2006年09月10日

ふたたび銀塩写真

 いまさっき「新日曜美術館」を見ました。

 風景画の元祖的存在のコンスタブルとターナー。名前こそ知ってはいてもどんな画家だったかは知らなかったので、とてもおもしろかったです。

 ただイングランドの田園風景の美しいロケ映像とふたりの巨匠の絵とが交互に現れるたびに、「日本じゃありえないな…」と嘆息してしまった。

 火山噴火や地震など自然災害が多くて地殻変動も活発な島国と、地質的には落ち着いている島国とでは一概に比較できないものの、やっぱり明らかに国民性のちがいを感じないわけにはいかない。かの地の映像は、まるで200年前のコンスタブルやターナーの絵そのまま、どっちが絵でどっちがいま現在の映像?? と見まがうばかり。200年このかた、ロケ地の田園風景じたいがほとんどなにも変わっていないのです…これはほんとうにうらやましい。

 以前、アイルランドのディングル半島の風景についてもおんなじことを書きましたが、日本では古い建物――それもまだ100年経たないようなものまで――がつぎつぎと姿を消してゆき、モダンで明るい建物に建て替えられたりする。それじたいが悪いとは言わないが、一般的に古い時代のものにたいしては英国民とくらべると関心がきわめて低い。長い年月を経た建物、それが立ち並ぶ古い町並みというのは、その町並みでなければ出せないその時代固有の味があります。とにかく個性的で自己主張がある。そういった古い時代特有のものは、いくら最新技術を駆使してあらたに立て直したところでけっして再現などできません。失われればそれっきり。そうやって、いままでどれだけ文化的価値の高い建造物や風景がこの国から失われていったことか。

 最近、各地でフィルムコミッション活動が盛んになり、それが地域おこしに結びついたりしていますが、コミッション関係のblogなどを見ても、映画製作者たちが「いかにして古い時代のものを残すか」について真剣に発言しています。いまは昭和が流行っているみたいですが、けっきょく感傷的な一過性の流行で終わりそうな気がする。やっぱりこれって国民性なんかな。英国では100年前に建てられた家でさえ古くはなくて、築200年以上(!)経過した家でないと「古い」とは言えない…らしい。日本では、200年以上前に建てられた古民家に現実に住んでいる人…はおそらくいないでしょう。

 近所でいえば、やっぱり片倉跡地かな。新店舗はほぼ完成して、あとは内装工事と商品搬入を待つばかり…駐車場も整備されて、前の道路も多少広くなった。スーパーやドラッグストア、ペットショップに花屋ができるのはいいことだけれども、たとえば建物の外観だけでももうすこし独自色を出せなかったのかな…とも感じます。外観を以前建っていた、片倉のレトロな蚕種製造所ふうにしてみるとか。現実の建物は、すぐ近くの某西×とそっくりです。

 風景写真つながりでちょっと調べてみたら、「ネオパン」シリーズも生産停止ですか…自分はもっぱらカラーリヴァーサル派で、白黒はコニカの赤外線フィルムくらいしか使ったことないのですが、こちらのサイトを見ますとかなりの銘柄がすでに生産中止になってます…。昔富士写真から出ていた、カラーリヴァーサルの自家現像キットなんてのももうないんだろうな。

 富士フイルムのTVCM、以前のオノ・ヨーコさんのときもよかったけれど、銀塩フィルムメーカーらしいいいCMですね。多少の値上げ…は甘受するから、どうかがんばって今後も銀塩フィルムを作りつづけてほしい。

 写真で言えば、自分はけっしてアンチ・デジカメ派ではありません…デジカメにも興味は大あり。とはいえ信頼性、画質という点でどうもな…とにかくかつてレコードがCDに移行したみたいにはなってほしくない。いまだにアナログレコードにこだわる愛好家だってけっこういますし、写真で言えば4x5あるいは中判サイズでなければダメという人だってまだまだいます…とくに風景写真をやってる人に多いですね。でもここまで来ると…「デジカメ帝国」にいっきに飲みこまれてしまいそうだ…。

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2006年05月09日

銀塩写真派としては

 やっぱり気になる、日本を代表するフィルムメーカーの会社名変更。「最後の一社になるまで」カラー/モノクロ/ネガ/ポジその他写真撮影用フィルムを作りつづけるとは言ってますが、ミノルタにニコン、つい最近では国産ブローニー判メーカーの雄、マミヤOPまでついに解散。富士フィルム側の発表では、売り上げに占める写真撮影用フィルムはほんの数パーセントにすぎず、長年のフジクロームファン(とくにVelviaシリーズ)としてはなんとも複雑な気持ちになってしまいます…。

 NHK静岡放送局の夕方のローカルニュース番組「たっぷり静岡」。NHK主催のフォトコンテスト「富士山とわたし」の入賞作が日替わりで映し出されますが、たいていこの手の写真はブローニーと呼ばれる、35mm判より大きなフィルムサイズのカメラで撮影されたものがほとんど。理由は、繰り返しになるけれど画質が断然ちがう、言い換えれば35mmフイルムで撮影されたものとくらべて迫力・臨場感が格段に上の写真が撮れるからです。

 富士が超極微粒子カラーリヴァーサルフィルムのVelviaを発売した1990年以降、フィルムの性能が向上したこともあって、一昔前の写真屋さんみたいに4x5などのかさばって機動力のない大型カメラがあまり必要なくなってから、画質にこだわる向きも35mm判での風景写真が気軽に楽しめるようになった。もっともおんなじVelviaだったら4x5用のカットフィルムのほうが断然いいに決まっているけれど、作品の完成度も考えると、やっぱり35mmか、せいぜいブローニー判というところが妥当な選択だと思う。というわけで、いまだに中高年の風景写真ブームがつづいていますが、単純にカメラ全体の割合で括ればとてもじゃないけどメーカーは採算のめどさえ立たない。いまや完全にデジカメの天下です、いまでは銀塩フィルムなんて使っているのは自分もふくめてすっかりマイノリティーに転落です(ただし写真コンテストではデジカメ応募不可の場合が圧倒的に多い)。

 たしかにデジカメのほうが即写性はあるし、現像に出す必要もないから、いいことづくめのように思えます。でもあれって、画像にモアレノイズがほんの少しとはいえ出るんですよね、いまだに。それにカラーリヴァーサルフィルムのように発色の個性というものが感じられない。逆に言うと、カラーリヴァーサルはメーカーやフィルムの現像処理のちがいによって、おんなじ条件下で撮影しても発色再現性にけっこうバラつきがあります。コダックのKodachromeとフジクロームシリーズとではまるでちがう。おなじメーカーのものであってもVelviaとAstiaとではやはり微妙にちがう。こういった個性が――ぜんぜんないわけではないが――フィルムほど顕著ではない。それに赤外フィルムのような、特殊効果を楽しめるのも銀塩のいいところ。ちなみに最近のカメラ雑誌は、スキャナや画像レタッチソフトの特集を組み、PC雑誌のほうは写真の原理やよい三脚の選び方なんて特集を組んだりする。どっちがカメラ雑誌でどっちがPC雑誌なんだかわけわかりません(笑)。

 まだがんばって上映していた「子ぎつねヘレン」。先日観に行ったのですが、深澤嵐くん扮する太一少年が重度の障害を負った子ギツネを、中古とおぼしき往年の名機、Canon F-1をかついで懸命にシャッターを切っていたシーンが印象的でした(あれ重かったろうな…)。しかも自家現像自家プリント。印画紙に映像がパーっと出現する瞬間のあの楽しさは、デジカメでは味わえないもの。

 デジカメはまだまだ現在進行形なので、どんどん性能がよくなってますます使い勝手が向上するのだろうけれども、銀塩写真が完全に消滅するのはやはり抵抗がある。せめて選択肢くらいは残しておいてほしいというのが正直なところ。

 …連休中、また片倉に寄ってみました。いまさらではあるけれど、カメラをぶらさげて。最後までかろうじて残った、正門前の事務所と蚕種庫を門越しに撮影していたら、おりよく元社員だった管理人さんが出てきて、ほんとは関係者以外立ち入り禁止のところを快く敷地の中へ入れてもらいました。小学生のころ入ったことがあるのはカイコから繭玉を取り出す作業所のみで、水色の事務所の中に入るのはこれがはじめて。がらんとして埃まみれの事務室。残されたのはでかい金庫と事務机、地球儀と黒板。その奥へつづく蚕種庫と呼ばれるカイコの卵を保管していた薄暗い蔵なんかもはじめて見ることができました。建物と蔵のあいだにうっそうと生い茂る樹木。そのせいか、外は暑いくらいなのに、建物の中はとてもひんやりしていました。

 事務所のすぐ後ろ、渡り廊下でつながっていた木造の建物はすでに死屍累々の残骸と化して、広大な空間のそこここに重機が鎮座していました。まもなく切り倒されるシイノキの大木の新緑が、5月の強い陽射しを照り返して輝いていたのがやけに印象に残りました。

 …そして、ほんとうに最後の姿を、これまたいずれ消えて行くであろう、銀塩フィルムカメラで記録しておきました。なんとか間に合って、よかった。

IE(Windows版)で訪問された方へ
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2006年05月02日

1519年5月2日は

 今年最大の(?)注目を集めている、レオナルド・ダ・ヴィンチの亡くなった日。享年67歳、いまから487年も前のことです。

 ダ・ヴィンチは文字通り英語で言うところの Renaissance man 、つまりなんでも器用にソツなくこなせる「万能人」タイプの典型、と考えられていますが、じっさいの生涯はそれこそ行き当たりばったりもいいところで、なんか妙に親近感がわいてきたりします。

 思えば小学校に入りたてのときに親に買ってもらった小学館の図鑑シリーズの一冊が美術の図鑑で、そこに掲載されていた「モナ・リザ」に釘付けになり、休み時間はひたすら下手くそな模写ばかり描いていた。小2にしてイタリア・ルネッサンスの画家の名前と代表作は記憶してしまったものの、勉強のほうはさっぱり…やめればいいのに油絵にも挑戦したり…とそんなことをつい思い出してしまった。

 ダ・ヴィンチの絵のすごさを当時なりに感じ取っていたせいか、暇さえあればとにかくスケッチ、スケッチ。絵画展でちょっとした賞をもらったりして、ご褒美に当時刊行が始まったばかりの集英社美術全集の初回配本の『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(当時3000円)を買ってもらったり…いまとなっては懐かしい思い出です(まだしっかりもってます。当時のグラビア印刷は意外と耐久性があって、変退色もさほどない)。

 当時はルーヴル美術館もダ・ヴィンチの故郷ヴィンチ村もフィレンツェも遠い遠い世界の話…のように思えていたけれど、いまじゃ家にいながらにしてヴィンチ村のことを知ることができたりと、世の中進歩したもんだ。Webの功罪についてはいろいろ言われているけれど、グーテンベルク以来の「社会革命」であることにはまちがいない(でも過大評価もしていない。まだまだ発展途上なので。ついでに基本的なことですがレオナルド・ダ・ヴィンチは「ヴィンチ村のレオナルドさん」の意)。

 おなじフィレンツェで活躍した先人のダンテと同様、ダ・ヴィンチもまた流謫の人生を歩み、ヴィンチ村-フィレンツェ-ミラノ-マントヴァ-ヴェネツィア-ボローニャ-フィレンツェ-ミラノ-ローマと転々としたあげく、フランス国王フランソワ一世の招聘に応じて故国イタリアを去ってフランスへ赴いたのが亡くなる3年前。そのとき持参したのが有名な「モナ・リザ(リザ夫人、英語圏ではジョコンド夫人 La Gioconda という名でも知られています。ちなみにこれはポプラの板に描かれています)」、「聖アンナと聖母子」、「洗礼者聖ヨハネ」の三点の油絵でした(こちらの二点も板絵)。

 ダ・ヴィンチという人はたしかに「万能の天才」だと思うし、つい先日放映された「新日曜美術館」を見て、やっぱすごいなーっていまでも感嘆するけれども、そのじつ完成した作品点数はことのほか少なくて、むしろ寡作家。かわりに投げちゃった作品のほうはゴマンとあって、「三王礼拝」とか「聖ヒエロニムス」とかもそう。子どものころ、そうとは知らずに(漢字が読めないというのもあったが)、「レオナルドってモノトーンが好きなんだな! とくに金色系が」なんて勝手に思いこんでいた。それと失敗も多くて、畢生の大作「最後の晩餐」も、ふつうにフレスコ画法で描けばよいものをあとでゆっくり手を入れられるからと壁画には不向きなテンペラ画法で描いたものだから、完成後ほどなくしてカビによる壁画表面の剥落がはじまって台無しとか、「若手の旗手ミケランジェロとどっちがすごいか競作させよう」という趣旨でヴェッキオ宮殿の大広間に描いた「アンギアリの戦い」も、自身が考案した新型溶剤が溶け出して散々な結果に終わってしまったり…ヘリコプターとか飛行機とかいろいろ発明はしているけれども跳ね上げ式の桟橋だったか、それをのぞいてはどれひとつ実用化されなかったし、完璧を求めすぎたゆえにけっきょく満足に完成させることさえできなかったケースが多かったみたいですね。人一倍科学的好奇心は旺盛だったことはまちがいありません。幼少期から孤独で、ひとりヴィンチ村の美しい桃源郷のごとき田園で遊んでは、「この花はなんでこんな色をしてなんでこんな形なのか?」などと疑問に感じては徹底的に調べつくす、そんな少年だったみたいです。光の当たり方や遠近法から、服の素材によるしわの寄り方のちがいまで、とにかくわからないと描けない、というスタンスの持ち主でした(クリエイターって大なり小なりそんなものですよね)。大人になっても科学する心は変わらず、「人間を描くには徹底的に肉体の構造を理解することだ」というわけで、妊婦さんや刑死した罪人の亡骸を解剖しないと気がすまない。夜な夜な弟子を同行させて墓を暴きに行ったというから、こうなるともう芸術のためというより狂人じみたパラノイアというか、すさまじさを感じてしまいます。

 14歳ごろ、当時フィレンツェで工房を開いていたヴェロッキオに弟子入りしたあと、はじめて師匠に描くことを許可された「キリストの洗礼」の左隅の天使の男の子。拡大してみるとたしかにすごい。師匠のほうはまつげもない、そのへんで遊んでる子をつかまえてモデルにしたみたいな天使像なのに、弟子のほうはまるで生き写しのような、いまにもまばたきしそうな柔らかなまつげとまぶたをもつ巻き毛の美少年。ヴァザーリの言い方(『美術家列伝』)は若干の誇張がふくまれているけれども、これを見た師匠が筆を折ったというのもうなづける話ですね。

 以前、NHKで「レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯」という欧州3か国の共同制作番組を4回にわたって放映したのを見ましたが、その中で、ダ・ヴィンチという人はとにかくなんでも日記に書き込む「日記魔」で、メモ魔だったらしい。それもかならずリフレインして書いています。「×月×日、母来たる。母来たる。」のように。このようになんでもきちっと記録に残す性分だったから、当然、遺言書なんかもしっかり作成。こちらのほうはぬかりがなかったようで。庶子の生まれだったのと生涯独身だったせいか、父親の死後、遺族と遺産相続の件で裁判沙汰に巻き込まれたりしたので、こういうことはきっちりしておこうと考えていたらしい。

 漂泊・流転を繰り返しつつも、最後はそれが報われ、これ以上ないくらいのよきパトロンにも恵まれて、半身不随の身となってもいまだ自由の利く左手で、「モナ・リザ」をふくむ三点の作品に手を入れつづけていたと伝えられています。故国を旅立つ前、若きラファエロ・サンツィオもこの老大家を訪問した折、「モナ・リザ」を見せられて激しい衝撃を受けたと言われています。

 …せっかくの機会だから、このさいこんな本があるので買ってみようかな。それと銀座ソニービルで開催されているこちらなんかも行きたいとは思うけれど、ちょっとムリそう。

 アングル作「レオナルド・ダ・ヴィンチの死」では、いまわの際に駆けつけたフランソワ一世が老大家を抱きかかえる場面が描写されていますが、画家の臨終のとき、じっさいには王は城にいなかったらしい。

 ダ・ヴィンチという人は流浪の旅に終始したみずからの人生を川の流れに見い出したのか、絵画作品の多くに流れる水(湖や川や海)が背景の重要なモチーフとして、独自の高度なぼかし技法(スフマート)で描かれていますね。最晩年を過ごしたクルーの館近くにもロワール河が流れているし、「すべてこの世のものは流れる川の水のごとし」という趣旨のことばも残していることからして、「無常」を象徴する川の流れというものにとても強い共感を抱いていたのではと思います。

 ダ・ヴィンチ曰く、「上手に昼間を過ごした日には幸福な眠りが来るように、上手に過ごした一生は幸福な死をもたらす」。かくありたいもの … ← 思うだけで実行しない人。

 …ついでに今日はアメリカ大陸を「最後に」発見したコロンブスの命日(1506)でもあり、ナイチンゲールの誕生日(1820)でもある。音楽関連では、きのうがモーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」初演日(1786)だったそうです。
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2006年04月24日

ある写真展

 いまにも空が泣き出しそうな土曜の午後、こちらのギャラリーにて開催された写真展を見に行きました。

 片倉、といえば、富岡製糸場の歴史的建造物が有名ですが、じつは沼津にも片倉の蚕種製造所があり、小学生のころ、ほんとうにすぐ近くに住んでいました … というより、遊び場の一部みたいなものだったかな。

 カイコの繭玉から高級なシルクを採取するための工場で、自分がときたま出入りしていたころはとっくにシルク製造は停滞していて、そのため? か友だちと連れ立って勝手に敷地内に入ったときも、中で働いていた女工のおばさんたちが笑顔で取ったばかりの繭玉や、桑の葉をムシャムシャ食べて文字通り蠢いている、芋虫の化け物みたいな白いカイコを見させてもらったことを、いまでも鮮明に憶えています。

 建物も独特な外観で、すべて木造。中に入るとえも言えぬカイコの匂いが充満していました。

 自分が引っ越したあと、蚕種製造所はしばらくは片倉の園芸部門として存続していましたが、1994年にとうとう閉鎖、以来いままでこのかたずっと現状維持(管理人さんがいたので放置ではない)、昭和初期の面影を残す貴重な文化財的な存在でした(よくいままで放火もされずに残っていたと思う)。

 それがなんとショッピングセンターに姿を変える … ということが決まったのが昨年暮れくらいだったか。たしかにあのへんは買い物するお店がないよなー、あんなに広い敷地( 約4千坪 )を持っているんだもの、固定資産税だってバカにならないしいいことかな、とのんきに構えていた。

 でも先月中旬から取り壊しが本格的に始まると…なんかやっぱり寂しい。あまりに当たり前すぎて、あらためて写真を撮ろうとも思わなかったくせして、いざ木造建物の一部が完全に消え去り、建物を取り巻くように生えていた大木もあらかた伐採されてしまった光景を目の当たりにして、ちょっと後悔してしまった … 。

 … そんなときに知ったのが今回の写真展。プロの写真家もあの建物に注目していたんだ…と思うとなんか嬉しくて見に行ったしだいです。

 ちんまりしたギャラリーに、カラーとモノクロの作品が飾られていました … ふたりの写真家の競作という形。カラー作品のほうはまるでモダンアートのような斬新な構図で切り取られた作品で、自分も写真をやるのでつい、「これどうやって撮ったんだろう … 」とか考えながら見入ってしまった。あとでギャラリーの方に話を聞いたら、何枚も張り合わされた工場の障子紙( 廊下がけっこう広くて、カイコのいる部屋とは障子で仕切られていた )を透過光で露光を切り詰めて撮影したものらしい。トタンのペンキのはげたところ、壁の亀裂など、どちらかというと微細な部分を巧みに切り取っているのがとても印象的でした…見ているうちに、これ ECM の New Series 用ジャケットに使えるかも、と思いました。とにかく切り口が斬新で、おもしろいのです。

 かたやモノクロのほうは一転して、超広角レンズで対象を至近距離から狙った正統派(?)アプローチの作品で、蜘蛛の巣がかかった水道の蛇口、カイコが繭玉をこしらえていた台、建物の中庭とそこに亭々と聳え立つ樹木( ほんとうにここは大木が多かった。常緑がほとんどだけどイチョウやハゼノキもありました )、それに磨ガラスに描かれたドラえもんなどの落書きを撮ったものまでありました。

 お話を伺うと、写真家の方もほとんど偶然のきっかけで、ここの蚕種製造所がまもなく取り壊されると耳にしたそうです。現地に行ってみるとすぐに気に入り、今年 2月、一か月かけてここに通いつめて撮影していたとのこと( 自分も撮りたかったな )。

 これとはべつに DVD のビデオ作品もあってそちらも見せてもらいましたが、敷地内にはタンポポに土筆まで生えていた。黒板に書かれたまま消えずに残っているチョークの文字、埃まみれの繭玉選別機、無造作に置かれたままのカイコ台に桶、破れた障子 … 製造所の近所はここ十数年で田畑があらかた消え、マンションが建ったりすぐ前にはコンビニができたりと急速に変わってしまったが、片倉の敷地の中だけが、いまのいままで自分が子どものころに見た風景のままだったことにあらためて強く打たれてしまいました … ここだけ昭和のまま時間が止まっていたのです。とはいえしょせんは感傷的ノスタルジアに過ぎないのですが。

 ここの工場っていつごろからここで操業していたんだろ、と以前から思っていたけれど、今回はじめてそれがわかりました … 1934年に現在の製造所が完成した、というから72年前からずっとここにあったらしい。現在残っている建物は当時そのまんまではなくて、建て替えたり窓が一部アルミサッシになったり、敷地南側が現在の公道になったりで若干のちがいはあるけれど、正門を入ってすぐ前に建つ水色の事務所や左隣のカイコの卵を保管する蔵、その裏へとつづく木造の建物は往時のまま。ついでに子どものころ、事務所の前にちょっとした庭園があって、バナナが生えていた。もっともバナナは実らなかったけれど … 。

 … 写真展を見たあとでまた取り壊し現場に行ってみたら、まだ正門前の事務所と蚕種庫、それにつづく建物は残っていました( それと工事関係者のプレハブ小屋 )…すでに更地になった、がらんとした広大な敷地から、真っ白く雪化粧した富士がやたらとくっきり見えていました…。まだ残っているこれらの建物も、屋根に覆いかぶさるほど成長したシイノキやイチョウの大木もろとも、いずれは完全に消滅して賑やかなショッピングセンターになるのだろう。

 …ショッピングセンターができたら、せめて今回展示された写真を飾るコーナーを設けてほしい。
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2006年01月15日

Et tu, NIKON!!

 …って、カエサルならずとも叫びたくなりましたよ。なんとニコンがフィルムカメラから撤退、さらに大判カメラ用ニッコールレンズも生産中止するという!!!

 一部ではニコンがフィルムカメラ、aka 銀塩カメラから撤退するのでは…と噂されていたらしい…まったく知らなかった。

 新年早々、個人的にはなんともショッキングな事件です。

 かくいう自分もニコンユーザー。F601という35mmSLR、もうかれこれ15年以上の長〜いお付き合いになります。ボディはキズだらけ、炎天の真夏の海辺から富士山新五合目、厳冬マイナス10度以下の西天城高原「なべ石」まで、つねに写行をともにしてきた戦友みたいなもの。6年前に黄金崎でレンズを下にした状態でコツンと岩場に落として以来、測距機構がいかれてほとんどマニュアルでピントあわせ、という不具合をのぞけばいたって快調。オーバーホールすることもなくいまだに現役です。レンズは、落としたニコン純正ズームと、タムロンの90mmマクロ。たいていはこの二本で用が足ります(野鳥や動物狙いではなくて、風景写真なので。ときどき望遠や超広角なんかもあればいいなとは思いますが)。

 ほんの数年前まで、デジカメの画質はせいぜいが「写るんです」並みで、とてもじゃないが鑑賞には耐えないと思ってました。ところが敵もさるもの、恐るべき速さで進化しつづけ、一眼レフタイプの本格的モデルも10万そこそこくらいで手に入れられるようになってきた…とはいえ画質について言えば、まだまだ35mmクラスにようやく追いつき追い越せくらいになったていど。写真の出来はともかくしょせん大中判フィルムのシャープネスの比ではありません。4x5(読み方はシノゴ)と呼ばれる、10.5cmx12.7cmにカットされた大型カメラ用フィルムで撮影された作品など、画素がどうのというレベルではありません。いまではフィルムの性能がいいので、へたすると雑木林の樹木一本一本、人物の毛穴までばっちり再現できてしまうくらいの画質なのです。

 …とはいえデジカメにだっていい点はたくさんある。ポケットに入るくらいの小型タイプだと、「あっ、地震雲だ?!」と思った瞬間に撮影できる。むかしの米国の記者なんかはスピードグラフィック(スピグラ)といって4x5判でむりやり手持ち撮影してましたが、いまでは携帯電話でさえそこそこ見られる画質で撮れる時代。即写性ではデジカメのほうがはるかに有利です。そして出来上がりがすぐに確認できること。これも現像が上がってくるまで仕上がりの予測がつかない銀塩にはまねできない芸当です(使用フィルムはカラーネガではなくてカラーリヴァーサルなので、なおさら)。なので、当初はデジカメには目もくれなかったくせに、サブカメラとして安い小型タイプでも買おうかな…と思っていた矢先、往年の老舗から突然の撤退発表を耳にしたのでした…。

 そういえば数十年前、だれだったか米国の歌手が、「ぼくはNikonを買ったんだ、好きなんだ、写真を撮るのが…」なんていう歌まで歌ってました。Nikonの35mmといえばドイツのライカとならんで世界中のフォトジャーナリストからも支持されている数少ない国産カメラメーカーだけに、今回の発表は――一私企業だからしかたないとはいえ――ほんとうに残念至極。

 ワタシもデシカメはまたしばらく延期して、ニコン純正交換レンズを急いで買っておかないと。

 ついでながらわが家ではいろんな電化製品が文字通り耐久消費財としていまだ現役。電話もいまだに某電話会社から借りている、サザエさん家とおんなじ黒電話。これがまたずこく頑丈。何度落としたことか。保障期間が終わるころを見計らったかのように壊れる、某××NY製品とは大違い。テレビも某社の86年製品。ブラウン管がかなりくたびれてきていますが、なんとか現役。20年近く使いつづけた冷蔵庫はさすがに一昨年、買い換えましたが…。
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