2021年05月02日

画家クールベの生き方に学ぶ

 いまさっき見た「日曜美術館」のクールベ特集。率直な感想は、「なんて戦闘的な人だ(汗)」。

 ギュスターヴ・クールベの名前をはじめて知ったのは、小学生のときに親に買ってもらった『美術の図鑑』に載っていた「こんにちは、クールベさん」。当時、この油絵作品(のカラー図像)を見て思ったのは、「自分で自分のことを『クールベさん』って言っちゃうんだ(笑)」と、なんて気さくな人なんだろ、ということ …… だったんですけど、じつは帽子をとって挨拶している相手というのがなんと当時、クールベの生活を支えてくれていた懇意のパトロンその人ですと ?! しかも『ゆるキャン△』に出てくる松ぼっくりよろしく「\コンニチハ/」されている画家クールベといえば、ふんぞり返って、パトロンなのに相手を上から目線で睥睨している。…… あれから 40 ウン年、気さくどころか、ハナもちならぬ男だったことが遅まきながら判明した(微苦笑)。

 でもクールベという人は、見ようによってはハナもちならない、「世界一傲慢な男」だったかもしれないが、こと芸術となると「レアリスム」つまり写実主義を提唱してそれを生涯、ブレずに一枚看板にして画業に励んだ結果、晩年になってようやくサロンにも認められ、まだ 20 代だったクロード・モネ(!)とも仲よくなったりと、時代の先を行っていた画家だったのはまちがいない。加えて、いまで言う炎上商法的なこともやっていたりと、「ドル紙幣をたくさんもらったときだけぐっすり眠れる」と豪語していたサルバドール・ダリもあのギョロ眼をさらにギョロつかせるくらい、そういう方面にかけても先駆者だった。「個展」というのをいちばん最初に開いたのもじつはクールベだという。

 最晩年、政治犯として投獄されたり、釈放後に失意のままスイスに亡命したりという話は、なんか哀れな末路にも思える。もしそんな政治的誘惑に乗らず、おのれの目指す道を独立独歩で突き進んでいたらと思う。そういう反省もあるのか、番組では「わたしはいかなる宗教にも、いかなる流派にも、いかなる組織にもただの一度も属したことはなかった」ということばを紹介して終わっている(ところであのバカでかい『画家のアトリエ』という作品、あれまさかホンモノなのだろうか?)。個人的に印象的だったのは、一連の「海」の連作もの。白い石灰岩の絶壁の景勝地エトルタの海景ってモネじゃなくて、クールベが最初に目をつけて描いてたんですね、知らなかった。

 ある意味孤高の人だったかもしれないクールベさんですけど、ひるがえっていまのアーティストってどうでしょうか。どこの世界も分業化が進んでいるから、なかなかそういうわけにもいかないとは思うし時代も違うから、単純な比較はいけないかもしれない。しかし「われわれアートの世界の人間にも○○の権利を !!」というのは、なんかちがくね? とも感じてしまう。

 そもそもアーティストって反骨の人、権力の対極にいる人のことでしょう。そういうのはほかの方にお任せしたらどうですかね。アーティストがほんとうにやるべき仕事って、ジョイスの言う「エピファニー」を創り出すことだろう。政治的・教訓的芸術ではないはず。クールベだってそうでした。また、SNS でさかんに発信したりするアーティストも多いし、それはそれでけっこうながら、アーティストのほんらいの仕事との比重が狂ってしまっては本末転倒だとも感じている。

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2017年06月11日

アルバレス・ブラボ写真展

 静岡市美術館にて先月までやっていたこちらの写真展に最終日に見に行ってきました。

 写真は好きなくせして、寡聞にしてこのマヌエル・アルバレス・ブラボなるラテンアメリカを代表する写真の大家のお名前はまったく知らなかったので、せっかく静岡市で回顧展みたいのが開かれているのだからとのこのこ出かけたわけ( ついでに駿府城天守台跡の発掘調査現場にも行ってみた )。薄暗い会場に一歩入るとそこはゼラチンシルバープリントやプラチナパラジウムプリントの数々、モノクローム特有の豊かな階調の支配する世界。ふだん PC やスマホの画面でデジタル画像のあのギザギザを見慣れている目には懐かしさよりもむしろ新鮮さのほうがつよく感じられた。それにしても人物を撮っても風景を撮ってもどれもみんなサマになっていて、おなじ写真好きとしてはなかなかこういうふうには撮れんよなーとかって思いつつ眺めてたんですが、サボテンとか山並み、街角のショーウィンドウとかの風景はジナー(!)の 4 x 5 判ヴューカメラを使っていたようです( 撮影風景の写真を見るかぎり )。どうりで構図の切り取り方の斬新さもさることながら、美術で言うマチエールというのか、とにかく細かい部分がシャープに像を結んでいて、初期の代表作「ラ・トルテカ[ 1931 ]」なんかは 90 年近くも前に撮影されたとは思えない臨場感にいまさらながら驚かされる( ロラン・バルトふうに言えば「たしかにかつてこの世に存在していた」という紛れもない事実が立ち現れる )。これはひとつにはオリジナルプリントの保存管理が適切だった、ということなのかもしれない。ブラボ氏は 2002 年に満 100 歳( !! )の天寿を全うしたからその後の膨大な原版の管理は娘さんをはじめ遺族の方々を中心にされているようなので、これはけっこう骨が折れる作業だろうと思う( 最晩年のブラボ自身がプラチナパラジウムプリントを仕上げるようすを記録した動画クリップも上映されていた )。

 ブラボ初期の 1930 年代から晩年の 1990 年代まで 4部構成で俯瞰する回顧展を見て思ったのは、キャッチコピーにもあるけれども一貫して流れる「静謐さ」。とくに街角の雑踏の只中で撮影したと思われるお店の看板(「眼の寓話[ 1931 ]」)とかショーウィンドウとかは、どことなくウジェーヌ・アッジェを彷彿とさせる雰囲気がある( じっさいにアッジェの薫陶を受けていた )。いっぽうで「身をかがめた男たち[ 1934 ]」なんかはアンリ・カルティエ−ブレッソンの言う「決定的瞬間」、あるいは「絶対非演出 / 絶対スナップ」のお手本のような作品。トロツキー、ディエゴ・リベラフリーダ・カーロ、『シュルレアリスム宣言』のアンドレ・ブルトン、ノーベル文学賞作家オクタビオ・パスなどの錚々たる著名人のポートレイトもいくつか展示されてまして、一見すると間口の広い器用な写真家のようにも見えて、そのじつ「写風」はブレてない印象がある。展示会場にはブラボ本人の「名言」みたいなのも掲げられてまして、そのなかのひとつがこの大写真家の写真という芸術に対するスタンスというか考え方というかそれをみごとに集約していることばだった ―― 「わたしにとって、写真とは見る技法です。ほぼそれに尽きると思います」。「見る技法」、至言だ !! また「光と影には生と死とおなじ二元性がある」などの引用もありました。もっともオルガン好きなワタシがいちばん気に入った 1 枚は、「大聖堂のオルガン[ c. 1931 ]」ですかねぇ。ブラボ氏だけに、BRAVO !! でした。

 同時代の貴重な関連資料も展示されてまして、ブラボ作品の初出雑誌( Aperture とか )や展覧会図録なんかがあったけれども、1933 年に出会った米国の写真家エドワード・ウェストン( 8 x 10 インチ、エイトバイテンと呼ばれる巨大な組立暗箱カメラで風景や人物や静物を撮りまくった人。8 x 10 インチのシートフィルムは「六切」とおなじサイズ )がブラボ宛てにしたためた賛辞の手紙( 出だしに '... I am wondering if I'm not sure why I have been the recipient of a very fine photograph series from you.' とかって達筆な筆記体[ !! ]で書いてあった )まで展示されてまして、興味津々で見入ってました。

 美術館の外に出ると、その日は地元商店街近くの神社祭典があったらしくて、とてもにぎやか。呉服町商店街ではストリートオルガン弾き( 日曜日午後に見られるらしい )もぐるぐるぐるぐる、モーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」などを演奏してまして、否が応でも写真撮影熱が高まるわけなんですが、そこはヘタの横好きの悲しさ、「会心の作」みたいにはいきませんねー( 嘆息 )。

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2015年09月27日

「曾宮一念と山本丘人」⇒ aptX ってなに? 

1). 「ゲイジュツの秋」というわけではないけれども、週末、こちらの展覧会を見てきました。

 佐野美術館 … は、平成元年(!)に洋画家の梅原龍三郎の描いた富士山の絵ばかり集めた展覧会以来 … のような気がする。ほんと久しぶりに訪問したわけなんですが、数年前に静岡市で見た曾宮一念さんの油絵と、同時代人の山本丘人さんの日本画という組み合わせの妙がいとをかし、と思えたので、見に行こう! と思っていたらあっという間に会期末になってしまったので、あわてて馳せ参じたしだい。

 山本画伯 … のほうは寡聞にして知らなかったが、チラシにも使用されている「青い海」という作品にたいへん心惹かれたのでぜひ見たい、加えて「画家は廃業」、そして「へなぶり」をひねっていた曾宮さんのダイナミックに躍動する油絵作品も同時展示される、とあっては、行かないわけにはいかない。

 「青い海」という作品は 1932 [ 昭和7年 ]年に描かれたものらしいですが、現物を見てそのデカさにまず圧倒された。そしてこの絵が現在の熱海市網代港で描かれたものであることもわかった。いまでもこんなふうに見えるのかな? 絵の大きさ、ということでは展示室に入ってまず目に入る 1928 年作「公園の初夏」という作品。上野公園の西郷さんの銅像近くの崖下とイチョウの大木を描いたものらしいですが、画面中央上部に聳え立つその大イチョウの先端が画面からハミ出しているあたりが、なんというか生命力というかエネルギーを感じまして、すばらしいと思ったのでした。

 山本画伯関連では作品のほかに杖や眼鏡、画材( 岩絵の具や絵筆、鉛筆にクレヨン、膠など )などの遺品も展示されてまして、こちらも興味津々。展示の最後のほうの四幅対からなる「季節風」の、なんとも言えない独特の色彩感覚にも目が引きつけられました … が、南伊豆の現在の妻良[「めら」と読む ]漁港の夜景を描いたとおぼしき「満月夜( 1963 )」もすこぶる印象的でした。下絵もいくつか展示されていて、「青い海」の「下図」もあり、スケッチと作品とどこがどうちがうのかなと見較べてみたり。ちなみに「小下図」なんていう呼び名があるんですね、知らなかった。「出品目録」の英語表記では大きいのも小さいのも preparatory drawing でしたけれども。

 対して、久しぶりに見ます洋画家、曾宮一念画伯の作品。で、これは予期してなかったんですが、静岡市でお目にかかったあの「冬の海 仁科( 1936 )」にもめでたく再会 !! これはうれしかったな。「再会」ということでは、「スペインの野」、「裾野と愛鷹」、「洋上夕日」にも再びお目にかかることができて、こちらもじっくり鑑賞。この手の展覧会ではたいてい、画家自身の著書その他から引用されたことばも添えられたりするんですが、そうそう思いだした、たしか曾宮先生は「雲も、山も、岩も、水も、その本質はすべておなじである」という気づきないし開眼があったんですよね。曾宮画伯の遺品展示品では晩年、失明したあとに使用していた定規と力強い殴り書きのような直筆文、そして交流のあった藤枝静男さんとの絵葉書がありました。

 画家のことばつながりでは、日本画の山本丘人画伯もすばらしいことばを残されていて、見終わったあと、図録に転載されていたそのことばを思わずメモってしまった( 苦笑 )。曰く、
個性を强く生かしぬく人。それを深く掘り下げて行く人は、何よりも立派である。… たとひ草であれ、「その人ならでは」の深さと美が表現されれば、蔑視することはできない ―― といふことを、私は言ひたいのだ。

… 人は諸行無常と悟って生きるべきか。
移り変わる明日に向かって祈るべきか。
… そういえば、ラファエロの「聖母子像」ものに出てくる愛くるしい天使みたいに、くるくる巻き毛のかわいい赤ちゃんを抱っこした若いお母さんも鑑賞してました。つぎの展覧会は、そんなお子さまにはぴったりな趣向かも、と思ったり。

2). ところでいまさっき聴いていた「N響定演」の生中継、マエストロ・ブロムシュテットのベートーヴェン「2番」&「皇帝」もすばらしかった … けれども、そのあと聴いた OTTAVA Phonica Special 。オーディオ評論家の山之内正さんという方がゲスト出演されていて、デジタルオーディオのこと、音楽 CD のこと、アナログ音源復活のこと、「ハイレゾ」のことなどなどこちらのアタマが覚えきれないほど、中身の詰まったおもしろく、かつ役に立つお話をされていて、こちらも少々びっくりした[ 願わくばこの番組も Salone みたいに再放送してくれるとうれしいんですけど ]。たとえば CD って、前にも書いたと思うがやはり 30 年くらい経つと、ダメになっちゃうものなんですねー … 再生機器では再生できなかったものが、PC のプレーヤーに入れたらフツーに再生できたので、リッピングしてデータを吸い出した、とか … ワタシの手許の CD 音源でもっとも古いのはたしかヴァルヒャの「バッハ以前のオルガン音楽の巨匠たち」なので、こりゃ確認せにゃあかんな、と内心、アセったり。そういえば最近、どうも手持ちの音源だけでなく、図書館から借りてくる CD もうまく再生されないことがあって、この放送聴くまでずっと機械側に原因があるとばかり思っていた。そうじゃないとしたら … 考えただけでゾッとしてくる。参ったなあ … 最近の HDD はけっこう耐久性があります、RAID を組んでリッピングして、云々。なるほどなあとは思うが、そんなことしているヒマもなければ、カネもなし。たいしたコレクションではないとはいえ、150 枚くらいはたぶんあるであろう、わが CD 音源をぜんぶリッピングするなりして万が一のために「複製」、つまりバックアップをとるなんてどだい不可能。

 ではいまはやりのオンデマンド音源はどうか。たとえば TuneIn なんていうひじょうに便利なアプリがあり、これでいまや( 出先では回線速度がネックになってブツブツ切れたりするものの )スマホで Organlive とか BBC Radio3 とかふつーに聴取できちゃう時代。NAXOS だったかな、ハイレゾ音源を切り売りしているくらいだし、これからは CD を所有する、のではなく、「聴く権利」を買ってストリーミングで聴くのがよいのか? でも好事魔多し! 山之内氏の説明によれば、たとえば「売れなくなったんで配信やめます」って一方的に( !! )打ち切られる場合もあるという[ カネ払って買ってんのに、どういうこと? ]。世の中、なかなかうまくいかないもんですねェ( 嘆息 )。

 そういえば以前、OTTAVA プレゼンターのオススメだかに、audio-technica 製スピーカーが紹介されていて、思わず食指が動いたけれども( けっきょくまだ買ってない人 )、ここの会社のイヤホンは愛用していて、ダメになるたびにおなじシリーズを買い換えている( し、スペアも常備している )。林田さんによると、PC 音源を聴く場合、USB 接続タイプよりイヤホン端子接続タイプのほうがよいみたいですね。ワタシはいまだに 10 年以上選手の FM トランスミッターでラジカセ( !! )に飛ばしてそっちのスピーカーで聴いたりするけれども。

 山之内氏のお話ではもうひとつ、'aptX' なる略語も耳にして、なんぞやそれ? と思ってさっそくぐぐったら、こういうものらしい。Bluetooth で飛ばす場合によく使用されている高音質なコーデックのことらしいです … こうなるともうほとんど浦島状態ですわ。

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2014年07月14日

『王子と乞食』⇒ バーナードー博士の「変身」写真

1). 「花子とアン」、こぴっと見はじめてから早いものでもうまる3か月が経過。NHK 的には視聴率がすこぶる好調なようで、それはそれでいいことながら、どうもここ最近の展開はなーんかバタバタしているなあとか、ヒロインの安東はなの描き方とかどうなんかな … とお節介ながら思ってしまう、今日このごろ。

 朝ドラ制作側では「これはフィクションです」と断っているから、下敷きになった『アンのゆりかご』からいくら乖離していたって構わないんだろうけれども、たとえばあのでかい英英大辞典( 明らかにモデルは『ウェブスター』ですな )を教会の「本の部屋」から土砂降りの雨の中へ放り投げようとした場面とか、マーク・トウェインの『王子と乞食』の冒頭部分の訳出作業が訂正もない、きれいな訳稿となってたった一晩でできちゃったりとか、うううん、どうなのよ、と門外漢はやっぱり思ってしまうんですわ。ま、いいか。今後の展開に期待しましょう( 予告によると来週からさらに急展開?らしい。ちなみにあの原稿用紙、400字詰め用紙だったけれどもあの当時ってもう 400字詰め用紙ってあったのかな? 夏目漱石とかの原稿用紙の画像とか見ると 200字詰めか、それ以下だったような気がするけれども。400字詰め用紙は、たとえば昭和初期の川端とかの直筆原稿だったらこの目で見たことがある )。

 で、その『王子と乞食』。先日、図書館に行ったついでにパフィンブックス版( 簡略版 )の原書を借り、そのあとたまたま立ち寄った本屋でこれまた運よく村岡訳岩波文庫版『王子と乞食』を見つけたのでこれを買って、ドラマでちょこっと写ったあの原稿の箇所はどこかな ♪ と調べたりして遊んでました。*

 じつは、『王子と乞食』つながりではこんなたいへん興味深い考察を披露した本がすでに存在していたこともつい最近知った。明治大正にかけての、ことに児童文学分野の邦訳ってわれわれが考えている以上に盛んでして、それには「10年留保」という、いまから考えるとちょっと信じがたい出版事情もあって、たとえばあの『ユリシーズ』なんか、原本が刊行されてほんの数年でもう邦訳( 完全でないにせよ )本が出版されている ―― それも第一書房と岩波書店と、たてつづけにふたつの版元から !! **

 そして岩波版『ユリシーズ』って、じつは村岡訳『赤毛のアン』初版を出した三笠書房から戦後の 1952年( 昭和27年 )に刊行されてるんですねぇ( 村岡訳『赤毛のアン』もおなじ年に刊行 )! 『王子と乞食』のほうも、上に挙げた本を読むと、目からうろこというか、とにかく新鮮な発見が多くて、あらためて「翻訳」という行為の奥深さを考えさせられる。この本では村岡訳『王子と乞食』に言及しているのはたった一箇所だけだが、たとえば戦後になると『王子と乞食』に代わって『トム・ソーヤー』と『ハックルベリー・フィン』のほうの人気が高くなったとか、その翻訳者として名前を挙げられているなかに、静岡県東部にゆかりの深い児童文学者の小出省吾氏までいたとは寡聞にして知らなかった( いつも行ってる図書館の移動図書館車は小出作品にちなんで「ジンタ号」と呼ばれてます )。†

 翻訳の時代性 … については、たとえばその小出訳『トム・ソウヤー』におけるハックは「決して煙草を吸うこともなく、ハックがトムとベン・ロジャースに煙草の吸い方を教えるよく知られた場面も同訳書からは全て削除」されているという( ibid., p.207 )。

2). そんなこんなでいま、いろいろな「アン関連本」をキャンベル本の合間にちょくちょく読んでいると、ひとつのことに気づく。『赤毛のアン』、『少女レベッカ』、『リンバロストの乙女』、『少女パレアナ』、『あしながおじさん』、『孤児の少女アニー』、『小公女』、そして『トム・ソーヤー』… これらの作品に通底するのは「孤児物語」だ、という点。時代的には 19−20世紀にかけてに集中している( 『レ・ミゼラブル』のコゼットもそうかな )。ディケンズの『オリヴァー・ツイスト』を見てもわかるように、文学作品の主題というのはやはりその時代を写す鏡みたいな役目をも果たすもの。写真家ルイス・ハインのことを取り上げたときも似たようなこと書いたと思うけれども、当時は児童労働が当たり前、児童福祉とかなんとか、そんな発想じたいがまるでなかったか、あったとしてもきわめて希薄だった。ハインが写真を通して告発した紡績工場の児童労働 … だって、日本も当時は似たようなものだったし(『女工哀史』など )。

 モンゴメリのように、書き手自身が「孤児」的境遇を体験していることもあったろうけれども、アイルランドも含めた欧州各地に古来より伝承される「取り替え子( Changeling )」を思わせるような出だし、マシューとマリラ兄妹に引き取られ、「居候」の肩身の狭い身分でありながら結果的に周囲の人にとって救いとなるような存在になってゆくなど、「王子と乞食」ばりの主客転倒があったりといろいろに読める作品だとは思うけれども、その後のモンゴメリ作品とか概説したものなどを読むと、この孤児をめぐる問題に終生、モンゴメリ自身こだわりつづけたということも浮かび上がってくるように思う。

 そのへんの事情は『完全版 赤毛のアン( 原題 The Annotated Anne of Green Gables, 1997. )』にひじょうに詳しいので、『赤毛のアン』を深く味わいたい向きには一読の価値ありだと思う。本編につづく「解説」、「注釈」、「付録」の内容の深さと幅広さにはあらためておどろかされる。個人的妄想として、「赤毛」のイメージがなぜだかホーソーンの『緋文字』のヒロイン、ヘスター・プリンの胸元の赤いA( Adultery )と重なっていたのだけれども、まったくおんなじことを指摘した箇所を目にしたときには文字どおり仰天した( ちなみに「解説」のその箇所[ p. 481 ]によると、モンゴメリ自身も『緋文字』を高く評価していたそうです )。

 で、その本の「テキストの異同」というセクション。朝ドラがきっかけとはいえ、いまごろ『アン』原書を手に取った新参者としては( 苦笑 )、原文に版による相違があるということもまるで知らなかった。おかげでのっけから誤読しそうになった (>_<;)↓
... At first Matthew suggested getting a "Home" boy. But I said "no" flat to that. ( p.11 )
静岡の駅前の本屋で村岡訳『赤毛のアン』と『アンの青春』といっしょに買ったのはパフィンブックス版で、1925年に刊行された Harrap 版が底本らしい。で、上掲書同セクションによれば、「エディションの間で違っている箇所について、1925年版と原稿での形が一致しているものが多い。したがってモンゴメリにはこのイギリス版にかける意気込みがあり、その結果として 1925年版の形の方が 1908年版よりも時にすぐれていると信じてもよかろう( p. 490 )」と書いてある。

 ファンなら先刻ご承知のように、村岡訳『アン』は、カナダ人宣教師婦人から記念として贈られた原本というのが初版、1908年版なので、↑ の箇所が異なっている。1908年版では 'a Barnado boy' と印刷され、さらにタイプ原稿( 手書き草稿の清書稿としてタイプした )では' a Barnardo boy' と書かれていたんだそうな。

 トマス・ジョン・バーナードー博士は 1870年ごろ、いまふうに言えばストリートチルドレンのための孤児院および更生施設をロンドンを皮切りに英国各地につぎつぎと設立した人として知られてます。もっともその当時なので、博士のなかば強引なやり方には当時から批判する向きもいまして、たとえばいま流行りの(?)、いわゆる「ビフォア・アフター」写真を世界に先駆けて、かどうかは定かではないが、とにかくそういう写真を販売して「どうです、ワタシの作った孤児院に入れて、子どもたちを一人前の働き手にしましょう!」みたいな資金集めまで展開していた( → 参考サイト、'Carte-de-visite' というのは当時、名刺代わりに携帯した手札判と呼ばれるサイズ[ 約 5.7X9.5 cm ]の写真のこと )。そこまではいいが、なんと演出、つまり「やらせ( !! )」があったり、裁判沙汰になったり、いろいろ物議を醸したあげく、けっきょく7年後にはそういう孤児「変身」写真の撮影じたいをやめてしまった( もっとも収容する子どもの身元確認用として写真は利用しつづけた )。で、こういった一連の「変身」写真の撮影は博士みずから撮っていたのではなく、第三者のプロに任せていたそうです。アウトソーシングというわけですね。

 当時、「バーナードーの子ども」という言い方は露骨すぎて、差別表現でさえあったようで、おそらくモンゴメリは当初は「バーナードー博士のとこの少年」という表現を使ったけれども考えなおしてパフィン版のような「ホームの少年」にしたのだろうと思われます。というわけで、問題の箇所はただたんに「施設( ホーム )の少年」だった。綴りを見ればわかるように、Barnado ではなくて、rが間に入るのが正しい表記。このへん、モンゴメリの原稿および初版本では若干の混乱がある。

 バーナードー博士という人はなんとアイルランドのダブリン出身らしいが、先祖はイタリア系とも、ユダヤ系ドイツ人とも言われている。父親はダブリンで毛皮商だったらしい。当初、バーナードーは中国に医療伝道に行くつもりだったようですが、ロンドンで医学を学んでいたとき、当地の路上にあふれるホームレス、とくに子どもたちの窮状を目の当たりにして中国行きをあきらめ、英国にとどまって孤児院設立へと奔走するようになったようです。「やらせ」問題云々は、博士が熱血漢ゆえだったのかも。

 というわけで、ひとりの孤児の物語から、バーナードー博士の「変身」写真のお話でした。m( _ _ )m







↑ は、BBC の学校教育向けらしいオーディオドラマ。ちなみにこの人がバーナードー博士。
* ...
"Beatings ! − and thou so frail and little. Hark ye: before the night come, she shall hie her to the Tower. The King my father"−
"In sooth, you forget, sir, her low degree. The Tower is for the great alone."
"True, indeed. I had not thought of that. I will consider of her punishment. Is thy father kind to thee?"
―― The Prince and The Pauper
「ほんとうに打つというのか? そのように弱々しい、小さいからだをか。よし、日の暮れない中に、そのようなふとどき者は、塔の中におしこめてやる。お父様が ―― 」
「王子様は、わたくしの祖母が身分のひくい者であることを、忘れていらっしゃいます。ロンドン塔は、りっぱな方がたのためにできているのではありませんか?」
「そうであった、つい忘れていた。それでは罰はあとで考えることにしよう。おまえの父親はどうだ? 親切にしてくれるか?」。
―― 村岡花子訳『王子と乞食』岩波文庫版 pp. 20−1

** ... 川口 喬一著『昭和初年の「ユリシーズ」』から。当時の日本には翻訳出版権という概念じたいがなく、原著刊行後 10年経過すれば事実上どこの版元も邦訳を出版できた … ようです( → 参考ページ )。なので『ユリシーズ』がぞくぞくと刊行されていたころ、「印税払え !! 」とジョイスが代理人立てて猛烈に抗議したとか、すごい話が書かれてます( 汗 )。当時のエージェントとのやりとりの書簡から、ジョイスは伊藤整などが訳した『ユリシーズ』邦訳本はおしなべて「海賊版」だとみなしていたようです。なんだかこれどこぞやのコピー大国のこと言えない話ではある、自戒の意味もこめて。

† ... The Prince and The Pauper の最初の邦訳は巌谷小波他訳によるものらしいが、じつはそれ以前にも幻に終わった邦訳企画があったという( ibid., pp. 32−9 )。山縣五十雄の『乞食王子』( 1893年 )がそれで、「山縣の翻訳が、トウェインの原作の発表後、わずか二ヶ月足らずで発表されていることからも分かるように … 同時代の英米雑誌を丁寧に読み解く勉強家で、… 優れた英文家として活躍することになる」。これなんか見ますと、やはりちがった意味でビックリですねぇ( 2か月ですよ、2か月 !! )。

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2014年05月25日

「巨匠の眼 川端康成と東山魁夷」展

 2011年に行った「レオナルド・ダ・ヴィンチ 美の理想」展以来になるのかな、JR 静岡駅の真ん前という最高の一等地にある静岡市美術館。ここでいま開催中の「巨匠の眼 川端康成と東山魁夷」展を見て来ました。

 もっとも美術展じたいが目的で静岡市くんだりまで行こう、ということではなくて、比較神話学者キャンベルの寄稿した文章が収録されている、The Celtic Consciousness という 30数年前に出版されたケルト学アンソロジー本がなんと(!)静岡大学附属図書館にあるということがわかって、折を見てコピーを取りに行こうと考えてました。で、せっかく静岡市に来たついでにこの美術展にも立ち寄ってみよう、というじつにお気楽な気分で見に行ったのでした( 前にも書いたかもしれないが、キャンベルの寄稿文は聖ブレンダンがらみのもので、『聖ブレンダンの航海』サイト運営者としてぜったいに目を通さねば、とかねがね思っていた。で、こっちのほうも負けずにビックリだったので、またのちほど稿を改めて書きたい )。

 入っていきなり、川端のノーベル文学賞授賞記念講演「美しい日本の私」の全文を転載したでかいパネルが。このところキャンベル本ばっかり読んでいるせいか、「禅における無は、西洋の虚無とはちがう」とかなんとか、そんなくだりがとくに目を引いた … けれども、ビックリしたのはノーベル文学賞のメダルがのっけからデーンと展示されていたこと。当たり前だけど、こういうメダルって、そうは見られるもんじゃないですよ。展示方法も工夫されていて、メダルの「裏側も」鏡で反射させてよく見えていた。というか裏面ってはじめて見た( 苦笑 )。月桂樹のそばに佇んでなにかを書き取っている青年と、リラをつまびくミューズ。「技芸を編み出し地上の生をよりよくせし者」というウェルギリウスのことばの引用が周囲に刻まれているデザイン( → こちらのブログ記事参照 )。しかも川端がもらった賞状に、授賞式のときに川端本人が首から下げていた文化勲章まで展示されていて、「軽く眺めてはやく食事でもしよう」なんていう甘い考えはこの時点でみごとに吹き飛んだのでありました( 美術館に入る前、おなじ複合ビル内の本屋で「花子とアン」関連の買い物をしたりと財布の中身がかなり軽くなっていた、という事情もある ) … けっきょく3時間くらいねばって、いやじっくり鑑賞。幸いそんなに人もいなかったし、気がついたらワタシひとり、みたいな時間もあって、ある意味最高のひととき。

 川端さんて、ただの文士じゃなかったんだ、稀代の目利き、古美術品コレクターだったんだ、ということに遅まきながら気づかされた。とにかくハンパじゃない。交流の深かった東山魁夷さんの日本画作品だけじゃないです。たとえば古賀春江という画家。ご本人の写真も展示してあったんですが、それ見るまでてっきり女流画家かと思っていた( 苦笑x2 )。残念ながら夭折してしまったが、展示してあった作品のひとつ「公園のエピソード」は気に入って、あとで絵はがき購入。不思議な世界観というか、パウル( ポール )・クレーみたいな音楽が聴こえてくるような、メルヘンタッチの構図と配色が印象的でしたね。ほかにも埴輪とかハート型の顔をした土偶(! こういう「ハート型の顔」をした古代の遺物って、ほかの国ではあるんだろうか )とか、そうかと思えばなんと、当時まったくの無名だったあの草間彌生さんの水彩画があったり … 目利きとしての川端は、新人発掘も得意だったみたいです。名伯楽ってとこかな。

 川端本人の書、そして直筆原稿(『名人』の一節)も展示してありました … 静岡ゆかりの染色家、芹沢_介装丁による『伊豆の踊子』や『雪国』といった川端作品の初版本もずらり並んでました。というか、このセクションでもっとも興味を引いたのが、岡本かの子、谷崎潤一郎など、当時の文豪たちの書簡類でした … なんと若き日の寂聴さんの私信まである! なかでも目を引きつけられたのが、『堕落論』の坂口安吾と、太宰治の書簡。安吾の文面は「拝啓 コリー犬ぶじに届きました … 」とかなんとか。川端と安吾は愛犬家だったのね( これもいまごろ )。太宰のは芥川賞をどうかわたくしに、と選考委員だった川端に懇願する内容でして、思わず食い入るように全文読んでしまったよ( 笑 )… 「何卒 私に与えて下さい … 一度だけでいいから、母と愚妻を喜ばせてやって下さい … 早く、早く、私を見殺しにしないで下さい きっとよい仕事できます … 」… もう絶句するほかなし( 苦笑 )。しかもこれ、巻物か? と思うくらいの巨大なもの。展示スペース無駄に取り過ぎ( 再苦笑 )。もらったほうもさぞや迷惑しただろうな。そして三島の私信も複写でしたが、展示してありましたね。なんだかいかにも三島らしい(?)「昨今の文学はなっとらん」的批判が書かれてあったような( 家庭的文学なんか読む気はまったくないとか、そんなことが書いてあった )。

 最後の東山魁夷さんのコーナーは、川端のコレクションに入っているものもあるけれど、たとえば古代ローマのガラスの小瓶とか、銀化現象というらしいけれど、風化作用でじつに美しい、幻惑されるような七色に光り輝いていて、こういうの見るのもはじめてだったから文字どおり目が釘づけです。なんとロダンや、ピカソの作品までありましたよ。東山さんの絵画作品では、よく見る「北山杉」とか「湖」とか「森」とかもいいけれど、毛色の変わったところでは 1969年ごろに欧州旅行に行った際に制作した一連の作品がすばらしかったです。フライブルクの「晩鐘」とか、オーストリアのエッツという町の「マリアの壁」とか … 。1955年に制作したという「秋富士」もすばらしい。東山さんの描く富士山ってはじめて見た。箱根の仙石原あたりから描いたのかな? 富士山の向き的にはそうだと思う。

 とにかく書き出したらキリないくらい、時代もプトレマイオス朝エジプト・古代ギリシャとローマから、古代中国、中世鎌倉時代の掛け軸や彫像、戦前の絵画に現代作家、ロダンにピカソ … 正真正銘、古今東西の名品逸品揃いのこの美術展、わずか千円ちょっとでこれだけの作品( と、例の太宰の手紙 )がぜんぶ見られるなんて、こんなお得な機会はないですよ。興味ある方はぜひ一度見に行かれるべし。

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2013年06月03日

「ラファエロ」展

 先日、遅まきながら国立西洋美術館にて開催されていた「ラファエロ」展、見てきました。

 30 代で夭折した天才画家ながら、さすがにこれだけ本人直筆の絵画作品が揃うと、やはりすばらしいものがありますね … 徒弟時代の作品からラファエロの代名詞的な「聖母子」ものの最高傑作、「大公の聖母」がやってきたとあっては、見に行かない手はない。じつは今年はおなじ上野公園内で開催されたツタンカーメン展 … にも食指をそそられていたんだが、事実上例の博士主催のこの展覧会、たしかにあの「黄金のカノポス壺入れ」は好き者にとっては必見だとは思ったけれども、すごい混雑だと伝え聞いてからはなんか行く気がなくなって ( 笑、だってあれすごい小さいですし、また「阿修羅展」のときみたいな状態だったら落ち着いて見られやしない )、けっきょく行かなかった。代わりにこちらを選んだしだいで、この選択は正しかったかな ? 

 当日券はあらかじめは買っておいたから、館内にはすんなり入れたとはいえ、やっぱりすごい人。なるべく順路どおりに、流れに乗って行動したいところだが、あっち見てはちょっともどってまたさっき見た作品を見直す、というクセがあるので、キュレーターからはヘンなやつだと思われたかもしれない。

 展示は 4つのテーマ別になってまして、最初はラファエロの徒弟時代のものから。ラファエロの父上も画家だった … ということはいまさらながらに知り、そしてその父上の作品もしっかりと見た。絵画には保護ガラス板のあるものとないものが混在してましたが、たしかこれはガラス板はなかった。作品保護には当然あったほうがいいわけですが、やっぱり鑑賞する側からするとあれないほうがいいですねぇ。描かれた当時にタイムスリップしたような、なんか得した気分になりますし。ほぇ、これが父上の絵なのかぁと感心しつつしばし進むと、こんどはラファエロ少年の筆による、かつて祭壇画の一部をなしていたという油彩の板絵が。「父なる神、聖母マリア」という作品で、威厳たっぷりの「神」が下を向いて王冠をかぶせようとしている場面 … で、この板絵にはつづきがあって、向かって右手に描かれていたという「天使」の絵も展示されてました。で、これを見た第一印象は、ずばり「あ、これってラファエロ本人か ? 」。つややかなブロンドの巻き毛に、気持ち流し目で翼の生えた少年。頬の色もうっすら赤らんで、いやあこのリアリティはさすがすごいなぁ、とさっそく釘付けになりました。

 あの有名な若き日のラファエロの横顔の自画像も来ていたので、さっそくご対面。あの「天使」と見較べても … うーん、ワタシの目にはやっぱり似ています。

 会場に詰めかけた人のお目当ての「大公の聖母」は、つぎのコーナーにありました … しかも下描きまで !! これは貴重だ。解説板にもあったけれども、もともとこの作品は「たまご型」構図にするつもりで構想していたらしい。素描のほうは、赤ん坊のイエスもマリアさんも、こっちを見つめている感じ。「大公の聖母」のほうは、どちらも伏し目がちで、鑑賞者のほうには目線は向いてません。ついでにこれもはじめて知ったのだが、静岡市で見た「ダ・ヴィンチ」展の『公式図録』に掲載されていたプラド美術館所蔵の「美しきモナ・リザ」同様、この作品も完成当時は背景が真っ黒に塗りつぶされてはおらず、窓と外の風景までしっかり描かれていた、という !! なんでまた真っ黒になんか塗りつぶしちゃったんでしょうかね ? とんでもないことしてくれたもんだ。ということは、静岡市での「ダ・ヴィンチ」展で見た、あの「カーネーションの聖母」みたいな感じで、聖母子は窓辺に佇んでいたということか。欲を言えば、その「復元想像画」もとなりに展示してほしかったな。

 三番目は「ローマ時代のラファエロ」… とはいえでかいタペストリー以外、大半が銅版画などの複製品。たしかに壁画とか、持って来られない作品がほとんどですからね。それでもたとえばラファエロがデザインした「紋章模様のタイル」とかもあったし、「日曜美術館」でも紹介されていた「友人のいる自画像」も実物は画面がけっこう大きくて、たいへん興味深かったですね。

 最後のコーナーはおおぜいいたというラファエロの弟子と、その影響を強く受けた画家中心の展示。ジュリオ・ロマーノなんて名前はうっすら聞いたことがあっても現物なんてめったにお目にかかれないから、これはこれでよかった。もっともいちばん興味を惹かれたのは絵画ではなく三次元作品、ブルーの釉薬をかけたテラコッタ焼きで表現した「聖母子と幼い洗礼者聖ヨハネ」。なんとも愛くるしい作品で、おもわず頬も緩んでしまふ。でもなんというか、この時代の流行りみたいなものなのかな、この「幼児イエスと幼児洗礼者ヨハネ」という構図は ( 笑 )。

 というわけで全体的にはおおいに満足 … ではありましたが、しかたないとはいえ、「大公の聖母」だけ「最前列の通路の人は止まらずに鑑賞せよ」という方式だったので、いかんせん神経を集中して見られません。しかたないからすこし後ろのほうからしばらく鑑賞していたけれども … なんか数年前に見に行ったダ・ヴィンチ作「受胎告知」来日展のときを思い出した。そしてどうでもいいことながら、なぜ『公式図録』が通販のみの扱いなのだ ??? 

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2012年05月07日

116 年前の三陸津波写真発見 ! 

 まずはじめに … つくば市と真岡市などを突如、襲った竜巻の甚大な被害には絶句した。大地震も大津波も「ゲリラ豪雨」も台風も火山噴火もこわいが、この竜巻のこわさはいざ発生したら、ほんの一瞬でわれわれの日常生活を文字どおり根こそぎ破壊してしまう点だ。土台ごとひっくり返された家の下敷きになったらしい中学生の少年の悲報にはもうことばも出ない。そしてあの雇用促進住宅に入居していたという、福島県双葉町や浪江町の避難民の方の話はほんとうにひどい。一刻も早く日常を取りもどされるよう、祈るのみです。

 ところで、竜巻報道を見ていて気になることばが … 「スーパーセル」というのは、いままで日本国内で発生したことがあるのだろうか … ついこの前、マッキベンの Eaarth について書いた記事で、「スーパーセル」の言及箇所を引いたばかりなので、よもや、と思ったのでした。それにしても … やはり大気の循環が狂いはじめているのだろうか、「いままでこんなことはなかった」、「こんなことははじめてだ」というのがなかば決まり文句みたいに聞かれるようになっている。つくば市付近の上空と地上との気温差はなんと 40 度だったという。いまや地球はマッキベンが言うような、「とても住みにくく、とても暑く、とても不安定でわれわれの生存を脅かす存在となった」惑星になってしまったんだろうか。… いずれにしても今年の GW は、いままで経験したことのないほど大荒れに荒れた天候つづきだった。竜巻も、もとをたどれば記録的大雨を降らせたあの低気圧が、北に張り出す高気圧に行く手を阻まれて生じた結果だと思うし … とにかく天城山で一日当たりの降雨量 800mm というのは、信じがたいことだ ( 伊豆スカイラインはまだ復旧工事中 ) 。

 昨年の大震災は、この時期恒例の LFJ コンサートまで影響を与えてしまったけれども、今年はぶじに開催、自分も自室で NHK-FM の「今日は一日◯◯三昧」の生中継をずっと聴いてました。そんなとき、この報道に接して思わず目が釘づけに。3 日付の地元紙朝刊の一面に大きく掲載されていたもので、そのガラス乾板から「密着プリント」で起こされた印画紙画像を食い入るように見つめていた。116 年前の明治三陸地震津波の被害の惨状を記録した、まちがいなく第一級の記録写真です。記事によると、震災からわずか一週間後くらいで現地入りした、中島待乳という日本の写真草創期に活躍した写真師が撮影したものらしい。

 掲載写真を見てまず感じたのは、その映像のシャープさです。いまみたいに片手でスナップ感覚で撮れるデジカメなんかじゃなく、でかくて重い「手札判」カメラで、三脚や現像機材とかも当然持っていったはずだからこの記録写真を残してくれた中島待乳の苦労はいかばかりかと思わざるをえない。また海岸から数百メートル離れた場所に帆船が斜めになって打ち上げられている釜石の被災地の写真など、そのまま昨年の津波の惨状と見紛うばかりだ。背景の山裾がえぐられているように崩れている光景も写し出されているから、ひょっとしたら津波が削り取った痕なのかもしれない。

 それにしても中島待乳はすごい人だと思う。寡聞にしてこの人のことは初耳でした。1850 年、千葉の銚子生まれで、銚子に漂着したオランダ人船乗りの時計の裏蓋に写真が貼り付けてあるのを見て、写真師を志したという。オランダ語原書などを頼って独学で ( ! ) なんとカメラも印画紙も自分で作ってしまったという。1874 年に浅草で写真館を開業、その後いろいろ賞をとったりして当時の日本における写真の権威的存在にまでなった人らしい。三陸地震は 1896 年の発生だから、中島は当時 45, 6 だったことになる。

 今回、発見された中島待乳の記録写真のもうひとつすばらしい点は、見つかった 48 枚すべてに、「崎浜村被害の全景」など、説明 ( いまふうに言えばキャプション ) が付されていることです。中島が三陸沿岸の被災地を撮影していたちょうどおなじころ、太平洋の反対側の米国では、ジェイコブ・オーガスト・リースが扇情的な手法ながら、「報道写真」のはしりをニューヨークのスラム街で撮りまくっていた。たんなる偶然だけれども、このふたりの写真にはなにか通底するものを感じます。とにかく明治期の先人というのは、写真にかぎらずすごい人が多い。先人から学ぶべき点はやはり多いと思う。

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2012年02月12日

木村伊兵衛とアッジェのパリ

 せんだって見た「日曜美術館」。木村伊兵衛氏、とくるとてっきり下町風景とかをモノクロで切り取った作品なんか思い浮かべるけれども、その木村氏が当時開発されたばかりの国産カラーフィルム ( ! ) でなんと花の都パリを撮影していたという! 1954 年というから、半世紀以上も昔のことです。でもその絶妙なスナップショットの数々を見て、さらにびっくり。なんて鮮やかなんだろう、と。50 年以上も前の写真だなんて、ちょっと信じらないくらいの鮮明さ。またおんなじことの蒸し返しですが、ほんとこういうカラー作品を見せられると、ロラン・バルトの言っていたことは正しかったんだなとあらためて感じる ―― バカンスで閑散としたバールでなにやらしゃべっている客の親父さんとかの写真を見ますと、この人たちはたしかにパリに存在していたのだ、という事実がついきのうのことのように迫ってきます。こういう臨場感というのは、モノクロではけっして表現できないカラー写真最大の特徴でしょうね。逆にモノクロ写真は臨場感ならぬ距離感、ないしは時代性をつよく感じさせるメディアだと思う。たとえばもし、あの龍馬の肖像写真が色鮮やかなカラーだったら … 受ける印象はそうとう変わるはずです。

 ところで「テスト目的」で木村氏が使ったという国産初の 35mm カラーフィルムって、どこのメーカーの製品なんだろ … 老舗小西六の「サクラカラーリバーサル」あたりなのかな … そのへんはよくわからないけれども、ASA ( 現在で言うところの ISO 規格感度 ) 10 というのは、これもまた信じられないくらいの超低感度フィルム。自分のこれまで使った最低感度はこの前破産してしまった、あの Kodak の Kodachrome 25 で、ISO 感度 25 というもの。これだってピーカンで絞りこむととたんに 1/16 秒という低速シャッターに落ちこみ、「玉の暗い」レンズだと手持ちで撮るのもむつかしい。夕暮れ時なんかとくに … それを木村氏は、たとえばコンコルド広場越しに望むエッフェル塔なんかを手持ちのスナップでバシっと撮っている。使用していたライカの標準レンズが開放F値 1.5 くらいの「ひじょうに明るい」玉だったから、こういう離れ技ができたんでしょうなあと、へたの横好きな写真撮りは思うわけ。それにしても「サクラカラー」って懐しいな。幼かったころ、フジカラーの緑の紙箱よりサクラカラーの紙箱のほうが印象に残ってるし。

 生々しいと言っていいほどパリに暮らす市井の人々の生き様を、国産初のカラーフィルムでみごとにスナップした木村氏の作品は、当然のことながらいまとなっては当時のパリを知る貴重な記録です。で、見ているうちにふと思い出したのが、今日が誕生日のジャン - ウジェーヌ・アッジェという写真家。アッジェは 18 x 24 cm の単純なヴューカメラ、つまり大型の蛇腹カメラで撮影したと言われています。当時はまだシートフィルムもなかったので、重くて割れやすいガラス乾板でした。感光剤の感度も低いし、レンズ性能もあまりよくなかったため、太陽の光がいちばん強い午前のうちにパリの街角を撮影していたらしい。とにかく生活のために、依頼された写真を計画的に撮影していったアッジェ。パリの近代化とともに見捨てられていく風物や庶民の姿を透徹したカメラアイで記録しつづけた人でしたが、晩年はパンとミルクと砂糖しか口にしなかったらしい。貧困のうちに 70 歳で亡くなるまで、なんと 8千点もの作品を残しています。簡素なカメラと「あおり」技法 ( 建物の歪みを取る「フロントライズ」 ) だけ、露出計もなしというまさしく必要最低限の機材しかない不便極まりない撮影だったにもかかわらず、アッジェの名は第三共和政時代のパリを克明に記録したこれらガラスネガとともにこれからも語り継がれるのではないかと思う ( → 関連記事 ) 。

 写真といえば、たいぶ前に地元紙に連載された「イメージの奥へ / 写真の自由な読み方」という記事も印象に残ってます。とくに土田祐介という 1981 年生まれの若い写真家の方の「display」という作品シリーズの一枚なんかは。おなじ空間を共有していながら PC のディスプレイ画面の向こう側にしか関心がないかのような 21 世紀に生きる現代人の生態を切り取ったもので、評者の大竹昭子さん曰く「まるでそれぞれが見えない壁に囲まれた個室に入っているような同一感がある」。いまじゃもっとすごいことになっていて、「歩きスマホ」は評者の言い方を借りれば「体は歩いているのに、頭と心はそこにあらず」という一種の精神分裂状態、ってことになりますな。この作品、フィルム撮影なのかデジタルなのかは知りませんが、作者は「煌々と光るディスプレイの向こう側への没入」を強調するため、画面を白くトバすという「加工」を施しているという。昔ながらのアオリ技法もいまではミニチュア効果としてだれでもかんたんに「加工」できてしまうし、アタマの古い自分なんか、デジタル時代の写真はどこまでポストエディット、ないしは「撮影後加工」が許されるんだろうかという気もしてくる。かんたんにいじれるようになった反面、それらがほんとうに現実を切り取った写真作品と言えるのかどうか。いままで以上に問われる問題かもしれない。

 そういう色眼鏡で見てしまうためなのか、半世紀以上も前に感度 10 で試行錯誤の繰り返しで撮影されたカラー作品の迫真性、臨場感をどうしてもつよく感じるのでした。… ってそういう自分もコンパクトデジカメでお茶を濁すようになってしまったが。でもたとえばカラーリヴァーサルの「微妙な色再現性の差」というアナログな特徴を売りにしたような高級コンパクトタイプもフジフイルムから出ていたり、またべつの意味でおどろきの「ブローニー判デジカメ一眼」というのもげんに発売されていて、個人的にはデジカメの「正しい」進化だと思いました ( 笑 ) 。

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2011年12月11日

「レオナルド・ダ・ヴィンチ 美の理想」展

 静岡市美術館にて開催中の「レオナルド・ダ・ヴィンチ 美の理想」展、見に行ってきました … 先月末に見に行って、きのうもまた見に行ってました。以前ここにも書いたけれども、「受胎告知」のときも二回見に行ったし、自分にとってダ・ヴィンチという偉大な芸術家の存在はとりわけ大きいので、今回もまたおなじ美術展を二回、じっくりと鑑賞させていただいたしだいです。

 今回の巡回展ではダ・ヴィンチ自身の手になる作品こそほんの数点、あるかないかであとは真筆かどうか仮説の域をでないもの、または愛弟子サライ、メルツィはじめとするいわゆる「レオナルド派」と呼ばれる後継者たちの作品がほとんど。それでも今回、本邦初公開、というか世界初公開となる「アイルワースのモナ・リザ」や、おなじく謎だった「第三の」「岩窟の聖母」、そして一連の「裸のモナ・リザ」などなど、好事家にとってはまさにあれかこれかと目移りするような傑作ぞろい。「モナ・リザ」にかんして言えば、1600年ごろ、ときのフランス国王アンリ 4 世の命を受けてお抱え画家アンブロワーズ・デュボアによって制作されたとされるルーヴル版「モナ・リザ」の世界最古の複製画など、「アイルワースの … 」とおなじ展示室を取り巻くようにいろんな「モナ・リザ」が一堂に会するさまは圧巻でした。

 今回の日本での巡回展はレオナルドの故郷ヴィンチ村にあるレオナルド・ダ・ヴィンチ理想博物館館長のアレッサンドロ・ヴェッツォージ氏みずから企画されたというたいへん野心的なもの。真筆作品こそ少ないものの、レオナルドの工房に属していた弟子たち、その流れを引き継いだ「レオナルデスキ ( Leonardeshi, 単数形は Leonardesho ) 」の画家たちが、師匠の追求した「理想の美」をいかに継承していったか、その過程でレオナルド自身がいかに「神話化」されていったか、という過程を彼らの作品群、それに触発されて制作されたさまざまな派生作品、または当時の印刷物を通して体感してもらおう、という趣旨のものでして、この意図はおおむね成功していると思いました。もっとも最後の「神話化されるレオナルド」については、「美の理想」という視点からはいささか脱線しているようにも感じましたが。ちなみにあきらかにレオナルド作品として展示されていたのは「老人の頭部」というちっさい素描と、「衣紋の習作」二点のみ。あとは弟子との共作、もしくはレオナルドの手が加わっていると仮定されるもの。

 よくレオナルドの愛弟子だと言われることの多い通称「サライ ( 小悪魔の意 ) 」。でもじっさいに彼のものだとされる「聖母子と聖アンナ ( ウフィッツィ美術館から運んできた! ) 」を見ますと、細密な遠景描写、師匠が弟子にみっちり叩きこんだとされる「着衣のしわ」など、たしかに師匠譲りの達筆だとは思う。でも … 目の悪い自分が見てもなんか「マネキン ( 人台 ) 」みたいでぎこちなく感じた。いまにも動き出しそう、という「躍動感」にとぼしい。瞳もなんだか象眼みたいですし。また自然描写という点でも、前景の草花はよしとしても、遠景の岩山のあの描き方はまだ師匠の域には達していないとも感じた。どことなくタッチが荒い、というか。それにくらべると師匠の手が入ったとされる「岩窟の聖母」は見る者に強い印象をあたえる。もとはロンドンの版とルーヴルの「オリジナル」と同様にアーチ型の上部をもっていて、板絵からカンヴァスに移し変えたさいに切り取られたみたいですが、それでも左上からさっと差しこむ神秘的な光に照らしだされた聖母子と天使の姿は、500 年以上も前に描かれた作品とは思えないほどの臨場感というか、緊迫感がある。

 弟子サライが描いたとされる作品では、小振りながら「聖母マリア」のほうが愛らしくて個人的にはよかった ( X線調査によると、師匠レオナルドの下絵の上に重ねて描かれているという ) 。でもこの「小悪魔」サライ、素行のあまりよろしくなかった人だったらしく、1519 年に師匠がアンボワーズで亡くなったあと、喧嘩で刺された傷がもとで 44 歳になるかならないかで死んでいる。以前 NHK で放映されていたドキュメンタリー「レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯」では、ナレーター役の俳優が「馬鹿な男でした」と評していたのをいまだに憶えている。

 絵描きとしては、むしろ師匠の遺言状作成に立ち会ったとされるフランチェスコ・メルツィのほうが、師匠の追求した「美の理想」の正統的後継者だったと思う。残念ながらもうひとりの愛弟子メルツィの作品というのは展示されてなかったが、会場で買った図録( 2,300円 ) にはメルツィ作「フローラ」という女性の肖像画が掲載されていて、エルミタージュにあるというこっちのほうがはるかに美しく、質が高いと素人目でも感じる。

 会場では「レオナルデスキ」たちの作品のみならず、レオナルドの「美の理想」におおいに影響を受けた同時代人の作品もまた展示されていたんですが、その白眉はなんといってもラファエロ・サンツィオ ( サンティ ) その人の手が加わったとされる作品。当時、レオナルドなど「親方」は工房を構え、そこで大勢の弟子たちと受注した作品を共同制作する、という徒弟制度が一般的でした。ラファエロもまた若き巨匠として工房をもち、弟子とともに描いたとされる一連の油絵作品が展示されていて、ワタシの目を釘付けにしたのが、「カーネーションの聖母」。その作品の前に来たとき、文字どおりしばらく動けなくなってしまった ( その壁の反対側にお目当ての「アイルワースのモナ・リザ」が待っているというのに ) 。ラファエロってあの頬杖をつくふたりの幼い天使の絵とか「聖母子」もので有名ですが、この作品、レオナルドの「カーネーションの聖母」に着想を得て制作されたものの一点らしいけれども、完成度の高さといい、膝に乗せた幼な子イエスにそそぐ聖母のあたたかい眼差しといい、幼な子の愛くるしさといい、遠景の描写といい、どれをとっても強烈な印象を受けたのでした … なんてったってその「肌色」がいい! ほんのり赤みのさした頬の描写、額縁から飛び出していまにも動き出しそう。赤ん坊の声がいまにも聞こえてきそう。マリアのうすく開いた口元からは、赤ん坊をあやす声がいまにも聞こえてきそう ―― そんなじつに活き活きとした肖像画だったんです。ちんまりとした油絵作品 ( この時代は多いけれども、これもまた板に描かれている。額縁右側から板の隙間がすこしのぞいていた)ですが、ハンブルクのギャルリー・ハンスというところの所蔵らしいけれども、一部の研究者ではロンドンにあるヴァージョンよりもこっちのほうが完成度は高いとしているようで、そんなすごい作品も同時にここ静岡市で見られるなんて、とほうもなくうれしいではありませんか ( ちなみにみやげ物の定番グリーティングカードなど、印刷された図版では聖母と幼な子イエスの頬のうっすらとした赤みは再現されず、全体的に白っぽい。やはり写真製版技術にとって「肌色」というのは再現がひじょうにむつかしいのでしょうね ) 。おとなりにあった「ヒワの聖母」という大きな板絵のほうは、地震 ( ? ) かなにかで破損して、修復跡が痛々しい。絵柄的には有名なウフィッツィにあるほうのラファエロの筆致そのものだったんですけれども。

 「アイルワースのモナ・リザ」という作品、初耳だったんですけれども、なんでもこの作品、長いことスイスの銀行の地下室に文字どおり門外不出状態で保管されていたらしい。このようなかたちでひろく公開されるというのも世界初だし、なんといっても研究者でさえ現物を見たことがないという。はじめチラシの印刷でこの作品を目にしたときには、「なにこれ、模写じゃないの?! 」とさえ思ったものですが、いざ現物を目にしたらガラリと印象が変わった。金色に鈍く光る袖のひだ、組み合わせた両手、襟元、そしてなにやら謎めいた微笑をたたえてこちらを見つめる「若い」女性の顔の繊細な筆遣い … とか見てますとやはりこれ、レオナルドの筆が入っているとしか考えられないくらいの説得力がある。背景は素人が見てもあきらかに未完成で、一説によると後世の人の手が加わっているらしい。いずれにせよルーヴルにある「本家」よりもとくに顔の肌色や唇の色あいなんかほんと美しくて、保存状態はこっちのほうがかなりいい ( ルーヴルのほうは傷みがひどい )。「本家」がポプラ板に描かれた油絵作品であるのにたいし、こちらはカンヴァス地に描かれています。ヴェッツォージ館長によると、この作品についての調査結果はまもなくある研究者グループによって本にまとめられて出版される予定だというから、そちらもひじょうに楽しみではあります。

 「『裸のモナリザ』、『レダと白鳥』」のコーナーも、珍しい作品ぞろいで見ごたえがありました。図鑑とか図録では見たことがあったんですけれども、とくに板にテンペラ画法で描かれた「レダと白鳥」の大きな作品はすばらしかったですね。

 また当時の印刷物も展示されてまして、個人的にとくに目を引いたのは『ポリフィロの夢』という物語のインキュナブラ本 ( 1499年刊 ) 。活版印刷初期本のことを「インキュナブラ」と呼んだりしますが、これはまたたいへん珍しいものを見せてもらったという思い。ややごつい特有の活字体で印刷されたテクストが、下へ行くにつれて先細りになってゆくのもおもしろい。あいにくなにが書いてあるのかはさっぱりですが ( ラテン語やイタリア語、ヘブライ語にアラビア語まで混ざっているらしい。いわばルネサンス期の『フィネガンズ・ウェイク』か ?? ) 。ページ上の挿絵木版画は、なんというかアントン・ゾルク印刷所から出版された『聖ブランダンの航海』みたいな例ののっぺりした感じの絵柄でした。

 また 1517年 10月にアンボワーズで最晩年のレオナルドに会ったという同国人アントニオ・デ・ベアティスという人の手書きの手記も展示してあって、こちらもおおいに興味を惹かれた。また19 世紀に制作された白大理石製の「立体版モナ・リザ」胸像なんかも展示されていて、「モナ・リザ」のスピンオフにはリトグラフやエッチングにとどまらず、こんなかわいらしい胸像まであるのかと感心しきり。

 … いずれにせよこんな機会はおそらく二度とない。静岡市にこれだけの作品群が一堂に会するという贅沢な美術展というのは、めったにないので、レオナルド好きでまだ見に行ってない人はいまからでも遅くないからぜひ一度、足を運んでみてはいかがでしょうか。損はないと思いますよ。このようなすばらしい巡回展の開催実現に尽力された関係者の方々に、心から感謝。

 最後にレオナルドの語ったとされることばを引用しておきます。

―― 光を見つめ、その美しさを堪能しよう。きみがいま見た光はもはやそこには存在せず、これから見る光はまだ存在しない。

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2011年10月16日

「セガンティーニ 光と山」展

 … いろいろと大変なことがつづいた年ではありましたが、気がついたらもう10月。12月のクリスマスシーズンはスペインの「モンセラート修道院少年聖歌隊」来日公演で締めるはず … だったけれども取りやめになりまして、だから、というわけじゃないがちょうど穴を埋めるようにすばらしい美術展がたてつづけに開催されるとあって、そっちへ行くことにしました。ひとつはこの「アルプスの画家 セガンティーニ 光と山」。いまひとつはおんなじ会場で開催されるダ・ヴィンチ! 展。静岡にダ・ヴィンチ作品が来るとは、小学生の時分から大好きだったワタシとしてはもう感謝感激雨あられ状態。というわけで今回はセガンティーニ展当日券と同時にダ・ヴィンチ展の前売り券も購入。いまから楽しみ。

 静岡市美術館ってはじめて行くところだったけれども、たしか以前、静岡駅南口複合ビルにも美術館が入っていたはず。自分はそこで、ロシアのどっかの美術館所蔵作品展を見た記憶がある( とりわけムリーリョの聖母子絵画は、340年ほど前に描かれたとは思えないほど鮮やかだったことが鮮烈な印象として残っている )。それはともかく、静岡市美術館って去年の春に竣工したばかりの駅前再開発ビル「葵タワー」の 3 階にあって、白で統一された明るい空間ながら、なんとなくそっけない造り。美術館のエントランスも無機質で、もうすこしなんとかならんかとは感じた。

 今回、セガンティーニ展を見に行こうと思い立ったのは、E テレ ( この言い方好きじゃないけど ) の「日曜美術館 ( いったい何十年放映しているんでしょうねぇ、この番組? ) 」をたまたま見たのがきっかけ。途中からだったけれども、「アルプスの真昼」から放たれるまばゆいばかりの「光」とか「煌き」を TV 画面からでもつよく感じたため。指をくわえていいなあ、見に行きたいなあ、とぼんやり思っていたら、なんと静岡に巡回するじゃない?! というわけで待ちに待ったセガンティーニ作品を見に行ったしだいです。

 セガンティーニ作品がこれほどまとまって出展されるのはじつに 33 年ぶりなので、こんなすばらしい作品が静岡で見られるとはまったく幸運としか言いようがない。期待にたがわず「本物」から放出されるパワーは圧倒的。風景写真と通底するものが感じられます。

 回顧展らしく初期作品から順を追って最晩年の畢生の大作「アルプス三部作」のスケッチまで、画家の辿った道のりがじつにわかりやすく展示してありました。開館時間を狙って行ったためか、あんまり混んでなくてさらに好都合 ( 来たるダ・ヴィンチ展の場合は、こうはいくまい … ) 。こういう大きな山の風景画というのは一点一点、じっくり鑑賞するにかぎる。で、思ったんですが、初期作品ってやはり学校で教わったセオリーどおりというか、伝統的かつ「暗い」色調の作品がほとんど。これは当時住んでいた北イタリアのブリアンツァ地方特有のどんよりとした天候のせいもあったためだと言われる。とはいえたとえば「羊たちへの祝福」はとくに印象的。若いころのセガンティーニはこのほか教会聖歌隊席を描いた作品とかあるので、宗教にもかなり関心が深かったらしい。そういえばブリアンツァ時代の作品として「湖を渡るアヴェ・マリア」という有名な作品のあとに制作されたという同名コンテ画も見たけれども、もとになった油絵作品のほうは、チューリッヒ少年合唱団の「アヴェ・マリア」アルバムのジャケット表紙に印刷されていた絵だったことにいまさらながら気がついた。ああなんだ、この絵だったんだ、と。というわけで急に懐かしくなったので、あとでチューリッヒの「アヴェ・マリア」CD を聴いてみようかと思います ( 笑 ) 。

 セガンティーニ展では依頼によって制作された肖像画とかもありましたが、なんといってもつよい印象を受けるのは尊敬していたというミレーとおなじく、アルプスという過酷な環境で細々と牧畜や畑作をして生計を立てている、名もなき農民の姿です。羊の剪毛、牛や羊の放牧、種まく人、薪を集めたそりを曳いて雪原を踏みしめ村に帰る老婦人にジャガイモの皮むきをする女性に洗濯する女性 … こういう人たちを主役に据えた作品を見ていますと、かつて人間は自然とひとつになった生活を送っていたんだということがいまさらながらつよく感じられます。ま、これはいま読んでいるベリーの本のせいかもしれないけれど … かつてはこういう暮らしが当たり前だったんだということが痛いほど伝わってくるのです。セガンティーニは年をとるにつれ、「光を探し求めて」どんどんアルプスを上へ上へと移り住んでいったのですが、どの絵をとってみても絵画の中に封じこめたこうした村人にたいするまなざしはかぎりなくやさしい。

 お目当ての「アルプスの真昼」ですが、いやー、なんというか … 初期作品の暗さとは打って変わって溢れんばかりの真夏のアルプスの昼下がり、ペーターとかハイジ ( 笑 ) が飛び出してきそうな、燦々と降りそそぐ陽光というものをつよく感じさせる作品でした。もう感動しきり。やはり本物はちがうなー! 暗い絵から明るい絵へ、というのは、以前見たピカソの作風なんかも思い出した ( 「青の時代」とか ) 。そして牛や羊や山羊といった家畜も、のんびり草をはんだり水を飲んだり、いまにも動き出しそうなくらいの臨場感がある。また、強烈な山の夏の陽射しと同様、みずみずしく生い茂る牧草地を吹きぬけるさわやかな風までもが感じられる。

 そういった「劇的効果」を生み出しているのは、ひとつには「分割画法 divisionism 」という描き方にあるらしい。スーラの「点描法」なんかもこの仲間らしいのですが、ようするに補色関係にある色も細切れに同時に描きこむ技法。グリーンの場合はマゼンタとか。これで、画面に「燦々とした明るさ」が再現されるという … 当時の画家ってすごい! もっとも弟子の G. ジャコメッティ ( 棒杭みたいな彫像で知られるアルベルト・ジャコメッティはその息子 ) が師匠についていっしょに描いたという「ムオタス・ムラーユのパノラマ」という文字どおりパノラミックな 4 点組は、あきらかに「写真」をもとに制作されていることがわかる ( 3 番目の妙にフレームアウトした羊飼いと羊の群れのような破格の構図とかを見れば … ) 。

 セガンティーニは最晩年、わずか 41 歳の若さで不帰の人になったけれども、いまわの際に山小屋の窓から、「わたしの山が見たい」とうわごとのようにつぶやいたという ―― なんだか「もっと光を! 」みたいな話だ。でもセガンティーニの遺産は、いまこうして自分の目の前にある。120 年以上前に生きていた人びと、動物、そしてアルプスの自然が、額縁の内側からこっちを見据えている。セガンティーニの作品を見てたしかに言えることは、彼らは確実にこの世界に存在した、そしていま、目の前にこうして立ち現れているという厳然たる事実だ。

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2011年07月09日

アナログもデジタルも両方必要

 せんだって見た「地球ドラマチック」。毎回、たいへん興味をそそられる良質なドキュメンタリー番組を日本人視聴者向けに紹介してくれるので、YouTube もいいけれど、プロの手になるこういう番組は文字どおり蒙を啓くというか、ありがたいかぎり(ときおり? がつく場合もあるけれど)。「ストーンヘンジ」の回もすこぶるおもしろかった。とくに火葬された人骨の大規模な発掘については、国内報道ではほんのすこししか紹介されてなかったから、ほぼその中身を知ることができてよかった。やはりあの巨石遺構はスコットランドの「ストーンサークル」文化となんらかの関係があるみたいですね。でもその前に放映された、「カラコルム 氷河を撮る 〜写真が語る100年の変化〜」は、風景写真好きにとってもたまらない企画でしたね。

 100年以上も前、イタリア人写真家のヴィットーリオ・セラなる人が探検隊を組織して、当時のバカでかい撮影機材をカラコルム氷河に持ちこんで撮影した。当然、あのへんの記録映像としては最古のもので、当時の貴重な原板は現在、セラ自身が作った保管室に大切に残されている。なんたってあの当時はセルロイドベースのフィルムがなかった時代。セラはなにを持っていったか、というとなんとガラス板の「乾板(dry plate)」。昔の人はほんとにすごいもんだ。重くて割れやすいガラス乾板を抱えて、世界で2番目に高い山、K2 が望見できる撮影ポイントまで撮影機材一式、仲間とともに担ぎあげてびっくりするほど鮮明なモノクロ映像を残したのだから。これはもう偉業というほかなし。… しかしながらカラコルム氷河各所を撮影記録した映像というのは、その後組織的に系統立てて残そうという人がいなかったようで、地球温暖化による氷河減少が世界的に問題化するなか、セラと同郷人の若き写真家にして登山家のファビアーノ・ヴェントゥーラという人が100年前のセラとまったくおなじ撮影地点から、まったくおなじような写真を撮影する、というとほうもない計画を実行したというのだからこのヴェントゥーラさんにも敬服する(→ 公式サイト)。

 足場の悪い峻険な高山地帯、しかも氷河に沿って幾日もかけて遡るわけですから現代の撮影機材を担ぎあげるのだって一苦労。セラの使用機材というのが番組でも紹介されてましたが、あれはいわゆる「8 x 10(エイト・バイ・テンと読む)インチ」、つまり「六つ切り」サイズのガラス乾板にドッカーンと写す「木製組み立て暗箱」タイプのカメラですな。で、ヴェントゥーラさんが携行した機材というのが、風景写真好きにとっては一度は使ってみたい(とワタシは思う)、「リンホフ」というメーカーの金属製フィールドタイプヴューカメラの「4 x 5(シノゴと読む)」インチ判。モデルが「スーパーテヒニカ」なのか「マスターテヒニカ」なのかは判然としなかったけれども、てっぺんには「連動距離計(レンジファインダー)」も乗っかってました。が、これ書いている当人はあいにく安物の「組み立て暗箱」型の4 x 5 判しか持ってなかったから、リンホフのような4 x 5 判カメラで連動距離計をどういうふうに操作するのかはわからない。1950 年代、グラフレックス社の通称「スピグラ」なんかを持ってた記者たちは、あれで被写体に焦点をあわせてバシャバシャ撮っていたから、「かぶり布」をかぶって見づらいすりガラスでできた「ピントグラス」でルーペ越しに隅々までのぞいて確認 … なんてことしなくてもいちおうピントはあいそうだし構図の確認も容易だと思う。もっともヴェントゥーラ氏いわくセラの写真のすばらしい点は「ギリピン」にあるといい、きちっと布(夏場は熱中症になることまちがいなし)をかぶってピントグラス上でしっかりピントあわせをしたと言ってました。たしかに大型カメラ最大の特徴は、なんといってもその息を呑むようなシャープネス、超高解像度の迫力満点の映像にあるのだから(フジの Velvia なんてとくにそう)。TV 受像機でいえば、最新のデジタルハイヴィジョンといったところか(画素数に換算したら4 x 5 原板の圧倒的勝利だとは思うが)。

 ヴェントゥーラ氏はセラのガラスネガを見たあと、今回の「再撮影」では昔ながらのフィルムカメラ、それもセラの時代とほとんど機構的に変わってない「4 x 5」判でも撮影すべきだと感じたといいます。もちろんデジカメも携行してましたが、ヴェントゥーラ氏によれば、それだけじゃダメ。たしかにデジカメは何度でも撮りなおしがきく。気にいらないカットは削除すればいい。とはいえ写真にとって大切なのは厳密なフレーミングと露光。デジカメではこういったことがおろそかになりがち。対象をじっくり観察して、慎重に構図を決め、ピントをあわせて適切な露光で撮影すること。4 x 5 以上の大型カメラはいわゆる「ロールフィルム」ではなくて、一枚一枚4インチ x 5インチにカットされた「シートフィルム」を使うから、35mm 判みたいに何百本も持っていくわけにはいかない。せいぜい数十枚が ―― 「世界の屋根」地帯に持っていくわけだし ―― 限度だろう。おまけに遮光密閉されたシートフィルムを現地で「フィルムホルダー」に詰めるという「暗室作業」もこなさなければならない(じっさいには専用の簡易暗室袋に両手を突っこんで、手探りにてフィルムの「切り欠き」(ノッチ)をたよりに表裏を確認したうえでホルダーに装填する。ちなみに自分の場合はもっとかんたんな「パケットフィルム」タイプのカットフィルムを使ってました。一枚一枚が遮光封筒に入っていて、封筒ごとホルダーに入れて封を引いて撮影、撮影後はまたもとどおり封をして、現像に出す。20枚入りで万札が飛んだ[笑])。こういった昔ながらの超アナログな機材とともに、「360 度パノラマ」が撮れる最新機材も携えていった。デジタル一眼のほうは、Nikon でした。「大判カメラは撮影のたびにシートフィルムを交換しなければなりません。でもそのほうが撮影に集中でき、わたしは好きなのです」とか、ヴェントゥーラ氏は語っていた。くわえて言えば、リンホフは頑丈だ。最近のヤワな機材とは造りがちがう(だから愛用者が多いのかも)。

 もう一点、ヴェントゥーラ氏の4 x 5 判大型カメラによる撮影手順の説明で、「絞りは全開にしておきます」という箇所について、いまいちピンとこなかった向きのために念のため。35mm 判一眼レフでも通常、ピントあわせのときは絞りは全開になってます。f16 とか絞りこんだ状態では、当たり前ですが暗すぎてピントあわせがしずらい(機種によっては「プレヴューボタン」で撮影時とおなじ状態で確認できるものもあります)。でも大型カメラの場合、絞りこんだときはその状態でもピントの確認が必要になったりするから、ひじょうにやりずらいし、天地左右逆像は決定的にやりにくい。ピントあわせをしたらシャッターの遮光板を閉じてシャッター速度と絞りを決め、レンズシャッターをセットして空シャッターを何度か切り、フィルムホルダーをセットしてホルダーを引きぬいて撮影、という手順になります。このときもっとも多い失敗は、おそらく「シャッターを閉じる」という作業だと思うが … ここが開けっぱなしだと、ホルダーを引き抜いた瞬間にフィルムは即感光、おシャカになる(あるガイド本には「指差し確認」しながら撮影せよとまで書いてあった)。

 … と、組み立て暗箱タイプの4 x 5 判と重い三脚をかついで伊豆西海岸を撮っていたころを思い出しつつ番組を見てました。いまひとつ印象的だったのは、デジタルアーカイヴ化されたセラのオリジナルネガの数々。そしてiMac (?) 上のPhotoshop とおぼしきソフト上で大写しにされていたヴェントゥーラ氏の写真の場面では、昔ながらの「写真術」と最先端のデジタル処理技術とがみごとに融合したようにも思えたのでした。デジタルアーカイヴ化、とくると、Google が大英図書館の「版権切れ」蔵書をすべてデジタル化するとか … 。

 ↓ おまけとして、自分が1998年11月に 4 x 5 判で撮った奥石廊崎海岸の写真。画面上端が、ちょっと「ケラれて」光量不足です … 。ヴェントゥーラ氏はリンホフによる広角撮影では焦点距離 90mm のレンズ(35mm 判では 24mm 相当) を使ってましたが、これは35mm 判換算で 28mm 相当の 105mm レンズで撮ったもの。あいにくフィルムスキャナーの性能がいまいちで、原板を忠実に再現しているとは言いがたいけれども … 。画面がフィルター枠でケラれたのは、たぶん手前のイソギクにもギリピンであわせようとして「アオリ」をかけたからだと思う。「アオリ」というのはこの手の大判写真撮影術には付きもので、4 x 5 判以上の大型カメラでは広角系でも焦点距離の浅い長玉レンズを使うから、手前から無限遠までパンフォーカス撮影するにはどうしても光の通る軸を「傾ける(屈折させる)」必要がある。大型カメラのあの蛇腹式の胴体はこの「アオリ」撮影にとって最大の利点となる(上記リンホフのページにその好例が載ってます。右下の画像が「アオった」状態)。このときは左下方向にすこしだけ「チルト」と「スイング」して焦点をあわせたと記憶しています(だから右端がケラれた)。この「アオリ」というのは、なにも大型カメラに特有の廃れた撮影術なんかじゃなくて、高級な 35mm 一眼レフ用のレンズでもレンズ軸が移動可能な「シフトレンズ」というものがあり、これはたとえば高層ビルをゆがめずにまっすぐ撮ることができる。また最近は「じっさいの風景を箱庭のように見せかける」写真画像というものがはやっているようですが、あれだって実態は昔ながらのアオリ技法のチルト・シフトの応用にすぎない(デジタル加工でミニチュア効果を出すソフトなんてのがあるんだなあ …)。一見、最新デジタル技術、と思われるかもしれないが、これだって150年以上も前の写真術草創期のアナログな技術・技法があればこそ実現できたこと。理想はやはりアナログ・デジタル共存共栄(笑)。

奥石廊崎海岸


 … 地元紙の「歴史ごよみ」によると、869 年のまさに今日、貞観地震が起きたらしい。そしてスペースシャトルの「最後の航海」もはじまった。



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2011年01月09日

ミクロ点描画法?! 

1). 2011年最初のお題は、こちらの番組から。途中から見たのですが、いやもうびっくり!! あの「モナ・リザ」、いったいどうやって描いたのか、については長いあいだほんとうのところはだれにもわからなかった。それをついに突き止めた人がいるという! その人はじっさいに自身が「解明した」技法を使って、まずは「聖アンナと聖母子」の聖アンナの顔のみを描いたものをルーヴルの学芸員に見せたら、相手は一瞬、絶句したという。それほどまでに「再現画」と「本物」はうりふたつだったということです。

 レオナルドのもちいた技法を「再発見」したと主張しているのは美術史家のジャック・フランク氏という人。この人のすごいところは、自説を裏づけるためにレオナルドの傑作を自分で描いてしまおうとしていること。番組では、リザ婦人(黒ヴェール黒装束の喪服姿というのも異様といえば異様ではあるけれど)の左眼部分の再現のようすを映し出していたが、もう文字どおりTVに釘付け。最近のTV番組はどれも内容が陳腐でつまらなくて、TV受像機(いまどきこんな言い方はしないか)のみならず内容までもが薄くなっていると思ってはいたけれども、すくなくともNHK教育は昔から好きだし、たまにはこういう「蒙を啓く」たぐいの番組だってまだある。いざとなればラジオだけでもいいかなとは思うけれども、美術ものとか自然もの、そして大好きな音楽の公演ものとかは、NHK教育のようなチャンネルで放映してもらったほうがいい。でもたいてい、自分が見たい番組って「地上波」ではないんですよね(苦笑)。

 フランク氏の発見したレオナルドの技法とは、「ミクロ点描画法」だという。おおざっぱに言うとまずポプラ板に不均一に下塗りを施したあと、カーボン紙を当てて左眼の輪郭を描く。転写された輪郭の上に薄い褐色系の色を下塗りし、指でにじませてから、細筆で細かく輪郭を描き入れたのち、1週間乾燥させる。乾燥したらこんどは極細の筆の穂先でさまざまな色合いの点々を入れて輪郭線をつぶしてゆく。虫眼鏡を覗きこみながらのじつにpainstaking, backbreaking なしんどい作業がえんえんとつづきます。… フランク氏はこの「ミクロ点描画法」を15年以上も前から教えてきたんだそうですが、生徒はみんなメゲてだれひとりとしてつづかなかったという。むりもない、と思う。あんな細かすぎる作業、なみの忍耐力しか持ちあわせていないふつうの人にはとてもできっこないです。できあがった左眼部分、本物とくらべてみても遜色ない出来栄え!! もっともまだまだ「未完成」だという。なるほどだからレオナルドはいつまでたっても「これは未完成です」と言っては最後まで手放さなかったんだな(もっとも手放さなかった理由はこれだけではなかったようですが)。

 それにしてもあの有名な肖像画、よく言われる「スフマート」技法だけではなかったんですね。指の跡さえ残らないようにするためには、さらにもうひと工夫があった、ということなのか。「受胎告知」を見に行ったとき、やはり同様の「最後の晩餐」再現シーンのモノクロ映像を見たことがあり、俳優ジョヴァンニ・ミコリ氏のこの試みもおもしろいとは思うけれども、衝撃度という点ではこっちのほうがはるかに上なのであった。

2). 途中から見た、というのは、こっちの裏番組を見ていたため。ウルトラマンねぇ … 45年だって。そういえば「ミラーマン」なんてのもあったような … 大晦日に親戚一家が訪ねてきてくれたとき、年中さんの男の子が某コンビニチェーンで配っているらしい仮面ライダーのスタンプラリーカードを握り締めていたっけ。仮面ライダー … も負けずに古いよな。自分が幼稚園児だった当時、ウルトラマンも仮面ライダーもすでに存在していたし(笑)。

3). 今年の「NHKナゴヤ ニューイヤーコンサート」、バッハの「組曲第3番 BWV.1068」とかも演奏されてましてとてもよかった。オルガンは今年も吉田文さんで、弾いていたのはカークエーレルトの「かわいいワルツ」というはじめて耳にする作品。題名どおり軽やかで肩のこらない感じの曲でした。演奏者が第1手鍵盤で弾いていたとき、鉄琴みたいな音も聴こえていたから、ここの楽器にはグロッケンシュピールのストップも備わっているんだろうか(おなじ製作者によるNHKホールの大オルガンにはそのストップがある)。

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2010年07月11日

「トリノ・エジプト展」

 この前、NHK-FMで「ラジオ深夜便」を聞いていたら、イタリアのトリノにあるエジプト博物館のコレクションがいま日本に来ているという話をやってまして、たいへん興味を惹かれました。なんでも本邦初公開という、ツタンカーメン王とアメン神とが仲よく立っている彫像とかも来ているらしい。ほかにもプトレマイオス時代の子どものミイラとか、ラムセス3世の息子の人形(ひとがた)石棺の蓋とか、見たことのないものばかりでおおいに食指をそそられた。指をくわえてしばらく聞いていたら、なんとなんと日本の最終巡回はここ静岡だという!!! 喜び勇んで美術展としては珍しく前売り券まで買ってしまった。で、先月12日から県立美術館にて、「トリノ・エジプト展――イタリアが愛した美の遺産」の待望の展示がはじまったので、ようやく見に行ってきたしだい(ちなみにこちらの「質問ページ」も秀逸)。

 かのシャンポリオンが、「メンフィスとテーベへの道はトリノを通過している」ということばを残したほど、トリノエジプト博物館のコレクションは規模が大きく、学術的価値もきわめて高いものだということは、寡聞にして知らなかった。イタリア人発掘者、とくると、その荒っぽさから墓泥棒なのか考古学者なのかよくわからないベルツォーニという人のことくらいしか知らなかったから、これは新鮮なおどろきでした。

 本家の博物館では、段階的に改装が進行中で、工事の指揮をとっているのがトリノ冬季五輪の美術監督だとか。で、照明と鏡を駆使した斬新な展示法が評判とのことで、今回の日本巡回展でも同様の展示方法が採用されたという。昨年見た「国宝・阿修羅展」のときみたいに、たいていの立像・石像・石棺の蓋なんかはガラスケース越しではなく、鑑賞者の目前にデンと安置されている。お目当ての「ツタンカーメン王とアメン神の立像」は独立した空間の真ん中に配置され、ブースの隅には鏡が配置されてました。ほかにもほの暗い照明がスポットライト的に当たり、鏡を使った演出も嫌味にならないていどでおもしろい効果をあげていたように感じました。

 「阿修羅展」のときは押すな押すなのものすごい混雑で、とてもじゃないが美術展とは思えなかった。でも今回はそんなバカ騒ぎもなく落ち着いて、ゆったりと心ゆくまで鑑賞できてなにより。

 さて展示の最初でまずお目にかかったのは――なんと油絵(!)。19世紀末、トリノエジプト博物館のようすを描いたもの。古代エジプト展で油絵を見ることになるとは、夢にも思っていなかった(笑)。最初の展示でおおいに興味をもったのは「トトメス3世のシリア遠征のパピルス」というパピルス巻き物の断片。20王朝時代というからトトメス3世の生きた時代から300年くらいあとの時代に記録された文書ということになる。おもしろいのはその「字体」。典型的なエジプト象形文字というより、なんか草書体みたいな印象です。こんな古文書、はじめて見た。なんでもトリノエジプト博物館は、パピルス文書の収集でもつとに有名らしい。説明によると、トトメス3世の一人称で語られているという。当時、『イリアス』のような英雄譚として流布していたらしい。…いきなりすごいもの見てしまった。

 今回、思ったのは、日用品のたぐいも多数展示されていること。書記の使ったパレットにタブレット、手斧(「ちょうな」と読む)にのみ、木槌といった職人道具、亜麻布の反物にあの古代エジプト特有のアイシャドウを塗るための「コホル容器」と呼ばれる化粧箱、そしてなんとすり鉢にすりこぎ、手箒やピンセットなんてものまである。3千年以上も前の古代エジプト人の暮らしぶりが生き生きと立ち現れてくるかのようです。

 そのつぎの展示ブースはお待ちかねの彫像・石棺蓋がずらり。まず目を引いたのは赤みがかった花崗岩でできた「カエムウアセト王子の石棺の蓋」。王妃の谷から出土したものらしい。また「イビの石製人形棺の蓋」というのもすごい。末期王朝時代にカルナックのアメン大神殿で財宝を監督していた役人のもので、てかてかした黒い変成硬砂岩の蓋はとてもつややかで美しい。

 そのちょうど向こう側に、鏡つきスペースがあって、そこに「アメン神とツタンカーメン王の像」が立ってました。もちろんガラスケースなし。360度ぐるりと眺めることができます。石灰岩でできているとのことですが、真っ白で、なんか大理石でできているみたいです。ツタンカーメン王の表情も若々しくて、左脚をすっと前に出したファラオの立ち姿もりりしい。アメン神のほうは、あいにくお鼻が欠けちゃってますが(? 、発掘当時からか)。

 つぎは「祈りの軌跡」と題された展示。ここでは「ステラ」という、てっぺんがアーチ状に丸みを帯びた石碑のたぐいが多い。男性がこのステラを奉納する役目を負っていたらしい。個人的には「ステラを奉納するウベンラーの像」が印象的。ひざまずいてステラを奉納している小像で、掲げているステラには「太陽の舟」がレリーフ状に彫られてました。また「家族像」や「ふたりの女性の像」といった小像には、亡くなった被葬者への哀惜の念みたいなものが伝わってくるようで、心を打たれます。でもここで目をとくに引かれたのはいわゆる「死者の書」のパピルス。天秤に乗っけられた死者の心臓と「マアトの羽根」とが釣り合えば楽園行き、そうでなければカバみたいな化け物に心臓を食われて、来世での生活はできなくなる、という冥界の神オシリスが裁く審判の場面が鮮やかに描かれてました(「最後の審判」の原型か??)。

 つぎは「死者の旅立ち」という展示で、21-22王朝時代の彩色木棺の蓋がいくつかありました。目を引いたのは、それよりも古い中王国時代の「メレルの彩色木棺」。人形棺が普及する以前のもので、こちら側に死者の「のぞき窓」でもある「ウジャトの眼」がしっかりと描かれてました。カノポス壺や、シャブティと呼ばれる、あの世で被葬者本人に代わってさまざまな雑事をこなす人形なんかも展示されていて、はじめて見るものだからへぇ、これがと見入ってました(カノポス壺は、ミイラづくりのときに除去された内蔵を収めた容器)。墓場の守護神、山犬のかっこうをしたアヌビス神(タロットにもそんな絵柄があったような気が)が、なんでいつも「そり」に乗っているのかも今回はじめてわかった。あれって墓所に石棺を運び入れるそりを表しているらしい。ほかにもいろいろとわかったこととかあるけれども…「ジェド柱」って、なんであんなけったいなかたちをしているのかと思ったら、あれオシリスの「背骨」ですって。知らんかった。スカラベやアンク(十字架のモデルともいわれるようですが)とともに、これらは護符、タリスマンですね。また今回の展示では横文字表記が、たとえば「人形棺」がanthropoid sarcophagusとなっていたけれども、これで大丈夫なんかな?? 

 …とにかく質・量ともに圧倒された。めったに拝めないものばかりだし、門外不出のものも多数あり、この機会を逃したらトリノにまで行くしかない(苦笑)。なのでこんな貴重な古代エジプト遺産の数々がここ静岡で鑑賞できて、ほんとうによかったと思う。開催期間は来月の22日までなので、まだの方はぜひ。

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2009年11月07日

阿頼耶識にタルボット

1). けさの「ラジオ深夜便 こころの時代」は、阿修羅さんのいます奈良・興福寺貫首(かんす)の多川俊映氏のお話でして、寝ながらですがわりと神経を集中して聞いていました…阿修羅さんと「八部衆立像」のみなさんは、東京・九州と長旅の末、いまはお寺にもどって「仮金堂」にてご本尊を取り巻くように勢ぞろいしていますね(23日まで)。で、その立像群の前でのインタヴューでした。多川貫首の話にはもちろん阿修羅さんやその他「八部衆」さんたちのことも出てきましたが(迦楼羅[かるら]以外、みんな「童顔」に作ってあることとか)、もっとも興味を惹いたのは「阿頼耶識(あらやしき)」の話。梵語では『大辞林』によるとalaya-vijñanaと書くらしいけれど、貫首の話ではなんと、あの「ヒマラヤ」ともおおいに関係があるという! Himalaya(s)も分解すると「ヒーマ」+「アラヤ」で、「雪倉」くらいの意味(→語源については英語版Wikipedia記事該当箇所を)。万年雪を頂いているから――近年、急激な氷河溶解が気にはなるが――たしかにそのまんまなネーミングだ。問題はアラヤで、ここが「阿頼耶識」の三文字と重なる。多川貫首の話では、「アラヤ」とは心の奥底の「無意識」、いまふうに言い換えるとsubliminalの世界。つまりは人の思いというのは善なる思いも邪な思いもすべからく「阿頼耶識」から発する。興福寺は法相宗の大本山で、法相宗は別名「唯識宗」とも呼ばれるらしい。多川貫首ははじめ寺を継ぐつもりはなかったようで、大学では心理学(!)を専攻していたという。でも「人の心の奥底の想い」を重要視する仏教宗派と、心理学とはやはり通じ合うところがあったのでしょう。けっきょく寺を引き継ぐ決心をしたそうです。「阿頼耶識」とくると、三島由紀夫。晩年、さかんに「阿頼耶識」のことを話したものだから、あるとき、「そんなに言われちゃ皿屋敷になってしまいますわ」とか言われて、笑いながら話を収めたとか、三島に関する本で読んだおぼえがあります。また多川貫首は「いまの社会はあまりにも物事を『分けて』考えている」とも言ってました。たとえば「生と死」というのは対立する概念ではなくて、死があるがゆえの生、つまり表裏一体の関係なのに、いまの人はあまりにも「死」について考えようとしない。結果、「生きることが『薄味』になっている人が多いのではないか」とも言ってました。これを聞いていて、二、三年前に聞きに行った、「死生学」のアルフォンス・デーケン教授の講演会のこととか思い出した。言い方はちがうけれども、どっちもおんなじことを話しています。

2). 今日は立冬ですね…長泉町に「クレマチスの丘」という複合文化施設があるのですが、いまさっき地元紙夕刊を見たら、いつのまにか写真美術館ができていた。開館記念展では写真術の先駆者のひとり、英国人タルボットに焦点を当てたものということで、こちらもおおいに興味あり。写真術の祖とくると「ダゲレオタイプ」のルイ・ジャック・マンデ・ダゲールのほうがつとに有名ですが、紙ネガに直接焼き付ける「カロタイプ」の発明がその後の写真技術発展に与えた影響はやはり大きいように思う。ダゲレオタイプはシャープで鮮明な映像を残せたけれども、複製が作れなかった。対する「カロタイプ」は紙ネガを反転させて陽画(ポジ)を得ることでいくらでも複製を作ることができたけれども、紙に直接感光剤を塗ってあるのでどうしてもきめが粗くて、写真ならではの鮮明さに欠ける(輪郭線がぼんやりしている)。1851年に両者の欠点を相殺した「湿式コロジオン法」が発明されてからが、いまにつづく写真の歴史のはじまりだと言っていいでしょう(「湿式」というのは撮影直前に感光剤をガラス板に塗るのでそう呼ばれる。「湿式」では感光剤が乾かないうちに撮影と現像を完了しなくてはならず、この使い勝手の悪さを解消したのが「ガラス乾板」式[dry plate]。以前ここにも書いたジェイコブ・オーガスト・リースはこれを使ってニューヨークのスラム街を暴露した写真を撮って、「報道写真」の草分け的存在になった)。…って生年月日欄を見たら、リースって今年生誕160年だったんですね…。

3). …ところで20年前の11月9日(あしたですね)は、「ベルリンの壁」が崩壊した日ですね(→AFPBB関連記事)…。その年(平成元年)に生まれた子どもは晴れて成人というわけで、いまさらながら月日の過ぎ去ることの速さをしみじみ感じているところです…「ベルリンの壁」関連では、最近、地元紙に掲載された国際問題の専門家イニャシオ・ラモネ氏(もとLe Monde diplomatique紙総編集長)のコラムが印象的でした。とくに共産主義が内側から自滅したことを受けて、「資本主義の勝利」だと言い放ったインテリ連中を批判したくだりとか。ちょっと引用してみます。

 「…ここから 『歴史の終わり』を掲げる、知識人の酩酊が始まった。これが決定的な誤りだった。実は、資本主義にとり共産主義は好敵手で、力による対立の緊張が暴走を防ぎ、自己規制へ導く役割を果たしていた。(好敵手を失った)資本主義は最もひどい衝動に(未来を)かじ取りさせることになった。世界に『平和を配当する』役目を忘れ、米国は経済のグローバル化を、各国に押し付けていった」

 その結果が時代逆行とも思える労働・雇用環境の急激な悪化をもたらし、また『資本論』とかが亡霊のごとく復活してふたたび読まれるようになったんだな。

 当時の日本はどうだったかというと「プラザ合意」後の円高不況のあとにやってきたバブルに踊らされていた時期でもあり、「リクルート疑惑」その他いろいろあって国民が政治というものに関心を示さなくなり、また「若貴兄弟」活躍華やかなりしころだった。20年経って、この国はすこしは変わったんだろうか…惰眠をむさぼってきただけのような気もしないではないけれども。

 仏教では「目に映じるいっさいが空」だと多川貫首は言ってました。かたちあるものみな壊れる、すべては生々流転、すべてははかない。これをじつに端的に、ずばり書いた人が千年以上前の日本にいました。すくなくとも「この世の無常」というものをこれほど簡潔に表現した文章というのは、ほかの文学作品にはたして存在するのかどうか。

 ただ過ぎに過ぐるもの 帆かけたる舟 人の齢 春 夏 秋 冬(『枕草子』第245段)

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2009年06月28日

終わりのはじまり? > Kodachromeの「引退」

 22日付の記事で配信された、Kodachromeカラーリヴァーサルフィルムの「引退」。自分はもっぱらFujichrome派でたいしてKodachromeは使わなかったとはいえ、今回の報道には一抹の寂しさを感じました(→AFPBBサイト関連記事USFLサイトの関連記事。国内販売向けコダクロームはすでに2007年に取り扱いが終わっていたことは寡聞にして知らなかった)。

 ほかの記事でもそう書いてあったあったけれども、いまコダクロームの現像って米国カンザス州パーソンズにあるDwayne’s Photoのみが唯一、一手に引き受けているらしい。自分が使っていたころはもちろん国内にもコダクローム現像を引き受けるプロラボが「堀内カラー」など、三か所くらいはあったと思う。現像方式が特殊で、発色カプラーがはじめから感光乳剤に含まれているフジクロームなどの「内式」とちがって、現像プロセス中に三色感光乳剤を追加する「外式」。だから現像処理も複雑で熟練が要求され、時間もかかるから当然その分の手間賃も現像代金に上乗せされる。現像が上がってくるまで、すくなくとも一週間以上はかかってました。

Unlike any other color film, Kodachrome, introduced 74 years ago, is purely black and white when exposed. The three primary colors that mix to form the spectrum are added in three development steps rather than built into its layers. Because of the complexity, only Dwayne’s Photo, in Parsons, Kan., still processes Kodachrome film. The lab has agreed to continue through 2010, Kodak said.

↑下線部分はつまり、発色工程が現像してからなので、はじめはただの白黒画像。これにたいしてフジクロームやエクタクロームなどの「内式」は、感光乳剤にはじめから発色カプラーが組みこまれている。

 記事にはポール・サイモンの「僕のコダクローム(Kodachrome)」という歌まで出てくるけれども、写真愛好家のみならず、米国人にとってコダクロームフィルムはひじょうに身近な存在だったはず。家族の写真とか旅先で撮った写真。米国ではどちらかと言うと、カラーネガフィルムで撮って同時プリント、という使い方ではなくて、カラーポジフィルムで撮ってスライドとして台紙(!、フジクロームの場合はプラスチックマウント。紙のマウントってフィルム縁部分がケバ立っていて、プロジェクターにかけるとケバ立ちがさらに強調されたりしました[笑])にマウントしてもらい、それをプロジェクターにかけて鑑賞する、という利用法が一般的だったと読んだことがある。日本では一部の愛好家以外はほとんど知られることもないし、「コダクローム? なにそれ?」という向きがほとんどではないかと思う(そのうち「フジクローム? Velvia? なにそれ?」なんてことになっちゃうのかな?)。またコダクロームフィルムには変退色しにくい、経年劣化にひじょうに強いというすばらしい特徴もあります。20年30年経ってもぜんぜんへっちゃらです(もっとも、保管にはカビを生やさないように気をつけないといけないけれども)。

 記事に出てくるスティーヴ・マッカリー氏はNational Geographicを読んでいる人なら、だれでも知っている有名なアフガン難民少女(とその後)のポートレイトを撮影した人としてつとに有名ですが、Kodak社からの要請で、手持ちの最後のコダクロームのロールフィルムで撮影したら、作品陽画をすべてイーストマンハウスに寄贈するんだそうです。マッカリー氏の最後のコダクローム作品、いったいなにが捉えられるのか、おおいに興味があります。

 ここからは個人的な話。はじめてコダクロームで撮影して、現像があがったフィルムを見たとき、その油絵のごときテクスチュアの細かさに目を見張ったことを覚えています。なにしろはじめて使ったコダクロームというのがKM-25、つまり超低感度にして超極微粒子を誇る「コダクローム25」だったから、よけいに油絵のような質感が感じられたものでした(一般的に風景写真や建物写真では低感度で超極微粒子のフィルムを使う)。たとえばおんなじ風景、黄金崎とか撮っても「内式」のフジクロームとまるで発色傾向がちがってびっくり。KM-25のほうはPKR-64(コダクローム64プロ)より青みがかっていて、個人的にはこの渋さが気に入っていた。PKRのほうはどちらかというと赤みが強く出るフィルムだったので、人物写真のほうが向いているように感じました。海の色も群青色というか、ぐっと深みのある色でしたね。コダクロームフィルムを一言で言えば、とにかく「渋い色のカラーリヴァーサルフィルムだ」ということに尽きるように思う。とくに派手派手のVelviaなんかとくらべると…もっともVelviaで真冬の西伊豆の荒れる海を撮ってもじっさいの風景より発色が鮮やかすぎるくらいなので、なんだかほんわかしていて、「痛いほどの風の冷たさ」とか「海の冷たさ」がいまいち伝わりにくい気はした。コダクロームで撮ったほうがそのへんの情景もうまく表現できたかもしれない(もっとも、作品としての出来不出来はべつにして。参考までにそんなコダクロームで撮った、奥石廊崎海岸沖の時化の海の画像もくっつけておきます↓)。でもコダクロームは独特のクセがあって、自分みたいなアマチュアには撮影がむつかしいように思う。フジクロームのほうが断然、使いやすいですし。そういえば「マディソン郡の橋」という映画で、クリント・イーストウッド扮するロバート・キンケイドなるNational Geographic誌の写真家が、メリル・ストリープのいる農場にやって来て、「フィルムが腐っちまう」とかなんとか言って、人んちの冷蔵庫に箱入りコダクロームをドカドカ突っこんでいた、なんて場面も思い出した(笑)。

 Kodakも一私企業だし、なんといってもデジカメの元祖はここで試作されたそうなので、ここまで「デジカメ全盛時代」になってしまうと、コダクロームのようないかにも古臭い、熟練の技が必要で時間もかかる特殊な現像方式を採用するカラーポジフィルムはいずれは生産打ち切りになると思ってました。でもやっぱり寂しいですね。ひとつの時代の終わりを象徴する出来事だと思うし、いよいよ「銀塩写真の終わり」のはじまりなのだろうかと不安も感じる(→Kodak社のコダクローム頌のページ)。

 …そんな折りも折り、あの「ポップスの帝王」、マイケル・ジャクソンさんが急逝したというニュースにも驚かされた。黒人初の大統領が登場した、まさにその年に…50歳だったというから、バッハ好きとしてはどうしてもおない歳で急逝したグールド、50代半ばで不帰の人になったカール・リヒターを思い出してしまう。リヒターの場合も心臓発作だったし、ヴァルヒャと組んで共演盤を出した名ヴァイオリニスト、ヘンリク・シェリングもヴァルヒャより若く、70歳でやはり心臓発作で亡くなっている。マイケルさんの死因についてはわからないことが多いけれども、こちらもひとつの時代の終わりを告げたことはまちがいない。ご冥福をお祈りします。

時化の海1

時化の海2


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2009年06月14日

「阿修羅展」というより…

 先週末、「国宝 阿修羅展」を見に行ってきました。いちおう、「日本美術関連展示としては過去最高の動員数」ということを知っていたので、あるていど腹を括って(?)、開館時間に間に合うように朝早く出かけました。…上野公園に着いたらあいにくの小雨模様でしたが、国立博物館前にはすでにいるわいるわ、当日券売り場前にも割引券入場者もすでに行列をなしていました。この時点で、すでに西洋美術館の「ルーヴル展」を大きく引き離している(苦笑、「ルーヴル」のほうにも行列はあったにはあったけれども、比じゃない)。当日券売り場受付30分前に来て当日券を求めたあと、割引券をもってる人と合流して並ぶことさらに40分くらい。あまりの盛況ぶりなのか、開館時間が繰り上げ(!)になったほど。おかげでなんとか入館することができました。

 阿修羅立像(りゅうぞう)については、自分みたいに天平時代の仏教美術にまるで疎い者でも知っているひじょうに有名な像で、自分も子どものころ『美術の図鑑』でその写真を見て、もっぱらルネッサンスとか西洋絵画かぶれだったのにこれだけは鮮烈な印象を受けた。三面六臂という異様な姿も印象的ではあるけれど、その顔立ちのなんとも言えない美しさに引きこまれた。…いまこうして本物が見られる、というのはなんともかたじけなくて、これもprovidentiaなんかなあ、と思う。

 阿修羅さんは興福寺の「八部衆立像」のうちの一体で、ほかの「八部衆」さんたちも展示されてまして、こっちももちろんはじめて目にするものだから興味津々。ほかの「八部衆」さんたちは釈迦の「十大弟子」の立像とともに「平成館」二階の第一展示室にありましたが、こちらもガラスケースなし、後ろ側からも見られたので、けっこうな人だかりではありましたが、じっくり鑑賞することができました(→関連記事)。真ん中の通路をはさんで向き合うように展示されていた両者を見て思ったんですが…「十大弟子」のほうはみんな年寄りにこさえてあって、もともと異教の神々でのちに釈迦の守護神として仲間入りした「八部衆」のほうは、鶏の顔をもつ一体はべつとして、なぜみんな「子ども」ないしは「少年・青年」の顔立ちなんだろうか…とくに「沙羯羅(さから)像」なんか、一目見ただけでかわいらしい「幼児顔」だとわかるし…帽子をかぶって、てっぺんにはシンボルの蛇なんかのっけて、取り合わせの妙と言うか、おもしろいと感じました。残念ながら上半身しか現存していないけれど、「五部浄(ごぶじょう)像」の顔立ちはどことなく「阿修羅」にも似ている。解説板によると、作られた当時は鮮やかなブルーの顔だったという。またこれらの立像は、どれも「脱活乾漆造(だっかつかんしつづくり)」と呼ばれ、骨組みに巻いた麻布の上に漆を何層にも塗り固めて作られている。だから軽いのが特徴で、戦災や火災のときは坊さんたちがこれらの立像を担ぎ出して難を逃れたという。そういえばNHK総合でも阿修羅さんの番組をやってまして、その中でもこの「脱活乾漆造」を再現するようすを放映してました。とにかくすごい、の一言に尽きます。きわめて高度な技術です(英語の解説板にはたしか'hollow dry-lacquer technique'だったかな、そんなふうに書いてあった)。

 ひととおり見て、暗い通路を抜けると、いよいよお待ちかねの「阿修羅」さんですが…「受胎告知」のときと同様、部屋に入ると一段高くなっていて、そこからスポットライトで煌々と照らされて、全体的に金色に輝く「阿修羅立像」のお姿が目に飛びこんできて、その美しさにしばらく文字どおり釘付けになりました…ほかの「八部衆」さんたちと大きく異なっているのは、阿修羅さんだけ上半身がほとんど裸で、薄着なこと。ほかのお仲間はみんなごてごてと着こんで、武装しておりました。だからよけいに身体的プロポーションの美しさが際立っているのかもしれない。立像はぐるりと見られるようにはなっているけれども、なんたってものすごい混雑、人いきれ。しばらく「高みの見物」をしたあと、自分もその人だかりの中に入ってみた。本来、時計回りに一巡して見るものらしいが、押すな押すなのものすごい混雑で、とてもじゃないが自由に動けない。おまけに係員は必死の形相で「危ないですから押さないでください!」なんてがなりたてているし…立像じたいはまったくの「静謐」そのものだったが、その数メートル先ではたいへんな騒動。係員の方はある意味気の毒だったかもしれないが、こっちだって持っていたカバンはつぶされてぺっちゃんこ、足は踏まれるわ、この人だかりから脱出しようにも身動きは取れないわ、痛いわ、「受胎告知」のときも人出はすごかったが美術展でこんなに酷い思いをしたのはのははじめてだ。…ようやっとほうほうの体で脱出したけれど、「阿修羅展」というより、さながらデパートの「バーゲンセール会場」ですわ。なにしろ驚いた、というよりあきれたのが、「『阿修羅像』に向かって走り出さないでください!」なんて放送まで聞こえてきたこと。美術展なんだから、順路どうりに静かに鑑賞してくれと言いたい。アイドルのコンサート会場じゃないんだぞ。

 ひととおり見た感想としては、日本人仏師・立像職人の芸の細かさ。『芸術新潮』で阿修羅さんの特集記事を見たとき、モデルになったと言われる朝鮮半島の「阿修羅像」の写真も掲載されてましたが、あのそれぞれの顔の表情の微妙なちがいとか、髪の毛がひとつにまとまっていく造形の細かさには及ばないな、と思った。日本人って、渡来してきた舶来の技術を継承・発展させるのが昔から得意なんですね。

 第二展示室では、もっか復元工事中の興福寺中金堂(ちゅうこんどう)関連の仏像さんたちがいろいろ並んでました。こちらもケースなしの展示。かなり大きな仏像もあって、こちらは迫力満点。運慶作だということが判明した「釈迦如来像頭部」は、頭部のあの「ぶつぶつ」があちこち欠けていて、なんだかおかしかった(失礼)。でもCGで見た中金堂ってすごいな。阿修羅さんが作られたのが734年ごろだから、『リンディスファーン福音書』が作られ、「ウィットビー教会会議」で復活祭日付けの計算方式としてローマ方式が採用されたとか、そのへんかな…アイルランドでは「ケーリ・デ」と呼ばれる霊性刷新運動が盛んになりはじめたころ。欧州大陸ではたとえば聖ボニファティウス(祝日6月5日)なんかが異教徒あいてに宣教している最中で、大聖堂を中心とした都市がまだ出現する前。こういう時期に、日本にはすでにこれだけ壮大な木造建築があったわけで、やっぱりすごいと思う。主役の阿修羅さんについては、これはもう日本が世界に誇る宝ですね。そして日本人って、みんなこの「阿修羅像」が好きなんですね。そのこともよくわかりました。

 帰りは池袋のHMVに立ち寄って、例のごとくCDを漁る(笑)。シュヴァイツァー博士の2枚組CDを買いました。シュヴァイツァー博士のアルバムはLPで一枚だけ持っているけれども、それは戦前の録音。今回、たまたま見つけたのは戦後の1950年代の録音で、こちらのほうはいまだ聴いたことがなかったから、まさにこれは「掘り出し物」でした(追記。阿修羅さんの両脇から細長く突き出していて掌を上に差し出している腕について。あの掌の上には、本来月と太陽を象徴する球が乗っていたらしい)。

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2008年10月11日

「曾宮一念 油彩・淡彩素描展」

1994 年 12月に 101 歳の天寿をまっとうした洋画家・随筆家の曾宮一念氏企画展を見てきました。

 曾宮画伯のお名前をはじめて聞いたのは著書『画家は廃業』が刊行されたときで、県立美術館にも何点か作品が収められているけれども、未発表のデッサンも多く展示され、また代表作の数々も一堂に展示されるということで、この機会に見てきたというわけです。

 作品は年代順に並べられてましたが、まず目を引いたのが「冬の海 仁科」でした。1936年、というから70年以上も前の堂ヶ島・三四郎島を描いた大きな油絵。作品にはそれぞれ作者みずからものしたエッセイから取られた文章が解説として添えられてもいて、この油絵の下には、「寒気強風、歩行も危ないほどの日にありがたく冬の海を得た」とある。こういう一文を見ますと、妙にうれしい気分になりますね。自分も一度、画伯が何十年も前に写生されたおんなじ場所 ―― いまは海岸際に白亜のホテルがでんと建っている ―― に三脚立てて大型カメラで写真撮ったことがあるけれど、そのときも真冬の凍てつく西風が吹きまくっていて、そのせいか(?)シュナイダーレンズのシャッターが壊れた( 苦笑、ついでに大型カメラ用のレンズというのはレンズボードにレンズ玉がくっついていて、本体の組み立て暗箱にはそのレンズボードごと固定して撮影します。シャッターはレンズ内に組みこまれていて[ レンズシャッターという ]、そのときそいつがバカになってしまった )。上京ついでにレンズシャッターを修理してもらう破目になったこととか、つい思い出してしまった。

 今回、いろいろ作品を拝見して知ったことですが、曾宮画伯は大の雲好き、海好きの絵描きであったということ。海も、べた凪ではなくて大荒れに荒れた荒天の時化の海に心惹きつけられていたようで、ほかにも戦時中に描かれた犬吠埼燈台の絵とか、鴨川市波太( なぶと )海岸の絵とかありましたが、共通モティーフは冬の荒海でした。あとは山稜にかかる雲のおもしろい造形美をなんとかしてとらえよう、と試みた作品も、デッサンをふくめて多く出品されていました。「雲の絵描き」の異名をとるほど、雲を題材にした作品が多いことも知りました。それと、夕陽ですね。駆け出し時代は夕陽しか描かなかったと本人がしゃべっているビデオも見ましたが、夕陽と夕陽に照らされた雲、夕雲をテーマにした風景画もけっこうありました。冬の荒海、夕陽、雲。自分の好きな風景とぴたり波長が合っているみたいで、作品を眺めているうちになんだか楽しい気分になってきました。日没の海の水平線の下には、いわゆる「地上楽園」を感じさせるものがあるとか、そんな一文も添えられていましたね。たしかに西伊豆から駿河湾に沈む夕陽なんか見ていると、そんな感慨が自然と沸き起こってきます。

 荒海をテーマにした作品では、たとえば打ち寄せる砕け波 vs. 岩礁という作品群もあって、「岩と波」という作品には、凪いだ海の岩場というものは言ってみれば庭の石組みみたいなもの、量感とか質感とかでしか表現できないが、「波が荒れると、岩礁が目を覚まし、起き上がって波を蹴立てて走り出す」との添え書きが。曾宮画伯は画業のみならず文才も高く評価された人なので、作品そのものもさることながら、作者みずからの手になるこうした描写文もどれも名文ばかりで、読んでいるだけで画家が作品を描いている現場にいるかのような臨場感を感じます。上記の文、「…起き上がって波を蹴立てて走り出す」なんて、絵描きならではのすぐれた表現ですね。ものごとの本質をずばり言い当てた解説文もありました。「八ヶ岳夏雲」という 1965 年制作の作品にはこうありました。「柔らかい雲も、硬い筈の山も、同じ性格であるのに気づいた。山襞や峯は数を減らしてかまわず、波も岩も砂丘も平原も同類となった」。自分もヘボい風景写真を撮るので、こういう感覚はよくわかる。現場第一主義の画伯ならではのことばだと思いました。

 曾宮画伯は1960年代から ―― ご本人は夕焼けの見すぎではないかなんてビデオで言っていたけれども ―― 緑内障が進んで油絵の具の色まで見分けがつかなくなり、左目失明後も残った片目に映じた風景を「死神に追われるように」精力的に描いていったけれども、70 過ぎにはじめて出かけた欧州旅行のあと、1970 年ごろに画商に作品の塗り残しを指摘されたのがきっかけで筆を折る決心をした、という。翌年、完全に失明したあとは、「へなぶり」と称する短歌を書にしたためる生活に入り、101 歳で没するまでつづけていた。生涯現役、とはよく言われるけれど、その凄絶ともいえる生き様を記録した NHK 番組の録画とか見ますと、並大抵のことではとてもじゃないができないなぁ … と思った。また画伯の人となりが感じられる一文としては、亡くなるまで後半生を富士宮市で過ごしておきながら、すぐ近くの富士山を描いた作品をあまり残していないことについてこんなこと書いてありました。「富士の絵の需要が多いならどんどん描けばよいという人がいるが、それはよくない。… 富士は誰でも描ける。描けばその日に売れる。これがよくない。絵がいいから売れるのではない。そんな絵描きになってはいけない」。なので以後、富士の絵をと頼まれても「裾野の月」とか「富士五合目」とか、一部分を切り取ったような構図の絵のみ描いていたという。このへんが明治生まれの気骨の太い日本人ですね。また富士は描かない代わりに、反対側にある毛無連山という低山の絵はたくさん残っています。このへんがいかにも画伯らしいところ。

 画伯の作品は、たとえばセザンヌのサント・ヴィクトワール山を描いた一連の作品のような大胆で鮮やかな色使いがとても印象的です。とくに欧州旅行のときに描いたという一連の作品にそれが強く感じられます。とてもじゃないけど、いままさに失明しかかっている人の描いた絵とはとても思えない。このへん、画伯の生き方ともどこか重なっているのではないかとも思う。どんなときでもユーモアを忘れない。ほんとうに度量の大きな人だったんだなあと感じます。「へたな絵描いて笑いものになるより、あっさり廃業したほうがいい、それで絵描きはやめたんですよ」とこともなげに言う。でも夢中でデッサンしている自分の姿を夢に見る。「夢の中のほうがうまく描いているんですよ、これがよくしたものでね」。画伯の一見、軽妙洒脱に見える文章には、時代の波に翻弄されながらも必死に「描きたい絵」を追求していた芸術家の心の叫びが封印されている、とそんなことも感じました。とにかくそういうことをあまり表沙汰にしないタイプの芸術家なのです( 逆のほうが圧倒的に多いですが )。

 でも今回、この企画展を見てもっとも強く感じたのは、画伯が執拗に雲や波にこだわりつづけたのは、「形なき形」に真に自由な自分を投影していたからではなかったのか、ということ。刻々と姿かたちを変じる自然の造形美に、きっと何者にも束縛されない真の自由を見出していたのだろう、と。口ではあんなふうにおっしゃっていたけれども、画伯はきっと、もっともっとこうした絵を描きたかったんだろうなあということをあらためて感じたしだいです。

 画伯の描く雲、時化の海は、色使いといいフォルムといいどれも独特で、波しぶきが見ているほうにもバンバン飛んでくるような、えも言われぬ迫力に満ちています。雲だって、どんどん動いてかたちを変えている。スペインの赤茶けた色のグラデーションの風景なんか、画家の受けた強烈な印象を鑑賞者もダイレクトに感じます。とにかく自由闊達ということばがこれほど似合う洋画家というのはあんまりいないんじゃないかな、と思いました。鑑賞者はどちらかというと年配の方…が多かった気がするが、画伯の風景画作品は若い人にこそぜひ見てもらいたいと思いますね。企画展は月曜までですが、行って損はないと思いますよ。

追記。↑で書いた、レンズシャッターが壊れる直前に撮った原板をスキャンした画像が出てきたのでいちおう貼っておきます … 。

瀬浜海岸のトンボロ、1997年2月


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2007年08月27日

デジカメのいいところ不便なところ

 写真と美術館関連ニ題。

1). もうかなり経つけれど、「N響アワー」のあとで、こんな番組を見ました。国内の、一風変わった特徴を売りにしている「元気な」美術館を紹介する、という趣向の番組でした。なかでもとくに印象深かったのが、最初に登場した横須賀美術館。美術館の目の前がなんと海!! 建物じたいの設計思想もすばらしくて、周囲の自然景観とうまくマッチするよう細心の注意を払って建てられている点もひじょうに好感がもてます。潮風対策として建物全体がガラスにすっぽりと覆われているため、自然光が建物内部にさんさんと降り注ぎ、ひじょうに開放的な空間を生み出すことに成功しています。また海に面した窓も船舶の舷窓(ポートホール)のかたちになっていて、この窓越しに沖行く船を眺めるだけでも楽しい。屋上は自由に散策できる庭園になっているし、美術館そのものが一個の芸術作品といっていいくらい、とても絵になります。横須賀に行く機会があったらカメラをもってぜひ立ち寄りたいと思いました。

2). カメラ、といえば、最近ようやく(?)と言うかついにと言うか、Nikonのコンパクトデジカメを買いました。で、庭先にやってくるツマグロヒョウモン蝶とかアサガオとか、主として雑多な記録用途に使っていますが、使っていくうちに、デジカメの使い勝手悪い点もだんだん感じるようになりました。

 デジカメのいいところはなんと言ってもフィルムがいらない。どんどんSDメモリに記録できる。最近ではSDも大容量化が進んでいるから、たとえば1GBくらいの容量のSDメモリでPC画面閲覧用のさほど画質のよくないモードにして撮ると、残り枚数が何千枚なんて途方もない数字が出ます。しかし一見かんたんでお手軽のように見えるデジカメですが、ホールディングが悪いせいなのか、ちょっと光量不足になるとすぐ手ブレ警告が出る。そして動く被写体の場合、ここだ、と思った瞬間にシャッターを切ったつもりでも微妙にタイミングがズレたりする。これがいわゆるデジカメのシャッターラグというやつでしょうか。もっとも一眼レフタイプならばこのへんの使い勝手はよいと思いますが、直感的に撮れるのはむしろ従来のフィルムカメラのほうかも。ただたんに慣れの問題かもしれないが。

 しかし屋外撮影でもっとも不便だと感じるのはやはりあの液晶画面。最近のコンパクトデジカメってなぜかファインダーがない。しかたないから液晶画面で構図を決め、フォーカスしなくてはいけないのですが、これがひじょうにやりずらい。春、松崎に行ったときに花見客の方からコンパクトデジカメを手渡されて撮ってほしいと頼まれたことがありますが、液晶画面で構図を決めて焦点をあわせるということに不慣れなうえに、中天の日光がまともに画面に当たって被写体がさっぱり見えやしない。デジカメもってる人はこんな状態でよく撮れるもんだ、と内心思いながら撮っていた。で、いざそんなデジカメをもって屋外撮影してみると、やっぱり見ずらい。日陰に入ってちゃんと撮れているか確認したり(これは便利だと思うが)。なぜ液晶画面の上縁に「日よけ」のシェードとかついてないのだろうか。4x5の場合、「かぶり布」をかぶって被写体を見ますが、あの暑苦しい布をかぶらなくてもとりあえず構図を決めるために簡易シェードがあります。デジカメの背面液晶画面にもこういう仕掛けがほしいところ。

 先日、写真集「うめめ」で有名な梅佳代さんに取材した番組を見ました。梅佳代さんがふだん使っているのはキヤノンのEOS一眼レフで、フィルムはネガ、撮影後、新宿のビックカメラだったか、行きつけのDPEにフィルムを出して同時プリントしてもらう、という。最近ではデジカメでも撮っているようですが、あの独特な味のある写真は「生々しさ」まで写しこめるフィルムカメラで撮っているからこそ、と思う。梅佳代さんはネガだけど、リヴァーサル(ポジ)フィルムだとコダクロームとフジクロームとではおんなじ被写体を撮ってもまるでちがった発色になっておもしろいし、フジクロームでもVelviaとProviaとではまた発色傾向にちがいがあっておもしろい。そして微妙な色合いの再現という点で、デジカメで撮った画像の発色は現実の色合いと明らかに異なることもある。花なんかとくにそう感じます。こだわるときはやはりカラーリヴァーサルフィルムを使いたい。発色もそうですが、映像の鮮明さという点でもまだまだデジカメの比ではないと思う。それぞれによさがあり、欠点もあるので、撮影場面に応じて適宜使い分けるのがやはりベストかと…長年銀塩ひとすじで撮ってきた者は思うのでした。

 …最後にトピックとは関係ないけれど、週末、清水町内にて頭からすっぽりと巨大なシェイカーをかぶって東海道を旅しているという、「シェーカーマン」なる方に遭遇…このカンカン照りのなか、いきなりこんなけったいな出で立ちの方がワゴン(?)を引っぱりながら歩いていたので、正直とてもびっくりしたというか、いったいこの人は何者?? ということでアタマがいっぱいだったので、応援のことばもかけられなかった。晴天の日も暑くてたいへんだろうけれど、雨の日はさらにきついだろうな…ですのでこの場を借りまして自分もエールを送りたいと思います。ぶじにゴールにたどりつけますように! 

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2007年05月20日

D.I.S.と『受胎告知』

 ダ・ヴィンチの『受胎告知』のことを書いたとき、「気になったことがあるけれども、それはまたべつの機会に」と書いておきながら、書いた本人は――すこし前まで少々体調不良だった、というのもあるが――すっかり忘れてました。

 平成館での膨大な手稿類展示を見終えたあと入った部屋で、こんどは『受胎告知』の精密な原寸大複製が目に飛びこんできた。で、その複製画の前で来館者相手になにやら得々としゃべっている小太りなおっさん人が。なんだろ…と思ってよくよく話を聞いてみると、「今回、『受胎告知』が来日できたのも、もとはと言えば日立のD.I.S. 技術のおかげ」という。

 話の枝葉末節はほぼ完全にアタマから飛んでしまっているけれども、ようするにウフィッツィ美術館から日立のD.I.S. 技術で『受胎告知』製作当時を再現してほしい…そのかわり本物を無償で貸し出してやる、と言ってくれたという!! つまりは今回の特別展、日立のD.I.S.という技術がなかったら実現してなかった、ということらしい。ついさっきまでイタリアから○○さん(だれだか忘れた)が来てたのに帰っちゃった、残念だねぇ、とも言ってました。

 その社員の方の説明によると、D.I.S. というのはデジタルカメラ(? デジカメと言っても千差万別、おそらく解像度がきわめて高い超高級機種だろうな)を何台もつなぎあわせて撮影して得られた画像をCG合成したもの…らしい。そういえば『源氏物語絵巻』の復元もこのD.I.S. を援用したとか聞いた気がする。で、このD.I.S. で『受胎告知』をすみずみまで調べてみたら、なんと書見台に乗っている本のページに書かれたラテン語の文字まで発見できた、という。

 ここで、写真についてはガチガチにアナログ派の自分はふと疑問に思いました…従来、こうした絵画の複製に欠かせなかったのが、8x10インチ判(エイトバイテン、六つ切り判)などの大型カメラ。フジフイルムのVelvia など、銀塩フィルムじたいもいまでは昔にくらべてたいへん高性能になっているので、このようなフィルム+大型カメラで撮影すると、たとえば髪の毛の一本一本なんかもバッチリ、木の葉一枚一枚もバッチリ、人間の視力の限界を超えた精密描写が可能です。で、昔は乳剤の性能もあまりよくなかったものだから、商品撮影とか絵画の複製制作用にこのようなバカでかい暗箱カメラを使うことは常識でした。D.I.S. を使わなくても、ふつうに8x10で撮っても文字くらい写りそうなもんだが、と思ったわけ。

 やはりおんなじことを思ったのか、社員の話を黙って聞いていたお客さんが、「じゃあなんでいままで学芸員は、毎日毎日オリジナルを見ているのに文字に気づかなかったのか?」。一瞬、間をおいたあと、やおら「人間の目ではわからなかった。今回、D.I.S. をもちいて画像解析した結果、はじめて発見できたんです」とかそんなふうにこたえてました。

 デジカメで撮影した画像、というのはバイナリつまり1と0の集まったデータ。それの「合成」ではじめて発見した…というわけですが、髪の毛一本まで写しこめる8x10判で『受胎告知』を撮影してルーペで仔細に調べても同様に発見できたのでは…とそのとき門外漢は思ってしまった。得意げになってしゃべる社員にそのへんのことを突っこんでみようかとも思ったが、しょせんは「こちらの中くらいの大きさの複製がたったの75万円! ね、安いもんでしょう!」とどこぞやのTV通販さながらにD.I.S. 複製画を売りつけているたんなる販売員にすぎないので、「ポストカードを買おう!」ということしか考えていなかった小心者はさっさと逃げ出してしまった(あ、そういえば最後のショップで特別展限定のキャンティを売ってました。2000円くらいだったかな。でも買わなかった[笑])。

 …D.I.S. というのはある意味本物以上に「美しく」見せることはできると思うし、利き酒よろしく二枚並べて、本物はどっちですかとやられたら、はたして本物を言い当てられるかどうか、はなはだ心許ない。とはいえ本物のもつ迫力、オーラみたいなものはあんまり感じられないなぁ…とやはり思ってしまいます(もちろんD.I.S. そのものを否定するつもりはない)。

 …今夜のNHK-FM「気まクラ」、ニューカレッジの「ミゼレレ」がかかりますね。音源は、10年くらい前にヒットした国内盤に収録されたものらしい。

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2007年05月01日

『ちいさな労働者』

 今日もハインのつづきです。

 きのう、いくつか図書館を廻ったとき、ふと『ちいさな労働者』という子ども向けに書かれた本を思い出しました。自分もまだ読んでいないし、きのう書いた記事の確認もこめて検索したところ、運よく立ち寄り先の図書館に一冊あったので、ついでに借りてみることにしました。

 読んでみて、ハインという人の偉大さにあらためて感動をおぼえます。この本の存在は知ってはいたけれど、すっかり失念していました。orz 当時の悲惨な児童労働の実態についてももちろん書かれてありますが、ハインのすぐれた評伝としても読める本です。

 ハインの残したネガは児童労働シリーズだけでもそれこそ膨大な数にのぼるので、じっさいに目にしたことのあるものはほんのごく一部にすぎません。本物は、10年ほど前、リンク先として紹介した東京都写真美術館での企画写真展に出品されていた一枚のみで、たしか靴下工場で働く少女たちを写した作品だったように思う。なので『ちいさな――』にははじめて見る写真も多かったのですが、それにしてもショッキングな写真が多い。このような過酷な長時間労働を強いられ、搾取される子どもたちの姿をはじめて目の当たりにした米国市民の受けた衝撃はいかばかりだったかと思います――といってもまだ100年も経過していないころの話です。新聞売り、靴磨き、カキの殻剥き、綿花農場の渡り労働、炭鉱夫、紡績工場…とくに印象に残ったのは、うなりをあげて回転する紡績機械によじのぼっててっぺんのボビンを取り替えようと手を伸ばす年端もいかない少年をとらえた一枚。機械も原始的で、猛スピードで回転する平ベルト駆動部は文字どおりむき出し、そのすぐ脇で少年が裸足で、危なっかしげに取りつきボビンを取り替えようとしています(→画像)。当時の紡績機械は安全装置もなくて、へたすると手を巻きこまれて指が飛んでしまう、という事故もしじゅう発生していました。また昔の紡績工場はひじょうに湿度が高いうえに高温で、窓も締め切り、こまかい糸くずや埃にまみれた劣悪極まりない場所だったので、結核や喘息になって若死にする子どもがあとを絶たなかったといいます。このへんは戦前の日本の『女工哀史』とよく似ています。ハインはこうした工場にもぐりこむとき、あらゆる職業を装ったといいます――機械の検査官、聖書のセールスマン、保険外交員、火災調査官、絵葉書売り…そう偽ってなんとかもぐりこむと、ハインはまずはじめは機械や工場の建物を撮って現場の親方を信用させ、その後親方の目を盗んでは子どもたちに声をかけて撮影したといいます。それもただ撮っただけではありません。子どもたちの記録も可能なかぎり細かく、正確に書きとめているのです。「身長130cm、体重はせいぜい20kgほどの貧弱な体格の女の子が、朝6時から夜6時まで働きづめだ。ちいさな彼女がいちばん上の紡錘の作業をするには、機械の枠をよじのぼらなくてはならない」というふうに。子どもたちを写すときも、紡績機にくらべていかにちいさいかを強調する撮り方を工夫していました。

 ハインは「全米児童労働委員会 NCLC」の雇われ写真家として、工場主が利益を上げるためだけに子どもたちを搾取するという産業構造そのものが悪だと認識し、なんとかして人々の意識を変えさせようとこれらの写真を撮りつづけた。ただ写真を撮るだけにとどまらず、メッセージをより印象づけるために写真と文章(キャプション)の組み合わせを工夫したり、コラージュにしてポスターを作ったり、スライドショーとして講演会場で上映したりと、当時としては斬新な手法をつぎつぎと取り入れたことでも知られています。この本にはそのへんのこともずいぶんくわしく書いてあります。後半、『働く男たち』の話も出てきて、それまで労働の影の部分にのみ焦点を絞って撮影してきたハインがこんどはがらりと打って変わって、最前線で体を張って働く人がいなければビルも建てられない、と労働の光の部分を表現しようとしたことにも言及しています。ハインの『働く男たち』はハイン自身も建設中の足場にあがって命がけで撮影した力作ぞろいですが、当時から「労働者を英雄視している、過酷な労働を美化している」という批判も受けてきました。このへんが晩年のハインにとってマイナスに働き、没落してしまった要因ともなったのでした(それにしても建設途上のエンパイア・ステート・ビルの記録としてはハインの写真はたいへん貴重なものと言える)。

 ハインの写した子どもたちはなぜかくも印象的なんだろう…と以前から思ってはいたけれど、じつはこの本でハイン自身がこたえていました。「わたしはただ、美しい子どもたちを写しただけです」(p.106)。…そうか、工場で鞭打たれ、長時間それこそ家畜のごとく働かされ、虐げられてきた子どもたちにとって、自分たちをひとりの人間としてはじめて認めてくれたのがハインだったのだ、といまさらながら気がついた。子どもたちはハインのことを「自分たちの仲間だ」と思ったのだ。だからハインの写真には説得力がある、と。

 いまひとつ技術的には、「5x7インチのボックスカメラ」を使用していたことにも写真を見る者の印象を高める効果があったように思う。巻末にハインの撮影風景をとらえたこれまた貴重な図版が掲載されていまして、見ると胸のあたりでカメラをかまえ、真上からのぞきこむかっこうで焦点をあわせている。いわゆる「ウェストレヴェル」というファインダー形式で、レンズから入った映像を鏡で反転させて上からピントあわせするタイプのカメラです(そのため左右逆像で構図を決めなくてはならない)。しかもフィルムサイズは現在大型シートフィルムとして一般的な4x5インチ判よりさらに大きな「キャビネ判」の乾板(dry plate)を使っているから、暗箱はさらにでかくてレンズの位置は腹のあたりにきています…これはちょうどおあつらえむきに、ちいさな子どもの目線とおんなじ高さ。結果的に、ハインの写真ははじめから「子どもの目線」で撮影されていたわけです。また「正面向き」の写真ばかりでなく、たとえばp.113のような、子どもたちのほんとうに自然な一瞬を切り取った微笑ましい一枚もあることにも驚かされます。

 子どもたちを写されるのを嫌がる工場主から逃れ、ほとんど隠し撮りに近い状況で手早く仕事を片づける必要があったから、こんなでかくて重たいカメラを抱えての撮影はさぞ至難の技だったろうと思う。そうして定着された子どもたちのイメージのすばらしさを考えると、奇跡的としか言いようがない。ハインの対象を見る目の確かさは天才的だったと思います。

 この本の「著者あとがき」でも触れられていますが、もちろん程度の差こそあれ、いまだ児童搾取は根絶されていない。そんな子どもたちの生活・教育環境向上のために尽くした人をたたえる「ルイス・ハイン賞」というのが1985年から設けられている、という事実もはじめて知った。受賞者のなかには日本でもよく知られたMake a Wish プロジェクトに参加経験のある女性の方もふくまれているようです。

* 追記。p.105の、紡績工場で働く少女を写したひじょうに印象深い一枚。本文では「カリフォルニア州の紡績工場…」とあるが、手許のポケット版ハインの写真集にはフランス語で'Fileuse dans une usine de coton, Caroline du Nord, vers 1908.'とあり、またこちらのページにもそうあるので、これは原著者の筆が滑ったものをそのまま訳出したのか、訳者が「カロライナ」と書くつもりがうっかり「カリフォルニア」と書いてしまったかのどちらかでしょう。

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2007年04月30日

ルイス・ハインと「正面性」

 Photography。字義どおりには「太陽の光の描く絵」、つまりかつて日本でも使われた用語の「光画」ですが、その150年余の歴史のなかで、数多くの写真家たちがそれこそあらゆる場所・事象・事件・風景そして市井の人々の生活の「一瞬」を切り取って、印画紙に永久に残る映像として定着させてきました。自分の場合、風景写真が好きなので、日本だったら故前田真三氏とか緑川洋一氏、またほとんど神業かと思えるほどスケールの大きい作品を製作してきた白川義員氏とかを思い浮かべます。海外だったら、8x10インチ判(六つ切り判相当。つまり六つ切りサイズのでっかいフィルムにドカンと写すなんとも贅沢かつ体力を必要とする写真術)という大型カメラでヨセミテ公園を撮りつづけ、そのたいへん美しい一編の詩のようなモノクロ写真の傑作によってヨセミテの保護運動を盛り上げたアンセル・アダムズ(若かりしころはなんとピアニスト志望だったらしい!)とか。パリの街角を切り取りつづけたアッジェなんかも好きです。

 しかしながら…好きな写真家の名前をひとりだけ挙げよと言われれば、迷わずルイス・ウィックス・ハイン(1874-1940)とこたえます。ハインは風景写真屋ではなくて、米国を底辺で支える労働者階級や移民たちを記録しつづけた、社会派でジャーナリスティックな報道写真家のパイオニア的存在だった人。苦学した人で、父親が事故死したため、高校卒業と同時に就職。いろいろな職を転々として、その後いわゆる「社会改革運動」に携わっていたユダヤ系ラビの手によって創設された労働者階級の子ども向け学校に教師として雇われました。そもそも写真をはじめたのは教材を撮影するためでしたが、すぐさま写真のもつ魅力と可能性にとり憑かれます。一教師にすぎなかったハインが本格的に写真家の道を歩むきっかけになったのが、同僚と共同ではじめた一連のエリス島シリーズ。当時、エリス島には東欧からの「新移民」と呼ばれた人々が大量に押しかけていました。19世紀末の米国東部は、ジェイコブ・リースのような「社会改革派」によるスラム街の実態を暴く報道写真がつぎつぎと新聞紙面に掲載され、それが世論を動かし、ときの政府や大統領までも動かす、そんな時代でした(当時のセオドア・ルーズベルト大統領はリースと交友関係にあった)。ハインもそんなリースの「写真による告発」におおいに刺激を受けて、精力的にエリス島に通って撮影しました。晩年にはアメリカ赤十字の依頼で第一次世界大戦の傷跡の癒えない欧州へと派遣され、そこでも戦争の後遺症に苦しむ人々の姿を克明に記録していますが、晩年のハインの仕事でもっとも有名なのは、みずから建設中のエンパイヤ・ステート・ビルの目も眩むような現場に上げてもらって撮影した、『働く男たち Men at work 1932』という写真集でしょう。そこにはもはやかつての「告発系」写真は影を潜め、摩天楼を自分たちの手で建設しているんだ! という労働者たちの自負と自信にあふれる姿が、じつに生き生きと、芸術的なまでに美しい領域へと高められて表現されています。でも晩年、ハインの仕事はもはや時代遅れとみなされ、貧窮のうちに没してしまいます(近年ハインは急速に再評価されています)。

 ハインの残した膨大な原版のうち、自分がもっとも衝撃を受けたのは、当時の悪しき慣例だった「児童労働」を告発する一連の写真でした。ハインの写真の特徴として、肖像画のような「真正面」を向いたポーズが挙げられます(ついでにうさぎのミッフィーも顔はいつもこちらを向いている)。「正面性」については、以前NHK教育「こころの時代」を見たとき、昨年惜しくも亡くなられたドイツ中世史/ヨーロッパ社会学者の阿部謹也氏が、文字どおり病身をおして講義する姿を拝見したときのことを思い出します…阿部氏は、正教会のイコン・中世からルネッサンスまでの絵画のスライドを学生に見せつつ、中世までは「正面向き」で描くことが許されていたのは神とその子イエスのみだった、それがルネッサンス以後になって、はじめてごくふつうの人間も堂々と「正面を向いた」肖像画として描かれはじめたのだと語っていました――そのせつな、自分の脳裏にありありとよみがえったのが、ほかでもないハインのモノクロ作品でした。ハインの作品に登場する被写体は、たとえ疲れ切った移民であろうとピッツバーグの炭鉱でススだらけになって働く少年たちであろうと、ノースカロライナの紡績工場で長時間、ささむけだらけになった指で巨大な機械から糸を取り出して働く少女だろうと、おしなべて威厳と風格が漂っています。被写体がこっちを向いている、ということは被写体がこちらを凝視していることでもある。「見る側」が「見られる側」になり、被写体の強烈な視線をまともに受ける。ハインの被写体の「眼の力」はひじょうに強力です…それゆえ中世の人は恐れ多くて、絶対的存在を描くときにしか「正面向き」を許さなかったんでしょう。とにかく一連の児童労働ものに登場する、長時間労働を強いられ苛酷な環境で働く子どもたちの「正面向きの顔」、彼らがこちらを見つめる眼差しに圧倒されてしまったのです。ただたんに「古ぼけた昔の写真」を見ているのではない。ハインの撮影した被写体そのものが、まさにいまこちらを見つめて、すぐ目の前に佇んでいる。彼らはあきらかに「撮られる」ことを意識している。ここがのぞき見趣味的なリースのスキャンダラスなスクープ写真とハインの写真とが決定的にちがうところです。こうしたハインの「正面性」は子どもたちの人としての尊厳までもみごとに表現して、もはや児童労働禁止法制定といった本来の目的をはるかに超越し、普遍的なポートレイトとして不滅の光を放っている。このようにして撮影されたハインの写真からは、撮影者ハインその人の誠実な性格までにじみ出ています。

 正面性と言えば、きのうの朝に見た「新日曜美術館」のデューラー作『1500年の自画像』にもおなじ力を感じました…「わたしの愛する画家」のゲストとして番組に出ていた姜尚中氏の真摯なconfession にも深い共感をおぼえました…自分がハインの「正面性」を前にしたときも、似たような感覚でしたから。

 ハインに話をもどすと、こちらを凝視する子どもたちの写真は、まさしくロラン・バルトが絶筆となった写真論『明るい部屋』で、「『写真』は過去を思い出させるものではない…。『写真』がわたしにおよぼす効果は、(時間や距離によって)消滅したものを復元することではなく、わたしが現に見ているものが確実に存在したということを保証してくれる点にある(p.102、邦訳版より。下線強調は引用者)」と書いていることにほかなりません。ハインの児童労働シリーズは『ちいさな労働者―写真家ルイス・ハインの目がとらえた子どもたち 』として刊行され、幸いなことに日本語で読むことができます。このようなすばらしい写真家の業績は後世に長く伝えるべきだし、げんにAmazonの読者評にも、学生さんらしい人が国語の授業でハインを知り感動したとあります。こうした古い時代の写真のもつ訴求力は衰えるどころか、デジカメによる粗製濫造、そして巧妙化する捏造、つまりインチキ写真の氾濫がひどくなるいっぽうの現代においてはますますその輝きを増しているように感じる。巷では世界史未履修…が問題になっているけれども、書評を書いてくれた学生さんの例のように、うまく授業に取り入れればけっして自分たちとは関係ない、よその国の過去の歴史をただ「丸暗記」するだけの科目、というふうには認識されないと思うんですがね。しょせん人間は一被造物に過ぎない。過去の歴史から学ぶことをやめたらそれこそおしまいです。ルイス・ハインの写真はあらためてそのことを教えてくれる気がします。



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2007年04月23日

レオナルドの『受胎告知』

 先日、どうしても命日の来月2日までには見なくては、ということで(そんなにこだわることもなかったかもしれないが)見てきました、レオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知 Annunciazione。とはいえいざ国立博物館に着いてみるとすでにけっこうな人だかり。「立ち止まるな!」ということでしたが、じっさいにはエスカレータ方式というか、じっくり見たい人は最前列、お急ぎの方はうしろ側をすばやく通過、みたいな感じで混雑していたわりにはたいへんスムースでした。表で並んでいるときに眺めた、亭々と聳えるみごとなユリノキの新緑がやけに印象的でした。遅咲きのさくらなんかも咲いていました。この時期上野公園に来るのはほんとひさしぶりです…前回は2000年、「ピカソ・子どもの世界」というすばらしい展示のときでした。

 さて肝心の「受胎告知」の第一印象は…遠目で見えてきたときはなんか「ルネサンス版プラズマ ハイヴィジョンTV」みたいだな、と…小学生のとき買ってもらったレオナルドの作品集をいまだ後生大事にもっていますが、グラビア印刷されたものと本物とでは、当たり前のことながらずいぶん感覚がちがいますね。かなーり横長で、思っていたよりもすこしちいさく感じました。それでも大天使ガブリエルの足元のお花畑のような草むらに、処女マリアのまとう衣服の細かいひだの微妙な――ほんとに微妙としか言いようのない――光と影のつきかた、天使とマリアの巻き毛の繊細さ、遠景のぼおっとかすむ岩山と港…はほんとに鮮やかそのもの、一瞬のうちにこの作品が描かれた時代へとタイムスリップしたかのような錯覚をおぼえました(もちろん、右斜めからじっくり鑑賞。飛び出す絵本よろしく立体的に見えたのは気のせい?!)。突然出現した大天使ガブリエルから「おめでとう、マリア」といきなり言われ、書見台から顔を上げたまま陶然とする若い娘。「最後の晩餐」にくらべると構図的にちんまりまとまりすぎているような気もしないわけではないが、隅々まで計算し尽くされたこの作品が若干二十歳、独立して間もない新人画家の手になるものとはとうてい信じられない。ほんとはもうすこし絵の前に佇んでいたかったのですが(天使のもつユリの花とかもきちんと見ておきたかった、etc.)、押し出されるような感じであっという間に鑑賞終了! 作品の前にいたのはせいぜい2,3分か。あまのじゃくな自分には、絵の前に立っていたふたりの警備員がある意味うらやましかったりしました…。で、本館表玄関にもどると今回の特別展図録を売ってる売り子さんが目に入りまして、図録をさっそく購入。自分はNHKからもらった割引券で入ったから1500円のところ100円引きだったんですが、それでも図録のほうがチケット代金より高い2000円(笑)。でも内容豊富でひじょうに価値の高いものなので、むしろこれは安すぎるくらい。

 さてこんどは第二展示会場の平成館へ。こちらはおもにレオナルドの残した膨大な手記・手稿類からまさに万能人レオナルドその人のありようを展示してありまして、こちらはもちろん順番に並ぶ必要もなく、順路にしたがって自分のペースでじっくり見る、というか勉強できました(こちらのblogによると、音楽関係は省略されていたらしい。個人的にはちょっと残念。ちなみにレオナルドは少年時代からリュートの名手で、音楽についてもひじょうに造詣が深かった。ついでに当時は音楽も天文学も数学もおなじものとみなす中世以来の価値観が主流だった)。

 第二展示を見て感じたのは、レオナルドという人には芸術・科学の境界線というものがまるでなかった人、ということ。とにかく目に見えるもの、森羅万象の事象現象はすべて納得ゆくまでとことん突き止めないと気がすまない人だった、ということをあらためて思い知らされました。手稿のファクシミリ版も何点かありましたが、写真を趣味にしている者としてはパリ手稿C( だったかな? )の開いたページに描かれた線画が気になった( 図録のp.200 )。また異なる明るさの光が産み出す影の美しいグラデーション模様とかがじっさいに再現されていたり、目の錯覚を利用した一種の騙し絵みたいなものも展示されていたり、解説ビデオもところどころに用意されていたりと、見る者を飽きさせない工夫満載です。いくぶん散漫な印象もなかったわけではないですが、まさに至れり尽くせりで、それこそ目を皿のようにして見入ってはいたものの、とても一度見ただけでは全貌をつかみきれません。レオナルドに興味のある方はとにかく見に行って損はありません。「受胎告知」も日本に来ることはもうないでしょうし…。それにこの作品、レオナルドのただでさえ少ない完成作品のうち、唯一製作当時の文字どおりオリジナルのまんまの絵である、というのも重要な点です。日本にいながらにしてこんなすごい作品が見られる、これはほんとありがたいかぎりです。

 しかし…よくもまぁこれだけのことを――とはいえ展示されているのはほんのごく一部にすぎない――ほとんど独学で成し遂げたというのはすごすぎます。なのでそのすぐあとに目にした週刊誌の記事で、「ゆとり世代の大学新入生には、先生が黒板に書いた筆記体の横文字が読めない生徒がいる」なんていうのを見ますと、ひじょうにもったいないことだと思う。レオナルドはたしかに天才だったから比較の対象外と言ってしまえばそれまでだが、この飽くことなき旺盛な知的好奇心はどうですか。ひととおり展示を見てまわってあらためて感じたのは、すべてはつながっている、という真理。死体解剖の手記からは、人間の体は文字どおり宇宙とつながっている、microcosm だということを教えられるし、血管の枝分かれも川の枝分かれも大木の枝分かれも気管の枝分かれも本質的にはおんなじということを見抜いているし…地質・気象・流体力学・医学・解剖学・土木工学・鋳造技術そして光学となんでも専門分化しすぎている現代のありさまをレオナルドが見たら、おそらく「なんでいちいちレッテル貼って分ける必要があるの?」と逆に問い返されそうです。膨大な手記からは、「この世のものはすべて見てやろう、疑問に思ったことはなんでも試してみよう」というレオナルドの並々ならぬ強い意思がひしひしと感じられます。来館者のなかには修学旅行生らしい一団が手稿や再現ビデオに見入っていました。そう、感受性の敏感な十代の人こそこういう「本物のすごさ」にいっぱい触れて、栄養にしてほしい…とおせっかいながらも思う。

 さて…まったくどうでもいいことでひとつ気になったことが(ほんとはもうひとつあるけど、それはまたべつの機会に)。それは「受胎告知」のすぐ近くにあった横文字の指示書き。'Please proceed forward.'とありまして、? と思った。「立ち止まらずに進め」ということなんだから、ここはもっとシンプルに'Move along, please!'と書いたほうがいいのではないかと思うのだけれども…。ただし展示品にくっついていた横文字の説明はどれもすばらしく自然な英文でした。へぇ、「12面体」ってdodecahedron って言うのか。なるほど! とこっち方面でもためになりました。

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