2026年05月16日

“That's Journey”on St Brendan's Day! 

 静岡県内の地上波では放映されてなかったので、今年になって某ネット配信チャンネルにて初めて観た『ざつ旅』。とくに初回冒頭、福島県会津若松市の山あいにある東山温泉を見下ろす山に鎮座する羽黒山湯上神社へと至る、1225 段(!)の石段を登っていく描写を何度か観ているうちに、ふと次の一節を思い出していた↓
…… 彼[聖ブランダン]が火の傍らに立っていると、一人の天使が天から降ってこう告げました。「ブランダンよ、そなたはなぜ真実を火中に投じたのか。書物で読んだよりさらに偉大な不可思議を、神がおできになるとは知らないのか。生ける神にかけて、私はそなたが旅立ちの準備をするよう命じる。書物で読みながら火中に投じてしまった不可思議を、そなたはすべて見なければならないからだ。それにまたそなたが真実を燃やしてしまったことを悟るように、まるまる九年間海上を航海しなければならない」……
 これはラテン語版『聖ブレンダンの航海』をベースに、アイルランドゲール語で書かれた『聖ブレンダン伝』などから採録した挿話を混交させて成立した、中世高地ドイツ語散文版の Sankt Brandans Seefahrt を故 藤代幸一氏が本邦初訳して解説した編訳本(『聖ブランダン航海譚/中世のベストセラーを読む』法政大学出版局 1999)からの引用。いっぽう『ざつ旅』のほうは、初回(第1旅)でヒロインの鈴ヶ森ちかの、千段を超えるいにしえの石段を登るという難行苦行に挑む姿が、仏教的な言い方をすれば生老病死の四苦から逃れられない人の生という名の階梯を一歩一歩踏みしめて登っていくメタファーにも見え、深い共感をおぼえた。

 かたや、中世初期アイルランドのケルトキリスト教会の修道生活を背景として、北大西洋のさまざまな驚異(ミラビリア)をめぐる航海譚、かたや漫画家志望者の女子大生がふとした気まぐれからふらりと国内旅行に出る漫画が原作のアニメ作品を同じ俎上に載せるというのは、それこそザツ過ぎないかとのそしりを受けそうだけれども、双方の物語の始まり方からして(時空を超えて)ちょっと似ている。「神が天と地でなされた大いなる不可思議が書かれている」書物を手に入れたブランダン(ブレンダンの異綴り)修道院長、「なんだコレは!」とばかりにその書を火にくべちゃったがために、天からやってきた天使のお咎めを喰らい、その書を燃やした(焚書のメタファー)罰として9年ものあいだ大いなる大洋をさまよえと命じられてしまう。いっぽう『ざつ旅』の鈴ヶ森ちかの場合、雨が降りしきるある日、角◯書店の漫画雑誌編集部に力作ネームを3編たずさえて乗り込んだものの、担当編集さんから全ボツにされ、帰路には無謀運転(?)のクルマに盛大に水を浴びせかけられる。

 共通項は、どっちの protagonists も、自ら望んで/進んで航海、つまり「船旅」や、陸路の「旅」(英語の journey も、水陸問わずに長い行程の旅≠指すことば。ついでに journeyman というのもあり、こっちは長い修業を経て一人前になった職人のこと)に出たわけではない、ということ。ブランダン修道院長は、自分が火にくべちった「神が天と地でなされた数々の不可思議を書いた本」を復元≠キるために 12 人のお弟子さんとともに船出する。鈴ヶ森ちかのほうは、せっかく描き上げた漫画のネームをみんなボツにされたことに対してなかばヤケクソで実施したダベッター(笑)アンケートで示された、「東京の上のほうへ向かえ」という結果に従って出発する。両人とも、出発直前になるまで旅に出る気なんてさらさらなし。「…… 船上の人となりましたが、大きな不安は隠せませんでした」(聖ブランダン)、「どうしよう …… これもう …… 逃げられない!」(ちか)

 それでも両者は「喜んで神の命に従って」/「だけど、旅に出たい …… その気持ちは、ウソじゃない! 行こう! アンケート1位の上のほう!!」と覚悟を決め、大いなる海原へ出帆する/初めてのひとり旅に出る(「磐梯熱海」の由来は寡聞にして初耳。さまざまな雑学が学べるのもこの手のアニメ作品の魅力でもある)。

 『ざつ旅』第1旅のハイライトの羽黒山湯上神社へつづく 1225 段の石段登りは、時代と宗教的背景(仏教・修験道・神道が混ざった神仏習合型神社と、ケルトキリスト教修道院文化)とスケールこそ違えど、人はなぜ旅に出るのか≠ニいう根幹についてはさほど違いがないのではないか、と思う。鈴ヶ森ちかの場合、大海原に出たブランダン一行と違い、悪竜にも、恐ろしい人頭魚尾の海の怪物にも、悪魔の群れにもサイレン(セイレーン)に襲われることはないし、そもそも日本の東北地方に向かっただけの短い国内旅行に過ぎない。昨今、「都会グマ」に遭遇するリスクが高まっているとはいえ、ブランダン一行のような文字どおり命がけの船旅を強いられているわけでもない。あちらはキリスト教修道生活のメタファーがそこかしこに散りばめられた一種の教訓話であるのに対し、こちらは国内旅行を通じて、若い漫画家志望のヒロインの精神的成長を描いた教養小説的物語。それでもなぜか両者に通ずる何かを感じたのは、この 1225 段の石段登りに人生という旅路のメタファーを感じとったせいだからかもしれない。それが芸術家のタマゴ氏のお話とくればなおさら。そしてどちらの物語も、主人公(たち)は行き当たりばったり、あっちこっちさまよってばかりいる。人生は迷いの連続、でもそれでいいのだ、的なメタテーマも感じられる。

 もうひとつ『ざつ旅』で印象的だったのは、ちかの中学時代からの親友・蓮沼暦のエピソード。彼女は大好きな親友が晴れて漫画雑誌にアンソロジー作品の掲載が決まったとき、胸のうちに秘めた迷い≠打ち明ける。
「なんか、モヤモヤしてたんだ。鈴ちんは漫画家っていう目標に向かってガンバってて、すげえと思うんだ」
「んなことないよォ。いろいろ道は険しくてだなァ、まだまだ先は長いよォ …… 」
[cf.「ひとりひとり別々になって、森の中へ、ひとりはこちら、ひとりはあちらと、森がいっそう深そうな方へ、道も小径もないところへと出発した」──作者不詳・中世フランス語散文物語/天沢退二郎 訳『聖杯の探索』人文書院、1994、p.48]
「ん〜でもぉ、目標があることじたいすごいよォ。アタシは大学入ってバイトしたり、…… この先どうなりたいとかなかったからさぁ。でも[宮沢]賢治さんの詩とか見て、褒められなくても誰かのために笑顔でいたいって、カッコいいなとか思ったわけ。それでアタシも、アタシに関わる人くらいは、ちょっとでも楽しく、幸せにできたら …… アタシはそんな、賢治さんみたいな学校の先生を目指すことにした」──『ざつ旅』「第 10 旅:ココロのふるさと」より
 最後にこの「ドイツ民衆本」のベストセラーたる主人公の聖ブランダンと、『ざつ旅』ヒロインの鈴ヶ森ちかは、ともに当初の目標を達成して終わる。ブランダン修道院長のほうは自分が火にくべた書物≠フ復元を、さまざまな海洋の驚異を自分の目で見た顛末を「もれなく一冊の本に書き記し」て神から命じられた旅の目的をまっとうした。ちかのほうは念願かなって、「特別読み切り」として美しい百合(?)ものの自作の雑誌初掲載をものにして、新人漫画家としての一歩を踏み出した。

 生一切皆苦とは仏教の教えながら、それにもめげず、人はなぜ生きるのか。あるいは、それを再確認するための旅に出るのか。そのヒントは、ちか自身の口から語られる。
わたしは、なんだろう。…… ただ、あのときああすればよかったって思うのがイヤなだけなんだよ。それはいまも同じで。前に旅でさ、すごい長い階段見つけて。1225 段だよ! ああ、これ登らなかったらあとで後悔するってピーンときて。うまく言えないけど、そう思ったことだけは、逃さないようにしたらいいんじゃないかな? ──『ざつ旅』「第3旅:そのままのコシで」より[太字強調は引用者]


 印刷革命期のいわゆる揺籃期本(インキュナブラ)が出回っていた頃にこの中世アイルランド西海岸の修道院長ブランダン/ブレンダンの航海物語を読んで、先述したような「いかに生きるか」の道しるべなり、励ましなりを当時のヨーロッパ大陸にいた読者は受けとっていたのだろう。翻っていまそれを示してくれるのが、こうした一見、なんの変哲もなさそうなお仕事系/プチ非日常系アニメ作品なのかもしれない(そして本日5月 16 日はわれらが聖ブレンダンの祝日であると同時に、なんとなんと、日本では「旅の日」でもあるという事実をいまさらながら知った)。

posted by Curragh at 19:56| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ作品雑感

2025年10月13日

『雨と君と』

 先日もすこし触れたけれども、この手の「何気ない日常に潜む非日常」を感じさせてくれる作品が個人的に好きでして、なんの予備知識もなく見始めたこの作品はまさにジャストフィット(微苦笑)。

 お話は、梅雨入りしたとおぼしき季節、ヒロインの小説家が、見ず知らずの目の不自由な老婦人に高校時代に使っていた傘を差し上げるシーンから始まる。ずぶ濡れになって、ひとり暮らししているマンションに帰る途中、どう見てもタ✕キにしか見えない(しかも頭頂部に葉っぱまで乗せている)自称犬≠拾い、自宅へ連れ帰り、次の年の梅雨を迎えるまでの「ひとりと1匹」のほのぼのとした日常が活写されている。

 … 全 12 話を見終わって感じたのは、ひとことで言えばジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』(1922)に出てくる次の一節とほぼ同じではないのか、という感慨だった。
スティーヴンは窓のほうへ親指をぐいっと突き出して言った。
──あれが神です
(柳瀬尚紀訳『ユリシーズ 1−12』 河出書房新社刊, 2016, p.66)

 これは、ダブリン市内の学校で歴史を教えているスティーヴン・デッダラス(※ 柳瀬尚紀訳版。ほかの邦訳書ではディーダラス表記が一般的)が、校長のディージーに向かって言った科白。「創造主の道は人間の歩んできた道とは違う」と説教じみたことを言い出した校長に、窓の外でサッカーに興じている子どもたちを指差して、「そうじゃない、神は、ああいう『街の声』の中にこそいるのだ」とそれとなく反論したくだり。一見なんの変哲もない、とりたててどうということのない日常がじつは奇跡の連続なのだ、ということをふんわりと包むこむようなやわらかい科白まわしと人物描写で表現しているようにワタシはこのアニメ作品から感じとれたので(唯一、シリアスっぽかったのは、第4話の神社の夏祭りで「君」がいっとき行方不明になった場面くらい)。

 それがいちばんよく表れているのが第7話「なんでもない」のラストで出てくる。フリップ(スケッチブック?)にペンで文字を書くという特技を持つ自称犬の「君」の飼い主になったヒロインの小説家・藤が、「今日はいい日?」と「君」に問われる。「べつに。なんでもない日だけど…」と答えると、こんどは「ぜひあしたも同じ日で」と書いた紙を見せられた。すると藤はやさしく微笑みながら、「同じ日はないのよ」と返す。「なんでもない日なんてあるんだろうか …… やっぱり書けないや」

 小説家としての日常(つまり執筆)と小説家ならではの創作の苦しみを描いているところもすごくリアルで、いちおうこれでも文筆業やってる端くれとしては「わかるわ〜その気持ち」という共感しかない場面が多かったのもおおいに◯なんだ YO(Zoom かな? ああいう形式で編集者と打ち合わせしたことなんかも思い出された)! 

 藤の高校時代からの2人の親友とのやりとり、動物病院の獣医、隣家のドイツ系ハーフの饒舌な少女、毛色の変わった女子生徒2人組とのややすっとぼけたユーモアを交えたやりとり、季節が移り変わる空気感や、いかにもおいしそうな食事やデザート etc. が丁寧に、いとおしく描かれている点もいい。すこしお高めの紅茶を淹れて、さらに手許にお気に入りの一冊もお供にして、それこそアーノルド・ベネットじゃないけど文学本を熟読玩味するように、秋の夜長に慈しむように味わいたいアニメ作品。

 そしてこれは余談ながら、第8話「鳴き声」で藤が偶然出会った老婦人の声は、バンドリ! シリーズでおなじみのライヴハウスの元オーナーでマイゴ(MyGO !!!!!)のギター担当・要楽奈(かなめ・らーな)の祖母の中の人と同じで、「君」の声は、『ラブライブ!』シリーズで有名な動物の声が専門の声優さんがアテている。
……(雨が降らなかったら、出会わなかったかもしれない)。わたしと、わたしの書いた本はべつだから、いまは内緒でいいの。たくさん本を読んでいたら、いつか出会うよ(出会った、……)。わたしと希依ちゃんだってこうして出会ってるんだから
(…… 出会わなかった、出会いたかった。そうかもしれないけど、出会えた。似たような顔をしているから、間違えてしまうけど。出会いは偶然なんだろうか?)
ほんとうに必要なら、ちゃんと出会えるよ。すこし不思議だけどね ……
(偶然じゃないとしたら、あなたはなぜわたしを選んだんだろう?)── 第9話「秘密」より

 ──これが神です(by スティーヴン・デッダラス)

* episode0で、藤が髪をばっさり短くしてショートにする場面がある。その偶然≠ェ、「君」との出会いの伏線になっているように思う。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるんるんるん

posted by Curragh at 03:15| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ作品雑感