マクラもなにもなくいきなりなんですけど、まずはこちらをご覧ください。
… 私は馬を乗りつけたとき、彼の黒い目が、ひどくいぶかしげに眉のかげに引きこもるのを見、それから私の名を告げたとき、彼の指がかたく自己を守ろうというように、チョッキのなかにかくれるのを見たが、それで私の心がどれほどあたたかく彼に対して燃えたか、彼もほとんど知るまい。
…「私」だの「彼」だのといったほんらいの日本語にはない人称代名詞がたったこれだけの一文に入れ代わり立ち代わり現れ、そう言っているのが語り手の「わたし」なのか相手の「彼」なのかまるで判然とせず、よくもまあこんなシドい文章つづってシラっとしていられる、と思ったそこの方。それではつづいてこちらをご覧ください。
わたしが馬で乗りつけると、あの人の黒い目はうさん臭げに眉の奥へひっこみ、わたしが名乗れば、その指は握手のひとつも惜しむかのように、チョッキのさらに奥深くへきっぱりと隠れてしまった。そんなようすを目にしたわたしが親しみを覚えたとは、あちらは思いもよらなかったろう。
じつはこれ、エミリ・ブロンテの名作『嵐が丘』の出だしの一節。先に出したほうはウン十年も前の古〜〜い岩波版で、つぎの訳はここ数年来はやりの(?)「新訳」版のひとつから。作家・演出家・評論家であり、エド・マクベインや、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』などの映画化作品を含めて多岐に渡る英米文学もの翻訳を手掛けてこられた中田耕治氏はかつて、「翻訳なんて 30 年ももてばいいほうだ」と発言されていて、『星の王子さま』のような稀有な例外はともかく、一般論としては「ことば」の持つ耐用年数を考えると、翻訳も新しいほうがよいと思う。
ところがつい最近、こんな世評、いや「ネット上の酷評」を目にした。
出版の許可が下りたのがおかしいと思うくらい、誤訳が多いし、日本語として成立してません。英語力は知らないけど、それ以前に日本語能力が欠如している人だ。
ネットの世界は「集合知」であったり、「玉石混交」であったり、はたまた最悪の場合は「無法地帯」でもある。ついこの前来日した大統領閣下が大好きな Twitter をはじめ、この WWW ネットワークというのは個人がめいめい好き勝手に、しかもいともかんたんに「発信」できちゃう媒体なので(ここもそうか)、いちいち目クジラ立てることもなかろうとは思うが、こういった無責任な発言はいくらなんでも名誉棄損ものではないの? あろうことか「調べてみたら、翻訳がひどい誤訳であることがわかり、『〇〇版はふつうの翻訳』と書きこみを見たので、こちらにした」なんてのも見た(フツーの翻訳って??? まるで意味不明)。「バタフライ効果」じゃないけれど、実害もしっかり出ている。
『嵐が丘』は超がつくほど有名なので、「誤訳」なんてのが出てくるとそれ見たことか(gotcha!)と騒ぐ人がかならず出てくる。ちなみに最初に挙げた何十年も昔の訳は正真正銘の「悪訳」であることにまちがいない。だってどう転んだって日本語で書かれた文章、しかも物語としてとてもじゃないが読めた代物じゃないから。こういうのは槍玉に挙げられてもしかたないので、さっさと絶版にして清新な「新訳」にバトンタッチすべきでしょう。
たまたま↑で引用した「新訳」本を先日、買った人間として、またいちおうこれでも翻訳の仕事を請け負っていることもあり、看過するには忍びない、というか黙っていられなくなり、この紙弾を投げつけたしだいです(本題とまるで関係ない話ながら、先月末、ほんとうにひさしぶりに上京して、こちらの授賞式を見に行った。『ガルヴェイアスの犬』の訳者の方がとてもお美しい方だったので、さらに驚いた[笑])。
長編で、しかも内容の「解釈」をめぐっては 1847 年に初版本が刊行されたときから毀誉褒貶相半ばしたという、通俗的な文学ジャンルではとてもくくれないとてつもない作品ですので、とりあえず有名な書き出しを中心に気になった箇所とかをほかの訳者による邦訳と突き合わせて比較してみます。自分で買った訳書も含めて用意できた4つの出版社からそれぞれ刊行されている日本語版と、ネット上で見つけた二例も引用してくっつけておきます。ただし今回はすべて匿名で列挙するので、まずは虚心坦懐に鑑賞されたし。例によって下線強調は引用者、そしてルビィちゃん、ではなくてルビを振ってある訳文の場合はルビを割愛して引用。まずは冒頭部から。原書はペンギンクラシックスのペーパーバック版です。
1801.−I have just returned from a visit to my landlord−the solitary neighbour that I shall be troubled with. This is certainly a beautiful country! In all England, I do not believe that I could have fixed on a situation so completely removed from the stir of society. A perfect misanthropist’s heaven: and Mr. Heathcliff and I are such a suitable pair to divide the desolation between us. A capital fellow! He little imagined how my heart warmed towards him when I beheld his black eyes withdraw so suspiciously under their brows, as I rode up, and when his fingers sheltered themselves, with a jealous resolution, still further in his waistcoat, as I announced my name.
A 訳:1801年──いま家主に挨拶に行って、帰ってきた──これからはこの男以外、かかわりをもつ相手はいない。それにしても、この土地は美しい! イングランドじゅうを探してみても、ここまで完全に騒がしい世間から隔絶されている場所は見つかるまい。まさに人間嫌いの天国だ──そして家主のヒースクリフ氏は、この荒涼たる世界を私とわかちあうには絶好の相手だ。とびきりの男ではないか! 私が馬で乗りつけたとき、彼の黒い瞳が眉毛の下でいかにもうさんくさそうに光り、私が名乗ると、彼の手がぜったい握手をさせまいとするようにチョッキの下に深く隠れるところを見たとき、私がどれほど胸を熱くしたか、彼には想像もつかなかっただろう。
B 訳:1801年──いましがた、大家に挨拶をして戻ったところだ。今後めんどうな近所づきあいがあるとすれば、このお方ぐらいだろう。さても、うるわしの郷ではないか! イングランド広しといえど、世の喧噪からこうもみごとに離れた住処を選べようとは思えない。人間嫌いには、まさにうってつけの楽園──しかも、ヒースクリフ氏とわたしは、この荒涼たる世界を分かち合うにぴったりの組み合わせときている。たいした御仁だよ、あれは! わたしが馬で乗りつけると、あの人の黒い目はうさん臭げに眉の奥へひっこみ、わたしが名乗れば、その指は握手のひとつも惜しむかのように、チョッキのさらに奥深くへきっぱりと隠れてしまった。そんなようすを目にしたわたしが親しみを覚えたとは、あちらは思いもよらなかったろう。
C 訳:1801年──家主をたずねて、いま戻ったところだ。厄介な近所づきあいもあそこだけですむ。実にすばらしい土地だ。騒がしい世間からこれほど隔絶したところは、イギリスじゅうさがしても、おそらく見つかるまい。人間嫌いにとっては、まさに天国のようだ。そしてこの寂しさを分かち合うのに、ヒースクリフ氏とぼくはちょうど似合いの相手である。なんと素敵な男だ。ぼくが馬で乗りつけると、ヒースクリフ氏は眉の下の黒い両眼を疑わしそうに細め、ぼくが名のるのを聞いても、ますます油断なく両手をチョッキの奥に押し込んだ。それを見てぼくの心がどんなに和んだか、向こうは想像もできなかったことだろう。
D 訳:1801年──大家を訪ねていま戻ってきたところ──ぼくがこれから関わりをもつことになりそうな唯一の隣人。ここは確かにすばらしい地方だ! イギリスじゅうで、これほど完全に社会の喧騒から隔てられた場所に身を落ち着けることができたなんて信じられない。完璧な人間嫌いの天国だ──それにミスター・ヒースクリフとぼくはこの荒涼たる世界を分かち合うにはもってこいの相棒。実にいい奴だ! ぼくが馬で乗りつけると、彼の黒い眼が何やら疑わしげに眉の下に引っ込んでいくのを見たとき、またぼくが名乗ると、油断してなるものかと決意も固く彼の指がチョッキのなかへずっと深くもぐりこんでいったとき、ぼくの心がどれだけ彼に引かれていったか、彼の方はほとんど想像もしなかっただろう。
付録:ネットで見かけた別訳者による訳二例
1). 1801 年──家主をたずねてたったいま帰ってきた。うるさい近所づきあいもここでは一軒だけですむ。いやはや、すてきな片田舎だ! たとえイギリスじゅうさがしたって、さわがしい俗物どもの世界からこれほど完全に隔離された環境はめったに見つかるものではない。……
2). 1801 年──ぼくはいま家主を訪問して帰ってきたばかりである。──彼だけがまた、これから付き合わねばならない隣人というわけだったが──。とにかくすばらしい土地である! まずイングランド中探しても、これほど世間のさわがしさから完全に切り離された場所がほかにあるとは思われない。 ……
冒頭部でまず気になるのが、'This is certainly a beautiful country!' をどう訳すかについて。ヒースくらいしか生えない、寒風吹きすさぶ丘陵地帯を 'a beautiful country' と評しているのは文字どおりそう感じたから、ではないだろう、この「語り手」ロックウッド氏の性格付けからしても。そういう「気持ち」が certainly にこめられている。こちらのページの掲載画像を見ると、「嵐が丘」邸周辺の風景はアイルランドのコノートかドニゴール地方を思わせる美しさはたしかに感じるとはいえ、「荒れ地」的印象のほうが強い。そしてこのあとの展開を見ればわかるように、やんわりとした皮肉も響いている、と考えるのが妥当な線ではないかと(それにすぐあとで'... a suitable pair to divide the desolation between us.' って書いてあるし)。なので個人的には「実にすばらしい土地だ」とした C 訳は字面どおりであっさりしすぎ、「それにしても、この土地は美しい!」の A 訳はあともう一歩、さりとて「ここは確かにすばらしい地方だ!」とした D 訳もどうかと。というわけで「さても、うるわしの郷ではないか!」とした B 訳のほうが好ましいと感じます。
そしてつぎの下線部の訳ですが、「 C 訳が比較的自然な日本語で、かつ原文も大事にしていてオススメです」とのネット評を書いていた人がいたけれども、「眉の下の黒い両眼を疑わしそうに細め」という一節を見ただけでこちらの目まで疑わしげに細くなってしまう。眉の下にいきなり鼻があるわけじゃなし、眉の下に目があるのは当たり前でことさら断って書くことじゃない。それにほかの科白や地の文もなんというか、小説としてそぐわない箇所が散見されます。「英文解釈 100 点、だけど翻訳は…」という典型例のように見えたのも事実。なので「ブロンテの原文の字面を忠実になぞった訳」が読みたい向きにはこちらでよいとは思うが、「文学作品を読んでいる」という気分にはならなかった。それはたとえばすこし先の箇所(The ‘walk in’ was uttered with closed teeth, and expressed the sentiment, ‘Go to the Deuce!’ )の訳が「ろくに口も開かずに言うので、言葉は『入ってください』でも、まるで『とっとと失せろ』という意味に聞こえる」というのもヒースクリフの個性がまるで感じられないし、いかにも平板。「この『入んなさい』という言葉を吐いたとき彼の口は閉じられていて、『死んじまえ!』とでも言いたそうな気持が露骨に見てとれた」とした A 訳は ‘Go to the Deuce!’ の訳が難あり、B 訳は「"入れ"とは云いながら歯を食いしばるようにするので、"失せやがれ!"とでも云いたげな気持ちが伝わってきた」で、自分としてはわりとすんなりイメージが頭に入る。「入れ」と「失せやがれ」で脚韻を踏ませることまで意識したのかな、とも感じた。「死んじまえ」は、やはり文章の流れ的に「浮いて」見えます。家主は「さ、入れ」と言いつつ、そのじつ「おめーなんか、おとといおいでってんだ」みたいな気持ちであり、それが語り手の間借り人にも伝わってきたんでしょ、ここは(「おとといおいで / おととい来やがれ」の意味がわからない人のほうが多い今日このごろではあるが、古い作品にはこのような手垢のついた言い回しも使用可能だと思っている)。「その『入りなさい』ということばは歯を食いしばったままいわれたので、『くたばってしまえ』という気持ちを表していた」とした D 訳は A 訳に近い。
かなり先に飛んで原書の第 15 章、お手伝いさんのネリー・ディーンの回想から。幼いヘアトンが怒り狂った父親ヒンドリーにむりやり抱えられて階上に連れていかれ、ヒースクリフがやってきたと思ったその刹那、父親の腕から落下した直後のネリー自身の科白で、「坊主にケガはなかったか?」と訊いてきたヒンドリーに対し、頭にきたネリーが叱責するところ。原文はシンプルに 'Injured! I cried angrily, If he's not killed, he'll be an idiot!' で、下線部の訳がどうなってるのかそれぞれ見てみると──
A 訳:「怪我ですって!」あたくしはかっとなりました。「怪我はしていなくても、障害児になってしまうでしょうよ!」
B 訳:「怪我ですって!」あたしは怒鳴りましたよ。「殺されなくても、頭が馬鹿になってしまいます!」
C 訳:「けがですって?」わたしは腹を立てて、大声で言いました。死んでしまうか白痴になっていたか、どっちかのところですよ!」
D 訳:「怪我をしたですって!」わたしは怒って叫びました。「たとえ死ななかったとしても、頭がおかしくなりますよ!」
けっきょく読み手の好みの問題と言ってしまえばそれまでかもしれないが、すくなくとも A 訳の「障害児」はないでしょう! 場にそぐわない訳語の選択。ここは読み、表現ともに C 訳のほうが適切だと思いました。ネリーの気持ちをはっきり書けば、「けがはないか、っていったいどの口が言ってるんです? 死ぬか、頭がバカになってしまうか、どちらかってところではないですか、ちがいますか!」くらいの、いくら雇われ人とはいえカンカンに怒っている感じが出てない訳ではいかんと思うのです。
こんなこと書くと、「意訳ではないのか?」って言う人がかならず出てくる。んなことはない。ヤナセ語訳『フィネガンズ・ウェイク』だって、わからないながらも気になった箇所を原文と比べてみたらけっこうストレートな訳になっていたりする(以前、ここで書いた『フィネガンズ・ウェイク』関連拙記事を参照のこと)。ようは、ここまで表現できてはじめて翻訳と言える。読むのはあくまでも日本語で書かれた文学作品。「原文で何度も読んでいるけど、日本語版はどれもイマイチ」みたいなことを書いていた人もいたが、それならブロンテの原文を熟読玩味すればよろしい。古典新訳ブームという言い方はよく聞くけど、ようするに版権が切れてるから / 切れたから新訳を出しやすくなった、それだけのことなんでしょう。とはいえ『嵐が丘』新訳刊行ラッシュの場合、なんか出版社どうしによるライバル心むき出しの競争みたいな印象もなくなくはない。
誤訳については、ヒースクリフ家の番犬に襲われそうになったときのことを話すロックウッドの科白の「焼き印」を取り上げていた人もいましたが、たしかにそうだとしても、だからといって全体までが悪い、みたいな物言いはいくらなんでも乱暴にすぎる。ちなみに仏語訳版でその箇所がどうなってんのか調べてみたら、 ── Si je i'eusse été, j'aurais laissé mon empreinte sur le mordeur.
これを英語に再度もどせば "If I had been, I would have engraved my seal on the biter." で、まさかこれをただ「噛みつこうとしたそいつにわたしの印を押しつけてやるところでしたよ」とやって、「印章付き指環をはめた手でおたくの番犬にパンチのひとつもくれてやったでしょうよ」と解釈できる読み手はひとりもいないでしょうよ。「焼き印」とした訳は以前からあり、ひょっとしたら「既訳本に敬意を払って」先達の仕事を参考にしたのかもしれませんが、イメージはしっかり伝わっているから、ここはしかたない処理かと。ストレートに「げんこを喰らわせた」とすると、意味的には正解[ただしかなり自由度の高い意訳になってしまう]ですが、「印章付き指環(signet)」の「印章」をしっかり犬の額に刻印させてやる、というイメージはまるで伝わらず、「焼き印(日本語化して久しい brand)」としたほうが無難な線だと判断したためではないかと思われます(ちなみにこの signet、O.E.D. で調べたけど意外? にも『嵐が丘』のこの科白は例文として収録もされていなかった)。
「誤訳」というのはいちばん最初に挙げた、だれが見てもヒドい訳はいざ知らず、どんなすぐれた訳にも大なり小なり含まれているものでして、「鏡に映したような翻訳」は、目指さなければいけないことはわかっているけれども、そうそうお目にかかれるものではありません。ワタシなんかむしろ、『嵐が丘』ひとつでこんなにさまざまな日本語表現ができるんだ、と感心しきりなんですけどね。正直、「唯一絶対の翻訳」なんてのもありえない。また批評子というのは、ここも含めてすべて批評する側の視点、ものの捉え方で書くもので、やはり絶対ではない。ましてや「ありもしない勝手な理想像をこさえて、それを絶対的基準のように人さまの翻訳をバッサバッサと斬り捨てる」というのも、厳に慎まなければならない。世の中にはそういうお門違いもいいところな誤訳指摘という名の揚げ足取りがあまりにも多すぎる。かくいう自分も締め切り直前に拙劣な訳をしていた箇所に気づいてあわてて訂正して納品した、なんてことがあるから口幅ったいことは言えないが、翻訳というのはかんたんな仕事じゃないですよ、マジで(digit)。辛気臭いわりに報われること少なく、ついでに原稿料も少ない(嘆息)。
原稿料で思い出したが、たとえばつぎのような訳文だったら、これはもう拙劣の批判は甘んじて受けなければならないし、クライアントに翻訳料金を請求するのもおこがましい、と考える。
… わたしの父は、少なくとも石に彫られている碑文を書くことなく、……を放棄すべきだったのに、そうしなかったことは、いつも私にとって奇妙に思えた。
原文は 'it always seemed to me strange that my father should have abandoned the ...... where he did, without at least writing the inscription that was carved on the stone.' で、すぐあとに '... At some later time he entered roughly on the manuscript the inscription on the stone, ...' とつづきます。上記訳文ですと、しっかり碑文を書いていたことになり、「あとになって、父はその石に彫り付けた碑文のおおまかな内容を草稿に書き入れた」とつながらなくなるから、あきらかに誤読していることがわかります。もちろん息子にとって長年、腑に落ちなかったのは、「父が石の碑文を書くことなく中断してしまったとは、いったいどうしてだろう」ということ。
というわけで、きわめて casual な気持ちでツイートする読書好きの方も含め、「誤訳の指摘、誤訳に対する批判」を全世界に発信する前に、ひと呼吸おきまして、いまここで書いたことなども思い出していただければありがたいと思います。ところで最初に引き合いに出した中田先生ですけど、お元気そうでなにより。こちらのブログ記事にあるように、
──女の作家は、けっして女性を代表するわけではないのです。
世間では優れた女流作家は女性を代表すると考えるわけだけれど、わたくしに言わせれば、誤りです。
むしろ一般の女性からはかけ離れた特異な存在です。
特異な存在だからこそ、自分自身が作家でありえたのだし、創造性を持ちえたというふうに、ぼくは考える。
というのは、もうさすが、としか、ここにいる門外漢は言うことばがありません。先生の評はそのまんま『嵐が丘』という作品にも当てはまりますし(中田先生は昔、高校生だったか、若い読者から誤訳指摘の手紙を受け取ったことがあるという。こんな大御所になんとまた大胆な、とも思ったけれども、その内容がかなーり辛辣だったようです。で、この怖いもの知らずの若い読者にまたご丁寧にこう書いて返信をしたためたんだそうです──「このつぎはきみが訳してね」)。
posted by Curragh at 19:44|
Comment(0)
|
TrackBack(0)
|
翻訳の余白に