2008年03月09日

『ユダの秘密』

 ここでも何度か取り上げた、ジェームズ・ロビンソン博士による「『ユダの福音書』を追え! 外伝」みたいな本の邦訳です。前にも書いたように、初版本を底本とした訳稿が上がりかけたころ、原著者ロビンソン博士から「五月雨」式に「謹製増補改訂稿」が――おそらくいまのご時世なので電子メールにくっつけて――つぎつぎと送りつけられてきた。版元と協議した結果、章立ては初版に準じる旨、ロビンソン博士に了解を取りつけ(増補改訂版原本は章立ても変更されている)、さてようやっと訳了、と思いきや、「決定稿ができたよ〜♪」とまたぞろ博士から送りつけられた。このため、いったん初版+追加分といったかたちで邦訳が脱稿したにもかかわらず、けっきょく「完全な第二版」を底本とし、章立ては初版にもとづき、追加分を入れたという、なんともややこしいことになってしまった。このへん、訳者先生のご苦労は並大抵のものではなかったろう、と思う。でもまあ最近は本も出来上がってない段階、ゲラ刷り以前の段階から著者と連絡取り合って、原本とほぼ並行して翻訳も進める、というパターンが増えているようなので、取り立ててどうのということはないのかもしれないが、このへんからしてこの老大家の人となりが透けて見えてくるようなエピソードではある。

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 かんじんの内容ですが、「正典4福音書」をちらとでも読んだことのない読者にとっては役に立つ情報はあるように思います。ロビンソン博士が長年携わってきた「Q資料」と絡めて、正典福音書成立の背景を懇切丁寧に解説してくれているからです(「1. 新約聖書のユダ」、「2. 歴史上のユダ」)*。しかしながら、このへんの事情をすでに知っている向きには、とりたてて目新しい情報もこれといってなく、やたらと目に付くのは米国地理学協会(以下NG)顔負けのイエロー・ジャーナリズムもどきの「ユダ福音書」再発見までにいたる、内幕すべてぶちまけるぞといったたぐいの暴露がほとんど(4,5,6章。それとあらたに追加された「序言 2006年のイースターの狂騒」。ここだけ読むと内容は学術的でもなんでもなくて、いかにも俗っぽい暴露本のたぐいです)。前にも書いたけれど、ロビンソン博士も何度かこの問題のコプト語古写本に手をかけ損なった経歴の持ち主なので、「読者が手にしておられる本書は…詳細を内々に知らされているわけではない部外者」が書いたもの、なんて「まえがき」で断ってはいますが、それは「ものは言いよう」でしょう。「目くそ鼻くそ」のたぐいですね。

 それといまひとつ気になるのは「実際、私はそのような議論を行った一人なのです(p.152)」、「私はこの点を論じるためだけに論文を七つ発表しています(p.153)」、「私は、…という本で、『マリアの福音書』を英語で読めるようにした最初の人間です(p.154)」。なんかこのへんだけ取り出すと、カウボーイハットにジーンズのあの博士を彷彿とさせますね。とにかく「わしが、わしが」といった書き方が目につき、ハナにもつく。

 改訂稿用の完全な書き下ろしは「序言」としんがりの「7. 『ユダの福音書』」ですが、「チャコスは古物取引きのユダ」呼ばわりしている「序言」はしょせんは新聞報道やその他ライターによる記事の焼き直しにすぎないのでこれはともかくとして(もっとも書かれていることは事実。チャコス女史は「お尋ね者」になり、一度、イタリアの警察にご厄介になっている)、役に立ちそうな記事は最終章くらい。それでも先日ここで取り上げたデコーニック女史の本(The Thirteenth Apostle)でも指摘されていた、チャコス写本p.52の「キリストと呼ばれるセツ」の復元はまちがっていることはこちらの本でも指摘されています(pp.39-40, p.333)。

 初版本を一読した感想として、「書き散らしたみたい」な本だと書きました。「ユダ福音書」と「ナグ・ハマディ」やグノーシスのセツ派との関連について、多くの紙数を費やしている最終章も、ほかの学者からの引用が多すぎるきらいがある。ロビンソン博士は、「タイトル、導入部と結語部分」、「ほかのセツ派文書との関係」、「12人」、「13番目の者ユダ」、「笑う救い主」といった項目に分けて分析を試みていますが、その洞察力に目を見張ったデコーニック先生の本とはちがって、「わかったようなわかんないような」、そんな煮え切らない書き方。皮相的というか、ここでもなんだか書き散らしたような、散漫な印象はぬぐいきれません――せっかく一所懸命書いてくれたロビンソン博士には申し訳ないけれど。ちょこちょこ初版本と較べてみると、あらたに書き下ろした本文以外にも細かな追加がけっこうあります。とはいえそのほとんどは「べつになくてもいいんじゃない?」みたいな蛇足が多い。たとえば「3. グノーシスのユダ」の終わりの部分には弟子のマイヤー先生の文がどーんと引用されているのですが、なんとボブ・ディランまで出てくる(失笑)! ちなみに初版本はもっと手前、ボードレールの「悪の華」の引用につづいて翻訳本の「ユダの裏切りを理解して、…しかしそれは、永らく存在し今も続いている伝統に、立脚したものなのです(p.174)」で終わっています。だいいちボブ・ディランの歌詞なんか、「グノーシスのユダ」という話といったいなんの関係があるというのか(おっと、ついでに初版には言及のなかったボルヘスも出てきますな)? 

 「ユダ福音書」の解釈ですが、ロビンソン博士はなんと、「本文の流れも本文の流れにおける欠如も、単に意味を成していません」、「実際、『ユダの福音書』の全体の構造、或いはより正確には、構造の欠如とおぼしきものは、原著者が書いたものは果たしてこういうものなのかという疑問を抱かせるでしょう。もしそうであるなら、原著者は、例えばナグ・ハマディのグノーシス主義的論考(tractateの訳ですが、たんに「文書」でよいのでは? と思う)の著者と比べて、大変貧相な著者だったでしょう! しかし本文の無内容さは、途中で削除が行われたかもしれないということを示唆しています。しかし、どこでなぜ、誰によっていつ、でしょうか?」(pp.329-331)なんて書いていたりする。「目が点」とはこのこと。ハナから解釈するつもりなんてないんじゃないのかという気さえする。そのくせ「『ユダの福音書』において復活祭に至るまでのこれら三日間に起こっていることは、正典福音書において聖週間に起こっていることとも、また実際イエスの生涯とも、何の関係もありません。イエスとユダの間の対話という形式に入れ込まれているとはいえ、これは、自分の教えにキリスト教的権威を付与するための二次的な手法以上のものではありえません(p.330)」とか、前にもおんなじとこ引いたけれども、「『ユダの福音書』は2世紀の外典福音書で、それはたぶん、2世紀中葉のセツ派(初版本では「カイン派」とはっきり書いてあるけれど、いつのまにか[?]変更されていた)グノーシス主義者について私たちに語っているものであって、紀元後30年に何が起こったのかについて私たちに語っているものではないのです!(p.303)」ということはくどくど繰り返している。そんなこと百も承知なんだけれどもなぁ(苦笑)。で、けっきょくロビンソン博士も――なんだかんださんざまわり道したあげく――ユダを英雄扱いにしている点ではさほどNG側の「公式版」と変わりない結論です。途中で、「13番目の霊(語源的には「悪霊」)(p.347)」と断っているにもかかわらず、です。こっちのほうが「大変貧相な」展開だという気がしますね(ロビンソン風に)! もっとも、今回見つかった「ユダ福音書」を含む「チャコス写本」なるものは、4世紀はじめごろに筆写されたものらしいから、ひょっとしたら、これの持ち主――写本とほかの3つの文書の入った石灰岩の入れ物は家族の墓に埋められていたという――自身が書き写した可能性もあるのではなかろうか。それだと、底本にはあってこの写本では端折られている部分というのも、ことによったらありうる話かもしれない。とはいえデコーニック女史の解釈を読むかぎりでは、写本の保存状態の悪さを差し引いても、おおよそのところは物語として体をなしているように思えます。

 それでもめぼしい指摘をひろえば、「ユダ福音書」の作者が下敷きとして知っていたのは「ルカ伝」と「使徒言行録」だけかもしれない、とか、後半の「ユダの昇天」については、「…つまり正統教会の『12人』が入っているカオスと陰府を支配する12の天使の上にあるとしても、[ユダの位置は]かなり下の方にあるのかもしれません(p.348)」くらいですか。後者については、当たらずとも遠からず、だいたいセツ派の権威(らしい)ターナー教授やデコーニック女史とほぼおなじ指摘ではあります。

 ロビンソン博士は「まえがき」で、「楽しい読書を皆さんにお約束することはできませんが、それはきっと、エキサイティングな読書にはなることでしょう!(p.8)」なんて得々と書いてありますが、すくなくとも自分には当てはまらなかったみたい(笑)。

 翻訳について。以下に記すことは門外漢の妄評、あくまで一読者としての視点に立ったものであることをまずお断りしておきます(自分の浅学非才ぶりはタナにあげています)。まさか自分が買った本(初版本)がこんなに早い時期に日本語で読めるとは夢想だにしていなかったので(自分が買う本はみんなが見向きもしないものばかりなので)、そういう意味では今回はなんだか得した気分です。やはりこなれた日本語で読めるのはありがたい。「訳者あとがき」にもあるとおり、もともとがワンマンバンドと言うか、ニュースショー的な書き方なので、「です・ます」の講演調で訳されたのはとてもよかったと思う。ちなみに↑で引いた「わしが、わしが」の箇所はそれぞれ'In fact, I for one have made just such an argument.', 'I have published seven articles arguing this point alone.', 'It so happens that I was the first to make The Gospel of Mary available in English, in ...'。もっとも最後の文は、「『マリア福音書』を『ナグ・ハマディ』に収録して英語で読めるようにするための任に当たった最初の人間が、たまたま自分だった」くらいだろうと思います。この手の「学術もの」にしてはひじょうに良心的な翻訳と言ってよいでしょう(昔は読みにくい悪訳のたぐいは人文科学系の書籍がほとんどだった。「高くて売れない」本というやつですね。たまに文学ものにもそんな代物はありましたが)。原本もってる人間が言うんだからこの点はまちがいなし(ただし、ロビンソン博士の肩書き表記で「UNESCOのナグ・ハマディ写本国際委員会常設秘書」というのはやや疑問。'permanent secretary'の訳なのですが、この肩書きの人がロビンソン博士しかいないのかほかにも複数いるのかがわからないけれども、「常任事務局長」もしくは「常任事務官」くらいの意味ではないかと思います。米国のSecretary of State[国務長官]という役職を、まさか「秘書」とは訳せないでしょう)。

 そして訳者先生は、「訳者あとがき」でこうも書いています。「…本書一冊だけで、『ユダの福音書』に関してすべてわかろうというのは、それはやはり横着だと言うべきだろう。訳者自身、本書刊行の暁には、『ユダの福音書』のグノーシス主義について、より本格的な解説を行っている書籍(原著はオランダ語)を紹介したいと考えていることを、ここで付け加えておきたい」(下線強調は引用者)。これを深読みしますと、ほんとはあんまり乗り気じゃなかったんじゃなかろうか、という気さえしてきます。それはともかく、その「オランダ語の解説本」、こちらはおおいに気になるところ。ぜひ出していただきたい。

 というわけでこの本の5段階評価はるんるんるんるん

 *…Q資料と正典4福音書成立についてかんたんにまとめておきました(出典:大貫隆編著『イスカリオテのユダ』日本キリスト教団出版局、2007、p.20にもとづき作成)。

正典4福音書の成立とQ資料

ミイラ泥棒逮捕

2008年02月25日

The Thirteenth Apostle

 前に、著者の米国ライス大学教授エイプリル・デコーニック女史(カバーの写真を見たら女性の研究者でした)がNYTimesに寄稿したコラムについてすこしばかりコメントしました。で、そのとき読んだ先生の説にひじょうに興味を惹かれまして、今月はじめにようやく先生の新刊本を入手。あいにく風邪で寝込み、ゴホゴホ言いながらも内容が期待にたがわずおもしろくて、臥せっているあいだもずっと読んでました(お名前のDeConickの読み方がいまいち判然としないけれども、とりあえずこのように表記しておきます。→先生のサイト)。

 で、この本を読んだ感想としては、われわれは全米地理学協会(以下NG)に一杯喰わされていたようだ、ということがはっきりしてきたということ。この本は――ロビンソン博士のちがう意味で扇情的なご本よりもはるかに――「再発見」された「ユダの福音書」について、もっとも精確で信頼できる文献だ、と言えます。巻末の註部分を入れても200ページない本ですが、自分が読んだかぎりではいわゆるトンデモ本のたぐいではありません。学者の良心が書かせたしごくまじめな本です。

 デコーニック女史は2006年春、折りしも復活祭のときに、世界中のマスコミででかでかと取り上げられた「ユダの福音書」を知り、それがNGサイトに公開されるとさっそくダウンロードして読んでみた。空き時間を利用して、NG「公式チーム」が再構成したコプト語原文をみずから訳してもみた。ところが訳を進めれば進めるほど、ますます困惑するばかり。NG「公式チーム」発表の試訳とはまるでちがう方向の訳になってしまう。NGチームには親しい研究者も加わっているというのに、これはいったいどういうこと?? 

 Times寄稿文にもあるとおり、ようするに文字どおり穴だらけの古文書を解読するときは、一部の学者に独占させるやり方では肝心なところで足許を掬われる、ということをあらためて強調しています。悪気はなかったのだろうが、チームリーダーのロドルフ・カッセル老教授の頭には、ユダがどうしても「英雄」でなければならなかったらしい。その証拠に、著者はNGチームの訳は大筋でよしとしても、「重大な細部」において決定的にまずい箇所がいくつかある、と指摘。おかげでこのパピルス文書が伝えんとしている「真実」が歪められる結果になってしまった、という。

 デコーニック先生によれば、前にも書いた'daimon(δαιμωυ)'は、邦訳本『原典 ユダの福音書(以下、邦訳本と略記)』の註にあるような「神霊(いい霊)」の意味ではぜんぜんない。「ユダ福音書」ではこの手の「霊」を表すことばは一貫して'pneuma'になっているのに、イエスがユダに呼びかけるこの場面だけ、なぜかspirit(pneuma)ではなくて「13番目の'daimon'」となっている。これはあきらかに「悪霊」の意で使われている。たとえば「ナグ・ハマディ文書」の多くに出てくる'daimon'は、ヤルダバオート(=デミウルゴス、旧約聖書での創造主ヤハウェ。「ナグ・ハマディ」に代表されるグノーシス諸派は一貫してこの世の創造神をその上に君臨する「真の至高神」と戦う悪の権化とみなす)の手勢であるアルコーンたちと同一視している。たとえば「エジプト人の福音書」では、ヤルダバオート=ネブルエール(ネブロ)を「大いなるダイモーン」と呼んでいる(岩波版 p.154。ここで頻出する「天使」も人間を助けてくれるいい役回りではなくて、星の運行と関連づけて人間の運命を操作する悪い役回り)。ようするに地上の人間を惑わす悪霊と解するのが自然な解釈(pp.48-51)。たしかに邦訳本p.47の註にプラトンの『饗宴』が引き合いに出されているのも不自然ですね。「ユダ福音書」が書かれた時代から500年も前に書かれた書物に出てくる'daimon'は、当然のことながらこの時代にはすっかり意味が様変わりしているのだから。

 つぎに邦訳本で「私がそれを知ると、どんなよいことがあるのでしょうか。あなたはあの世代のために私を特別な存在にしたのですから」となっている一文(p.49)。なんだかかえって文意がわかりにくい気がするので英訳文を引用すると、'What is the advantage that I have received? For you have set me apart for that generation.'となっている部分。下線部、著者による試訳では、'What is the advantage I received, since you have separated me from that generation?'。なんと文意は完全に逆。orz

 つづいて邦訳本で「お前は13番目となり…彼らの上に君臨するだろう。…聖なる[世代]のもとに引き上げられるお前を彼らは罵ることだろう」となっている部分(p.49、英訳文 'They curse your ascent to the holy [generation].')。ここの箇所、著者によればいったいどうしてこんな解釈になるのかさっぱり解せなかったという(pp.51-2)。正解は「お前はあの世代へは引き上げられない」。またしても逆(苦笑)。なんでこういうことになったかと言うと、NGチームが当初、直前の主格人称代名詞(they)とこの一文とのあいだになんらかの欠落があるのを見落とし、さらに場違いなあるギリシャ借用語の縮約形として強引に(?)解釈したせい。著者が、公式チームのひとりで来日して講演会も開いたマーヴィン・マイヤー教授にこの件について聞きたいと連絡を取ったら、「外部にいっさいの情報を漏らさないというNGとの取り決めがあるからムリ」というつれない返事をもらった。数週間後、この福音書がらみで開催された会議出席のためパリ大学に出向いたら、当のマイヤー教授にグレゴール・ウルスト教授も同席していた。で、おふたりにさっそく疑問をぶつけてみたら、なんと向こうも「とりあえずの」現代英訳本を刊行したあとで再検討した結果、独自におんなじ結論に達していたという! なので、昨年刊行された「チャコス写本」の『批判校訂版(以下『校訂版』)』ではそのように訂正した、ですと。ちなみに↑で引用した箇所、『校訂版』ではどうなっているかと思って見たらあいかわらず訳じたいに変更はなかったものの、脚注には'Or, "from that generation."'なんてさもさりげなく訂正候補を挙げてある(太字強調は引用者)! 

 ところがデコーニック先生をもっとも驚かせたのが、「だがお前は真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になるだろう」となっている箇所(p.69, 'But you will exceed all of them. For you will sacrifice the man who bears me.')。コプト語原文を逐語訳すると、'You will do more than all of them.'だという。このexceedというのはひじょうに肯定的な単語で、暗に「きみはどの弟子よりもすぐれている」ことを言っている(日本語で言えば「…より勝る」とか「…を凌ぐ」の意)。では「どの弟子よりも、それ以上のことをなす」とはどういうことか。この場合、文意はつねに前後関係に支配される。直前の箇所は欠落が多すぎるけれども、自分を遣わせた「真の神」ではないこの世の支配者サクラス(=ヤルダバオート、「ユダ福音書」ではサクラスと対で書かれ、これは「エジプト人の福音書」でもおなじ)に忌むべき捧げものをする12人の弟子と供物はすべて悪だ、というようなことを言っている。つまり否定的。問題の一文は改行なしでつづくのですが、NG本ではどういうわけか――邦訳本もそう――ここでいったん切れて改行されている(『校訂版』ではもちろんそんなことはない)。12人の弟子のやっていることはそのまま当時の「大教会」のことを痛烈に批判している箇所でもあるけれども、ユダは「それ以上のこと」をする、つまり自分(イエス)を祭司長たちに引き渡すだろうと予告している(NGの宣伝文ではさもイエスがユダに頼んだかのようなことが書いてありますが、『校訂版』現代英訳を見てもそんなふうには書いてない)。NG本ではユダがここで12人の弟子よりすぐれているととっているが、著者によればそんなことはありえない。なぜならユダは'daimon'だから。ここのキーワードは「13番目」。「ナグ・ハマディ」文書を残したのはセツ派と呼ばれる人々で、彼らの宇宙観は、かんたんに言うとまずこの世――混沌と黄泉――があって、そのすぐ上にヤルダバオートの支配する天界がある。ここにはお供のサクラスなど12の支配者、アルコーンがいて、12人の天使がいる。ヤルダバオートは自分より次元の高い天界である「アイオーン」の最下位にいるソフィアの産み落とした子で、ソフィアのいるアイオーンの上に幾重にもアイオーンが重なったかなたに君臨する至上神とつねに敵対している(アイオーンの充満する階層は、「充溢」を意味するギリシャ語プレーローマ pleromaと呼ばれる)。これは言ってみれば地中海周辺地域にいた一部のユダヤ教徒とキリスト教徒が、当時理解されていた天文学・プラトン哲学と、自分たちに伝わる「神」の概念とをどうにかこうにかして融合させようと苦心して編み出した二元論的宇宙観と言っていいかもしれない。「ユダ福音書」に登場するのはそのうちいちばん下の「黄泉」つまり下界を支配する5人のアルコーン(cf. 邦訳本p.62最後の註)。バルベーローというのは、アイオーンにいる神々のもう一方の姿の呼び名で、女性として描かれる(陰陽思想みたいだ)。グノーシス神話につきもののアイオーンはつねに男女同体。ヤルダバオートはソフィアがもうひとりの「片割れ」と相談せずに流出した子なので醜く生まれ、そのためにソフィアが次元の低い天界へと落としたという(なんて親!)。

 ではユダの役回りとは? 13番目になる、というのはつまるところ12人のアルコーンを支配する者、ヤルダバオートと同一になるとしか解釈できない。だからこそ、宇宙創生の秘密を明かすと言われたユダが師匠に「ではそれでなにかいいことがあるのか?」と訊き、それにたいしてイエスが「いや、おまえは(高次元のアイオーンからなる)その世代に仲間入りすることはかなわない」と言い、さらに「おまえは(高次元のアイオーンへは)引き上げられない」とつづけ、ダメ押しとして「おまえはどの弟子より…」とくる。デコーニック先生の解釈では、ユダはけっして「変容」して輝かしいアイオーンの世代に仲間入りする「グノーシスの模範」でもなんでもなくて、せいぜいが12人を支配するヤルダバオートの高みまでしか「引き上げられない」。これはこう言い終えたあとの記述とも一致する。「すでにお前の角は立ち上がり お前の憤りは燃え上がり…(邦訳本 p.69)」。たしかに。イエスを裏切る行為をたたえているわけでもなんでもない。イエスはここでただたんにユダを絶望の淵に突き落としているだけ。というわけで著者の結論としては、ヤルダバオートの遣い=ユダなので、当然問題の箇所は「おまえのなす行為は12人のだれよりも悪い」となる。またしても逆!! orz

 それともうひとつ個人的に引っかかっていた箇所として、邦訳本p.61に出てくる5人のアルコーンとして名前の出てくる「第一が[セ]ツ、キリストと呼ばれる者」というところ。キツネにつままれたような気がする。だってグノーシスではキリストって至高神から遣わされてアイオーンを下り、さらに危険な連中――ヤルダバオートならびに配下のアルコーンども――をぐねぐねと回避して下界にたどりつき、説教してグノーシス者を「真の故郷」であるアイオーンへと引っぱり上げるんじゃないの? なのにここでいきなり下界を支配するアルコーン側にまわっちゃっている。これどう考えてもおかしいんじゃないかと思っていたんですが、『校訂版』でも変更なし。??? と思ってはいたがそのうち忘れていた(笑)。いまごろになってようやく「正解」らしきものにお目にかかりました。どうもこれ復元じたいがまちがっているみたい。著者によると、正しい読みはおそらく'Atheth'ではないかと(p.38, 185。岩波版『ナグ・ハマディ』では「アトート」)。ここの箇所、著者試訳では'The first [is Ath]eth, the one who is called the "Good One"'(p.85)となってました。

 著者自身による「修正訳」のあとの章は、著者の解釈とその根拠について展開されていますが、いずれも説得力に富み、なるほどと納得いくものばかり。この本は「ユダ福音書」の内容をわかりやすく伝えてくれるよき手引き書としても秀逸です。おかげで最初は雲つかむようでなにがなんだかさっぱりだった「ユダ福音書」の言わんとするところがようやく見えてきたような気がしてきた。これはユダを模範的グノーシスとして英雄視しているのでもなんでもない。グノーシス派の人は、12人の弟子にたとえた使徒伝承を盾にする原始教会側の、とくに「聖餐式」を批判していた。「その上に13番目として君臨する」ユダを12人のアルコーンを率いる13番目であるヤルダバオートと同一視することで、彼らはいずれ滅ぼされるものとしていわば二重にあげつらっている。「ユダの福音書」は毒のそうとう効いた痛烈なパロディ文書ではなかろうか。ではなぜこれが「福音」なのか。ユダの裏切りはヤルダバオートの思惑どおりで、傲慢で愚かなこの神は自分よりはるかかなたの次元にいる「至高神」のほんとうの計画を見抜けなかった。十字架にかけてイエスの「肉体の死」は手に入れた。けれどもその内にあるイエスの霊ははるかに超越した存在なので、「真に覚醒した人=グノーシスに目覚めた人」を彼ら本来の故郷である至高神の住まうはるかかなたのアイオーンへと連れ帰ることがこれで可能になった。けっきょくいいように使われたユダはヤルダバオートとそのお供、彼に祈りとパンを捧げる12人の弟子ともどもみんな消滅する。そういう意味で「いい知らせ」だったと結論づけています。一読者としては、ここまで諷刺がきついと、なんか「福音書」というタイトルじたいもパロディかいな、なんて思ってしまうけれども。

 巻末にはご丁寧にも言及した「ナグ・ハマディ」の各文書についての一覧に、エイレナイオスやエピファニオスなど「ユダ福音書」について記録した教父文書の引用と、参考文献を親切にもコメントつきで列挙してあります。さらにご丁寧なことに、「質疑応答コーナー」まで設けている(笑)。「著者とのQ & A」ではかねてから気になっていた、このパピルス写本をもっていたのはいったいどんな人だったのかについてもほんのすこしだけ触れています(p.178)。欲を言えば、当時存在していたパコミオスの修道院共同体との関連についても一筆ほしかったな。

 NGチームの上梓した現代語訳には小さい部分とはいえ、そこここに誤りがあるらしいことがこれでわかってきた。『校訂版』に収録されたほかの「チャコス写本」のパピルス文書についてはどうなんだろ、という気もしないわけではないけれど、デコーニック先生はカッセル教授たちの仕事を快挙として高く評価してもいる。それゆえ恣意的ともとれるNGチームによる「ユダ像」がどうしても解せなかったのだろう。

 参考文献欄で挙げられていたほかの関連本では著者に近い立場をとる先生の編んだ本というのが近刊予定でそっちのほうは興味が惹かれるけれども、あとの本はおしなべてNGチームの解釈に沿ったものらしい。今回このようなかたちで『校訂版』を批判的に読む本も出てきたことだし、「反論の反論」も期待したいところではある。
5段階評価:るんるんるんるんるんるんるんるん

2007年12月30日

邦訳版、刊行されていたんだ!

1). 昨年夏、ここでも取り上げた『ナグ・ハマディ文書』英訳校訂版刊行に尽力したグノーシス研究の権威、ジム・ロビンソン博士のご本。今日、たまたまふだんは行かない本屋に立ち寄り、なんとなくボーっと突っ立ってキリスト教関連書籍の書棚を眺めていたら、ほえ? なんかどっかで見かけたご尊名が…と思いきや、なんとなんとThe Secrets of Judas、すでに2月に邦訳版が刊行されていたとはまるで気づかなかった(Amazon日本サイトは関連本買ったことあるのになんでこっちのほうをメールで教えてくれなかったんだろ? 『ぼくのぼうけん』とかは寄こしてきたのに[苦笑])…こんなとこで出会うとはまたなんと奇遇なことか。しかもとなりにはこれまたユダ関連のまじめな労作、『イスカリオテのユダ』。こちらは本邦グノーシス研究の第一人者のおひとり大貫先生による「古今東西のユダについて書かれた文献を収録した」アンソロジー。個人的には『イエスの幼時物語』などの聖書外典、オリゲネスの『ケルソス駁論(Contra Celsum)』やエイレナイオスの『異端反駁(Adversus Haereses)』などの教父文書、『黄金伝説(Legenda Aurea)』などの中世の伝説、シュヴァイツァーやエルネスト・ルナンといった史的イエス伝研究者の著作に出てくるユダにかんする記述を一冊の手軽なレファレンスとしてまとめたこっちの本に興味が惹かれてしまいましたが、パラパラ繰ってみたら、いちばん知りたかった「生前のユダの3つの善行」の出典については手がかりなにもなし、だったので、とりあえず「『ユダの福音書』を追え・ロビンソン版外伝」のほうを買ってしまった。

 いま邦訳本を開いてみてさらに驚くには、なんとこれ著者謹製「増補改訂版」。初版本の「最終章」のうしろにさらにそうとうな分量が加筆されてます。初版を底本とした邦訳原稿があがったころ、タイミングよく(?)著者から五月雨式に「第二版」のオリジナル原稿が送付され、けっきょく「完成稿」まで送付されてしまったため、急遽底本じたいをこっちの原稿に切り替えて訳稿に手を入れたらしい。なので原本の「増補改訂本」と章構成が一部食いちがっていると訳者先生が断っています。

 ロビンソン博士はたしか昨年5月、「国際聖書フォーラム」に招待されて来日していたのですね。そのとき目につき、ハナにもついたのが――例の日経NG社の関連本の山。これはイカン! と思ったのか、「私は、それら出版物を正しいパースペクティヴのもとに置こうとする私の本もまた、日本語で入手可能となることを期待しました。そこで、今やそれが現実となったことに満足しています」(p.5)。なんてこと書いてます。しかもこの本、12か国で翻訳出版が予定されているとか。こんなこと言っちゃなんなんですが、ロビンソン先生だって「当事者」になりかけるチャンスをみすみす逃した経緯の持ち主なので、ここまでくると学者どうしの確執というか功名心というか、売名行為ともとれる言動にいささか嫌気が差してきます。よく言えばきわめて人間臭いおじいさんなんですけれどもね(齢80を越えている)。訳者先生もなにか引っかかる臭いを感じたのでしょう、「訳者あとがき」にもそのへんの事情にすこし触れています。それでもせっかくの「著者謹製第二版」ですので、またあとでぼちぼち読んでみることにします。こっちのほうはまさか「偽装」なんてあるわけないし(笑)。

 …でも見方を変えれば――ロビンソン博士ふうに言えば'perspective'を変えれば――なんだかんだ言っても日経NG社の「誇大広告」のおかげで、これだけユダ関連書籍が刊行され、翻訳ものもきちんと刊行してくれるわけでして(もっともピンキリ、すべてが内容的にすぐれているわけではありません)…一時期、散発的に刊行された「例外」はあるけれど、聖ブレンダンものもそうならないかな…。

2). ついでに先日ちょこっと触れた、こちらの本を「なか見! 検索」で見てみると…第2部の「翻訳の問題」とかおもしろそうです。とりあえず先を見てみると、こんな文が。

... Christianity in the second century was not controlled by a single church or a single hierarchy or a single orthodoxy. In fact, "orthodoxy" (correct thinking and practice) and "heresy"(wrong thinking and practice) were very relative terms. Who was orthodox and who was a heretic depended upon where you were standing. If you were a mainstream or apostolic Christian, you were orthodox and everyone else was a heretic. If you were a Sethian Gnostic Christian, you were orthodox and everyone else was a heretic. (p.5)

2-4世紀の原始教会は、たとえばニケア公会議などでのアレイオス派との確執など、もっとも根本となる教義・神学論争に明け暮れていた。ローマ帝国の迫害にくわえ、教会そのものがまだ揺籃期だったのだから当然と言えば当然なんですが、この著者もそのへんの事情をきちんと書いています。いずれにせよ当時のキリスト教会は、それぞれ自分の所属している教会ないし教えこそ正統だとたがいに主張しあっていたので、「正統教会(カトリック)vs. グノーシス派」のような単純な二項対立的発想は当てはまらない、ということをくどいようだけれどもまた強調しておきます。

2007年09月03日

The Gospel of Judas: Critical Edition

 以前ここにも書いた「チャコス写本」の校訂版(The Gospel of Judas: Critical Edition、ちなみに底本に書かれた語句を無修正でそのまま転載したものをdiplomatic editionと言います)。この手の本としては破格と言っていいくらいの安価だったこともあり、けっきょく買って読んでみました(たいていこの手の好事家が買うような専門書は安くても万札が飛ぶ)。

Gospel of Judas1

Gospel of Judas2


 結論から言えば、岩波から出ている『ナグ・ハマディ文書』などグノーシス関連の古文書・写本(codex)に興味がある向きにはこちらもお奨めします。昨年にひきつづいての「ユダ福音書」関連出版だけに、内容はどうかしら、また話題狙いかなんて勘繰っていたけれど、そんなことは杞憂でした。学術的価値の高い貴重な労作に仕上がっています。グノーシス文書に真摯な関心のある向きにはこちらもあわせて読んでおいたほうがいいでしょう。

 内容構成は復元プロジェクトの総責任者的なロドルフ・カッセル老教授による序文からはじまり、写本の修復復元チームのひとりグレゴール・ウルスト/アウグスブルク大学教授による写本学からみた「チャコス写本」の予備的解析について、ふたたびカッセル教授執筆による古コプト語の方言研究小論(なぜかここだけ仏語のみ。カッセル先生はスイスの人なので、英語より仏語で書いたほうがいいらしい)。後半部が「チャコス写本」に収録された全4部の文書(tractates)の校訂されたコプト語本文と現代英訳の対訳、そのあとに仏語訳がつづき、最後が「チャコス写本」で使われているコプト語の索引(というか用語集に近いかな)になってます。

 カッセル教授の序文は既刊邦訳本『原典 ユダの福音書』とほぼおなじ内容なのでとくに目新しいことはなし(それにしても長い「まえがき」…カッセル教授のこの写本にたいする深い愛と情熱がひしひしと伝わってはくるけれど)。でもこの校訂版のなによりすばらしい点は、「チャコス写本」の全パピルス紙葉の美しいカラー写真が掲載されていること。これは「ナグ・ハマディ写本」の校訂本の仕様に倣ったものらしい。とはいえ後者は当然画質のあまりよくないモノクロ画像によるファクシミリ版だろうから、こちらのほうが断然きれいで見やすい。こうして一葉一葉きちんと本来の順番で復元されたパピルス写本を目の当たりにすると、書かれた文字は読めないながら、これがギリシャ語原本から筆写された当時にタイムスリップしたかのような楽しい錯覚すらおぼえる。ウルスト教授の「チャコス写本」についての私論によれば、「チャコス写本」の断片と見られるパピルス片約50が現在米国に保管されているという(「オハイオ断片」)。そのうちあきらかに「チャコス写本」の一部をなすと推定された6つの断片については、「チャコス写本」パピルス画像にデジタル合成して掲載したとのこと。またそのほかの一部断片については不鮮明な昔の写真資料しかなく、コプト語本文と英訳には反映させたがこちらの写真は掲載しなかったとも。たしか昨夏聴講した米国チャップマン大学教授マービン・マイヤー先生が「写本は66ページ目で終わっているが、もとは100ページ超だったかもしれない」と話していて、ウルスト教授の「オハイオ断片」についての記述(p.28)にも「108」というページ番号が付された紙片があるというから、あのときマイヤー先生が話されていたのはこのことだったかもしれない(ウルスト教授が「オハイオ断片」を調べたのは昨年前半のこと。残念ながらいまは門外不出で調査はできないらしい)。

 あとこれも既刊本にカッセル教授が苦々しく書いている「チャコス写本」入手にいたるまでの紆余曲折に出てくるけれど、チャールズ・ヘドリックというコプト語の研究者から――かなり高額のお金を支払って――入手できたという「昔撮影された、写りのよくない写真」も合成されて掲載されています(「チャコス写本」のpp.3-4, pp.29-30で、あきらかに画質がちがう。なお31-32ページにあたるパピルス紙片についてはいまだ行方知れず。ひょっとしたらもともと存在しない、つまりただたんに写字生が「写しまちがえた」可能性も否定できないという)。写本に用いられたコプト語サイード方言の特徴についての小論は…仏語が読めないので割愛。当時のエジプト中部で使用されたコプト語とわりと局地的だったサイード方言との関係と分析、それにもとづき写本に書かれたコプト語原文をどう解読したか、について書いてある…みたい(もっぱらコプト語の話なので、ギリシャ語・コプト語に興味ある向きにはおもしろいかも)。なお「チャコス写本」の筆写をしたのは基本的にひとりのscribeだということがわかっています。ただしところどころ、第三者が手を入れた箇所もあります。

 「チャコス写本」収録の4つの文書についてはそれぞれ序論つきで収録されています。まず最初の文書は「フィリポ宛てペトロの手紙」。書名が『ナグ・ハマディ(II巻、岩波版 pp.348-359、以下すべて引用は岩波版)』版の同文書とはすこし異なるけれども、内容はほぼおなじ。「手紙」と言いながら、手紙の部分は冒頭のほんの数行のみ。つづくページではすでに弟子たちが祈りを捧げている場面に転換、「アイオーンの欠乏」についてだの、「プレーローマ(充満)」についてだの、まるでグノーシス特有用語の手引き書のおもむき。ヘドリック提供の写真と合成された箇所以外、パピルスの下半分は失われていて損傷が激しい。しかしながら最終ページはほぼ原形をとどめていて、文書名(当時はタイトルは最終ページに「奥付け」として付されることが多かったらしい)とアンク(?)を思わせるような十字架の図とともに終わっています。

 第二の文書はあっさりと「ヤコブ」というタイトルのみ。書名はずいぶんあっさりしているけれども「チャコス写本」中、もっとも保存状態がよくて分量も21ページあります。こちらも『ナグ・ハマディ IV』に収録された「ヤコブの黙示録 I(pp.35-60)」と内容が似通っています。ただ最初の場合とちがい、異なる記述も多いため、おなじ原本から枝分かれした系統の異本と呼んでいいかもしれない。「ユダの福音書」でイエスがユダにグノーシス特有の宇宙論を語るように、ここではユダのかわりに兄弟のヤコブがイエスから「知識」を授けられ、啓示を受ける。そのあとユダとおなじく、ヤコブもまた受難する、という筋立て。ここで興味深いのは、『ナグ・ハマディ』版「ヤコブの黙示録 I」の結末は原典写本の欠落がひどくてほとんどよくわからないのにたいして、「チャコス写本」所収版のほうはヤコブが逃亡囚の身代わりになって裁判にかけられ、無罪判決が出たものの怒った群集から石打ちにされて殉教するということが書かれてある点。なんだか「使徒言行録」に出てくる最初の殉教者ステファノみたいな最期です。

 3番目の文書が例の「ユダの福音書」で、「チャコス写本」中最長の文書(26ページ)。既刊邦訳本と比較しながら読むと、細かいところがけっこう変更されています。たとえば冒頭部、「しばしばイエスはそのままの姿で弟子たちの前には現れず、一人の子供として弟子たちの中にいた(p.23)」という箇所。校訂版では「子供」にあたる単語が消えて、(?)に変更されています。逆に、既刊本では不明だった箇所の単語が追加されていたり。邦訳本原本である現代英訳版はあくまで「暫定的」なものにすぎないので、これまでのところの「決定訳」を知りたければ、最新の知見が盛りこまれた校訂版のほうが参考になると思います。また邦訳本について書いた拙記事で書き出した箇所(「チャコス写本」57ページ冒頭部)について、校訂本では

...Truly [I say to you], your
last [---]
[---] become
[---]
[---]
[---grie]ving
[---]
[---] the ru[ller],
[---] since he will be destroyed. [And] then ...(p.233)

とgrieveがgrievingに変更されていました。ついでに'Truly...'はいわゆる「かくあれかし(amen)」ですね。既刊邦訳本の註釈で「アーメン」と書いてあったのもこれ。正典福音書でもおなじみの表現です。最後のイエスを裏切る場面の直前ではそれまでイエスがユダひとりに語りかけていたのにいきなり複数形の人称代名詞が出てくることから、欠落部分をはさんでふたたび場面転換があり、イエスが弟子もふくめた複数人の前でユダに話している可能性が示されています。

 「チャコス写本」最後の文書が「アロゲネース(異邦人セツの書)」。こちらも同名書が『ナグ・ハマディ』にも入っていますが、中身は別物。だから「ユダの福音書」とおなじく、まったくの新発見といってよい文書です。岩波本IV巻 pp.264-5に出てくる、「アロゲネース[の]すべての[書]物[の]封印[として]」で言及されたもののひとつなのかもしれない、と「序論」にはあります。とはいえこの文書はパピルスの損壊がひどくて、冒頭部に書かれた書名らしい単語もほとんど判読不能、なのでこの部分の復元にはかなり推測に頼った部分があることを認めています。6つの「オハイオ断片」は、この最後の書のものらしく、それもふくめたかたちで本文を復元しています。でも63ページ以降はほんとうに紙片の一部しか現存していないため(「違法な」古美術市場を探せば写本断片が見つかる可能性はまだある)、飛び飛びに単語が書いてあるだけで、内容はさっぱり。そして文書の中途で唐突に「チャコス写本」は終わっています(現在散逸している後半部分とあわせて、本来「チャコス写本」には5つの文書が収められていたらしい。5番目の文書については、「ヘルメス文書 XIII」の未知のコプト語訳文書ではないかとするある学者の仮説を紹介している)。

 カラー図版を大量に入れてあるせいかどうかわからないけれども、巻末索引以外の全ページが――高砂親方(笑)じゃないですが――ほんと「つるつる、てかてか」の上質紙なので、ページ数のわりには重くて手がしびれるし、紙が光を反射するために少々本文が読みづらい。巻末索引だけでなく、巻頭ページも普通紙にしたほうがよかったように感じますね。

 紙質…はともかくとして、現時点ではもっとも完成度の高い校訂本にはちがいありません。さてこちらも邦訳本ははたして出るのか? となると、さすがにこちらは…どうなんですかね、きちんと出版するのかどうか。すくなくともあのDVDよりはるかに価値があるとは思うけれども。

2006年07月17日

講演会に行ってはみたものの

 先週の土曜、こちらの講演会に参加しました。

 出かける直前になって左目(眼球)がいきなりの不調に見舞われまして、上京するのはやめておこうかとも思ったけれど、せっかくグノーシスおよび新約外典研究の権威が来日して講演会を開いてくれるのだからと無理して出かけました。

 梅雨明け前だというのに都心はモワーっとひどい暑さで、36度まで上がっていたらしい。体温とおんなじですね…。ついでに立ち寄った銀座ではいきなり夕立(? まだ午後2時なのに)に降られ、中央線に乗ろうとしたら落雷で遅れたり…で、どうにかこうにか会場に着きますと、すでに聴衆であふれています。しまいには警備員まで出てきて、主催者にほかの来客にも迷惑がかかるからなんとかしてくれと突っかかるしまつ。せまい空間にすし詰め状態になり、人いきれで冗談抜きで倒れそうになりました。これってどう見ても主催者側の怠慢。3月に聴きに行った第一生命ホールの係員のように、早々と二列に並んでもらうなり、詰めかけたお客の整理をするのが先でしょう。

 本題。まずおさらいということで、「ユダの福音書」発見までの数奇な経緯やイエスとユダとの「密約」を描いた再現ドラマの入ったDVDの抜粋映像を見せられまして、その後マーヴィン・マイヤー教授の講演となりました。マイヤー教授はときおりユーモアを織り交ぜて、とても平易な英語で語りかけてくれたので、自分のいいかげんな耳でも講演内容の7割は理解できました(だいぶ前国立市に滞在されたこともあるとか)。

 通訳嬢の斜め後ろの席だったので、彼女があらかじめ講演原稿から起こしたとおぼしきアンチョコ訳のペーパーが見え、通訳嬢は教授が区切りのいいところで話を切ると、該当箇所を朗読するという感じで通訳していました(ちなみにこの通訳嬢、おなじ最前列に陣取った男性が舟を漕ぎはじめる[!]と、なんと派手に小突いてました…これには唖然としてメモをとる手がとまってしまいましたよ。というか、最前列で居眠りする男性も男性だが)。

 肝心の講演ですが、チャコス写本発見までのこれまでの経緯と、「ユダの福音書」に描かれたイエスとユダの関係、現代における「ユダの福音書」の意味について…とほぼ既知の事柄でして、あまり目新しいものはありませんでした。それでもすこしは収穫はありまして、たとえば同僚研究者グレゴール・ウルストによると、「108」という数字の入ったページの断片があって、ひょっとしたらページ番号ではないか、とすれば「チャコス写本」はもっと長大なコーデックスだったかもしれないというお話は興味深く思いました。ほんとうにそうだとしたら、写本の半分(発見されているのは66ページ分)はどっかへ行ったまま、ということになります。

 パピルス写本を閉じ合わせるための補強材として使用した紙くずなどを糊で固めたもの(cartonnage)から製作年代の測定ができるというお話(このへんはロビンソン博士の本にも書いてあった)や、「ユダの福音書」中に登場するいろいろなアイオーン、「光り輝く者」の発想のひとつにユダヤのカバラ思想もあるというお話なんかははじめて聞くのでおもしろかったですが、後半、ユダの再評価についてはちょっとついていけなかった…。これはDVDビデオの構成にも問題があるのだけれど、古来よりユダ=ユダヤの連想(というより思いこみ)から、あらぬ偏見と憎悪が生まれ、ひいてはそれがヒットラーなどの「ユダヤ人狩り」につながった、いまこそ「ユダの福音書」発見を契機としてこうした偏見・差別をなくすべき、みたいなことをおっしゃって、正直引いてしまった。たぶんこれって地理学協会側のお膳立てに沿った発言として「修正」させられたんだろう、とは思ったけれど、いくらなんでも紀元280年ごろのコプト語写本を現代の中東情勢と結びつけるのはどう考えても行き過ぎないし牽強付会だと感じました。

 マイヤー教授のご専門、グノーシス主義については「自身の内面で神とコンタクトをとり、教会組織を必要としない集団がいた」くらいの説明で、とくに目新しいものではありませんでした。というか、これじゃまるでNew Ageではないの、と思わなくもなかったが…。

 個人的にもっとも関心のあったのは、チャコス写本を筆写し、エジプトの地中に埋めたのがだれなのか、ということでしたが、いまのところわかっているのはキリスト教徒の墓から見つかったこと、その墓はどこにあるのか特定するまでにいたっていない、とのことでした(写本は発見当時、石の箱に入っていたらしい)。

 ナグ・ハマディ文書との関係については、チャコス写本のうちふたつの文書はナグ・ハマディにも収録されている点に触れられたのみで、たとえば当時、その地域に存在した聖パコミオス共同体の修道士とグノーシス主義文書との関係など、個人的にもっとも重要視している問題についてはなにも答えてはくれませんでした(このへんのことをご存知の方、ぜひ教えてください)。

 そのへんの事情、質疑応答で質問しようかなと迷いましたが、「ユダの福音書」に直接かかわる事柄ではないし、と思ってけっきょく質問できずじまい…最初に質問したおじさん(おそらく自分よりは年上)の、さっぱり要領を得ない質問攻撃がながながとつづいたり(信者だね、きっと。それもカトリックじゃなさそう)で、場の空気も険悪になってきたので――典型的小心者日本人としては――なにも訊けなかった。せっかくグノーシス研究の第一人者が目の前におられるというのに!! 嗚呼…。

 …講演会が終わると、お決まりのサイン会。それも日経NG社の方針(?)か、もっとも高価なDVDつきブック版のみサインする、というもので、すでに本を持っている者としてはDVDだけでじゅうぶんなので、とりあえず(商売に乗せられている)DVDだけ買ってみました。

 …ほうほうの体で帰宅したあと、そのDVDを全編通して見てみたら…これが大チョンボ。なんなんだこれ、ようするに「反ユダヤ主義反対、Semitism万歳」的ビデオか? という代物でした。どうりであのような「偏向」的講演になってしまったわけだ(残念…)。

2006年07月11日

The Secrets of Judas

 前にもここに書いた、ナグ・ハマディ文書校訂版編纂者ジェームズ・M・ロビンソン博士の著書The Secrets of Judas。さっそく買って読んでみたところ…。

 …ひと言で言えば、なんのことない、『ユダの福音書を追え・外伝(ロビンソン版)』みたいな本だった…orz。

 1〜3章までは、正典4福音書でのユダの描かれ方、歴史におけるユダ像、グノーシス的ユダ像を、きわめて正攻法な「正文批判的」手法で一般読者向けに解説した内容…当然のことながら4福音書でのユダの扱われ方やグノーシス派批判の代表格リヨンのエイレナイオスの『異端反駁』、キプロスのエピファニオスの『パナリオン(薬籠)』から、該当箇所を逐一引いて比較検証してはいますが、エピファニオスのほうはどんな内容だったか知らなかったのでそれはそれでよかったけれども、長々とした引用箇所もほとんどが聖書など、既知の書物から引いたものばかりで、「ユダ福音書」とバルベーロ・グノーシスとの関係は? …とかはさっぱり。自分の知りたいことにはほとんどなにも答えてくれない内容で、肩透かしを食らった感じ。このへんの薀蓄だったら『原典 ユダの福音書』のほうにも解説があるし。これといった目新しい情報はほとんどなくて、せいぜいご自身が編纂した「Q資料」とからめて書いてある箇所や、裏切り者のイメージが定着するきっかけになったのが5世紀、セドゥリウス・スコトゥスが書いた「復活の賛歌 Carmen Paschale」の一節かららしいということ、ユダ復権の動きは19世紀以降、つづいていたことを挙げている点くらいか(でもボルヘスについては触れられていない)。あとそれと「福音書」なる名称じたい、当初からあったわけではなくて、転写の過程で「権威づけ」のためにだれかが勝手に追加したことばであることとかは読んでておもしろかった。

 で、ここまで読み進めてようやくこの本の趣旨がわかってきました…これは地理学協会の向こうを張ってロビンソン博士が提示するユダ像ではなくて、キリスト教世界ではなにかとセンセーショナルに走りがちのユダ受容史についてあらためて検証してみましょう、問題の写本が「再発見」された経緯についての暴露話もふくめてね…という本だったのでした(副題からして「誤解された使徒と失われた彼の福音書の物語」だったし) orz。

 …というわけで、4章以降の後半部分はがぜんノリノリ(?)で書いています。註釈箇所も――どういうわけか――前半より増えているし(笑)。こちらにもおんなじ内容が掲載されていますが、ロビンソン先生は、今回の現代語訳および年内の刊行をめざしている「ユダ福音書」をふくんだチャコス写本の校訂版編纂チームの一員に加われなかったことが、というか自分ぬきでことが秘密裏に進められ、2004年7月、パリで開催されたコプト学者の国際的集まりで、ナグ・ハマディ写本校訂版に従事したかつての同僚・ロドルフ・カッセル博士によってはじめて真相が明かされたのがよっぽど気に入らなかったのではないか、と勘繰ってしまう。でなければ口さがないオランダ人古美術商(こちらのサイト)がカッセル博士をコケにした発言(pp. 160-161)など、わざわざ紹介するはずもない(よく編集者がOKしたもんだ。このていどの引用ならdefamationのかどで訴えられることもないと思ったのか)。そのすぐあとで博士の緻密な仕事ぶりを高く評価してはいるものの、ナグ・ハマディ文書の復元作業がいかにたいへんなものだったかを引きあいに出して、ただでさえ保存状態のきわめて悪い、というか崩壊寸前のチャコス写本の復元作業(カッセル博士がはじめてこのパピルス写本を目にしたとき、写本はダンボール箱の底にまるでボロボロになったウエハースのごとき束と化していた。『原典 ユダの福音書』pp. 75-76)がはたしてしかるべくおこなわれるかと危惧している。今回のプロジェクトに途中参加した愛弟子のスティーヴン・エメル教授については、のけ者にされたかっこうの自分に唯一、チャコス写本の情報を提供してくれるとあってか、エメル氏が1983年にこの写本をはじめて見せられたときに彼がしめした卓見(きわめて重要な写本ゆえ早急に購入し、修復・復元すべきとロビンソン博士に報告した書簡)から最近の取材記事まで、じつにご丁寧に紹介しているし、「スティーヴが地理学協会の『写本復元審議委員』に選ばれ、内部事情を知るひとりとなったことは大いなる喜び(p.166)」、「遅きに失した感はあるが、最後に加わったのはこれ以上ないほど最適な人材だ(p.167)」と述べて手放しで弟子を褒めていますが、やっぱり自分が参加できなかった無念さ(?)がにじみでているような…書き方に見えてしまいますね。

 「ユダ福音書」をふくむチャコス写本の不幸な来歴についてはジャーナリストが取材した『ユダの福音書を追え』とカブる部分が多いと思います(そちらの本は読んでないからこのへんのことはなんとも言えないが)。このパピルス写本がたどった茨の道のりについてはたしかにおもしろい読み物にはなっていますが、しょせんは学者先生でジャーナリストではないので、追求不足というか、全体的に散漫で、書き散らした印象はぬぐえない。当事者の証言も多く引用されているけれどもほんとのところはどうなの? という点がいまいち判然としません。ただ、現在の写本の所有者であるスイス・マエケナス財団というのがこの写本を買ったフリーダ・チャコス女史の弁護士によって、写本のコンテンツを地理学協会へ売り、関連書籍やDVDやらの収益を写本の修復・復元作業に当てる目的で設立されたこと、今回のプロジェクトがもともと盗品だった写本を穏便にエジプト側へ返還するための方便でもあることははっきり書かれてあり、財団をこさえた弁護士当人も話題づくりのためなんでしょう、「ユダ福音書」について、あることないことつき混ぜていいかげんなことをThe Timesとか、いろいろな報道機関に吹いたことも書かれてありました(pp.177-179)。それともちろん、地理学協会側がチャコス写本の「お披露目」時期を復活祭前の聖週間へ延期したことと映画「ダ・ヴィンチ・コード」との関連…もやっぱりというか、指摘していました(p.173)。

 20年以上にもおよんだ不幸な遍歴の過程で、なんとなんとこの写本が一時期日本にもちこまれたらしい(p.136)とか、マエケナス財団設立者の弁護士が'The Japanese Miho Meseum(?)'の顧問弁護士でもあった(p.145)とか、よもやこんな話に日本が出てくるとは思いもよりませんでした…。

 …というわけでけっきょくこの本からは目新しい事実の発見らしい発見はなかったけれど、長年ナグ・ハマディ文書やQ資料を編纂してきた学者らしく、いかに多くの古代の貴重な文化遺産がチャコス写本のように盗品として世界の闇市場へ出回っているかについてあらためて警鐘を鳴らしている点はよいと思う。チャコス写本の場合、まだ一部が散逸したままで回収不能になっているし、ほかにも貴重なパピルス写本が不正に取り引きされている…らしい。個人的にはこっちのほうがはるかに重大で、「ユダはイエスを裏切ってなかった」なんてことはどうでもいい。チャコス写本は「ユダ福音書」だけでなくほかにも3つの文書が収められていて、学術的価値はきわめて高い。それがなんと二つ折り(!!)にされたり、――この本に引用されていることが事実だとすれば――文字通り欲に駆られた人間の手で破壊されたらしい。写本の状態がここまで悪化したのはひとえに人災だということ。これはまったくもって言語道断で、人類全体にたいする大罪だと思う。

 最後に念のため「ユダの福音書」というものがどんなものかについて。

エメル : (雑誌記者の取材にこたえて)「当然、これはイスカリオテのユダの手によって書かれたわけじゃありません(笑)」
 …(長いこと異端と正統教会との関係を定義しなおす試みがされたきたが、異端視されてきたグノーシスのような教義がじつは原始教会の当初の姿で、ユダ福音書の発見によってそれが裏書きされるのでは、という質問にこたえて)「そう信じる、信じたいと思う人々がいるだけです。あらたに発見されたこの写本によって、本来のキリスト教がいまとはまるでちがう姿だったと証明されるものならばたしかにすごいことにはなるでしょう。キリスト教会は2000年にわたって、正統派としての地歩を築くためにさまざまな手段を講じ、信仰を支えるよすがとして歴史上語り継がれる神話を利用してきました。長年にわたって研究者は現実の教会史はそれとは異なる形ではじまったらしいと言ってきましたが、でもじっさいなにが起こったのかについてはいまだ議論が絶えません。正典4福音書についても事実を目撃した当事者によって書かれたわけではないでしょうし。イエスという人がだれかも、そのような人物がほんとうに存在したのかについてもけっしてわからないのです。今回もまた、あらたに発見された写本が初期キリスト教について多様な見方を提供するとはたしかに言えますが、それ以上のことはありません。当時真正なものとしてみなされていたものがなんなのか、なにが正統でなにが異端かについては不明な点があまりに多すぎるのです」(p.174-175)

 そしてこちらは師匠ロビンソン博士のコメント :

 …「ユダの福音書」は2世紀に書かれた外典福音書で、この文書が伝えるのはおそらく2世紀なかばに存在したグノーシス主義の一団であるカイン派についてであり、紀元30年ごろに起きた事件のことではない! (p.177)

 …ちなみにまえがき見開きの、「ユダの福音書」最終ページのモノクロ写真。これはあきらかに地理学協会側から提供されたものではなくて(プロジェクトから締め出されていたのだから当たり前)、古美術市場を転々としているあいだ、べつの米国人コプト学者がいかがわしい古美術商から入手した写真をそのまま使ったものです。→こちらにもおんなじ画像があります。『原典 ユダの福音書』4ページに掲載された写真とくらべると、明らかに劣化の進みぐあいがちがいます。こちらのほうが古い時期に撮影されたものです(本文ページはこちら)。

 …でもこちらの本にしてもけっきょく発売時期を地理学協会の公式発表とあわせてあわてて出版(4月)したみたいだから、結果的には便乗? なんかな。

2006年06月26日

「グノーシス」という落とし穴

 最近のThe Da Vinci Codeブームと便乗商法的な日経NG社の「ユダの福音書」関連書籍・DVDの宣伝。書店に行けば――ほとんど関連性の薄い本や雑誌、ムックまで――「ダ・ヴィンチ・コード」コーナーに文字通り山積み。そのうちの一冊を手にとってパラパラとページを繰っていたら、見出しにGnosis主義ということばが。昨今の映画作品やサブカルチャーものの底流のひとつにグノーシス思想がある、というものでして、「エヴァンゲリオン」とか「風の谷のナウシカ」とかもグノーシスの流れを汲んでいる、といった書き方で、正直なんだこれ、と思ってしまった。

 こちらの方面にはまるで縁がないので、くわしい人に訊いてみたら「エヴァ…」のほうはたしかに製作者がグノーシスも意識して作っているらしい…とのことでしたが、あくまでも一要素として、使える部分のみ拝借したていどだろうと言ってました。

 繰り返しになるけれども歴史上のグノーシス運動じたいがひじょうに多種多様で、厳密には「グノーシス主義」というひとつの枠組みで論じることさえ不可能なもの。とはいえ学問上なんらかの定義づけをしないと不便なのでとりあえずグノーシス主義(グノーシス派)と言っているだけなので、そんなこと言ったらそれこそ際限なくどんなものにもグノーシス的なものが発見できてしまう。「『星の王子さま』とグノーシス」、「『死霊』とグノーシス」みたいに(念のため埴谷雄高の『死霊』はしれいと読みます)。自分の見た雑誌記事もそのたぐいで、グノーシスをまったく知らない読者を惑わせるばかりでよくないと思う。ひとことで言えば、けっきょくコマーシャリズムの道具に堕しているにすぎない。

 それでもいまごろになってようやく岩波の『ナグ・ハマディ文書II 福音書』を図書館より借りて、ほかの参考文献といっしょに読んでいるので、自分にとってはラッキーだったと言うべきか。そもそものきっかけは英訳版「ユダの福音書」をはじめて目にしたとき。「なんだこれ、グノーシスじゃん」と思ったけれどもとくに後半部分はまるでチンプンカンプンで、これはきちんと読まないと、と思い立ったわけです。手許の『ケルトの聖書物語』巻末にも『ナグ・ハマディ文書 全4巻』の案内が掲載されていたし、編訳者の解題にも『ナグ・ハマディ文書』との関連が指摘されているので、いずれは読んでみよう思ってはいたけれど、よもやこういう経緯で手に取ることになるとはちょっと想定外、でした。

 …そんな折りも折り、日曜の地元紙朝刊の「書評欄」に、なんとなんと『ユダの福音書を追え』の評が掲載されていて、またまたびっくり、というか、ちょっと遅いんじゃないの、おなじ掲載するなら『原典 ユダの福音書』のほうでしょなんて思った。評者はこれまたなんと、かの筒井賢治先生でして、評じたいも妥当な線でした。↓

 …これ(「ユダの福音書」)が、初期キリスト教を考える上で、非常に重要な史料なのは間違いない。だが、従来の「ユダ像を変える」ような世紀の大発見だとするPRには、研究者として疑問を感じる。この福音書が書かれたのは、思想内容からして明らかにニ世紀半ば以降。一世紀の正典福音書でさえ十分な情報を欠くユダについて、より真正な記述を含んでいるとは考えにくい。このユダ像は新たな創作とみる方が自然であり、第一、本書の著者の論述もその線に沿ったものだ。
 …今回の発見をめぐっては最近、雑誌や本書、解説書と出版が続いた。その商業的なにおいに違和感はあるが、空想に基づく「ダ・ヴィンチ・コード」と異なり、「ユダの福音書」は実在の「もの」への巨額投資が絡んでいる。古代研究への"プチ・スポンサー" 的な気分で楽しんではいかがだろう(以上太字強調はこちらで付加)。

 ところがきのう、自分のblogのアクセスログのreferer経由でこんな書評を掲載したページを発見。一読、「ユダ福音書」に出てくるイエスのように笑って――というより失笑して――しまった。↓

 …いま「新約聖書」に伝わる四つの福音書は、歴史的には四世紀から五世紀頃に成立したとされており、『ユダの福音書』はそれより古いイエスの言行録である。歴史学的にみれば、「新約聖書」に伝わるイエス伝よりも信用性が高いという見方も成り立つ。

 下線部、新約聖書として採録された27正典成立について基本的なところがわかっていればこんなバカなこと書くわけがない。アレクサンドリアの司教アタナシオスが「新約聖書は27正典以外認めない」と主張したとされる「復活祭書簡」をエジプト諸教会宛てにしたためたのが367年。マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの「正典」福音書じたいの成立は2世紀なかば。ちゃんと裏を取ってから書いてください。ちなみにイエスの言行録として知られるものにQ資料というのがありますが、「ユダ福音書」は2世紀、グノーシス主義のカイン派によって書かれたとリヨンの司教エイレナイオスが『異端反駁』に記録している点はほぼ疑いないところで、イエスの言行録云々もこの書評者(ミステリ作家らしい)の勝手な思いこみです。復元・解読された「ユダの福音書」をはじめて読んだとき、「これは福音書というより、グノーシスの奥義解説書だな」というのが自分の第一印象。おんなじ読むんだったらこちらの先生の書いた記事のほうがよっぽど信用できる。

 いろいろユダ福音書・グノーシス関連の記事を見ているといまひとつ気になることがあります…なんか「正統派(カトリック教会)がグノーシス諸派を異端として封殺した」みたいな書き方をしている記事が多い。原始教会時代はグノーシス的キリスト教も正統派もそれぞれが「正統」だと称して闘争していたことは事実ですが、じっさいに実力行使をともなった闘いがあったのは北アフリカのドナトゥス派(「放浪無頼の徒」)というさらに過激な一派とヒッポの司教アウグスティヌス率いる正統教会側との闘争(じっさいに実力行使したのは皇帝率いるローマ軍)や、西ヨーロッパ大陸各地で繰り広げられたアリウス(アレイオス)派との闘いで、グノーシス諸派とはもっぱら舌戦もしくは純粋に教義論争で戦ったと解釈すべきでしょう。それに正統教会じたいも一枚岩ではなくて、4度の公会議開催をへてやっとHoly Trinityをはじめとする教義の根本がかたまったくらいで、この件についてはアルメニア教会やコプト教会みたいにいまだに三位一体を認めずに人としてのイエスを否定するいわゆる「単性論」をとる「異端」も存在するし、さっきも出てきたアタナシオスも正統でありながら対立する教会側ともめたすえに破門宣告されたり…カトリックもその後教皇を頂点にいただく西方教会側と東ローマ帝国の息のかかった東方教会側としだいに対立が激化してついに1054年、東西教会は双方を破門しあって分裂したり(世界史で言うところの教会大分裂/シスマ)…ようするに政治的理由であれ感情的理由であれ、多数派から「逸脱している」とみなされた時点でだれでも異端の烙印を押されるような時代背景だったので、「多数派のカトリック教会vs.グノーシス派」という単純な図式は成立しません。グノーシスはたしかに新約聖書の正典じたいも各教派間でまちまちだった原始キリスト教会にとっては「最大の異端」だったでしょうが、最初に正統教会と袂を分かったのはドナトゥス派です。ほかにもネストリオス派、ノヴァティアヌス派(「カタリ」ということばを最初に使ったのはこちらの教派。カタリとはギリシャ語のカタロイからで「純潔な人々」の意)、モンタノス派、そしてアリウス派など、けっこういろんな「異端」がありました。なかでも正統カトリックからもっとも強敵とみなされていたのがグノーシス思想の影響を受けた諸流派、ということ。カイン派もそのひとつだったみたいです。それとこれもかんじんな点ですが、グノーシス諸派はひろく一般人、つまり異教の民を教化しようという「宣教」の発想じたい欠けていた。では彼らが相手にしたのはだれかというと、すでに正統教会員となっている一般信徒。グノーシス派は奥義に達しないかぎり救済もないみたいな教えなので、こんな流派が「正統」として主導権を取れるわけもない。正統教会側の陰謀云々と言うのも的外れです。そういう短絡的な二元論こそ、落とし穴なのです(なんでもそうだとは思うけれども)。

 いろいろ読んでいくと、元来が高度に哲学的集団で弁の立つグノーシス諸派は一時期正統教会をおびやかすほどの勢力を誇ったものの、3世紀後半以降、帝国ローマの弱体化と財政逼迫のあおりをもろに被って、すでに司教を中心に高度に組織化されたカトリック側が優勢に立つと急速に衰えていったらしい。だからグノーシス諸派が衰退したほんとうの理由は正統教会側から受けた弾圧でもなんでもなくて、おもに経済的理由からだった、と言っていいようです。

 『ナグ・ハマディ文書II 福音書』の序文にも書いてありましたが(p.viii)、「ユダの福音書」もおそらくはアタナシオスの事実上の禁令を機に、すでに一時期の勢いはなくなっていたとはいえグノーシス文書の写本を大切に保管していた修道士(たぶんパコミオス共同体員)がやはりおんなじように壷かなんかに入れて後世に伝えようとしたのでしょう。

 …「ユダの福音書」つながりでは、「ナグ・ハマディ文書」現代語訳で有名なJ.ロビンソン博士によるこちらの本にも興味があります。こっちは邦訳出ないのかな? 出版社というのは邦訳を出す気がなくてもとりあえずは版権エージェントから版権を取るものだけれども…。

 博士はオーストラリアの新聞サイトに今回の「ユダの福音書」パピルス写本の扱いをめぐる米国地理学協会側の対応について批判する記事を寄稿しているけれども、もう一方の当事者である写本復元・解読者のロドルフ・カッセル博士の記事(『原典 ユダの福音書』pp. 79-82)も読むと、やっぱり研究者も人の子かなと思いました。互いに協力していれば、この貴重な写本はここまでボロボロに朽ちることなく、もっと内容が鮮明に解明できたかもしれないと思うとはなはだ残念至極。

 グノーシスに話をもどすと、「イエスはじつは十字架にかかってはいなかった」みたいな仮現論(docetism)のたぐいを文字通りそのまま解釈したり、もともとPax Romana という比較的安定した時代にはやったグノーシス思想をいま現在の閉塞しきった状況と重ねるのもきわめて皮相的で、やっぱり「グノーシスもどき」の陥穽に落ちていると思う。ついでにグノーシス側の終末思想と伝統的なユダヤ教に見られるような過激な終末思想とはまるでちがうものです。それとこれも繰り返しになるけれど、日経NG社は誇大広告をやめてほしい。冗談ぬきでJAROに通報ものですよ。オビと中身がかくもかけ離れた本というのもある意味すごいが、ただでさえキリスト教を知らない、共観福音書さえまともに読んだことのない国内の一般読者に誤った印象をあたえかねない。国内の聖職者も信徒からグノーシスについて質問を受けることが急増しているらしくて、ユダ福音書とグノーシスについての公開講座だかを開いたらそんな人たちで満席だった、という話題も目にしました。正統教会側とてみんながみんなグノーシスについてきちんと答えられるほどくわしいわけじゃないということでしょうか。

 …なんてこと書くと、護教的だの「中の人」だのとそしりを受けそうですが、わたしは信徒でもなんでもない門外漢です、念のため。

 「ユダの福音書」はプラトン哲学をベースにしたヘレニズム思想――グノーシス――の衣をまとった、正統キリスト教会とはまるで別物の産物にすぎない。あくまでグノーシス主義研究史上の貴重な発見としてとらえるべきものだと、重ねて強調しておきます。

2006年06月11日

『原典 ユダの福音書』

 『原典 ユダの福音書(原題 : The Gospel of Judas from Codex Tchacos)』、発売早々、Amazonジャパンに発注。さっそく読んでみました。

 感想の前に、いまいちどこのたび「再発見」された、「ユダの福音書」なるグノーシス派のパピルス文書のかんたんな内容を書き出しておきます(以下は引用・転載自由と書かれたこちらのblog様の記事を参考にして再構成したもの)。

1). イエスが過越の祭りの3日前、イスカリオテのユダとの8日間の対話で語った秘密の啓示。イエスは地上に現れ、人類の救済のために数々の奇蹟をおこない、12人の弟子を選んだ。弟子たちの目には師イエスは子どもの姿に写った。ある日、イエスは[おそらく最後の晩餐の席]弟子たちがパンに感謝の祈りを捧げているのを見て、笑う。おまえたちは『自分たちの神』を賛美しようとしている、と言う。弟子たちは、「先生こそわたしたちの神の息子にほかならない」と応じるが、イエスはそんな弟子たちに、おまえたちの世代はだれひとりとしてわたしの「真の姿」を知ることはできない、と答える。

2). このことばを聞いた弟子たちは怒り、心のうちでイエスをののしりはじめる。イエスは、おまえたちの仕える劣等な神が怒りに火をつけたのだと言い、わたしの前に「真の霊」を引き出して立ってみよと問いかける。これに応じたのはユダただひとりだけだったが、ユダは顔を向けることはできなかった。ユダはイエスに、「先生はバルベーロ[2-4世紀のグノーシス文書に頻繁に言及される女性神格]なる不滅のアイオーンから来られた方です」。これを聞いたイエスはユダをほかの弟子たちから離し、ユダにのみ秘密の神秘を明かすと言う。イエスはユダに、おまえはほかのだれかによってその座を追われる。12使徒がふたたび神とともにひとつとなるためにと伝え、そしてユダの前から去った。

3). 翌日、どこへ行っておられたのかと問う弟子たちに、イエスはべつの次元の世界へ行っていたと答える。弟子たちが、その世界とはなんですかと問うと、イエスは現し世の死せる世代には見えないまったく別次元の世界だと答えて、笑う。

4). べつの日、弟子たちは自分たちの見た夢についてイエスに質問する。夢の中で、12人の祭司が多くの罪を犯していた、自分たちの子どもを生贄として捧げたり、男と床をともにしていたと。これら12人の祭司はイエスの名を唱えながら祭壇へ歩み寄った。イエスは、「恥知らずにもわたしの名において実らぬ木を植えた」のはほかならぬおまえたちだと答える。この12人の祭司が捧げた牛は、祭司たちが迷わせた人々だとも言った。この祭司たちのあとにつづく者が子どもたちを殺し、男とともに寝て、「神」はこれら捧げ物を「神に仕えるひとりの祭司」から受け取ってきたと言い切る。これらの者は、地上世界の終わりの日に貶められるとイエスは答え、弟子たちに、自分と争うのはやめよ、生贄を捧げるのもやめよと諭す。

5). ユダは師イエスに、「現し世のある世代」はどんな果実を実らせるのかと訊く。イエスは、肉体は滅びるが霊魂は高みへ引き上げられると答えた。「べつの世代」については、岩にまかれた種は実らない、それを引き起こすのが「堕落しがちなソフィア」なのだと言って、その場を離れた。

6). ユダはイエスに、こんどは自分の見た夢について教えてほしいという。イエスは笑いながら、「13番目の霊よ」とユダを呼ぶ。ユダの見た幻は、12使徒から石を投げつけられているというもの。ユダは群衆の取り巻く大きな館にやってくる。イエスは、おまえの星はおまえを迷わせてしまったと言い、朽ちる運命の人間にはこの館に入る資格はないと答える。イエスはここで「不死の王国」の神秘と、「12のアイオーン」について語る。

7). ユダはさらに「自分の種子」の運命が宇宙の支配者たちに握られているのかどうか訊く。イエスは、「おまえは13番目となり、ほかの者たちから呪われるが、最後にはほかの世代に君臨する」と告げる。イエスはユダに、だれも見たことのない神秘について話す。「果てしなく広がる大いなる王国」に「不可視の偉大な霊」がおられる。つづいて「アウトゲネース、自ら生じた者」という光り輝く者が「光る雲」から生まれ、それが無数の天使と「光り輝くアイオーン」を誕生させた。何者かが[アダマス?]不滅のセツのアイオーンを出現させ、同様に72の「光り輝く者」を生んだ。72の光り輝く不滅のアイオーンは「360」の不滅の「光り輝く者」を生む。12のアイオーン、ひとつのアイオーンにつき6つの天、すなわち72の光り輝く者に72の天を創造した。おのおのには5つの「空[現代英訳ではfirmament]」があり、合計360の「空」が作られた[たぶん認知できない領域である永遠と時間が支配する下位世界である宇宙の創世について述べたもの]。

8). その後ひとつの雲から、ネブロもしくはヤルダバオートと呼ばれる者が現れた[旧約聖書の創造神と関連づけられることが多い。ほかのグノーシス文書ではネブロはサクラスと一対で、12の天をもたらした]。ネブロはお供として6人の天使を創造した。うちひとりが「サクラス[アラム語で「ばか者」の意、ヤルダバオートとともに旧約聖書の神と同一視される]」で、これら6人の天使がさらに12人の天使を誕生させた。5人の天使がこの世を支配する――セツ、ハルマトート、ガリラ、ヨーベール、アドーナイオス。そしてサクラスが天使たちに言う。「われらの姿かたちをまねて、人間を創ろう」。こうしてアダムとイヴが生まれた。

9). つづいてユダは、人の一生の長さについて訊く。イエスは、「大天使ミカエルは神の命により、人々に質として霊をあたえているが、また神は大天使ガブリエルに、『大いなる世代』には霊を贈り物として授けている」と語った。

10). ユダは、「べつの世代」はなにをするのですかと問う。イエスは、「星々はすべてを成就させる。サクラスは自分の時間をまっとうすると、その世代の最初の星が現れ、彼らはわたしの名において姦淫し、自分たちの子どもを殺す」ここでイエスは、「6つの星が5人の闘士とともに迷い、滅ぼされる」のを見て、笑う。

11). つづいてユダは洗礼した者についてイエスに訊くが、原本破損による欠落がひどくてほとんど意味不明。かろうじて「サクラスへの捧げ物」と「すべては悪」という字句が読み取れる。

12). ここでイエスはユダに重大な発言をする。「おまえはわたしを包むこの肉体を犠牲として捧げるだろう」。その後ユダは「変容」し、イエスに導かれるままに、「光り輝く雲」すなわち本来の居場所を見、その雲へと昇り入ってゆく。地上の人々は雲から聞こえる声を聞くばかりで、雲じたいは見えない。

13). イエスが一室で祈りを捧げていると、祭司たちは囁きあっていた。彼らはイエスを逮捕したかったが、イエスは人々からは預言者とみなされていた。祭司たちはそんな群衆を恐れていた。祭司たちはユダを見咎めると、ユダは彼らの聞きたかったことを告げ、金を受け取り、イエスを祭司たちに引き渡した。

 …番号の割り当ては簡易的なもので、チャコス写本のページ番号とも、現代語訳の割り振りともちがうことを断っておきます(奇しくも13で終わってしまった…orz)。

 率直に言いまして、これをほんとうに理解するのは至難の業。はじめて邦訳のもとの版つまり現代英語訳を見たときも、とくに後半部分の宇宙創世神話のところでアタマがウニになりました。…あらためて邦訳本として読んでみても、…やっぱりよくわからない。判然としない部分がとても多い。これはもとのパピルス文書が20年以上ものあいだ、きわめてぞんざいな扱いを受けてきた結果、文書じたいが消滅寸前だった、という悲しむべき事実も一因にあるとは思います。

 コプト語で書かれた「ほんとうの」原文から直接訳を起こしたものではなくて、いわゆる「重訳」というやつですが、欠落箇所を補った[...]の部分までぴたり英訳とあわせよう…という配慮をしつつ、読みやすい訳になっていて、この点は一読者として好感がもてました。

 チャコス写本の現代語訳では、研究者によって解釈が分かれる部分がいくつかあり、たとえば4番目の挿話で、12の弟子が見たという夢の内容。地理学協会側の発表した英訳では、12人の祭司が犠牲として捧げる牛は「あなたがたが迷わせて[40]、その祭壇の前に連れて行った人々である(p.37)」とあるけれど、コプト語原文を文字通り訳すと祭壇の前じゃなくて祭壇の上だとする古コプト語研究者による主張もあります。また邦訳本p.48-9に出てくる「ユダの種子」の解釈についても、ただたんに「ユダの子孫/ユダにつらなる系譜」と解釈すべきで「内なる神性の輝き」ととらえる必要はないとも述べています。→こちらの書評。書評中のチャコス写本を訳出した箇所は評者独自に英訳したものでこちらも参考になります。

 あとこれはほんとにどうでもよいことながら、英訳とつき合わせて見ていたら、邦訳版に訳し漏れがあるのを見つけました…。

 「本当に、[...]お前の最後の[...]となる[――約二行欠落――]。なぜなら彼は滅ぼされるからだ」(p.70)

 英訳版ではこうなってました。

 “Truly [...] your last [...] become [―about two and a half lines missing―], grieve[―about two lines missing―] the ruler, since he will be destroyed.

 「本当に、[...]お前の最後の[...]となる[――約二行半欠落――]悲しむ[――約二行欠落――]支配者…。なぜなら彼は滅ぼされるからだ」

 原典じたいが破損して穴だらけなので、grieve一語があろうとなかろうとたいしたことじゃないか…。でもこのgrieve、自動詞なのか他動詞なのかがわからない。

 チャコス写本の現代語訳につづいて、今回地理学協会側の福音書復元・翻訳チームのメンバー4人が担当して解題・解説を掲載していますが、ちょっと気になったのはバート・D・アーマン先生の書いた解説…の出だし(p.101)。はっきりダ・ヴィンチ・コードを意識している…「フィリポ福音書」だったかな、たしか作品に出てくるのは。有名なナグ・ハマディ文書中の福音書にからめて書いてあるんですが…なんか個人的にはやっぱりそのつながりで発表したんだな、とつい勘繰ってしまった。

 それでもこの本によって、「ユダの福音書」をふくんだパピルス写本の中身が、「ピリポに送ったペテロの手紙」(1〜9ページ)、「ヤコブ(の黙示録)」(10〜32ページ)、「ユダの福音書」(33〜58ページ)、「アロゲネス(異邦人)の書」(59〜66ページ)という構成だったこと、1978年にこのパピルス文書がナイル河右岸の岩山の洞窟内にあった盗掘墓から出土したことをはじめて知りました。それと後半ふたつの解説は、グノーシス派との関連を詳しく検討していて、バルベーロだのサクラスだの、日本人にはまるで馴染みのない神々の名前や由来についても知ることができるので、グノーシス研究書としてはおおいに参考になりますね。といってもこの手の本は「健全な批判精神で」読むべきでしょう(アラ探し、という意味ではありません)。とはいえグノーシス派の宇宙創世神話なり、当時のグノーシス派を取り巻く時代背景なりをあるていどは最低限知ってからこの本を読むのでなければほとんどわけがわからないことも事実。読者側もあるていどは勉強しないと、とこれは自分自身もふくめてですが…。

 最後にこの本の補(原?)注のつけ方。巻末にずらっと並んでますが、本文側にそれを示す印がなにもないので、しおりでもはさんでいちいち確認しないとどのへんの補足事項だかわからない。そしてこれは邦訳版元の方針だろうけれども、訳者あとがきくらいは入れたほうがいいのでは…。欲を言えば、日本を代表するグノーシス研究者の大貫隆氏や筒井賢治氏あたりが監訳者として携わればさらによかったかも(補注にある、「そのほかに別の『トマス福音書』も存在する。こちらは、いわゆる最初期の福音書に属するもので、内容はナグ・ハマディ文書のテキストとはまったく異なる」って、ひょっとしてここでもちょこっと紹介した、「トマスによるイエスの幼時物語」のことかな??)。


このエントリのコメントについて

2006年05月30日

どのへんがGnosisなのか

 先日、ケルトキリスト教修道院時代のドルイドと修道士との関係について調べるつもりで地元の図書館に行ったはいいけれど、けっきょくめぼしいのがなくて(orz)、ふとうしろの書架に目をやるとグノーシス〜という書名が。例の「ユダ福音書」の件以来、いい機会だからとGnosisなるものについてこのさいもうすこし突っこんで読んでみるのもいいかなと思い、関連書籍を2冊、とりあえず借りてきました(「〜の福音書」は英語ではたとえばThe Gospel according to Saint Lukeのように表記します。ルカ本人の真筆なんかじゃけっしてありません。新約の27正典のうち、ほんとに本人が書いたのはパウロの書簡類くらいのもので、いちばん最後に正典に組み込まれたのが「ヨハネの黙示録」)。

 それと手許の『キリスト教2000年史』という大部の本、キャンベルの本、Webで集めた資料なんかに週末じっくり目を通してみて、あらためてGnosisという「運動」がいかに複雑多岐で、理解しにくいものかを思い知らされることになりました。orz

 (興味のある方は末尾に自分が参照した文献を挙げておきますので参考になさってください)。

 当時のグノーシス主義(グノーシス派)なるものがどんな特徴を持った運動だったのか、まずごくごくかんたんに書き出してみますと、

  • 土台はプラトン哲学的宇宙観で、物質からなる「この世」のあらゆるものは悪。

  • 当時の新興宗教だったキリスト教に特有の現象ではなく、マニ教(摩尼車ってこれと関係あるのかな…??)・ユダヤ教・マンダ教など非キリスト教グノーシスもあった。グノーシスじたいの起源もひじょうに古い(らしい)。

  • グノーシスは一枚岩ではなく、一元論的神学観と二元論的神学観に大別される。おもな流派はウァレンティノス派・バシレイデス派・マルキオン派)。

  • 2世紀(五賢帝時代)という時代背景と当時のヘレニズム神秘思想がグノーシス派台頭に密接にかかわっている。2世紀がグノーシス派の最盛期。

  • キリスト教グノーシス主義では、旧約の神とイエスを派遣した至高神とはべつもの(旧約の神は職人を意味するギリシャ語・デミウルゴスという名で呼ばれる)。

  • 仮現論(docetism)の混入。

という感じでしょうか。

 教義を乱暴に要約すれば、この世の「牢獄」に閉じ込められている人間がそれぞれの内に秘めている「ほんとうの自己」をイエスを通じて「知ること」によってこの世の束縛から解放されて、本来のすまいである至高神(7天よりもはるかかなたの階層にいる。ちなみにそこに到るまで30〜365のaeonが存在する←英会話学校ではありません、念のため)のもとへ帰還することにより救済されるという…なんだかまるでHeaven's gateもどきの、素人から見ればまるでオカルトの世界でどうもついていけません(笑)。ドルイディズムも似たようなものと言われればそうかも知れないが…いや後者のほうがもっと地に足ついていたはず。

 キリスト教グノーシスにかぎって言うと、この世を創造した神とイエスを遣わした神とはちがうということがもっとも重要な点だと思います。ということは、必然的に彼らの用いた聖典には旧約は必要ないことになる(べつものだから)。

 物質をおしなべて悪とみなすのも特徴ですが、仮現論もこの現実の肉体を軽んじることから出てきた発想です(もともとはグノーシスとは関係なかったらしい)。「ユダの福音書」でイエスが弟子に、自分の「ほんとうの姿」を、目を見開いてしっかりと見よ、と檄を飛ばしているのもこれです。でも仮現論ってたとえばトリックスター神の伝承にも通じるところがあって、これはこれで興味深い。「見た目に惑わされるな、本質を見据えよ」ということなので。で、けっきょくイエスの「ほんとうの姿」を見ることができないわれわれは、ユダ以外の弟子もふくめて師匠から「笑われる」。

 はじめて知ったのですが、グノーシス派の古文書ではこのようにイエスがよく笑っています。そのもっとも強烈な例がナグ・ハマディ文書「ペトロの黙示録」、「大いなるセツの第二の教え」に出てきます。十字架の道行きの途中、力尽きたイエスは倒れ、ゴルゴダの刑場への登りをキュレネ人シモンという人が肩代わりして十字架の横木を担いでやるくだり(映画 Passion of the Christ にもこの場面出てきましたね)。これは共観福音書にも出てきますが、なんとグノーシス派では十字架に釘打たれたのはイエスではなくて十字架を運び上げる肩代わりをしただけのはずのシモンだった?! イエスがシモンで、シモンがイエス? と見た目に惑わされてはいかん、ということらしい。そしてイエスは無知な群集を見て笑っている(なんてイヤみな奴…)。

 ちなみにこの話、なんとコーラン(クルアーン)にも出てくるとか(!!)。イスラム教教祖ムハンマドは、グノーシス派の隠修士から「キリストは十字架上で死んだのではない」話(もちろんこれは仮現論のこと)を耳にしたらしい。当時のグノーシス思想がいかに流行っていたかということを暗示するエピソードですね。

 以上、とりあえず思いつくまま列挙したことを念頭において「ユダの〜」冒頭部を見てみると、


<試訳>

 イエスは地上に現れると、人類救済のために、数々の奇蹟と驚くべき御業をおこなった。正しき道を[歩む]者もいたが、滅びの道を歩むものもいた。それゆえ12人の使徒が集められた。

 イエスは弟子たちにこの世を越えた神秘と、世の終わりになにが起こるのかについて語りはじめた。弟子の目には、イエスが子どもの姿に見えることがたびたびあった。
 
1. イエスと弟子との対話 : 感謝の祈りについて

 ある日、イエスは弟子たちとともにユダヤの地にいると、弟子たちが集まり、神妙な顔つきで祈っていた。イエスが弟子たちの[もとへ来ると]、彼らは[ここから写本34ページ、以下同]車座になってパンに感謝の祈りを捧げていた。それを見て[イエスは]笑った。
 弟子たちは[イエスに]尋ねた。「先生、なぜ[わたしどもの]感謝の祈りを笑うのです? わたしどもは正しいことをしています」
 イエスは弟子たちに答えて言った。「おまえたちを笑っているのではない。<おまえたちが>祈りを捧げるのは、まことの御心から発したからではない。おまえたちがその祈りで[賛美するのは]おまえたちの神なのだ。それゆえ笑ったのだ」。
 「先生、あなたは[…]われらの神のひとり子です」
 イエスは弟子たちに言った。「なぜわたしを知っていると言える? はっきり言っておく。おまえたちに属する時代の者がわたしを知ることはない」。

怒る弟子たち

 弟子たちがこのことばを聞くと、彼らはひどく腹を立て、心のうちで師を罵りはじめた。
 イエスが弟子たちの理解のなさを[見て取ると、彼らに言った。]「なぜこのようなことで心をかき乱され、腹を立てるのだ? おまえたちの内なる神と[…][35]が心のうちでおまえたちの怒りに火をつけたのだ。人のうちで[力ある]者は、内なる完全な人間を引き出しわたしの前に立ってみよ」。
 弟子たちは答えた。「力ならあります」。
 しかし彼らの霊はイエスに面と向かって立てなかった――イエスの前に立てたのは、イスカリオテのユダただひとりだけであった。だがユダはイエスを直視することはできず、イエスから顔をそむけた。
 ユダ[はイエスに言った。]「先生がだれで、どこから来られたのか知っています。先生は*永遠の王国バルベーロから地上に降りてこられました。先生を地上世界へ遣わせた方の名は、わたしの口からはおこがましくて言えません」。

 * …バルベーロは語源不詳。ソフィアと同一視される。ウァレンティノス派以前に「バルベーロ・グノーシス」派というのがあったらしい。→こちらのサイトに若干の説明あり。


 非キリスト教グノーシスのマンダ教についてはちょっとおもしろいことを発見。この古代非キリスト教グノーシス派唯一の残存教団は、つい最近までイラン・イラクあたりで活動していたらしいのですが、このマンダ教三大聖典というのがありまして、うちひとつがなんと「ギンザ」!! …宇宙の起源について詳細に述べられている聖典ということです。

 …グノーシス関係は内容が内容だけに、浅学非才のアタマはときおりウニになってしまいますが、読みくたびれてきたときにこんなおかしな発見があると、つい「4丁目の山×楽器…」とかってくだらん合いの手を入れたくなってしまいます。

 …いや話題が話題だから、聖書図書館と言うべきか。

参考文献

  • Lion Publishing edition of The History of Christianity, Lion Publishing, Oxford, 1990. 邦訳 : 『キリスト教2000年史』井上政己監訳 いのちのことば社 東京 2000. 

  • 筒井賢治著『グノーシス――古代キリスト教の異端思想』講談社選書メチエ 東京 2004.

  • Norbert Brox, Kirchengeschichte des Altertums, Parmos Verlag Düsseldorf, 1983. 邦訳 : 『古代教会史』関川泰寛訳 教文館 東京 1999.

2006年04月10日

聖週間に「ユダの福音書」解読とは?

 今年の桜は寒のもどりもあってか、ずいぶん花期が長くて楽しめましたが、それももう見納め。桜が開花してからほぼ毎週のように「春の嵐」だったので、これは奇跡的かも。咲きつづけてくれた桜の花に感謝。でも山のほうではこれからが春本番。気分転換にハイキングにでも出かけようかな。

 信者でもなんでもない者からすれば、べつにどうということもないのだけれど、なんで米国地理学協会がわざわざこの時期(聖週間)に、いままでだれからも相手にさえされなかった経外典である『ユダの福音書』を解読しました、なんて発表したんだろ? KV.63のときはNHKの地上波TVニュースでも素通りだったのに、なにか意図的なものがあると勘繰るのは自分だけ(KV.63については当初5つと思われていた木棺がじっさいには7つあり、積み重なった木棺のうちてっぺんにあった棺のみ取り出されて、修復のためとなりのアメンメセス王墓[KV.10]へ移されたとのこと)?

 研究者グループによる英訳版はこちら(PDF版)。ただしこれらいわゆる「グノーシス gnosis 主義」の聖典のたぐいは、おそらく話題になっているほどにはたとえ正統の信者であってもそうかんたんには理解できないと思う。かつて 'Celtic' なものがもてはやされたときとおんなじで。19世紀末にドルイド復興の儀式として使われたストーンヘンジにしても、ケルト人がブリテン島にやってくるはるか以前の古い時代の遺跡なのに、そんなことはお構いなしだったように。グノーシス主義もまた歴史的背景が複雑で、わからないことだらけなのが現状。ただ、門外漢でもはっきり言えるのは、グノーシスの思想は当時広まっていたほかの教義、マニ教やユダヤ教にも同様に影響を及ぼし、原始キリスト教会側はアリウス派とともに、「もっとも危険な異端」だとみなしていたということです。

 それと福音書はたしかに本物でしょうが、これじたい2世紀中頃(c. AD 150)に書かれたギリシャ語原典から転写された写本らしいということも大事な点。つまりほかに原典が存在するかも、ということ。この福音書記者は「ヨハネの黙示録」同様、むろんユダ本人であるはずもなく、3-4世紀ごろ、シリアやエジプトの砂漠に隠棲していた隠者集団に属していただれかさんが、コプト語で綴ったもの。中世初期アイルランド教会もまた交易を通じてシリア・エジプトの東方教会系の修道士集団と接触をもっていた可能性があり、アイルランド特有の修道院中心のキリスト教会はこのへんがルーツかも、ということは言えると思います。

 グノーシスについては、岩波から刊行されている『ナグ・ハマディ文書』シリーズなんかも読んだことがなく、なにも知らないにひとしいけれど、今回英訳された文書を素人なりに見てみると、物質 (matter)からなる被造物は「最下等の神の仕業」とみなしおしなべて悪とする思想、その悪である物質と善なる霊体 (spirit) とを切り離す二元論(このへん、曖昧模糊とした日本風アニミズムとはちがう。善悪対立の発想はゾロアスターあたりが起源だが、いずれにせよこの手の発想は砂漠生まれの宗教の特徴)、ある特定の者に秘密の知識 (gnosis) を授けるくだり(ここではユダ)、弟子の前に現れるキリストの姿が子どもに見えたりするなど、かりそめの存在に過ぎないと思わせる記述(仮現論)もあったりで、グノーシスそのものですね (ちなみに『ユダの福音書』に登場するイエスは、自分が敵に引き渡されるのをわかっていながら、よく笑っています…)。

 異端、ということでは、イエス自身、ユダヤ教の異端エッセネ派に属していたらしい…これは、新約聖書の4福音書に見られる、当時の多数派パリサイ人を執拗に非難している記述が多く見られることと関連性があると思います。異端すなわちカルトというのは、最初はみんな迫害を受けるもの――それがいつしか立場が逆転するからおもしろくもあり、怖いことでもある。

 これは個人的偏見にすぎないだろうけれど、往時のグノーシス・カルトは、たとえばどっかの国の大統領まで巻きこんで、「聖書の記述は一字一句正しい」みたいなことを主張する過激なプロテスタント教会の一派とたいして変わりないように感じられます。「gnosis を受け入れ、理解した者のみが救われる」みたいなところもいけない。一種の選民思想ですね、これは。初代教会が危険視したのも無理ないところ。もっともすべてのグノーシス・カルトがそうだったとは言いません。なかにはほんとうにすばらしい「叡智」を広めようとしていた教団もあったでしょう。

 これをきっかけにしてよい方向へ理解が深まればまったくもってよいことながら、関連書籍だけ一時期売れてそれでおしまい、という一過性の流行で終わりそうな気もしないではない。いちばんいけないのは短絡的かつ表面的な理解に終始してしまうこと。エジプトではイスラムの指導者が、イスラム以前に作られたすべての彫像は――スフィンクスでさえも――偶像崇拝であり排斥すべき、なんて発言して騒動になってますが、とんでもないことですね。そもそもイスラムってほかの宗教には――ローマ・カトリックよりはるかに――寛容なはずなのに…。こういうのも表面的理解の悪い例です。おなじ昔の異教がらみの話だったら、大教皇グレゴリウス1世が、地獄の劫火からローマ五賢帝のひとりトラヤヌス帝を救い上げる話のほうがよっぽどいい。

 …なんかグノーシス派についてケチつけているみたいですが、グノーシス派の文書にもすばらしい名言があったりする。J.キャンベルの著書でもいくつか引用されています――「父の御国は地上に広がっているが、目には見えない(トマスによる福音書)」、まるで仏教的とも言える「わたし(イエス)の口から飲む者はわたしとおなじくなり、わたしもその人とおなじになる(同)」、「わたしは食べ、また食べられる! (ヨハネ行伝)」など。

 グノーシスで思い出しましたが、アンソニー・ウェイがソロデビューしたアルバム The Choirboy に収録されているウォーロックの「鳥たちへ The Birds」。とても美しい小品でけっこう好きなんですが、じつはこれも出典はグノーシス系外典『トマスによるイエスの幼時物語 The Infancy Gospel of Thomas 』として知られる文書からで、イエスが5歳のとき、粘土でこしらえた12羽の雀を空に放す、というエピソードが下敷きになっています…歌っていたアンソニーは『イエスの幼時物語』を読んでたのかな? 

『トマスによるイエスの幼時物語』から