もう先月の話になるけど、こちらの番組について。「アルバレス・ブラボ写真展」で静岡市に行った折、いつもの癖で美術館とおなじ複合ビル内にある本屋にも立ち寄って、こんなおもしろそうな本も見つけた。というわけで、番組を見た個人的な感想とあわせて思ったことを書き出してみる。
このドキュメンタリーの主人公はクリス・ノーントンという若い考古学者。さしずめ 21 世紀版ハワード・カーターといったところでしょうか。で、『ツタンカーメン発掘記( 筑摩書房刊、1966 )』は有名ながら、カーターが残した膨大なメモ書きやノート類はその後一度も科学的に検証されたことがない! おまけに王墓が発見されてから 90 年以上も経つというのに、ツタンカーメン王の死因も異常だらけのミイラの状態についてもなにひとつわかってないじゃないか !! というわけで、独自調査した結果報告みたいな構成で、2013 年の制作、というからもうずいぶん前の話です。
じつはほぼおんなじ内容の記事がこちらにも掲載されてまして、番組でも取り上げられた「埋葬後のミイラの自然発火」について書かれています。もっともこの件に関してはカーターのメモ書きを見ないまでも、『発掘記』にも「 … ミイラも、ミイラをつつんでいる包み布も、危険な状態にあることが、ますますはっきりしてきた。ふんだんに注がれた香油の脂肪酸によるはたらきが作用して、二つながら完全に炭化していたのである[ 前掲書 p. 219 ]」とあるので、埋葬直後かどうかはべつとして、ゆっくり自然燃焼した結果であることは発掘当時も認識されていたことがこの記述からも窺い知ることはできるわけでして、個人的には「完全に予想外の新事実」とは思わなかった[ → こちらの新聞サイトにハリー・バートンの発掘記録写真をカラー化した画像が掲載されてます。最後の純金の人型棺が開けられたとき、ミイラの金製の両手に握られていた「王笏」と「殻竿」はすでに文字どおりの炭となって崩壊していた。ついでにバートンが使用したのはフィルムじゃなくてガラス乾板。おかげでいまなお鮮明な映像として残されている ]。
もっとも「黄金のマスク」の耳たぶにファラオなのになぜか(?)ピアスの穴が空けられていたことや、ネメス頭巾と顔の部分が入念に接合されていた( つまりべつべつに作られていたものがあとでくっつけられたことを示す )ことなどの指摘は、たしかにそのとおりだし、とくに後者に関しては、マスクは「金無垢の一枚板の打ち出し」だと思いこんでいたものだから、なるほどそれはあるかな、と。
また 1968 年にはじめてツタンカーメン王のミイラの X 線撮影が行われたときのメンバーで、唯一の生存者でもあるリヴァプール大学のロバート・コノリー教授の取材とかも興味深く見たけど、かつてはやった「暗殺説」の証拠として取り上げられた頭蓋骨内部の骨のかけらについて、「 … カーターが発掘中にミイラを分解した際に、ミイラの首の脊椎の骨が割れたものだと判明した」みたいなナレーションがついてましたが、正確にはミイラの検死解剖を執刀した解剖学者ダクラス・デリー博士のせいだろう[ これは日本語版ではなく、オリジナルが悪い ]。ただし傷つけた犯人はデリーではなく、古代のミイラ職人だったかもしれない。ジョー・マーチャント本にはそのへんの可能性もきちんと書かれてあって、やはりこの手の話は科学ジャーナリストが長期にわたって調べつくして書いた本を読んだほうがいいように思う。以前、古代エジプトものとくれば例のメディア大好き博士の指揮した CT スキャン調査なんかが思い浮かぶんですけど、だいたいにして TV ものは編集段階で恣意的にカットされたり、事実として確定していない事柄までさも既定事実のごとき表現で片付けられがちなので、参考ていどにするのはいいが、鵜呑みにしてはならないように思う。
ツタンカーメン王は、そのもっともよい例、いや最悪の見本なのかもしれない。たとえば王の死因についても、以前は「暗殺説」が圧倒的に人気があって、その人気にワル乗りした米国人考古学者がほとんど妄想にもとづいて書いた本がベストセラーになったり、あるいはいまだに「ファラオの呪い」なんてのがまことしやかに語られたりする。ちなみに真っ先に呪われてしかるべきデリー博士なんか、その後 40 年は生きながらえて 1960 年代に亡くなっているにもかかわらず、「ミイラを調査した直後に死亡」なんていまだにホラ吹いてる本ないし記事があったりするから困ったもんだ。
ツタンカーメン王の死因ですが、暗殺 → チャリオットからの転落死 → マラリア → 遺伝病による病死とまあ諸説紛々。数十年前の時代遅れな機械を使っての X 線検査から 2005 年の当時最先端のトレーラー移動式 CT スキャン装置による検査まで、ここまでやってもけっきょく決め手というか、ほんとうの死因がいまだつかめずというのが事実。ちなみに上記マーチャント本には、説得力ある仮説としてなんとカバ( !? )を挙げている。なんでもファラオってカバ狩りをたしなんでいたんだそうな。むむ、たしかにツタンカーメン王墓から出土した遺物にはそんな狩りを描写した櫃だったか、そんなようなものがあったにはあったけれども。*
ジョー・マーチャント −− ちなみにこの方は女性 −− の本は、そのへんの事情も絡めて書いてあるので、「ファラオの呪い」の系譜や、ツタンカーメン王のミイラがたどった数奇な運命について知りたい向きにはもってこいだと言えます。もっともどっかのモルモン教徒の唱えたという「ツタンカーメン=モーセ説」だの、「ツタンカーメン=キリスト説」だのははっきり言って不要じゃないかと、読んでいて思ったんですけど …… なんでツタンカーメンのミイラの組織の一部がリヴァプール大学にあるのかについてもロバート・コノリー博士に取材しているから、そのへんの裏事情も知ることができて、こういうところはさすが、という感じです。
ノーントン氏の番組では、チャリオットに轢かれたために死んだ、と主張している … なんかもうここまでくると個人的にはどうでもよくなってきた。ツタンカーメン王はもうそっとしておいてやったらどうなのか、とそんな気分にもなってくる。マーチャント本を読むまで知らなかったが、1968 年に X 線撮影のために第1の人型棺を開けて王のミイラを引っ張り出したとき、「 … 愕然とした。ミイラの体が、ばらばら状態になっていたのだ。…… ミイラの傷みぐあいは、カーターが加えた傷の規模をはるかに越えていた」。なんと第二次大戦の混乱に乗じて、最後までミイラに残っていた頭のバンドや「胸飾り」が消えうせ、さらには「両目はつぶれ、まぶたも睫毛もなくなっ」た[ → 現在の王のミイラの顔 ]。「胸飾り」と肋骨のほとんどがなくなっていたことは CT スキャン調査で明らかにされていたけれども、まさか賊が侵入したとは思ってなかったもので、これはいささか衝撃的だった。たしかにハリー・バートンが 1926 年に調査の終わったミイラを( ふたたび四肢を組み立てて )砂を敷き詰めた木のトレイに入れなおした記録写真と、いつだったかやめときゃいいのに王のミイラを保護するんだとか言って木のトレイごと墓の「控えの間[ 前室 ]」に移動させて「展示品」にしてしまったときに撮られた王のミイラの顔の画像と比べてみればそのちがいは一目瞭然。香油の注がれなかったミイラの頭は保存状態がよかったってカーター本人は書いていたんですけど、このぶんじゃほんと、マーチャント女史が心配しているように「現在の保存方法では、ミイラがさほど遠くない将来に、土にもどるのは避けがたいことのようだ」。ついでにマラリア説が出てきたときに言われていた「左足先の異常」についても、デリー博士の所見ではいたって正常だったってはっきり書いてある。
以上、ノーントン番組とマーチャント本をかいつまんで書くとこんなふうになる。
1). ツタンカーメン王の健康状態はいたって正常で、目立った病変はない
2). 肋骨が人為的に切り取られた痕跡があり、心臓もない
3). なんらかの事故死( カバに襲われた? )、つまりまったく予期しない急死だった可能性が高い
4). 左足先の変形は死後に生じた可能性が高い
5). 左脚膝の骨折は生前のものか死後のものかは不明( 古代 DNA 調査は信頼性に欠ける )
こうなると、小学生のころに読んだ『ツタンカーメン王のひみつ』に出てきた、「3週間の病の苦しみから逃れてわたしはしずかな眠りにつく」なんて王自身のことばというのは、真っ赤なウソだった、ということになる。いま目を皿のようにして『発掘記』を読んでいるところだけど、いまのところそんな記述は出てこない。創作 ?!
「事態にほとんど進展が見られないため、誰もが独自の仮説と好みにしたがって、さまざまな意見を披露するのも、避けがたいこと」とマーチャント女史が書いているように、この薄幸の若いファラオは死んで約 3,300 年後、カーターというひとりの考古学者によって墓を開かれて以来 90 何年、ある意味身勝手な後世の人間たちによって振り回されてきたようなもの( だいぶ前に書いたかもしれないが、ツタンカーメン王の石棺を保護していた四重の厨子の扉は指示書きがあったにもかかわらず、墓職人たちがあせっていたためなのか、ほんらい「西」向きに取り付けるはずが反対の「東」を向いてしまった。おかげで王は来世に行くはずだったのが、ふたたびこの世界に舞いもどってしまった )。墓だってそう。いつのまにか玄室の壁面にはいくつか四角い穴が穿たれているし、壁画の一部は発掘調査時に破壊されているし、今後も王家の谷を襲う洪水で水没する危険性もある。子どものときからツタンカーメン王にまつわる話はずっと好きだったけれども、もうこのへんで「ツタンカーメン産業」にファラオを巻きこむのはやめにしてほしいと最近、思うようになりました。それだけトシをとったということか。ついでにノーントン番組とマーチャント本、制作と出版がともに 2013 年でして、これはいわゆる「共時性」ってやつかもしれないが、なにかしら因縁めいていますな。
* ... ツタンカーメン王墓発見者カーターは『発掘記』で、野鳥やライオンなどの砂漠の動物を仕留める若いファラオの姿を生き生きと活写した調度品の数が多いことに触れ、「王のスポーツ好き、若い王者らしい狩猟熱の証拠もみとめられ」ると記している。では 墓内に 130 本も納められていた「杖」はどう考えればよいのだろうか? たしかにツタンカーメンの狩猟好きはじゅうぶん考えられる[ → カーターが例に挙げていた証拠のひとつ ]。でもひょっとしたらすこし歩行に難ありだったかもしれない[ 個人の感想です ]。カーターが例を挙げている小型厨子の「狩猟場面」は、若いファラオが「腰かけた姿勢で」野鴨を弓で射る瞬間を描写している。ほかにも杖をつく姿が浮き彫りされた櫃とかあるけれど、同時にチャリオットを駆って勇猛果敢に戦っている描写もあったりする。いずれが真の姿だったのかは「永久にわからないかもしれない[ ibid., p. 165 ]」。
2017年07月24日
2015年04月27日
付記:いわゆる「アーサー王」ものについて
つい先日、やっとの思いで(?)書いた米国人比較神話学者キャンベルの代表作とも言える4部作『神の仮面』シリーズ最終巻、Creative Mythology 。で、そのときはあまりに長くなるのでちょこっと触れるていどでお茶を濁したのが、いわゆる「アーサー王」ものについて。原書中、いちばん長い第8章の「間奏曲」と題されたコラムふうの文章のひとつに、その「アーサー王」ものの起源および口承伝説群から書きことばとして残された物語群の系譜および発展のしかたが、時代を追ってかなりくわしく説明してあります。以下は、最後の「書きことば」で残された一連の「アーサー王」ものについて、かんたんに備忘録としてまとめたもの( pp. 523−554 )。「アーサー王」ものがそもそもどこで発生し、著者によれば二期にわたって口承伝説が発展し、クレティアン・ド・トロワやエッシェンバッハなどに見られるような一大叙事詩作品群へと昇華していったか、という全体も読んでておもしろいと言えばおもしろいんですが、そこからまとめたんではこっちが倒れかねない( 苦笑 )。原書に書いてない事項は、参考文献から適宜補足してあります。*
キャンベルによれば、「アーサー王」ものの発展の最終段階たる「書きことばによる物語群」は、だいたい 1136−1230 年ごろ。時代順に分類すると、
A群について:「アーサー王」ものの元祖的存在、ジェフリーのラテン語本『ブリタニア列王史』も、時代的にはちょうどこのころ( 1136−38 )。ついで、『聖マーリン伝』( c.1145?)。後者には、ラテン語版『聖ブレンダンの航海』で重要な役回りを果たす聖バーリンドらしき修道院長が登場する( → 関連拙記事 )。ついでこの系統に連なるのが、『列王史』のアングロ・ノルマン語による「翻案」ものとして『ブリュ物語』( c. 1155 )を書いたヴァース( 1100−75 )、そしてそれを継いだかっこうのウスターシャーの聖職者ラーヤモンの長大な英訳本( c. 1205 )がつづく。最後の英訳( 中英語 )版は、「原典」の『ブリュ物語』の倍の長さ、32,241 行もの頭韻詩(!)になっている。ヴァースは、言ってみればこの作品が自身の仕えている宮廷に受けて、ノルマンディーのバイユー市参事会員に「昇進」している( バイユーの近くに、「カーンの市民」で有名なカーンがある )。「円卓」が言及されるのは、『ブリュ物語』が最初。その英訳者ラーヤモンによって、「宴のさい、だれが上座かでモメないように」円形テーブルになった、との補筆が。いずれも政治性の強い作品群で、その嚆矢たるジェフリーは、すでに存在していた『ロランの歌( c. 1040−1115 )』など、かつてのカール大帝に関連する武勲詩に対抗する意図があったのかもしれない( ついでにラーヤモン中英語韻文版で、瀕死のアーサー王をアヴァロン島へ迎え入れる「妖精モルガン[ Morgan, Morgant ]」が、訛って「アルガンテ Argante 」に化けている )。
B群について:『ロランの歌』などの武勲詩の影響が強かったためか、ここではアーサー王が主役の座を降りて、「彼の騎士たちへと関心が移った」。この系統の代表格は、マリー・ド・シャンパーニュに仕えていた物語作家クレティアン・ド・トロワの一連の作品群、ということになる。
『エレクとエニード』については、ウェールズ語版『ゲレイントとエニッド』が、『イヴァン』についてもおなじくウェールズ語の『オウェインと泉の貴婦人』が存在し、『ペルスヴァル』についてもやはりウェールズ語版の『ペレディール』が存在する。それぞれの相互関係については米国のアーサー王学者ロジャー・S・ルーミスによると、相違点をそれぞれ比較した結果、『エレクとエニード』と『イヴァン』とそのウェールズ語版ともども古仏語で書かれた「底本」をもとに成立し、『ペルスヴァル』とそのウェールズ語版は、古仏語の異本系統を底本としていると考えたほうが妥当だとしている。
C群について:この系統で、はじめて「聖杯」が「最後の晩餐」でイエスが使用した「杯」と関連づけられている。
散文版「流布本」系において、はじめて完全無欠の騎士、ガラハッドが登場する( ボロン版にはない )。
「聖杯」について、ロベール版では「杯」だが、クレティアン本および「流布本」系はすべて「皿」。5つの「流布本系」のうち、『聖杯物語』と『聖杯の探求』はともにシトー会士の手になるもの。そのためランスロ( ランスロット )もケルト系というよりはフランス発祥で、キリスト教倫理感から創作された人物である可能性が高い( cf. トリスタン[ ドラスタン、トリストラム ]はそうではない )。†
キャンベルによる『聖杯物語』要約を読むと、たとえば冒頭で、作者と称する人が A.D. 717 年の聖金曜日に見た夢に現れたイエスに、「復活後」に書いたという書物を贈られ、読むとたちまち気を失って天国に引き上げられ「聖三位一体」を見た。地上にもどると、その聖なる書物をしまっておいたが、忽然と消えてしまった … とかのくだりは、なんだか中期オランダ語版『航海』冒頭部に似ているなあとか( もっともこちらはブレンダン修道院長が「真理の書かれた本」を火にくべちゃうんですけどね )、ソロモンが王妃の助言に従って作らせた大船というのがひとりでに岸辺に接岸して乗船者を乗せるとかいう箇所などは、ラテン語版『航海』冒頭の、聖マーノックの「聖人たちの約束の地」訪問の挿話がダブって見えたりする( もっとも、「ひとりでに目的地に向かう船[ 小舟 ]」というモティーフは、トリスタンをアイルランドに運んでいった革舟の挿話にも現れている )。ケルト伝承から借りた要素がいくつか、ここにも紛れこんでいるようです。そしてこの大船は『聖杯の探求』にも出てきて、やはりいつのまにか岸辺に停泊してランスロを待ち構えていて、ペルスヴァルの妹の亡骸とともに月明かりのもとひとりでに出航して、聖杯城コルベニックへと向かったりする。また、初期の「アーサー王」ものから「流布本系」にいたる過程で、いつのまにか(?)主人公がアーサー王その人から円卓の騎士、ランスロ( ランスロット )、ペルスヴァル、ガウェイン、そして「流布本系」ではじめて登場するサー・ガラハッドへと移っている( 同様に、『聖杯由来の物語』では初代聖杯王アランに聖杯を授ける役回りの司教ヨセフが、のちの作品ではその息子[!]のヨセフェへと置き換えられている )。ラテン語版『航海』の場合、主人公が修道院長ブレンダンその人から、たとえば『聖マロ伝』に見られるように、弟子のひとり聖マロへと代えられていたりする。よくある書き換え、翻案と言えば、それまでだけど。ちなみに「ガラハッド」という名前の由来は、「創世記」31:47−52、「ラバンはまた、『この石塚( ガル )は、今日からお前とわたしの間の証拠( エド )となる』とも言った。そこで、その名はガルエドと呼ばれるようになった」から来ているとしている。この名前( Galaad, Gilead, Galahad )は、『聖杯の探求』→『聖杯物語』へと受け継がれていったらしい[ この系譜では『聖杯の探求』がいちばん古いらしい ]。
他のキャンベル本にもよく引用されている、円卓の騎士が消えた聖杯探しに出かけるくだり、「それぞれが選んだところ、もっとも暗く、一筋の小道さえなかったところから( 飛田茂雄訳『時を超える神話( 1996 )』にもとづく )」めいめいバラバラに旅立っていく、という描写は、このキリスト教色の強い『聖杯の探求』に出てくる[ ただし、けっきょくは教会の言う「楽園へとまっすぐ至る一本道」をたどることになるが ]。というわけで、真にみずから選んだ道を進む、という方向で書いたのが …
D 群「中期ドイツ語の伝記的叙事詩型」。なかでもキャンベルが「中世西欧文学の最高傑作」と賞賛する、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの全 16 巻、30 行ひとまとまりの二行連句 827 詩節、総計 25,000 行に迫る大作『パルチヴァール[ パルツィヴァール ]』 ‡ もこの系統に入る。フィオーレのヨアキムの霊的時代区分で言うところの「聖霊の時代」のはじまり[ 1260 年ごろ ]。ちなみにエッシェンバッハの「聖杯」は、前にも書いたけれども、「杯 / 盃」でもなく「皿」でもなくて、「石 [ 賢者の石、ラピス・エクシリス ]」!
* ... クリストファー・スナイダー著、山本史朗訳
『図説 アーサー王百科
』原書房 2002.
ベルンハルト・マイヤー著、鶴岡真弓監修 / 平島直一郎訳
『ケルト事典
』創元社 2001.
** ... 松原秀一ほか編訳『フランス中世文学名作選』白水社 2013.
† ... 「流布本系」について、以前の関連記事にて不適切な記述をしていたので、あしからず訂正させていただきます。古フランス語散文で書かれた『アーサー王の死』は、ほかでもないこの「流布本系」掉尾を飾る作品だという認識がなかったもので[ p. 531 の脚注に「流布本系」5つの物語がしっかり明記してあったのに、ボンヤリ読み過ごしていた m( _ _ )m ] … 。
‡ ... ヴォルフラム・フォン・エッシェンバハ著、加倉井粛之、伊藤泰治ほか共訳『パルチヴァール』郁文堂出版 1974.
キャンベルによれば、「アーサー王」ものの発展の最終段階たる「書きことばによる物語群」は、だいたい 1136−1230 年ごろ。時代順に分類すると、
A. アングロ・ノルマン語による「愛国的な」叙事詩群:1136−1205ということになる。
B. 「フランス宮廷愛」もの( ロマン・クルトワ ):1160−1230
C. キリスト教色の強い「聖杯伝説」もの:1180−1230
D. ドイツ語による「伝記的叙事詩」型:1200−1215
A群について:「アーサー王」ものの元祖的存在、ジェフリーのラテン語本『ブリタニア列王史』も、時代的にはちょうどこのころ( 1136−38 )。ついで、『聖マーリン伝』( c.1145?)。後者には、ラテン語版『聖ブレンダンの航海』で重要な役回りを果たす聖バーリンドらしき修道院長が登場する( → 関連拙記事 )。ついでこの系統に連なるのが、『列王史』のアングロ・ノルマン語による「翻案」ものとして『ブリュ物語』( c. 1155 )を書いたヴァース( 1100−75 )、そしてそれを継いだかっこうのウスターシャーの聖職者ラーヤモンの長大な英訳本( c. 1205 )がつづく。最後の英訳( 中英語 )版は、「原典」の『ブリュ物語』の倍の長さ、32,241 行もの頭韻詩(!)になっている。ヴァースは、言ってみればこの作品が自身の仕えている宮廷に受けて、ノルマンディーのバイユー市参事会員に「昇進」している( バイユーの近くに、「カーンの市民」で有名なカーンがある )。「円卓」が言及されるのは、『ブリュ物語』が最初。その英訳者ラーヤモンによって、「宴のさい、だれが上座かでモメないように」円形テーブルになった、との補筆が。いずれも政治性の強い作品群で、その嚆矢たるジェフリーは、すでに存在していた『ロランの歌( c. 1040−1115 )』など、かつてのカール大帝に関連する武勲詩に対抗する意図があったのかもしれない( ついでにラーヤモン中英語韻文版で、瀕死のアーサー王をアヴァロン島へ迎え入れる「妖精モルガン[ Morgan, Morgant ]」が、訛って「アルガンテ Argante 」に化けている )。
B群について:『ロランの歌』などの武勲詩の影響が強かったためか、ここではアーサー王が主役の座を降りて、「彼の騎士たちへと関心が移った」。この系統の代表格は、マリー・ド・シャンパーニュに仕えていた物語作家クレティアン・ド・トロワの一連の作品群、ということになる。
1. 『トリスタン』;成立年代不詳、現存せず
2. 『エレクとエニード』;c. 1170
3. 『クリジェス』;c. 1176
4. 『ランスロ、または荷車の騎士』;1176
5. 『イヴァン、または獅子の騎士』;c. 1180
6. 『ペルスヴァル、または聖杯の物語』;c. 1180
『エレクとエニード』については、ウェールズ語版『ゲレイントとエニッド』が、『イヴァン』についてもおなじくウェールズ語の『オウェインと泉の貴婦人』が存在し、『ペルスヴァル』についてもやはりウェールズ語版の『ペレディール』が存在する。それぞれの相互関係については米国のアーサー王学者ロジャー・S・ルーミスによると、相違点をそれぞれ比較した結果、『エレクとエニード』と『イヴァン』とそのウェールズ語版ともども古仏語で書かれた「底本」をもとに成立し、『ペルスヴァル』とそのウェールズ語版は、古仏語の異本系統を底本としていると考えたほうが妥当だとしている。
C群について:この系統で、はじめて「聖杯」が「最後の晩餐」でイエスが使用した「杯」と関連づけられている。
1. ロベール・ド・ボロンの平韻八音綴の韻文で書かれた『聖杯由来の物語[ または『アリマタヤのヨセフ』] 』;c. 1180−99 **
2. ロベール本を底本に敷衍した、古仏語散文「流布本系」に属する5つの物語の最初の『聖杯物語』;c. 1215−30、いずれも作者不詳。聖杯はクレティアンと同様、「皿」として出てくる。
3. おなじく「流布本系」に属する散文『ランスロ』もの;c. 1215−30
4. 同「流布本系」『聖杯の探求』;c. 1215−30、同時代に開かれた第4ラテラノ公会議での「全実体変化」についての教義決定が色濃く反映されてもいる。
散文版「流布本」系において、はじめて完全無欠の騎士、ガラハッドが登場する( ボロン版にはない )。
「聖杯」について、ロベール版では「杯」だが、クレティアン本および「流布本」系はすべて「皿」。5つの「流布本系」のうち、『聖杯物語』と『聖杯の探求』はともにシトー会士の手になるもの。そのためランスロ( ランスロット )もケルト系というよりはフランス発祥で、キリスト教倫理感から創作された人物である可能性が高い( cf. トリスタン[ ドラスタン、トリストラム ]はそうではない )。†
キャンベルによる『聖杯物語』要約を読むと、たとえば冒頭で、作者と称する人が A.D. 717 年の聖金曜日に見た夢に現れたイエスに、「復活後」に書いたという書物を贈られ、読むとたちまち気を失って天国に引き上げられ「聖三位一体」を見た。地上にもどると、その聖なる書物をしまっておいたが、忽然と消えてしまった … とかのくだりは、なんだか中期オランダ語版『航海』冒頭部に似ているなあとか( もっともこちらはブレンダン修道院長が「真理の書かれた本」を火にくべちゃうんですけどね )、ソロモンが王妃の助言に従って作らせた大船というのがひとりでに岸辺に接岸して乗船者を乗せるとかいう箇所などは、ラテン語版『航海』冒頭の、聖マーノックの「聖人たちの約束の地」訪問の挿話がダブって見えたりする( もっとも、「ひとりでに目的地に向かう船[ 小舟 ]」というモティーフは、トリスタンをアイルランドに運んでいった革舟の挿話にも現れている )。ケルト伝承から借りた要素がいくつか、ここにも紛れこんでいるようです。そしてこの大船は『聖杯の探求』にも出てきて、やはりいつのまにか岸辺に停泊してランスロを待ち構えていて、ペルスヴァルの妹の亡骸とともに月明かりのもとひとりでに出航して、聖杯城コルベニックへと向かったりする。また、初期の「アーサー王」ものから「流布本系」にいたる過程で、いつのまにか(?)主人公がアーサー王その人から円卓の騎士、ランスロ( ランスロット )、ペルスヴァル、ガウェイン、そして「流布本系」ではじめて登場するサー・ガラハッドへと移っている( 同様に、『聖杯由来の物語』では初代聖杯王アランに聖杯を授ける役回りの司教ヨセフが、のちの作品ではその息子[!]のヨセフェへと置き換えられている )。ラテン語版『航海』の場合、主人公が修道院長ブレンダンその人から、たとえば『聖マロ伝』に見られるように、弟子のひとり聖マロへと代えられていたりする。よくある書き換え、翻案と言えば、それまでだけど。ちなみに「ガラハッド」という名前の由来は、「創世記」31:47−52、「ラバンはまた、『この石塚( ガル )は、今日からお前とわたしの間の証拠( エド )となる』とも言った。そこで、その名はガルエドと呼ばれるようになった」から来ているとしている。この名前( Galaad, Gilead, Galahad )は、『聖杯の探求』→『聖杯物語』へと受け継がれていったらしい[ この系譜では『聖杯の探求』がいちばん古いらしい ]。
… ヨセフもヨセフェも、ともに史的イエスが史的ペトロの岩に確立した史的ローマ教皇座の系統に属さず、「復活したイエス」が確立した系統に属している。彼らの隠された城にして教会、コルベニックへと至る道は皆が通る道ではなく、内面的に支配された個人によって、もっとも深い森の、もっとも暗い場所からはじまる。聖杯と、その神秘的探求へ召命する天使がアーサー王宮廷の宴の間に出現したとき、もろもろの歴史上の営為や目的といったものは忽然と終わりを告げる。これは終末的瞬間だ。「聖霊の時代」の始まりである。アーサー王宮廷の共同体は強力な磁石にでも引き寄せられるように、世俗的な騎士としての勤めという領域から逸脱した( p. 549 )。
他のキャンベル本にもよく引用されている、円卓の騎士が消えた聖杯探しに出かけるくだり、「それぞれが選んだところ、もっとも暗く、一筋の小道さえなかったところから( 飛田茂雄訳『時を超える神話( 1996 )』にもとづく )」めいめいバラバラに旅立っていく、という描写は、このキリスト教色の強い『聖杯の探求』に出てくる[ ただし、けっきょくは教会の言う「楽園へとまっすぐ至る一本道」をたどることになるが ]。というわけで、真にみずから選んだ道を進む、という方向で書いたのが …
D 群「中期ドイツ語の伝記的叙事詩型」。なかでもキャンベルが「中世西欧文学の最高傑作」と賞賛する、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの全 16 巻、30 行ひとまとまりの二行連句 827 詩節、総計 25,000 行に迫る大作『パルチヴァール[ パルツィヴァール ]』 ‡ もこの系統に入る。フィオーレのヨアキムの霊的時代区分で言うところの「聖霊の時代」のはじまり[ 1260 年ごろ ]。ちなみにエッシェンバッハの「聖杯」は、前にも書いたけれども、「杯 / 盃」でもなく「皿」でもなくて、「石 [ 賢者の石、ラピス・エクシリス ]」!
* ... クリストファー・スナイダー著、山本史朗訳
『図説 アーサー王百科
ベルンハルト・マイヤー著、鶴岡真弓監修 / 平島直一郎訳
『ケルト事典
** ... 松原秀一ほか編訳『フランス中世文学名作選』白水社 2013.
† ... 「流布本系」について、以前の関連記事にて不適切な記述をしていたので、あしからず訂正させていただきます。古フランス語散文で書かれた『アーサー王の死』は、ほかでもないこの「流布本系」掉尾を飾る作品だという認識がなかったもので[ p. 531 の脚注に「流布本系」5つの物語がしっかり明記してあったのに、ボンヤリ読み過ごしていた m( _ _ )m ] … 。
‡ ... ヴォルフラム・フォン・エッシェンバハ著、加倉井粛之、伊藤泰治ほか共訳『パルチヴァール』郁文堂出版 1974.
2014年03月17日
「葡萄酒色の海」に沈んでいた「世界最古のコンピュータ」
ここんとこヒマさえあればこつこつと読み進めているキャンベルの本『創造的神話』の巻( The Masks of God Vol. IV, Creative Mythology, 1968 ; reissued 1991 )。ようやく半分までたどり着き、峠のてっぺんには来たのかなという感じ。あとはひたすら下り坂(?)かどうかはまだなんとも言えないが … 。
いま読んでいるのは、ジョイスの自伝的小説『若い芸術家の肖像』に出てくる「美を定義づける三つの要素」のくだりの引用部分。そのすこし前、おや、と気を引く箇所にぶつかりました … と同時になんだか懐かしくもあり。だいぶ昔に読んだ本にも出てきたのとおんなじ単語にふたたびお目にかかったからです。
'wine-dark sea'、そのまんま「葡萄酒色の海」です。ギリシャ古典ものに詳しい人ならすぐピンと来る、例の「ホメロスの形容辞」のひとつ、というか、代表格にしていまだに結論の出ていない( らしい )「枕詞」です。
海がワイン色、つまり真紅だなんてそんなバカな、とつい思ってしまいますが、この言い方をはじめて知ったとき、当時の先生に、日本で言えば「鯨取り海辺をさして … 」みたいなレトリックだ、とか、そんなこと言われた記憶があり、その後はとくに気にするでもなく、この語句は永らくほぼ完全にアタマから消えていた( 苦笑 )。
キャンベルは、ほぼ同時代に書かれたトーマス・マンの『魔の山』とジョイスの『ユリシーズ』には、おそらくヴァーグナーの音楽から着想を得たとおぼしき「ライトモティーフ( 示導動機 )」の手法がたいへん効果的に使われていると述べ、「ライトモティーフは、叙事詩の形容辞という初歩的用法でホメロスにもすでに現れている。『葡萄酒色の海』、『指は薔薇色の暁の女神』など … 」みたいに書いている( p. 326 )。ちなみに「ホメロスの形容辞」にはほかに「脚の速いアキレウス」、「白い腕のヘラ」、「雲を呼ぶゼウス大神( 訳語はいずれも『完訳 イリアス』風濤社刊から )」。ついでに Homeric laughter なんてのもある。意味は「哄笑」、大笑いのこと。
うーんこんなとこで「葡萄酒色の海」にふたたびお目にかかるとは … やらなければならないことがあるのにまたしても気になってしまって( 笑 )、あらためて調べてみたら、たとえばこちらの記事とこの NYT の過去記事、あるいはこちらの記事とかが目に留まった。
もとのギリシャ語はどうなってるのか、というと、ラテン語表記すれば 'oinops pontos' になる( 原語表記は 'οινοψ ποντος' )。上記 NYT 記事によると、これを 'wine-dark sea' と英訳した先生がさるインタヴューにて以下のようにコメントしていたと書かれてます。「文字どおり訳せば『葡萄酒のような( のように見える )海』」。なんだけど、あえて「葡萄酒色の海」、wine-dark sea と訳した。「これ以上ふさわしい訳語はないはずだ」。
葡萄酒のような表面の海、ということは、べた凪の海のことかしら、とも思える。たとえば『イリアス』第23歌のアキレウスが今は亡き戦友パトロクロスへの思いに沈んだまま「葡萄酒色の海」を見る、という場面とか。でも『オデュッセイア』第5歌ではあきらかに荒れた海の描写だし、よくわからない。「ホメロスにはたった5色しか出てこない」なんて主張や、かつてグラッドストーンも唱えたという「古代ギリシャ人色盲説(!)」なんてのにはびっくりさせられるが、とにかく当時の吟遊詩人たちにとってこの 'oinops pontos' なる言い方はひとつの決まり文句、朗唱効果を高めるレトリックだったようです( ついでに日本語は古来、色彩に関してはとても豊かな語彙を誇ることば。浅葱[ あさぎ ]色、萌黄色、鈍[ にび ]色、代赭[ たいしゃ ]色、利休鼠[ りきゅうねず ]色などなど … 新橋色はじめ、青系だけでもこれだけあったりします )。
でもなにかこう、ホメロスの英訳者先生のコメントには少々納得いかない部分があるのも事実 … wine-surfaced sea がなんで wine-dark になるのか? たしか岩波版だと思ったけれども、「すみれ色の海」なんて訳語も見かけた。… ワイン色の海にせよ、すみれ色にせよ、長いこと西伊豆の海を眺めてきたワタシとしては、いまいちイメージできかねるんですな、どっちも。なんたって地中海、いやエーゲ海だし( 笑 )。画像でもたとえば夕焼けに染まった海とか検索で引っかかるんですけど、あれ見てまさか「葡萄酒色」だ、なんて言う人はまさかいまい。いたらその人は眼科に行ったほうがいい(苦笑)。'oinops' に 'wine-dark' を当てた英訳者先生は、ご自身の体験から「これぞ最適な訳」として思いつかれたようだし、ようするに感覚的なもの、この英語圏でひろく知られた 'wine-dark sea' という訳語じたいがすでに ―― 「英語で読む村上春樹」講師の沼野先生じゃないけど ―― ホメロスの使用したもとの表現からズレている。
しょせん、'Traduttore, traditore( 翻訳者は反逆者 )' … とはいえ、げにむずかしき哉翻訳也、ですねぇ … と、深き淵よりの嘆息( もちろんこれもパロディ、ド・クインシーの同名作品 )。
と、そんな折も折( 最近こればっかのような気が )、こちらの番組を昨夜、見ました … いやもうビックリ。もしこれが紛れもない史実だとしたら、都市国家ポリスの群雄割拠状態だった古代ギリシャの人、とりわけ数学者や天文学者はとんでもない天才ぞろいだった、ということになります。たしかに音楽ではピュタゴラスが、幾何学ではエウクレイデスが、天文学では( 天動説だったとはいえ )プトレマイオスがいるし … そして、地球の外周をはじめて計算したのはアレクサンドリアで活躍したエラトステネスだったか。問題の「自動計算暦」の歯車装置はこれで、番組ではこれを「発明」したのはかのアルキメデスだったのではないかと推定していた。
「葡萄酒色の海」には「世界最古の計算機( 天文暦 )」が沈んでいた … なんとも壮大かつロマンチックな話ではありますねぇ。
STAP 細胞論文騒動について
いま読んでいるのは、ジョイスの自伝的小説『若い芸術家の肖像』に出てくる「美を定義づける三つの要素」のくだりの引用部分。そのすこし前、おや、と気を引く箇所にぶつかりました … と同時になんだか懐かしくもあり。だいぶ昔に読んだ本にも出てきたのとおんなじ単語にふたたびお目にかかったからです。
'wine-dark sea'、そのまんま「葡萄酒色の海」です。ギリシャ古典ものに詳しい人ならすぐピンと来る、例の「ホメロスの形容辞」のひとつ、というか、代表格にしていまだに結論の出ていない( らしい )「枕詞」です。
海がワイン色、つまり真紅だなんてそんなバカな、とつい思ってしまいますが、この言い方をはじめて知ったとき、当時の先生に、日本で言えば「鯨取り海辺をさして … 」みたいなレトリックだ、とか、そんなこと言われた記憶があり、その後はとくに気にするでもなく、この語句は永らくほぼ完全にアタマから消えていた( 苦笑 )。
キャンベルは、ほぼ同時代に書かれたトーマス・マンの『魔の山』とジョイスの『ユリシーズ』には、おそらくヴァーグナーの音楽から着想を得たとおぼしき「ライトモティーフ( 示導動機 )」の手法がたいへん効果的に使われていると述べ、「ライトモティーフは、叙事詩の形容辞という初歩的用法でホメロスにもすでに現れている。『葡萄酒色の海』、『指は薔薇色の暁の女神』など … 」みたいに書いている( p. 326 )。ちなみに「ホメロスの形容辞」にはほかに「脚の速いアキレウス」、「白い腕のヘラ」、「雲を呼ぶゼウス大神( 訳語はいずれも『完訳 イリアス』風濤社刊から )」。ついでに Homeric laughter なんてのもある。意味は「哄笑」、大笑いのこと。
うーんこんなとこで「葡萄酒色の海」にふたたびお目にかかるとは … やらなければならないことがあるのにまたしても気になってしまって( 笑 )、あらためて調べてみたら、たとえばこちらの記事とこの NYT の過去記事、あるいはこちらの記事とかが目に留まった。
もとのギリシャ語はどうなってるのか、というと、ラテン語表記すれば 'oinops pontos' になる( 原語表記は 'οινοψ ποντος' )。上記 NYT 記事によると、これを 'wine-dark sea' と英訳した先生がさるインタヴューにて以下のようにコメントしていたと書かれてます。「文字どおり訳せば『葡萄酒のような( のように見える )海』」。なんだけど、あえて「葡萄酒色の海」、wine-dark sea と訳した。「これ以上ふさわしい訳語はないはずだ」。
葡萄酒のような表面の海、ということは、べた凪の海のことかしら、とも思える。たとえば『イリアス』第23歌のアキレウスが今は亡き戦友パトロクロスへの思いに沈んだまま「葡萄酒色の海」を見る、という場面とか。でも『オデュッセイア』第5歌ではあきらかに荒れた海の描写だし、よくわからない。「ホメロスにはたった5色しか出てこない」なんて主張や、かつてグラッドストーンも唱えたという「古代ギリシャ人色盲説(!)」なんてのにはびっくりさせられるが、とにかく当時の吟遊詩人たちにとってこの 'oinops pontos' なる言い方はひとつの決まり文句、朗唱効果を高めるレトリックだったようです( ついでに日本語は古来、色彩に関してはとても豊かな語彙を誇ることば。浅葱[ あさぎ ]色、萌黄色、鈍[ にび ]色、代赭[ たいしゃ ]色、利休鼠[ りきゅうねず ]色などなど … 新橋色はじめ、青系だけでもこれだけあったりします )。
でもなにかこう、ホメロスの英訳者先生のコメントには少々納得いかない部分があるのも事実 … wine-surfaced sea がなんで wine-dark になるのか? たしか岩波版だと思ったけれども、「すみれ色の海」なんて訳語も見かけた。… ワイン色の海にせよ、すみれ色にせよ、長いこと西伊豆の海を眺めてきたワタシとしては、いまいちイメージできかねるんですな、どっちも。なんたって地中海、いやエーゲ海だし( 笑 )。画像でもたとえば夕焼けに染まった海とか検索で引っかかるんですけど、あれ見てまさか「葡萄酒色」だ、なんて言う人はまさかいまい。いたらその人は眼科に行ったほうがいい(苦笑)。'oinops' に 'wine-dark' を当てた英訳者先生は、ご自身の体験から「これぞ最適な訳」として思いつかれたようだし、ようするに感覚的なもの、この英語圏でひろく知られた 'wine-dark sea' という訳語じたいがすでに ―― 「英語で読む村上春樹」講師の沼野先生じゃないけど ―― ホメロスの使用したもとの表現からズレている。
しょせん、'Traduttore, traditore( 翻訳者は反逆者 )' … とはいえ、げにむずかしき哉翻訳也、ですねぇ … と、深き淵よりの嘆息( もちろんこれもパロディ、ド・クインシーの同名作品 )。
と、そんな折も折( 最近こればっかのような気が )、こちらの番組を昨夜、見ました … いやもうビックリ。もしこれが紛れもない史実だとしたら、都市国家ポリスの群雄割拠状態だった古代ギリシャの人、とりわけ数学者や天文学者はとんでもない天才ぞろいだった、ということになります。たしかに音楽ではピュタゴラスが、幾何学ではエウクレイデスが、天文学では( 天動説だったとはいえ )プトレマイオスがいるし … そして、地球の外周をはじめて計算したのはアレクサンドリアで活躍したエラトステネスだったか。問題の「自動計算暦」の歯車装置はこれで、番組ではこれを「発明」したのはかのアルキメデスだったのではないかと推定していた。
「葡萄酒色の海」には「世界最古の計算機( 天文暦 )」が沈んでいた … なんとも壮大かつロマンチックな話ではありますねぇ。
STAP 細胞論文騒動について
2014年02月16日
「ドラゴン」考
先週見た「地球ドラマチック」。かつて「海外ドキュメンタリー」という良質な番組があって、よく見ていたもんですが、その後継番組(かな?)のこちらもいつもながらよその国のおもしろい趣向のドキュメンタリー番組をよく集めているもんだと感心しきり。
で、その「ドラゴン」なんですが、たとえば冒頭で登場する西暦 793年のノースメン、つまりヴァイキングによるリンディスファーン島修道院の襲撃事件。寡聞にして知らなかったけれども、『アングロ・サクソン年代記』に、その直前、修道院上空をドラゴンが飛び交っていた、なんて記述があるんですねぇ。そして後半に紹介されていた、ロードス島にいたドラゴン vs. ヨハネ騎士団騎士デュードネ・ド・ゴドンの一騎打ちの話( 時は第一回十字軍遠征のころ。ほんらいヨハネ騎士団はエルサレムの巡礼者を守護するために組織された騎士修道会だったらしい )。ロードス島って、フィロンの「世界の七不思議」に出てくる例の「巨人像」のほうがはるかに有名じゃなかったっけ、とかアタマ掻きながら見てたんですが、とにかくロードス島にもドラゴンが暴れまくっていたそうです。*
ドラゴン、とくると、やはり最古の英語韻文叙事詩、『ベーオウルフ』でしょう。番組でも、英雄ベーオウルフによるドラゴン退治のくだりが詳しく取り上げられていたから、この物語を知らない向きもおおいに楽しめたんじゃないでしょうか( ワタシもそのひとり。以前ここでも書いた、厨川文夫氏が若かりしころにこつこつ訳して発表したのも、この『ベーオウルフ』でした )。ついでに英国英語には、'from Beowulf to Virginia Woolf' という地口(?、「ウルフ」と韻を踏んでいるのがミソ)まであったりする( いま読んでるキャンベル本にも、『ベーオウルフ』のドラゴン退治の話は出てきます)。
ドラゴン、東洋の言い方では「竜( 龍 )」ですが、古くは中東や古代中国など、この怪物は人類の歴史とともにつねに存在しつづけたといっても過言ではないと思う。番組では、古代メソポタミアの「女神( !! )」ティアマトが紹介されていたけど … とここで、あれ、アイルランド神話にはドラゴン退治の話とかあったっけ、と気になりだして、手許の資料や本とか繰ってみたけれど、あいにくそれらしいのは出てこない。ちなみにラテン語版『聖ブレンダンの航海』では、ドラゴンじゃなくて親戚筋(?)のグリフォン( グリフィン )なら出てくる( → アイルランド神話伝承におけるドラゴンについて論考したページ 。どちらかというと「蛇」のイメージに近いようです )。さらについでに『航海』の兄弟分みたいな物語、『メルドゥーンの航海』にも、「ぐるぐる回転する怪物」の住む島とか出てくるけれど、やはりこれもドラゴンではない( → 関連拙記事 )。対して、おなじケルト文化圏でもウェールズにはドラゴン退治の話があり、そして『聖コルンバ伝』には超有名な(?)「ネッシー」の話も出てくる … けれども、個人的な印象としては、ドラゴン=北欧・ゲルマン神話系という感じが強い。
番組も、もちろん北欧神話でつとに悪名高い( かな?)大竜ファフニール( ファーフナー )とシグルズ( 中世ドイツの英雄叙事詩『ニーベルンゲンの歌』に出てくるジークフリート )の一騎打ちの話とかも出てきます。
ところでこれははじめて知った事実だが、ドラゴンのよくある急所って「口」なんですね。長い槍みたいな武器でいっきに刺し殺すというのが常套パターンらしく、これはじつはワニを仕留めるときとおんなじ方法なんだそうです。もっともシグルズが殺したファフニールの場合は、「腹( 心臓 )」を一突きされて退治されたけれども。
ドラゴンっていつも、自分では持てあましているだけなのに、乙女とか財宝とかを抱えこんで番をしてますね。これがいわゆる西洋の典型的なドラゴン。東洋では、たとえば龍神とか、水のある場所の守護者という場合が多くて、どっちかと言えばわりとよいイメージがあります( 干支のひとつでもあるし )。ところが西洋ではたいてい、悪の権化みたいな捉え方がある。ユング、そしてその流れで世界各地の神話伝承の解読を試みたキャンベルなどは、むしろ人間心理において、このドラゴンの持つ普遍的表象を解釈している。ようするに、ドラゴンはみんなの心のなかに棲んでいる。ブータン国王夫妻も来日したとき、日本の子どもたちに向かって、これとまったくおんなじようなことを言ったりしている。
このような「普遍的アーキタイプ」のシンボルとしてのドラゴンと、じっさいの怪物じみた動物、たとえばワニとかでかい爬虫類( コモドドラゴンみたいなやつ )とじっさいに闘った人の話とがごっちゃになったものが流布したものが、いわゆる「ドラゴン伝説」を形成しているように思えます。そしてこれは、歴史上のアイルランドの「船乗り修道士」たちが行った北大西洋の島々をめぐる航海( ペレグリナティオ、自己追放の船旅 )と、古代古典などの知識と物語とが混然一体となって成立したラテン語版『航海』や、古アイルランドゲール語で書かれた一連の「イムラヴァ」なんかにも当てはまる。
… 1939年にイングランド東海岸で発掘された「埋葬船」と「黄金のドラゴン」が象嵌された兜、云々 … ハテどんな遺跡だったかな、と思って見ていたら、これって有名なサットン・フーのことですよね? 番組ではなんも断ってなかったから、蛇足ながらここで補足しておきます。
*... ギザの大ピラミッド、バビロンの空中庭園、エフェソスのアルテミス神殿、オリンピアのゼウス像、ハリカルナッソスのマウソロス霊廟、ロードス島の巨像、バビロンの城壁。
で、その「ドラゴン」なんですが、たとえば冒頭で登場する西暦 793年のノースメン、つまりヴァイキングによるリンディスファーン島修道院の襲撃事件。寡聞にして知らなかったけれども、『アングロ・サクソン年代記』に、その直前、修道院上空をドラゴンが飛び交っていた、なんて記述があるんですねぇ。そして後半に紹介されていた、ロードス島にいたドラゴン vs. ヨハネ騎士団騎士デュードネ・ド・ゴドンの一騎打ちの話( 時は第一回十字軍遠征のころ。ほんらいヨハネ騎士団はエルサレムの巡礼者を守護するために組織された騎士修道会だったらしい )。ロードス島って、フィロンの「世界の七不思議」に出てくる例の「巨人像」のほうがはるかに有名じゃなかったっけ、とかアタマ掻きながら見てたんですが、とにかくロードス島にもドラゴンが暴れまくっていたそうです。*
ドラゴン、とくると、やはり最古の英語韻文叙事詩、『ベーオウルフ』でしょう。番組でも、英雄ベーオウルフによるドラゴン退治のくだりが詳しく取り上げられていたから、この物語を知らない向きもおおいに楽しめたんじゃないでしょうか( ワタシもそのひとり。以前ここでも書いた、厨川文夫氏が若かりしころにこつこつ訳して発表したのも、この『ベーオウルフ』でした )。ついでに英国英語には、'from Beowulf to Virginia Woolf' という地口(?、「ウルフ」と韻を踏んでいるのがミソ)まであったりする( いま読んでるキャンベル本にも、『ベーオウルフ』のドラゴン退治の話は出てきます)。
ドラゴン、東洋の言い方では「竜( 龍 )」ですが、古くは中東や古代中国など、この怪物は人類の歴史とともにつねに存在しつづけたといっても過言ではないと思う。番組では、古代メソポタミアの「女神( !! )」ティアマトが紹介されていたけど … とここで、あれ、アイルランド神話にはドラゴン退治の話とかあったっけ、と気になりだして、手許の資料や本とか繰ってみたけれど、あいにくそれらしいのは出てこない。ちなみにラテン語版『聖ブレンダンの航海』では、ドラゴンじゃなくて親戚筋(?)のグリフォン( グリフィン )なら出てくる( → アイルランド神話伝承におけるドラゴンについて論考したページ 。どちらかというと「蛇」のイメージに近いようです )。さらについでに『航海』の兄弟分みたいな物語、『メルドゥーンの航海』にも、「ぐるぐる回転する怪物」の住む島とか出てくるけれど、やはりこれもドラゴンではない( → 関連拙記事 )。対して、おなじケルト文化圏でもウェールズにはドラゴン退治の話があり、そして『聖コルンバ伝』には超有名な(?)「ネッシー」の話も出てくる … けれども、個人的な印象としては、ドラゴン=北欧・ゲルマン神話系という感じが強い。
番組も、もちろん北欧神話でつとに悪名高い( かな?)大竜ファフニール( ファーフナー )とシグルズ( 中世ドイツの英雄叙事詩『ニーベルンゲンの歌』に出てくるジークフリート )の一騎打ちの話とかも出てきます。
ところでこれははじめて知った事実だが、ドラゴンのよくある急所って「口」なんですね。長い槍みたいな武器でいっきに刺し殺すというのが常套パターンらしく、これはじつはワニを仕留めるときとおんなじ方法なんだそうです。もっともシグルズが殺したファフニールの場合は、「腹( 心臓 )」を一突きされて退治されたけれども。
ドラゴンっていつも、自分では持てあましているだけなのに、乙女とか財宝とかを抱えこんで番をしてますね。これがいわゆる西洋の典型的なドラゴン。東洋では、たとえば龍神とか、水のある場所の守護者という場合が多くて、どっちかと言えばわりとよいイメージがあります( 干支のひとつでもあるし )。ところが西洋ではたいてい、悪の権化みたいな捉え方がある。ユング、そしてその流れで世界各地の神話伝承の解読を試みたキャンベルなどは、むしろ人間心理において、このドラゴンの持つ普遍的表象を解釈している。ようするに、ドラゴンはみんなの心のなかに棲んでいる。ブータン国王夫妻も来日したとき、日本の子どもたちに向かって、これとまったくおんなじようなことを言ったりしている。
このような「普遍的アーキタイプ」のシンボルとしてのドラゴンと、じっさいの怪物じみた動物、たとえばワニとかでかい爬虫類( コモドドラゴンみたいなやつ )とじっさいに闘った人の話とがごっちゃになったものが流布したものが、いわゆる「ドラゴン伝説」を形成しているように思えます。そしてこれは、歴史上のアイルランドの「船乗り修道士」たちが行った北大西洋の島々をめぐる航海( ペレグリナティオ、自己追放の船旅 )と、古代古典などの知識と物語とが混然一体となって成立したラテン語版『航海』や、古アイルランドゲール語で書かれた一連の「イムラヴァ」なんかにも当てはまる。
… 1939年にイングランド東海岸で発掘された「埋葬船」と「黄金のドラゴン」が象嵌された兜、云々 … ハテどんな遺跡だったかな、と思って見ていたら、これって有名なサットン・フーのことですよね? 番組ではなんも断ってなかったから、蛇足ながらここで補足しておきます。
*... ギザの大ピラミッド、バビロンの空中庭園、エフェソスのアルテミス神殿、オリンピアのゼウス像、ハリカルナッソスのマウソロス霊廟、ロードス島の巨像、バビロンの城壁。
2010年02月21日
二輪戦車から落ちたんじゃないの??
「バンクーバー(本来ならば「ヴァンクーヴァー」かもしれないが、「ウィーン」とおなじく、慣用に従って書きます)五輪」、はじまりましたね(英語ではthe Winter Olympic Gamesと複数形で表記)。個人的にはいま、カーリングに夢中(苦笑)。もともと囲碁好きということもあってか、「巨大氷上おはじき」のごときこの競技はひじょうにおもしろいです。スポーツというより、相手の先の手を読んだりという部分もかなり大きいので、頭脳戦だなあという印象。つぎの相手はロシアとドイツだそうですが、がんばってほしいものです(あのカーリングの石って、スコットランドのとある島でしか取れない貴重な石材らしくて、100年は使えるんだそうです。いかほどの…[苦笑])。
…でもなんといってもビックリしたのは――またしてもあの博士の出番(笑)――なんと! ツタンカーメン王の死因がついにわかったという! DNA鑑定の結果、死因はどうも「熱帯熱マラリア(マラリアのなかでは致命的な感染症)」だったらしいとのこと! えッ?! 博士、4,5年ほど前に王のミイラをCTスキャンにかけたとき、「二輪戦車(チャリオット)」から落ちて左膝蓋骨が砕けるほどの重症を負い、それがもとで亡くなったのではないかって言ってましたよね(→日経NG社の関連記事、AFPBBの関連記事、NYTの関連記事)?
いくらあのミイラの状態が「最悪」とはいえ、生前のツタンカーメン王が二輪戦車で走りまわれるほど頑強な体躯を誇っていたとはとうてい信じられなかった(同様に、あの米国地理学協会が発表したCG復元肖像も)。はっきり言って彼は自分とよく似ている――虚弱体質という点において。背格好もだいたいおんなじだし。たぶん自分も時代がちがえば、なんらかの感染症に罹患したら即、早世したほうだと思う。ツタンカーメン王は運がなかったんだな。
国内報道では『米国医学会誌』に掲載、とあったけれども、どうもこれらしい。機会があったら手に入れて読んでみたい(abstractでもだいたいのことはわかるけれども)。今回DNA調査を「受診」したのは、ツタンカーメンもふくめて彼の直系と思われる王族11名のミイラ。試料は、ドリル(!!)で穴を開けられて「採取」されたという(しかたないか…)! よけいなお節介ながら、今後の博士の身の上が心配ではある。
たしかに王墓には大量の「杖」が副葬品として発見されているし、疾病治療のためなのか、木の実や葉、種子なども見つかっている。かつてセヴェリンが言ったように、ここでもかたちはちがえど、『聖ブレンダンの航海』とおんなじような教訓が導き出せるように思う――文書にせよ遺跡にせよ、そこにはあるていどの「史実」が反映されているものだ、ということ。どうりで王墓からヌビア人奴隷の彫り物のついた杖とかがいっぱい出てきたわけだ。まちがいなくツタンカーメン王は生前、杖を使っていたでしょうね(Walking impairment and malarial disease sustained by Tutankhamun is supported by the discovery of canes and an afterlife pharmacy in his tomb.)。そういえば『ツタンカーメン王のひみつ』にも、王が息を引き取る三日前、「わたしは高熱の苦しみののち安らかな眠りにつく」とかいったことばが碑文としてなにかに刻まれていたとか、書いてあったっけ。
そして同時にいまひとつ、すごいこともわかった。父親と母親を特定したという! 父親は――やっぱり? ――「異端の王」、アクエンアテン(アメンホテプ四世)で、母親は父親の「近親者」の側室らしいということ、アクエンアテンのミイラも特定できたという(ついでにおばあさんにあたるアメンホテプ三世の后、ティイのミイラも)。王族には「マルファン症候群」などの遺伝疾患の兆候は認められなかったけれども、「ケーラー病 II型(?、引用者自身よくわかっていない…)」を患っていたらしい痕跡が認められるという。つまり生前のツタンカーメンは下肢になんらかの障害があり、日常的に杖を使用していた、ということです。
今回のDNA調査によって、ツタンカーメン王のほかにも4名に、致死性マラリアに感染していた痕跡が血液から見つかったという(そんなことまでわかるんだ。技術の進歩もすごいけれども、DNAまで「保存」した古代のミイラ技師たちの技術もすごい! 脱帽…。そしてツタンカーメン王のミイラはマラリアに罹患していたことが判明した最古の例、ということになる)。
…とにかく今回の調査ではっきりしたのは、ツタンカーメン王は近親婚で生まれたらしいこと、下肢に障害もしくは変形を起こすなんらかの遺伝疾患を抱えていたこと、杖なしでは歩けなかったこと、最後は骨折(さすがになんで骨折したかについては不明)と「熱帯熱マラリア」にかかって19年の短い生涯を終えたこと。けっして側近のアイとか、軍司令官のホルエムヘブに暗殺されたわけではないということ(昔、ベストセラーになったあの本はトンデモ本だったということか)。ホルエムヘブは即位したあと、王名表からかつての上官ツタンカーメンのカルトゥーシュをすべて削り取っているけれども、あまり深い意図はなかったのかもしれない。とにかく、まさか自分が生きているときにこうした「史実」が、かなり細かい点まで詳らかにされようとは、まったく夢にも思っていなかった。ザヒ博士に感謝すべきかも[付記。BBCの記事に出てくるリヴァプール大学の形質人類学者の先生はマラリアに感染したからと言ってかならずしも「発症」したわけではないとし、ミイラから胸骨がまるまる欠けているのも「二輪戦車から落ちたからだ」と考えているようですね]。
追記。そうだ、忘れてました…こういうものも王墓から出土していたんですよね…たしかに杖を使っています! でもカーターはじめ、当時の考古学者もいまの考古学者も、この箱に描写された「少年王の姿」を真剣に考えていた人なんてだれひとりいなかったのではないか?
…でもなんといってもビックリしたのは――またしてもあの博士の出番(笑)――なんと! ツタンカーメン王の死因がついにわかったという! DNA鑑定の結果、死因はどうも「熱帯熱マラリア(マラリアのなかでは致命的な感染症)」だったらしいとのこと! えッ?! 博士、4,5年ほど前に王のミイラをCTスキャンにかけたとき、「二輪戦車(チャリオット)」から落ちて左膝蓋骨が砕けるほどの重症を負い、それがもとで亡くなったのではないかって言ってましたよね(→日経NG社の関連記事、AFPBBの関連記事、NYTの関連記事)?
いくらあのミイラの状態が「最悪」とはいえ、生前のツタンカーメン王が二輪戦車で走りまわれるほど頑強な体躯を誇っていたとはとうてい信じられなかった(同様に、あの米国地理学協会が発表したCG復元肖像も)。はっきり言って彼は自分とよく似ている――虚弱体質という点において。背格好もだいたいおんなじだし。たぶん自分も時代がちがえば、なんらかの感染症に罹患したら即、早世したほうだと思う。ツタンカーメン王は運がなかったんだな。
国内報道では『米国医学会誌』に掲載、とあったけれども、どうもこれらしい。機会があったら手に入れて読んでみたい(abstractでもだいたいのことはわかるけれども)。今回DNA調査を「受診」したのは、ツタンカーメンもふくめて彼の直系と思われる王族11名のミイラ。試料は、ドリル(!!)で穴を開けられて「採取」されたという(しかたないか…)! よけいなお節介ながら、今後の博士の身の上が心配ではある。
たしかに王墓には大量の「杖」が副葬品として発見されているし、疾病治療のためなのか、木の実や葉、種子なども見つかっている。かつてセヴェリンが言ったように、ここでもかたちはちがえど、『聖ブレンダンの航海』とおんなじような教訓が導き出せるように思う――文書にせよ遺跡にせよ、そこにはあるていどの「史実」が反映されているものだ、ということ。どうりで王墓からヌビア人奴隷の彫り物のついた杖とかがいっぱい出てきたわけだ。まちがいなくツタンカーメン王は生前、杖を使っていたでしょうね(Walking impairment and malarial disease sustained by Tutankhamun is supported by the discovery of canes and an afterlife pharmacy in his tomb.)。そういえば『ツタンカーメン王のひみつ』にも、王が息を引き取る三日前、「わたしは高熱の苦しみののち安らかな眠りにつく」とかいったことばが碑文としてなにかに刻まれていたとか、書いてあったっけ。
そして同時にいまひとつ、すごいこともわかった。父親と母親を特定したという! 父親は――やっぱり? ――「異端の王」、アクエンアテン(アメンホテプ四世)で、母親は父親の「近親者」の側室らしいということ、アクエンアテンのミイラも特定できたという(ついでにおばあさんにあたるアメンホテプ三世の后、ティイのミイラも)。王族には「マルファン症候群」などの遺伝疾患の兆候は認められなかったけれども、「ケーラー病 II型(?、引用者自身よくわかっていない…)」を患っていたらしい痕跡が認められるという。つまり生前のツタンカーメンは下肢になんらかの障害があり、日常的に杖を使用していた、ということです。
今回のDNA調査によって、ツタンカーメン王のほかにも4名に、致死性マラリアに感染していた痕跡が血液から見つかったという(そんなことまでわかるんだ。技術の進歩もすごいけれども、DNAまで「保存」した古代のミイラ技師たちの技術もすごい! 脱帽…。そしてツタンカーメン王のミイラはマラリアに罹患していたことが判明した最古の例、ということになる)。
…とにかく今回の調査ではっきりしたのは、ツタンカーメン王は近親婚で生まれたらしいこと、下肢に障害もしくは変形を起こすなんらかの遺伝疾患を抱えていたこと、杖なしでは歩けなかったこと、最後は骨折(さすがになんで骨折したかについては不明)と「熱帯熱マラリア」にかかって19年の短い生涯を終えたこと。けっして側近のアイとか、軍司令官のホルエムヘブに暗殺されたわけではないということ(昔、ベストセラーになったあの本はトンデモ本だったということか)。ホルエムヘブは即位したあと、王名表からかつての上官ツタンカーメンのカルトゥーシュをすべて削り取っているけれども、あまり深い意図はなかったのかもしれない。とにかく、まさか自分が生きているときにこうした「史実」が、かなり細かい点まで詳らかにされようとは、まったく夢にも思っていなかった。ザヒ博士に感謝すべきかも[付記。BBCの記事に出てくるリヴァプール大学の形質人類学者の先生はマラリアに感染したからと言ってかならずしも「発症」したわけではないとし、ミイラから胸骨がまるまる欠けているのも「二輪戦車から落ちたからだ」と考えているようですね]。
追記。そうだ、忘れてました…こういうものも王墓から出土していたんですよね…たしかに杖を使っています! でもカーターはじめ、当時の考古学者もいまの考古学者も、この箱に描写された「少年王の姿」を真剣に考えていた人なんてだれひとりいなかったのではないか?
2010年01月09日
石英ガラスの眼だったのか
いまさっき見たこちらの番組。ときおり、トピックの取り上げ方によっては? マークがついたりしますが、今回はよかったんじゃないでしょうか。個人的に収穫だったのが、ツタンカーメン王の「第三の人形棺」の「眼」について。どの写真を見てもただの「くぼみ」にしか見えなかったのですが、今回、カメラが接写してくれたおかげであの眼がどういうふうに作られているのかがはじめてわかった。人間の目玉のガラス体を模したのか、なんと本物の天然ガラス、それもめずらしい天然の石英ガラスでこさえた「目玉」が象嵌されていたんですね! これは驚いた。はたち前に早世したファラオでこの贅沢さ――しかもこの人形棺は100kg近い純金製――なんですから、長生きして業績を残したファラオの墓にはいったいどんなものが副葬品として埋葬されていたのか、もう想像もつかない。
幻の石英ガラスを求めてうねうねとつづく砂漠の海を縦断する場面とかもおもしろかったし、風と砂粒に削られてできた文字どおりの「奇岩怪石」の数々も地学好きにとってはたまらなかった。キノコ岩にトド(?)岩ですか。完全に石化した「化石木」も転がってましたね。あのへんは数万年前は「森」だったらしい。1万年前と思われる「岩絵」もすごい。人間や動物がわりと単純化された構図で描かれていたけれども、なんといってもあの「動き」の描写の芸の細かいこと。目を見張りました。踊っているような動きの集団とか、いまにも動き出しそうです。ここに住んでいた人々は高度な文化をもっていたなによりの証拠ですね(こうした岩絵が残っているということは、あの窪みもしくは半洞窟の空間は、1万年このかた崩れていないということになる)。
リポーターの竹内さんも言っていたけれども、ひょっとしたら古代エジプト文明を築いた最初の人々ってこのあたりから移動してきたのかもしれない。6000年前になると、もう森林は消滅して半砂漠のような感じだったらしいから、当然、緑と水が豊富にある場所へ移住するんじゃないかしら? またかつて先祖が住んでいた場所という「土地勘」がなければ、とてもじゃないけど天然の石英ガラスを求めてこんな砂漠の奥深くまで来ないだろう、というのが素人なりの推測(冗談抜きで命がけです)。ここの石英ガラスが隕石の衝突によってできたらしいということもはじめて知ったけれども、それにしても美しい天然ガラスだ。ひとつほしいかも…(「砂漠の薔薇」ならもってます)。
…ツタンカーメン王ついでに、いよいよ玄室の修復工事がはじまるようですね。昨年暮れにそんな記事を地元紙にて見かけました。そういえば、「王家の谷」すべての王墓について、「観光客による墳墓内の撮影禁止」措置を講じるとか。天才考古学者(某民放の言い方を借りれば)ザヒ・ハワス博士がそう決めたらしい。博士はあいかわらず、「ネフェルティティのバストを返せ! ロゼッタ石も返せ!」と猛抗議しているそうですが、あきらかに「違法に」国外に持ち出された場合、これはやはり「泥棒」なので、返して差しあげるべきではないかと…。
幻の石英ガラスを求めてうねうねとつづく砂漠の海を縦断する場面とかもおもしろかったし、風と砂粒に削られてできた文字どおりの「奇岩怪石」の数々も地学好きにとってはたまらなかった。キノコ岩にトド(?)岩ですか。完全に石化した「化石木」も転がってましたね。あのへんは数万年前は「森」だったらしい。1万年前と思われる「岩絵」もすごい。人間や動物がわりと単純化された構図で描かれていたけれども、なんといってもあの「動き」の描写の芸の細かいこと。目を見張りました。踊っているような動きの集団とか、いまにも動き出しそうです。ここに住んでいた人々は高度な文化をもっていたなによりの証拠ですね(こうした岩絵が残っているということは、あの窪みもしくは半洞窟の空間は、1万年このかた崩れていないということになる)。
リポーターの竹内さんも言っていたけれども、ひょっとしたら古代エジプト文明を築いた最初の人々ってこのあたりから移動してきたのかもしれない。6000年前になると、もう森林は消滅して半砂漠のような感じだったらしいから、当然、緑と水が豊富にある場所へ移住するんじゃないかしら? またかつて先祖が住んでいた場所という「土地勘」がなければ、とてもじゃないけど天然の石英ガラスを求めてこんな砂漠の奥深くまで来ないだろう、というのが素人なりの推測(冗談抜きで命がけです)。ここの石英ガラスが隕石の衝突によってできたらしいということもはじめて知ったけれども、それにしても美しい天然ガラスだ。ひとつほしいかも…(「砂漠の薔薇」ならもってます)。
…ツタンカーメン王ついでに、いよいよ玄室の修復工事がはじまるようですね。昨年暮れにそんな記事を地元紙にて見かけました。そういえば、「王家の谷」すべての王墓について、「観光客による墳墓内の撮影禁止」措置を講じるとか。天才考古学者(某民放の言い方を借りれば)ザヒ・ハワス博士がそう決めたらしい。博士はあいかわらず、「ネフェルティティのバストを返せ! ロゼッタ石も返せ!」と猛抗議しているそうですが、あきらかに「違法に」国外に持ち出された場合、これはやはり「泥棒」なので、返して差しあげるべきではないかと…。
2009年12月06日
最古の外洋航海型木造船?
1). 昨夜放映のこちらの番組。ハトシェプスト女王にまつわるお話で、ひじょうにおもしろかった。へぇ、あの有名な「葬祭殿」の内部には女王のおこなったとされるプント交易のようすがことこまかに描写されている壁画なんてあったんだ! …だいたいここの葬祭殿って外側から撮影したカットしか見たことがなかったので、ここまでこまかく内部を紹介してくれるとありがたい。でもなんといっても驚いたのは、その交易で使った船。壁画に描かれたその交易船は、なんと現物を正確に模写したものだったらしい。しかもシナイ半島の紅海沿岸部で、その当時の木造船らしいイトスギの木材とロープが2006年に発見されていたという!! でももっと驚いたのは、すでにその交易船のレプリカまで建造し、それで実験航海までおこなっていたこと。もうびっくりですよ。…これってもとの記録ビデオの出所はどこなんだろ…National Geographic?? エジプト考古最高評議会?? とにかく復元船建造の過程や、実験航海のもようを目の当たりにできて、個人的にはおおいに満足でした(ゲストの吉村先生も言っていたけれどもこういうのを「実験考古学」という)。
…外洋航海型の船にもいろいろありますが、記録に残っている木造船としてはフェニキア船団の使った船とならんで、世界最古のものかもしれない。もっとも2007年に見に行った「ホクレア」とか、復元カラフの「ブレンダン」とかのほうがはるかに古いけれども…そうはいってもこの復元された古代木造船、なんというすばらしい職人芸の極致なんだろうか。手斧(番組では「ておの」と言っていたけれど、「ちょうな」と読んだほうがいいように思う)で木のブロックを削りだし、それらをジグソーパズルのごとく一片一片、はめあわせてゆく。釘とかは使わず、「ほぞ」で連結。みごとな職人技でできあがった船体は、じつに美しい曲線を描いてました(アラブの伝統帆船「ダウ」もかっこいいけれども、こちらの復元船のもつ曲線美にはかなわない)。昔の人の技術ってやっぱりすごい。番組では「両舷にそなえられた舵」について解説があったが、「船尾真ん中」にそなえつけられた舵というのは古代中国人の発明だったらしい(つまり西洋の古代船にはなかった。舵はふつう左舷側にあった)。
現代の木造船とはまるでちがう工法で建造されたこの復元船、進水式では進水ならぬ浸水で水浸し。これで木材を膨張させて隙間をふさぐ…はずだったのですがあにはからんや排水後ふたたび「浸水」して沈没寸前。…ここのところ見ていて思ったのは、なんらかのコーキング材を塗りたくらないとだめなんじゃないの、ということ。現代の船大工たちは、綿だったかな、植物の繊維を隙間に詰めてました。さらに「蜜蝋(bees wax)」を塗りたくっていました。なるほど、蜜蝋ですか! ちなみに『聖ブレンダンの航海』第4章に書かれた革舟カラフの建造のくだりには、「動物の脂」を船体の外側の革の継ぎ目すべてに塗ったとあります。セヴェリンの復元船は、羊毛脂(wool grease)を船体全体に塗って防水処理してました。蜜蝋も防水効果はたしかにありますね(でも蟻がたかりそうな気もするけれど…)。
そんなこんなでようやく水に浮くようになった復元船ですが、紅海を300km(150海里くらい)も南下するという再現航海のようすもまたすごかった。航海に乗り出したばかりの映像を見てまず感じたのは、「船体にたいしてヤードが長すぎるんじゃないか」ということ。時化になったらバランスを崩してコケないかしら、なんて思っていたらやっぱり。やがて強風と高波にあおられて長すぎるヤードがぶらんぶらんしはじめ、復元船は危なっかしげにかしいだりした。乗組員が四苦八苦しているうちに、ヤードの一部(?)の木材が破損したり。小ぶりのセイルに張りなおして、ようやく急場をしのぎ、ぶじ目的地に到着。…いま、この復元船はどこにあるのかな? 見た目もとてもカッコいい船でしたが、あの横揺れはすごいですね。船には強いほうだけど、一発で船酔いしそうだ(苦笑)。
2). そういえばその前、NHKラジオ第一の「かんさい土曜ほっとタイム」を聴いていたら、突然、バッハの「小フーガ」が鳴り響いた…??? と思っていたら、なんと、滋賀県のアンティーク家具屋さんがひとりでこさえたオルガンの音色だという! こっちも仰天。なんでも英国にアンティーク家具を買い付けに行ったら、たまたまとある教会が解体されているところを見て、古いオルガンのパイプとかが野ざらしにされていたという。「もったいない」と思い、日本まで持って帰り、独学でオルガン建造をはじめたというからもう頭が下がります。もっともご本人が言われるように、いまはインターネットという強い見方があるから、おおいに活用したといいます。そういえば「送風機」として掃除機(!)を使っているのだとか(あの排気風を利用しているのだそうです)。また送風機とふいごとは、洗濯機のホースでつないでいるらしい(how resourceful!)。
お話もとてもおもしろかったのですが、印象的だったのは、「オルガンの肺」の話。「ふいご」というものがあるから、「手いっぱいにつかむ(ケラー)」分厚い和音を奏でてもオルガンは「息切れ」しないですむ。キャスターの方は「オルガンって息切れするんですか」と感心したように言ってましたが、オルガンは人間とおなじで呼吸をしている。いまは電動式送風機+風圧調節箱、昔は人力で動かすふいごですが、とにかくこのふいごがなければはじまらない。つねにふいごに一定量、空気を溜めていないとオルガンはすぐ息切れしてしまう。なのでバッハは新オルガン鑑定のさい、全ストップを出して弾きはじめ、こう言っていたという。「まずいい肺をもっているか調べないとね」。嶋村さんというこの家具屋さんがもっとも感心したのがこの「ふいご」だったといいます。なるほど! たしかにそのとおりですね。いくらパイプがよくったって、かんじんの「肺」がヤワければ、どうしようもない。
それにしても英国では「教会の統廃合」が進んでいるとは…まるで小中高校の統廃合みたいな話だ。「教会に行く人が減っている」から、というのが理由らしいですが、どこもたいへんですね。とはいえオルガンのパイプというのは一から造ったら費用がバカにならないから、たいてい「再利用」されるものとばかり思ってました。でも嶋村さんの話を聞いていると、「使い捨て」にされるパイプも多いみたいですね。なんともったいない話。そういえば昔、やはり教会の古いオルガンからはずされた金属パイプをもったいないからといって日本に持ち帰った人がTV番組に出てましたっけ。…嶋村さんの造るオルガンは小型が中心で、安いものは5,60万円くらいから買えるそうですが、残念ながらうちにはそんなスペースさえもなし、せめて古い楽器から取り外したパイプを数本、ほしいと思う今日このごろ。
…外洋航海型の船にもいろいろありますが、記録に残っている木造船としてはフェニキア船団の使った船とならんで、世界最古のものかもしれない。もっとも2007年に見に行った「ホクレア」とか、復元カラフの「ブレンダン」とかのほうがはるかに古いけれども…そうはいってもこの復元された古代木造船、なんというすばらしい職人芸の極致なんだろうか。手斧(番組では「ておの」と言っていたけれど、「ちょうな」と読んだほうがいいように思う)で木のブロックを削りだし、それらをジグソーパズルのごとく一片一片、はめあわせてゆく。釘とかは使わず、「ほぞ」で連結。みごとな職人技でできあがった船体は、じつに美しい曲線を描いてました(アラブの伝統帆船「ダウ」もかっこいいけれども、こちらの復元船のもつ曲線美にはかなわない)。昔の人の技術ってやっぱりすごい。番組では「両舷にそなえられた舵」について解説があったが、「船尾真ん中」にそなえつけられた舵というのは古代中国人の発明だったらしい(つまり西洋の古代船にはなかった。舵はふつう左舷側にあった)。
現代の木造船とはまるでちがう工法で建造されたこの復元船、進水式では進水ならぬ浸水で水浸し。これで木材を膨張させて隙間をふさぐ…はずだったのですがあにはからんや排水後ふたたび「浸水」して沈没寸前。…ここのところ見ていて思ったのは、なんらかのコーキング材を塗りたくらないとだめなんじゃないの、ということ。現代の船大工たちは、綿だったかな、植物の繊維を隙間に詰めてました。さらに「蜜蝋(bees wax)」を塗りたくっていました。なるほど、蜜蝋ですか! ちなみに『聖ブレンダンの航海』第4章に書かれた革舟カラフの建造のくだりには、「動物の脂」を船体の外側の革の継ぎ目すべてに塗ったとあります。セヴェリンの復元船は、羊毛脂(wool grease)を船体全体に塗って防水処理してました。蜜蝋も防水効果はたしかにありますね(でも蟻がたかりそうな気もするけれど…)。
そんなこんなでようやく水に浮くようになった復元船ですが、紅海を300km(150海里くらい)も南下するという再現航海のようすもまたすごかった。航海に乗り出したばかりの映像を見てまず感じたのは、「船体にたいしてヤードが長すぎるんじゃないか」ということ。時化になったらバランスを崩してコケないかしら、なんて思っていたらやっぱり。やがて強風と高波にあおられて長すぎるヤードがぶらんぶらんしはじめ、復元船は危なっかしげにかしいだりした。乗組員が四苦八苦しているうちに、ヤードの一部(?)の木材が破損したり。小ぶりのセイルに張りなおして、ようやく急場をしのぎ、ぶじ目的地に到着。…いま、この復元船はどこにあるのかな? 見た目もとてもカッコいい船でしたが、あの横揺れはすごいですね。船には強いほうだけど、一発で船酔いしそうだ(苦笑)。
2). そういえばその前、NHKラジオ第一の「かんさい土曜ほっとタイム」を聴いていたら、突然、バッハの「小フーガ」が鳴り響いた…??? と思っていたら、なんと、滋賀県のアンティーク家具屋さんがひとりでこさえたオルガンの音色だという! こっちも仰天。なんでも英国にアンティーク家具を買い付けに行ったら、たまたまとある教会が解体されているところを見て、古いオルガンのパイプとかが野ざらしにされていたという。「もったいない」と思い、日本まで持って帰り、独学でオルガン建造をはじめたというからもう頭が下がります。もっともご本人が言われるように、いまはインターネットという強い見方があるから、おおいに活用したといいます。そういえば「送風機」として掃除機(!)を使っているのだとか(あの排気風を利用しているのだそうです)。また送風機とふいごとは、洗濯機のホースでつないでいるらしい(how resourceful!)。
お話もとてもおもしろかったのですが、印象的だったのは、「オルガンの肺」の話。「ふいご」というものがあるから、「手いっぱいにつかむ(ケラー)」分厚い和音を奏でてもオルガンは「息切れ」しないですむ。キャスターの方は「オルガンって息切れするんですか」と感心したように言ってましたが、オルガンは人間とおなじで呼吸をしている。いまは電動式送風機+風圧調節箱、昔は人力で動かすふいごですが、とにかくこのふいごがなければはじまらない。つねにふいごに一定量、空気を溜めていないとオルガンはすぐ息切れしてしまう。なのでバッハは新オルガン鑑定のさい、全ストップを出して弾きはじめ、こう言っていたという。「まずいい肺をもっているか調べないとね」。嶋村さんというこの家具屋さんがもっとも感心したのがこの「ふいご」だったといいます。なるほど! たしかにそのとおりですね。いくらパイプがよくったって、かんじんの「肺」がヤワければ、どうしようもない。
それにしても英国では「教会の統廃合」が進んでいるとは…まるで小中高校の統廃合みたいな話だ。「教会に行く人が減っている」から、というのが理由らしいですが、どこもたいへんですね。とはいえオルガンのパイプというのは一から造ったら費用がバカにならないから、たいてい「再利用」されるものとばかり思ってました。でも嶋村さんの話を聞いていると、「使い捨て」にされるパイプも多いみたいですね。なんともったいない話。そういえば昔、やはり教会の古いオルガンからはずされた金属パイプをもったいないからといって日本に持ち帰った人がTV番組に出てましたっけ。…嶋村さんの造るオルガンは小型が中心で、安いものは5,60万円くらいから買えるそうですが、残念ながらうちにはそんなスペースさえもなし、せめて古い楽器から取り外したパイプを数本、ほしいと思う今日このごろ。
2009年04月20日
パトモス島とラクイラ
いまさっき、たまたま見たNHK総合の「世界遺産への招待」。アクロポリスやデロス島のアポロン神殿とかも出てきましたが(故小川国夫氏の『アポロンの島』も思い出した)、なんといっても印象に残ったのは使徒ヨハネが島流しされたというパトモス島の風景。島の高台のてっぺんには外敵の侵入を防ぐ要塞としても使われてきたギリシャ正教修道院、その修道院につき従うかのように斜面にへばりつく白壁の美しい集落、そして漆黒の雲間から射す光芒…いかにも「黙示録」的な光景が広がってました。いままでTVでここを取材した番組なんてあったのかどうなのか、さだかではないけれども、とにかく自分は神秘的なパトモス島の光景をはじめて見た。もっとも「使徒ヨハネが島の洞穴で『黙示録』を〜」というのは、歴史的にはよくわかっていない。はやくも3世紀に、アレクサンドリアの神学者ディオニュシオスは「第四福音書記者によるものではない」と結論づけているし、また正文批判的に見ても福音書記者ヨハネとはあきらかに使われている語法が異なり、文法上のエラーも散見されるという(ギリシャ語に精通していなかった??)。また内容も承知のとおりおどろおどろしい感じで、そのためか3世紀以降、西方教会で『新約』27文書がほぼ確定したのちもこの「黙示録」は「継続議論」扱いにされたほど。東方教会ではすこぶる評判が悪かった(いつも聴いているChoral Evensongでもごくたまに読まれるていど)し、異端モンタノス派が愛読していたこともあって、この書物の権威について疑問視されることもあったらしい。それはともかくとして、このパトモス島の春は美しい。エーゲ海の夏は50度ぐらいまで気温が上がり、文字どおり焼けるような酷暑だから、野草が咲き乱れる四旬節から復活祭あたりがベストシーズンみたいですね。番組見ているうちに、行ってみたい場所がまたひとつ増えてしまった(苦笑)。
世界遺産つながりではイタリアもその指定件数の多さで群を抜いています。またイタリアにはある意味日本人以上に古い時代の遺産にこだわり、それを大切に守っている風土があるように思えます。しかしながら国内でも報道されたように、アブルッツォ州の州都ラクイラの震災はそんな文化遺産の多くも灰燼に帰してしまった。先日、NYT電子版にもラクイラにおける歴史的建造物の被害について記事が掲載されてました。美術・写真関連の記事を数多く執筆しているマイケル・キンメルマン氏による現地リポートを読むと、そんな被災地の人々の落胆ぶりがひしひしと伝わってくる。一瞬にして住む家も家族も友人も失っただけでなくて、「心のよりどころ」だった中世以来のバジリカ聖堂など、多くの歴史的遺産まで失ってしまった。キンメルマン氏の記事は、被災したラクイラ市民の悲しみに共感する書き方で、また書き手自身の深い悲しみも感じられた。震災後、イタリア内外から1万人を超える専門家がヴォランティアとして馳せ参じた。うちひとりはこう言っています。
“Without the culture that connects us to our territory, we lose our identity,” he said. “There may not be many famous artists or famous monuments here, but before anything, Italians feel proud of the culture that comes from their own towns, their own regions. And when we restore a church or a museum, it gives us hope. This is not just about preserving museum culture. For us, it’s about a return to normalcy.”
でもなぜもっと早く耐震補強とか、手が打てなかったのだろうか…日本もイタリアもともに火山国で地震国なのに。もっとも耐震補強すべき歴史的建造物の数があまりにも多すぎて、すべては無理だったとしても、です。近郊の村パガニカ(ここでは6名が犠牲になった)では1704年、というからまだバッハが十代だったときの大地震で倒壊して、その後再建されたという聖堂も、今回の震災でドームが崩落した。また1605年創建のべつの聖堂は、1703年の地震ではかろうじて被害を免れたものの今回の地震で被災した。現地の人によると、震源がきわめて浅かったためか、12年前にアッシジを襲った地震より今回のほうがはるかに酷いようです。記事は、通りをふさいだ瓦礫の山にカメラを向けているラクイラの青年の搾り出すような悲痛なことばで締めくくられています。「いくらなんでもあんまりだ。ラクイラが崩れ、粉々になってからはじめてその美しさが理解されるなんて」。
In L’Aquila, Giovanni Berti de Marinis, 24, stood in the sunshine and eerie silence photographing a mountain of debris that made a barricade of what had been his street. It seemed heartless to ask him about lost culture, but he offered anyway.
His voice trembling, he said: “It’s upsetting that people understand how beautiful L’Aquila is only when it’s destroyed.”
It is.
1997年のアッシジ地震のときは、有名な聖フランチェスコ聖堂のドームが崩落して修道士数名が下敷きになったこともふいに思い出した。…そしてアッシジの地震で個人的に思い出すのが、その数年前にやはりNHKの紀行番組で映し出された現地の子どもたちのこと、とくに腕白だが快活なモレーノ少年とその一家のこととか…あの震災をぶじに乗り切って、いまは元気な青年として過ごしていると信じたい。
世界遺産つながりではイタリアもその指定件数の多さで群を抜いています。またイタリアにはある意味日本人以上に古い時代の遺産にこだわり、それを大切に守っている風土があるように思えます。しかしながら国内でも報道されたように、アブルッツォ州の州都ラクイラの震災はそんな文化遺産の多くも灰燼に帰してしまった。先日、NYT電子版にもラクイラにおける歴史的建造物の被害について記事が掲載されてました。美術・写真関連の記事を数多く執筆しているマイケル・キンメルマン氏による現地リポートを読むと、そんな被災地の人々の落胆ぶりがひしひしと伝わってくる。一瞬にして住む家も家族も友人も失っただけでなくて、「心のよりどころ」だった中世以来のバジリカ聖堂など、多くの歴史的遺産まで失ってしまった。キンメルマン氏の記事は、被災したラクイラ市民の悲しみに共感する書き方で、また書き手自身の深い悲しみも感じられた。震災後、イタリア内外から1万人を超える専門家がヴォランティアとして馳せ参じた。うちひとりはこう言っています。
“Without the culture that connects us to our territory, we lose our identity,” he said. “There may not be many famous artists or famous monuments here, but before anything, Italians feel proud of the culture that comes from their own towns, their own regions. And when we restore a church or a museum, it gives us hope. This is not just about preserving museum culture. For us, it’s about a return to normalcy.”
でもなぜもっと早く耐震補強とか、手が打てなかったのだろうか…日本もイタリアもともに火山国で地震国なのに。もっとも耐震補強すべき歴史的建造物の数があまりにも多すぎて、すべては無理だったとしても、です。近郊の村パガニカ(ここでは6名が犠牲になった)では1704年、というからまだバッハが十代だったときの大地震で倒壊して、その後再建されたという聖堂も、今回の震災でドームが崩落した。また1605年創建のべつの聖堂は、1703年の地震ではかろうじて被害を免れたものの今回の地震で被災した。現地の人によると、震源がきわめて浅かったためか、12年前にアッシジを襲った地震より今回のほうがはるかに酷いようです。記事は、通りをふさいだ瓦礫の山にカメラを向けているラクイラの青年の搾り出すような悲痛なことばで締めくくられています。「いくらなんでもあんまりだ。ラクイラが崩れ、粉々になってからはじめてその美しさが理解されるなんて」。
In L’Aquila, Giovanni Berti de Marinis, 24, stood in the sunshine and eerie silence photographing a mountain of debris that made a barricade of what had been his street. It seemed heartless to ask him about lost culture, but he offered anyway.
His voice trembling, he said: “It’s upsetting that people understand how beautiful L’Aquila is only when it’s destroyed.”
It is.
1997年のアッシジ地震のときは、有名な聖フランチェスコ聖堂のドームが崩落して修道士数名が下敷きになったこともふいに思い出した。…そしてアッシジの地震で個人的に思い出すのが、その数年前にやはりNHKの紀行番組で映し出された現地の子どもたちのこと、とくに腕白だが快活なモレーノ少年とその一家のこととか…あの震災をぶじに乗り切って、いまは元気な青年として過ごしていると信じたい。
2008年12月31日
ブクステフーデに慰められるデミアン
けさ、うとうとしながら聴いていた「気まクラ」再放送。しばらくしたら、昨年が記念イヤーだったブクステフーデの「パッサカリア ニ短調 BuxWV 161」がかかった。なんでもこれ、ヘルマン・ヘッセの小説『デミアン』に出てくるんだとか。デミアンが、つらいことがあったとき、教会の外にひとり佇んでいたら、教会からこのオルガン曲が流れてきて慰められた、という一節があるらしい(→関連ブログ記事)。年始明けに図書館に行ったら読んでみよう(とはいえきのうから風邪気味 orz)。ちなみにこの「パッサカリア」、バッハの「パッサカリア BWV.582」の着想源ではないかとされている曲でもある(ただし出だしはブクステフーデとはちがって、バッハのパッサカリアでは低音主題がまず単独で堂々と提示される→拙記事)。
それはそうと、きのう、「4時間以上もまるごとザヒ・ハワス」みたいな番組をまた放映していたので、つい見てしまった(とはいえさすがに最後までは見ていない)。感想としては、前のよりよかったかも。ハワス博士本人が出演していた(!)のは、メディア露出好きだからともかくとして、どうせなら吉村先生も出て欲しかったところ。それでもとてもおもしろかったし、ふだんはぜったい見ることのできない「屈折ピラミッド」の内部とか、「階段式ピラミッド」や「赤のピラミッド」とかの内部も見ることができてよかった。最古のジェセル王の階段式ピラミッドって、内部があんなに複雑にできていたなんていままで知らなかった。クフ王の大ピラミッドで有名な「持ち送り積み」工法って、すでに「屈折ピラミッド」でも使われていたこともはじめて知った。なるほど、アーチ工法ってこれが進化したものだったのか。もっともいちばん驚いたのは「王家の谷」であたらしい墓(?)が見つかるかも、というくだり。そしてセティ1世王墓の地下深くへ延々とつづく坑道みたいなせまい地下通路の存在にも驚いた。仕事とはいえ、これ見たときには正直、えなりさんをうらやましく思ったものだ。これでも小学生時分は古代エジプト、とくにツタンカーメン王にはずいぶんハマっていたものだから…。『ツタンカーメン王のひみつ』なんか、もうボロボロながらまだ持っていたりする。
どうでもいいけど、KV63ってほんとうに墓なんだろうか? シロアリさんに喰われちゃった、みたいな木製の人形(ひとがた)棺はいくつか出てきたけれども、たしかミイラは一体も出てこなかったんじゃなかったかしら(→関連ページ)。ツタンカーメン生みの親キヤの墓である可能性はあるとは思うが…それと、1907年にKV55から見つかったとされる破損したミイラ。米国地理学協会(NG)からもらった独シーメンス社の移動式CTスキャン装置にかけたら、なんとなんと頭蓋骨の形がツタンカーメンのものとうりふたつ!!! これにも驚く。どうもこのミイラ、父親のアクエンアテン(イクナートン)王のものらしい。となれば、ツタンカーメン王墓を取り巻くように一族の墓が配置されているかもしれない…というわけで、また大胆にもツタンカーメン王墓のすぐ隣り、観光客が行きかう道のど真ん中に穴を掘ってしまうところがいかにもハワス博士らしいやり方。もっとも科学的確証があってのことなんでしょうけれども…ここを通ったらフォースの揺らぎを感じたから掘ってみた、なんてことはないとは思うけれども…もうひとつ、ここの上のほうでもハワス博士は発掘調査をつづけていて、なんと墓の入り口らしいものが出てきたという(!)。かりに墓だとして、いったいだれの墓なんでしょうか…。「新王国時代」には150人以上のファラオがいて、うち墓が見つかっているのが62人だから、理屈の上では埋もれたままになっている墓はたしかにあるとは思う。こっちも追跡取材してくれないとね。
最後になりましたが、今年もいろいろな方に支えられ、またすてきな出逢いのあった一年でありました。それぞれの方に心から感謝、そしてよき新年をお迎えくださるようにお祈りしまして、拙い記事を終えたいと思います。いつもここで一年を締めくくる引用を掲げるのですが、今年はこちらのサイトさまにリンクさせていただきます。「今年の漢字」に選ばれたのは「変」。どちらか言うと悪い方向へ「変じた」ことの多かった一年だったような気がしますが、来たる年こそは、オバマ次期米国大統領じゃないけれども、望ましい方向へ人も社会も「変じる」年でありますようにと祈念して。
[ 2012 年 5 月 28 日 追記 ] ヘルマン・ヘッセの『デミアン』。本人はしっかり記憶していたので、ようやっといつも行ってる図書館にて新潮文庫版 ( 高橋健二訳 ) を借りました。パラパラと繰ってみたら … ブクステフーデに慰められるのはデミアンにあらず。orz orz この物語の主人公はデミアンだとばっかり思っていたら、ほんとうの主人公にして語り手はエーミール・シンクレール少年で、彼が「悩ましいときは、ピストーリウスに古いブックステフーデのパッサカーリヤをひいてくれるように頼んだ」のでした。悪しからず訂正させていただきます。m(_ _)m
… しかし奥付を見ると刷りも刷ったり、1994 年時点で 80 刷 !! 奇しくも今年はヘッセ没後 50 年、ということは国内での版権は切れるわけだから、この『デミアン』もそろそろ新訳が … ほしいところ。ちなみにこの作品、発表当時はたいへんな問題作だったらしく、キャンベル本にもたびたび言及があるオズヴァルト・シュペングラーの『西洋の没落』とならんで、当時のドイツの若い読者に衝撃を与えた作品のようです。『ヴェーダ』とか「グノーシス派」とかはては「オーム」まで出てきて、なんだかキャンベル本みたい ( 笑 ) 。でも内容は、21 世紀を生きるわれわれにもじゅうぶんすぎるほど当てはまる普遍的な事柄を扱っているので、これはじっくり読む価値ありと思ったしだい。
それはそうと、きのう、「4時間以上もまるごとザヒ・ハワス」みたいな番組をまた放映していたので、つい見てしまった(とはいえさすがに最後までは見ていない)。感想としては、前のよりよかったかも。ハワス博士本人が出演していた(!)のは、メディア露出好きだからともかくとして、どうせなら吉村先生も出て欲しかったところ。それでもとてもおもしろかったし、ふだんはぜったい見ることのできない「屈折ピラミッド」の内部とか、「階段式ピラミッド」や「赤のピラミッド」とかの内部も見ることができてよかった。最古のジェセル王の階段式ピラミッドって、内部があんなに複雑にできていたなんていままで知らなかった。クフ王の大ピラミッドで有名な「持ち送り積み」工法って、すでに「屈折ピラミッド」でも使われていたこともはじめて知った。なるほど、アーチ工法ってこれが進化したものだったのか。もっともいちばん驚いたのは「王家の谷」であたらしい墓(?)が見つかるかも、というくだり。そしてセティ1世王墓の地下深くへ延々とつづく坑道みたいなせまい地下通路の存在にも驚いた。仕事とはいえ、これ見たときには正直、えなりさんをうらやましく思ったものだ。これでも小学生時分は古代エジプト、とくにツタンカーメン王にはずいぶんハマっていたものだから…。『ツタンカーメン王のひみつ』なんか、もうボロボロながらまだ持っていたりする。
どうでもいいけど、KV63ってほんとうに墓なんだろうか? シロアリさんに喰われちゃった、みたいな木製の人形(ひとがた)棺はいくつか出てきたけれども、たしかミイラは一体も出てこなかったんじゃなかったかしら(→関連ページ)。ツタンカーメン生みの親キヤの墓である可能性はあるとは思うが…それと、1907年にKV55から見つかったとされる破損したミイラ。米国地理学協会(NG)からもらった独シーメンス社の移動式CTスキャン装置にかけたら、なんとなんと頭蓋骨の形がツタンカーメンのものとうりふたつ!!! これにも驚く。どうもこのミイラ、父親のアクエンアテン(イクナートン)王のものらしい。となれば、ツタンカーメン王墓を取り巻くように一族の墓が配置されているかもしれない…というわけで、また大胆にもツタンカーメン王墓のすぐ隣り、観光客が行きかう道のど真ん中に穴を掘ってしまうところがいかにもハワス博士らしいやり方。もっとも科学的確証があってのことなんでしょうけれども…ここを通ったらフォースの揺らぎを感じたから掘ってみた、なんてことはないとは思うけれども…もうひとつ、ここの上のほうでもハワス博士は発掘調査をつづけていて、なんと墓の入り口らしいものが出てきたという(!)。かりに墓だとして、いったいだれの墓なんでしょうか…。「新王国時代」には150人以上のファラオがいて、うち墓が見つかっているのが62人だから、理屈の上では埋もれたままになっている墓はたしかにあるとは思う。こっちも追跡取材してくれないとね。
最後になりましたが、今年もいろいろな方に支えられ、またすてきな出逢いのあった一年でありました。それぞれの方に心から感謝、そしてよき新年をお迎えくださるようにお祈りしまして、拙い記事を終えたいと思います。いつもここで一年を締めくくる引用を掲げるのですが、今年はこちらのサイトさまにリンクさせていただきます。「今年の漢字」に選ばれたのは「変」。どちらか言うと悪い方向へ「変じた」ことの多かった一年だったような気がしますが、来たる年こそは、オバマ次期米国大統領じゃないけれども、望ましい方向へ人も社会も「変じる」年でありますようにと祈念して。
[ 2012 年 5 月 28 日 追記 ] ヘルマン・ヘッセの『デミアン』。本人はしっかり記憶していたので、ようやっといつも行ってる図書館にて新潮文庫版 ( 高橋健二訳 ) を借りました。パラパラと繰ってみたら … ブクステフーデに慰められるのはデミアンにあらず。orz orz この物語の主人公はデミアンだとばっかり思っていたら、ほんとうの主人公にして語り手はエーミール・シンクレール少年で、彼が「悩ましいときは、ピストーリウスに古いブックステフーデのパッサカーリヤをひいてくれるように頼んだ」のでした。悪しからず訂正させていただきます。m(_ _)m
… しかし奥付を見ると刷りも刷ったり、1994 年時点で 80 刷 !! 奇しくも今年はヘッセ没後 50 年、ということは国内での版権は切れるわけだから、この『デミアン』もそろそろ新訳が … ほしいところ。ちなみにこの作品、発表当時はたいへんな問題作だったらしく、キャンベル本にもたびたび言及があるオズヴァルト・シュペングラーの『西洋の没落』とならんで、当時のドイツの若い読者に衝撃を与えた作品のようです。『ヴェーダ』とか「グノーシス派」とかはては「オーム」まで出てきて、なんだかキャンベル本みたい ( 笑 ) 。でも内容は、21 世紀を生きるわれわれにもじゅうぶんすぎるほど当てはまる普遍的な事柄を扱っているので、これはじっくり読む価値ありと思ったしだい。
2008年06月01日
美術史を塗り替える大発見
1). きのうの夕刊を見てびっくり。バーミヤン遺跡の石窟内に描かれた仏教壁画が、じつは世界最古の油絵だったという!! この壁画が描かれたのは7−10世紀にかけてらしいので、これは美術史を塗り替える大発見ではないですか。しかもこれ日本の調査隊の一大成果。そしていましがた、宇宙ステーション「きぼう」の心臓部である船内実験室と日本人宇宙飛行士を乗せたスペースシャトルがぶじ打ち上げ成功。暗いニュースばかりが目立つ昨今、こういう知らせを聞くとやはりうれしくなりますね。もっともバーミヤン遺跡については、あのような暴挙さえなかったら、もっとよかったが…。県立美術館で開催していたバーミヤン展、けっきょく行けずじまい。そうそう、行けなかったといえば、東京駅前の大丸ミュージアムで「20世紀の写真の巨匠たち」という写真展をやっていたらしい! ここでも取り上げた「児童労働」写真のルイス・ハインやエドワード・ウェストン、アンセル・アダムズに『ライフ』で活躍したユージーン・スミス…うう、こっちも見に行きたかった。でもハイン作品の所蔵館は、お隣りの山梨県・清里にある写真美術館に行けば見られるようだ。身延線とか乗り継いでいけばなんとか行けそう。
2). そしてこちらもちょっとびっくり。長いこと謎だったストーンヘンジの建造目的がついにわかった?! というニュース。でも中身をよーく見ると、言い出しっぺのこの教授先生の「仮説」にすぎない。支配者一族の共同墓地説は以前からあったし、そもそもそれが証明されるには人骨とか、なにか証拠が出てこないと*。 バッハ研究の小林先生も、この前読んだ著書の中で言っていたけれども、向こうの研究者って、たとえば「フーガの技法」の「未完の4重フーガ」をめぐる謎についていろいろ考察するのはいいけれど、「自説こそ謎を解決した」と言わんばかりの書き方が目立つ気がする(聖ブレンダンがらみの論文でもそんな書き方のものがまま見られ、あとから反駁されたり…)。今回発見されたばかりのBWV.1128にしても――出だしと終結部の画像だけで判断などできるわけもないけれども――すなおにバッハの真作だと受け止めることができずにいる。ハレ大学の発見者の先生は太鼓判を押しているようだが…。ストーンヘンジ関係では、なんとこんな記事も。昔、イタリアにてイタズラ描きした罰として、自分で汚した文化財をきれいに掃除しに行かされたという邦人観光客の話を聞いたことがあったけれど、削るとはまたなんと不遜な。たしかに昔のストーンヘンジはだれでもサークル内に出入り自由だったが、いまでは高いフェンス越しに眺めるだけ。四六時中警備員が目を光らせていますが、今回はその隙を突いたかっこうになったらしい。なんとも情けない話ではある。
…蛇足ながら、さっき見た「THE 世界遺産」。はじめて知ったが、昨年、カッパドキアでは偶然にもまた巨大な地下空間が発見されたんだとか。カッパドキア、とくると、以前地元紙で読んだ大林宣彦監督の話も思い出します。なんでもあそこの「地ワイン(赤)」は絶品だったとか…飲んでみたい。
* ... こちらの記事によると、人骨ではなくて、「遺灰」は多数見つかっているようです。でも「初期」段階はまだ石造りではなかったし、巨石を組み上げた時代も「墓地」として使われていたのか、までは証明できないと思うのです(cremation=火葬のこと)。また遺灰があるからといって、即そこが埋葬地とはかぎらない。ストーンヘンジの複雑な石の配列からしても、墓地というのは複合施設に付属したもののひとつにすぎないのではないかと思います。たとえて言えば、教会の墓だけ見て、礼拝する場所としての教会を見ていないような気がする。
2). そしてこちらもちょっとびっくり。長いこと謎だったストーンヘンジの建造目的がついにわかった?! というニュース。でも中身をよーく見ると、言い出しっぺのこの教授先生の「仮説」にすぎない。支配者一族の共同墓地説は以前からあったし、そもそもそれが証明されるには人骨とか、なにか証拠が出てこないと*。 バッハ研究の小林先生も、この前読んだ著書の中で言っていたけれども、向こうの研究者って、たとえば「フーガの技法」の「未完の4重フーガ」をめぐる謎についていろいろ考察するのはいいけれど、「自説こそ謎を解決した」と言わんばかりの書き方が目立つ気がする(聖ブレンダンがらみの論文でもそんな書き方のものがまま見られ、あとから反駁されたり…)。今回発見されたばかりのBWV.1128にしても――出だしと終結部の画像だけで判断などできるわけもないけれども――すなおにバッハの真作だと受け止めることができずにいる。ハレ大学の発見者の先生は太鼓判を押しているようだが…。ストーンヘンジ関係では、なんとこんな記事も。昔、イタリアにてイタズラ描きした罰として、自分で汚した文化財をきれいに掃除しに行かされたという邦人観光客の話を聞いたことがあったけれど、削るとはまたなんと不遜な。たしかに昔のストーンヘンジはだれでもサークル内に出入り自由だったが、いまでは高いフェンス越しに眺めるだけ。四六時中警備員が目を光らせていますが、今回はその隙を突いたかっこうになったらしい。なんとも情けない話ではある。
…蛇足ながら、さっき見た「THE 世界遺産」。はじめて知ったが、昨年、カッパドキアでは偶然にもまた巨大な地下空間が発見されたんだとか。カッパドキア、とくると、以前地元紙で読んだ大林宣彦監督の話も思い出します。なんでもあそこの「地ワイン(赤)」は絶品だったとか…飲んでみたい。
* ... こちらの記事によると、人骨ではなくて、「遺灰」は多数見つかっているようです。でも「初期」段階はまだ石造りではなかったし、巨石を組み上げた時代も「墓地」として使われていたのか、までは証明できないと思うのです(cremation=火葬のこと)。また遺灰があるからといって、即そこが埋葬地とはかぎらない。ストーンヘンジの複雑な石の配列からしても、墓地というのは複合施設に付属したもののひとつにすぎないのではないかと思います。たとえて言えば、教会の墓だけ見て、礼拝する場所としての教会を見ていないような気がする。
2008年02月10日
墓泥棒の仕業??
先週の「地球ドラマチック」。「ツタンカーメンを殺したのは誰か」という刺激的なタイトルに惹かれて見てみました。
まずのっけからびっくりしたのは…第8代カーナヴォン伯爵の登場! 容姿はどことなくアレッドをもっと崩したような…なんて言ったら怒られますね。8代目ということは、だいぶ前、吉村教授の出演された番組に登場した前カーナヴォン伯爵、つまり父上はお亡くなりになった、ということなのか。そういえばハイクレア城にはツタンカーメン王墓からくすねた、と言うとまた言い方が悪いが細かな装身具のたぐいが何点か保管されているのもそのときに見ました。で、先代は丘の上にある祖父の墓にはけっして近寄らなかった。どんなに頼まれたってあそこだけはダメ、と顔が引きつっていたのがいまでも印象に残っているんですが…8代目はそんなことおかまいなし(?)、あっさりと墓参りしているところまで映し出されていた。
番組では曽祖父ジョージ・ハーバートが果たせなかった、ツタンカーメン王にまつわる謎を解明しようと乗り出す役回り。よくわからないけれど、この人も曽祖父同様、アマチュア考古学者らしい。もちろんプロの学者も出てきます。カウボーイハットにジーンズでおなじみのあの博士も(「ハイクレア城にある出土品を返せ!」と面と向かっては言ってませんでした)。
8代目カーナヴォン伯爵の目のつけどころはアマチュアらしく柔軟です。たとえば発掘当時は見過ごされていた食べ物の出土品とか。ナブクやコリアンダーの実とかが大量に納めてあったらしい。当時ナブクの実は降圧剤として、コリアンダーの実は頭痛薬・解熱剤として使われていたようです。また発掘当時、いったいなんのために使われていたのかわからなかった白くて長い布。これはコルセットだそうで、二輪戦車に乗るときに腰にぐるぐると巻きつけて使用していたらしい。こういう日用品が埋葬されていたということは、ツタンカーメンが頻繁に二輪戦車を乗り回していたことを物語っている。番組で紹介されていたのはすでにわかっている事柄とも若干カブってはいたけれど(ツタンカーメンの母親はアクエンアテンの第二王妃キヤで出産時に亡くなり、母親代わりをつとめたのが乳母として王宮に仕えたマヤだったとか)、あのアマルナ芸術に見られるような、異様な体型についての解釈は目新しかった。アクエンアテン同様、ツタンカーメンもお尻が異様に突き出した「洋梨型」の特異体型だったらしい。これが遺伝的なものなのか、当時の流行り病だったのかは不明。でも以前言われていたような病弱説…ということもなくて、つい3年前のCTスキャン調査の結果でも示されたように、王はきわめて健康で、狩猟が大好きな活発なスポーツマンだったらしいことがわかってきている。死因についてはもっとも内側の純金製人形棺にかけられていた矢車草の花輪から推定して埋葬されたのは3月ごろ、ミイラ作りに70日くらいかかるので逆算すると亡くなったのは12月末ごろ。死因についてはCTスキャン調査で明らかになった、左脚大腿骨下部の骨折と考えるのが妥当だろうという。12月末というのも、狩りのシーズンとも一致するし、狩の最中に二輪戦車から投げ出されたのではないか。そして感染症にかかったのではないか(なんだか曽祖父のときみたいだな…と思うのは自分だけかしら? 曽祖父の場合、蚊に刺された傷から化膿し、敗血症を起こして亡くなっている)。
以前から言われていた「暗殺説」のほうも検討していて、例によってアイとホルエムヘブが容疑者として挙げられています。決定的な証拠はないとはいえ、かぎりなく黒に近いグレーだという見方でした(自分もそう思う。ひょっとしたら戦車に細工でもしていたのかもしれないし、狩りに熱中する若きファラオを見て、早晩事故死でもするのではと期待していたのかもしれない)。
自分も以前は、物静かに妃と過ごすのが好きな華奢な少年王、というイメージが強かったのですが、番組でも検証していたように、じっさいのツタンカーメンはそうとう活発でスポーツ好きな少年だったみたいです。それが仇となったのだろうか。最近になって、ひじょうに短期間のうちに都をもとのテーベにもどしたり、アメン神殿を再興するという偉業を成し遂げたのはツタンカーメン以外にはいないと再評価されているくらいですから、当時の人々にとって、王が不慮の事故で急逝した、という知らせは現代人が想像する以上にショッキングな出来事だったかもしれません。あの黄金のデスマスクをはじめ、10代で夭折した少年王のためにあれだけの豪華な埋葬品を狭い石室に納めたのはいったいどうしてか、という謎を解く鍵もこのへんにありそうな気がします。それだけ若い王はみんなから慕われ、愛されていたのではないかという気がしてならないのです。もっともあまりにあっけなく旅立ってしまったから、埋葬品は大急ぎで用意しなくてはならなかった。大急ぎで埋葬されたらしいということもいろいろな事実からわかっています。たとえば人形棺も、少々はみ出た部分を無理やり削ってまで石棺に納めた形跡があるし、石棺も、ふただけなぜか本体に使った石英ではなくて花崗岩、しかも真ん中で割れて、セメントで補修されている。厨子も本来とは逆向きに安置されていたりする(厨子の扉は本来西を向かなければならないのに、東向きになってしまったため、王はあの世ではなくてこの世に舞いもどってきた?)。
ただ、番組を見ていて唯一気になったのは王のミイラについて。日本語版NG誌(2005年6月号)に掲載されたCTスキャン調査の記事にもあったけれども、王のミイラからは胸部と肋骨のほとんどが消えていた。これは1968年の英国リヴァプール大学によるX線調査のときにすでになくなっていた(X線調査した技師、王の頭部を素手で持ち上げているよ〜信じられん…orz)。カーターたちがはじめてミイラ調査した1926年にハリー・バートンが撮影した写真には、ビーズの胸飾りとともにしっかり写っている。これはいったいどういうことか?
番組では、なんと第二次世界大戦中、警備が手薄になった王墓に墓泥棒が入り、王の胸部ごと切り取って持ち去ったのではないかと推測しています。こんな話はじめてだ、と思ってあらためてWeb上に公開されているCTスキャン調査報告書を見てみると、
Opinion among team members is divided as to whether the ribs and sternum were removed by the embalmers or by Carter’s team. Carter’s team does not mention that the ribs and sternum were missing, and a beaded collar and string of beads can be seen covering the chest cavity in photos taken at the time, but before their examination of the body was completed. Therefore it is perhaps more likely that this area of the body, which is now completely missing, was removed by Carter’s team in order to collect the artifacts present(although he does not mention doing so). Archaeological investigation will continue in an effort to resolve this issue.
問題は下線部。たしか『ツタンカーメン王墓発掘記』には、王のミイラはすべて調査が終わったあと、バートンの写真撮影のためにふたたび組み立てられて――王の亡骸はバラバラにされていた――砂を敷き詰めた木箱に入れて撮影された、とか書いてあったような気がするし、常識的に考えても上記報告文では順番が逆じゃないかと思う。やはり墓泥棒の仕業なんだろうか。もしそうなら、悲しいことに古美術品の闇市場に出回り、だれかが所有していることになる。なんと罰当たりな、というか、これこそまさしくファラオに呪われてもしかたないように思うんですけれどもね。
まずのっけからびっくりしたのは…第8代カーナヴォン伯爵の登場! 容姿はどことなくアレッドをもっと崩したような…なんて言ったら怒られますね。8代目ということは、だいぶ前、吉村教授の出演された番組に登場した前カーナヴォン伯爵、つまり父上はお亡くなりになった、ということなのか。そういえばハイクレア城にはツタンカーメン王墓からくすねた、と言うとまた言い方が悪いが細かな装身具のたぐいが何点か保管されているのもそのときに見ました。で、先代は丘の上にある祖父の墓にはけっして近寄らなかった。どんなに頼まれたってあそこだけはダメ、と顔が引きつっていたのがいまでも印象に残っているんですが…8代目はそんなことおかまいなし(?)、あっさりと墓参りしているところまで映し出されていた。
番組では曽祖父ジョージ・ハーバートが果たせなかった、ツタンカーメン王にまつわる謎を解明しようと乗り出す役回り。よくわからないけれど、この人も曽祖父同様、アマチュア考古学者らしい。もちろんプロの学者も出てきます。カウボーイハットにジーンズでおなじみのあの博士も(「ハイクレア城にある出土品を返せ!」と面と向かっては言ってませんでした)。
8代目カーナヴォン伯爵の目のつけどころはアマチュアらしく柔軟です。たとえば発掘当時は見過ごされていた食べ物の出土品とか。ナブクやコリアンダーの実とかが大量に納めてあったらしい。当時ナブクの実は降圧剤として、コリアンダーの実は頭痛薬・解熱剤として使われていたようです。また発掘当時、いったいなんのために使われていたのかわからなかった白くて長い布。これはコルセットだそうで、二輪戦車に乗るときに腰にぐるぐると巻きつけて使用していたらしい。こういう日用品が埋葬されていたということは、ツタンカーメンが頻繁に二輪戦車を乗り回していたことを物語っている。番組で紹介されていたのはすでにわかっている事柄とも若干カブってはいたけれど(ツタンカーメンの母親はアクエンアテンの第二王妃キヤで出産時に亡くなり、母親代わりをつとめたのが乳母として王宮に仕えたマヤだったとか)、あのアマルナ芸術に見られるような、異様な体型についての解釈は目新しかった。アクエンアテン同様、ツタンカーメンもお尻が異様に突き出した「洋梨型」の特異体型だったらしい。これが遺伝的なものなのか、当時の流行り病だったのかは不明。でも以前言われていたような病弱説…ということもなくて、つい3年前のCTスキャン調査の結果でも示されたように、王はきわめて健康で、狩猟が大好きな活発なスポーツマンだったらしいことがわかってきている。死因についてはもっとも内側の純金製人形棺にかけられていた矢車草の花輪から推定して埋葬されたのは3月ごろ、ミイラ作りに70日くらいかかるので逆算すると亡くなったのは12月末ごろ。死因についてはCTスキャン調査で明らかになった、左脚大腿骨下部の骨折と考えるのが妥当だろうという。12月末というのも、狩りのシーズンとも一致するし、狩の最中に二輪戦車から投げ出されたのではないか。そして感染症にかかったのではないか(なんだか曽祖父のときみたいだな…と思うのは自分だけかしら? 曽祖父の場合、蚊に刺された傷から化膿し、敗血症を起こして亡くなっている)。
以前から言われていた「暗殺説」のほうも検討していて、例によってアイとホルエムヘブが容疑者として挙げられています。決定的な証拠はないとはいえ、かぎりなく黒に近いグレーだという見方でした(自分もそう思う。ひょっとしたら戦車に細工でもしていたのかもしれないし、狩りに熱中する若きファラオを見て、早晩事故死でもするのではと期待していたのかもしれない)。
自分も以前は、物静かに妃と過ごすのが好きな華奢な少年王、というイメージが強かったのですが、番組でも検証していたように、じっさいのツタンカーメンはそうとう活発でスポーツ好きな少年だったみたいです。それが仇となったのだろうか。最近になって、ひじょうに短期間のうちに都をもとのテーベにもどしたり、アメン神殿を再興するという偉業を成し遂げたのはツタンカーメン以外にはいないと再評価されているくらいですから、当時の人々にとって、王が不慮の事故で急逝した、という知らせは現代人が想像する以上にショッキングな出来事だったかもしれません。あの黄金のデスマスクをはじめ、10代で夭折した少年王のためにあれだけの豪華な埋葬品を狭い石室に納めたのはいったいどうしてか、という謎を解く鍵もこのへんにありそうな気がします。それだけ若い王はみんなから慕われ、愛されていたのではないかという気がしてならないのです。もっともあまりにあっけなく旅立ってしまったから、埋葬品は大急ぎで用意しなくてはならなかった。大急ぎで埋葬されたらしいということもいろいろな事実からわかっています。たとえば人形棺も、少々はみ出た部分を無理やり削ってまで石棺に納めた形跡があるし、石棺も、ふただけなぜか本体に使った石英ではなくて花崗岩、しかも真ん中で割れて、セメントで補修されている。厨子も本来とは逆向きに安置されていたりする(厨子の扉は本来西を向かなければならないのに、東向きになってしまったため、王はあの世ではなくてこの世に舞いもどってきた?)。
ただ、番組を見ていて唯一気になったのは王のミイラについて。日本語版NG誌(2005年6月号)に掲載されたCTスキャン調査の記事にもあったけれども、王のミイラからは胸部と肋骨のほとんどが消えていた。これは1968年の英国リヴァプール大学によるX線調査のときにすでになくなっていた(X線調査した技師、王の頭部を素手で持ち上げているよ〜信じられん…orz)。カーターたちがはじめてミイラ調査した1926年にハリー・バートンが撮影した写真には、ビーズの胸飾りとともにしっかり写っている。これはいったいどういうことか?
番組では、なんと第二次世界大戦中、警備が手薄になった王墓に墓泥棒が入り、王の胸部ごと切り取って持ち去ったのではないかと推測しています。こんな話はじめてだ、と思ってあらためてWeb上に公開されているCTスキャン調査報告書を見てみると、
Opinion among team members is divided as to whether the ribs and sternum were removed by the embalmers or by Carter’s team. Carter’s team does not mention that the ribs and sternum were missing, and a beaded collar and string of beads can be seen covering the chest cavity in photos taken at the time, but before their examination of the body was completed. Therefore it is perhaps more likely that this area of the body, which is now completely missing, was removed by Carter’s team in order to collect the artifacts present(although he does not mention doing so). Archaeological investigation will continue in an effort to resolve this issue.
問題は下線部。たしか『ツタンカーメン王墓発掘記』には、王のミイラはすべて調査が終わったあと、バートンの写真撮影のためにふたたび組み立てられて――王の亡骸はバラバラにされていた――砂を敷き詰めた木箱に入れて撮影された、とか書いてあったような気がするし、常識的に考えても上記報告文では順番が逆じゃないかと思う。やはり墓泥棒の仕業なんだろうか。もしそうなら、悲しいことに古美術品の闇市場に出回り、だれかが所有していることになる。なんと罰当たりな、というか、これこそまさしくファラオに呪われてもしかたないように思うんですけれどもね。
2007年11月10日
突然の展開に驚いた
なにがって、あのツタンカーメン(トゥト・アンク・アメン)王のミイラが公開展示されている!! あまりに突然の展開でこちらは驚くほかない(いまさっきBBC Radio2のYCOYオンデマンド再放送を聴いてみたら、番組直前のニュースでツタンカーメン王のミイラ公開のニュースが報じられていたことにいまごろ気づいたorz)。
仕掛け人は例の「出たがり博士」、エジプト考古最高評議会議長ザヒ・ハワス博士。このほど2年にわたる米国でのツタンカーメン関連展がぶじ終わって、こんどは英国ロンドンにてふたたび展示されるらしい。そんな関係なのか、いまさっきBBCのサイトを見たら王の亡骸が石英でできた巨大な石棺から運び出されるようすの生中継映像が出てきました。一部民放のニュースでも放映していたみたいですが、あいにく見逃した。おそらくはこのBBCの映像とおんなじものが流れたと察します。
それにしてもなぜいま、唐突に王のミイラ公開なのか。ハワス博士によると、2年前のCTスキャン以降、王の「きわめてもろい」ミイラの保存修復作業がこのほど終わったので、カイロ・エジプト博物館のほかの王たちのミイラ同様、温度・湿度管理を厳重に設定した透明ケースへと移すことにしたんだとか。このまま石棺内に放置しておけば、詰めかける観光客の湿気と人いきれのせいで「石室内湿度が上昇し、(石棺に入れたままでは)ミイラが塵と化す恐れがあった。ミイラで唯一良好なのは王の顔だ。顔だけでも守らなければならない」*。で、塵と消えないうちに、ハワード・カーターが墓の降下階段の最初の段を発見してからちょうど 85 年にあたる 11月4 日を選んで、ミイラ移動作戦を実行に移したという。ツタンカーメン王のミイラの入った木箱を、石棺内に安置されている第一人型棺からロープを渡して( ! なんだかずいぶん危なっかしい取り出し方…)取り出し、みんなでかついで玄室床面より1.5 m ほど高い「控えの間」に運び出し、そこにあらたに設置された透明ケースにミイラを入れ、晴れて王とご対面! とあいなる(→AFP通信社サイト、NYTimesの関連記事)。
たしかに博士の説明はもっともだとは思うけれども、玄室そのものを空調管理することはできないのだろうか? 石棺ごと透明アクリル板かなんかで覆って、温度と湿度管理をして…ではだめなんだろうか? 玄室の鮮やかな壁画も――高松塚ほどではないが――青カビがはびこっているという話を聞いていますし。ミイラはよしとしても、地下墳墓そのものが危ないような気がします。たしか以前、王家の谷が土砂降りに見舞われたとき、ツタンカーメン王墓が水没してしばらくのあいだ閉鎖されたことがありましたし。「みんな、王がどんな顔立ちなのか夢想している。…彼の美しい出っ歯とともに、観光客はこのゴールデンボーイの微笑を見出すだろう」。ハワス博士の言動を見ていると、なんかこう、「みんなをあッと言わせる話題作り」をしてはエジプトに外貨を落としてもらおうみたいな姿勢が強いような気がするのはこちらがそういううがった目で見ているからだろうか。またハワス博士は考古学者であって、ミイラのエキスパートである古病理学者ではない。なので古病理学の専門家が王のミイラはいまの石棺から防湿透明ケースに移すべきだと主張して、最高責任者の博士がその主張を受け入れたものと信じます。The Independent紙関連記事を見ますと、カナダから来たという夫婦はハワス博士の「読み」どおりの受けこたえでしたが、やはりかならずしも突然のミイラ公開をすなおに喜ぶ声だけではないようで。
'I really think he should be left alone in quiet, in peace,' said Bob Philpotts, a British tourist. 'This is his resting place, and he should be left.'
同感ですね…と言っておきながら、同時に「王の顔を拝みたい」という俗物根性がふつふつと頭をもたげてしまう、まったくもってアンビヴァレントな自分がいるorz( 苦笑 )。ハワス博士の術中にハマってしまった感なきにしもあらず。
それと、いまひとつおおいに気がかりなのはセキュリティ面の問題。どう見てもあの透明な保護ケースはヤワそうだし、王のかけがえのないミイラはほんとにあれで大丈夫なんだろうか??? どっしりした石棺(sarcophagus、このギリシャ語起源のことばのもともとの意味は「肉+食べる」で文字どおり石の柩が死体の肉を喰らっていたという想像から。ふつう化粧や浮き彫りの施された豪華な石棺を指して使われます)の中のほうがやはり理想的なような気がしますが、いまの王家の谷の警備状況ってどうなんでしょうね。10年ほど前にはハトシェプスト女王葬祭殿でテロリストどもに観光客がおおぜい殺されるという悲惨な事件も起きていますし。こちらも当方の杞憂で終わればいいんですけれども。
*...The Independentに寄稿した大英博物館古代エジプト・スーダン部の先生によると、今回の措置は「ツタンカーメン王墓は谷の王墓中最小規模で、この狭い空間におおぜいの見物人が入れば地下墳墓内はすぐに蒸し暑くなる。この湿気が蒸発したあとに残る塩分が結晶化し、それが王の亡骸に損傷をあたえる恐れがある」と指摘していました(→記事)。
来年5月に壁画の修復
仕掛け人は例の「出たがり博士」、エジプト考古最高評議会議長ザヒ・ハワス博士。このほど2年にわたる米国でのツタンカーメン関連展がぶじ終わって、こんどは英国ロンドンにてふたたび展示されるらしい。そんな関係なのか、いまさっきBBCのサイトを見たら王の亡骸が石英でできた巨大な石棺から運び出されるようすの生中継映像が出てきました。一部民放のニュースでも放映していたみたいですが、あいにく見逃した。おそらくはこのBBCの映像とおんなじものが流れたと察します。
それにしてもなぜいま、唐突に王のミイラ公開なのか。ハワス博士によると、2年前のCTスキャン以降、王の「きわめてもろい」ミイラの保存修復作業がこのほど終わったので、カイロ・エジプト博物館のほかの王たちのミイラ同様、温度・湿度管理を厳重に設定した透明ケースへと移すことにしたんだとか。このまま石棺内に放置しておけば、詰めかける観光客の湿気と人いきれのせいで「石室内湿度が上昇し、(石棺に入れたままでは)ミイラが塵と化す恐れがあった。ミイラで唯一良好なのは王の顔だ。顔だけでも守らなければならない」*。で、塵と消えないうちに、ハワード・カーターが墓の降下階段の最初の段を発見してからちょうど 85 年にあたる 11月4 日を選んで、ミイラ移動作戦を実行に移したという。ツタンカーメン王のミイラの入った木箱を、石棺内に安置されている第一人型棺からロープを渡して( ! なんだかずいぶん危なっかしい取り出し方…)取り出し、みんなでかついで玄室床面より1.5 m ほど高い「控えの間」に運び出し、そこにあらたに設置された透明ケースにミイラを入れ、晴れて王とご対面! とあいなる(→AFP通信社サイト、NYTimesの関連記事)。
たしかに博士の説明はもっともだとは思うけれども、玄室そのものを空調管理することはできないのだろうか? 石棺ごと透明アクリル板かなんかで覆って、温度と湿度管理をして…ではだめなんだろうか? 玄室の鮮やかな壁画も――高松塚ほどではないが――青カビがはびこっているという話を聞いていますし。ミイラはよしとしても、地下墳墓そのものが危ないような気がします。たしか以前、王家の谷が土砂降りに見舞われたとき、ツタンカーメン王墓が水没してしばらくのあいだ閉鎖されたことがありましたし。「みんな、王がどんな顔立ちなのか夢想している。…彼の美しい出っ歯とともに、観光客はこのゴールデンボーイの微笑を見出すだろう」。ハワス博士の言動を見ていると、なんかこう、「みんなをあッと言わせる話題作り」をしてはエジプトに外貨を落としてもらおうみたいな姿勢が強いような気がするのはこちらがそういううがった目で見ているからだろうか。またハワス博士は考古学者であって、ミイラのエキスパートである古病理学者ではない。なので古病理学の専門家が王のミイラはいまの石棺から防湿透明ケースに移すべきだと主張して、最高責任者の博士がその主張を受け入れたものと信じます。The Independent紙関連記事を見ますと、カナダから来たという夫婦はハワス博士の「読み」どおりの受けこたえでしたが、やはりかならずしも突然のミイラ公開をすなおに喜ぶ声だけではないようで。
'I really think he should be left alone in quiet, in peace,' said Bob Philpotts, a British tourist. 'This is his resting place, and he should be left.'
同感ですね…と言っておきながら、同時に「王の顔を拝みたい」という俗物根性がふつふつと頭をもたげてしまう、まったくもってアンビヴァレントな自分がいるorz( 苦笑 )。ハワス博士の術中にハマってしまった感なきにしもあらず。
それと、いまひとつおおいに気がかりなのはセキュリティ面の問題。どう見てもあの透明な保護ケースはヤワそうだし、王のかけがえのないミイラはほんとにあれで大丈夫なんだろうか??? どっしりした石棺(sarcophagus、このギリシャ語起源のことばのもともとの意味は「肉+食べる」で文字どおり石の柩が死体の肉を喰らっていたという想像から。ふつう化粧や浮き彫りの施された豪華な石棺を指して使われます)の中のほうがやはり理想的なような気がしますが、いまの王家の谷の警備状況ってどうなんでしょうね。10年ほど前にはハトシェプスト女王葬祭殿でテロリストどもに観光客がおおぜい殺されるという悲惨な事件も起きていますし。こちらも当方の杞憂で終わればいいんですけれども。
*...The Independentに寄稿した大英博物館古代エジプト・スーダン部の先生によると、今回の措置は「ツタンカーメン王墓は谷の王墓中最小規模で、この狭い空間におおぜいの見物人が入れば地下墳墓内はすぐに蒸し暑くなる。この湿気が蒸発したあとに残る塩分が結晶化し、それが王の亡骸に損傷をあたえる恐れがある」と指摘していました(→記事)。
来年5月に壁画の修復
2007年10月06日
修道院と聖堂参事会
ふたたび備忘録がわりの覚え書き。西方教会とくに中世イングランドにおける、修道士と在俗の聖職者組織である聖堂参事会員の関係についてすこしだけ。
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西暦597年6月、聖コルンバ(コルムキル)はみずから建てたアイオナ島の修道院内礼拝堂で真夜中の日課のとき、祭壇前で法悦状態となり、仲間の修道士に洗礼を施したあとに天に召されたと伝えられている。ちょうどときおなじくして、アイオナのはるか南、イングランド・ケントの東岸に浮かぶ小島サネット(Isle of Thanet)に教皇大グレゴリウス1世が派遣したオーガスティン率いる宣教団が上陸、ブリテン諸島にはじめてローマカトリック教会の地歩を築きはじめた。北のスコットランドや南西部ウェールズではすでに修道院を中心にすえるアイルランド人のケルトキリスト教が根付いていたが、ウェールズのケルト人聖職者は自分たちを追いやった侵入者であるデーン人やアングル人、サクソン人を嫌っていて宣教活動をしなかった。ケント王エセルバートは妻ベリータがすでにカトリック教徒だったこともあり、王もオーガスティンから受洗し、カトリック教徒となった。このときロンドンにイングランド最初の司教座が置かれたものの、ここを拠点としての布教活動は成功せず、けっきょくカンタベリーに設立されたオーガスティン修道院に「全イングランドの」司教座が置かれることになる(現在の英国国教会総本山カンタベリー大聖堂は廃墟となった修道院跡地の近くに建つ)。
このころローマカトリック教会はガリアなどローマ帝国植民地内で司教を頂点とする教区制度を確立、信徒の司牧は彼ら在俗聖職者たちの仕事になった。都市が発達しつつあった大陸ではローマ教皇以下階級化された聖職者集団が各教区を割り当てられ、また蛮族の王たちも彼らをうまく取り込んだほうが都合がよかった。同時に「清貧・貞潔・従順」の修道誓願に束縛される「修道士」も彼ら在俗聖職者とともに存在した。パコミオスのはじめた共住修道制度は地中海のレランス島の修道院を経由してミラノやガリアのトゥールにもたらされ、やがてそれは遠くアイルランドにまで波及する。当時のアイルランドは群雄割拠する小王国の集まりで、都市さえないありさま、そんな状態では西方教会側の司教を頂く教区制度は馴染めず、けっきょく牧畜中心の小村落そのままの修道院集落となり、各地の領主一門が修道院長を兼任する場合も多く見られた。
大陸では西ローマ帝国滅亡の混乱のさなか、アイルランドやブリテン諸島から宣教団が上陸、道徳的に退廃していた当地の教会建て直しに貢献するとともに、各地に修道院をつぎつぎと建てていった。その代表格が聖コルンバヌスやイングランドの修道院育ちの聖ボニファティウスだったが、とくにコルンバヌスはガリア各地で司教たちと衝突、ガリアから追い出されたりもした。このころ各地の修道院では独自の「規則」が存在しており、コルンバヌスもみずから修道規則をものしている。とはいえ「上長に口答えしたら鞭打ち50回」とか度を過ぎた節食とか、あまりに過酷な懲罰をふくむ彼の修道規則は極端すぎて、もっと中庸かつ常識的な規則が必要とされてもいた。またアイルランド人修道士に特有の「遍歴」も批判にさらされるようになり、大陸の修道制はしだいに「一箇所への定住」を求められるようになる。「ベネディクトゥス会則(戒律)」がしだいに西欧の修道制度でひろく採用されはじめたのはそんな時代背景も影響した*。6世紀末ごろにはローマで、尊者ベーダの記述によれば8世紀までにはイングランドで、そして12世紀にはモン・サン・ミッシェルでもこの「ベネディクトゥス戒律(以下、戒律)」に従う修道院が出現した。ローマ教皇側からすれば、この「戒律」は修道院共同体を自分の配下に置くという点において好都合だった。こうして在俗聖職者と修道士は方向性は異なるもののともにおなじローマ教皇を頂点に頂く西方教会の組織に組み込まれ、それゆえ世俗の権力闘争に巻き込まれることも多くなったり、また在俗信徒にすぎない領主一門が修道院と所領を私物化するなど、しだいに修道制度そのものが堕落してゆく。修道院の世俗化に歯止めをかけるべく大陸では改革の動きがひろまった。最初の波は11世紀のブルゴーニュ・クリュニーから、つづいて12世紀にはシトー会が設立され、ともに教皇直属の修道会として隆盛を誇る。クリュニーもシトーも改革修道会だったが、クリュニー系修道院はあまりに典礼重視で華美な傾向に走り、教皇直属組織ということで世俗権力の干渉も受けず、結果的に富の蓄積を招くという皮肉な結果に陥った。これを批判した勢力は「聖ベネディクトゥスの理想に帰れ」を旗印に掲げて当時未開の地だったシトーに修道院を創設、こちらは典礼重視のクリュニーとは反対に質素・倹約、修道士の労働を重視した(音楽史から見ると、トロープスやセクエンツィアといった歌唱形式は典礼重視のクリュニー系修道院で発達したもので、オルガヌムなど初期多声音楽の発達へとつながる)。
800年、カール大帝がローマ教皇レオ3世から西ローマ帝国皇帝として戴冠して以降、世俗王権側はその正当性を後ろ盾するものとして、教会側は宣教拡大の手段として、たがいにその力を利用しあうようになる。教皇は西欧における事実上のキング・メーカーになった。修道制度が俗人修道院長をいただくなど堕落していた8世紀、同様に堕落していた在俗の聖職者たちのあいだからも改革運動の声があがり、一部は「使徒たちの生き方(Vita Apostolica)に倣え」と主張。カールの父ピピンがフランク王だったとき、メッツ(現在のロレーヌ地方メス)司教でピピンの近親でもあるクロデガングは755年ごろに自分の司教座聖堂の聖職者のために「戒律」をアレンジした34項目からなる独自の規則(Regula Canonicorum)を制定したり、816年にはアーヘンでおこなわれた帝国会議における取り決め(「アーヘンの参事会員規定」)などにより、聖堂運営と司牧にあたる参事会員にも修道士にかなり近い「規則」で拘束するようになる。この動きはカール大帝の時代にフランク帝国全土にひろまった。
初期教会時代には修道士も在俗聖堂参事会員もともに共同体をなしていたが、後者は雑事が増えるとともに若年者の面倒がみられない、あるいは聖職録保持者という名目のみでじっさいには聖堂にとどまっていない「幽霊」参事会員が増えるなどして急速にすたれていった。またフランク王国の分裂以後、聖職売買が横行したり、皇帝が教皇選挙権を牛耳ったりと西方教会じたいが世俗権力の手に握られすっかり弱体化していた。そこで教皇レオ9世みずから教会改革に乗り出した。グレゴリウス7世の在位期間中に頂点に達する一連の改革運動の結果、清貧と隠修士的な理想を求めたプレモントレ会やカントゥジオ(シャルトルーズ)会などが成立する。教皇グレゴリウス7世は、それまでの「古い」規則であるクロデガングの参事会員規則やアーヘンの規則ではもはや不十分と考え、在俗の聖堂参事会にたいしては「アウグスティヌス会則」と呼ばれる、聖アウグスティヌスがヒッポの男女聖職者に宛てたと伝えられる一連の書簡をもとに再構成した規則をあらたに制定した(アウグスティヌスの真筆と推定されるのは一通のみらしく、結果的に「戒律」とは異なり各地の参事会で内容にかなりのバラつきがあった)。この「会則」に従う聖堂参事会員は修道士と同等とみなされて「律修」参事会員と呼ばれるようになり、11世紀以後、おもだった都市大聖堂を運営する組織も従来の在俗聖堂参事会(Secular Canons)、アウグスティヌス会則にもとづき誓願を立てたアウグスティノ律修参事会(Regular Canons)、そして共住聖職者教会(修礼教会、Collegiate Church)とに分かれるようになる。
いっぽうイングランドではベネディクト会修道院が発展していた関係上、同会の修道院ならびに司祭でもある修道士が運営する「大聖堂修道院Cathedral Monastery」が独自に発達した。聖堂を運営するのが在俗聖職者のときはその聖堂は「司祭参事会聖堂」、「アウグスティヌス会則」に従うアウグスティノ律修参事会員のときは「修道参事会聖堂」と呼ばれる。中世イングランド各地の大聖堂のうち約半数がベネディクト会修道士司祭の司牧する「修道院付属の大聖堂」もしくは「大聖堂として機能していた修道院」だった。また970年ごろ、ウィンチェスター司教エセルウォルドら3人の司教が開催した教会会議で、「戒律」を下敷きにRegularis Concordiaと呼ばれる修道士・修道女向けの規定を独自に編纂してもいる。
以下、中世イングランド司教座つき聖堂のおおまかな内訳。
1). 在俗司祭参事会運営の大聖堂:エクセター、チチェスター、バンゴール、ソールズベリ、ヘレフォード、リンカーン、ヨーク、ロンドン(セントポール)、ウェルズ、リッチフィールド。
2). ベネディクト会運営の大聖堂修道院または修道院付属聖堂:カンタベリー、ダラム、イーリー、ノリッジ、ロチェスター、ウィンチェスター、ウースター、チェスター、グロスター、テュークスベリー、ピーターバラ、セントオールバンズ、ラムジー(女子修道院)など。
3). アウグスティノ律修参事会運営の修道参事会聖堂:ブリストル、ヘクサム、セントフライズワイド(現オックスフォード・クライストチャーチ)、サザック、カーライルなど。
4). 司教座のない、たんなる共住聖職者教会:ペヴァーリミンスター、サズルミンスター、リポンミンスター、ベリーセントエドマンズ。
* …「戒律」が事実上の修道会則の標準になったあとも、従来の修道規則との混合規則だったり、また「戒律」の精神を受け継いだクリュニー系修道院では独自に条項を追加するなどしたため、厳密な意味では「唯一絶対の」修道規則というわけではなかった。おなじベネディクト会修道院でも大陸とイングランドではその内容が異なっていたりと、「戒律」普及の歩みはきわめて遅かった。
*... いちおう参考文献など(一部書籍は本家サイト「参考文献」ページ掲載のものとダブっています)。このほかにも記事作成のさい参照したWebサイトや雑多な切り抜き・コピーあり。
今野國雄著『修道院――祈り禁欲・労働の源流』岩波書店、1981.
朝倉文市著『修道院』講談社現代新書、1995.
ライオンパブリッシャーズ編『キリスト教2000年史』井上政己監訳 いのちのことば社、2000.
トマス・ケイヒル著/森夏樹訳『聖者と学僧の島』青土社、1997.
ポール・ジョンソン著/別宮貞徳監訳『キリスト教の二〇〇〇年 上巻』共同通信社刊、1999.
Alan Mould, 'The English Chorister: A History', Hambledon Pr., 2007.
J.ハーパー著/佐々木勉・那須輝彦訳『中世キリスト教の典礼と音楽』教文館、2000.
『ルネッサンス・バロック音楽の世界――バッハへ至る道』芸術現代社 音現ブックス5, 1981.
J.バラクラフ編/上智大学中世思想研究所監修『図説キリスト教文化史 I/II』原書房、1993.
石原孝哉・内田武彦・市川仁著『イギリス大聖堂・歴史の旅』丸善、2005.
今谷和徳著『中世・ルネサンスの社会と音楽』音楽之友社、2006.
K.S.フランク著/戸田聡訳『修道院の歴史――砂漠の隠者からテゼ共同体まで』教文館、2002.
志子田光雄・富壽子著『イギリスの修道院――廃墟の美への招待』研究社、2002.
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西暦597年6月、聖コルンバ(コルムキル)はみずから建てたアイオナ島の修道院内礼拝堂で真夜中の日課のとき、祭壇前で法悦状態となり、仲間の修道士に洗礼を施したあとに天に召されたと伝えられている。ちょうどときおなじくして、アイオナのはるか南、イングランド・ケントの東岸に浮かぶ小島サネット(Isle of Thanet)に教皇大グレゴリウス1世が派遣したオーガスティン率いる宣教団が上陸、ブリテン諸島にはじめてローマカトリック教会の地歩を築きはじめた。北のスコットランドや南西部ウェールズではすでに修道院を中心にすえるアイルランド人のケルトキリスト教が根付いていたが、ウェールズのケルト人聖職者は自分たちを追いやった侵入者であるデーン人やアングル人、サクソン人を嫌っていて宣教活動をしなかった。ケント王エセルバートは妻ベリータがすでにカトリック教徒だったこともあり、王もオーガスティンから受洗し、カトリック教徒となった。このときロンドンにイングランド最初の司教座が置かれたものの、ここを拠点としての布教活動は成功せず、けっきょくカンタベリーに設立されたオーガスティン修道院に「全イングランドの」司教座が置かれることになる(現在の英国国教会総本山カンタベリー大聖堂は廃墟となった修道院跡地の近くに建つ)。
このころローマカトリック教会はガリアなどローマ帝国植民地内で司教を頂点とする教区制度を確立、信徒の司牧は彼ら在俗聖職者たちの仕事になった。都市が発達しつつあった大陸ではローマ教皇以下階級化された聖職者集団が各教区を割り当てられ、また蛮族の王たちも彼らをうまく取り込んだほうが都合がよかった。同時に「清貧・貞潔・従順」の修道誓願に束縛される「修道士」も彼ら在俗聖職者とともに存在した。パコミオスのはじめた共住修道制度は地中海のレランス島の修道院を経由してミラノやガリアのトゥールにもたらされ、やがてそれは遠くアイルランドにまで波及する。当時のアイルランドは群雄割拠する小王国の集まりで、都市さえないありさま、そんな状態では西方教会側の司教を頂く教区制度は馴染めず、けっきょく牧畜中心の小村落そのままの修道院集落となり、各地の領主一門が修道院長を兼任する場合も多く見られた。
大陸では西ローマ帝国滅亡の混乱のさなか、アイルランドやブリテン諸島から宣教団が上陸、道徳的に退廃していた当地の教会建て直しに貢献するとともに、各地に修道院をつぎつぎと建てていった。その代表格が聖コルンバヌスやイングランドの修道院育ちの聖ボニファティウスだったが、とくにコルンバヌスはガリア各地で司教たちと衝突、ガリアから追い出されたりもした。このころ各地の修道院では独自の「規則」が存在しており、コルンバヌスもみずから修道規則をものしている。とはいえ「上長に口答えしたら鞭打ち50回」とか度を過ぎた節食とか、あまりに過酷な懲罰をふくむ彼の修道規則は極端すぎて、もっと中庸かつ常識的な規則が必要とされてもいた。またアイルランド人修道士に特有の「遍歴」も批判にさらされるようになり、大陸の修道制はしだいに「一箇所への定住」を求められるようになる。「ベネディクトゥス会則(戒律)」がしだいに西欧の修道制度でひろく採用されはじめたのはそんな時代背景も影響した*。6世紀末ごろにはローマで、尊者ベーダの記述によれば8世紀までにはイングランドで、そして12世紀にはモン・サン・ミッシェルでもこの「ベネディクトゥス戒律(以下、戒律)」に従う修道院が出現した。ローマ教皇側からすれば、この「戒律」は修道院共同体を自分の配下に置くという点において好都合だった。こうして在俗聖職者と修道士は方向性は異なるもののともにおなじローマ教皇を頂点に頂く西方教会の組織に組み込まれ、それゆえ世俗の権力闘争に巻き込まれることも多くなったり、また在俗信徒にすぎない領主一門が修道院と所領を私物化するなど、しだいに修道制度そのものが堕落してゆく。修道院の世俗化に歯止めをかけるべく大陸では改革の動きがひろまった。最初の波は11世紀のブルゴーニュ・クリュニーから、つづいて12世紀にはシトー会が設立され、ともに教皇直属の修道会として隆盛を誇る。クリュニーもシトーも改革修道会だったが、クリュニー系修道院はあまりに典礼重視で華美な傾向に走り、教皇直属組織ということで世俗権力の干渉も受けず、結果的に富の蓄積を招くという皮肉な結果に陥った。これを批判した勢力は「聖ベネディクトゥスの理想に帰れ」を旗印に掲げて当時未開の地だったシトーに修道院を創設、こちらは典礼重視のクリュニーとは反対に質素・倹約、修道士の労働を重視した(音楽史から見ると、トロープスやセクエンツィアといった歌唱形式は典礼重視のクリュニー系修道院で発達したもので、オルガヌムなど初期多声音楽の発達へとつながる)。
800年、カール大帝がローマ教皇レオ3世から西ローマ帝国皇帝として戴冠して以降、世俗王権側はその正当性を後ろ盾するものとして、教会側は宣教拡大の手段として、たがいにその力を利用しあうようになる。教皇は西欧における事実上のキング・メーカーになった。修道制度が俗人修道院長をいただくなど堕落していた8世紀、同様に堕落していた在俗の聖職者たちのあいだからも改革運動の声があがり、一部は「使徒たちの生き方(Vita Apostolica)に倣え」と主張。カールの父ピピンがフランク王だったとき、メッツ(現在のロレーヌ地方メス)司教でピピンの近親でもあるクロデガングは755年ごろに自分の司教座聖堂の聖職者のために「戒律」をアレンジした34項目からなる独自の規則(Regula Canonicorum)を制定したり、816年にはアーヘンでおこなわれた帝国会議における取り決め(「アーヘンの参事会員規定」)などにより、聖堂運営と司牧にあたる参事会員にも修道士にかなり近い「規則」で拘束するようになる。この動きはカール大帝の時代にフランク帝国全土にひろまった。
初期教会時代には修道士も在俗聖堂参事会員もともに共同体をなしていたが、後者は雑事が増えるとともに若年者の面倒がみられない、あるいは聖職録保持者という名目のみでじっさいには聖堂にとどまっていない「幽霊」参事会員が増えるなどして急速にすたれていった。またフランク王国の分裂以後、聖職売買が横行したり、皇帝が教皇選挙権を牛耳ったりと西方教会じたいが世俗権力の手に握られすっかり弱体化していた。そこで教皇レオ9世みずから教会改革に乗り出した。グレゴリウス7世の在位期間中に頂点に達する一連の改革運動の結果、清貧と隠修士的な理想を求めたプレモントレ会やカントゥジオ(シャルトルーズ)会などが成立する。教皇グレゴリウス7世は、それまでの「古い」規則であるクロデガングの参事会員規則やアーヘンの規則ではもはや不十分と考え、在俗の聖堂参事会にたいしては「アウグスティヌス会則」と呼ばれる、聖アウグスティヌスがヒッポの男女聖職者に宛てたと伝えられる一連の書簡をもとに再構成した規則をあらたに制定した(アウグスティヌスの真筆と推定されるのは一通のみらしく、結果的に「戒律」とは異なり各地の参事会で内容にかなりのバラつきがあった)。この「会則」に従う聖堂参事会員は修道士と同等とみなされて「律修」参事会員と呼ばれるようになり、11世紀以後、おもだった都市大聖堂を運営する組織も従来の在俗聖堂参事会(Secular Canons)、アウグスティヌス会則にもとづき誓願を立てたアウグスティノ律修参事会(Regular Canons)、そして共住聖職者教会(修礼教会、Collegiate Church)とに分かれるようになる。
いっぽうイングランドではベネディクト会修道院が発展していた関係上、同会の修道院ならびに司祭でもある修道士が運営する「大聖堂修道院Cathedral Monastery」が独自に発達した。聖堂を運営するのが在俗聖職者のときはその聖堂は「司祭参事会聖堂」、「アウグスティヌス会則」に従うアウグスティノ律修参事会員のときは「修道参事会聖堂」と呼ばれる。中世イングランド各地の大聖堂のうち約半数がベネディクト会修道士司祭の司牧する「修道院付属の大聖堂」もしくは「大聖堂として機能していた修道院」だった。また970年ごろ、ウィンチェスター司教エセルウォルドら3人の司教が開催した教会会議で、「戒律」を下敷きにRegularis Concordiaと呼ばれる修道士・修道女向けの規定を独自に編纂してもいる。
以下、中世イングランド司教座つき聖堂のおおまかな内訳。
1). 在俗司祭参事会運営の大聖堂:エクセター、チチェスター、バンゴール、ソールズベリ、ヘレフォード、リンカーン、ヨーク、ロンドン(セントポール)、ウェルズ、リッチフィールド。
2). ベネディクト会運営の大聖堂修道院または修道院付属聖堂:カンタベリー、ダラム、イーリー、ノリッジ、ロチェスター、ウィンチェスター、ウースター、チェスター、グロスター、テュークスベリー、ピーターバラ、セントオールバンズ、ラムジー(女子修道院)など。
3). アウグスティノ律修参事会運営の修道参事会聖堂:ブリストル、ヘクサム、セントフライズワイド(現オックスフォード・クライストチャーチ)、サザック、カーライルなど。
4). 司教座のない、たんなる共住聖職者教会:ペヴァーリミンスター、サズルミンスター、リポンミンスター、ベリーセントエドマンズ。
* …「戒律」が事実上の修道会則の標準になったあとも、従来の修道規則との混合規則だったり、また「戒律」の精神を受け継いだクリュニー系修道院では独自に条項を追加するなどしたため、厳密な意味では「唯一絶対の」修道規則というわけではなかった。おなじベネディクト会修道院でも大陸とイングランドではその内容が異なっていたりと、「戒律」普及の歩みはきわめて遅かった。
*... いちおう参考文献など(一部書籍は本家サイト「参考文献」ページ掲載のものとダブっています)。このほかにも記事作成のさい参照したWebサイトや雑多な切り抜き・コピーあり。
今野國雄著『修道院――祈り禁欲・労働の源流』岩波書店、1981.
朝倉文市著『修道院』講談社現代新書、1995.
ライオンパブリッシャーズ編『キリスト教2000年史』井上政己監訳 いのちのことば社、2000.
トマス・ケイヒル著/森夏樹訳『聖者と学僧の島』青土社、1997.
ポール・ジョンソン著/別宮貞徳監訳『キリスト教の二〇〇〇年 上巻』共同通信社刊、1999.
Alan Mould, 'The English Chorister: A History', Hambledon Pr., 2007.
J.ハーパー著/佐々木勉・那須輝彦訳『中世キリスト教の典礼と音楽』教文館、2000.
『ルネッサンス・バロック音楽の世界――バッハへ至る道』芸術現代社 音現ブックス5, 1981.
J.バラクラフ編/上智大学中世思想研究所監修『図説キリスト教文化史 I/II』原書房、1993.
石原孝哉・内田武彦・市川仁著『イギリス大聖堂・歴史の旅』丸善、2005.
今谷和徳著『中世・ルネサンスの社会と音楽』音楽之友社、2006.
K.S.フランク著/戸田聡訳『修道院の歴史――砂漠の隠者からテゼ共同体まで』教文館、2002.
志子田光雄・富壽子著『イギリスの修道院――廃墟の美への招待』研究社、2002.
2007年06月16日
ホクレア号に乗ってきました
先日、快晴の横浜・みなとみらい21地区の通称「ぷかり桟橋」に接岸中の、ポリネシア航海協会の古代船ホクレア号に体験乗船してきました(→横浜市のホクレア号サイト)。古代船好き、帆船好きとしては、雨が降ろうがヤリが降ろうがこの目で見なくては! と思っていたので、ラッキーでした。
ぷかり桟橋に着いてまずびっくりしたのは、古代船そのものではなくて、でかいクラゲがそれこそウヨウヨ、浮いたり沈んだり、ふくらんだりしぼんだりしていたこと。クラゲって海水温が高い真夏に出るもの…と思っていたので、6月でもうこんなにいる! とさっそく撮影(もちろんホクレアもいっぱい撮りました)。このへんは初代日本丸を係留してある場所がかつての横浜船渠跡だし、海水の循環が悪いのか、温排水のせいでこんなに大量発生したのかも…と思った。
みなとみらいはもっぱらコンサート詣で、音楽ホールのほうばっかりで目前の海のほうには出かけたこともなく、「ぷかり桟橋」ももちろんはじめて。なんで「ぷかり…」なのかは現地に行ってみて謎が解けた。なんとこれ「浮き桟橋」なのです…で、横浜港遊覧船とかの乗り場も兼ねた建物がその上に乗っているのですが、当然、海の上にそのまんまぷかぷか浮いている(!)ので、建物もゆさゆさと微妙に揺れていました。時化のときは閉鎖するのかな? 整理券をもらって乗船待ちのあいだ、この浮き桟橋はけっこう揺れてました。すぐ船酔いする向きにはつらいかも(自分は船の揺れには強いほう。ついでに縦揺れはpitch、横揺れはroll ですね)。しかも2階はシーフードレストラン…なんか落ち着かんなー(笑)。
…そう言えばホクレア号が「ぷかり桟橋」に接岸してほどなくして、一隻のクルージングヨットがホクレアを見にやってきた。やってきたはいいが、突然の機関故障に見舞われたらしく、なんとホクレアのすぐわきをかすめて、乗船券売り場の建物がぷかぷか浮いている桟橋に衝突(!)したというのです…自分が来たときには建物前の鉄の手すりがひしゃげていて、びっくりした。しかも「危険」と書かれた張り紙が一枚、貼られていただけ、ホクレアを見に来た人たちはとくに気にすることなく手すりによりかかって眺めてました(苦笑)。
乗船の順番待ちのとき、すぐ目前を黒々と日焼けしたナイノア・トンプソン氏がにこやかに通り過ぎていきました。おおナイノア氏を間近で見られるとはこれまたラッキー。
さて順番が回ってきまして、まずはホクレアについてのレクチャーから。'キモ'・ヒューゴさんという方が船に使われている木材や滑車の材料、昔はヤシの繊維からセイルを作っていたこと、羅針盤を使わない伝統航海術についていろいろ教えてくれました(公式blog 邦訳を担当されている加藤先生のblog も参照)。
ホクレアはニ艘のカヌーを真ん中のデッキで連結したかっこうの双胴帆船(カタマラン)なので、おなじ古代船でもたんなる「帆かけ舟」であるブレンダン号とくらべるとはるかにがっちりして、安定感のある船体だなというのが第一印象。全長も20mくらいあり、ブレンダンのおよそ倍。干潮…だったせいか、桟橋から乗船するときはちょっとこわかったけれども、たくましく日焼けしたホクレアのクルー(かな?)のアシストでぶじ船上の人に。
ホクレア船上では、みんなといっしょに、サングラスをかけた若いクルーの方の説明をふんふんと聞き入りました…かつてこの手の帆船で島伝いに航海していた時代、寄港するたびに船名を新しく変えていた慣習があったこと、両舷の落水防止用の手すりに見える長い木材は、強風時、マストがへし折れた場合のスペアとして使うこと、またそのすぐ直下、防水シート(トラックに使われる帆布? に見えた)の下がキャビン…というか寝床になっているとか。艤装…も間近で見たには見たけれど、セイルを上げ下げするハリヤードと、マストに何箇所か開いた索通し穴に、きちんと――shipshape & Bristol fashion! ――畳まれた赤っぽいクラブクロウセイルだけは確認したけれど、これがじっさいにどのように展帆されるのかまではイメージがつかめませんでしたorz。グラスファイバーの船体同様、セイルの材質も現代ふうでした(自分たちが立っているデッキは木材)。二本のマストの中間には、galley つまり調理用のコンロをおさめた大きな容器がでんと鎮座していました。ここでめいめいが食事を取るのかな。貴重な飲料水の入った容器もいくつかありました(portable water だったかな、そんなふうに書いてあった)あとこれは古代船にかぎらず帆船の特徴ですが、とにかくロープがあっちこっちにとぐろを巻いています。自分はせいぜい「もやい結び」くらいしか知らないが…。ちなみにこのホクレア、船体には釘はいっさい使われていません。すべてロープで連結されています。
船尾方向へ移動して、べつのクルーからさらに説明を受けます。かんじんかなめの舵(rudder)はどうなってんのかと思ったら、ちょうど船尾の真ん中あたりで巨大なブレードが海中へと伸びていました…そして両舷にもサイドラダー(?)みたいな補助の舵がくっついてました。ふたつの胴体から天に突き出す船尾には、それぞれ男女の神様の彫像が船を見守っていました。それと航海灯と、双胴にまたがるように張られたネット上に発電用の太陽電池パネルが乗ってました。ためしに真ん中のメインラダーを動かしてみると重い!! 時化のときは文字どおり腕が折れそう…orz。それとこの船はすべて昔ながらの技術で帆走するということからだろうか、ブレンダン号みたいな「曳航測定器 patent log」が見当たらなかった。船脚は、ロープの端に結びつけた木片を投じて測るのかな?? でもなぜか「龍角散 のど飴」の袋だけはぞんざいに置いてありました(笑)。
しばらく写真を撮っていたら、クルーのひとりがやおらホラ貝(?)を吹きはじめました…気がついたらちいさなお孫さん連れのおじいさんと自分以外の見学客はとっくに桟橋に引き揚げてました…撮影に夢中になってしまって、時間切れに気づかなかった。われに返ってあわてて下船! またさっきの筋骨隆々な方が桟橋へと引っぱり揚げてくれたので、ほんとは 'Thank you for showing us your wonderful sailing vessel!' とかもうすこし気の利いたことばをかけたかったのですが、アワ食ってしまってけっきょく'Thank you!' としか言えませんでした。orz
船上で通訳してくれた方は日本人クルーのひとりで、なんと女性の方でした(こちらを参照)。
ホクレア号はハワイから8,000マイルの海路を越え、149日間にもおよぶ長期航海を終えてぶじこの島国に到着したわけですが、それにしても羅針盤なし、海図なしでよくこんな航海ができるものだとあらためて感心することしきりでした。
ホクレア号はこのあとマストなど艤装品を解体したあと、日本郵船のコンテナ船に乗せられて故国まで無償で輸送されるとのことです(→日本郵船のホクレア号サイト。またこちらのblogにもホクレア関連の記事があります。ここのblog はよくわからんけれど、お題のとおり太平洋に浮かぶ島々に住むblogger が交替で執筆しているblog らしい。日本の記事もたくさんあります)。
ホクレア号についてはすばらしい写真満載のblog があるのでここでも紹介しておきます(福山市の打瀬船もすばらしい。セイルはいわゆるジャンクセイルですね。これが最後の一隻…とはなんとも残念)。
↓当日撮ったうちのいくつか。
追記。先日(7月1日)、ホクレア号はぶじホノルル港に到着したようです。

ぷかり桟橋に着いてまずびっくりしたのは、古代船そのものではなくて、でかいクラゲがそれこそウヨウヨ、浮いたり沈んだり、ふくらんだりしぼんだりしていたこと。クラゲって海水温が高い真夏に出るもの…と思っていたので、6月でもうこんなにいる! とさっそく撮影(もちろんホクレアもいっぱい撮りました)。このへんは初代日本丸を係留してある場所がかつての横浜船渠跡だし、海水の循環が悪いのか、温排水のせいでこんなに大量発生したのかも…と思った。
みなとみらいはもっぱらコンサート詣で、音楽ホールのほうばっかりで目前の海のほうには出かけたこともなく、「ぷかり桟橋」ももちろんはじめて。なんで「ぷかり…」なのかは現地に行ってみて謎が解けた。なんとこれ「浮き桟橋」なのです…で、横浜港遊覧船とかの乗り場も兼ねた建物がその上に乗っているのですが、当然、海の上にそのまんまぷかぷか浮いている(!)ので、建物もゆさゆさと微妙に揺れていました。時化のときは閉鎖するのかな? 整理券をもらって乗船待ちのあいだ、この浮き桟橋はけっこう揺れてました。すぐ船酔いする向きにはつらいかも(自分は船の揺れには強いほう。ついでに縦揺れはpitch、横揺れはroll ですね)。しかも2階はシーフードレストラン…なんか落ち着かんなー(笑)。
…そう言えばホクレア号が「ぷかり桟橋」に接岸してほどなくして、一隻のクルージングヨットがホクレアを見にやってきた。やってきたはいいが、突然の機関故障に見舞われたらしく、なんとホクレアのすぐわきをかすめて、乗船券売り場の建物がぷかぷか浮いている桟橋に衝突(!)したというのです…自分が来たときには建物前の鉄の手すりがひしゃげていて、びっくりした。しかも「危険」と書かれた張り紙が一枚、貼られていただけ、ホクレアを見に来た人たちはとくに気にすることなく手すりによりかかって眺めてました(苦笑)。
乗船の順番待ちのとき、すぐ目前を黒々と日焼けしたナイノア・トンプソン氏がにこやかに通り過ぎていきました。おおナイノア氏を間近で見られるとはこれまたラッキー。
さて順番が回ってきまして、まずはホクレアについてのレクチャーから。'キモ'・ヒューゴさんという方が船に使われている木材や滑車の材料、昔はヤシの繊維からセイルを作っていたこと、羅針盤を使わない伝統航海術についていろいろ教えてくれました(公式blog 邦訳を担当されている加藤先生のblog も参照)。
ホクレアはニ艘のカヌーを真ん中のデッキで連結したかっこうの双胴帆船(カタマラン)なので、おなじ古代船でもたんなる「帆かけ舟」であるブレンダン号とくらべるとはるかにがっちりして、安定感のある船体だなというのが第一印象。全長も20mくらいあり、ブレンダンのおよそ倍。干潮…だったせいか、桟橋から乗船するときはちょっとこわかったけれども、たくましく日焼けしたホクレアのクルー(かな?)のアシストでぶじ船上の人に。
ホクレア船上では、みんなといっしょに、サングラスをかけた若いクルーの方の説明をふんふんと聞き入りました…かつてこの手の帆船で島伝いに航海していた時代、寄港するたびに船名を新しく変えていた慣習があったこと、両舷の落水防止用の手すりに見える長い木材は、強風時、マストがへし折れた場合のスペアとして使うこと、またそのすぐ直下、防水シート(トラックに使われる帆布? に見えた)の下がキャビン…というか寝床になっているとか。艤装…も間近で見たには見たけれど、セイルを上げ下げするハリヤードと、マストに何箇所か開いた索通し穴に、きちんと――shipshape & Bristol fashion! ――畳まれた赤っぽいクラブクロウセイルだけは確認したけれど、これがじっさいにどのように展帆されるのかまではイメージがつかめませんでしたorz。グラスファイバーの船体同様、セイルの材質も現代ふうでした(自分たちが立っているデッキは木材)。二本のマストの中間には、galley つまり調理用のコンロをおさめた大きな容器がでんと鎮座していました。ここでめいめいが食事を取るのかな。貴重な飲料水の入った容器もいくつかありました(portable water だったかな、そんなふうに書いてあった)あとこれは古代船にかぎらず帆船の特徴ですが、とにかくロープがあっちこっちにとぐろを巻いています。自分はせいぜい「もやい結び」くらいしか知らないが…。ちなみにこのホクレア、船体には釘はいっさい使われていません。すべてロープで連結されています。
船尾方向へ移動して、べつのクルーからさらに説明を受けます。かんじんかなめの舵(rudder)はどうなってんのかと思ったら、ちょうど船尾の真ん中あたりで巨大なブレードが海中へと伸びていました…そして両舷にもサイドラダー(?)みたいな補助の舵がくっついてました。ふたつの胴体から天に突き出す船尾には、それぞれ男女の神様の彫像が船を見守っていました。それと航海灯と、双胴にまたがるように張られたネット上に発電用の太陽電池パネルが乗ってました。ためしに真ん中のメインラダーを動かしてみると重い!! 時化のときは文字どおり腕が折れそう…orz。それとこの船はすべて昔ながらの技術で帆走するということからだろうか、ブレンダン号みたいな「曳航測定器 patent log」が見当たらなかった。船脚は、ロープの端に結びつけた木片を投じて測るのかな?? でもなぜか「龍角散 のど飴」の袋だけはぞんざいに置いてありました(笑)。
しばらく写真を撮っていたら、クルーのひとりがやおらホラ貝(?)を吹きはじめました…気がついたらちいさなお孫さん連れのおじいさんと自分以外の見学客はとっくに桟橋に引き揚げてました…撮影に夢中になってしまって、時間切れに気づかなかった。われに返ってあわてて下船! またさっきの筋骨隆々な方が桟橋へと引っぱり揚げてくれたので、ほんとは 'Thank you for showing us your wonderful sailing vessel!' とかもうすこし気の利いたことばをかけたかったのですが、アワ食ってしまってけっきょく'Thank you!' としか言えませんでした。orz
船上で通訳してくれた方は日本人クルーのひとりで、なんと女性の方でした(こちらを参照)。
ホクレア号はハワイから8,000マイルの海路を越え、149日間にもおよぶ長期航海を終えてぶじこの島国に到着したわけですが、それにしても羅針盤なし、海図なしでよくこんな航海ができるものだとあらためて感心することしきりでした。
ホクレア号はこのあとマストなど艤装品を解体したあと、日本郵船のコンテナ船に乗せられて故国まで無償で輸送されるとのことです(→日本郵船のホクレア号サイト。またこちらのblogにもホクレア関連の記事があります。ここのblog はよくわからんけれど、お題のとおり太平洋に浮かぶ島々に住むblogger が交替で執筆しているblog らしい。日本の記事もたくさんあります)。
ホクレア号についてはすばらしい写真満載のblog があるのでここでも紹介しておきます(福山市の打瀬船もすばらしい。セイルはいわゆるジャンクセイルですね。これが最後の一隻…とはなんとも残念)。
↓当日撮ったうちのいくつか。
追記。先日(7月1日)、ホクレア号はぶじホノルル港に到着したようです。
2007年03月12日
また快挙
1). ダハシュール北遺跡で早稲田大学古代エジプト調査隊がさきごろ発見した木棺。そのときのもようを民放のクイズ番組で見ました…あいにく木棺が出土したときは隊長の吉村先生はその場に立ち会っていなかったのですが、女性リポーターとTVクルーがちょうど運よくその場にいたおかげで、TVを見ているわれわれも考古学者の味わう興奮をともに体験することができました…あんなふうにすごいものが地中から顔を出せばだれだって興奮しますよね…しかもその瞬間を見ることができるとは。こんなことはめったにありませんね。当面のあいだは木棺の修復が最優先、ということなので、被葬者はだれなのか、という疑問については先送りになりますが、なんといってもツタンカーメン王にわりと近い人物のものらしいトゥーム・チャペルの発見といい、今回あらたに見つかった4つの棺といい(うち中王国時代の木棺にはなんと夫婦のミイラが収められているらしい!)、これからも早稲田隊の動向には目が離せません。それと今回は歴史から忽然と姿を消した(消された)ツタンカーメン王妃(姉さん女房)アンケセナーメンについてもなんと名前の刻印された指輪(!)とか、いろいろ出てきているのでますます興味津々です。考古学的発見、と言えばキリストの家族の墓(?)とかいうものもありましたが、はっきり言ってこっちのほうが根拠もしっかりしているし、おおいに惹かれます。
2). また本題とは関係ないNHK-FM話…でお茶を濁してしまいますが、いまさっき聴いた「ベスト・オヴ・クラシック」。今週は欧州のオケ特集で、第一夜は大野和士指揮スウェーデン放送交響楽団の演奏会のもようをオンエアしてました…最後のマックス・レーガーの「モーツァルトの主題による変奏曲とフーガ 作品132」。これがひじょうによかった! はじめて聴く作品でしたが、モーツァルトの「ピアノ・ソナタ 第11番 イ長調 K.331(トルコ行進曲つき)」の第1楽章の主題を使った変奏と、終わりに新主題との二重フーガを置いた曲でして、モーツァルト的な遊び心とロマン派趣味とがみごとに融合していて聴いていてとても心地よかった。レーガー、と言うと難解かつ厚化粧なオルガン作品というイメージが真っ先に浮かぶけれども(レーガー自身はオルガンがまったく弾けなかった)、クリスマス時期に少年合唱団が好んで取り上げる「マリアの子守歌」のような親しみある旋律の愛らしい小品も書いています。またこちらのDVDに収録されたコラール幻想曲「暁の星はなんと美しく輝くのか」は、全曲通じてオルゲルプンクトを奏するために、鍵の上になんと「おもし」を乗せるという、ユニークな作品もあったり、「きよしこの夜」の旋律が顔を出すクリスマス作品も書いています。
大野さん指揮によるスウェーデン放送交響楽団の演奏は、聴いている人がいま自分がどこにいるのかよくわかる演奏で、いかに変奏旋律に囲まれてもモーツァルトの主題は明瞭に聴こえてくる。二重フーガでの対比もみごとで、一度聴いただけでこの作品が好きになりました。
案内役の岩下氏の言うとおり、レーガーのこの「変奏曲とフーガ」はもっともっと演奏されていいと思う。
2). また本題とは関係ないNHK-FM話…でお茶を濁してしまいますが、いまさっき聴いた「ベスト・オヴ・クラシック」。今週は欧州のオケ特集で、第一夜は大野和士指揮スウェーデン放送交響楽団の演奏会のもようをオンエアしてました…最後のマックス・レーガーの「モーツァルトの主題による変奏曲とフーガ 作品132」。これがひじょうによかった! はじめて聴く作品でしたが、モーツァルトの「ピアノ・ソナタ 第11番 イ長調 K.331(トルコ行進曲つき)」の第1楽章の主題を使った変奏と、終わりに新主題との二重フーガを置いた曲でして、モーツァルト的な遊び心とロマン派趣味とがみごとに融合していて聴いていてとても心地よかった。レーガー、と言うと難解かつ厚化粧なオルガン作品というイメージが真っ先に浮かぶけれども(レーガー自身はオルガンがまったく弾けなかった)、クリスマス時期に少年合唱団が好んで取り上げる「マリアの子守歌」のような親しみある旋律の愛らしい小品も書いています。またこちらのDVDに収録されたコラール幻想曲「暁の星はなんと美しく輝くのか」は、全曲通じてオルゲルプンクトを奏するために、鍵の上になんと「おもし」を乗せるという、ユニークな作品もあったり、「きよしこの夜」の旋律が顔を出すクリスマス作品も書いています。
大野さん指揮によるスウェーデン放送交響楽団の演奏は、聴いている人がいま自分がどこにいるのかよくわかる演奏で、いかに変奏旋律に囲まれてもモーツァルトの主題は明瞭に聴こえてくる。二重フーガでの対比もみごとで、一度聴いただけでこの作品が好きになりました。
案内役の岩下氏の言うとおり、レーガーのこの「変奏曲とフーガ」はもっともっと演奏されていいと思う。
2006年10月22日
「出エジプト記に秘められた真実」後編
NHK教育「地球ドラマチック/出エジプト記の"真実"」後編を見ました…。前回は録画すらしていなかったので、今回はきちんと録画しまして、あらためてじっくり見直してみました(→Wikipediaの記事)。
モーセ率いるイスラエルの民がエジプト軍から逃げるために渡ったとされる「紅海」。これは案内役のドキュメンタリー映画製作者シムカ・ヤコボビッチ氏の指摘するとおり、厳密には誤訳でして、ほんとうは「葦の海」、つまり「湖」だったというのはいまや通説ですが、3500年前の「葦の海」は海とつながっていた「汽水湖」だった、というのは初耳。今回もまた専門家の意見を織り交ぜながら自説を展開していって、おおむね好感のもてる番組でした…たとえば1972年にサントリーニ島から発掘されたという壁画の話や当時のエジプトとギリシャ・ミノア(ミノス)文明とは活発な交流活動があったらしい…というくだりはとても刺激的でした(ちなみに「新共同訳」版ではしっかり「葦の海」と訳されています[13:18, 15:22])。
…でも後編の回にかぎっていえば、仮説の立て方にやや無理があるようにも感じられます…たとえば19世紀、シュリーマンが発掘した有名なミケーネの王墓に建っていた3つの墓石の説明。ヤコボビッチ氏は「虚心坦懐」に見ると、これら3つの墓石に描かれた光景は明らかに「葦の海」が割れてイスラエルの民が歩いて渡り、彼らのあとを追ってきたエジプトの軍勢が大水に呑みこまれるシーンだという。博物館の学芸員によると、墓石に彫られた絵柄は兵士どうしが剣を取って戦う場面、とまったく相反する解釈…もっともこの学芸員のほうも、3つの墓石に描かれたのがなんであるかについては断言できなかったけれども、こうした学芸員の意見を聞いてもヤコボビッチ氏は自説を譲りません。見た感想としては、この点についてはまだまだ調査の余地あり、ヤコボビッチ説にはやや難ありと思う。
それと伝説のシナイ山がどこなのか、というくだり。先日ここでも書いた、聖エカテリニ(カタリナ)修道院を見下ろす花崗岩の山がシナイ山、ということになってはいるけれど、じっさいのところこちらもほんとうの場所はわかってなくて、いくつかある候補のひとつにすぎない。で、「出エジプト記」と「申命記」の記述をたよりに候補を絞って、最終的にティムナ近郊の台地から200mほど盛り上がったテーブル状の岩山(現地名はハシェム・エル・タリフというらしい)であると推定、取材しようとしたら軍事的に微妙な場所らしくエジプト軍から取材許可が下りない。ここであきらめたかと思ったら、「粘り強く交渉した」結果、なんと小型カメラ(!!)のみでなら山へ登っていいという!? ほんとですかそれ? …一度取材拒否したエジプト軍がそんなにあっさりと許可するものなんでしょうか?? 奇妙、といえば事前調査としてあたりをつけた地域上空を熱気球に乗ってシナイ山を探す、というのもヘンといえばヘン。軍事的に制限のかかる地域の空をなんの許可もなく飛んだらそれこそ一大事になりかねないと思うのですが、常識的に考えて。山頂にあった(?)「聖職者の墓の跡」に「温泉の跡」…このへんもやはりなんともいえない。山頂にある遺構や温泉跡が本物ならば、ザヒ・ハワス博士に頭を下げて、発掘許可をもらってきちんと調査しないと。最後に紹介されていた「契約の箱」についても、「幕屋」はたしかに「出エジプト記」にこまごまとした記述があるから忠実に復元可能だと思うけれども、黄金製の「契約の箱」についてはモーセとともに脱出したギリシャ職人の作品ではないか、「3つの墓石」のある博物館にもそれらしきモチーフの金細工がある…というのも、結論づけるにはまだ状況証拠が足りないように思います(意匠が似ているから、考えられなくはないけど。『出エジプト記』37章では「ベツァルエルはアカシヤ材で箱を作った…」とあり、31章6節以下では「…わたしはダン族のアヒサマクの子オホリアブを、彼[ベツァルエル]の助手にする」とあり、ホメロスもギリシャ人のことを「ダナオイ」と呼んでいたことを引き合いに出して、このダン族の子オホリアブがモーセ一行に混じっていたギリシャ人技術者ではないか…というのがヤコボビッチ氏の主張)。
…というわけで、前編にくらべてやや説得力不足というか、仮説ばかりが先走ってしまったような印象を受けましたが、前回とあわせて見てみると、知的好奇心をおおいに刺激する科学ドキュメンタリー番組であることには変わりありません。ただ、出だしのジェームズ・キャメロン監督の言い方が若干どうかとは思ったが(大事なのは神を信じる/信じないにかかわらず、エジプトやギリシャ側から見たもうひとつの「出エジプト」を客観的・科学的に解明することでしょう。「出エジプト記」はあくまでもイスラエルの民の視点でしか語っていないので、これだけの天変地異がほんとうに起きたのなら、当然周辺諸国にも似たような話が伝えられているはず。もっともこれはカナダの放送局が制作した番組だし、対象視聴者もクリスチャンの多い北米大陸の人だから、という事情もあってあのように言ったのでしょうけれども)。
…次回は「ジェラート」か…欧州の人って大人も子どももみんな歩きながらペロペロやってる人、多いですよね…。ロシアだったか、凍てつく真冬でも平然と食べていたり…。ほんと欧州人のジェラート好きはすさまじい(笑)。
意図的??
モーセ率いるイスラエルの民がエジプト軍から逃げるために渡ったとされる「紅海」。これは案内役のドキュメンタリー映画製作者シムカ・ヤコボビッチ氏の指摘するとおり、厳密には誤訳でして、ほんとうは「葦の海」、つまり「湖」だったというのはいまや通説ですが、3500年前の「葦の海」は海とつながっていた「汽水湖」だった、というのは初耳。今回もまた専門家の意見を織り交ぜながら自説を展開していって、おおむね好感のもてる番組でした…たとえば1972年にサントリーニ島から発掘されたという壁画の話や当時のエジプトとギリシャ・ミノア(ミノス)文明とは活発な交流活動があったらしい…というくだりはとても刺激的でした(ちなみに「新共同訳」版ではしっかり「葦の海」と訳されています[13:18, 15:22])。
…でも後編の回にかぎっていえば、仮説の立て方にやや無理があるようにも感じられます…たとえば19世紀、シュリーマンが発掘した有名なミケーネの王墓に建っていた3つの墓石の説明。ヤコボビッチ氏は「虚心坦懐」に見ると、これら3つの墓石に描かれた光景は明らかに「葦の海」が割れてイスラエルの民が歩いて渡り、彼らのあとを追ってきたエジプトの軍勢が大水に呑みこまれるシーンだという。博物館の学芸員によると、墓石に彫られた絵柄は兵士どうしが剣を取って戦う場面、とまったく相反する解釈…もっともこの学芸員のほうも、3つの墓石に描かれたのがなんであるかについては断言できなかったけれども、こうした学芸員の意見を聞いてもヤコボビッチ氏は自説を譲りません。見た感想としては、この点についてはまだまだ調査の余地あり、ヤコボビッチ説にはやや難ありと思う。
それと伝説のシナイ山がどこなのか、というくだり。先日ここでも書いた、聖エカテリニ(カタリナ)修道院を見下ろす花崗岩の山がシナイ山、ということになってはいるけれど、じっさいのところこちらもほんとうの場所はわかってなくて、いくつかある候補のひとつにすぎない。で、「出エジプト記」と「申命記」の記述をたよりに候補を絞って、最終的にティムナ近郊の台地から200mほど盛り上がったテーブル状の岩山(現地名はハシェム・エル・タリフというらしい)であると推定、取材しようとしたら軍事的に微妙な場所らしくエジプト軍から取材許可が下りない。ここであきらめたかと思ったら、「粘り強く交渉した」結果、なんと小型カメラ(!!)のみでなら山へ登っていいという!? ほんとですかそれ? …一度取材拒否したエジプト軍がそんなにあっさりと許可するものなんでしょうか?? 奇妙、といえば事前調査としてあたりをつけた地域上空を熱気球に乗ってシナイ山を探す、というのもヘンといえばヘン。軍事的に制限のかかる地域の空をなんの許可もなく飛んだらそれこそ一大事になりかねないと思うのですが、常識的に考えて。山頂にあった(?)「聖職者の墓の跡」に「温泉の跡」…このへんもやはりなんともいえない。山頂にある遺構や温泉跡が本物ならば、ザヒ・ハワス博士に頭を下げて、発掘許可をもらってきちんと調査しないと。最後に紹介されていた「契約の箱」についても、「幕屋」はたしかに「出エジプト記」にこまごまとした記述があるから忠実に復元可能だと思うけれども、黄金製の「契約の箱」についてはモーセとともに脱出したギリシャ職人の作品ではないか、「3つの墓石」のある博物館にもそれらしきモチーフの金細工がある…というのも、結論づけるにはまだ状況証拠が足りないように思います(意匠が似ているから、考えられなくはないけど。『出エジプト記』37章では「ベツァルエルはアカシヤ材で箱を作った…」とあり、31章6節以下では「…わたしはダン族のアヒサマクの子オホリアブを、彼[ベツァルエル]の助手にする」とあり、ホメロスもギリシャ人のことを「ダナオイ」と呼んでいたことを引き合いに出して、このダン族の子オホリアブがモーセ一行に混じっていたギリシャ人技術者ではないか…というのがヤコボビッチ氏の主張)。
…というわけで、前編にくらべてやや説得力不足というか、仮説ばかりが先走ってしまったような印象を受けましたが、前回とあわせて見てみると、知的好奇心をおおいに刺激する科学ドキュメンタリー番組であることには変わりありません。ただ、出だしのジェームズ・キャメロン監督の言い方が若干どうかとは思ったが(大事なのは神を信じる/信じないにかかわらず、エジプトやギリシャ側から見たもうひとつの「出エジプト」を客観的・科学的に解明することでしょう。「出エジプト記」はあくまでもイスラエルの民の視点でしか語っていないので、これだけの天変地異がほんとうに起きたのなら、当然周辺諸国にも似たような話が伝えられているはず。もっともこれはカナダの放送局が制作した番組だし、対象視聴者もクリスチャンの多い北米大陸の人だから、という事情もあってあのように言ったのでしょうけれども)。
…次回は「ジェラート」か…欧州の人って大人も子どももみんな歩きながらペロペロやってる人、多いですよね…。ロシアだったか、凍てつく真冬でも平然と食べていたり…。ほんと欧州人のジェラート好きはすさまじい(笑)。
意図的??
2006年10月17日
聖エカテリニ修道院
いまさっき「NHKスペシャル」の再放送を見ました…数か月も前に放映された、「ビザンティン帝国」。なんでまた東ローマ(ビザンティン)帝国?? と思って見はじめたのですが、なるほど、トルコのEU加盟…が伏線にあったのですね。でも個人的にはかつてのコンスタンティノポリスのアヤ・ソフィアより、シナイ山麓に建つ世界最古の修道院・聖エカテリニ修道院内部の映像に釘付けになってしまった。
以前、たしかTBSの「世界遺産」でもこの聖エカテリニ(カタリナ)修道院は見たことがありましたが、今回はさらにすごかった。モーセのモザイク画に1500年分の亡骸の眠る院内墓地、そしてバティカン図書館につぐ規模を誇る修道院図書館内部まで撮影している! とくに門外不出の古文書が3000冊も収められている図書館の映像は強烈でした。書庫の建て方はコンクリートの柱に支えられた、わりと平凡な感じの造りではありましたが、ふだんまず見られない貴重な映像であったことには変わりありません。あとおもしろかったのは厨房のシーン。修道士見習い(修練士)が、まだ片言のアラビア語で地元民であるベドウィン人の雇われコックと献立について、やや(?)かみ合わない会話を交わしていました…生活感があっていいですね、こういう場面! …1500年間もここで料理をこさえてきたのかな(総勢20名の修道士は全員ギリシャ人)? またこれも見ることはできないであろう、ここの修道院の主であるダミアノ大主教(なんと123代目!!)と修道士の対話。1500年前の建物の中で、「クローン」問題について大主教に質問する修道士。世界最古の修道院で現代医療の最先端の話題! けっして俗世間に無関心ではなく、問題意識を積極的に持ちつづけているところは好印象でした。
またダミアノ大主教は薬剤師でもあり、みずから車を運転してベドウィンの集落に出向いては健康相談を受けたり(ベドウィンも糖尿病患いの人っているんだ…砂糖入れすぎのミントティーのせい?)。
もっとも印象に残ったのは、この要塞修道院がいままでイスラム勢力に滅ぼされずに生き残ってきた理由について。修道院内にはなんとモスクまであるのです…そしていまでもベドウィンの地元民が「ムスリム式の祈り」を修道士ともども捧げてますし。このへん、西ローマ帝国滅亡後も、ビザンティン帝国がイスラムの包囲網をなんとか懐柔させて生き残ったことに相通じるところがあります…東西教会が1054年に分裂後、ローマ教皇を頂点にいただく西方教会(ローマカトリック)側は悪名高い十字軍を組織して、おなじキリスト教領土であるはずのコンスタンティノポリスまで占領して、さんざん荒らしまくったあげくけっきょくは失敗に終わった…このへんの経緯は双方に誤解と偏見があったことも絡んでいるのでなんとも言えませんが、ダミアノ大主教はこう言っています。「たがいの信仰を尊重しあうことこそもっとも大切なこと」。おなじ「正教会」でもローマカトリック側はたしかに「寛容さ」という点では石頭で、十字軍の例に漏れず、かえって評判を落とすような過ちを何度か犯している。このへん一神教の決定的な欠陥ではあるが、かつての東方教会のように、異民族・異文化・異教徒ともおなじ屋根の下でうまくやっていこうという気さえあればやっていけるのです…いま、イスラム教・キリスト教のべつに関係なく極端な原理主義勢力が台頭してきているのはまことに憂慮すべき事態。自分たちの信仰のみ正しいという頑迷な態度はしょせん行き詰るものです…大半は宗教にかこつけて政治利用しているだけでしょうが、利用されるほうははなはだ迷惑千万。聖エカテリニ修道院のダミアノ大主教のことばを真摯に受け止めるべきです。
だからといって宗教は悪、とも思わない…たしかに組織宗教のせいでいままでどれだけの戦争・紛争があったことか…それでも「信仰」ないし超越者への「祈り」は人にとってごく自然なこと…だれだって自分の力だけではどうにもならないときは神仏に願掛けするものでしょう。しょせん人は自分ひとりだけではどうしようもなく無力な存在、祈りや信仰じたいはべつに悪いことでもなんでもない。厳に戒めなくてはならないのは、人の信仰・信条を踏みにじるような態度だと思う。ダミアノ大主教のことばどおり、みんながみんな「たがいに尊重」しあえば仲良く共存できる…はず。尊重、そして寛容であること。いまもっとも欠けている発想です。
原理主義勢力が跋扈している21世紀の世界を見たら、イエスもムハンマドも、「自分たちはこんな教えを説いたわけではない!」とおおいに憤慨するにちがいないし、原始キリスト教会の教父たちと、彼らの対立勢力だったグノーシス諸派だって、この現実を見たらともに口をそろえて「冗談じゃない!」と叫ぶのではないでしょうか。
以前、たしかTBSの「世界遺産」でもこの聖エカテリニ(カタリナ)修道院は見たことがありましたが、今回はさらにすごかった。モーセのモザイク画に1500年分の亡骸の眠る院内墓地、そしてバティカン図書館につぐ規模を誇る修道院図書館内部まで撮影している! とくに門外不出の古文書が3000冊も収められている図書館の映像は強烈でした。書庫の建て方はコンクリートの柱に支えられた、わりと平凡な感じの造りではありましたが、ふだんまず見られない貴重な映像であったことには変わりありません。あとおもしろかったのは厨房のシーン。修道士見習い(修練士)が、まだ片言のアラビア語で地元民であるベドウィン人の雇われコックと献立について、やや(?)かみ合わない会話を交わしていました…生活感があっていいですね、こういう場面! …1500年間もここで料理をこさえてきたのかな(総勢20名の修道士は全員ギリシャ人)? またこれも見ることはできないであろう、ここの修道院の主であるダミアノ大主教(なんと123代目!!)と修道士の対話。1500年前の建物の中で、「クローン」問題について大主教に質問する修道士。世界最古の修道院で現代医療の最先端の話題! けっして俗世間に無関心ではなく、問題意識を積極的に持ちつづけているところは好印象でした。
またダミアノ大主教は薬剤師でもあり、みずから車を運転してベドウィンの集落に出向いては健康相談を受けたり(ベドウィンも糖尿病患いの人っているんだ…砂糖入れすぎのミントティーのせい?)。
もっとも印象に残ったのは、この要塞修道院がいままでイスラム勢力に滅ぼされずに生き残ってきた理由について。修道院内にはなんとモスクまであるのです…そしていまでもベドウィンの地元民が「ムスリム式の祈り」を修道士ともども捧げてますし。このへん、西ローマ帝国滅亡後も、ビザンティン帝国がイスラムの包囲網をなんとか懐柔させて生き残ったことに相通じるところがあります…東西教会が1054年に分裂後、ローマ教皇を頂点にいただく西方教会(ローマカトリック)側は悪名高い十字軍を組織して、おなじキリスト教領土であるはずのコンスタンティノポリスまで占領して、さんざん荒らしまくったあげくけっきょくは失敗に終わった…このへんの経緯は双方に誤解と偏見があったことも絡んでいるのでなんとも言えませんが、ダミアノ大主教はこう言っています。「たがいの信仰を尊重しあうことこそもっとも大切なこと」。おなじ「正教会」でもローマカトリック側はたしかに「寛容さ」という点では石頭で、十字軍の例に漏れず、かえって評判を落とすような過ちを何度か犯している。このへん一神教の決定的な欠陥ではあるが、かつての東方教会のように、異民族・異文化・異教徒ともおなじ屋根の下でうまくやっていこうという気さえあればやっていけるのです…いま、イスラム教・キリスト教のべつに関係なく極端な原理主義勢力が台頭してきているのはまことに憂慮すべき事態。自分たちの信仰のみ正しいという頑迷な態度はしょせん行き詰るものです…大半は宗教にかこつけて政治利用しているだけでしょうが、利用されるほうははなはだ迷惑千万。聖エカテリニ修道院のダミアノ大主教のことばを真摯に受け止めるべきです。
だからといって宗教は悪、とも思わない…たしかに組織宗教のせいでいままでどれだけの戦争・紛争があったことか…それでも「信仰」ないし超越者への「祈り」は人にとってごく自然なこと…だれだって自分の力だけではどうにもならないときは神仏に願掛けするものでしょう。しょせん人は自分ひとりだけではどうしようもなく無力な存在、祈りや信仰じたいはべつに悪いことでもなんでもない。厳に戒めなくてはならないのは、人の信仰・信条を踏みにじるような態度だと思う。ダミアノ大主教のことばどおり、みんながみんな「たがいに尊重」しあえば仲良く共存できる…はず。尊重、そして寛容であること。いまもっとも欠けている発想です。
原理主義勢力が跋扈している21世紀の世界を見たら、イエスもムハンマドも、「自分たちはこんな教えを説いたわけではない!」とおおいに憤慨するにちがいないし、原始キリスト教会の教父たちと、彼らの対立勢力だったグノーシス諸派だって、この現実を見たらともに口をそろえて「冗談じゃない!」と叫ぶのではないでしょうか。
2006年10月15日
「出エジプト記」に秘められた史実
…1582年の今日、全世界的に暦の大改編がおこなわれました…ローマ教皇グレゴリウス13世が、当時欧州で使用されていた古い太陽暦「ユリウス暦」から「より正確な」太陽暦を発表し、10月4日のつぎの日がいきなり飛んで15日になってしまった日…です。ちなみに1582年の10月4日は木曜日、翌金曜日が15日にされた…らしい。
先日もここで取り上げたNHK教育の海外ドキュメンタリーシリーズ「地球ドラマチック」。毎回、質の高い外国のドキュメンタリー番組を日本語版で放映してくれるので、なるべく見るようにしているのですが、先週から二週連続で「出エジプト記」にまつわるたいへんおもしろい話をやってます。
旧約聖書の「出エジプト記(Exodus)」はキリスト教徒ではない一般の日本人にもわりとなじみのある物語。また『十戒』という映画で紅海がまっぷたつに割れるシーンは壮大で印象的ですね。でもいままではこの「出エジプト」の物語に出てくるこういった「奇蹟」的事象について、まったくといってよいほど史実的・科学的研究がなされてきませんでした。近年の発掘調査で得られた知見や科学技術の進歩により、あらためてこの「出エジプト」は史実にもとづいて書かれたものなのか、検証してみようという動きが出てきているようで、この番組で取材している映画作家もそんなひとり。初回放映分からして刺激的なことばかりでついTV画面に吸い寄せられてしまった…たとえばイスラエルの民の「出エジプト」はいったいいつごろの事件なのか。定説では新王国時代第19王朝のラムセス2世のころと言われ、映画でたびたび登場する時代設定もこちらが定番ですが、どうもそうではないらしい。以前どっかの民放で、もうすこしあとの時代、メルネプタハ王治世のころという説も見た記憶がありますが、番組の主人公であるドキュメンタリー映画作家に言わせるともっと古い!! なんとアフメス王の時代だという! …あふめす王…ってだれだっけ?? と記憶の糸を手繰りよせるのにしばし時間がかかりました。アフメス王は、新王国時代の礎を築いたファラオで、歴史上では「異民族ヒクソスをエジプト全土から追放し、王位についた」とされています。番組ではエジプト博物館ミイラ室に安置されたアフメス王のミイラも映し出されていましたが、ツタンカーメン王とまるでちがってこちらはきわめて保存状態がよいミイラでした…。今回、この仮説を立てた映画作家によると、「ヒクソス=イスラエルの民」だという。また史上有名なサントリーニ(旧名テラ)島の大爆発もアフメス王治世のころだったらしい。「過ぎ越し祭」の由来となった事件も、「濃度の濃い炭酸ガスが一番下の階で寝ていたエジプト人長子を殺した」ことで説明可能という…古文書研究や発掘調査から、当時エジプトでは長男が家屋の最も低い場所で就寝する習慣があったことを突き止め、また短時間に大量に死亡したらしい人々を葬った急ごしらえの集団埋葬地跡というのも発見されていて、被葬者が全員「男」だったり…調べてみるとやっぱりアフメス王時代のものらしい。高濃度の炭酸ガスによる窒息、という事例は最近でも報告されている。イナゴの大発生やナイル河の異変…も同様に科学的説明が可能…というのです。いやはや驚くほかない。
聖ブレンダンの航海物語でもそうなんですが、たいていこのような古今東西の有名な伝説、というのはなんらかの歴史上の事件や実在の人物をモデルにして「叙事詩」として仕立てたのがほとんどです。100%架空の話、ということはまずない、と言い切ってよいでしょう。ブレンダン航海を再現してみせた冒険作家ティム・セヴェリンはその後も「伝説に隠された真実」を追い求めてつぎつぎと考古学的再現航海をおこない、著作として発表してきました…ダメ船乗りシンドバッドの冒険、「金羊毛」を求めたイアソンの船団(Argonautai)の話やオデュッセウスの苦難に満ちた航海、桃源郷を探した中国の徐福伝説などなど。こういった手法はある方向性を向いてしまいがちという欠点はあるにせよ、実験航海をつうじてはじめて解明される事柄もまた無視できない。「出エジプト」にもどすとサントリーニ島が吹き飛んだ噴火もじっさいのところ、ほんとうの年代はわかっていなくて、今回の推定もいろいろな状況証拠から導き出されたに過ぎないのですが、ひじょうに説得力があって、正直、これはこれですごいと思いました。はやくつづきが見たい。
サントリーニ島というと、「アトランティス伝説」の着想源になったのではないか…という仮説をたてた考古学者の本をもってます。Voyage to Atlantisという本なんですが…まだ読んでないorz。この本じたいはもう何年も前からウチの書棚に突っ込んだままになってるんですが…このさいだからひっぱり出してみるか。ちなみにこの本の序文を書いているのはティム・セヴェリンです。内容は、1960年代にサントリーニ島の徹底的な発掘調査をおこなった著者が、そのとき得られたさまざまな知見から、伝説のアトランティス大陸、というのはじつはミノア文明の中心として繁栄を誇っていたテラ島のことではないのか…という感じの本です。
…アイルランドがらみでは7月下旬にアイルランドでは最古といわれる詩編写本が沼沢地から出土したばかりで、こちらも気になるところ。もっかアイルランド国立博物館が出土品の修復・保存作業をおこなっている最中なので、写本についてはいまのところ目新しい情報はなし。この湿地帯では数年前にも木製の器が発見されていたらしい。周辺地域を精査すればもっとなんかすごいものが出るかも…しれません。
アイルランドついでに脱線すると、先月、ゴールウェイにて開催されたカキの殻剥き大会。30個のカキの殻を剥き終わるのに何分かかるかを競う競技でして、たしか昨年、毎日放送の「世界ウルルン滞在記」でもやってました。で、今年の優勝者、というのが10年ぶりに開催国アイルランドの人でして、しかも地元ゴールウェイの男性。カキ30個の殻を、2分35秒で剥き終わったとか。ご同慶の至りです…。
ハロウィーンの記事
先日もここで取り上げたNHK教育の海外ドキュメンタリーシリーズ「地球ドラマチック」。毎回、質の高い外国のドキュメンタリー番組を日本語版で放映してくれるので、なるべく見るようにしているのですが、先週から二週連続で「出エジプト記」にまつわるたいへんおもしろい話をやってます。
旧約聖書の「出エジプト記(Exodus)」はキリスト教徒ではない一般の日本人にもわりとなじみのある物語。また『十戒』という映画で紅海がまっぷたつに割れるシーンは壮大で印象的ですね。でもいままではこの「出エジプト」の物語に出てくるこういった「奇蹟」的事象について、まったくといってよいほど史実的・科学的研究がなされてきませんでした。近年の発掘調査で得られた知見や科学技術の進歩により、あらためてこの「出エジプト」は史実にもとづいて書かれたものなのか、検証してみようという動きが出てきているようで、この番組で取材している映画作家もそんなひとり。初回放映分からして刺激的なことばかりでついTV画面に吸い寄せられてしまった…たとえばイスラエルの民の「出エジプト」はいったいいつごろの事件なのか。定説では新王国時代第19王朝のラムセス2世のころと言われ、映画でたびたび登場する時代設定もこちらが定番ですが、どうもそうではないらしい。以前どっかの民放で、もうすこしあとの時代、メルネプタハ王治世のころという説も見た記憶がありますが、番組の主人公であるドキュメンタリー映画作家に言わせるともっと古い!! なんとアフメス王の時代だという! …あふめす王…ってだれだっけ?? と記憶の糸を手繰りよせるのにしばし時間がかかりました。アフメス王は、新王国時代の礎を築いたファラオで、歴史上では「異民族ヒクソスをエジプト全土から追放し、王位についた」とされています。番組ではエジプト博物館ミイラ室に安置されたアフメス王のミイラも映し出されていましたが、ツタンカーメン王とまるでちがってこちらはきわめて保存状態がよいミイラでした…。今回、この仮説を立てた映画作家によると、「ヒクソス=イスラエルの民」だという。また史上有名なサントリーニ(旧名テラ)島の大爆発もアフメス王治世のころだったらしい。「過ぎ越し祭」の由来となった事件も、「濃度の濃い炭酸ガスが一番下の階で寝ていたエジプト人長子を殺した」ことで説明可能という…古文書研究や発掘調査から、当時エジプトでは長男が家屋の最も低い場所で就寝する習慣があったことを突き止め、また短時間に大量に死亡したらしい人々を葬った急ごしらえの集団埋葬地跡というのも発見されていて、被葬者が全員「男」だったり…調べてみるとやっぱりアフメス王時代のものらしい。高濃度の炭酸ガスによる窒息、という事例は最近でも報告されている。イナゴの大発生やナイル河の異変…も同様に科学的説明が可能…というのです。いやはや驚くほかない。
聖ブレンダンの航海物語でもそうなんですが、たいていこのような古今東西の有名な伝説、というのはなんらかの歴史上の事件や実在の人物をモデルにして「叙事詩」として仕立てたのがほとんどです。100%架空の話、ということはまずない、と言い切ってよいでしょう。ブレンダン航海を再現してみせた冒険作家ティム・セヴェリンはその後も「伝説に隠された真実」を追い求めてつぎつぎと考古学的再現航海をおこない、著作として発表してきました…ダメ船乗りシンドバッドの冒険、「金羊毛」を求めたイアソンの船団(Argonautai)の話やオデュッセウスの苦難に満ちた航海、桃源郷を探した中国の徐福伝説などなど。こういった手法はある方向性を向いてしまいがちという欠点はあるにせよ、実験航海をつうじてはじめて解明される事柄もまた無視できない。「出エジプト」にもどすとサントリーニ島が吹き飛んだ噴火もじっさいのところ、ほんとうの年代はわかっていなくて、今回の推定もいろいろな状況証拠から導き出されたに過ぎないのですが、ひじょうに説得力があって、正直、これはこれですごいと思いました。はやくつづきが見たい。
サントリーニ島というと、「アトランティス伝説」の着想源になったのではないか…という仮説をたてた考古学者の本をもってます。Voyage to Atlantisという本なんですが…まだ読んでないorz。この本じたいはもう何年も前からウチの書棚に突っ込んだままになってるんですが…このさいだからひっぱり出してみるか。ちなみにこの本の序文を書いているのはティム・セヴェリンです。内容は、1960年代にサントリーニ島の徹底的な発掘調査をおこなった著者が、そのとき得られたさまざまな知見から、伝説のアトランティス大陸、というのはじつはミノア文明の中心として繁栄を誇っていたテラ島のことではないのか…という感じの本です。
…アイルランドがらみでは7月下旬にアイルランドでは最古といわれる詩編写本が沼沢地から出土したばかりで、こちらも気になるところ。もっかアイルランド国立博物館が出土品の修復・保存作業をおこなっている最中なので、写本についてはいまのところ目新しい情報はなし。この湿地帯では数年前にも木製の器が発見されていたらしい。周辺地域を精査すればもっとなんかすごいものが出るかも…しれません。
アイルランドついでに脱線すると、先月、ゴールウェイにて開催されたカキの殻剥き大会。30個のカキの殻を剥き終わるのに何分かかるかを競う競技でして、たしか昨年、毎日放送の「世界ウルルン滞在記」でもやってました。で、今年の優勝者、というのが10年ぶりに開催国アイルランドの人でして、しかも地元ゴールウェイの男性。カキ30個の殻を、2分35秒で剥き終わったとか。ご同慶の至りです…。
ハロウィーンの記事
2006年09月19日
黄金のマスクにこめられた「思い」
まずはじめに…今回の台風、こちらのほうでは被害はなかったものの、直撃を受けた地域の被害を伝えるTV報道などを見て、2年前の台風22号のことを思い出してしまった。
2年前の10月はじめに伊豆西海岸・堂ヶ島付近に上陸、伊豆半島を直撃した台風22号は、はからずも来た時期も号数もあの「狩野川台風」とまったくおなじ、たどった進路もほぼおなじ、しかも小型のくせして最大瞬間風速50m以上、「史上最強」とまで言われたとんでもない台風でした。自分の住んでいる地域は海岸線沿いとはいえ西伊豆の付け根なので、ときおり風雨が強まるていどですんだのですが、親戚の住む西伊豆一帯ではあちこちで土砂崩れが起きて崩土が幹線道路をふさぎ、旧戸田(へだ)村など、一時「陸の孤島」状態になってしまいました。それでもまだしも被害は軽いほうで、駆け足で半島を横断した台風の進路に当たった伊東市宇佐美地区では背後の山から猛烈な突風が吹きぬけたために民家の屋根がことごとく飛ばされたり、鉄砲水が噴出したりと甚大な被害が出てしまいました。
昨年春、写真を撮りに船原峠(土肥峠)のてっぺんまで登り、そのまま歩いて伊豆市(旧天城湯ヶ島町)側へ下ろうと向かっていたら、なんといまだにその先が通行止め、台風22号の復旧工事中なのには驚きました…。いかに台風の爪跡が深かったかということをまざまざと見せつけられました。
…きのうはTV映像を見ながら、そんなことを思い出していたのですが、たまたま見ていたワイドショーでデーブ・スペクターさんが一冊の本を紹介していました…それがこちらの本。Bryan Norcrossという、マイアミにあるCBS系列のTV局でハリケーン解説を担当している人の書いたハリケーン防災本でして、内容は「ハリケーンの知識、ハリケーンへの備えと生還技術、被災からの復旧ガイド」ということらしい。米国は昨年の「カトリーナ」の被害がいまだ記憶に生々しいのですが(おかげでニュー・オーリンズ市ではジャズ演奏家がよそへ散ってしまってその数が3分の1にまで減ってしまったとも言われます)、被害地域ではさっそくこの本を参考に行政側も動いている、というお話でした。ひるがえってわが国では毎年のように台風の被害を被っているのに財政難…にかこつけて国も地方も台風対策をきちんと体系化しようとしていないですね。…個人レベルでできることには限界があるし、「天災には個人レベルの補償はしない」という発想は捨てるべきではないかといつも思います。その点、米国は対応が早い。もうこんな本まで出ていますし。よいところはどんどん見習って取り入れてほしい。
本題。最近、こんな記事を見つけました。かの有名なツタンカーメン王の黄金のマスク。あのまばゆいばかりの輝きにはやはり秘密が隠されていたようです…。そしてネメスと呼ばれる頭巾の青の象嵌も、従来言われていたラピス・ラズリではなくて、まったく未知の顔料らしい…という「新事実」も明らかになった、というから驚きます。
見る人を狂気に駆り立ててしまうほどに恐ろしくも美しい、古代エジプト芸術の最高傑作には、こんな秘密が隠されていたのですね…。
たしか発掘者カーターも書き残していたような気がしますが、黄金のマスクに浮き彫りにされた若きファラオの顔にはどこか翳があり、深い悲しみの表情をたたえています。今回発見された事実はたんに当時の工芸技術がいかにすぐれていたかを示唆するだけにとどまりません。このマスクを仕立てた職人の、亡き王にたいするいわく言いがたい愛惜の念というか深い「思い」が、3300年の時を超えてひしひしと伝わってきます。
2年前の10月はじめに伊豆西海岸・堂ヶ島付近に上陸、伊豆半島を直撃した台風22号は、はからずも来た時期も号数もあの「狩野川台風」とまったくおなじ、たどった進路もほぼおなじ、しかも小型のくせして最大瞬間風速50m以上、「史上最強」とまで言われたとんでもない台風でした。自分の住んでいる地域は海岸線沿いとはいえ西伊豆の付け根なので、ときおり風雨が強まるていどですんだのですが、親戚の住む西伊豆一帯ではあちこちで土砂崩れが起きて崩土が幹線道路をふさぎ、旧戸田(へだ)村など、一時「陸の孤島」状態になってしまいました。それでもまだしも被害は軽いほうで、駆け足で半島を横断した台風の進路に当たった伊東市宇佐美地区では背後の山から猛烈な突風が吹きぬけたために民家の屋根がことごとく飛ばされたり、鉄砲水が噴出したりと甚大な被害が出てしまいました。
昨年春、写真を撮りに船原峠(土肥峠)のてっぺんまで登り、そのまま歩いて伊豆市(旧天城湯ヶ島町)側へ下ろうと向かっていたら、なんといまだにその先が通行止め、台風22号の復旧工事中なのには驚きました…。いかに台風の爪跡が深かったかということをまざまざと見せつけられました。
…きのうはTV映像を見ながら、そんなことを思い出していたのですが、たまたま見ていたワイドショーでデーブ・スペクターさんが一冊の本を紹介していました…それがこちらの本。Bryan Norcrossという、マイアミにあるCBS系列のTV局でハリケーン解説を担当している人の書いたハリケーン防災本でして、内容は「ハリケーンの知識、ハリケーンへの備えと生還技術、被災からの復旧ガイド」ということらしい。米国は昨年の「カトリーナ」の被害がいまだ記憶に生々しいのですが(おかげでニュー・オーリンズ市ではジャズ演奏家がよそへ散ってしまってその数が3分の1にまで減ってしまったとも言われます)、被害地域ではさっそくこの本を参考に行政側も動いている、というお話でした。ひるがえってわが国では毎年のように台風の被害を被っているのに財政難…にかこつけて国も地方も台風対策をきちんと体系化しようとしていないですね。…個人レベルでできることには限界があるし、「天災には個人レベルの補償はしない」という発想は捨てるべきではないかといつも思います。その点、米国は対応が早い。もうこんな本まで出ていますし。よいところはどんどん見習って取り入れてほしい。
本題。最近、こんな記事を見つけました。かの有名なツタンカーメン王の黄金のマスク。あのまばゆいばかりの輝きにはやはり秘密が隠されていたようです…。そしてネメスと呼ばれる頭巾の青の象嵌も、従来言われていたラピス・ラズリではなくて、まったく未知の顔料らしい…という「新事実」も明らかになった、というから驚きます。
見る人を狂気に駆り立ててしまうほどに恐ろしくも美しい、古代エジプト芸術の最高傑作には、こんな秘密が隠されていたのですね…。
たしか発掘者カーターも書き残していたような気がしますが、黄金のマスクに浮き彫りにされた若きファラオの顔にはどこか翳があり、深い悲しみの表情をたたえています。今回発見された事実はたんに当時の工芸技術がいかにすぐれていたかを示唆するだけにとどまりません。このマスクを仕立てた職人の、亡き王にたいするいわく言いがたい愛惜の念というか深い「思い」が、3300年の時を超えてひしひしと伝わってきます。
2006年05月07日
ほんとうに問題なのは
今月号の National Geographic、買わされた方かなりいるんじゃないでしょうか。かくいう自分もそのひとりでして…みなさんおあいにくさまでした、cover story のくせして記事はわずか20ページしかない。それも福音書の内容にはほとんど触れられてなくて、いかにして米国地理学協会側が独占的にこれを入手して英訳にこぎつけたかに終始している。というわけで、ふつうに美しい掲載写真を楽しむのならよいのですが、これが目的ならムリして買う必要はありません。
alice-roomさんのblogの記事にあった、同協会が「緊急出版」したという本。リンクをたどってAmazonサイトに飛んでみたら、こちらの本よりおもしろそうなのがいろいろ出てきました…これとかこれなんかとか。
しかも宣伝…なんでしょうね、博覧強記で有名な作家先生(昨年、神木隆之介くんと映画に出演された方)まで引っ張り出すという熱の入れよう…。その先生が書かれた文(惹句と言っていいかも)を見ますと、
「…この手の古文書には「偽書」、すなわち偽物が非常に多いのです。そこで本物かどうか、ナショナル ジオグラフィック協会が多数の研究者を動員し、長い時間をかけて周到な調査をしています…この大変な作業の結果、『ユダの福音書』は本物だと裏付けられたわけです」
たしかに今回精査されたパピルス文書は4世紀ごろに書かれた「本物」にまちがいありません。その意味ではひじょうに貴重な発見で、考古学的・歴史的のみならず、キリスト教の成立を考えるうえでも価値ある古文書のひとつ(あくまでもひとつ)でしょう。
ただしここで「つまずきの石」が。掲載記事にもあるとおり、「ユダの福音書」はエジプトの砂漠から学者が発見したわけではむろんなくて、素性の知れぬ人間の手から手へと渡っていたもの。1983年5月になってはじめて研究者の目にとまる。ところが持ち主のエジプト人古美術商は当然のごとく法外な値段をふっかけてきて、あえなく研究者は買いそびれた。その後17年間、盗まれたり取り返したりとすったもんだのあげく――なんとシティバンクの貸金庫に入っていたこともあった――2000年、スイスの著名な女性古美術商が推定30万ドルで写本を購入。担当弁護士の発案によって、翻訳出版権を地理学協会が「独占契約」して、いま見るかたちになったという。
エジプト考古庁長官ザヒ・ハワス博士がいまもっとも力を入れているのが、過去にエジプトから「勝手に持ち出された」発掘品をすべて取りもどすこと。それだから――とまたおんなじことの繰り返しになるけれど――ロゼッタ石返せ、ネフェルティティのバストを返せとか叫んでいる。「ユダの福音書」もおなじで、エジプトから「盗まれた」遺物にほかならない。
この問題について、NYTimes 電子版にも記事が掲載されていました。記事で取り上げられているのは4000年以上前のシュメールの楔形文字の粘土板で、これもまた裏付けのとれた「正規の」発掘で出土したものではなくて、古美術品市場を通じてとあるノルウェイ人コレクターが買ったもの。それゆえ米国では考古学者団体の倫理規定に抵触するという理由で、たいへんな歴史的価値がありながら、いまだこの粘土板は楔形文字を専門に扱う雑誌で発表もされていないありさま。
これはたいへんなディレンマです。出所があやふやなものはいっさい無視、という現行の規定では「ユダの福音書」のように貴重な遺物がどんどん劣化して消滅してしまう恐れがある、だからこのような経路で入手した遺物もちゃんと研究・発表すべきだと主張する推進派もいれば、あやしげな取り引きで入手した遺物まで発表すればこの手の「闇市場」を助長するだけだと反対する学者もいて、議論は平行線。反対派には、「ユダの福音書」の版権を「買った」地理学協会を公然と非難する学者もいます(協会付きの研究者にしか解読・復元を許さず、ほとんど秘密主義で作業をおこなった地理学協会のやり方を批判する古コプト語の専門家もいます)。
もっとも粘土板のほうは、イラクを戦場にした米国にも責任があります。ウソついてまで起こした無用な戦いのせいで、古代シュメール時代の貴重な粘土板が大量に「闇市場」に流れたのだから。とはいえ研究者としては座視するわけにもいかない。これはとても悲しいことです。こうして貴重な文化遺産がどんどん失われてしまう。かたやこれで荒稼ぎしている手合いがいる。まったく困ったもんだ。
…そしてこちらは現在のタンガロア号のようす(1日付の筏の写真、かっこいい! ちなみにコン・ティキ号と大きくちがうところは3枚の巨大なセンターボードが後部に立っていることかな)。あいかわらず解読不能ですが、画像を見るとなにやら派手に亀裂が入っているけど大丈夫?!
タンガロア続報
alice-roomさんのblogの記事にあった、同協会が「緊急出版」したという本。リンクをたどってAmazonサイトに飛んでみたら、こちらの本よりおもしろそうなのがいろいろ出てきました…これとかこれなんかとか。
しかも宣伝…なんでしょうね、博覧強記で有名な作家先生(昨年、神木隆之介くんと映画に出演された方)まで引っ張り出すという熱の入れよう…。その先生が書かれた文(惹句と言っていいかも)を見ますと、
「…この手の古文書には「偽書」、すなわち偽物が非常に多いのです。そこで本物かどうか、ナショナル ジオグラフィック協会が多数の研究者を動員し、長い時間をかけて周到な調査をしています…この大変な作業の結果、『ユダの福音書』は本物だと裏付けられたわけです」
たしかに今回精査されたパピルス文書は4世紀ごろに書かれた「本物」にまちがいありません。その意味ではひじょうに貴重な発見で、考古学的・歴史的のみならず、キリスト教の成立を考えるうえでも価値ある古文書のひとつ(あくまでもひとつ)でしょう。
ただしここで「つまずきの石」が。掲載記事にもあるとおり、「ユダの福音書」はエジプトの砂漠から学者が発見したわけではむろんなくて、素性の知れぬ人間の手から手へと渡っていたもの。1983年5月になってはじめて研究者の目にとまる。ところが持ち主のエジプト人古美術商は当然のごとく法外な値段をふっかけてきて、あえなく研究者は買いそびれた。その後17年間、盗まれたり取り返したりとすったもんだのあげく――なんとシティバンクの貸金庫に入っていたこともあった――2000年、スイスの著名な女性古美術商が推定30万ドルで写本を購入。担当弁護士の発案によって、翻訳出版権を地理学協会が「独占契約」して、いま見るかたちになったという。
エジプト考古庁長官ザヒ・ハワス博士がいまもっとも力を入れているのが、過去にエジプトから「勝手に持ち出された」発掘品をすべて取りもどすこと。それだから――とまたおんなじことの繰り返しになるけれど――ロゼッタ石返せ、ネフェルティティのバストを返せとか叫んでいる。「ユダの福音書」もおなじで、エジプトから「盗まれた」遺物にほかならない。
この問題について、NYTimes 電子版にも記事が掲載されていました。記事で取り上げられているのは4000年以上前のシュメールの楔形文字の粘土板で、これもまた裏付けのとれた「正規の」発掘で出土したものではなくて、古美術品市場を通じてとあるノルウェイ人コレクターが買ったもの。それゆえ米国では考古学者団体の倫理規定に抵触するという理由で、たいへんな歴史的価値がありながら、いまだこの粘土板は楔形文字を専門に扱う雑誌で発表もされていないありさま。
これはたいへんなディレンマです。出所があやふやなものはいっさい無視、という現行の規定では「ユダの福音書」のように貴重な遺物がどんどん劣化して消滅してしまう恐れがある、だからこのような経路で入手した遺物もちゃんと研究・発表すべきだと主張する推進派もいれば、あやしげな取り引きで入手した遺物まで発表すればこの手の「闇市場」を助長するだけだと反対する学者もいて、議論は平行線。反対派には、「ユダの福音書」の版権を「買った」地理学協会を公然と非難する学者もいます(協会付きの研究者にしか解読・復元を許さず、ほとんど秘密主義で作業をおこなった地理学協会のやり方を批判する古コプト語の専門家もいます)。
もっとも粘土板のほうは、イラクを戦場にした米国にも責任があります。ウソついてまで起こした無用な戦いのせいで、古代シュメール時代の貴重な粘土板が大量に「闇市場」に流れたのだから。とはいえ研究者としては座視するわけにもいかない。これはとても悲しいことです。こうして貴重な文化遺産がどんどん失われてしまう。かたやこれで荒稼ぎしている手合いがいる。まったく困ったもんだ。
…そしてこちらは現在のタンガロア号のようす(1日付の筏の写真、かっこいい! ちなみにコン・ティキ号と大きくちがうところは3枚の巨大なセンターボードが後部に立っていることかな)。あいかわらず解読不能ですが、画像を見るとなにやら派手に亀裂が入っているけど大丈夫?!
タンガロア続報
2006年02月14日
KV63続報
王家の谷で発見されたちいさな墓。いろいろ探してみたら、ABCニュースサイトやカナダのニュースサイトにも記事がありました。
読んでみると、今回の発見はまったくの偶然の産物だったとのこと。すぐ近くの第19王朝アメンメセス王墓の調査の最中に掘り出した人夫小屋の跡を発掘したら、その下に陥没があり、掘ってみたらこの墓が出てきたということです(1922年のツタンカーメン王墓のときとよく似ています)。
今回見つかった墓の石室は縦横4m-5m、いまのところわかっているのは5つの木棺と20個ほどのアラバスターの壺(死者に捧げる飲み物と食べ物を入れるためのものらしい)が収められていること。NYTimesの写真に写っているのは女性のミイラの入った木棺みたいです。木棺のなかにはシロアリに喰われてしまったものもあって、墓所から地上へ運び出す前に保存・修復処置を施すとのこと。数日中に入り口をふさいでいる瓦礫を完全に取り除いて内部を本格的に調査するようです。
調査隊は、発掘シーズンの終わる5月にはすべての作業を終えたいとしています。
そのうちNational Geographic日本版にも記事が掲載されるでしょう。
読んでみると、今回の発見はまったくの偶然の産物だったとのこと。すぐ近くの第19王朝アメンメセス王墓の調査の最中に掘り出した人夫小屋の跡を発掘したら、その下に陥没があり、掘ってみたらこの墓が出てきたということです(1922年のツタンカーメン王墓のときとよく似ています)。
今回見つかった墓の石室は縦横4m-5m、いまのところわかっているのは5つの木棺と20個ほどのアラバスターの壺(死者に捧げる飲み物と食べ物を入れるためのものらしい)が収められていること。NYTimesの写真に写っているのは女性のミイラの入った木棺みたいです。木棺のなかにはシロアリに喰われてしまったものもあって、墓所から地上へ運び出す前に保存・修復処置を施すとのこと。数日中に入り口をふさいでいる瓦礫を完全に取り除いて内部を本格的に調査するようです。
調査隊は、発掘シーズンの終わる5月にはすべての作業を終えたいとしています。
そのうちNational Geographic日本版にも記事が掲載されるでしょう。
posted by Curragh at 19:45| Comment(0)
| 歴史・考古学
2006年02月13日
ツタンカーメン王墓以来の大発見?!
早稲田大学の吉村教授には足元にもおよばないけれど、古代エジプト文明には小学生のときからかなり強い関心があります。
ちょうど一年ほど前、その吉村教授率いる日本の発掘隊がカイロ近郊の「ダハシュール北遺跡」で中王国時代末期の完全未盗掘の竪穴墓を発見したことはご存知でしょう。レバノン杉でできた彩色木棺の中には、当時の軍司令官らしい「セヌウsnw」という男性のミイラが目にも鮮やかなブルーのデスマスクを被って横たわっていましたね。ミイラ発見時の写真をはじめて見たときは心底驚きました…そして、きのうの日曜にJNN系列で放映されたこちらの番組、見ましたよ。
その後あのミイラはどうなったのかなーと思っていたら、昨年8月、ミイラが木棺から取り出されてマスクもはずされ、CTスキャン調査されたことをこの番組を見てはじめて知りました(先生の公式ブログもおもしろくてためになります!)。とくに印象的だったのはセヌウの木棺に描かれたウジャトの眼。ミイラが外の世界を見るために描かれたものなのですが、木棺の右側面、それも足のほうに描かれていた…この謎、ミイラをCTスキャンにかけたら解けたのです。それも意外な理由で。なんとミイラは顔を左に向けていたのでした…とはいえ棺に入れる方向が正反対だったために、せっかくの「眼」も右足側になってしまったのですが…それでも残された家族の、死者にたいする思いやりがせつせつと伝わってくるではないですか!
今回、使用されたCTスキャン装置は米国地理学協会を通じて独シーメンス社からエジプト考古庁へ寄贈された最新の移動式(大型トレーラーになっている)で、昨年、ツタンカーメン王のミイラ調査時に使われたのと同じもの。技術の進歩ってすごいものですね。なにしろ指一本触れずに中身が丸見え、骨格や複顔までできてしまうのだから…。ツタンカーメン王(トゥトアンクアメ[モ]ン Tut Ankh Ame[o]n が正式な言い方。ついでに即位時はツタンカーテンで、まだこのときは太陽神アテン信仰の時代で、その後アメン神信仰にもどる)のときは1700枚もの画像を撮影しましたが、今回は何枚くらい撮ったんだろう…吉村先生は、こんどはセヌウの生前の顔を復元したいとのこと。
吉村教授によるセヌウのミイラ発見についてはこちらにも記事があります。
ところがそのツタンカーメン王墓のほんの数メートル先、観光客がふつうにぞろぞろ歩いていた「歩道」のまさにど真ん中からなんとなんと墓が?! しかもこれが未盗掘の墓…見つけたのは米国メンフィス大学のチームで、残念ながらファラオの墓、というわけではないらしい。米国の学者が見つけたんだから、NYTimesにもあるかな、と思ったらちゃんと記事がありました。
それによると、調査隊はまだ新発見の墓(隠し場所?)の内部には入っていないらしい。竪穴から内部をのぞいて確認しただけ。岩盤をくりぬいた長方形の石室に、封印された陶製の壺と、人型蓋のついたままの木棺が5つあり、どうやら第19王朝末期以来、いまのいままでずっと眠りつづけてきたらしい。被葬者は王族の一員か、ファラオの寵愛を受けていた人たちらしい。考古庁長官ザヒ・ハワス博士によると、今回の調査で埋葬時に使われたとおぼしき縦穴8つも発見された、とのこと。被葬者はこの場所に大急ぎで---なんだかツタンカーメン王のときもそうだったような---埋葬されたかも、と付け加えています。
ううむ…これは今後も目が離せないぞ。記事でエジプト人関係者もおんなじこと言ってますが、王家の谷はけっして「掘り尽くされて」いないのだということをあらためて感じました。
…そういえば先週のThe Choirboysと入れ替わりになるけどマイケルたちはもう来たかな…?? 折り紙いっぱい買えるといいね。そして、あんまりムリに歌わせないでね…(銀座のときの録画をやるのかと思ったら、まさかあんな早朝に生出演で歌わせるとは想像もしていませんでした…)。
ちょうど一年ほど前、その吉村教授率いる日本の発掘隊がカイロ近郊の「ダハシュール北遺跡」で中王国時代末期の完全未盗掘の竪穴墓を発見したことはご存知でしょう。レバノン杉でできた彩色木棺の中には、当時の軍司令官らしい「セヌウsnw」という男性のミイラが目にも鮮やかなブルーのデスマスクを被って横たわっていましたね。ミイラ発見時の写真をはじめて見たときは心底驚きました…そして、きのうの日曜にJNN系列で放映されたこちらの番組、見ましたよ。
その後あのミイラはどうなったのかなーと思っていたら、昨年8月、ミイラが木棺から取り出されてマスクもはずされ、CTスキャン調査されたことをこの番組を見てはじめて知りました(先生の公式ブログもおもしろくてためになります!)。とくに印象的だったのはセヌウの木棺に描かれたウジャトの眼。ミイラが外の世界を見るために描かれたものなのですが、木棺の右側面、それも足のほうに描かれていた…この謎、ミイラをCTスキャンにかけたら解けたのです。それも意外な理由で。なんとミイラは顔を左に向けていたのでした…とはいえ棺に入れる方向が正反対だったために、せっかくの「眼」も右足側になってしまったのですが…それでも残された家族の、死者にたいする思いやりがせつせつと伝わってくるではないですか!
今回、使用されたCTスキャン装置は米国地理学協会を通じて独シーメンス社からエジプト考古庁へ寄贈された最新の移動式(大型トレーラーになっている)で、昨年、ツタンカーメン王のミイラ調査時に使われたのと同じもの。技術の進歩ってすごいものですね。なにしろ指一本触れずに中身が丸見え、骨格や複顔までできてしまうのだから…。ツタンカーメン王(トゥトアンクアメ[モ]ン Tut Ankh Ame[o]n が正式な言い方。ついでに即位時はツタンカーテンで、まだこのときは太陽神アテン信仰の時代で、その後アメン神信仰にもどる)のときは1700枚もの画像を撮影しましたが、今回は何枚くらい撮ったんだろう…吉村先生は、こんどはセヌウの生前の顔を復元したいとのこと。
吉村教授によるセヌウのミイラ発見についてはこちらにも記事があります。
ところがそのツタンカーメン王墓のほんの数メートル先、観光客がふつうにぞろぞろ歩いていた「歩道」のまさにど真ん中からなんとなんと墓が?! しかもこれが未盗掘の墓…見つけたのは米国メンフィス大学のチームで、残念ながらファラオの墓、というわけではないらしい。米国の学者が見つけたんだから、NYTimesにもあるかな、と思ったらちゃんと記事がありました。
それによると、調査隊はまだ新発見の墓(隠し場所?)の内部には入っていないらしい。竪穴から内部をのぞいて確認しただけ。岩盤をくりぬいた長方形の石室に、封印された陶製の壺と、人型蓋のついたままの木棺が5つあり、どうやら第19王朝末期以来、いまのいままでずっと眠りつづけてきたらしい。被葬者は王族の一員か、ファラオの寵愛を受けていた人たちらしい。考古庁長官ザヒ・ハワス博士によると、今回の調査で埋葬時に使われたとおぼしき縦穴8つも発見された、とのこと。被葬者はこの場所に大急ぎで---なんだかツタンカーメン王のときもそうだったような---埋葬されたかも、と付け加えています。
ううむ…これは今後も目が離せないぞ。記事でエジプト人関係者もおんなじこと言ってますが、王家の谷はけっして「掘り尽くされて」いないのだということをあらためて感じました。
…そういえば先週のThe Choirboysと入れ替わりになるけどマイケルたちはもう来たかな…?? 折り紙いっぱい買えるといいね。そして、あんまりムリに歌わせないでね…(銀座のときの録画をやるのかと思ったら、まさかあんな早朝に生出演で歌わせるとは想像もしていませんでした…)。