2021年10月17日

「わたしを叶える物語」のパワー

 沼津市内浦地区が主要舞台となった『ラブライブ!』シリーズ第2弾の『ラブライブ! サンシャイン!!』の劇場版が公開されてからはや2年。その間、「心のときめき」にフォーカスした外伝的な『虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』の第1期の TV アニメが放映されたり、時節柄なにかと気分が沈みがちになるけれどもそれを吹き飛ばす『ラブライブ!』シリーズの勢いはあいかわらず「ゴン攻め」してて、いかにもらしいなぁ、という感じ。

 最新作『ラブライブ! スーパースター!!』は、ここまで観てきた一視聴者の率直な感想としては、これまでのシリーズで一貫して流れていた“One for all, All for one”などのメッセージも含め、もっとも完成された作品に仕上がっているのではないかと思った(制作陣の方、お疲れさまです。いつもステキな物語をありがとう)。

 前にも書いたけれども、このアニメシリーズはどういうわけか(?)バッシングする向きも多くて、そのへんが「アニメだろうがルネサンスの傑作絵画だろうがバッハだろうがすばらしいアートはおしなべてすばらしい」芸術至上主義的人間な門外漢にはサッパリ理解できんのですが、この最新作に関しては主人公の澁谷かのんの実家という設定の某喫茶店さんとちょっとしたトラブルになったりと(これは制作側も落ち度があったとはいえ)、出だしからすでに前途多難なところもあって大丈夫かなと思いつつも、初回放映から欠かさずに観てきた。初回放映で流れた挿入歌に関しては、「○○ハレルヤ」と名のつく楽曲はほかにもいくつかあるから、既視感ならぬ既聴感のほうが先に来たということくらいが気になったと言えば気になったくらいで、物語の構成や小物を象徴的に使った場面、そしてなによりも Liella! メンバーとなっていく5人の少女たちそれぞれの内面描写がほんとうにすばらしくて、さすが『ラブライブ!』シリーズだとうなってしまった。

 これには、観る者の心に鋭く刺さる科白をここぞという場面でキャラクターにしゃべらせる、脚本とシリーズ構成の花田十輝氏の名調子のなせる技かとも思う。個人的にもっとも心に響いた、というか痛いほど身にしみた科白は前回、澁谷かのんが幼少時の自分に向けて語りかけていたシーンだった(ちなみに、かのんの父上の仕事がなんと翻訳業 !!! ってのもビックラこいた。さらに祖母が「スペイン人」だそうで、つまりかのんはクォーターということになる)。

 澁谷かのんは歌が大好きなのに、人前に出ると極度のアガり症を発症させてしまう。そのきっかけが小学生のときに出場した、「N コン」を思わせる合唱コンクールのステージでぶっ倒れてしまった事件だった。以来、それがトラウマとなり、旧音楽学校が前身の新設校、私立結ヶ丘[ゆいがおか]女子高等学校の音楽科入試でも歌えなくて失敗。「バ〜カ、歌えたら苦労しないっつーの!」。そんなかのんが中国からやってきたスクールアイドル大好き留学生の唐可可[タン・クゥクゥ]と出会い、彼女とコンビを結成したことで徐々に自信をとりもどし、その後加わったあらたな仲間といっしょだと歌えるようになったのだが、小学生のときのトラウマからは逃げたままで、完全に克服するには至っていなかった。そのことを察した幼なじみの嵐千砂都が、あえて「独唱」のステージ、しかもぶっ倒れたのと同じ母校の講堂ステージにかのんを押し出す(余談だが、かのんが通っていた小学校の「講堂」ってのがこれまたリッパすぎて、プロセニアムステージの音響反射板のデザインが NHKホールのとそっくり !! 当然、大オルガンはありませんが)。

 大道具なんかが雑然と置かれているステージ裏で、そのかのんが嵐千砂都に電話を入れる。
ちーちゃん、ありがとね。…… わたし、みんながいたから歌えてた。それでいいと思ってた。でもそれじゃダメなんだよね。だれかを支えたり、力になるためには、ちーちゃんががんばったみたいに、ひとりでやり遂げなきゃいけないんだよね ……

ここで、合唱コンクールのときとおなじ絵柄の世界地図が背景に現れる。かのんはかつての幼い自分と向き合って、「大丈夫。大好きなんでしょ、歌?」と話しかける。
…… まだ遠くまで旅を続けなければと思っていたところで、われわれ自身の存在の中心に到達するだろう。そして、孤独だと思い込んでいたのに、じつは全世界が自分と共にあることを知るだろう。―― ジョーゼフ・キャンベル『千の顔を持つ英雄』( 飛田茂雄訳『神話の力』、早川書房刊、太字強調は引用者 )

 これは、『サンシャイン!!』で桜内梨子が、ピアノが人前で弾けなくなったトラウマと向き合い、文字どおり自身の心の奥底へ「下降して」いった内浦の海にキラキラと陽射しが差し込んだ場面がどうしても思い出される。拙冊子では、ここをカール・ユングの言う「夜の海の航海」が響いていると書いたのだが、かのんのこの場面はもっとわかりやすく、もっと直接的な表現で、「かつての自分と真正面から向き合う」というふうに描いている。ココがすばらしい。

 たとえば μ's の活躍を描いた劇場版『ラブライブ!』。クライマックスで、主人公の高坂穂乃果の分身ともとれるナゾの「女性シンガー」が穂乃果に向かって、「答えは見つかった? …… 飛べるよ …… いつだって飛べる! あのころのように!」と、行く手を塞ぐように広がっている水たまりから逃げず、自分を信じて思い切り飛ぶように促すシーン。劇場版『サンシャイン!!』でも冒頭、なぜか(?)会ったことがないはずの幼少時の高海千歌と桜内梨子が、千歌の実家の旅館前に広がる三津[みと]浜で出会って、紙飛行機を飛ばしてたりしていた。

 ワタシはこういう、一見して矛盾しているが、あえて象徴性を全面に押し出した手法はアリだと考えているので、これはこれでいいと思ってるんですが、はじめてこの手の作品を鑑賞するような人の場合は「なんてとっつき悪いんだ」というふうにもとられかねない心象風景の描き方でもある。その点、『スーパースター!!』のように、幼少時の自分と直接向き合ってトラウマを克服したかのんの描き方は正攻法で、正解だと思う。このときはじめて、かのんは「ほんとうになりたい自分」になれたのだと思う。まさにキャッチコピーどおりの「わたしを叶える物語」! このへん、ホセ・オルテガ・イ・ガセットの「わたしは、わたしとわたしの環境である」という名言とも重なってくる(最近、個人的には聞き捨てならないヘンテコな造語がはやっている。それがなにかはあえて言わないが、けっきょく最後にどうするかを決めるのは、仲間の力も大事だが、それはあなた自身しかいない。これはいつの時代も変わらない真理だと思っている)。

 あとこれも何度も言っているからくどいと思われるだろうが、畑亜貴氏の歌詞、そしてそれ以外の挿入歌の楽曲も、「神ってる」。と同時に、トラウマのきっかけとなった同じステージで、かのんがみごとな独唱を聴かせてくれたシーンを観ながらちょっと不思議な感覚もおぼえていた。はじめて Liella! というグループ名を耳にしたとき、「なんか英国のボーイソプラノグループの Libera みたい」と思ったものだが、澁谷かのんの美しいソロは、かつて自分がよく聴きに行っていた少年合唱団や少年聖歌隊の演奏会で美声を聴かせてくれたソリストたちの姿とも重なっていた。歌詞のすばらしさと、バラ色の頬の少年ソリストたちの面影がダブって、ことさらに印象に残る回だった。

 いつものように2期へと確実につながって最終回は終わるだろうから、まだまだ『ラブライブ!』シリーズには目が離せないのだ! 
チャンスはある日突然
目の前に舞い降りてきた
思うかたちと違っても
そっと両手を伸ばしたんだ

なにが待つの? なにをやれるの? 
勇気出して進もう

できっこないよって思ってたことも
踏み出せばほら叶うんだ

新しいわたし
いま 始まるよ Symphony

2019年12月31日

ウン十年生きてきて、初の「著作」を刊行した話

 厳密にはまだ完全にフリーランスではないけれど、フリーという仕事形態に軸足をだんだんに移していくなかでもっとも悩ましいのが、「仕事の切れ目」。なるべく依頼が切れないようにと考えて引き受けたつもりが、こちらの予測をはるかに超えて? うれしいのか悲しいのか、よくわからない状態になることってときおりあると思うんです。で、いまのワタシがちょうどそんな感じ。2年ほど前からいまのような生活スタイルになったんですが、まさか年末年始も休まず稼働しっぱなしになるとは思ってもみなかったので、困惑しつつも楽しんで自分の好きな仕事に励んでおります。

 と、前置きはこれくらいにして、ホントはもっともっと大事なお知らせがあるんです … じつはワタシ、人生初の本を書きました! 本、と言っても、小冊子といったほうがふさわしいくらいの、ささやかなもんです。

 書名は、『《輝き》への航海──メタファーとしての「ラブライブ! サンシャイン !!」』でして、これは紙の本じゃなくて、Amazon Kindle ストア経由で流通している電子書籍というやつでして、本屋さんで売られているふつーの紙の本のような「実体」というものがありません。で、なんせはじめてのことだから、いったいどうやって「出版」すればよいのかもまるでわからず、脱稿したあとはほんとに手探りでやっとこさ、自分の誕生月である 10月にむりやり間に合わせ、なんとか刊行の運びとなりました(当たり前ですけど、原稿を書き終えるだけで1年くらいはかかっている)。

 じつはさらに「じつは」があって、「やっぱ紙の本も作りたいな〜」と思ってググったら、なんとなんとこういう Web サービスがありまして、何冊か作ってもらいました(と言うと聞こえはいいが、じっさいは目次にノンブル入れ忘れたりでおシャカにしてしまった分もカウントしてのこと。Kindle 本は「リフロー」形式でいわゆる「ページ」という概念がないので、目次にページ番号を割り振っていなかったのが失敗のもと)。

 自分の本の宣伝、とくると、今年は京都の観光大使だかなんだかを仰せつかっていた若い芸人さんが Twitter で、いわゆる「ステマ」もどきなことしてしっかり報酬はもらっていた、なんてことがバレて叩かれたりしました。自分の書いた本を自分が宣伝するぶんには問題なかろう、とは思うんですけども、インスタントに世界とつながってしまうこのご時世、うっかり不用意なこと書こうものなら矢だのテッポウの弾だのどこから飛んでくるかもしれぬ。なのであんまりおおっぴらに言いたくはないんですけど、このさいだからハッキリ言います──「みんな、買ってね !!(『サンシャイン!!』第1期5話、「リトルデーモン4号」になった黒澤ルビィふうに)」。

 もうすぐ年明けを迎えますが、この小冊子についてはいくつか書きたいことがあるので、また稿を改めてここでも告知がてら、書き足すことにします。それでは本年はこのへんで。ちなみにいま、なんの仕事をしているかといえば、レバノンにトンズラした哀れな男に関する長めの取材記事の訳出(なんとタイムリーな、というか TV の前でひっくり返っていた)。これ以上は守秘義務上、言えませんので悪しからず。

 … 来たる年も、とにかく前を向いて歩いていきましょう。「人生はすべてが苦である」と言ったのはお釈迦さまですけど、だからこそ、「うわっ! と思う瞬間がある」と高倉健さんは生前、おっしゃっていた。「《いまここ》で永遠を経験しないかぎり、どこへ行っても経験することはできない」と比較神話学者ジョー・キャンベルも言っている。たとえどのような世界であっても、そこに生きる人がみな生き生きしていれば、それだけで世界は救われることになる。これでも人並みに 50 年、生きてきて、ますますつよくそう感じるようになりました。

2019年02月20日

「普通」であることの偉大さ

 航海、じゃなかった、公開中のこの映画作品を先月と今月、それぞれ一回ずつ観てきました。

 はじめに断っておくと、この手の作品 −− アニメ映画 −− は、やはり観る人を選ぶファクターが「実写映画」よりつよいように感じる。以前、ここでも書いた『あなたへ』が遺作になってしまった故高倉健さん自身、監督の「映画を観てもわからない人はいる。わかる人だけわかればいい」という発言を引用されていたこととも通底する。いまひとつは作品の理解、解釈の深さというのはとどのつまり、観る側がいままで蓄積してきた経験なり背景知識なり人生観なりがストレートに反映される、ということ。ひと口にアニメ作品と言ってもピンキリ、イロイロあるのにもかかわらず、なーんだアニメかくだらん、と切り捨てる向きもいるでしょう。それはそれでいい。でもアニメについて識者が語っていた TV 番組で、「観る人の世界観を変えてくれる作品がよいアニメ作品」のような趣旨の発言をしていた人がいまして、この点は不肖ワタシもまったく同意見。というわけで、ワタシが見るかぎり、このアニメ作品(TV シリーズ 26 話と映画作品)は、まさしく「観る人の世界観を変えてくれる作品」だと思う。

 映画版『ラブライブ! サンシャイン!!』のストーリーは TV シリーズ最終話のつづき、として始まるけれども、公式サイトにあるように冒頭場面ははっちゃけたミュージカル仕立て。観光 PV として切り取って使える構成で、いわゆるアヴァンタイトルというやつ。このシリーズの特徴でもある楽曲の冴えもあいかわらずで、たとえ TV シリーズ本編を観ていなくてもここでいっきに作品の舞台世界に引き込まれる仕掛けになっている。

 2回観ても、本編 100 分の物語の展開は TV シリーズと遜色ないと感じました。主人公の高海千歌持ち前の強引さ(?)に、気づいたら自分も『サンシャイン!!』のパラレルワールドな内浦や沼津に引きずりこまれてしまった感もなくなくはないですわ、というのが正直なところではあるけれど、一部で見かけた「ストーリー展開が … 」みたいなことはあまり感じなかった。おそらくこれは、なにかとユング心理学的、キャンベルの比較神話学的思想にどっぷり浸っているがゆえに勝手に感激しているだけなのかもしれないし、逆にそういう感想を持つ向きというのは、「非日常の体験」をどこか期待しているがゆえに展開になんとなくハリがないというか、事件性がないというか、そんなふうに思われてしまったのかもしれない。

 じつは2回目の鑑賞というのが、このシリーズの監督である酒井和男氏、劇伴担当の作曲家・加藤達也氏、そしてシリーズの撮影監督の杉山大樹氏のお三方によるトークイベント付き、というのも理由のひとつ。先行販売当夜、なかなかつながらない映画館サイトにイラつきながらもからくも席をとることができて映画館へ。じつは2回目の鑑賞のほうがトシがいもなく泣いてしまったのではあるが(杉花粉症というのもある)、酒井監督をはじめとするゲストのお話を伺って、ああ、自分が思っていたことはあながち的外れではなかった、ということは再確認したしだい(→ スタッフトークイベントについてもっと知りたい方はこちらの記事をどうぞ)。

 ワタシが酒井監督のお話でとくに感激したのは、「変化していくこの街の風景を作品に残す」という趣旨の発言。映画パンフを買われた方はすでにご存じだと思うが、酒井監督は「3年生が卒業していっても、彼女たちの内浦での日常は変わりません。映画だからっていきなり怪獣が出てくるわけでも、なにするわけでもありません」と書いている。このシリーズはいかにも昭和テイストなスポ根ものの学園ドラマなんかじゃない(「ラブライブは … 遊びじゃない!」by 理亞&ルビィ)。そうではないずら! ここで描かれているのは「変化を受け入れ、肯定し、世界ではなく自分がどう変われるのか」であり、奥駿河湾に面した地区に住む女子高生の日常を描いているようでじ・つ・は、普遍的かつ壮大な視野の世界観を持った作品なのだ。たとえばイタリア滞在中、3年生が抜けて6人となって「再出発」した Aqours について、千歌が松浦果南に率直な不安を打ち明ける場面。そこで果南は千歌の胸に人差し指を当てて、
でも、気持ちはずっとここにあるよ。鞠莉の気持ち、ダイヤの気持ち、わたしの気持ちも、変わらず、ずっと。
と返す。そのとき、千歌のなかでなにかが変わった。古い世界が終わり、新しい地平が垣間見えた瞬間、「エピファニー」の瞬間が訪れる −− 「なんか、ちょっとだけ見えた。見えた気がする!」。後半、浦の星女学院を再訪した Aqours メンバーに対し、千歌は
大丈夫、なくならないよ!  −−浦の星も、この校舎も、グラウンドも、図書室も、屋上も、部室も、海も、砂浜も、バス停も、太陽も、船も、空も、山も、街も。
と語りかける。彼女たちが「変化する現実をすべて受け入れ、肯定し、新しく出発する」ことが、みごとに表現されていると思う。このシークエンスはたとえばキャンベルの「《いまここ》の次元で永遠を経験しないかぎり、他のどんなところでも永遠は経験できない」という発言ともリンクする。この作品に込められた、いわばメタ・メッセージにどれだけビビっとくるかどうかで、観る側の作品理解も当然、変わってくる。

 酒井監督の話を聞いたとき、すぐさま脳裡をよぎったのはジェイムズ・ジョイスが『ユリシーズ』について言ったこと −−「たとえダブリンが滅んでも、『ユリシーズ』があれば再現できる」と語ったという話だった。もちろんリクツは抜きに、もうひとつの主役と言うべき劇伴も含めた音楽が、またいい。そういえば昨年、「今日は一日『ラブライブ!』三昧」を最初から最後までずっと聴いてたんですけど、劇伴以外の挿入歌すべてに詞をつけた畑亜貴さんの歌詞のすばらしさにほんとうにシビれた。なるほど、おっさんでさえこうなんだから、若い人がハマってもなんの不思議はないな、とひとりごちた。この作品にかぎって言えば、音楽はアニソンというジャンルを完全に超越しており、作品と不可分の重要な存在だ(そうです!)。

 今回はもうひとつ「Aqours 3年生組の逃走の舞台」として、これまたうれしいことに小学生時分、美術図鑑でダ・ヴィンチ絵画に親しんでいたあのフィレンツェが出てきた。美術館のシーンとかはなかったけれども(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂と、その真ん前に建つサン・ジョヴァンニ洗礼堂は出てきた)、あいかわらず精緻な描画で、しかもスクリーンに大写しされるしテンポのよい楽曲はかかるしでこういう演出も最高でしたね。

 撮影監督の杉山氏のお話ではラストの三津[みと]海水浴場の波打ち際に打ち寄せる波の場面、あれが超絶たいへんだった、というのも門外漢からすればすこぶる興味深かった。じっさいには4分弱の長さしかないのに、「レンダリングに1,400時間かかった」という !! ここにも本気度というか、職人気質を感じる。まさしく「神は細部に宿る」ですな。ラクーン屋上庭園での夢の競演のときに香貫山からさっと差す曙光の描写もすばらしい。「神は細部に宿る」ついでに、冒頭部の「僕らの走ってきた道は … 」のメンバーが「びゅうお」とか商店街でダンスするシークエンス、あれよくよく見たらジェスチャーで LoveLive Sunshine[黒澤姉妹が sunshine の S と S を宙に描いている] って書いている振付なんですね、芸が細かい! 

 ラストシーンがらみではよその舞台挨拶で、酒井監督みずから「声のみで姿の見えない女の子ふたりの意味」について語っていたそうですが、小説の結末シーンにはなにげない風景描写で思わせぶりにしずかに終わる、というのが多いように、観る側めいめいが自由に創造の羽を広げておけばよいと思うし、こういう終わり方のほうがこの手の物語のエンディングにはふさわしいとも思う。

 また、『サンシャイン!!』26話 + 映画版「Over the Rainbow」を観てはじめて思い至ったのは、あれほど千歌が否定的に考えていた「普通」ということの大切さというか、人間が生きるうえでなにがもっとも大切か、ということもこの作品は訴えているのかも、ということだった −−「マズっ! このままじゃほんとうにこのままだぞ! 普通星人を通り越して、普通怪獣ちかちーになっちゃう〜って、ガオーッ!!」。だから、映画版を観る前までは「普通怪獣」がほんものの怪獣、持って生まれた潜在能力をぞんぶんに発揮し、輝くというイメージでとらえていたが、けっきょく怪獣に変身するまでもないのだ。その証拠に、すでに TV 版で同級生の桜内梨子が千歌にこう語りかけている。
「自分のことを普通だって思っている人が、あきらめずに挑みつづける。それができるってすごいことよ。すごい勇気が必要だと思う」

「普通」をつづけていける、というのは、よく考えてみればじつに非凡な才能を要求されることでもある。だから、高海千歌は、「普通」のままでいっこう問題ないのだな、と。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるんるんるん

付記:この前、地元紙の「社説」に、なんとこの劇場版『サンシャイン!!』が取り上げられてまして、「人気を一過性で終わらせてはもったいない」と書いてありました。で、その社説に、
できることなら、劇場版に登場する印象的なシーンを、声優によるユニットで実現させられないか。
なんてことまで書いてあっておお、この前ワタシがここで書いたこととおなじじゃん、なんて思ったんですけど(「人気を一過性で終わらせてはもったいない」ということ)、これってひょっとしたら南口ロータリーのライヴ場面のことなのかなん? さすがにあの大通りを全面通行止めにするのはムリだと思うけど、「よさこい東海道」のときみたいに駅前のタクシープールの空間を利用してステージ設置してライヴ、ということならじゅうぶん可能かとも思ったし、そんなワタシも「Next SPARKLING !!」のライヴをこの目でぜひ見たいと願っているひとりではある(3人ずつのユニット単位での出演でもかまわない)。「ご当地アイドル」も活躍しているので、いっそのこと Aqours + Saint Snow + Orange Port のジョイントライヴで Hop? Stop? Nonstop! 

2018年11月18日

Sailing to the Sunshine !! 

 きのうと本日は Aqours のライヴだそうで、図書館で調べものを終えて駅南口に向かったら(途中、この時期恒例の Beaujolais-Village Primeur を買ったけど)、ちょうど折よく(?)、ラッピングタクシーがずらり勢ぞろいしてました。

 4回目となる今回のライヴのタイトルはずばり "Sailing to the Sunshine" でして、なんとふさわしいタイトルかと勝手に感じ入っていた。
Ascendit sanctus Brendanus in navim. Extensis velis coeperunt navigare contra solstitium aestivale.

聖ブレンダンは舟に乗りこみ、一行は帆を揚げて、夏至の太陽に向かって船出した[ちなみにこれを Google 先生に英訳させたら 'St. Brendan up on the boat. Stretching to do after the summer solstice and began to sail against the waning Summer.' と、けっこういい感じに仕上がって出力されたのにはちょっとビビりました。ラテン語の 'contra solstitium aestivale' というくだりは直訳すれば 'against the summer solstice' 。引用したのは『聖ブレンダンの航海』最新の校訂版となるオルランディ版から]。

 ようするに5世紀のアイルランド人修道院長ブレンダンたちが夏至の太陽へ向かって、つまりほぼ真北に南中する太陽を目印にして船出したように、Aqours 声優さんたちによるライヴもまた、おなじ太陽、もっと言えば輝き(radiance)に向かって船出した、ということになる。

 不肖ワタシは自分の住む街が思いがけずこの作品の主要な舞台となり、かつこの作品を自分なりにしっかり見てきたひとりとして思うところを以下、書き出してみたい。というか、言わずにはおれなかった、というのが本音ではある。

1). アニメ作品『ラブライブ! サンシャイン !! 』1期放映を見たのは前にも書いたとおり、昨年夏の Eテレでの全話再放映からで、遅くやってきたという感じではあるが、ちょうど昨年あたりから明らかに街のようすが変わってきた。市広報紙で特集を組んだり、「街歩きスタンプ」設置店舗が急増したり。そもそもこの作品に興味を持ったのもその市の広報の特集を読んだからで、だから再放映を知ったとき、「特集を組むほどの作品ならば、なら見てみますか」というごく軽い気持ちからだった。

 … あれからはや一年、「寝そべり」を月見団子よろしく積み上げた店がずいぶんと多くなり、関連イベントも開催されるようになったし、駅前のコラボカフェを訪れる人もずいぶんと増えた。もちろん内浦地区を散策する人も目に見えて増え、シリーズ2期の放映が開始されるとその数はますます増えていった。

 市民のなかには白眼視する向きも少なくない、というような話も聞くけれども、すくなくともワタシが見るかぎりでは聖地巡礼のお客さんと地元民とのあいだの関係は表立ってよくない、なんてことはまったくないと思う。一部、心ない茶々ないし作品ファンに対するクレームをネット上で見かけるが、個人的には悪い印象、というのは皆無(もっとも駅前に三脚を立てたりバスターミナルのベンチを荷物で占領するといったことはたまさか見かけるが)。むしろこの作品の放映が始まったおかげで市中心部の治安が改善された印象のほうがつよい。商店街も、Aqours メンバー9人のフラッグや横断幕、タペストリーなんかが整然と掲げられ、それだけでも街全体の雰囲気がずいぶん明るく、華やかになった。そしてクラウドファンディングの資金で製作・設置されたカラーマンホール蓋。はじめてあれを目にしたときはアートワークとしての出来のよさにほんとうに驚いたものだ。

 聖地巡礼にやってくる人を十把ひとからげに「オタク」だ、とのたまうのもどうかと思う。ワタシの見聞したかぎりでは、ワタシのようにアニメなんぞにまるで興味がなかった人がこの作品にハマった、という事例のほうが大多数でして、こういう人たちまでいかにもダゲレオタイプならぬステレオタイプに「アニメオタク」と揶揄するような発言はよろしくないし、だいいち失礼だ。彼ら / 彼女らは観光客でもある。もしワタシがこの作品に対してなんの興味もないままだったとしても、数年前までの駅前と商店街のさびれた状況を知っている者としては、このにぎわいはありがたい、という気持ちのほうが勝ると思う。アニメだろうとなんだろうと、「よいものはよい」という主義なので、こういう偏見ははっきり言って理解不能。はるばるドイツからやって来てくれたお客さんに向かってそんなこと言えますか。

2). もし、『ラブライブ! サンシャイン !! 』が一部ネット上で叩かれているような低俗な作品だったら、ではなぜ十代、二十代のみならず、幼い子どもを持つ若い夫婦といった社会人までこの作品のファン層が幅広いのか、説明がつかない。「メディアミックス展開だから」という意見もあるかもしれない。ゲーム、声優さんたちによるリアルな Aqours、アニメに登場する挿入歌などの楽曲や「寝そべり」やフィギュアの販売も、たしかにあるとは思うし、商売に走っている感じもなくなくはない。でもそれもこれも「浦の星女学院スクールアイドル Aqours の成長と奮闘の物語」というストーリーそのものが観る者のココロに訴えないかぎり、いくらメディアミックスしたってとうていここまでの社会現象的ななにか、にはいたらないはず。なんたってこの作品がきっかけで移住する人までいるんですぞ! 何十年も鉄道高架化が遅々として進まず、2011 年の大震災以降、内浦をはじめとする沿岸地区の過疎化に拍車がかかり、街からは住民がどんどん出ていくいっぽうさびれるいっぽうだった、というのに !! これを「奇跡」と言わずしてなんと言うのか

 いいトシした大人が「寝そべり」持って歩いていたり、キャラクターをあしらったマンホール蓋のそばにフィギュア置いて写真撮影しているのが気持ち悪い? たしかに Aqours マンホールの蓋をごしごしやってる人とかはたまに見かけますよ。個人的には布の繊維くずのほうが問題だと思うので、やるんならダストブロワーでシュッとひと吹き、くらいでいいとは思ってますけど、通行人の邪魔にならないていどならばべつにいいじゃないですか。チャリンコ暴走族のほうがよっぽどコワいですよ、それにくらべたらかわいいもんですわ。5月の狩野川こいのぼりフェスティヴァルのときだって、津島善子 a.k.a. ヨハネの住む設定になっている商店街に向かって、女子高生らしきふたりの女の子がニッコニコしながら「伊勢海老」のぬいぐるみかついで走ってました。またあるとき帰りのバスを駅前で待っていたら、だしぬけに「全速前進、ヨーソロー!」と元気よくかけ声かけていた女の子もいました。たちの悪いヨッパライが管巻いている光景しか見たことのない一住民としては、こっちのほうがよっぽど精神衛生によいし、よもやこんな時代が来ようとは beyond my wildest imagination だったずら。

3). そんなふうに思ってるのってオレだけなのかな、なんてショボくれていたら、西浦地区で民宿を営んでいる方のツイート見て小躍りしたくなるくらいに、「わたしはうれしかった[英国人作曲家パリーの同名の合唱曲のパロディです]」。本日の Aqours 声優さんたちのライヴ(しかも東京ドームずら!)、なんとその方と息子さんが「参戦」するという内容だったんですけれども、「『学校で先生が見せてくれたアニメにみんなで驚いたあの日、こんな日が来るとは思わなかった』と語る、高校生になった息子と明日、東京ドームに向かいます」とあり、トシなんでつい涙腺が緩んでしまった。しゃすが本家、「みんなで叶える物語」だと感じ入ったしだいです。

 キャッチフレーズでもある「みんなで叶える物語」、ほかにもいくつか事例はあって、地元商業高校の生徒さんたちがコラボ商品の開発と販売をしたり、あとアルミ缶入りの地元産お茶飲料のパッケージに描かれた高海千歌をはじめ茶娘姿の Aqours のあのイラストも、地元の女子高校生が描いたもの。この物語は、確実にこの街を変えつつある。

4). でもさあ、『ラブライブ! サンシャイン !! 』もリアル Aqours もいずれ終わっちゃうんでしょ、先代の音ノ木坂学院スクールアイドル μ's のときのようにさ、という声がチラホラ聞こえもする、今日このごろ。「『サンシャイン !! 』は黒船だったな」といううまい表現も見かけたりしたけど、たしかに黒船なのかもしれない。でもあの作品の制作に関わった監督はじめスタッフさんたちの「本気度」はどうですか。ワタシがなによりもこの作品と Aqours が好きになったのも、ひとえにこの「本気度の高さ」。たとえば地元ゆかりの小説家、芹沢光治良氏との関連はかなり指摘されているけれども、黒澤ルビィの「ルビィ」は幼少期の芹沢氏が近所に住んでいた兄ちゃんにいつもくっついていて、それが「漢字のルビみたいだ」ということで、寺子屋の先生が芹沢氏のことを「ルビちゃん」と呼んでいたことにちなむ、とか、主人公の高海千歌の千歌も、芹沢氏の幼少時に面倒を見ていた叔父さんの奥さんの名前の「千賀」から、また小原鞠莉の鞠莉も、芹沢氏が学生時代に世話になっていた実業家の娘の名前「鞠」から、といったぐあい(以上の説は芹沢光治良記念館配布資料によるもので、「ラブライブ!」シリーズの運営元の公式見解ではありません)。

 そしてなんといってもあの緻密な風景の描写と Aqours メンバーの内面の掘り下げ方、そして音楽が主役な物語だけに、挿入歌も含めて「劇伴」ものどれをとっても出色のできのよさで、とくに作詞の畑亜貴さんの歌詞はじつにすばらしい(NHK-FMでも「今日は一日ラブライブ! 三昧」を長時間にわたってオンエアしてましたっけ。かかった楽曲なんと 74 曲 !! これでもまだぜんぶじゃないからもっと驚く)。なるほど、これだからみんなライヴに行きたがるのもうなずけるお話ではある。そういえばいまさっき NHK-FM 聴いていたら、リスナーのこんなお便りが読まれました。なんでもバンド活動をしていた方のようで、バンド仲間は結婚を機に音楽活動から遠ざかり、いまだに活動をつづけているのは自分だけ、ひさしぶりに仲間どうしで再会したとき、「まだ音楽やってるの?」と言われるのではないかと不安だったが、いざ会ってみたら昔、みんなが大好きだった洋楽をいまも心の支えにして生きている、と聞かされうれしかった、というものでした。これですよ、アートの力というのは! 『ラブライブ! サンシャイン !! 』の音楽にも当てはまると思う。スターバックスじゃないけれども、人間ってのは「第三の場所」が必要だ、とする主張には全面的に賛成する。比較神話学者キャンベルの言う「神聖な空間」とも近いものがあるように思う。こういう体験なり空間なりを提供できるのは、質の高い作品だけ。『ラブライブ! サンシャイン !! 』は長い間の鑑賞にもしっかり耐えられる物語だと思ってます。

 アニメシリーズが終わったあとはどうなるか、についてですけど … 図々しいのは承知のうえで言わせてもらえば、8月に急逝されたさくらももこさんの代表作『ちびまる子ちゃん』のようになってくれれば、というのが個人的な理想。『まる子ちゃん』と『サンシャイン!! 』はそもそも比較にならんだろ、と突っこまれるのはわかってます。わかってるが、地元出身ではない人びとがこれだけ真剣に向き合い、ここまで丁寧に物語を作ってきてくれたのだから、これをシリーズ終了、ハイおしまい、ではなんとも情けない。こんどは地元が主体となって永続的な取り組みにすべきだと思う。前にも書いたがこの物語はただたんに消費されるだけのコンテンツなんかじゃない、これはすぐれた文学作品とおなじく、長く残る「作品」であり「物語」なのだから。

 … というのがようするにワタシの結論です(聖地巡礼の人はアニメに関係する場所しか興味がなく、ほかの名所とかには見向きもしない、という声もときおり聞くけど、たとえば前にも書いたようにワタシなんか地元民のくせに知らなかったあの場所、この場所を「浦の星写真部」の作品を通じてずいぶん教えてもらった口なので、その批判も当たっていない。だいたい人間なんて最初はそうでも、しだいに興味関心の間口は広がっていくもんですよ。ついでに脱線すれば、自分はこの街の出身者ではなく、生まれは東京。つまり「梨子ちゃんビーム!」の桜内梨子と立ち位置がおなじだったりします)。

 そういう意味では、「みんなで叶える物語」はまだ始まったばかり。Let's SAIL TO THE SUNSHINE !! 

2017年12月31日

マルのいまの気持ち … ずら !! 

 「なによッ、こんなとこに呼び出して!」
 「ゴメンずらぁ。ルビィちゃんも来てるよ!」
 「うゆ。あれ、その手に持ってるのは … なに?」
 「これ、マルのいまの気持ちを書き留めたものずら。千歌ちゃんたちに見せる前に、まずふたりに読んでもらおうと思って」
 「フッフッフッ、わがリトルデーモンよ、闇の契約書の文面なのね!」
 「ちがうずら」
 「 … ちょっとなにヨこれ、改行がぜんぜんないじゃない !! アンタ人さまに自分の書いた文章を見せるときは … 」
 「わざとずら ♪ このマルの書いた文だけど、アイルランドの小説家にジェイムズ・ジョイスという人がいるずら。その人の代表作『ユリシーズ』最後の挿話のマル版パロディになってるずら。だからちょっと読みにくいのは目をつむって、とにかく読んでほしいずら!」
 「目をつむって読む … むずかしいな」(そういう意味じゃないずらよ〜)

            *     *     *      

 だってそうずら yes マル信じられないずら yes 浦の星の図書室でルビィちゃんといっしょに過ごすのが当たり前だと思っていたそんなマル自身がいまではひとかどのスクールアイドル憧れだったスクールアイドルに知らない子たちからも声をかけられる存在になったんだよ yes ヘタレ堕天使の善子ちゃんの言い方を借りれば「現実こそリアル、リアルこそ正義」になるんだろうけれどもそもそもなにが正しくてなにが正しくないのかなんていずれ塵芥に死ぬ定めの人間が勝手にこさえたものにすぎないんじゃないずらか yes たとえば宇宙から見た地球がそうずら「国境」なんてないずらそもそもそんなものははじめから存在してないずら yes そして最近マルはこう思うずら人間の目から見たこの世界って黒か白かあなたかオラかあるいはキェルケゴールじゃないけれど「あれかこれか」とかどうしてもそう見えちゃうけれどもそんなこともはやどうでもよいずら問題じゃないずらものごとの本質ではないずらってこと yes こんなこといきなり言い出してマル本の読みすぎでニーチェみたいについに頭にきたかなんて思わないでほしいずら yes だってよおく考えてほしいずらだれかにとっての正しいこと正義っていうのはそうではないだれかにしてみればはなはだ害悪かもしれないってことそういうこともあり得るんだってことよかれと思ってやっていたことがじつは環境に悪影響を与えていたりするしもっと言えば正義のための戦いなんてのもありえないってこと(でもマルも人のことあまり言えないずらみんなといっしょにみとしーでバイトしたとき洗剤ぜんぶ入れて泡だらけになってあとでダイヤちゃんにやんわりとブッブーですわ! されたっけ)ようするにだれしも自分のことになるとへっぽこぴーなんだからある物差しや尺度や価値判断や道徳を他人に押しつけちゃダメだってことずら yes 絶対なるものがないことに疑問をもつずらかでもたとえば一日の長さだってそうずら地球は一日 24 時間だけどすぐ外側の火星の一日は地球より 40 分長いずら yes それじゃもっと外側をまわってる土星の一日はもっと長いと思ったらじつはそうじゃないずら土星は地球より自転が速いから土星の一日はたったの 10 時間 30 分しかないずらこんなとこじゃとても生活できないずら yes ようするに絶対的基準というか「汝 … すべし」by ニーチェなるものははじめから存在してないずら yes そういえば日本の諺にもあるじゃん「甲の損は乙の得」ってマルはこれすばらしい先人の知恵先人の叡智だと思うずらだれかが損すればだれかが得するそれが人の世だからこれこそ正義絶対に正しいことなんてハナからないずら yes そうそうマルはお寺の子どもだからどうしても仏教の僧侶みたいな発想をしてしまうマルにはそういうクセがあるずら yes 「ラブライブ!」予備予選の曲作りのときだってそうずら yes そのときルビィちゃんちでマルみんなにこう言ったずら「すなわち『無』というのはすべてがないのではなく『無』という状態があるということずら」ところがマルの言おうとしていたことわかってくれたのは自称堕天使ヨハネの善子ちゃんだけだったずら yes 善子ちゃんてああ見えてほんとはとても友だち思いで線の細い傷つきやすい女の子ほんとうは心根のやさしい子なんずら「善子」という名前のとおりずら「名は体をあらはす」一例ずら yes マルはちゃんとわかってるずら ♪ だってマルは幼稚園のころから善子ちゃんを見てきたから yes それでね善子ちゃんとマルとは見た目も趣味も言動もまるで水と油コインの裏と表つまり正反対かつ対照性に思われているようだけどじつはそうじゃないずら yes マルにも善子ちゃんのような素質と言うか要素というかつまりユングの言う「アニマ / アニムス」のように善子ちゃんにはマルみたいな素質要素がマルには善子ちゃんとおなじような素質要素がじつは生来備わっているずら yes 本題にもどるけれども正義か悪か正しいか悪いか主体か客体かというのはしょせん人間のモノの見方でいかようにも変わるし時代風潮常識為政者のご意向あるいはどこの地域に生まれたかその他もろもろのことが壁ないしヴェールとなってそれを通してしか世界を見るからにほかならないのであってほんらいは単純だったはずの事柄がややこしくあるいはむつかしく思えたり見えたりするだけかもしれないってことずら幼稚園に通っていたころを思い起こせばそれがすぐわかるというものずら yes この輝きを見えなくしているのは古代アフリカの神話に出てくる「トリックスター」なのかもしれないずらあるいは古代インドのサンスクリット古典なんかに出てくるこの世界を「もや」のように覆って世界の真の姿を隠している「マーヤー」なのかもしれないずら yes ある高名なお坊さまで学者の先生でもあるおじさんがテレビでこう言っていたらしいずら yes 言っていたらしいというのはマルの家にはテレビとかスマホとか電気で動く文明の利器があんまりないからずら yes とにかくその先生が言うには「自分」が見ている「自分」なんてものはそもそも存在していない幻想幻影虚像だって yes マルそれはじめて聞いたとき自分の心の中をのぞかれたような不思議な気持ちがしたずら yes じつはマルも昔からと言ってもまだ人生15(3月4日の早生まれずら)年しか生きてないけれどもそれでも Aqours としてルビィちゃんや善子ちゃんや千歌ちゃんたちと行動を共にしてきて心からそう思っているずら yes 千歌ちゃんはよく自分のことを「普通怪獣ちかちー」と自虐的に表現しているけれどもそれを言ったらマルたちも超絶地味な普通怪獣トリオずら yes 地味アンド地味アンド地味を地で行くようなここ内浦も普通なんだって思っていたずらでもそれはマーヤー幻想虚像自分で勝手にそう思いこんでいただけずらほんとうはそうじゃないってことを Aqours のみんなそしてクライメイトそして地域の人たちから教えてもらったずらマルは今年一年 Aqours の仲間といっしょにたっくさんいろんな経験を積んできてそういうことがわかっただけでもマルじゅうぶん幸せずら Aqours そして Aqours という名の宝物のような輝きのかたまりのようなスクールアイドル部を作ってくれた千歌ちゃんには感謝しかないずら Aqours はマルの運命だったずら yes でも考えてみればたしかにそうずら自分が考えている「自分」あるいは「自我」なんてしょせん幻影うつろう影もうひとつのさすらう影ゲーテもこう言ってるずら「すべて移ろうものは比喩に過ぎない」ってあっこれ『ファウスト』の結びの有名な一節ずら yes あるいは夏目漱石の「則天去私」の書も言わんとするところはおなじだと思うずら yes 突き詰めて考えるとこの世の中には絶対的なものなどなにひとつないってことずらそれゆえ究極的存在とは人間のことばで翻訳すればけっきょく「無」の一語に尽きるずら yes だからマルは「無」ということばをそのとき使ったんずら yes マルうれしかったなだってダイヤちゃんがマルの提案を生かした歌詞をちゃんと歌ってくれてマルの想いを実現させてくれたから3年生と1年生をまとめてくれたダイヤちゃんにも感謝ずら yes とにかく話もどすと善子ちゃんにはマルの要素がマルには善子ちゃんの要素があるってことその証拠にマルが「無」と言ったときにまっさきに理解してくれたのが善子ちゃんずら yes マルほんとにうれしかったずら yes だからねマルが言いたいのはこういうことわたしたちはひとりびとりみんなちがっているけれどもそれは「マーヤー」にすぎない永遠の究極的存在絶対的存在に対して人間が「神」とか「仏」とかあるいは「無」とかそういうイメージなり名称なりを与えて象徴あるいはシンボルとして捉えているものがそれぞれ各人に反映あるいは影あるいは一部に … とにかくそういうふうに「映って見えている」にすぎないのであってもともとはひとつマルも善子ちゃんもルビィちゃんもダイヤちゃんも千歌ちゃん梨子ちゃん曜ちゃん鞠莉ちゃん果南ちゃん浦の星のみんなみーんな究極的には一者つまりひとつひとりはみんなみんなはひとりということなんずら yes だからみんなちがってみんないいずらそれはすばらしいことずら正しいとかまちがってるとかないずら yes そうそれであのときなにもない古寺のお堂でみんながあんなふうに言ったずらかすなわちそれは「テンポも音色も大きさも」「ひとつひとつぜんぶちがってばらばらだけど」「ひとつひとつが重なって」「ひとつひとつが調和して」「ひとつの曲になっていく」マルたちもずら ♪ yes そしてその曲が生まれたのもほかならない「無」の中からだったずら音楽もそうだけど芸術アートというのはおしなべて「無」から生まれるもんずらマルはそう思うずら yes そしてこれは飛躍かもしれないけどいちばん強い人ってマッチョとか力があるとかお金持ちとかそんなんじゃなくて「無」ととことん向き合って生きてきた人じゃないずらかこういう人の精神的な力ってものすごく強いはず場合によっては世の中を動かす力に変わったりもするずら yes だからほんとうに大切なこと進路とかもそうだけどそういうことを決めるときはほかのみんなの意見は聞いてもいいけど最後にどうするか決めるのは自分しかいないずら「無」とじっくり向き合うことずら yes 自分がほんとうにやりたいことはなんだろうかとか自分がほんとうに好きなことってなんだろうとかとことん自問していくうちにこたえはおのずと見つかると思うずら yes だから Aqours の3年生はめいめいが進むべき道を自分の心と向き合って心の声を聞き取って自分で決めたずら yes 他人の指図する道他人の歩いた道そういうのではなくまだだれも歩いたことのない自分だけの道を自分で見つけたずらこれはとてもとても勇気がいることずらだって人もうらやむいかなる大金持ちでさえ自分の人生を 100% コントロールして人生設計どおりに人生を送ってる人そんな人なんてこの地球上にただのひとりもいないずらだれひとりとして自分の思うように生きてる人なんていないずらだから自分の歩むべき道からはずれないようにするってことはものすごく勇気がいることずら yes そしてこれはアーサー王伝承のひとつともみごとに重なるずら「森のもっとも深いところ、道も小径もないところへとそれぞれ出発した」ってね yes えっじゃあマルは将来なにになりたいかってそうずらね … やっぱりマルは本が大好きだからカズオ・イシグロみたいなすごい小説家になるのはムリかもしれないし太宰のようなあるいは郷土の偉大な先達の芹沢光治良とか井上靖とかそういうふうにもなれないかもしれないけれどもでも小説家になりたいずら yes あと英文がしっかり読めるようになれたらイシグロ作品を原書で読んでみたいずらそして村上春樹のように好きな作家のアンソロジーを自分で編んで翻訳して出版してみたいずら yes ひょっとしたら外国にもスクールアイドルがいるかもしれないしスクールアイドルの物語というのもあるかもしれないずらもしスクールアイドルものを運よく見つけられたらぜったいマルが翻訳して日本の読者に紹介するずらだってマル自身スクールアイドル経験者だもんスクールアイドルの世界はよく知ってる当事者のマル以外にだれが訳すずら yes そこでマルたちのユニット Aqours についてマルが思ってることもすこしだけ yes Aqours もわたしたちもつねに変わりつづけるいっときだってひとつのある状態にとどまったりはしないずらそしてこれはすべての生きとし生けるものみんなそうこれは定めずら世の理あっこれ「ことわり」ずら yes そしてマルたちもいずれ年とってこの世界から消えるずらだから Aqours もマルたちもこの澎湃たる宇宙広大無辺な宇宙悠久の時を刻む宇宙におけるマルたち Aqours の存在した時間なんてほんとうに一瞬のそのまた一瞬のそのまた一瞬にすぎないずら yes だからこそとマルは思う「永遠の輝き」とはこの刹那束の間の生のなかにこそあるって yes Aqours というユニット名からしてそれを表しているずら Aqua つまり水と ours とのカバン語造語合成語ずらでも大事なのはカバン語とかそんなんじゃなくてマルたちはいやマルたち人間はみんな「水」だってこと水とおなじ性質をもった存在だってこと yes 水は一瞬たりともおなじ形にとどまったりしはないマルたちもおなじずら yes 人間みんなそうずらそしてこの世は平安時代からいや地球いや太陽系いや全宇宙のはじまりビッグバンのとき以来ずっとおなじだったためしはないずらそれが世の理永遠不変の真理ずら yes だからマルは Aqours という名前が大好きダイヤちゃんに感謝ずら yes 脱線するけどこの広い宇宙には地球のような惑星がいくつもあるらしいって聞いたずら yes 昔こんなこと言ってた作家がいたずら「アンドロメダとわれわれの住む銀河は約 230 万光年離れている。こう聞くとはるかかなたにあると思えるかもしれないがそれぞれの銀河の直径は 15 万年から 20 万光年はある。だからアンドロメダを十何回か転がせばわれわれの住む銀河にたどりつく。そのアンドロメダにはもうひとりの自分つまり『分身X』がいるかもしれない」って yes そうずら yes アンドロメダ銀河のどこかに地球のパラレル惑星みたいのがあってそこにパラレル日本みたいな島国があってそこにパラレル伊豆半島みたいなのがあってそこに内浦そっくりで淡島もある美しい入江があってそこに「Xハナマル」がいるずらマル信じてるずら yes その「Xハナマル」がこっちを見てこう思うずら「あっあそこに『Yハナマル』がいる」って yes Aqours と言えば「輝き」が最大のテーマだけどこれ仏教にも通じるずら yes 仏教では「一切衆生悉有仏性  いっさいしゅじょうしつうぶっしょう」と教えているずら yes アイルランドの小説家もこれとまったくおんなじこと言ってるずら「万物の輝き」って yes ことばも文化もみんなちがうけれどもわたしたち人間はけっきょくみんなおんなじってことずら根源的に「一」なんずら yes すべてのものに「輝き」はあるずら yes マルたちだけじゃないどんな人にも輝きはあるずらそれに気づくか気づかないかで生き方それじたいが変わると思うずら yes そんなことどもをつらつら考えていたらあるとき内浦の海がそれまでとまったくちがって見えたずらこんなに輝いていたんだってことにはじめて気がついてしばらくその場から動けなくなったずらこれがいわゆるエピファニーってやつずらか yes 一見「ふつう」に思ってるこの毎日平凡な毎日こそ非凡の連続「ある」ことがむつかしいということの連続だから「輝き」があるし文字どおりありがたいことずら yes マルたちもあのときみんなで歌ったずら「明日への途中じゃなくいまはいまだね」「この瞬間のことが重なっては消えてく」これまさしく Aqours そのものずら yes 過去現在未来すべてはつながっているすべてを肯定しないと人生は先に進めないずら yes マルほんとうにそう思ってるずらたとえどんなにつらいことがあっても全力で否定したいときがやってきても起きたことは取り返せないしどんなに時間がかかったとしてもすべてを受け入れる肯定するしかすべは道はないずら yes とにかく「勇気はどこに」と自分の心に訊いてみることこれがやっぱり大事だと思うずら yes マルたち Aqours はいまこの瞬間ただ舞を舞っているだけ yes 外国の神話学の先生が昔日本に来たときに見たんだって同行していたべつの学者先生が神職の人に訊いたんだって「あなたたちの宗教にはどんな教義があるのか」って yes そしたらその人しばらく考えこんでやおらこうこたえたんだって「わたしたちには教義などありません。ただ舞を舞うだけです」って yes マルたちが歌った歌にもあるずら「踊れ踊れ」「世界はいつもあきらめない心に」「道を探す手がかりを与えてくれる」って yes Aqours つまりいっときたりともおなじ状態ではない水とおなじくマルたちの過ごす時間もあっという間に消えていくマルたちもあっという間に卒業する yes でもマルは思うあのときみんなといっしょにすごした時間 Aqours として活動した時間 Aqours として成し遂げたことは大人になってもけっして忘れないって yes あのときの「輝き」はまちがいなく永遠の光 yes これぞ音楽の力音楽のもつすばらしさずら yes 音楽と言えば Aqours 作曲担当梨子ちゃんスゴイずらこの前その梨子ちゃんに教えてもらったずら「想いよひとつになれ」は「海に還るもの」の姉妹版というか Aqours 版なんだけどパッヘルベルという300年以上も前のドイツの作曲家だった人のカノンという曲をコード進行に使ってるって話してくれたずら yes 閉校祭のとき善子ちゃんの手伝いで弾いていたあのゴシック(?)な曲もそのパッヘルベルという人が生きていた当時そしてそれは音楽の父って言われてるバッハも生きていた時代で梨子ちゃんに言わせれば正しくはゴシックじゃなくてバロック音楽と呼ばれる時代のオルガン曲っぽく作ったんだって梨子ちゃんはほんとすごいずら yes でねマル思ったんだけど昔のヨーロッパの古い音楽がこうしてちゃんと生きてるんだってことを梨子ちゃんは肌で感じているんだなってもちろんマルだって知ってはいたずらでも感じると知ってるのとでは天と地ほどもちがいがあるずら yes こんなマルもいちおう女学院の聖歌隊で歌ってたけどいままでそのことをあまり意識してはいなかったずら yes 西洋の音楽って英語だとミュージックずらその語源は古代ギリシャの「ミューズ」つまりギリシャ語で「ムーサ 美を司る女神さま」ずら yes ミューズって聞いてマルびっくりしたずらだってマルが図書室で眺めていたアイドル雑誌に載っていたマル憧れの人がいたスクールアイドルユニットそれこそが「μ's 」だったからずら yes ギリシャ語とくればやっぱ善子ちゃんずら yes たまたま出会った仔犬を勝手に「ライラプス」なんて名づけちゃうんだからほんとは「あんこ」なんだけどね yes でもそういうところが善子ちゃんのいいとこずら yes だからだからマルは思うマルが大人になってこの先どんなことが待ち受けていようとも Aqours のひとりとしてみんなといっしょに行動できたこと歌ってきたこと合宿したこと楽しかったこと辛かったこと悔しかったことうれしかったこと決勝に出て最高のパフォーマンスをしたことヨキソバシャイ煮THEフトッチョバーガーその他おいしいものをいっぱい食べられたことその他もろもろの思い出がぜんぶすべてマルを支えてくれる生きるよすがとなってくれるつまり Aqours はこれからのマルとともにあるずらこれは奇跡以外のなにものでもないずらマルの人生を変えてくれたのだから yes 生きているかぎり色褪せることなく輝きつづける光の源ずら Aqours は yes そうずら yes そうずら yes いまも yes これからも yes ずっと yes

* ... ジョイス『ユリシーズ(Ulysses 1922)』の結尾はつぎのとおり[柳瀬訳版が未完のため、原文を引用しておきます]。最終挿話「ペネロペイア」は主人公レオポルド・ブルームの妻モリーの yes に始まり yes で終わる改行句読点いっさいなしのえんえんとつづく長大な一文で書かれている。

... and Gibraltar as a girl where I was a Flower of the mountain yes when I put the rose in my hair like the Andalusian girls used or shall I wear a red yes and how he kissed me under the Moorish wall and I thought well as well him as another and then I asked him with my eyes to ask again yes and then he asked me would I yes to say yes my mountain flower and first I put my arms around him yes and drew him down to me so he could feel my breasts all perfume yes and his heart was going like mad and yes I said yes I will Yes.

[代筆者より]:今年は個人的にもいろいろとありましたが … まさか年末恒例の締めの記事が『サンシャイン !! 』がらみになるとは今年のはじめにはほんとユメにも思ってませんでした。キャンベル本やら『フィネガンズ・ウェイク』やら、気に入るととことんのめりこむタイプなので、その点はご容赦を。みなさまにとっても新しい年が平穏無事な一年となりますように。

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Many many thanks for visiting and enjoying my images !! そしてこれが先日予告したものずら !! http://curragh.sblo.jp/s/article/181988799.html

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2017年11月19日

「普通怪獣」の逆襲

 前にも書いたけれども、いま、『ラブライブ! サンシャイン !!』第2期放映を見てます … 1期全 13 話のときも感じたけど、この物語はなんか3つでひとつの大きなエピソードで、それが連なるというストーリー展開になっているようです。つまり1). 統廃合決定 → 精一杯あがこう、2). メンバー間の個性のちがいの認識、それをすべて採り入れた楽曲の誕生 3). 予備予選出場とちいさな「奇跡」。4). だれしも「自分のことになると不器用[ メンバー全員、なんらかのコンプレックスを抱えている ]」→ それに対する全肯定 5). 見えない力を信じること → 「すべてに意味がある」ことの気づきおよび今後起こり得ることの全肯定[ 最後の「しいたけ」を撫でながら言う桜内梨子の科白は、なんだかショーペンハウアー晩年の「個人の運命における意図らしきものについて」という小論をも思わせる ] 6). 「普通怪獣」の変容( 変身 )と地区予選大会トップ通過、みたいな感じで。

 新しいエピソード開始回( と、勝手に思っているが )の7話も、すばらしいストーリー展開だったと思う。現実の地方都市における学校統廃合問題はまちがいなく切実で、1990 年代に教育テレビで放映された学校ドラマの舞台になった市立静浦西小学校もすでになく、もっと南の伊豆市土肥の八木沢地区にあった土肥南小学校も 2010 年に廃校になっている。ここ 20 年あまりで相当数の公立学校の統廃合が加速している現実をしっかり見て作っているな、だからここは安易な展開にしなかったのだなと地元の一住民は納得するのであった( 静岡県ではここ数年、公立高校の統廃合が加速しているから、現実の状況も浦の星女学院とほぼ当てはまっている。たとえば県立土肥高校は今年3月をもって県立伊豆総合高校土肥分校となっており、その県立伊豆総合高校も以前は県立修善寺工業高校で、県立高校再編で現行体制に。現在、西伊豆地区で県立の普通高校[ 本校 ]は松崎高校のみ )。

 いままで見てきて、この物語に通奏低音のように流れているのは個人的には「普通怪獣」というワードのような気がする。普通怪獣ちかちー。自分は普通星人だと思って生きてきて、このままじゃ普通怪獣になっちゃう、と主人公の高海千歌が転校してきた同級生の桜内梨子に打ち明けたのは1期最初の回。ここでキャンベル好きとしてはどうしても頭に浮かんでくるフレーズが、ビル・モイヤーズとの対談本『神話の力』にある。
凡人などという者がひとりだっているとは、わたしは思いませんね。すべての人が人生を生きるなかで、めいめい自分自身の幸福への可能性を持っている。その人がしなくてはならないことは、それを認識し、育て、それとともに歩むことです[ この直前に、ジョイスが「万物の輝き( radiance )」と呼んだものを認識し、それを表現することを学んだ者が真の芸術家だ、とも発言している ]。
アニメ作品なので、「普通怪獣」なんてユーモラスな言い方を採っているけれども、だれしも自分のことを「ふつうだ」と思いこんでいるはず。だがそうじゃない !! とこの愛くるしい普通怪獣は教えてくれる。「精一杯あがく」という科白にも、それが表れている気がします。

 「まだ自分はふつうだって思ってる?」

 「自分のことをふつうだって思っている人が、あきらめずに挑みつづける。それができるってすごいことよ。すごい勇気が必要だと思う」

 不肖ワタシはここで涙腺崩壊( 苦笑 )。脚本もよくできているし、そしてもちろん陰の主役とも言うべき挿入歌もけっこういい曲がありますねぇ。話が音楽モノだから当然だろうけれども、いままでこの手の曲にはいっこう見向きもしなかった門外漢を振り向かせたんですから、本気度はそうとうなものだと思いますよ[ 1期で梨子ちゃんが作曲した「想いよひとつになれ」は、いわゆる「カノン進行」が使われている ]。

 2期最初の回でオープニングを見たとき、メンバーの衣装が青系統、つまり冷色系になっていることに、ひょっとしたらこれは試練の始まりなのかって思ったが、それで思い出すのはジョージ・ルーカスの壮大な叙事詩 Star Wars シリーズの、エピソード4, 5, 6の最初の三部作。とくに 1978 年に日本公開されたあとにつづくエピソードの「帝国の逆襲」は、まだ無邪気さや血気盛んさ、怖いもの知らずだったルークたち主人公に本格的な試練が襲いかかる設定の物語でした。『サンシャイン !! 』主人公の高海千歌たち Aqours 9人もこれからこういう状況に投げこまれるのかな、と漠然と思ったことがいままさに現れている感じ[ そういえば桜満開の女学院を千歌が見上げていたシーンで、なぜか校門が閉まっていたことの理由もここにきてわかった ]。

 転校してきたばかりのとき、梨子ちゃんはいきなり春先のクソ冷たい内浦の海に飛びこもうとする。その後、ウェットスーツ姿で海に潜って、「海の音」を聴く。内浦湾に面した地域が舞台だけに、月明かりに照らされる海とか、夜の海の描写もとても多い。よくユング心理学関連本では、「夜の海の航海」という言い方が出てくる。村上春樹氏もおんなじようなことを言っているけど、ようは「無意識」の海へといったん下降し、オルフェウスのごとくふたたびこの世界に還ってくる、ということ。ほんらいこの用語は精神的危機を迎えた中高年(「人生の道半ば、わたしは正しい道を踏み外し、危険な暗い森の中にいた」のような )が無意識と対話することで危機を乗り切ることを指して使われる言い方ですけど、特技のピアノで挫折をおぼえた梨子ちゃんはまさにここの冷たい海に潜って「海の音」を聴いて、なにかをつかんだ。暗い海の中で、自分のほんとうの気持ちと向き合ったから、彼女はその後精神的に「変容」したんだと思う。

 またこの物語はメタファーというか、白い羽が淡い水色の羽へと変化するシーンとか紙飛行機とか、あるいは発端丈山[ ほったんじょうやま ]あたりから昇る朝日のシーンとか、小道具の使い方なんかもとても巧み。大画面のシアターでの鑑賞にも耐えられる作品だと思いますね。1期最終話で図書室の黒板に「目指せ! LoveLive」と大書きされていたけど、いまや普通怪獣たちの目標は「ぶっちぎりで優勝する、優勝して、一生消えない思い出を作ろう!」へと昇華した。このとき象徴的な白い羽が空の色と同化して舞い上がっていったのは、千歌たちが見つけたなにか、ほんとうの「輝き」を暗示しているのかもしれない[ ついでに国木田花丸が津島善子に向かって「だからマルたちが面倒みるずら」とこたえたのは、この前ここで書いた「黄昏の理解者ずら」の応答のようにも思えた。さらについでに:3話の「お嬢ちゃんたち、乗ってくかーい!」とか「冗談はよしこさんずら」は「ちびまる子ちゃん」世代ならわかる昭和コント、4話の「ダイヤさんちゃん」回で、黒澤ダイヤをからかっていた(?)イルカは頭が丸かったからたぶんゴンドウクジラ ]。

 ところでこの内浦地区がどうしてこのようなアニメ作品の舞台に選ばれたんだろうか … 個人的にもっともナゾだったんですけれども、どうもいろいろ話を聞くと、ほんとうはまるでべつの場所( どこだかは不明、おそらく伊豆半島のどこか )でほぼ決定していて、その最終確認のロケハンに来た制作スタッフがほんとうにたまたま内浦地区に立ち寄って、それで「やっぱここにしよう !! 」といきなり変更になったんだそうです。… これって、キセキじゃん。2011 年の大地震と大津波のあと、とくに内浦重須[ おもす ]地区は高台への集団移転ですったもんだして全国ニュースにも取り上げられたり、高齢化率も高いし、海に近い内浦地区も含めて市内全体、得も言われぬどんよりした沈滞ムードにすっかり覆われ、戸田[ へだ ]地区までの定期船航路もとっくに廃止( 今夏のみ期間限定で復活はした )、駅の高架化もまるで先が見えず … とそこへもってきてまさかまさかの展開になろうとは、これをキセキと言わずしてなんと言う( しかしほんとうによく調べている。予備予選会場になった伊豆市の「狩野ドーム」なんて、地元の人間以外だれも知らない、と思う。いったいいつこのあたりにやってきて、これだけ現地調査したのか、そういう車両なり人を見かけたことがないからほんとナゾ)。

 さらに個人的にすこし驚いたのは、先月、なんと主人公の家でもある旅館のモデル安田屋さんで冒頭部が書かれた太宰治の『斜陽』未発見原稿が出てきた、なんてことまであった。出てきたのは角川文庫版で 91 ページ以降の第4章の出だしを含む直筆原稿4枚。行方不明の原稿はまだあと2枚あるという。

 最後に先日、静岡市の女子中学生が書いた「人の個性輝く世界 実現願う」というすばらしい文章が地元紙朝刊の読者投稿欄に掲載され、とても感動したので紹介しておきます[ 以下、いつものように下線強調は引用者 ]。
… 以前より理解が深まったとはいえ、個性的なファッションやアイドル好きなどは一般的には否定されやすいし、アニメ好きといったらオタクだと冷たい目で見られることもあると思います。
… 「世界は一つ」という言葉は、とても良い言葉で、そうなるべきだと思います。でも、世界は一つでも個性はバラバラでいいと思うのです。いろいろな個性があるからこそ、いろいろな考えが生まれ、発見があり発明があり、進歩につながるのだと思います。
 個性にあふれた世の中の一人一人が、色とりどりの個性をもっともっと輝かせて生きてほしい。私はそんな世界の実現を願っています。

 … もう、simply wonderful, couldn't agree more with you ! としか言えないですね。シュヴァイツァー博士が「もし人が 14 歳のままだったら、この世界はもっとよくなっているだろう」という発言をしていたと記憶しているけれど、こういう若い人の声こそ、もっともっと届いてほしいと切実に思う、今日このごろ。

[ おまけ ] 動画サイトで「難読地名」だらけの内浦・西浦地区のバス停を『サンシャイン !!』オープニング曲にのせてぜんぶ紹介している、ある意味ぶっ飛んでいるクリップを見つけたので暇なときにでも。とくに「久連」なんて、読めるずらか ?? 



2017年10月02日

'0 ⇒ 1' 、「0を1に」変える物語

 今年になって、急に駅前がにぎやかになりだしたような気がした。かわいらしい女の子が描かれたラッピングバスにタクシーが走る。そんなバスやタクシーを狙って高級デジタル一眼を構える人たち。たまたまそんなラッピングバスに何度か乗ったりもしたが、悟りの遅いワタシはと言えば当初は「いったいなんなのこれ ?? 」としか思えなかった。

 そんな折も折、NHK Eテレでそのアニメ作品が全編放映、とあいなって、それならばと見てみることにした。するとこの作品にはいわゆる「教養小説( Bildungsroman )」の伝統があらたな衣装をまとって「駿河湾の片隅の町」に「降臨」した完成度の高い物語だということがわかった。

 アニメ作品、とくると、なにか小説や戯曲、実写映画などとくらべて格下のもの、という偏見を持ちがちにはなるけれど、「よいものはよいもの」が信条の人間としてはいやいやどうして! この『ラブライブ! サンシャイン !! 』という物語は細部まで計算された、感動的でさえある「少女たちの成長物語」として認めざるを得なくなった。スクールアイドルユニット Aqours の9人にはそれぞれカラーとシンボルがあるようで、このへんはなんかヴァーグナー作品とかの「示導動機( Leitmotiv )」も想起させる( Aqours というのはなんともけったいなスペリングですが、どうも aqua + our[ s ]ということらしい。ジョイスばりの「カバン語」ですな )。

 とはいえ「ラブライブなのか街おこしなのか、よくワカラン」という混沌状態なのが偽らざる現状でして、もちろんファンの方の「聖地巡礼」は大歓迎。けれども問題は、アニメ作品ならば放映期間が終わったあともこれが一過性のブームではなく定着してくれるかどうかにかかっている。以前、市役所が「高尾山古墳」保存と都市計画道路との両立について意見を募っていたから、僭越ながら一市民として意見を書き送った。書いたことはこっちの話でも通じることで、ようするに「回遊性をよくして」ということだ。このあたりはけっこう古墳が多くて、たとえば戸田[ へだ ]地区( 旧戸田村 )の井田というところに7世紀ごろの豪族の墓と言われる「松江山[ すんごうやま ]古墳群」という遺跡がある。高尾山古墳と松江山古墳群の中間地点には深海水族館と食堂街があり、いまは廃止されてしまった( これは前市長が悪い )戸田までの定期船航路を復活させて連絡し、回遊性をもたせたらどうか、ということ。駅の高架化計画が長年の懸案になっているが、もし高架化が実現したら北口にはコンヴェンションセンターがあるので、南口側には高尾山古墳のビジターセンターもくっつけた複合文化施設 ―― 図書館機能の一部をここに持ってくればなおよい ―― にしてほしい、と思っている。

 物語の主人公の高海千歌( ちかっち )がこんなことを言う場面があります。「しかもこんななにもない場所の、地味アンド地味、アンド地味! ってスクールアイドルだし」。「そして町には … えっと町には …… とくになにもないです![「それ言っちゃダメ … 」と同級生に切り返される ]」。この科白、なんかいきなり深層意識を突かれた感じがしたのはワタシだけじゃないはず。たんにアニメ作品の「聖地」としてではなく、高尾山古墳や伊豆半島ジオパークつながりでも連携して点と点を結びつけ、定期船航路も復活させてうまいぐあいに回遊性を持たせることが急務じゃないかって門外漢なりに考えております、ハイ。

 「物語の効用」、ということでは、つい先日も地元紙にこんなすばらしい話が掲載されてました。記事読んで本質を鋭く突いていると感じたのは、実家の廃工場を劇場へとみごとに再生させた東京学芸大の学生さんの指摘です。「産業の発展は重要だが、それだけでは息苦しい」。しかり !! Couldn't agree more !! 正鵠を射る、とはまさにこのこと。たかだかペイントしただけのふつーのバスやタクシーに乗車してまで「巡礼」するのはどうしてなのか。これこそほんとうに人を惹きつける「物語」の持つすばらしい効用ではないか、と思う。ふた昔前だったら「付加価値云々」なんて言われていたかもしれないが、物語はモノじゃない。人間の精神に直接訴える力を持っているから、しぜんと人がやってくるのだと思う( とはいえアニメ作品ではほぼ完全に女子 / 女性しか登場しないから、あれは一種のパラレルワールドの話なのかって気もしないでもない )。

 『サンシャイン !! 』については、すでに熱心な方がたいへんまじめに考察しているサイトとかが複数存在しているから、ワタシなんかが口をはさむ余地なぞなにもないんですけれども、比較神話学者キャンベルの著作や映画 Star Wars シリーズとかとも相通じる思想が透けて見えるのはおもしろいところ。たとえばちかっちが「いちばん大切なのはできるかどうかじゃない。やりたいかどうかだよ!」言う場面では即座に「エピソード5」の 'Try not. Do. Or do not. there is no try. ' と修行中のルークを諭したヨーダ師匠の科白が脳内反射していた( ちかっちのほうが個人の自由意志を尊重しているのに対し、こちらはどちらかと言えば運命論的ではあるが )。あ、そういえば寺の娘の国木田花丸という子は、いちおう設定では「浦の星女学院」の聖歌隊員( !!! )だそうだ。どんな歌声なのかしらって Aqours のみんなといっしょに歌ってるずら( 文学少女で図書委員、という設定も個人的にはたいへん気に入っている。脱線失礼。ついでに花丸ちゃんが学校の図書室で手にしていたのは太宰治の短編集『お伽草紙』だったが、ちかっちの実家モデルになったのはもちろんその太宰が滞在していた老舗旅館で、『斜陽』の1、2章はここで書かれた )。

 最終話にも思いがけず、 13 世紀はじめごろにフランスのシトー会修道院で書かれたと考えられている『聖杯の探求』に出てくる「森のもっとも深いところ、道も小径もないところへとめいめいは出発した[ つまり、「めいめい、すでにだれかが通った道ではない、おのれの道を進んだ」]」と通底するような印象的な科白がまたまたちかっちの口から出てくる ―― 「 μ's のすごいところって、きっとなにもないところを、なにもない場所を、思いっきり走ったことだと思う。…… 自由に走るってことなんじゃないかな … 全身全霊! なんにもとらわれずに! 自分たちの気持ちに従って!」。このへんなんかキャンベルのモットー、「自分の至福に従え( Follow your bliss. )」そのまんまって感じさえする。

 アニメ作品も今月から第2シーズンが始まるので、こちらもますますにぎやかになりそう。いずれにせよ若い人たちがたくさんやってくるのはいいことだ、とくに作品の主要舞台である内浦や西浦木負(「にしうらきしょう」と読む )地区あたりとか。でもオトナの事情( ?! )なのか、せっかくほぼ忠実に現実の街並みとか描かれているのに、第6話で駅南口の「井上靖 詩碑」がそっくり別物に変えられていたのにはいささかがっかり。あのへんもサンシャインファンの方が「のっぽパン」とか食べながらくつろいでいたりするけど、碑に刻まれた「いまこそリアル」な文字もよーく見てちょうだいね。いちおう転記すると、
若し原子力より大きい力を持つものがあるとすれば、それは愛だ。愛の力以外にはない[ If there is something more powerful than atmic power, it is love ; nothing other than the power of love. ]。


 先に挙げた太宰はじめ、井上靖に芹沢光治良、そして若山牧水と文人墨客に縁の深い土地でもあり、井上靖つながりでは映画化された『わが母の記』の撮影地でもある( 牛臥山公園とか )。Aqours と書かれた文字をたまたま見つけてそれをユニット名にしたという設定の島郷海岸はすぐその先に広がってます、ということでこのへんもご参考までに。

追記:最終話で花丸ちゃんが「黄昏の理解者ずら」とつぶやく科白。これは英語の of とおんなじで、「理解者」は発言者本人ともとれるし、相手、この場合は津島善子( 否、堕天使ヨハネか? )ともとれるけど、ワタシは前者ととりたい。「ありがとね」と予期していなかったことを言われ、ふだんは「ラグナロク( 苦笑 )」だの「リトルデーモン( 苦笑x2 )」だの、「あるナハト( nacht, なぜドイツ語 ?? )」だのとワケわからん「堕天使ワード」連発のある意味問題児の同級生は、じつはわかってくれていたんだ、と感謝してつぶやいたと考えるほうが文学大好きで想像力豊かな彼女らしい、と思うので。ついでに『サンシャイン !! 』第1シーズンはなんとも不吉な「 13 話」で終わっているけれども、キャンベルによれば 13 という数字は「変身と再生の数字」なんだそうですよ。どうりで第2シーズンが始まるわけだ。もっともこの物語は最初の『ラブライブ!』の主役の μ's の存在が大前提になっているので、いわばふたつの作品は「前奏曲とフーガ」みたいに切り離せない … ということだけれども、最初の作品を見ていなくてもじゅうぶん楽しめる内容にはなっていると個人的には思う。「地上に落とされた堕天使」つながりでは、じつはラテン語版『聖ブレンダンの航海』にも出てきますねぇ( → 拙ブログ記事参照 )。さらに脱線すると善子ヨハネが「堕天してしまった … 」とか動詞で使っているけれども、ほんらいは「だ・てんし」、「落とされた天使( fallen angel )」であるはず。

 いまひとつ、11年前の8月末に残念ながら沈没した「スカンジナヴィア」、旧船名 Stella Polaris 号の展示とかもしている「海のステージ」さんというカフェがあるんですけど、あるサンシャインファンの方の声かけで
2月、なんとファン数十名が集まって「スカンジナヴィア」の話とかを店主さんから聞いたりして一泊した、なんていう話まで地元紙に載ってました。これも「物語」の力かな。よもやこういうかたちで「スカンジナヴィア」号の記憶が、こうしてこの客船を知らない若い人たちに語り継がれてゆくとは! そういえば最終話だったか、Aqours のメンバーがトレーニングしている学校の屋上からキラキラ光る奥駿河湾の、「スカンジナヴィア」号がかつて係留されていたまさにその入江の水面が描写されていたのを見たとき、なんか感慨深いものがありましたね。