2011年02月15日

The Social Network

 この前、ひさしぶりに映画鑑賞しました…観に行ったのは、これ。昨年までは140文字限定マイクロブログのTwitter がかまびすしかったのですが、こんどはFacebook らしい。なんでもエジプト市民革命の「連絡板」代わりに使われたというから、ある意味Twitter を凌駕したかもしれない(しつこいようだがツタンカーメン王およびアクエンアテン王の遺品をくすねた人、はやく博物館に返しなさい)。いまや飛ぶ鳥落とす勢いの感ありのFacebook ですが、では創業者はどこのだれで、どんなふうにはじまったのかについてはGoogle やAmazon ほどには知らない。また昨年、英国のメル友が「あなたもFacebook をはじめてほしい」とせっつかれ、まあHTC Desire を契約するし参加してもいいかな、というわけで自分も世界最大級SNS のユーザーになるというまさかの展開になったり(笑)。だから実在の人物――まだ26歳!! ―― をモデルにした本作品にはたいへん興味を惹かれたのでした。

 監督さんがデヴィッド・フィンチャーということもあってか、ストーリー展開はけっこうスリリングで小気味いいというか、キビキビした印象を受けました。もっともジェシー・アイゼンバーグ扮するザッカーバーグのあの「弾丸トーク」には耳が降参してしまったが(当方が観たのは吹替版ではありません。もっとも洋画は字幕版のほうが好きだからべつにいいんですけども)…。

 観ている途中で思ったんですけど、この映画で描かれているザッカーバーグ青年は、ありとあらゆる意味において米国資本主義を体現しているなあと。とくに動きの速すぎるIT業界って、シェアを取るためには一にも二にもまずscaling-up 、つまり規模の拡大をはかることを最優先にしたりする(Twitter なんかもそう)。もっともSNS ってWeb 草創期のニューズグループとかからはじまる一連の流れの延長線上に位置するわけで、劇中、登場人物たちのしゃべる台詞に何度か競合SNS としてFriendster が登場していた(字数制限のある字幕にはなし)。で、ライヴァルから一歩も二歩も頭抜けるための方法のひとつとして、ザッカーバーグがとった方針が「とにかくクールであること」。会社の規模がかなり大きくなっても広告表示をさせないことにこだわっていたらしい。

 物語はどこまでが実話にもとづく部分で、どこからが「脚色」なのか、いまいち判然としませんが、Facebook アイディアを最初に思いついたのはおれたちだ、とハーバードの学生仲間から告訴されたり、数少ない親友にしてプログラマー仲間を切り捨てたりというあたりはまあ、ありがちな話かなと。それと、Napster の共同設立者のショーン・パーカーって、一時期Facebook の経営にも首を突っこんでいたんですね、知らんかった。映画ではなんか西海岸で見かけそうなやたらpositive で、お調子者っぽいキャラクターで登場してましたけど。

 で、物語が進むにつれ、こんどはこの手の「学生起業」というものの危うさ、不確かさというのもまた感じていた。きょくたんな話、明日Facebook が倒れても(失礼)ユーザーのわれわれはべつに金払って利用しているわけでもないから、たぶん実害はないかもしれない(自分の「ウォール」とかに掲載してあるメッセージや画像・動画といった全データは消滅するだろうけれども)。学生が立ち上げた会社といえば、たとえばガレージをオフィスがわりにしていたApple とか、またMicrosoft なんかは、基本的にモノづくりの会社だから、手堅い印象は受ける。でもこの作品に描かれている世界最大級SNS の起業は、いかにも学生らしい、ノリの軽さをというものを感じてしまう。ちなみにFacebook はザッカーバーグ氏がまだ19歳(!)、ハーバード大学のsophomore だったときに設立したというからほんとおどろきます。なんだかんだ言っても人一倍の才覚があるんだな。

 ただ、日本版Newsweek にもあったけれども、カリスマ経営者がいなくなったあとで、会社をどれだけ存続させられるかがほんとうの勝負になるような気がします。Apple もどうなのかな? そしてもうひとつ、こういう若いIT起業家とくるとかつて日本にも一世を風靡した方がいましたが、彼とザッカーバーグ氏の決定的なちがいは、金稼ぎにたいする意識。ザッカーバーグ氏の場合、個人的な金儲けということにはあんまり(?)関心がないようです。根っからのプログラマー職人なのかな。もっとも会社の規模拡大には余念がなくて、本社をめちゃくちゃ広い建物に移転するらしい(東京ドーム数個ぶんとか聞いた)。あのGoogle もびっくりですな。

 …ちなみに自分が観たとき、観客は10人いるかいないかでした。お昼前という時間帯もあるかもしれないけれど、彼我の温度差も感じたしだい。アカデミー賞最有力候補と目されているようですが、もうひとつ「英国王のスピーチ(King's Speech)」という作品も候補にあがってますね。こちらのほうはメル友のつよい勧めもあり、観に行こうかどうかもっか思案中。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるん

追記。忘れていたわけではないが、例のクイズのこたえ。'He's making a ...' というのは、'He's making a list' でして、「サンタが街にやってくる(Santa Claus is coming to town)」の一節。ついでに今週の「気まクラ DON」は…「♪ わらべは見たり、のなかの××」じゃないかな。さらについでにこの作品、べつの作曲家によるヴァージョンが、西伊豆町の正午の時報として同報無線から流れています(ちなみに本日15日って、『音楽大全』で知られるミヒャエル・プレトリウスの誕生日だったみたい)。

追記。こちらで、字幕翻訳者の方が打ち明け話を寄稿しているのを発見した。

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2010年02月14日

「かいじゅうたちのいるところ」

 幼いころに読んだ「絵本」というのは、何十年たっても記憶の奥底に澱のごとく沈んでいたりしますね。幼稚園の「お遊戯発表会」だったか、たしか『ぐりとぐら』を演じたおぼえがあります…でかい鍋にカステラを入れて焼いたところとか、いまだに覚えています。

 『かいじゅうたちのいるところ』もそのひとつ。「かいじゅうおどり」はよく覚えているけれども、あらためて原作本を見てみるとやっぱりおもしろい。まちがいなく20世紀最高の絵本のひとつだと思います(個人的には『はらぺこあおむし』とか、考えさせられる『おおきな木』もけっこう好き。しかし…1975年初版発行後、先月で刷りも刷ったり110刷!! この絵本じたいがすでに「かいじゅう」並み)。

 で、その傑作絵本をなんと! 実写化したという。これはおもしろそうだということで、観てみました。しかしながらいま「洋画」というのは「字幕」より「吹き替え版」のほうが主流。字幕版…もあるにはあったが、時間帯がよろしくなくて、しかたなく「吹き替え版」で観ることに。

 まずあらためて原作読んで感じたのは、「まるで『メルドゥーンの航海』みたいな出だしだなぁ」ということ。『ブランの航海』でも『聖ブレンダンの航海』でもなんでもいい。主人公が航海に出て、「異界」にたどりつき、数々の冒険をへて、「出発したときとは別人になって」帰還する――古今東西の神話伝承によくある、古くてあたらしい物語のひとつだということです。

 映画ではそのへんがたいへんリアルに描写されていました。もっとも大波のたたきつける岩礁海岸にあんな華奢なセイルボートで行ったら、現実ならば木っ端みじんだったろうが…そこは「マックス少年の心象風景」。難なく上陸、島のかいじゅうたちと出逢うことになります。

 原作では名なしのかいじゅうたちですが、それではお話にならないので、映画版ではそれぞれ一癖も二癖もある、個性豊かなかいじゅうたちとして登場しています――それぞれのかいじゅうは現実世界の鏡写しの存在で、気難しい「キャロル」はマックスの、「K.W.」はお姉さんのそれぞれ大幅にデフォルメされて投影されたものでしょう。しかしながら昨今流行りのCGは控えめなので、かいじゅうたちの存在感はじつにリアル。原作を損ねず映像化している点を見るだけで、監督がいかにこの原作に惚れこんでいるかがよくわかります。

 主役のマックス少年を演じている子(奇しくもおんなじマックスという名の少年)も好印象。原作ではただたんに「暴れん坊」にすぎないマックスをいかにも現代的な、影のある子どもとして演じているところも物語のリアリティを高めていて好感が持てました。

 映画版の「かいじゅうたち」は文字どおりばかでかくて、マックス自身でもコントロールのきかないやっかい者ですが、そのくせ「孤独」というものにひどく怯えている。マックスはどうにかこうにか彼らと過ごしているうちに、自分の内面を客観的に見つめることができるようになる――そのへんの心情の変化というか、うまく視覚化されていたように思いました。

 原作では「いちねんといちにち」航海して自分の部屋に帰還するマックス少年ですが、中世アイルランドの航海物語、あるいは「浦島太郎」伝説のように、こういう物語での時間軸というのはきわめてあいまいです。おそらく家出してそれほど経っていないときに現実世界に帰ってきたマックス少年は、母親の作ってくれた「加工食品」のスープの夕食を文句を言わずに食べるシーンで終わります――この映画ではかいじゅうたちと過ごしているあいだはなにかを「食べる」シーンは出てきませんでした。このへんも時間軸のズレを暗示しているように思るし、「心の内面の風景」ということを暗示しているのかもしれない。

 母親の用意してくれた夕食を食べるときも、頭巾を下ろしているとはいえ、マックス少年は例の「白いオオカミの着ぐるみ」は着たままです。かいじゅぅたちの島に行って、帰ってきた後でのマックス少年はもはや家出する前のマックス少年とはちがいますが、着ぐるみを着たままでいることはまだこの先、似たような「騒動」を起こすかもしれないという暗示かもしれない。人間、そうかんたんには変われないものですし。日本でも、「三つ子の魂百まで」って言いますよね。でも精神的には着実に成長する。そういうだれしも通る、一種の「通過儀礼」、イニシエーションというものを描いた作品としてもとらえられるかと思います。

 …そういえば地元紙の投稿欄で、「洋画は生の俳優の声を」と「吹き替え版」主流の映画業界に物申している方がいましたが、自分もこの意見にはおおいに賛成。今回観たのはどちらかというとお子さま向けで、致し方なかったかもしれないが、映画館で観る洋画くらい、演じている俳優さんのなまの科白とか息遣いに浸りたいじゃないですか。残念ながら「吹き替え版」ではわかりやすさと引き換えに、そういう生々しい臨場感を奪っているように感じます(マックスの声を担当していた加藤清史郎くんは悪くなかったけれども)。

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2008年07月14日

「奇跡のシンフォニー」

 まずはじめに正直に告白するとこの作品、ほんの一部分をYouTubeで見てはじめて存在を知った。たしかオルガン関係のキーワードで検索をかけていたときだったように思います。?? と思って見てみたら、どっかで見た少年が教会のオルガンを嬉々として弾いている場面が。ややっ、この子たしかFinding Neverland(邦題「ネバーランド」)に出ていたフレディ・ハイモアくんだよな…なにこれ??? と思いつつも、また忘れていた(笑)。それが先月、「愉悦の古楽特集」というなんとも購買意欲をそそられる記事を組んでいた『レコ芸』をひさしぶりに買い、うしろのほうのページを繰っていたら、やっと謎が解けた。ああ、これだったのか、と。というわけでようやっと見てきたしだいです。

 物語じたいは「芸は身を助く」的な、よくあるパターンかなと思ったけれども、全編が一種の音楽芸術賛歌というか、音楽ファンタジーでしかもa happy endingだったから、かつて見た「ショコラ」、「ラヴ・アクチュアリー」のような終わり方がけっこう好きなほうなので、とても楽しめました。客を泣かせる名人(?)ロビン・ウィリアムズも重要な役回りで出ていたので、覚悟はしていたのですがそんなに泣かずにすんである意味よかった(?)。ロビンは最初はハイモアくん扮するエヴァンに「音楽は宇宙そのものだ」とかなんとか、古代ギリシャにまでさかのぼる西洋音楽観に近いようなことを滔々と彼にレクチャーしておきながら、けっきょくエヴァンの音楽にたいする思いをこれっぽっちも理解できず、最後は「エレファント・マン」よろしく、見世物小屋の親方の同類にすぎなかった。後半はなんだかすこしバタバタしているかなとも思ったが、全体的にはうまく描いていたと思う。のっけからバッハのパルティータ(3番だったかな?)が演奏されるシーンが出てきたり、クライマックスでは――ついこの前も「N響アワー」で聴いたが――エルガーの「チェロ協奏曲 ホ短調」も流れてました。

 でもなんといっても主役ハイモアくんのあまりに自然な名演が光ります。彼が演じたのはミューズから生まれ落ちてきたような音楽の天才児でしたが、彼もまた生まれながらの俳優だ、と思います。「ネバーランド」を見たときにこの英国の少年俳優はすごい…と感じていたけれど、今回もまたそれを強く実感。教会のオルガンを弾く場面なんか、ちゃんと足鍵盤も弾いているし、音楽の申し子という役柄ゆえか、コンビネーションボタンの扱いまで一瞬にして覚えて数個のストップを一気に引き出し教会全体を震わせるフル・オルガンと、プロのオルガニストもびっくり(?)の使いこなしよう。しかもあのいかにも鍵盤を触ったことのなさそうな指でありながら立派に弾きこなしているように「見せる」演技なんか見てますと、すなおにすごいなぁと思いますね。あのシーンは、あえてわかりにくいたとえを使えば、碁なんか打ったことのない進藤ヒカルがはじめて碁会所で周囲を瞠目させる対局をしてみせたようなもの(いったいなんのことじゃ? と思われた方はあまり深く突っこまないでください[笑])。

 それにしてもあのエヴァンのギターの弾き方…パンフレットによると伝説的ギタリストのマイケル・ヘッジスという人の演奏スタイルを踏んだものらしいけれども、最初に見たときはなんか押尾コータローさんみたいだなーと感じた(押尾さんの演奏スタイルも、もとをたどればヘッジスだったようですが)。ジュリアード音楽院の作曲クラスの場面では、教官がハ長調からト長調(5度上、ドミナント)へ…とかなんとか、転調効果のことを教えていました(五度圏のことかと思った)。

 エヴァンが作曲した「オーガストの狂詩曲 ハ長調」は、出だしの16分音符進行がなんとなーくバッハの「クリスマス・オラトリオ BWV.248」の冒頭部っぽい印象(BWV.1004の無伴奏ヴァイオリン・パルティータ冒頭部のほうがより近いかな)。途中、ジャムセッションみたいに急にギターの即興的フレーズが割りこんだりと、古今東西の音楽をひとつにまとめてみました、みたいな作品でしたが、けっこううまくまとまっていたのでこちらもおもしろかった。クリエイティヴな音楽というか。

 この作品はたしかにうまくまとめすぎている感は否めなかったけれども、聴く者の心をわしづかみにして捉える音楽という芸術の持つ力というものがよく伝わってくる点はおおいに共感できる。自分の拙い経験を顧みても、病気だったときにバッハのオルガンコラールを聴いて心揺さぶられるような感動を味わったことがあるし、その後「パリ木」の実演にはじめて接したときにも強い衝撃をおぼえたものだし…。そう、エヴァンの言うとおり、自分も「三度の飯より(more than food)」音楽が好きだし年がら年中聴いているので、彼が最後に言ったことばも説得力がありました。'Music is all around us. All you have to do is, "Listen"!'

 …というわけで、本物のNYフィルまで総動員した贅沢さと、ハイモアくんの名演をたたえて評価はるんるんるんるんるんるんるんるん

*「字幕」という特殊な邦訳について。ときおり、だれだれの訳はひどいとか、まちがってるとかという指摘を見かけますが、字幕にはきびしい字数制限があるので、えてして的外れな場合が多いように思います。この作品の場合だと、たとえば'I am here!'という科白にあてた字幕が「今は違う」になっているが、だからと言ってまちがっているとは言えない。字数を制限されている以上、これはあるていどしかたないことです。

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2007年12月03日

「Always 続・三丁目の夕日」

 ネタバレしないていどのメモにとどめておきますが、前作は本作のためにあった…と思えるほど出来がよいと言うか、ひさしぶりに見終わって心地よいカタルシスをおぼえました。ヘンな言い方ながら、「ショコラ」日本版みたいな感じです(「ポネット」ちゃんはいまでも女優をつづけているのかな?)。

 時代設定がちょうど高度経済成長前、まだ大戦の痛手があちこちに残っていた1959年ごろの東京の下町。なのでそこの住民はみんな貧しく、つつましい生活を送っています。この作品のいいところはただ懐かしい…だけの作品に終わっていないこと、強いメッセージが込められていることにあるでしょうか。そうは言っても、煙草屋のとなりの「ナショナルのお店(?)」だろうか、昔のパナ坊(?)の置き物なんか、いったいどこから借りてきたのかと本筋とまるで関係ないところで感心したり(苦笑)、Star Wars張りに迫力満点の冒頭シーンにびっくりしたり。また不法投棄(?)された廃車がさりげなく登場したり、その廃車置場がやがて新しいビルの建設用地になったりと、「消費は美徳」ともてはやされたある意味狂乱の時代へと様変わりしてゆくようすもしっかり描かれています(登場人物の心理描写にもそれは当てはまる)。監督はじめスタッフの並々ならぬ情熱は、当時の町並みを再現するCG技術とか、とにかく細部にわたってまったく手を抜いていないことからもひしひしと感じ取れます。ひるがえって役者さんたちのほうは、宣伝番組でもそんなこと言ってましたが、意識して演技しているというより、ほんとにそのまま夕日町三丁目の住人になりきっている感じで、演技の介在を感じさせないところもよかった。

 印象的だったのは、こんどこそ芥川賞を取る! と宣言して一心不乱に執筆に打ち込む茶川さんかな。原稿用紙に書き出す前の祈るような所作、執筆中の鬼気迫る姿、昔の「文士」そのものです。そしてあの散らかりほうだいの部屋。それを見たとき、坂口安吾を取材しに行った写真家の林忠彦氏の話を読んだことをふと思い出した(→関連サイト。それにしてもまる2年も掃除していない部屋って…[絶句])。茶川さんが芸術至上主義の権化にも見えました。「この世の中にはカネでは買えない、もっと大切なものがある!」という叫びは、たぶん制作者の気持ちを代弁しているようにも思う。モノゴトをたったひとつの物差しでしか考えない「時代の最先端」の人間、それに抗うようにつましく生きる下町の住人たちとの葛藤。このあたりいまの時代につながる要素だと思いますが、そのへんも説教臭くなくうまく描かれているとも感じました。

 もうひとつ印象に残ったのは、小清水一輝くん扮する一平くんが、もともと自分が東京タワーに登りたくて貯めていた貯金をはたいて親戚の女の子が喜ぶものを買い、それを手渡す場面。いくら恋心を抱いた相手(calf love?)とはいえ、自分より他者の喜びのほうを優先する、他者の喜び(幸福)=自分の喜びという点が、三丁目の住人に共通の特徴を端的に表現しているように思え、やんわりといまの人のあり方を批判しているようにも思えました。ほんとうの幸福はありあまる情報やモノとカネに支配されるのではない、「足るを知る」ことにあるのだということを考えさせてくれる作品です。そう言えば、ある高名な詩人の先生の文章に、「幸福はhappinessではなくて、artである」という一節があったのも思い出した。

 全編通じて背景に登場する東京タワーとならんで、今回は日本橋の場面も印象的。いまの日本橋しか知らない人間にとっては、こんなに広々した橋なのかと思いました。

 …そう言えば今年も漢検の「今年の漢字」一文字を募集していますね(もうすぐ締め切りだけど)。早いなー、もうそんな季節になったのか。BBC Radio3も毎年恒例のセントジョンズカレッジ礼拝堂聖歌隊による「待降節キャロル礼拝」のもようを中継していたし。今年の漢字は――みんなおんなじこと考えているとは思うけれども――「人偏に為す」という字ではないですかね? 

「母べえ」の予告編にバッハのコラール
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2006年07月03日

The Da Vinci Code

 先週末、The Da vinci Codeをようやく――いまごろになって――見に行きました(以下、多少のネタバレあり。ご了承ください)。

 けっきょく原作本を読む暇がなくて、先入観のほとんどない状態で見に行ったんですが、作品として集中して見ることができたので、それはそれでよかったみたいです。自分の場合は「原作本を読んでないとわからない」こともなかったですし。もっともcryptexの扱いが原作とは異なる…とか、そのへんのことは原作を読まないとわかりませんが、物語全体から見れば枝葉末節のたぐいで、映画は映画として楽しめると思います(ちなみにcryptexはcryptology + codexからこさえた造語らしいけれども、どう見てもあれはscroll、「巻き物入れ」ですよね)。

 見に行く前はたいして期待していなかったんですが…思っていた以上におもしろくて、作品としては秀逸、とてもよくできていたんじゃないでしょうか。ロン・ハワード+トム・ハンクスのコンビの作品を見るのは「アポロ13」以来なんですが、それと負けず劣らずいい映画に仕上がっているのではと感じました。実物大セットでの撮影とCGが多用されていたようですが、見ていてなんの違和感も感じなかったし、あまりに自然なのでつい「ほんとにこんな地下室あるんかな?」なんて思ったり(ロケ地のことをよく知らないからというのもあるけど)…ひと言で言うと、「講釈師、見てきたようなウソをつき」みたいな感じかな。これはハワード監督の作り方のうまさもあるかもしれないが、やっぱり原作者ダン・ブラウンの書いた歴史ミステリの巧みな語りによるところ大でしょう。映画パンフレットに俳優さんのインタヴュー記事が掲載されてますが、Opus Deiのアリンガローサ司教に扮した役者さんも、「『ダ・ヴィンチ・コード』の最大の魅力っていうのは、フィクション以外のなにものでもないのに、事実がほどよくまぶしてあること。だから、読者は深く引き込まれてしまう」とうまいこと言ってます(休暇先のプールサイドで目にした光景の話は笑えました)。

 個人的には、冒頭に出てくる「モナ・リザ」がなんとなく似てないなぁ…ということ以外はとくに気になる点はありませんでした。ただし、ちょっとエキセントリックなティービング教授の長ったらしい説明にはいささか引き気味…になったことも事実。そもそもコンスタンティヌス帝が325年5月20日にニケア公会議を召集した理由は、当時の教義上の分裂(アリウス派とカトリック教会との対立)をなんとかしようと画策してのもの。「自分たちに都合のいい正典を選んだ」わけじゃありません。それに公会議は何度も開かれているし(うちニケア、コンスタンティノープル、エフェソ、カルケドンの4つの公会議は全キリスト教会を結ぶとりわけ重要な会議として承認されるようになった)。ようするにかんじんの教義がバラバラでは帝国民をまとめるうえで困ります、というわけ。「マグダラのマリヤの福音書」も教授が得意げになって持ち出せるようなものではなく、岩波版『ナグ・ハマディ文書 II』を見ればわかるように、ほんの数ページの断片しか残っていない代物で、いつどこで書かれたのかも不明。おなじナグ・ハマディ文書の「フィリポによる福音書」も、じっさいには福音書というよりたんなる抜粋集で、映画に出てきた箇所も、

 …[主は]マ[リヤ]を[すべての]弟[子]たちよりも[愛して]いた。[そして彼(主)は]彼女の[口にしばしば]接吻した…(p.76)

 のように学者が前後関係から類推して補足した箇所([]で囲まれた部分)だらけであることも付け加えておきます。

 のっけからフィボナッチ数列だのが出てきて、知的刺激に満ちたスリラーだからここまで大いに受けたのだろう、と思ったけれども、館長の孫娘のソフィー…という名前を聞いたとき、ひょっとしてこの人がイエス-マリヤの末裔かしらと冗談半分に思っていたらほんとにそういう展開だったとは…。ソフィーという名前じたいがいかにもグノーシス的だし、盗作(?)されたと主張している作家の歴史ミステリにも、ソフィアなる女預言者が出てくるからそう思ったんですけれどもね。それと、お話が進むにつれ、ティービング教授がだんだんStar Wars episode3 の皇帝パルパティーン(=ダース・シディアス)に見えてきてしまった(イアン〜という名前の俳優には名優が多いのかな?)。

 ラストでラングドンが夜のルーヴルにもどってくる場面。ちょうどぐるっと巨大な円環を描いているみたいで印象的でした。
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