2019年08月31日

Translation is NOT an easy job! 

 … 今年はアポロ 11号が月面着陸してから半世紀、そしてほぼ同時期に起こったおぞましい事件(後述)もまた半世紀、京都アニメーションの襲撃事件(たんなる放火犯、というより、無差別殺戮のテロと言うべきもの)が発生したり、あるいは今年の夏もまた自然の猛威に見舞われたりと(三島市で竜巻があったのには驚いた)、いろいろありすぎた 2019 年の夏も、暦上の区切りでは今日で終わり。当方はあいかわらずあくせくしどうしで、ここのところブログの更新もままならず、放置状態。というわけで、来月、はいちおうこれでも〆切を何件も抱えこんでクソ忙しくて新しい記事を書くのは物理的に不可能なため、10月以降、心機一転、週に一度くらいの頻度でなんでもよいから「とにかく書く」ことを目指していきたいと思ってます(記事じたいももっと「簡潔」に、シンプルに仕上げるつもりではある)。

 というわけで、今回もまた仕事がらみのネタになってしまうが … クエンティン・タランティーノ監督の新作映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の重要なエピソードらしい(見る気もその時間もないため、たんなる憶測失礼)シャロン・テート殺害を含む、一連のいわゆるマンソンファミリーによる事件。すこし前にそれがらみの依頼がありまして、ワタシ自身もシャロン・テート事件は聞きかじりでしか知らないため、図書館でなにか参考になりそうな本はないかと探してきた。それが、なんと名翻訳家の故小鷹信光氏の訳された『ファミリー』だった。

 これで仕事ができる !! とこちらは喜々として図書館をあとにして、この本をかたわらに広げつつ訳出にかかったわけですが、そのときふと、そうだ、以前、図書館で借りた本で小鷹先生の翻訳エッセイがあったっけな、と思い出し、訳稿を納品したあとでそっちもふたたび借りてみた。

 で、そのエッセイにも果せるかな『ファミリー』のことがちょこっと紹介されていて(p. 71)、「… この本によって 60 年代末のヒッピー文化の裏面を理解することができ」た。たしかにこの訳書、いま読むとあらためてすごいなあ、と … 先人の仕事ってすごいです。なんせインターネットだの Google だの Skype だのな〜んにもなかった時代、バカ高い「国際電話」くらいしか連絡手段がなかった時代なんですぞ。小鷹訳が世に出たのが 1974 年、石油ショックにロッキード事件のころ。原書はそれこそ麻薬関係、フラワーチルドレン関係の隠語俗語のオンパレードで、担当編集者から、「この本は難物だから」と警告されていたにもかかわらず、引き受けたんだそうです。それだけこの事件の与えた衝撃が大きかった、ということなのかと、半世紀たったいまに生きる門外漢は思うわけ。

 「訳者あとがき」を見ると、
日本語にして原稿用紙千枚におよぶ、長く、おぞましい陰惨な記録の結びの一行を、[著者の]サンダースは It was over. という簡潔な三語でしめくくっている。

とあります。で、その箇所を見ますと ──
… さらに、ショーティ・シアー殺害のかどで、スティーヴ・グローガン、ブルース・デイヴィス、マンソンの三名に、ゲイリー・ヒンマン殺害のかどでデイヴィスとマンソンの両名に、第一級殺人による死刑の求刑がくだされた。

とあって、そのつぎが結びの "It was over." が来るわけなんですけれども、さて先生はここをどう処理したのか? 

 「これで、一件落着」

正直申しまして、ひじょうに強い違和感がありました。小鷹先生の「あとがき」には引用箇所につづけてこうあります。「… それに『一件落着』という訳文をあてたとき、私はサンダースの心情を、"認識[グロックというルビあり]"し得た、と感じた」。

 そうか、先生にとってはそうだったんだな、と思うんですが、ほかの読み手の方はどうでしょうか … 大部の犯罪ものノンフィクションで、先生がヒッピー用語っぽいものだの、頻出する麻薬関連ワードなどにそうとう手こずった痕跡とかが垣間見られまして、それだけでも偉業、と言ってよい訳業なんですけれども。たしかに「チェーンのついた電動鋸」なんてのはいまはふつーに「チェーンソー」だし、「ロシアン・ルーレット(弾倉に一発だけ実弾をこめ、まわしながら引き金をひく死のゲーム)」なんてのも訳注はいらんでしょう。前にも書いたが中田耕治先生の言う「翻訳30年論」でいけばこういう「古さ」はしかたなし。それでもすばらしい訳であることには疑いの余地はない。

 でもってやはり気になる「一件落着」、なんですね … なんでこうしたのかなって思ってしまう。シメの文句って、出だしの一行とおんなじで翻訳者にかぎらず物書きならだれだってもっともアタマを絞って書くところ、力が入ってしまうところ。淡々とヘミングウェイばりに事実のみを列挙していったあげくの"It was over." 、なのでワタシとしてはここはもうすなおに「これで、終わり」くらいでとどめておいたほうがカッコよかったんじゃないかと … 思うんですけどどうですかね。

 小鷹先生の著書『翻訳という仕事』には、いまなお有益なヒント満載で、この本についてはまたあらためて取り上げてみたいと考えてます。ようするに翻訳のネタ本としても最適(笑)。こちらの本も出版されたのは 1991 年でけっこう年数が経っていて、時代を感じさせる箇所もあるけれども、翻訳者を本気で目指している方にはぜひとも図書館で借りてでもして読むべき本だと思う。この本のいいところはたんに翻訳技術を教えているのではなく(後半は翻訳技術について書かれているが)、仕事としての出版翻訳とはどんなものか、が当時の小鷹先生の「実例」を交えて書かれているので、それだけでもおもしろい読み物だし、「印税」とかお金の話も具体的に出てくるので実践的でもあります。

付記:さてここからは、いつものように脱線、あるいはしがないおっさんの愚痴。今年の春先だったかしら、原題のまんまで『FACTFULNESS』という邦訳本が、国木田花丸ちゃん御用達の書店に平積みになっているのを見かけた。そのときはなんも関心がなくて素通りしたんですが、その二名の訳者のおひとりがなんと、まだ二十代(訳出作業当時)! の若者でして、もちろんこの本は本が売れね〜って言われつづけてはやウン十年、な日本でけっこう売れてるんだとか。

 で、その若いほうの翻訳者、いや共訳者の方が自身のサイトで「訳ができるまで自分はどうやったか」みたいな動画までご丁寧にこさえて公開されてたりする(www.youtube.com/watch?v=Hc2moxePHCU
)。で、観た感想なんですが … なんでこう原文をやたらこねくり回すのかなって。もっとシンプルにというか、すなおに「訳し下ろす」ほうがいいと思うんですけどね。ワタシだったら、
ギャップマインダーでこの質問に対する3つの選択肢を選ぶさい、あらかじめ平均寿命の数字を自由に回答してもらった。すると「50歳」もしくは「70歳」と書いた人がほとんどだった。

とでもするかな。たしかに英文には as ではじまる従属節や関係詞など、どうしてもひっくり返して訳さなければならない場面は出てくるし、広告表現のようなパンチの効いた英文もまた大胆に文章配列を入れ替える、といった荒業も必要になったりします。が、英文のワードオーダーというのは一般的には著者の思考の順番にもっとも近い流れで推敲を重ねて生まれた「表現」、深町眞理子先生の言う「いかに」で現出したもの。なのであんまり変更するのはよろしくない(し、原文にない語句を補充するのは、あくまで最低限にとどめるべし)。

 共訳者はまだお若くて、才能があり、しかも米国在住ということでワタシなんかよりはるかに英語が理解でき、洋書も的確に速読できる方であるのはわかる。わからないのは、「翻訳の作法」もどきみたいなことを開陳していること。いやいやそんなもんじゃないですよ〜本の翻訳はとくにね。前に紹介した中田先生のことば、あれは「なら、できるもんならやってみろよ」とタンカを切っている、ということくらいは賢明な読者ならわかってくれたはず。というわけで、最後にこちらのページをご紹介しておくとします。この若手翻訳者の方も含め、翻訳者志望の方全員に読んでもらいたいですね〜。
… 翻訳臭がまったくない翻訳などというものは存在しない。外国の言葉で、外国の出来事について書かれたものを、仮の姿として日本語に置き換えただけのことなのだから当然の話だ。読者も、それが翻訳であるということを頭のすみに置いて読み進んでいる。
 しかし、その大前提に甘えすぎた翻訳はよくない。読者に英語や外国事情の勉強や知識を強制する翻訳もよくない。
 翻訳家がその点で手抜きをしているだけでなく、最近の読者は翻訳もののずさんな日本語に寛大すぎる。馴れっこになっている。だが、そこに甘えっぱなしになっている翻訳家がもっと問題なのだ。舌ったらずの訳文を介して互いにおぼつかなげに意思を通じ合っている不気味なパラレル・ワールドが生じている。こんな世界からは何もひらけてこない、と私は思う。

── 小鷹信光『翻訳という仕事』から[最後の一文は、本文で取り上げられている一連のいわゆる「超訳」ものを念頭に置いた批判。当時はシドニー・シェルダン小説の「翻訳もどき」がバカみたいに売れていた時代で、小鷹先生はそうしたインチキ訳本をこのエッセイでもバッサリ切っている。下線強調はいつものように引用者]


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2019年05月25日

「誤訳」指摘を軽々にすべきではない話『嵐が丘』編

 マクラもなにもなくいきなりなんですけど、まずはこちらをご覧ください。
… 私は馬を乗りつけたとき、彼の黒い目が、ひどくいぶかしげに眉のかげに引きこもるのを見、それから私の名を告げたとき、彼の指がかたく自己を守ろうというように、チョッキのなかにかくれるのを見たが、それで私の心がどれほどあたたかく彼に対して燃えたか、彼もほとんど知るまい。

…「私」だの「彼」だのといったほんらいの日本語にはない人称代名詞がたったこれだけの一文に入れ代わり立ち代わり現れ、そう言っているのが語り手の「わたし」なのか相手の「彼」なのかまるで判然とせず、よくもまあこんなシドい文章つづってシラっとしていられる、と思ったそこの方。それではつづいてこちらをご覧ください。
わたしが馬で乗りつけると、あの人の黒い目はうさん臭げに眉の奥へひっこみ、わたしが名乗れば、その指は握手のひとつも惜しむかのように、チョッキのさらに奥深くへきっぱりと隠れてしまった。そんなようすを目にしたわたしが親しみを覚えたとは、あちらは思いもよらなかったろう。


じつはこれ、エミリ・ブロンテの名作『嵐が丘』の出だしの一節。先に出したほうはウン十年も前の古〜〜い岩波版で、つぎの訳はここ数年来はやりの(?)「新訳」版のひとつから。作家・演出家・評論家であり、エド・マクベインや、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』などの映画化作品を含めて多岐に渡る英米文学もの翻訳を手掛けてこられた中田耕治氏はかつて、「翻訳なんて 30 年ももてばいいほうだ」と発言されていて、『星の王子さま』のような稀有な例外はともかく、一般論としては「ことば」の持つ耐用年数を考えると、翻訳も新しいほうがよいと思う。

 ところがつい最近、こんな世評、いや「ネット上の酷評」を目にした。
出版の許可が下りたのがおかしいと思うくらい、誤訳が多いし、日本語として成立してません。英語力は知らないけど、それ以前に日本語能力が欠如している人だ。

 ネットの世界は「集合知」であったり、「玉石混交」であったり、はたまた最悪の場合は「無法地帯」でもある。ついこの前来日した大統領閣下が大好きな Twitter をはじめ、この WWW ネットワークというのは個人がめいめい好き勝手に、しかもいともかんたんに「発信」できちゃう媒体なので(ここもそうか)、いちいち目クジラ立てることもなかろうとは思うが、こういった無責任な発言はいくらなんでも名誉棄損ものではないの? あろうことか「調べてみたら、翻訳がひどい誤訳であることがわかり、『〇〇版はふつうの翻訳』と書きこみを見たので、こちらにした」なんてのも見た(フツーの翻訳って??? まるで意味不明)。「バタフライ効果」じゃないけれど、実害もしっかり出ている。

 『嵐が丘』は超がつくほど有名なので、「誤訳」なんてのが出てくるとそれ見たことか(gotcha!)と騒ぐ人がかならず出てくる。ちなみに最初に挙げた何十年も昔の訳は正真正銘の「悪訳」であることにまちがいない。だってどう転んだって日本語で書かれた文章、しかも物語としてとてもじゃないが読めた代物じゃないから。こういうのは槍玉に挙げられてもしかたないので、さっさと絶版にして清新な「新訳」にバトンタッチすべきでしょう。

 たまたま↑で引用した「新訳」本を先日、買った人間として、またいちおうこれでも翻訳の仕事を請け負っていることもあり、看過するには忍びない、というか黙っていられなくなり、この紙弾を投げつけたしだいです(本題とまるで関係ない話ながら、先月末、ほんとうにひさしぶりに上京して、こちらの授賞式を見に行った。『ガルヴェイアスの犬』の訳者の方がとてもお美しい方だったので、さらに驚いた[笑])。

 長編で、しかも内容の「解釈」をめぐっては 1847 年に初版本が刊行されたときから毀誉褒貶相半ばしたという、通俗的な文学ジャンルではとてもくくれないとてつもない作品ですので、とりあえず有名な書き出しを中心に気になった箇所とかをほかの訳者による邦訳と突き合わせて比較してみます。自分で買った訳書も含めて用意できた4つの出版社からそれぞれ刊行されている日本語版と、ネット上で見つけた二例も引用してくっつけておきます。ただし今回はすべて匿名で列挙するので、まずは虚心坦懐に鑑賞されたし。例によって下線強調は引用者、そしてルビィちゃん、ではなくてルビを振ってある訳文の場合はルビを割愛して引用。まずは冒頭部から。原書はペンギンクラシックスのペーパーバック版です。

1801.−I have just returned from a visit to my landlord−the solitary neighbour that I shall be troubled with. This is certainly a beautiful country! In all England, I do not believe that I could have fixed on a situation so completely removed from the stir of society. A perfect misanthropist’s heaven: and Mr. Heathcliff and I are such a suitable pair to divide the desolation between us. A capital fellow! He little imagined how my heart warmed towards him when I beheld his black eyes withdraw so suspiciously under their brows, as I rode up, and when his fingers sheltered themselves, with a jealous resolution, still further in his waistcoat, as I announced my name.

A 訳:1801年──いま家主に挨拶に行って、帰ってきた──これからはこの男以外、かかわりをもつ相手はいない。それにしても、この土地は美しい! イングランドじゅうを探してみても、ここまで完全に騒がしい世間から隔絶されている場所は見つかるまい。まさに人間嫌いの天国だ──そして家主のヒースクリフ氏は、この荒涼たる世界を私とわかちあうには絶好の相手だ。とびきりの男ではないか! 私が馬で乗りつけたとき、彼の黒い瞳が眉毛の下でいかにもうさんくさそうに光り、私が名乗ると、彼の手がぜったい握手をさせまいとするようにチョッキの下に深く隠れるところを見たとき、私がどれほど胸を熱くしたか、彼には想像もつかなかっただろう。

B 訳:1801年──いましがた、大家に挨拶をして戻ったところだ。今後めんどうな近所づきあいがあるとすれば、このお方ぐらいだろう。さても、うるわしの郷ではないか! イングランド広しといえど、世の喧噪からこうもみごとに離れた住処を選べようとは思えない。人間嫌いには、まさにうってつけの楽園──しかも、ヒースクリフ氏とわたしは、この荒涼たる世界を分かち合うにぴったりの組み合わせときている。たいした御仁だよ、あれは! わたしが馬で乗りつけると、あの人の黒い目はうさん臭げに眉の奥へひっこみ、わたしが名乗れば、その指は握手のひとつも惜しむかのように、チョッキのさらに奥深くへきっぱりと隠れてしまった。そんなようすを目にしたわたしが親しみを覚えたとは、あちらは思いもよらなかったろう。

C 訳:1801年──家主をたずねて、いま戻ったところだ。厄介な近所づきあいもあそこだけですむ。実にすばらしい土地だ。騒がしい世間からこれほど隔絶したところは、イギリスじゅうさがしても、おそらく見つかるまい。人間嫌いにとっては、まさに天国のようだ。そしてこの寂しさを分かち合うのに、ヒースクリフ氏とぼくはちょうど似合いの相手である。なんと素敵な男だ。ぼくが馬で乗りつけると、ヒースクリフ氏は眉の下の黒い両眼を疑わしそうに細め、ぼくが名のるのを聞いても、ますます油断なく両手をチョッキの奥に押し込んだ。それを見てぼくの心がどんなに和んだか、向こうは想像もできなかったことだろう。

D 訳:1801年──大家を訪ねていま戻ってきたところ──ぼくがこれから関わりをもつことになりそうな唯一の隣人。ここは確かにすばらしい地方だ! イギリスじゅうで、これほど完全に社会の喧騒から隔てられた場所に身を落ち着けることができたなんて信じられない。完璧な人間嫌いの天国だ──それにミスター・ヒースクリフとぼくはこの荒涼たる世界を分かち合うにはもってこいの相棒。実にいい奴だ! ぼくが馬で乗りつけると、彼の黒い眼が何やら疑わしげに眉の下に引っ込んでいくのを見たとき、またぼくが名乗ると、油断してなるものかと決意も固く彼の指がチョッキのなかへずっと深くもぐりこんでいったとき、ぼくの心がどれだけ彼に引かれていったか、彼の方はほとんど想像もしなかっただろう。

付録:ネットで見かけた別訳者による訳二例

1). 1801 年──家主をたずねてたったいま帰ってきた。うるさい近所づきあいもここでは一軒だけですむ。いやはや、すてきな片田舎だ! たとえイギリスじゅうさがしたって、さわがしい俗物どもの世界からこれほど完全に隔離された環境はめったに見つかるものではない。……

2). 1801 年──ぼくはいま家主を訪問して帰ってきたばかりである。──彼だけがまた、これから付き合わねばならない隣人というわけだったが──。とにかくすばらしい土地である! まずイングランド中探しても、これほど世間のさわがしさから完全に切り離された場所がほかにあるとは思われない。 ……


 冒頭部でまず気になるのが、'This is certainly a beautiful country!' をどう訳すかについて。ヒースくらいしか生えない、寒風吹きすさぶ丘陵地帯を 'a beautiful country' と評しているのは文字どおりそう感じたから、ではないだろう、この「語り手」ロックウッド氏の性格付けからしても。そういう「気持ち」が certainly にこめられている。こちらのページの掲載画像を見ると、「嵐が丘」邸周辺の風景はアイルランドのコノートかドニゴール地方を思わせる美しさはたしかに感じるとはいえ、「荒れ地」的印象のほうが強い。そしてこのあとの展開を見ればわかるように、やんわりとした皮肉も響いている、と考えるのが妥当な線ではないかと(それにすぐあとで'... a suitable pair to divide the desolation between us.' って書いてあるし)。なので個人的には「実にすばらしい土地だ」とした C 訳は字面どおりであっさりしすぎ、「それにしても、この土地は美しい!」の A 訳はあともう一歩、さりとて「ここは確かにすばらしい地方だ!」とした D 訳もどうかと。というわけで「さても、うるわしの郷ではないか!」とした B 訳のほうが好ましいと感じます。

 そしてつぎの下線部の訳ですが、「 C 訳が比較的自然な日本語で、かつ原文も大事にしていてオススメです」とのネット評を書いていた人がいたけれども、「眉の下の黒い両眼を疑わしそうに細め」という一節を見ただけでこちらの目まで疑わしげに細くなってしまう。眉の下にいきなり鼻があるわけじゃなし、眉の下に目があるのは当たり前でことさら断って書くことじゃない。それにほかの科白や地の文もなんというか、小説としてそぐわない箇所が散見されます。「英文解釈 100 点、だけど翻訳は…」という典型例のように見えたのも事実。なので「ブロンテの原文の字面を忠実になぞった訳」が読みたい向きにはこちらでよいとは思うが、「文学作品を読んでいる」という気分にはならなかった。それはたとえばすこし先の箇所(The ‘walk in’ was uttered with closed teeth, and expressed the sentiment, ‘Go to the Deuce!’ )の訳が「ろくに口も開かずに言うので、言葉は『入ってください』でも、まるで『とっとと失せろ』という意味に聞こえる」というのもヒースクリフの個性がまるで感じられないし、いかにも平板。「この『入んなさい』という言葉を吐いたとき彼の口は閉じられていて、『死んじまえ!』とでも言いたそうな気持が露骨に見てとれた」とした A 訳は ‘Go to the Deuce!’ の訳が難あり、B 訳は「"入れ"とは云いながら歯を食いしばるようにするので、"失せやがれ!"とでも云いたげな気持ちが伝わってきた」で、自分としてはわりとすんなりイメージが頭に入る。「入」と「失せやが」で脚韻を踏ませることまで意識したのかな、とも感じた。「死んじまえ」は、やはり文章の流れ的に「浮いて」見えます。家主は「さ、入れ」と言いつつ、そのじつ「おめーなんか、おとといおいでってんだ」みたいな気持ちであり、それが語り手の間借り人にも伝わってきたんでしょ、ここは(「おとといおいで / おととい来やがれ」の意味がわからない人のほうが多い今日このごろではあるが、古い作品にはこのような手垢のついた言い回しも使用可能だと思っている)。「その『入りなさい』ということばは歯を食いしばったままいわれたので、『くたばってしまえ』という気持ちを表していた」とした D 訳は A 訳に近い。

 かなり先に飛んで原書の第 15 章、お手伝いさんのネリー・ディーンの回想から。幼いヘアトンが怒り狂った父親ヒンドリーにむりやり抱えられて階上に連れていかれ、ヒースクリフがやってきたと思ったその刹那、父親の腕から落下した直後のネリー自身の科白で、「坊主にケガはなかったか?」と訊いてきたヒンドリーに対し、頭にきたネリーが叱責するところ。原文はシンプルに 'Injured! I cried angrily, If he's not killed, he'll be an idiot!' で、下線部の訳がどうなってるのかそれぞれ見てみると──
A 訳:「怪我ですって!」あたくしはかっとなりました。「怪我はしていなくても、障害児になってしまうでしょうよ!」
B 訳:「怪我ですって!」あたしは怒鳴りましたよ。「殺されなくても、頭が馬鹿になってしまいます!」
C 訳:「けがですって?」わたしは腹を立てて、大声で言いました。死んでしまうか白痴になっていたか、どっちかのところですよ!」
D 訳:「怪我をしたですって!」わたしは怒って叫びました。「たとえ死ななかったとしても、頭がおかしくなりますよ!」


けっきょく読み手の好みの問題と言ってしまえばそれまでかもしれないが、すくなくとも A 訳の「障害児」はないでしょう! 場にそぐわない訳語の選択。ここは読み、表現ともに C 訳のほうが適切だと思いました。ネリーの気持ちをはっきり書けば、「けがはないか、っていったいどの口が言ってるんです? 死ぬか、頭がバカになってしまうか、どちらかってところではないですか、ちがいますか!」くらいの、いくら雇われ人とはいえカンカンに怒っている感じが出てない訳ではいかんと思うのです。

 こんなこと書くと、「意訳ではないのか?」って言う人がかならず出てくる。んなことはない。ヤナセ語訳『フィネガンズ・ウェイク』だって、わからないながらも気になった箇所を原文と比べてみたらけっこうストレートな訳になっていたりする(以前、ここで書いた『フィネガンズ・ウェイク』関連拙記事を参照のこと)。ようは、ここまで表現できてはじめて翻訳と言える。読むのはあくまでも日本語で書かれた文学作品。「原文で何度も読んでいるけど、日本語版はどれもイマイチ」みたいなことを書いていた人もいたが、それならブロンテの原文を熟読玩味すればよろしい。古典新訳ブームという言い方はよく聞くけど、ようするに版権が切れてるから / 切れたから新訳を出しやすくなった、それだけのことなんでしょう。とはいえ『嵐が丘』新訳刊行ラッシュの場合、なんか出版社どうしによるライバル心むき出しの競争みたいな印象もなくなくはない。

 誤訳については、ヒースクリフ家の番犬に襲われそうになったときのことを話すロックウッドの科白の「焼き印」を取り上げていた人もいましたが、たしかにそうだとしても、だからといって全体までが悪い、みたいな物言いはいくらなんでも乱暴にすぎる。ちなみに仏語訳版でその箇所がどうなってんのか調べてみたら、 
── Si je i'eusse été, j'aurais laissé mon empreinte sur le mordeur.

これを英語に再度もどせば "If I had been, I would have engraved my seal on the biter." で、まさかこれをただ「噛みつこうとしたそいつにわたしの印を押しつけてやるところでしたよ」とやって、「印章付き指環をはめた手でおたくの番犬にパンチのひとつもくれてやったでしょうよ」と解釈できる読み手はひとりもいないでしょうよ。「焼き印」とした訳は以前からあり、ひょっとしたら「既訳本に敬意を払って」先達の仕事を参考にしたのかもしれませんが、イメージはしっかり伝わっているから、ここはしかたない処理かと。ストレートに「げんこを喰らわせた」とすると、意味的には正解[ただしかなり自由度の高い意訳になってしまう]ですが、「印章付き指環(signet)」の「印章」をしっかり犬の額に刻印させてやる、というイメージはまるで伝わらず、「焼き印(日本語化して久しい brand)」としたほうが無難な線だと判断したためではないかと思われます(ちなみにこの signet、O.E.D. で調べたけど意外? にも『嵐が丘』のこの科白は例文として収録もされていなかった)。

 「誤訳」というのはいちばん最初に挙げた、だれが見てもヒドい訳はいざ知らず、どんなすぐれた訳にも大なり小なり含まれているものでして、「鏡に映したような翻訳」は、目指さなければいけないことはわかっているけれども、そうそうお目にかかれるものではありません。ワタシなんかむしろ、『嵐が丘』ひとつでこんなにさまざまな日本語表現ができるんだ、と感心しきりなんですけどね。正直、「唯一絶対の翻訳」なんてのもありえない。また批評子というのは、ここも含めてすべて批評する側の視点、ものの捉え方で書くもので、やはり絶対ではない。ましてや「ありもしない勝手な理想像をこさえて、それを絶対的基準のように人さまの翻訳をバッサバッサと斬り捨てる」というのも、厳に慎まなければならない。世の中にはそういうお門違いもいいところな誤訳指摘という名の揚げ足取りがあまりにも多すぎる。かくいう自分も締め切り直前に拙劣な訳をしていた箇所に気づいてあわてて訂正して納品した、なんてことがあるから口幅ったいことは言えないが、翻訳というのはかんたんな仕事じゃないですよ、マジで(digit)。辛気臭いわりに報われること少なく、ついでに原稿料も少ない(嘆息)。

 原稿料で思い出したが、たとえばつぎのような訳文だったら、これはもう拙劣の批判は甘んじて受けなければならないし、クライアントに翻訳料金を請求するのもおこがましい、と考える。
… わたしの父は、少なくとも石に彫られている碑文を書くことなく、……を放棄すべきだったのに、そうしなかったことは、いつも私にとって奇妙に思えた。

原文は 'it always seemed to me strange that my father should have abandoned the ...... where he did, without at least writing the inscription that was carved on the stone.' で、すぐあとに '... At some later time he entered roughly on the manuscript the inscription on the stone, ...' とつづきます。上記訳文ですと、しっかり碑文を書いていたことになり、「あとになって、父はその石に彫り付けた碑文のおおまかな内容を草稿に書き入れた」とつながらなくなるから、あきらかに誤読していることがわかります。もちろん息子にとって長年、腑に落ちなかったのは、「父が石の碑文を書くことなく中断してしまったとは、いったいどうしてだろう」ということ。

 というわけで、きわめて casual な気持ちでツイートする読書好きの方も含め、「誤訳の指摘、誤訳に対する批判」を全世界に発信する前に、ひと呼吸おきまして、いまここで書いたことなども思い出していただければありがたいと思います。ところで最初に引き合いに出した中田先生ですけど、お元気そうでなにより。こちらのブログ記事にあるように、
──女の作家は、けっして女性を代表するわけではないのです。
世間では優れた女流作家は女性を代表すると考えるわけだけれど、わたくしに言わせれば、誤りです。
むしろ一般の女性からはかけ離れた特異な存在です。
特異な存在だからこそ、自分自身が作家でありえたのだし、創造性を持ちえたというふうに、ぼくは考える。

というのは、もうさすが、としか、ここにいる門外漢は言うことばがありません。先生の評はそのまんま『嵐が丘』という作品にも当てはまりますし(中田先生は昔、高校生だったか、若い読者から誤訳指摘の手紙を受け取ったことがあるという。こんな大御所になんとまた大胆な、とも思ったけれども、その内容がかなーり辛辣だったようです。で、この怖いもの知らずの若い読者にまたご丁寧にこう書いて返信をしたためたんだそうです──「このつぎはきみが訳してね」)。

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2019年02月12日

「直訳」でさえない訳がオンエアされた話

 たまには珍しく? 即時ツイートもどきの感想をすこしだけ。つまり、それだけひじょーに気になってしまった、ということです。

 いまさっき午前の仕事を終えてお昼ごはん食べつつ某民間テレビ局の午後のワイドショーをながら視聴していたんですが、取り上げられていたのが大坂なおみ選手とドイツ人コーチのサーシャ・バイン氏との突然の「決別」の話題。で、なんとはなしに見ていたら、いきなりちょっと待ったぁ〜っ、とヒゲじいよろしく言いたくなってしまった。番組ではその「コーチ契約解消(→ NYT の関連記事)」をしごくかんたんに、いやはっきり言ってすごくあっさりと告知する内容の大坂選手のツイートが全文、紹介されてまして、
Hey everyone, I will no longer be working together with Sascha. I thank him for his work and wish him all the best in the future.
で、下線部の訳が、「彼の将来が最高であることを祈っています」みたいになっていたことです。

 'all the best' というのは手紙、というかいまじゃメールのほうがふつうですけど、文末に添える決まり文句のひとつで、「ごきげんよう」ほどの意味。つまり紋切り型というかあまりご丁寧な表現でもないし、ましてや「将来が最高であるように」と心から願う意味でもない。「ハイ、みんな。わたし、もうサーシャとは仕事をしない。これまで彼がしてくれた仕事に感謝。そして今後の成功を祈ってる」くらいの、わりとサバサバした気持ちだと思うぞ。もっともたった3行とはいえ、この文面をしぼり出すのにえらく時間をかけて考えて考え抜いて … というのもあったかもしれないが、すくなくともこの文面はこうとしか読めません。

 さらにそのサーシャ氏の返事のツイートまで紹介されてたんですが、こちらのほうがさらに問題大ありでして、
Thank you Naomi ゴメン/お願い I wish you nothing but the best as well. What a ride that was. Thank you for letting me be part of this.
下線部の訳がなんと「なにも言うことはない」ですと !!! 口に含んだお茶をぶちまけそうになってしまった。「ありがとう、なおみ。ぼくからもきみの成功を祈っている、それだけだ。なんてすばらしい時間だったろう。その時間を共有できて感謝している」くらいでしょう['what a ride'は、ジェットコースターとかワクワクする楽しい経験をしたときに使う colloquial な表現]。

 さすがにこの悪訳? には黙っていられなかったか、進行役のひとりの安藤優子さんも「それはちょっとちがう」と異議を唱えていたけれどもけっきょくムニャムニャという感じになっていたところに、さらに大きなニュースがいろいろ飛びこんだ関係上、それっきりに。… いつもこういう話を見聞きするたびに思うんですけど、これってチェックする人ってだれもいないんだろうか。ええいままよ、なんていう言い方は古いが、テキトーにやっつけて本番でタレ流すってどうなのって。安藤さんみたいな英語が堪能な方だって現場にいるのだから、チェックくらいしてもらえばいいのに。

 さらにムッときたのは局アナの人かな、安藤さんに「それちがうよ」と指摘されたとき、「ま、いちおう直訳するとこんなふうに … 」なんてのたまっていたこと。こういう方には、高名な仏文学者で名翻訳家だった生田耕作氏が「わたしは直訳主義です」と言い切った話とか語って聞かせてもナントカの耳に念仏ぶつぶつでしょうな。'nothing but ...(… するのみ / … するだけ) ' も見えてない訳なんて直訳でさえない。直訳でさえないものをポンと全国ネットで紹介するなんてツイートしたご本人に対しても失礼、ですわ〜(黒澤ダイヤふうに)。これ以上、くどくどこぼしてもただのボヤきにしかならないからもうやめますけど、もうすこしなんとかなりませんかねぇ、と「深き淵よりの嘆息」。

 … それにしても池江璃花子選手の白血病の発表にはほんとうに驚かされた。いまは治療に専念されて、元気に復帰されるようにと祈るばかりです。

posted by Curragh at 16:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 翻訳の余白に

2019年01月28日

センター試験問題 ⇒ 北川民次の慧眼

1).今年もまたセンター試験の季節がやってきました。… とはいえいま自分の仕事とかヤボ用とかいろいろ立てこんでおり、英語の試験問題にはまだろくに目を通してない。でも「国語」の試験問題の現代文に、なんと「翻訳」ものの評論からの抜粋から出題されていたのにはいささかびっくり。興味を惹かれた門外漢は手許の資料だの参考文献だのをいったん「積ん読」して(この件については後述)、さっそく問題文を読み、設問を解いてみた(… とはいえ巻頭からいきなりの「誤字訂正」とは、いったいどうなってんだか)。

 今年の国語の出題文は、言わずと知れたロシア文学者で、2013 年度に放送されたラジオ講座「英語で読む村上春樹」の講師でもあった沼野充義先生が書いた『翻訳をめぐる七つの非実践的な断章』から。「僕は普段からあまり一貫した思想とか定見を持たない、いい加減な人間なので、翻訳について考える場合にも、そのときの気分によって二つの対極的な考え方の間を揺れ動くことになる」という、なんともユーモラスな書き出し。そのすこし先にはラブレーとともに、ジェイムズ・ジョイスの名前まで挙げられている! 名翻訳家の青山南先生の名前も見える。

 いちおう「評論」というカテゴリになるようだけど、文芸翻訳の仕事とはどういうものか、その体験談というか翻訳のウラ話的な楽しいエッセイと言ったほうが近い気がした( → ご本人もそうおっしゃている )。だから今回、試験問題としてなかば強制的かつ時間に追われながらの「読解」に終わった受験生のみなさんで、「おー、なんかおもしろそう!」と、Aqours の高海千歌のような気分になったらぜひ図書館から借りるか、買ってみるといいと思う。べつに厳密な解釈を要求される翻訳者の視点で読むわけじゃなし、この評論文にもあるように「普通の読者はもちろん言語哲学について考えるために、翻訳小説を読むわけではない」から、ソファにでもゴロンと転がって純粋に楽しんで読めばいい。

 え、問題はどうなのかって? 問5がちょっとヒッカケ? ぽい設問だったけれどももちろん正しく解答できました(問5の、「… 考えてみれば私たちは父親にそんな言い方['I love you.' に相当する言語表現]」をしないし、結局そこにも文化の差があるってことかな」というのは … 原文のどのへんを指して言っているのだろうか)。

 … でもあいかわらずこれシドいな、と毎度思うのが、「世界史B」。なんでこう、前後脈略見境いっさいなしな設問のオンパレードなのか。たとえば第1問の問題文「ロンドンのウェストミンスターには、国会議事堂をはじめとする歴史的建造物があり、それらはユネスコの世界遺産に登録されている。… 」ってあります。で、上の「下線部について述べた文として正しいもの」を四択で選べってあるんですが、その選択肢が
@ ヴェルサイユ宮殿は、フランソワ1世によって建てられた。
A スレイマン=モスクは、タブリーズに建てられた。
B アンコール=ワットは、クメール人によって建てられた。
C アルハンブラ宮殿は、セルジューク朝によって建てられた。

 正解は B ですけど、これってどこが「下線部について述べた文として正しいもの」なんでしょうかね ??? そういえば昔、英語の大学入試問題がヒドいって批評書いたら「そんなの正答以外はみんな不正解に決まっとるだろ!」ガシャン !! って電話を切られたっていう、笑うに笑えない話を読んだことがあります。

 いずれ現行のセンター試験も廃止されるみたいですが、すくなくともこんなワケワカラン設問を解くのは時間のムダじゃないかって思います。いっそのこと大学入学は小論と面接だけでいいのでは、とさえ思う。そ・の・か・わ・り、卒業が超絶むずかしいシステムにすればいい。こんなこと書くと何年か前だったら「欧米か!」とツッこまれるところですが、だってそう思いませんか。昔もいまも、この国の若人はたいてい、大学入試時点が学力のピークなんですぞ(もちろん、なにごとにも例外はある)。もうかれこれ 30 年以上も前から、サークルだのなんだのに明け暮れろくに講義に出席もしない学生と、それを許している大学双方を揶揄して、「大学のレジャーランド化」と言われてたんですから。いまや超がつくほどの少子高齢化、大学側もとくに「費用対効果」が薄いとして切り捨てられる傾向がある文系学部を中心に統廃合が加速して、いまの大学には 30 数年前では考えもおよばなかった危機感があるとは思います。あるとは思うが、「世界史」の設問なんか見てますと、なんかこう、いまだ十年一日(ジュウネンイチニチじゃないよ)の感ありです。

2).そんな慨嘆にたえない先週末、たまたま「日曜美術館」を見てたら静岡県出身の反骨の画家、北川民次のことを取り上げてました。で、その北川は最晩年、『夏の宿題』という作品を描いています。ワタシみたいなのが御託を並べるより、作品を観ればたちまち会得されるはず。この作品が描かれたのは大阪万博の開催された 1970 年。あれから約半世紀後のいま、北川の警句はますます大きく響いてくる気がしますね。ちなみに子どもの手許に広げられた紙の上には、こう書いてあります−−「シュクダイがないと子どもは 何を考えていいか分からなくなるとラヂオの先生がいいました。ナニが私たちをこんなにしたのでしょうか」。この国の教育の宿痾を、端的に喝破した至言だと思いませんか? 

3).先日、兼高かおるさんが逝去された。兼高さん、とくると、往年の名番組、「兼高かおる世界の旅」に、小学生だったワタシは日曜の朝、わけもわからず見ていた「時事放談」につづいてこの番組をなによりも楽しみにしていたものだ。ツタンカーメン王の墓の玄室とかギザの三大ピラミッドとか、ルーヴル美術館や見たことも聞いたこともない南の海の島とか、とにかく地球上のいろいろな場所をあの decent な調子で紹介していたのがついきのうのことのように思い出されます。いつだったか兼高さんの著書を読んだ折、フィゲラスのサルバドール・ダリの邸宅を訪問したときの話とかが興味深かった。「そのピンと立った口ヒゲは、どういう意味がありますの?」とダリ本人に訊いたら、「これは宇宙からの信号をキャッチするアンテナじゃ!」みたいなこたえが返ってきた。「口ヒゲは、どういうものを使って固めてらっしゃるの?」と訊いたら、「シュガー」とこたえたんだそうな。

 そんなダリもいまからちょうど 30 年前、日本では平成元年の 1月 23 日に亡くなっている。そのとき買った Time の死亡記事タイトルはたしか 'Bewilderment of Perplexity' だったように思う。またおなじく兼高さんの著書にはシュヴァイツァー博士のランバレネの病院を訪問したときのことも出てきて、「ここだけ時代に取り残されているように見えた」といった記述の記憶がある。当時、シュヴァイツァーはいわゆる「シュヴァイツァー批判」にさらされ、日本の教科書からも彼の名前がいっとき消えたりした時期があった。まだ若かった兼高さんには、あの病棟は「過去の栄光」のように見えていたのかもしれない。そんなシュヴァイツァー博士の名言として、先日、地元ラジオの朝のローカル番組でこんなことばが紹介されてました。
世界中どこであろうと、振り返ればあなたを必要とする人がいる('Wherever a man turns he can find someone who needs him.')

 馬齢ばかり重ねてきた感ありの門外漢も、かくありたいと思うのでありました。合掌。

 でもって最初の「積ん読」にもどりますが、この前、ある米国人女性版画家を紹介する Web サイトを見てたら、'currently-reading pile' なる表現にお目にかかりました … なるほどこういう言い方もあるのかと、感心したしだいです。

posted by Curragh at 19:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 翻訳の余白に