをつけたのは、「起訴事実に横領はないはず」という点。たしかにそう。でも原文を見るかぎり、かなり強い言い方を使ってます。なのでその「勢い」を伝えたくて、ここはズバリ「横領」、ようするに会社のカネをネコババしたという表現を使ったしだい。

 刑事事件関係に詳しい向きは目くじら立てるところかもしれない。たとえばこちらの記事に書いてあるように、厳密に言えば「横領」と「流用」の定義はちがうし、横領に当たる正式な用語の英語表現は embezzlement になる。でも raiding、つまり「盗み取る」という言い方を使っている以上、さすがに「盗み取った」はキツいので、「横領」という訳語を充てることにした、ということです(名詞の raid には警察のガサいれ、手入れという意味もある)。

 大半のコメントが批判していた「社内に友人がひとりもいない」云々、についても、この記者の書いた記事を読むかぎりでは、いわゆる「なあなあなおトモダチ」という意味ではなく、真の友人、村岡花子訳『赤毛のアン』で言うところの、腹を割って話せる「腹心の友」がだれひとりとしていなかった、危険なまでの孤立状態にあったことも今回の転落の要因ではないか、彼の転落劇は社内の権力闘争という側面だけではなく、カルロス・ゴーンという「個人」に起因する要素も多々あるのではないか、という結論で終わっていたので、「読者第一号」としてこの原文記事を読み取ったかぎりでは、「この記者、なに言ってんの?」みたいな気持ちは微塵も湧かず、共感しかなかった。どころか、サウジルートだのオマーンルートだの、ただでさえ時間ないのに事実確認に追われるうちに、マジでこのおっさん「金の亡者だわ」、「やることがあまりにセコいずら !!!」としか思わんかったのも事実(苦笑 × 九層倍)。

 書き手を擁護するわけではないが、この記事は典型的なアメリカジャーナリズムが感じられる良質な取材記事だと思う … それが「ヤフトピ」に掲載された「抄訳」でどれだけ伝わっているか … という点はなかなかむずかしいかもしれないけれど、少なくとも煽情的タイトルで耳目を引きつけるだけのヘッポコ記事ではない、ということだけは、この記事を書いた記者の名誉にかけて言えるかと思います。

 … しかしそれにしてもこのゴーンという人は、なんだろう、ホントにハリウッド映画化なんて実現できるとかって思ってんのかな? スペインの新聞の取材でなぜ大晦日を狙って脱出したのかと問われ、「人々がのんびりと休暇やスキーに行く時期でいいタイミングだった」と自画自賛するようなお人。こういう人に違法な出国を許したほうもほうですが、情けないのはテロリストとか水際で防がないといけないところを「音響機器ケース」ごと突破されたこと。常識的に考えれば、これは国際刑事事件のみならずゆゆしき外交問題事案でもあるわけでして、それなのに突破された国の政府を代表する人間が「… 神奈川県のゴルフ場着。… 名誉顧問らとゴルフ」、「六本木のホテル内 ×× フィットネスで運動」、「『決算! 忠臣蔵』を鑑賞」、「午前中は来客なく、東京で過ごす。午後も来客なく、私邸で過ごす」…… こんなのほほんとした正月気分でいて、ほんとに大丈夫なんでしょうかね。今年はいよいよ世界中から人間がわんさとやってくる年なのに。

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2019年11月20日

まずは「読める」ことから

 NHK も含む TVニュースのアナウンサーでさえまともな日本語が使える人がめっきり減ったと感じる昨今ですが(「今日はなまぬるい陽気で … 」なんてだしぬけに切り出され、目が点になったことが最近あったばかり)、こちらもまたうっかり本音が出たにせよ、ヒドいし乱暴な話でほんとあきれる。なにがって、「身の丈」知らずの大臣のアホな発言ですわ。おそらくそんなこんなスッタモンダして収拾がつかなくなったんでしょう、ええいままよ、でいきなり大学入試英語の民間丸投げ計画を唐突に延期すると決定したものだから、現役受験生のみならず非難の嵐轟々、といった混乱状態になってます。

 やはりこれも以前、ここで書いたことの焼き直しになるかもしれませんけれども、大学に入るための試験なのに、なぜ英語の「聴く・話す・読む・書く」のすべてを「採点」しようとするのだろうか? いちばんワケわからないのは、なぜそれをビジネスライクな利益を追求する民間会社に丸投げするのだろうか。そんな共通試験なんてやったところで、カネと時間と貴重な労力のとほうもないムダ遣い、まったく意味がないって思うのはこれ書いてる門外漢だけじゃないはず。

 いつも思うんですけど日本を含む東アジア文化圏って、やはり昔の「科挙」思想の残滓が残っているせいなのか、やたら入試、入試で騒ぎますよね。ぶじ難関を突破して大学に入りました、ではそこで 4年間、なにをテーマにしてどんな分野を深く掘り下げて学ぶのか。あるいは休学してバックパックの旅に出て実地の体験を通じてなにかを学ぶのか(こういうことができるのも若い人の特権)、あるいは留学するのか、大学院に進むのか。はじめからなにか「大学ではこれこれをしたい」というものを持っている人ならいいんですけど、いちばん困るのは「合格して入学したはいいけど、さてどうしたものか、とりあえずサークル活動中心でいこうか」なんていう学生じゃないかと個人的には思う。サークル活動が悪いって言ってるんじゃなくて、全入時代、目的意識ゼロのくせにただ「みんなが行ってるからオレも」ていどの認識ってどうなのよって言ってるんです。

 だっていまどき大学くらい出てないと就職が … なんて声も聞こえてきそうだが、大学出なくても「手に職」つけておられる先達はたくさんおられますし、家庭の事情もあるとは思うが、ワタシは前出の消極的理由だけだったら、背伸びしてでも大学に行くことはないと思っている。大学というところは入学希望者をほぼ合格させる代わりに、本気で学ぼうとしない、もっと言えばデキの悪い学生をバンバン落として落としまくって選ばれた少数のみが卒業するという、英米の大学によく見られるシステムのほうがよっぽど健全かと思うんですけどね。もっとも『21世紀の資本』によれば、アイビーリーグなどの名門大学の財団とかに多額の寄付したいいとこの坊っちゃんや令嬢のみが不当に優遇されてるんじゃないか疑惑がけっこうあるようですけど …。

 大学入試の英語にもどすと、先日、元外交官の佐藤優氏が地元紙に、「英語圏に暮らした経験がある帰国子女を除いて、大多数の高校生は日常的に英語に接していない。そのような生徒にいきなり『書く・話す』能力を求めることにそもそも無理がある」と主張する論説文を寄稿しておりまして、まったくそのとおりだなあ、とひとりごちた[いつものように下線強調は引用者]。「読んでわからないことは、聞いてもわからない。読んでわからないことについて、話したり書いたりすることもできない(当たり前だ)」。

 じつはワタシも大学は出ていない。でもいま、二足も三足もワラジ履きながらではあるが、こうして翻訳や原稿書きの仕事をあまり途切れることなくいただいてたりする。ほんとうにありがたい、と思う。ちなみにべつにこれ自慢じゃないですけど、ワタシの拙サイト『聖ブレンダンの航海』の英語版、あそこに書かれた英文がすらすら読め、かつ、「ここのところ表現おかしくない?」なんてコーヒー片手に思えるような学生は、ほぼまちがいなく世界を相手に活躍できることでしょう。ちなみに書いた当人は、いまだ日本国外に一歩も出たことはないが。

 今回の騒動に巻き込まれてしまった受験生のみなさんは、ほんとうに災難だったと思う。でもかつて高校の先生に、「おまえらは不幸の星の下で生まれたっていうか、こんな円高不況のときにぶつかってしまったが … 」なんて慰めにもクソにもならないことばをかけられた記憶のある元高校生から言わせてもらえれば、かつてスタッド・ターケルの著作を邦訳した先生とおなじことばをここでも繰り返したいと思う──「あきらめずにつづけていれば、そのうちいいこともありますよ」。人生すでに半世紀を生きたしがない人間は、このことばは真実だと思っている。ほんとうに好きなことがあるのなら、それにあきらめずに食らいついていくべきだと思う。

 ついでながら、大政奉還後の徳川家によって設立された「沼津兵学校」というのがありまして、今年は設立から 150 周年にあたるんだそうです(地元民のくせしてだそうです、はないと思うけれども)。で、初代校長だった西周[にし・あまね]という人はいまふうに言えば超絶デキる人でして、哲学者にして教育家、そしてなんといっても福沢諭吉や森有礼と並ぶ近代日本語の基礎をなす数々の「翻訳日本語」を作った人でもあり、「哲学」、「芸術」、「理性」、「科学」、「技術」といった、いまやふつうに使用されている日本語もすべてこの人が作ったもの。で、たとえば新聞なんかぴろっと広げれば、やれ「CSF」がどうしたとかってある。はて? セルロースナノファイバー (こっちは CNF)?? なんてツッコみたくなるところだが、なんとこれ例の「豚コレラ」のことだそうでして。なんでも Classical Swine Fever の頭文字かららしいが … いつぞやの「修飾麻疹(modified measles)」も挨拶に困るけど、もうすこし芸がないのかってつい思ってしまう。西がこれ見たらいったいなんとコメントするのだろうか。「典型的 / 標準的豚熱病」じゃダメなんだろうか。国際標準だからこれでいいんだ、というのはたしかにわかるが、なんでもかんでも横文字の符牒みたいなナゾナゾ用語にして事足れり、では千数百年、受け継がれてきた日本語に対して申し訳ない気がする。

タグ:佐藤優 西周
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2019年10月06日

何度も繰り返すけれども …

 … 人間の生きる地球を含むこの現実の世界には、「唯一絶対の基準」というものは存在しない。これはここにいる門外漢がエラソーに喋々すべきことではないし、とくにお若い方を否定するようなことは言いたくないんですけど、あの気候行動サミットでのスピーチ、と言えるかどうかも心もとないが、とにかくあの嫌悪感丸出しの物言いにはさすがに引いた。

 人前で演説する、プレゼンするというのはいろいろな手法があってしかるべきだと思うが、'... Yet you all come to us young people for hope. How dare you ! You have stolen my dreams and my childhood with your empty words.' といった口を極めた非難頻出、「こうなったのはすべて大人たちであるあんたたちのせい」と言わんばかりの内容で、あまり共感はできなかった。というか、quite disappointed であった。

 「よくもぬけぬけと!」という捨て科白を、たとえば海面上昇で沈みつつある島国の子どもから聞いたら、もっともだ、と思っただろう。環境意識の高さでは負けていないドイツ在住の邦人の話によると、この「環境少女」の影響を受けた子どもたちが学校に行かずに抗議活動に精を出しているのだそうで、はっきり言って本末転倒じゃないかと思った。個人的には、「いまの生活様式を改めよ」ということでは、マイクロプラスチックの海洋汚染問題も負けずに喫緊の課題じゃないかって思うんですけどね。

 たしかに産業革命以来、大気中の炭酸ガス濃度は右肩上がりだし、環境もののすぐれたノンフィクションを世に問うてきたビル・マッキベンの著作にも親しんできたひとりとしては、主張は理解できる。ただし気候変動というのは大規模な火山噴火とか、予測不能の現象にもかなり左右されるので、ある条件で算出した数字を下回ればそれでよし、というほど単純でもない。絶対的尺度ではなく相対的尺度として扱うべきで、「シロか、クロか」で決めつけるべきではない。「自分たちの世代の存亡にかかわる重大な問題」だとほんとうに思うのなら、世代間闘争のような話の持って行き方ではなく、それを自分たちの問題として受け止めるべきだと思う(あんたら世代がみんな悪い、どうしてくれるんだ、ではけっきょく堂々めぐりになるだけ)。前の世代の人間のせいにするのならば、まず責めるべきはこんなクソみたいな世界に産み落としたご両親からでしょうな。

 温暖化もむろん深刻ではあるが、個人的にさらにこわいのが、マイクロソフトの創業者のひとりが作った財団が世界規模で取り組んでいる「マラリアを媒介する蚊を絶滅させる方法」の開発。「欧米か!」と突っこまれそうなくらいの西洋びいきの自分から見ても西洋人の典型的な悪い見本的な好例でして、環境がらみで言えばかつてのラヴロックの「ガイア理論」と同様、西洋人の傲慢かつあまりに能天気かつきわめて楽観視した発想としか言いようがない。もっともこの計画には反対する研究者も多くて(当たり前だ)、ほんとうにこの計画が実行に移されるかどうかはよくわからない。この手の人たちはいまいちど、オスヴァルト・シュペングラーの『西洋の没落』や、アルベルト・シュヴァイツァーの『文化の退廃と再建』といった古典を再読されてはいかがでしょう。

 唯一絶対の基準などない、ということでは、最近買ったこの本。自分が気に入った本というのはたいていだれからも見向きもされないような本が多いんですけれども、こちらは世界的に売れてるんだそうでご同慶の至り。まだ読み始めたばっかですけど、たとえば「英ポンドの貨幣価値を米ドルで表した値と、米ドルの貨幣価値を英ポンドで表した値のどちらかがリアルかと尋ねるようなもので、『ほんとうの価値』は存在しない … 同様に、『本物の時間』も存在しない。異なる時計が実際に指している二つの時間、互いに対して変化する二つの時間があるだけで、どちらが本物に近いわけでもない」というのは、べつにアインシュタインの「一般相対性理論」にかぎらず、なんだって当てはまる普遍的な事柄なんじゃないですかねぇ(あたかも世の中、なにが fake でどれが truth かでもちきりだが。ちなみに冒頭の「時間の流れは、山では速く、低地では遅い」は、たしかなんかの TV 番組でも取り上げていたのを見たおぼえがある)。

 比較神話学者キャンベルの著作でもおなじみの中世錬金術関連本『24賢者の書』に出てくる、「神は知覚可能な球体で、その中心は至るところにあり、外周はどこにもない」というくだりなんか見ると、昔の人ってテクノロジー全盛の21世紀、ビッグデータに翻弄されつづけているわれわれなんかより、物事の本質をはるかに理解していたんじゃないかってほんと思う。イルカとクジラを神聖視するのは勝手ながら、だからといってその価値観を押しつけるのは、やはり発想の貧困さが露呈しているように思う。「あなたの神を、わたしに押しつけないでください」。ウシの肉は食べたくないから3Dプリントでこさえた人工肉(!!)を食べるのはいい。だが「おまえも vegan になれ」というのは、お門違いもいいとこだ。

 何度も言ってきたことですけど、ほんとうに温暖化とそれに伴う気象災害の激甚化をなんとかしようと思うんなら、たとえばクルマを捨てることでしょうか。ぜんぶ捨てろとか乗るな、と言ってるんじゃありません。「ひとり一台をおやめなさい」と言ってるんです。卑近な例を申せば、定期バス路線が身近にあるにもかかわらず、複数台持っているような人がけっこういます。すこしだけ、不便な生活スタイルへと変えてゆくこと。まずはここからなんじゃないかって気がします。

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2019年07月20日

Vote, vote, and vote !!! 

 昔、米国の女性小説家ガートルード・スタインが、「バラはバラでありバラでありバラである('A rose is a rose is a rose is a rose.')」と言ったという話があり、またイタリアの甘口白ワインの銘柄に「エスト! エスト!! エスト!!!」なんてのもありまして、お題はそれに引っかけてみました。

 といってもべつにふざけているわけじゃなくて、大まじめで言ってるんです。3年前の参院選での 20 代の投票率は 35.6 % でして、年代別でもっとも高い投票率だった 60 代の半分しかない、との報道記事を読んだ。また今春の統一地方選では、首都東京の特別区 20 区議会選挙の投票率でさえ、平均投票率はなんと 50 % にも届いてない( 42.63 %)。「投票に行く人のほうが少数派」になってしまっている。いくらなんでもこれはマズいでしょ。

 最近、さるラジオ番組に出演された方の発言を見たら、若い人の意識はけっして低いわけじゃない、としたうえで、こんな当事者の声を引用していました。「わたしたちだって選挙が大切なのはよくわかっている。学校でも主権者教育をやってるし。でも、だれに投票したらいいかまったくわからないんです(主権者教育ってなんのためにやってるの ??? )」。あるいは、もし自分が投票した候補者が不祥事を起こしたときに、その人を選んだ自分の責任を持つのがこわい。過ちを犯してしまうくらいなら、投票には行かない …… んだそうですよ。

 人生すでにウン十年、生きてきたしがない門外漢は、はっきり言ってこんな返答を聞かされて情けなくなったね。なんだよそれって感じ。理由にもならん理由。いやヘリクツか。たしかに改正された公選法では、18 歳未満の人は選挙活動ご法度みたいなヘンな決まりごとはあったりする。しかし引用部分はハナから投票に行く気もない人間の戯言にしか聞こえない。「保育園落ちた。日本死ね」という迷言がいっとき話題になったけれども、そういうこと口走る人たちって、あんがい主権者として与えられた権利を十全に行使していない人種なんじゃないかって勘繰りたくなる(意見には個人差があります)。いつからこんなふうになったのかな。「ノンポリ」なんていう言い方が浸透してきたころからかな? 自分たちで自分たちの所属している社会の根幹を破壊していることにほかならないのに。ある芸能人が早世してその葬儀の日に学校を休んでまで行く、それも親子そろって参列した、という例を TV で見たことがあるけれども、こういう手前勝手なメンタリティってどこか通じているんじゃないでしょうかね。それとも、ここで嘆息しているおっさんが「やっぱり古い人間でござんしょうかね」。

 もっとも地元紙の報道にもあったように、伊豆半島の僻地の高齢者しかいないような集落では投票ひとつとってもたしかにたいへんだ。ネット投票云々と言われているけれども、まずは前提条件をつけたうえで、こういう限界集落的なところに住み、投票所に行くのがたいへんな高齢者にかぎって実施してもいいのではと思う。そのときはお年寄りでもハズキルーペなしでハッキリくっきり見えて、かつかんたんに投票ができるアプリなり、方法を考えないといけませんけれども。

 話もどって、ネットの言論空間でも、「政治的発言お断り」というのは世界標準みたいな印象を個人的にも受けてはいる(以前、参加していた米国のニュースグループでもそういう取り決めで、なにかしら政治色が出ると、発言者当人がその気はなかったとしてもモデレーターから注意されたりした)。でも、こと投票となるとたとえば欧州の場合、日本ほどの低投票率、とくに若い世代で投票に行かない人が多い、なんてことはないそうですよ(EU に対する幻滅のせいなのか、フィンランドの若い有権者の EU 議会選挙の投票率が異常に低い、という例外もあるようですけれども)。たとえばこういう記事はどうですか。書かれた内容の是非はともかく、やっぱりここでも何度か書いてきた、「個人」というものがいまだ確立していない言霊の島国だからなのかなって気がどうしてもしてしまう。確固とした「個人」という土台がなければ、当然のことながら「健全な批判精神」も育つはずがないわけで。日本人には日本人ならではの長所があり、日本に帰化するような外国の方なんか、われわれが思っている以上に日本人化していて、もはや「ナイジン」とでも呼んだほうがいいくらいに日本の色に染まっている人もたくさんいらっしゃる。が、それも日本という島国の中での話であって、アジアのみならず欧米も含めた世界では認めてはもらえないでしょう、残念ながら(昨今、欧米がいい意味でも悪い意味でも「日本化」しているように思える事例がとみに多く感じられることはひとまず脇に置いておくとして)。

 「わたしは、わたしとわたしの環境である。もしこの環境を救わないのなら、わたしをも救えない」というスペインの思想家オルテガ・イ・ガセットのことばは、投票する権利の行使にも当てはまるような気がしますね。古代ギリシャの哲学者アリストテレスの発言は、元来の趣旨が「人間はポリス的生き物だ」ではあるけれども、人間ってやっぱり「政治的動物」のような気がします。おっと、チンパンジーやゴリラ、ボノボといった他の霊長類社会でも一種の政治的力学は働いているか。ヨタ話はともかく、明日はぜひ投票を。

 … 「若者がいきいきと生きるための政治を実現するには若者の投票率向上が大事。大学無償化など、経済的に苦しい若者への支援策を議論してほしい」。これは、参院選期間中に地元紙に連載されたひとことコーナー的な記事に載った、現役高校生のことば[下線強調は引用者]。こういう若い人の存在は、ほんとうに頼もしい。

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2019年06月30日

伊東沖海底噴火から 30 年

1). 伊豆半島東海岸の伊東市のすぐ沖合、手石島のあるあたりの海上に突如、爆音とともに噴煙が立ち上ったのは、いまからちょうど 30 年前の 1989 年7月 13 日の夕方のことだった。あのときはほんとうに驚いた。とにかくそれまで毎日のように有感地震がつづいて、あるときなど下からガツン! と突き上げる揺れに飛び起きて、倒れそうになった本棚を必死に押さえていた(というか、本棚といっしょに揺れていた)。

 先日の地元紙朝刊紙面に、当時のことを述懐する静岡大学の小山真人教授の記事が載っていたけれども、「…火口直近の海岸でインタビューを受ける海水浴客の映像を見て、立ち入り規制のない事実に背筋が凍り付いた。……当時は対策ゼロの状態であった。いま思えば、噴火が本格化しなかったことはほんとうに幸運であった」と書いている(当時の状況を現在の伊豆東部火山群の対策に当てはめれば、噴火警戒レベル4への引き上げと想定火口周辺地域の避難勧告→火山性微動発生→噴火警戒レベルを5に引き上げたうえで避難指示、という段階を踏むことになる)。

 2014 年の木曽御岳山の噴火や、昨年の本白根山・鏡池付近の突然の噴火、そしてここ数年、地殻変動のつづいている箱根の大涌谷火口など、日本列島は地震の巣でもあると同時に活火山の集合体でもある。火山ではない場所も、付加体形成に伴う一連の造山運動などによって地殻がズタズタになり、活断層が何本も走っていたりする。温泉や湧水、景勝地などの恵みももたしてくれる日本の自然は、ひとたび荒ぶれば一変する。

 加えて、風水害もある。これからが本格的に警戒しなければならないシーズンだけれども、火山も地震も風水害も、とにかくふだんの、そして不断の備えを心しなければならない、とあらためて痛感したしだい。そういえばけさの朝刊紙面にもけっこう大切なことが書かれた記事が載ってました。今泉マユ子さんという方の寄稿された、防災グッズの準備のしかたについての連載記事。「非常持ち出し袋」の中身はつぎの三つに分けるとよい、というもので、具体的には 1. 地震発生時に「すぐ必要なもの」だけを詰めた袋。これには懐中電灯や手足を守る道具(スリッパや手袋)、そしてホイッスルなどを入れておくとよい、と。2. は「命を守る袋」で、ヘッドライト、マスク、携帯ラジオ、連絡先メモ、すぐ食べられるもの、飲料水、衛生用品など。最後が 3. 避難生活用の袋で、こちらは自宅に置いておく。落ち着いたら取りに行くための袋で、こちらには着替えや備蓄食料を入れておく。もちろん賞味期限 / 消費期限の確認はお忘れなく、という記事でして、なるほどなあと。ワタシも早めに持ち出し袋の中身を入れなおそうと思ったのでした。みなさんも参考にされるとよいでしょう。

2). と、そんな折も折、いま静岡県人にとってもっともホットな話題のひとつが、JR 東海の「リニア中央新幹線」、とくに静岡県側にとっては益どころか害ばっかの気がしてならないトンネル掘削工事の許認可をめぐる県知事との攻防戦でしょう。で、まったくの部外者が見て思うに、いまの日本人って傲慢かつ傲岸不遜な考えの持ち主ぞろいになってしまったなあ、という慨嘆ないし憤懣です(もっともそう感じるのは皮相的で、じっさいには若山牧水が沼津の千本松原伐採計画に轟々たる非難の声をあげた当時となんら変わっちゃいないのかもしれないが)。伊豆半島が押しつづけ、いまも上へ上へ押し上げられつつある南アルプスのどてっぱらを掘削する今回の工事。大井川の流量減少がとくに心配されていますが、個人的には、昭和のはじめのときの東海道本線丹那トンネルの大工事のことを思わずにはいられない。トンネル工事は想定以上の湧き水に落盤、そしてトンネルじたいがズレた北伊豆地震(M 7.3、1930)発生などで事故死者が続出。そしてそのトンネルから湧き出した水=灌漑用水だったので、それが枯れてしまって、当時の旧丹那村の水田はすべて干上がってしまった。いま、函南町の丹那地区は酪農の盛んな地区として有名だけれども、先人たちの血のにじむような奮闘があったからこそいまの姿がある、ということはやはり忘れてはならない。関連の報道を見聞きしているかぎり、いまの JR 東海のやっていることは、80 年以上前の丹那トンネル工事の二の舞になりかねない、との懸念がますます深まるばかりだ。三重県の知事さんは静岡の県知事のことを批判していたが、あんたのとこの県でこの工事をしますと言ったら許可するのか、と噛みついてやりたい気分、ですわ! 

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2019年04月28日

ノートルダム大聖堂の悲劇

 今月 15 日、パリのノートルダム大聖堂の大火の映像を見たときには絶句するほかなかった。不幸中の幸いは、数々の美術品や聖遺物、焼け落ちた鐘楼のてっぺんにあった銅製の風見鶏像とかはなんとか難を逃れて「生還」したとはいえ、個人的には 1868 年にカヴァイエ=コルの建造した大オルガン(先代のフランスバロック期のオルガンビルダーのフランソワ・アンリ・クリコの製作した楽器を大幅に改造したもので、中世以来のパイプも一部まだ残っているとか)。昨年、そのカヴァイエ=コルがここにオルガンを収めて満 150 周年、ということなのかどうかはよく知らないけれども、とにかく大規模な修復が施されて演奏台も新デザインに更新されたばかり。なので今回の失火(!)はほんとに残念でしようがない。

 国内ではどうもこのカヴァイエ=コル・オルガンについて報じていたのは NHK だけのようでして(さすが自前の大オルガンを持っている組織だけある)、しかも二晩つづけて報じていたのにはちょっとびっくり。いくらクラシック音楽好きを自認する日本人でも、オルガン音楽が大好きという人の絶対数は向こうに比べればはるかに少ないしオルガニストの仕事数じたいも少ないはずなので、いたしかたないとはいえ、もうすこし報じられてもよさそうなところではある。とにかく映像で確認したかぎりでは、とりあえずぶじのようです … もっとも消火活動でいろんなものが天井から落っこちてきたり、放水で大量の水とか浴びているかもしれない。オルガンパイプは鉛と錫の合金、つまりブリキなので、ちょっと熱に触れただけで溶けてしまうし、コツンとどこかにぶつければ ── Macbook Air とかアルミ一枚板削り出しのノート PC みたいに ── すぐ傷ついたりへっこんだりする。もちろん木のパイプ、木管をはじめ木でできた部分もたいへん多いため、水を浴びれば即使用不能となる。このへんはやはり気がかりではあります[→ 関連記事]。

 オルガンもそうですけど、歴史的建築物と火災については古くは金閣寺や法隆寺をはじめ、昔から問題視されてきたから、たしかに一筋縄ではいかないかとは思う。ノートルダム大聖堂の場合、「オークの森」と称されるほど入り組んだオークの木組み約 1,300 本が使用されていた屋根裏部分にはスプリンクラーも設置されていなかったという。もちろんこれはスプリンクラー代をケチったわけじゃなくて、いろいろ事情があってのことだったらしい。でもこれだけテクノロジーが進化しているご時世なのだから、もうすこし防火対策はとれたはずだと思う。

 いまひとつ と感じたのは、地元紙に引用されていた米国人消防のもと幹部という御仁の話。この方は取材に対して、こう応じたんだそうだ(いつものように太字強調は引用者)。「大聖堂は燃えるためにあるようなものだ。礼拝の場でなければ、違法建築として摘発対象だ」。

 これ当のフランス国民が聞いたらどう感じるのかな。「違法建築のかどで摘発対象」というのは、そりゃ消防法を金科玉条の絶対的尺度に考えたらそうでしょうよ。ウチだって数十年経過した古い耐震基準の木造住宅なんで、摘発してくださいと言っているようなもの。それに法律や制度なんてアップデートが前提なので、時代が変われば昔はよかったものでもたちまち違法として取り締まりの対象になったりする。そんなもんふりかざすことじたい、単純化のしすぎというかノーテンキな発想だなというのが偽らざる感想。んなこと言っていたら「世界遺産」級の歴史的建築物は楽器のオルガンも含めて、ほぼすべてが「摘発対象」になって全滅すると思うぞ。

 じゃあどうすればよいのか、ここが大事なところだと思う。まさかいまの基準で「違法建築」だからって、失ったらそれこそ取り返しのつかない歴史遺産をぶっ壊すわけにもいくまい。というか、いくら「適法建築」に変えたって火災はなくならないでしょう。最悪の場合、放火されたらどうしようもないですし。一見、正しいことを言っているようでじつはトンデモ発言というのはまさにこれかと。19 世紀にさんざん鯨油やらなにやら搾り取っておいて、「アイスランドと日本はいまだに捕鯨をつづけている野蛮な国だ」なんてほざいている連中とあんまり変わりないんじゃないでしょうか。端的に言えば独り善がり、つまり独善。あるいは偽善。だって今回の火災の原因を作ったのは「違法建築」だったから、ではなくて、屋根の工事をしていた現代人による「失火」。燃え広がったからといって「違法建築で摘発する」というのは、いくらなんでもノートルダム大聖堂に対して失礼千万な失言じゃないですか。「違法建築」ということならギザの三大ピラミッドだって取り壊し対象でしょうよ。ひとつの価値観を押し付けるな、と言いたい。拙い経験から言えるのは、価値観なんてものはしょせん移り変わるもの、もっと言えばアテにはならない、ということです。

 とはいえいたちごっこかもしれないけど、とにかく「歴史的建築物」を火の手から守るためにはどうにかして知恵を絞らないといけないことに変わりはない。建物のせいにする時間があったら防火対策を真剣に考えないといかんと思うのですがいかが。そういえば 1996 年、スプリンクラーの誤動作でコンサートオルガンがずぶぬれになった、という悲しい事件が浜松のアクトシティ中ホールであったけれども、あのときも「被災」したのはフランスのオルガンだった。そのとき、オルガン建造メーカーの社長だったコワラン氏がこう言っていたのはいまでも鮮明に憶えている ──「楽器が被水したことを、ひじょうに悲しく思います」。よかれと思って設置した最新設備だって、「誤動作」すればこんなことになったりするのが人の世の常。

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2018年10月22日

「生きているあいだは輝きなさい」

 いまごろなんですけど、本庶佑先生のノーベル医学生理学賞の受賞はすばらしかったですね! オプジーボでしたか、従来の抗がん剤とはまったく発想の異なる免疫療法による特効薬の研究開発。そして寡聞にして知らなかったが、なんと静岡県ともゆかりがけっこう深くて、昨年まで静岡県公立大学法人理事長を務められ、そして「ふじのくに地域医療センター」の現理事長でもある、というからさらにびっくり(→ 関連記事)。そしてなによりも自身の経験に裏打ちされた「名言」もまた、すばらしい。やっぱりこういう「個」をしっかり持った人というのはけっして狭量ないわゆる専門バカであるはずもなく、普遍的な「輝き」、radiance を放つ人物なのだ、ということを再認識させられもした。

 「一生をかけるなら、リスクが高くても自分がやりたいことをすべき」、「生命科学はどの研究が実を結ぶかはわからない。一見役に立たない、すぐに結果が出ないように見えても無駄ではないのでいろんな分野やパターンに挑戦するべき。だから教科書に書いてあることも正しいとはかぎらない。まず疑うこと」といったことば、胸に響きますね … とくに「健全な批判精神」ということを強調されていたことなんか、もう感激。そういえば地元紙もノーベル賞受賞が決まったとき、本庶先生のことばとしてつぎのように掲載していた[引用は一部抜粋、下線強調は引用者]。
一般的にいまの学生は浪人する人が少ないなど安全志向が強い。人生は一度しかないからチャレンジしてほしい。自分が決めた枠の中にいるだけではおもしろくない。好奇心やおもしろいと思ったことに挑戦してほしい。

 1回や2回失敗したっていい。再起は可能。失敗してもあきらめず継続すること。やる以上は全力で集中してやる。ずっとやっていると、そのうちなんとなく自分に自信がでてきて開けてくる
本庶先生は研究室で若い院生に、よくこんなふうに問いかけたんだそうです。「それは、ほんとうにキミがやりたいことなのか?」。心からやりたいと思っているのかどうか、これが判断のひとつの基準だったことはまちがいない(→「いちばん大切なのはできるかどうかじゃない。やりたいかどうかだよ!」by 高海千歌)。この点もしごく共感できて涙が出そうになる。

 自分が夢中になれるかどうか。ほんとうに好きなら、たとえカベにぶつかってもあきらめたりせず、やかましく無責任な外野の声なんぞいっこう気にもとめず、おのれの究めたいことをひたすら追求すること。… っておや、なんかどっかで聞いたことある話 … そう、比較神話学者のキャンベルの言う「あなたの至福に従え」ですよ、まさしくこれ。言わんとするところはけっきょくおんなじじゃないですかね。 

 前にも書いたけど、ほんとうに自分のしたいことならば、あるいは自分が大好きな分野ならば、とにかく喰らいついてなにがあろうと離さない、そうすれば ―― 確約はできないが ―― 以前、ここでも触れたある翻訳家の先生の言われたごとく、「きっといいこともありますよ」。不肖ワタシもそうかたく信じている( → 本庶研究室で助手、講師を勤めた弟子筋の方の書かれた寄稿文)。

 そういえば先日、原稿書きの調べものをしていたら、まったく予期せずこんなことばに巡り合った。古代ギリシャの墓碑銘だかに刻まれていた歌詞の一部らしき一文で、こう訳されてました。「生きているあいだは輝きなさい。命は短いのだから、思い悩まないように」。かくあれかし、と思う。語学の勉強もこれと似たところがあるかな。ほんの数年くらい学んだからといって澎湃たることばの海を泳ぎきれると思ったらそれはちがうゾ、といっつも思っているので。でもいまはインターネットとか Google とかあるし、調べものひとつとっても昔とくらべれば、そりゃラクにはなりましたわ(その代償? に、ワード当たり単価もどんどん落っこちているというのは好事魔多し、ということなのかどうか)。

 地元紙の読者投稿欄に、学校の英語教育で生きた英会話を教えてほしいという、ある意味切実なお悩みの声が掲載されていた。が、とくに公立学校においてそこまで求めるのはどだいムリだろう、というのが偽らざる感想。そこでインターネットを十全に活用しまくるのだ !! と、声を大にして言いたい。ポケモンGO とか課金ゲームもいいけど、昔にはなかった「特権」がみなさんにはあるのだから、もっともっと活用すればよい。べつにムリして語学留学に行くこともないと思う。ロハでもいくらだって勉強できますよ、ほんとうにその気があるのならば。相手が用意してくれるのをポカンと待ってるだけじゃイカンです。昔、翻訳の勉強をはじめたころに読んだあるエッセイに出てきた「水族館に飼われている太ったイルカ」の比喩とおんなじ。「サメやシャチに襲われる心配もないし、食事だって飼育員がすべて用意してくれる。18, 9 歳くらいでこんな感じになり、ただひとつの不安といえば、退屈すること」。学校では、英語だったら英語ということばの成り立ちと「基礎」さえ身につけてくれればよいと思う。そこから先は、「好奇心やおもしろいと思ったことに挑戦」すればいいだけのこと。じゅうぶん羽ばたけるだけの力は身についているはずです。なんでもかんでも学校の英語の先生に求めちゃダメずら。そんなことしたら倒れちゃう。

 科学研究の場合、もうずいぶん前から基礎研究の研究費の削減と優秀な研究者の不足が問題になっています。お金というのはこういうところにこそ使うべき、と主張してもいる本庶先生はほんと正しいと思いますね。カネの使い道、ひいては税金の使途という点でも、真剣に考えなくてはいかんと思います。

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2018年09月10日

Aestas Horribilis 2018

 いまさっき、米国の臨床医向けポータルサイトでこういう ↓ 書き出しの論説文を見た。
Toward the end of 1992, Queen Elizabeth II of Great Britain referred to a year of misfortune that had befallen the British royal family as “annus horribilis.”

As I write this editorial, I feel much the same about the summer that has just passed − aestas horribilis − with death, misery and destruction wrought upon the Mexican, Caribbean and U.S. populations by a series of hurricanes, earthquakes, gunmen and political extremists.

1992年暮れ、英国女王エリザベス II 世は英王室につぎつぎと降りかかった災厄だらけの一年を回顧して、「ひどい年」だと評した。

 この論説を書く筆者もまた、過ぎ去ったばかりの今夏について、ほとんどおなじことを感じている −− ひどい夏。今年の夏、メキシコやカリブ海諸国、そして米国の人びとはハリケーンに地震、銃撃犯に政治過激派と立てつづけに襲われ、死と困窮と破壊とに見舞われている。

aestas horribilis ―― 今年の夏をひとことで言えば、「今年の漢字」じゃないけど、まさしくこれだったのではないか。ほんとうに「ひどい夏」だった。天候不順、雨が降ればスコール、ゲリラ豪雨にゲリラ雷雨、かと思えば「熱波(ここ静岡県でもほぼ全域で最高気温も軒並み過去最高を記録。これは太平洋高気圧とチベット高気圧の二段重ねが原因とのことらしいが、これはもう、欧州などでここ数年頻発しているりっぱな熱波ですよ)」、そして台風のたまごがオニヒトデよろしく異常発生、昔のギャグアニメの主題歌でもあるまいに東から西へ「逆走」した台風は出るわ(海蝕崖にへばりついて建つ熱海の某ホテルの大食堂の窓ガラスが台風の高波&高潮の直撃を受けて木っ端みじんになった、なんてこともあったが、個人的にはもっとはやく食堂を閉鎖すべきだったと思う。台風が直撃コースをとることはとっくにわかっていたはずで、これは人災的要素が大)、西日本では過去に例のないほどの広域での浸水害や土石流被害が発生。そして追い打ちをかけるように先週の北海道南東部を深夜、襲った M 6.7 の激震。

 東日本大震災のときもそうだったし、毎度、おなじことの繰り返しで申し訳なく思いますが、被災された方には心からのお見舞いと、亡くなられた方のご冥福を祈りたい。地元紙朝刊に大きく掲載された厚真町のひじょうに広範囲におよぶ地滑り的な山体崩壊の航空写真には、しばらく絶句して見入るばかりだった。

 日本の自然は四季がはっきりしていて、四季折々ということばがあるように基本的には昔、さる著名な風景写真家が評したように、「欧米などの大陸の自然とちがってやさしい」。でも同時に台風に代表される風水害や冬の雪害、たまさか発生するも甚大な被害をもたらす竜巻などの突風、そして火山の噴火に、地震、地震に伴う津波や軟弱地盤の液状化。思いつくだけでもこんなにある。ちょっと歴史を顧みれば日本の歴史はそのまま自然災害の歴史でもあり、互いに助け合わなければ生きてゆけない(日本が「超」がつくほどの均質社会と言われるのも、ひとつにはこの自然災害の突出した多さに起因するのはまちがいない。ひとり勝手なことをしようものならたちまち「村八分」になっただろうから)。

 言いたいことはいろいろあれど、やはりなにかお役に立てることを、ということで、「災害への備え」に特化した情報などを提供する Web サイトをここでもすこしご紹介したいと思う。

1). NHK の「災害もしもブック」&「災害もしもマニュアル
2). 無印良品の「わたしの備え。いつものもしも。七日間を生き延びよう[PDFファイル]」
3). 「いつでも持ち歩きたい防災ママバッグ」 幼児を抱えたお母さん向けに、必要最小限の用品を入れたバッグを用意しよう! という情報をまとめたもの。

ちなみに不肖ワタシが、たいしたことではないけれどふだん実践していることは ――

 ・懐中電灯を含む、携帯用 LED ライトをいくつか携行する。うちひとつはカバンにくっつけていて、夜間の発光材代わりにもなっている。
 ・ふだんからよく歩く。ブロック塀など、危険個所の点検という意味もあるが、津波がきたらこのルートで、とか、ここが使えなくなったらどうするかとか、安全に避難可能なルートを頭に入れておくため。
 ・「ハイレモン」とか飴玉類やハサミ、手袋、タオル、絆創膏、ポケットティッシュのたぐいもいつも持ち歩いてます。
 ・はじめて行く場所[コンサートホールとか美術館とかも含む]の避難経路の確認

 災害がとくに多かった印象を受ける今年の夏でしたが、最後にあの2歳の幼児をみごと発見救出したヴォランティアの師匠的存在の方について率直に感じたこと ―― それは、いくら当該分野の専門知識や経験があっても、「幼い子どもは上へ行く習性がある」という一見、まるで畑ちがいにも思える児童心理学的直観にはまるで歯が立たなかった、ということ。いまひとつはあまりに人任せな人が多い、ということ。たとえば大水害に見舞われた岡山市の低地地区の方が、「浸水予想区域地図」なんか見たことがない、と嘆いていたのを TV で見たとき、地元自治体広報紙にはさまってなかったのかなってちょっと信じられなかった。周知のしかたに問題ありかもしれないが、やはり「自分の命は自分で守る」のが、最強の初動態勢なんじゃないでしょうかね。危ないと感じたらさっさと逃げる、その場を離れる。大津波がきたら「てんでんこ」に散り散りになってとにかく高い場所へ高い場所へ逃げる。避難訓練はもちろんだいじだけれども、天災には、人間の都合でこさえた避難マニュアルなんて通用しない。そのときそのときの判断で生き死にが分かれる(昔見た風景写真雑誌に、「自然が発する警告にまるで気づかず、『わたしは危険がわからない』みたいな人が増えている」という趣旨のコラムを読んだことがあるが、最近、とくにそれをつよく感じる。台風接近時にサーフィンしに行くなんて、論外ずら)。

 また、こんどの地震でもこんなコメントを伝え聞く。「ここでは起きないと思っていた」。固定していない家具の下敷きになって亡くなった方もまた出てしまった。液状化とかはほんとどうしようもないですけど、せめてできることからはじめましょうよ。大阪の地震だって、あんな危険なブロック塀が何十年も放置されていたとは信じがたし。40年ほど前の宮城県沖地震の教訓がちっとも生かされてなかったってことでしょうね。人任せにしてはいけません。

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2018年07月08日

「餅は餅屋」ずら

 先日、地元紙に小さな扱いながらこんな記事が。「英大調査 / ソーシャルメディア曲がり角? ニュース利用減少」というもの。

 『自分の時間』という邦訳書名で知られる古典を書いたことでも有名な英国人小説家アーノルド・ベネットは、どこで読んだかかんじんなことは失念してしまったが、たしか自分自身の意見や考えというものを持たない人を「毎朝、新聞を読んでからでないと仕事に行けないような人間」というふうに評していた。そんなベネットが、この記事見たらどう反応するのかな? ほえ、21世紀人はソーシャルメディアなるもので、紙の上ではなく光る平滑な画面上に映し出される文字を読んでいるのか、しかもこの写真は動くし音も出る、まるで持ち運べる映画じゃ、なんて思うかも。

 ニュースを知るためのツールとくると、マスメディアの代表格のひとつでもある紙の新聞、あるいは NYT に代表されるようなインターネット上の「電子版」と称される媒体が思い浮かぶ。でもここ数年は事情が変わってきて、いまなにが起きているのかを知るのに Facebook や Twitter なんかで配信されるモノを頼りにするんだそうな。とくに FB は前回の大統領選以来、fake news の温床だとして叩かれてきたから、逆に言うと、ここ数年は旧来の新聞ではなくて、ソーシャルメディア経由でニュースに接する人が存外多いということを示している。これ、もっぱら地元の地方紙と、たまさか図書館なんかで「東京新聞」とか読んでいるにすぎない古いタイプの人間にはいささか信じられない。

 なんというか、やはり「モチは餅屋」、だと思うんですよね。記者が足で稼いで取材してきた記事や写真原稿を編集者がいったんまとめて、それにデスクがダメ出しする。最終的によしということになった記事原版が校閲・校正を経て印刷に回る。販売店に輸送されてきた新聞が配達員によって各家庭に配達される。これだけの労力と手間とカネがかかっているわけです。オンライン版とか電子版はどうか。まず印刷しなくて済むから木材資源の節約にはなる。省資源、省エネルギー。で、配達する必要もないから、とくに速報系、 breaking news 系にはとくに威力を発揮するでしょう。これはたいへんなメリットだと思う。でもなににも増してネット新聞の最大の利点は、ウチにいながらにして、いや iPhone などのモバイル端末さえあれば、いつでも、どこでも世界中のニュースをリアルタイムで知ることができちゃうことだろう。伊豆半島にいたってアイルランドの英字紙 The Irish Times が読める時代。

 問題なのは、そもそも報道機関でもなんでもないプラットフォーム企業の手のひらの上でめいめいが好き勝手に「配信」しちゃってるニュース「もどき」、報道「もどき」だろうと思う。fake news のたぐいはたしかに昔から存在しているし、写真の世界ではたとえば「心霊写真」なんか、150 年以上も前の写真術草創期にもう世間を騒がせていたりで、言ってみれば古く、かつ新しい話なんではあるけれども、いまは Instagram などの出現でだれもがかんたんに写真の加工や編集ができちゃったりする。ようするに小学生でも腕っこきの記者よろしく情報発信できてしまう世の中なので、文責というか、よほどハラをくくっていかないとマズい、とワタシなんかは感じるんですけれども … Twitter で遊んでばかりいる大統領閣下はじめ、甚大な災害が発生してただでさえ「正確な」情報がほしいときにじつにくだらないデマやホラを垂れ流す輩もいたり(この人の発言はしょせんプロパガンダにすぎない)。とくに Twitter は企業の PR、もしくは災害の現場がいまこうなっているからなんとかして、みたいな情報に使うぶんにはなんら問題ないし、このプラットフォームの持つ強みが十全に発揮されるように思う。でも現実はね …… これ以上は推して知るべし。

 キューバ危機の時代、米国ではいまだ LIFE とかの写真ジャーナリズム系雑誌がいまとはくらべもののないほどのパワーを持っていた。ユージーン・スミスとか、報道写真家と言われる人々も矜持を持って仕事に打ちこんでいたように思う。ジャーナリズムとジャーナリストの地位がこれほどまでに凋落したのは、ひとつにはネットでだれもが発信できるようになったということも大きいのではないか(ジャーナリズムの本場と思っていた米国でさえ、昨今は大学のジャーナリズム学科に入ろうものなら親が猛反対するんだそうな)。なにかとバッシングを受けたりする新聞ですが、英国 The Times の社説が書いているように、最後のよりどころとしての新聞はまだまだ捨てたもんじゃないと思いますね。とくに紙の新聞の持つ、パッと広げただけでだいたいが把握できる「情報の一覧性」は、すぐれた特性だと思う。

 ベネットですけど、こちらの方のブログ記事にたいへん興味深いことが書かれてあった。限られた可処分時間を有効活用するには関心領域の本を読むべし、でもそもそも「読解の基礎ができてない人が多い」。これ、ホントそう思う。「たおやめ」だの「ゆめゆめ」だのといった古風な言い回しはしかたないとしても、「気の置けない友だち」という表現が通じない。最近、日本大好きな YOU さんたちが多いみたいだけど、彼ら彼女らのほうがよっぽど日本語を知っている(「こうもり[傘]」がわからない若い日本人がけっこういる)。Twitter だろうとブログだろうとなんだろうと、カネをとる、とらないに関係なく、人さまに自分の主義主張を伝える前にまずもって「先人の書いた著作なり文章なり」をそこそこの量仕込んで自家薬籠中のものにするくらいでないとイカンでしょう。あと、タブレット世代のいまの小学生は習うかどうか知らんけど、「原稿用紙の使い方」とか、句読点の打ち方や禁則といった書きことばとしての日本語のルールも大事ですね。

 でもそれ以上に個人的にもっとも大切にしている原則は ―― 読んだ人が不快になるようなことはきょくりょく書かない、または自分が読んだとき、「これつまんねー」的な文は書かない。いわゆる『文章読本』ものじゃないけど、文章を書くという行為はそうとう疲れるもんです。かなり注意しているつもりでも誤字脱字が出てきたり、翻訳だったら誤訳していたり …… Twitter なんか見てますと、どうも日本語で文を綴ることのむつかしさ、こわさを知らないで御託を並べてるたぐいが多すぎて閉校、じゃなかった、閉口する。

 それと、ここで紹介したベネットの『自分の時間』、この夏の読書感想文どうしようかな、なんて考えあぐねている高校生の方は、ぜひ読んでみれば。この本の原題には How to live ... なんてあるものだからハウツーものかい、と思われるかもしれないが、はっきり言って百年以上も前に書かれたこの本はイマドキのなんとかハックものだの薄っぺらな self-help ものとはまるで似て非なる名著。マーク・トウェインは「古典は酒、でも自分の本はだれもが飲む水」であり、「古典はみなが褒めるだけで読みはしないご本」なんて言ってるけれども、おなじ一日 24 時間使うんならこういう本を読むくらいの時間は持ったほうがよいですよ。

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2018年02月18日

「記録は並ばれるためにある」

 正直に打ち明けると、今回の冬季五輪はさして興味がなかった。代表選手のみなさんがこの大会目指して精神も肉体も文字どおり削る思いで乗りこんでいったのは当然、承知しておきながらも、今回ほど政治プロパガンダの強烈な雑音に掻き消されるような、かつてのミュンヘン夏季五輪を思い起こさせるような暗い政治色に染まった冬季大会はちょっと記憶にない気がする( 冷戦時代、西側がモスクワ五輪をボイコットしたことはたしかにあったが )。

 でもいざ始まってしまえば TV はもちろん競技中継一色になるので、個人的に好きなカーリングとかは見てました。高梨沙羅選手の五輪初メダル、スノーボードハーフパイプの平野歩夢選手といった若手の活躍もあって、フィギュアスケート競技が始まるころには北朝鮮情勢云々 … といったことも印象が薄れていき、いつもの五輪観戦気分になってきた。なんだかんだ言ってもやはり特別な大会ですからね。

 フィギュアスケート競技って、以前にも似たようなこと書いたかもしれないけれども、たんなるスポーツというよりは舞台芸術に近いものと思ってます。スケーターは氷盤という大舞台で舞を舞うわけです。でも今回の羽生結弦・宇野昌磨両選手のとんでもなくすばらしい偉業 … は、いったいどこのだれが予見したでしょうか。

 あれだけの大けがを負い、氷の上に立って練習を開始したのがたったの3週間前だという。でも彼は成し遂げた。いちばん心に去来したであろうことは、やはり地元・仙台のことだったと思う。あの瞬間、全国各地でみな NHK の生中継を食い入るように見守っていたのではないか。大真面目な話、ほんとうにあの4分半こそ、ひとりびとりの想いがひとつになった瞬間だったんじゃなかろうか。と、ずいぶん勝手な独善的感想を書いてしまったが、ほんとうに超一流の人ってやっぱり超一流なのだ、とも感じた。年齢ではないですね。あとで地元紙の記事見てはじめて知ったのだが、羽生選手は約2か月間、陸上での基礎トレーニング以外の時間は解剖学や方法論関連の論文を読み漁っていたのだそうです。コーチのブライアン・オーサー先生いわく、「これは運ではない」。

 フィギュアスケート競技での五輪連覇というのはじつに 66 年ぶりの快挙、ということもはじめて知りまして、66 年前に大記録を打ち立てたディック・バトンという元フィギュア選手のツイートも紹介されてました。興味をそそられたのでさっそくのぞいてみたら[ いつものように下線強調は引用者 ]、
... Hanyu - Quad Salchow, beautiful easy and light
... Fernandez - strong, musical and theatrical.
... Uno - A powerful sparkplug,
... Bravo Hanyu, Records are made to be tie( sic )

とまあ、観戦しながら iPhone なのか iPad なのかはたまた Macbook なのかはわからんが、Twitter 上で実況してますねぇ。でも「記録は並ばれるためにあるものだ」なんてさすが。いい表現なのでメモっておきました(
笑 )。おなじ人さまの tweet を見るなら、ここの国の大統領の品性下劣丸出しコメントなんかよりよっぽど精神衛生によい。

 ところで SP の日の夜、NHK ニュースで羽生選手のことを報じた NYT 記事が紹介されてまして、なんと 'Yuzuru Hanyu Shines' なんて見出しだったそうです。確認しようと思って電子版見たら、いつのまにか( ? )'Yuzuru Hanyu Commands the Stage' に差し替えられていた( 泣 )。電子版は紙の新聞とちがって、ちょちょっと訂正削除ができるということか( ちなみにこういうことはよくある )。やっぱり向こうの人の感覚って、「ユヅル、光り輝く」という、地元を舞台にしたスクールアイドルの物語じゃないけどいかにも抒情的で日本人好みのタイトルより、もっとパンチの効いた「ユヅルの独擅場 / ユヅルの独り舞台」みたいな言い方のほうが広告費が稼げるとでも思ったのかな[ どこのメディアのコメントかは知らないけど、羽生選手のフリーの演技を 'ethereal' と評していた。TV 字幕の訳は「この世のものとは思えない」とかなんとか、そんな日本語だったが、字義通りには「エーテルのような」。人間離れしていかにも空気の精みたいに軽やか、あるいは妙なる美しいスケーティングだった、ということなのだろうけれども、たしかにこれうまく日本語にならない見本のような言い回しではある。昔のさる音楽評論家の言い方だったという「絶美なる」なんかはどうかな?]。

 羽生選手、とくると、例の黄色のクマさんの山。海外メディア記者( ほんとは Japan Times みたいですけど )が記者会見で挙手して、なに訊いてくるかと思ったら、なんとそのプーさんのことだった( … そんなことどうでもいいじゃないかって TV の前のおっさんはひとりごちていた。ちなみにバトン氏も 'Hanyu - Beautiful Programs , beautiful choreography it looks like its raining teddy bears.' とコメントしていた )。でもその受け答えがまた、ふるってました。「地元の子どもたちに寄付する。いくつかは持って帰るけど」[ → 関連報道記事 ]。

こんなこと書くと当の羽生選手からクレームがくるかもしれないが、彼はいまの日本がとっくの昔に失ってしまった、いわゆる「サムライ」精神の化身みたいな人だと思っている。たとえはヘンだが福音書の有名なたとえの表現を借りて言えば、

'For this Samurai spirit was dead and is alive again; it was lost, and is found.'

[ 付記。スペイン代表のフェルナンデス選手もみごと3位入賞で Congrats !! 愚直にやりつづけることの大切さをあらためて感じたしだい。この人もまたある意味スペインのサムライ、いや中世騎士道の体現者のように思える。受け答えとかいちいちすばらしいし、彼の性格のよさ、あたたかい人柄があふれてますね ]

He made history indeed !! #congrats #yuzuruhanyu #shomauno #javierfernandez #pyeongchang2018 #winterolympics2018 #wintergames2018 #figureskating


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2016年07月24日

「ならぬことは … 」⇒ 「レリオ、または生への回帰」

1). 以前、ここでも取り上げたスペインの思想家オルテガの『大衆の反逆』。蒸し返しになるけどその本にこういう一節が出てきます。
「世襲貴族」はどういう生を生きることになるのか、彼自身の生か、それとも傑物であった初代の生を生きるのか? そのどちらでもないのだ。彼は他人の生を演ずるように、つまり、他人でも自分自身でもないように宣告されているのである。当然ながら、彼の生は真正さを失い、他人の生の単なる代理か見せかけに変質せざるをえない。… 生とはすべて、自己実現のための戦いであり、努力である。私が自分の生を実現させるに当たって直面する困難こそ、まさしく私の能力を目覚めさせ、行動をひき起こすものなのだ。( p. 146 )
 また、いま読んでる Kindle 本( ほんとは「紙の本」で読みたかったのだが、これしかフォーマットがないというのでしかたなく )に、「 … われわれの欲望はほとんどの場合、なにが欲しいかではなく、ご近所さんが持ってないものを手に入れたいという欲求から発している[ ゆえにけっして満たされることはなく、つねに「欠乏感」に苛まれる ]」という一文にもお目にかかったりした。*

 なにが言いたいのかというと、例のバカげた騒動でして … こういう言い方するとなに言ってんだと怒られそうだが、このさいハッキリ言わせていただくと、VR だか AR だかなんだか知りまへんが、しょせんはゲームの世界の住人( いや、文字どおり「怪物」か )をわざわざ「現実世界」にスーパーインポーズしてまでピコピコゲームさせることはないでしょう !!! … おかげでなにも知らないワタシは( 日本上陸は 20日、との某 IT 系 Web ニュース記事に引っかかっていた人 )その「当日」の金曜日、三島駅前の交差点で信号待ちをしていたら ――「オイディプスの最新の化身が、いまもつづく美女と野獣のロマンスが、今日の午後、42 丁目と 5 番街の交差点に立ち、信号待ちをしている( J. キャンベル『千の顔をもつ英雄』)」―― かわいらしいセーラー服姿の怪物の集団がわさわさやってきた。向こうはまるでワタシが見えてないらしく、こちとらは車道に押し出されかけて、危うくオイディプスならぬピカチュウに間接的に殺されそうになった( 瞬間湯沸し器状態 )。

 開発元は Niantic( 発音はナイアンティック、Νίκη をニケと呼ばずナイキと発音するのとおなじ流儀 )とかいう Google からスピンオフしたスタートアップで、つい先日、お台場に世界中からスマホ持った人が集まったとか言う Ingress というイベント( という言い方でいいのかどうか、当方は関知せず )とおなじ会社。もちろんポケモンなので本家本元も共同で開発しているわけなんですが … この手の携帯端末向けゲームというのは以前よりあったとは思う。ただし、本末転倒もここまでくるともう … と、深き淵よりの嘆息のみ。「無理が通れば道理が引っこむ」ってやつですかね。後先考えてないとはこのこと。これがどれだけ潜在的な危険性をはらんでいるのか、開発元は認識しているのだろうか? あるいは喜々として「ミジュマル、ゲットぉ!」とか興じている方々は? 英語で言えば、preposterous ってやつ( 原義は「おしりが前に」、ようするに後先逆ということ )。「危ない」ということは、たとえば配信開始しておきながら、あらためて周知徹底を図る、あるいは関係機関にも働きかけている、という動きから見ると、開発元も認識しているからで … 先行配信された米国やドイツなどの海外ではさっそくやらかしている御仁が出てくるしまつ( そのうち訴訟沙汰にまでなるんじゃないかと危惧している人 )。

 自家用車を運転している人、とくに「ゴールドな」人にとって、これはハタ迷惑きわまりないと思う。もっとも、車高の高いバスなんかに乗っていて信号待ちで停車している隣のレーンのクルマを見ると、あろうことか運転しながらスマホいじってる人もときおり見かけたりする。どっちにしても危険行為にはちがいなくて、その当人だけの問題ではすまされない。ワタシだってピカチュウに殺されたくない、冗談じゃないですよ( こんなことになろうとは … )。

 逆に、いまどきの若い世代ってある意味不幸だ、とも感じる。どういうことかって言うと、
 便利さという名のもとに科学によって人間はどんどん怠け者になってゆく。さらにエレクトロニクスによる映像文化の革命的な進歩は、人間の心を表面的な愉悦で虜にし、安易な受身人間に育てていく。しかも最悪なのは人間から肝腎要の想像力と思考力を奪い取ってしまうことだ。画像は決定的ともいえるもので、その先に想像力の広がる余地はまことに少ない。
 一方、読書による活字から広がる想像力にはリミットがなく、バラエティにとんだ発想が派生的に自然に生まれてくるのだ。
 映像過多の世界に育った子供たちの精神は枯渇し、誰もが画一化され、最新テクノロジーの機器のもたらす血の通わぬ非情さに人間味を失う。ピストルの引き金を絞れば弾が飛び出しどういう結末を招くのか、刃物を突き出せばどういうことになるのか、想像力の欠如した人間には考えも及ばない。ゲームと現実との境も消える。―― 児玉清『すべては今日から』pp. 267 −8
 引用したオルテガや、児玉さんのことばをしかと噛みしめていただきたい、と思う。ちなみに引用した児玉さんの文章(「認めてしまっていいのか」)は、2000 年に書かれたもの。世界各地の狂乱(?)ぶりを見ると、十年一日(「じゅうねんいちじつ」と読む )どころか、15 年一日ですな。なんていうか、Google にせよ Amazon にせよ Niantic にせよ、しょせんはこういうコンテンツプロバイダーという巨人の手の上で踊らされてるだけじゃないかって気がするんですね。

 VR / AR について言えば、もちろん技術なのでそれ自体に倫理もクソもなくて、とどのつまりエンドユーザー側にすべてはかかってくる、とは言える。利用方法しだいではたしかにこれすばらしいでしょう。たとえば黄金崎[ こがねざき ]なんか、1989 年 4 月の大崩落以来、幸田文さんの随筆じゃないがずっと「崩れ」つづけて、あれから 27 年が経過したいまじゃすっかり様変わりしてしまった。地質的に脆弱で( 変朽安山岩 )、しかも台風や冬の西風による暴浪をまともに喰らう岬という地形ゆえしかたないと言えばしかたないのだが、たとえばタブレット端末をかざして岬を見たら、在りし日の黄金崎の姿が出現する、あるいは山側を振り返ればかつての旧国道 136 号線が現れる、なんていうアプリはありかな、と思ったりする( 観光協会の方、ご一考を )。†

 以上、ゲームするのはかまわないが、とにかくいま自分がしていることに対する責任と、これをしたらそのあとどうなるか、という想像力まで捨てるな、と言いたい。
… わたしたちが生きていることは奇跡だ。いろいろな出会いがあり、チャンスがある。人間は自分の人生を方向づけることができる。…… スーパーでものを買うことはできるが、人生の何年間かをそこで買うことはできない。何かを買うときは、人生の一部の時間を使って得たお金で払っているのだ。人生の時間を尊重しなければならない。人生を享受するための自由な時間が必要だから。―― ウルグアイ元大統領ホセ・ムヒカ氏

2). 話変わっていまさっき見たこちらの番組。いやー、もうビックリ。知ってる人にとってはそんなことも知らんのか、という話ではあるが、しがないワタシはいまのいままで、ベルリオーズの代表作「幻想交響曲 Op. 14 」に、「続編」の Op. 14b なる作品があるとは知らなかった。

 この作品、「レリオ、または生への回帰」は、端的に感想を言えば、「意識の流れ」の音楽、それもヴァージニア・ウルフ、キャサリン・マンスフィールド、ジョイス、フォークナーといったいわば「本家」より先んじているという点でまず驚かされる( もっとも、『トリストラム・シャンディ』という先行例はあるが、心理学など、近現代的な手法として見た場合 )。そうか、ベルリオーズは「幻想交響曲」とセットで演奏するようにと言っていたのか。でもそうするとお客はえんえん2時間も座席に縛られることになる( 2時間と言ったって、映画とはちと話がちがいますし )。そのためかどうかは知らないが、この作品はめったに演奏されないらしい。なんてもったいない。ワタシなんか、「幻想 〜 」のほうはなかば食傷気味だったから、もう新鮮この上ない音楽体験だった。モノローグあり、テノールやバリトンの独唱あり、合唱あり、幻想曲ありで、ごっちゃごちゃのごった煮もいいところなんですが、そこがまたいい! 形式なんかクソくらえ、オレはこう書きたいんだ、こう響かせたいんだ、諸君、だまって聴きたまえ !! みたいな自意識過剰丸出しのロマンティシズムがすばらしい。このとりとめのなさはどこか『フィネガンズ・ウェイク』にも通じるような気も … しないわけでもない。ま、作曲コンクールに出したら「選外」にされちゃいそうな、文字どおり型破りな、とほうもない作品ではある。でも、たまにはこういうはっちゃけた作品というのもいいではないか。ワタシなんかは終楽章での「空気の精たちの合唱」を聴いているうち、どういうわけかブラッドベリの名作短編『みずうみ』を思い浮かべてしまった。というか、そういう感じのショートショート1篇が、自分でも書けそうな気がしてきた( なんの根拠もなく )。こういう「とりとめのない」音楽というのは、あらたな作品を生み出す力と勇気をも聴き手に与えてくれるものなのかもしれない。

* ... [ 原文 ]:Much of our desire finds its source not in what we want, but from our desire to keep up with the Jones's[ sic ].

† ... テクノロジーがいかに文明社会を形成したか、あるいは影響を与えたかについて考察した本として、こちらのサイトで紹介されている「紙の歴史」ものの新刊洋書は、ちょっと興味あります。ま、プラトンはツイートしたりなんかせんでしょうな( 苦笑 )。とはいえ、
' ... It’s not technology that’s to blame for this current state. As Kurlansky writes, it’s merely a response to our demands: faster, cheaper, and “an innate desire for connection.” These demands have delivered us to today, a rare place where the challenge now isn’t a lack of information, but perhaps too much of it. '
というのは、どうなんでしょ。情報過多に見えて、そのじつこれほど必要な情報を読み解く能力( リテラシー )のない時代って過去になかったと思いますよ。たとえば観天望気とか、「ブラタモリ」じゃないけど「ここは断層谷だ」とか、あるいは自然を読んで身を守るといったたぐいの能力ですね。「ポケモン探しで、みんなが外に出るようになって、いつもの風景が新鮮に見えた」からいいじゃないかっていう向きもいるが、そういう人ほど、ふだんからなにも観察していない。端末画面上の怪物探しに夢中になってるあいだに、ツマグロヒョウモンチョウが道端に咲くオオイヌノフグリに舞い降りても気づくわけがない。新しい発見は端末機械の表示する仮想現実という名の幻影にすぎず、「現実のいまここ」ではない。とにかくそういう生活の知恵ないし情報能力って、今の人より昔の人のほうがはるかにあったと思います( 身近な例で行くと、国指定天然記念物の「丹那断層」は箱根峠あたりから見るとはっきりとその爪痕が見え、これが芦ノ湖からはるか伊豆市までつづいていることがわかる )。景勝地に来て、ただきれいな景色、とだけ感じているうちは、そこから発せられる「情報」をなにひとつ受け取ってはいないんです[ 芦ノ湖ついでに、富士山頂から芦ノ湖と黄金崎が同時に見えた日の翌日は荒天になりやすい … という観天望気もあります ]。

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2016年02月14日

ジャヌカン、「重力波の音楽」、etc.

 この前「スター・ウォーズ」サーガ最新作を見に行ってきたばかりで ―― しかもラストがスケリグ・マイケルという ―― 興奮冷めやらぬなか、こんどはほんとの宇宙、それも遠い遠いはるか彼方の、なんと 13 億光年( !! )もの彼方からとんでもない「波」がこの地球までやってきて、それを国際科学者チームが捉えたというこれまた衝撃的なニュースが飛びこんできまして、この方面にまるで疎い人間も( これでも昔は天文少年みたいなところはあった )久しぶりにわくわく感を味わっているところであります。


 'We have detected gravitational waves. We did it!'

 米国レーザー干渉計重力波検出器[ LIGO ]研究所のデイヴィッド・ライツェ所長が「重力波観測一番乗り」を果たした歓喜からか、上気した面持ちで発表した会見の模様が何度も TV ニュースに登場しましたね。たしかにこれすごいことです … とほうもない質量を持つブラックホールが、しかも2個も !! まさに「合体」するそのときのこれまたとほうもない重力波、というか重力「嵐」みたいなものが 13 億年もの時空を文字どおり飛び越えて昨年9月ごろに、しかも 観測装置 LIGO の試験中に(!)たまたま捉えた、というのだから。まさにびっくりポンや。

 だいぶ前、故南部陽一郎博士ら日本人研究者3名がノーベル物理学賞を受賞したとき、「クォーク」とか「反粒子」とか、そんなことを古代のグノーシス神話とからめてここでもちょこっと触れたことがあったけれども、「フォースの覚醒」と「シネマの天使」を見に行ったついでに立ち寄った静岡駅前の本屋さんでたまたま「みすず書房フェア」というのをやってまして( もちろん例のピケティ本もデンと陳列されていたけど、そっちではなくて[ スミマセン … ] )こういうささやかな著作を買った。当方、キャンベル本にも言及の出てくるミルチャ・エリアーデとかの著作は図書館にて眺めたことはあったけれども、こちらの「構造主義」についてはまるでさっぱりではあるが、著者レヴィ−ストロースが英語で( !! )行ったという講演録であり、ぴろっと拾い読みするとたとえば「バッハの時代に形をととのえたフーガ形式は、ある種の神話、つまり … 」なーんてあるもんで、つい買ってしまった( 苦笑 )。帰宅してワイン呑み呑み読みはじめたらけっこうおもしろかったので、読了したらここでもなにか書くかもしれません、といつもこればっかでごめんなさい。ようするに、昔の人の思想ないし神話体系には、なにかしら現代の、しかも最先端科学と思われている分野と不思議なことにつながりがあったりする、ということが言いたいのでして( たとえば古代世界のヒエラルキーは宇宙秩序を模したものとしての神話体系と密接な関係があり、その最古の例がシュメールで発達した神聖都市国家文明 ) … そしてそうそう、今回はじめて「検知」されたという重力波を、なんとなんと「音楽」化してしまう試みまでされていたのでありました。こっちにもまたビックリ ↓

 

 音楽ついでにこの前の「古楽の楽しみ」では、クレマン・ジャヌカンの楽しい声楽作品もいくつかかかってました …「パリの物売りの声」、「女のおしゃべり」といった世俗歌曲作品を聴きますと、なんというか当時の市井の人々の活気と言いますか、息遣いみたいなものまで感じられてすごく生々しく、というかはっきり言って前衛的、ポップでさえある! 以前にもこの番組でジャヌカンのこういった世俗歌曲を耳にしたことがあったが、オノマトペや効果音を多用したりと、ダ・ヴィンチが生きていたころの音楽とはとても思えない。もっとももっと真面目な、厳格な模倣対位法によるラドフォードなどの宗教声楽作品もかかってましたけれども。この時代の音楽ってなんか温度差(?)がはっきりしていておもしろいですね。いずれにせよこういう壮大な「宇宙の調べ」に耳を傾けていると、日々報道されるたぐいのイヤなニュースだの醜聞だのからつかのま解放される気分になる。

付記:突然ですがこちらの最初の設問、どう思われますか? 

 見てのとおり今年度のセンター試験の「世界史B」の第1問です。で、これはワタシにかぎったことじゃないと思うんですけど、たとえば「下線部 (1) に関連して … 」なんて書かれると、いわゆるカロリング・ルネサンスに関することかなってまず思いますよね ところが選択肢を見てみると、ナポレオン3世は … とか、イヴァン3世は … とか、てんでカンケイない事項ばかり羅列してある。もっとも公正を期して断っておけば、ほかの設問でもこういうわけのわからん選択肢が並んでいるわけじゃないです。が、こういう意味のない選択肢から解答させるってのはもうやめるべきではないかと思うのです(「正解」以外の選択肢はみな誤ってるのは当然だろ、という突っこみはなしでお願いします。そういうこと言ってるんじゃないので )。「下線部に関連して … 」ったって、「カール大帝」とはなーんも関係ない人[ と時代 ]ばっかですし。なんというか、辞書に載ってる単語をなんの脈略もなく、ただ順番にやみくもに記憶しようとしているようなもので、そんなんじゃ「世界史」という科目に親しみを感じるわけがない。記憶というのは芋づる式につながってゆくのが理想で、こういう設問を繰り返されれば受験生でなくてもだれだって辟易するし、嫌気も差すってもんですよ。

 ついでに今年の英語の試験問題[ PDF の 27 ページ以降 ]を見て印象に残ったのは、やはり音楽がらみでオペラの窮状(!)を綴った読解問題。設問じたいは、高校時代にまじめに勉強していれば大丈夫でしょう(?)。「この一節に最適なタイトルは?」と問われてまさか 'How to Make Money in Opera' なんて回答する生徒さんはいまい … それはともかく、
... Society seems accept the large salaries paid to business managers and the multi-million-dollar contracts given to sports athletes.
というのは、なんだか『 21 世紀の資本』の一節かと思うような一文でした( athletes ついでにさらに脱線すれば、athlete's foot はいわゆる水虫のこと )。

 花粉症にはつらい季節到来 !! 巷はやれヴァレンタインだのなんだのとかまびすしいけど、2次試験の時期ですね … 受験するみなさんは体調を整えて、がんばっていただきたいと思います。

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2015年06月14日

あら、米国にあったのね! 

1). まずけさ、知ったばかりの ↓ 。知らなかったけれども、この超有名な肖像画、いままで米国に保管されていたんですね !! ビックリした。とにかくぶじ「里帰り」したわけなので、まずはめでたしめでたし、ということか。


2). けさ、再放送にて全編聴いた、こちら。なんでもリクエストのお題は「除湿クラシック」だそうでして … 番組後半、「宗教曲で除湿」、そして「オルガン曲で除湿」ってなんだかよくわからないコーナーになってしまいましたが … とプレゼンターのゲレンさんが言っていたけれども、そうですねぇ、気持ちだけでも、すこしは爽やかになりたいものです。ほんとこの季節は蒸してて個人的にかなりツラいし、まったく depressing ですわ。

 ところで思わぬ収穫もありました。シュヴァイツァーのオルガンの師匠、シャルル・マリ・ヴィドールの「バッハの思い出」という作品。これはおもしろいですね、知らなかった。そして、かつての OTTAVA Stella でときおりかかっていた、ブクステフーデのコラール幻想曲「暁の星のいと美しきかな BuxWV. 223 」 。これはたぶん、ジュリア・ブラウン盤だと思う( ちがっていたらごめんなさい )。ついでに深夜帯におなじくときおり流れる、バッハの「小フーガ BWV. 578 」は、これはまちがいなくヴォルフガング・リュプザム盤によるもの。この音源をはじめて聴いたのも OTTAVA Stella で、その解釈も演奏もとても気に入ったので、昨年アルバムを買いました。

 その前にかかっていた、エルガーの「永遠の光」、フランクの「天使の糧」も、音源は不明ながら、よかった。というか個人的には、そのまんまラテン語表記で言ってくれたほうがよかったけれども。エルガーのほうは、有名な「ニムロッド」の合唱ヴァージョンですね。

 オルガンついでに、こういうのもあります。「ベト6[「田園」ですね ] 」も大好きなので、こちらのオルガン独奏盤とかないかしら、と思って探してるんですけれども、あいにくこっちはないみたいです orz

追記:いま聴取している林田さんの Salone 。「ビバ! 合唱」でもおなじみだった花井哲郎先生と対談してます。花井先生主宰の合唱団によるギヨーム・ド・マショーの「ノートルダム・ミサ」とかかかってましたが、なによりおもしろいのは、西欧の修道院についてのお話。なんと !! 花井先生自身、修道士志望だったんだとか。どうりでお詳しいわけです( ヒマさえあれば修道院に「入り浸って」いたらしい。「客人を受け入れるのも、修道院の大事な仕事」)。聞き手の林田さんは、やはり、というか、ローマカトリックにおける修道院制度、「聖ベネディクトゥスの会則( 「戒律」というのはなんかこわいじゃないですか、ムチ打たれるようで、とかおっしゃっていましたが、たしかにアイルランド系、とくに聖コルンバヌスの修道院ではそんなおっかない「戒律」のもとで修道士が生活していた … というのはまぎれもない事実ではあるが、そういう「きょくたんさ」に走らないために普及したのが「ベネディクトゥスの会則」であり、やがてクリュニーとかシトーとかのベネディクト系修道会が幅を利かせ、アイルランドのケルト系修道院は廃れていった … という背景がある )」のこと、聖務日課のこと(「修道院ってけっこう忙しいんですよ」)、中世の「宮廷愛」と聖母信仰のこと、については不案内のようで、これらの花井先生のレクチャーを興味津々、といった感じで熱心に聞いているようすがビンビン伝わってきました。花井先生は、「聖母礼拝堂」とか「寄進礼拝堂」についてもその該博な知識を披露してました( これについてはこちらの拙記事参照、またこちらのサイトも役に立ちます )。

 「こんど修道院にいっしょに行ってみませんか?」と水を向けていた花田先生のお話は、この手の音楽を聴く人はぜひとも耳を傾けてほしい、と門外漢でも思うほど中身が濃くて、わかりやすいと感じたので、かく申し上げたしだい。再放送でも再々放送でもいいので、聴いてみてください。何事もそうだろうが、やはりこの手の宗教音楽作品の背景について、知ると知らないとでは、天と地ほどの差がある。

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2015年01月13日

'The pen is mightier than the sword' って言うけれど …

 まずはじめにお断り。「意見には個人差があります」。先日、フランスで起こった一連の悲しい事件について、すでにこちらの言いたいことを代弁している記事がいくつかございます。でも、「こういうふうに思うのは、西洋かぶれを自他ともに認めるワタシもしょせん、日本人、東洋の人間なんだなあ」と痛切に感じたしだいですので、手短に書き留めておきたい( → 関連参考記事1関連参考記事2 )。

 今回の痛ましい事件でまず違和感を持ったのは、「言論の自由への攻撃を断固許すな !! 」という轟々たる声、声でした( そしてちょうどいま、たまたま手にしているのがそんな「大衆」をテーマにした、スペインの思想家でジャーナリストだったホセ・オルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』という本だったりする )。

 ワタシはテロリスト集団のくせして「国家」を気取ってるトンデモ連中を擁護するつもりはないですし、またこういう組織のトップがけっきょく、「宗教( もっと言えば、「砂漠の一神教」 )」をタテに若い人たちをそそのかして自爆テロなどに駆り立てている、というのはもちろん論外だと思ってますし、根絶すべきと考えてます。

 ただし、今回の一連の流れを見て思ったのは、やっぱり西洋の人も日本人同様、根っこはちっとも変わってない、ということでした。ジョルダーノ・ブルーノのころと変わってないじゃないか、と。

 自分たちと異なる思想信条の持ち主に対する想像力というのが、やはり決定的に足りないのではないかと思います。襲撃された新聞社も、当局からさんざん自粛するように言われていたようですし。「ペンは剣よりも強し」というのは、おなじコインの表と裏で、暴論だってありますし、剣以上に他者を傷つけたりもします( アイルランドと日本の神話にも、こういう人間のことばの二重性にはやくも気づいていたとおぼしき教訓とかが出てきます。「禁忌」を意味するゲッシュ geis とか、相手を倒す「ことばの矢」とか。このようなことばの持つ「力」については、以前ここでも書いた『西方風の語り』の主題にもなっている )。

 「諷刺」というのは、まるで異なる価値観、常識、通念、そして ―― これがもっともやっかいなのだが ―― 異なる宗教を奉じている者どうしでは、笑ってすまされる問題じゃないはずです。リンク先記事にもあるとおり、諷刺には「暗黙の了解事項」というものが厳然と存在する。ユダヤ人に対する差別的発言とか、黒人に対する侮蔑表現とかは当然、欧州でもだれに訊いたってタブーだって返事が返ってくるでしょう。イスラム教の創始者と言われている預言者を皮肉る、というそのだんびら、sword によって、あくせく働き、まっとうに暮らし、メッカへのお祈りやラマダーンを欠かさない市井の信徒たちをどれだけ深く傷つけているか … そういうふうに思わないのかな? ちょっとスジちがいかもしれないが、こういう西洋人の傲慢さは、たとえば太地町のクジラ漁を「告発した」と主張する手合いの行動( というより、妨害活動 )なんかと通底しているところがあるように思う。その昔、ちょうどメルヴィルが『白鯨』を書いていたころ、さんざクジラを獲って油をこさえていたのは、どこのだれなんだろうか( ここで言っているのは伝統漁法のことであり、商業捕鯨一般についてではない )。ここで言っている信徒というのは、もちろん過激派とか原理主義者ではない、ごくごくふつうの庶民のことです。

 でも、こういう問題の根っこはほんとうに深い。イスラエルとパレスティナの問題とかがそうですよね。自分たちの無知無理解をタナにあげて、「一方では正しい」言論の自由、あるいは「表現の自由」を声高に叫ぶだけじゃ、ことの解決にはなんら役に立たないと思う。もっと言えば、どっちの陣営にせよ、とどのつまりたんなる「原理主義者」じゃないかっていう気がしてならないのです。原理主義に凝り固まった者どうしが互いを認め、わかりあえる、なんてことはあろうはずがありません。昨年亡くなった吉本隆明さんだったら、なんて言うのかな ?? 埴谷雄高さんだったらどう思うのかな ??? 伺ってみたい気がする。

 それと、真の意味での「言論の自由」って、たとえばこの前、ノーベル平和賞授賞式のスピーチで、マララ・ユスフザイさんが語っていたことのほうが、よっぽど正鵠を射ている気がする。「ペンは … 」というのは、つまりはとくに若い人、子どもたちにペンと本を与え、しかるべき教育を施すことにこそあるのではないか。やたらと人さまの信仰を茶化すことじゃないと思いますよ。

 以前もおんなじことを書いたので蒸し返しになるけれど、仏人のメル友がイラク戦争のとき、「正義のための戦争なんてない !! 」っていみじくも書いてました。で、聞くところによると、そのときの戦争が、どうやらイスラム国をこの世に出現させてしまったようなのです。なんたる皮肉だろうか。大量破壊兵器なんてけっきょく出てこず、当時の最高司令官はいまだお元気のようで、バケツに入った氷水をアタマからかぶってましたかね( いまのフランスの「空気」が、なんだか「 9.11 」直後の米国とカブってしまうのは気のせいか? )。キャンベル本に繰り返し出てくる主要テーマのひとつが Authority とどういう関係をとるかでして、ようするに他者から一方的に押しつけられた権威のもと、みずからの心の声に従わない、心の意に沿わない生き方をせざるを得ない、そんな世の中を、たとえばエリオットは「荒地 Waste Land 」と呼んだ、と。で、そういう上からの圧力に屈したのはたとえばアベラールやダース・ヴェイダーであり、それとは対照的に、なんとかみずからの心の声に従って抗ったのが、たとえばエロイーズだったり、ルーク・スカイウォーカーだったり、トリスタンとイゾルデだったりする。「あなたの神を、わたしに押しつけないでください」。そして自分も他者も、それぞれの生命の犠牲を不当に要求する / されるようなことも断じてあってはならない、と思う。最後に与謝野晶子のこの有名な作品の一節を引いておきます。『フィネガンズ・ウェイク』でジョイスが絶叫しているように、とにかく「地には平和」を! 
あゝおとうとよ、君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや

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2014年12月30日

『ウィンチェスター・トロープス』より一世紀は古い、らしい

 だいぶ前、ここで『アイルランド地誌』を取り上げたとき、当時のアイルランドでは「複雑な」ポリフォニー音楽が奏されていたらしい … みたいなことを書き、そしてこちらの記事では『ウィンチェスター・トロープス集』のこととかもすこし言及したけれども、またしてもその英国で、しかも大英図書館で、さらに時代を遡る「譜例」が発見されるとは思いもよらないことでした( ちなみにこちらの記事では、「最古の合唱音楽か」という見出しになってます )。

 日本語ではこちらのサイトで、この新発見についての経緯がかいつまんで書いてありますが、この記事の出典つまりソースが The Guardian 紙なので、そうそういい加減な記事じゃないはず。もっとも、この「余白に書きこまれた曲譜」というのが、再現してもたったの数秒でおしまいみたいなほんとに断片そのもの。ただし、同記事中、「アメリカのセント・ジョンズ・カレッジの大学院生で大英図書館のインターン生として勤務している … 」というのは、形容詞のかかり方がまずい。もちろんこの博士課程のインターンの方は、聖歌隊で有名なケンブリッジ大学セントジョンズカレッジの学生さんなので。以下、発言部分を拙訳にて紹介してみます。↓

 「 … 興味深いのは、ここでわれわれが見ているのは多声音楽の誕生ではあるものの、こちらの予想とは異なる姿を見ている、ということです。一般的に、多声音楽は一連の決まり事と、ほとんど機械的な慣習から発展したみたいな捉え方をされています。この曲譜は、多声音楽の発展成立に対するわれわれのそのような認識を変えるものです。作曲者がだれであれ、彼はそんな決まり事を破壊しているのです。この曲譜を見ると、10 世紀当時の音楽が流動的な、発展途上の形式だったことがわかります。当時の音楽慣習は従うべき道というよりもあくまでひとつの出発点に過ぎず、あとは新しい作曲法を求めて、めいめいがそれぞれの道を歩んでいったのではないでしょうか」。
He said the unknown composer was already experimenting with the style, breaking the rules as they then stood. “What’s interesting here is that we are looking at the birth of polyphonic music and we are not seeing what we expected. Typically, polyphonic music is seen as having developed from a set of fixed rules and almost mechanical practice. This changes how we understand that development precisely because whoever wrote it was breaking those rules. It shows that music at this time was in a state of flux and development. The conventions were less rules to be followed than a starting point from which one might explore new compositional paths.”

発見者のヴァレッリ氏( 名前からしてイタリア系、ほんとに米国の人 ?? )によると、この曲譜の書きこまれた「ランス司教 Maternianus の肖像画」は、現在のデュッセルドルフ、もしくはパーダーボルンあたりの修道院が出処らしいです。ところでこの人って … 祝日は4月 30日らしいけれど、あいにく Catholic Online サイトにも載ってない。どんな司教なのかな? で、ヴァレッリさんが出処として目星をつけたきっかけになったのもこの聖人の祝日の日付でして、なんでも当該ページのてっぺんに、べつの写字生が「祝日 12月1日」って追記してあって、さらにはドイツ一部地域ではこの聖人を 12月1日にお祝いしていたらしいです。

 いまひとつわかんないのが、やはり Eastern Palaeofrankish という用語。シャルルマーニュの帝国( フランク王国 )の一部地域で使用されていた記譜法なのかな ?? とすると、当地の宮廷で使えていたアイルランド人学者に修道士連中なら、「ああ、これね」ってふうに読めた( 楽譜を解釈して、歌えた )のかもしれない。

 … ああ、そういえば今日の NHK-FM、「西村由紀江の古楽器さんぽ II」、再放送聴くの忘れた。orz 「エスタンピー トリスタンの哀歌」って、すごく興味あるんだが … 「悲しみの人」トリスタンは竪琴弾き、キャンベルふうに言うと、リラ( 竪琴 )弾きつながりではトリスタンはヘルメス → アポロン → オルフェウスの系譜に連なることになる。もっとも彼のほんとうの出自は、キャンベルの恩師ハインリッヒ・ツィマーの父上のケルト学先駆者ツィマー氏によると純粋にケルト系。8世紀後半というから、ラテン語版『聖ブレンダンの航海』の祖型が成立したのとちょうどおんなじ時代に、「タロルクの息子ドラスタン」なる人が実在していたそうで、その人にまつわる伝説が最古のウェールズ版「トリスタン伝説」ということになっているらしい。* でも、その最古級ヴァージョンであるウェールズ本は現存していないので、この人に関する詳細は不明。ゴットフリート・フォン・シュトラースブルクや「ブルターニュのトマ」など、こんにち伝わっているトリスタン物語は 11 世紀以降、ブルターニュ半島に伝わったのちのもので、ウェールズではトリスタン(=ドラスタン)の父親の名前が「タロルク Talorc 」なのに、ゴットフリート本では「リヴァリーン」になっています、って今年最後の脱線をしてしまった。ようするに、ハープつながりだったんで、西山まりえさんのゴシックハープ独奏による「トリスタンの哀歌」を聴きたかった、ただそれだけ( エスタンピーとは、ロンド形式に似た当時のダンス音楽を指す )。

* ... J. Campbell, The Masks of God, Vol. IV:Creative Mythology, pp. 204−5

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2014年07月21日

こんどは国際バッハコンクールで快挙 !! 

 ここ数年、国際的な音楽コンクールにおいて邦人、とくに若い演奏家の入賞が毎年のように報じられ、音楽好きとしてはまことにうれしいかぎり。

 そんな折も折、こんどはライプツィッヒから朗報が。なんと、国際バッハコンクールヴァイオリン部門で弱冠はたちの若き俊英が最高賞入賞の快挙を成し遂げたという !! BRAVO !!! *

 今回、みごと第1位を獲得された岡本誠司さんというヴァイオリニストは、まだ東京芸大の2年生 … なんですって。すごい新星が出現したものだ。梅雨は明けたみたいだけど個人的にはあんまり晴れ晴れしない毎日を送っていたので、なんだか元気をもらったような、ひさしぶりにいい知らせでありました。

 NHK 総合の夜のニュースでも報じられていたので見たんですが、聴衆のひとりがコメントしていたことばが印象的でした … 「一音一音が真珠のように粒がそろっていてすばらしかった」とか、そういう趣旨のことを言っていた。… バッハでヴァイオリン、とくると、やっぱあれかしら、「シャコンヌ」。岡本さんの独奏で聴いてみたいなあ。

 「子どもころからバッハが大好き」だそうで … 「基本はバッハ」、と思ってるワタシとしてはまたしてもうれしいかぎり。心強いかぎりです。

 とくにバッハ弾き、というわけじゃないけど、静岡県にもすばらしい若手演奏家は何人もいまして … 何年か前に国際コンクールで入賞した掛川市出身の長尾春花さんもいますし … そうだ、掛川と言えばピアノの佐藤元洋さんもいます! やはり東京芸大に在学中で、ベルリンに留学中とか。個人的にはおおいに期待しているピアニストなので、静岡市あたりでリサイタルとか開いてくれればいいなあと思う、今日このごろ。

 … そういえばもうすぐ土用の丑の日。肝心の「うなぎ」が心配ではあるけれど、たまには蒲焼きでもしっかり食って、スタミナつけないといかんな … 暑中お見舞い申し上げます。

*... ご本人の公式 Twitter アカウント投稿によると、第1位のほかに、聴衆賞もあわせて受賞したとのことで、ご同慶の至りです。

本題と関係ない追記:「鶴瓶の家族に乾杯」、次週はまさかの( てっ ?! )西伊豆町( しかも安良里漁港 )! 昨年のいまごろはとんでもない水害に見舞われていた。彼岸参りに行ったときに浜川をすこし遡ったら、やはりそのときの爪痕ははっきり残っていた。Time flies ... あともうすこしでお盆か … 。

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2014年06月23日

祝 富岡製糸場世界遺産登録決定&OTTAVA 存続決定 !!! 

1). 本日は休み。といっても朝からヤボ用でバタバタ。はあ、そーいやあもう今月いっぱいで OTTAVA が終わっちゃうなあ、はあ … とかなんとか、そんなふうに過ごしていたら … なんとなんと大逆転ゴール !!! ってワールドカップじゃないけど、この急転直下急展開にはふんとビックリした。でも、とりあえずよかったですね。ほんとはもう終わりだから、この前聴いていたく感激した 'amoroso' でかかった、塚谷水無子さんのオルガン独奏のこととか書こうかな、なんて思っていたのだけれども … このオルガンは山梨のフィリア美術館というところに3台あるうちのひとつ( もっともちいさい楽器はリードオルガン、ようするに足踏みオルガンと呼ばれるもの )。オンデマンドでもこぴっと聴かせていただきました。

 … というわけで興奮さめやらぬなか、「クラシックカフェ」のあとはずっと OTTAVA をかけっぱなしで聴いてます。ってワタシはそんなに熱心なリスナーでもなんでもなくて、ただ就寝時のお供がたいてい、'OTTAVA Stella' だったので … ときどきジュリア・ブラウンの弾く Naxos 音源のブクステフーデ( BuxWV.160 )とリュプザムのバッハ( BWV.578、「小フーガ」)が大のお気に入り( もち、BWV.1041 のアンダンテ[ 前にも書いたけど、映画「わが母の記」サントラでも使用された ]も )で、OTTAVA をこよなく愛するリスナーさん方の熱い熱いメッセージとか聞いていると、こっちまで涙腺が潤んできてしまふ。「OTTAVA はインフラです」というのは、けだし至言ですねぇ … 「ロバの音楽座」の上野先生の「動く年賀状」ふうに解釈すれば、「音楽は心の石焼き芋」。知らなかったが、あの大震災のとき、OTTAVA は通常どおりに放送していて、さるリスナーさんのことばを借りれば、「いままでただ漫然と聴いていたが … このときほど音楽の持つ力を痛感したことはなかった」。… ほんとうにそうだったろう、と思う。そして OTTAVA のすばらしいところは、震災被災地支援をずっとつづけていることです。

 最近、もっぱら「らじる☆らじる」で聴くことが多いけれども、これは国内専用。でも OTTAVA は BBC Radio 3 などとおんなじで、世界中どこだって聴ける。これは最大の武器ですね。日本国内のクラシック専門ネットラジオステーションでこういうサービスを提供しているのは、知るかぎり OTTAVA 以外にはないと思う。

 今後、どういうかたちになるかはまだわからないながら、Naxos 移行後本格稼働するのは 10月ごろになるらしいです。ついでに、'con brio' エンディングにかかるオルガン曲、R.シュトラウスの「あすの朝」ですよね。

2). めでたい、ということでは … やはりこれ、富岡製糸場ですよね !!! だいぶ前にもここでこんな記事書いたことがあったけれども、あの歴史的建造物が残ったのも、片倉工業という一企業がしっかり維持管理してきたからこそ。1987年の操業停止以後、片倉工業が富岡の維持管理にかけた費用は年間数億円にものぼったそうですよ。頭が下がる思いだ。でもこれからが本番ですよね、世界遺産というのは。自分もいつかここを見学したいと思う。

3). めでたい、と言えば … NHK-FM のほうでもありました! 「ご自愛してますかぁーッ !! 」、そう、「きらクラ!」も晴れて放送 100回目を迎えます。なんでもふかわさんお気に入り楽曲オンパレードとか。どんな放送になるのか、こっちも楽しみ。

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2014年05月10日

メンデルスゾーンの歌曲が 140年ぶりに発見 !! 

 そういえば先週は、音楽好きにとってはこんな大きなニュースもありました。

 リンク先記事だけでは心もとないので、BBC News の記事も見てみました。すると、今回発見された歌曲については、
1). 女声アルト独唱用、変イ長調 / 29小節の小品。
2). 友人のベルリン宮廷歌劇場( 現・ベルリン国立歌劇場 )支配人に個人的に委嘱されて書かれた歌曲らしい。
3). 依頼主が出版を望まなかった。
4). 歌詞は、リュッケルトの詩 Das Unveränderliche の第二節から採られた。末尾に本人の署名も入っている。
5). 書かれた年代はメンデルスゾーンの亡くなる5年前、1842年、作曲者 33歳だったとき。
6). ただし、メンデルスゾーン研究者のあいだではすでにこの作品の存在は認知されていた。1862年と 72年の二回、競売にかけられている。

… ということらしい。で、その後行方知れずとなり、このたび米国で「再発見」されたわけなんですが、ではなんで米国で見つかったのかは謎 … みたいです。この自筆譜は、現所有者のおじいさんが手に入れたもののようで、その人はメンデルスゾーン作品の信奉者だったようです。↓



 海外関連サイトとしては、こちらの記事とかもあります。

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