2025年05月29日

海外メディアによるインタビュー記事から

 たまたま、モーティス/若葉睦の画像が大きく掲載された海外記事を見かけた。米ジョージア州の州都アトランタに拠点を置く Paste という芸能関係の Web メディアのようでして、せっかくの機会だからと引用の範囲を超えないていどに抄訳としてここでも少し紹介しておきます。インタビューに答えているのは Ave Mujica バンドプロデューサー/音楽ディレクターの松本拓輝氏。
──ムジカは前作のマイゴよりはるかに暗い作風です。音楽面ではその変化をどのように取り込んだのでしょうか? 
M:… 光は闇があるから、闇は光があるから存在しますし、誰しも内面に暗い面を抱えています。だから『Ave Mujica』の音楽は楽しく聴かせたい、あまり重々しくならずに、という気持ちがあります

──アニメムジカは舞台、ゴシック的美学、ヘッセ『デミアン』まで取り込んでいますが、音楽に関しては何か特定のバンドの影響は受けていますか? 
M:制作中に参考にした楽曲やバンドはもちろんあります。個人的にはシンフォニックメタル、メロスピ、メタルコアなどから影響を受けています。図らずも自分自身の嗜好とムジカのテーマが一致した点は幸運だったと思います

──バンドとしてのムジカは、マイゴが終わった段階で自然に出てきた着想なのでしょうか? それとももっと早い段階でバンドリ! シリーズの次期作のバンドはもっとメタル色を前面に押し出すと決まっていたのでしょうか? 
M:マイゴとムジカは当初から、正反対のバンドとして構想されたものです。物語が進むにつれて、マイゴはパンク調、ムジカはメタルを核とするバンドにする流れへ自然に落ち着きました。シリーズ全体で見ても、パンクとメタルロックのバンドはなかったので、差別化に一役買っています

──脚本が先でそのあとに音楽が作られたのか、音楽が先だったのでしょうか? それとも同時進行だったのでしょうか? 
M:脚本が先です。挿入歌は物語に合わせて作られています。脚本の一部が未完成で、楽曲のほうが先になる場合もありましたが、楽曲は基本的にできあがった脚本に合わせて作られています

──バンドリ! シリーズでいつも感心させられるのは、現実のバンドメンバーが、ゲームやアニメのキャラクターの声優でもある点です。この2つをこなせる才媛を、ブシロードはどうやって見つけ出しているのですか? 
M:じつは『バンドリ!』シリーズの声優には初めは楽器ができなかった人、反対に、ミュージシャンだけど声の演技は初めて、という人が何人かいます。なので楽器も声の演技もできる人をとくに集めたわけではないんです。
 …… ついでに、「人はだれかを守ろうとするほど自分自身を守れなくなる。自らを投げ出し、“消えてもいい”とすら思うだろう。それが“愛する”という感情だ」という引用を紹介した考察動画クリップを見かけた。対訳になっていたから念のためウラをとってみたら、フロイトの『文明にひそむ不満』(1930)なる著作の引用らしい。しかし英訳(?)されたとおぼしき原文を見ると「超訳」っぽい気もする。高校生でもわかる平易な文なので訳は不要なくらいだけれども、いちおう普通に訳せば ──
We are never so vulnerable as when we love, and never so hopelessly unhappy as when we lose the object of our love.
人がもっとも無力感をおぼえるのは誰かを愛するときであり、絶望的なまでの不幸を味わわされるのは、そうした愛を注ぐ対象を失ったときである
くらいでしょう。対訳文だと、逆に英訳すればそれは“The more you try to protect someone else, the less you can protect yourself. You will give yourself up and even think ❛it'd be all right if it lets you disappear.❜ ; that is the emotion of ❛love❜." あたりになると思う。

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2025年05月18日

"I wish you had told this to Mutsumi-chan."

 アニメムジカ(BanGDream! Ave Mujica)の第 10 話「Odi et amo.」(憎み、かつ愛す)。自身の言動がことごとく強烈なブーメランとなって返り討ちされ、それを受け止める覚悟を決めた豊川祥子(とがわ・さきこ)が幼馴染の若葉睦の自宅を訪問する。そこではベース担当の八幡海鈴(やはた・うみり)が、自室の寝台で休んでいる睦(それまでの主人格ムツミ❶と、主人格の幼少時からのイマジナリーフレンドで、ムジカ解散の危機にムツミ❶が破壊されそうになったとき、交代人格となって肉体を乗っ取った「モーティス」が、主人格の象徴と言えるシェクター7弦ギターを奪い合ったすえ、主人格を無意識の奈落の底へ転落させてしまったあとの話なので、この時点ではモーティスとして生きている)を見守っていた。そして寝ているモーティスに対し、祥子は鋭く、冷徹に言い放つ。
ムツミ。あなたにはギターを弾く真似をしていただきますわ、ムツミ。……ただ、一度のズレも許しません。できますわね? あなたなら ……
 もちろん祥子は、いま目の前で寝ているのが幼馴染の睦その人ではなく、交代人格にすぎないことをわかったうえでこう宣告している。

 再結成したメタルバンド Ave Mujica は、復活公演をホームグラウンド的なライヴハウスの RiNG で開催する。これまでの大規模会場とは異なりちんまりした会場で予算も限られ、セットも必要最低限。初華が作詞した激重(!)のリリックをハ長調の美しいバラード調に仕上げたリーダーの祥子。そんな祥子に、初華は楽屋の控室でお礼を言う。いっぽう睦/モーティスはひとり、照明テストでどす黒い赤(!!)一色となったステージ上でギターの当てフリを練習していた。そこへ近づいてきたのがドラムスの祐天寺にゃむ。にゃむはモーティスに向かってこう言う。
…… ホントに消えちゃったんだぁ、ムーコ。この先ずっと若葉睦を演じるつもり? …… あんたの演技見てると、アタシって何、ってなる。ずるいよ …… ずるくて、うらやましくて …… 愛してる
 そうささやいたにゃむは、演劇の科白の練習を始める。思いがけない告白を受けたモーティスは不意に何かに気がついたような顔つきとなり、練習するにゃむを振り返り、そしてギター(=主人格)に視線を落として、こうひとりごちる。
──ムツミちゃんに、言ってほしかったな ……
 ワタシは当初、「いまのことばをモーティスがムツミに言ってほしかった」という意味にとっていたが、公式さんの英訳字幕を見て取り違えていたことに気づいた。…… 科白じたいがあいまい・両義的言い回しで、あえてそう言わせたのかもしれないが、この科白の正しい解釈は「それはわたしではなく、ムツミちゃんに言ってほしかった」だった。
──I wish you had told this to Mutsumi-chan.
 モーティスは、精神世界の舞台セットから主人格が転落したのは「わたしのせいじゃないもん! 勝手に落ちたんだもん!」とムジカメンバーの前で思わず叫んだように、守るべきはずのムツミ❶をギターもろとも意識下の奈落へと落としてしまったことに強い衝撃を受けていた。「わたしの役とらないでッ!」という歪んだ声※とともに、睦に似た巨大な影がセット背後の大窓に立ち上がる。「ムツミちゃんがいなければ、わたしがその役をやればいいんだ …… わたしが、若葉睦を ……」。しかし悲壮な決意とは裏腹に、ムツミの仮面は早々に剥がれ落ちた。常識人で、演技の勉強に打ち込んできたにゃむ(と、そのうしろで見ていた要楽奈)の目はたちどころにこの三文芝居を見抜き、ビジネスライクな交渉に来たはずがいっきに興ざめしたのか、「なにソレ …… きんも!」と吐き捨てる。ようするにモーティスは祥子訪問時にはすっかり弱っていたので、寝込んでいたんだと思う。

 そこへもってきて、ムツミ相手に言ってほしかったことをまたしても自分に言われてしまった(海鈴宅での当てフリ練習を終えて電車に乗っていたときも、「あれ! ヤッバ〜、睦ちゃんだ!」「ギター持ってる」と興奮気味に話す女生徒らの声を聞いたモーティスは、「…… 違うもん」とつぶやく)。けっきょく、にゃむの「愛してる」告白と、ステージ上で「Imprisoned XII」の演奏が始まり、初華の歌うリリックが心に文字どおり突き刺さったのだろう。足許にぽっかりと口を開けた奈落へ吸い込まれるようにして自ら身投げして(Cf. ムジカメンバーとしてのモーティスの決めゼリフは「われ、死を恐れることなかれ」)、先に落ち、いまや消えかかっているそれまでの主人格とギターが深い深い「無意識の海」の中で漂っているのを見つける。

 電車のシーンはこのひとつ前のエピソード(「Ne vivam si abis.」、「あなたが去るなら、わたしは生きられない」)の話で、主人格の転落はその後半(Bパート)に起こる。転落する直前がまたゾっとさせられるカットで、なんと主人格が、倒れているモーティスの首をぐいぐい締め付けているのだ(!!!)。でもいまや対立する相手はなく、求められているのはそのいなくなった相手のムツミのほう。ふたりのあいだにはもはや対立する理由もなく、モーティスは消えつつある主人格をしっかと抱きしめ、「愛してる」と言わんばかりに涙を散らして、ふたりとも消滅する …… 。

 …… その刹那、当てフリだったはずの睦の指はしっかりとギターを爪弾いていた。ベースの海鈴がいち早くそれに気づき、にゃむは、ドラムセットを叩きながらなぜかうつむく。そして大多数の睦ファンにとってそれは、かんたんには答えの出ないモーむつ問題というミノタウロスの迷宮の始まりだった(と、思う) …… ここで、モーむつファンのひとりとしてひとこと言わせてもらえれば ──「誰かムツミちゃんをほんとうのお医者さんに診せてあげて!!」

※ 「歪んだ声」は、おそらく元ネタのひとつっぽい『サスペリア』(1977)に登場する「闇の女王」こと、魔女ヘレナ・マルコスの殺害場面をも想起させる。また「モーティスにギターの当てフリを要求しに来た祥子」「無意識の水の中を落ちてゆくモーティス」、「にゃむから『愛してる』と告白されるモーティス」などの場面で流れるオルゴールのような劇伴も、個人的には「サスペリアのテーマ」を奏でるチェレスタの旋律を思い起こさせる。

追記:第9話のラストで、ライヴハウス RiNG のカフェラウンジに集まったムジカメンバーと、かつて結成した学生バンドの CRYCHIC(クライシック)復活の相談に来ていた祥子とが、モーティスの処遇をめぐって鋭く対立する場面があるが、そこで繰り出されるのが、従来のバンドリ!シリーズを知っている人なら仰天しそうな、およそバンドストーリーらしからぬことばの応酬となる。
祥子:モーティス …… あなたの願いは、睦を苦しめることですわ! 
海鈴:どういうことですか? 
祥子:モーティスは、苦しむ睦を助けるために生まれた。だから、睦が苦しみ続けることになる Ave Mujica の復活を望んでいるのです。自分が消えないために …… わたくしは、睦を苦しめる選択などぜったいにしない。幸せにしなくては ……
海鈴:幸せである必要はあるんですか? 満たされたら、終わりじゃないですか! Ave Mujica をすれば、モーティスさんは生きられる。2人とも生き続けられる …… 生きていないと、幸せにだってなれないんですよ! 
祥子:それでも、わたくしに Ave Mujica は選べませんわ ……
(ここでモーティスの精神世界の舞台へカットバック。存在理由を失いつつあるモーティスの立っている舞台セットが崩れはじめる ── ここのシーンも、魔女殺しを終えたアメリカ娘のスージーが「赤い館」から脱出する『サスペリア』のラストと重なる。魔女という「蛇の胴体」でもある「赤い館」は頭を失い、崩壊しはじめる ── わたしの役とらないでッ!!」)
海鈴:豊川さんはモーティスさんを見殺しにするんですかッ! 
祥子:覚悟のうえですわ! 
 教養小説的にはトーマス・マンの『魔の山』あたりを連想するけれども、日本にも超絶スゴい大作がある。埴谷雄高(はにや・ゆたか)の『死霊』(「しれい」と読む)だ。バンドアニメでまさか生き死にをめぐる論争が出てくるとは想像すらしていなかった。おかげで考察がはかどる(微苦笑)。

posted by Curragh at 20:45| Comment(0) | TrackBack(0) | BanGDream! Ave Mujica

2025年05月09日

AI 翻訳機の限界(?)

A. 有名なエジプト考古学者ザヒ・ハワスによって書かれたツタンカーメンの生涯を描いたオペラが、11 月5日にルクソールで初演される。ツタンカーメン王の墓の発見 100 周年を記念して、このオペラはハトシェプスト神殿の前で5日間上演される

B. 著名なエジプト考古学者ザヒ・ハワスが作曲したツタンカーメンの生涯を描いたオペラが、11 月5日にルクソールで初演されます。ツタンカーメン王の墓発見 100 周年を記念したこのオペラは、ハトシェプスト女王葬祭殿前で5日間上演されます。まさに壮大な舞台と言えるでしょう

 いきなり失礼。これは DeePL 翻訳と Google 翻訳にそれぞれ投入した英文記事の出だしを比較したもの。なんでこの記事を選んだかについては、昔、まだ Google 翻訳サービスが出始めた頃に「エジプトのショウビズファラオ」なる見出しの NYT 原文を放りこんだらザヒ・ハワス博士(!)を「ザヒ・家博士」(!!!)なんてやっていてのけぞった記憶があったもので、では最新版はどんなものなのかとちょっと試してみた、ただそれだけの理由から。

 singularity だかなんだか知りませんが、巷にはどうも AI 支援による機械翻訳(MT、マシン・トランスレーション)に対して過大と思えるほど期待をかけている言説が大多数のような気がする。たしかにイマドキの機械翻訳はスゴイ。それを利用するのにもはや PC も必要なし。日本で利用者の多い iPhone にも標準搭載され、SNS に流れてくる中国語や韓国語やアラビア語の投稿やコメントをとりあえず(あくまでもとりあえずね)確認するのにこれほど便利な機能はないし、アニメムジカ(「BanGDream! Ave Mujica」)を通じてアニメ考察組を中心に注目が集まったラテン語(!)まで邦訳可能ときている(ラテン語邦訳機能が実装されたのはここ数年の話)。

 ここまで多種多芸となれば、Trados のような翻訳支援メモリ(TM/翻訳支援ツール)ならまだしも、いよいよ「人間の」翻訳者はお役御免になりかねない、とは思う。

 しかしながら機械翻訳/自動翻訳スゴイみたいな話はじつはずいぶん昔から喧伝され続けてきたんです。たとえばいま手許にある、40 年も前(!)に出ていた翻訳批評本(1985 年発行)を見ますと、なんでも当時の新聞1面にデカデカと「新型自動翻訳機」が開発されたとかって載っていたんだそうですよ。何新聞かは書かれてないからわからないけれども、おそらく全国紙のどれかだろう。

 その翻訳批評本は、「…… 改めて自動翻訳機のことを考えてみると、こういうどちらにもとれる of の解釈だとか、全体の論旨だとか、…… コンピューターはいったい正しく判断できるようになるものだろうか。それもまた『メタレベルの活動で、コンピューターやコンピューターになりたがる人の能力のとうてい及ぶところではない』ような気がする」と疑問視していた。

 最後に以前、ここでもちょこっと触れた英ガーディアン紙の調査報道記事のこの一文(We don’t know if the discussion with Putin was friendly, or a dressing down. )をそれぞれの AI 翻訳にかけてみたら──
A. プーチンとの話し合いが友好的だったのか、それとも着服だったのかはわからない
B. プーチン大統領との会談が友好的なものだったのか、それとも叱責だったのかは不明だ
 “a dressing down” を前後の文脈もムシして「着服」はないでしょう! あとなぜか勝手に端折るのもなんでって思う(最初の訳例)。もっとも、最近のネット証券などの取引口座乗っ取りの報道でも感じてはいるが、いままで「非関税障壁」として日本語の特殊性がおおいに機能してきたわけだけれども、AI 翻訳の進化とともにこちらもいよいよ風前の灯となるのだろうか。

posted by Curragh at 07:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 翻訳の余白に

2025年04月05日

モーむつと DID

 『BanG Dream! Ave Mujica』(以下アニメムジカ)の物語が「音楽バンドもの」としてきわめて異形だと感じたのは、ラテン語サブタイ以上に、メンバーそれぞれの「表と裏の顔」(あるいは、仮面と役)という二重性を、ギター担当の若葉睦の多重人格問題と絡めて同時進行していた点にあると思う。頻出するラテン語関係の拙い考察は前記事のとおり。ここでは勝手に「モーむつ問題」と名付けた事柄について思うところを書き出してみます。

 他のムジカメンバーの科白にもはっきり出ているとおり、睦は多重人格者(Multiple Personality Disorder、MPD)として描かれてます。* ストーリー全体から受ける印象としては、幼少期のネグレクトを起因とした解離性同一性障害(Dissociative Identity Disorder、DID)により、「睦を守るために出現したモーティス人格」(交代人格、以下モーティス)と、「ギターが大好きだが自分を肯定できない主人格の睦」(以下、ムツミ1)の2者に分裂し、その2者が物理的にひとつしかない身体を奪い合う、といった流れです(親のネグレクト、一種の虐待を受けていたことは、ムツミ1が表情に乏しく、口下手で、ギター演奏の才があるにもかかわらず肯定できずに苦しんでいる描写に暗示されている。そして現実の DID 患者のほとんどが、そうした幼少期の問題がきっかけで発症している)。

 初見のときは当然、違和感のほうが強かった(そういう向きは少なくないと思うが…)。しかし何度か注意深く見ていくと、睦の内面問題を深く掘り下げていくことで、じつは各メンバーが抱えている問題も浮き彫りにする、一種のメタファーとして機能していることに気づいた。いちばんそれがよく出ていたと感じたのは「#10 Odi et amo./憎み、かつ愛す」の回。一見、女優志望の祐天寺にゃむが、自分のキャリアの前に立ちはだかる睦に抱くアンビヴァレントな感情を指しているのかと思ったが、これはそのままモーティスとムツミ1の関係にもあてはまる(し、もともと睦本人にはなんの感情も抱いていなかったはずの初華までギリシャ悲劇の仮面のごとき形相で、「私から祥ちゃん取らないで!」と憎しみを爆発させる#9の妄想カットとか)。モーティスはムツミ1が消えたら存在できない。ムツミ1を存続させるためにムジカ復活を画策するが、もともとが幼少期のイマジナリーフレンドだったお人形(モーティスのモデルについては、睦の部屋に転がっていて、#5で様子を伺いに来た元 CRYCHIC メンバーで現 MyGO!!!!! メンバー、クラスメイトでもある長崎そよが後退りしたときに踏んづけた青い髪の少女の人形ではないかという指摘がある)のため、思いどおりにいかなくなるととたんに赤ちゃん返りのような駄々をこねたり感情を爆発させたりする。愛憎相半ばしているのは物理的な他者のにゃむだけでなく、若葉睦という身体を取り合っている彼女の2つの人格でもある。

 発起人の豊川祥子ほどではないにしても(初華は抱えている闇がめちゃくちゃ深いが…)、Liella!(『ラブライブ! スーパースター!!』)の澁谷かのんが「不器用さんが多すぎだよ〜、あ、ワタシもか」と言ったように、ムジカのメンバーも皆、内面に問題を抱えている子たちの集合体。2つの人格のあいだを激しく揺れ動く少女の内面描写に時間をかけたのも、メンバーが抱える問題をただ同時に語らせるのではなく、多重人格に苦しむ若葉睦の姿を通して重層/重奏的に語らせたほうがより説得力が増す(現実味が出てくる)と判断したからかもしれない。もしこれ抜きだったら、ここまで強烈な印象は残らなかったと思うし、その企ては(完全というわけではないだろうが)成功したと思う。

 じつは先日、このようなスレッド投稿を見かけてひじょうに驚いた。投稿主自身が4年越しの DID の当事者で、この作品には、当事者にしかわからないような DID 特有の症状の描写が至るところに散りばめられていると絶賛している。しかもこれ制作した監督さん本人が謝意を述べているからもっと驚く。多重人格ものとくると、往年のダニエル・キイスの一連のベストセラー著作(『24人のビリー・ミリガン』など)がすぐ想起されるけれども、わたしたちが観たムジカという「かりそめの箱庭で歌い、舞う人形たちのマスカレード」は、現実の DID の症状をわかりやすく可視化した稀有なアニメ作品でもある、と評することもできる。DID の描写でとくに印象的だったのは #6、顔の右半分をムツミ1が、左半分をモーティスが支配して、それぞれ相反する表情を浮かべようと顔をひきつらせているカットでしたね。

 モーむつに関する最大のナゾは、「消滅していなくなったのか?」。これについても(はっきり言ってこの手の発言じたいが異例中の異例だと思うが)監督さん自身が明かしている。監督さんが言うには([]は引用者)、
…奈落の底でもうほぼ消えている「睦」[ムツミ1に相当]と最後の邂逅だけは果たしたというシーンになります。その後ギターを弾き始めたのはもう誰だかわかりません。睦もモーティスもいない、第3の人格というわけでもない。いろんな役が入れ替わり状況に対応するだけの状態という感じです。現在のムツミは、以前、みなみがにゃむに語っていた頃の状態とも若干違っていて、役ごとに人格と呼べるものがない。…いまはそれぞれの「役」がその状況で必要になったら勝手に出てきているような感じの、つかみどころのない人になっています

…だそうです。

 手鏡の中でモーちゃんとおぼしき姿が微笑んでいるカットついては、「モーティスも数ある『役』のひとつに面影を残すのみになった、というイメージ」で、「メタ構造」になっていると明言している。それでもそれを見えるように表現したのは、たんなるサービスカットを超えちゃってるんじゃないかとは思う。それまでのムツミ1と、それなしでは生きられないモーティスが、ユング心理学では無意識を表象する深い深い水の底(cf. 夜の海の航海)へと沈みつつ、互いの体のアウトラインが一体化するかのように消えていったとき、いままでのムツミ1とも違う、ほんとうの意味でありのままの、素の自分を肯定できつつある若葉睦(あるいは、その役回り)が形成されたように感じる。いま、ムツミ1と対立していた交代人格のモーティスはそれを無条件に受け入れ(無条件の愛、あるいは存在の全肯定)、「よくがんばったね」と笑顔を返すようになった、それが見えているのは若葉睦当人と、彼女の DID 問題で祥子やそよ、その他メンバーとともに「苦しみを共にしてきた」わたしたち視聴者だけだ、という理解でいいような気がする。ギターを巧みに弾いていたのは、自分の存在をあるがままに肯定できつつある、成長の階段を一歩上った現在進行形の若葉睦なのかもしれないし、監督さんが言うように、ムツミという人間の役の引き出しのひとつにすぎないのかもしれない

 #8の個室カラオケのカットで、「ムツミちゃんなんて、最初からいないよ」とすごむモーティスについては、その前のエピソードで祥子が言っていたように、ほんとうにいない、存在していないのではないと思う。あくまでもモーティス主観の発言であり、自分の目的達成のためならなんだってしそうなにゃむと同様、「自分が消えたくない」モーティスの膨れ上がるエゴ、自我がそう言わせたのだと解釈している。

 ムツミ1とモーティスとの争いという視点で見返すと、動物的な直観(?)にすぐれた要楽奈の顔つきの微細な変化描写も真実味があって軽く感動を覚える。#6で「ギター、弾く…」と言って、祖母から譲り受けた年季の入ったギターを演奏しはじめると、楽奈のギターが「歌ってる…」と気づいたムツミ1が深い眠りからようやく覚醒した。覚醒後のムツミ1が1日限りの CRYCHIC で演奏し終えたとき(成り行きでそういうことになった)、楽奈がそれとなく鋭い目でムツミ1のほうを見やったのは、ムツミ1が目覚めたこと、そして自分にとって好敵手となりそうだとピンときたからだろう。

 あと本題とは関係ないが、最終話の最後にかかったムジカ楽曲はいわゆる天球の音楽で、クラシック音楽好きでもあるのでつい ↓ なんかも思い出していた。

 ──すべて過ぎゆくものは比喩に過ぎない ……
 名状しがたいことが ここで成し遂げられた
 永遠に女性的なるものが われらを高みへ引き上げる
 (G. マーラー「交響曲 第8番」〈千人の交響曲〉から第2部の神秘の合唱から)

* ... 『精神疾患の診断・統計マニュアル』(DSM、全米精神医学協会刊行)、および国際疾病分類(ICD、世界保健機関刊行) による多重人格障害/解離性同一性障害の定義の一部:
@ 患者の内部に二つ以上の異なる人格が存在し、ある特定の時点にはそれらの一つが優勢となる
A これらの人格または人格状態の少なくとも2つが反復的に、その人の行動を完全に制御している
B … 1つの人格から他の人格への変化は最初の場合は通常突然に起こり、外傷的な出来事と密接な関係をもっている ── F.パトナム 他[著]、笠原敏雄 編『多重人格障害 : その精神生理学的研究』春秋社、1999

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2025年03月29日

「ラテン語」バンドアニメ『Ave Mujica』解題

 だいたいいつもそうなのだけれども、この作品と出逢ったのも、何気なくチャンネル変えたらいきなりゴシック体のラテン語サブタイトルが飛び込んできたのがきっかけ。"Exitus acta probat." ??? のまま見始めたらジョイスの小説よろしく、ストーリーや設定がブッ飛んでいてよくわからない。この作品の前編に当たる『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』とセットで観ないと理解不能なため、無料配信中だったこともありそちらも全編観て、『BanG Dream! Ave Mujica』(以降アニメムジカ)の物語と並行してその都度見返してました(『バンドリ!』シリーズは初期のポピパしか知らない人なので)。

 つい先日、「ガールズバンドもの」としてはきわめて異形のアニメムジカ本編が大団円を迎えたので、視聴しているあいだにいろいろ思ったことなどをエピソード順に思いつくまま書き出してみます。あくまでもワタシはこう思ったていどなので、その点はご了承を。以下、サブタイトルの日本語版は拙訳、公式さんの解釈とはいっさい関係ありません。[ ]は、下敷きにした可能性のある神話伝承や雑記とか。
#1 Sub rosa./薔薇の下で;恋愛の神クピド(アモール)が母のウェヌスの情事の秘密を漏らさないよう、沈黙の神ハルポクラテスに薔薇を贈ったことに由来。転じて、「『秘密』を象徴するバラを天井に描いたり、吊るすことで、その部屋の中で話された内容の秘密厳守を求めた習慣に由来」(英オックスフォード大学出版局の X 投稿より)
降りしきる雨の中、隠そうともせず慟哭しながら歩く豊川祥子(とがわ・さきこ)と、傘を差し出そうとしてもできずに立ち尽くす幼馴染の若葉睦(わかば・むつみ)。明るかった祥子は人が変わったように表情が翳り、彼女の事情を唯一知る睦も祥子の苦境を思う同苦(compassion)のあまり、しだいに精神が壊れていく[cf. ユングの言う「夜の海の航海」、オルペウスなどの古くからある「冥府行き」伝説群]
#2 Exitus acta probat./結果がすべてを明かす;オウィディウス『名婦の書簡』第2歌の引用。「ある者はこう言った。『いますぐ彼女をアテナイへ送れ。武器を担うトラキアの支配者はほかにもおろう。結果が良ければそれで良し』」
#3 Quid faciam? /どうすればいいの? 出典不明。cf. ウルガタ訳ルカ福音書16:3の「不正な管理人」のたとえ話に、”ait autem vilicus intra se quid faciam quia dominus meus ...”(どうしようか。主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている…)という一節ならある。睦がいままで内面の奥底に閉じ込めていたもうひとつの人格が初めて「モーティス人形」の姿で出現。「モーティス TV ショー」≒睦の脳内で再生されるカルテジアン劇場。自分のせいでまたバンドが壊れるという極度のストレスで不眠に陥っていた睦は、差し出せなかった傘を差し出すモーティスの誘惑をついに受け入れ、巨大化したモーティスに呑みこまれる[cf. ダニエル・キイス『五番目のサリー』などが取り上げた多重人格と、その元凶となった両親のネグレクトを暗示。モーティス人形は、たとえば『サスペリア2』(1975)に登場するグロテスクな人形なども連想させる]。ステージ上でただひとり、ドラム担当の祐天寺にゃむ(地方から単身上京してショービズ世界で活動するメンバーで、「普通の感性」の持ち主)が睦の天賦の才に気づき、慄然とする
#4 Acta est fabula./芝居は終わった;初代ローマ皇帝アウグスティヌス臨終のことばとされているもの。ドアをコツコツ叩くモーティスのカットは往年のオカルト洋画そのもの[cf.『シャイニング』(1980)]。睦に嫉妬していたにゃむが、睦の多重人格に気づいた祥子の発した「睦に戻ってきてほしい」という弱音を聞いて、怒りを爆発させる
#5 Facta fugis, facienda petis./成したことから逃れ、これから成すことを追う;出典はオウィディウス『名婦の書簡』のディードーの手紙から。元 CRYCHIC(クライシック)の仲間だった長崎そよが睦の寝室に入るラストカットも、やはり '70 年代オカルト洋画『サスペリア』(1977)によく似ている[cf. 主人公のスージーが、バレエ学校院長の年取った魔女の眠る秘密の部屋に忍び込み、寝ていた魔女に気づかれ、それに驚いた拍子に背後の金属製のクジャクの調度品を床に落下させる]。
#6 Animum reges./汝、心を制すべし;“Animum rege”と s なしのほうなら、ローマの詩人ホラティウスの『書簡詩』に用例がある[cf. ロアルド・ダール『魔女がいっぱい』(評論社、2006)が『いじわるな青い魔女』の元ネタか(?)]。絵本の表紙に赤クレヨン(またしても赤…)ぐりぐり描いていた ⊗ は交通標識の通行止め。モーティスと「祥子を想う」主人格の睦との闘争の暗示。MyGO!!!!!(以下、マイゴ)のギター担当・要楽奈(かなめ・らーな)がモーティスの中で眠る主人格の睦の存在を見抜く。楽奈の「歌っているギター」を聴いて、眠っていた睦が「小さな人形」として覚醒。真相を知り衝撃を受けた祥子が、マイゴの現メンバーで元 CRYCHIC の仲間だった高松燈(たかまつ・ともり)とマイゴの事実上の発起人の千早愛音(ちはや・あのん)に問われて、思わず「CRYCHIC も睦もムジカも知らない」と3度否定する[cf. バッハ「マタイ受難曲」の「ペトロの3度の否認」]
#7 Post nubila Phoebus./雲の背後に太陽;Phoebus はギリシャ神話のアポロン。強制的に睦の家に連れて行かれた祥子は自分の犯した罪を悔い、泣き崩れる[cf. 鶏が鳴いたとき、ペトロはイエスを裏切ったことを激しく後悔して泣き崩れる]。はじめ人形だった主人格の睦の自我がだんだん大きくなり、鏡の中に閉じ込められた姿で描かれる。睦が鏡から出ようとすると、体を乗っ取ったモーティスは逆上し、鏡を割る。モーティスはどうも退行人格のようで、行動も直情的かつ幼児的。そのくせ「お塩撒いてちょうだい!」という古風な言い方は知っているのね…。鏡の中から抜け出した睦は、お百度参りよろしく睦の家に通い詰める祥子にようやく会えたものの、主導権を握ったモーティスが祥子を突き飛ばす[cf. ダブルバインド的行動]。睦のいなくなった学校の野菜園でとれた「曲がりくねったキュウリ」の差し出しの描写(睦が育てないとまっすぐで「健康な」キュウリにならない)
#8 Belua multorum es capitums./多くの頭を持った怪物;ほんらい capitum (head を意味する caput の複数属格)で終わるべきだが、不要な s が付されているのは睦の多重人格やメンバーの表の顔と裏の顔の暗示か? 出典はホラティウスの『書簡詩』(Epodi)第1巻/第1歌。ホラティウスはローマの民衆を「多くの頭を持つ怪物」と呼び、「民衆の意見と欲望は多種多様で変わりやすい。いったいわたしは何に従えばよいのか」「あるいは誰に従えばよいのか?」と続ける
#9 Ne vivam si abis./あなたが去るなら、わたしは生きられない;出典不明。アイドルデュオ sumimi のひとりで、祥子に誘われてムジカ入りした三角初華(みすみ・ういか)が、CRYCHIC 復活の噂を聞きつけ、たまたまマイゴの燈といた睦に真意をただす。祥子を守る一心で発したことばに初華は激昂し、モーティス化した睦を階段から突き飛ばす妄想に苛まれる。ムジカ復活を企てるメンバーのベース担当の八幡海鈴(やはた・うみり)が睦、祥子、初華、マイゴのメンバーと話し合っている現場にやって来たにゃむ(と、その場に居合わせたマイゴの楽奈)だけがモーティスの三文芝居を見抜く。苦境に立たされたモーティスの背後に睦の人格を象徴するギターが落下し、睦とギターを奪い合ううちに睦のほうが階下へ転落する[cf. 赤基調の一連の闘争シーンと劇場セットの建物は前出の『サスペリア』のバレエ学校「赤い館」も連想させる。睦の自室にも同じくトウシューズ(よくよく見たら正確にはバレエシューズのようです)が転がっていて、「睦ちゃんが死んじゃった! もしもし!」とパニックになったモーティスがトウシューズの受話器に必死にすがりつく。観客席で何十人もの睦が拍手しているのは、かつて存在し、いまは消滅した内面世界のさまざまな副人格の睦たちだろうか。建物セットが崩壊しつつあるのは、消えた睦たちのいる観客席側にはやくおまえも来いという暗示か?]
#10 Odi et amo./憎み、かつ愛す;出典は、ローマの恋愛詩人カトゥルスの「85番」と言われる短詩の冒頭句「わたしは憎み、かつ愛す。なぜそうするのかきみは尋ねるかもしれない。自分でもわからない。ただ、そんな気持ちになるのを感じ、苦しいのだ」から[cf. ドイツの作曲家カール・オルフのカンタータ「カトゥリ・カルミナ」(=カトゥルスの歌、1943)]。初華は廃棄処分寸前の祥子のオブリヴィオニス衣装を自分のアパートに持ち帰って添い寝したり、祥子の邸宅に連れ込もうとするにゃむに抵抗するなど、ここまで隠されてきた初華の秘密があぶり出されていく。にゃむが初華を豊川邸まで連れてきて部屋に入れてもらうと、ヘッセの教養小説『デミアン』(1919)を読む祥子がいた[cf.「一つの宿命が私の上におおいかぶさっていた。それを突き破ろうとするのは無益なことだった」──『デミアン』新潮文庫版、p.53]。「アモーリス」のにゃむに「ずるくて、うらやましくて、愛してる」と言われたモーティスは、それをほかならぬ睦に言ってほしかったことに気づく。復活公演の舞台で演奏するフリをしていたモーティスだが、自分は睦なしでは生きられないと悟り、身投げする。先に落下していた主人格の睦を抱いてともに転落していく[cf. ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』のフィネガンの転落≒人類の転落とその救済]。イマジナリーフレンドに戻ったモーティスと統合した主人格の睦は、初華の歌唱に合わせるように突然ギターを奏で始める。睦はギターを歌わせることができるようになっていた[cf. Crucifix X の出だしはベートーヴェンの「月光ソナタ」1楽章冒頭+バッハ「トッカータとフーガ」BWV565 のフレーズからだろう。嬰ハ短調 ⇒ ニ短調の転調。ついでに“X”は、イエスの弟子のひとりアンデレが磔にされた十字架の姿であり、出だしの「月光ソナタ」冒頭の調号もシャープ4つの十字形 ⇒ 聖アンデレ十字]。海鈴は睦の変化を感じ、にゃむはうつむく。ムジカ復活公演の屋外広告に書かれたラテン語(auferte memoriam vestram)は、英訳すれば Take away your memory くらいの意味
#11 Te ustus amem./灰になっても愛す;出典は、ローマの恋愛詩人プロペルティウスの『哀歌』3巻 15 章(「火葬の積み薪で焼かれてもあなたひとりを愛す」)から。マイゴ最終回で、ムジカのデビューライヴ冒頭で初華が独唱したイングランド古謡「グリーンスリーヴス」(歌詞に「長い間あなたを愛していた/そばにいるだけで幸せだった」という一節がある)が再び初華自身によって歌われ、隠された彼女の過去が 20 分超のモノローグで明かされる[cf. 私生児設定で思い出すのはたとえばケルト航海譚の『メルドゥーンの航海』]。三日月が照らす小豆島の海のカット[Ave Mujica がなんで musica でないのかが不明だったが、ひとつ可能性として、もともとラテン語アルファベットは 23 文字しかなく、i=j だったことを思い出した(u ももとはなくて、中世教会ラテン語の時代は v と混用されていた。cf. Nauigatio Sancti Brendani = Navigatio Sancti Brendani)。それで表記すれば Muiica。これを分解すると m〈isumi〉+uiica でム+ウィイカ、すなわち≒三角初華と読める。ほとんど恋愛感情と言ってよいほど祥子に対する思慕が強い初華の名前に、幼くして亡くした母を思って祥子が Ave Mujica と命名したのかもしれない。もしそうだとすれば、このメタルバンドのラテン語コンセプトも世界観もすべて祥子・初華の合作ということになる*]
#12 Fluctuat nec mergitur./たゆたえども沈まず;16 世紀からあるパリ市のモットー。[cf. デルフィの神託によれば、アテナイは海に浮かぶワインを満たした革袋のように波に揉まれるが、沈むことはないという(『ラテン語名句小辞典』 研究社、2010)]。「他者の敷いたレール」という運命の歯車に抗うかどうか逡巡する祥子に突風が吹きつけ、彼女はスイス行きから逃れる[cf. 祥子が読んでいた『デミアン』の作者ヘッセは 1924 年にスイスに帰化している]。祥子が初華と再会したのはバラ園で、ここで初回のラテン語サブタイ“Sub Rosa”が回収される(2人だけの秘密の共有)。また、「おお友よ、このような調べではなく…」で開始されるベートーヴェンの「第九」終楽章的な転換、あるいはバッハの「フーガの技法」の 12度・10 度で原形主題と新主題が互いに入れ替わる転回対位法による4声二重フーガのように、ここまでの「運命の歯車」が逆転し始める。それを暗示するかのようにオープニング/エンディング曲の反転。ちょうど真ん中のエピソードの #11 を挟むように、#12 と #10 ではオープニングとエンディングが変更されている]。また「キュウリの代わりにゴーヤを育てる」に関して、ゴーヤの花言葉は「強壮」「生命力」など
13 Per aspera ad astra./艱難を経て星へ;英訳すれば Through hardships to the stars. 出典不明だが、一説には、セネカの長編詩『狂えるヘルクレス』(Hercules furens)の“ Non est ad astra mollis e terris via.”、「この大地から天へ至る道は険しい」からとも。米カンザス州のモットーに採用されるなど、ひじょうに有名な格言。ライヴハウスでのマイゴのライヴと同時進行する復活したムジカのマスカレードライヴ。演劇のモティーフは順に円卓の騎士/アーサー王伝承群、騎士叙階(剣先で騎士の肩を叩く、dub して騎士として認めること)、ラグナロク/『エッダ』や北欧神話など。そういえば公演ポスターにもラテン語で mythologia(神話)と表記されていた

 最終話の演劇については、神話的でありながらそのじつメンバー個人がくぐり抜けてきた苦難(per aspera ...)そのものがカタチを変えて語り直されているだけで、それを知っているのはムジカのメンバーと「共に苦しみ」(compassionate)、「共犯者」(accomplice)となったわたしたち視聴者(目撃者、witness)で、マスカレードの観客ではない。だからわたしたちも彼女たちの共犯者という「仲間」なのだ。

 初回から「月の光でかりそめの命を宿した人形たち」という舞台劇だったり、祥子が学校の音楽室のピアノで弾いていたのも「月光ソナタ」で、メンバーネームも月の湖と入江※ からとられているので、マイゴが太陽の物語だとしたら、こちらはそれに照らし出される月の物語、と言えるかもしれない。いずれにしてもモーむつ氏の内面世界の描写の多さや(終盤にきてやっとカタルシスが訪れるとはいえ)、個人的にはわたしたちの誰もが抱える普遍的でありながらきわめて個人的な問題、つまり人間がよく描きこまれた作品だと感じた。それゆえ見た目はどぎつい色彩のオカルト色満載ゴリゴリのメタルバンドの物語ながら、もしこれをアニメではなく最初から小説として発表したら、日本発の最高にロックな教養小説(ビルドゥングスロマン)になるのは間違いないと思う。「Imprisoned XII」のサビ(I say you're mine, your mine/ほら すぐそこにいるのに)でモーティスが、ボロボロに崩壊した精神世界の屋敷から身投げして、ギターを奪い合っている最中に突き落としてしまった睦をかき抱(いだ)き、涙の雫を散らしながらギターを睦に託して沈んでいく描写は、こちらも涙なしに見ることができなかった。最終話で、客席に挨拶する睦が手にした手鏡の中で微笑むモーティスを見て救われたように感じた人はきっと少なくないだろう。前編のマイゴとのバランスをぶち壊すほどの圧倒的なストーリー展開だったけれども、まだ描かれてない部分や伏線も残っているため、続編が制作(北欧ロケ ?!)されるとのことでうれしいかぎり。「なんでバンドアニメでラテン語なの?」で見始めた本作だが、『ラブライブ!』シリーズと並んでまたひとつ楽しみができた。

❋ 祥子の科白に出てくる「同じ穴のむじな」(mujina)と musica の造語の可能性も指摘されている。またヘッセの『デミアン』にはほかにも「牧師さんの教えているとおりではない、違った見方もできる、それには批判が可能だ」(ibid., p.81)、「それは、責任の声と、もう子どもではいられない、ひとり立ちになるのだという声とを宿していたので、きびしく、荒い味がした」(ibid., p. 95)とある。祥子が結成した当時の Ave Mujica は「同じ穴のむじな」とは程遠い、各メンバー間のエゴ丸出しのてんでバラバラなユニットでしかなく、そのため祥子は孤立し、結果的にバンドは解散という死を迎える(前編のマイゴは学生アマチュアバンドとしての絆が描かれていたから、最初から商業バンドとして結成された Ave Mujica とはこの点でも対照的)。しかしその後のメンバーの声と、初華を連れ帰るフェリー上での「すべてを肯定したうえで、なかったことにする」と決意したときの祥子は明らかに精神的な変容を遂げた。祥子視点で見た Ave Mujica は思春期に通過するイニシエーション装置のようなものとも言えるが、物語後半でバンド復活を望む各メンバー間にははっきりとした絆が生まれはじめていた。だから Ave Mujica というバンドはほんとうの意味でのスタートラインにここでようやく立てた、それを描くための物語(舞台装置)だったと思っている。

※ 悲しみの湖(Lacus Doloris)/死の湖(Lacus Mortis)/忘却の湖(Lacus Oblivionis)/恐怖の湖(Lacus Timoris)/愛の入江(Sinus Amoris)

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2025年01月26日

1973年のNHKホール落成記念公演

 … を先日、こちらの番組にて視聴した。

 当時 49 歳(!)、めちゃ若々しいマエストロ・サヴァリッシュのキレのある棒さばきから紡がれる“ブラ1”(「交響曲第1番 ハ短調 op.68」)、いやぁ感動的でしたねぇ。昨今はやりの通勤快速的テンポのせかされ感はまるでなく、タメるところはタメる、聴かせどころは聴かせるというメリハリがなんとも心地よく、しかし楽曲全般はいかにもドイツ的に小気味よく進行してゆく、そんな印象を受けました。

 初回放映当時はまだ入園前の幼児(!)の身ゆえ、映りの悪い半世紀以上も前のブラウン管(!!)のちっこい画面の受像機で果たしてコレを観ていたのかどうか …… は、記憶があいまい。しかしうろ覚えながらも記憶に残っているのは、「ほら見てごらん、世界最大級のパイプオルガンだってよ」という母のことばだった。

 …… そういうしだいでふと、「そうだ。同時期に開催されたイジー・ラインベルガーのオルガン開きリサイタルってプログラムとかどこかに転がってるのかな?」と思い立ち、いつもの「日本の古本屋」さんに行ったらあっさり見つかった。即お買い上げ。

 中学生のころ、巷にまだ LP(老婆心ながら Long Playing の頭文字ね)アナログレコードがあふれていた時代、どこのレーベルかは失念したがそのチェコスロヴァキアのオルガン奏者ラインベルガーさんの「バッハ・オルガン名曲集」が売られていた(ジャケット写真はブクスフーデゆかりのリューベック・聖マリア教会)。で、たしかライナーの解説には、「生粋のアルピニストで、来日したときに海抜0mから歩いて富士登山した」とか書いてあったと思う。…… あれから幾星霜、ついにご本人の肖像写真を拝見できた。やはり、というか謹厳実直なタイプの端正な横顔の紳士だったが、つぶらな感じの目だったので、どことなく私たち日本人的な顔立ちにも見えた。

 オープニングリサイタルの当日、ストップの入れ替えとか譜めくりとかの助手として演奏を支えていたのは奥さんだったらしい。ググれば当時、コロンビアレーベルから発売されていたほうのラインベルガー氏のアナログ音盤ジャケットが出てくると思うけれども、そのジャケ写真こそ、1973 年6月 22 日、24 日とサヴァリッシュ/N響の杮(こけら)落とし公演をあいだに挟んで開かれた新 NHK ホール大オルガンのオープニングリサイタルになります。

 半世紀以上も前の美品のプログラムを繰ってみると、初日(6月 22 日)のリサイタル最初の楽曲は、バッハの例の有名曲(BWV 565)でした。なにしろ本場のオルガン、しかも世界最大級のバカでかい本格的コンサートオルガンなんて一般的な日本人は誰も見たことも、そのサウンドを体験したこともなく、そもそも西洋の器楽ということでは最古参ジャンルのひとつオルガン音楽に親しむリスナーなど皆無といっていい時代。だからコレは耳慣らしとしてはしごくまっとうな選択でしょう。2日目のほうはこれまた有名な「小フーガ」(BWV 578)が入ってます。ほかにバッハは17(18)のコラールとして知られる一連のコラール前奏曲から待降節の有名な曲(BWV 659)、「パッサカリア」(BWV 582)。2日目ではクリスマス時期によく演奏される「パストラーレ」(BWV 590)も加わってました。

 でもバッハは数曲で、すぐにレーガーやフランクやヒンデミット、そしてチェコの作曲家がふたり続いて終わってます。なんかいきなりツウ好みな、バッハしか聴いたことのない聴衆にはまるで馴染みがないであろう楽曲のオンパレードな印象。とくに同郷人のチェコの人の作品はオラもまったく知らず。だからなおさら聴いてみたいと思う。以前、NHK ホールのオルガンつながりでは、なんとあの古関裕而氏が弾いている貴重な映像を歌謡番組かなにかでチラっと拝見したことはあるが、こんどはぜひ杮落としオルガンリサイタルの映像を放映してほしい、と「心からのせつ菜る願い」を申し添えておきます。

 プログラムに解説を書いているのは高名なバッハ学者の角倉一郎先生なんですが、ところどころ欧州の古いオルガンのモノクロ写真が添えられてます。でもこれってパっと見てどこどこの楽器だなとかわかる人はおそらく誰もいなかったでしょうね。せめてキャプションでもつけるべきだったのではないかな? 最初のほうに掲載されている、現存する世界最古の演奏可能な「燕の巣オルガン」については、解説の本文でも触れられてはいますがね …… いちおうルネサンスからバロックと時代を追って並べられているようですが、イタリアの1段手鍵盤ものの古オルガンやオランダのバロックオルガン(おそらくマーススライス大教会の、ルドルフ・ガレルスが建造した歴史的楽器)、そしてお兄さんのほうのジルバーマンが建造した、スイス・バーゼル州のアルレスハイム大聖堂の歴史的楽器あたりは特定できた。あと、駐日チェコスロヴァキア大使さんの賛辞文の「現代のチェコ・オルガン学派の創始者」ってのは、「楽派」のミスプリでしょう。

 紙数(?)が尽きたのでいったんこの話はここまで。ほんとはまだ続きがあるんですけど、それはまた後日にでも。いずれにしても今回の半世紀の時空を超えた再放映は、まことにありがたいかぎり。今後もどんどんやってね。

※ 昨年 11 月、『スパスタ!!』3期の聖地巡礼がてら、これまたウン十年ぶりに NHK ホールの前まで行ってみた。プロムナードなんかすっかり変わっていて、ワタシがN響定演を聴くため初めて連れて行ってもらったとき(1985年3月末。プログラムは三善晃の児童合唱付きの初演作品と、メシアンの「トゥランガリラ交響曲」)、ホール前の道路はフツーに舗装道路だったと思う。いまは Liella! のランニングコースとして登場するようなケヤキ並木の広い散歩道といった感じのタイル舗装になっていた。それと NHK ホール正面玄関へのアプローチもだいぶ変わった。なんか放送センターは絶賛建て替え中らしいけれども、とりあえずホールのほうはこのまま現役続行のようです。あとは、かつてのようにオルガンリサイタルの復活を望むばかり ……。ついでに文中の「心からのせつ菜る願い」は、有名な受難のコラール(ハンス・レオ・ハスラーの失恋の歌が原曲なんですが)をバッハがオルガン独奏用に編曲したコラール前奏曲(BWV 727)に、ニジガク成分を混ぜ込んだパロディ(メンバーの優木せつ菜から拝借)。

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2024年12月31日

「救いは、あなたの中にある」

 はじめに個人的な話を少々。10 月に高齢の母が緊急入院して以降、いろいろありまして、グループホームに落ち着き(初の高額医療費申請)、年の瀬になってようやくほっとできまして、いま「クラシック名演・名舞台 2024」を視聴しているところ。ココの更新をサボっていたのはそれがおもな理由になります。その間もふつうに仕事していたから、書く時間がない、というより、なにをどう書こうかがなかなかまとまらずに時間だけ過ぎていったというしだい。

 で、書きながら番組観ていたら、マエストロ・井上道義氏が登場して、2月のN響定演で指揮したショスタコーヴィチの「交響曲第 13 番 バビ・ヤール」(バビ・ヤールは、ウクライナの首都キーウ郊外にある峡谷の名)について語った名言をまた聞くことができた。井上氏は自身の指揮活動の掉尾を飾る作品として、この「問題作」を選んだ。では、いまなぜ「バビ・ヤール」なのか、については次のように発言している。
… いま実際に、この音楽で糾弾しているようなことが起こっているじゃない、何万人も死んだりさ。演奏したくないぐらいだよ …… でも若い人にこれ聴いてほしいね。[この作品で]ショスタコーヴィチが最後に何を言いたかったっていうと、「希望はあるか? … 希望はあるか? ないとしたら、おまえのせいだぞ …… そういうことを、心の底から問いかけているから。いい曲だよ。答えはないよ。救いはないよ。救いは、あなたの中にある。そういう内容なんですね。おもしろい、おもしろい。知れば知るほどおもしろいよ」
 このときはじめて(だと思う)この作品を聴いたけれども、個人的にもっとも心惹かれたのは、「ユーモア」と題された第2楽章。世界の支配階級を引き合いに出した歌詞に、こんな一節が出てくる。
ツァーリをはじめ、地球上の全権力者は閲兵式を指揮できても、ユーモアだけは指揮できなかった ……
ユーモアは永久不滅 ……
ユーモアはすばしこい ……
ユーモアはあらゆるもの、あらゆる人をすり抜けてゆく
ユーモアに栄光あれ! 
 また例の人(!)が米国大統領に選ばれたから、残念ながらウクライナはもう打つ手がないだろう。しかしユーモアというものは、どんなに弾圧されても死に絶えるなんてことは決してない。似たようなことはジェイムズ・ヒルトンの『チップス先生さようなら』(1934)にも書かれている。そしてこれもまた耳タコかもしれないが、何度でも繰り返して言う。世の中、いくら制度を変えてもリーダーの首をすげ替えても良くはならない。いちばん大切なのは、各人が活き活きとすることだ。活き活きとさえしていれば、どんな世界でもまっとうな世界(ジョーゼフ・キャンベル)なんである。これはラディカルで無政府主義的でニヒリズム的で刹那的で御しがたいしょーもない危険思想に思えるかもしれない。が、ほんとうにそうだろうか。個人的には、これは突き詰めて考えるべき深遠なテーマだと思っている。

 もっとも、各人がてんでばらばら好き勝手してかまわない、と言っているのではない。公共の福祉の観点が欠けていたら、そもそも人間社会は成り立たない。不利益を被る他者がいるから己が存在する。逆もまた然り。それはつねに留意すべき。大切なのは、コレだけは死んでも譲れない、不可侵の領域を作ること、ようするに「聖地」を持つことかと。

 「推し活」という用語が定着して久しいが、依存症と混同されるのは困りもの。アーノルド・ベネットが『文学の味わい方』(拙新訳版も出したけれども)でも書いているように、もし心から共鳴し感動した作品(アート)があれば、現実の人生にそれを取り込むことが大切だと思う。アニメとか文学とかは関係ない。ほんもののアートは、人種も民族も言語の障壁も超越して普遍的なパワーが宿っているものなのだから。趣味嗜好が変わるのは、トシをとってくればそりゃ仕方ないでしょう、自分も含めて。しかしその核となる部分はそうそう変わるもんじゃない。そういう核心部分は失われずに残るものだと思う。

 母の緊急入院からグループホームに落ち着くまでの2か月余りは、ちょうど『ラブライブ! スーパースター!!』(スパスタ)の第3期の放映時期と重なった。その間、何度か『虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 完結編第1章』(通称えいがさき)も観に行った。グループホームは、母校の高校のすぐ近くだった。数十年ぶりに母校を眺めた。マルに目がない Liella! のちぃちゃん部長(嵐千砂都)じゃないけれど、自分自身が大きな円環を描いているような錯覚に襲われた。だからスパスタの最終回を迎えたときは感慨深いものがありましたね。来たる年はもう少しまじめに更新しようと思いマス。

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2024年09月30日

戦後まもない頃に AI 到来を予言していた N・ウィーナー

 せんだって読んだこちらの本。この本を読む前にここにも書いたショシャナ・ズボフの『監視資本主義』の邦訳ももちろんすばらしいんですが、どっちかオススメしろと言われたらアセモグル本のこちらの訳書を推すかな。理由は、いわゆる独自理論臭さがあまり感じられない(歴史的事実にもとづき慎重に考察を論述するスタイルで、ズボフ本に散見されるようなポエティックな箇所もない)のと、読みやすい、という点で。理想的には上記2冊を読んだほうがいいとは思うが、アセモグル本の日本語版は上下巻と分かれているため、そこがとっつきにくいという向きもいるかもしれない。

 ワタシは仕事の裏をとるために下巻をまず読んだんですが、これだけでも読む価値のある本だと思いますよ。とくに好感が持てたのは、いまや子どもでも知ってる AI(人工知能)と、技術革新と民主主義の危機について論じた章。時間のないオイソガ氏さんは、まずはここだけでも目を通すべきかと。

 とくに心惹かれたのは、戦後まもない頃、すでに 21 世紀の AI 天国(?)時代の到来を予言した寄稿文の原稿があると紹介されていたくだり(同訳書 pp. 149−151)です。書いたのはマサチューセッツ工科大学(MIT)教授だったノーバート・ウィーナー(1894−1964)という科学者で、当時勃興しつつあったオートメーション技術を人間の役に立つようなかたちで発展させよ、という「機械有用性」と言われる概念を支持した人。1950 年代に刊行された翻訳技術に関する本に、すでに機械翻訳が英仏語間で試験的に行われていた実例が書かれていた話を以前、ここでもちょろっと書いたけれども、ちょうど時同じくしてこのような原稿が書かれていたとは。ウィーナーの著作や論文には、ズボフ女史の言う「スマートマシン」を想起させる内容も含まれている。

 この原稿についてはこちらの NYT 記事に詳しく書いてあるとおり、行き違いと本人にもはやその気がなくなったというのもあって、原稿が書かれてから 63 年後の 2012 年にたまたまカール・ポパーの調べ物をしていた学者が「再発見」されるまで、ずっと MIT の書庫に眠っていたらしい。しかも日の目を見てから 10 年ほどでシンギュラリティ的展開を見せているいまの世界を書いた御本人が見たら …… きっと嘆息されるに違いない。そういえば OpenAI で退職者が相次いでいるとかっていう話を海外ニュースでも見かけますが、ここの組織はかなり変わっていて、持株会社的な役割の非営利組織の下に OpenAI を含む「子会社」がつながっている、という形態。こういう特殊なかたちにすることで「研究者の暴走」を食い止めている転ばぬ先の杖的な構造に敢えてしているのですが、そんなのもうやめたら? ということでゴタゴタが起きているようです。いままでインターネットやクラウドや IoT などの IT 技術がらみで、こんなことって起きたでしょうか? 今回のお家騒動を見るだけでも、AI 界隈がこれまでとは一線を画する危険性を孕んでいる、ということが門外漢にもわかろうというもの。以下、印象的な箇所のみ拙訳で引用しておきます。
いまや一般人でも、「動力機械ではなく、計算する機械によって成立する機械の新時代が間近に迫っている」ことを良く認識している。この手の新しい機械には、人間の労力や能力を機械の労力と能力に置き換えるというより、かなり高レベルの判断が要求される場面以外の、ありとあらゆる人間の判断に取って代わる傾向がある。このあらたな置き換えが起これば、私たちの生活に多大な影響をおよぼすことはすでに明らかだが、それがどのようなものなのか、一般人は知る由もない。
…… 人間の体の構造にもっとよく似た機械の理解も進み、いままさにそうした機械が製造されようとしている。それらは工業生産の工程全体を制御し、ほぼ従業員のいない工場の実現さえ可能になるだろう。
…… 未来のマシンエイジにわれわれが頼ることになる装置は、そのほとんどが反復的であり、しかも明らかに大量生産方式で製造可能である。
…… 人間と、人間が制御する強力な機関との関係を論じるとき、民話に登場する格言的な知恵のほうが、社会学者の手になる本よりはるかに役に立つ。過去のどの民族においても、「人間は自らの意志に見合った権力を与えられると、それを正しく使うより間違って使う可能性のほうが高く、賢明な使い方ではなく愚かな使い方をする可能性のほうが高い」というのが、賢者と目されていた人びとの共通認識だった。

 …… 然り! としか言いようがない。聖ブレンダンがらみの記事でも似たようなことは何度か言及したけれども、昔の賢者をバカにしてはいけません。滅亡の足音が大きく聞こえてくるのは、まさに過去から学ぶ謙虚さを忘れたときなんです。

posted by Curragh at 08:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近読んだ本

2024年05月31日

翻訳というより、超訳本だった話

 以前もここで書いた、米 SF 界の往年の大御所のひとり、ライアン・スプレイグ・ディ・キャンプ。最近、たまたまここのページを眺めていたら、見覚えのない邦訳書が出ていることを発見。しかもあの電撃文庫からかつて出ていたという。電撃文庫って、「紅蓮の剣姫(けんき)」のようなラノベ専科みたいなイメージしかなかったから、コレハぜひ入手! と息巻いたものの「日本の古本屋」にもなくて、しかたないから期間限定で又借り(静岡県内の公立図書館の相互貸出サービス経由で。というか電撃文庫って創刊当初はなんと主婦の友社から発売されていたんですねぇ、知らなかった)。

 で、さっそく地元の図書館で 27 年も前(!)に刊行された日本語版の上巻を受け取りまして、Kindle 版の原書(コレはもちろん買いました)と出だしから2章にかけて突き合わせてみた …… 結果、コレは翻訳というより、いっとき日本ではやった超訳ずら、という結論とあいなった。

 超訳の元祖ってじつはけっこう古くて、記憶がおぼろげで申し訳ないけれども、ウン百年前にオランダ語原典から英訳した本には原典には出てこないアヒルとかの動物の鳴き声がやたらと追加されてにぎにぎしくなっている、というものがあるって高名な翻訳家が書いた本で読んだことがある。その伝でいけばこちらの訳書(?)もりっぱな超訳書ということになる。

 どれだけ脚色≠ウれているかをちょっとだけ見ていきます。まずは冒頭部[拙試訳は、字義通りに訳すとこんな感じ、というていどのもの。下線は引用者]。
On the first day of the Month of the Crow, in the fifth year of King Tonio of Xylar(according to Novarian calendar)I learnt that I had been drafted for a year's service on the Prime Plane, as those who dwell there vaingloriously call it. They refer to our plane as the Twelfth, whereas from our point of view, ours is the Prime Plane and theirs, the Twelfth. But, since this is the tale of my servitude on the plane whereof Novaria forms a part, I will employ their terms.
〈試訳〉ザイラー国トーニオ王の治世5年目、ノヴァリア暦でカラスの月の1日に、おれは第1平面(うぬぼれ屋の住人たちは自分たちの住む世界をそう呼んでいる)で1年間、奉公するお役目に召喚されたと知った。向こうはこちらを「第 12 平面」なんて呼んでいるが、こちらから見れば「第1の」平面はここで、奴さんたちの住む世界が「第 12 平面」だ。と言ったところで、そもそもこれは、ノヴァリアを形成する時空世界で丁稚奉公した顛末をあれこれ語るお話なので、ここはおとなしく、奴さんがたの用語で「第1平面」と呼ぼう。
 で、同じ箇所が日本語版では … ↓
ノバリア暦ザイラーの王トニオの年、烏の月の一日。
いきなりなんのことやらさっぱりわからないのだがかまわずにいこう
この日、ズドムは強制丁稚奉公の命令通知を受け取った。
強制丁稚奉公とは強制的に丁稚として奉公させられることである。第一地界のノバリアで一年の間丁稚としてこき使われてこいという内容だった。
なにかのまちがいではないか。
「厳正なる抽選により、あなたが今年の丁稚に選ばれました」
ちっとも嬉しくなかった。(p.11)
 下線部、間違いなく訳者のココロの声ですな。
 そのすぐあとに「ノバリアのある地界が第一地界で、ズドムの住んでいるのが第十二地界というのはノバリアから数えた場合で ……」とある。英語版 Wikipedia 記事 を見ると、ノヴァリアは地球(と、そこに住むわれわれ)のパラレルワールドで、こことあちらの違いは「魔法が使えること」。魔法使いがいて、ほかの平面(plane)の住人を呼びだすことができる。ノヴァリアからいちばん離れた平面世界が主人公の悪魔の住む「第 12 平面」。言語も異なり、向こうはノヴァリア語を話す。それが日本語版では
…… 現に今こうして語られているこの言語も、これは実はノバリアの言葉なのである。
 ノバリア語は日本語にとてもよく似ている。(p.12)
に化けてしまう。もちろんディ・キャンプはそんなこと書いてないし、だいいちクドすぎる。完全な創作。

 日本語版には巻頭カラーの4コマ漫画(!)まであって、そこに描かれているのが、これまたいかにもという感じの、丸っこくデフォルメされた各キャラクター(『Dr.スランプ アラレちゃん』に出てくるような絵柄)。訳文はとんでもなく自由闊達ながらも、キャラクターたちのイラストを見ると、主人公や、「第1平面」に住む魔法使いのモルディヴィウスの体つきや身なりなんかはわりと忠実に再現≠ウれている …… 気はした(金属的な青光りするうろこにとがった耳、ナマズのような巻き毛のひげにしっぽを持つズディム[Zdim、邦訳の表記は読みやすさを最優先にしたんでしょう]、もじゃもじゃのひげをたくわえ、猫背だが背丈はズディムと同じくらい高く、ツギハギだらけの黒衣をまとった魔法使いモルディヴィウス、など)。脚色や創作箇所がそれこそあっちこっちにあり、前述したように冗長さはあるものの、そこに目をつぶれば、上巻を見たかぎりは全体的にストーリーや世界観が大きく逸脱したり、破綻はなさそう …… と感じた、あくまで一読したかぎりでは。

 しかし出だしからもうすこし先、主人公の悪魔(fiend)ズディムが魔法陣の真ん中に立ち、自分が属する「第 12 平面」から人間の住む「第1平面」へ転送≠ウれた直後の描写(p.20)はどうも落とし穴に落ちておいでのようです。その箇所の原文をすなおに訳せば、「……[ニンの役所の]長官の間が目の前から消えたと思ったら、いきなり荒削りな地下室の中、いまさっきまでいたのとまったく同じ五芒星の上に突っ立っていた。このとき、いま自分が立っているところに 100 ポンドの鉄のインゴットが置かれていて、そいつが自分の代わりに第 12 平面に運ばれたと知った」。過去完了の見落としが原因かと。たしかに巻末近くにも、ノヴァリア第1平面における任務(?)を終え、都市国家どうしの侵略戦争もどうにか切り抜けたこの悪魔(で、しかも哲学者!)氏は、愛する妻と赤ん坊が待っている故郷へハレて帰還するとき、“I sat down on the two hundredweight ingots of iron” ってあるけれども、これはおみやげ的な追加の鉄のインゴット(Wikipedia の要約記事にもしっかり “extra” って付いてる)。彼の住む世界である「第 12 平面」は慢性的な鉄不足で、人間の住む「第1平面」から鉄のインゴットを用立ててもらう代わりに、1年間の「丁稚奉公」要員として悪魔を差し出すという「契約」を、かの地の人間の魔法使いと交わしている、という設定になってます。魔法陣に描かれた五芒星は、一種の転送装置です。

 老魔法使いのモルディヴィウスに「メシ炊きと掃除をしろ」と命じられた丁稚奉公の悪魔ズディム。魔法使いの若い弟子グラックスに、キッチンに行く道が迷路みたいでわからん、とこぼしたら、歌みたいにして覚えればいいときて、「いいかい? まず左左右右左右左。はいっ。ごいっしょに」(p.32)なんて調子良く続くがこれもウソ(創作)。原文は「行きは右左右左左右右、帰りは左左右右左右左。できるか?」です。

 これくらいにしておきます。キリないし、そんなにヒマじゃないし(苦笑、つづく第2章ものっけから訳者はブッとばしてスピード違反の連続。いもしないロバ[原文は mule、ラバ]だの存在しない「鳥居」だの、グラックスがズディムに「夜這いにいっしょに行かないか」なんてお誘いしているのもぜ〜んぶ訳者の創作だから恐れ入る。全編この調子では、さすがに読まされるほうはたまったもんじゃない)。日本語版はどういうわけか(?)上下巻と分冊になってますが、原書のこちらの版の場合は 200 ページほど。ほかの版も調べた限り似たりよったりで、日本語版を1冊本として出版したとしてもさほどガサばらなかったはず(とはいえ、あれだけあることないこと詰め込まれるといきおい分量は増す…)。

 今回、これを書くときに参照した読書家の方が書かれたページがあります。この超訳本については一定の評価をしつつも、「翻訳の出来不出来、原典の再現性はさておいて、海外のおもしろそうなファンタジーを適当に訳してマネーを稼ぐ、悪しき前例とならないように」とクギを刺しています。電撃文庫で翻訳ものっておそらくほかにはないだろうとは思うが、ワタシとしては、やっぱり前にもここで書いたような、ハヤカワファンタジー文庫版『妖精の王国』の名訳者である浅羽莢子先生の訳で読みたかったなァ、というのが率直な感想。

posted by Curragh at 23:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 翻訳の余白に

2024年04月25日

『オッペンハイマー』

 ここのところ大好きな『ラブライブ!』シリーズの劇場版作品のリリースが続いて(昨夏のアニガサキ OVA とか今春の『ラブライブ! The School Idol Movie』4DX 版とか)、鑑賞するのもいきおいそっち方面に偏りがちではあるけれど、日本人としてはやはり観ておきたかった作品がコレ  

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 オッペンハイマーとはじつは少しばかり縁がありまして、まだ翻訳を学ぶ側だったころ、当時の師匠の教室の生徒さんたちと共同で下訳したのが写真の歴史に関する大部の著作で、たまたまワタシが担当した箇所がずばり「広島に落とされた原爆」の写真について考察された章だった。人類史上初の核兵器の話なので、「トリニティ実験」も、そして映画でも何度か登場する『わたしは死、世界の破壊者となりし』という、古代インドの聖典『バガバッド・ギーター』の引用句も出てきた。

 映画ではこの引用句が印象的に使用されているのだが、映画の原作にあたるこちらの本(ハードカバー初版本では上巻末尾近く)を見ますと、どうもこれ、オッペンハイマー自身は 1945 年時点で口にしていないって書いてあります。じゃあ初出はいつか、というと、なんと 1965 年(昭和 40 年)、NBC テレビのインタビューだったと明かされている[↓動画クリップ参照]。なので、「きみはわたしのようなジプシーではない」(アインシュタイン)のように、映画に登場する人びとの科白はほぼ原作を忠実になぞっている、と言えそうだが、コレに関してはどうもそうではなさそう、つまり映画の脚色っぽいのです。



 そうなると、当時交際していた精神科医のタマゴだった女性がアラレもない姿で本棚から引き抜いた一冊をオッペンハイマーの目の前に掲げて、「このサンスクリットはなんて書いてあるの?」と訊いた云々も史実とは違う、ということになる(ここの箇所は時間がなくて、原作本で確認できなかった。というかこのベッドシーンその他は必要なカットなのか? ただのサービス? もしこうした一連のカットのせいでこの作品がR指定にされたんじゃ、それこそ本末転倒だと思うが。それと文学の出典つながりでは、冒頭近く、オッピー(オッペンハイマーの愛称)の愛読書らしかった T・S・エリオットの詩集『荒地』も一瞬だけ映っていた)。

 ただ、それ以外は(確認したかぎりでは)ほぼ原作どおりに進行し(実在した人物の評伝的作品だから、当然と言えば当然ながら)、宿敵ルイス・ストローズ(戦後、米政府原子力委員会トップに就き、オッペンハイマーの公職追放を主導した。彼の視点で語られるときは、モノクロ画面に切り替わる仕掛けが施されている)とのやりとり、アインシュタインとのやりとり、そしてトリニティ実験当日に奥さんのキティと交わした「シーツは入れなくていい」「シーツは入れてくれ」のような暗号じみた電話などは史実を丹念に拾っている。カリフォルニア大学バークレー校教員時代、同僚のひとりルイス・アルヴァレズが理髪店で散髪中、たまたま広げた新聞にとんでもないニュースが書かれてあり、「食い逃げッ!」とばかりに店主が追いかけるも、脱兎のごとく(笑)外に飛び出し、そのまま全速力でキャンパスまでもどり、「オッピー、オッピー! ドイツのハーンとシュトラスマンだ! 核分裂に成功したぞ!」と叫ぶ場面とか、細かいところも史実に沿って描かれている。

 トリニティ実験当日のようすも克明に描かれていて、オッペンハイマーが感じていたであろう重圧は観ている側にもダイレクトに伝わってくる。早朝5時30分、やぐらのてっぺんに固定された「ガジェット」に点火。そして──約1分にわたって続く静寂のシークエンス。太陽よりも眩しい閃光。ベース基地にまで届く熱。ややあって猛烈な爆風と轟音。このへんも、実験に居合わせた科学者らの証言をうまく映像化していると感じた。

 しかし …… 地球をもふっとばしかねない「プロメテウス的な」強大な破壊力を手に入れたオッピーたち(と旧ソ連、その他の核兵器保有国)をあれだけ克明に描きながら、なぜ被爆直後のスチル写真のカットひとつも入れないのかと、被爆国の人間としては心情的にどうしても感じてしまう。あそこまで真摯に描いておきながら、じつに惜しい気がした。いくら「原爆の父」の視点中心とはいえ、戦後は一貫して、(かつてマンハッタン計画の仲間だった)エドワード・テラーらが推進した水爆開発が米ソの歯止めの効かない核軍拡競争に全世界を巻き込むことになると異を唱え続けた経緯もあるし、それくらいは許容範囲内だったと思う(日本でもかつて邦訳本がベストセラー入りした物理学者R・ファインマンもマンハッタン計画に参加した研究者で、もちろん映画にも登場する)。

 オッピーと決別したテラーの "Nobody knows what you believe. Do you?"(「きみが何を考えているのか誰にもわからない。きみもそうだろ?」)のオッピー評を含む登場人物たちの科白の端々に、オッペンハイマーという不器用な男の内面が、自分自身でもどうすることもできない複雑性をはらんでいた、ということもしっかり伝わるように描かれていた点は好感が持てた。3時間という長大な作品だけれども、それでもなお尺が足りないくらいだったかもしれない。トリニティ実験以後の世界はそれまでの世界から永久に変わった世界(人新世)であり、ティム・オブライエンなど、'60 年代の狂った核軍拡競争時代を描く文学作品やアートが次々と生み出されていくことになるのは周知のとおり。

※ 参考:広島原爆に使用されたウランの供給源となった鉱山労働者の話

評価:るんるんるんるんるんるん
posted by Curragh at 23:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画関連