2024年01月31日

インプレゾンビ≠ノご用心

 新年早々、日本列島を大きく揺さぶった能登半島の大地震。輪島市側の日本海沿岸の海岸がいっきに4mも隆起するという、専門家でさえも目撃したことがないとんでもない地殻変動まで伴っていた(それで相対的に津波被害は低かったらしい。それでも甚大な被害を出していることに変わりないですが。風景写真好きにはつとに有名な「見附島」も変わり果てた姿になってしまった)。

 著名な You Tuber が被災地支援のための募金をみずから行い、世の人に協力を呼びかけるいっぽう、東日本大震災のときもあったと聞いてはいるが、今回もまた火事場泥棒が被災地をうろつき、「こわいから家に品物を取りに戻れない」との悲痛な声も聞かれた。

 しかし個人的には、2011年3月の震災と今回の震災の大きな違いは、SNS の機能にあったように思われた。2011 年のときは、「正確さよりも即時性」が比較的良い方向に発揮された印象がある。しかし今回は、発災直後、倒壊家屋から必死に SOS を発信する被災者の声をかき消すかのようにえんえんと連なった、インプレゾンビ≠ニ呼ばれる連中が忽然と出現した。ここが 2011 年のときと大きく違う。

 インプレゾンビ連中がなぜ急に現れだしたのかについては昨年、奇人で知られるこの人が、収益化と称して仕様を変更したことが大きいと言われている。仕様変更後、こうしたコピペ投稿がそれこそゾンビよろしくわらわらと湧き出した事実から見ても、この「投稿の収益化」と関連があるのは間違いない。

 と、嘆いてばかりいてもしようがないので、こうした連中(なぜかアラビア語圏が多いのは気のせい?)の見分け方を。彼らはたいてい、ユーザーネーム末尾に「青バッジ」がある。これは引用元記事にもあるように、月額有料制サブスクリプションサービスの X Premium に加入したことを示す青マーク。そしてよほど自意識過剰か、ご自身のご尊顔によほど自信がおありなのかは定かではないが、明らかに非日本人系のアイコンを麗々しく掲げているケースがほとんど。もっともワタシはここで xenophobia を喧伝しているわけじゃありませんぞ。彼らがこういう性根の腐ったやり口で火事場泥棒的荒稼ぎしているのが許せないだけ。だから自衛策、と言うにははなはだ心もとないけれども、しないよりはマシというわけで、とにかくこういう輩がいますよ、ということをこの場を借りて言いたかったわけです。

 具体的には、上記のようなリプライないしコメントを見かけたらクリックせず(クリックすると連中の懐が潤う)、ブロックするかミュートするか、またはめんどくさいけれども運営側に通報するとよいでしょう。そのうちボットじゃないけれども、半自動的に振り分けて排除するツールとかも配布されるのかもしれませんが。

 「浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の種は尽きまじ」なんて言わるように、テクノユートピアンたちの思い描いたようにことは運ばないのが人の世の中の常。1987 年というから消費税さえなかった昭和末期に出たこちらの本をせんだってネット古書店で買って読んでいたのですが(書名は知っていたけれども、未読だったので)、いやもう驚くほかなし。Windows もブロードバンド回線もなにもない、電話回線のモデムと、いまとは比べ物にならないほど非力で低容量なブラウン管タイプのデスクトップ PC しかなかったころ、「家にいながらにして銀行の端末に侵入し、ひとさまの預金を手を汚さずに強奪した」学生だの会社員だの米政府機関職員だの(そして経済マフィア)の武勇伝(?)がこれでもかッてくらいに書かれてありましたので。もっとも巻末に原注などのたぐいはなくて、「話、盛ってない?」と感じる箇所もなくなくはないですが、当時、米司法省や米議会で「コンピュータ犯罪」と呼ばれていた新手の犯罪の第一人者として助言していた人が書いた本なので、そうそうエエカゲンなことは書いてないことだけは保証できる(当時、高校生だった者からすれば、いまや懐かしの感ありの「東芝機械ココム違反事件」まで書かれてある)。

 …… インプレソンビたちも、こうした流れの延長線上にある。

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2022年07月31日

最近目を引いた記事2題

❶ まずは日経新聞夕刊の連載コラムから、歴史学者の藤原辰史氏による「就活廃止論」という刺激的なお題の記事。少し長くなるけれどもまずは引用から(下線強調は引用者)↓
前任校では3年ほど卒業論文の指導にあたった。他大学の非常勤講師で 20人近くの3、4回生のゼミや卒業論文の指導を受け持つこともある。実は今年も頼まれて、講師を引き受けている。やはり、雑談の話題は就職に関することが多い。数か月教えたことのあるハイデルベルク大学では、日本のように就職で頭がいっぱいの学生に会ったことがない。就職活動を在学期間中にしないからである。

このような経験から、日本政治経済の担い手に提案したい。日本の閉塞状態を打破する劇薬として日本型の就職活動を廃止しませんか。勉強への関心が高まる3回生の夏、多くの学生が就職活動で頭がいっぱいになる。突然、染めていた髪を黒くして、白黒スーツに身を固める。精神が細やかで感度が高い学生ほど過剰な圧迫面接で精神を病み(これまで何度、心を病んだ学生の相談に乗ったことか!)、それをなんとか乗り越えた学生でも労働商品としての自己を見直す過程で、自由な精神の動きを弱めていく。理想に燃えた若者が、こうやって毎年元気がなくなっていくことをもっと自覚してほしい
 このあとに、「大学は専門学校ではない。…… カネで測定される社会の価値判断から身を剥がし、自然と人間の驚異と美に慄(おのの)き、言葉の森に分入る。…… あなたはあなた以外の人に代替できない存在であることの尊厳(人文科学の基本)に触れ、世界の美しさの根源を探る(判断力の基本)。考える時間の多い大学では、人間の精神を事前にふかふかに耕すことができる」とつづく[ちなみに「3回生」という呼び名はなぜか関西の大学で多いようですね]。

 かつてこの島国では、新卒一斉採用のみが有無を言わせずまかり通っていて、それ以外の道を歩んだ若い人はアーティストのタマゴか、画一的な日本社会が敷いたレールから脱落した落伍者として片付けられて一顧だにされなかった時期が昭和〜平成と長らく続いた。海外の学生はどうかと言えば、希望する職種のある会社(ココ重要、日本みたいに「どこどこのカイシャ」で就職するのではない!)インターン、つまり下働き、いまふうに言えば「試用期間」社員として職につくのが一般的。もちろん卒業と同時にヨーイドンみたいな一括採用ではないから、しばらく世界中をほっつき歩いて無銭旅行に出かける者も珍しくない。就職するか、無銭旅行に出るか。すべては当人が自分で決めるんです。

 いまでこそ差別的なニュアンスはなくなったと思うが、1990年代まで、フリーターという呼称にはつねに侮蔑的な響きがあった。当時を顧みると、社会が敷いたレールから外れた人はみな落伍者でありそれは自己責任なのだと、十把一絡げにしてハイそれで解決、みたいな風潮が強かったように感じている(その恐るべき画一性の証拠に、かつて中学生相手に「正社員にならないと年収にこれだけの生涯格差がつきます YO!」みたいな脅迫まがいの出張授業まで行われていた。猫も杓子も、はヘンかな、diversity 全盛時代のいまはさすがにこんなバカげたことやってないと思うが)。

 この手の話を目にするといつも思うんですけれども、ある意味理不尽かつ摩訶不思議かつ非合理的なこの「新卒一括採用」システムにずっと拘泥し、そこにアグラをかいてきた政財界をはじめとする日本社会の硬直性、というか、「ほんとうにこのままでよいのか?」とお偉いさんも含め、だれもモノを考えなくなったことが日本の最大の不幸かと感じます。大学の先生からこういう内容のコラムが発信されたのを見ると、「へ? いまごろ?……」という慨嘆もなくなくはないが、それ以上に、当事者からようやく、それこそが危機なのだという見解を目にすることができたうれしさのほうが勝っているのが正直なところ。

 令和ないまはどうでしょう。ワタシはむしろいまの若い人のほうがチャンスがたくさんあって、うらやましいと思う。終身雇用前提の雇用関係で宮仕えする必要なんてどこにもない。スタートアップの起業家をシリコンヴァレーに派遣云々……という話も聞くけれども、そうじゃなくて、早く大量生産大量消費時代の遺物たる「新卒一括採用」の慣行こそ廃止すべきでしょう(ついでに入試制度もね。卒業が難しい制度こそ大学教育のほんらいの姿だと思っているので。バ✗でもチ✗ンでも全入全卒 OK、なんてそれこそトンでもない話。これとはべつに、大学で教えている内容の問題、それを教えている人の質の問題はあるけれども ⇒ たとえばこちらの本参照)。それから9月入学制にも早く移行すべき。国際化国際化と、掛け声モットーばかりがやたらかまびすしく、そのじつ問題だらけの外国人労働者の雇用環境(と、必然的に移民労働者をどうすべきかという議論)は放置プレイで、気がつけば「失われた〜十年」とか呆けたことを口にする平和ボケな二流三流島国に成り下がってしまった。

 いろいろ注文つけたいこともないわけではないが、いまの若い人は少子化とはいえ、ワタシたちが 20 代だったころに比べてはるかにしっかりした考え方を身につけた人が大多数なので、「こんな国にしやがって」とかクサらず、どうか反面教師として奮起してほしい、と思う今日このごろ。あと、いまの若い人って Twitter はどうなのかわからないが、そのときの気分で発信された発言や意見に振り回されてはイカンと思いますね。コロナワクチンが好例だが、明らかな misinformation もわんさとあるし。あんなもんばっか追っていたら眼精疲労起こすわドライアイになるわ、ストレスたまるわで。週に一度くらいはスマホの画面も目も心も休める休日(海外ではこういうのを screen-free day と言うみたいだが)を作って、山や海に行ったり、「積んどいた」本を読んで一日まったり過ごしてみてはいかが(積ん読に関しては、あまり人のことは言えないが…)。

❷ そんな折も折、こんどはこういう驚愕の話を知った。乳幼児が包丁をにぎって、魚を三枚におろす! 園長さん曰く、「料理を通して、さまざまなものの解像度を上げたり、ものごとの全体を想像する力を身につけてほしい」。

 料理だけでなく、商店街の人たちとの交流など、こうやって育てられた子どもって心身ともにものすごくたくましくて、なにかネガティヴな問題にぶつかっても自分の命を粗末に扱うこともなく、なによりも大所高所からの視点で森羅万象をみはるかす力を持った、すばらしい大人になるだろうと、読んでて涙が出てきた(トシずら)。超がつくほどの少子高齢化進行中のこの島国で、もしほんとうにこの島国と、そこに生きる民族を救いたいと思ったら、参考にすべきはこういう取り組みなのではないかと。「園児の声がやかましい!」とか文句垂れてる手合は、子ども時代にこの保育園の子どもたちのような「想像力」を持つ機会がないまま成人したたぐいのアダルトチルドレンなのだろうと、つくづく思われたしだい。前にも書いたかどうか忘れたが、人としての成熟に年齢なんて関係ないです。

本文とまったく関係ない追記:先日、たまたまコンビニで買った地元紙朝刊(昨年暮れまでに日経電子版に切り替えたから、こちらは購読解約済み)の論壇コラム見たら、またしてもアラが目に付いたのでひと言だけ。温室効果ガス削減の話で、テクニカルには難しい問題がある、ときて、
…… 野球場の例でいえば、LED 照明に替えることで野球場は温室効果ガスの排出を抑制したと主張するし、電機メーカーも削減に貢献したと主張する。同じ行為が二重にカウントされ、排出削減が過大評価されることになる。これをグリーンウォッシュと呼ぶ。[「論壇」2022年7月16日付]

えっと、たとえば「グリーンウォッシュ(見せかけだけの気候変動対策)」、「環境への配慮を誇大にアピールして顧客や投資家を欺く『グリーンウォッシュ』を告発する声も上がっている」との記述が、英 Economist 誌に出てきます。というかこっちのほうが正真正銘のグリーンウォッシュの定義なんですけれども? どこで仕入れたのか知りませんが、なんとまたヤヤコシイ解説をなさるもんです(ほかの執筆陣も相変わらずで、いいかげん世代交代させてやりなさい YO!)。

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2022年04月14日

洗足木曜日のバタフライ効果

 本日は、キリスト教圏では最重要の移動祝祭日(movable feast)、復活祭直前の受難週(聖週間)の洗足木曜日(Maundy Thursday、今年の復活祭は奇しくも満月と重なった 17日)。イエスが最後の晩餐の前、12人の弟子の足を洗う儀式をおこなったことを記念する日にして、ラテン語版『聖ブレンダンの航海』で、現在のフェロー諸島に修道院長ブレンダンたち一行がたどり着いたと書かれた日でもあります。

 クレムリンが(ノーム・チョムスキーだったか、いくら NATO の東方拡大に腹を立てていたとはいえ)じつに身勝手な理由をこじつけて、それまで平穏無事につつましく日々を送っていた市井の人びとに銃口を向け、巡航ミサイルを落としまくり、首都キーウ(今後、ウクライナの地名表記は判明しているかぎりヴァーナキュラーで表記します)から撤退したはよいが地雷だの爆弾だのをバラまいたまま立ち去ったりと、ソメイヨシノがいままさに満開、散り始めの日本にいる身にはにわかには信じがたい惨状を TV 越しに見せつけられる、 2022 年の春になってしまった。

 しがない門外漢がここでこんなことぐだぐだ書いたところでどうだってことはもちろんないんですけれども、ロシアの大統領って、たしか熱心なロシア正教の信徒じゃなかったかしらね? 聖週間なんだよ。ダンテ・アリギエーリがこの凄惨きわまる光景を目の当たりにしたら、きっとこれを仕掛けた張本人と、実際に攻撃して、市民を殺しまくった手合いはすべからく「インフェルノ(もちろんこれは『神曲』の「地獄篇」の原題から)」送りになると確信するんじゃないでしょうかね。

 英国の経済誌 Economist をはじめ、いま欧米メディアはウクライナ戦争一色という感じで、不肖ワタシのところに来るご依頼も、さっき触れたチョムスキーをはじめとする「知の巨人」と呼ばれている人が寄稿したコラムが多いんですが、前の米大統領といいこんどの戦争といい、いったいどこまで歴史を逆走すれば気が済むんでしょうね。ほんと常人には気が知れないとはこのこと。

 クレムリン筋はあいもかわらずディープフェイクやらサイバー攻撃やらも動員して「悪いのはウクライナ」説を強弁してますけれども、彼らに教えてやりたいのは、人間の歴史を動かしてきたのはたいていの場合、「バタフライ効果」だということ(NHK の番宣ではない)。たとえば女性首相(まだ 30 代!)率いる北欧のフィンランドと──コロ助集団免疫政策は失敗だったとはいえ──スウェーデンのここ数日の動きなんかどうでしょうか。これってロシアが望んでいた方向とまるで逆の動きが急加速したことになりませんか。

 グローバリズムはこれで終わったとかなんとか言われてますけれども、ロシアに経済制裁を仕掛ければそのぶん、ブーメランでこちら側も無傷安泰というわけにはぜったいにいかないのも現実。コロ助対策ではてんでバラバラだった欧州も、前世紀の2度の世界大戦の甚大な犠牲はいまだ記憶に生々しく、そして地続きということもあり、対ロシアではいっきに団結した印象を受けます。とくに日本と同じ敗戦国ドイツまで、NATO への防衛費負担の GDP 比を引き上げると表明していますし。さらに驚いたのは、クレムリンは当初ウクライナではなく、なんとバルト3国(!)に攻め込むつもりだったとか。懸念されるのはもちろん、東欧全域の不安定化です(最近の仕事でとくに印象に残っているのは、そのバルト3国のひとつエストニア出身の世界的指揮者、パーヴォ・ヤルヴィ氏のインタビュー記事。当時のエストニア人は旧ソ連時代にひどい目に遭わされたこととか、涙なしでは読めなかったですね)。

 とはいえ、もうひとつ個人的に気に入らないのが、「知の巨人」たちが早々に「第三次世界大戦」と口走っていること。ウクライナの大統領はしかたない。一方的に攻め込まれた当事者だし、レトリックとしてこうでも言わないと、「環境少女」並みに self-complacent な EU 諸国を突き動かすことはできないと計算しての発言だろうから。ただし、それ以外の「外野」は軽々にそんなことを口にしてはならんでしょう。先の世界大戦で犠牲になった数千万柱に対し、はなはだ不穏当かつ失礼千万な無責任発言としか言いようがない。

 国際連合がかつての国際連盟化するかどうかは、現時点ではなんとも言えません。このへんを突っ込んで書いたコラムなり記事なりあれば読みたいんですれども。いずれにしても、思わぬバタフライ効果、大どんでん返しがないとも限らない。これだけは確実に言えそうです。

 最後に、Yahoo ニュースに転載された拙訳記事に寄せられたコメントでもっとも印象に残った文章を事後報告みたいで申し訳ないけれども、ここでも紹介しておきます。
1年前くらいだがコロナ対応を巡り、中国のような専制国家がスピード感があることを良しとする報道があった。
これに対しバイデンは「民主主義は時間がかかる」と応じたことがある。
そしていまは専制国家が自由を制限し、独裁者が暴走することを止められないことに恐怖を感じる。
われわれは単純に中国が豊かになり、民主主義国家と交流が深まれば専制国家が終わるだろうと考えていた。
同じようにアフリカも東欧社会のようにいずれ変わるだろうと考えていた。
今回のロシアの侵攻は独裁者の能力しだいでは愚かなことをする。
19世紀にかんたんに先祖返りするとわかった。
それでも人種、民族、言語、宗教、思想を越えて互いに理解をし、尊敬をして自由で民主主義的な社会に変わっていく必要がある。
長い時間がかかるが、あなたは何人と聞かれて「地球人」と答えられるようになりたい。


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2022年02月06日

不自然な「自然」もある話

 昨年後半から某全国経済紙(電子版)をとり始めたんですが(こういうのっていまは横文字そのまんまの subscription って言いますよね)、つい先日、↓ のようなインタビューの訳し起こしを見かけました。
 心配なのが、子供たちの思考の過程がアルゴリズム(計算手順)によって支配されつつあることだ。私が子供のころは「自然」対「育成」、つまり遺伝的に(子供が自然に)しつけられるのか、親が(育成の一環で)しつけるのかという問題だった。それがいまや「自然」対「育成」対「技術」の構図になった。
 これから10年たてば、アルゴリズムで思考過程が形作られたヤングアダルトの時代が来る。これは世界をもっと深刻な分断に導く。アルゴリズムは模範的な市民を作ろうとしないからだ。

 発言者は、政治リスク専門コンサルティング会社ユーラシアグループ代表で、政治学者のイアン・ブレマー氏。ユーラシアグループは、年明けに発表する「世界 10大リスク予測」がよく知られています。聞き手で、このインタビューを訳し起こして寄稿しているのはこの経済紙のワシントン支局長の方。というわけで下線部です。うっかり読み過ごしてしまいそうながら、ちょっとおかしい(いや、だいぶ?)。

 子どもの将来の話なのに「自然」だなんて、いくらなんでも唐突で、それこそ不自然。英語がすこしできる人ならブレマー氏の口から出た単語はすぐに察しがつくでしょう。「自然」はもちろん nature で、つぎの「育成」は nurture ではなかろうか、と。だいいち、「遺伝的に(子供が自然に)しつけられるのか」なんて常識的思考ではかなりブッ飛んでます。アリもそうですけれども、ヒトもまた社会的動物で、人間社会からまったく隔絶された環境(=自然)に放り出されたら、昔いたっていう、イヌかネコみたいに顔を皿にくっつけて水をすするような子どもになってしまいませんかね。

 いくら nature と発言したからって律儀に「直訳」せんでもええのにって思ったしだい。nature と nurture の組み合わせというのは、一種のことば遊び的要素もあるので。ならどうするか。ワタシなら、「氏より育ち」って諺の変形で処理すると思う。言いたいことはもちろん、「自分が子どものころには〈生まれ(いまふうに言えば、「親ガチャ」に当たったとかハズレたとかっていうやつ)〉と〈どう育てられたか〉の問題しかなかったけれども、いまはそれに加えて AI やアルゴリズムに代表される〈テクノロジー〉の問題がある」です。
私が子供のころは「出自」対「育ち」の問題があった。それがいまや「出自」対「育ち」対「テクノロジー」の構図になった。
字数の関係で最後のは「技術」のママでよしとして、これならどんなにそそっかしい読み手でも誤解の余地はないでしょう。「つまり ……」以下の補足部は、おそらく聞き手(訳者)がつじつま合わせで追加したもののように思える(意見には個人差があります)。といっても、補足じたいはべつに問題ない。翻訳における常套手段のひとつなので。

 もっともこの経済紙の名誉のために言っておくと、子会社の Financial Times とか、提携? しているのかどうか知りませんが、有名な英国の経済誌 The Economist の長文記事が日本語で読めたりするから、いちおうこれでもそっち方面の仕事している身としてはたいへんありがたく拝読させてもらってます。「Apple の時価総額3兆ドル(約 340 兆円)超え」の理由を説明する記事を訳出しているとき、「理由のひとつに自社株買いがある」とかっていきなり出てきても慌てずにすむ。知ってるのと知らないとでは月ちゃんとスッポンです。ふだんからの、不断の仕込みは大切ずら。

 最後にもうひとつ、↓ の記事も、正鵠を射ていると思う。こういうのはさすが新聞だと思う。あきらかな「脱真実 Post-Truth 」は困りものだが、「新聞の持つ情報の一覧性」は、まだまだ捨てたもんじゃありません。

異形の五輪 教訓残せるか


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2021年12月25日

小さき者を想う日

 真夏に猛威を振るった COVID-19 デルタ変異株が秋に入って急に下火になり、思う存分手足を伸ばすこともできない、そんな息苦しささえ感じていたひとりとしては正直ホッとひと息つけた気がしていた。けれども、どうやらそれも終わりで、またぞろ実効再生産グラフは上向きになってきた。欧米しかり。そして遅れて日本でも。

 今回、個人的に思い知ったのは、このウイルスは水際作戦だけでは勝ち目はないということ。いくらルールを守らない人がいるからとはいえ(とはいえ、こちとらマジメに半径ウン km 以内しか移動していないし、伊豆半島の人間なのに同じ半島にある墓参りも行けてなくて嘆息しているというのに、海外から帰国して言いつけも守らず、フラフラ出歩いて市中感染の原因を作った人に対しては正直怒りを覚える。といってもオラは自粛警察ジャナイヨ、だれだってそう思うのではないかしら。自粛警察というのは、ようするに自分とこに火の粉が降りかかると烈火のごとくイキりだし、ふだんはノホホンと過ごしているような典型的マイホーム主義な人のこと)。いずれにせよ、年明けとともに日本国中に厭戦的雰囲気がいよいよ蔓延し、いわゆる専門家の意見や指示を守らず、「赤信号、みんなで渡れば ……」な手合が堰を切ったように急増しやしないかというのが、もっかいちばんの気がかり。

 この感染症の恐ろしいところは、英米で long COVID と呼ばれている、長期にわたる原因不明な後遺症というやっかいきわまりないオマケまでくっついていること。感染しても無症状な人がいる反面(若い芸能関係者にはこの手の人が多かった印象がある)、いつまでもしつこく苦しめられる罹患者もおおぜいいる。だからけっきょく、なんとしても COVID だけは罹患しないようにしないといけない。もっともそれはそれでいいとしても、そのように身構えたまま生活していれば弊害も出てくる。体を動かさなくなったせいで筋力が落ちた、あるいはもっと深刻な場合には「エコノミー症候群」になったり、脚のふくらはぎがパンパンになって静脈瘤(!)ができかかった、とか。もっとも影響が出やすいのは、なんといっても子どもですよね(もちろん高齢者もだが)。事態が長期化しているので、このへんのことも気を配らないといけなかったりで、たしかに厭戦ムードがはびこるのはあるていどしかたないことかとは思う。お気持ちはわかる。

 でもいちばん大切なのは、こういうときこそ、他者への想像力が必要だ、ということではないかと、人一倍 self-serving な人間のくせしてそう思ってしまう(偽善者なので)。前にも書いたが、感染症というのは自分が罹患して治ればそれでよし、という病気ではない。全地球を覆っているのは、未知のウイルスによる未知の感染症なんです。それでもいまはワクチンだって曲がりなりにもあるし、特効薬ではないにしても、承認待ちの飲み薬もある(あいにく mRNA ワクチンはブースター接種なるものを打つ必要があるけれども)。

 いまだ先の見えない COVID 禍ですが、パンデミックが始まった昨年春、英国の NPO の Nesta がこんな未来予測を出しています。「将来の予測なんてアテになるものか」という気もたしかにするけれども、やはりこの手のものがないといられないのもまた人間の性分なのかもしれない(Nesta は、英国国立科学技術芸術基金を母体とした NPO 法人。科学・技術・芸術における個人および団体による先駆的プロジェクトや、人材育成を支えるイノベーション支援を行っている)。

 たとえば「経済」に関しては、こんな「青写真(言い方が古い?)」を描いています。
新型コロナウイルスの世界的流行(パンデミック)が引き起こした不況は、2008年の金融危機よりも深刻な事態を招くだろう。しかもそれは、これまでに経験したような「通例の」不況ではない。多くの国で、考えうるかぎり最悪な不況となり、大量解雇も起こり得る。コロナ以前ではラジカルだと考えられていた財政出動や金融政策がもはや政治や国民的な議論の場で当たり前のように取り沙汰されるようになるだろう。コロナ危機を乗り切った企業も、それまで重視していた事業や商習慣の見直しに着手することになるだろう。それはサプライチェーンの抜本的再編だったり、効率一辺倒から事業の強靭性(レジリエンス)への転換だったりする。
この1年で見ても、たとえば急激な「脱炭素化社会」へ舵を切ったかに見える欧州諸国の動きなんかが当てはまりそうな気がします。もっとも「二酸化炭素取引」というカラクリもあったりで、どこまで本気なのかはよくわかりませんが。それでもひとつ言えるのは、島国日本の企業さんたちが手をこまねいている時間はあまり残されてないってことです。ヘタすると 19 世紀末の欧州列強の再来にもなりかねない気がする。興味ある方は一読してみるとよいでしょう。

 一連の予測項目はあくまで英国国内のことなので、これらがいちいち日本の事情に当てはまるわけでもない。しかし参考にはなると思う。というか、向こうの人ってホント筋金入りのマスク嫌い、ということがこの1年半のあいだでよくわかった気がする。人種差別の件も含めて。

 「一連の予測は推測の域を出ない」と断ってはいるが、「新型コロナウイルス(COVID-19)パンデミックは、世界のありようを根底から恒久的に変えた。向こう数か月、この新型感染症の蔓延を制御できる国があったとしても、政治、経済、社会、テクノロジー、法律、環境の各方面に与えた影響は甚大であり、それは今後数十年にわたって続くだろう」という見立ては、おそらく間違ってないでしょう。

 というわけで、なんか暗い話になってしまったが、いみじくもローマカトリックのリーダーがクリスマスイヴのメッセージでこんなことを言ってましたので最後に引用して終わりますね(以下、さる全国紙記事の引用)。
「不平を並べるのはやめよう。(イエスは)われわれに人生の小さなことを見直し、大事にすることを求めている」

 昔、写真評論ものの大部の本を何人かで下訳したとき、福音書の一節がそのまま引用された箇所にぶつかった。たまたまローマ教皇の記事を見て、忘れかけていたそんな記憶も久しぶりに甦りましたね(日本語版聖書の引用は「新共同訳」から)──「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこのもっとも小さい者のひとりにしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(Matt. 25:40)

 よきクリスマスと新年を。

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2021年08月01日

Land of Unreason

 昔、買ったハヤカワファンタジー文庫で『妖精の王国』という作品がありました。作者はライアン・スプレイグ・ディ・キャンプとフレッチャー・プラットという2人の SF 作家からなるコンビ。このふたりは連名で『ハロルド・シェイ』ものと呼ばれる SF 冒険シリーズを長年、書きつづけてきたんですが、相方プラットが肺癌で亡くなると、このコンビも自然消滅してしまった。

 ディ・キャンプの名前を知ってる人っていまの日本でどれくらいいるのかちょっとワカランのですが、その昔『スター・ウォーズ』ものノベライゼーションの翻訳を手がけておられた野田昌宏氏もじつはディ・キャンプ作品を訳されていて、それがあの !! 『コナン・ザ・グレート』なんです。そう、若き日の筋肉隆々シュワちゃん主演のあの映画の原作。

 で、今回のお題はそのディ・キャンプ=プラットのコンビが 1942 年に書いた『妖精の王国』の原題をそのまま借用したもの。ちなみに日本語版は 1980 年刊行、訳者は浅羽莢子氏、カバー絵はなんと! 漫画家の萩尾望都先生という、なんとも豪華な組み合わせ。

 筋立ては、シェイクスピアで有名な『真夏の夜の夢(正確には「夏至の夜」だが)』と中世ドイツ(神聖ローマ帝国)の英雄バルバロッサ(赤髭王)の伝説とがミックスされたもの。どうしても牛乳が飲みたくなった主人公の外交官バーバーは、妖精のために戸外に出してあった牛乳を飲んでしまい、代わりにスコッチウイスキーを置いて家に帰り、朝、目が覚めるとそこはオベロンとタイタニア夫妻が支配する妖精の王国だった。スコッチを呑んで酔っ払った妖精に「取り替え子(チェンジリング)」とカン違いされたのが、一連の騒動の始まり …… なんで自分が妖精の王国なんぞに引っ張りこまれたのか、さっぱりわけがわからぬまま(だから「わけがわからない、常軌を逸した」王国というわけ)、否応なく冒険する仕儀とあいなり、たとえば「ジャズろうぜ! ブンチャ、ブンチャ」とずっと音楽(ジャズ?)で踊り明かしている種族に出喰わしたかと思えば、「ココはすばらしいところです! あなたもきっと気にいるはず!」と『ホテル・カリフォルニア』の歌詞よろしく強引に引き留められそうになり、そんな手合を振り切って逃げるように脱出を図ると「ただじゃすまないぞ!」とまるで当時のソ連を中心とする共産圏を彷彿とさせたりで、とにかくおもしろい。訳者あとがきにもあるように「ファンタジーの世界を科学を使って説明してみせた」点が、当時の読者にウケた作品です。

 なんでまたこんな古い(!)ファンタジーなんか思い出したかと言えば …… いまの世界を見渡すと、まさしく Land of Unreason じゃないかって嘆息をついたから。といっても五輪のことじゃない。たしかにあのバッハ氏たち「オリンピックの汚れた貴族(昔、こういう書名の本があったのだ!)」がゴリ押しして開催したかっこうとなったのは、そりゃどうかと思う。「無理が通れば ……」ってやつですね。あるいは「五輪憲章」と照らし合わせてどうなんだって。でもぶっちゃけ、「地獄の沙汰もカネ次第」、なんですよね。オリンピック資本主義。だからアスリートたちはよけいに気の毒だと思う。スジ違いの批判まで浴びせられるし。まったくもって unreason である。おそらくパリ五輪でもひと悶着ありそうな悪い悪寒を感じる。

 ちなみに「デルタ株が急拡大しているのは五輪のせい」という主張にも無理がある。直接的にはあまり因果関係はないと個人的には思っている。たとえば、五輪ではなくて下部組織のひとつの自転車競技関係の話ではあるが、こちらの記事とか。五輪大会関係者の陽性率は、国内の新規患者の陽性率よりはるかに低いということも Bloomberg に出ている。むしろ問題はきのう、ネットで話題になってた「空き病床数 30 万床のコロナ用転用がちっとも進んでいない」って話。つい気になって(この蒸し暑いなか …)コンビニまで行ってくだんの経済紙を1部買い求めたりして、アツいわハラ立つやらでこっちまで unreason な気分(7ー11、悪い気分)。

 最後にもうひとつだけ、地元紙に掲載された「五輪に理屈はいらない」という署名評論記事について。1964 年の最初の東京五輪の記録映画を撮っていた市川崑監督を引き合いに出して、こんなふうに書いてあったんでオラびっくらこいたという話。↓
五輪とは何かと考え続けた市川監督は、64 年の記録映画の最後をこう結んだ。《この創られた平和を夢で終わらせていゝのであろうか》
 …… このエンディングの言葉は曖昧で現実味がなく、少々無責任。それは多分「世界平和」というできもしない目標をオリンピックが掲げているからだろう。

 こう書いたあと、なんと「スポーツという素晴らしい人類の文化を4年に1度行いましょう! 五輪は、それだけで、ずっと素晴らしいものになるはずだ …… そもそもスポーツは本質的に素晴らしいものなのだから」

 もうこれは巨大なハテナマークが必要。というか、バーバーを危険な目に遭わせた『妖精の王国』の共産主義的種族の一員なのか? なにが「東京五輪を読む」だ! そもそも市川監督の発言が「少々無責任」というのはどういうことか。これは、「戦争の惨禍を知っている者だからこそ思い至った揺るがぬ決意そのものではないか」ってふつう思いません? それともちろん「五輪期間中の休戦協定」は知ってますよね? たしかに五輪は国家と国家のパワーゲームというか、代理戦みたいなところがあって、モスクワ五輪やロス五輪を互いの陣営がボイコットし合ってかんじんの選手たちが泣きを見た(そのひとりが柔道の山下氏。つまりいまの JOC の会長さん)ことも繰り返されてきたし、ミュンヘン大会ではテロ事件まで起きて世界が震撼したこともあった。

 それでも、もしオリンピックがただの「スポーツの祭典」になりさがったら、そもそもクーベルタンの理想なんてのも一種のイデオロギーなのだから意味なくなるし、そんなオリンピズムもクソもない五輪大会に、自身の人生をすべて賭けてまで出場しようなんていうお気楽なアスリートなんてただのひとりもいないと思うんですがね …… もうなに言ってんのかここにいる門外漢はサッパリで、というかアタマがウニになったみたいで、いよいよ unreason さは増してくる。いやここまでくると chaos か。ほんとにスポーツの評論家なんでしょうか?? それこそただの運動会、命がけでやるものじゃないでしょうに。

 ということで、 unreason な世界からいっときでも正気な世界にもどるには、トシだけくった人間としてはまこと情けないかぎりではあるが、こんな若い人の投稿をここでも紹介させていただこうと思う。というか、申し訳ないけどもうこの地元紙購読するのやめようかな、ヘイトスピーチもどきな老政治評論家もあいも変わらず健筆を振るってるしで。ついでに言うけど、おなじ新聞社の社員がウチの近所で危険運転の罪でお縄になり、挙句の果てに社長は文字どおりセクハラ(!!)を働くわで …… 紙の新聞は処分に困るし(窓拭きにはもってこいだが)、ここはひとつ「いまだ FAX が現役の島国人」から脱却しないといかんな …… とも思いましたので。でも是々非々、ということで、今回はすばらしい読者からの投稿を引用して結びたい。このまま終わったらなんともシマらないので悪しからず。
コロナウイルスではなくても、世界には貧困や紛争で苦しみながら生き抜いている人たちがいる。それに比べて私たちは少しの自粛だけでも耐えることができないと考えたら自分がちっぽけに思えた。今まで当たり前の世界に頼りすぎていた自分が情けなかった。

 これ書いたのは 17 歳の女子高校生の方。新しいものの見方というか、今回の世界的な災厄によってそれまで考えもしなかった事柄に目を見開かれ、古い世界が終わって新しい世界が現れた。若いうちにこういうことに気がつくと気がつかないとでは、おそらくその後の人生にひじょうに大きな影響をもたらすと思う。あんまりこういうこと言いたくはないが、どっかの国の「環境少女」みたいに、さんざ年上の人間たちの行状を非難しておきながら、「今日から大人の仲間入りをしたからみんなとパブに繰り出すぜ〜」みたいな発言を全世界に向けて臆面もなく発信している方とはそれこそ「月ちゃん」とスッポンの差があると思いますね。ちょっとガス抜きが過ぎたか(⇒ 渡辺月についてはこの拙記事で)。

追記:unreason の定義でメリアム=ウェブスターを見たらこんな例文がありました。

With its double binds and reversals, life in a pandemic feels beholden to dream logic, to the unreason of lying awake in the dark.

前後関係がわからないけれども、おそらく「パンデミック下の生活にはどうしてもダブルバインドや、すべてがひっくり返ったような当惑がつきまとう。だから、論理の飛躍した夢や、ただわけもわからず暗闇に目を開けて横たわっていることのほうがはるかにありがたいと感じる」くらいの意味かと思う(引き合いに出されている後者は、たとえば「金縛り」のような状態だろう)。とにかくパンデミックがいちおうの終息を見て(未来予測はアテにならないという本を読んだばっかでなんなんですが、今後の世界は「コロナ以前」にはぜったいに戻らないと思っている)、マスクで息が詰まるような生活がすこしでも改善されれば、と願ってはいる。

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2021年02月14日

Words are mightier than the sword

 かつて、「あの子、大事なときには必ず転ぶんですよね」と言ったご本人が、コロナ禍ならぬ、ご自身の「舌禍」のために辞任に追いこまれた。べつにこの方にかぎらず、バブル崩壊以後の日本では、こういう「失言/妄言で身を滅ぼす」タイプの話はこちとら「耳タコ」状態の感覚麻痺状態でして、正直なところ、「ああまたか」くらいしか思わなくなってしまっている。

 べつにあの方のカタ持つわけじゃないですが、一連の騒ぎがイヤなんですよね。論点がズレまくっているというか。ここでも紹介した、スペインの思想家ホセ・オルテガ・イ・ガセット(1883−1955)の代表作『大衆の反逆(1930)』に出てくる記述なんかが、どうしても思い出されるのであるが ……。

 個人が思い思いに意見を表明するのはもちろん問題なし。動物学者ジェラルド・ダレルが軍政下のアルゼンチンで赤ちゃんバクに振り回されるようすをユーモラスに綴ったエッセイとかも昔、読んだけれども、そのエッセイでダレルが発言したように、この国にも「意見を自由に述べる権利くらいはある」。ただし、思いつき・便乗・個人攻撃・お門違い、あるいはとくに欧米圏のメディアや人間の言ったことをなんの疑問にも思わず、無批判に額面どおり鵜呑みにして当の失言した本人を咎めているようなことはないだろうか? 

・問題の発言と、進退について:欧米メディアはじめ、SNS 上でも集中砲火を浴びせられているようなところもあるにせよ、そもそもハナシ家じゃないんだし、ご自身の地位と立場、そしてこのタイミングとこのご時世をほんとうにわかっていたのなら、いくら内輪の会合の場だからって、女性を侮蔑したととられる発言は完全に「大事なときに転」んでいると思う。ただし、ヤメロヤメロと大合唱を浴びせるのは、オルテガの言う「私刑」つまりリンチではありませんか? 

 もし現在の与党出身者でしかも首相経験者の発言で問題だというのなら、それを生み出す腐った根っこをなんとかしないといかんのではないですか? 個人的にもっともイカンと思っているのは国会議員に定年がないこと、遊んでいても議員歳費をちゃっかり受け取れること、それとこれはとくに政権与党に当てはまるが、議員を「家業」にしていること、ようするに「世襲の禁止」をすべきだ、という3点にあると考える。この人だけを吊し上げて引きずり下ろして快哉を叫んでいるようじゃ、そういうあなたがたもやってることはたいして変わらないのではないですか? あと、問題発言を受けて聖火ランナーやボランティアを辞退する人がけっこういたとかいう話も「ちょっとなに言ってるのかよくわかんない」。問題となった発言と、聖火ランナーとして走ることやボランティアに手を挙げたこととは、ほんらい関係ないのではないですか? 

 Twitter なんかで今回の件をさんざん叩いた方は、今年はイヤでも国政選挙がありますから、ぜひとも有権者の義務を果たしてくださいまし。それもしないでなんだかんだ言うのは、オルテガの言う「慢心した坊っちゃん」じゃないですかね? あるいは自分で植えもしないトウゴマの木が枯れたといって嘆く預言者ヨナみたいなものかも。まずは「隗より始めよ」ですな。

・五輪を中止すべきという意見について:たしかに危険な賭けになるとは思う。世界的に予断を許さぬ状態でもあるし。ただ、いまはワクチンがあるだけでもまだ救いがある。あとはワクチン接種が間に合うかどうか。げんにいま、大坂なおみさんががんばっていて、深夜帯に中継をテレビ観戦して元気もらってる人だってけっこういるんじゃないでしょうかね? なんだかんだ言っても、いま批判している人たちも、いざ大会が決行され、たとえ無観客であったとしてもがっつりテレビで観るんじゃないでしょうかね? 

・五輪ではなく、ほかにカネを回すべきという意見について:そもそもこんなの「復興五輪」じゃない、なんて言ってる人も、年末の「紅白」で例の歌を披露した子どものユニットとかは観ていると思う。その子たちだけじゃない、五輪とパラリンピックマスコットのデザインは、たしか全国の子どもたちの投票も反映されていたんじゃなかったですか? あんまりオトナのリクツだけを振りかざしていては、こうした子どもたちを傷つけることになりはしませんかね? コロナだからやるな、ではなく、なんとかして開催する方向で進めるべきだと個人的には思う。生の音楽や絵画に触れることも大切だが、おなじくらい、スポーツ競技に真摯に打ち込むアスリートの姿に触れることもまた観戦する人、とくに若い人にとって、前を向いて自身の人生をまっとうする勇気を与えてくれるんじゃないかって思う。前回のリオ五輪のとき、選手団の凱旋パレード見に行った人はけっこういませんでしたっけ? 

 「だれのための五輪?」というプラカードをかざして無言のプロテストをする人の映像がテレビで流れていた。冷たい言い方かもしれないが、「保育園落ちた、日本死ね」と言い放った人と精神構造が似ているのかもしれない。ご自身がよければそれでよし。ただし自分が不幸なら、すべては悪い。ここで何回か触れてきた「マイホーム主義」のひとつにしか見えない。いまの日本はたしかに問題だらけだが、それじゃ BLM に揺れる米国はどうですか? バイデンさんが新しい大統領に就任してスピーチしたのを NHK の生中継で観たとき、さすが腐っても米国だと感動すら覚えたけれども、30 年前と比べれば、いまの日本も格段に恵まれていると思う。チャンスだって増えている。かつては在宅勤務だなんて、どんな職種だってマジでそんなことできるわけがなかった。もっともセーフティーネットやベーシックインカムはもっと真剣に議論され、検討すべき課題だと思うが、やはり大切なのは「組織票」をアテにするような昭和な政治屋諸氏を落選させることでしょう。五輪に罪はないはず。コロナ対策については、さっきも書いたようにワクチンがようやく承認されたし、いまやってるテニスの大会だって無観客と観客入れとをうまく切り替えて実施されているのだし、五輪だけ中止という選択肢がほんとうに正しいのかどうか、よくよく考える必要があるのではないでしょうか? 

・日本の女性参画について:今回の失言騒動の対応をめぐっては、欧州の風当たりはそうとうなものですが、ワタシとしては、その欧州で有色人種に対する差別がコロナ禍でいっきに吹き出した話とかがかなり引っかかっている。ドイツのサッカー観戦に来ていた日本人観光客に対する扱いとかはこちらの記事のような経過をたどっていたようですが、この前見たEテレの「ワンルーム☆ミュージック」という DTM 番組で紹介された、ロンドンを拠点に活躍する日本人アーティスト、リナ・サワヤマさんの受けたという壮絶な差別の話とか聞かされると、「おまえらのほうこそなんなん?」ってなるわけ。日本の女性問題のことを叩く前に、ご自分の足許も見なさいよみたいな水掛け論的になってしまうではないか。だいいち欧州の人種差別は、米国よりもさらに根が深い。ユダヤ人なんか典型的な例ですね。いや、島国の日本人こそ、そういう差別意識にもっとも疎くて、そもそも社会に差別意識があることすら意識していない。こういうのを systemic discrimination って言うんですが、たしかにこの点は日本人はおおいに反省すべきかと思う。

 しかしこうも言える。そもそもだれしもなにかしらの「差別」意識は持っているもの。でも人は変われる生き物でもある。そのために意見を言い合うのはおおいにけっこうなことだと思うし、少なくとも自分の内面にそういう差別意識や差別感情があることに気づくだけでも精神的な成長になると思う。バナナマンさんが CM で言ってるでしょ? 「人間は迷う。まちがえる。だから愛おしい」って。行動経済学界隈では、行動経済学的にカンペキな人間のことをなんか「エコノ」って言うらしいけれども、そんな人なんているわけないし、べつに目指すべきでもないでしょう。大切なのは、「二度とおなじ失敗を繰り返さないこと」のほう。これだけで人はじゅうぶん、生きていけると思う。

 そういえば、今年の芥川賞に決まった『推し、燃ゆ』。作者はなんと沼津市出身の女子大生だそうで、まずは御同慶の至りです。でも「推し」という言い方、通常はどこか「差別的」に用いている人もけっこういるんじゃないかって気がする。Otaku とおなじで。しかしながら思うんですけど、そういうものを持っている人のほうが、いざとなったら精神的に強いような気がする。今日、やっと作品全文が掲載された「文藝春秋」買ったので(遅 !!)、ちょっと仕事もヒマになったことだしこれから読むところなんですが、選考委員のひとりの選評がとくに心に残りましたね。
『推し、燃ゆ』の主人公は、…… わたしなどにとっては …… 正直なところ、まあ異星人のようなものである。自分の部屋に「推し」の「祭壇」を作ることが救いになる、それが生活の「背骨」になるといった心のメカニズムにしても、一応知的に理解はしても、何一つ共感するところがない。
 にもかかわらず、リズム感の良い文章を読み進めて、その救いの喪失が語られ、引退した「推し」の住むマンションを主人公が未練がましく見に行くあたりまで来て、不意にじわりと目頭が熱くなってしまったのは、いったいどういうわけなのか。共感とも感情移入ともまったく無縁な心の震えに、自分でも途惑わざるをえなかった。主人公の嗜好も生活感情も世界との違和感も、ごく特殊なものでありながら、宇佐見氏の的確な筆遣いによって、どこか人間性の普遍に届いているからだろう。

 こういうのもりっぱに普遍的テーマたりえる、ということの証左のような寸評だと思ったしだい。こういう「色」のついた、一見、クダラナイとさえ思われている「ことば」は、一般の人がそれと気づいてないだけでじつは人を生かすパワーが宿っていると思う。そういういわれなき差別を一方的に受けてきた「ことば」がほんらい持っている力をぞんぶんに発揮できる、そんな書き方のできる物書きというのはつくづく幸せだと思うし、こういう物語がいま、もっとも求められているのかもしれない。

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2020年12月30日

「絶対悪」が支配する世界にしてはならぬ

 ようやく仕事にひと区切りつきそうになって、ヤレヤレというか、とにかく肩が痛いです(以前はこんなことなかったのに、トシですかね……)。

 翻訳専業になって、というか、実績的にはまだまだ駆け出しで収入的にもちっともペイしていないとはいえ、自分はまだ恵まれているほうなのだろうと感じています。ヘタの横好きだろうとなんのと言われようが、好きなことを仕事にできているのだから …… たとえ修正を求める校正や編集者からシツコク拙訳原稿が突っ返されても、そのために食うための仕事の予定が狂わされても(書籍翻訳の場合、印税制だろうと買い切り制だろうと、当たり前だが本が出ないことには当方には一円もカネは落ちない)、あまり文句は言えまい。

 そんなこんなで半年ほど過ごしてきたら、あっという間にもう年末。しかも今年は文字どおりの annus horribilis で、ここまで COVID-19 が全世界を席巻し、目には見えない暗闇で覆い尽くすとは思わなかった。

 それでもなんとかかんとか、大きな天災もなく、もちろんコロ助に感染もせずになんとか仕事を続けてこられただけでも、ご先祖さまをはじめとして、感謝しなくてはならない。とはいえ、コロ助のせいで墓参にも行けてない …… これはさすがに申し訳なく、悲しく思っている(ちなみにワタシのご先祖さまには、米国ポートランドへ「密航」して一旗揚げようとしたスゴイ方がおります。当時の西伊豆はいまの沼津市井田地区のような「アメリカ村」があって、「あめりか屋」という屋号の家は例外なく、明治から大正時代にかけてかの地へ聖ブレンダンのごとく船出していった冒険者を出している)。

 新型コロナ関連ではこの前、ここで橋幸夫さんのコラムについて取り上げたりしましたが、いちばん心に刺さったというか印象深かったのは、英女王陛下のクリスマスメッセージでしたね。もっとも印象的なフレーズはすでに既訳がいくつもあるので、たまには女王陛下のオリジナルのメッセージをじっくり味わうのも一興でしょう(ン? だれです、訳すのがメンドくさかっただけだろなんて心ないこと言うのは。ええ、たしかにそれはある。来る日も来る日も〆切を意識しつつノート PC のキーボードを叩き、細かい活字や辞書類を見ながら翻訳作業に追われれば、いくら好きでもさすがに精神的にボロボロにもなりますわ。出典元はここ、太字強調は引用者)。
Of course, for many, this time of year will be tinged with sadness: some mourning the loss of those dear to them, and others missing friends and family members distanced for safety, when all they'd really want for Christmas is a simple hug or a squeeze of the hand, If you are among them, you are not alone, and let me assure you of my thoughts and prayers.

..... “Let the light of Christmas, the spirit of selflessness, love and above all hope, guide us in the times ahead...... We continue to be inspired by the kindness of strangers and draw comfort that − even on the darkest nights − there is hope in the new dawn,
すべての人がクリスマスに心から願うのは、ただハグしたり、手を握り締めてくれることなのに」…… 新型コロナウイルス感染症をもっとも警戒しなくてはならないご高齢( 94 歳ですぞ!)の方から、こんな忝ないおことばをいただいたら、だれだってハッとして胸に手を当てるはずですよ。この期におよんでま〜〜だマスクなんてヤダとかダダこねてる欧米人に日本人よ、「目を覚ませ!」と、呼ぶ声が聞こえる(もちろんバッハの有名なオルガンコラールを思い浮かべながら)。

 ……というわけで、ほんとならば東京五輪の興奮冷めやらぬはずだったのに、激しい憤りと悲しみにまみれた 2020 年もおしまいです(なにに怒ったかって? いろいろあるけど、最近、とくにハラが立ったのは、「選挙はトランプが勝つ。米メディアの予想なんてアテになるもんか」と公共の電波でタンカを切ってその後、いっさいの釈明もせずケロっと忘れていらっしゃるらしい元 NHK キャスターの方。そろそろ引き際じゃないですかね? ほら「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」って言うじゃない?)。

 この仕事するようになってすっかり生活が夜型になってしまい(その前は朝2時半起きの超朝型で、出勤途中で朝陽に染まる富士山とか見ていたのに)、新聞配達の方が朝刊を新聞受けにいれるとほぼ同時に速攻でそれを取り出すんですが、こっちも重くなってきたまぶたをこじ開けて、「はへ? ラテ欄、いつ最終面に変わったんだ?」なんてぴろっと一面見たらなんとなんと○日新聞じゃないですかぁ ?! ウチは静岡のローカル紙だっちゅうの。すぐ新聞屋さんに電話して、駆けつけてくれたおじさんに誤配された朝刊を返そうとしたら、「差し上げますから、ぜひお読みになって……」と。かくして、誤配された朝刊とこっちが読みたかったほうの朝刊とふたつもらってしまった。できれば「東京新聞」を入れてくれればよかったかなん、とかバカなこと考えつつ、さっそく誤配朝刊にも目を通した。

 すると、元外交官で評論家の佐藤優氏の「核といのちを考える:核禁条約発効へ」というインタビュー記事に目が吸い寄せられた。佐藤氏は数か月前、「ラジオ深夜便」にてたいへん興味深く、示唆に富むお話をされていたし、かつての『ユダの福音書』騒動のときも初期キリスト教とグノーシスについて的確に指摘されていたのが印象に残っていた(というか、「深夜便」でも話されていたように、大学は神学部のご出身なんですよね。どうりでお詳しいわけです。こういう人が日本には少なすぎる。だからとくにキリスト教など宗教がらみの話になると、とたんに頓狂なこと言い出す人が出てくる)。

 日本は被爆国でありながら、核兵器禁止条約にはなぜか参加しなかった。物理的に核兵器をなくしていこうという動きはきわめて重要な一歩であり、日本はオブザーバー的立ち位置でもよいから、とにかく行動を、という佐藤氏の主張は説得力があります。なかでも開口一番、「核兵器は絶対悪と言っていい」という一文。Couldn't agree more! でしたね。ワタシはそもそも相対主義者で、たとえばスウェーデンの例の少女の言動とか見てるとなんかお尻のあたりがモゾモゾしたりするんですが、核兵器に関しては「絶対悪」でぜったいまちがいない。新型コロナ対策にしてもそうだが、ほんとうに医療従事者に拍手を贈りたいのなら、まずもってあなたが生活を見直すしかない。マスクもしないで忘年会? それせいでだれかが死んだら? 世の中にはぜったい守るべき最低限のことが突如として現れる場合がある。いまがそう。できることをしっかり実行したうえで罹患するのはしかたないことで、だれも責めたりはしない。しかしそうでない場合は …… その限りではないでしょう。日本だけでなく、どこだってそうずら。ってオラは思う。来年、五輪大会ができるかどうか、まったく未知数ではあるが …… それでも、ワクチンは年内に開発できた。希望はまだあると思いたい。以下、佐藤氏の発言を引用しておきます。
「シニシズムに陥ってはいけない。……あるタイミングで、すっとできる時がある。歴史の一種のめぐり合わせがあるんです。時の印を絶対に捉え損ねてはいけないと思うんですよ。あきらめてはいけないんですね、絶対に」
…… 来年こそ、"annus mirabilis" となりますよう祈りつつ。

タグ:佐藤優
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2020年07月19日

オルガンが丸焼けに

 …arson、だそうです。フランス西部の港町で、近年は「ラ・フォル・ジュルネ」音楽祭発祥の地としても知られているナントの「サンピエール・サンポール大聖堂」の火災。放火犯はてっとり早く燃やそうと、木製部品だらけの大オルガンに火を放ったようです(海外の速報記事とか見ると「会堂内3箇所から火の手があがった」というから、オルガンは出火場所のひとつということになる。なお日本語版記事には「破損」とあるけど、全焼しているから、「全壊」と書くべきだろう。手を加えて修理できるレベルの話じゃないですわ! ちなみにこの楽器、4段手鍵盤と足鍵盤 / 実動 74 ストップの威容を誇る、教会オルガンとしてはかなり大型の部類に入るものだったようです)。

 どこのどいつがこういうバカげたことをしでかしたのかはまだわからないし、それについてとくに喋々するつもりもない。ただ、昔からこういうことは意外にも(?)繰り返されてきた、というのもまた事実なんですね。もっとも顕著な例ですと、18 世紀後半に勃発したフランス革命とその後の動乱期。ちょうどこのときは、王侯貴族と教会権力の失墜とともにオルガンとオルガン音楽そのものの「価値」がブラックマンデー顔負けに暴落して、オルガン音楽がクラシック音楽のメインストリームから脱落する時期とぴたり重なっている(それを言えば、かつての王侯貴族に付き物だった鍵盤楽器クラヴィチェンバロ / クラヴサンもそう)。フランスは基本的にユグノー、すなわちローマカトリックの国なので、このとき各地のカトリック教会、とりわけ司教座付き聖堂(大聖堂)は目の敵にされ、略奪されるわ放火はされるわ狼藉の限りを尽くされ、オルガンの金属パイプ(鉛と錫の合金、ようはブリキ合金)は引き抜かれて溶かされ建築資材にされるわで、オルガン音楽好きからしたら目を覆いたくなるような惨状だった[ → AFPBB サイトの速報記事]。

 オルガンの受難は海峡を挟んでお隣りのイングランドでも似たかよったかでして、こちらはもっと早く 17 世紀に起きた内戦、世界史で言う「ピューリタン[清教徒]革命」前後数年の混乱に乗じて、おなじキリスト教徒のくせに清教徒側が「なんで会堂内にモーセの禁じた偶像やら金ピカな贅沢品があるんだ、聖書の教えと違う!!」と狂信者心理だか群集心理だかなんだかわからん烏合の衆的ポピュリズム的暴徒と化した連中が、やはり未来の隣国同様のことをやらかしている。大聖堂の貴重な聖遺物や代々受け継がれてきた宝物、絵画・彫刻といった芸術品、そしてもちろん、いちばん目立つオルガンが標的になった。でもオルガンをバラして燃やした、のではなくて、他の用途に転用したことが多かったようです(「革命」と名はつくが、約1世紀あとの市民革命とはそもそも目的が違う)。また、暴徒が押しかけてくる前にひそかに解体されて「疎開」し、ロンドンから遠く離れた片田舎に保管されて難を逃れたオルガンも少数ながらあった、という話もあります(どこの楽器だったか失念したが、たしかアルプ・シュニットガー建造の歴史オルガンの中にも、第二次大戦の爆撃を避けて解体され、疎開した楽器があったはず)。

 昨年のいまごろ、パリのシンボルたるノートルダム大聖堂の尖塔部分や屋根などが失火で焼失したときもたいへんなショックだったが、このときは不幸中の幸いで、有名なカヴァイエ=コル建造の歴史的楽器はほぼ無傷ですんだ。火災後の聖堂内を映した動画を見ながら、「ウン、……オルガンはダイジョウブみたい」と、東京芸術劇場の「回転」オルガンを建造したオルガンビルダーのマチュー・ガルニエ氏が NHK のニュース番組で心底ホッとしたような表情を浮かべて話しておられた姿がいまも思い出される。ナント大聖堂のこの歴史的楽器もいずれ再建されるだろうが、この楽器が持っていた400年という歴史の重みは、紅蓮の炎に焼け落ちる背後のステンドグラス絵と同様、この世界から永遠に消滅した。

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2020年05月31日

ネット時代のパンデミック

 TV や新聞などで新型コロナ感染症(COVID-19)関連の報道があると、決まって「米ジョンズ・ホプキンズ大学によると」が、枕詞のように出てくる。そのソースとなっているのがこちらの特設サイトで、じつは 3月9日時点の拙記事で張った参照リンクも、じつはココでありました。個人ブログとしては、国内でもわりと早くここのサイトをリンクというかたちではあるが引用したんじゃないかなって思ってます。

 最近、COVID-19 関連で検索すると、「COVID-19 に関する注意」という但し書きがやたらと出現する。それだけデマないし「裏をとってない」信憑性の疑わしい情報源の引用が多い、ということなんでしょうが、統計数字にかぎって言えば、もし上記の同大学特設サイトを引いていないような Web サイトやブログ、ツイートだったら、話半分に聞いておくていどでよい、ということです。

 ところでここのサイト、地元紙とほぼおなじ内容のこちらの記事によると、同大学システム科学工学センターの女性准教授と、中国出身の大学院生のおふたりがたったの半日(!)で完成させ、公開にこぎつけたものだったらしくて、そっちにもビックリした。いまさっき確認したところ、3月投稿時とレイアウトがまったく変わってないことから、特設サイトの完成度もけっこう高かったんじゃないかって気がします。とにかくこれすごいですよ。数字関連で確認したいとき、ここの特設サイトは must です。

 COVID-19 がらみでは、なにかと評価の芳しくない日本の対応。厳格なロックダウン下に置かれたロサンゼルス市内に家がある超有名邦人アーティストには、「[日本は]狂ってる」とかなんとか言われたり。たしかに向こうの基準ではなにやったってそう見えるだろうし、「三密は避けましょう」などと、あいも変わらず曖昧な言い回しで茶を濁すのが大好きな国民性ですので、内心、忸怩たる思いはあるものの、かろうじていまのところは最悪のカタストロフィは回避できてるのかな、と。ただ、「第2波のただなかにいる」と発言している首長さんがおられますが、実態はただの「再流行」的なものであり、未知の感染症エピデミック / パンデミックの「第2波」と同一ではない、ということだけは言いたい。ほんとうの「第2波」は、残念ながらこれから襲来すると思う。高温多湿の真夏の日本でこのウイルスの活動がどうなるのかは神のみぞ知る、としか言えないものの、とにかく「第2波」が来る前にワクチンが開発されるようにと、それだけを祈っている。

 祈ってはいるけれども、ワタシは例の江戸末期の「疫病退散」妖怪ブームについては、なんだかなあ、と思ってしまう。英国発祥という医療従事者への拍手、もいいけれども、もっと大切なところはそこじゃないだろ、と感じてもいる。医療や介護、あるいは物流の過酷な現場で働かざるを得ないいわゆる「エッセンシャルワーカー」に対する世間の人びとの態度もまた、失望させられることのほうが多い。いまさっきも英 Financial Times 見てたらこんな記事があって(下線強調は引用者)、
Other ordinary jobs are suddenly perilous too. Chefs, security guards, taxi drivers and shop assistants are dying at higher than average rates from Covid-19 in the UK. The British government, desperate to revive the economy, has told millions to return to work. Little wonder many are scared to do so.
失職して困ってる人にとってはつべこべ言っていられない、というのが偽らざる気持ちとしてあると思うが、そう、そこなんですよね、この新型感染症のほんとうにコワいところは。この前、いつも行く理髪店で散髪してきたとき、ご主人はマスクだけでしたが、そのうちあのアクリルシールドもかぶらないといけなくなるかもしれないし、こっちもマスクがはずせなくなるかもしれない。あるていどは「新型コロナ禍以前の日常」にもどれるかもしれないが、パンデミック以前の世界は二度ともとどおりにはならんでしょう。こちらの意識を徹底的に変えるほかない。

 最後に、こちらの番組の感想をすこしだけ。気がついたら、未知の感染症パンデミックに世界が覆われていて、いままで当たり前だと思っていたことがつぎつぎと変更を余儀なくされる、あるいはまったく不可能になる。そんな「不安な時代」であっても、やはり人は「パンのみに生きるにあらず」な生き物ですので、どうしても精神を支えてくれるものが必要になる。クラシック音楽家も容赦なくこの感染症禍に見舞われて世界的に仕事が蒸発して、にっちもさっちもいかなくて困ってる人もいれば、自宅隔離状態になっている人もいる。

 でもたとえば、いまはやりの「Web 会議システム」とかを駆使して、活動休止中のオーケストラ団員が指揮者もいないまま在宅で、ロッシーニの歌劇『ウィリアム・テル』の「序曲」を奏でる、というのはなんとすばらしいことだろうか! そしてこれを動画配信サイトで全世界に向けて発信し、いままでクラシック音楽に縁のなかったリスナー層を取り込むことに成功してもいる。

 総じて、社会インフラとしてのインターネットの普及と、それを支える技術の急速な進歩によって、30 年くらい前までは実現不可能だったことがいともあっさりとできちゃったりするから、そういう点ではひじょうに恵まれていると言える。翻訳の仕事だってぜんぶネット経由で訳稿の納品ができますし(というか、紙媒体の納品はありえなくなっている)。その気になればなんだってできると思うんですよね。文字どおり empowerment だと思う。もっともオケなんかはやっぱりコンサートホールのライヴを聴くにかぎるんですが、たとえネット経由であっても、ひとりひとりの「想い」が真摯でパワフルであれば、それは聴き手にもズキューンと伝わると思うのです(個人的には、演奏家の自宅が映し出されるのも新鮮な感覚あり。とくにジャン・ギアン・ケラス氏のフライブルクのお宅の部屋、インスタのストーリーズに公開してもおかしくないほど「映え」てましたね)。

 その音楽はもちろんなに聴いたっていいんですけれども、かつて自分が病気で臥せっていたころは、ヘルムート・ヴァルヒャの弾くバッハのオルガン作品集の LP レコードが心のよりどころで、ヴァルヒャによってバッハ音楽の深淵な世界に誘われた気がする。上記番組では、世界に名だたる演奏家のめんめんがそれぞれの「想い」を胸にベートーヴェンやドビュッシー、フォーレの楽曲を演奏していたんですが、演奏してくれた全 10 曲中なんと 4曲がバッハだった。そう、こういうときこそバッハなんだよ !! 庄司紗矢香氏は「毎朝、瞑想と自分に向き合うために」バッハの一連の『無伴奏』ものを弾く、とおっしゃっていた。ピアノのラン・ラン氏はバッハ弾き、というイメージがあまりなかったんですけど、こんなご時世ではやはり「宇宙を思わせるバッハの音楽」一択、という趣旨のことをおっしゃっていて、バッハ好きとしてはたまりませんでしたね。

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2020年04月27日

トム・ハンクスとタイプライター

 COVID-19 がこれほどまでに世界で猛威を振るう、いわゆるパンデミック禍になろうとは、そしてつぎつぎと著名な音楽家や芸能関係者が斃れるとは、ほんの数か月前までだれひとり予測した人なんていなかっただろう。

 そんななか、米国の名優、トム・ハンクス氏も奥さんとともにこの新型コロナに感染した、との一報を聞いたのは志村けんさんが急死するすこし前のこと。それから …… 日本国内でもこの 21 世紀型疫病のパニックとでも言える状態に陥り、あれほど「PCR の全員検査は必要ない!」と、国民のほうではなく医師会(?)のほうしか向いてないのではという不可解な発言をワイドショーで繰り返していた某医師(といっても、現場には立ってないのね)が、ここにきてヤバいとでも思ったか、「PCR 検査を増やすべき!」旨に宗旨替えしたりと「専門家の言」なるものがいかにアテにならないかの証左を 2011 年3月のときとおなじく見せつけられたりと、ホントしょーもなく暗い話ばかり、出るのはお足とため息ばかり、な今日このごろではあるが、ここにきてふたたびハンクス氏のお名前を見かけて? と思ったら、この窒息状態をつかのまスカっと吹き飛ばしてくれる、なんとも heartwarming なすばらしいお話をおみやげに持ってきてくれた。

 ハンクス氏が COVID-19 に罹患したのは映画の撮影で訪れていたオーストラリア。で、全快(?)したのかな、とにかくお元気になられたハンクス氏のもとに、地元の8歳の小学生から手紙が届いた。なんでもその子はコロナという名前を持つ少年で、ハンクス氏の体調を気遣ったあと、パンデミックを起こしている新型肺炎ウイルスとおなじ名前のために学校でいじめられて悲しい、とあった。そしたらハンクス氏直筆の返事が来まして、自身が吹き替えで出演した有名なアニメ映画の科白の「ぼくはきみの友だち('You got a friend in ME.'、ついでにここの in は「なかで」ではなく of とおなじ同格の in で、字義どおりには「わたしという友だち」になる)」まで引用して(ワタシは有名な歌のタイトルを引いたのかと思った、どっちでもよいが)、なんとなんと、マニアなら垂涎の的であろう、スミス・コロナ製の手動式タイプライターまでプレゼントしちゃったんである !!! 

 ご本人のインスタ投稿、見たんですけど、なにこれスゲー、グランドピアノよろしくピッカピカじゃん!、とガラにもなくコーフンしまして、「にわか」タイプライター好きになってしまったほど。たまたまいま手がけている仕事がまさにそんな話だったものだから、よけいにうれしくて、文字どおり快哉を叫んでましたね。

 知ってる人は知ってるが、じつはハンクス氏、超がつくほどのタイプライター好き。好きが高じて買い足し買い足ししたタイプライターのコレクションなんと 180 台、らしい(新潮クレスト・ブックス特別冊子『海外文学のない人生なんて』インタヴュー中の、ご本人の弁から。ちなみに作家デビューもしており、短編集『変わったタイプ[2018]』が同叢書から出てます。カッコイイ人ってのは、なにやってもサマになるんですなぁ)。

 ハンクス氏、ついでにコロナ少年もタイプライター沼に道連れ(?!)にしようというのか、「使い方をまわりの大人に教えてもらって、返事を送ってね ♪ 」と返信まで所望。このサプライズにもちろんコロナ少年は大喜び、公開されている動画クリップとか見ますとほんと瞳を輝かせ、嬉々として黒光りする名機で 'Dear Tom,' と打ってました。

 ちなみにスミス・コロナやレミントンランドはタイプライターの製造元として一世を風靡した事務機器メーカー。年代ものの手動式完動品は中古のノートPC なんかよりはるかに高くて、きっとこれもお高いんだろうなぁ、となんか下世話なことも思ってしまったしだい。ワタシだったら、仏語や独語などで使用される「アクセント記号」も打てる「デッドキー」を備えた欧文仕様タイプライターがほしいかも……インテリアどまりになりそうですがね。

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2020年03月09日

沈黙の春 2020

 世界保健機関(WHO)のお偉いさんが、「新型肺炎ウィルス[COVID-19]の世界各地における epidemic な流行のため、医療用マスク供給に数か月の遅延が発生している。だから "widespread inappropriate use" はやめるように」と、記者会見で発言していたらしい(誤解なきようここでも断っておきますが、今回の事態はまだ世界的大流行、つまり pandemic ではなく、リンク先記事にもあるように現時点はまだ "the coronavirus epidemic" にとどまっている。世界における COVID-19 のリアルタイムの状況についてはこちらを参照)。

 こんな物言いを聞くと、世界的なマスク不足がなんかワタシのような花粉症持ちの人間のせい、みたいな言い方のようでちょっとどうかと思ったり。メディアもメディアで、このエチオピア人の WHO トップのとなりに座ってたライアンという人が、「マスクをしたって予防にはならない」と発言しただけなのに、なぜかマスクは不要なのかという、「マスク不要論 / 役に立たない説」に加担しているしまつ(そうは言ってない)。

 基本的に欧米の人ってよっぽど具合が悪くならないかぎり、マスク着用の習慣がないし、もしマスクつけて外を歩けば、とたんに白い目で見られる国がほとんど(聖ブレンダン関係で大のアイルランドびいきだけれども、この件についてはおそらく似たかよったかでしょう)。

 前出の「ガーディアン」記事を見るかぎり、この発言は「医療従事者でさえマスクや防護服が足りなくてたいへん困っているから、ほんとうに必要ではない人は使用するな」という趣旨だったことがわかる。なのにメディアやワイドショーではさも「WHO トップが《マスクは不要》と言っているが … 」みたいな振り方をしている。fake news ってこうして始まるんですな。

 新型肺炎騒動は収束するどころか、世界経済全体にも暗い影、『スター・ウォーズ』シリーズじゃないけどまさしくPhantom Menace となって覆いはじめた感がある。専門家でさえ意見が1週間前と後で変わってたりして、とにかくシッポをつかむのがこれほどむずかしい、タチの悪いウィルスははじめてだ。そうは言っても、いくら SARS の経験が日本国内でなかったからとはいえ、SARS 禍を経験済みの台湾[中華民国]はそれなりに成果を上げているのだし、日本ももっと学ぶことはあると思う(ついでに、いまのお医者さんはかつての肺結核も含め、感染症の恐ろしさを肌身で知らない人がほとんどだということも、対策が後手後手に回った一因かと個人的には感じている)。

 今回、こうした事件が起きてもっともつよく感じたのは、人間という動物の本性。自他ともに認める西洋かぶれでさえ、たとえばローマのサンタチェチーリア音楽院の院長みずから、「東洋人学生のレッスンはすべて停止する」旨の通達を出した話にはポカンと口が開いてしまう。ふだんはオクビにも出さないくせに、いざこういうことになると手のひら返して「ウィルスだ、ばっちぃ !!」とわめきたてる大衆。もっとも人種偏見は日本人も人のこと言えないから、こういうときはあるていど起こることなのだろうが、言われたほうはたまったもんじゃない。

 また、こうした浮足立っているときは必ずと言ってよいほど、根拠のないデマが流れる。今回もまたしかりで、いつぞやの石油ショック(!)よろしく、トイレットペーパーがまたぞろ店頭から消えた。なんでこうなるのか、ホントこちらの理解を超えているのですけれども、歴史を顧みれば、とにかくこういうことが繰り返されてきた(メアリ・ヒギンズ・クラークのスリラー小説『子どもたちはどこにいる』に、ほぼ 100 年前にパンデミックを起こしたインフルエンザ「スペインかぜ」のことが出てくる。よもや 100 年後にこんなことになろうとは …)※。

 こういう「不安な時代(ハイドンの作品に、『不安な時代のミサ』というのもある)」に決まってぞろぞろ現れるのが、デマゴーグ、そして火事場泥棒を働く者たち。たしかに首相の判断はクソだった。なにいまごろ入国規制してんだよ。ごもっとも。でも、あなたはどうなんですか、という問題も忘れてはならない。個人を責めてるんじゃない。たとえば仕事ならしかたないところもあるが、この時節柄に遊びでとなりの国に行ってきて、いざ帰ろうとしたら日本政府側から足止めされて困った、とはどういうことか。門外漢にはまるで理解しがたし。自分ごととして考えてないからなんでしょうね。

 30 年くらい前だったか、パレスティナとイスラエルがドンパチやっているその「戦闘」のただなかに、これまたなぜか? 日本人の新婚さんらしいカップルがふらふらっとやってきた。それまで撃ちあっていた双方の兵士が呆気にとられ、なんとも間の抜けた空気が流れた「珍事件」があった、という話を読んだことがある。ホントかどうか、確かめようがないけれど、もしこれが事実ならばこの話ほど日本という島国に生まれ育った人間の本質があぶりだされている話もないではないか、って思う。はっきり言いますが、いまこのときに、人類にとって未知の新型感染症が地域的流行を起こしている国や地域に行くべきなんでしょうか? 他者を責める前にいま一度、よくよく考えてくださいね、というのがウソ偽りない気持ちではある。

 子どもたちも気の毒だし、なんたって受験シーズンを直撃した今回の新型ウィルス禍。春のセンバツをはじめ大相撲やマラソンが縮小開催されたり、人の集まるイベントは軒並み中止、まるで9年前のあの日のようだ(原発処理もまだまだなのに…)。その追悼式典まで中止になってしまった。

 はやく混乱が収まることを祈るしかないが、最後に、日本とおなじく一斉休校措置となったミラノの校長先生が、イタリアの文豪アレッサンドロ・マンゾーニを引いたメッセージには胸を突かれる思いがした ──
外国人に対する恐怖やデマ、バカげた治療法。ペストがイタリアで大流行した 17 世紀の混乱の様子は、まるで今日の新聞から出てきたようだ」。

※ …… 引用書名をカン違いしていたため、悪しからず訂正しました。
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2020年02月20日

『ラブライブ!』は、遊びじゃない!! 

 先週末、前にも書いたとおり『スター・ウォーズ エピソード9』と『ラブライブ! サンシャイン!! Over the Rainbow』の 11 回目鑑賞をしてきたばかりというのに、こんなニュースがそれこそ「藪から棒」に飛びこんできた。

 まず結論から申し上げると、個人的には猛烈に怒っている。というか、いまから 85 年前にスペインの思想家オルテガ・イ・ガセット(1883−1955)が代表作『大衆の反逆』で書いたような、そのまんまの展開に戦慄さえ覚えた。こんなことを野放しにしていたら、芸術文化活動全体に波及しかねない。というわけで、この悲しいニュースを知ってからはずっと悶々として過ごすこととあいなってしまった。

 こんな「フェイクニュース」の発信源はだれか、はこのさいどうだっていい。知っている範囲で書くと、「多様性」と HN に謳う一個人が、悪名高き SNS の Twitter(ほら出た …)上で、「なんでこのポスターに描かれている女の子のスカートは透けているの…?」とじつにかる〜〜い、のほほんと発信した一文がことの発端。するとこの「声」に呼応するシス・エターナルよろしく、非難の声が澎湃(どうせ読めないだろうからルビィちゃんふっとくわ、「ほうはい」ね)と同 SNS 上で沸き起こり、とうとう当事者の JAなんすん(ご苦労さまです)がすべて撤去した、というもの。フェミニストだかなんだか知らんが、この人たちの炯眼ぶりには『トムとジェリー』じゃないが、アゴが地べたにくっつくほどに、まっこと驚くほかなし。JA さんにはせめて、「安心してください、穿いてますよ!」のユーモアひとつくらい、あってもよかっただろう。

 彼らの主張ないしその結果について、問題点がいくつかある。まず、1). 非難の矛先を向ける先をまちがえている。「描き方が不穏当」と言いたければ、どうぞ制作会社にその旨お伝えください。不特定多数の第三者に向かってこういう不用意な発言をして知らんぷり、というのは、まさにオルテガの言う無責任な「大衆」そのもの。いや、これは「一億総トランプ化」なのか(ワタシが小学生だった当時、下田市にやってきたジミー・カーター元米国大統領は現職大統領に対し、「Twitter をやめろ!」と言ったそうな。むべなるかなではある)? 
…… 社交においては「礼儀作法」が姿を消し、文学は「直接行動」として罵詈讒謗に堕している。……
 手続き、規則、礼儀、調停、正義、道理! これらすべてはいったい何のために発明されたのだろうか。…… 文明とは、何よりもまず、共存への意志である。人間は自分以外の人に対して意を用いない度合いに従って、それだけ未開であり、野蛮であるのだ。野蛮とは分離への傾向である。だからこそあらゆる野蛮な時代は、人間が分散していた時代、分離し敵対し合う小集団がはびこっていた時代であったのである。
──── オルテガ・イ・ガセット / 神吉敬三 訳『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫刊、いつものように下線強調は引用者)から

 2). 「表現の自由」=何を言ってもかまわない、匿名なら何を言ってもおとがめなしと思いこんでいる。かつてアイルランドのケルト人氏族は、人間のことばの持つ力をたいへん恐れていた。相手を呪えばその呪いが矢となって相手を射抜くとさえ考えていた。ひるがえって SNS 全盛のいまはどうか。情報が情報が、と言いながら、そのじつ情報の最小単位たる「ことば」がこれほど軽んじられ、悪用されている時代などかつてなかったのではないか。Twitter に関してはホントは言いたいことがいろいろあって、それはまた別の機会に書くつもりだが、よく耳にする「災害時に威力を発揮する」なんていうのも幻想に近い。最近の身近な例を引くと、台風 19号が伊豆半島に上陸したとき、「狩野川の氾濫が始まったようだ」というデマを見かけたことがある。北伊豆地区を中心にたしかに甚大な浸水被害は出たけれども、じっさいには「内水氾濫」のたぐい。狩野川の堤防はしっかり持ちこたえていた、なんてことがありました。こっちも垂直避難を考えていた矢先だったので、さすがにこのツイートには凍り付いたが、こういうときにもっとも役に立つのは TV の「データ放送」だ、ということを再認識させられた。もっとも Twitter だってツールですので、「助けてくれ!」と発信すれば、だれかの目に留まる可能性はある。でも、個人的にはこういうじつにクダラナイことでただ無益に時間を浪費するだけの壮大な資源と労力の無駄遣い、という印象しかない。人生はあっという間に終わるよ。

 以前、おなじ SNS 投稿の内容でも Twitter と Instagram でその反応が正反対になった、という海外のおもしろい報道を読んだことがあります。前にも書いたかもしれないが、写真好きなワタシは Instagram はけっこう好きでして、ヒマなときはよくみなさんの作品とか見ていたりする。おなじ SNS でなんでこうも反応が分かれるのかっていつも感じるんですけど、ひとつは「文字ならだれでも表現可能で、すぐ反応があるから」というのがその根底にあるように思う。写真ってだれでも撮れるようでいて、そうでもない(もっとも、日本人だから日本語の文章を書くのはかんたんだ、と思ったらそれはちがう。いまじゃ漢字も知らず、「心のおけない」も誤解する読み手が大多数で、国籍不明語ばかりが跋扈する)。

 3). 一連の示威行為は威力業務妨害。一部の悪質なクレーマーのせいで、ほんらい、果たすべきタスクが正常に終わらない、もしくは遅延を被った場合、これは威力業務妨害ではないのか。あろうことか、弁護士を名乗る人間まで、「スカートが透けている」に乗っかって攻撃している。そこで先生方にお尋ねしますが、あなたがた、高海千歌のスカートが「透けて」いるのはだれが見てもまぎれもない「事実」でしょうか? あるいは、この PR ポスターのせいで、だれかが明らかに損害や苦痛を被りましたか? 法廷ではこういった事実の「証明」が必須かと愚考しておりますがいかが? もしあなたがたが証明できない場合、あきらかな「誹謗中傷」に当たりませんか? 弁護士って人権とか差別とか、まずもって弱者を擁護する側であって、「多数という驕り(「100分 de 名著」NHK テキスト『大衆の反逆』の表紙から)」に味方することではないと思いますがいかがですか。

 最後に、この『ラブライブ!』シリーズを誤解している向きがホント多くてそっちにも驚いている。聖地民のひとりとしてこの作品を通じて個人的に感じたこと、それは劇場版『Over the Rainbow』で Aqours のメンバーのひとり、渡辺曜のいとこの渡辺月の科白とまったくおんなじことだ。
気づいたんだ。ぼくたちはなんのために部活をやってるのか。父兄の人たちも。…… 楽しむこと。みんなは、本気でスクールアイドルをやって心から楽しんでた。ぼくたちも、本気にならなくちゃダメなんだ。そのことを Aqours が、Saint Snow が気づかせてくれたんだよ。ありがとう ……

 2018 年の暮れ、Aqours の声優さんたちが紅白のアニメ枠で出場したとき、さる女性芸能評論家が作品を観たこともないのに、「メイドカフェみたいな格好で出場するとはどういうことだ」とコキおろしていたことがあった。こういうのを偏見差別と言うんじゃないですか。オタクがどうのこうのとのたまうのも侮蔑表現やね。あなたたち一度、ここ沼津に来て視察でもなんでもすればよろしい。地元の人間からクレームが出ていないのに、あることないことないまぜにしてフェイクニュースをばら撒き、せっかく築き上げてきた「宝物」をこれ以上、ぶち壊しにする権利などだれにもないはず。この作品をきっかけに結婚された方、移住された方、写真をたくさん撮って地元民でさえまるで気づいていなかったすばらしさを表現してくれた方、ドイツやポーランド、香港からはるばる「なにもないところ」だと思いこんでいたこの街に「まちあるきスタンプ」や缶バッジをたくさん付けて観光に来てくれる海外のファンに対し、失礼だと思わないのか。また彼らは、長井崎のすぐ下の入り江に停泊していた「スカンジナビア」号の思い出さえ、蘇らせてくれた(「浦の星」の「星」は、おそらくスカンジナビアのもとの船名「ステラ・ポラリス[北極星]」からではないかと言われている。また TV アニメ第2期オープニングに登場する「桟橋」状の背景も、かつてスカンジナビアにつながっていた桟橋がモデルらしい)。それが、自称「おもてなし」精神の民族の態度なのか。片腹痛い、片腹痛いですわ! 『ラブライブ!』は、遊びじゃない!! 

 不肖ワタシだってこの作品に出会い、芹沢光治良から内浦の地理・歴史にいたるまで、制作スタッフのリサーチの本気度の高さに心打たれて、こちらの記事でも書いたように、『《輝き》への航海 ── メタファーとしての「ラブライブ! サンシャイン!!」』という小冊子まで書いてしまった。それもこれもみな、「楽しむこと。みんなは、本気でスクールアイドルをやって心から楽しんでた。ぼくたちも、本気にならなくちゃダメなんだ」ということを教えてもらったからだ。
「生き生きとした人間が世界に生気を与える。これには疑う余地はありません。生気のない世界は荒れ野です。…… 生きた世界ならば、どんな世界でもまっとうな世界です。必要なのは世界に生命をもたらすこと、そのためのただひとつの道は、自分自身にとっての生命のありかを見つけ、自分がいきいきと生きることです」────ジョーゼフ・キャンベル、ビル・モイヤーズ / 飛田茂雄 訳『神話の力』から
 ひとつ補足事項。Aqours の前の物語の主人公 μ's を描いた『ラブライブ!』でも、やはりネットのデマで炎上した案件があったらしい。また、「卑猥だ」と言っている人は、こちらのキャラについてはどう思ってんのだろうか。

posted by Curragh at 14:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近のニュースから

2020年01月20日

Ghosn is GONE !! 

 年末年始、↑ の方のかなり長め(原文で約6千語)の取材記事を訳出していたちょうどそのとき、ま・さ・か・の海外逃亡劇発生! で、こちらの予想どおり(?)クライアントさんから「悪いけど最短で入稿してほしい」旨の督促が。というわけで、短時間勤務 + こっちの納品で正月どころか、ホントぶっ倒れそうになりました。orz

 で、ワチャワチャしながらも入稿した訳出記事が、やはり年末年始もっとも注目された国内ニュースのひとつなのはまちがいない、ということもあってか、いわゆる「ヤフトピ」にも転載されてました。自分が手がけたこの手の翻訳仕事で「ヤフトピ」さんに転載されるのはこれまでも数回、あるにはあったが、なんせ日本中の人を敵に回したかのようなこのトンデモおっさんのトンずら劇のこと、コメントがハンパない(ずらぁ〜!)。

 こちらがこさえた訳文にはもちろん編集の手が入って、チェックも受けて晴れて掲載、とあいなるのですが、以前にも書いたように「全訳一挙掲載!」のようにとくに断わりのない邦訳記事はすべて「抄訳」扱いになります。だからといって原文を書いた記者ないしコラムニストの言っていること、趣旨じたいには影響のないように微妙なサジ加減はしっかり利かせているので、とんでもなく論旨からかけ離れた、明らかに別物、というのはほとんどないはずです。

 ただ、今回のような急ぎの仕事、たとえば出版系なら映画の原作ものとか「著者来日、緊急出版!!」みたいなたぐいにはある意味しかたないかもしれないが、その限りではない。昔の実例だと『大国の興亡』なんかが代表例かもしれませんが … このへん、翻訳者の仕事を奪うのではと危惧されてもいる AI とか、MT と呼ばれる機械翻訳テクノロジーがさらなる進化を遂げれば、現在ではとうてい不可能な短期間の納期でそれこそ「早い、安い、うまいラーメン」よろしく、「へい、一丁あがり!!」な翻訳商品を仕上げられるようになるのかもしれません。もっとも、どうなるのかはわかりませんけれども。

 転載記事のコメント欄ですけれども、内心、ちょっとドキドキしつつも拝見させてもらいました。で、思ったんですが、記事の内容よりも、日本語版の記事タイトルがお気に召さなかった方がたくさんおられたようでして、「大企業のトップに友だち、ハァ ?! なに言ってんだこの記者、大企業トップが孤独なのは当然じゃんか !!」といったお叱り(?)にも近い指摘がほとんどだった。言っておきますが、タイトルは編集サイドが考案したもの。で、翻訳本のタイトルもほぼ九割は、編集サイドが「売れるように」と知恵を絞って考えだしたもの(Webメディアだと、いわゆる SEO 対策みたいなことになるのかと思う)。で、翻訳者はとにかく中身で勝負、記事本文を、理想を言えば「鏡写しにしたような」日本語訳文に落とし込むのが仕事になる(こちらがまだまだ未熟者なのか、それともよほどの手練れでないと到達不能の境地なのか、いまだに「鏡写し」的な出来栄えとはほど遠いのは日々、反省しきりではありますが)。

 で、みなさんのコメントに目を通しているうちに一点だけ引っかかったコメントがありまして、引用記事はとうに削除の憂き目にあっているものの、ここですこし言い訳をしておきます。

 問題の個所は(下線強調はいつものように引用者)、
この状態は 2020 年以降も続くはずだった。2つの公判のうちひとつが春から開始され、検察と日産の元同僚側は、会計上の広範な不正行為と、企業の資産を私的利益のために横領したと訴える予定だった。対してゴーンの弁護団は、不正行為はいっさいしていないと反論し、自分はルノーとの合併に反対する日産経営陣および日本政府の策略にはめられた被害者だと主張するつもりだった。いずれの公判でも有罪が決まれば、ゴーンは 2020 年代を日本の拘置所で過ごす可能性が大きかった。
ついでに自分が書いたのはこっち ↓
この状態は 2020 年以降も続く。ふたつの公判のうちひとつが春から開始され、検察と日産の元同僚側は、会計上の広範な不正行為と、企業の資産を私的利益のために横領したと訴える。対してゴーンは不正行為はいっさいしていないと反論、自分はルノーとの合併に反対する日産経営陣および日本政府の策略に絡めとられた被害者だと主張。いずれの公判でも有罪が決まれば、彼は 2020 年代を日本の拘置所で過ごすことになるかもしれない。

[原文記事]... These conditions will persist well into 2020, when Ghosn begins the first of two trials for what prosecutors and his former colleagues at Nissan call a pervasive pattern of financial misconduct and raiding of corporate resources for personal gain. He denies wrongdoing, saying he’s the victim of a plot by Nissan executives and Japanese government officials to prevent further integration with Renault. A guilty verdict in either case could put the 65-year-old in a Japanese prison through the 2020s.

「はず」、というのはもちろん、当の本人がズラかったから編集サイドで追加したんでしょう。コメント主の方がミソをつけたのは、「起訴事実に横領はないはず」という点。たしかにそう。でも原文を見るかぎり、かなり強い言い方を使ってます。なのでその「勢い」を伝えたくて、ここはズバリ「横領」、ようするに会社のカネをネコババしたという表現を使ったしだい。

 刑事事件関係に詳しい向きは目くじら立てるところかもしれない。たとえばこちらの記事に書いてあるように、厳密に言えば「横領」と「流用」の定義はちがうし、横領に当たる正式な用語の英語表現は embezzlement になる。でも raiding、つまり「盗み取る」という言い方を使っている以上、さすがに「盗み取った」はキツいので、「横領」という訳語を充てることにした、ということです(名詞の raid には警察のガサいれ、手入れという意味もある)。

 大半のコメントが批判していた「社内に友人がひとりもいない」云々、についても、この記者の書いた記事を読むかぎりでは、いわゆる「なあなあなおトモダチ」という意味ではなく、真の友人、村岡花子訳『赤毛のアン』で言うところの、腹を割って話せる「腹心の友」がだれひとりとしていなかった、危険なまでの孤立状態にあったことも今回の転落の要因ではないか、彼の転落劇は社内の権力闘争という側面だけではなく、カルロス・ゴーンという「個人」に起因する要素も多々あるのではないか、という結論で終わっていたので、「読者第一号」としてこの原文記事を読み取ったかぎりでは、「この記者、なに言ってんの?」みたいな気持ちは微塵も湧かず、共感しかなかった。どころか、サウジルートだのオマーンルートだの、ただでさえ時間ないのに事実確認に追われるうちに、マジでこのおっさん「金の亡者だわ」、「やることがあまりにセコいずら !!!」としか思わんかったのも事実(苦笑 × 九層倍)。

 書き手を擁護するわけではないが、この記事は典型的なアメリカジャーナリズムが感じられる良質な取材記事だと思う … それが「ヤフトピ」に掲載された「抄訳」でどれだけ伝わっているか … という点はなかなかむずかしいかもしれないけれど、少なくとも煽情的タイトルで耳目を引きつけるだけのヘッポコ記事ではない、ということだけは、この記事を書いた記者の名誉にかけて言えるかと思います。

 … しかしそれにしてもこのゴーンという人は、なんだろう、ホントにハリウッド映画化なんて実現できるとかって思ってんのかな? スペインの新聞の取材でなぜ大晦日を狙って脱出したのかと問われ、「人々がのんびりと休暇やスキーに行く時期でいいタイミングだった」と自画自賛するようなお人。こういう人に違法な出国を許したほうもほうですが、情けないのはテロリストとか水際で防がないといけないところを「音響機器ケース」ごと突破されたこと。常識的に考えれば、これは国際刑事事件のみならずゆゆしき外交問題事案でもあるわけでして、それなのに突破された国の政府を代表する人間が「… 神奈川県のゴルフ場着。… 名誉顧問らとゴルフ」、「六本木のホテル内 ×× フィットネスで運動」、「『決算! 忠臣蔵』を鑑賞」、「午前中は来客なく、東京で過ごす。午後も来客なく、私邸で過ごす」…… こんなのほほんとした正月気分でいて、ほんとに大丈夫なんでしょうかね。今年はいよいよ世界中から人間がわんさとやってくる年なのに。

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2019年11月20日

まずは「読める」ことから

 NHK も含む TVニュースのアナウンサーでさえまともな日本語が使える人がめっきり減ったと感じる昨今ですが(「今日はなまぬるい陽気で … 」なんてだしぬけに切り出され、目が点になったことが最近あったばかり)、こちらもまたうっかり本音が出たにせよ、ヒドいし乱暴な話でほんとあきれる。なにがって、「身の丈」知らずの大臣のアホな発言ですわ。おそらくそんなこんなスッタモンダして収拾がつかなくなったんでしょう、ええいままよ、でいきなり大学入試英語の民間丸投げ計画を唐突に延期すると決定したものだから、現役受験生のみならず非難の嵐轟々、といった混乱状態になってます。

 やはりこれも以前、ここで書いたことの焼き直しになるかもしれませんけれども、大学に入るための試験なのに、なぜ英語の「聴く・話す・読む・書く」のすべてを「採点」しようとするのだろうか? いちばんワケわからないのは、なぜそれをビジネスライクな利益を追求する民間会社に丸投げするのだろうか。そんな共通試験なんてやったところで、カネと時間と貴重な労力のとほうもないムダ遣い、まったく意味がないって思うのはこれ書いてる門外漢だけじゃないはず。

 いつも思うんですけど日本を含む東アジア文化圏って、やはり昔の「科挙」思想の残滓が残っているせいなのか、やたら入試、入試で騒ぎますよね。ぶじ難関を突破して大学に入りました、ではそこで 4年間、なにをテーマにしてどんな分野を深く掘り下げて学ぶのか。あるいは休学してバックパックの旅に出て実地の体験を通じてなにかを学ぶのか(こういうことができるのも若い人の特権)、あるいは留学するのか、大学院に進むのか。はじめからなにか「大学ではこれこれをしたい」というものを持っている人ならいいんですけど、いちばん困るのは「合格して入学したはいいけど、さてどうしたものか、とりあえずサークル活動中心でいこうか」なんていう学生じゃないかと個人的には思う。サークル活動が悪いって言ってるんじゃなくて、全入時代、目的意識ゼロのくせにただ「みんなが行ってるからオレも」ていどの認識ってどうなのよって言ってるんです。

 だっていまどき大学くらい出てないと就職が … なんて声も聞こえてきそうだが、大学出なくても「手に職」つけておられる先達はたくさんおられますし、家庭の事情もあるとは思うが、ワタシは前出の消極的理由だけだったら、背伸びしてでも大学に行くことはないと思っている。大学というところは入学希望者をほぼ合格させる代わりに、本気で学ぼうとしない、もっと言えばデキの悪い学生をバンバン落として落としまくって選ばれた少数のみが卒業するという、英米の大学によく見られるシステムのほうがよっぽど健全かと思うんですけどね。もっとも『21世紀の資本』によれば、アイビーリーグなどの名門大学の財団とかに多額の寄付したいいとこの坊っちゃんや令嬢のみが不当に優遇されてるんじゃないか疑惑がけっこうあるようですけど …。

 大学入試の英語にもどすと、先日、元外交官の佐藤優氏が地元紙に、「英語圏に暮らした経験がある帰国子女を除いて、大多数の高校生は日常的に英語に接していない。そのような生徒にいきなり『書く・話す』能力を求めることにそもそも無理がある」と主張する論説文を寄稿しておりまして、まったくそのとおりだなあ、とひとりごちた[いつものように下線強調は引用者]。「読んでわからないことは、聞いてもわからない。読んでわからないことについて、話したり書いたりすることもできない(当たり前だ)」。

 じつはワタシも大学は出ていない。でもいま、二足も三足もワラジ履きながらではあるが、こうして翻訳や原稿書きの仕事をあまり途切れることなくいただいてたりする。ほんとうにありがたい、と思う。ちなみにべつにこれ自慢じゃないですけど、ワタシの拙サイト『聖ブレンダンの航海』の英語版、あそこに書かれた英文がすらすら読め、かつ、「ここのところ表現おかしくない?」なんてコーヒー片手に思えるような学生は、ほぼまちがいなく世界を相手に活躍できることでしょう。ちなみに書いた当人は、いまだ日本国外に一歩も出たことはないが。

 今回の騒動に巻き込まれてしまった受験生のみなさんは、ほんとうに災難だったと思う。でもかつて高校の先生に、「おまえらは不幸の星の下で生まれたっていうか、こんな円高不況のときにぶつかってしまったが … 」なんて慰めにもクソにもならないことばをかけられた記憶のある元高校生から言わせてもらえれば、かつてスタッド・ターケルの著作を邦訳した先生とおなじことばをここでも繰り返したいと思う──「あきらめずにつづけていれば、そのうちいいこともありますよ」。人生すでに半世紀を生きたしがない人間は、このことばは真実だと思っている。ほんとうに好きなことがあるのなら、それにあきらめずに食らいついていくべきだと思う。

 ついでながら、大政奉還後の徳川家によって設立された「沼津兵学校」というのがありまして、今年は設立から 150 周年にあたるんだそうです(地元民のくせしてだそうです、はないと思うけれども)。で、初代校長だった西周[にし・あまね]という人はいまふうに言えば超絶デキる人でして、哲学者にして教育家、そしてなんといっても福沢諭吉や森有礼と並ぶ近代日本語の基礎をなす数々の「翻訳日本語」を作った人でもあり、「哲学」、「芸術」、「理性」、「科学」、「技術」といった、いまやふつうに使用されている日本語もすべてこの人が作ったもの。で、たとえば新聞なんかぴろっと広げれば、やれ「CSF」がどうしたとかってある。はて? セルロースナノファイバー (こっちは CNF)?? なんてツッコみたくなるところだが、なんとこれ例の「豚コレラ」のことだそうでして。なんでも Classical Swine Fever の頭文字かららしいが … いつぞやの「修飾麻疹(modified measles)」も挨拶に困るけど、もうすこし芸がないのかってつい思ってしまう。西がこれ見たらいったいなんとコメントするのだろうか。「典型的 / 標準的豚熱病」じゃダメなんだろうか。国際標準だからこれでいいんだ、というのはたしかにわかるが、なんでもかんでも横文字の符牒みたいなナゾナゾ用語にして事足れり、では千数百年、受け継がれてきた日本語に対して申し訳ない気がする。

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2019年10月06日

何度も繰り返すけれども …

 … 人間の生きる地球を含むこの現実の世界には、「唯一絶対の基準」というものは存在しない。これはここにいる門外漢がエラソーに喋々すべきことではないし、とくにお若い方を否定するようなことは言いたくないんですけど、あの気候行動サミットでのスピーチ、と言えるかどうかも心もとないが、とにかくあの嫌悪感丸出しの物言いにはさすがに引いた。

 人前で演説する、プレゼンするというのはいろいろな手法があってしかるべきだと思うが、'... Yet you all come to us young people for hope. How dare you ! You have stolen my dreams and my childhood with your empty words.' といった口を極めた非難頻出、「こうなったのはすべて大人たちであるあんたたちのせい」と言わんばかりの内容で、あまり共感はできなかった。というか、quite disappointed であった。

 「よくもぬけぬけと!」という捨て科白を、たとえば海面上昇で沈みつつある島国の子どもから聞いたら、もっともだ、と思っただろう。環境意識の高さでは負けていないドイツ在住の邦人の話によると、この「環境少女」の影響を受けた子どもたちが学校に行かずに抗議活動に精を出しているのだそうで、はっきり言って本末転倒じゃないかと思った。個人的には、「いまの生活様式を改めよ」ということでは、マイクロプラスチックの海洋汚染問題も負けずに喫緊の課題じゃないかって思うんですけどね。

 たしかに産業革命以来、大気中の炭酸ガス濃度は右肩上がりだし、環境もののすぐれたノンフィクションを世に問うてきたビル・マッキベンの著作にも親しんできたひとりとしては、主張は理解できる。ただし気候変動というのは大規模な火山噴火とか、予測不能の現象にもかなり左右されるので、ある条件で算出した数字を下回ればそれでよし、というほど単純でもない。絶対的尺度ではなく相対的尺度として扱うべきで、「シロか、クロか」で決めつけるべきではない。「自分たちの世代の存亡にかかわる重大な問題」だとほんとうに思うのなら、世代間闘争のような話の持って行き方ではなく、それを自分たちの問題として受け止めるべきだと思う(あんたら世代がみんな悪い、どうしてくれるんだ、ではけっきょく堂々めぐりになるだけ)。前の世代の人間のせいにするのならば、まず責めるべきはこんなクソみたいな世界に産み落としたご両親からでしょうな。

 温暖化もむろん深刻ではあるが、個人的にさらにこわいのが、マイクロソフトの創業者のひとりが作った財団が世界規模で取り組んでいる「マラリアを媒介する蚊を絶滅させる方法」の開発。「欧米か!」と突っこまれそうなくらいの西洋びいきの自分から見ても西洋人の典型的な悪い見本的な好例でして、環境がらみで言えばかつてのラヴロックの「ガイア理論」と同様、西洋人の傲慢かつあまりに能天気かつきわめて楽観視した発想としか言いようがない。もっともこの計画には反対する研究者も多くて(当たり前だ)、ほんとうにこの計画が実行に移されるかどうかはよくわからない。この手の人たちはいまいちど、オスヴァルト・シュペングラーの『西洋の没落』や、アルベルト・シュヴァイツァーの『文化の退廃と再建』といった古典を再読されてはいかがでしょう。

 唯一絶対の基準などない、ということでは、最近買ったこの本。自分が気に入った本というのはたいていだれからも見向きもされないような本が多いんですけれども、こちらは世界的に売れてるんだそうでご同慶の至り。まだ読み始めたばっかですけど、たとえば「英ポンドの貨幣価値を米ドルで表した値と、米ドルの貨幣価値を英ポンドで表した値のどちらかがリアルかと尋ねるようなもので、『ほんとうの価値』は存在しない … 同様に、『本物の時間』も存在しない。異なる時計が実際に指している二つの時間、互いに対して変化する二つの時間があるだけで、どちらが本物に近いわけでもない」というのは、べつにアインシュタインの「一般相対性理論」にかぎらず、なんだって当てはまる普遍的な事柄なんじゃないですかねぇ(あたかも世の中、なにが fake でどれが truth かでもちきりだが。ちなみに冒頭の「時間の流れは、山では速く、低地では遅い」は、たしかなんかの TV 番組でも取り上げていたのを見たおぼえがある)。

 比較神話学者キャンベルの著作でもおなじみの中世錬金術関連本『24賢者の書』に出てくる、「神は知覚可能な球体で、その中心は至るところにあり、外周はどこにもない」というくだりなんか見ると、昔の人ってテクノロジー全盛の21世紀、ビッグデータに翻弄されつづけているわれわれなんかより、物事の本質をはるかに理解していたんじゃないかってほんと思う。イルカとクジラを神聖視するのは勝手ながら、だからといってその価値観を押しつけるのは、やはり発想の貧困さが露呈しているように思う。「あなたの神を、わたしに押しつけないでください」。ウシの肉は食べたくないから3Dプリントでこさえた人工肉(!!)を食べるのはいい。だが「おまえも vegan になれ」というのは、お門違いもいいとこだ。

 何度も言ってきたことですけど、ほんとうに温暖化とそれに伴う気象災害の激甚化をなんとかしようと思うんなら、たとえばクルマを捨てることでしょうか。ぜんぶ捨てろとか乗るな、と言ってるんじゃありません。「ひとり一台をおやめなさい」と言ってるんです。卑近な例を申せば、定期バス路線が身近にあるにもかかわらず、複数台持っているような人がけっこういます。すこしだけ、不便な生活スタイルへと変えてゆくこと。まずはここからなんじゃないかって気がします。

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2019年07月20日

Vote, vote, and vote !!! 

 昔、米国の女性小説家ガートルード・スタインが、「バラはバラでありバラでありバラである('A rose is a rose is a rose is a rose.')」と言ったという話があり、またイタリアの甘口白ワインの銘柄に「エスト! エスト!! エスト!!!」なんてのもありまして、お題はそれに引っかけてみました。

 といってもべつにふざけているわけじゃなくて、大まじめで言ってるんです。3年前の参院選での 20 代の投票率は 35.6 % でして、年代別でもっとも高い投票率だった 60 代の半分しかない、との報道記事を読んだ。また今春の統一地方選では、首都東京の特別区 20 区議会選挙の投票率でさえ、平均投票率はなんと 50 % にも届いてない( 42.63 %)。「投票に行く人のほうが少数派」になってしまっている。いくらなんでもこれはマズいでしょ。

 最近、さるラジオ番組に出演された方の発言を見たら、若い人の意識はけっして低いわけじゃない、としたうえで、こんな当事者の声を引用していました。「わたしたちだって選挙が大切なのはよくわかっている。学校でも主権者教育をやってるし。でも、だれに投票したらいいかまったくわからないんです(主権者教育ってなんのためにやってるの ??? )」。あるいは、もし自分が投票した候補者が不祥事を起こしたときに、その人を選んだ自分の責任を持つのがこわい。過ちを犯してしまうくらいなら、投票には行かない …… んだそうですよ。

 人生すでにウン十年、生きてきたしがない門外漢は、はっきり言ってこんな返答を聞かされて情けなくなったね。なんだよそれって感じ。理由にもならん理由。いやヘリクツか。たしかに改正された公選法では、18 歳未満の人は選挙活動ご法度みたいなヘンな決まりごとはあったりする。しかし引用部分はハナから投票に行く気もない人間の戯言にしか聞こえない。「保育園落ちた。日本死ね」という迷言がいっとき話題になったけれども、そういうこと口走る人たちって、あんがい主権者として与えられた権利を十全に行使していない人種なんじゃないかって勘繰りたくなる(意見には個人差があります)。いつからこんなふうになったのかな。「ノンポリ」なんていう言い方が浸透してきたころからかな? 自分たちで自分たちの所属している社会の根幹を破壊していることにほかならないのに。ある芸能人が早世してその葬儀の日に学校を休んでまで行く、それも親子そろって参列した、という例を TV で見たことがあるけれども、こういう手前勝手なメンタリティってどこか通じているんじゃないでしょうかね。それとも、ここで嘆息しているおっさんが「やっぱり古い人間でござんしょうかね」。

 もっとも地元紙の報道にもあったように、伊豆半島の僻地の高齢者しかいないような集落では投票ひとつとってもたしかにたいへんだ。ネット投票云々と言われているけれども、まずは前提条件をつけたうえで、こういう限界集落的なところに住み、投票所に行くのがたいへんな高齢者にかぎって実施してもいいのではと思う。そのときはお年寄りでもハズキルーペなしでハッキリくっきり見えて、かつかんたんに投票ができるアプリなり、方法を考えないといけませんけれども。

 話もどって、ネットの言論空間でも、「政治的発言お断り」というのは世界標準みたいな印象を個人的にも受けてはいる(以前、参加していた米国のニュースグループでもそういう取り決めで、なにかしら政治色が出ると、発言者当人がその気はなかったとしてもモデレーターから注意されたりした)。でも、こと投票となるとたとえば欧州の場合、日本ほどの低投票率、とくに若い世代で投票に行かない人が多い、なんてことはないそうですよ(EU に対する幻滅のせいなのか、フィンランドの若い有権者の EU 議会選挙の投票率が異常に低い、という例外もあるようですけれども)。たとえばこういう記事はどうですか。書かれた内容の是非はともかく、やっぱりここでも何度か書いてきた、「個人」というものがいまだ確立していない言霊の島国だからなのかなって気がどうしてもしてしまう。確固とした「個人」という土台がなければ、当然のことながら「健全な批判精神」も育つはずがないわけで。日本人には日本人ならではの長所があり、日本に帰化するような外国の方なんか、われわれが思っている以上に日本人化していて、もはや「ナイジン」とでも呼んだほうがいいくらいに日本の色に染まっている人もたくさんいらっしゃる。が、それも日本という島国の中での話であって、アジアのみならず欧米も含めた世界では認めてはもらえないでしょう、残念ながら(昨今、欧米がいい意味でも悪い意味でも「日本化」しているように思える事例がとみに多く感じられることはひとまず脇に置いておくとして)。

 「わたしは、わたしとわたしの環境である。もしこの環境を救わないのなら、わたしをも救えない」というスペインの思想家オルテガ・イ・ガセットのことばは、投票する権利の行使にも当てはまるような気がしますね。古代ギリシャの哲学者アリストテレスの発言は、元来の趣旨が「人間はポリス的生き物だ」ではあるけれども、人間ってやっぱり「政治的動物」のような気がします。おっと、チンパンジーやゴリラ、ボノボといった他の霊長類社会でも一種の政治的力学は働いているか。ヨタ話はともかく、明日はぜひ投票を。

 … 「若者がいきいきと生きるための政治を実現するには若者の投票率向上が大事。大学無償化など、経済的に苦しい若者への支援策を議論してほしい」。これは、参院選期間中に地元紙に連載されたひとことコーナー的な記事に載った、現役高校生のことば[下線強調は引用者]。こういう若い人の存在は、ほんとうに頼もしい。

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2019年06月30日

伊東沖海底噴火から 30 年

1). 伊豆半島東海岸の伊東市のすぐ沖合、手石島のあるあたりの海上に突如、爆音とともに噴煙が立ち上ったのは、いまからちょうど 30 年前の 1989 年7月 13 日の夕方のことだった。あのときはほんとうに驚いた。とにかくそれまで毎日のように有感地震がつづいて、あるときなど下からガツン! と突き上げる揺れに飛び起きて、倒れそうになった本棚を必死に押さえていた(というか、本棚といっしょに揺れていた)。

 先日の地元紙朝刊紙面に、当時のことを述懐する静岡大学の小山真人教授の記事が載っていたけれども、「…火口直近の海岸でインタビューを受ける海水浴客の映像を見て、立ち入り規制のない事実に背筋が凍り付いた。……当時は対策ゼロの状態であった。いま思えば、噴火が本格化しなかったことはほんとうに幸運であった」と書いている(当時の状況を現在の伊豆東部火山群の対策に当てはめれば、噴火警戒レベル4への引き上げと想定火口周辺地域の避難勧告→火山性微動発生→噴火警戒レベルを5に引き上げたうえで避難指示、という段階を踏むことになる)。

 2014 年の木曽御岳山の噴火や、昨年の本白根山・鏡池付近の突然の噴火、そしてここ数年、地殻変動のつづいている箱根の大涌谷火口など、日本列島は地震の巣でもあると同時に活火山の集合体でもある。火山ではない場所も、付加体形成に伴う一連の造山運動などによって地殻がズタズタになり、活断層が何本も走っていたりする。温泉や湧水、景勝地などの恵みももたしてくれる日本の自然は、ひとたび荒ぶれば一変する。

 加えて、風水害もある。これからが本格的に警戒しなければならないシーズンだけれども、火山も地震も風水害も、とにかくふだんの、そして不断の備えを心しなければならない、とあらためて痛感したしだい。そういえばけさの朝刊紙面にもけっこう大切なことが書かれた記事が載ってました。今泉マユ子さんという方の寄稿された、防災グッズの準備のしかたについての連載記事。「非常持ち出し袋」の中身はつぎの三つに分けるとよい、というもので、具体的には 1. 地震発生時に「すぐ必要なもの」だけを詰めた袋。これには懐中電灯や手足を守る道具(スリッパや手袋)、そしてホイッスルなどを入れておくとよい、と。2. は「命を守る袋」で、ヘッドライト、マスク、携帯ラジオ、連絡先メモ、すぐ食べられるもの、飲料水、衛生用品など。最後が 3. 避難生活用の袋で、こちらは自宅に置いておく。落ち着いたら取りに行くための袋で、こちらには着替えや備蓄食料を入れておく。もちろん賞味期限 / 消費期限の確認はお忘れなく、という記事でして、なるほどなあと。ワタシも早めに持ち出し袋の中身を入れなおそうと思ったのでした。みなさんも参考にされるとよいでしょう。

2). と、そんな折も折、いま静岡県人にとってもっともホットな話題のひとつが、JR 東海の「リニア中央新幹線」、とくに静岡県側にとっては益どころか害ばっかの気がしてならないトンネル掘削工事の許認可をめぐる県知事との攻防戦でしょう。で、まったくの部外者が見て思うに、いまの日本人って傲慢かつ傲岸不遜な考えの持ち主ぞろいになってしまったなあ、という慨嘆ないし憤懣です(もっともそう感じるのは皮相的で、じっさいには若山牧水が沼津の千本松原伐採計画に轟々たる非難の声をあげた当時となんら変わっちゃいないのかもしれないが)。伊豆半島が押しつづけ、いまも上へ上へ押し上げられつつある南アルプスのどてっぱらを掘削する今回の工事。大井川の流量減少がとくに心配されていますが、個人的には、昭和のはじめのときの東海道本線丹那トンネルの大工事のことを思わずにはいられない。トンネル工事は想定以上の湧き水に落盤、そしてトンネルじたいがズレた北伊豆地震(M 7.3、1930)発生などで事故死者が続出。そしてそのトンネルから湧き出した水=灌漑用水だったので、それが枯れてしまって、当時の旧丹那村の水田はすべて干上がってしまった。いま、函南町の丹那地区は酪農の盛んな地区として有名だけれども、先人たちの血のにじむような奮闘があったからこそいまの姿がある、ということはやはり忘れてはならない。関連の報道を見聞きしているかぎり、いまの JR 東海のやっていることは、80 年以上前の丹那トンネル工事の二の舞になりかねない、との懸念がますます深まるばかりだ。三重県の知事さんは静岡の県知事のことを批判していたが、あんたのとこの県でこの工事をしますと言ったら許可するのか、と噛みついてやりたい気分、ですわ! 

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2019年04月28日

ノートルダム大聖堂の悲劇

 今月 15 日、パリのノートルダム大聖堂の大火の映像を見たときには絶句するほかなかった。不幸中の幸いは、数々の美術品や聖遺物、焼け落ちた鐘楼のてっぺんにあった銅製の風見鶏像とかはなんとか難を逃れて「生還」したとはいえ、個人的には 1868 年にカヴァイエ=コルの建造した大オルガン(先代のフランスバロック期のオルガンビルダーのフランソワ・アンリ・クリコの製作した楽器を大幅に改造したもので、中世以来のパイプも一部まだ残っているとか)。昨年、そのカヴァイエ=コルがここにオルガンを収めて満 150 周年、ということなのかどうかはよく知らないけれども、とにかく大規模な修復が施されて演奏台も新デザインに更新されたばかり。なので今回の失火(!)はほんとに残念でしようがない。

 国内ではどうもこのカヴァイエ=コル・オルガンについて報じていたのは NHK だけのようでして(さすが自前の大オルガンを持っている組織だけある)、しかも二晩つづけて報じていたのにはちょっとびっくり。いくらクラシック音楽好きを自認する日本人でも、オルガン音楽が大好きという人の絶対数は向こうに比べればはるかに少ないしオルガニストの仕事数じたいも少ないはずなので、いたしかたないとはいえ、もうすこし報じられてもよさそうなところではある。とにかく映像で確認したかぎりでは、とりあえずぶじのようです … もっとも消火活動でいろんなものが天井から落っこちてきたり、放水で大量の水とか浴びているかもしれない。オルガンパイプは鉛と錫の合金、つまりブリキなので、ちょっと熱に触れただけで溶けてしまうし、コツンとどこかにぶつければ ── Macbook Air とかアルミ一枚板削り出しのノート PC みたいに ── すぐ傷ついたりへっこんだりする。もちろん木のパイプ、木管をはじめ木でできた部分もたいへん多いため、水を浴びれば即使用不能となる。このへんはやはり気がかりではあります[→ 関連記事]。

 オルガンもそうですけど、歴史的建築物と火災については古くは金閣寺や法隆寺をはじめ、昔から問題視されてきたから、たしかに一筋縄ではいかないかとは思う。ノートルダム大聖堂の場合、「オークの森」と称されるほど入り組んだオークの木組み約 1,300 本が使用されていた屋根裏部分にはスプリンクラーも設置されていなかったという。もちろんこれはスプリンクラー代をケチったわけじゃなくて、いろいろ事情があってのことだったらしい。でもこれだけテクノロジーが進化しているご時世なのだから、もうすこし防火対策はとれたはずだと思う。

 いまひとつ と感じたのは、地元紙に引用されていた米国人消防のもと幹部という御仁の話。この方は取材に対して、こう応じたんだそうだ(いつものように太字強調は引用者)。「大聖堂は燃えるためにあるようなものだ。礼拝の場でなければ、違法建築として摘発対象だ」。

 これ当のフランス国民が聞いたらどう感じるのかな。「違法建築のかどで摘発対象」というのは、そりゃ消防法を金科玉条の絶対的尺度に考えたらそうでしょうよ。ウチだって数十年経過した古い耐震基準の木造住宅なんで、摘発してくださいと言っているようなもの。それに法律や制度なんてアップデートが前提なので、時代が変われば昔はよかったものでもたちまち違法として取り締まりの対象になったりする。そんなもんふりかざすことじたい、単純化のしすぎというかノーテンキな発想だなというのが偽らざる感想。んなこと言っていたら「世界遺産」級の歴史的建築物は楽器のオルガンも含めて、ほぼすべてが「摘発対象」になって全滅すると思うぞ。

 じゃあどうすればよいのか、ここが大事なところだと思う。まさかいまの基準で「違法建築」だからって、失ったらそれこそ取り返しのつかない歴史遺産をぶっ壊すわけにもいくまい。というか、いくら「適法建築」に変えたって火災はなくならないでしょう。最悪の場合、放火されたらどうしようもないですし。一見、正しいことを言っているようでじつはトンデモ発言というのはまさにこれかと。19 世紀にさんざん鯨油やらなにやら搾り取っておいて、「アイスランドと日本はいまだに捕鯨をつづけている野蛮な国だ」なんてほざいている連中とあんまり変わりないんじゃないでしょうか。端的に言えば独り善がり、つまり独善。あるいは偽善。だって今回の火災の原因を作ったのは「違法建築」だったから、ではなくて、屋根の工事をしていた現代人による「失火」。燃え広がったからといって「違法建築で摘発する」というのは、いくらなんでもノートルダム大聖堂に対して失礼千万な失言じゃないですか。「違法建築」ということならギザの三大ピラミッドだって取り壊し対象でしょうよ。ひとつの価値観を押し付けるな、と言いたい。拙い経験から言えるのは、価値観なんてものはしょせん移り変わるもの、もっと言えばアテにはならない、ということです。

 とはいえいたちごっこかもしれないけど、とにかく「歴史的建築物」を火の手から守るためにはどうにかして知恵を絞らないといけないことに変わりはない。建物のせいにする時間があったら防火対策を真剣に考えないといかんと思うのですがいかが。そういえば 1996 年、スプリンクラーの誤動作でコンサートオルガンがずぶぬれになった、という悲しい事件が浜松のアクトシティ中ホールであったけれども、あのときも「被災」したのはフランスのオルガンだった。そのとき、オルガン建造メーカーの社長だったコワラン氏がこう言っていたのはいまでも鮮明に憶えている ──「楽器が被水したことを、ひじょうに悲しく思います」。よかれと思って設置した最新設備だって、「誤動作」すればこんなことになったりするのが人の世の常。

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2018年10月22日

「生きているあいだは輝きなさい」

 いまごろなんですけど、本庶佑先生のノーベル医学生理学賞の受賞はすばらしかったですね! オプジーボでしたか、従来の抗がん剤とはまったく発想の異なる免疫療法による特効薬の研究開発。そして寡聞にして知らなかったが、なんと静岡県ともゆかりがけっこう深くて、昨年まで静岡県公立大学法人理事長を務められ、そして「ふじのくに地域医療センター」の現理事長でもある、というからさらにびっくり(→ 関連記事)。そしてなによりも自身の経験に裏打ちされた「名言」もまた、すばらしい。やっぱりこういう「個」をしっかり持った人というのはけっして狭量ないわゆる専門バカであるはずもなく、普遍的な「輝き」、radiance を放つ人物なのだ、ということを再認識させられもした。

 「一生をかけるなら、リスクが高くても自分がやりたいことをすべき」、「生命科学はどの研究が実を結ぶかはわからない。一見役に立たない、すぐに結果が出ないように見えても無駄ではないのでいろんな分野やパターンに挑戦するべき。だから教科書に書いてあることも正しいとはかぎらない。まず疑うこと」といったことば、胸に響きますね … とくに「健全な批判精神」ということを強調されていたことなんか、もう感激。そういえば地元紙もノーベル賞受賞が決まったとき、本庶先生のことばとしてつぎのように掲載していた[引用は一部抜粋、下線強調は引用者]。
一般的にいまの学生は浪人する人が少ないなど安全志向が強い。人生は一度しかないからチャレンジしてほしい。自分が決めた枠の中にいるだけではおもしろくない。好奇心やおもしろいと思ったことに挑戦してほしい。

 1回や2回失敗したっていい。再起は可能。失敗してもあきらめず継続すること。やる以上は全力で集中してやる。ずっとやっていると、そのうちなんとなく自分に自信がでてきて開けてくる
本庶先生は研究室で若い院生に、よくこんなふうに問いかけたんだそうです。「それは、ほんとうにキミがやりたいことなのか?」。心からやりたいと思っているのかどうか、これが判断のひとつの基準だったことはまちがいない(→「いちばん大切なのはできるかどうかじゃない。やりたいかどうかだよ!」by 高海千歌)。この点もしごく共感できて涙が出そうになる。

 自分が夢中になれるかどうか。ほんとうに好きなら、たとえカベにぶつかってもあきらめたりせず、やかましく無責任な外野の声なんぞいっこう気にもとめず、おのれの究めたいことをひたすら追求すること。… っておや、なんかどっかで聞いたことある話 … そう、比較神話学者のキャンベルの言う「あなたの至福に従え」ですよ、まさしくこれ。言わんとするところはけっきょくおんなじじゃないですかね。 

 前にも書いたけど、ほんとうに自分のしたいことならば、あるいは自分が大好きな分野ならば、とにかく喰らいついてなにがあろうと離さない、そうすれば ―― 確約はできないが ―― 以前、ここでも触れたある翻訳家の先生の言われたごとく、「きっといいこともありますよ」。不肖ワタシもそうかたく信じている( → 本庶研究室で助手、講師を勤めた弟子筋の方の書かれた寄稿文)。

 そういえば先日、原稿書きの調べものをしていたら、まったく予期せずこんなことばに巡り合った。古代ギリシャの墓碑銘だかに刻まれていた歌詞の一部らしき一文で、こう訳されてました。「生きているあいだは輝きなさい。命は短いのだから、思い悩まないように」。かくあれかし、と思う。語学の勉強もこれと似たところがあるかな。ほんの数年くらい学んだからといって澎湃たることばの海を泳ぎきれると思ったらそれはちがうゾ、といっつも思っているので。でもいまはインターネットとか Google とかあるし、調べものひとつとっても昔とくらべれば、そりゃラクにはなりましたわ(その代償? に、ワード当たり単価もどんどん落っこちているというのは好事魔多し、ということなのかどうか)。

 地元紙の読者投稿欄に、学校の英語教育で生きた英会話を教えてほしいという、ある意味切実なお悩みの声が掲載されていた。が、とくに公立学校においてそこまで求めるのはどだいムリだろう、というのが偽らざる感想。そこでインターネットを十全に活用しまくるのだ !! と、声を大にして言いたい。ポケモンGO とか課金ゲームもいいけど、昔にはなかった「特権」がみなさんにはあるのだから、もっともっと活用すればよい。べつにムリして語学留学に行くこともないと思う。ロハでもいくらだって勉強できますよ、ほんとうにその気があるのならば。相手が用意してくれるのをポカンと待ってるだけじゃイカンです。昔、翻訳の勉強をはじめたころに読んだあるエッセイに出てきた「水族館に飼われている太ったイルカ」の比喩とおんなじ。「サメやシャチに襲われる心配もないし、食事だって飼育員がすべて用意してくれる。18, 9 歳くらいでこんな感じになり、ただひとつの不安といえば、退屈すること」。学校では、英語だったら英語ということばの成り立ちと「基礎」さえ身につけてくれればよいと思う。そこから先は、「好奇心やおもしろいと思ったことに挑戦」すればいいだけのこと。じゅうぶん羽ばたけるだけの力は身についているはずです。なんでもかんでも学校の英語の先生に求めちゃダメずら。そんなことしたら倒れちゃう。

 科学研究の場合、もうずいぶん前から基礎研究の研究費の削減と優秀な研究者の不足が問題になっています。お金というのはこういうところにこそ使うべき、と主張してもいる本庶先生はほんと正しいと思いますね。カネの使い道、ひいては税金の使途という点でも、真剣に考えなくてはいかんと思います。

タグ:本庶佑
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2018年09月10日

Aestas Horribilis 2018

 いまさっき、米国の臨床医向けポータルサイトでこういう ↓ 書き出しの論説文を見た。
Toward the end of 1992, Queen Elizabeth II of Great Britain referred to a year of misfortune that had befallen the British royal family as “annus horribilis.”

As I write this editorial, I feel much the same about the summer that has just passed − aestas horribilis − with death, misery and destruction wrought upon the Mexican, Caribbean and U.S. populations by a series of hurricanes, earthquakes, gunmen and political extremists.

1992年暮れ、英国女王エリザベス II 世は英王室につぎつぎと降りかかった災厄だらけの一年を回顧して、「ひどい年」だと評した。

 この論説を書く筆者もまた、過ぎ去ったばかりの今夏について、ほとんどおなじことを感じている −− ひどい夏。今年の夏、メキシコやカリブ海諸国、そして米国の人びとはハリケーンに地震、銃撃犯に政治過激派と立てつづけに襲われ、死と困窮と破壊とに見舞われている。

aestas horribilis ―― 今年の夏をひとことで言えば、「今年の漢字」じゃないけど、まさしくこれだったのではないか。ほんとうに「ひどい夏」だった。天候不順、雨が降ればスコール、ゲリラ豪雨にゲリラ雷雨、かと思えば「熱波(ここ静岡県でもほぼ全域で最高気温も軒並み過去最高を記録。これは太平洋高気圧とチベット高気圧の二段重ねが原因とのことらしいが、これはもう、欧州などでここ数年頻発しているりっぱな熱波ですよ)」、そして台風のたまごがオニヒトデよろしく異常発生、昔のギャグアニメの主題歌でもあるまいに東から西へ「逆走」した台風は出るわ(海蝕崖にへばりついて建つ熱海の某ホテルの大食堂の窓ガラスが台風の高波&高潮の直撃を受けて木っ端みじんになった、なんてこともあったが、個人的にはもっとはやく食堂を閉鎖すべきだったと思う。台風が直撃コースをとることはとっくにわかっていたはずで、これは人災的要素が大)、西日本では過去に例のないほどの広域での浸水害や土石流被害が発生。そして追い打ちをかけるように先週の北海道南東部を深夜、襲った M 6.7 の激震。

 東日本大震災のときもそうだったし、毎度、おなじことの繰り返しで申し訳なく思いますが、被災された方には心からのお見舞いと、亡くなられた方のご冥福を祈りたい。地元紙朝刊に大きく掲載された厚真町のひじょうに広範囲におよぶ地滑り的な山体崩壊の航空写真には、しばらく絶句して見入るばかりだった。

 日本の自然は四季がはっきりしていて、四季折々ということばがあるように基本的には昔、さる著名な風景写真家が評したように、「欧米などの大陸の自然とちがってやさしい」。でも同時に台風に代表される風水害や冬の雪害、たまさか発生するも甚大な被害をもたらす竜巻などの突風、そして火山の噴火に、地震、地震に伴う津波や軟弱地盤の液状化。思いつくだけでもこんなにある。ちょっと歴史を顧みれば日本の歴史はそのまま自然災害の歴史でもあり、互いに助け合わなければ生きてゆけない(日本が「超」がつくほどの均質社会と言われるのも、ひとつにはこの自然災害の突出した多さに起因するのはまちがいない。ひとり勝手なことをしようものならたちまち「村八分」になっただろうから)。

 言いたいことはいろいろあれど、やはりなにかお役に立てることを、ということで、「災害への備え」に特化した情報などを提供する Web サイトをここでもすこしご紹介したいと思う。

1). NHK の「災害もしもブック」&「災害もしもマニュアル
2). 無印良品の「わたしの備え。いつものもしも。七日間を生き延びよう[PDFファイル]」
3). 「いつでも持ち歩きたい防災ママバッグ」 幼児を抱えたお母さん向けに、必要最小限の用品を入れたバッグを用意しよう! という情報をまとめたもの。

ちなみに不肖ワタシが、たいしたことではないけれどふだん実践していることは ――

 ・懐中電灯を含む、携帯用 LED ライトをいくつか携行する。うちひとつはカバンにくっつけていて、夜間の発光材代わりにもなっている。
 ・ふだんからよく歩く。ブロック塀など、危険個所の点検という意味もあるが、津波がきたらこのルートで、とか、ここが使えなくなったらどうするかとか、安全に避難可能なルートを頭に入れておくため。
 ・「ハイレモン」とか飴玉類やハサミ、手袋、タオル、絆創膏、ポケットティッシュのたぐいもいつも持ち歩いてます。
 ・はじめて行く場所[コンサートホールとか美術館とかも含む]の避難経路の確認

 災害がとくに多かった印象を受ける今年の夏でしたが、最後にあの2歳の幼児をみごと発見救出したヴォランティアの師匠的存在の方について率直に感じたこと ―― それは、いくら当該分野の専門知識や経験があっても、「幼い子どもは上へ行く習性がある」という一見、まるで畑ちがいにも思える児童心理学的直観にはまるで歯が立たなかった、ということ。いまひとつはあまりに人任せな人が多い、ということ。たとえば大水害に見舞われた岡山市の低地地区の方が、「浸水予想区域地図」なんか見たことがない、と嘆いていたのを TV で見たとき、地元自治体広報紙にはさまってなかったのかなってちょっと信じられなかった。周知のしかたに問題ありかもしれないが、やはり「自分の命は自分で守る」のが、最強の初動態勢なんじゃないでしょうかね。危ないと感じたらさっさと逃げる、その場を離れる。大津波がきたら「てんでんこ」に散り散りになってとにかく高い場所へ高い場所へ逃げる。避難訓練はもちろんだいじだけれども、天災には、人間の都合でこさえた避難マニュアルなんて通用しない。そのときそのときの判断で生き死にが分かれる(昔見た風景写真雑誌に、「自然が発する警告にまるで気づかず、『わたしは危険がわからない』みたいな人が増えている」という趣旨のコラムを読んだことがあるが、最近、とくにそれをつよく感じる。台風接近時にサーフィンしに行くなんて、論外ずら)。

 また、こんどの地震でもこんなコメントを伝え聞く。「ここでは起きないと思っていた」。固定していない家具の下敷きになって亡くなった方もまた出てしまった。液状化とかはほんとどうしようもないですけど、せめてできることからはじめましょうよ。大阪の地震だって、あんな危険なブロック塀が何十年も放置されていたとは信じがたし。40年ほど前の宮城県沖地震の教訓がちっとも生かされてなかったってことでしょうね。人任せにしてはいけません。

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2018年07月08日

「餅は餅屋」ずら

 先日、地元紙に小さな扱いながらこんな記事が。「英大調査 / ソーシャルメディア曲がり角? ニュース利用減少」というもの。

 『自分の時間』という邦訳書名で知られる古典を書いたことでも有名な英国人小説家アーノルド・ベネットは、どこで読んだかかんじんなことは失念してしまったが、たしか自分自身の意見や考えというものを持たない人を「毎朝、新聞を読んでからでないと仕事に行けないような人間」というふうに評していた。そんなベネットが、この記事見たらどう反応するのかな? ほえ、21世紀人はソーシャルメディアなるもので、紙の上ではなく光る平滑な画面上に映し出される文字を読んでいるのか、しかもこの写真は動くし音も出る、まるで持ち運べる映画じゃ、なんて思うかも。

 ニュースを知るためのツールとくると、マスメディアの代表格のひとつでもある紙の新聞、あるいは NYT に代表されるようなインターネット上の「電子版」と称される媒体が思い浮かぶ。でもここ数年は事情が変わってきて、いまなにが起きているのかを知るのに Facebook や Twitter なんかで配信されるモノを頼りにするんだそうな。とくに FB は前回の大統領選以来、fake news の温床だとして叩かれてきたから、逆に言うと、ここ数年は旧来の新聞ではなくて、ソーシャルメディア経由でニュースに接する人が存外多いということを示している。これ、もっぱら地元の地方紙と、たまさか図書館なんかで「東京新聞」とか読んでいるにすぎない古いタイプの人間にはいささか信じられない。

 なんというか、やはり「モチは餅屋」、だと思うんですよね。記者が足で稼いで取材してきた記事や写真原稿を編集者がいったんまとめて、それにデスクがダメ出しする。最終的によしということになった記事原版が校閲・校正を経て印刷に回る。販売店に輸送されてきた新聞が配達員によって各家庭に配達される。これだけの労力と手間とカネがかかっているわけです。オンライン版とか電子版はどうか。まず印刷しなくて済むから木材資源の節約にはなる。省資源、省エネルギー。で、配達する必要もないから、とくに速報系、 breaking news 系にはとくに威力を発揮するでしょう。これはたいへんなメリットだと思う。でもなににも増してネット新聞の最大の利点は、ウチにいながらにして、いや iPhone などのモバイル端末さえあれば、いつでも、どこでも世界中のニュースをリアルタイムで知ることができちゃうことだろう。伊豆半島にいたってアイルランドの英字紙 The Irish Times が読める時代。

 問題なのは、そもそも報道機関でもなんでもないプラットフォーム企業の手のひらの上でめいめいが好き勝手に「配信」しちゃってるニュース「もどき」、報道「もどき」だろうと思う。fake news のたぐいはたしかに昔から存在しているし、写真の世界ではたとえば「心霊写真」なんか、150 年以上も前の写真術草創期にもう世間を騒がせていたりで、言ってみれば古く、かつ新しい話なんではあるけれども、いまは Instagram などの出現でだれもがかんたんに写真の加工や編集ができちゃったりする。ようするに小学生でも腕っこきの記者よろしく情報発信できてしまう世の中なので、文責というか、よほどハラをくくっていかないとマズい、とワタシなんかは感じるんですけれども … Twitter で遊んでばかりいる大統領閣下はじめ、甚大な災害が発生してただでさえ「正確な」情報がほしいときにじつにくだらないデマやホラを垂れ流す輩もいたり(この人の発言はしょせんプロパガンダにすぎない)。とくに Twitter は企業の PR、もしくは災害の現場がいまこうなっているからなんとかして、みたいな情報に使うぶんにはなんら問題ないし、このプラットフォームの持つ強みが十全に発揮されるように思う。でも現実はね …… これ以上は推して知るべし。

 キューバ危機の時代、米国ではいまだ LIFE とかの写真ジャーナリズム系雑誌がいまとはくらべもののないほどのパワーを持っていた。ユージーン・スミスとか、報道写真家と言われる人々も矜持を持って仕事に打ちこんでいたように思う。ジャーナリズムとジャーナリストの地位がこれほどまでに凋落したのは、ひとつにはネットでだれもが発信できるようになったということも大きいのではないか(ジャーナリズムの本場と思っていた米国でさえ、昨今は大学のジャーナリズム学科に入ろうものなら親が猛反対するんだそうな)。なにかとバッシングを受けたりする新聞ですが、英国 The Times の社説が書いているように、最後のよりどころとしての新聞はまだまだ捨てたもんじゃないと思いますね。とくに紙の新聞の持つ、パッと広げただけでだいたいが把握できる「情報の一覧性」は、すぐれた特性だと思う。

 ベネットですけど、こちらの方のブログ記事にたいへん興味深いことが書かれてあった。限られた可処分時間を有効活用するには関心領域の本を読むべし、でもそもそも「読解の基礎ができてない人が多い」。これ、ホントそう思う。「たおやめ」だの「ゆめゆめ」だのといった古風な言い回しはしかたないとしても、「気の置けない友だち」という表現が通じない。最近、日本大好きな YOU さんたちが多いみたいだけど、彼ら彼女らのほうがよっぽど日本語を知っている(「こうもり[傘]」がわからない若い日本人がけっこういる)。Twitter だろうとブログだろうとなんだろうと、カネをとる、とらないに関係なく、人さまに自分の主義主張を伝える前にまずもって「先人の書いた著作なり文章なり」をそこそこの量仕込んで自家薬籠中のものにするくらいでないとイカンでしょう。あと、タブレット世代のいまの小学生は習うかどうか知らんけど、「原稿用紙の使い方」とか、句読点の打ち方や禁則といった書きことばとしての日本語のルールも大事ですね。

 でもそれ以上に個人的にもっとも大切にしている原則は ―― 読んだ人が不快になるようなことはきょくりょく書かない、または自分が読んだとき、「これつまんねー」的な文は書かない。いわゆる『文章読本』ものじゃないけど、文章を書くという行為はそうとう疲れるもんです。かなり注意しているつもりでも誤字脱字が出てきたり、翻訳だったら誤訳していたり …… Twitter なんか見てますと、どうも日本語で文を綴ることのむつかしさ、こわさを知らないで御託を並べてるたぐいが多すぎて閉校、じゃなかった、閉口する。

 それと、ここで紹介したベネットの『自分の時間』、この夏の読書感想文どうしようかな、なんて考えあぐねている高校生の方は、ぜひ読んでみれば。この本の原題には How to live ... なんてあるものだからハウツーものかい、と思われるかもしれないが、はっきり言って百年以上も前に書かれたこの本はイマドキのなんとかハックものだの薄っぺらな self-help ものとはまるで似て非なる名著。マーク・トウェインは「古典は酒、でも自分の本はだれもが飲む水」であり、「古典はみなが褒めるだけで読みはしないご本」なんて言ってるけれども、おなじ一日 24 時間使うんならこういう本を読むくらいの時間は持ったほうがよいですよ。

posted by Curragh at 22:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近のニュースから