2024年04月25日

『オッペンハイマー』

 ここのところ大好きな『ラブライブ!』シリーズの劇場版作品のリリースが続いて(昨夏のアニガサキ OVA とか今春の『ラブライブ! The School Idol Movie』4DX 版とか)、鑑賞するのもいきおいそっち方面に偏りがちではあるけれど、日本人としてはやはり観ておきたかった作品がコレ  

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 オッペンハイマーとはじつは少しばかり縁がありまして、まだ翻訳を学ぶ側だったころ、当時の師匠の教室の生徒さんたちと共同で下訳したのが写真の歴史に関する大部の著作で、たまたまワタシが担当した箇所がずばり「広島に落とされた原爆」の写真について考察された章だった。人類史上初の核兵器の話なので、「トリニティ実験」も、そして映画でも何度か登場する『わたしは死、世界の破壊者となりし』という、古代インドの聖典『バガバッド・ギーター』の引用句も出てきた。

 映画ではこの引用句が印象的に使用されているのだが、映画の原作にあたるこちらの本(ハードカバー初版本では上巻末尾近く)を見ますと、どうもこれ、オッペンハイマー自身は 1945 年時点で口にしていないって書いてあります。じゃあ初出はいつか、というと、なんと 1965 年(昭和 40 年)、NBC テレビのインタビューだったと明かされている[↓動画クリップ参照]。なので、「きみはわたしのようなジプシーではない」(アインシュタイン)のように、映画に登場する人びとの科白はほぼ原作を忠実になぞっている、と言えそうだが、コレに関してはどうもそうではなさそう、つまり映画の脚色っぽいのです。



 そうなると、当時交際していた精神科医のタマゴだった女性がアラレもない姿で本棚から引き抜いた一冊をオッペンハイマーの目の前に掲げて、「このサンスクリットはなんて書いてあるの?」と訊いた云々も史実とは違う、ということになる(ここの箇所は時間がなくて、原作本で確認できなかった。というかこのベッドシーンその他は必要なカットなのか? ただのサービス? もしこうした一連のカットのせいでこの作品がR指定にされたんじゃ、それこそ本末転倒だと思うが。それと文学の出典つながりでは、冒頭近く、オッピー(オッペンハイマーの愛称)の愛読書らしかった T・S・エリオットの詩集『荒地』も一瞬だけ映っていた)。

 ただ、それ以外は(確認したかぎりでは)ほぼ原作どおりに進行し(実在した人物の評伝的作品だから、当然と言えば当然ながら)、宿敵ルイス・ストローズ(戦後、米政府原子力委員会トップに就き、オッペンハイマーの公職追放を主導した。彼の視点で語られるときは、モノクロ画面に切り替わる仕掛けが施されている)とのやりとり、アインシュタインとのやりとり、そしてトリニティ実験当日に奥さんのキティと交わした「シーツは入れなくていい」「シーツは入れてくれ」のような暗号じみた電話などは史実を丹念に拾っている。カリフォルニア大学バークレー校教員時代、同僚のひとりルイス・アルヴァレズが理髪店で散髪中、たまたま広げた新聞にとんでもないニュースが書かれてあり、「食い逃げッ!」とばかりに店主が追いかけるも、脱兎のごとく(笑)外に飛び出し、そのまま全速力でキャンパスまでもどり、「オッピー、オッピー! ドイツのハーンとシュトラスマンだ! 核分裂に成功したぞ!」と叫ぶ場面とか、細かいところも史実に沿って描かれている。

 トリニティ実験当日のようすも克明に描かれていて、オッペンハイマーが感じていたであろう重圧は観ている側にもダイレクトに伝わってくる。早朝5時30分、やぐらのてっぺんに固定された「ガジェット」に点火。そして──約1分にわたって続く静寂のシークエンス。太陽よりも眩しい閃光。ベース基地にまで届く熱。ややあって猛烈な爆風と轟音。このへんも、実験に居合わせた科学者らの証言をうまく映像化していると感じた。

 しかし …… 地球をもふっとばしかねない「プロメテウス的な」強大な破壊力を手に入れたオッピーたち(と旧ソ連、その他の核兵器保有国)をあれだけ克明に描きながら、なぜ被爆直後のスチル写真のカットひとつも入れないのかと、被爆国の人間としては心情的にどうしても感じてしまう。あそこまで真摯に描いておきながら、じつに惜しい気がした。いくら「原爆の父」の視点中心とはいえ、戦後は一貫して、(かつてマンハッタン計画の仲間だった)エドワード・テラーらが推進した水爆開発が米ソの歯止めの効かない核軍拡競争に全世界を巻き込むことになると異を唱え続けた経緯もあるし、それくらいは許容範囲内だったと思う(日本でもかつて邦訳本がベストセラー入りした物理学者R・ファインマンもマンハッタン計画に参加した研究者で、もちろん映画にも登場する)。

 オッピーと決別したテラーの "Nobody knows what you believe. Do you?"(「きみが何を考えているのか誰にもわからない。きみもそうだろ?」)のオッピー評を含む登場人物たちの科白の端々に、オッペンハイマーという不器用な男の内面が、自分自身でもどうすることもできない複雑性をはらんでいた、ということもしっかり伝わるように描かれていた点は好感が持てた。3時間という長大な作品だけれども、それでもなお尺が足りないくらいだったかもしれない。トリニティ実験以後の世界はそれまでの世界から永久に変わった世界(人新世)であり、ティム・オブライエンなど、'60 年代の狂った核軍拡競争時代を描く文学作品やアートが次々と生み出されていくことになるのは周知のとおり。

※ 参考:広島原爆に使用されたウランの供給源となった鉱山労働者の話

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2023年08月27日

Barbie

 この夏、物議を醸したことのひとつが、いわゆる“Bubenheimer”。で、オラには関係ないや、なんてのほほんと構えていたら天の配剤(?)か、やむを得ない事情で急遽、鑑賞することに。

 ごく手短に感想を書きますと、作品じたいはとてもよくできていて、配給元はなんであんなバカげた騒動を引き起こしたのかがさっぱりわからない。そしていまやかまびすしい感すらある(皮相的な)フェミニズム云々に偏向することもなく、のっけから『2001年宇宙の旅』のパロディで幕を開けるなど、楽しい仕掛けも盛りだくさん(バービー製造元マテル社の男の CEO が何度か“sparkling”と口にするが、ひょっとしたらこれも米国在住の近藤麻理恵氏のパロディかもしれない。「心がトキメクものだけを残せ」がこんまりメソッドにあると思うが、そのトキメキの英訳に使用されている単語が sparkling)。

 あらすじは、「なにもかも完璧で、毎日が同じことの繰り返し」なバービーランドから、現実の人間世界で起きたある事件をきっかけに、万年ボーイフレンドのケンとともにピンクのオープンカーでバービーランドと現実世界との“結界”を超えて人間の住む現実のカリフォルニア州へと乗り込む。人間世界にやってきたふたりは、バービーランドにいたときには感じなかった疑問に直面し、それがきっかけでバービーランドは大混乱……みたいな展開。結末はなんか人魚姫的にも思えたが、ミュージカル仕立てで(こちらも過去の映画作品のパロディを連想させる)ストーリーが進行するなか、ひとりの女性が、旧態依然な男中心社会がいまだに残るこの世界でどう生きるべきかも深く問いかける内容で、2時間近い上映時間もまったくダレることがなかった。

 ところで主人公バービーが模索した「女性の生き方」、いや、男女のべつに関係なく人としての生き方の参考になると膝を打った本があります。それが、初代バービー人形の着せ替え衣装を米国人デザイナーとともに開発した日本人、宮塚文子さんの回想記『バービーと私』。「ふつうの女子社員に名刺を持たせるということがない時代」に、「自分の時間はすべてバービーにささげました」と胸を張る宮塚さんのこの半世記はすばらしく、心を打たれた(宮塚さんはその後、自身の縫製会社を起業し、志村けん人形(!)やモンチッチ(!!)の衣装作りも担当したという)。

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2020年02月17日

'Some things are stronger than blood.'

 先月と今月、劇場の「サービスデイ」にて『スター・ウォーズ』サーガの最終エピソード、「スカイウォーカーの夜明け(もちろん「字幕版」で)」を観てきました。きみまろさんじゃないがこれでもかれこれ 42 年、日本初公開作だった「エピソード4 新しい希望」以来、『スター・ウォーズ』シリーズはずっと映画館で観てきた口なので、「ああ、これでやっと終わったか」という安堵のほうが大きかったりする。壮大な物語の結末を生きて見届けることができて、まずは感謝、といった気持ちが正直なところ。

 で、のっけからなんですけど、なんですかコレは、え? みたいな話の展開。銀河帝国元皇帝パルパティーンが生きていたですと ?¿! おなじみのタイトルロールからして 'The dead speak!' なんて思わせぶりな一文で、すべてちゃぶ台返し(古いか)で始まった感じ。でもよくよく見ると当のパルパティーンはなにやら生命維持装置みたいな機械にスパゲティ状態でつながっているわ、白目むいているわで、いわゆる living dead、生ける屍状態なのかしらとも思った。どうもシスのアジトのエクセゴルという惑星は、シスのカルトたちがパルパティーンのクローンかなにかを用意していて、マスター・ルークの父親アナキン・スカイウォーカーにもどったダース・ヴェイダーによって第2デススターの底なしリアクターシャフトに投げ落とされ、「自爆」したはずのパルパティーンの「霊魂」をこっちの不完全なクローンに転送した … のかもしれない(あまりに唐突な展開だったので、作中のレジスタンスの科白などから推測するにどうもそういうことらしい)。で、このゾンビなパルパティーンはその証拠にラスト近くで「ほんらいの自分」を取りもどしたベン・ソロとレイの若いふたりからエネルギーを「吸い取って」パワーアップ。しかもいつの間にか生命維持装置を離れて自分の足でしっかり立って、はるか上空に展開するレジスタンスの船団に向かって強烈な電撃攻撃を仕掛けたりする。

 今作はワタシのようなオールドファンから見ると、懐かしい科白があっちこっちで顔を出していたり(「イヤな予感がする['I have a bad feeling about this.']」、「フォースのダークサイドは超常的にも思える多くの能力に通じておる['The dark side of the Force is a pathway to many abilities some consider to be unnatural.']」とか)、これまでの要素ぜんぶ出しの大盤振る舞い、みたいなファンサービス? も観ていて感じましたね。

 このシリーズでは超有名な「フォースとともにあらんことを['May the Force be with you.']」のような印象深い科白、心に刺さる名科白がたくさん生まれてもいますが、最終章ということだけあって、今作もまたけっこう印象的な言い回しが多かった気がする。たとえばルークがレイに語りかけていた場面で出てくる「血のつながりよりも強いものがある('Some things are stronger than blood.')」、かつての同盟軍将軍ランド・カルリジアンの「われわれには仲間がいた。だから勝てた['We had each other. That's how we won.']」、C-3PO が全記憶を消去される直前に繰り返した「この作戦が失敗すれば、いままでやってきたことすべてが無になってしまう['If this mission fails, it was all for nothing. All we’ve done. All this time.']」とか。

 あとやはり「自分はシスのすべて」だと言い放つパルパティーンに対し、「わたしはジェダイのすべて」だと言い返したレイとの直接対決が印象に残ったかな。フォース+「それまでの戦いで斃れた全ジェダイ騎士の霊」とに支えられて「立ち上がった」レイが、ベンから受け取ったレイアのライトセイバーとルークのセイバーとを「十文字」にして立ち向かう。またしても自分の放った強烈な電撃をハネかえされ、逆にそれをモロに喰らって、なんか最後はシェイクスピアに出てくる 'hoist by one's own petard' という表現そのまんまか、あるいは断末魔を上げつつ吹っ飛んでしまうパルパティーンの正真正銘の最期の描写が、まるで古代ギリシャ悲劇もどきにも思えたり。ついでにエクセゴルのパルパティーンのいた場所ってずいぶん地下深く、というか地底王国の最深部みたいなところでしたね。あれなんかもたとえばダンテの『神曲 地獄篇』っぽい感じがしないわけでもない。中世ヨーロッパでは「ルシファー[Lucifer、もとは「光をもたらす者」の意]」がいた場所が地上楽園の対蹠地にして当時考えられていた地球の最深部に位置するインフェルノ、火炎地獄だったけれども、エクセゴルのシス拠点は「光をもたらす」とは真逆の闇の深淵。このへんも、どこかメタファー的な描写手法、のような解釈も可能かと思う。

 で、今作のストーリーとまったく関係ない余談ながら、レイがシスの権化たる自分のじいさん(!!!)をやっつけてしまうシーンは、これまたどっかで観たことがあるような … そういえば昔、ドラキュラ伯爵とその宿敵、ヘルシング教授との対決が、まさしくこんな感じだった。なんでかってあの「十文字」に結んだライトセイバーがね …… で、かつてドラキュラ役で出演した故クリストファー・リーと、ヘルシング役の故ピーター・カッシング、お二方ともなんと、『スター・ウォーズ』シリーズにしっかりと出ているんですよね。カッシングについては、旧帝国軍のターキン提督役を覚えている向きも多いと思う。

 いろいろ映画の感想とか拝見しますと、「けっきょくパルパティーン家 x スカイウォーカー家」の対決の系譜に全銀河が巻き込まれただけじゃん、みたいな見方もあって、たしかにそういうふうにも見えるかもしれないけれども、むしろこの「エピソード9」でもっともつよく訴えたかったのは、やはり 'Some things are stronger than blood.' だったのではないかと。そして『サンシャイン!!』じゃないけど、最後の最後まであきらめないってことですかね。個人的には「ダース・プレイガス」とかも登場してほしかったところ。お話としてはこれにて完、でこれはこれでいいとは思うが、なんかこう消化不良感が否めない。パルパティーンの復活からしてそうですし。それとミディクロリアン云々 …… なのかはわからないが、死んだはずの人間がよみがえったりとスペースオペラのはずがどことなくオカルトっぽい脚色も感じられて、「はて、『スター・ウォーズ』シリーズってそういうのだったっけ?」というのも率直な感想としてはありました。どうせここまで踏み込むのならプレイガスあたりにもなにかひと言、しゃべらせてもよかったのでは、とつい思ったり。もっともストーリーじたいはとてもすばらしいと思っているので、「再・続編制作決定!!」っていうのはナシでお願いしますぜ旦那(とても体がもたないので、これ以上はカンベンして)。それとジャナという若い女性戦士、ひょっとしたらランドの娘? かもしれませんねぇ。

 最後に、邦題の訳について。原題の The Rise of Skywalker は ↑ でもそれとなく書いたように、レイがいまは亡きジェダイの騎士たちの声に支えられ、力を得て「立ち上がる」ことを表現したものですが、ではなぜ「夜明け」とまるでイメージの異なる訳語を与えたのか? 最終シーンはルークの育った砂の惑星タトゥイーンに沈む双子の夕陽ですし、なぜ、とも思うんですが、「《夜明け》で行こう」となるまでにはそうとうな紆余曲折があったはずで、当事者はタイヘンだったと察します。「スカイウォーカー、立ち上がる」ではとんとイメージが湧きませんし、じゃどうするか。ジェダイの再興 ⇒「黎明」⇒「夜明け」⇒「新時代の到来」、古い世界が滅んで新しい「夜明け」がレイ・スカイウォーカーとともにやってきた、みたいなイメージ戦略だったのかなと思ったんですけど …… ちょっと気になったもので。

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2018年02月11日

「SW ep.8:最後のジェダイ」

 前作を静岡の映画館で見たのが 2016 年 1月末。ついこの前のことのような … と思ってはいたものの、今回ばかりはなぜか(?)あんまり期待してなくて、年明けになってようやく見てきた。前にも書いたけれどもなんたって小学3年生のときに「ep.4 新たなる希望」を映画館で見て、きみまろさんじゃないが「あれから 40 年」。それ以来この作品だけはずっと劇場の大スクリーンで全作品見る、と決めているので、やっぱり見ないわけにはいかない。

 で、見た感想なんですけど … いままで見た「スターウォーズ・サーガ」中、最高傑作 !! と思った。見に行ってヨカッタ。やっぱり裏切られなかった。

 あんまり細かいことはもう書きません。気になる人はぜひ劇場へ。昔みたいに「特別作品」扱いしてないから、「メンズデイ」とかうまく利用すればこんなすごい大作がたったの 1,000 円( 税抜 )で見られますし。個人的にはやっぱりあの前作ラストシーンで登場した例の絶海の孤島、アイルランド西海岸沖の世界遺産のスケリグ・マイケル[ アイルランドゲール語ではスケリグ・ヴィヒール Sceilig Mhichíl ]のジェダイ寺院跡に引きこもっていたルーク・スカイウォーカーと最後の3部作シリーズのヒロイン、レイちゃんのその後が、気になってしかたなかった。激しい空中戦シーンと交互に、まるでヴィヴァルディの合奏協奏曲よろしく急−緩−急−緩みたいに静謐そのもののスケリグ島のシークエンスが繰り返し登場して、やっとの思いで邂逅した「最後の」ジェダイマスターと「最後の」弟子とのやりとりがひじょーにていねいに描かれていたのもすばらしかった。

 もちろん前にも書いたことだが déjà vu は今回もありまして、カジノや弟子に倒されるシスの師匠、ダークサイドへの誘惑とその抵抗、あるいはスケリグ島にぽっかり口を開けた「洞穴」のエピソードなんかはある意味お決まりのパターンかと。でもコアなファンでさえ、「大騎士ヨーダ」先生のご登場にはおおッ、と思ったんじゃないかな。

 ヨーダ先生、今回もまた名言のオンパレードで、個人的には 'The greatest teacher, failure is.' なんかもう最高! さすがはヨーダ。以下、Wikiquote サイトからの転記でかつての師と弟子とのやりとりを書き出すと[
下線強調は引用者。直前の流れは老いたルークが古いジェダイの「聖典」を燃やして終わりにします、とヨーダに宣言して火を携え大木の穴に向かおうとするも、ヨーダの召喚した「雷」の一撃であっという間に焼失する ]、
Luke:So it is time for the Jedi Order to end?
Yoda: Time it is...hmm, for you to look past a pile of old books, hmm[ おまえさんが時代遅れの本の山を見ないようにする時が来たのじゃ ]?
Luke: The sacred Jedi texts!
Yoda: Oh? Read them, have you?
Luke: Well, I ...
Yoda: Page-turners they were not[ あんなもんひも解くような代物じゃあない ]. Yes, yes, yes. Wisdom they held, but that library contained nothing that the girl Rey does not already possess[ ああそうとも、いくばくかの知恵らしきものは、そりゃあ、書かれてあったろう。じゃがああいう書物の山には書かれてないものを、あのレイという娘はすでに身に帯びておる ]. Ah, Skywalker... still looking to the horizon. Never here! Now, hmm? The need in front of your nose[ ああ、スカイウォーカーよ、おまえときたらまだ水平線の彼方にばっかり目がいっておるな、そうじゃない、ここなのだ! そうじゃろ、んん?   見るべきは、おまえの目の前じゃ ]!
Luke: I was weak. Unwise.
Yoda: Lost Ben Solo, you did. Lose Rey, you must not.
Luke:I can't be what she needs me to be!
Yoda:Heeded my words not, did you? "Pass on what you have learned[ いままで学んできたことをつぎの世代に伝えよ ]." Strength, mastery, hmm ... but weakness, folly, failure, also. Yes :  failure, most of all. The greatest teacher, failure is. Luke, we are what they grow beyond[ よいかルーク、わしらはみな、次の世代に乗り越えられる存在なのじゃ ]. That is the true burden of all masters.
( ついでに雷で大木もろともジェダイの本を燃やしちゃったヨーダ先生がさも愉快そうにゲラゲラ笑っていたのは、見ているこっちもそうそう、YES !! そうこなくっちゃ、って思いましたよ。神話学ふうに解釈すれば、典型的なトリックスターですな、ヨーダは。さらに聖ブレンダンつながりで言えば、ドイツ語版の揺籃期本『航海』冒頭で、ブレンダン院長が「なんだこんなもの」と「神聖な書物」を火にくべちゃったのと通底する )

 名言といえば、ローズ・ティコという女性のレジスタンス兵士が捨て身で敵のキャノン砲に飛びこもうとする同僚フィンを決死の体当たりで阻止し、気絶する直前に言ったことば( 'That's how we win! Not fighting what we hate ; saving what we love.' )あたりなんかは、明らかに「過去との決別」という印象が強かったですね。たしかにこういう言い回しというか発想は、過去作品にはありませんでした。

 なんといっても最終3部作はヒロインですし、なんというかお決まりのパラダイムがジェダイオーダーとともに解体して、いっときは混沌状態となるがやがてはまったく新しい世界が、新しい希望がもたらされる( はず )みたいに解釈できなくもない。だから、最後のジェダイなのかな、と。よくよく考えてみればフォースのダークサイドを代表するシスという連中はパルパティーンとかその師匠プレイガス以外はだいたい「ブライトサイド」のジェダイオーダーの出身者。好事魔多しじゃないけど、よかれと思ってこさえたもののなかからこういう者たちが生まれる。これはけっこう真実を突いている。ゲーテも似たようなこと言ってるけど、完成形というのはあとはエントロピー過程というか下り坂というか、ようするにほころびが出ていずれは解体して消滅する定めなんですな。成ったもの、じゃなくて、成りつつあるものがとって代わる( ライトセーバーがまっぷたつに切断されるなんてのもすこぶる示唆的なシーンではある )。

 ドロイド関係で言えば、もう C-3PO も R2-D2 もすっかり脇役扱いで、いまや BB-8 の独擅場(「どくせんじょう」と読む、念のため )、といったおもむき( でも、R2 がレジスタンス救援にまるで乗り気じゃないルークに例のホログラムをさりげなく見せたのはさすが )。で、ほんとにちっぽけではあるがかろうじて灯りつづけている「最後の希望」を垣間見せて長い物語( 上映時間は2時間半、ある方のブログ記事の表現を借りれば、「序・破・急の連続」)は終わるわけですけど、このあとの展開は … どうなるのかな? 泣いても笑っても次回でほんとうの大団円。で、最後に涙したのは、このエンドロールクレジットでした。

In Loving Memory of our Princess,
CARRIE FISHER


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2016年01月31日

「SW EP 7:フォースの覚醒」&「シネマの天使」

1). 往年の「スターウォーズ」ファンを自認するひとりながら、今作「エピソード7 フォースの覚醒」 ―― ルーカスフィルムを買収したウォルト・ディズニー・カンパニーに制作権が移ってどうなんだろ、と訝しげに思っていたこともあり ―― ようやくいまごろになってのこのこ見に行ってきた、しかも静岡市まで。その理由は、またのちほど[ お断り:以下、ネタバレ注意です ]。

 率直な感想としては … déjà vu の連続、というのが第一印象、いい意味でもそうでない意味でも。いい意味では … やはりミレニアム・ファルコン号に「帰ってきた」ハン・ソロ船長 & チューバッカの往年の名コンビかな。'Chewie, we're home ! ' パンフ[ 1,000 円也 ]によると、このシークエンス撮影ではスタッフがなんと 150 名(!)も勢揃いして、固唾を呑んで見守っていたとか。たしかに 1978 年本邦初公開時[ 日本では1年遅れの公開だった ]以来、映画館でこの壮大なる宇宙サーガ作品見つづけてきた人間が見れば、感慨もひとしおというもの。というかキャリー・フィッシャーもハリソン・フォードも、30 数年前とほぼおんなじコスチューム着てなお現在もバシっと決まっている、という点に軽い衝撃を受けた[ もっとも、それなりに年はとってますが ]。

 そうでない意味での既視感 … もまたけっこうありました。「ルークを探せ」というオープニングロール( これは EP 5 でも出てきた )、そしてカンティーナ酒場、ジャワ族、ヨーダ … といった場面やキャラクターが「変奏」され変形されて再登場してきたかのような。雪だるま型(?)アストロメク・ドロイドの BB−8 が惑星ジャクーの砂漠に逃亡してきた場面なんか、そのまんま EP 4 の C−3PO と R2−D2 のタトゥイーン逃亡シーンとダブりますし。

 もっともこれは表面的なことで、脚本ないし筋書きはなかなか見応えありです( 脚本を書いたのはこのシリーズではおなじみのローレンス・カスダン ) … とはいえあいかわらず 3D ゲームよろしくドッカンドッカンいろんなものが吹っ飛びますし、宇宙空間の戦闘シーンは( こっちがトシとってきたから、というのもある )もうピカチュウ顔負けの激しい光の明滅の連続で、かなり目にこたえました orz ひとつ不満を言えば、ハン・ソロがちとかわいそうだったような気が … 。

 ところが … 旧帝国軍残党どもの立ち上げた「ファースト・オーダー」に共和国側レジスタンスがいちおうの勝利を収めたあと、フォースに「目覚めた」ヒロインがその憧れのジェダイマスター、スカイウォーカー師匠に「大切なもの」を届ける場面を目にしたとき、今作鑑賞の最大級の衝撃がワタシを襲った … ハイパースペースを抜けてやってきたファルコン号が海に覆われた惑星に近づく。そしてスクリーンいっぱいに映しだされたのが、茫漠たる大洋に忽然と突き出す荒々しい岩山の島、天空へと吸いこまれるかのようにえんえんとつづく石段、蜂の巣型の石組み … オイオイ、なんだこれ世界遺産のスケリグ・マイケルじゃないか !¿!? そしてあのジェダイマスターの後ろ姿 … 当方は中世初期アイルランドケルト教会の修道士にしか見えなかった! この時点でとたんにそれまでのストーリーはすべてどこかへトンで、アタマの中はかなりの混乱に陥ったのであった。いやもうほんとに、椅子からコロけ落ちそうになるくらい、もうぶっとびのラストでしたよ。

 だって考えてみてもください … 聖ブレンダンがかつていたであろう場所が、自分が小学生のときからずっと映画館で見つづけてきた「遠い昔、はるかかなたの銀河系で」のサーガの7番目のエピソードの最終場面で登場するのを目の当たりにしたのだから … 大袈裟な言い方ながら、ワタシはいままでこの場面を目撃するために生きてきたのかもって思いましたよ。こんな偶然、確率論的にそうはないだろう。

 ちなみにこのラストシーン、現地アイルランドの観客もビックリしたそうな … そりゃそうだろう、極東の島国にいるワタシだってそうだったんだから! スケリグ・マイケルのこのシーンは背景の海にちょちょっと架空の岩島を描き足し[ ただしすぐ後方の「山」の字型の岩島は実際の小スケリグ島 ]、アイルランド本土を消しただけで、ほぼそのまんまの風景で登場[ 山頂の「蜂の巣型」修道院僧坊や十字架の墓標までそのままの姿で登場した ]したのだから、驚かないほうが不思議というもの。

 余談ながら、この手の映画制作につきものの最新映像技術に関連して、こういうニュースも流れてこっちも負けずに衝撃だった。なんでもスポーツ実況記事や企業の決算報告記事なんかはいまや AI による「自動生成」に取って代わられつつある … らしいし、SF 映画の中の話だと思っていたものがいまや実用化されつつある、という昨今、BB−8 みたいなドロイドはとても役に立つだろうけど、使用法を誤ればそれこそ星系まるごと吹っ飛ばす最終兵器にもなりかねない、という危惧も同時に抱いたのであった( それにしても、みなさん BB−8 好きですね … BB−8 が R2−D2 と一緒に出てきたシーンもあったけれども、あれは兄弟的なものなのかな ?? 主人のマスター・ルークが行方不明になってからというもの、ずっと眠りこけてる R2−D2 をなんとか「覚醒」させようと躍起になってるとことかは笑えた )。

 最後にハン・ソロの名台詞をひとつ。やさしいから試訳不要でしょう。ヒロインのレイが、敵陣のどまんなかで脱走兵フィンやソロ船長、チューイと再開した場面で、フィンとしっかと抱きあう光景を見て ―― 'Escape now, hug later ! '

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2). 「フォースの覚醒」をわざわざ静岡市くんだりまで出かけて見に行ったのも、「シネマの天使」が見たくてのことでして … 近隣の劇場では公開される予定がないようだったので、ならついでに「フォースの覚醒」も見てくるか、というしだい。スケリグ・マイケルの衝撃冷めやまぬなか、前日から降りつづいていた雨のあがった静岡市街を突っ切って静岡シネ・ギャラリーという劇場へと移動。ここは変わった映画館でして、なんと目の前が臨済宗の禅寺。それもそのはず、ここは本来はここの寺院の檀家さんのための「信徒会館」なのであった。映画館はここの建物の3階にありました[ シネ・ギャラリーでの上映予定作品では、「サグラダ・ファミリア」の記録映画に興味あります ]。

 「シネマの天使」を見に行った理由、それはひとつには静岡県民にも親しまれていた俳優の阿藤快さんの遺作となった作品だから、というのがある。「旅人、あいまに役者の … 」という前口上でおなじみの阿藤さん。その阿藤さんみずから「映写技師役」を志願して演じたというのがこの作品だったと聞いてます。

 このお話の舞台になった広島県福山市の「シネフク大黒座」さんは、なんと日本最古級の 122 年もの長い歴史を持つ老舗映画館で、監督さんが映画館の人と会食していたときにその思い入れの深さに打たれて長編作品として制作し、「大黒座の記録を後世に残す」ことを決めたそうです。なので舞台は実在の大黒座さん、地元市民の方も多数出演しています。ストーリー的には、和製「ニュー・シネマ・パラダイス」といったところでしょうか。ミッキー・カーチスさん扮する飄々とした「映画館に棲みつく天使」という発想がとてもおもしろかったし、「映画の中ではなんでも可能である」、「自分の知っていることを映画にすべし」とか、映画作りの疑似体験までさせてくれるよくできた「古きよき映画館へのオマージュ」的ファンタジー、という作品でした。阿藤さんの映写技師もすばらしかった。こういう作品が遺作になって、きっとご本人も満足に感じていることだと思う。

 「フォースの覚醒」の主演デイジー・リドリーと同様、この作品の主演もまた藤原令子さんという撮影当時まだはたちになるかならないかぐらいの若い女優さんが演じてました。相手役(?)の本郷奏多さんは、神木隆之介さんとならんで若いながらもベテランの役者さんですね。とはいえあんな色の白くて華奢な「バーテンダー」というのは、ある意味希少価値ある存在かも。そしてあのボトルキープしてあるとおぼしき赤ワインを客のグラスにどぼどぼ注ぐ場面、てっきり「日本酒」かなんかの瓶を注いでいるのかと思いました( 苦笑 )。

 … エンドクレジットでは、姿を消していった全国各地の老舗映画館の「勇姿」をとらえた写真も流れてました。静岡からは静岡市にあった「静岡ピカデリー」と「静岡オリオン座 / 有楽座」の姿も … そういえばワタシがはじめて「スター・ウォーズ」を見たころ、まだ ABBA は活動していたしトラボルタは痩せててカッコよかった(「サタデー・ナイト・フィーバー」のことです)。「映倫」マークはあったけどいまじゃ考えられないくらいユルくて、とても子ども向けじゃないだろコレっていう作品と「2本立て / 3本立て」なんていうのもあったし、オールナイト(!)なんていうのもあった( いまのレイトショーじゃなくて、ほんとに朝まで一晩中やっていた )。さらに言えば「入れ替え制」でもなかった。EP 4 の「あらたなる希望」のときなんか、たしかデススターの「ごみ処理区画」にクジラの腹に閉じこめられた預言者ヨナのごとく若きルーク、ハン・ソロ、レイア姫が閉じこめられて「R2、はやくこの処理施設を止めろッ !! 」とかなんとか絶叫している場面で平然と入館していたし … ワタシの住んでる街もこういう老舗映画館が次々となくなっていきましたよ。いまや映画作品は ―― Netflix だったかな ―― 高速回線につないでいればネット経由で見られたりするし。ホームシアターという家にいながら 5.1 ch サラウンドなんたら … という贅沢を楽しめちゃう、そんなご時世ですし。そんなときに、「金払って、見知らぬ者どうしがまっ暗な空間を共有して」映画を鑑賞する、というスタイルじたいがもう時代遅れになったんだ、と訥々と語る映写技師の阿藤さんの台詞(「映画館の天使」もまたおんなじこと繰り返していたけど )が、たいへん印象に残った、いい作品でした。

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2012年10月30日

「あなたへ」

 ここのところずっと『フィネガンズ・ウェイク』三昧全開 ( ? ) だったので、このすばらしい作品のこと書こうと思っていて書きそびれてました。記憶がそろそろ薄れてきているので、ごくごくかんたんではあるけれども、感想など。

 主演は、ご存知日本を代表する名優、高倉健さん。NHK の番組でこの映画の撮影中の健さんのようすも見たけれども、例の台本、しっかり見ましたよ、気仙沼のあの少年の写真記事が貼りつけてあるという「あなたへ」の台本。しかしどうでもいいけど、今年御年 81 ですよ !!! こちとらまだその半分くらいなのに、あのピシっとした姿見たらコケちゃいそうですよ、もう。

 作品ですが、ある意味オーソドックスなロード・ムーヴィー、といった感じでした。自分が刑務官として務めている富山刑務所に慰問にやってきた田中裕子さん扮する女性歌手にひと目惚れ、夫婦になったまではいいが最愛の奥さんは不治の病に倒れ、あっけなく不帰の人となる。残された刑務官のもとにある日、奥さんからの「遺言」が届けられる。生まれ故郷の長崎県平戸の海に、散骨してほしいというものだった。ワゴン車を自家製キャンピングカーに改造して、いつか夫婦で旅して回るつもりでいた刑務官、さっそく自家用車の改装にとりかかり、「ほんとにこれで行くんですか ! 」と心配する同僚を振り切るように奥さんの故郷・平戸を一路、目指すのであった … 。

 と、こんな筋書きなんですが、出てくる役者さんがみな実力派、個性派ぞろいで健さんの脇をがっちりかためているし、平戸にたどり着くまでのエピソードも人生の悲哀に満ちていて飽きさせない。そしてなんといってもその道中の、日本各地の風景の美しいこと ! とりわけおどろいたのが奥さんとのなれそめを回想したシーンで登場した、霧にぽかっと浮かぶあの山城 !! 兵庫県朝来 ( あさご ) 市にある、竹田城址とのことですが、いやー、ウィッカりしてたなー、こんなすごい風景がまだ残っているなんて ( いささかヤナセ語訳『フィネガン』を引きずっております ) !! 

 それと、クライマックスで出てきたあの「ダルマ夕陽」のみごとなことといったら … 「約束の地」、あるいは「西方浄土」そのまんまではないですか。とにかくそれだけでも感涙ものです。

 残念ながらこの作品でもすばらしい演技を見せていたもうひとりの名優、大滝秀治さんはこれが遺作となってしまったが … 最後の科白、「ひさしぶりに美しい海ば見た ! 」は、耳の奥にいつまでも反響しています。時間があればもう一回、観たいくらいです。日本の風景のよさを実感させてくれた、味わい深い作品でした。

 … ここでまたしても脱線だが … 今日はハロウィーン間近 … そして比較神話学者ジョーゼフ・キャンベルの命日でもある。1987 年に 83 歳で亡くなったから今年でちょうど 25 年目、四半世紀の区切りの年でした。手許にはいつのまにやらキャンベル本が増えたりもしたけれど … そしてありがとう、キャンベル先生、あなたのおかげでようやくジョイス最大にして最後の傑作、20 世紀文学最高峰にも数えられる『フィネガンズ・ウェイク』の邦訳というすばらしい作品を読み切ることができたよ … といっても「浅い」読みしかできてないけれどもね。

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2012年06月24日

「わが母の記」& 「テルマエ・ロマエ」

 先日、ひさしぶりに邦画を2 本、観ました。最初に、昭和の文豪、井上靖の原作を脚色した「わが母の記」。地元出身の監督が心をこめて作った作品で、しかも全編、井上靖ゆかりの地でもある伊豆半島や沼津など、この近辺をロケした作品とあっては、観ないわけにはいかない ( 笑 ) 。

 役所広司さん扮する主人公・伊上洪作は売れっ子作家。少年期に実母の八重によって伊豆湯ケ島温泉に住む義理の祖母の許に預けられたことで、実母に捨てられたという思いをずっと抱いていた。実父が他界し、葬儀をすませたあと、こんどは実母のようすがおかしくなり、以後、認知症の進行してゆく八重の奇行に伊上一家は振り回されることになる。

 とりたてて派手な演出もなく、八重が呆けはじめた 1960 年ごろから天寿をまっとうする 1973 年まで、淡々と描写している … と感じたけれども、いまみたいに「認知症」という概念さえなかったころの家族の物語として見ると、思わずうなってしまう。未読ですが、井上靖のこの同名原作、まちがいなく超高齢化社会を予見したかのような、先駆け的な作品だったのではないかと思う。

 冒頭、BGM がいきなりのバッハ ( ヴァイオリン協奏曲第1番 イ短調 BWV.1041 第2楽章「アンダンテ」 ) でびっくり。昔懐かしい東海バスの「ボンネットバス」で、冬枯れの木立のなか、湯ヶ島の実家に帰るシーンがすこぶる印象的。またなんの井上作品かはわからないが、一家総出で「著者検印」を一冊ずつ押しまくるシーンも、ある意味おどろいた。子どものころ、本の奥付によく「著者との了解により、検印廃止」なんて印刷してあって、?? と思ったものだったが、1960 年代の作家って、みんなああやって一族総動員でせっせと検印というハンコを奥付に押しまくっていたんだということをはじめて知った。すごい人件費だ ( 苦笑 ) 。あの検印を押しまくっていたシーンの撮影って、井上家旧邸を使っていたみたい ( 現在その一部が旭川市の井上靖記念館に移築されている ) 。原田眞人監督の「原作に忠実に」という並々ならぬ意欲が感じられます。熊野山墓地への葬列シーン、あれなんか 3, 40 年くらい前までの田舎の葬儀というものを体験した世代は懐しいと思うんじゃないでしょうかね。自分も幼少時、あんな感じの葬列に加わった記憶がある。

 認知症の症状が進行し、ついに自分の息子の顔さえわからなくなってしまった八重。そんな八重がふいに、書いた当人も半ば忘れかけていた少年時代の詩の一節、「どこにもない、小さな、新しい海峡」を読み上げたとたん、こらえきれなくなった洪作が顔を手で覆ってあわてて洗面所に駆けこむシーン。そして二女の紀子の海外留学に付き添うために乗船した客船上で妻から聞かされた、湯ヶ島の疎開のほんとうの事情を知った洪作の表情の変化。このへんが自分にとってはもっとも心に残ったシーンでした。

 ちなみにロケ地めぐりのこんな企画もあるので、興味ある方はぜひどうぞ。自分も冒頭のシーンを一目見て、とても懐かしく思ったものだ。なにしろちょうど 20 年前、自分もあの滑沢渓谷にかかる橋を渡って、小雨降るなか、紅葉や「太郎杉」の写真を一心に撮っていた場所だもの。けっきょく自分は渓谷特有の、あの一本調子な渓流の音がついになじめず、やっぱり自分は「寄せては返す」リズムのある潮騒の音がいちばん心が安らぐと感じ、以後、渓谷・渓流には出かけなくなった ( 過日の台風で冷凍マグロを運んでいた船が座礁したのは、奇しくもロケ地のひとつ牛臥山のすぐ沖だった。船はぶじ離礁して、目的地の清水港に着いた ) 。

 ついでに原田監督についてもうひとつ。往年の名字幕翻訳家の清水俊二氏は、ある雑誌にスーパー字幕について連載を持っていたけれど、その絶筆となったのが、ほかならぬ「『フルメタル・ジャケット』事件」だった( タイトルは、「原田眞人君のスーパー字幕談義」だったように思う )。当時はまだ 30 代後半だった原田監督の名前をはじめて知ったのも、この「事件」からだった、ということも思い出していた。

 … 渓谷つながりでは、つづいて観た「テルマエ・ロマエ」にも、おどろいたことにまたもや伊豆半島の有名な景勝地が出てきた。阿部寛さん扮する主人公の浴場設計技師ルシウスが滝壺近くの露天風呂に浸かるシーン。河津七滝 ( 「ななだる」と読む ) 温泉の「大滝 ( おおだる ) 」の露天風呂だった。お話は、とにかく原作を読めばわかる ( 笑 ) 。自分もうわさには聞いていたけれど、『ヒカルの碁』以来、はじめて漫画原作本をまとめ買いして読んでみたら、もう手が止まらない ( 苦笑 ) 。浴場に関する薀蓄もばっちりの、見て楽しい「もうひとつの帝国ローマ史」というおもむき。

 映画でも原作の味は十全に生かされていたとは思うけれども、たとえば皇帝ハドリアヌスがわりと冷酷な男として描かれていたり、帝位継承者候補だったケイオニウスも原作のような軟弱な色男、というよりもっと腹黒いやつだったり。とはいえサウンドトラックもイタリア歌劇ものが多くて、とにかく理屈ぬきで楽しめた一作。

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2011年02月15日

The Social Network

 この前、ひさしぶりに映画鑑賞しました…観に行ったのは、これ。昨年までは140文字限定マイクロブログのTwitter がかまびすしかったのですが、こんどはFacebook らしい。なんでもエジプト市民革命の「連絡板」代わりに使われたというから、ある意味Twitter を凌駕したかもしれない(しつこいようだがツタンカーメン王およびアクエンアテン王の遺品をくすねた人、はやく博物館に返しなさい)。いまや飛ぶ鳥落とす勢いの感ありのFacebook ですが、では創業者はどこのだれで、どんなふうにはじまったのかについてはGoogle やAmazon ほどには知らない。また昨年、英国のメル友が「あなたもFacebook をはじめてほしい」とせっつかれ、まあHTC Desire を契約するし参加してもいいかな、というわけで自分も世界最大級SNS のユーザーになるというまさかの展開になったり(笑)。だから実在の人物――まだ26歳!! ―― をモデルにした本作品にはたいへん興味を惹かれたのでした。

 監督さんがデヴィッド・フィンチャーということもあってか、ストーリー展開はけっこうスリリングで小気味いいというか、キビキビした印象を受けました。もっともジェシー・アイゼンバーグ扮するザッカーバーグのあの「弾丸トーク」には耳が降参してしまったが(当方が観たのは吹替版ではありません。もっとも洋画は字幕版のほうが好きだからべつにいいんですけども)…。

 観ている途中で思ったんですけど、この映画で描かれているザッカーバーグ青年は、ありとあらゆる意味において米国資本主義を体現しているなあと。とくに動きの速すぎるIT業界って、シェアを取るためには一にも二にもまずscaling-up 、つまり規模の拡大をはかることを最優先にしたりする(Twitter なんかもそう)。もっともSNS ってWeb 草創期のニューズグループとかからはじまる一連の流れの延長線上に位置するわけで、劇中、登場人物たちのしゃべる台詞に何度か競合SNS としてFriendster が登場していた(字数制限のある字幕にはなし)。で、ライヴァルから一歩も二歩も頭抜けるための方法のひとつとして、ザッカーバーグがとった方針が「とにかくクールであること」。会社の規模がかなり大きくなっても広告表示をさせないことにこだわっていたらしい。

 物語はどこまでが実話にもとづく部分で、どこからが「脚色」なのか、いまいち判然としませんが、Facebook アイディアを最初に思いついたのはおれたちだ、とハーバードの学生仲間から告訴されたり、数少ない親友にしてプログラマー仲間を切り捨てたりというあたりはまあ、ありがちな話かなと。それと、Napster の共同設立者のショーン・パーカーって、一時期Facebook の経営にも首を突っこんでいたんですね、知らんかった。映画ではなんか西海岸で見かけそうなやたらpositive で、お調子者っぽいキャラクターで登場してましたけど。

 で、物語が進むにつれ、こんどはこの手の「学生起業」というものの危うさ、不確かさというのもまた感じていた。きょくたんな話、明日Facebook が倒れても(失礼)ユーザーのわれわれはべつに金払って利用しているわけでもないから、たぶん実害はないかもしれない(自分の「ウォール」とかに掲載してあるメッセージや画像・動画といった全データは消滅するだろうけれども)。学生が立ち上げた会社といえば、たとえばガレージをオフィスがわりにしていたApple とか、またMicrosoft なんかは、基本的にモノづくりの会社だから、手堅い印象は受ける。でもこの作品に描かれている世界最大級SNS の起業は、いかにも学生らしい、ノリの軽さをというものを感じてしまう。ちなみにFacebook はザッカーバーグ氏がまだ19歳(!)、ハーバード大学のsophomore だったときに設立したというからほんとおどろきます。なんだかんだ言っても人一倍の才覚があるんだな。

 ただ、日本版Newsweek にもあったけれども、カリスマ経営者がいなくなったあとで、会社をどれだけ存続させられるかがほんとうの勝負になるような気がします。Apple もどうなのかな? そしてもうひとつ、こういう若いIT起業家とくるとかつて日本にも一世を風靡した方がいましたが、彼とザッカーバーグ氏の決定的なちがいは、金稼ぎにたいする意識。ザッカーバーグ氏の場合、個人的な金儲けということにはあんまり(?)関心がないようです。根っからのプログラマー職人なのかな。もっとも会社の規模拡大には余念がなくて、本社をめちゃくちゃ広い建物に移転するらしい(東京ドーム数個ぶんとか聞いた)。あのGoogle もびっくりですな。

 …ちなみに自分が観たとき、観客は10人いるかいないかでした。お昼前という時間帯もあるかもしれないけれど、彼我の温度差も感じたしだい。アカデミー賞最有力候補と目されているようですが、もうひとつ「英国王のスピーチ(King's Speech)」という作品も候補にあがってますね。こちらのほうはメル友のつよい勧めもあり、観に行こうかどうかもっか思案中。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるん

追記。忘れていたわけではないが、例のクイズのこたえ。'He's making a ...' というのは、'He's making a list' でして、「サンタが街にやってくる(Santa Claus is coming to town)」の一節。ついでに今週の「気まクラ DON」は…「♪ わらべは見たり、のなかの××」じゃないかな。さらについでにこの作品、べつの作曲家によるヴァージョンが、西伊豆町の正午の時報として同報無線から流れています(ちなみに本日15日って、『音楽大全』で知られるミヒャエル・プレトリウスの誕生日だったみたい)。

追記。こちらで、字幕翻訳者の方が打ち明け話を寄稿しているのを発見した。

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2010年02月14日

「かいじゅうたちのいるところ」

 幼いころに読んだ「絵本」というのは、何十年たっても記憶の奥底に澱のごとく沈んでいたりしますね。幼稚園の「お遊戯発表会」だったか、たしか『ぐりとぐら』を演じたおぼえがあります…でかい鍋にカステラを入れて焼いたところとか、いまだに覚えています。

 『かいじゅうたちのいるところ』もそのひとつ。「かいじゅうおどり」はよく覚えているけれども、あらためて原作本を見てみるとやっぱりおもしろい。まちがいなく20世紀最高の絵本のひとつだと思います(個人的には『はらぺこあおむし』とか、考えさせられる『おおきな木』もけっこう好き。しかし…1975年初版発行後、先月で刷りも刷ったり110刷!! この絵本じたいがすでに「かいじゅう」並み)。

 で、その傑作絵本をなんと! 実写化したという。これはおもしろそうだということで、観てみました。しかしながらいま「洋画」というのは「字幕」より「吹き替え版」のほうが主流。字幕版…もあるにはあったが、時間帯がよろしくなくて、しかたなく「吹き替え版」で観ることに。

 まずあらためて原作読んで感じたのは、「まるで『メルドゥーンの航海』みたいな出だしだなぁ」ということ。『ブランの航海』でも『聖ブレンダンの航海』でもなんでもいい。主人公が航海に出て、「異界」にたどりつき、数々の冒険をへて、「出発したときとは別人になって」帰還する――古今東西の神話伝承によくある、古くてあたらしい物語のひとつだということです。

 映画ではそのへんがたいへんリアルに描写されていました。もっとも大波のたたきつける岩礁海岸にあんな華奢なセイルボートで行ったら、現実ならば木っ端みじんだったろうが…そこは「マックス少年の心象風景」。難なく上陸、島のかいじゅうたちと出逢うことになります。

 原作では名なしのかいじゅうたちですが、それではお話にならないので、映画版ではそれぞれ一癖も二癖もある、個性豊かなかいじゅうたちとして登場しています――それぞれのかいじゅうは現実世界の鏡写しの存在で、気難しい「キャロル」はマックスの、「K.W.」はお姉さんのそれぞれ大幅にデフォルメされて投影されたものでしょう。しかしながら昨今流行りのCGは控えめなので、かいじゅうたちの存在感はじつにリアル。原作を損ねず映像化している点を見るだけで、監督がいかにこの原作に惚れこんでいるかがよくわかります。

 主役のマックス少年を演じている子(奇しくもおんなじマックスという名の少年)も好印象。原作ではただたんに「暴れん坊」にすぎないマックスをいかにも現代的な、影のある子どもとして演じているところも物語のリアリティを高めていて好感が持てました。

 映画版の「かいじゅうたち」は文字どおりばかでかくて、マックス自身でもコントロールのきかないやっかい者ですが、そのくせ「孤独」というものにひどく怯えている。マックスはどうにかこうにか彼らと過ごしているうちに、自分の内面を客観的に見つめることができるようになる――そのへんの心情の変化というか、うまく視覚化されていたように思いました。

 原作では「いちねんといちにち」航海して自分の部屋に帰還するマックス少年ですが、中世アイルランドの航海物語、あるいは「浦島太郎」伝説のように、こういう物語での時間軸というのはきわめてあいまいです。おそらく家出してそれほど経っていないときに現実世界に帰ってきたマックス少年は、母親の作ってくれた「加工食品」のスープの夕食を文句を言わずに食べるシーンで終わります――この映画ではかいじゅうたちと過ごしているあいだはなにかを「食べる」シーンは出てきませんでした。このへんも時間軸のズレを暗示しているように思るし、「心の内面の風景」ということを暗示しているのかもしれない。

 母親の用意してくれた夕食を食べるときも、頭巾を下ろしているとはいえ、マックス少年は例の「白いオオカミの着ぐるみ」は着たままです。かいじゅうたちの島に行って、帰ってきた後でのマックス少年はもはや家出する前のマックス少年とはちがいますが、着ぐるみを着たままでいることはまだこの先、似たような「騒動」を起こすかもしれないという暗示かもしれない。人間、そうかんたんには変われないものですし。日本でも、「三つ子の魂百まで」って言いますよね。でも精神的には着実に成長する。そういうだれしも通る、一種の「通過儀礼」、イニシエーションというものを描いた作品としてもとらえられるかと思います。

 …そういえば地元紙の投稿欄で、「洋画は生の俳優の声を」と「吹き替え版」主流の映画業界に物申している方がいましたが、自分もこの意見にはおおいに賛成。今回観たのはどちらかというとお子さま向けで、致し方なかったかもしれないが、映画館で観る洋画くらい、演じている俳優さんのなまの科白とか息遣いに浸りたいじゃないですか。残念ながら「吹き替え版」ではわかりやすさと引き換えに、そういう生々しい臨場感を奪っているように感じます(マックスの声を担当していた加藤清史郎くんは悪くなかったけれども)。

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2008年07月14日

「奇跡のシンフォニー」

 まずはじめに正直に告白するとこの作品、ほんの一部分をYouTubeで見てはじめて存在を知った。たしかオルガン関係のキーワードで検索をかけていたときだったように思います。?? と思って見てみたら、どっかで見た少年が教会のオルガンを嬉々として弾いている場面が。ややっ、この子たしかFinding Neverland(邦題「ネバーランド」)に出ていたフレディ・ハイモアくんだよな…なにこれ??? と思いつつも、また忘れていた(笑)。それが先月、「愉悦の古楽特集」というなんとも購買意欲をそそられる記事を組んでいた『レコ芸』をひさしぶりに買い、うしろのほうのページを繰っていたら、やっと謎が解けた。ああ、これだったのか、と。というわけでようやっと見てきたしだいです。

 物語じたいは「芸は身を助く」的な、よくあるパターンかなと思ったけれども、全編が一種の音楽芸術賛歌というか、音楽ファンタジーでしかもa happy endingだったから、かつて見た「ショコラ」、「ラヴ・アクチュアリー」のような終わり方がけっこう好きなほうなので、とても楽しめました。客を泣かせる名人(?)ロビン・ウィリアムズも重要な役回りで出ていたので、覚悟はしていたのですがそんなに泣かずにすんである意味よかった(?)。ロビンは最初はハイモアくん扮するエヴァンに「音楽は宇宙そのものだ」とかなんとか、古代ギリシャにまでさかのぼる西洋音楽観に近いようなことを滔々と彼にレクチャーしておきながら、けっきょくエヴァンの音楽にたいする思いをこれっぽっちも理解できず、最後は「エレファント・マン」よろしく、見世物小屋の親方の同類にすぎなかった。後半はなんだかすこしバタバタしているかなとも思ったが、全体的にはうまく描いていたと思う。のっけからバッハのパルティータ(3番だったかな?)が演奏されるシーンが出てきたり、クライマックスでは――ついこの前も「N響アワー」で聴いたが――エルガーの「チェロ協奏曲 ホ短調」も流れてました。

 でもなんといっても主役ハイモアくんのあまりに自然な名演が光ります。彼が演じたのはミューズから生まれ落ちてきたような音楽の天才児でしたが、彼もまた生まれながらの俳優だ、と思います。「ネバーランド」を見たときにこの英国の少年俳優はすごい…と感じていたけれど、今回もまたそれを強く実感。教会のオルガンを弾く場面なんか、ちゃんと足鍵盤も弾いているし、音楽の申し子という役柄ゆえか、コンビネーションボタンの扱いまで一瞬にして覚えて数個のストップを一気に引き出し教会全体を震わせるフル・オルガンと、プロのオルガニストもびっくり(?)の使いこなしよう。しかもあのいかにも鍵盤を触ったことのなさそうな指でありながら立派に弾きこなしているように「見せる」演技なんか見てますと、すなおにすごいなぁと思いますね。あのシーンは、あえてわかりにくいたとえを使えば、碁なんか打ったことのない進藤ヒカルがはじめて碁会所で周囲を瞠目させる対局をしてみせたようなもの(いったいなんのことじゃ? と思われた方はあまり深く突っこまないでください[笑])。

 それにしてもあのエヴァンのギターの弾き方…パンフレットによると伝説的ギタリストのマイケル・ヘッジスという人の演奏スタイルを踏んだものらしいけれども、最初に見たときはなんか押尾コータローさんみたいだなーと感じた(押尾さんの演奏スタイルも、もとをたどればヘッジスだったようですが)。ジュリアード音楽院の作曲クラスの場面では、教官がハ長調からト長調(5度上、ドミナント)へ…とかなんとか、転調効果のことを教えていました(五度圏のことかと思った)。

 エヴァンが作曲した「オーガストの狂詩曲 ハ長調」は、出だしの16分音符進行がなんとなーくバッハの「クリスマス・オラトリオ BWV.248」の冒頭部っぽい印象(BWV.1004の無伴奏ヴァイオリン・パルティータ冒頭部のほうがより近いかな)。途中、ジャムセッションみたいに急にギターの即興的フレーズが割りこんだりと、古今東西の音楽をひとつにまとめてみました、みたいな作品でしたが、けっこううまくまとまっていたのでこちらもおもしろかった。クリエイティヴな音楽というか。

 この作品はたしかにうまくまとめすぎている感は否めなかったけれども、聴く者の心をわしづかみにして捉える音楽という芸術の持つ力というものがよく伝わってくる点はおおいに共感できる。自分の拙い経験を顧みても、病気だったときにバッハのオルガンコラールを聴いて心揺さぶられるような感動を味わったことがあるし、その後「パリ木」の実演にはじめて接したときにも強い衝撃をおぼえたものだし…。そう、エヴァンの言うとおり、自分も「三度の飯より(more than food)」音楽が好きだし年がら年中聴いているので、彼が最後に言ったことばも説得力がありました。'Music is all around us. All you have to do is, "Listen"!'

 …というわけで、本物のNYフィルまで総動員した贅沢さと、ハイモアくんの名演をたたえて評価はるんるんるんるんるんるんるんるん

*「字幕」という特殊な邦訳について。ときおり、だれだれの訳はひどいとか、まちがってるとかという指摘を見かけますが、字幕にはきびしい字数制限があるので、えてして的外れな場合が多いように思います。この作品の場合だと、たとえば'I am here!'という科白にあてた字幕が「今は違う」になっているが、だからと言ってまちがっているとは言えない。字数を制限されている以上、これはあるていどしかたないことです。

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2007年12月03日

「Always 続・三丁目の夕日」

 ネタバレしないていどのメモにとどめておきますが、前作は本作のためにあった…と思えるほど出来がよいと言うか、ひさしぶりに見終わって心地よいカタルシスをおぼえました。ヘンな言い方ながら、「ショコラ」日本版みたいな感じです(「ポネット」ちゃんはいまでも女優をつづけているのかな?)。

 時代設定がちょうど高度経済成長前、まだ大戦の痛手があちこちに残っていた1959年ごろの東京の下町。なのでそこの住民はみんな貧しく、つつましい生活を送っています。この作品のいいところはただ懐かしい…だけの作品に終わっていないこと、強いメッセージが込められていることにあるでしょうか。そうは言っても、煙草屋のとなりの「ナショナルのお店(?)」だろうか、昔のパナ坊(?)の置き物なんか、いったいどこから借りてきたのかと本筋とまるで関係ないところで感心したり(苦笑)、Star Wars張りに迫力満点の冒頭シーンにびっくりしたり。また不法投棄(?)された廃車がさりげなく登場したり、その廃車置場がやがて新しいビルの建設用地になったりと、「消費は美徳」ともてはやされたある意味狂乱の時代へと様変わりしてゆくようすもしっかり描かれています(登場人物の心理描写にもそれは当てはまる)。監督はじめスタッフの並々ならぬ情熱は、当時の町並みを再現するCG技術とか、とにかく細部にわたってまったく手を抜いていないことからもひしひしと感じ取れます。ひるがえって役者さんたちのほうは、宣伝番組でもそんなこと言ってましたが、意識して演技しているというより、ほんとにそのまま夕日町三丁目の住人になりきっている感じで、演技の介在を感じさせないところもよかった。

 印象的だったのは、こんどこそ芥川賞を取る! と宣言して一心不乱に執筆に打ち込む茶川さんかな。原稿用紙に書き出す前の祈るような所作、執筆中の鬼気迫る姿、昔の「文士」そのものです。そしてあの散らかりほうだいの部屋。それを見たとき、坂口安吾を取材しに行った写真家の林忠彦氏の話を読んだことをふと思い出した(→関連サイト。それにしてもまる2年も掃除していない部屋って…[絶句])。茶川さんが芸術至上主義の権化にも見えました。「この世の中にはカネでは買えない、もっと大切なものがある!」という叫びは、たぶん制作者の気持ちを代弁しているようにも思う。モノゴトをたったひとつの物差しでしか考えない「時代の最先端」の人間、それに抗うようにつましく生きる下町の住人たちとの葛藤。このあたりいまの時代につながる要素だと思いますが、そのへんも説教臭くなくうまく描かれているとも感じました。

 もうひとつ印象に残ったのは、小清水一輝くん扮する一平くんが、もともと自分が東京タワーに登りたくて貯めていた貯金をはたいて親戚の女の子が喜ぶものを買い、それを手渡す場面。いくら恋心を抱いた相手(calf love?)とはいえ、自分より他者の喜びのほうを優先する、他者の喜び(幸福)=自分の喜びという点が、三丁目の住人に共通の特徴を端的に表現しているように思え、やんわりといまの人のあり方を批判しているようにも思えました。ほんとうの幸福はありあまる情報やモノとカネに支配されるのではない、「足るを知る」ことにあるのだということを考えさせてくれる作品です。そう言えば、ある高名な詩人の先生の文章に、「幸福はhappinessではなくて、artである」という一節があったのも思い出した。

 全編通じて背景に登場する東京タワーとならんで、今回は日本橋の場面も印象的。いまの日本橋しか知らない人間にとっては、こんなに広々した橋なのかと思いました。

 …そう言えば今年も漢検の「今年の漢字」一文字を募集していますね(もうすぐ締め切りだけど)。早いなー、もうそんな季節になったのか。BBC Radio3も毎年恒例のセントジョンズカレッジ礼拝堂聖歌隊による「待降節キャロル礼拝」のもようを中継していたし。今年の漢字は――みんなおんなじこと考えているとは思うけれども――「人偏に為す」という字ではないですかね? 

「母べえ」の予告編にバッハのコラール
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2006年07月03日

The Da Vinci Code

 先週末、The Da vinci Codeをようやく――いまごろになって――見に行きました(以下、多少のネタバレあり。ご了承ください)。

 けっきょく原作本を読む暇がなくて、先入観のほとんどない状態で見に行ったんですが、作品として集中して見ることができたので、それはそれでよかったみたいです。自分の場合は「原作本を読んでないとわからない」こともなかったですし。もっともcryptexの扱いが原作とは異なる…とか、そのへんのことは原作を読まないとわかりませんが、物語全体から見れば枝葉末節のたぐいで、映画は映画として楽しめると思います(ちなみにcryptexはcryptology + codexからこさえた造語らしいけれども、どう見てもあれはscroll、「巻き物入れ」ですよね)。

 見に行く前はたいして期待していなかったんですが…思っていた以上におもしろくて、作品としては秀逸、とてもよくできていたんじゃないでしょうか。ロン・ハワード+トム・ハンクスのコンビの作品を見るのは「アポロ13」以来なんですが、それと負けず劣らずいい映画に仕上がっているのではと感じました。実物大セットでの撮影とCGが多用されていたようですが、見ていてなんの違和感も感じなかったし、あまりに自然なのでつい「ほんとにこんな地下室あるんかな?」なんて思ったり(ロケ地のことをよく知らないからというのもあるけど)…ひと言で言うと、「講釈師、見てきたようなウソをつき」みたいな感じかな。これはハワード監督の作り方のうまさもあるかもしれないが、やっぱり原作者ダン・ブラウンの書いた歴史ミステリの巧みな語りによるところ大でしょう。映画パンフレットに俳優さんのインタヴュー記事が掲載されてますが、Opus Deiのアリンガローサ司教に扮した役者さんも、「『ダ・ヴィンチ・コード』の最大の魅力っていうのは、フィクション以外のなにものでもないのに、事実がほどよくまぶしてあること。だから、読者は深く引き込まれてしまう」とうまいこと言ってます(休暇先のプールサイドで目にした光景の話は笑えました)。

 個人的には、冒頭に出てくる「モナ・リザ」がなんとなく似てないなぁ…ということ以外はとくに気になる点はありませんでした。ただし、ちょっとエキセントリックなティービング教授の長ったらしい説明にはいささか引き気味…になったことも事実。そもそもコンスタンティヌス帝が325年5月20日にニケア公会議を召集した理由は、当時の教義上の分裂(アリウス派とカトリック教会との対立)をなんとかしようと画策してのもの。「自分たちに都合のいい正典を選んだ」わけじゃありません。それに公会議は何度も開かれているし(うちニケア、コンスタンティノープル、エフェソ、カルケドンの4つの公会議は全キリスト教会を結ぶとりわけ重要な会議として承認されるようになった)。ようするにかんじんの教義がバラバラでは帝国民をまとめるうえで困ります、というわけ。「マグダラのマリヤの福音書」も教授が得意げになって持ち出せるようなものではなく、岩波版『ナグ・ハマディ文書 II』を見ればわかるように、ほんの数ページの断片しか残っていない代物で、いつどこで書かれたのかも不明。おなじナグ・ハマディ文書の「フィリポによる福音書」も、じっさいには福音書というよりたんなる抜粋集で、映画に出てきた箇所も、

 …[主は]マ[リヤ]を[すべての]弟[子]たちよりも[愛して]いた。[そして彼(主)は]彼女の[口にしばしば]接吻した…(p.76)

 のように学者が前後関係から類推して補足した箇所([]で囲まれた部分)だらけであることも付け加えておきます。

 のっけからフィボナッチ数列だのが出てきて、知的刺激に満ちたスリラーだからここまで大いに受けたのだろう、と思ったけれども、館長の孫娘のソフィー…という名前を聞いたとき、ひょっとしてこの人がイエス-マリヤの末裔かしらと冗談半分に思っていたらほんとにそういう展開だったとは…。ソフィーという名前じたいがいかにもグノーシス的だし、盗作(?)されたと主張している作家の歴史ミステリにも、ソフィアなる女預言者が出てくるからそう思ったんですけれどもね。それと、お話が進むにつれ、ティービング教授がだんだんStar Wars episode3 の皇帝パルパティーン(=ダース・シディアス)に見えてきてしまった(イアン〜という名前の俳優には名優が多いのかな?)。

 ラストでラングドンが夜のルーヴルにもどってくる場面。ちょうどぐるっと巨大な円環を描いているみたいで印象的でした。
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