2025年05月29日

海外メディアによるインタビュー記事から

 たまたま、モーティス/若葉睦の画像が大きく掲載された海外記事を見かけた。米ジョージア州の州都アトランタに拠点を置く Paste という芸能関係の Web メディアのようでして、せっかくの機会だからと引用の範囲を超えないていどに抄訳としてここでも少し紹介しておきます。インタビューに答えているのは Ave Mujica バンドプロデューサー/音楽ディレクターの松本拓輝氏。
──ムジカは前作のマイゴよりはるかに暗い作風です。音楽面ではその変化をどのように取り込んだのでしょうか? 
M:… 光は闇があるから、闇は光があるから存在しますし、誰しも内面に暗い面を抱えています。だから『Ave Mujica』の音楽は楽しく聴かせたい、あまり重々しくならずに、という気持ちがあります

──アニメムジカは舞台、ゴシック的美学、ヘッセ『デミアン』まで取り込んでいますが、音楽に関しては何か特定のバンドの影響は受けていますか? 
M:制作中に参考にした楽曲やバンドはもちろんあります。個人的にはシンフォニックメタル、メロスピ、メタルコアなどから影響を受けています。図らずも自分自身の嗜好とムジカのテーマが一致した点は幸運だったと思います

──バンドとしてのムジカは、マイゴが終わった段階で自然に出てきた着想なのでしょうか? それとももっと早い段階でバンドリ! シリーズの次期作のバンドはもっとメタル色を前面に押し出すと決まっていたのでしょうか? 
M:マイゴとムジカは当初から、正反対のバンドとして構想されたものです。物語が進むにつれて、マイゴはパンク調、ムジカはメタルを核とするバンドにする流れへ自然に落ち着きました。シリーズ全体で見ても、パンクとメタルロックのバンドはなかったので、差別化に一役買っています

──脚本が先でそのあとに音楽が作られたのか、音楽が先だったのでしょうか? それとも同時進行だったのでしょうか? 
M:脚本が先です。挿入歌は物語に合わせて作られています。脚本の一部が未完成で、楽曲のほうが先になる場合もありましたが、楽曲は基本的にできあがった脚本に合わせて作られています

──バンドリ! シリーズでいつも感心させられるのは、現実のバンドメンバーが、ゲームやアニメのキャラクターの声優でもある点です。この2つをこなせる才媛を、ブシロードはどうやって見つけ出しているのですか? 
M:じつは『バンドリ!』シリーズの声優には初めは楽器ができなかった人、反対に、ミュージシャンだけど声の演技は初めて、という人が何人かいます。なので楽器も声の演技もできる人をとくに集めたわけではないんです。
 …… ついでに、「人はだれかを守ろうとするほど自分自身を守れなくなる。自らを投げ出し、“消えてもいい”とすら思うだろう。それが“愛する”という感情だ」という引用を紹介した考察動画クリップを見かけた。対訳になっていたから念のためウラをとってみたら、フロイトの『文明にひそむ不満』(1930)なる著作の引用らしい。しかし英訳(?)されたとおぼしき原文を見ると「超訳」っぽい気もする。高校生でもわかる平易な文なので訳は不要なくらいだけれども、いちおう普通に訳せば ──
We are never so vulnerable as when we love, and never so hopelessly unhappy as when we lose the object of our love.
人がもっとも無力感をおぼえるのは誰かを愛するときであり、絶望的なまでの不幸を味わわされるのは、そうした愛を注ぐ対象を失ったときである
くらいでしょう。対訳文だと、逆に英訳すればそれは“The more you try to protect someone else, the less you can protect yourself. You will give yourself up and even think ❛it'd be all right if it lets you disappear.❜ ; that is the emotion of ❛love❜." あたりになると思う。

posted by Curragh at 03:14| Comment(0) | TrackBack(0) | BanGDream! Ave Mujica

2025年05月18日

"I wish you had told this to Mutsumi-chan."

 アニメムジカ(BanGDream! Ave Mujica)の第 10 話「Odi et amo.」(憎み、かつ愛す)。自身の言動がことごとく強烈なブーメランとなって返り討ちされ、それを受け止める覚悟を決めた豊川祥子(とがわ・さきこ)が幼馴染の若葉睦の自宅を訪問する。そこではベース担当の八幡海鈴(やはた・うみり)が、自室の寝台で休んでいる睦(それまでの主人格ムツミ❶と、主人格の幼少時からのイマジナリーフレンドで、ムジカ解散の危機にムツミ❶が破壊されそうになったとき、交代人格となって肉体を乗っ取った「モーティス」が、主人格の象徴と言えるシェクター7弦ギターを奪い合ったすえ、主人格を無意識の奈落の底へ転落させてしまったあとの話なので、この時点ではモーティスとして生きている)を見守っていた。そして寝ているモーティスに対し、祥子は鋭く、冷徹に言い放つ。
ムツミ。あなたにはギターを弾く真似をしていただきますわ、ムツミ。……ただ、一度のズレも許しません。できますわね? あなたなら ……
 もちろん祥子は、いま目の前で寝ているのが幼馴染の睦その人ではなく、交代人格にすぎないことをわかったうえでこう宣告している。

 再結成したメタルバンド Ave Mujica は、復活公演をホームグラウンド的なライヴハウスの RiNG で開催する。これまでの大規模会場とは異なりちんまりした会場で予算も限られ、セットも必要最低限。初華が作詞した激重(!)のリリックをハ長調の美しいバラード調に仕上げたリーダーの祥子。そんな祥子に、初華は楽屋の控室でお礼を言う。いっぽう睦/モーティスはひとり、照明テストでどす黒い赤(!!)一色となったステージ上でギターの当てフリを練習していた。そこへ近づいてきたのがドラムスの祐天寺にゃむ。にゃむはモーティスに向かってこう言う。
…… ホントに消えちゃったんだぁ、ムーコ。この先ずっと若葉睦を演じるつもり? …… あんたの演技見てると、アタシって何、ってなる。ずるいよ …… ずるくて、うらやましくて …… 愛してる
 そうささやいたにゃむは、演劇の科白の練習を始める。思いがけない告白を受けたモーティスは不意に何かに気がついたような顔つきとなり、練習するにゃむを振り返り、そしてギター(=主人格)に視線を落として、こうひとりごちる。
──ムツミちゃんに、言ってほしかったな ……
 ワタシは当初、「いまのことばをモーティスがムツミに言ってほしかった」という意味にとっていたが、公式さんの英訳字幕を見て取り違えていたことに気づいた。…… 科白じたいがあいまい・両義的言い回しで、あえてそう言わせたのかもしれないが、この科白の正しい解釈は「それはわたしではなく、ムツミちゃんに言ってほしかった」だった。
──I wish you had told this to Mutsumi-chan.
 モーティスは、精神世界の舞台セットから主人格が転落したのは「わたしのせいじゃないもん! 勝手に落ちたんだもん!」とムジカメンバーの前で思わず叫んだように、守るべきはずのムツミ❶をギターもろとも意識下の奈落へと落としてしまったことに強い衝撃を受けていた。「わたしの役とらないでッ!」という歪んだ声※とともに、睦に似た巨大な影がセット背後の大窓に立ち上がる。「ムツミちゃんがいなければ、わたしがその役をやればいいんだ …… わたしが、若葉睦を ……」。しかし悲壮な決意とは裏腹に、ムツミの仮面は早々に剥がれ落ちた。常識人で、演技の勉強に打ち込んできたにゃむ(と、そのうしろで見ていた要楽奈)の目はたちどころにこの三文芝居を見抜き、ビジネスライクな交渉に来たはずがいっきに興ざめしたのか、「なにソレ …… きんも!」と吐き捨てる。ようするにモーティスは祥子訪問時にはすっかり弱っていたので、寝込んでいたんだと思う。

 そこへもってきて、ムツミ相手に言ってほしかったことをまたしても自分に言われてしまった(海鈴宅での当てフリ練習を終えて電車に乗っていたときも、「あれ! ヤッバ〜、睦ちゃんだ!」「ギター持ってる」と興奮気味に話す女生徒らの声を聞いたモーティスは、「…… 違うもん」とつぶやく)。けっきょく、にゃむの「愛してる」告白と、ステージ上で「Imprisoned XII」の演奏が始まり、初華の歌うリリックが心に文字どおり突き刺さったのだろう。足許にぽっかりと口を開けた奈落へ吸い込まれるようにして自ら身投げして(Cf. ムジカメンバーとしてのモーティスの決めゼリフは「われ、死を恐れることなかれ」)、先に落ち、いまや消えかかっているそれまでの主人格とギターが深い深い「無意識の海」の中で漂っているのを見つける。

 電車のシーンはこのひとつ前のエピソード(「Ne vivam si abis.」、「あなたが去るなら、わたしは生きられない」)の話で、主人格の転落はその後半(Bパート)に起こる。転落する直前がまたゾっとさせられるカットで、なんと主人格が、倒れているモーティスの首をぐいぐい締め付けているのだ(!!!)。でもいまや対立する相手はなく、求められているのはそのいなくなった相手のムツミのほう。ふたりのあいだにはもはや対立する理由もなく、モーティスは消えつつある主人格をしっかと抱きしめ、「愛してる」と言わんばかりに涙を散らして、ふたりとも消滅する …… 。

 …… その刹那、当てフリだったはずの睦の指はしっかりとギターを爪弾いていた。ベースの海鈴がいち早くそれに気づき、にゃむは、ドラムセットを叩きながらなぜかうつむく。そして大多数の睦ファンにとってそれは、かんたんには答えの出ないモーむつ問題というミノタウロスの迷宮の始まりだった(と、思う) …… ここで、モーむつファンのひとりとしてひとこと言わせてもらえれば ──「誰かムツミちゃんをほんとうのお医者さんに診せてあげて!!」

※ 「歪んだ声」は、おそらく元ネタのひとつっぽい『サスペリア』(1977)に登場する「闇の女王」こと、魔女ヘレナ・マルコスの殺害場面をも想起させる。また「モーティスにギターの当てフリを要求しに来た祥子」「無意識の水の中を落ちてゆくモーティス」、「にゃむから『愛してる』と告白されるモーティス」などの場面で流れるオルゴールのような劇伴も、個人的には「サスペリアのテーマ」を奏でるチェレスタの旋律を思い起こさせる。

追記:第9話のラストで、ライヴハウス RiNG のカフェラウンジに集まったムジカメンバーと、かつて結成した学生バンドの CRYCHIC(クライシック)復活の相談に来ていた祥子とが、モーティスの処遇をめぐって鋭く対立する場面があるが、そこで繰り出されるのが、従来のバンドリ!シリーズを知っている人なら仰天しそうな、およそバンドストーリーらしからぬことばの応酬となる。
祥子:モーティス …… あなたの願いは、睦を苦しめることですわ! 
海鈴:どういうことですか? 
祥子:モーティスは、苦しむ睦を助けるために生まれた。だから、睦が苦しみ続けることになる Ave Mujica の復活を望んでいるのです。自分が消えないために …… わたくしは、睦を苦しめる選択などぜったいにしない。幸せにしなくては ……
海鈴:幸せである必要はあるんですか? 満たされたら、終わりじゃないですか! Ave Mujica をすれば、モーティスさんは生きられる。2人とも生き続けられる …… 生きていないと、幸せにだってなれないんですよ! 
祥子:それでも、わたくしに Ave Mujica は選べませんわ ……
(ここでモーティスの精神世界の舞台へカットバック。存在理由を失いつつあるモーティスの立っている舞台セットが崩れはじめる ── ここのシーンも、魔女殺しを終えたアメリカ娘のスージーが「赤い館」から脱出する『サスペリア』のラストと重なる。魔女という「蛇の胴体」でもある「赤い館」は頭を失い、崩壊しはじめる ── わたしの役とらないでッ!!」)
海鈴:豊川さんはモーティスさんを見殺しにするんですかッ! 
祥子:覚悟のうえですわ! 
 教養小説的にはトーマス・マンの『魔の山』あたりを連想するけれども、日本にも超絶スゴい大作がある。埴谷雄高(はにや・ゆたか)の『死霊』(「しれい」と読む)だ。バンドアニメでまさか生き死にをめぐる論争が出てくるとは想像すらしていなかった。おかげで考察がはかどる(微苦笑)。

posted by Curragh at 20:45| Comment(0) | TrackBack(0) | BanGDream! Ave Mujica

2025年04月05日

モーむつと DID

 『BanG Dream! Ave Mujica』(以下アニメムジカ)の物語が「音楽バンドもの」としてきわめて異形だと感じたのは、ラテン語サブタイ以上に、メンバーそれぞれの「表と裏の顔」(あるいは、仮面と役)という二重性を、ギター担当の若葉睦の多重人格問題と絡めて同時進行していた点にあると思う。頻出するラテン語関係の拙い考察は前記事のとおり。ここでは勝手に「モーむつ問題」と名付けた事柄について思うところを書き出してみます。

 他のムジカメンバーの科白にもはっきり出ているとおり、睦は多重人格者(Multiple Personality Disorder、MPD)として描かれてます。* ストーリー全体から受ける印象としては、幼少期のネグレクトを起因とした解離性同一性障害(Dissociative Identity Disorder、DID)により、「睦を守るために出現したモーティス人格」(交代人格、以下モーティス)と、「ギターが大好きだが自分を肯定できない主人格の睦」(以下、ムツミ1)の2者に分裂し、その2者が物理的にひとつしかない身体を奪い合う、といった流れです(親のネグレクト、一種の虐待を受けていたことは、ムツミ1が表情に乏しく、口下手で、ギター演奏の才があるにもかかわらず肯定できずに苦しんでいる描写に暗示されている。そして現実の DID 患者のほとんどが、そうした幼少期の問題がきっかけで発症している)。

 初見のときは当然、違和感のほうが強かった(そういう向きは少なくないと思うが…)。しかし何度か注意深く見ていくと、睦の内面問題を深く掘り下げていくことで、じつは各メンバーが抱えている問題も浮き彫りにする、一種のメタファーとして機能していることに気づいた。いちばんそれがよく出ていたと感じたのは「#10 Odi et amo./憎み、かつ愛す」の回。一見、女優志望の祐天寺にゃむが、自分のキャリアの前に立ちはだかる睦に抱くアンビヴァレントな感情を指しているのかと思ったが、これはそのままモーティスとムツミ1の関係にもあてはまる(し、もともと睦本人にはなんの感情も抱いていなかったはずの初華までギリシャ悲劇の仮面のごとき形相で、「私から祥ちゃん取らないで!」と憎しみを爆発させる#9の妄想カットとか)。モーティスはムツミ1が消えたら存在できない。ムツミ1を存続させるためにムジカ復活を画策するが、もともとが幼少期のイマジナリーフレンドだったお人形(モーティスのモデルについては、睦の部屋に転がっていて、#5で様子を伺いに来た元 CRYCHIC メンバーで現 MyGO!!!!! メンバー、クラスメイトでもある長崎そよが後退りしたときに踏んづけた青い髪の少女の人形ではないかという指摘がある)のため、思いどおりにいかなくなるととたんに赤ちゃん返りのような駄々をこねたり感情を爆発させたりする。愛憎相半ばしているのは物理的な他者のにゃむだけでなく、若葉睦という身体を取り合っている彼女の2つの人格でもある。

 発起人の豊川祥子ほどではないにしても(初華は抱えている闇がめちゃくちゃ深いが…)、Liella!(『ラブライブ! スーパースター!!』)の澁谷かのんが「不器用さんが多すぎだよ〜、あ、ワタシもか」と言ったように、ムジカのメンバーも皆、内面に問題を抱えている子たちの集合体。2つの人格のあいだを激しく揺れ動く少女の内面描写に時間をかけたのも、メンバーが抱える問題をただ同時に語らせるのではなく、多重人格に苦しむ若葉睦の姿を通して重層/重奏的に語らせたほうがより説得力が増す(現実味が出てくる)と判断したからかもしれない。もしこれ抜きだったら、ここまで強烈な印象は残らなかったと思うし、その企ては(完全というわけではないだろうが)成功したと思う。

 じつは先日、このようなスレッド投稿を見かけてひじょうに驚いた。投稿主自身が4年越しの DID の当事者で、この作品には、当事者にしかわからないような DID 特有の症状の描写が至るところに散りばめられていると絶賛している。しかもこれ制作した監督さん本人が謝意を述べているからもっと驚く。多重人格ものとくると、往年のダニエル・キイスの一連のベストセラー著作(『24人のビリー・ミリガン』など)がすぐ想起されるけれども、わたしたちが観たムジカという「かりそめの箱庭で歌い、舞う人形たちのマスカレード」は、現実の DID の症状をわかりやすく可視化した稀有なアニメ作品でもある、と評することもできる。DID の描写でとくに印象的だったのは #6、顔の右半分をムツミ1が、左半分をモーティスが支配して、それぞれ相反する表情を浮かべようと顔をひきつらせているカットでしたね。

 モーむつに関する最大のナゾは、「消滅していなくなったのか?」。これについても(はっきり言ってこの手の発言じたいが異例中の異例だと思うが)監督さん自身が明かしている。監督さんが言うには([]は引用者)、
…奈落の底でもうほぼ消えている「睦」[ムツミ1に相当]と最後の邂逅だけは果たしたというシーンになります。その後ギターを弾き始めたのはもう誰だかわかりません。睦もモーティスもいない、第3の人格というわけでもない。いろんな役が入れ替わり状況に対応するだけの状態という感じです。現在のムツミは、以前、みなみがにゃむに語っていた頃の状態とも若干違っていて、役ごとに人格と呼べるものがない。…いまはそれぞれの「役」がその状況で必要になったら勝手に出てきているような感じの、つかみどころのない人になっています

…だそうです。

 手鏡の中でモーちゃんとおぼしき姿が微笑んでいるカットついては、「モーティスも数ある『役』のひとつに面影を残すのみになった、というイメージ」で、「メタ構造」になっていると明言している。それでもそれを見えるように表現したのは、たんなるサービスカットを超えちゃってるんじゃないかとは思う。それまでのムツミ1と、それなしでは生きられないモーティスが、ユング心理学では無意識を表象する深い深い水の底(cf. 夜の海の航海)へと沈みつつ、互いの体のアウトラインが一体化するかのように消えていったとき、いままでのムツミ1とも違う、ほんとうの意味でありのままの、素の自分を肯定できつつある若葉睦(あるいは、その役回り)が形成されたように感じる。いま、ムツミ1と対立していた交代人格のモーティスはそれを無条件に受け入れ(無条件の愛、あるいは存在の全肯定)、「よくがんばったね」と笑顔を返すようになった、それが見えているのは若葉睦当人と、彼女の DID 問題で祥子やそよ、その他メンバーとともに「苦しみを共にしてきた」わたしたち視聴者だけだ、という理解でいいような気がする。ギターを巧みに弾いていたのは、自分の存在をあるがままに肯定できつつある、成長の階段を一歩上った現在進行形の若葉睦なのかもしれないし、監督さんが言うように、ムツミという人間の役の引き出しのひとつにすぎないのかもしれない

 #8の個室カラオケのカットで、「ムツミちゃんなんて、最初からいないよ」とすごむモーティスについては、その前のエピソードで祥子が言っていたように、ほんとうにいない、存在していないのではないと思う。あくまでもモーティス主観の発言であり、自分の目的達成のためならなんだってしそうなにゃむと同様、「自分が消えたくない」モーティスの膨れ上がるエゴ、自我がそう言わせたのだと解釈している。

 ムツミ1とモーティスとの争いという視点で見返すと、動物的な直観(?)にすぐれた要楽奈の顔つきの微細な変化描写も真実味があって軽く感動を覚える。#6で「ギター、弾く…」と言って、祖母から譲り受けた年季の入ったギターを演奏しはじめると、楽奈のギターが「歌ってる…」と気づいたムツミ1が深い眠りからようやく覚醒した。覚醒後のムツミ1が1日限りの CRYCHIC で演奏し終えたとき(成り行きでそういうことになった)、楽奈がそれとなく鋭い目でムツミ1のほうを見やったのは、ムツミ1が目覚めたこと、そして自分にとって好敵手となりそうだとピンときたからだろう。

 あと本題とは関係ないが、最終話の最後にかかったムジカ楽曲はいわゆる天球の音楽で、クラシック音楽好きでもあるのでつい ↓ なんかも思い出していた。

 ──すべて過ぎゆくものは比喩に過ぎない ……
 名状しがたいことが ここで成し遂げられた
 永遠に女性的なるものが われらを高みへ引き上げる
 (G. マーラー「交響曲 第8番」〈千人の交響曲〉から第2部の神秘の合唱から)

* ... 『精神疾患の診断・統計マニュアル』(DSM、全米精神医学協会刊行)、および国際疾病分類(ICD、世界保健機関刊行) による多重人格障害/解離性同一性障害の定義の一部:
@ 患者の内部に二つ以上の異なる人格が存在し、ある特定の時点にはそれらの一つが優勢となる
A これらの人格または人格状態の少なくとも2つが反復的に、その人の行動を完全に制御している
B … 1つの人格から他の人格への変化は最初の場合は通常突然に起こり、外傷的な出来事と密接な関係をもっている ── F.パトナム 他[著]、笠原敏雄 編『多重人格障害 : その精神生理学的研究』春秋社、1999

posted by Curragh at 15:20| Comment(0) | TrackBack(0) | BanGDream! Ave Mujica

2025年03月29日

「ラテン語」バンドアニメ『Ave Mujica』解題

 だいたいいつもそうなのだけれども、この作品と出逢ったのも、何気なくチャンネル変えたらいきなりゴシック体のラテン語サブタイトルが飛び込んできたのがきっかけ。"Exitus acta probat." ??? のまま見始めたらジョイスの小説よろしく、ストーリーや設定がブッ飛んでいてよくわからない。この作品の前編に当たる『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』とセットで観ないと理解不能なため、無料配信中だったこともありそちらも全編観て、『BanG Dream! Ave Mujica』(以降アニメムジカ)の物語と並行してその都度見返してました(『バンドリ!』シリーズは初期のポピパしか知らない人なので)。

 つい先日、「ガールズバンドもの」としてはきわめて異形のアニメムジカ本編が大団円を迎えたので、視聴しているあいだにいろいろ思ったことなどをエピソード順に思いつくまま書き出してみます。あくまでもワタシはこう思ったていどなので、その点はご了承を。以下、サブタイトルの日本語版は拙訳、公式さんの解釈とはいっさい関係ありません。[ ]は、下敷きにした可能性のある神話伝承や雑記とか。
#1 Sub rosa./薔薇の下で;恋愛の神クピド(アモール)が母のウェヌスの情事の秘密を漏らさないよう、沈黙の神ハルポクラテスに薔薇を贈ったことに由来。転じて、「『秘密』を象徴するバラを天井に描いたり、吊るすことで、その部屋の中で話された内容の秘密厳守を求めた習慣に由来」(英オックスフォード大学出版局の X 投稿より)
降りしきる雨の中、隠そうともせず慟哭しながら歩く豊川祥子(とがわ・さきこ)と、傘を差し出そうとしてもできずに立ち尽くす幼馴染の若葉睦(わかば・むつみ)。明るかった祥子は人が変わったように表情が翳り、彼女の事情を唯一知る睦も祥子の苦境を思う同苦(compassion)のあまり、しだいに精神が壊れていく[cf. ユングの言う「夜の海の航海」、オルペウスなどの古くからある「冥府行き」伝説群]
#2 Exitus acta probat./結果がすべてを明かす;オウィディウス『名婦の書簡』第2歌の引用。「ある者はこう言った。『いますぐ彼女をアテナイへ送れ。武器を担うトラキアの支配者はほかにもおろう。結果が良ければそれで良し』」
#3 Quid faciam? /どうすればいいの? 出典不明。cf. ウルガタ訳ルカ福音書16:3の「不正な管理人」のたとえ話に、”ait autem vilicus intra se quid faciam quia dominus meus ...”(どうしようか。主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている…)という一節ならある。睦がいままで内面の奥底に閉じ込めていたもうひとつの人格が初めて「モーティス人形」の姿で出現。「モーティス TV ショー」≒睦の脳内で再生されるカルテジアン劇場。自分のせいでまたバンドが壊れるという極度のストレスで不眠に陥っていた睦は、差し出せなかった傘を差し出すモーティスの誘惑をついに受け入れ、巨大化したモーティスに呑みこまれる[cf. ダニエル・キイス『五番目のサリー』などが取り上げた多重人格と、その元凶となった両親のネグレクトを暗示。モーティス人形は、たとえば『サスペリア2』(1975)に登場するグロテスクな人形なども連想させる]。ステージ上でただひとり、ドラム担当の祐天寺にゃむ(地方から単身上京してショービズ世界で活動するメンバーで、「普通の感性」の持ち主)が睦の天賦の才に気づき、慄然とする
#4 Acta est fabula./芝居は終わった;初代ローマ皇帝アウグスティヌス臨終のことばとされているもの。ドアをコツコツ叩くモーティスのカットは往年のオカルト洋画そのもの[cf.『シャイニング』(1980)]。睦に嫉妬していたにゃむが、睦の多重人格に気づいた祥子の発した「睦に戻ってきてほしい」という弱音を聞いて、怒りを爆発させる
#5 Facta fugis, facienda petis./成したことから逃れ、これから成すことを追う;出典はオウィディウス『名婦の書簡』のディードーの手紙から。元 CRYCHIC(クライシック)の仲間だった長崎そよが睦の寝室に入るラストカットも、やはり '70 年代オカルト洋画『サスペリア』(1977)によく似ている[cf. 主人公のスージーが、バレエ学校院長の年取った魔女の眠る秘密の部屋に忍び込み、寝ていた魔女に気づかれ、それに驚いた拍子に背後の金属製のクジャクの調度品を床に落下させる]。
#6 Animum reges./汝、心を制すべし;“Animum rege”と s なしのほうなら、ローマの詩人ホラティウスの『書簡詩』に用例がある[cf. ロアルド・ダール『魔女がいっぱい』(評論社、2006)が『いじわるな青い魔女』の元ネタか(?)]。絵本の表紙に赤クレヨン(またしても赤…)ぐりぐり描いていた ⊗ は交通標識の通行止め。モーティスと「祥子を想う」主人格の睦との闘争の暗示。MyGO!!!!!(以下、マイゴ)のギター担当・要楽奈(かなめ・らーな)がモーティスの中で眠る主人格の睦の存在を見抜く。楽奈の「歌っているギター」を聴いて、眠っていた睦が「小さな人形」として覚醒。真相を知り衝撃を受けた祥子が、マイゴの現メンバーで元 CRYCHIC の仲間だった高松燈(たかまつ・ともり)とマイゴの事実上の発起人の千早愛音(ちはや・あのん)に問われて、思わず「CRYCHIC も睦もムジカも知らない」と3度否定する[cf. バッハ「マタイ受難曲」の「ペトロの3度の否認」]
#7 Post nubila Phoebus./雲の背後に太陽;Phoebus はギリシャ神話のアポロン。強制的に睦の家に連れて行かれた祥子は自分の犯した罪を悔い、泣き崩れる[cf. 鶏が鳴いたとき、ペトロはイエスを裏切ったことを激しく後悔して泣き崩れる]。はじめ人形だった主人格の睦の自我がだんだん大きくなり、鏡の中に閉じ込められた姿で描かれる。睦が鏡から出ようとすると、体を乗っ取ったモーティスは逆上し、鏡を割る。モーティスはどうも退行人格のようで、行動も直情的かつ幼児的。そのくせ「お塩撒いてちょうだい!」という古風な言い方は知っているのね…。鏡の中から抜け出した睦は、お百度参りよろしく睦の家に通い詰める祥子にようやく会えたものの、主導権を握ったモーティスが祥子を突き飛ばす[cf. ダブルバインド的行動]。睦のいなくなった学校の野菜園でとれた「曲がりくねったキュウリ」の差し出しの描写(睦が育てないとまっすぐで「健康な」キュウリにならない)
#8 Belua multorum es capitums./多くの頭を持った怪物;ほんらい capitum (head を意味する caput の複数属格)で終わるべきだが、不要な s が付されているのは睦の多重人格やメンバーの表の顔と裏の顔の暗示か? 出典はホラティウスの『書簡詩』(Epodi)第1巻/第1歌。ホラティウスはローマの民衆を「多くの頭を持つ怪物」と呼び、「民衆の意見と欲望は多種多様で変わりやすい。いったいわたしは何に従えばよいのか」「あるいは誰に従えばよいのか?」と続ける
#9 Ne vivam si abis./あなたが去るなら、わたしは生きられない;出典不明。アイドルデュオ sumimi のひとりで、祥子に誘われてムジカ入りした三角初華(みすみ・ういか)が、CRYCHIC 復活の噂を聞きつけ、たまたまマイゴの燈といた睦に真意をただす。祥子を守る一心で発したことばに初華は激昂し、モーティス化した睦を階段から突き飛ばす妄想に苛まれる。ムジカ復活を企てるメンバーのベース担当の八幡海鈴(やはた・うみり)が睦、祥子、初華、マイゴのメンバーと話し合っている現場にやって来たにゃむ(と、その場に居合わせたマイゴの楽奈)だけがモーティスの三文芝居を見抜く。苦境に立たされたモーティスの背後に睦の人格を象徴するギターが落下し、睦とギターを奪い合ううちに睦のほうが階下へ転落する[cf. 赤基調の一連の闘争シーンと劇場セットの建物は前出の『サスペリア』のバレエ学校「赤い館」も連想させる。睦の自室にも同じくトウシューズ(よくよく見たら正確にはバレエシューズのようです)が転がっていて、「睦ちゃんが死んじゃった! もしもし!」とパニックになったモーティスがトウシューズの受話器に必死にすがりつく。観客席で何十人もの睦が拍手しているのは、かつて存在し、いまは消滅した内面世界のさまざまな副人格の睦たちだろうか。建物セットが崩壊しつつあるのは、消えた睦たちのいる観客席側にはやくおまえも来いという暗示か?]
#10 Odi et amo./憎み、かつ愛す;出典は、ローマの恋愛詩人カトゥルスの「85番」と言われる短詩の冒頭句「わたしは憎み、かつ愛す。なぜそうするのかきみは尋ねるかもしれない。自分でもわからない。ただ、そんな気持ちになるのを感じ、苦しいのだ」から[cf. ドイツの作曲家カール・オルフのカンタータ「カトゥリ・カルミナ」(=カトゥルスの歌、1943)]。初華は廃棄処分寸前の祥子のオブリヴィオニス衣装を自分のアパートに持ち帰って添い寝したり、祥子の邸宅に連れ込もうとするにゃむに抵抗するなど、ここまで隠されてきた初華の秘密があぶり出されていく。にゃむが初華を豊川邸まで連れてきて部屋に入れてもらうと、ヘッセの教養小説『デミアン』(1919)を読む祥子がいた[cf.「一つの宿命が私の上におおいかぶさっていた。それを突き破ろうとするのは無益なことだった」──『デミアン』新潮文庫版、p.53]。「アモーリス」のにゃむに「ずるくて、うらやましくて、愛してる」と言われたモーティスは、それをほかならぬ睦に言ってほしかったことに気づく。復活公演の舞台で演奏するフリをしていたモーティスだが、自分は睦なしでは生きられないと悟り、身投げする。先に落下していた主人格の睦を抱いてともに転落していく[cf. ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』のフィネガンの転落≒人類の転落とその救済]。イマジナリーフレンドに戻ったモーティスと統合した主人格の睦は、初華の歌唱に合わせるように突然ギターを奏で始める。睦はギターを歌わせることができるようになっていた[cf. Crucifix X の出だしはベートーヴェンの「月光ソナタ」1楽章冒頭+バッハ「トッカータとフーガ」BWV565 のフレーズからだろう。嬰ハ短調 ⇒ ニ短調の転調。ついでに“X”は、イエスの弟子のひとりアンデレが磔にされた十字架の姿であり、出だしの「月光ソナタ」冒頭の調号もシャープ4つの十字形 ⇒ 聖アンデレ十字]。海鈴は睦の変化を感じ、にゃむはうつむく。ムジカ復活公演の屋外広告に書かれたラテン語(auferte memoriam vestram)は、英訳すれば Take away your memory くらいの意味
#11 Te ustus amem./灰になっても愛す;出典は、ローマの恋愛詩人プロペルティウスの『哀歌』3巻 15 章(「火葬の積み薪で焼かれてもあなたひとりを愛す」)から。マイゴ最終回で、ムジカのデビューライヴ冒頭で初華が独唱したイングランド古謡「グリーンスリーヴス」(歌詞に「長い間あなたを愛していた/そばにいるだけで幸せだった」という一節がある)が再び初華自身によって歌われ、隠された彼女の過去が 20 分超のモノローグで明かされる[cf. 私生児設定で思い出すのはたとえばケルト航海譚の『メルドゥーンの航海』]。三日月が照らす小豆島の海のカット[Ave Mujica がなんで musica でないのかが不明だったが、ひとつ可能性として、もともとラテン語アルファベットは 23 文字しかなく、i=j だったことを思い出した(u ももとはなくて、中世教会ラテン語の時代は v と混用されていた。cf. Nauigatio Sancti Brendani = Navigatio Sancti Brendani)。それで表記すれば Muiica。これを分解すると m〈isumi〉+uiica でム+ウィイカ、すなわち≒三角初華と読める。ほとんど恋愛感情と言ってよいほど祥子に対する思慕が強い初華の名前に、幼くして亡くした母を思って祥子が Ave Mujica と命名したのかもしれない。もしそうだとすれば、このメタルバンドのラテン語コンセプトも世界観もすべて祥子・初華の合作ということになる*]
#12 Fluctuat nec mergitur./たゆたえども沈まず;16 世紀からあるパリ市のモットー。[cf. デルフィの神託によれば、アテナイは海に浮かぶワインを満たした革袋のように波に揉まれるが、沈むことはないという(『ラテン語名句小辞典』 研究社、2010)]。「他者の敷いたレール」という運命の歯車に抗うかどうか逡巡する祥子に突風が吹きつけ、彼女はスイス行きから逃れる[cf. 祥子が読んでいた『デミアン』の作者ヘッセは 1924 年にスイスに帰化している]。祥子が初華と再会したのはバラ園で、ここで初回のラテン語サブタイ“Sub Rosa”が回収される(2人だけの秘密の共有)。また、「おお友よ、このような調べではなく…」で開始されるベートーヴェンの「第九」終楽章的な転換、あるいはバッハの「フーガの技法」の 12度・10 度で原形主題と新主題が互いに入れ替わる転回対位法による4声二重フーガのように、ここまでの「運命の歯車」が逆転し始める。それを暗示するかのようにオープニング/エンディング曲の反転。ちょうど真ん中のエピソードの #11 を挟むように、#12 と #10 ではオープニングとエンディングが変更されている]。また「キュウリの代わりにゴーヤを育てる」に関して、ゴーヤの花言葉は「強壮」「生命力」など
13 Per aspera ad astra./艱難を経て星へ;英訳すれば Through hardships to the stars. 出典不明だが、一説には、セネカの長編詩『狂えるヘルクレス』(Hercules furens)の“ Non est ad astra mollis e terris via.”、「この大地から天へ至る道は険しい」からとも。米カンザス州のモットーに採用されるなど、ひじょうに有名な格言。ライヴハウスでのマイゴのライヴと同時進行する復活したムジカのマスカレードライヴ。演劇のモティーフは順に円卓の騎士/アーサー王伝承群、騎士叙階(剣先で騎士の肩を叩く、dub して騎士として認めること)、ラグナロク/『エッダ』や北欧神話など。そういえば公演ポスターにもラテン語で mythologia(神話)と表記されていた

 最終話の演劇については、神話的でありながらそのじつメンバー個人がくぐり抜けてきた苦難(per aspera ...)そのものがカタチを変えて語り直されているだけで、それを知っているのはムジカのメンバーと「共に苦しみ」(compassionate)、「共犯者」(accomplice)となったわたしたち視聴者(目撃者、witness)で、マスカレードの観客ではない。だからわたしたちも彼女たちの共犯者という「仲間」なのだ。

 初回から「月の光でかりそめの命を宿した人形たち」という舞台劇だったり、祥子が学校の音楽室のピアノで弾いていたのも「月光ソナタ」で、メンバーネームも月の湖と入江※ からとられているので、マイゴが太陽の物語だとしたら、こちらはそれに照らし出される月の物語、と言えるかもしれない。いずれにしてもモーむつ氏の内面世界の描写の多さや(終盤にきてやっとカタルシスが訪れるとはいえ)、個人的にはわたしたちの誰もが抱える普遍的でありながらきわめて個人的な問題、つまり人間がよく描きこまれた作品だと感じた。それゆえ見た目はどぎつい色彩のオカルト色満載ゴリゴリのメタルバンドの物語ながら、もしこれをアニメではなく最初から小説として発表したら、日本発の最高にロックな教養小説(ビルドゥングスロマン)になるのは間違いないと思う。「Imprisoned XII」のサビ(I say you're mine, your mine/ほら すぐそこにいるのに)でモーティスが、ボロボロに崩壊した精神世界の屋敷から身投げして、ギターを奪い合っている最中に突き落としてしまった睦をかき抱(いだ)き、涙の雫を散らしながらギターを睦に託して沈んでいく描写は、こちらも涙なしに見ることができなかった。最終話で、客席に挨拶する睦が手にした手鏡の中で微笑むモーティスを見て救われたように感じた人はきっと少なくないだろう。前編のマイゴとのバランスをぶち壊すほどの圧倒的なストーリー展開だったけれども、まだ描かれてない部分や伏線も残っているため、続編が制作(北欧ロケ ?!)されるとのことでうれしいかぎり。「なんでバンドアニメでラテン語なの?」で見始めた本作だが、『ラブライブ!』シリーズと並んでまたひとつ楽しみができた。

❋ 祥子の科白に出てくる「同じ穴のむじな」(mujina)と musica の造語の可能性も指摘されている。またヘッセの『デミアン』にはほかにも「牧師さんの教えているとおりではない、違った見方もできる、それには批判が可能だ」(ibid., p.81)、「それは、責任の声と、もう子どもではいられない、ひとり立ちになるのだという声とを宿していたので、きびしく、荒い味がした」(ibid., p. 95)とある。祥子が結成した当時の Ave Mujica は「同じ穴のむじな」とは程遠い、各メンバー間のエゴ丸出しのてんでバラバラなユニットでしかなく、そのため祥子は孤立し、結果的にバンドは解散という死を迎える(前編のマイゴは学生アマチュアバンドとしての絆が描かれていたから、最初から商業バンドとして結成された Ave Mujica とはこの点でも対照的)。しかしその後のメンバーの声と、初華を連れ帰るフェリー上での「すべてを肯定したうえで、なかったことにする」と決意したときの祥子は明らかに精神的な変容を遂げた。祥子視点で見た Ave Mujica は思春期に通過するイニシエーション装置のようなものとも言えるが、物語後半でバンド復活を望む各メンバー間にははっきりとした絆が生まれはじめていた。だから Ave Mujica というバンドはほんとうの意味でのスタートラインにここでようやく立てた、それを描くための物語(舞台装置)だったと思っている。

※ 悲しみの湖(Lacus Doloris)/死の湖(Lacus Mortis)/忘却の湖(Lacus Oblivionis)/恐怖の湖(Lacus Timoris)/愛の入江(Sinus Amoris)

posted by Curragh at 02:12| Comment(0) | TrackBack(0) | BanGDream! Ave Mujica