2019年02月12日

「直訳」でさえない訳がオンエアされた話

 たまには珍しく? 即時ツイートもどきの感想をすこしだけ。つまり、それだけひじょーに気になってしまった、ということです。

 いまさっき午前の仕事を終えてお昼ごはん食べつつ某民間テレビ局の午後のワイドショーをながら視聴していたんですが、取り上げられていたのが大坂なおみ選手とドイツ人コーチのサーシャ・バイン氏との突然の「決別」の話題。で、なんとはなしに見ていたら、いきなりちょっと待ったぁ〜っ、とヒゲじいよろしく言いたくなってしまった。番組ではその「コーチ契約解消(→ NYT の関連記事)」をしごくかんたんに、いやはっきり言ってすごくあっさりと告知する内容の大坂選手のツイートが全文、紹介されてまして、
Hey everyone, I will no longer be working together with Sascha. I thank him for his work and wish him all the best in the future.
で、下線部の訳が、「彼の将来が最高であることを祈っています」みたいになっていたことです。

 'all the best' というのは手紙、というかいまじゃメールのほうがふつうですけど、文末に添える決まり文句のひとつで、「ごきげんよう」ほどの意味。つまり紋切り型というかあまりご丁寧な表現でもないし、ましてや「将来が最高であるように」と心から願う意味でもない。「ハイ、みんな。わたし、もうサーシャとは仕事をしない。これまで彼がしてくれた仕事に感謝。そして今後の成功を祈ってる」くらいの、わりとサバサバした気持ちだと思うぞ。もっともたった3行とはいえ、この文面をしぼり出すのにえらく時間をかけて考えて考え抜いて … というのもあったかもしれないが、すくなくともこの文面はこうとしか読めません。

 さらにそのサーシャ氏の返事のツイートまで紹介されてたんですが、こちらのほうがさらに問題大ありでして、
Thank you Naomi ゴメン/お願い I wish you nothing but the best as well. What a ride that was. Thank you for letting me be part of this.
下線部の訳がなんと「なにも言うことはない」ですと !!! 口に含んだお茶をぶちまけそうになってしまった。「ありがとう、なおみ。ぼくからもきみの成功を祈っている、それだけだ。なんてすばらしい時間だったろう。その時間を共有できて感謝している」くらいでしょう['what a ride'は、ジェットコースターとかワクワクする楽しい経験をしたときに使う colloquial な表現]。

 さすがにこの悪訳? には黙っていられなかったか、進行役のひとりの安藤優子さんも「それはちょっとちがう」と異議を唱えていたけれどもけっきょくムニャムニャという感じになっていたところに、さらに大きなニュースがいろいろ飛びこんだ関係上、それっきりに。… いつもこういう話を見聞きするたびに思うんですけど、これってチェックする人ってだれもいないんだろうか。ええいままよ、なんていう言い方は古いが、テキトーにやっつけて本番でタレ流すってどうなのって。安藤さんみたいな英語が堪能な方だって現場にいるのだから、チェックくらいしてもらえばいいのに。

 さらにムッときたのは局アナの人かな、安藤さんに「それちがうよ」と指摘されたとき、「ま、いちおう直訳するとこんなふうに … 」なんてのたまっていたこと。こういう方には、高名な仏文学者で名翻訳家だった生田耕作氏が「わたしは直訳主義です」と言い切った話とか語って聞かせてもナントカの耳に念仏ぶつぶつでしょうな。'nothing but ...(… するのみ / … するだけ) ' も見えてない訳なんて直訳でさえない。直訳でさえないものをポンと全国ネットで紹介するなんてツイートしたご本人に対しても失礼、ですわ〜(黒澤ダイヤふうに)。これ以上、くどくどこぼしてもただのボヤきにしかならないからもうやめますけど、もうすこしなんとかなりませんかねぇ、と「深き淵よりの嘆息」。

 … それにしても池江璃花子選手の白血病の発表にはほんとうに驚かされた。いまは治療に専念されて、元気に復帰されるようにと祈るばかりです。

posted by Curragh at 16:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 翻訳の余白に

2019年01月28日

センター試験問題 ⇒ 北川民次の慧眼

1).今年もまたセンター試験の季節がやってきました。… とはいえいま自分の仕事とかヤボ用とかいろいろ立てこんでおり、英語の試験問題にはまだろくに目を通してない。でも「国語」の試験問題の現代文に、なんと「翻訳」ものの評論からの抜粋から出題されていたのにはいささかびっくり。興味を惹かれた門外漢は手許の資料だの参考文献だのをいったん「積ん読」して(この件については後述)、さっそく問題文を読み、設問を解いてみた(… とはいえ巻頭からいきなりの「誤字訂正」とは、いったいどうなってんだか)。

 今年の国語の出題文は、言わずと知れたロシア文学者で、2013 年度に放送されたラジオ講座「英語で読む村上春樹」の講師でもあった沼野充義先生が書いた『翻訳をめぐる七つの非実践的な断章』から。「僕は普段からあまり一貫した思想とか定見を持たない、いい加減な人間なので、翻訳について考える場合にも、そのときの気分によって二つの対極的な考え方の間を揺れ動くことになる」という、なんともユーモラスな書き出し。そのすこし先にはラブレーとともに、ジェイムズ・ジョイスの名前まで挙げられている! 名翻訳家の青山南先生の名前も見える。

 いちおう「評論」というカテゴリになるようだけど、文芸翻訳の仕事とはどういうものか、その体験談というか翻訳のウラ話的な楽しいエッセイと言ったほうが近い気がした( → ご本人もそうおっしゃている )。だから今回、試験問題としてなかば強制的かつ時間に追われながらの「読解」に終わった受験生のみなさんで、「おー、なんかおもしろそう!」と、Aqours の高海千歌のような気分になったらぜひ図書館から借りるか、買ってみるといいと思う。べつに厳密な解釈を要求される翻訳者の視点で読むわけじゃなし、この評論文にもあるように「普通の読者はもちろん言語哲学について考えるために、翻訳小説を読むわけではない」から、ソファにでもゴロンと転がって純粋に楽しんで読めばいい。

 え、問題はどうなのかって? 問5がちょっとヒッカケ? ぽい設問だったけれどももちろん正しく解答できました(問5の、「… 考えてみれば私たちは父親にそんな言い方['I love you.' に相当する言語表現]」をしないし、結局そこにも文化の差があるってことかな」というのは … 原文のどのへんを指して言っているのだろうか)。

 … でもあいかわらずこれシドいな、と毎度思うのが、「世界史B」。なんでこう、前後脈略見境いっさいなしな設問のオンパレードなのか。たとえば第1問の問題文「ロンドンのウェストミンスターには、国会議事堂をはじめとする歴史的建造物があり、それらはユネスコの世界遺産に登録されている。… 」ってあります。で、上の「下線部について述べた文として正しいもの」を四択で選べってあるんですが、その選択肢が
@ ヴェルサイユ宮殿は、フランソワ1世によって建てられた。
A スレイマン=モスクは、タブリーズに建てられた。
B アンコール=ワットは、クメール人によって建てられた。
C アルハンブラ宮殿は、セルジューク朝によって建てられた。

 正解は B ですけど、これってどこが「下線部について述べた文として正しいもの」なんでしょうかね ??? そういえば昔、英語の大学入試問題がヒドいって批評書いたら「そんなの正答以外はみんな不正解に決まっとるだろ!」ガシャン !! って電話を切られたっていう、笑うに笑えない話を読んだことがあります。

 いずれ現行のセンター試験も廃止されるみたいですが、すくなくともこんなワケワカラン設問を解くのは時間のムダじゃないかって思います。いっそのこと大学入学は小論と面接だけでいいのでは、とさえ思う。そ・の・か・わ・り、卒業が超絶むずかしいシステムにすればいい。こんなこと書くと何年か前だったら「欧米か!」とツッこまれるところですが、だってそう思いませんか。昔もいまも、この国の若人はたいてい、大学入試時点が学力のピークなんですぞ(もちろん、なにごとにも例外はある)。もうかれこれ 30 年以上も前から、サークルだのなんだのに明け暮れろくに講義に出席もしない学生と、それを許している大学双方を揶揄して、「大学のレジャーランド化」と言われてたんですから。いまや超がつくほどの少子高齢化、大学側もとくに「費用対効果」が薄いとして切り捨てられる傾向がある文系学部を中心に統廃合が加速して、いまの大学には 30 数年前では考えもおよばなかった危機感があるとは思います。あるとは思うが、「世界史」の設問なんか見てますと、なんかこう、いまだ十年一日(ジュウネンイチニチじゃないよ)の感ありです。

2).そんな慨嘆にたえない先週末、たまたま「日曜美術館」を見てたら静岡県出身の反骨の画家、北川民次のことを取り上げてました。で、その北川は最晩年、『夏の宿題』という作品を描いています。ワタシみたいなのが御託を並べるより、作品を観ればたちまち会得されるはず。この作品が描かれたのは大阪万博の開催された 1970 年。あれから約半世紀後のいま、北川の警句はますます大きく響いてくる気がしますね。ちなみに子どもの手許に広げられた紙の上には、こう書いてあります−−「シュクダイがないと子どもは 何を考えていいか分からなくなるとラヂオの先生がいいました。ナニが私たちをこんなにしたのでしょうか」。この国の教育の宿痾を、端的に喝破した至言だと思いませんか? 

3).先日、兼高かおるさんが逝去された。兼高さん、とくると、往年の名番組、「兼高かおる世界の旅」に、小学生だったワタシは日曜の朝、わけもわからず見ていた「時事放談」につづいてこの番組をなによりも楽しみにしていたものだ。ツタンカーメン王の墓の玄室とかギザの三大ピラミッドとか、ルーヴル美術館や見たことも聞いたこともない南の海の島とか、とにかく地球上のいろいろな場所をあの decent な調子で紹介していたのがついきのうのことのように思い出されます。いつだったか兼高さんの著書を読んだ折、フィゲラスのサルバドール・ダリの邸宅を訪問したときの話とかが興味深かった。「そのピンと立った口ヒゲは、どういう意味がありますの?」とダリ本人に訊いたら、「これは宇宙からの信号をキャッチするアンテナじゃ!」みたいなこたえが返ってきた。「口ヒゲは、どういうものを使って固めてらっしゃるの?」と訊いたら、「シュガー」とこたえたんだそうな。

 そんなダリもいまからちょうど 30 年前、日本では平成元年の 1月 23 日に亡くなっている。そのとき買った Time の死亡記事タイトルはたしか 'Bewilderment of Perplexity' だったように思う。またおなじく兼高さんの著書にはシュヴァイツァー博士のランバレネの病院を訪問したときのことも出てきて、「ここだけ時代に取り残されているように見えた」といった記述の記憶がある。当時、シュヴァイツァーはいわゆる「シュヴァイツァー批判」にさらされ、日本の教科書からも彼の名前がいっとき消えたりした時期があった。まだ若かった兼高さんには、あの病棟は「過去の栄光」のように見えていたのかもしれない。そんなシュヴァイツァー博士の名言として、先日、地元ラジオの朝のローカル番組でこんなことばが紹介されてました。
世界中どこであろうと、振り返ればあなたを必要とする人がいる('Wherever a man turns he can find someone who needs him.')

 馬齢ばかり重ねてきた感ありの門外漢も、かくありたいと思うのでありました。合掌。

 でもって最初の「積ん読」にもどりますが、この前、ある米国人女性版画家を紹介する Web サイトを見てたら、'currently-reading pile' なる表現にお目にかかりました … なるほどこういう言い方もあるのかと、感心したしだいです。

posted by Curragh at 19:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 翻訳の余白に