2016年06月19日

最高のアマチュア、理想のアマチュア

 いまさっき見た「クラシック音楽館」。今宵もまた4月の N響定演[ サントリーホール定期 ]からで、指揮はこの前バッハ・プロでおおいに感動させてくれたマエストロ・スラットキン。で、本日は「米国の指揮者はこの人なくして存在し得ない」とまで言った、かのレナード・バーンスタインの名作ミュージカル「ウェストサイド物語」から「シンフォニエッタ・ダンス」や「キャンディード序曲」、「3つのダンス・エピソード」、そして後半が「感情に訴える力、という点で共通点がある」というマーラーの「4番」でした。

 今回、個人的にひじょうに感銘を受けたのは、プログラム後半前にスラットキン自身が語っていたことでした。それは銀行・投資関係の専門誌 Institutional Investor なる業界誌があるそうなんですが、その創刊に携わったひとりの実業家の話でして、その人、ギルバート・キャプラン氏はあるとき、マーラーの「2番」、いわゆる「復活」を聴いて天啓を受けたごとくいたく感動し、それ以来暇さえあれば楽曲研究にどっぷり、それだけでは気がすまず、ゲオルグ・ショルティなど米国の指揮者数名に宛てて手紙をしたため、「頼むからどこかのオケでこの作品を自分に振らせてほしい!」と頼みつづけていたんだそうです。スラットキンさんのところにもこのお願いの手紙が来たので、なら会ってみましょう、ということでじっさいに会って話してみた。「スコアは読めるの?」と訊いたら、「読めないけど、ピアノは少々心得がある」。で、仕事の合間を縫ってなんと、スラットキン氏みずから個人レッスン !!! 数年がかりでようやくこれなら大丈夫、というわけで「最初で最後の」つもりで念願かなってオケを前に「復活」を振ったらこれが大絶賛され、以後、マーラーの「復活」専門指揮者(!)としてあっちこっちのオケを客演したり、マーラーに関する講演まで引き受けたりと、なんともすごい展開になってしまったんだそうです[ ついでにお金持ちだったので自筆スコアまで買って、初版譜に 300 もの誤りを見つけ、みずから「校訂楽譜」を作ってしまったというからもっとびっくり ]。

 で、そんな折にスラットキンさんがキャプラン氏に、マーラーの講演をしてくれないかと連絡したら、「ドクターストップがかかってしまって残念ながらできそうにない」と。それからほどなくして帰らぬ人になってしまったんだそうです( キャプラン氏は今年の元日に逝去 )。

 … 不肖ワタシはこのお話を聞いて、深く感動するとともに、いろいろ考えさせられてしまった。いくら好きだからって、惚れこんだからって、キャプランさんのようにじっさいに夢をかなえられる人というのはそうはいないでしょう。でもマエストロ・スラットキンがいみじくも言うように、「情熱、ということに関して言えば、プロよりアマチュアのほうが上だったりする」。言ってみればキャプランさんはハイアマチュアの典型、アマチュアの理想像、最高のアマチュアだったと思う。マーラーのその作品が、それまで本人も気づくことさえなかった自分がほんとうにやりたいこと、あるいは「至福」の発見と自覚へと導いた、と言えるのではないか。マーラーが、キャプラン氏のほんらいの自己を引き出したように思えてならない。

 「彼のことを思うたび、芸術の持つ力のすばらしさを感ぜずにはいられない。マーラーを振るときはいつも彼のことを思う」というふうにスラットキンさんはおっしゃっていた。ほんとすばらしい話だった。

 でもってこんな美しい話のあとでこういうこと持ち出すのは、品性下劣のなせる業かもしれないけど、そのとき同時にワタシの脳裡をかすめたのは辞職した都知事氏のこと。といっても今回の件ではなくて、もっと昔の若かりしころの、それも「翻訳」がらみの話。なんでも当時、政治学者の卵だった方が下訳者としてこき使われたあげく、訳書には自分のクレジットはおろか、一文字たりとも訳出さえしてないこの国際政治学者先生の名前で麗々しく出版され、その後もウンともスンともなかった、というあのお話です。

 門外漢がここで気になったのは、なんでこのタイミングでそんな古い話を … という点もさることながら、「業績を横取りされた」、盗まれたと強調していること。たしかにお気の毒ではある。下訳者制度って日本特有みたいでして、米国で活躍しているさる翻訳者先生の著作を読んだとき、こちらと向こうの翻訳者事情、とりわけ下訳制度について言及している箇所が目にとまった。その先生は、自分の名前を出す、つまり文責を取るだけの資質のない者がなんで「他人の名前」で翻訳書を刊行するのか、さっぱりわからない、と同僚に言われたんだそうです。いつぞやのゴーストライター騒動じゃないですけど、たしかにこういう例はけっこうふつうにあります。それがまた、しっかり朱を入れてくれるんならまだしも、当の上訳者ないし監訳者は上がってきたゲラ刷りさえろくに見もしないでそのまま印刷所に回す、なんてことがとくに昔はよくあったようです( これはチェックを怠った版元編集者も同罪 )。心理学や経済学など、人文科学系の一般教養書のたぐいに読むに耐えないホンヤクがひじょうに多かった、というのは、ひとつにはこの下訳制度の「悪用」の必然的結果、と言えるとも思います。

 ただどうしても解せないのが、「翻訳書を出すことが学者 / 研究者としての業績としてカウントされる」というこの業界(?)の慣行です。ことばは悪いが点数稼ぎ、ということか。じっさい、「業績作りをしたいので、なにか翻訳の仕事、ありますか?」って訊いてきた大学の先生がいたっていう話が昔あった。大学人にもいろいろござれではあるが、そのていどの感覚の人って昔は多かったのかな、いまはどうだか知りませんけど。「二足のわらじ」として翻訳という営為にかかわる、というんなら、「やむにやまれぬ情熱」、あるいは熱意に突き動かされて、っていうのが、ほんらいあるべき仕事の態度じゃないでしょうか。これこそアマチュアの理想形、アマチュアでしかなし得ないこと、最高のアマチュア、アマチュア冥利に尽きると思うんですけどね … たんなる「業績(=点数 )のため」に「翻訳でも」というのは、結果オーライならそれでいいじゃん、と言えなくもないけれど、キャプラン氏の成し遂げた「業績」とははるか遠いところ、対極に位置していると思うのはワタシだけだろうか。

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2016年06月11日

「ブランダン跳び」、「トリスタン跳び」、「聖マロ跳び」

 この前も書いたことなんですけど、「三保の松原」近くにある東海大学海洋学部の図書館地階に眠っていた「第 1 回 聖ブレンダン協会国際会議」紀要本( Atlantic Visions, 1989 )。拙記事ではマッカーナ先生による『聖ブレンダンの航海』成立に至るさまざまな要因ないし起源についての考察のことをご紹介したんですが、本を閲覧したときにいまひとつ食指をそそられるものがありまして、それがアングロ・ノルマン語版『航海』になんの前触れもなく登場する「ブランダン跳び」に関する論考。というわけで行きがかり上、またまたこの「ブランダン跳び」を取り上げることにします( 苦笑、以前書いた関連記事はこちら )。

 そもそもこれっていったいなんなの? という向きのために若干の説明を。8世紀後半ころに成立したとされるヒベルノ・ラテン語で書かれた『聖ブレンダンの航海』は、俗に「中世のベストセラー」と称されるほど欧州大陸で人気があったアイルランド聖人による航海譚だったんですけど( ラテン語散文版だけでも 125 もの写本群が現存 )、vernacular、つまり各国語に翻訳[ 否、「翻案」と言ったほうがいい ]された写本というのもこれまたけっこうな数が残ってまして、なかでもその代表格みたいなのがアングロ・ノルマン語で書かれた『聖ブランダンの航海 Le Voyage de Saint Brendan / Brandan 』。くわしいことは本家サイトのこちらにて書いてありますが、成立年代は一般的に 1120 年ころ * と言われてます。現存する写本は6つあり、ふたつは断片のみ。うちもっとも引用されているのが大英図書館蔵の「写本 A[ MS A, London, British Library, Cotton Vespasian B X (I), 14 世紀 ]」と言われるもので、総数 1,834 行のアングロ・ノルマン語韻文作品。「ブランダン跳び」の考察をしたビルバオのスペイン人言語学者と思われる先生( Dr M. I. Lemarchand )も言及しているように、おそらく朗唱、もっと言えば「歌って」聞かせるために書かれた作品だと思われます。作者は一般的にブノワと表記される、ノルマン宮廷に仕えていた(?)ベネディクト会修道士。

 でもって問題の箇所なんですが、ちょくちょくここでも引用させてもらってる、松村先生のこちらの論考の「訳注」によりますと、「ラテン語版の Saltus( 草原の意味 )を、ブノワは『跳躍』を意味するフランス語 salt に移しかえている」とあります。ちなみにこの salt は現代仏語では saut になります[ ソなんだ、というくだらないダジャレを言いたくなった人 ]。

 松村訳ではそこの箇所はどうなってんのか、というと[ 下線は引用者。ラテン語版『航海』では chs. 3−4 に当たる ]、
… ブランダンは大海原に向けて出発した、
そこにゆけという神の命令を聞いた者として
決して縁者のほうを振り返りはしない
より大事な場所にゆく決心を固めていた
陸地が続く限り進んでいった
足を止めるつもりはまったくなかった
とある岩までやってきた いま、平民が
「ブランダン跳び」と呼ぶ岩である
[ 原文は 'Or le apelent le salt Brandan' ]
この岩は海に向かってながくのび、岬のようであった
この岬の下に船着き場があり、
そこで海に川の急流が流れこんでいた
急流は小さく、たいそう細く、絶壁からまっすぐに流れ落ちていた
ブランダンより前にこの高台を
降りた者はいなかった、と思う

そこで彼は木材を持ってこさせ、
舟を作らせた( ll. 157 − 174 )

 Lemarchand 先生は、ここのところを「地の果て」の断崖絶壁から、文字どおり海に向かって「跳ん」でふわりと降り立ち(!)、革舟の建造にかかった、というふうに「解釈」してます。

 不肖ワタシはてっきりこの箇所を、実在のディングル半島ブランドン山の北西岸側とその直下の岬( ブランドンヘッド、あるいはブランドン入江と呼ばれている小港 )を指しているにすぎないとかんたんに考えておりました。でもまあたしかに「異界( 黄泉の世界、死者の国 )」への「跳躍」という、古今東西の神話や伝説に見られる普遍的パターンのケルト的反映、というふうにも捉えることはできそうです。でもたとえばいまのところの最新校訂本であるこちらの本の編者による注釈なんか見ますと、ラテン語版校訂本編者セルマーの注も引きつつ、「ブノワは、ラテン語版で少し前に出てくる<( ブレンダンの奇蹟の )野 saltus >」をこの場面に移したうえで、古仏語で『跳躍』を意味する salt に結びつけたように見受けられる」みたいなことしか書いてません。

 ビルバオの先生による考察はベルール作『トリスタン物語』に出てくる「トリスタン跳び」を引き合いに出すに留まらず、La Bataille Loquifer なるまるで知らない武勲詩に登場するという「聖マロ跳び( !! )」、果ては中世スペインの伝承に出てくるイングランド王リチャードの話( ムーア人から自軍を救うために騎乗したまま海に向かって跳躍した )、ヘスペリデス( ヘラクレスと金のりんご )、果てはダンテの『神曲』まで引っ張りだして、「地の果て」−「跳躍」−「神慮」−「不死」−「西の果て」という説を展開してます。ようするにブランダン修道院長は、ほかの中世の聖人たちの例に漏れず、彼岸と此岸、あの世とこの世を往還できる力がある人として描かれる必要があったために「地の果て」の絶壁から「目に入るのは海と雲だけ( ll. 213−4)」の世界へと跳んだのだ、と。当時はこうした「異界」の存在がいまほど不思議がられてもいなかったと思われること、また聖人伝やそれに類する書物の言及による真実の証明みたいな発想がわりとふつうだったこと、そして「この世の生はしょせん流刑のようなもの」と認識されていたことなどを引いて、「『地の果て』から跳躍すること、すなわち< ブランダン跳び >は最適かつ完璧な隠喩ではなかろうか」と結んでます( 蛇足ながらスペイン北部海岸沿いにあるビスカヤ県の県都ビルバオ市はバスク語圏なので、ケルトつながりでもある。『アイルランド来寇の書』に出てくるケルト人の祖先「ミールの息子たち」は、イベリア半島から渡来した可能性が高い )。

 もっとも、引き合いに出されている「トリスタン跳び」のほうは「あしたへ … 」、じゃなくて異界へジャンプ! といった含意はまるでなく、文字どおり敵陣から逃れるためにやむなく「飛び降りた」わけでして、その点はこの先生も断ってます。というわけで蒸し返しになるが、参考までにその「トリスタン跳び」のくだりも引用しておきます。

 一同がたどり行く道の途中、
とある岩山の上に礼拝堂があった。
それは岩山の突端に建てられていて、
海を見下ろし、北風に吹き曝されている。
内陣と呼ばれる部分は
一段と小高いところに位置し、
その先はただ絶壁あるのみ。

皆様がた、この岩山の中途に
大きな広い岩が突き出ていた。
トリスタンはいとも軽やかにそこへ降り立つ。
吹き上げる風が服を膨らませ、
まっしぐらに落下するのを防いだからだ。
コーンウォールの人々は今なおこの岩石を
「トリスタン跳び」と呼んでいる。
礼拝堂は人で一杯になっていた。
トリスタンは飛び降りる。
砂は軟らかだ。
膝まで砂にめり込んだ。
礼拝堂の前で待ち受けていた連中は
見事待ちぼうけ。トリスタンは逃げた。
神は大いなる情けをかけ給うた! 
大股で飛ぶように、彼は渚伝いに逃げ出す。
… ( ll. 915 − 961 ) **

 すばらしい考察だとは思うけれども、「フーガの技法」の詩編対応説よろしく、やや深読みのすぎる嫌いもなくはない。いや、テーマが「跳躍」なのだから、これくらいは許容範囲なのかな。

* … 原野昇 編『フランス中世文学を学ぶ人のために』p. xxvii による。本家サイトにも書いたように、成立年代は 1106 − 1121 年と推定される。

** 『フランス中世文学集 1 信仰と愛と』白水社、1990, pp. 174 −5. ベルール本『トリスタン』は、いわゆる「流布本系」と言われる系譜に属するもので、制作年代は 1170 − 90 年と推定されるが、物語の後半はべつの作者の手によるものとする説もある。

 なお Le Voyage de Saint Brendan については、電子テキスト本( !? )があることをついさっき発見( しかも現代仏語訳つき )! あいにくワタシは古仏語とかはわからないので、専門に学ばれている方は参照してみてください[ しかしそれにしてもすごいなここ、『ロランの歌( c. 1100 )』に『オーカッサンとニコレット( c. 1290 )』、中世に流行った『動物寓意集』まであるとは … ]。

2016年06月05日

よい音楽と、そうでない音楽

 いまさっき視聴したこちらの番組。4月 16 日に開かれた「第 1832 回 N響定演」からで、前半は大好きなバッハのさまざまな仮面、じゃなくて、いろんな編曲ものの至れり尽くせりオンパレードみたいなプログラム( まったくの偶然ながら、1+8+3+2+= 14、BACH だ !! )、後半は「革新的」と指揮者スラットキンが評するプロコフィエフの「交響曲第5番 変ロ長調 作品 100 」。

 スラットキンはインタヴューで開口一番、「この世には二種類の音楽しかない。よい音楽と、そうでない音楽だ[ 'There is good music, and there's the other stuff.' のように言ってた ]」とおっしゃってまして、個人的にまったくそのとおり、というか、ふだん思っていることをまんま言ってくださったのがうれしかった。スラットキンさんはジャンル横断的になんでも聴くと言っていて、その際基準になるのがたしかな耳があるかどうかだ、とも。ワタシもこのブログで、好き嫌いの問題という言い方をよくしてきたけれども、行きつくところはとどのつまりそうなるとは思うが、好きか嫌いか以前に聴くに値する音楽なのかどうなのか、これが的確に判断できるということも大事だと思う。そういう能力ないし感覚を持ちあわせてないと、いつぞやの「 HIROSHIMA 」事件ではないけれど、音楽とまるで関係ないところで文句つけたりすることにもなる( いまは著作権とかうるさいからしかたないけど、バッハ時代はふつーに人さまの作品をせっせと筆写して好き勝手に編曲して演奏していた )。作曲者がだれかではなく、作品としてどうなのか、ここが大事だと考えます。

 と、前置きはさておいて、この日の定演は生中継で「らじる」でも楽しんでいたけど、TV はやっぱいいもんだ。最近、NHKホールのシュッケオルガンの出番がなにげに増えているような気がして(?)そちらもうれしい。でもスラットキンさんの指揮でこの日の公演のもようを見ているうちに、ああ、この定演だけは実演に接するべきだったかも、と思ったり。なんたって「教会カンタータ BWV. 26 」の出だしのシンフォニア、原曲の無伴奏パルティータ BWV. 1006 前奏曲と、さらに管弦楽編曲版と、なんと3回も !!! 楽しめてしまうという、なんともぜーたくなプログラムだったのだから。オルガン弾いていた美しい女性奏者はどなたなのか、クレジットもされてなかったのでわからなかったけれども、オケのメンバー同様、オルガン界にも若い人材がどんどん出てきているから、だんだんこういうことが増えてくるのだらう。

 もうひとつうれしかったことは、なんと !!! 若きスラットキンさんとN響との懐かしの初共演に、これまたなんともひさしぶりにお目にかかれたこと。1984 年 10 月 17 日、というから、32 年前! しかも演奏曲がヴェーベルン編曲による「リチェルカータ」。そうか、スラットキンさん指揮N響の初顔合わせはバッハだったんだ。で、自分は中学生のとき、「N響アワー」でこれを見ています。眺めているうちに涙目になってきてしまった。原曲は言わずと知れた「音楽の捧げもの」の「6声のリチェルカーレ」で、「大王の主題」が一音ずつ金管から木管、そして弦楽へと受け渡されていくというひじょうにおもしろい、色彩的な管弦楽語法が駆使されてます。ヴェーベルン好きな人は、まずもって聴くべきすぱらしい編曲ものだと思います。

 そして最後の締めが、またまたバッハ、それも「シャコンヌ( BWV.1004 の終曲 )」を、4人のチェロアンサンブルで !!!! こういう編曲は寡聞にして聴いたことがなかったから、なんか今宵はすごく得した気分だ。チェロは音域のとても広い楽器だから、なるほどこういう芸当もありというわけなんですね。

 冒頭のインタヴューにもどるけれども、スラットキンさんは子どものころ、身近なところにオルガンを持つ音楽ホールもなく、またユダヤ教徒の集会所のシナゴーグにもオルガンなんかなかったから、バッハ体験はもっぱら管弦楽編曲されたもの、オーマンディ、ストコフスキー、レスピーギといった人たちの編曲を通して聴いたのが最初だったと話してました。「それがわたしにとっての authentic なバッハだったのです」。でも、前にも書いたことの蒸し返しになるが、どんなに転がっても、どんなに姿かたちを変じても、バッハはバッハなんですねぇ。この日の定演のもようを聴き直してみて、あらためてバッハの音楽の持つ測り知れない奥深さ、果てしない広がり、そしてなによりもその生き生きとした生命力、エネルギーをバシバシ感じました。ありがたいことです。マエストロ・スラットキンに、心からの感謝を捧げます( ほぼおなじ内容のことがこちらのページにも掲載されてます )。

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2016年05月23日

『聖杯の探索』 & others

1). 前記事で書いたお題の本、だいぶ前に読んだ『エネアス物語』同様、page-turner でして、遅読なワタシでも 2 日ほどで読みきれた。時間ができたので、せっかくだから読後感まじりにラテン語版『聖ブレンダンの航海』および『聖ブレンダン伝』と似ていると思った箇所なんかを備忘録ていどにメモっていきます。
第 1 章「ガラアド[ ガラハッド ]の到着と聖杯探索の出発」:聖霊降臨祭( ! )当日、年老いた賢者が手を引いてアルテュール王[ アーサー王 ]の宮廷に連れてきた「待望の騎士」と聖杯の出現と消滅、聖杯探索の冒険[ aventures, この語はキーワードをなす最重要語句なのだが、訳者先生の言われているように、邦訳文では文脈に応じて冒険 / 幸運 / 偶発事など適宜訳し分ける必要がある、ようするに翻訳不可能語 ]の挿話は、ラテン語版『航海』冒頭の「聖バーリンドの話」と構造的によく似ている。「弟子の選抜」は聖杯探索に出かける円卓の騎士に、というぐあいに。
第 2 章「さまざまの冒険」:「ガラアドがそこ[ 白衣の修道院、つまりシトー会修道院 ]に来て門を叩くと、修道僧たちが外へ出てきて、かれを遍歴の騎士とよくわかっているらしく、親切に馬から助けおろしてくれた( p. 49 )」。当時の修道院には日本風に言えば寺院の宿坊があって、坊さんたちは旅人や「遍歴の騎士」、病人や物乞いなどが訪ねてきた場合は断らずに丁重にもてなして宿を提供した、という当時の慣習をそのまま記述していると考えられる( これは「聖ベネディクトの修道戒律」にもとづいている )。同様に『航海』でも、たとえば第 12 章「聖エルベの修道院の島」で、ブレンダン一行もまた島の修道士たちに手厚くもてなされ、また当時のアイルランド教会で歌われていた独自の聖歌をそのまま引用したとおぼしき箇所がある。

また騎士ガラアドが受ける< 墓地の冒険 >に出てくる悪魔の描写は、『航海』第 7 章の「修道士の死」に出てくる悪魔と酷似している;

< 墓地の冒険 >「おい! ガラアド、イエス・キリストの従僕よ、それ以上おれに近づくな。おれはここでずっと安楽にくらしていたのに、おまえが来ると、ここから出て行かねばならなくなるではないか」( p. 64 )

『航海』第 7 章 < 修道士の死 > 「神の人[ ブレンダン修道院長のこと ]よ、なぜおれを 7 年のあいだ暮らしてきた住処から追放し、自分の相続財産から遠ざけるのか[ 'Cur me, uir Dei, iactas de mea habitacione, in qua iam per septem annos habitaui, et facis me abalienari ab hereditate mea ? ' ]」。
こうわめいて「黒い子ども」の姿をした悪魔が盗みを働いた修道士の胸から飛び出す。

< 隠修尼の庵でのペルスヴァル >「さて物語の語るところによれば、ペルスヴァルはランスロと別れた後、隠修尼の庵に戻ったが、これは彼女から、自分たちの手を逃れた例の騎士の噂を聞けると思ったからである」以降( pp. 116 −8 );ここで隠修尼がペルスヴァルに騎士との決闘を思いとどまるように忠告する場面は、たとえばリズモア書所収の古アイルランドゲール語版『聖ブレンダン伝』に出てくる聖女イタの挿話とよく似ている。聖イタはブレンダンの乳母で、動物の血で汚れた舟[ 革舟カラハを指す ]ではあなたの目指す「聖人たちの約束の地」へはたどり着けまいと忠告する。ついでにこの尼さんはペルスヴァルがそれと知らずに死なせてしまった「寡婦の母親」の最期についても彼に語る。

第 7 章「コルブニックからサラスへ」:
 「イエス・キリストの従僕よ、前へ出なさい。そして、そなたがあれほどまでに見たいと望んでいたものを、見るがよい」
 そこで、ガラアドは進み出て、聖なる< 器 >の中を見る。見るとすぐ、かれはじつにもう激しく震え出す ―― 現世の肉なる者が天界のものを目にするとすぐに。( pp. 414 ff. )

 目的を果たした主人公があっけなく身罷る、というのも『航海』最終章のブレンダン院長のあっけない昇天を記述した箇所が思い出される。
 キャンベル本でもたびたび引用されている、「森のもっとも深いところ、道も小径もないところへとめいめいは出発した」というくだりに代表されるように、この物語には「めいめい、おのれの道を進んだ」といった記述が頻出する。作者が「逸名のシトー会士」らしいということはキャンベル本でも、そして訳者の天沢退二郎先生による「解説」でも書いてあるとおりで、その流れでふつうに解釈すると、ひょっとしたら福音書の記述[ cf. Mk 16:15、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」とか ]あたりを意識しているかもしれないが、キャンベルはここを読んだとき、おそらく直観的に「個人のヨーロッパ」の誕生を見出したんだと思う。

 一読した印象としては『航海』同様、やはり中世修道院文学の典型と言っていい作品だと感じた。でもこれはなにも教条主義的であるとか、説教ばっかりとか( ランスロにしろペルスヴァルにしろ、この物語では世捨て人みたいな「隠者」や「賢者」が彼らに対してお説教を垂れる、もしくは「幻夢」の解明といった箇所がやたらと多いのもまた事実だが )、そういう読みはちょっと一面的にすぎるとも思います。なんたってここでは情けないほどコテンパンに書かれちゃっているガラアドの父ランスロ卿ですが、そんな[ シトー会的に ]ダメ人間丸出しなランスロについても、ちゃんと救われる記述が用意されていたりと( < 僧の死 >、p. 191 など )、弱い人間という点ではこの物語の影の主人公はやはりランスロかなあ、と。ランスロはだから、オジサン的にはなんか肩入れしたくなってしまう好人物( 苦笑 )。これに対して息子の「高潔な」騎士、騎士の鑑たるガラアドは、言ってみればシトー会的理想人であり、父親とちがって情欲さえもまるでなくて( 苦笑 2 )およそ人間くさくない男、というか、年齢的にどう考えてもまだはたちにもならない少年騎士です。だから、聖杯の中身 ―― 生身の人間の目が正視するにはとても耐えられないもの ―― を目の当たりにしたとたんにぐったりして、臨終の秘蹟にあずかってそのまま昇天、という結末はいささか気の毒でもある。もっと人生を楽しんでからでもいいのに、って思ってしまった。

 BBC ドキュメンタリー「幻の民 ケルト人」でのプロインシャス・マッカーナ先生の言い方を借りれば、『聖ブレンダンの航海』は「火が点いたみたいに」あっという間に大陸ヨーロッパに広まっていった、中世アイルランド教会の修道院文学の一典型だとすれば、シトー会の思想の色濃いこちらの『聖杯の探索』も、まちがいなく当時書かれた修道院文学の最高峰だったろう、と思います。でも物語としてのおもしろさまで骨抜きにしていないところがすばらしい。むしろこっちの点こそ称賛すべき。キャンベルも当時の一修道会の思想は認めつつ、物語としての完成度の高さはしっかり評価している。そうでなかったらのちのちまで残らなかったでしょう。

 この本、あいにく絶版らしくて、もうすこし早く知っていればよかったなあ、といささか悔やまれる。というわけで評価は るんるんるんるんるんるんるんるん

 … ところでその訳者先生による「訳注」に、すごいことが書いてあった。↓
343 頁 < 不思議な帯革の剣 >―― この剣はクレティアン・ド・トロワ『ペルスヴァルまたは聖杯の物語』第 4712 行に出てくる( 白水社版『フランス中世文学集』第二巻所収拙訳 231 頁が初版でこれを<< 不思議の柄の剣 >> としているのは信じられない誤訳 )

こんなふうに正直に告白されている先生には、はじめてお目にかかった。翻訳という営為に対する真摯さが感じられて、なんかこう、胸が熱くなったのであった。

2). それでもってふたたび前記事のつづきです。新訳版『千の顔をもつ英雄』。断っておきますけどワタシは今回の新訳を評価してます。だからこそ苦言を呈したいと思ったしだい。ほんとは書かずにダンマリ決めてようかとも考えたが、やっぱやめた( 苦笑 )。タネ明かしの前に、僭越ながら拙試訳をまずは書き出しておきます。
 たとえばコンゴで、目を赤くした呪術医の前を通りがかり、その口から発せられる夢幻のような意味不明の呪文に興味をそそられ耳を傾ける。あるいは中国の神秘家、老子の短詩を抄訳で読み、目を開かれた思いがして歓喜に浸る。時にはトマス・アクィナスの深遠な議論の硬い殻をこじ開け、イヌイットの奇怪な妖精譚を読んで突然、光り輝く真の意味に気づく ―― そこに見出すのは、姿かたちがいかに変わろうとも、これらはみな驚くべき一貫性を持つひとつの物語にすぎない、という事実であり、単に見知ったり聞いたりする以上に、自分で経験すべき事柄のほうが多いのだ、ということを抗しがたいほど繰り返し示唆してもいる、ということである。
 いかなる時代、どのような環境においても、人間の生きる世界にはあまねく、人間が紡ぎ出すさまざまな神話が花開いてきた。神話は霊感の生ける泉であり、そこから人間の肉体と精神の活動が生み出す限りの事象が生み出されてきた。神話は、宇宙の尽きせぬエネルギーの秘められた入り口であり、この開口部を抜けて人間の内面へと流れこみ文化的発露を促してきた、と言っても言い過ぎではないだろう。さまざまな宗教、哲学、芸術も、先史時代や歴史時代の人間社会の諸形態も、そして科学技術の重要な発見や眠りを乱す夢でさえ、みな一様に神話という名の根源的な魔法の円環から湧き上がってくる。

[ 原文 ] Whether we listen with aloof amusement to the dreamlike mumbo jumbo of some red-eyed witch doctor of the Congo, or read with cultivated rapture thin translations from the sonnets of the mystic Lao-tse; now and again crack the hard nutshell of an argument of Aquinas, or catch suddenly the shining meaning of a bizarre Eskimo fairy tale: it will be always the one, shape-shifting yet marvelously constant story that we find, together with a challengingly persistent suggestion of more remaining to be experienced than will ever be known or told.
Throughout the inhabited world, in all times and under every circumstance, the myths of man have flourished; and they have been the living inspiration of whatever else may have appeared out of the activities of the human body and mind. It would not be too much to say that myth is the secret opening through which the inexhaustible energies of the cosmos pour into human cultural manifestation. Religions, philosophies, arts, the social forms of primitive and historic man, prime discoveries in science and technology, the very dreams that blister sleep, boil up from the basic, magic ring of myth. [ 下線は引用者 ]
 じつはここの箇所、名翻訳者だった飛田茂雄先生が自著『翻訳の技法』上で、初訳本( 1984 )の冒頭部を引いたあと、みずからみごとな訳例を掲載しているところでして、ワタシは拙い試訳文をこさえたあとで改めて飛田先生の訳例と突き合わせて、そりゃもう顔からグリフォンよろしく火が出るような思いがしたんですけど、飛田先生の訳文はとにかくすばらしい、というほかない( pp. 64 − 8、蛇足ながらワタシは最後の一文を、近所の柿田川湧水群の「湧き間」のイメージで訳した。ちなみに飛田先生は「噴火口」のイメージで訳出してます )。

 新訳本の冒頭部は、なんというか、初訳本よりはたしかにマトモでありましにはなってますが、それでも? をつけざるをえない箇所が散見される。もっとも人によってはこんなもんどうでもいい、言ってることがわかりゃいいんだ、という感想を持たれる向きもいるでしょう。でも以下に引用するように看過するには忍びない問題点がいくつかある。
 コンゴの呪術医が充血した目でわけのわからない呪文を唱えるのを醒めた目で面白がって聞いたり、神秘主義者老子の詩句の薄っぺらな訳を教養人の気分で喜んで読んだり、たまにトマス・アクィナス … の難解な説の固い殻を砕いたり、エスキモーの奇抜なおとぎ話の輝くような意味がふとわかったりするときも、私たちの前にあるのは常に、形は変わっても驚くほど中身は変わらない同一のストーリーであり、これから知ったり聞いたりすること以外にも経験するべきものがあることが執拗に暗示されている( pp. 17 − 8)。
 下線部の訳、はっきり言ってワタシの頭ではまるで理解不能[ だし、これではキャンベルの言わんとするところが的確に伝わらない ]。出だしの dreamlike もなんで落としたのかな? こういうところこそ、イマジネーションを働かせてほしいところだと思うのに。thin はただたんに「ページ数がなくて薄い」の意のはずで、初訳本のような「浅薄に翻訳したもの[!]」なんてのよりはましかもしれないが、ふつう日本語で「薄っぺらな訳」ときたら、読み手は「中身のない翻訳なのか」って取るんじゃないでしょうかね。あともうすこし先の「 … 神話の象徴とは … そのひとつひとつが、自らの根源となる胚芽のような力を、損なわれることなく内に抱えているのである」というのもよくわからない … 'They are spontaneous productions of the psyche, and each bears within it, undamaged, the germ power of its source.' の訳ですが、「神話は、精神[ プシケ ]が自ずと産み落としたものであり、そうして産まれたそれぞれの神話にも、あらたな神話を生み出すおおもとの根源の力が損なわれることなくそのまま内包されている」くらいだろうと思うのだけれども。ようするにここでキャンベルが言いたいのは、精神が自ずと産みだした神話というもののなかにもその神話を生み出したおおもとの力がそのまま備わっていて、そこからまた新たなる神話がこれまたぽこぽこ自然発生的に生まれるのだ、ということだろう[ ひょっとしたらそういう含意でこういうふうに書いたのかな … 謎 ]。

 個人的にはこの手の本は、『宇宙意識』の名訳がある鈴木晶先生の手で出してほしかったなあ、と思う。キャンベルの神話解釈って( わたしはユング派なんかじゃありませんよ、という本人の弁にもかかわらず )、ユング流の精神分析ないし深層心理学的アプローチが基本になってると思いますので、そっち方面に明るく、かつ達意の日本語が綴れる先生のほうがより適任かと老婆心ながら思われます。それとこれはこちらの語感とあちらのそれとのちがいだろうが、「出立」とか「処女出産」という訳語選定もなあ … 。ところでこの新訳本、ワタシとおなじく期待していた向きがひじょうに多かった(?)と見えて、手許の買った本の奥付見たら、今年 2月時点でなんと四刷 !!! だったら再々校、できますよね、『 21 世紀の資本』みたいに ??? 

 翻訳で思い出したが、いま図書館からこちらの本も借りてます … 『マルタの鷹』の翻訳者、でピンとこない人も、映画にもなった『探偵物語』の作者、とくればああ、あの人かと思われるはず。英米ハードボイルドものやミステリものの名翻訳家だった小鷹信光先生のご本です。小鷹先生は昨年暮れ、80 を前にして逝去されてしまったけれども、巻末のことばがすごくずっしりと重く響く[ 太字強調は引用者 ]。
[ 小鷹先生が俎上に載せたさる邦訳本の批評について、おなじく大先達の深町眞理子先生がやんわりと小鷹先生側のまちがいを指摘して ]これと同じような誤りを、この 30 年間、私は無数に繰り返してきたのだろう。そのすべてを拾いだせば、誤訳の山が築かれるに違いない。翻訳にあたっておそろしいのは、大多数の読者がそれに気づいていないことである。だが、おそらく当の翻訳家自身も気づいていないこの誤りに気づいている無言の評者がどこかにいる。そのことを肝に銘じて、新しい仕事にとり組まねばならない。自戒もふくめて、これをこの本の結びにしよう。
 あいにくこちらの本も版元品切れみたいです。復刊望む !! 

付記:こちらのサイト、すごすぎる! 小鷹先生が生前収集していたというヴィテージものペーパーバックの表紙コレクションなんかもう、往年の LP ジャケットコレクションみたいで熱燗、ではなくて圧巻のひとこと。さらについでにこの本もほしかったりする。

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2016年05月16日

マッカーナ教授の『聖ブレンダンの航海』についての論考 ⇒「薄っぺらな訳」って? 

 本日は Beannachtaí na Lá Fhéile Bhreanainn !! というわけで、今年もぶじに、個人的にはとても大切なこの日を迎えることができまして、感謝( きのうの日曜は復活祭から 50 日の「聖霊降臨祭」で、ラテン語版『聖ブレンダンの航海』では「鳥の楽園[ フェロー諸島? ]」の挿話が意味深長に関連づけられている祝日 )。

 で、先日、 2004 年 5 月 21 日に満 77 歳、日本風に言えば喜寿の歳に亡くなったケルト学の権威、ユニヴァーシティコレッジ・ダブリンのプロインシャス・マッカーナ教授の代表作と言える著作 Celtic Mythology についてヨタ話めいたことをすこし書いたりしたんですけど[ この件についてはまた後述 ]、そのあとふと、そうだ、マッカーナ先生は聖ブレンダンについてなんか書いているのかな? と思って手許の The Legend of Saint Brendan を眺めていたら、Atlantic Visions という 27 年も前に出た本に収録されていることを知った。で、さらに静岡県内の公共図書館を串刺し検索できるサイトで調べてみると、なんとなんと( ってこればっかで申し訳ないですけど )、世界文化遺産のひとつ「三保の松原」近くの東海大学海洋学部の図書館にこの本が納本されている事実が判明 … むむむ、この本はこのワタシをいまのいままで待っていたのだ、こりゃ行かない手はないずら、というわけで、いつぞやの静大附属図書館のときのように、喜び勇んで馳せ参じたのであった( ついでに三保の松原にもはじめて行ってみた )。

 驚いたことにこの本、1985 年 9 月、ダブリン市やブレンダンゆかりのケリー州で開催された「第 1 回 聖ブレンダン協会国際会議( !¿! )」の紀要だそうで、そんなもんやってたんか、と思って、本が入ってた書架( というか、完全に書庫 )のある地下の部屋(!)に、これまたおあつらえ向きに用意されてある机にダークグリーンのハードカバー装丁の原書を開きひとりゆっくりとくつろぎつつパラパラ繰ってみたら、あのティム・セヴェリンの名前も出てくるではないですか( はしがきみたいな短文を寄稿していた )。セヴェリンが参考にしていたらしい「聖ブレンダンはコロンブスより先んじて新世界に到達した最初のヨーロッパ人」説の本の著者とかが言及されているところからしても、そういう学説がけっこう評判になっていた当時の熱気をいくぶんなりとも引きずっていたころに書かれたことを認識させられる、そんな内容でした。参加者の顔ぶれもマッカーナ教授のようなケルト学専門家だけでなく、海事史家、考古学者、アマチュアヨットマン、高校の先生とじつにいろいろ … いちばんビックリしたのはこんなアイリッシュ色に満ち満ちた会議にどういうわけか日本人( !!! )まで含まれていて、巻末の論考に名前を連ねてました( Mr Takau Shimada ってだれだろ? 寄稿文はまだきちんと読んでないけど、江戸時代の踏み絵に関するものらしい[ キリスト教 → 隠れキリシタンということなのかな ] )。

 本題。とりあえず興味をそそられたほかの寄稿文も含めてマッカーナ先生の論考をコピーしたので、それを見ながら以下に要約してみます[ Atlantic Visions, edited by John de Courcy Ireland & David C. Sheehy, Boole, Dublin, 1989, pp. 3 − 16 ]。
『聖ブレンダンの航海』の文学的 / 歴史的源流について

by Proinsias Mac Cana

1. 起源としての『ブランの航海』:
8 世紀初頭に成立したとされる『フェバルの息子ブランの航海』は、先行する古アイルランドゲール語で書かれた一連の「エフトリ( echtrae / echtrai, 異界行 / 冒険譚 )」との共通要素の混入が目立つ。たとえばシーなどの異界から使者(『コンラの異界行』と『ブランの航海』では、女人 )がやってきて、自分たちの住む国へと誘いだす、というモティーフは『クリウタンの息子ロイガレの冒険』や『病のクー・フリン』にも見られ、このような共通項の存在は 90 年も前にアルフレッド・ノットが指摘している。ここでおもしろいのは、旧来の土着宗教組織( ドルイド )は異教として描かれているのに対し、『ブランの航海』における「女人の島」[ Tír Tairngiri ]はキリスト教における「天上の楽園」のごとく見做している、という書き方が意識的になされている点である。この点について、のちのキリスト教の要素が混入していることは間違いないが、カーニーの主張するようにキリスト教など外国由来の要素が起源か、というと不明な点が多過ぎる。異界はつねに「生者の国」、つまり「不死」の王国であり、この概念じたいはおそらくキリスト教化以前の異教由来のものだと思われる。またエフトリでは異界が単一世界であることが暗示されているのに対し、イムラヴァでは実際の航海の経験からか、大洋上に散らばる島々という暗示がある。

2. 『ブランの航海』と『聖ブレンダンの航海』、その他イムラヴァとの関係:
カーニーは『ブランの航海』を、7世紀に存在していたと推定される『聖ブレンダンの航海』の原型から宗教色を取り除いた世俗ヴァージョンだ、と主張するが、これは奇妙なことである。『ブランの航海』と『コンラの異界行』では、異界が一連の島という概念を下敷きにしている。
アダムナーンの『聖コルンバ伝』には、修道院長の許可を得なかった修道士を同乗させたコルマックが「絶海の砂漠」探しに失敗する話が出てくる[ → 関連拙記事 ]。これはのちのイムラヴァに出てくる「余所者」というモティーフの先駆けとなったかもしれない。当時はこのような荒行のような航海についての話が伝説化して流布していたことを示唆してもいる。

 リズモアで編纂されたと推定され、1925 年にチャールズ・プラマーが編集した『アイルランド聖人たちの連祷』には、イムラヴァとしては現存していない聖人による航海が断片的記録として書かれている。そのうち、ブリュッセルのベルギー王立図書館所蔵の「サラマンカ写本」に収められた『聖フィンターン( Saint Fintán / Munnu, d. 635 )伝』にはフィンターンが「約束の地」を訪問したおり、かの地にはコルム・キレ、ブレンダン、[ アハボーの ]ケネクの 3人がいて、自分を招待してくれた隠者に対し、耐え難い試練に遭遇したり誘惑に打ち負かされそうになったときは「石の山」、現在のスリーヴ・リーグ付近に突き出す岬に行ってそこから船出するようにと忠告した。これは『聖ブレンダンの航海』冒頭部[ 聖バーリンドの訪問 ]とも呼応し、フィンターンの「約束の地」における居所の名前も Port Subai、つまり『ブランの航海』の Inis Subai[ 歓喜の島 ]および『航海』の Insula Deliciarum が響く。

 またエムリの修道院長聖エルベに捧げられた「連祷」では、「約束の地」を 24 人の弟子とともに何度も訪問していることが示唆されており、「実をつけた葡萄の若枝」を手にしていたとされる。これは『航海』のあるヴァージョンと、また『ネラの異界行』に出てくる夏の花を持ち帰る挿話とも対応する。

 当時の社会的制裁としての「追放」とこれら修道士による「自己追放」航海についてはたとえば『アングロ・サクソン年代記』の 891 年の記述( 3人のアイルランド人が、オールのない小舟でアルフレッド大王のもとにやってきた … )や、トマス・チャールズ−エドワーズによる論考[ 'The Social Background to Irish Peregrinatio', 1976 ]を参照。

3. まとめ:古アイルランドゲール語で書かれたイムラヴァ / エフトリ、およびラテン語版『聖ブレンダンの航海』との年代順に見た系譜については現時点で判明している史料からでは作成不可能だが、一般的に合意されているのは、『聖ブレンダン伝』のひとつは『航海』より先に存在していたということと、『連祷』に出てくる聖ブレンダン伝説はすべて『ブレンダン伝』から採られたものであって『航海』からではない、ということである。そしてアイルランドゲール語 / ラテン語による「航海譚」は、7 世紀以降に発展していったジャンルであり、9世紀初頭には文学ジャンルとして確立していた、ということも言える。

 そして、土着のキリスト教化以前の要素が含まれている可能性はあるにせよ、これらの「航海譚」はすべて修道院での創作活動から生まれたものであり、黙示録的終末観や聖イシドールの著作、当時の動物寓意譚や鉱物誌からの引用なども自由に取りこみ成立している。ラテン語版『航海』は、他の大半のアイルランド聖人列伝ほどには地域色が強く押し出されていないことから欧州大陸の知識層にもすぐさま受け入れられ、その想像力に訴えかける探求の船旅には尽くせぬ魅力があり、やがてアーサー王もの物語群としてふたたびこのおなじ探求の旅[ つまり、聖杯を探索する冒険として ]が現れることになる。

 → ご参考までに本家サイト「ケルト航海譚について
 … それにしてもこの本、よくぞこの図書館にいてくださいましたってほんとうにありがたく思いました。確率論的に言えば、かぎりなくゼロに近いではないですか。原書じたいとっくに絶版で、しかも名の知れた大手版元から出ているわけでもないですし。こういう偶然も、たまーにはあるものだなあ( これで宝くじでも当たればもっといいけど … )。

 そしてマッカーナ先生の本( Celtic Mythology )ですが、先日ようやく英国から(!)届きまして、中身を見てまたびっくりぽん。なんとこの本、ハードカバーの大判で、一般的な書籍、というより図版がたくさん収録されていてその合間に本文が挟まっているという、りっぱな装丁の本だったんです。しかもこれ初版本なんですけど状態もすごくよくて、おまけに破格の安価で買うことができて、この件に関しても運に恵まれたと思います。

 それにしても … 邦訳本の貧弱さはどうなの、って思ってしまう。カラーを含むオリジナルの図版がすべて使えなかったのはたぶん「大人の事情」ってやつかもしれないが( 版権者が特定できなかったとか )、創元社にもこの手の原書を翻訳した図説本シリーズとかがあるけど、そういう体裁で発行できなかったのかな、と。もっとも翻訳がもうすこしなんとかなっていれば、そんな短所も補ったんでしょうけれどもね。

 原書カバーそでに著者マッカーナ教授の若かりしころのお写真も印刷されてたんですが … れれ、よおく見ると、この先生、どっかで見たような … ってそのときピピっと思い出した! そうだ、かつて NHK の「海外ドキュメンタリー」で放映された、「幻の民 ケルト人」に出演してしゃべってたあの先生じゃなかろうか、と思ってぐぐってみた … が、あいにく映像が出てこない。でもクレジットはされている。というわけでもう手っ取り早く手持ちの VHS ビデオテープを引っぱりだして、20 数年ぶりに録画したものを見てみることにした( 大汗 )。テープじたいは良好でカビも生えてなかったとはいえ、ほんとにひさしぶりにこれ見るもので大丈夫じゃろか、と思ってたけどぶじに視聴できまして、やっぱりそうでした。前にもここで書いたことあるけどそう、「聖ブレンドンの航海」って吹き替えられていた、あのシーンでした( しかしなんでまたブレンドンになっちゃったのかしら、スクリプトくらい持ってたと思うが、まさか耳で聞いた音声から起こしたのかな? ついでながら教授の名前を紹介するキャプションは「P. マッカナ教授」になってました )。

 Celtic Mythology の初版本を眺めていると、いろいろ感慨が湧いてくる … この本が出たころはちょうど自分が生まれたころでもあり、こうしてめぐりめぐって( SW EP7 のラストシーンのように )またマッカーナ先生とこういうかたちで「再会」するとは … なんだかケルト十字架のごとき「円環」を描いているような気もしないわけではない。ぐるぐる、ぐるぐる … というわけで、ニューグレンジ遺跡のあの渦巻き文様なんかの図版も当然あるわけなんですが、それで思い出したのが、どういうわけか近所の長泉町の古墳から 2003 年に出土したという太刀の「柄頭[ つかがしら ]」のこと。2014 年夏に地元紙に掲載されていた記事の切り抜きがこの前、ぱらりと出てきまして、腐食して鉄の塊みたいになっていたこの柄頭を文明の利器、3Dプリンター(!)でレプリカを作ってみたらなんと !! ケルトの渦巻文様そっくりな模様が再現されていた、というもの。どういうつながりかはわからないが、かたや西の海の果ての島国で、かたや日出る国の富士山の麓でまったく似たような文様が出現するっていうのは … キャンベル本じゃないけど、地域も民族もちがうのにおんなじようなイメージが出てくるってほんと不思議ですねぇ。

関係ない追記:
朝、日が出るとすぐ、騎士たちは起きて武具を身に着け、城にあった礼拝堂へ弥撒を聴きに行った。それが終わると、馬に跨り、城主に神の御恵みがあるようにと祈り、城主の昨晩の歓待に謝意を表した。それから城を出ると、前夜相談した通りに、ひとりひとり別々になって、森の中へ、ひとりはこちら、ひとりはあちらと、森がいっそう深そうな方へ、道も小径もないところへと出発した。
―― 作者不詳『聖杯の探索』天沢退二郎訳、人文書院[ 1994 ]、p. 48
 まさかこちらの本までとっくの昔に邦訳が出ていたとはつゆ知らず、急ぎ「相互貸し出し」制度をフル活用していま、読みはじめてます。思っていたより大部で中身の濃い物語で、ちょっと圧倒されてますが … そんな折も折、じつはジョーゼフ・キャンベルが単独で刊行した本としてははじめての著作であり、いまや古典と言ってもいい『千の顔をもつ英雄』の待望の新訳本が、しかもお手頃な文庫本となって不死鳥のごとく復活していた( SW 新作航海、じゃなくて公開にあわせて出版したらしい )。というわけでついでに本屋にも立ち寄って、取り急ぎ冒頭部だけつつっと目を走らせてみますと … ン? こういう表現にドラゴンよろしく唐突に出くわした:

「 … 薄っぺらな訳」

 原文( The Hero with a Thousand Faces, 1949 )はつぎのとおり[ 下線は引用者 ]。
Whether we listen with aloof amusement to the dreamlike mumbo jumbo of some red-eyed witch doctor of the Congo, or read with cultivated rapture thin translations from the sonnets of the mystic Lao-tse; now and again crack the hard nutshell of an argument of Aquinas, or catch suddenly the shining meaning of a bizarre Eskimo fairy tale: it will be always the one, shape-shifting yet marvelously constant story that we find, together with a challengingly persistent suggestion of more remaining to be experienced than will ever be known or told.
Throughout the inhabited world, in all times and under every circumstance, the myths of man have flourished; and they have been the living inspiration of whatever else may have appeared out of the activities of the human body and mind. It would not be too much to say that myth is the secret opening through which the inexhaustible energies of the cosmos pour into human cultural manifestation. Religions, philosophies, arts, the social forms of primitive and historic man, prime discoveries in science and technology, the very dreams that blister sleep, boil up from the basic, magic ring of myth.
 前にも書いたかもしれないですが、この本の初訳本( 1984 )はとにかく評判の悪い本だったようでして、ある意味マッカーナ先生の Celtic Mythology の邦訳本といい勝負(?)だったようです … そこで期待して見てみたら、言い方はよくないが、いきなりコケてしまったような印象。ついでにその下の '... together with a challengingly persistent suggestion of more remaining to be experienced than will ever be known or told.' の訳もどうなのかな、と。ここの箇所は出だしでいちばん重要なくだりと言ってもいい部分で、大げさに言えばキャンベルという学者の根幹となる思想、考え方、ものの見方が垣間見えさえするところなんですけど … みなさんはどうですか、英語に自信があると自認されている先生方なんかとくに? 宿題にしておきましょう( 笑 )。

 ワタシは文字どおりなんにしてもディレッタントな門外漢なんで、とてもおこがましくて人さまのことなんざああだ、こうだとは言えた義理じゃないですけど、すくなくとも thin translation( s )の thin が「薄っぺらな」 になるわけないですよ。揚げ足取りする気なぞさらさらないが、イマジネーション不足じゃないんですか、これ? それこそ薄っぺらい、ぞろっぺいな印象をどうしても受けてしまう。いちおうこれでもキャンベル本は何冊か原書 / 邦訳本で読んでますんで、なおさらそう感じます。

 じつはワタシはこの前、強風のやつにカサを破壊されまして、どうせ買い換えるなら台風にも負けないカサを買うか、と息巻いていたところなので、せっかくの新訳本ではあるがとりあえず買うのはすこし先延ばしにしたので( 苦笑 )、手許に揃えてからまたこの件については書こうか、って思ってはいるんですけどもね … 。

2016年05月09日

バッハのヴァイオリン協奏曲の「オルガン独奏版」⇒ B−S の新星 from Norway

1). 今週の「古楽の楽しみ」、なんでもバッハの現存する「ヴァイオリン協奏曲」特集だそうで、けさはひととおり( BWV. 1041 − 43)かかってました。最後の「2台のヴァイオリンのための … 」は、とくに緩徐楽章での二丁の独奏ヴァイオリンどうしの、えも言えぬ美しいかけあいがひじょうに有名な作品なので、聴けばああこれか、と思われる向きも多いと思う … が、ワタシにとっての本日のお楽しみはそのあとにやってきた。なんと、寡聞にして知らなかったが、っていっつもこればっかで申し訳ないけど、この一連のヴァイオリン協奏曲、「オルガン独奏用」として編曲されたアルバムなるものが存在していたことが判明 !! これにはまいった。またしても磯山先生にしてやられた( 苦笑 )。

 で、さっそく例のとこに行って探してみたら … ありました、これか。演奏者のボッカッチョなる方も初耳で、磯山先生が手短に紹介されたパドヴァにあるという使用楽器についてもよくわからない。掲載画像の見た目で判断すると、どうもレプリカ楽器っぽい気がする。でもってワタシは番組でかかった作品ではなくて、映画「わが母の記」で滑沢渓谷[ 旧天城湯ヶ島町、現在の伊豆市 ]付近を行くボンネットバスのシーンで印象的に使われていた、BWV. 1041 の「アンダンテ」を聴いてみました … 真夜中にえんえん流れる OTTAVA のライブラリー収録曲にも使われていて何度も耳にしているこのアンダンテ、けっこう好きなんです。まだ全トラックは聴取してないけれど( 木曜まで毎日かけるって先生がブログ記事で書いてましたけども )、これはすばらしい編曲だ。そしてこういう編曲ものでどうしても思い出すのが、前にも書いたことながらヴィヴァルディ「四季」オルガン版。昔、まだ LP というものの全盛期、クラシックのコーナーにてこれを見かけて興味をそそられたことがある。その後ヴァルヒャによる「バッハ オルガン作品全集」を大枚はたいて買ったとき、いずれこの「四季」も CD 化されるだろうから出たら買おう、なんてのんきに構えていたけど、けっきょく出なかったようで … 少し前にぐぐってみるも、ついぞお目にかかれずじまい( ちなみに前記事の故マッカーナ教授の著作 Celtic Mythology、破格のお値段で売られているのを見かけたのでこっちは注文済み )。

 また OTTAVA ではこういうのもかかってました( 初版で言うところの「12 度の転回対位法による原形主題と新主題の二重フーガ[ コントラプンクトゥス 9 ]」)。これは「初版譜」にもとづく演奏ではなくて、「ベルリン自筆譜 P 200 」にもとづく演奏盤でして、ついでだからと番組でかかっていた9番目のフーガ( ベルリン自筆譜では「フーガ 第5」)のほかに出だしの「4声単純フーガ[ コントラプンクトゥス 1]」を聴いてみたり。たまには「自筆譜」ヴァージョンもよいなあ、と感じたしだい。

2). 最後にお決まりの脱線。最近、めっきりボーイソプラノ / トレブルのアルバムを聴くことが少なくなってきたけど( 飽きがきた、というわけではアリマセン。先日も SBS ラジオだったかな、静岡市出身の歌人の田中章義さんが「ウィーン少( WSK )」のことをしゃべっていたのをたまたま耳にして、おやこの方も同好の士だったのかと思ったり )、最近、動画サイトで偶然見つけた、ノルウェイのこの子がちょっと気になってます。声質は、かつてのアレッド・ジョーンズを思わせるところがあって、こちらも負けじとすばらしいです。



posted by Curragh at 20:28| Comment(0) | TrackBack(0) | NHK-FM

2016年04月29日

音楽の解釈と、「ことば」の解釈と

 いま、Ottava にてジョン・ラッター珠玉の名曲「地上の美のために For the Beauty of the Earth 」を聴きながら書き出してます。

1). 先だってこういう拙記事を書いたりしましたが、もうすこし書き足しておきます。昨年暮れの恒例「N響の第9」。常任指揮者就任記念としてエストニア出身のマエストロ、パーヴォ・ヤルヴィ氏を迎えての公演だったんですが … フタを開けたら超特急な演奏で口あんぐり。マエストロ曰く、「スコアのメトロノーム指示に従った」とのことで、ようするにいままでの名だたる指揮者たちの「解釈」は作曲者の意図を無視していた、と。ベートーヴェンがわざわざこういう指示書きをしているのだから、多少なりとも演奏に反映させよ、というのが言いたいことだったようです。

 で、念のためいつも行ってる図書館で『ベートーヴェン事典』とか見てみると、このベートーヴェン交響曲作品における「メトロノーム表記問題」、ことはそう単純じゃあないようで。まず「8番」までの「速度指定」は 1817 年 12 月 17 日付ライプツィッヒの新聞に「一覧表」というかたちで発表したものだという。で、たとえば「3番」、俗に「英雄」とか「エロイカ」とか呼ばれている作品の最初の主題提示部での歴代指揮者によるテンポ一覧が掲載されてまして、本文に「 … ここでも、古楽器オケ世代の中核を担ってきたノリントン、アーノンクール、ガーディナーが快速を競ってタイムを短縮してきたことが判明する」とあったのにはちょっと笑ってしまった。やっぱり「快速」かぁ〜、みたいな( 一覧を見ると、「最速」はジョルディ・サバール指揮ル・コンセール・デ・ナシオンによる演奏で、付点2分音符[=1小節 ]= 60!)。もっともだからと言ってずっとインテンポ 60 でゴリ押ししているわけではなくて、どの指揮者も演奏に「緩・急」はしっかり入れてます。ここが大事なところ、こういうのがその音楽作品をいかに演奏するか、という「解釈」になります。

 「第9[ ほんとは「第九」と漢字で書きたいけれど表記を統一しておきます ]」はどうかと言えば、1824 年作曲者自身による指揮の初演時、すでにメトロノームじたいはあったけれども、「メトロノームの数字が登場するのは、やはり初演よりも大分後になる[ 引用者注:ワタシだったらここはひらいて書く。ワタシみたいに「おおいたあと」なんて誤読する向きも、いないとは限らないから。ついでに小学校にあがったばかりのころ、TV の天気予報で「ハロウ警報 … 」ということばを聞いて、てっきりハロウ=hello, 外国人警報だとアホなカンちがいをしていた ]」。

 ちなみにこのベートーヴェンの「メトロノーム表記」を遵守すべし、というのはいわゆるいまはやりの「受容」のしかた、ないし「解釈」の主流らしいです。もしいまの時代に Compact Disc Digital Audio が開発されていたら、「約 74 分」という規格は通らなかったかもしれない。

2). この前、ようやく『 21 世紀の資本』を読了 … 図書館の順番待ちのお鉢がようやくまわってきて( というか、みんなが飽きはじめた頃合いと言ったほうが正確か )、いざ読みはじめたらたしかにバルザックとかオースティンとかの引用もおもしろく、むつかしい数式もないにもかかわらず、全体としては意外と(?)難物で、けっきょく買っちゃいました( 苦笑、もう自分の本だから自由自在にポストイット貼ったりアンダーライン引きまくり )。ちょうどそんな折も折、って毎度こればっかのような気もするが … そのピケティ教授、世界中で大騒ぎされている例の「パナマ文書」、いったいどう思ってんだろうなー、なんて漠然と思っていたら、Le Monde 電子版上の自身のコラムにしっかり寄稿していた。もちろん印刷して目を通して、せっかくあのぶあちい本( 苦笑 )読んだことだし、我流で訳してみようかな … と思っていた矢先、もう日本語版「抄訳」が公開されてました。

 全文対照して読んでみたら、「抄訳」と言いながら手練れというかけっこううまく訳されてまして[ 当たり前か ]、これはこれで勉強になった( かな?)。たとえばうまい「省略」例をいくつか挙げれば ――
... In 2016, the Panama Papers have shown the extent to which financial and political elites in the North and the South conceal their assets.
… 16 年の「パナマ文書」が明らかにしたことが何かというと、先進国と発展途上国の政治・金融エリートたちが行う資産隠しの規模がどれほどのものかということだ。

... Let’s take each topic in turn.
… 順を追って見ていこう。

... In other words, we continue to live under the illusion that the problem will be resolved on a voluntary basis, by politely requesting tax havens to stop behaving badly.
… つまり、私たちは「お行儀よくしてください」と頼めば、各国が自発的に問題を解決してくれる、そんな幻想の中にいまだに生きているのだ。
などなど。fiscal という語を「税の / 税制 / 金融」と適切に訳し分けているのもよいですね。ついでに「ペーパーカンパニー」というのは shell company と言ったりする。つまり「殻」だけで、中身[ 実態 ]はカラッポということ。「パナマ文書」関連で個人的な感想を言えば、アイスランドの国家元首( !! )が出てきたり、北朝鮮や IS 関連まで出てきたりと、呉越同舟ならぬ、「おなじ穴の … 」、英語で言えば 'It takes one to know one' というやつですかね、これは … さるスーパーの休息コーナーにて一息入れていたとき、ふと「東京新聞」がほっぽり出されているのに目が留まってつい広げて読んだりしたんですけど( 苦笑 )、「公正な税制を !! 」と訴える人のなかに、奨学金の返済に追われる女性会社員の切実な声も掲載されていた。一部のカネ持ちが優遇され、自分たちは割りを食っている、と。そのことば、現都知事さんこそ聞いてほしい、と感じたしだい。

 … と、ここでまた脱線すると … 先日、本屋さんでとある版元のフェア(?)をやってまして、「神話」もののハードカバーシリーズ本がいくつも平積みになってました … 立ち寄ってみたら、なんと 20 年以上も前(!)に、その筋では有名な「欠陥翻訳時評」の俎上に載せられてしまった訳書まであった ―― あった、というか、この本そもそも初版が 1991 年、湾岸戦争の年ですよ( 覚えている人がどれくらいいるだろうか。ちなみに不肖ワタシは都内でなんとか新聞の人につかまって戦争協力反対の署名をしてしまった、なんてことも思い出した )。奥付を見るとすでに何刷か重版していて、いくらナンでもこりゃないだろ、と気が遠くなる思いがした。

 そもそもこの訳者先生ってそは何者、と思ってあとでちょこっと検索かけたら、なんか商社マンかつ詩人だったようだ。ま、それはそれでべつにいいんです。二足だろうが四足だろうがワラジ履いたって( 喩えが古すぎるか )。さる高名な先生が言っていたように、出来さえよければ、一定レヴェルの及第点さえ取れればそれでいいんです。シェイクスピア戯曲翻訳者としても知られた福田恆存氏が常盤新平氏に語った話だったか、忘れたけど、「うまく訳してあるところとそうでないところとの差をなるべくつめろ」と言ったんだそうです。片岡義男氏だったかな、「全編、平均 80 点くらいで訳すこと」とか書いていたのは。でもこのご本 … だいぶ前に静大図書館でコピーしたキャンベルの寄稿文のこと書いた拙記事で、ついでに言及したアイルランド人ケルト学の碩学でロイヤル・アイリッシュ・アカデミー会長を務めたこともあるプロインシャス・マッカーナが 40 数年も前( !! )に書いたこの本の邦訳の「でき」は … 門外漢のワタシから見てもそうとうなもんですよ、これ( 苦笑 )。*

 たまたま単行本化されたこのときの「時評」本は持っているし、とりあえずひとつだけ例をここでも孫引用させていただくと[ 下線強調は引用者 ]、
... Irish literature leaves us in little doubt that the druids were unremitting antagonists of the Church in a long-drawn-out ideological struggle which ended in the virtual annihilation of the druidic organisation( P. Mac Cana, Celtic Mythology, p.137 ).

アイルランドの文学を読むと、ドルイドは、その組織が実質的に壊滅する日までの長期的な思想的闘争の期間、ずっと教会にたいして休むことなき敵対者だったのではないかとの、かすかな疑いが残る。…( p. 278 )

 … ここの箇所、古代アイルランドのドルイド / フィリ支配社会と、新参者の初期キリスト教会側との抗争についてちょこっとでもかじったことある向きは、まさかって思うはず。原文は下線部分を見ればわかるようにただの否定( ベン・ジョンソンがシェイクスピアをくさした 'Small Latin and less Greek' とおんなじ用法の little )だから、文意はほぼ真反対、ということになり、当然、そのあとの文章ともつながらなくなる。こういうのは「解釈」云々以前の問題。なのでこういう「ひび割れた骨董[ 吉田秀和氏ふうに ]」、あるいはもっとかわいく「シドいほんやくだ[ 寺田心ちゃんふうに ]」がよくもまあ麗々しく生き残っているものかと、なんかよくわかんないけどハラが立ってきた( 苦笑 )。そしてなんと当の「時評本」にも、「ちなみに、本書は 1996 年 7 月現在、第五刷まで出ているが、ここに指摘した箇所を修正したにとどまる。もちろん、実際はほかに修正すべきところが数知れず … 出版社、翻訳者の良心を疑う」とまで書かれてます。おやや、本屋で見た「最新版」、いま例に挙げたとことか、直ってたっけ ?¿? 訳者先生は故人のようですし[ ついでながら「時評」にも瑕疵があって、「マッカーナ女史」ってあるけど、この先生はれっきとした男性です。後日談:あらためて本屋で確認したら、今年3月時点でなんと九刷 !! でした。しかもほんとだ、例に引いた箇所はしかるべく訂正されており、初版本の「はじめに」第一文冒頭の「古代ケルト族の結合は、… 」なるヘンテコな言い回しも「古代ケルト族のまとまりは、… 」と訂正されてました。とはいえ開巻 1 ページ目からして ??? できわめて文意がたどりにくいのはあいかわらずだったので、この際だからどっかオンラインの洋書古書店にて原本買ってみようかと思います ]。

3). … 昔、「 Creap を入れないコーヒーなんて … 」という TVCM があり、またなんとかスウェットという飲料水がいまだに売られていて、おそらく英語圏の人は見るたびに失笑していたんじゃないかって思う( 誤記訂正、ここで言いたいのは英語圏の人間が「クリープ」という音の響きを聞いて連想するものについて )。そういえばだいぶ前にここでも書いた、近所のスーパーの誤記っぽい表示( DAIRY FOODS とすべきところを DAILY FOODS )としちゃってる件。この前そのスーパーがリニューアルオープンしたので、ついでに確認したら … なんも直ってなかったりして orz

 ところがつい最近、教えてもらったんですけど、欧州だか英国だか、とにかく向こうではこういうブランド名があって、しかもあの BBC のリポーターまでそのブランドの服着て TV に映ってるときたからまたしてもオドロキです … 最初、このブランド名を見たとき、「え、なにこれ? ビールのことかしら ?? 」なんて考えていた。こういうことばのプレイとミスプレイ、なにも日本だけじゃなかったんですねぇ、とここでお時間が来たようで。

… 一定レヴェル以上の「解釈」のちがいによる表現の相違 / 書き方の差異については、もうこれは究極的には読み手それぞれの好みの問題になってしまうと思う、音楽作品の演奏とおんなじで。もっともこういうところで訳者それぞれの解釈の深さがもろに現れるので、こわい、と言えばこわい。でもそんなこと言ってたらいつまでたっても翻訳なんてできない( 苦笑 )。たとえば、たまたま手許にある邦訳書のある箇所をべつの人が訳した事例にこの前、Web 上の写真関連の記事でお目にかかった[ 下線部、あえて個人的な好みを述べさせていただくなら、「無慈悲にも溶けゆく時の証拠」と動詞的に読み下した訳語表現のほうが好きです。欧文系はこのような「名詞表現」がひじょうに多く、これをそのまま日本語化するとどうしても言い方が堅くなる、つまり日本語としてこなれなくなる。もっともこのさじ加減も程度の問題ですが ]。↓
1). すべての写真はメメント・モリである。写真を撮ることは、他人の死、弱さ、移ろいやすさに参加すること。すべての写真は、瞬間を正確に切り取って凍結することで、無慈悲にも溶けゆく時の証拠となるのだ。

2). 写真はすべて死を連想させるもの[ メメント・モリ ]である。写真を撮ることは他人の( あるいは物の )死の運命、はかなさや無常に参入するということである。まさにこの瞬間を薄切りにして凍らせることによって、すべての写真は時間の容赦ない溶解を証言しているのである。
── スーザン・ソンタグ『写真論』 近藤耕人 訳、1979, p. 23.

付記:こちらの電話募金、ウチの「黒電話」でも障害なく(?)できたので、こちらの番号もひとつ前の投稿記事分とあわせて紹介しておきます[ 29 日付で受付終了ってちょっと店じまいが早すぎ ]。ちなみにお若い人は知らないかもしれないが、「黒電話」はいざというときは最強 … かもしれませんぞ。電源は電話線からとっているので、電話線さえ生きていれば物理的には使用できるため。とはいえいまの子どものなかには、ホントに黒電話の使い方を知らない子がいるようだし、これも時代の流れなのかと思ったしだい。

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2016年04月18日

いとちはやぶる …

 今年の春はいったいどうしてしまったのだろうか … まず天候がおかしい。この季節に雹が叩きつけるように降ってきておどろいた。とにかく天気が悪くて、平成に変わったばかりの3月4月ごろを思い出した( あのときも菜種梅雨で、気温も高かった )。そして、まだ東日本大震災の復興もままならないうちに、こんどは九州・熊本での一連の活断層活動による震度階5, 6, 7の大きな地震動がほぼ連日のように発生するという、地震学者でさえ今後どのように推移するかが「評価できない」、ようするに「わからない」と認めざるを得なくなるという経緯をたどっています[ 折悪しく南米エクアドル太平洋岸でも大地震が起きてしまって、あっちこっちたいへんなことになってしまっています ]。

 かつてさる風景写真家の先生が、諸外国の自然と日本の自然とを比べて、「日本の自然はやさしい」と評した人がいたけれど、そのやさしい顔した日本の自然もいざこのような事態になると、『古事記』や『古今和歌集』じゃないけど、まさに「ちはやぶる」、「荒ぶる神」という恐ろしい一面を見せつけ、われわれを翻弄する。

 被災された方にはかけることばも見つからないのだけれども、とにかく一刻も早い収束を願っています … とはいえここにきて腹立たしいのは、某週刊誌の新聞広告でして、たしか '90 年代後半にも、この週刊誌はわけのわからん記事を書いてました。そのとき静岡県民は市町役場から小冊子を渡されまして、そこには「一般論」として、「関東地震」と直下型の「小田原地震」の周期について書いてあり、記憶が正しければたしか「76 年プラスマイナス 〜 年と言われています」という書き方をしていたように思う。それをさも「切迫性を自治体みずから認めた」みたいに報じたデマ記事をでっちあげていた。

 阪神大震災以降、いわゆる「宏観現象」ものからいかにも素性の怪しいブラジルの予言者(?)だか占い師だかを登場させたりと、やたらと不安を煽る記事を掲載するのが好きのようです。いっとき福島第1原発から放出されたセシウム関連で放射能ものの記事も量産していたのもたしかこの週刊誌だったような。デマといえば富士山関連も多くて、たとえば真冬に地肌が露わになっていると、どこかの TV ワイドショーだかが「噴気」とくっつけて危ないんじゃないかって報じたりする。こういうのもなんとかならんかっていつも思う。ワタシはたまたま地学も好きで、その気もないのに伊豆半島ジオガイド検定なんてのも受けたりした一介のディレッタントながら、真冬の富士山の雪化粧のあるなしは噴火とか地熱とかぜんぜん関係ありません。前にも書いたことをもう一度書くと、富士山の積雪がもっとも多くなるのはちょうどいまごろです。春山の高山地帯ってどこも積雪がすごいでしょ。噴気は、そりゃ活火山だものすこしくらいは上がるでしょう。箱根山の大涌谷なんかいつもそうだし( でも昨年の騒動はすこしおどろいたが )。登山者の証言として、戦後間もないころの富士山は、登ると足の裏が熱くなったっていうのもあるくらいで、いまはその当時に比べれば冷えているらしい。冷えていると言っても油断は禁物で、5年前の 3 月 15 日夜、富士山南西山腹直下を震源とする最大震度6強のあの地震は、噴火するかもしれないぞとすごくピリピリしていたのを思い出す。そしてその富士山ですが、最近、こういうのができまして、ワタシも参考までにクリッピングしてあります( ちなみに富士山山頂火口が最後に噴火したのは約 2,200 年前と言われており、その後の貞観噴火や宝永噴火などを含めた一連の記録に残る噴火は、すべて「山体の割れ目火口」型による。割れ目の走向はほぼ南東−北西ラインで宝永の3つの火口もこのライン上に口を開けている )。

 また静岡県東部地域に住む者として気がかりなのは、ここもいつ動いてもおかしくない活断層帯に囲まれていることです … 有名なところでは 1930 年、工事中の丹那トンネルをずらした(!)「北伊豆地震[M 7.3 ]」を起こした「丹那断層[ 国指定天然記念物、いまは「北伊豆断層帯」って言うそうです ]」があるけど、個人的にもっとも警戒するのは富士川河口断層帯といわゆる「東海地震( 駿河湾トラフ )」の同時発生。あと活断層ではほかに「中央構造線」の突っ切る県西部の「青崩峠」というところもあります。山梨リニアのくそ長いトンネルってたしか … 構造線だったか「糸魚川−静岡構造線」だったか、たしか丹那トンネルよろしく突っ切るルートだったような気がしたけど … 。

 最後にすこしはお役に立てそうなリンクをここにも貼っておきます[ たまたま Ottava 聴いてたら、なんでも本日がレスピーギの誕生日だそうで、この人の管弦楽編曲した BWV. 659 のクリップも貼っておきます。バッハの美しい音楽で、すこしでも気持ちが和らぎますように ]。

1). 日本赤十字社「平成 28 年熊本地震災害義援金
注記:日赤宛て義援金は、「窓口」で振替の場合、手数料はかかりません。不肖ワタシが郵便局窓口でささやかながら払い込もうとしたところ、窓口のお姉さんに「手数料 103 円がかかります」なんてやられた。ムっとしたが、細かいのがなかったから千円札1枚よけいに渡したら、「手数料かからなかったので、これはお返しします」… こういう周知、きちんとしてくれませんかねぇ。航空便だって、こっちが「小形包装物で」と断らないと平然と高くつく通常航空郵便扱いにされちゃったりすることもあるし( ただし「小形包装物」は信書以外のもの限定、宛先国の税関に申告するための緑の紙に内容物と重量、価格、署名を記入する必要がある )。

2). 熊本地震速報】災害・募金寄付・ボランティア情報まとめ



posted by Curragh at 02:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々の雑感など

2016年04月10日

「復活祭蜂起 100 周年」

 本家サイト顧問 Breandán Ó Cíobháin 博士からひさしぶりに届いた便りを中心に書いてみたいと思います。

 博士はいま、「ヴェントリー歴史協会」という団体の常任幹事をしておりまして、こんどの週末開催予定の「復活祭蜂起 100 周年記念式典」の準備におおわらわなんだそうです。近年、博士はご高齢のためか[ 不肖ワタシもここ最近、あちこちにガタがきていることを自覚してます … ]、いろいろと医者通いが多くなり、難読固有名詞を含む現地語発音に関するワタシの質問になかなか答えられずに申し訳ない … といわゆる「季節のご挨拶」のころにそんなふうに返してきてくれます( なのでこちらのページがいまだ未完成で、訪問される方にはまことに申し訳ないんですが、事情をご勘案ください )。

 で、そんな博士から先日、今年のイースターメッセージをいただきまして、添付ファイルがいろいろくっついてます。? と思って見てみると、今年はアイルランド国民にとって歴史の転換点となった一大事件である「復活祭蜂起」からちょうど 100 年。「復活祭蜂起」はイースター明けの 1916 年 4 月 26 日月曜日、首都ダブリン市中心部にある中央郵便局( GPO )をパトリック・ピアス[ 現地語ではポードリー・ピアス Pádraig Pearse ]ら 15 名を含むアイルランド人男女約千人が占拠し、「アイルランド暫定共和国樹立宣言」を読み上げた。折しも第1次大戦のさなかだったが大英帝国はすぐに重装備の正規軍を派遣、この英国軍相手に反乱は1週間つづき、ピアスら首謀者 15 名が処刑されたという一連の反乱のことです。当初、アイルランド国民の多くは彼らの性急な行動を非難する声さえあげたものの、さっさと幕引きしたい英国側が首謀者たちをろくに裁判にもかけずに次々と処刑したため世論は一変、その後の英愛戦争開戦へとつながった。ある本の言い方を借用すれば、「反乱指導者たちは、望みどおり自分の生命を犠牲にすることによって、過去 700 年におよぶ英国のアイルランド支配を終わらせることを確実にした」。

 添付文書の内容は、その「復活祭蜂起」の中心的役回りだった3人と、アイルランドの西の果てディングル半島のちっぽけな漁村ヴェントリー[ 現地語表記 Ceann Trá、もとは Fionntrá で英語化された際に転訛したもの、意味は fair strand、「美浜」ってとこかな ]と「意外な」関係があった、というもの。こんどの週末に開かれる記念式典では Ó Cíobháin 博士も ' FIONNTRÁ 1840 − 1920' という演題で講演するようです。

 以下、Ó Cíobháin 博士の了承も得て記念式典文書を拙訳にて全訳したものを紹介しておきます。なおアイルランドゲール語[ 綴りはすべてケリー方言 ]と英語のふたつの言語で書かれてますが( こういうのを「自己翻訳」と言うのかどうか )、必要に応じて「 Google 翻訳」なんかの力も借りて[ 前にも書いたが、印欧語族どうしの翻訳精度はけっこう高い ]、いちおう博士にとっての「ほんらいの母国語」であるアイリッシュゲールで書かれた文書も参照しています。おなじ書き手であっても、やはり若干の異同があり、拙訳にもそのへんをすこし反映させていただきました( アイルランドのことわざなど )。また「フィアナ( フィン )物語群」のひとつ「ヴェントリーの戦い[ フィントラーグの戦い ]」については、しんがりに付記してあります。




CUMANN STAIRE FIONNTRÁ / Ventry Historical Society
COMÓRADH 1916 Commemoration
‘Lia os a leacht’

ヴェントリー歴史協会
1916 年「復活祭蜂起」100 周年記念式典に寄せて


「彼らの墓に石碑を建て」

 ヴェントリーの名を世紀を越えて世に知らしめている唯一の称号が、『フィントラーグの戦い Cath Fionntrá 』の舞台がここだった、ということだ。フィアナ騎士団と英雄カイルテ・マク・ローナーンが「世界王」からアイルランドを守ったことを語る『フィントラーグの戦い』は 19 世紀以降、英語に訳されてひろく一般に知られるようになった数少ない「フィアナ物語群」のひとつであり、おなじ19世紀にアイルランド独立を目指して組織された急進派「フィニアン団」の名前もこの有名な伝説から採られたと言われている。

 19 世紀中葉、ヴェントリー村がいわゆる「スープキャンペーン」と呼ばれる英国教会[ アングリカン ]への改宗運動の本拠地に選ばれると、アイルランドとイングランド国民の関心はこの寒村に集まった。教員養成大学や教会、小学校、そして移住者用「コロニー」まで新設された。ただし、このころ当地のイリアンパイプス奏者トマース・オ・キネージェからアイルランド語歌謡を採譜したのは、じつは地元のアイルランド教会[ 英国教会派 ]聖職者シェイマス・グッドマン師である。この有名なグッドマン歌謡集に収められている 1,100 余りのアイルランド語歌謡のうち、4分の3 ほどがキネージェから採譜されたものだ。このアイルランド語歌謡集は現在、ダブリン大学トリニティカレッジ[ TCD ]にある。グッドマン師は 1879 − 96 年の 17 年間、TCD 教授でもあった。

 20 世紀初頭にヴェントリー村の将来を決定づけたのは観光と、文芸およびアイルランド語復興運動の興隆だった。村には2棟のゲストハウスが新築され、国内のみならず欧州大陸や英国からの観光客をもてなした。そのうちの1棟「眺海荘 Sea View 」の逗留客には、1904 年に( TCD およびダブリン高等研究所アイルランド語学教授だった )トマス・F・オライリー、TCDでグッドマンに師事した劇作家のJ・M・シング( 婚約者だったモリー・オルグッド嬢宛て書簡をここで書いている )、1907 年にはおなじくアイルランド語学者ショーセフ・ロイド[ ジョーゼフ・H・ロイド、アイルランド全土の郵便本局所在地およびダブリン市内の街路名のアイルランド語表記名をはじめて発表した ]、そして 1909 年にはアイルランド語学者でゲール語連盟にも参加していたイヴリーン・ニコルズ( 当時 24 歳、滞在最終日にブラスケット諸島沖で溺死 )がこのゲストハウスに滞在した。ニコルズ嬢の事故死後、「アイルランド婦人参政権連盟」代表を公然と名乗ったメソジスト教会員グレタ[ マーガレット・エリザベス ]・カズンズもここに宿泊している( カズンズ女史はハンナ・シーヒー−スケフィントン女史とともに同連盟の共同設立者 )。

 上述した滞在客のひとり T・F・オライリーは従兄弟のマイケル・J・オライリーの関心を惹いたようで、1912 年、マイケル・オライリーはヴェントリーに別荘を建てている。もっとも彼の場合は、ダブリンでアイルランド語を手ほどきしたヴェントリー出身のショーン・アン・ホータ氏の影響かもしれない。マイケル・オライリーが別荘を建てたのは、自分の家族にもアイルランド語の会話に浸れる環境を与えるためだった。1913 年、同様の目的で近所に居を移してきたのが、デズモンド・フィッツジェラルドアーネスト・ブライズのふたりだ。フィッツジェラルドはヴェントリーの沿岸警備隊詰所を間借りし、ブライズのほうは近くの農場で働こうとしたが、けっきょくリスポール村の海沿いの教区キナードへの転居を余儀なくされた。

 伝説の戦いの場と宗教上の鋭い対立という接点があるとはいえ、よもやこの長閑なヴェントリーに、一帝国の解体を画策する国民運動において傑出した個人を複数名見出すことになるとは思わないだろう。オライリーは「アイルランド義勇軍」創設者のひとりであり、彼とフィッツジェラルド、ブライズら3名はヴェントリーで義勇軍の組織と訓練に当たった。ダブリンから仕入れた情報を持ってオライリーが定期的に訪れると、決まって夜を徹しての長い討議に入った。彼らは 1915 年、「英国土防衛法」により摘発されてケリー州から追放された。その後オライリーは 1916 年の「復活祭蜂起」のさなかにダブリン中央郵便局内で戦死、フィッツジェラルドは逃亡した。残るブライズはアイルランド全土の義勇兵募集のかどで国外退去処分を言い渡されて、当時刑務所として使用されていた英オックスフォード城に収監され、彼らの蜂起をそこで知ることになる。このふたりは 1921 年樹立のアイルランド自由国政府閣僚となったが、フィッツジェラルドはその後米国へ渡り、インディアナ州ノートルダム大学哲学科客員講師となった。

 復活祭蜂起の舞台となったダブリン市以外でこれほどの革命の大物が見い出されるのは、1912 − 14 年のゲールタハト地区ヴェントリーくらいのものだろうが、「蜂起」100 周年の今年、心に留めていただきたいのは、記念式典の主目的として「和解」を掲げているということである。オライリーはケリー州北部、バリロングフォードの裕福な「英国教会派」の家庭で育てられた。彼は米国人実業家を父に持つナンシー・ブラウン嬢と結婚し、新婚旅行の際は「グランドツアー」として欧州各地で数か月を過ごした。驚くことに彼もまた父と同じく「治安判事」として1903−07年の「官報」にその名が挙げられているが、それとは裏腹に、彼の愛国主義は明白になっていた。妻ナンシーもアイルランド語を学び、その後「アイルランド婦人義勇軍 Cumann na mBan 」副総裁となる。ダブリン市のマウントジョイ刑務所の収監者への面会を断られると、刑務所前でハンガーストライキを行ったこともある。

  フィッツジェラルドはロンドン生まれだが、父はコーク州、母はケリー州の出身。ロンドン市内の詩人グループと交流したのち渡仏し、当時の習わしだったミューズ探しに旅立つ。彼の妻メイブル・マコーネルは、ベルファスト市で商売に従事する長老派家庭の出身である。マコーネルはクィーンズ大学ベルファスト卒業後、ロンドン大学大学院に進み、ゲール語連盟に参加した。彼女は一時期、G・バーナード・ショーやジョージ・ムーアの秘書を務めており、米国人詩人エズラ・パウンドとも知り合った。のちにアイルランド婦人義勇軍書記となった彼女はアイルランド内戦時、夫とは異なり共和国側についた。

 南アントリム州のアイルランド教会派農家出身のブライズは 1909 年、ダブリンから帰郷してバンゴール市の新聞社「北部ユニオニスト」紙記者となる。ダブリン時代に彼は劇作家ショーン・オケイシーの影響で IRB とゲール語連盟に加わった。自由国政府の財務大臣時代、彼は政府からアベイ座[ アイルランド国立劇場 ]への補助金を獲得した。のちに彼はアベイ座運営責任者、その後館長に就任し、長くその座にあった。

 19 世紀アイルランドにおいて、かくも多様なバックグラウンドを擁する綺羅星のごとき個人が政治的、文化的革命家として一堂に会した場所がこのような寒村だったことは、1916 年復活祭蜂起記念式典をあらゆる角度から祝うことを望む者にとって、これは注目に値する。彼らの動機とその後の運命には、真に文化的価値あるものの保全と、アイルランド国民間の真の宥和促進を願う人すべてにとってひとつの行動規範が示されている。「人々は出会うが、山々は出会うことがない」。彼らの功績は永く記憶されるべきものなのだ! 

 『ヴェントリーの戦い』はフィアナ騎士団のひとりキールと、彼とともに滅ぶ運命にある動物たちの死で終わっている。彼の亡骸は妻クリーと騎士団によって南の海岸、こんにちもキールにちなむ地名で呼ばれる浜から運び出された。クリーは「吼える入江 Géiseann Cuan 」という美しい詩を朗唱すると、キールに寄り添い、悲嘆のうちに事切れた。すぐにふたりはおなじ墓所に葬られた。「そして、彼らの墓に石碑を建てたのがこのわたしだった」とカイルテは言った。「『キールとクリーの墓』として知られるように」。

© Dr Breandán Ó Cíobháin & Curragh( webmaster of The Voyage of Saint Brendan the Abbot )

「ヴェントリー歴史協会」: 2009 年 4 月 8 日設立。協会設立趣旨:ヴェントリー地区の歴史と文化を調査研究し、その結果を複数メディアを通じて普及すること、考古学的遺構と出土品の保全、ならびにヴェントリーの現住民と遠隔地で暮らす出身者が共有する歴史および独自性を再認識する記念イベントを開催すること。




付記『ヴェントリーの戦い』について:『ヴェントリーの戦い Cath Fionntrá 』は、参照先記事にもあるように、フィアナ騎士団長フィン・マク・クウィル( フィン・マク・ヴォルとも )、一般的にはフィン・マクール[ ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』にも象徴的に出てきますね ]として知られている古代アイルランドの英雄のひとりが活躍する一連の物語サイクル「フィアナ物語群」に含まれる最古の挿話のひとつ。12、3 世紀ごろ編纂されたと言われる『古老たちの語らい Acallam na Senórach 』にすでに収録されている[「フィアナ物語群」の舞台はおもに東部レンスターと南部マンスター地方で、女王メイヴやクー・フリンなどが登場する「アルスター物語群」とは対照的。これにはもちろん当時のアイルランドの政治状況が反映されている ]。あらすじは、「世界王 Dáire / Dáiri Donn 」を名乗る侵入者が、自分の妻と娘と出奔した( !! )首領フィンに報復するという口実で大船団を率いてディングル半島ヴェントリーの美しい浜に押し寄せた。フィンと息子オシーン、フィンの甥カイルテ・マク・ローナーンとフィアナ騎士団はトゥアタ・デ・ダナーン[ ダーナ神族 ]の支援も取りつけからくも侵入者を撃破、だがその代償として夥しい戦死者を出した。そのなかのひとりキールの亡骸を探す彼の妻クリーは、ヴェントリー湾南の浜でようやく亡き夫を発見した。夫は敵の上陸阻止には成功したものの、溺死してしまった。クリーは悲嘆に暮れて「吼える入江 Géiseann Cuan 」を切々と歌いあげると、その場に事切れた。ふたりの亡骸はカイルテによっておなじ墓所に手厚く葬られた。

 なおこの挿話についてはこちらの書籍がたいへん参考になりました。なんと聖ブレンダンのことまで書いてある !! というわけで、こちらの本ものちほど本家サイト「参考文献」リストに追加します。

本文とまったく関係ない追記:この前、いつものように「古楽の楽しみ / リクエスト・ア・ラ・カルト」を聴いていたら、な、なんと、あの松川梨香さんがこの日かぎりで番組降板 !!! 週末の朝のひととき、あの春の薫風のごときさわやかなリスナーからのお便り紹介と楽曲紹介にひそかに癒やされていた身としては( て、はさすがにもう古いか )文字どおり寝耳に水だったので、ちょっとがっかり。いえいえ、後任の大塚直哉先生がイヤだ、なんて言う気はさらさらないですよ !! 大塚先生は、一度だけ、 静岡音楽館 AOI にてオルガンの実演に接したことがあるし、先生の「CLAVIS 〜 鍵」はお気に入りの 1 枚でもある。

2016年03月21日

「花に隠れた大砲」⇒ ブルックナー ⇒ エーコ語録

1). 先日見たこちらの番組。ショパンの「マズルカ」を叩き台に、このポーランド土着のダンス音楽の旋律にこめられた作曲者の想いに迫るといった内容でした。作曲者の想いに迫る、というのは、ようするにその楽曲を「解釈」することにほかならない。

 指南役マクレガー教授によれば、とくにこの「マズルカ」には故国を思うショパンの心情が表出していると言います。その傍証として挙げているのが同時代のリスト、シューマン(「諸君、脱帽せよ、天才が現れた」はよく知られた賛辞 )らのショパン評で、とくにシューマンはショパンの一連のピアノ独奏作品をして「花に隠れた大砲」だと言っているとか。一見、華やかで優美な舞踏音楽みたいに聴こえる彼の音楽には、祖国に対するつよい政治的メッセージが隠れているのだという。

 またマクレガー先生がその一例として実演した後期の傑作「マズルカ イ短調 17−4 」では、中途半端な感じの出だし、大胆な半音階的跳躍に「こたえを求めて彷徨いつづける」ような旋律線、そしていわゆる音楽上の「解決」もせず唐突に幕引きする終結部の革新性などに触れて、「このような音楽はほかに例がない」とも( もっとも「彷徨いつづける音型」というのはかなーり古い時代からあって、直接的には比較の対象にはならないものの、グレゴリオ聖歌の歌い方のひとつ Tonus Peregrinus というのがあったりします。またマクレガー先生はマズルカ作品の一節を弾いて、ショパンにおける対位法の扱いの例も実演していた )。

 「こたえを求めて彷徨いつづける」ということについては、数年前に NHK「あさイチ」にゲスト出演して「献呈」とかを演奏してくれた若き俊英、牛田智大さんのコメントともダブっていた。当時、まだ 13 歳だった牛田さんはリストとショパンが大好きだと言ったうえで、ふたりの音楽のちがいをこんなふうに説明していた。「リストは、とにかく『解決するぞッ!』って感じで音楽が進んで最後は解決するんですけど、ショパンのほうは最初は解決するぞッ! と思ってるんですけど最後のほうになると、ま、いいか! って開き直っちゃう感じなんです」。言い方はいかにも少年らしくて微笑ましいが、そのじつ直観的にショパン作品の本質を突いていたんじゃないかっていまになって思ったりします。そういえば牛田さんだったかだれかほかの演奏家だったか忘れたが、リストは弾きやすいがショパンはむずかしいということをおっしゃっていたピアニストがいた。

 マクレガー先生のおっしゃるように、ショパンはパリに亡命してきた身ゆえがちがちの古典派の枠からはみ出していて、だからこそ当時の聴衆の耳にも斬新な音楽作りができたように思います。バッハについても以前、似たようなことむ書いたような気がするが、たいてい芸術分野の革新というのは「中心」から来るのではなくて、「周縁」からもたらされる場合がひじょうに多い。マズルカ、ポロネーズなんかもそうですね。もしショパンが出現しなかったら、もしシューマンによって絶賛されていなかったら … 西洋音楽、ことにピアノ音楽の歴史が変わっていたかもしれない。

 蛇足ながらバッハも「ポロネーズ」を書いてはいるけれども、当時流行った宮廷舞踏音楽のひとつに過ぎなかったものでショパン作品とは区別して考えないといけない。強いてバッハとショパンの共通点を上げれば、ともに即興演奏の名手だった、ということか。一連の「マズルカ」も「音楽の捧げもの」と同様、ショパンの即興演奏の妙技を記録したという側面はあるでしょう[「24 の前奏曲」はバッハの「平均律」から着想を得ていると言われている ]。マクレガー先生によると、ショパン自身、「半音階のはしご」ということばを残しているんだそうな。そしてバッハと同様、後世の音楽家に多大な影響を与えてもいる、として、ヴァーグナーの「トリスタンとイゾルデ」3幕3場の出だしとグラズノフの「交響曲 第3番」を挙げている! あの「トリスタン進行」も、もとをたどればショパンの「半音階のはしご」だったのか !! そういえば昨夜の「クラシック音楽館」は、そのショパン国際ピアノコンクール入賞者によるガラコンサートの模様を放映してましたね。チョ・ソンジンさんの「英雄ポロネーズ」、むむむこれは … 作曲者が聴いたらニッコリするのではないかという、とてつもないアンコールピースでした。さすが天才肌なのかな、若さより解釈の深さが感じられる名演だったように思う。

2). 手許にあるこちらの文庫本。以前ここでもちょこっと紹介したけど、その中で岩城さんはブルックナーの交響曲作品について、「なぜこうゲネラル・パウゼ、つまり総休止が多いのだろう」と疑問に思っていたそうです。で、あるとき、かつてブルックナー自身も棒を振っていた楽友協会大ホールでブルックナーの交響曲を振ったとき、「はじめてその意味が」わかったのだと言います。
猛烈なフォルティッシモのあと、その響きがたいへん効果的に残り、それがグルグルと会場の中を回るようにホールの天井に登って行き、上の窓から外へスッと出て行ってしまうのを見たように思いました。……
… つまり、音が突然止まって、響きが残り、やがて消えていくのを追う喜びを、一生の間このホールをホームグラウンドにしていたブルックナーは曲に必要な部分として、ちゃんと構想に入れて作曲したのです( pp. 214 − 5)。
 で、たとえば『ブルックナー / マーラー事典』なんかを見ますと、終生、ザンクトフローリアンのオルガン奏者でもあったブルックナーらしく、オルガン音楽の影響として論じていたりします。
… ゲネラルパウゼ。これも初期の作品に多く見出される様式上の特徴である。…… 教会でオルガン音楽などを聴く場合に、残響の効果に絶大なものがあることは周知の事実であり、総休止にしても、そこには響きの要素が皆無となるわけではない。ブルックナーはそうした効果を日常的に感じ、それが交響曲の中にも反映したと考えることができよう( p. 27 )。
 だからと言って岩城さんの解釈がまちがっている、というわけではない。おそらく楽友協会大ホールという理想的な音響空間で長らく仕事をしてきたという体験も影響していると思うから、こちらも実体験にもとづいた楽曲の解釈の一例、と言うことができると思います。もっともオルガン好きとしては、たとえば「2番」とか「8番」なんかは、曲作りの発想法はオルガン音楽がベースになっているような気はしてますが。「8番」も「クラシック音楽館」でスクロヴァチェフスキ指揮、読売日本交響楽団によるすばらしい演奏も視聴できて、こちらもよかったです。

3). 先月 16 日に 84 歳で逝去された記号論学者にして小説家としても高名なウンベルト・エーコ氏。いまちょうどこういう対談ものを読んでいたので、最後にこちらからもすこしばかり引いておきます。
[ 知る、ということはほんとうに大切なことかと脚本家ジャン−クロード・カリエールの質問を受けて ]最大多数の人間が過去を知るべきかというご質問でしたら、答えは「はい」です。過去を知ることはあらゆる文明の基礎です。樫の木の下で、夜、部族の物語を語る老人こそが、部族と過去とをつなぎ、古( いにしえ )の知恵を伝えるんです。我々人類は、アメリカ人みたいに、三百年前に何が起こったかなんてもうどうでもいい、自分たちにとっては何の重要性も持たない、と考えたい衝動に駆られるかもしれません。ブッシュ大統領は、アフガン戦争に関する本を読んでいなかったので、イギリス人の経験から教訓を引き出すことができなかった、だから自国の軍隊を前線に送ったんです。ヒトラーがナポレオンのロシア遠征のことを研究していたら、ロシアに侵攻しようなんて馬鹿な考えは起こさなかったでしょう。冬が来る前にモスクワにたどり着けるほど夏という季節は長くないということがわかったはずです( pp. 418 − 9 )。

 … 本日はバッハの 331 回目の誕生日でしたが、先日地元紙見たら、音楽評論家の渡辺和彦氏が「レーガー、グラナドス没後 100 年、ヒナステラ、デュティユー生誕 100 年」という記事を寄稿していた。ヴァルヒャは毛嫌いしていたけど、そうか今年はマックス・レーガーの記念イヤーだったんだ。少年合唱好きにとっては、「マリアの子守歌」なんかがけっこう知られているとは思うが、オルガン音楽好きでないと、レーガーの名前さえ聞いたことない音楽ファンもけっこう多そうな気がする。


posted by Curragh at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽関連