2024年05月31日

翻訳というより、超訳本だった話

 以前もここで書いた、米 SF 界の往年の大御所のひとり、ライアン・スプレイグ・ディ・キャンプ。最近、たまたまここのページを眺めていたら、見覚えのない邦訳書が出ていることを発見。しかもあの電撃文庫からかつて出ていたという。電撃文庫って、「紅蓮の剣姫(けんき)」のようなラノベ専科みたいなイメージしかなかったから、コレハぜひ入手! と息巻いたものの「日本の古本屋」にもなくて、しかたないから期間限定で又借り(静岡県内の公立図書館の相互貸出サービス経由で。というか電撃文庫って創刊当初はなんと主婦の友社から発売されていたんですねぇ、知らなかった)。

 で、さっそく地元の図書館で 27 年も前(!)に刊行された日本語版の上巻を受け取りまして、Kindle 版の原書(コレはもちろん買いました)と出だしから2章にかけて突き合わせてみた …… 結果、コレは翻訳というより、いっとき日本ではやった超訳ずら、という結論とあいなった。

 超訳の元祖ってじつはけっこう古くて、記憶がおぼろげで申し訳ないけれども、ウン百年前にオランダ語原典から英訳した本には原典には出てこないアヒルとかの動物の鳴き声がやたらと追加されてにぎにぎしくなっている、というものがあるって高名な翻訳家が書いた本で読んだことがある。その伝でいけばこちらの訳書(?)もりっぱな超訳書ということになる。

 どれだけ脚色≠ウれているかをちょっとだけ見ていきます。まずは冒頭部[拙試訳は、字義通りに訳すとこんな感じ、というていどのもの。下線は引用者]。
On the first day of the Month of the Crow, in the fifth year of King Tonio of Xylar(according to Novarian calendar)I learnt that I had been drafted for a year's service on the Prime Plane, as those who dwell there vaingloriously call it. They refer to our plane as the Twelfth, whereas from our point of view, ours is the Prime Plane and theirs, the Twelfth. But, since this is the tale of my servitude on the plane whereof Novaria forms a part, I will employ their terms.
〈試訳〉ザイラー国トーニオ王の治世5年目、ノヴァリア暦でカラスの月の1日に、おれは第1平面(うぬぼれ屋の住人たちは自分たちの住む世界をそう呼んでいる)で1年間、奉公するお役目に召喚されたと知った。向こうはこちらを「第 12 平面」なんて呼んでいるが、こちらから見れば「第1の」平面はここで、奴さんたちの住む世界が「第 12 平面」だ。と言ったところで、そもそもこれは、ノヴァリアを形成する時空世界で丁稚奉公した顛末をあれこれ語るお話なので、ここはおとなしく、奴さんがたの用語で「第1平面」と呼ぼう。
 で、同じ箇所が日本語版では … ↓
ノバリア暦ザイラーの王トニオの年、烏の月の一日。
いきなりなんのことやらさっぱりわからないのだがかまわずにいこう
この日、ズドムは強制丁稚奉公の命令通知を受け取った。
強制丁稚奉公とは強制的に丁稚として奉公させられることである。第一地界のノバリアで一年の間丁稚としてこき使われてこいという内容だった。
なにかのまちがいではないか。
「厳正なる抽選により、あなたが今年の丁稚に選ばれました」
ちっとも嬉しくなかった。(p.11)
 下線部、間違いなく訳者のココロの声ですな。
 そのすぐあとに「ノバリアのある地界が第一地界で、ズドムの住んでいるのが第十二地界というのはノバリアから数えた場合で ……」とある。英語版 Wikipedia 記事 を見ると、ノヴァリアは地球(と、そこに住むわれわれ)のパラレルワールドで、こことあちらの違いは「魔法が使えること」。魔法使いがいて、ほかの平面(plane)の住人を呼びだすことができる。ノヴァリアからいちばん離れた平面世界が主人公の悪魔の住む「第 12 平面」。言語も異なり、向こうはノヴァリア語を話す。それが日本語版では
…… 現に今こうして語られているこの言語も、これは実はノバリアの言葉なのである。
 ノバリア語は日本語にとてもよく似ている。(p.12)
に化けてしまう。もちろんディ・キャンプはそんなこと書いてないし、だいいちクドすぎる。完全な創作。

 日本語版には巻頭カラーの4コマ漫画(!)まであって、そこに描かれているのが、これまたいかにもという感じの、丸っこくデフォルメされた各キャラクター(『Dr.スランプ アラレちゃん』に出てくるような絵柄)。訳文はとんでもなく自由闊達ながらも、キャラクターたちのイラストを見ると、主人公や、「第1平面」に住む魔法使いのモルディヴィウスの体つきや身なりなんかはわりと忠実に再現≠ウれている …… 気はした(金属的な青光りするうろこにとがった耳、ナマズのような巻き毛のひげにしっぽを持つズディム[Zdim、邦訳の表記は読みやすさを最優先にしたんでしょう]、もじゃもじゃのひげをたくわえ、猫背だが背丈はズディムと同じくらい高く、ツギハギだらけの黒衣をまとった魔法使いモルディヴィウス、など)。脚色や創作箇所がそれこそあっちこっちにあり、前述したように冗長さはあるものの、そこに目をつぶれば、上巻を見たかぎりは全体的にストーリーや世界観が大きく逸脱したり、破綻はなさそう …… と感じた、あくまで一読したかぎりでは。

 しかし出だしからもうすこし先、主人公の悪魔(fiend)ズディムが魔法陣の真ん中に立ち、自分が属する「第 12 平面」から人間の住む「第1平面」へ転送≠ウれた直後の描写(p.20)はどうも落とし穴に落ちておいでのようです。その箇所の原文をすなおに訳せば、「……[ニンの役所の]長官の間が目の前から消えたと思ったら、いきなり荒削りな地下室の中、いまさっきまでいたのとまったく同じ五芒星の上に突っ立っていた。このとき、いま自分が立っているところに 100 ポンドの鉄のインゴットが置かれていて、そいつが自分の代わりに第 12 平面に運ばれたと知った」。過去完了の見落としが原因かと。たしかに巻末近くにも、ノヴァリア第1平面における任務(?)を終え、都市国家どうしの侵略戦争もどうにか切り抜けたこの悪魔(で、しかも哲学者!)氏は、愛する妻と赤ん坊が待っている故郷へハレて帰還するとき、“I sat down on the two hundredweight ingots of iron” ってあるけれども、これはおみやげ的な追加の鉄のインゴット(Wikipedia の要約記事にもしっかり “extra” って付いてる)。彼の住む世界である「第 12 平面」は慢性的な鉄不足で、人間の住む「第1平面」から鉄のインゴットを用立ててもらう代わりに、1年間の「丁稚奉公」要員として悪魔を差し出すという「契約」を、かの地の人間の魔法使いと交わしている、という設定になってます。魔法陣に描かれた五芒星は、一種の転送装置です。

 老魔法使いのモルディヴィウスに「メシ炊きと掃除をしろ」と命じられた丁稚奉公の悪魔ズディム。魔法使いの若い弟子グラックスに、キッチンに行く道が迷路みたいでわからん、とこぼしたら、歌みたいにして覚えればいいときて、「いいかい? まず左左右右左右左。はいっ。ごいっしょに」(p.32)なんて調子良く続くがこれもウソ(創作)。原文は「行きは右左右左左右右、帰りは左左右右左右左。できるか?」です。

 これくらいにしておきます。キリないし、そんなにヒマじゃないし(苦笑、つづく第2章ものっけから訳者はブッとばしてスピード違反の連続。いもしないロバ[原文は mule、ラバ]だの存在しない「鳥居」だの、グラックスがズディムに「夜這いにいっしょに行かないか」なんてお誘いしているのもぜ〜んぶ訳者の創作だから恐れ入る。全編この調子では、さすがに読まされるほうはたまったもんじゃない)。日本語版はどういうわけか(?)上下巻と分冊になってますが、原書のこちらの版の場合は 200 ページほど。ほかの版も調べた限り似たりよったりで、日本語版を1冊本として出版したとしてもさほどガサばらなかったはず(とはいえ、あれだけあることないこと詰め込まれるといきおい分量は増す…)。

 今回、これを書くときに参照した読書家の方が書かれたページがあります。この超訳本については一定の評価をしつつも、「翻訳の出来不出来、原典の再現性はさておいて、海外のおもしろそうなファンタジーを適当に訳してマネーを稼ぐ、悪しき前例とならないように」とクギを刺しています。電撃文庫で翻訳ものっておそらくほかにはないだろうとは思うが、ワタシとしては、やっぱり前にもここで書いたような、ハヤカワファンタジー文庫版『妖精の王国』の名訳者である浅羽莢子先生の訳で読みたかったなァ、というのが率直な感想。

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2023年12月31日

新訳版『文学の味わい方』

 …… を、12月16日付で刊行しました。個人出版ものとしては 2019 年 10月に発行した『《輝き》への航海:メタファーとしての「ラブライブ! サンシャイン!!」』についで2冊目になりますが、今回は、版権切れの古い著作をあらたに訳しおろした古典新訳本になります(原著は1909 年刊行の Literary Taste:How to form it 初版本で、拙訳はパブリックドメイン扱いになってます)。

 アーノルド・ベネット(1867−1931)については高校生当時に受講していた通信教育の演習ワークブックに、再婚した「年下妻」である女優さんの回想記の一部が掲載されていたのを見てはじめてその名前を知った。吃音癖があること、規則正しい生活を送っていたことなど、なんせ高校生なので英文読解力は拙かったが、それでもこの年下の奥さんのベネットに対する尊敬の念は文のはしばしからにじみでていて、いまなお印象に残っている(ワークブックは探したけど出てこなかった)。だからベネットの名前はそのときからずっとアタマの片隅にはあった。

 ベネットと言えばなんといっても『自分の時間』(原題は How to Live on 24 Hours a Day)ですが、すでに小説家として一流の仲間入りを果たしていたのに俗に言う「自己啓発本」を立て続けに書き、どれもよく売れたというのだから、SNS で発信したりメディアにちょくちょく顔を出しては注目を浴びるような物書きのはしりみたいな人だったのかもしれない。げんに生前から、ベネットには俗物≠ニいう世評がついて回っていた(高級ホテルに連泊して作品を執筆し、豪華なヨットも所有して乗り回していた)。

 しかし、2番目の奥さんの回想記にもあったように、じつはとんでもなく克己心の高い人で、その手書き原稿は非の打ちどころのないほど美しい清書だったという。ただでさえ執筆に多忙だったのに、自分の両親にもせっせと手紙を書き送り続けた。そんな筆まめさと誠実な人柄は、親しい友人には周知の事実だったのだろう。第一次世界大戦中には、当時の戦時連立内閣とパイプがあった新聞王のビーヴァブルック卿マックス・エイトキンに推挙され、情報省宣伝局フランス課長を務めたり、自宅を開放して回復期負傷者の病棟として提供もした。ようするにベネットという作家は、言われているほどスノッブ野郎でもなんでもなく、むしろその対極に位置するような人物だった。ついでにこれもよく言われることながら、日本の文豪、幸田露伴や夏目漱石とおない年でもある。漱石はいわゆるロンドン留学中に、書店でベネットの本を目撃していたことはじゅうぶんありえる(ロンドンに向けて横浜港を出航したのは、ワタシの亡くなった母方の祖母が生まれた 1900 年なので、まさしくベネットが自己啓発ものを書いていた時代と一致する)。

 ベネット本はすでに名だたる訳者諸兄による既訳が多く出ていて、ワタシみたいなのがという気もないわけではなかったけれども、けっきょくいつのもように好奇心のほうが勝(まさ)ってしまった仕儀と相成り、今回なんとかぶじに刊行にこぎつけてほっとしている、というのが正直な気持ちです。

 個人的には、100 年以上も前に出たベネットの「文学のすゝめ」的なこの本に書かれてあることが、ほぼそのまま芸術作品と向き合うときの心得として通用する点にいちばん心を惹かれた。というか、そういうふうにベネットが書いてくれたからこそ、浅学非才も顧みず、個人新訳版を出してみようと思い立ったしだい。本は、ひとたびページを開くだけで書き手が生きていた時代に一瞬にしてタイムワープできるというふうになぞらえられることが多いが、ベネットに言わせればそれだけではまだ足りない。まずもって「手にとったその本は、書き手の心情の表出にほかならない。それをいまを生きるあなたの生活に移し替えなければせっかく本を読んでもなんの意味もなく、むしろ時間のムダ」だとばっさり切り捨てている。さらにこうも書いている。
芸術の最大の目的のひとつは、精神を掻き乱すことにある。そしてこの「精神の掻き乱し」は、すべてが整っている人にとっては最高の愉楽となりうる。ただしこの真実を会得できるようになるには、それこそ何度となくこの手の経験を繰り返すしか方法はない(Chp.9 「詩の世界」より)

 拙訳者当人が言うのもなんですが、まったくそのとおりですわ。「芸術は、バクハツだ!!」じゃないですけれども、ソレがないアートというのは、いくらモットモラシイ熱弁を振るったとしても、しょせんまがいものにすぎない。ベネットはこの本で「ではどんな本(作品)を読めばいいのか」について、3つの時代区分に沿ってリストアップしている(拙訳書にも注記したけれども、原書には当時いくらで売られていたか、その売価まで懇切丁寧に列挙されているが、それは割愛した。代わりに合計でいまの日本円でだいたいいくらになるのかは注記した)。また、「当時の英国ではどんな本が一般に読まれていたか」を知りたい、という向きにとっても本書は有益な資料になると思う。

 …… 個人的には、2023 年も悲喜こもごもてんこもりもりで、ほんとアっという間だった。世界情勢もそうだけれども、「地球沸騰化」というワードも印象に残った卯年の 2023 年でしたね。恒例の〆の1曲ですけれども、大好きなニジガクの楽曲(今夏公開の劇場版 OVA エンディング主題歌。「好きのチカラは強いんだよ 最強さ」はマジで spine-tingling もの)から選んでみました。それでは良いお年を。


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2023年10月31日

紙の本を読む喜びについて

 COVID-19 の流行もだいぶ落ち着いてきたかなぁ、などとぼんやり思っていたら、ガザ地区からの電撃的攻撃で突如して戦端が開かれてしまった中東情勢(下手をすると、第五次中東戦争になりかねない)。それにつられて高止まりする原油などのエネルギー価格。毎月の電力料金の明細を見て嘆息しておられる方も多いと思う、今日このごろです。

 ワタシは大の読書家でも愛書家でもないと自認してるんですが、それでも仕事に関係なく気になった本は図書館で借りたり、図書館になければこちらの専門サイト経由で注文して買ったりと、そこそこ読んでいるほうではないかと思ってます。というか、一度気になる本が出てくると読まずにいられないたち。たとえば 1987 年発行の奥付のある『ネットワーク犯罪白書』という翻訳本。インボイス問題でさんざん騒がれて、消費税というものが(とくにわれわれ零細業者にとって)益税でもなく、かつそんなもんは存在さえしないことがすこしは知られてきたのかな、などと思ってはいるんですが、とにかくその騒動の元凶である一般消費税導入前、まだ物品税で、パソコンも PC-98 全盛時代の昭和末期にアスキーから出版されたこの本の内容は、なんと「コンピューターを悪用したネットワーク犯罪」。すでにそんな知的犯罪が欧米のみならず、日本でも話題にのぼっていたなんて、いまの若い世代が知ればビックリ仰天すること請け合いです。読んで損はない、というか、資料価値もきわめて高い1冊かと思います。

 ここで個人的な話をすこしだけしますと、いまワタシは2冊めの Kindle 本を準備しています …… 今回は翻訳本。翻訳といっても、100 年以上も前の 1906 年に初版が刊行された原著の新訳になります。いま流行りの言い方を使えば、「古典新訳」というやつですね。なので原書は原則的に版権フリーです。これをいつだったか、オンライン古書店で買い求めて読んでいるうちに、つぎはこの新訳版を出そうと心に決めました(笑)。

 この Kindle 本についてはまた後日、正式に刊行したときにでも軽く触れるとして、いまいちばん強く思うのは、こういう騒がしい時代だからこそ、秋の夜長にお気に入りの1冊を手にとって、紅茶でも飲みながらページを繰る、というひとり静かに過ごすひとときがいかに人間の精神にとって大切か、ということ。どんな本だってかまわない。ワタシの場合はいちおうこれでも翻訳者なので仕事柄、アタマをカイメンみたいに絞らないとわからない、なんて難物もときには読んだりしますが …… たとえば個人的に近年、読んだなかでとくに難物だったのがコレ。おかげでダニエル・C・デネットという、米国の認知科学者にして哲学者を知ることができた。かなり時間はかかったけれども読了し、そのまま忙しさにかまけて放置していたんですが、新聞投稿の景品の図書カードが溜まりまして、ようやくいまごろになって ¥4,200 もするお高い訳書(しかもペンギンブックス版原著より分厚いハードカバー仕様!)を地元書店にて買い求め、ヒマなときに比べ読みしています。原文と人さまの訳を突き合わせるのもやはり仕事柄、必要な勉強というわけです。ちなみにこのデネット本、COVID-19 がらみで「耳タコ」になったワードの PCR(ポリメラーゼ連鎖反応)に関する記述もあります! 本を書いたデネット先生自身、まさかここまで人口に膾炙するバズワードになろうとはユメにも思わなかったでしょう(分厚い本、とくると、つい最近、延び延びになっていたトマ・ピケティの最新刊の邦訳がようやく出ましたね)。

 そして前回、ここで紹介したような、読む者の背中をそっと押してくれるような爽快な読後感が期待できるラノベだっていいんです。先日、帰りのバス車内で女子高生のすぐ後ろの席に座ったんです。見るとはなしにその子のようすをうかがっていると(※ストーカーではない)、目にも止まらぬ早わざでじつに器用に親指フリックフリック! で、インスタだの LINE だの、iCloud フォトだのブラウザだのイヤフォンで聴いている音楽プレーヤー画面だの、それはそれは目まぐるしく画面を変え続けて、すこしは手も目も休めりゃええのにって、まことにお節介ながらそう感じて眺めてました。…… ま、ワタシもスマホいじくってるときは、おそらく第三者からそう見えているでしょうけれども。

 で、思ったんですね。…… なるほど、だから『ネット・バカ』とか『スマホ脳』とかの翻訳ものノンフィクションがベストセラーになったのかって。たしかにそんなことばっかり続けていたら、マジで精神的に崩壊する恐れはある(Apple 元 CEO のジョブズや、MS 共同創業者のビル・ゲイツといった IT テック企業人でさえ、子どもにスマホやタブレット端末は持たせなかったって話もあるくらい)。そこで読書の出番だ。たまにはスマホから手を離して、紙に印刷された活字を追ってみるのも楽しいですよ。ハロウィーンパーティーで盛り上がるのもいいけれども、「読書の秋」とは、けだし至言です(投稿のお題は、ショーペンハウアーの古典『読書について』のもじり)。

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2023年05月23日

古典が古典と言われる理由

日本を代表する名翻訳家のおひとり、柴田元幸先生がジョナサン・スウィフトの名作『ガリヴァー旅行記』の個人完訳を新聞夕刊に週1のペースで2年間、掲載していたという驚愕の事実を「ラジオ深夜便」(しかも今年1月の再放送)でこのたび知るという …… いくら自分の仕事に追われていたとはいえ、ソレはないやろ、とこれは自分自身への悔悟のセリフ(柴田訳は版元が新聞社のせいなのか、「ガリバー」と中古車販売会社みたいな表記にされているが、ヴィヴァルディを「ビバルジ」と書けないのとおなじで、ここはしっかり v の音写で表記する。ちなみにウィーンよりヴィーンと書きたいのはやまやまながら、こちらはぐっとコラえて慣習に従う)。

 また、柴田先生訳の少し前に出た高山宏先生による新訳版とご自身の訳書とを比較して、「ぼくの訳はお茶の間に届くガリヴァーです」とおっしゃっていたのはさすがだなァと感銘を受けた。「古典は酒。わたしの本は水。みんなが飲むのは水だ」と言ったとか言わないとか、マーク・トウェインのよく知られたアフォリズムが思い出されますね〜。

 ところでこれけっこうな大作でして、こびとのリリパット国の話はつとに有名ながら、巨人の国や馬の国、そしてなんと日本まで出てくる(!)。ほぼ同時期にデフォーの『ロビンソン・クルーソー』(1719)も出てます。当時は旅行記の体裁を借りた諷刺文学(パスティーシュもの)がもてはやされていたようです。『ガリヴァー』が書かれたのは、柴田先生も言っていたが、バッハの「マタイ(BWV 244)」が初演された前年の 1726 年。大バッハと同時代人でもある、アイルランドの司祭さんというわけ(正確には、アングロアイリッシュ系の人)。「馬の国」に出てくるヤフー(人間もどき)は、たしかポータルサイトの YAHOO! の語源だって聞いたことがある(間違っていたらごめんなさい)。

 原文とまともに向き合ったことがないからこれもはじめて知ったけれども、柴田先生によれば、きわめて現代的な British 英語で書かれているという。スウィフトは召使いに書き上げた分の原稿を見せて、意見を求めたとか。リーダブル重視だったんですねぇ、これもはじめて知った。アイルランドとくれば、20世紀の大小説家ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』があるけれども、そうそう、やはりちょうどこの時代にはローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』というトンデモない散文作品もありますね。日本にはじめて紹介したのがかの夏目漱石という話もしていました。邦訳に際して、柴田先生はパラグラフを自由に切ったとおっしゃっていたのが印象的だった。たいてい海外の純文学ものの翻訳はエンタテインメント系と違って、パラグラフはそのまま尊重して訳すのがふつうなので(海外ミステリもの翻訳も、たいていは原文のパラグラフを尊重しますが)。

 スウィフトが『ガリヴァー』を書いた当時、まさかこれが「古典」の仲間入りして、300 年近く経過した地球でも読みつがれる物語になるとは思ってなかったんじゃないかって思う。いまちょうど Kindle 本としてアーノルド・ベネットのエッセイの邦訳の準備を進めているところなんですが、教養=読書量、つまりなんでもかんでもとにかく活字を読みなさい的な発想はいまだ根強いとも思う。でも ── たいした読書家でもない門外漢が喋々(ちょうちょう)すべきじゃないが ── それってホントなんだろうか? 最近、どうにも挨拶に困る本が増えてるなぁと感じているもので。そんなワタシの困惑は、最近の書評もどきにも表れていると思う。つい最近も、そんな「科学もの」の邦訳文庫本を(仕事で入り用になり、どうしても)買うハメになったし(著者は理論物理学者にして「ネットワーク科学」なるものの提唱者。たとえばラン・ランの演奏にケチつけて音楽コンクールは意味がないと切って捨てたり、絵画のコレクターのくせして美術そのものに価値はなく、美術界における名声しだいで値がつくとかなりの偏向ぶりで、はっきり言って途中で読む気が失せた。そもそも「成功する人・しない人」なんか腑分けしてなんか意味があるんですかね。世渡りがうまいとかヘタとかそんな次元の話じゃないの? だれもが億万長者になれるわけでも、それで確実に幸福でハッピーな人生が送れるわけでもなかろうて[カネ持ちになればなったで強殺される危険も高まる]。これならまだ『サピエンス全史』を読んだほうがマシというもの)。

 最後に、柴田先生が朗読した『ガリヴァー』の記述が心に刺さらない人は世界のどこにもいないだろう。だから『ガリヴァー』は時代を超越して、古典としての永遠の生を獲得したのだと思う。
……(戦争の)原因も動機も無数にありますが、主たるものをいくつかご紹介します。君主が野心家で、統治する土地や人民が、いくらあっても足りないと考える場合。腐敗した大臣たちが悪政に対する臣民の抗議を押さえつけるか、矛先をそらすかしようと、君主をそそのかして戦争に走らせる場合。また、意見の相違がもとで、これまでに数百万の命が失われてきました。たとえば、肉体がパンなのか、パンが肉体なのか。ある種の果汁が血なのか、葡萄酒なのか。口笛は悪か徳か。…… 意見の相違がもとで起きる戦争ほど、しかもそれが些末な事柄に関する相違であればあるほど、戦争は激しく、血生臭くなり、かつ長引くのです。…… 敵が強すぎるという理由で戦争を始める場合もあれば、弱すぎるという理由で始まる場合もあります。ときにはわが国が持っているものを隣国が欲し、あるいは、わが国が欲するものを隣国が持っていて、いずれにせよ、戦え。彼らがわれわれのものを奪うか、われわれに、自分のものを明け渡すかするまで続けるのです。…… ある君主が敵の侵入に対抗しようとべつの君主に支援を請い、支援し敵を駆逐した君主がその領土をみずから奪い取り、支援を要請してきた君主を殺害、投獄、追放することも、王にふさわしい名誉あるふるまいとして頻繁に行われます。

 それでも、「どのように読んでもかまわない。視点を決めないように!」と訳者の柴田先生はしっかりお断りしている。たしかにそれこそが原著者が望んだ「読み方」だったとワタシも思う。I couldn't agree more! 

 ちなみに柴田先生がつぎにとりかかりたい翻訳の仕事は、メルヴィルの『白鯨』とか。ぜひ実現されることを祈念しております。

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2022年05月02日

『暴力の人類史』

 ……の、個人的読後感です。

 じつはコレ必要に迫られてあわてて図書館で借り出したものなんですが …… なんせ上下巻合わせて千ページ超えというトンデモない本だったので、とりあえず上巻から、と思ってほぼ一日1章の分量で5日くらいで付箋貼りつつ読んだんですが、はっきり言って駄作だと感じた(ワタシは基本的に断定的な物言いはしたくない人ながら、この本に関してはそもそも時間のムダだったように感じたもので)。

 もちろん部分的には卓見というか、なるほどと思わせることも書かれてありますよ。でもそれはシェイクスピアやワイルド、カントの『永遠平和のために』、ホッブズの『リヴァイアサン』の引用や説明など(「旧約聖書の歴史的記述はフィクションである[p.14]」というのは正解)、いわば「ネタの部品取り」には最適かもしれない、という話。しかしながら、そもそもの主張(といっても、この先生の仮説)と、その裏付けでえんえんとつづく講釈とグラフや数字などの「統計データ」の扱いがかなり恣意的ないし誘導的で、「上巻でこれじゃあ、下巻までしっかり付き合う必要はなさそう」と思い至りました(苦笑)。とりあえずなんとか短めに、上下巻に分けて妄評をば(いつものことながら、下線/太字強調は引用者。なお縦書き本の数字表記はすべてアラビア数字表記に変換してある)。

上巻:1991年にアルプス山中で発見されたアイスマン「エッツィー」(この前、NHK でも再放送されてたんで観てましたが)はじつは殺害の被害者だった、というのは有名な話から始まって、その当時から比べていまはどれだけ危険/安全か、と論を起こすわけですが……ようするに、「昔はヨカッタ」的なことを平然と口走る面々に対して「んなことはない。昔の人類はいかに残虐で暴力的だったか」を力説しているような話が続く。それだけ歴史(当然ここでは西洋史だが。もっとも日本にもその手の人はゴマンといて、「江戸時代はヨカッタ」なんてこと言い出す人はいまだ後を絶たず)を知らない白人が多いのかってこっちは思ってしまいますが、それはともかく気になったのは、やたらと昔の人と過ぎし日の社会の「暴力性(とその死亡者数の多さ)」ばかりをあげつらっていること。アーサー王もののひとつ『ランスロット(ランスロ、または荷車の騎士)』などを例に挙げて、「たしかに騎士は貴婦人を守りはするが、それはほかの騎士に誘拐されないためにすぎなかった」、「今日言われるような騎士道精神とはほど遠い(pp.56−7)」と手厳しい。

 この手の本を読み慣れてないとついスルーしてしまいがちなところなんですが、では今日言われるような騎士道精神って、いったいなんなんでしょう? 中世史家がここを読んだら、きっと「それは一般の現代人が勝手にこさえた妄想」だと現下に返すんじゃないですかね。「イルカはかわいいし頭もいいから食べるな」というじつに手前勝手な屁理屈と似たかよったか(西伊豆語)で、けっきょくいまのわたしたちの(=西洋人の)物差しで書いているだけなんじゃないでしょうか。こういう書き方がためつすがめつのオンパレードです。

 だいぶ前にここでも書いたヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『パルツィヴァール』。たしかに当時は戦死者も多かったし、殺し方、とくに刑罰は磔刑をはじめ八つ裂きあり火あぶりあり串刺しありと、とても正視できるものじゃありませんが(そういう刑罰道具ばかりを陳列した博物館まである。pp. 247 ff)、新生児や感染症の死亡率の高さなども考えると、「暴力死」の割合が突出して高かったわけでもなかろう、と凡人は思うわけです。では、全死亡の「外生的(こういう社会学用語ってどうもムシが好かないが)」要因をカテゴライズして、「戦死」とか「リンチ」とか「殺し」で死んだ人、つまり広義の「暴力」で死んだ人がいったいどれくらいいたんだろ、って当然疑問に思うわけです。第2章にそんな疑問の答え(?)になりそうな横棒グラフがあったりしますが、いずれ研究が進めば根拠にした数字はコロコロ変わりそうな印象のほうが強い。では時代が下れば下るほどデータは正確になるのか、といえばそうでもなくて、「近代国家になると……一つの『正しい』推計を示すことは不可能だ(p.112)」。というわけで、この本では、仮説を立証するために、当然のごとくこういうテクニックが多用されることとあいなる──「もし記録に残されていない戦闘による死や、飢饉や病気による間接的な死も含めるために 20 倍にしても、依然としてその割合は1パーセントに満たない(p.113)」!!!

 第二次大戦後、ロシアのウクライナ侵攻まで(この邦訳書の原著が刊行されたのは 2011 年)70 余年、「平穏な戦後体制(この本では「長い平和」と呼んでいる)」が続いたのはなぜか、という話で著者は、「[ゲリラ、準軍組織間の戦争は]『長年にわたる憎悪』が動機になっているとされる。カラシニコフ銃を抱えたアフリカの少年というおなじみのイメージは、世界の戦争の負荷は減ったのではなく、北半球から南半球へと移動したにすぎないという印象を裏打ちしている(p.522)」と書いてます。で、「この新しい戦争には飢饉や病気がつきものであり、そのため民間人の犠牲者が数多く出ることになる。だがその犠牲者は戦死者としては数えられない場合がほとんどだ」。…… なんか前の段落で引用した記述と矛盾してませんか?? 

 こういう記述の齟齬に加え、なんでもかんでも「暴力」でひっくるめて論じているものだから、「それとコレとは違うやろ〜」ってツッコミたくなることもしばしば。下巻にはなんと「菜食主義者」増加との相関関係まで取り上げられていて、ここまでくるとため息しか出てきません。

 古代史で戦争、とくるとたいてい引き合いに出されるのが『バガヴァッド・ギーター』の、アルジュナ王子を叱責するクリシュナ神の有名なくだり。果たせるかなこの本にも出てきたんですが(オッペンハイマーの有名な捨てゼリフ? の引用もね)、それがなんとジェノサイド(!)を論じたセクションでして、クロムウェルによるアイルランドのドロヘダ虐殺と同列に扱われてて草(いまふうの言い方をしてみましたずら)。「行動の結果を恐れる気持ちと、行動の成果を望む気持ちとをすべて捨てることによって、人はこれから果たさなければならない務めを、執着心なしに果たすことができます」(ジョーゼフ・キャンベル『生きるよすがとしての神話』)。こっちの解釈のほうが言い得て妙、て気がしますがね。

 あと 19世紀末のドイツロマン主義を「(人道主義的な革命を起こした)啓蒙主義と相容れない、反知性主義」とばっさり切った考察とかイスラム世界に関するくだりとか(あくまで西洋中心の記述のため、言及箇所は本の分厚さの割にめちゃ少ない。というかコレ「索引」くらいつけろよ〜、探すのタイヘンじゃんか)、「まったく新しい暴力エンタテインメントの形態であるビデオゲームが人気を博している(p.242)」ってありますが、ワタシはむしろ見方が逆でして(女性を商品化して見せているきわどいポルノはイカンと思うが)、たとえば昨今隆盛を見せている eスポーツ。あれって考えようによっては文字どおりスポーツ、つまりかつては血みどろの殺し合い、ないし「名誉の決闘」だったものが、じつに平和的に昇華されたすばらしい競技じゃないですか。あいにくこの本を書いた先生の眼には、低俗なポルノ産業とおなじものに映ったようです。

下巻:とりあえず目についたことだけを少し。p. 230以降の「ヒトの脳の構造」の話は興味を惹かれますが、とにかくあっちこっちと記述が飛びすぎて、ついてゆくのがタイヘン。でもけっきょく結論、言いたいことはひとつなので、めんどくさいと思ったら飛ばし読みをおススメします(プロットの入り組んだ小説とちがって、この手のノンフィクションものは流れがつかみやすい)。

 菜食主義者の話(pp. 169ff)ですが、動物の肉を食べることと、長期間にわたる暴力低下傾向との相関関係……は、あるとは思うが、なんかこう「肉食は悪」みたいな印象は拭えない。もちろんそれが著者の主張ではないものの、西洋の白人の価値観を押し付けられているような感じは残る。というかそもそも次元の異なるトピックどうしを、なんでもかんでも「暴力」枠に押し込んで論じているものだから、本の厚みだけはいや増し、という感じ。

 それでも著者はとても clever(この形容詞は「頭がよい」というより、「キツネみたいにずる賢い」というニュアンスが強い。あなたは clever だと言われたら、それは褒められたのではなく、ケナされたと思ったほうがいい)な書き方をしています。上巻から下巻まで、随所に「もっとも[暴力の]減少はなだらかに起きたわけではなく、……暴力が完全にゼロになったわけでもない(上巻 p.11)」みたいな逃げ口上を用意している。ひとりだろうと全人類が吹き飛ぶ戦争だろうと、殺しは殺しではないですか、という根源的な問いに対してもしっかり答えを用意して、「逃げて」いる(下巻 p.579)。

 最後に翻訳について。訳者先生は名うてのベテランの大先生なので、最初のほうとか「Kindle 試し読み」で突き合わせたりしましたが、もちろん問題なし。むしろ勉強になる(とくにこの手のとっつきにくい本では)。ただし誤植はやや多め。これは訳者先生ではなくて、校正・校閲側の見落としのせい(pp.236−37の「フローニンゲン」と「クローニンゲン」、p.606の「徹底した」など)。それと p. 143の『ローランドの歌』って、『ロランの歌』のことですかね? 

 この本を読んでここにいる門外漢がどうにも腑に落ちてこなかったのは、けっきょくこういうことではないかと思う:
マクルーハンの本自体が、新しいメディアの作り出した問題よりむしろ印刷文化特有の問題を立証しているように見える……この本は、いかに資料過多が一貫性の欠如につながるか、さらなる証拠を与えてくれた

 引用したのはつい最近、「日本の古本屋さん」で手に入れた 30 数年も前の『印刷革命』という、「印刷術の発明によって、旧来の文字文化から新しい文字文化=活字メディアへと移行したとき、それはどんな影響をおよぼしたか」を考察したホネのある原書の邦訳本の「まえがき」なんですが、ワタシがこの大部の本に抱いたウソ偽りない読後感が、まさしくコレだった。ウクライナ情勢が日増しに緊迫度を増すなか、「戦争」という究極の暴力に関して読むのなら、こちらも先日、NHK で再放送されていたロジェ・カイヨワの『戦争論』のほうがまだよいかと思ったしだい。

評価:るんるん

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2022年02月27日

禅僧ティク・ナット・ハンの教え

 冬季五輪が終わるのを待ち構えていたかのように、ロシア軍が隣接する小国(人口は北海道とほぼ同じ)ウクライナに電撃的に軍事侵攻を仕掛けて、いまも交戦中です。ウクライナとくると、音楽好きがまっさきに思い出すのはやはり「キエフの大きな門」だろうし、スパイものが好きな人にとってはフォーサイスの『オデッサ・ファイル』でしょうか。その港湾都市オデッサも攻撃されたと聞く。

 こういうときこそ冷静沈着に、そして霊性の助けが必要だろう …… とそんなことをぼんやり考えていた折も折、先月 22 日に 96 でみまかった禅僧のティク・ナット・ハン氏を特集した「こころの時代」再放映が深夜に流れてまして、思わず見入ってしまった。

 寡聞にして知らなかったが、いま流行りの「マインドフルネス」の普及促進に尽力したお坊さんでもあるらしい。マインドフルネスなんてどうせ企業が自分たちの利益にかなうからと社員になかばカマかけて喧伝しているにすぎない代物、座禅や、カトリックの修道士が行っているような「観想」とは似ても似つかぬものだろう …… という prejudice があって、とくに深く知ろうなどという気もなかったんですが、それはどうもこちらの早トチリのようだった。

 ティク・ナット・ハン師の講話とかを記録した映像がいろいろ流れて、そこでのお話とか聞いていると、21 世紀前半が過ぎ去ろうとしているいま、なぜマインドフルネスの実践が世界的に流行っているのかがわかったような気がした。なにごとにおいても人口に膾炙するのには理由がある、ということなのでしょう。

 講話でいちばんすばらしいと感じたのは、「ブッダは神ではなく、人間の体をもって生きた人でした」、「(蓮の葉の茎をナイフで切って見せて)あなたがたから見れば左で、切っているわたしから見れば右になる」というお話だった。前者は福音派アメリカン牧師にありがちな「アナタハ神ヲ信ジマスカ?」的なじつにバカバカしい皮相的かつ詐欺師的な手合いとは正反対の、まさしくものごとの究極の真理を突いたお話でして、おおいに共感したしだい(原始教会時代の、「イエスは神の子か否か?」をめぐる論争の不毛さも想起させられる)。後者は、いままさに全世界の政治指導者たちこそ全身を耳にして謹聴してほしい真実をありていに述べたことばでして、何度もここで書いてきたから「耳タコ」で申し訳ないんですけれども、比較神話学者のジョー・キャンベルとやっぱりおんなじこと言っているなぁ、と思ったしだい。

 ハン師はこうもおっしゃってました。「(イデオロギー的に)左の人は、右の人が消えれば世の中はよくなると思っているが、いくら(ナイフで茎を切って見せながら)こうして切ってもいつまでたっても右側は出てきます …… インタービーイング(interbeing)、互いがいるから存在するということに気づくべきです」(講話では何度か「サンガの共同体」という用語も出てきた)

 わたしたちはとかく自分が正義だと思いがち。イエスかノーか。善か悪か(「砂漠の一神教」の影響を受けた地域に根強い発想)。そして世の中には正論さえ唱えていれば正しい方向に向かう、という強い信仰もある(クリティカル・シンキングにしてもそう)。もっともこれは「だったらワクチンなんて打たなくていい」ということじゃありません。ハン師はこう話してました。「互いに不可分の存在だと認めあえれば、互いのために行動を起こす」。互いに自分を大切にすることで、結果的に互いの生を助けることになるとハッキリ言ってたんです。なんとすばらしい。オラひさしぶりに感動しましたよ。ハン師がおっしゃった「この世の理」を、「考えるのではなく、感じる」ことができたのなら、いますぐにでも人の行動は、誰かからあれやこれや言われるまでもなく、おのずと変わっていくでしょう。そういう穏やかな心は、ただ自分たちが安楽に暮らせなくなるからというだけで二酸化炭素ガス排出の責任を年長世代に押し付けるだけの自称抗議活動がいかにむなしいものかもわかろうというもの(意見には個人差がありますずら)。

 そこで思い出されるのが、──ロシアと同じ専制主義権威主義独裁体制な大国で開催されたとはいえ── フィギュアの羽生結弦選手をはじめとするアスリートたちの活躍です。同じフィギュアの坂本花織選手、スノーボードの平野歩夢選手と岩渕麗楽選手、スピードスケートの高木美帆選手 …… カーリングが好きなので、「ロコ・ソラーレ」の銀メダル獲得もおおいに感動しましたね。

 ほかにもこのような選手はたくさんおられますが、いまここでお名前をあげた選手はいずれも「絶対必勝」というより、「自分が目指してきたものをこの大舞台でなにがなんでもやってみせる」という、並々ならぬ、それこそ決死の覚悟をもって臨んだ真の意味での勇者だと思う。半世紀前の日本人だったら、世界に追いつき追い越せしか眼中になくて、「ワタシはこの技をキメたいからやらせてくれ」なんて言ったらそれこそ体罰もどきを食らってそれで終わり、世間的にもおよそ許してもらえなかったんじゃないかって思います。だからたとえ戦車が街を潰しにかかってきても、ほんとうにわたしたち人間にパワーを与えてくれるのはこうした個人の意思の力にあると、ワタシは考えている。ようするに、自分自身が輝けない社会なんて、いくら飽食と宝飾品であふれ、いくらテクノロジーが発展して便利になっても、けっして満足することなどない。ティク・ナット・ハン師に教えを受けたという人びとが異口同音に語っていたのもまさにこれでした。
生き生きとした人間が世界に生気を与える。これには疑う余地はありません。生気のない世界は荒れ野です。…… 生きた世界ならば、どんな世界でもまっとうな世界です。必要なのは世界に生命をもたらすこと、そのためのただひとつの道は、自分自身にとっての生命のありかを見つけ、自分がいきいきと生きることです」────ジョーゼフ・キャンベル、ビル・モイヤーズ / 飛田茂雄 訳『神話の力』から

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2021年09月24日

「茶色の石造りの建物」って?

 最近、ひさしぶりに参考文献を必要とする案件がありまして、いつものように図書館へ(滞在時間は 30 分以内にせよとのお達し !!)。2冊借りまして、とり急ぎこちらがほしい情報が書かれてあるくだりを読んだ。でもってそちらの訳稿はもう納品したので、あとはふつうに楽しみつつ秋の夜長の読書。

 1冊めを訳したのは、某新聞社の元記者だった手練れ(てだれと読む)の物書きの男性。もう1冊のほうは女性訳者の手になるもので、フツーに先入観なく読んでみた一読者としては、圧倒的に後者の訳書が読みやすかった。もっともこれは、後者の原書の対象読者層が YA つまりヤングアダルトだった、ということもあるかもしれない。でも2冊とも書いたのは「読ませる文章のプロ」たるジャーナリストの著者。後者の「訳者あとがき」を拝読しますと、「日本語版ではとくにそれ[YA 向け]を意識することなく大人向けとして訳した」とあるから、翻訳者の個性、もしくは編集者の手がかなり入った結果の読みやすさだったと推察されます。

 ベテラン訳者の手になる前者の場合、1989 年の消費税導入直前(!)に刊行されたという「古しい(西伊豆語)」本ゆえの宿命みたいなところはあろうかとは思うが、「オラだったらこんな言い回しは使わんなぁ」という箇所が頻出して少々くたびれたのも事実。でも全体としてはすっと読めるし、話が話だけに(原爆技術を共産圏にダダ漏れさせたスパイ学者の話)とてもおもしろい……んですが、いきなりこういうのが現れた──「改装ずみの茶色の石造りの建物」。

 英語ができる人はいっぱいいるし、海外在住の英日翻訳者もゴマンといるからここで言うのも気が引ける……のではありますが、コレ原文見なくてもぜったい brownstone の家のことですよね。その少し先の箇所にも、またまた「茶色の石のアパート」なんてのが出てくる。

 brownstone は 19 世紀から 20 世紀初頭の米国では高級邸宅の象徴みたいな石材で、「赤褐色砂岩」のこと。英米文学がお好きな方なら、以前ここでも取り上げたトルーマン・カポーティの短編『ミリアム』にも出てくるから、あああれのことかと思い出されるかもしれない。↓
For​ ​several​ ​years,​ ​Mrs.​ ​H.​ ​T.​ ​Miller​ ​had​ ​lived​ ​alone​ ​in​ ​a​ ​pleasant​ ​apartment​ ​(two​ ​rooms​ ​with​ ​kitchenette) in​ ​a​ ​remodeled​ ​brownstone​ ​near​ ​the​ ​East​ ​River.​..
 おそらくこの brownstone、辞書にも当たらず適当に片付けちゃったんでしょうね。それとも知っていたけれども、うっかりやってしまったかのどちらか(鈴木晶先生が“corn”を「麦の穂」ではなく「トウモロコシ」と、知ってはいたけれどもついうっかり誤訳した話を著書で明かしている)。

 もっともこの手の間違いはだれにでもあるし、そんなこと言ったらオラもずっと穴の中に籠もってなければならない。だから、たとえ何冊か翻訳書籍を世に問うているような人でさえ、「わたしは翻訳」なんて麗々しく公言するもんじゃないと思う。「翻訳」ならば OK 。日本語の肩書きの「〜家」というのは、それこそその道の大家にでもならないかぎり、気安く使っちゃマズいずら、と個人的には思っている(にしても、いくら宣伝のためとは言え、ブログやら Twitter やらでやたらと「翻訳」を名乗る御仁が多い。よっぽどウデに自信がおありなんでしょうねェ……)。

 それともうひとつ「ほえッ !?」と思ったのは、この一節。
……自分の報告をタイプし、これをカーボンでコピーし、そのコピーをもって……出かけた。
 昨年、タイプライターがらみの記事の訳を担当させていただいたことがあり、またちょうどおなじころ、無類のタイプライター・オタクで知られる俳優トム・ハンクス氏が豪少年に「コロナ」製の黒光りするヴィンテージものタイプライターをプレゼントしたという心温まるニュースにも触れてにわかにタイプライター熱が高まって、ほとんど勢いで 45 年ほど前に製造されたブラザー製タイプライターを某オークションサイトにて入手した経験がある者としては、ここの訳はちょっと信じられない。

 欧文タイプライターでカーボンコピーつまり文書の「複製」を作成するには、「領収書」を切るときとおなじ──すなわち、タイプする原稿用紙を2枚重ね、間にカーボン紙を挟んでバチバチ打ち出して正副2通作成する。当たり前だがコピー機なんてない時代。タイプ打ちした文書なり原稿なりをコピーしようとしたら、これしかやりようがなかったはずです。

 ついでに脱線すると、電子メール(っていまどきこんな言い方しないか……)の「CC」ってのもタイプライター時代の名残。文字どおり「ーボンピー」の頭文字をそれぞれとった呼び名です。「RE:」というのもそう。あれはほんらいはラテン語の“res”(=regarding)であって、“reply(response)”ではない。

 1冊めの本にもどりまして、そうは言っても内容はそれなりにおもしろいので、やはりこの手の歴史資料的な文献が日本語で読めるのはとてもありがたい。2冊めのほうもさすが手慣れたジャーナリスト的な軽快さがあって、おなじ人物を書いても視点が違っているからそれはそれでまたをかし(♪比べるの好き、すごく好き、なてんびん座)。

 ちなみに2冊めのほうを訳されたのはこちらの先生。「文は人なり」って言いますが、やはりこういう姿勢の方が手がけた訳書は安心して読めますね。でもたとえば男のワタシが訳すのと、女性訳者が訳すのとでは、同じ原文でも明らかに違いが出ると思う。原著者が男か女かでも違いが出てくるとは思うが……このへんもまた比較研究してみるとヌマにはまりそうで、ある意味コワい気はする。げに奥深き翻訳の世界。

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2021年08月31日

ART の果たすべき役割とはなにか

 未曾有の COVID-19 のパンデミック禍に全世界が巻き込まれてはや1年半。医療現場はいよいよ苛烈さを増しているなか、根拠のないデマをまき散らす人とそうでない人との分裂が進み(「分断」というよりも修復不能な「分裂」になりつつあると感じている)、われら哀しき人類のバラバラっぷりではとうてい「この 100 年で最凶のウイルス」に勝ち目はなさそうとさえ思う。以前、ここで某財団によるマラリア撲滅計画のことを批判したけれども、自然とは大したものでして、「疫病の媒介者さえ絶滅させればそれで結果オーライ」とはぜったいに終わらない仕組みになっている。絶滅させればさせたで、その結果はバタフライ効果となって思わぬかたちで出現し、確実にしっぺ返しを喰らう。おなじことが「イルカはかわいいしアタマがよいから食べるなんてトンでもない」とばかりに追い込み漁のロープを切断する傍若無人を働く手合いにも言える。これもようするに「自分以外は正しくない」というバイアスと独断のなせる業。

 世の中には筋トレでもして気を紛らわせろとか、いろいろな知恵やご高説を「オンラインサロン」みたいなビジネス(というか、ひと昔前なら「そんなもん自分で考えろ」のひと言で済んでいたことまでいちいち解説して、またそれをなんの考えもなく真に受ける人が一定数いて、さらにその人たちをお客に取りこんで商売にまでなってしまうという世の中もどうなのよ?)で垂れる人もいるようですが、時節柄、いちばんよいのは、空き時間を利用して「ご自身がいちばん好きなこと」に打ち込むことでしょうかね。

 あるいは、いままで興味も関心もまるでなかった分野に急に目を見開かれてのめりこんだりでもいいと思う。個人的なところではパラリンピックがそう。やはり自国開催というのはすごいなァと。いままでこんなにパラ大会のことを TV 中継していたのか定かではないけれども、時間があるときはほとんど TV 観戦してまして、たとえばボッチャという競技のルールとかも知らなかったので、今回、あらためていろいろ知ってみるとこれがけっこうおもしろい。

 思うに、アートもそうだろうと。この前、僭越ながらここで紹介した拙訳書みたいな「つまらない詐欺もどきなんかにかんたんにひっかからないために身につけるべき思考法」を教える本なども多読してももちろんいいのですが、それだけじゃ片手落ちだろうと。いますぐには収入に結びつくわけでもなく、役に立つわけでもないであろうアートこそ、じつは必要だったりすると思う。

 ただし、何度かここでも触れてきたように、アイルランドの小説家ジェイムズ・ジョイスが定義したように、世の中にアート、芸術と呼ばれているものには2種類ある。ひとつは「教訓的芸術」、もうひとつは「エピファニーをもたらす芸術」。前者のことをジョイスは「ポルノグラフィー」とも言っている。こんなこと書くと、アーティストには「おまえはなにもわかっちゃいねぇ」と反発してくる人もいるでしょうが、いいえ、そうなんです。これはハッキリ言える。「教訓的芸術」というのは、ひとことで言えば「イデオロギーや正義を一方的に押しつけてくるもの」。この手の作品は、一見、とてもわかりやすい。だからウケはいい。この「わかりやすさ」がじつはクセ者でして、なぜパウロが伝道したイエスの教えが地中海世界を席巻したのかというと、ひとえに「わかりやすかった」から。「信じる者は救われる、そうでない者は……」と、このわかりやすさと断言があらたな信者獲得に貢献し、ついには地中海地域の多くの神々を追放するまでに力をつけた。この点はイスラム教もほぼおんなじで、「砂漠の一神教」の特徴でもあるし、また姿かたちは違えど、旧ソ連型共産主義なんかも似たようなもの。いずれのシステムも共通項は「自分たちが正義で、それ以外は悪魔」的な「単純でわかりやすい線引き」です。米国に多い福音派なんかもっとヒドくて、そういう人たちがトランプという「怪物」を生み出したと言っていい(イエス自身がいまの組織宗教としてのキリスト教を見たら、「ワタシはこんな教えを広めろなんて言ってない!」と嘆いたかもしれないが)。

 話もどりまして、ジョイスによれば、ほんとうのアートは「エピファニー」をもたらしてくれるもののほう。でもそれはなにも高尚なゲイジュツに触れろとかそんな意味じゃない。名優の高倉健さんが生前語っていた、「人生には“アッ”と思う瞬間がある」ということを感じさせてくれるもの、目の前に突き付けてくれるものならなんだっていいんです。それがなにかのアニメ作品でも漫画作品でもいっこうにかまわない。「職業に貴賎なし」と言うけれども、アートにも貴賎はない。

 いま、仕事がヒマなときには 20 世紀初頭の英国を代表する小説家アーノルド・ベネット(1867ー1931)のエッセイの個人訳を進めているんですが(ナマけないよう、ここでも宣言)、その本にもつぎのようなおあつらえ向きな一文が出てきます。
……芸術の最大の目的のひとつは、精神を搔き乱すことにある。そしてこの「精神の搔き乱し」は、何事も理路整然と考えるタイプの人間が手に入れられる最高の愉楽のひとつである。しかし、この真実を会得できるようになるには、それこそ何度となくこの手の経験を繰り返すしか道はない。

 「精神に揺さぶり」をかけることこそアートの役割だと、ベネットもおんなじこと言っているなぁと、このくだりに来たとき思わずひとりごちたしだい。日本で言えば、岡本太郎さんですね。「ナンダコレハ?」というものしかアートと認めなかった真のアーティスト。『フィネガンズ・ウェイク』なんかはきょくたんな例でしょうが、自分が消化できる=理解できるものしか読まず・見ず・聞かずの「三猿」では、それこそ「反ワクチン陰謀論」のごとく、明らかに fake なのに自分にとって都合のよい truth だけをアタマから信じ込むという笑えない悲劇を生む。かつてのナチズムはそういう「大衆の心理」につけこんだ。

 もう一度繰り返すけれども、上に書いたように「ナントカ思考法の本」をたくさん読むのは悪いことじゃありません。なんも読まず、のほほんとゲームばっかやってるよりはマシかと(いつ死ぬかわからないのになんともったいない時間の使い方、とお節介ながら思ってしまう。そういう方にはおなじくベネットの超がつくほど有名なエッセイ『自分の時間』をおススメする)。ただし、それはあくまでも「理性(reason)」レベルでの話。あいにく人間はアタマではわかっていても、思考回路そのものに潜む各種のバイアス(ダニエル・カーネマンらの用語で言う「ヒューリスティックス」)が何重にもかかっていて、必ずしも正しい判断を下せるわけではないし(たとえば非常事態のとき。いまだってそうでしょ? ご自身の周囲を見れば、ワケのわからないことしている輩は必ずいる)。それとはべつのレベル、もっと深い深層心理レベルでは、これはもうリクツ云々の次元ではとても「精神の平衡」は保てない。その日の糧さえ得られればそれでよしというレベルでは解決しえない。もし精神的にどん底にまで突き落とされたとき、「教訓的芸術」なんぞで果たして心が軽くなったり、なにかを悟ってふたたび生きよう、などと思えるものでしょうか? イマドキのアーティストにも、このへんわかってない人がけっこういる。『チップス先生さようなら』でも読みなさい。

 「自分にとっての“聖地”を持つこと。それは他人が見向きもしないような陳腐な音楽のレコードでもいいし、本を読むことでもいい」と、かつて比較神話学者のジョー・キャンベルは言った。そのキッカケになるようなアートなら、それはアートの本分を果たしていると言えると思う。

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2021年07月01日

「批判的に」考えることの大切さ

 日ごろ、翻訳の仕事でお世話になりっぱなしの Google 先生。この画期的な検索ツールがなかったころは、いまとは比べものにならないほど翻訳の仕事はタイヘンだった(と思う。これは出版翻訳にかぎらず、およそ翻訳と名のつく分野はすべてそうでしょう)。しかし Google 日本語版(ワタシはまだ英語版しかなかったころからのヘビーユーザー)が出現してはや 20 年と少し。さていまの世の中見てみますと、ここにいる門外漢からしても明らかに考える力が劣化している人が増えてきている印象は拭えない。

 昨年秋、ひょんなきっかけでお声がけしていただき、巡り合ったのが、米国発祥の思考法のひとつの Critical Thinking。意味は文字どおり「批判的に考える」スキルのことです。で、これについて書かれた原書の日本語版が、不肖ワタシめの記念すべき初訳書となったのでありますが、もちろんそうすんなりと事が運ばないのが世の中というもので、いっとき出版じたいが頓挫しかけたりしたものの、先月の聖ブレンダンの祝日の前日、つまりブレンダン・イヴの日にぶじに刊行の運びと相成りました。

 この場をお借りしまして、お世話になった編プロの方々と監訳者の先生に厚く御礼を申し上げるしだいであります。で、監訳本というのはほんらい、ワタシみたいな門外漢ではなくて、監訳者の先生が説明すべきことですので、ホント言うと自分も名前を連ねているとはいえ、あんまりしゃしゃり出たくないんですね。でも先日書いたように、やっぱりひとこと、ここでも書いておこうと思った …… はよいが、いざとなると腰が引けて、気がついたらもう7月になっちゃった(苦笑)。

 といっても、この本はたんなるハウツーものではありません(だからそのように書かれた本を読みたい向きにはあまりおススメしないが …)。ではこの本の効用というか、なんのために書かれた本かというと、たとえばこちらのブログ記事のようなこととほぼ同じだと思う。すなわち、
●世の中のことをもっとよく知ること。
●考える力を磨き、自分を、そして自分とつながっている大切な人(家族など)を守ること。悪人どもにかんたんにダマされないようになること。
●バランスのとれたものの見方を身につけること、できればそれを「第二の天性」くらいまで高めること

以上の3点が大切だよ、ということを説いた本になります。この本ではそれぞれ、
○背景の知識を身につけること
○運用の能力を身につけること
○個人の特性となるよう努力すること
とあり、クリティカル・シンキング(以下、CT と略記)の3大要素として繰り返し出てきます。

 この本を書いた人は、おもに学校教育向けに CT 教材を開発したり、CT に関する著作や講演活動をしている教育研究家の先生。そのため、この本もおもに「幼稚園から高校まで(Kー12)の先生たち」の実践に役立つこと、たとえば「授業の現場でどうすれば生徒や学生の CT 運用能力を高められるか」とか、そういう内容が中心になってます。もちろん「序文」で著者が、「教室のなかでも個人でも、学びを実践されているすべての方」も想定して書いたと述べているように、「クリティカルに物事を考えるとはどういうことか」に関心がある読者なら読んで損はない、と思う。

 先日、見たこちらの番組。レイ・ブラッドベリの名著『華氏451度』の回でしたが、番組で案内役の先生がこんなことを述べておりました。
内省的に考えてから行動すること
米国生まれの思考法の CT は、まさにこれを磨くための思考訓練でもある。fake news 全盛時代のいま、ますます重要で必要とされている能力だと思う。

 CT の直接のベースになっているのが、米国の教育学の泰斗ジョン・デューイ(1859ー1952)の著書に登場する「反省的思考(Reflective Thinking、内省的思考とも)」と、プラグマティズム。さらにさかのぼると古代ギリシャの「三段論法」を含む論理学や修辞学にまで行き着くという。章立ては4つしかないから、そんなにタイヘンじゃないだろう、と仕事を引き受けたはよいが……それなりにタイヘンでした。版元から献本していただいた本を手にとったらこれでもしっかり 200 ページ以上ありますし。もっともどんな種類の翻訳だって、タイヘンじゃない仕事などひとつもあるわけないから、こればっかはなんとも言えないんですが。

 でも、けっこうしんどいことの連続だったのに、いざ終わると「また書籍翻訳に携わりたい」と思うから不思議と言えば不思議なもの。ヘタの横好きとかなんとか言われようが、やっぱり自分は翻訳という仕事が好きなんだと思います。もともと人前でしゃべるのが苦手で(悪気はないが、ホントのこと言って相手を怒らせるのが得意技。ただし影でコソコソ人様の悪口をたたいているような人は大嫌い。ようするに口が悪いんです)、紙に向かってペンを走らせる、あるいはテキストファイルをひたすら打ち込むのが性分にあっているほうなので、これからもしぶとく続けていく所存ではある(ピケティ本の翻訳者の先生いわく、「人力翻訳はせいぜいあと 10年くらいが関の山」らしいから、せめてその 10年はがんばりたいと思ってる)。

 ちなみにワタシの翻訳原稿料は「買い切り」ですでに受け取ってますので、今後、本訳書がいくら売れても当方には1円も入りませんので、「ステマ」がどうとか気にされてる読者の方も、どうぞ安心してお買い求めください。

 … そしてどんな本にもたいていは見つかるタイポのたぐいですが、じつはまことに残念ながら、訳者としては放っておけない誤植(p.47 の図版の誤字はワタシのせい。再校ゲラまでチェックしたのにどこ見てたんだろう…)と誤訳(念のため、これは当方のせいじゃないです。あんまり言いたくないが、再々校で勝手に手直しされた結果[このままでいいよってあれほど言ったのに…])がありますので、お買い求めになられた場合、お手数ながらこちらのリンクをご参照の上、しかるべく訂正して読み進めていただきたいと思います。m( _ _ )m 妄評多謝。

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2021年04月30日

巨匠アシモフの未来予測

 いつも行っている理髪店(創業 59 年目 !!)には、昭和 50 年代の古書とかも置いてあって、そのなかにはこれまた懐かしい「日本リーダーズダイジェスト」社が出していた事典ものもあります。その一冊、『世界不思議物語(Strange Stories, Amazing Facts 1979)』という大判本の巻末に当時の SF 界の巨匠アイザック・アシモフ(1920−1992)の「人類に未来はあるか」というインタビュー記事も収録されていて、ちょっと興味を惹かれて目を通してみた。

 インタビュアーはアシモフに、「予言者たちは、世界の終わりが来るともう何世紀も言い続けてきました。この地球に終わりが来るとして、それはどんな形でやってくると思いますか」という、あの当時の空気感を知るひとりとしては、ぶっちゃけアリガチな紋切り型っぽい質問から始めている(『ノストラダムスの大予言』シリーズ本なんかが売れまくってた時代。ちなみにスウェーデンの例の方はご存知ないだろうが、あの当時はいまとは逆に、「氷河期が来る !!」っていう予測本が売れていた時代でもある)。

 21 世紀に入ってもう 20 年代に突入してしまっているいまに生きている人間の眼であらためて読むと、さすがのアシモフもやや naïve だったかも、という箇所も散見されるけれども、そこは SF の重鎮だけあって炯眼ぶりはさすが、と思うことしきり。

 たとえば民間宇宙航空開発会社や EV 製造会社をいち早く立ち上げて期道に乗せているイーロン・マスク氏は、並行して「火星移住計画」みたいなことに大マジメに取り組んでいる。取り組んでいるのはけっこうなことながら、あいにくそれは解決策にはならんと一蹴する。
この太陽系内のほかの惑星を、人類の植民地にすることはできるでしょうか
 技術を使って大々的に改造しないかぎり、住めるようになる星は太陽系にはありません。改造の可能性があるのは、月はたしかにそうですが、あとは火星ぐらいでしょう。しかし、太陽が死ぬときにはみんな地球と同じ運命をたどるわけで、長期的にみた場合の解決にはならないわけです。

と答えて、「太陽が死ぬときまでに、われわれ人類がこの銀河系はもちろん、他の宇宙にも散らばって生きていくようになっていることは、ほぼたしかだと思います」と続けてます。

 そして話は「光速での宇宙旅行」や「地球がほかの惑星や流れ星と衝突する可能性」、「地球がほかの星から攻撃されたり滅ぼされたりする可能性」と、新型コロナのパンデミックにすっぽり覆われている 2021 年時点で見ちゃうとやっぱり naïve だなぁ、とひとりごちてしまうわけなんですが、そんなインタビュアーの軽薄さを見透かしてか、アシモフは「[その手の危機は]SF ではよく出てきますが、じっさいにはまず起こらないだろう」と述べて、「いますぐ手を打たなければ、この 30 年か 50 年以内に、人類は現在の文明を滅ぼしてしまう危険性がたぶんにあります。そういう方向に人類は突っ走っています」と警告する。こう切り返されてインタビュアーはなんと言ったか。「それはまたぶっそうな話ですね。しかもそんなに早い時期にですか」(!)
西暦 2009 年までには、地球の人口は 70 億から 80 億という数になりますが、食糧を現在の 2 倍も供給することなどできません。30 年か 50 年のうちには、地球の全人類が飢えることになるでしょう。
 しかも食べる物がじゅうぶんにないために、病気が増えます。世界的に不穏な状態に包まれるでしょう。……

 人類の歴史は、技術の進歩の歴史だったわけです。一時的に技術がおとろえた時代としては、いわゆる暗黒時代があります。人類は過去に何度も、そうした暗黒時代を経験していますが、いずれも特定の地域がそうなったわけで、人類全体の危機ではなかった。……

 しかしわれわれはやがては石油を使いつくしてしまい、石炭も採れるだけ採りつくしてしまい、地球の貴重な鉱物を掘りつくして世界じゅうにばらまいてしまい、環境が放射能をおびるようになるところも出てくるでしょう。しかも増え続ける人口をまかなうべく絶望的な努力をして食糧生産にはげみ、そのために地球の土壌を破壊してしまいます。……

 もちろん、人類は海洋から現在以上に、食糧を大量に取ることができるようになるでしょう。植物をタンパク源として、利用することもできるようになるでしょう。……

 またエネルギーについても、太陽エネルギーが人類の主要なエネルギー源になっていくでしょう。しかし、さきほどから言っているような最終的な危機をさけるためには、いますぐにでも画期的な進歩がなければ手おくれになってしまいます。


 そして、アシモフは最後にこう結んでます。
わたしたちが直面しているのは、全地球的な問題です。資源が減り続け、人口が増え続けていること、環境の汚染、そのほかみんなそうです。……

 過去にも、人類は何度も危機を乗り越えてきました。たとえば 14 世紀に黒死病が大流行したとき、人類のおそらく 3分の1 が死にました。しかし 3分の2 は生き延びたのです。衛生学の知識もなかった当時の人が、あのもうれつな伝染力を持った致命的な病気にも打ち勝って生き延びたのです。……

 人口問題を解決することができたら、21 世紀はすばらしい時代になるでしょう。それは量よりも質の時代であり、知識よりも知恵と洗練さが支配する時代であり、新しい技術と文明が打ち立てられることでしょう。そして人類の未来は輝かしいものになると思います。

 最後はなんだか一縷の望みが持てそうなことをおっしゃっていて、40 年以上も前にここまで言えた人って向こうのインテリでもそうはいなかったんじゃないかな。その数少ない例外のひとりは、やはりジョーゼフ・キャンベルだろうと思う。

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2020年08月23日

もうすぐ絶滅するという紙の新聞について

 COVID-19 パンデミックが全球的に覆い尽くすなか、今年も広島・長崎の原爆忌、終戦記念日が過ぎ、そして旧盆期間も過ぎてゆきました(NHK の自称5歳児の番組でも取り上げられたことがあるけど、「お盆」の正式名はサンスクリットを音写した「盂蘭盆会[うらぼんえ]」)。

 信長じゃないけどすでに「人間五十年」生きちゃった端くれとして思うこと。それは最近の人のダマされやすさについて。なんでこう、なんとかホイホイよろしく引き寄せられちゃうのかって感じ。往年の「ナイジェリアの手紙」の進化系? みたいなチェーンメール詐欺に国際結婚詐欺なんかもそう。その原因を成していると思われる最たるものがやはりソーシャルディスタンス、ではなくてソーシャルメディアだと思う。SNS 中毒の増加とともに年々、右肩上がりしているような印象を個人的には受けてしかたない。

 ここ最近のブロゴスフィアも似たかよったか。以前は──あくまで個人の意見──読んでためになる、というか、おもしろい読み物が多かった気がする。それがいまじゃ Wordpress だかなんだか知りませんが、たいしたこと書いてないのに「目次」を設けてやたらとリーダビリティ、もっと言えば SEO 対策ばかり抜かりのないブログのフリしたフログ(flog、fake + blog のカバン語)ばかりが目立ち、しかもそれがバカみたいに安い単価でアカの他人に書かせて自分は運営してるだけという、長年、せっせとこんなんですけど書いてきた人間からしたらまったく信じがたい、「ブロ〜グよ、おまえもか!」っていうじつに悲惨なことになってます。そういうのって「なんとかハック」とか読み手を惹きつけて小遣い稼ぎしてるんでしょうが、文章の書き方を見ればいかにも、なマニュアルどおりの通り一遍、「…… いかがでしたか? よろしかったら拡散お願い♪」みたいに締め括られて、総じてツマラナイ。はっきり言って時間のムダ。

 だまされやすさ、ということではもうひとつ重要な点があるように思う。それは紙媒体の新聞の凋落と軌を一にしている、ということ。以前も似たようなこと書いたかもしれませんけど、ネットニュースなんていくらリーダーアプリがいくつもあったところで、海外のメディア媒体のようなアーカイヴ記事などほとんどなく、調べたければ図書館行って「日経テレコン」でも見ないと出てこなかったりする。その点、欧米の媒体が運営する新聞の電子版ははるかに品揃えが充実している。電子書籍もそうだけど、いくら Retina ディスプレイだの高精細有機 LED だのといっても、光る画面上の活字を追うのと紙媒体の書籍や新聞の活字を追うのとではアタマへの入り方がやはりちがうし、紙のほうがはるかに読みやすく、目にもやさしい。このへんのことを科学的に研究した論文かなにかがあったら、ぜひご教示願いたいところ。

 もっとも紙の新聞とて人間の手になるもの、そりゃたまにはタイポもあれば訂正もある。論説コラムなんかもそうで、この評者、いいかげん交代してくんないかなとかありますよ(地元紙の例だと、今年1月 14 日付の論説文に、さもご自身で読まれた洋書の抜粋を得々と引用していた先生がおられたが、あれとまったくおんなじ文面をネットで見たことがある)。

 自己啓発ものの元祖とも言えそうな古典的名著『自分の時間──1日 24 時間でどう生きるか』で有名な英国の小説家アーノルド・ベネットは、ものを考えない人間の典型例として「毎朝、新聞を広げてからでないと意見が言えないような人」を挙げてはいるけれども、そんなベネットだって新聞をまったく読んでなかったわけじゃないので(おなじことはショーペンハウアーの『読書について』にもあてはまる)、ここでも紙媒体の新聞の効用、とりわけ「情報の一覧性」というすばらしい特徴があるという点は強調しておきたい。

 というわけで、終わりはここ数か月で地元紙を眺めて印象的だった文章をランダムに引用しておきます。アマチュアでさえない門外漢がしゃしゃりでてさらに物事を混乱させるなんでもありの玉石混交がまかりとおるいま、記者が足で稼いで書いた紙の新聞の「一覧性」は、まだまだ捨てたもんじゃないと思う(以下、いつものように下線強調は引用者。以前、訳出した海外記事に、'The new hero of journalism was no longer a grizzled investigator burning shoe leather, à la All the President’s Men' という一文があって、こんな言い回しがあるのかと思った。あいにくせっかくひねりだしたここの訳は、端折られてしまったが)。
… さまざまな知恵や意見を得て、納得や反論をしながら自分のフィルターにかけて、己の血肉にするのが学ぶということ。ただ読んで聞いて対応する勉強は、試験が終われば必要ない。その場しのぎの知識にすぎないよ。──絵本作家の五味太郎氏、「教育シンカ論・コロナから問う」から

... 英語の成績がいいのは本人が好きで努力したからであり、別に「頭がいい」とは関係ない。社会に出て、周囲を見渡せば、英語は日常会話でペラペラ話せても、中身のないことしか言えない「頭の悪い」人はいっぱいいる。中身がなければ外国人はもちろん、日本人からも信頼も尊敬もされはしない。──勝又美智雄氏、「日本人の深い病 … 英語コンプレックス」から

「 … 普通の人は家族、社会、宗教などの『大義』と折り合いをつけ、代わりに安心を得る。[ボブ・]ディランはそれを拒み、本当に属すべきものを探してさまよい孤独になった。それでもなお、孤独な者として前に進むんだと歌っている」──「混迷の世 響くディランの言葉」から作家・翻訳家の西崎憲氏の発言から

… さまざまな技術革新によって、大量の生産を行い、地球表面を改変し、他の生物を絶滅させ、人口を増やしてきた。…… 以前はなかった野生生物と人間との接触も増えた。
 そこで、他の動物を宿主としていたウイルスがヒトに感染する機会が増える。今回の新型コロナウイルスもそうだが、そのようなウイルスによる、数千人、数万人の規模での爆発的な感染は、20世紀以降に起こったのである。──長谷川眞理子氏、「現論:温暖化、絶滅、ウイルス」から[ ⇒ 参考リンク

毎日のマスク着用やアルコール消毒を徹底している私たち。そんな中、県外に出歩く人や飲食店に通う人などが多くいる。新型コロナウイルスまん延の今、もう一度危機感を持った方がいいと思う。
…… コロナの流行から数カ月、私たちはコロナのある日常に慣れつつある。でももう一度、危機感を持つべきだと思う。──「ひろば10代」、中学生読者の投稿から

…… 源流である南アルプスの下にトンネルを通して走らせるリニア中央新幹線は、私たちの未来に本当に必要なのか。新型コロナウイルスで世界の経済が減速し、暮らしも大きな変化に直面している今、「豊かさとは何か」を考えてみる時ではないか。…… 想定外を想定することを求めたい。失ったら自然も水も元には戻らないし、30年の補償金で済むことではないと私は思う。──「ひろば」、84 歳の読者の投稿から


 最後のリニア問題について。ネット民のみなさんはどうも「静岡県が意図的に開業を遅らせている!」と息巻いている向きが多く、われわれ県民ははっきりいって不当に貶められている感もなくなくはないが、かつての国鉄が丹那トンネル工事を行った結果、どうなったかを調べてごらんなさい。またこれは科学的に立証されてはいないものの、トンネル工事で大量に湧出した地下水と北伊豆地震とは関係がないわけではなく、工事によって引き起こされた可能性もゼロではないことも申し添えておく。南アルプスは伊豆半島が押しつづけて盛り上がった巨大な「付加体」で、かつての海底堆積層がほぼ垂直にそそり立っている(だけでなく、折れ曲がったりと屈曲も激しいし、近くには糸魚川−静岡構造線も走っている)。「日本一、崩れやすい」とも言われ(安倍川源頭部には日本三大崩れのひとつ、大谷崩もある)、活断層だらけのグズグズな破砕帯だらけなのは言うまでもなく、こんな場所の地下深くを無理やり掘削したら …… と思うとこの猛烈な酷暑でも背筋が寒くなる。

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2020年04月30日

感覚のズレの話

 先日、ここでもすこし触れたことですけれども、なんかここんところのハラリ氏、eagerly sought after ですね。ついに(?)Eテレでも対談がノーカットで放映されたり(じつはその前にもジャック・アタリなどほかのインテレクチュアルズとの「テレビ会議」方式のインタヴューとして放映されてはいたが)、いちやく「時の人」という感じです(こちとらはあいも変わらずだがそれは置いといて)。

 翻訳、ということではそうそう、全著作の日本語版の版権を持ってる版元さんから本家本元の全訳が出たので、お読みになった方もかなりおられると思う。あいにく拙訳版は、後半が有料記事扱い(契約先がそういう方針だから、これはしかたのないこと)だったから、あまり人目に触れずに( ?? )「なんだこの訳は ?! 」とお叱りを受けることもなかったんですけど、もちろん自分の勉強のため、こういう機会もめったにないから、時間があるときにじっくり突き合わせて検討はします。もっともっと、うまくなりたいからね。翻訳は 100 人いれば 100 通りの翻訳ができるものとはいえ、中田耕治先生の警句にもあるように、「世の中には、よい翻訳と悪い翻訳のふたつしかない」というのもまた真、なわけでして、つねに肝に銘じてはいる。

 前置きはこれくらいにして、放映された対談の率直な感想としては、おっしゃっていることはほぼ正しい、とは思う。ご丁寧に自分が訳した原文まで大写しにされ、「NHK 訳」も添えられていた。この対談はどうも Financial Timesの「緊急寄稿」コラム(そういえば日経からも抄訳版が出たとき、版権の扱いはどうなってんだろ、って書いたが、FT は日経の子会社だったことをすっかり失念していた)をベースに話が進んでいるようだったので、ようするにその文章を読んだ人間にとってはとくに目新しくもなんともなかった、というのが偽らざるところ。また、原文を読んだときにも感じていたのだが、「新型コロナ禍に乗じて独裁が正当化される恐れがある」とか、「個人情報を警察などの治安維持組織に渡すな」とか、「このパンデミックを乗り越えるには世界的な連携と連帯が必要不可欠、そうならなければ悲惨な結末が待っている」とか、はっきり言って常識的に考えればしごく当たり前なことしか書かれてないんである。当たり前だけども、いまの米政権なんか見れば、これがなかなかね! 言うは易く …… ってやつでして。だからアフター・コロナの世界のあり方の考察、という点では、たしかに説得力はある。

 それから'empowerment' も、重要キーワードなのでテレビ番組にももちろん出てきたけれども、市民 / 個人に「力を与える」というのは、狭義の「権利拡張 / 権限拡大」ってことじゃないずら! だからない知恵さんざ絞ったけれども訳しあぐねて、しぶしぶカタカナ語のままで通した。カタカナ語だけれども、コンテクストからわかるかなん、と思ったもので。対談でも、「ひとりひとりの負うべき責任」について明言してましたし。

 でもなんかこう、個人的にはモヤモヤがとれない …… いっときはやった「いつやるの? いまでしょ!」じゃないけれども、「ええっ! アフター・コロナの世界はどうあるべきか、ですって(『くまのパディントン』主人公のクマくんふうに) ?! それっていま言うこと ?? 」みたいな自分がいる。主張はごもっとも。「プディング令」の話なんか聞かされればね。でもたとえば、
戦争と考えるべきではありません。まちがったメタファーです。重要なのは人のケアをすることで殺し合いではありません。いかなる人も敵とみなすべきではない。戦争や戦い、勝利といったたとえは使うべきではない。
COVID-19 震源地になったとなりの大国ははやくも「勝利宣言」みたいなことをさかんに喧伝しているから、そこはまったく同感なんですが、「致死率はインフルエンザ以上」、「無症状感染者が知らずにうつしている」、「基礎疾患のない人でも一部は短期間で重篤化」、そしてなんといってもその最前線に立たされている医療従事者にとっては戦争以外のなにものでもなく、この新型ウイルス株の持つ恐ろしさを考えれば、あながち「誤ったメタファー」とは言えないんじゃないでしょうか。それにこの危機、まだ始まったばっかだよ。それよりも先日の地元紙に元静岡県危機管理監が寄稿した、
誰かの指示で避難するのではなく、自ら命を守るためには自らの意思で行動できる国民であることが求められている。自然災害と同様に今回の感染拡大に対しても、誰かの指示を待ち日常の延長からずるずる対応するのではなく、自らの意思で日常から非日常にスイッチを切り替えることができるかにかかっている
のほうが、自分としてはよっぽどストンと腑に落ちるんですわ(下線強調はいつものように引用者、以下同)。ハラリ氏の「監視政治体制を構築する代わりに、科学と公的機関とマスメディアに対する人々の信頼を復活させる時間はまだ残っている」という一節も、いまの日本と日本人はどうなんでしょ …… ってつい思ってしまう。福島の原発事故のときもそうだったけれども、国内の専門家もアテにならないし、せっかくストックしてある備品もけっきょく使われることなくホコリかぶったままになっていたとか、そんな話ばっかじゃないですか。そして、やめろと言われてもあいかわらず玉を弾いて遊ぶギャンブルに通い詰める市民たち。地元放送局のラジオパーソナリティーが、「タバコがあれば吸いますよ。この問題はタバコとおなじで、すべてなくすしか方法はない」とか言ってましたが、これはあきらかに「依存症」なんで、その病んだ精神状態を治療すればいいだけの話。こういう身勝手かつのほほんと惰眠を貪っているような手合いの「権限強化」をされたら、マトモに生きてるこっちが冷水を浴びせられる(ヤなこった)。

 けっきょく、ハラリ氏がもっとも恐れていることと、呼吸器の感染症に罹患して「昔の日本だったらキミはとっくに死んでた」とかかりつけの医師に言われた経験を持つワタシとでは感じ方がそもそもちがう、感覚がズレているだけなんだ、ということに思い至ったしだい。ハラリさんは警察国家にして世界有数のハイテク軍事技術の突出した監視国家のイスラエルに生まれ、いまもテルアヴィヴ に住んでいるから、そっちのほうがむしろ「重大事」だと感じているにちがいないから、こう訴えたかったんだな、と。でもいまのワタシにとっては、正論しか書いてないけれどもどこか虚ろに聞こえる歴史学者の発言よりも、むしろこちらの文章 ↓ のほうがビンビン心に響いてくるのであります。
…… ボタン一つ押せば答えが出てくる、面倒なことは専門家が何とかしてくれるという期待はここでは成り立たない。一人一人が責任を持ち、手を洗いなさいというわけである。…… 最先端技術は、微小なウイルスがいつの間にか体内に入り込むことを防げないのだ。反対に、幼子にもできる手洗いによって自分の体は自分で守ることができ、しかもそれは周囲の人、さらに同世帯の人を守ることになるのである。自己責任などという薄っぺらな言葉で表せるものではない。私が生きていくこと、仲間たち皆が生きていくことが大事であり、そこに自分が参加しているのである。…… 私たちは、ウイルスが存在する自然と向き合って生きているのだ。自然とは、具体的には地球(グローブ)である。
 これまで「グローバル企業」などの用語で使われていた、権力と金の力で世界を支配するという意味のグローバルではない。一人一人が自分の役割を意識して行動することで地球とつながる。皆で同じ危機に向き合っているのだという認識から思いやりが生まれ、現在問題になっている弱者へのしわ寄せや深刻な格差を避ける社会が生まれる可能性がある

[中村桂子 / 2020年4月 22日付「静岡新聞」朝刊 20 面から抜粋。カンケイないけど、おなじ紙面に「社会的距離」について、「目安はパンダ1頭分」なんてあって、苦笑させられた。あいにくこちらが見たことあるのはジャイアントパンダじゃなくレッサーパンダのほうなんで、とんとイメージがつかめず。流行語大賞候補になりそうな social distancing、言い出しっぺはなんとウサイン・ボルト氏らしいが、これを「物理的距離」、physical distancing にすべしと言われはじめたから、近いうちにそうなるかも]

最後に、『21世紀の資本』のトマ・ピケティ氏の論考も参考までに引いときますね。アフター・コロナの世界がどう転ぶのか、についてはこちとら 12 ポイントくらいの特大ハテナマークしか持ち合わせていないけれども、はっきり言えるのは、「個人に力を与えること / エンパワメント」以前に、引用した生命誌研究者の方の寄稿文のように、「いますべきことは自分の生命を未知のウイルスから守り、自身を守ることで世界にいるみんなを救う」ことなんじゃないですかね。これなくしてアフター・コロナの世界は云々、なんて語れるわけもなく、それにハラリ氏だってけっきょくのところ、そういう市民にひとりひとりがなりなさいよ、と言っているわけで(「国民は、科学的な事実を伝えられているとき、そして、公的機関がそうした事実を伝えてくれていると信頼しているとき、ビッグ・ブラザーに見張られていなくてもなお、正しい行動を取ることができる。自発的で情報に通じている国民は、厳しい規制を受けている無知な国民よりも、たいてい格段に強力で効果的だ」など)、矛盾もない。

 Eテレの番組の最後、夜の橋を通過する映像が流れていたけれども、そこに "Save Lives #FLATTENTHECURVE" という電光掲示板の文字が映し出されていたのがなんか印象的でしたね。

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2020年03月30日

ハラリ氏の FT 寄稿コラムについて

 けさ、コメディアンの志村けんさんの訃報に接して──みなさんそうでしょうけど──病歴や年齢、ヘビースモーカーでもあったことを思って案じてはいたんですけど、やはりショックを受けています。「オレみたいになるなよ! みんなはだいじょうぶかぁ〜〜 !!」と、身をもって警告しているのかもしれません。合掌。

 … 警告、ということでは先週、大急ぎでと言われて渡されたのが、こちらの原文記事。寄稿した先生は、世界的ベストセラーにもなった労作を世に問うたイスラエル人歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏。原文は見てのとおりきわめてやさしく書かれていて、とりわけ新聞とか目を通さないであろう若い人にも読んでほしくてこれ書いたのかな、と思うほど論旨明快、主張されていることもしごくまっとうで、不遜にもこれはぜひワタシがやらねば、という意気込みのままいっきに訳出した、という感じで作業を進めました(英語の先生らしい方の、高校生のみんなもぜひ読んでみて、という趣旨のツイートも見かけました。ワタシもまた、英語の得意な生徒さんは学校もお休みだろうから、ヒマ持て余してるくらいならハラリ氏の原文をじっくり読まれることをつ・よ・くオススメしたい。アドヴァイスとしては、いわゆる「一語対一語」ではなくて、あくまで前後関係、むずかしく言うと「コンテクスト」で文意は決まるので、パラグラフ・リーディングというのを意識して読んでみてください。何度か目を通しているうちに、「そうか、わかった!!」っていう瞬間が来るでしょう。で、「ハラリ先生の英文がオラにも読めた!!」ってなればしめたもの。あとは興味の赴くまま、ペーパーバックでもなんでもいいからとにかくいっぱい読んでみることを、そのつぎにオススメしておきます)。

 で、新年早々、まだ COVID-19 が話題にものぼらず、よもやこんなパニック・恐慌状態に全世界を陥れようとはつゆほども思ってなかったころに海外逃亡した例の方の原文6千ワード超の記事をせっつかれて訳していたときの記事でも書いたように、やはりこちらもヤフトピさんに取り上げていただいた。それはよかったんですけど、レバノンに逃れた人の記事以上のものすごいコメント量にこんどは圧倒されて、あらためて翻訳という仕事の責任の重さを痛感したしだいです(もっともっとがんばらないと …)。

 それで、こんなこと告白するとあんまりカッコよくないんですけど、原文には突拍子もない比喩もなければシェイクスピアや聖書の引用もなくて(なんたってイスラエルの人ですし)、たしかに平易に書かれてあるとはいえ、訳語選定でもっともアタマを悩ませたのが、'empower/ empowerment'。コラム後半部でもっとも重要な主張のひとつであり、キーワード的なこの用語、いろいろ考えたんですけどなかなかすんなり・しっくりくる日本語に思い当たらず …… 編集サイドに迷惑がかかるかもと後ろ髪引かれる思いで、そのままカタカナ語表記でいくことにした。

 コメント欄見たらやはりそのことを指摘されていた読み手の方がいて、こちらはアタマ掻きつつ読ませていただいた。断っておきますけど IT 系やすでにカタカナ語化している外来語ではない、こなれていない横文字語はきょくりょく、日本語表記化するというのがいちおう、自分のスタイルなので、これは忸怩たる思いが残った。いまはやりの「民度[を向上させる、など]」というのもよぎったんですけど、民族主義的なかほりがイヤだったんで、ボツ。個人の力・権利・能力・リテラシー……ようするに、全体主義中央集権的「総監視国家、総監視社会」を選ぶのではなく、個々人の持てる力を底上げすべきだ、ということなんですけど……。なおこの点に関して、やや理想主義的かもと感じたりもしたが、主題が現下のパニックな状況をどうサヴァイヴするのか、というのではなく「その後の世界はいったいどう変わってしまうのか」、コロナ後に人類が生きる世界はどうあるべきかを考察しているので、「どっちを選ぶかと言われたらみなさんどっちをとる?」という流れで書かれているのだと(訳した本人は)解釈した。

 そのときは気づいていなかったが、この手の話題の書き手によるコラムが掲載されると案の定、腕に覚えのある方が率先して訳を起こし、公開していたことも拙訳記事公開後に知った。あいにく、「オフィシャルな邦訳が出たから」という理由でご自身の訳は引っこめてしまわれたみたいですが、版権の関係はたしかにあるけど、個人訳であっても前半だけなら大丈夫ではないでしょうか。前から繰り返して言っていることだけれども、翻訳っていうのは「100 人いれば 100 とおりの翻訳ができあがる」もの。いろんな人の、いろんな訳が読めるほうが数倍、楽しいと思うんですけどどうでしょうか(なお全体主義関連では、こちらの邦訳本もおススメします)。

 と、そんな折も折、NK 新聞が独自訳? をぶつけてきたらしい。出版翻訳の場合、「日本語翻訳権は版権を獲得した一社のみ」で、ほんらい他社からは出せないはずなんですけど、この手の洋新聞や洋雑誌の電子版記事や寄稿コラムのたぐいは権利関係の扱いがどうなってるのか、よくわかりません。こちらはただ、「つぎ、これ訳してね ♪ 」と言われて引きこもって黙々と訳を起こして〆切日までに納品する、というのが仕事なんで。

 先方に怒られるかもしれないけど、ハラリ氏の寄稿コラムの冒頭部のみ、拙訳版と NK 版訳とを並べておきます。冒頭部のみなのは、サブスク契約会員限定記事のため(拙訳版は、ヤフトピさんの転載記事をそのまま引いてます)。
ハラリ氏の原文:Humankind is now facing a global crisis. Perhaps the biggest crisis of our generation. The decisions people and governments take in the next few weeks will probably shape the world for years to come. They will shape not just our healthcare systems but also our economy, politics and culture. We must act quickly and decisively. We should also take into account the long-term consequences of our actions. When choosing between alternatives, we should ask ourselves not only how to overcome the immediate threat, but also what kind of world we will inhabit once the storm passes. Yes, the storm will pass, humankind will survive, most of us will still be alive − but we will inhabit a different world.

拙訳:現在、人類は世界的な危機に直面している。我々の世代が経験する最大級の危機だろう。
この先の数週間、人々や政府の下した決断が、今後の世界のあり方を決定づけるかもしれない。その影響は医療制度にとどまらず、政治、経済、文化にも波及するだろう。決断は迅速かつ果敢に下されなければならないが、同時にその結果として生じる長期的影響も、考慮すべきである。
どんな道を選択するにせよ、まずもって自問すべきは、直近の危機の克服だけでなく、この嵐が過ぎ去った後に我々の住む世界はどうなるのかということだ。……

NK 訳:人類はいま、世界的な危機に直面している。おそらく私たちの世代で最大の危機だ。私たちや各国政府が今後数週間でどんな判断を下すかが、今後数年間の世界を形作ることになる。その判断が、医療体制だけでなく、政治や経済、文化をも変えていくことになるということだ。……

 …そしてハラリ氏の名コラムとはまるでカンケイないことながら、同氏の全著作を訳しおろした先生は個人的に存じ上げている。はじめてそのお姿を拝見したのは、たしか翻訳関係の授賞式だったような(記憶があやふやで申し訳なし)。……あれからウン十年、憧れの先達と、それもまったくおなじ原著者の手になる寄稿コラムをよもやこんなかたちで訳す巡りあわせになろうとは。翻訳、とくに文芸ものの翻訳ってたしかにおカネにはあまりならない、日陰仕事ではあるかもしれない(もしワタシが特許関係の翻訳の資格を持っていたら、まちがいなくおカネになるのはそっちなので、そっちをメインにやっていたかもしれない)。でも、ヘタのなんとかではないけど、なんでいままでつづけてこられたか。それは μ's の矢澤にこじゃないけど、「翻訳が大好きだから」。だから、いま将来に見通しが立たなくて絶望している若い方に対して、前にも書いたことながらおなじことをふたたび言いたい ── こんなこと言うとまたしても怒られそうだけど、ワタシだっていつ斃れるか知れた身ではないから、いまのうちに ── 生きていれば、きっといいこともありますよ。だから、とにかく生きてください。

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2019年11月11日

比較神話学者キャンベルの絶筆について

 毎週更新、と言っておきながら早くも公約違反 … orz フリーの身なんでいつ仕事が来るかは予測不能、予定は未定、なしがない門外漢のこと、そこは生暖かい目で見逃してくださいませ。

 と、前置きしているあいだ(?)にも、ついにみんなの大好きな Halloween はとうに過ぎ、そして「日本晴れ」のなかすばらしい祝賀御列の儀のパレードもぶじ終わって(まったく関係ない感想ながら、この前買い替えたばかりの 4K TV に国立国会図書館前の通りが大写しにされたとき、個人的にはすごく懐かしく感じた。何度もおなじこと言って申し訳ないけど、あのころはネットもなにもなかった時代。いまこうしてフツーにググって調べ物して仕事もらってる人間としては、いったいどうやって訳文をひねり出してたんだろっていささか信じられない気分にもなってくる)、ではあるけれど、先月 30 日は米国の比較神話学者ジョーゼフ・キャンベルの命日(1987 年没)ということもあり、ひさしぶりにキャンベルのことについて書きます。

 キャンベルの「遺作」は、ジャーナリストのビル・モイヤーズとの対談を収録した『神話の力』ということになってますが、本人が書いたほんとうに最後の著作は Historical Atlas of World Mythology という大部の巻本もの。文字どおりの「白鳥の歌」で、当初計画されていた4巻本のうち、キャンベル自身が書き終えたのは最初の巻のみ。みまかるその当日も原稿を執筆していたという2巻目は、親友の編集者の手によって補筆完成というかたちで日の目を見た。ちなみにその編集者がキャンベルの未亡人ジーン・アードマンとともに設立したのが、いまのキャンベル財団(JCF)。

 で、著作についてはたしかに上記の本がキャンベルの絶筆なんですが、印刷された最後の文章、というのがべつにあります。それが、リトアニア出身の米国人女性考古学者マリヤ・ギンブタスの著した、The Language of the Goddess: Unearthing the Hidden Symbols of Western Civilization という研究書に寄せた「まえがき」。

 この絶筆となった「まえがき」なんですけど、じつは JCF から刊行されているキャンベル本シリーズの一冊 Goddesses の巻末付録として収録されてまして、昨年、勝手に試訳をつけたままずっと仕事用 PC のデスクトップ上に放置してました。仕事や雑事にかまけているうち、やっぱりここでも紹介したいずら、と思いまして、書籍の一部引用にしては長いのでクレームがくる可能性もありますが、書いてある内容はやはりすばらしいと考えるので、僭越ながら全文を転記しておくしだい[JCFからなにか言われたら即、引っこめます。あとする人はいないと思うが、二重引用は厳禁]。
 ジャン=フランソワ・シャンポリオンは 150 年前、ロゼッタストーン解読作業を通じたヒエログリフ(神聖文字)の用語法の確立によって、紀元前 3200 年前からプトレマイオス朝時代にいたるエジプト宗教思想というすばらしい大宝典の解明の糸口を開いた。シャンポリオンとおなじくマリヤ・ギンブタスも、紀元前 7000 年から前 3500 年にかけてのヨーロッパ最古の新石器時代村落跡から出土した二千点あまりの象徴的遺物の収集、分類、特徴の解釈といった作業を通じて、絵画的モティーフという基本語彙を、それ以外の方法では記録されえなかった時代の神話を解く鍵として提供することに成功している。それだけではない。ギンブタスはまた、それら表象の解釈にもとづき、当時崇拝されていた宗教の主要思想と主題の確立にも成功した。彼女の解釈によれば、それは母たる創造の女神の生ける体としての宇宙であり、女神に宿る神性の一部としての生きとし生けるものすべてである。ここでただちに想起されるのが、新石器時代ヨーロッパにおける「宗教」とは、「創世記」第3章19節に出てくる「父たる創造主」とは対照的だ、ということだ。アダムはその父たる創造主に言われる。「おまえは顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。おまえがそこから取られた土に。塵にすぎないおまえは塵に返る」。ところが「創世記」よりさらに古いこのヨーロッパの神話では、全被造物が生み出された大地はたんなる「塵」ではなく「生きて」おり、母たる女神の創造主と同格なのだ。

 ヨーロッパ学文献の図書館において、ヨーロッパ地域と近東で形成された歴史形態に先立ち、また基盤でもある前述のような母権制時代の思想と生活について最初に言及した著作が、1861年に出版されたヨハン・ヤコブ・バッハオーフェンの『母権制』である。彼はその著作で、古代ローマ法に母系相続法の痕跡が残存していることを示した。またバッハオーフェンの著作の10年前にアメリカで、ルイス・H・モーガンが『ホ・デ・ノ・ショ・ニー連邦、またはイロクォイの諸部族』を刊行している。この二部の調査報告で彼は「母権制」原理がいまなお生きている部族社会を確認し、その後のアメリカ・アジア大陸全域の親族制度の系統的調査によって、父権制支配以前にこのような母権制原理の集団生活がほぼ世界全域に分布していたことを実証した。1871年ごろにバッハオーフェンがモーガン研究と自身の研究との関連性を認めたことが突破口となり、ヨーロッパ地域に特有のものと理解されていたこの社会学的現象は、じつは地球上の広い地域に広がっていたという認識が生まれた。同様にマリヤ・ギンブタスが再構築した<女神の言語>により、その歴史的重要性は紀元前7000年から3500年にかけての大西洋からドニエプルまでの古代ヨーロッパ世界に限定されない、ひじょうに広範な地域におよぶことが認識されるようになるだろう。

 さらに、このような母権制はインド−ヨーロッパ語族系の牧畜部族に見られる神話群とも対照的である。インド−ヨーロッパ語族系諸部族は紀元前 4000 年以後、古代ヨーロッパ諸地域を波状的に侵略し、侵略された土地では彼らの社会的理想や法、彼らの属する部族の政治的目的の反映たる男性上位の神々へと取って代わられた。それに対して大地母神は大自然の法則の反映と尊重の表れとして生まれたものだ。ギンブタスに言わせれば、万物の驚異やその美しさの理解と共生をめざした人間側の原初の試みと言えるのが彼らの残した絵画的表象群であり、有史以後、西洋で優勢になる人為的に歪められたシステムとは元型シンボル的に見て、あらゆる点において対極にある人間の生き方の輪郭を描くものなのだ。

 ちょうど世紀の変わり目にさしかかっているこの時期に本書が世に出たことと、意識の全般的変革の必要性がひろく認識されていることには明らかな関連がある、との思いを禁じ得ない。本書のメッセージは、有史以前の四千数百年のあいだ、自然の創造的エネルギーと調和し、平和に暮らしていた時代が現実に存在していた、ということである。その後につづいたのは、ジェイムズ・ジョイスの言う「悪夢[『ユリシーズ』のスティーヴン・ディーダラスの発言]」の時代、部族間や国家間の利害の衝突といった悪夢の五千年だったが、この惑星は目覚めのときをいま、確実に迎えつつある。──© 2013 Joseph Campbell Foundation

… 繰り返しになるが、この絶筆の「まえがき」が書かれたのは 1987 年。ベルリンの壁崩壊は、その2年後のことでした。とくに最終パラグラフの文章は書かれて 32 年が経過しているいまなお、これを読む者の胸にひしひしと響いてくるものがあります。昨今の情勢を見るにつけ、キャンベルの残した「遺言」はとても重い。

 なお、この拙訳についてもコメントしたいので、それは次回に書く予定 … あくまでも予定 … 。

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2019年10月22日

台風が去って思ったこと

 まず、先般のとんでもない台風の大水害および竜巻の被害に遭われた方々に心よりお見舞い申し上げます。ワタシはからくもぶじでしたが ── いくら納期の短い仕事とはいえ、刻々、更新される台風情報を見ながらもせっせと訳出に励んでいた人 ── ウチだって低地ゆえ、いつ被災してもおかしくない。まずは市町村ごとに検索可能な「ハザードマップ」を日ごろから気にしておくことですね。あとできれば「昔から伝わる地名」とかも気にしたほうがいいと思います。んなこと言ったら住むとこなくなっちゃう、とお叱りを受けるのはもっともではありますが、家を建ててからでは … って思いませんか。今回の風水害のものすごさを見て、以前は冗談半分に考えていた、「ハウスボート」というのをちょっと serious に考えはじめています … (たとえば運河の街、アムステルダムにはこの手のハウスボートな家がけっこうあるようです)。もっとも日本の場合関係法令の改正云々 … もあるけど、津波とか火災とか、いろいろと考えなければならない要素があるとは思う。でも自然災害のたびに壊されたんじゃかなわない。ハウスボートなら液状化とかあんまり心配いらない … ような気はする。門外漢の意見にすぎないが。

 前々回の記事では、せっかくのスピーチも「モノは言いよう」で逆効果極まれりではないの? と率直に思うところを書いたんですけど、昔の人ってたとえば日本では「ことだま(言霊)」を信じ、地球の反対側のアイルランドにいたケルト人たちも、「ことばの矢」がほんとうに人間を殺すと信じていたようです。なので、言わんとするところはわかるが、それじゃ通じないずら、ということが言いたかったんです。仲間内で話すんならともかく公の場ですし、ことばの「重さ」というものをもうすこし考えほしい。マララさんのときとは正反対です。

 で、人間のことばって口語体、英語で言えば colloquial ですけど、そういうタメ口ってぽい言い方から、formal な、書きことばにしてもおかしくないような「格調高さ」が求められたりします。英語だってそう。で、たとえば、
Let's work out a good deal! You don't want to be responsible for slaughtering thousands of people, and I don't want to be responsible for destroying the Turkish economy and I will. ...
なんてのを、米国の大統領閣下からちょうだいした「親書」に書かれてあったとしたら、さて相手はどう思うでしょうか ??? ま、相手もさるもの、親書をそのままデスクトップ上ならぬ、ホンモノの「ごみ箱」にポイしちゃったらしい。さすがは Twitter 大好き大統領のなせる業か(「よい取引しようじゃないか」ってのっけからこのノリですわ。そりゃ気分を害されてもしかたない。またこちらのブログでは「吹き出した」ってありますけど、ムリもない。そういえばワタシが小学生のころ大統領だったジミー・カーター氏。お元気そうでなによりですが、「アンタは Twitter で遊んでるヒマがあったら、ちっとは米国民のほうを向いて職務に邁進せんかい !!」というのは、まこと正論というほかなし)? *

 そんな折も折、「近代人にあっては、自由も思考能力も低下してしまっている」、「不自由のつぎに過労がある。三、四世代以来、ひじょうに多くの人びとがもはや働く人としてだけ生きていて、人間としては生きていない」、「精神の集中していない人びとの社会が生み出した精神は、わたしたちのなかにはいりこんで、絶え間なく大きな力になりつつある。わたしたちのあいだには、人間についての低い考えができあがり、他人にも自分にも、わたしたちはもはや働く人としての能力しか求めず、その能力がありさえしたら、それ以上はまずなんの能力がなくとも満足する」… これっていまのわれわれのこと? と思ったら、じつは 90 年以上も前に発表された文化哲学に関する論考『文化の退廃と再建(1923)』の抜粋。書いた人は「密林の聖者」と呼ばれた、あのシュヴァイツァー。

 だいぶ前、ここでもちょこっと「われらみなエピゴーネン?」みたいな記事を書いたことがあったから感想じたいはそっちに目を通していただくとして、先日、図書館でユング心理学関係の調べものしていたら、近くに懐かしい『シュヴァイツァー著作集』がボロボロになりながらも「こっちにもおいでよ」と手招きしていたのでフラフラ〜と吸い寄せられ、何年かぶりにまた借りたもの。ひさしぶりに読み返して(自分で書いといて、この論考の内容をほぼ忘れかけていた人)シュヴァイツァー博士ってたしかにスゴい人なんですが、たとえば博士の故郷アルザスとバッハとの関係に関する論考は、かなり偏った内容だとしてその筋では知られていたりする(知らない方もいるかと思いますから補足。シュヴァイツァーはもともと医者じゃなくて音楽家にしてプロテスタント神学者、とくにバッハのオルガン音楽に関しては玄人はだしだった人。その昔、白水社から『バッハ』上中下3巻という歴史的名著が出ていて、同社創業何十周年かの記念で一度だけ「復刊」されたこともある)。でもこの『文化の … 』はさすがと言うべきかその炯眼ぶりは、ほぼ同時期に刊行されたシュペングラーの大著『西洋の没落』にも負けてないかも … って思うほど(やはり以前取り上げたスペインの思想家オルテガの『大衆の反逆』は、シュペングラー批判の立場をとっている)。

 … 「晴耕雨読」とはいえ、今年ほど天候不順な 10 月は記憶にない。さわやかな秋風とほどほどにつよい陽光を楽しみつつ、「読書の秋」を楽しみたいとは思っている。いいかげん本の整理しないと部屋がヤバいのはわかってるけど、ついこの前もほしかったこの本が重版されたと知ってあわてて花丸ちゃん御用達の地元本屋に注文入れたりしているし、あいかわらず「積ん読」な本も転がってるので、そろそろ天候が安定してほしい、今日このごろ。

*… 追記。引用した「親書」の出だし、ちょっと気になって Google 氏に放りこんでみたら、「よくやりましょう! あなたは何千人もの人々を虐殺する責任を負いたくありません。また、トルコ経済を破壊する責任を負いたくありません」と吐き出された[おしまいの「でもオレはやるつもり」がどっかに消えちゃっていたけれども、ほかの機械翻訳サイトにかけたら「大いにうまくいきましょう! あなたは数千人を虐殺する役割を果たしたくありません、そして、私はトルコの経済を破壊する役割を果たしたくありません、そして、私はそうします」としっかり出てきた]。いずれにせよ、いろいろな意味でぶっ飛んでるこんな「親書」なるものをはじめて見た余であった、と『草枕』ふうに。

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2019年08月31日

Translation is NOT an easy job! 

 … 今年はアポロ 11号が月面着陸してから半世紀、そしてほぼ同時期に起こったおぞましい事件(後述)もまた半世紀、京都アニメーションの襲撃事件(たんなる放火犯、というより、無差別殺戮のテロと言うべきもの)が発生したり、あるいは今年の夏もまた自然の猛威に見舞われたりと(三島市で竜巻があったのには驚いた)、いろいろありすぎた 2019 年の夏も、暦上の区切りでは今日で終わり。当方はあいかわらずあくせくしどうしで、ここのところブログの更新もままならず、放置状態。というわけで、来月、はいちおうこれでも〆切を何件も抱えこんでクソ忙しくて新しい記事を書くのは物理的に不可能なため、10月以降、心機一転、週に一度くらいの頻度でなんでもよいから「とにかく書く」ことを目指していきたいと思ってます(記事じたいももっと「簡潔」に、シンプルに仕上げるつもりではある)。

 というわけで、今回もまた仕事がらみのネタになってしまうが … クエンティン・タランティーノ監督の新作映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の重要なエピソードらしい(見る気もその時間もないため、たんなる憶測失礼)シャロン・テート殺害を含む、一連のいわゆるマンソンファミリーによる事件。すこし前にそれがらみの依頼がありまして、ワタシ自身もシャロン・テート事件は聞きかじりでしか知らないため、図書館でなにか参考になりそうな本はないかと探してきた。それが、なんと名翻訳家の故小鷹信光氏の訳された『ファミリー』だった。

 これで仕事ができる !! とこちらは喜々として図書館をあとにして、この本をかたわらに広げつつ訳出にかかったわけですが、そのときふと、そうだ、以前、図書館で借りた本で小鷹先生の翻訳エッセイがあったっけな、と思い出し、訳稿を納品したあとでそっちもふたたび借りてみた。

 で、そのエッセイにも果せるかな『ファミリー』のことがちょこっと紹介されていて(p. 71)、「… この本によって 60 年代末のヒッピー文化の裏面を理解することができ」た。たしかにこの訳書、いま読むとあらためてすごいなあ、と … 先人の仕事ってすごいです。なんせインターネットだの Google だの Skype だのな〜んにもなかった時代、バカ高い「国際電話」くらいしか連絡手段がなかった時代なんですぞ。小鷹訳が世に出たのが 1974 年、石油ショックにロッキード事件のころ。原書はそれこそ麻薬関係、フラワーチルドレン関係の隠語俗語のオンパレードで、担当編集者から、「この本は難物だから」と警告されていたにもかかわらず、引き受けたんだそうです。それだけこの事件の与えた衝撃が大きかった、ということなのかと、半世紀たったいまに生きる門外漢は思うわけ。

 「訳者あとがき」を見ると、
日本語にして原稿用紙千枚におよぶ、長く、おぞましい陰惨な記録の結びの一行を、[著者の]サンダースは It was over. という簡潔な三語でしめくくっている。

とあります。で、その箇所を見ますと ──
… さらに、ショーティ・シアー殺害のかどで、スティーヴ・グローガン、ブルース・デイヴィス、マンソンの三名に、ゲイリー・ヒンマン殺害のかどでデイヴィスとマンソンの両名に、第一級殺人による死刑の求刑がくだされた。

とあって、そのつぎが結びの "It was over." が来るわけなんですけれども、さて先生はここをどう処理したのか? 

 「これで、一件落着」

正直申しまして、ひじょうに強い違和感がありました。小鷹先生の「あとがき」には引用箇所につづけてこうあります。「… それに『一件落着』という訳文をあてたとき、私はサンダースの心情を、"認識[グロックというルビあり]"し得た、と感じた」。

 そうか、先生にとってはそうだったんだな、と思うんですが、ほかの読み手の方はどうでしょうか … 大部の犯罪ものノンフィクションで、先生がヒッピー用語っぽいものだの、頻出する麻薬関連ワードなどにそうとう手こずった痕跡とかが垣間見られまして、それだけでも偉業、と言ってよい訳業なんですけれども。たしかに「チェーンのついた電動鋸」なんてのはいまはふつーに「チェーンソー」だし、「ロシアン・ルーレット(弾倉に一発だけ実弾をこめ、まわしながら引き金をひく死のゲーム)」なんてのも訳注はいらんでしょう。前にも書いたが中田耕治先生の言う「翻訳30年論」でいけばこういう「古さ」はしかたなし。それでもすばらしい訳であることには疑いの余地はない。

 でもってやはり気になる「一件落着」、なんですね … なんでこうしたのかなって思ってしまう。シメの文句って、出だしの一行とおんなじで翻訳者にかぎらず物書きならだれだってもっともアタマを絞って書くところ、力が入ってしまうところ。淡々とヘミングウェイばりに事実のみを列挙していったあげくの"It was over." 、なのでワタシとしてはここはもうすなおに「これで、終わり」くらいでとどめておいたほうがカッコよかったんじゃないかと … 思うんですけどどうですかね。

 小鷹先生の著書『翻訳という仕事』には、いまなお有益なヒント満載で、この本についてはまたあらためて取り上げてみたいと考えてます。ようするに翻訳のネタ本としても最適(笑)。こちらの本も出版されたのは 1991 年でけっこう年数が経っていて、時代を感じさせる箇所もあるけれども、翻訳者を本気で目指している方にはぜひとも図書館で借りてでもして読むべき本だと思う。この本のいいところはたんに翻訳技術を教えているのではなく(後半は翻訳技術について書かれているが)、仕事としての出版翻訳とはどんなものか、が当時の小鷹先生の「実例」を交えて書かれているので、それだけでもおもしろい読み物だし、「印税」とかお金の話も具体的に出てくるので実践的でもあります。

付記:さてここからは、いつものように脱線、あるいはしがないおっさんの愚痴。今年の春先だったかしら、原題のまんまで『FACTFULNESS』という邦訳本が、国木田花丸ちゃん御用達の書店に平積みになっているのを見かけた。そのときはなんも関心がなくて素通りしたんですが、その二名の訳者のおひとりがなんと、まだ二十代(訳出作業当時)! の若者でして、もちろんこの本は本が売れね〜って言われつづけてはやウン十年、な日本でけっこう売れてるんだとか。

 で、その若いほうの翻訳者、いや共訳者の方が自身のサイトで「訳ができるまで自分はどうやったか」みたいな動画までご丁寧にこさえて公開されてたりする(www.youtube.com/watch?v=Hc2moxePHCU
)。で、観た感想なんですが … なんでこう原文をやたらこねくり回すのかなって。もっとシンプルにというか、すなおに「訳し下ろす」ほうがいいと思うんですけどね。ワタシだったら、
ギャップマインダーでこの質問に対する3つの選択肢を選ぶさい、あらかじめ平均寿命の数字を自由に回答してもらった。すると「50歳」もしくは「70歳」と書いた人がほとんどだった。

とでもするかな。たしかに英文には as ではじまる従属節や関係詞など、どうしてもひっくり返して訳さなければならない場面は出てくるし、広告表現のようなパンチの効いた英文もまた大胆に文章配列を入れ替える、といった荒業も必要になったりします。が、英文のワードオーダーというのは一般的には著者の思考の順番にもっとも近い流れで推敲を重ねて生まれた「表現」、深町眞理子先生の言う「いかに」で現出したもの。なのであんまり変更するのはよろしくない(し、原文にない語句を補充するのは、あくまで最低限にとどめるべし)。

 共訳者はまだお若くて、才能があり、しかも米国在住ということでワタシなんかよりはるかに英語が理解でき、洋書も的確に速読できる方であるのはわかる。わからないのは、「翻訳の作法」もどきみたいなことを開陳していること。いやいやそんなもんじゃないですよ〜本の翻訳はとくにね。前に紹介した中田先生のことば、あれは「なら、できるもんならやってみろよ」とタンカを切っている、ということくらいは賢明な読者ならわかってくれたはず。というわけで、最後にこちらのページをご紹介しておくとします。この若手翻訳者の方も含め、翻訳者志望の方全員に読んでもらいたいですね〜。
… 翻訳臭がまったくない翻訳などというものは存在しない。外国の言葉で、外国の出来事について書かれたものを、仮の姿として日本語に置き換えただけのことなのだから当然の話だ。読者も、それが翻訳であるということを頭のすみに置いて読み進んでいる。
 しかし、その大前提に甘えすぎた翻訳はよくない。読者に英語や外国事情の勉強や知識を強制する翻訳もよくない。
 翻訳家がその点で手抜きをしているだけでなく、最近の読者は翻訳もののずさんな日本語に寛大すぎる。馴れっこになっている。だが、そこに甘えっぱなしになっている翻訳家がもっと問題なのだ。舌ったらずの訳文を介して互いにおぼつかなげに意思を通じ合っている不気味なパラレル・ワールドが生じている。こんな世界からは何もひらけてこない、と私は思う。

── 小鷹信光『翻訳という仕事』から[最後の一文は、本文で取り上げられている一連のいわゆる「超訳」ものを念頭に置いた批判。当時はシドニー・シェルダン小説の「翻訳もどき」がバカみたいに売れていた時代で、小鷹先生はそうしたインチキ訳本をこのエッセイでもバッサリ切っている。下線強調はいつものように引用者]


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2019年05月25日

「誤訳」指摘を軽々にすべきではない話『嵐が丘』編

 マクラもなにもなくいきなりなんですけど、まずはこちらをご覧ください。
… 私は馬を乗りつけたとき、彼の黒い目が、ひどくいぶかしげに眉のかげに引きこもるのを見、それから私の名を告げたとき、彼の指がかたく自己を守ろうというように、チョッキのなかにかくれるのを見たが、それで私の心がどれほどあたたかく彼に対して燃えたか、彼もほとんど知るまい。

…「私」だの「彼」だのといったほんらいの日本語にはない人称代名詞がたったこれだけの一文に入れ代わり立ち代わり現れ、そう言っているのが語り手の「わたし」なのか相手の「彼」なのかまるで判然とせず、よくもまあこんなシドい文章つづってシラっとしていられる、と思ったそこの方。それではつづいてこちらをご覧ください。
わたしが馬で乗りつけると、あの人の黒い目はうさん臭げに眉の奥へひっこみ、わたしが名乗れば、その指は握手のひとつも惜しむかのように、チョッキのさらに奥深くへきっぱりと隠れてしまった。そんなようすを目にしたわたしが親しみを覚えたとは、あちらは思いもよらなかったろう。


じつはこれ、エミリ・ブロンテの名作『嵐が丘』の出だしの一節。先に出したほうはウン十年も前の古〜〜い岩波版で、つぎの訳はここ数年来はやりの(?)「新訳」版のひとつから。作家・演出家・評論家であり、エド・マクベインや、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』などの映画化作品を含めて多岐に渡る英米文学もの翻訳を手掛けてこられた中田耕治氏はかつて、「翻訳なんて 30 年ももてばいいほうだ」と発言されていて、『星の王子さま』のような稀有な例外はともかく、一般論としては「ことば」の持つ耐用年数を考えると、翻訳も新しいほうがよいと思う。

 ところがつい最近、こんな世評、いや「ネット上の酷評」を目にした。
出版の許可が下りたのがおかしいと思うくらい、誤訳が多いし、日本語として成立してません。英語力は知らないけど、それ以前に日本語能力が欠如している人だ。

 ネットの世界は「集合知」であったり、「玉石混交」であったり、はたまた最悪の場合は「無法地帯」でもある。ついこの前来日した大統領閣下が大好きな Twitter をはじめ、この WWW ネットワークというのは個人がめいめい好き勝手に、しかもいともかんたんに「発信」できちゃう媒体なので(ここもそうか)、いちいち目クジラ立てることもなかろうとは思うが、こういった無責任な発言はいくらなんでも名誉棄損ものではないの? あろうことか「調べてみたら、翻訳がひどい誤訳であることがわかり、『〇〇版はふつうの翻訳』と書きこみを見たので、こちらにした」なんてのも見た(フツーの翻訳って??? まるで意味不明)。「バタフライ効果」じゃないけれど、実害もしっかり出ている。

 『嵐が丘』は超がつくほど有名なので、「誤訳」なんてのが出てくるとそれ見たことか(gotcha!)と騒ぐ人がかならず出てくる。ちなみに最初に挙げた何十年も昔の訳は正真正銘の「悪訳」であることにまちがいない。だってどう転んだって日本語で書かれた文章、しかも物語としてとてもじゃないが読めた代物じゃないから。こういうのは槍玉に挙げられてもしかたないので、さっさと絶版にして清新な「新訳」にバトンタッチすべきでしょう。

 たまたま↑で引用した「新訳」本を先日、買った人間として、またいちおうこれでも翻訳の仕事を請け負っていることもあり、看過するには忍びない、というか黙っていられなくなり、この紙弾を投げつけたしだいです(本題とまるで関係ない話ながら、先月末、ほんとうにひさしぶりに上京して、こちらの授賞式を見に行った。『ガルヴェイアスの犬』の訳者の方がとてもお美しい方だったので、さらに驚いた[笑])。

 長編で、しかも内容の「解釈」をめぐっては 1847 年に初版本が刊行されたときから毀誉褒貶相半ばしたという、通俗的な文学ジャンルではとてもくくれないとてつもない作品ですので、とりあえず有名な書き出しを中心に気になった箇所とかをほかの訳者による邦訳と突き合わせて比較してみます。自分で買った訳書も含めて用意できた4つの出版社からそれぞれ刊行されている日本語版と、ネット上で見つけた二例も引用してくっつけておきます。ただし今回はすべて匿名で列挙するので、まずは虚心坦懐に鑑賞されたし。例によって下線強調は引用者、そしてルビィちゃん、ではなくてルビを振ってある訳文の場合はルビを割愛して引用。まずは冒頭部から。原書はペンギンクラシックスのペーパーバック版です。

1801.−I have just returned from a visit to my landlord−the solitary neighbour that I shall be troubled with. This is certainly a beautiful country! In all England, I do not believe that I could have fixed on a situation so completely removed from the stir of society. A perfect misanthropist’s heaven: and Mr. Heathcliff and I are such a suitable pair to divide the desolation between us. A capital fellow! He little imagined how my heart warmed towards him when I beheld his black eyes withdraw so suspiciously under their brows, as I rode up, and when his fingers sheltered themselves, with a jealous resolution, still further in his waistcoat, as I announced my name.

A 訳:1801年──いま家主に挨拶に行って、帰ってきた──これからはこの男以外、かかわりをもつ相手はいない。それにしても、この土地は美しい! イングランドじゅうを探してみても、ここまで完全に騒がしい世間から隔絶されている場所は見つかるまい。まさに人間嫌いの天国だ──そして家主のヒースクリフ氏は、この荒涼たる世界を私とわかちあうには絶好の相手だ。とびきりの男ではないか! 私が馬で乗りつけたとき、彼の黒い瞳が眉毛の下でいかにもうさんくさそうに光り、私が名乗ると、彼の手がぜったい握手をさせまいとするようにチョッキの下に深く隠れるところを見たとき、私がどれほど胸を熱くしたか、彼には想像もつかなかっただろう。

B 訳:1801年──いましがた、大家に挨拶をして戻ったところだ。今後めんどうな近所づきあいがあるとすれば、このお方ぐらいだろう。さても、うるわしの郷ではないか! イングランド広しといえど、世の喧噪からこうもみごとに離れた住処を選べようとは思えない。人間嫌いには、まさにうってつけの楽園──しかも、ヒースクリフ氏とわたしは、この荒涼たる世界を分かち合うにぴったりの組み合わせときている。たいした御仁だよ、あれは! わたしが馬で乗りつけると、あの人の黒い目はうさん臭げに眉の奥へひっこみ、わたしが名乗れば、その指は握手のひとつも惜しむかのように、チョッキのさらに奥深くへきっぱりと隠れてしまった。そんなようすを目にしたわたしが親しみを覚えたとは、あちらは思いもよらなかったろう。

C 訳:1801年──家主をたずねて、いま戻ったところだ。厄介な近所づきあいもあそこだけですむ。実にすばらしい土地だ。騒がしい世間からこれほど隔絶したところは、イギリスじゅうさがしても、おそらく見つかるまい。人間嫌いにとっては、まさに天国のようだ。そしてこの寂しさを分かち合うのに、ヒースクリフ氏とぼくはちょうど似合いの相手である。なんと素敵な男だ。ぼくが馬で乗りつけると、ヒースクリフ氏は眉の下の黒い両眼を疑わしそうに細め、ぼくが名のるのを聞いても、ますます油断なく両手をチョッキの奥に押し込んだ。それを見てぼくの心がどんなに和んだか、向こうは想像もできなかったことだろう。

D 訳:1801年──大家を訪ねていま戻ってきたところ──ぼくがこれから関わりをもつことになりそうな唯一の隣人。ここは確かにすばらしい地方だ! イギリスじゅうで、これほど完全に社会の喧騒から隔てられた場所に身を落ち着けることができたなんて信じられない。完璧な人間嫌いの天国だ──それにミスター・ヒースクリフとぼくはこの荒涼たる世界を分かち合うにはもってこいの相棒。実にいい奴だ! ぼくが馬で乗りつけると、彼の黒い眼が何やら疑わしげに眉の下に引っ込んでいくのを見たとき、またぼくが名乗ると、油断してなるものかと決意も固く彼の指がチョッキのなかへずっと深くもぐりこんでいったとき、ぼくの心がどれだけ彼に引かれていったか、彼の方はほとんど想像もしなかっただろう。

付録:ネットで見かけた別訳者による訳二例

1). 1801 年──家主をたずねてたったいま帰ってきた。うるさい近所づきあいもここでは一軒だけですむ。いやはや、すてきな片田舎だ! たとえイギリスじゅうさがしたって、さわがしい俗物どもの世界からこれほど完全に隔離された環境はめったに見つかるものではない。……

2). 1801 年──ぼくはいま家主を訪問して帰ってきたばかりである。──彼だけがまた、これから付き合わねばならない隣人というわけだったが──。とにかくすばらしい土地である! まずイングランド中探しても、これほど世間のさわがしさから完全に切り離された場所がほかにあるとは思われない。 ……


 冒頭部でまず気になるのが、'This is certainly a beautiful country!' をどう訳すかについて。ヒースくらいしか生えない、寒風吹きすさぶ丘陵地帯を 'a beautiful country' と評しているのは文字どおりそう感じたから、ではないだろう、この「語り手」ロックウッド氏の性格付けからしても。そういう「気持ち」が certainly にこめられている。こちらのページの掲載画像を見ると、「嵐が丘」邸周辺の風景はアイルランドのコノートかドニゴール地方を思わせる美しさはたしかに感じるとはいえ、「荒れ地」的印象のほうが強い。そしてこのあとの展開を見ればわかるように、やんわりとした皮肉も響いている、と考えるのが妥当な線ではないかと(それにすぐあとで'... a suitable pair to divide the desolation between us.' って書いてあるし)。なので個人的には「実にすばらしい土地だ」とした C 訳は字面どおりであっさりしすぎ、「それにしても、この土地は美しい!」の A 訳はあともう一歩、さりとて「ここは確かにすばらしい地方だ!」とした D 訳もどうかと。というわけで「さても、うるわしの郷ではないか!」とした B 訳のほうが好ましいと感じます。

 そしてつぎの下線部の訳ですが、「 C 訳が比較的自然な日本語で、かつ原文も大事にしていてオススメです」とのネット評を書いていた人がいたけれども、「眉の下の黒い両眼を疑わしそうに細め」という一節を見ただけでこちらの目まで疑わしげに細くなってしまう。眉の下にいきなり鼻があるわけじゃなし、眉の下に目があるのは当たり前でことさら断って書くことじゃない。それにほかの科白や地の文もなんというか、小説としてそぐわない箇所が散見されます。「英文解釈 100 点、だけど翻訳は…」という典型例のように見えたのも事実。なので「ブロンテの原文の字面を忠実になぞった訳」が読みたい向きにはこちらでよいとは思うが、「文学作品を読んでいる」という気分にはならなかった。それはたとえばすこし先の箇所(The ‘walk in’ was uttered with closed teeth, and expressed the sentiment, ‘Go to the Deuce!’ )の訳が「ろくに口も開かずに言うので、言葉は『入ってください』でも、まるで『とっとと失せろ』という意味に聞こえる」というのもヒースクリフの個性がまるで感じられないし、いかにも平板。「この『入んなさい』という言葉を吐いたとき彼の口は閉じられていて、『死んじまえ!』とでも言いたそうな気持が露骨に見てとれた」とした A 訳は ‘Go to the Deuce!’ の訳が難あり、B 訳は「"入れ"とは云いながら歯を食いしばるようにするので、"失せやがれ!"とでも云いたげな気持ちが伝わってきた」で、自分としてはわりとすんなりイメージが頭に入る。「入」と「失せやが」で脚韻を踏ませることまで意識したのかな、とも感じた。「死んじまえ」は、やはり文章の流れ的に「浮いて」見えます。家主は「さ、入れ」と言いつつ、そのじつ「おめーなんか、おとといおいでってんだ」みたいな気持ちであり、それが語り手の間借り人にも伝わってきたんでしょ、ここは(「おとといおいで / おととい来やがれ」の意味がわからない人のほうが多い今日このごろではあるが、古い作品にはこのような手垢のついた言い回しも使用可能だと思っている)。「その『入りなさい』ということばは歯を食いしばったままいわれたので、『くたばってしまえ』という気持ちを表していた」とした D 訳は A 訳に近い。

 かなり先に飛んで原書の第 15 章、お手伝いさんのネリー・ディーンの回想から。幼いヘアトンが怒り狂った父親ヒンドリーにむりやり抱えられて階上に連れていかれ、ヒースクリフがやってきたと思ったその刹那、父親の腕から落下した直後のネリー自身の科白で、「坊主にケガはなかったか?」と訊いてきたヒンドリーに対し、頭にきたネリーが叱責するところ。原文はシンプルに 'Injured! I cried angrily, If he's not killed, he'll be an idiot!' で、下線部の訳がどうなってるのかそれぞれ見てみると──
A 訳:「怪我ですって!」あたくしはかっとなりました。「怪我はしていなくても、障害児になってしまうでしょうよ!」
B 訳:「怪我ですって!」あたしは怒鳴りましたよ。「殺されなくても、頭が馬鹿になってしまいます!」
C 訳:「けがですって?」わたしは腹を立てて、大声で言いました。死んでしまうか白痴になっていたか、どっちかのところですよ!」
D 訳:「怪我をしたですって!」わたしは怒って叫びました。「たとえ死ななかったとしても、頭がおかしくなりますよ!」


けっきょく読み手の好みの問題と言ってしまえばそれまでかもしれないが、すくなくとも A 訳の「障害児」はないでしょう! 場にそぐわない訳語の選択。ここは読み、表現ともに C 訳のほうが適切だと思いました。ネリーの気持ちをはっきり書けば、「けがはないか、っていったいどの口が言ってるんです? 死ぬか、頭がバカになってしまうか、どちらかってところではないですか、ちがいますか!」くらいの、いくら雇われ人とはいえカンカンに怒っている感じが出てない訳ではいかんと思うのです。

 こんなこと書くと、「意訳ではないのか?」って言う人がかならず出てくる。んなことはない。ヤナセ語訳『フィネガンズ・ウェイク』だって、わからないながらも気になった箇所を原文と比べてみたらけっこうストレートな訳になっていたりする(以前、ここで書いた『フィネガンズ・ウェイク』関連拙記事を参照のこと)。ようは、ここまで表現できてはじめて翻訳と言える。読むのはあくまでも日本語で書かれた文学作品。「原文で何度も読んでいるけど、日本語版はどれもイマイチ」みたいなことを書いていた人もいたが、それならブロンテの原文を熟読玩味すればよろしい。古典新訳ブームという言い方はよく聞くけど、ようするに版権が切れてるから / 切れたから新訳を出しやすくなった、それだけのことなんでしょう。とはいえ『嵐が丘』新訳刊行ラッシュの場合、なんか出版社どうしによるライバル心むき出しの競争みたいな印象もなくなくはない。

 誤訳については、ヒースクリフ家の番犬に襲われそうになったときのことを話すロックウッドの科白の「焼き印」を取り上げていた人もいましたが、たしかにそうだとしても、だからといって全体までが悪い、みたいな物言いはいくらなんでも乱暴にすぎる。ちなみに仏語訳版でその箇所がどうなってんのか調べてみたら、 
── Si je i'eusse été, j'aurais laissé mon empreinte sur le mordeur.

これを英語に再度もどせば "If I had been, I would have engraved my seal on the biter." で、まさかこれをただ「噛みつこうとしたそいつにわたしの印を押しつけてやるところでしたよ」とやって、「印章付き指環をはめた手でおたくの番犬にパンチのひとつもくれてやったでしょうよ」と解釈できる読み手はひとりもいないでしょうよ。「焼き印」とした訳は以前からあり、ひょっとしたら「既訳本に敬意を払って」先達の仕事を参考にしたのかもしれませんが、イメージはしっかり伝わっているから、ここはしかたない処理かと。ストレートに「げんこを喰らわせた」とすると、意味的には正解[ただしかなり自由度の高い意訳になってしまう]ですが、「印章付き指環(signet)」の「印章」をしっかり犬の額に刻印させてやる、というイメージはまるで伝わらず、「焼き印(日本語化して久しい brand)」としたほうが無難な線だと判断したためではないかと思われます(ちなみにこの signet、O.E.D. で調べたけど意外? にも『嵐が丘』のこの科白は例文として収録もされていなかった)。

 「誤訳」というのはいちばん最初に挙げた、だれが見てもヒドい訳はいざ知らず、どんなすぐれた訳にも大なり小なり含まれているものでして、「鏡に映したような翻訳」は、目指さなければいけないことはわかっているけれども、そうそうお目にかかれるものではありません。ワタシなんかむしろ、『嵐が丘』ひとつでこんなにさまざまな日本語表現ができるんだ、と感心しきりなんですけどね。正直、「唯一絶対の翻訳」なんてのもありえない。また批評子というのは、ここも含めてすべて批評する側の視点、ものの捉え方で書くもので、やはり絶対ではない。ましてや「ありもしない勝手な理想像をこさえて、それを絶対的基準のように人さまの翻訳をバッサバッサと斬り捨てる」というのも、厳に慎まなければならない。世の中にはそういうお門違いもいいところな誤訳指摘という名の揚げ足取りがあまりにも多すぎる。かくいう自分も締め切り直前に拙劣な訳をしていた箇所に気づいてあわてて訂正して納品した、なんてことがあるから口幅ったいことは言えないが、翻訳というのはかんたんな仕事じゃないですよ、マジで(digit)。辛気臭いわりに報われること少なく、ついでに原稿料も少ない(嘆息)。

 原稿料で思い出したが、たとえばつぎのような訳文だったら、これはもう拙劣の批判は甘んじて受けなければならないし、クライアントに翻訳料金を請求するのもおこがましい、と考える。
… わたしの父は、少なくとも石に彫られている碑文を書くことなく、……を放棄すべきだったのに、そうしなかったことは、いつも私にとって奇妙に思えた。

原文は 'it always seemed to me strange that my father should have abandoned the ...... where he did, without at least writing the inscription that was carved on the stone.' で、すぐあとに '... At some later time he entered roughly on the manuscript the inscription on the stone, ...' とつづきます。上記訳文ですと、しっかり碑文を書いていたことになり、「あとになって、父はその石に彫り付けた碑文のおおまかな内容を草稿に書き入れた」とつながらなくなるから、あきらかに誤読していることがわかります。もちろん息子にとって長年、腑に落ちなかったのは、「父が石の碑文を書くことなく中断してしまったとは、いったいどうしてだろう」ということ。

 というわけで、きわめて casual な気持ちでツイートする読書好きの方も含め、「誤訳の指摘、誤訳に対する批判」を全世界に発信する前に、ひと呼吸おきまして、いまここで書いたことなども思い出していただければありがたいと思います。ところで最初に引き合いに出した中田先生ですけど、お元気そうでなにより。こちらのブログ記事にあるように、
──女の作家は、けっして女性を代表するわけではないのです。
世間では優れた女流作家は女性を代表すると考えるわけだけれど、わたくしに言わせれば、誤りです。
むしろ一般の女性からはかけ離れた特異な存在です。
特異な存在だからこそ、自分自身が作家でありえたのだし、創造性を持ちえたというふうに、ぼくは考える。

というのは、もうさすが、としか、ここにいる門外漢は言うことばがありません。先生の評はそのまんま『嵐が丘』という作品にも当てはまりますし(中田先生は昔、高校生だったか、若い読者から誤訳指摘の手紙を受け取ったことがあるという。こんな大御所になんとまた大胆な、とも思ったけれども、その内容がかなーり辛辣だったようです。で、この怖いもの知らずの若い読者にまたご丁寧にこう書いて返信をしたためたんだそうです──「このつぎはきみが訳してね」)。

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2019年02月12日

「直訳」でさえない訳がオンエアされた話

 たまには珍しく? 即時ツイートもどきの感想をすこしだけ。つまり、それだけひじょーに気になってしまった、ということです。

 いまさっき午前の仕事を終えてお昼ごはん食べつつ某民間テレビ局の午後のワイドショーをながら視聴していたんですが、取り上げられていたのが大坂なおみ選手とドイツ人コーチのサーシャ・バイン氏との突然の「決別」の話題。で、なんとはなしに見ていたら、いきなりちょっと待ったぁ〜っ、とヒゲじいよろしく言いたくなってしまった。番組ではその「コーチ契約解消(→ NYT の関連記事)」をしごくかんたんに、いやはっきり言ってすごくあっさりと告知する内容の大坂選手のツイートが全文、紹介されてまして、
Hey everyone, I will no longer be working together with Sascha. I thank him for his work and wish him all the best in the future.
で、下線部の訳が、「彼の将来が最高であることを祈っています」みたいになっていたことです。

 'all the best' というのは手紙、というかいまじゃメールのほうがふつうですけど、文末に添える決まり文句のひとつで、「ごきげんよう」ほどの意味。つまり紋切り型というかあまりご丁寧な表現でもないし、ましてや「将来が最高であるように」と心から願う意味でもない。「ハイ、みんな。わたし、もうサーシャとは仕事をしない。これまで彼がしてくれた仕事に感謝。そして今後の成功を祈ってる」くらいの、わりとサバサバした気持ちだと思うぞ。もっともたった3行とはいえ、この文面をしぼり出すのにえらく時間をかけて考えて考え抜いて … というのもあったかもしれないが、すくなくともこの文面はこうとしか読めません。

 さらにそのサーシャ氏の返事のツイートまで紹介されてたんですが、こちらのほうがさらに問題大ありでして、
Thank you Naomi ゴメン/お願い I wish you nothing but the best as well. What a ride that was. Thank you for letting me be part of this.
下線部の訳がなんと「なにも言うことはない」ですと !!! 口に含んだお茶をぶちまけそうになってしまった。「ありがとう、なおみ。ぼくからもきみの成功を祈っている、それだけだ。なんてすばらしい時間だったろう。その時間を共有できて感謝している」くらいでしょう['what a ride'は、ジェットコースターとかワクワクする楽しい経験をしたときに使う colloquial な表現]。

 さすがにこの悪訳? には黙っていられなかったか、進行役のひとりの安藤優子さんも「それはちょっとちがう」と異議を唱えていたけれどもけっきょくムニャムニャという感じになっていたところに、さらに大きなニュースがいろいろ飛びこんだ関係上、それっきりに。… いつもこういう話を見聞きするたびに思うんですけど、これってチェックする人ってだれもいないんだろうか。ええいままよ、なんていう言い方は古いが、テキトーにやっつけて本番でタレ流すってどうなのって。安藤さんみたいな英語が堪能な方だって現場にいるのだから、チェックくらいしてもらえばいいのに。

 さらにムッときたのは局アナの人かな、安藤さんに「それちがうよ」と指摘されたとき、「ま、いちおう直訳するとこんなふうに … 」なんてのたまっていたこと。こういう方には、高名な仏文学者で名翻訳家だった生田耕作氏が「わたしは直訳主義です」と言い切った話とか語って聞かせてもナントカの耳に念仏ぶつぶつでしょうな。'nothing but ...(… するのみ / … するだけ) ' も見えてない訳なんて直訳でさえない。直訳でさえないものをポンと全国ネットで紹介するなんてツイートしたご本人に対しても失礼、ですわ〜(黒澤ダイヤふうに)。これ以上、くどくどこぼしてもただのボヤきにしかならないからもうやめますけど、もうすこしなんとかなりませんかねぇ、と「深き淵よりの嘆息」。

 … それにしても池江璃花子選手の白血病の発表にはほんとうに驚かされた。いまは治療に専念されて、元気に復帰されるようにと祈るばかりです。

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2019年01月28日

センター試験問題 ⇒ 北川民次の慧眼

1).今年もまたセンター試験の季節がやってきました。… とはいえいま自分の仕事とかヤボ用とかいろいろ立てこんでおり、英語の試験問題にはまだろくに目を通してない。でも「国語」の試験問題の現代文に、なんと「翻訳」ものの評論からの抜粋から出題されていたのにはいささかびっくり。興味を惹かれた門外漢は手許の資料だの参考文献だのをいったん「積ん読」して(この件については後述)、さっそく問題文を読み、設問を解いてみた(… とはいえ巻頭からいきなりの「誤字訂正」とは、いったいどうなってんだか)。

 今年の国語の出題文は、言わずと知れたロシア文学者で、2013 年度に放送されたラジオ講座「英語で読む村上春樹」の講師でもあった沼野充義先生が書いた『翻訳をめぐる七つの非実践的な断章』から。「僕は普段からあまり一貫した思想とか定見を持たない、いい加減な人間なので、翻訳について考える場合にも、そのときの気分によって二つの対極的な考え方の間を揺れ動くことになる」という、なんともユーモラスな書き出し。そのすこし先にはラブレーとともに、ジェイムズ・ジョイスの名前まで挙げられている! 名翻訳家の青山南先生の名前も見える。

 いちおう「評論」というカテゴリになるようだけど、文芸翻訳の仕事とはどういうものか、その体験談というか翻訳のウラ話的な楽しいエッセイと言ったほうが近い気がした( → ご本人もそうおっしゃている )。だから今回、試験問題としてなかば強制的かつ時間に追われながらの「読解」に終わった受験生のみなさんで、「おー、なんかおもしろそう!」と、Aqours の高海千歌のような気分になったらぜひ図書館から借りるか、買ってみるといいと思う。べつに厳密な解釈を要求される翻訳者の視点で読むわけじゃなし、この評論文にもあるように「普通の読者はもちろん言語哲学について考えるために、翻訳小説を読むわけではない」から、ソファにでもゴロンと転がって純粋に楽しんで読めばいい。

 え、問題はどうなのかって? 問5がちょっとヒッカケ? ぽい設問だったけれどももちろん正しく解答できました(問5の、「… 考えてみれば私たちは父親にそんな言い方['I love you.' に相当する言語表現]」をしないし、結局そこにも文化の差があるってことかな」というのは … 原文のどのへんを指して言っているのだろうか)。

 … でもあいかわらずこれシドいな、と毎度思うのが、「世界史B」。なんでこう、前後脈略見境いっさいなしな設問のオンパレードなのか。たとえば第1問の問題文「ロンドンのウェストミンスターには、国会議事堂をはじめとする歴史的建造物があり、それらはユネスコの世界遺産に登録されている。… 」ってあります。で、上の「下線部について述べた文として正しいもの」を四択で選べってあるんですが、その選択肢が
@ ヴェルサイユ宮殿は、フランソワ1世によって建てられた。
A スレイマン=モスクは、タブリーズに建てられた。
B アンコール=ワットは、クメール人によって建てられた。
C アルハンブラ宮殿は、セルジューク朝によって建てられた。

 正解は B ですけど、これってどこが「下線部について述べた文として正しいもの」なんでしょうかね ??? そういえば昔、英語の大学入試問題がヒドいって批評書いたら「そんなの正答以外はみんな不正解に決まっとるだろ!」ガシャン !! って電話を切られたっていう、笑うに笑えない話を読んだことがあります。

 いずれ現行のセンター試験も廃止されるみたいですが、すくなくともこんなワケワカラン設問を解くのは時間のムダじゃないかって思います。いっそのこと大学入学は小論と面接だけでいいのでは、とさえ思う。そ・の・か・わ・り、卒業が超絶むずかしいシステムにすればいい。こんなこと書くと何年か前だったら「欧米か!」とツッこまれるところですが、だってそう思いませんか。昔もいまも、この国の若人はたいてい、大学入試時点が学力のピークなんですぞ(もちろん、なにごとにも例外はある)。もうかれこれ 30 年以上も前から、サークルだのなんだのに明け暮れろくに講義に出席もしない学生と、それを許している大学双方を揶揄して、「大学のレジャーランド化」と言われてたんですから。いまや超がつくほどの少子高齢化、大学側もとくに「費用対効果」が薄いとして切り捨てられる傾向がある文系学部を中心に統廃合が加速して、いまの大学には 30 数年前では考えもおよばなかった危機感があるとは思います。あるとは思うが、「世界史」の設問なんか見てますと、なんかこう、いまだ十年一日(ジュウネンイチニチじゃないよ)の感ありです。

2).そんな慨嘆にたえない先週末、たまたま「日曜美術館」を見てたら静岡県出身の反骨の画家、北川民次のことを取り上げてました。で、その北川は最晩年、『夏の宿題』という作品を描いています。ワタシみたいなのが御託を並べるより、作品を観ればたちまち会得されるはず。この作品が描かれたのは大阪万博の開催された 1970 年。あれから約半世紀後のいま、北川の警句はますます大きく響いてくる気がしますね。ちなみに子どもの手許に広げられた紙の上には、こう書いてあります−−「シュクダイがないと子どもは 何を考えていいか分からなくなるとラヂオの先生がいいました。ナニが私たちをこんなにしたのでしょうか」。この国の教育の宿痾を、端的に喝破した至言だと思いませんか? 

3).先日、兼高かおるさんが逝去された。兼高さん、とくると、往年の名番組、「兼高かおる世界の旅」に、小学生だったワタシは日曜の朝、わけもわからず見ていた「時事放談」につづいてこの番組をなによりも楽しみにしていたものだ。ツタンカーメン王の墓の玄室とかギザの三大ピラミッドとか、ルーヴル美術館や見たことも聞いたこともない南の海の島とか、とにかく地球上のいろいろな場所をあの decent な調子で紹介していたのがついきのうのことのように思い出されます。いつだったか兼高さんの著書を読んだ折、フィゲラスのサルバドール・ダリの邸宅を訪問したときの話とかが興味深かった。「そのピンと立った口ヒゲは、どういう意味がありますの?」とダリ本人に訊いたら、「これは宇宙からの信号をキャッチするアンテナじゃ!」みたいなこたえが返ってきた。「口ヒゲは、どういうものを使って固めてらっしゃるの?」と訊いたら、「シュガー」とこたえたんだそうな。

 そんなダリもいまからちょうど 30 年前、日本では平成元年の 1月 23 日に亡くなっている。そのとき買った Time の死亡記事タイトルはたしか 'Bewilderment of Perplexity' だったように思う。またおなじく兼高さんの著書にはシュヴァイツァー博士のランバレネの病院を訪問したときのことも出てきて、「ここだけ時代に取り残されているように見えた」といった記述の記憶がある。当時、シュヴァイツァーはいわゆる「シュヴァイツァー批判」にさらされ、日本の教科書からも彼の名前がいっとき消えたりした時期があった。まだ若かった兼高さんには、あの病棟は「過去の栄光」のように見えていたのかもしれない。そんなシュヴァイツァー博士の名言として、先日、地元ラジオの朝のローカル番組でこんなことばが紹介されてました。
世界中どこであろうと、振り返ればあなたを必要とする人がいる('Wherever a man turns he can find someone who needs him.')

 馬齢ばかり重ねてきた感ありの門外漢も、かくありたいと思うのでありました。合掌。

 でもって最初の「積ん読」にもどりますが、この前、ある米国人女性版画家を紹介する Web サイトを見てたら、'currently-reading pile' なる表現にお目にかかりました … なるほどこういう言い方もあるのかと、感心したしだいです。

posted by Curragh at 19:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 翻訳の余白に