2023年12月31日

新訳版『文学の味わい方』

 …… を、12月16日付で刊行しました。個人出版ものとしては 2019 年 10月に発行した『《輝き》への航海:メタファーとしての「ラブライブ! サンシャイン!!」』についで2冊目になりますが、今回は、版権切れの古い著作をあらたに訳しおろした古典新訳本になります(原著は1909 年刊行の Literary Taste:How to form it 初版本で、拙訳はパブリックドメイン扱いになってます)。

 アーノルド・ベネット(1867−1931)については高校生当時に受講していた通信教育の演習ワークブックに、再婚した「年下妻」である女優さんの回想記の一部が掲載されていたのを見てはじめてその名前を知った。吃音癖があること、規則正しい生活を送っていたことなど、なんせ高校生なので英文読解力は拙かったが、それでもこの年下の奥さんのベネットに対する尊敬の念は文のはしばしからにじみでていて、いまなお印象に残っている(ワークブックは探したけど出てこなかった)。だからベネットの名前はそのときからずっとアタマの片隅にはあった。

 ベネットと言えばなんといっても『自分の時間』(原題は How to Live on 24 Hours a Day)ですが、すでに小説家として一流の仲間入りを果たしていたのに俗に言う「自己啓発本」を立て続けに書き、どれもよく売れたというのだから、SNS で発信したりメディアにちょくちょく顔を出しては注目を浴びるような物書きのはしりみたいな人だったのかもしれない。げんに生前から、ベネットには俗物≠ニいう世評がついて回っていた(高級ホテルに連泊して作品を執筆し、豪華なヨットも所有して乗り回していた)。

 しかし、2番目の奥さんの回想記にもあったように、じつはとんでもなく克己心の高い人で、その手書き原稿は非の打ちどころのないほど美しい清書だったという。ただでさえ執筆に多忙だったのに、自分の両親にもせっせと手紙を書き送り続けた。そんな筆まめさと誠実な人柄は、親しい友人には周知の事実だったのだろう。第一次世界大戦中には、当時の戦時連立内閣とパイプがあった新聞王のビーヴァブルック卿マックス・エイトキンに推挙され、情報省宣伝局フランス課長を務めたり、自宅を開放して回復期負傷者の病棟として提供もした。ようするにベネットという作家は、言われているほどスノッブ野郎でもなんでもなく、むしろその対極に位置するような人物だった。ついでにこれもよく言われることながら、日本の文豪、幸田露伴や夏目漱石とおない年でもある。漱石はいわゆるロンドン留学中に、書店でベネットの本を目撃していたことはじゅうぶんありえる(ロンドンに向けて横浜港を出航したのは、ワタシの亡くなった母方の祖母が生まれた 1900 年なので、まさしくベネットが自己啓発ものを書いていた時代と一致する)。

 ベネット本はすでに名だたる訳者諸兄による既訳が多く出ていて、ワタシみたいなのがという気もないわけではなかったけれども、けっきょくいつのもように好奇心のほうが勝(まさ)ってしまった仕儀と相成り、今回なんとかぶじに刊行にこぎつけてほっとしている、というのが正直な気持ちです。

 個人的には、100 年以上も前に出たベネットの「文学のすゝめ」的なこの本に書かれてあることが、ほぼそのまま芸術作品と向き合うときの心得として通用する点にいちばん心を惹かれた。というか、そういうふうにベネットが書いてくれたからこそ、浅学非才も顧みず、個人新訳版を出してみようと思い立ったしだい。本は、ひとたびページを開くだけで書き手が生きていた時代に一瞬にしてタイムワープできるというふうになぞらえられることが多いが、ベネットに言わせればそれだけではまだ足りない。まずもって「手にとったその本は、書き手の心情の表出にほかならない。それをいまを生きるあなたの生活に移し替えなければせっかく本を読んでもなんの意味もなく、むしろ時間のムダ」だとばっさり切り捨てている。さらにこうも書いている。
芸術の最大の目的のひとつは、精神を掻き乱すことにある。そしてこの「精神の掻き乱し」は、すべてが整っている人にとっては最高の愉楽となりうる。ただしこの真実を会得できるようになるには、それこそ何度となくこの手の経験を繰り返すしか方法はない(Chp.9 「詩の世界」より)

 拙訳者当人が言うのもなんですが、まったくそのとおりですわ。「芸術は、バクハツだ!!」じゃないですけれども、ソレがないアートというのは、いくらモットモラシイ熱弁を振るったとしても、しょせんまがいものにすぎない。ベネットはこの本で「ではどんな本(作品)を読めばいいのか」について、3つの時代区分に沿ってリストアップしている(拙訳書にも注記したけれども、原書には当時いくらで売られていたか、その売価まで懇切丁寧に列挙されているが、それは割愛した。代わりに合計でいまの日本円でだいたいいくらになるのかは注記した)。また、「当時の英国ではどんな本が一般に読まれていたか」を知りたい、という向きにとっても本書は有益な資料になると思う。

 …… 個人的には、2023 年も悲喜こもごもてんこもりもりで、ほんとアっという間だった。世界情勢もそうだけれども、「地球沸騰化」というワードも印象に残った卯年の 2023 年でしたね。恒例の〆の1曲ですけれども、大好きなニジガクの楽曲(今夏公開の劇場版 OVA エンディング主題歌。「好きのチカラは強いんだよ 最強さ」はマジで spine-tingling もの)から選んでみました。それでは良いお年を。


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2023年11月30日

NHK Classic Fes.2023 に行ってきた話

 先日、NHK-FM の「今日は一日 NHK Classic 三昧」関連イベントとして開かれた野外コンサートを聴きに行きました。ナマの演奏に触れるのは何年ぶりだろう! きっかけは、解禁されたばかりのボージョレ・ヌーヴォーを呑みながらたまたま観ていたEテレの「クラシック音楽館」。番組後半で、なかば番宣のような感じで現役音大生の室内楽団3組が紹介されてまして、なかでも「洗足学園音楽大学 AQUA Woodwind Quintet」に興味を惹かれました …… なんたって「アクア」ですし(笑)。というわけで、アクアつながりで聴きに行ったしだい(しかも正午の開始早々、彼らの演奏だったのでこちらもラッキー。いくら暖かい日だったとはいえ、渋谷川! の真上の観覧席とあっては冷えるだろう、と思っていたが、まさにそのとおりだった。それに昨年暮れにいただいた身体守りをお焚き上げしてもらうため、穏田神社さんに返す[そして新しいお守りを買う]という大切な目的もあり、さらについでに近所の原宿ゲーマーズにも立ち寄って、『LoveLive! Days』ニジガク特集増刊本も買った。嵐千砂都そっくりのお団子ヘアのかわいらしい店員さんがいた)。

 ときおり日差しがあったとはいえ、どちらかといえば cloudy なお昼どきだったけれども、幸い絶好の天気に恵まれました。たった 30 分間だったとはいえ、久しぶりのライヴ演奏、それもふだんのワタシがまず耳にすることがない木管五重奏(フルート/オーボエ/クラリネット/ファゴット/ホルン)という編成だったので感激もひとしお。プログラムは、まずは NHK つながり(?)で「ゆうがたクインテット」のユーモラスな演奏で始まり、ドイツの作曲家ダンツィの「木管五重奏曲 Op. 56−1」、ジョルジュ・ビゼーの「カルメン組曲」から前奏曲・ハバネラ・闘牛士の歌、「ハウルの動く城」などの宮崎アニメメドレー、「ふるさと変奏曲」、そしてチャイコフスキーのこの時期定番の「金平糖の精の踊り」(バレエ音楽「くるみ割り人形」)でした。途中でメンバーによる MC というか楽器紹介みたいなコーナーもあり、「シングルリード」楽器と「ダブルリード」楽器の説明もありましたね(オルガンのリードパイプはシングルリード管になる。ついでにホルンを担当していた方の相貌は、某若手女優さんに瓜二つだった)。

 このあと神宮外苑前の有名なイチョウ並木の黄葉を撮りに行くため、そそくさと会場をあとにした。ふだんは Organlive.com や「らじる」といったストリーミング配信をかけっぱなしで仕事をしている身ではありますが、やっぱり音楽というのはナマがいちばんだなァとあらためて感じたしだい。そういえば Liella! じゃなくて Libera もたしか来日していたらしい。海外アーティストの公演もかなり復活してきて、ひろい意味での舞台芸術であるコンサートでなければ味わえない感動というものは、ストリーミング配信全盛時代にあっても(否、それだからこそ)あるのだと思う。

 ただ、海外来日組による❝お高い❞コンサートを否定するつもりはさらさらないが(この前、ミック・ジャガーのインタビュー記事を訳したばかり)、クラシック音楽に関しては、いまほんとうに求められているのは、このような気軽に参加できるタイプのコンサートではないかと強く思う。むしろこういうコンサート活動こそ大切で、地味ながらもこの手の演奏活動に人とおカネを入れて支援しないと、いつまでたってもクラシック音楽を聴く聴衆はこの国では育たず、また若返ることもないという気がする(テレビ画面に映るN響定演の客層を見ればわかる)。アニメつながりで言えば、ちょうどこのコンサートと時を同じくして一挙放送されていた『青のオーケストラ』もすばらしかった。いちおうこれでも元ブラバンの末席にいた過去があるから、あのアニメで描かれていた練習風景や主人公たちの葛藤は共感しかなかったですね。おかげで苦い思い出も蘇ったりしたけれども …… そういえばこの『青オケ』、演奏していたのが渋谷ストリームで実演に接した洗足学園音大のオーケストラだそうですよ。BRAVI!! 

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2023年10月31日

紙の本を読む喜びについて

 COVID-19 の流行もだいぶ落ち着いてきたかなぁ、などとぼんやり思っていたら、ガザ地区からの電撃的攻撃で突如して戦端が開かれてしまった中東情勢(下手をすると、第五次中東戦争になりかねない)。それにつられて高止まりする原油などのエネルギー価格。毎月の電力料金の明細を見て嘆息しておられる方も多いと思う、今日このごろです。

 ワタシは大の読書家でも愛書家でもないと自認してるんですが、それでも仕事に関係なく気になった本は図書館で借りたり、図書館になければこちらの専門サイト経由で注文して買ったりと、そこそこ読んでいるほうではないかと思ってます。というか、一度気になる本が出てくると読まずにいられないたち。たとえば 1987 年発行の奥付のある『ネットワーク犯罪白書』という翻訳本。インボイス問題でさんざん騒がれて、消費税というものが(とくにわれわれ零細業者にとって)益税でもなく、かつそんなもんは存在さえしないことがすこしは知られてきたのかな、などと思ってはいるんですが、とにかくその騒動の元凶である一般消費税導入前、まだ物品税で、パソコンも PC-98 全盛時代の昭和末期にアスキーから出版されたこの本の内容は、なんと「コンピューターを悪用したネットワーク犯罪」。すでにそんな知的犯罪が欧米のみならず、日本でも話題にのぼっていたなんて、いまの若い世代が知ればビックリ仰天すること請け合いです。読んで損はない、というか、資料価値もきわめて高い1冊かと思います。

 ここで個人的な話をすこしだけしますと、いまワタシは2冊めの Kindle 本を準備しています …… 今回は翻訳本。翻訳といっても、100 年以上も前の 1906 年に初版が刊行された原著の新訳になります。いま流行りの言い方を使えば、「古典新訳」というやつですね。なので原書は原則的に版権フリーです。これをいつだったか、オンライン古書店で買い求めて読んでいるうちに、つぎはこの新訳版を出そうと心に決めました(笑)。

 この Kindle 本についてはまた後日、正式に刊行したときにでも軽く触れるとして、いまいちばん強く思うのは、こういう騒がしい時代だからこそ、秋の夜長にお気に入りの1冊を手にとって、紅茶でも飲みながらページを繰る、というひとり静かに過ごすひとときがいかに人間の精神にとって大切か、ということ。どんな本だってかまわない。ワタシの場合はいちおうこれでも翻訳者なので仕事柄、アタマをカイメンみたいに絞らないとわからない、なんて難物もときには読んだりしますが …… たとえば個人的に近年、読んだなかでとくに難物だったのがコレ。おかげでダニエル・C・デネットという、米国の認知科学者にして哲学者を知ることができた。かなり時間はかかったけれども読了し、そのまま忙しさにかまけて放置していたんですが、新聞投稿の景品の図書カードが溜まりまして、ようやくいまごろになって ¥4,200 もするお高い訳書(しかもペンギンブックス版原著より分厚いハードカバー仕様!)を地元書店にて買い求め、ヒマなときに比べ読みしています。原文と人さまの訳を突き合わせるのもやはり仕事柄、必要な勉強というわけです。ちなみにこのデネット本、COVID-19 がらみで「耳タコ」になったワードの PCR(ポリメラーゼ連鎖反応)に関する記述もあります! 本を書いたデネット先生自身、まさかここまで人口に膾炙するバズワードになろうとはユメにも思わなかったでしょう(分厚い本、とくると、つい最近、延び延びになっていたトマ・ピケティの最新刊の邦訳がようやく出ましたね)。

 そして前回、ここで紹介したような、読む者の背中をそっと押してくれるような爽快な読後感が期待できるラノベだっていいんです。先日、帰りのバス車内で女子高生のすぐ後ろの席に座ったんです。見るとはなしにその子のようすをうかがっていると(※ストーカーではない)、目にも止まらぬ早わざでじつに器用に親指フリックフリック! で、インスタだの LINE だの、iCloud フォトだのブラウザだのイヤフォンで聴いている音楽プレーヤー画面だの、それはそれは目まぐるしく画面を変え続けて、すこしは手も目も休めりゃええのにって、まことにお節介ながらそう感じて眺めてました。…… ま、ワタシもスマホいじくってるときは、おそらく第三者からそう見えているでしょうけれども。

 で、思ったんですね。…… なるほど、だから『ネット・バカ』とか『スマホ脳』とかの翻訳ものノンフィクションがベストセラーになったのかって。たしかにそんなことばっかり続けていたら、マジで精神的に崩壊する恐れはある(Apple 元 CEO のジョブズや、MS 共同創業者のビル・ゲイツといった IT テック企業人でさえ、子どもにスマホやタブレット端末は持たせなかったって話もあるくらい)。そこで読書の出番だ。たまにはスマホから手を離して、紙に印刷された活字を追ってみるのも楽しいですよ。ハロウィーンパーティーで盛り上がるのもいいけれども、「読書の秋」とは、けだし至言です(投稿のお題は、ショーペンハウアーの古典『読書について』のもじり)。

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2023年09月30日

小説版ラブライブ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 紅蓮の剣姫〜フレイムソード・プリンセス〜

 いままでいろんな分野の本を──必要に迫られたり、たんなる好奇心からだったりといろいろだが──積ん読乱読精読してきたけれども、ウン十年生きてきてこのたびはじめて「ラノベ」(ライトノヴェル)なるもののページを繰った …… 人間の運命って不思議ずら。

 もっともこれは、通称アニガサキと呼ばれているニジガク(『ラブライブ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』)のある時点のエピソードを小説仕立て≠ノしたノヴェライゼーションという体裁なので、厳密な意味でのラノベ作品とは言えないかもしれない。それでもワタシにはすごく新鮮だったし、個性豊かなニジガクのスクールアイドル同好会のめんめんの内面をアニメではなく、活字で表現するのもアリだと思った。小坊のころに読んだ(というか学んだ)マンガの描き方指南本に、「マンガは絵で表現するから意味がある。文字で表現したければ、小説を書けばよいのである」とあって、たしかに、と感じたのをつい昨日のことのように思い出す。

 小説版には、活字表現ならではの場面描写、各キャラクターの心のひだの奥に分け入った細かな心理描写の妙がある点が良いところ。だからやはりこの作品はあくまで小説版として独立した立ち位置を与えるべきかと思う。ただ、個人的な好みを言わせてもらえれば、オーディオブックとして発売してほしいところではある(高咲侑、上原歩夢、そして本作のヒロインである優木せつ菜/中川菜々の声≠ェ脳内再生されるけれども、やはり声優さんに演じてもらう朗読劇、ないしはオーディオブック版がこの作品についてはとくにふさわしいかと。オーディオブック版なら寝っ転がりながらでもこのアツい物語を楽しめますしね)。

 なんといっても唸らされたのは、さすが手練れのラノベ作家さんだけあって、巧まずしてストーリーに引き込むその筆力、そしてアニガサキのメインストーリーとの親和性かな。この小説版は、鎌倉市内の桜坂しずくの家でお泊まり会をした直後の 11月初旬から始まっている。「港区近隣の学生たちが主体となってお台場で行われる文化交流会=vに虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会も参加することになり、演し物について話し合っていたちょうどそのせつな、優木せつ菜が(せつなだけに)部室に飛び込んできて、大人気ラノベ『紅蓮の剣姫(けんき)』のミニフィルムの自主制作と上映会の開催依頼が同好会に来たとみんなに告知する。

 つまりこのお話は、お泊まり会−アニメ本編の同好会 Firstライブ直前にすっぽりはまる設定になっている。小説版で描かれた「ミニフィルム上映会」というエピソードがあったからこその Firstライブなのだと知れば、さらにエモエモで尊みはもっと深まる、というわけ。ひとりひとりのキャラクターに関しても、これまでのアニメ本編のエピソードがさらりと引用されて、アニガサキをまったく観たことがない読者にも配慮が行き届いている。それでいてこうした引用はクドくならず、アニガサキをがっつり鑑賞したという向きもなんの違和感なくすっと感情移入できる。このへんはさすがとしか言いようがない。

 ただ一点だけ個人的に? がつく箇所は、p.115 の朝香果林の性格描写のくだりくらい。「…… どちらかと言えば物事を理論で考える果林に対して、直感的な[宮下]愛の意見はとても参考になる」。下線部は、テストの成績はいつも赤点すれすれでどちらか言えば学業は苦手らしい彼女にしてはずいぶん知的な言い回しで、才女的な雰囲気さえも感じるところなんですが、ようするに[DiverDiva というユニットを組む相手の]直感的に物事を捉える宮下愛と違って自分はひとつひとつ順序立てて物事を考えるたちだ、ということですから、ここはもっと通俗的な表現でいいような気がする。「論理的」でもまだカッコよすぎる感じがするので、「物事を理屈で考える果林に対して … 」くらいではないかと。

 それ以外はとくに違和感なく物語の世界にどっぷり浸れて、フィクションものとしては久しぶりにワクワクしながら読み進めることができた。アニメの小説版という先入観なしに、ふつうの文学作品としても出色の出来だと思う。アニメ世界の感動が、紙の上の活字となってよみがえってくるようだった。なによりすばらしかったのは、『ラブライブ!』シリーズに通底するメタメッセージを小説版でもしっかり伝えている点。たとえば、音楽室でふたりきりになった侑がせつ菜に声をかける場面──
「──あのね、忘れることなんてないよ」
と、ふいに侑がそう口にした。
「え……?」
「私たちが……せつ菜ちゃんのことを大好きなみんなが、せつ菜ちゃんのことを忘れることなんてない。こんな風に、せつ菜ちゃんとの思い出はいっぱいある。ここだけじゃなくて、部室にも、教室にも、屋上にも、中庭にも、たくさんたくさん、もう数え切れないくらい。それは何があったって消えないよ」
(中略)
「だから優木せつ菜≠ヘいつだってみんなの心の中にいる。どんなかたちになっても忘れられることなんて絶対にない。何もなかったことになるなんてない。せつ菜ちゃんの灯は消えないよ。お節介かもしれないけど、それだけはせつ菜ちゃんに伝えておきたくって」
 ラストシーンの「紅蓮の剣姫」の紅姫(アカヒメ)の心情をどう演じればよいか悩んでいたせつ菜の迷いは、この侑のことばと、その後、同好会メンバーも合流して演奏された「Love U my friends」で消え、剣姫としての紅姫がどんな気持ちでこの世界から消えていったか、そのほんとうの気持をつかむことができた。ここの場面を読むと、どうしても劇場版『ラブライブ! サンシャイン!!』の高海千歌の次の科白が思い出される。
だいじょうぶ、なくならないよ! 
浦の星も。この校舎も。グラウンドも。
図書室も。屋上も。部室も。
海も。砂浜も。バス停も。
太陽も。船も。空も。
山も。街も。
Aqoursも。
帰ろう! 
ぜんぶぜんぶぜんぶここにある。ここに残っている。0には、
ぜったいならないんだよ。
私たちの中に残って、ずっとそばにいる。
ずっといっしょに歩いていく。
ぜんぶ、私たちの一部なんだよ。
「変わるものと、変わらないもの」。この小説版では、卒業を控える朝香果林と、下級生の宮下愛とのやりとりにもそれが描かれているが、これはまさに永遠のテーマと言えるもの。「さよならだけが人生だ」と訳したのは井伏鱒二だったか。英語には ❝Life goes on.❞ という言い方があるけれども、人が生き続ける以上、年をとってゆく以上、変化はしかたないこと。し・か・し、それでも変わらないものというのはある。「永遠をいまここで経験しなければ、それを経験することは決してない」と比較神話学者のキャンベルは言った。『ラブライブ!』シリーズにもそれがしっかり描かれているとワタシは思っている。だから人生の教科書だという人もいるし、文字どおり人生が一変したような人もいる。こんな強烈なパワーを秘めた物語(コンテンツという言い方はあまり好きじゃない。もともとの意味は「中が満たされたもの」、字義どおり中身というただそれだけなので)はそうそうお目にかかれるもんじゃないと個人的には思っている。

 本文に添えられた相模氏によるかわいらしい挿絵も良き。巻末のせつ菜のイラストには「虹ちゃんに出会えてよかった」と添えられているが、この本を読んだすべての読者もおそらく同じ気持ちかと思う。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるん

2023年08月27日

Barbie

 この夏、物議を醸したことのひとつが、いわゆる“Bubenheimer”。で、オラには関係ないや、なんてのほほんと構えていたら天の配剤(?)か、やむを得ない事情で急遽、鑑賞することに。

 ごく手短に感想を書きますと、作品じたいはとてもよくできていて、配給元はなんであんなバカげた騒動を引き起こしたのかがさっぱりわからない。そしていまやかまびすしい感すらある(皮相的な)フェミニズム云々に偏向することもなく、のっけから『2001年宇宙の旅』のパロディで幕を開けるなど、楽しい仕掛けも盛りだくさん(バービー製造元マテル社の男の CEO が何度か“sparkling”と口にするが、ひょっとしたらこれも米国在住の近藤麻理恵氏のパロディかもしれない。「心がトキメクものだけを残せ」がこんまりメソッドにあると思うが、そのトキメキの英訳に使用されている単語が sparkling)。

 あらすじは、「なにもかも完璧で、毎日が同じことの繰り返し」なバービーランドから、現実の人間世界で起きたある事件をきっかけに、万年ボーイフレンドのケンとともにピンクのオープンカーでバービーランドと現実世界との“結界”を超えて人間の住む現実のカリフォルニア州へと乗り込む。人間世界にやってきたふたりは、バービーランドにいたときには感じなかった疑問に直面し、それがきっかけでバービーランドは大混乱……みたいな展開。結末はなんか人魚姫的にも思えたが、ミュージカル仕立てで(こちらも過去の映画作品のパロディを連想させる)ストーリーが進行するなか、ひとりの女性が、旧態依然な男中心社会がいまだに残るこの世界でどう生きるべきかも深く問いかける内容で、2時間近い上映時間もまったくダレることがなかった。

 ところで主人公バービーが模索した「女性の生き方」、いや、男女のべつに関係なく人としての生き方の参考になると膝を打った本があります。それが、初代バービー人形の着せ替え衣装を米国人デザイナーとともに開発した日本人、宮塚文子さんの回想記『バービーと私』。「ふつうの女子社員に名刺を持たせるということがない時代」に、「自分の時間はすべてバービーにささげました」と胸を張る宮塚さんのこの半世記はすばらしく、心を打たれた(宮塚さんはその後、自身の縫製会社を起業し、志村けん人形(!)やモンチッチ(!!)の衣装作りも担当したという)。

 映画の評価はるんるんるんるんるんるんるんるん

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2023年07月28日

「自分の限界を決めるのはやめます」

 とくにコロナ禍後の、いまの日本(と世界)を見て感じること。それは“All for one”だけを叫び、ご自分の責務(“One for all”)を果たそうとはツユほどにも感じない人が洋の東西を問わず大多数だということです。この OVA 作品は上映時間が短いながらも、世界を変えるとは、自分を変えることという真実をあらためて教えてくれる佳作です。

 このさい一言しておくと、ワタシが一貫してこのアニメシリーズを追っているのは、狭い意味でのオタク根性(C.V. の◯◯さん推しとかのたぐい。基本的にストーリーとキャラクター重視派で、キャラに生命を吹き込む声優さんをはじめ、監督さんやその他制作陣のみなさんは「裏方」であり、主役は「作品」だという作品本位主義)からではない。一連の作品群が、J.ジョイスの『ユリシーズ』(1922)に出てきた「あれが神です」というスティーヴン・ディーダラスの科白を地で行く、音楽主体の「教養小説」アニメだと本気で考えているからだ(だから『ラブライブ! サンシャイン!!』の考察小冊子も書いた)。

 で、ここに書いたのはもうずいぶん前になるけれども、通称アニガサキと呼ばれる TV アニメ版『ラブライブ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』の1期と2期も、機会あるごとに繰り返し観てきた(そういえばこの前、某ネット TV にて『ラブライブ!』シリーズ全作一挙配信もあった。現時点で全 104 話、50 時間強というトンデモない分量なので、さすがに一気見はムリだったが)。

 そしてこれは脚本の方向性ないしクセというのにも左右されるかも知れないが、一見、「同好会」という独自の活動を展開しているニジガクのスクールアイドルたちは、「ラブライブ!」という大会からもっとも遠く離れているように見えるが、じつはこのアニメシリーズが終始一貫、訴え続けてきたことをもっともわかりやすいかたちで体現していると個人的には感じている。ぶっちゃけた話、このシリーズでいちばん好きになったのがアニガサキで、われながらこんな展開になって驚いている。Aqours ももちろん好きですよ、なんたって地元民ですし、スピンオフの『幻日のヨハネ』がいまちょうど放映されていますしね。もっともこちらは完全に方向性の異なる「異世界もの」に仕立てられているから、大会としての「ラブライブ!」うんぬんとは直接的な関係はありません。

 というわけで TV アニメ2期の最終話で英ロンドンの短期留学へ旅立った上原歩夢が2週間の滞在を終えて帰国するシーンから今回の OVA 作品は始まります …… で、毎度ここで断っているように、内容に関してはワタシなんかよりはるかに深い洞察を披瀝してくれるブロガーさんたちが一定数おりますので、内容に関してはそちらを参照いただくとして、いくつか印象的な場面を記しておきます。

 またもや「桜坂しずくプロデュース」(?)かどうかはわからないが、のっけから意味深なバラード調の楽曲と、これまでのニジガク同好会の軌跡をたどるかのような MV で始まる(ちなみにワタシは初回を聖地のお台場の劇場で鑑賞してきたので、いまさっき見てきた風景がそのままスクリーンに大きく映し出されていて、いつもながらちょっと不思議な感じがした)。アニガサキを全話観た人ならたちまちピンとくるけれども、この曲を歌っているのは三船栞子・鐘嵐珠(ショウ・ランジュ)・ミア・テイラーの3人からなるユニット R3BIRTH(リバース)。TV アニメ本編では出番のなかったこの3人組の歌唱で OVA 版が始まるという、すばらしく自然な展開になっていたのが好感できる(さらに、秋葉原・沼津・金沢と他シリーズの舞台までさりげなく出して、おまけに高咲侑や宮下愛らが「おいしいね!」とのっぽパンや寿太郎みかんジュースを味わうカットまであるというサービスの細かさ)。というか、この作品は最初からそんな「神」展開ばかりで、『ラブライブ!』シリーズお得意の風景描写にキャラの心理を重ねる手法も、アニガサキがいちばん洗練されている。ちなみにミアちが MC で言っていたのは、「ボクたちはまだまだ止まらない YO! だからみんなもしっかりついてきて!」だと思う(“We're not stopping here, hang on tight!”)。

 R3BIRTH の登場で、カンのいい人はさてはと思ったかもしれないが、歩夢がロンドンから連れてきたアイラというスクールアイドル志望の子の物語ながら、じつは栞子が抱えていた悩みの解決が果たされる展開で、隠れ主役は栞子だった。これまでの栞子は「適性」というタームで、みずからの無限の可能性を「鳥かご」に閉じ込めていたひとりだった──それを解放するのは誰か? 自分しかいない。
アイラさん。やはり、あなたはわたしに似ています。無理なものは無理って、自分で限界を決めてるところ。
…… 私も自分の限界を決めるのはやめます! だから、思い切り楽しみましょう! 
たしかに世の中、「思ったとおり不条理」というのはどうしてもあるが、それでも頭角を現すような人はいるわけで。差はなにかと問われれば、これまた以前から繰り返し書いてきたことの蒸し返しになるが、「あきらめずに続けてきた」人だけが限界を突き抜けて、「ほんとうになりたかった自分」、「ほんとうにやりたかった仕事」などをつかみとることができるのではないかって思う。トシとってきてますます強くそう感じるようになった。アイラの場合は、たとえ学校の正式な認可が得られくてもダイスキは貫くことができる、ということを栞子から身をもって教えられたところに現実味があり、大きな感動があったのではないだろうか。こういうバタフライ効果が広がれば広がるほど、世界を変える原動力となる。

 また「スクールアイドルの聖地」のひとつ、神田明神の男坂を降りているときの、天王寺璃奈と宮下愛のやりとり──「愛さんは何をお願いしたの?」「これからもみんなと楽しく、スクールアイドルやれますようにって」「わたしも同じ!」──は、今後の展開に影を落とすカジュアルトークかもしれない(来年以降、劇場版3部作として制作が決まっている)。

 そして相変わらず楽曲も攻めていて、いかにもニジガクらしくて最高。まだ ED シングルは買ってないが、冒頭の「Feel Alive」の盤はラジカセの CD デッキに入れっぱなしにして仕事中もかけっぱなしにするほど気に入っている。ラップ系はニガテなはずなのに、なぜかこちら(「Go Our Way!」)は心地よいのが不思議(Oh E Ah Oh Oh E Ah!)。

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 あと本編とはカンケイないが、エンドロールの「発表会」について。自分もメッセージ寄せて応募した身だからそれだけでバイアスが〜とか言われそうだが、この企画、一部の人はお気に召さないようで。個人的にはもうすこしじっくり見たかったのはしかたないとして、こういう企画をアタマごなしにダメとか言う人は、はっきり言って軽蔑する。「◯◯大学でがんばります」「りっぱな教員をめざしてがんばります」「政治家を目指します」「人前でしっかり話せるようになりたい」などなど …… これのどこがいけないというのだろう? 「みんなで叶える物語」で始まったこのシリーズらしい参加企画で無問題ラ! と思いますがね。みなさんのメッセージはいまはあまり見られないけれども、じつに多くの方が真摯に「決意の光」を表明されていて、ワタシもおおいに刺激を受けた口。それに虹ヶ咲学園ですからね。虹ってほら、昨今では diversity の象徴でしょう。なんでもありな寛容さも作品の売りのひとつかと(そういえばつい最近、訳したのがその「虹」のでき方に関する記事だった)。それを自由闊達に表現するには、必然的に「ラブライブ!」大会出場を目指さない主人公たちのストーリーとして描く手法に行き着くわけです。

 蛇足ながらアニガサキの脚本を書いたのは田中仁さんという方で、こちらも大人気ご当地もの TV アニメ『ゆるキャン△』の脚本を書いた方でもある …… のはファンなら百も承知でしょうが、伊豆半島も出てきた2期はとても楽しめた(西伊豆町の黄金崎までまさかの聖地認定)。アニガサキは脚本の秀逸さも光る作品であるのは間違いない。

2023年05月23日

古典が古典と言われる理由

日本を代表する名翻訳家のおひとり、柴田元幸先生がジョナサン・スウィフトの名作『ガリヴァー旅行記』の個人完訳を新聞夕刊に週1のペースで2年間、掲載していたという驚愕の事実を「ラジオ深夜便」(しかも今年1月の再放送)でこのたび知るという …… いくら自分の仕事に追われていたとはいえ、ソレはないやろ、とこれは自分自身への悔悟のセリフ(柴田訳は版元が新聞社のせいなのか、「ガリバー」と中古車販売会社みたいな表記にされているが、ヴィヴァルディを「ビバルジ」と書けないのとおなじで、ここはしっかり v の音写で表記する。ちなみにウィーンよりヴィーンと書きたいのはやまやまながら、こちらはぐっとコラえて慣習に従う)。

 また、柴田先生訳の少し前に出た高山宏先生による新訳版とご自身の訳書とを比較して、「ぼくの訳はお茶の間に届くガリヴァーです」とおっしゃっていたのはさすがだなァと感銘を受けた。「古典は酒。わたしの本は水。みんなが飲むのは水だ」と言ったとか言わないとか、マーク・トウェインのよく知られたアフォリズムが思い出されますね〜。

 ところでこれけっこうな大作でして、こびとのリリパット国の話はつとに有名ながら、巨人の国や馬の国、そしてなんと日本まで出てくる(!)。ほぼ同時期にデフォーの『ロビンソン・クルーソー』(1719)も出てます。当時は旅行記の体裁を借りた諷刺文学(パスティーシュもの)がもてはやされていたようです。『ガリヴァー』が書かれたのは、柴田先生も言っていたが、バッハの「マタイ(BWV 244)」が初演された前年の 1726 年。大バッハと同時代人でもある、アイルランドの司祭さんというわけ(正確には、アングロアイリッシュ系の人)。「馬の国」に出てくるヤフー(人間もどき)は、たしかポータルサイトの YAHOO! の語源だって聞いたことがある(間違っていたらごめんなさい)。

 原文とまともに向き合ったことがないからこれもはじめて知ったけれども、柴田先生によれば、きわめて現代的な British 英語で書かれているという。スウィフトは召使いに書き上げた分の原稿を見せて、意見を求めたとか。リーダブル重視だったんですねぇ、これもはじめて知った。アイルランドとくれば、20世紀の大小説家ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』があるけれども、そうそう、やはりちょうどこの時代にはローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』というトンデモない散文作品もありますね。日本にはじめて紹介したのがかの夏目漱石という話もしていました。邦訳に際して、柴田先生はパラグラフを自由に切ったとおっしゃっていたのが印象的だった。たいてい海外の純文学ものの翻訳はエンタテインメント系と違って、パラグラフはそのまま尊重して訳すのがふつうなので(海外ミステリもの翻訳も、たいていは原文のパラグラフを尊重しますが)。

 スウィフトが『ガリヴァー』を書いた当時、まさかこれが「古典」の仲間入りして、300 年近く経過した地球でも読みつがれる物語になるとは思ってなかったんじゃないかって思う。いまちょうど Kindle 本としてアーノルド・ベネットのエッセイの邦訳の準備を進めているところなんですが、教養=読書量、つまりなんでもかんでもとにかく活字を読みなさい的な発想はいまだ根強いとも思う。でも ── たいした読書家でもない門外漢が喋々(ちょうちょう)すべきじゃないが ── それってホントなんだろうか? 最近、どうにも挨拶に困る本が増えてるなぁと感じているもので。そんなワタシの困惑は、最近の書評もどきにも表れていると思う。つい最近も、そんな「科学もの」の邦訳文庫本を(仕事で入り用になり、どうしても)買うハメになったし(著者は理論物理学者にして「ネットワーク科学」なるものの提唱者。たとえばラン・ランの演奏にケチつけて音楽コンクールは意味がないと切って捨てたり、絵画のコレクターのくせして美術そのものに価値はなく、美術界における名声しだいで値がつくとかなりの偏向ぶりで、はっきり言って途中で読む気が失せた。そもそも「成功する人・しない人」なんか腑分けしてなんか意味があるんですかね。世渡りがうまいとかヘタとかそんな次元の話じゃないの? だれもが億万長者になれるわけでも、それで確実に幸福でハッピーな人生が送れるわけでもなかろうて[カネ持ちになればなったで強殺される危険も高まる]。これならまだ『サピエンス全史』を読んだほうがマシというもの)。

 最後に、柴田先生が朗読した『ガリヴァー』の記述が心に刺さらない人は世界のどこにもいないだろう。だから『ガリヴァー』は時代を超越して、古典としての永遠の生を獲得したのだと思う。
……(戦争の)原因も動機も無数にありますが、主たるものをいくつかご紹介します。君主が野心家で、統治する土地や人民が、いくらあっても足りないと考える場合。腐敗した大臣たちが悪政に対する臣民の抗議を押さえつけるか、矛先をそらすかしようと、君主をそそのかして戦争に走らせる場合。また、意見の相違がもとで、これまでに数百万の命が失われてきました。たとえば、肉体がパンなのか、パンが肉体なのか。ある種の果汁が血なのか、葡萄酒なのか。口笛は悪か徳か。…… 意見の相違がもとで起きる戦争ほど、しかもそれが些末な事柄に関する相違であればあるほど、戦争は激しく、血生臭くなり、かつ長引くのです。…… 敵が強すぎるという理由で戦争を始める場合もあれば、弱すぎるという理由で始まる場合もあります。ときにはわが国が持っているものを隣国が欲し、あるいは、わが国が欲するものを隣国が持っていて、いずれにせよ、戦え。彼らがわれわれのものを奪うか、われわれに、自分のものを明け渡すかするまで続けるのです。…… ある君主が敵の侵入に対抗しようとべつの君主に支援を請い、支援し敵を駆逐した君主がその領土をみずから奪い取り、支援を要請してきた君主を殺害、投獄、追放することも、王にふさわしい名誉あるふるまいとして頻繁に行われます。

 それでも、「どのように読んでもかまわない。視点を決めないように!」と訳者の柴田先生はしっかりお断りしている。たしかにそれこそが原著者が望んだ「読み方」だったとワタシも思う。I couldn't agree more! 

 ちなみに柴田先生がつぎにとりかかりたい翻訳の仕事は、メルヴィルの『白鯨』とか。ぜひ実現されることを祈念しております。

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2023年02月11日

『公式より大切な数学の話をしよう』

 邦訳書名(原題はオランダ語の Plussen en minnen『プラスとマイナス』)だけパッと見すると、なにやら 10年くらい前に一世を風靡(?)した、米国人政治学者の書いた本っぽくも思えますが、そちらの先生が説いた「政治的な正義の話」より、ダンゼンこっちのほうが目からウロコが落ちるだろうし、役にも立つと思われます。

 著者はなんと! まだ 20 代の若き天才数学者のステファン・ボイスマン氏。といっても、某週刊誌に「私の愚妻が〜」などと差別用語丸出し寄稿文を長年連載しつづけてきた先生のような思想的に偏った人でもありません。「文は人なり」って申しますが、それはオランダ語原文から直接邦訳された訳文からもいきいきと伝わってきます。

 のっけから、「数学は何の役に立つのか」と「そもそも論」からいきなり入る。この手の一般教養書(いまはあまりこう呼ばないのかもしれないが)を手にとる読み手なら、だれしも必ず抱く通過儀礼のようなこの大きなギモンに真正面から切り込んでゆく。しかも著者自身、「本書は、高校時代の自分に向けて書いたとも言えるが」と告白しているように、かつては公式やグラフの使い方を丸暗記する必要がなぜあるのかと、数学の素養もなにもないワタシとおんなじギモンを抱いていたという! 

 こういう経歴の持ち主が書いた本がおもしろくないはずがない。2018 年にオランダ語初版が刊行されるとたちまちベストセラー入りして、日本語も含む世界 18 か国で翻訳出版されているというのもうなずけるお話ではあります。

 数学の本、とくると数式がゴチャゴチャ出てきてイヤずら、という向きはワタシも含めて大多数かと思いますが、この本で出てくるのは高校までに習った図形の面積や円柱などの立方体の体積を求める公式くらい。著者が繰り返し説いているのは、「数学は現実世界と無縁な抽象世界」ではけっしてない、ということ。公式はあまり出てこない代わりに、わたしたちの身近な応用例をこれでもかってくらいにバンバン提示してきて、それこそ息もつけないくらいです。そんな数学の応用例として、いきなり(?)大阪の地下鉄路線が登場したのには目を丸くしたが(p.19、微苦笑)。数学の歴史について書かれた章はまんま人類がたどった歴史でもあるし、それを読めば(ヒトの赤ちゃんには目に映る物体について、すでに足し算・引き算ができる可能性があるとする研究の引用もあったりとこちらもすこぶるおもしろい)、古代メソポタミアやエジプトのような、わたしたちの祖先が築いてきた文明社会から現代社会にまでつづく人類の営みには、使い方の問題はむろんあるが、数学的思考と、数字や計算式といった数学のツールなくしては実現不可能だったことがしつこいくらいに具体例を紹介して語ってくれる(それゆえ古代ギリシャ人が、音楽を数学の一分野とみなしたのも当然の話。この本によると、古代ギリシャ人は自然数をなによりも重視していたそうですが、そのギリシャでピタゴラス音律が生み出されたのもよくわかる話ではある)。

 ワタシももちろん数学が苦手(なのに、なぜか工業系高校だったが。ドイツの数学者ベルヌーイの名前をこの本でひさしぶりに見たときは、「いやぁベルヌーイの定理か、懐かしいずらぁ」ってひとりごちたもの(これはたとえばポンプなど、流体力学系装置の設計に応用される。ついでにその手の文書で head と出てきたらたいていは「水頭」の意味だと思ってよい)。この本には微積分の応用例もたくさん出てくる。橋や自動車や飛行機といった乗り物の安全設計や建物の構造計算、天気予報(数値予報という言い方を聞いたことがあるでしょう)、果ては政府統計でもちいられる経済予測や税制にまで、人間の活動する分野はほぼすべてではないかっていうくらい、微積分のお世話になっていることを力説する。

 数学ってたしかにとっつきが悪い。数字にもいろいろ種類(有理数・無理数・自然数・素数・因数)があり、数学を数学たらしめている最大の要素である抽象性が、さらにとっつき悪さに拍車をかける。けれども、「こんなのなんのために勉強するのか? 学校ではもっと社会に出て役立つことを教えればよい」などというのはただの詭弁であり、危険でさえある実例も引いている。それは確率と統計の話だ。

 確率と統計 ── は、この前ここでも紹介した本がまさにそんな内容だったが、この数学の本にもやはりその重要性と落とし穴が、憶測ではなくしっかりしたファクトにもとづいて書かれている。そして、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックがまだ終息していないいまを想起させるような、 170 年くらい前の話も出てくる。
1850 年ごろ、人々はコレラに苦しんでいた。断続的に流行が繰り返されるなか、感染経路は明らかになっていなかった。原因についてはいくつかの説があり、「悪い空気(瘴[しょう]気)」、つまり悪臭を吸うことで病気になると広く信じられていたが、怒るとコレラにかかりやすくなるという妙な考え方もあった。コレラに倒れることがないように、楽しく穏やかにすごしましょう ── ニューヨークの住人は 1832 年と 1844 年にこんな通知を当局から受け取っている。コレラは水を媒介して感染するのであって、本人が怒っているかどうかは無関係であるという正しい原因を予想した者もいた。(ibid., pp.178−179 )

 21 世紀の人間は、この一節を見てとても笑えまい。

 また統計をめぐっては、相関関係と因果関係をゴッチャにする分析やそれを根拠にしたウソ八百(?)のでっち上げがあとを絶たないんですが、この点についても、「ニコラス・ケイジ(!)と溺死者数の関係」のグラフを引いてたいへんわかりやすく、そして的確な警告を呼びかけてもいる。統計統計ってみなさんすぐ口にするが、トランプ政権時代の司法長官の悪用例(pp. 187−88)のように、これを正確に「読み解く」のは、じつはけっこう難しい(おなじことは、X 線写真、つまりレントゲン写真にも言える。そのせいで少年王ツタンカーメンは「後頭部を殴られて」暗殺された、なんて説がでっち上げられた)。

 そして著者は巻末、バッハの「ゴルトベルク変奏曲」のアリア主題よろしく、また最初の出発点にもどってくる。
毎日の生活のなかで、複雑な計算式を目にすることはまずない。それでも、これは 15 歳のときの僕に向けて言いたいが、身のまわりにあるものは数学が研究した(ママ)ことの成果なのだ。複雑な構造の建物、天気予報、大量のデータに基づく世論調査や予想、検索エンジンや AI。数学の基本的な概念がわかっていれば、これらのことはもっとよく理解できる。(ibid., p. 249)

 検索エンジンのアルゴリズムとして、Google のページランクの計算原理なんかも出てくるけれども、そうそう、Google 以前の検索エンジンってほんと使いものにならなかった。インターネット黎明期なのだから、それもしかたないとはいえ(イン○トミのことね)、それがいまではなんですか、あの ChatGPT というのは。つい先日、Microsoft が自社のブラウザの検索エンジンに順次搭載するってニュースで報じられてましたけれども、これもまた高度な数学を応用した成果。もっとも危険性はある。こういうことが究極まで進んだ世の中が果たしてよいものかどうかは、数学とはまた違う次元と異なる視点でじっくり考え、検討する必要がある。つまり、そのためにも数学以外の学問は存在するわけでして、文学や音楽といった芸術一般も含め、それを身につける、教養を身につけることがなぜ必要かという問いにもつながってくると思う。これは勉強というより、人はなぜ学ぶ必要があるのかという問いです。古代ギリシャの有名な数学者もまた似たようなことばを残しているけれども、勉強、いや学問というものは、「すぐに役に立つか立たないか」で判断したらぜったいにマズいと思う。それがあるなしで、人の一生が変わってしまうこともありうる。それがあったからこそ生きるよすがとなったというケースもある。ようは、生きるために必要なんですよ。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるん

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2023年01月27日

金をかけずに英語の基本を身につけたい人は

 「大西泰斗の英会話☆定番レシピ」と「ラジオ英会話」をおススメします。

 といっても、ステマじゃないよ。ワタシがここでこういうことを書くのはめったになく、書くときはホントに自分がそう思っているから書くんです。とにかくこの番組、だいぶ以前に放映していた「NHK3か月トピック英会話・ハートで感じる英文法」以来のヒット作とさえ思っております。

 個人的には、ちょうど納品したばかりのインタビュー記事にもおんなじこと(そちらは英語ではなくて数学の話だったが)が書かれていたけれども、英語をとくべつ必要とせず、人並みの IT 知識さえあれば、AI(!)支援の最先端の通訳/翻訳アプリもあるし、人力だって問いかければロハ(=只、つまりロハ)で何でも教えてくれるという、その昔バカ高い国際電話料金払って海の向こうのインフォーマントに問い合わせてた、なんて往年の世代からしたらディズニーランド級の夢の世界が IT の進化でいともあっさり実現しちゃってるんだから、文明の利器を利用しない手はない。

 しかしこと英語に関しては、他の外国語に比べてなぜか(?)、「ラクして身につけたい」とか、あるいは逆に、そういう人をカモにした(pace、言い方失礼)詐欺的商法があいもかわらず横行しているのはどういうことなんでしょうねぇ、といつも慨嘆せざるをえない。

 語学留学という手もあるが、あれだって(またまた失礼)けっきょく業界が儲かるからであって、必ずしも払った対価に見合った効果(流暢な会話力とか)が身につくなんて保証はどこにもないんですね、冷静に考えていただければすぐわかりそうなことですが(現地に行って現地民と触れ合うのは貴重な経験ではありますが)。

 では、留学資金もなし、忙しくてそんな時間もなし、それでも最低限の英語力だけはなんとしても身につけたい。そんな方にうってつけだと思っているのが、この番組なのです。

 大西先生の教授法は掛け値なしにピカ一だと思う。とにかく教え方がうまいし、説明の仕方がストンと腑に落ちまくりです。ここでもかなり以前に書いたことがあるけれども、「to 不定詞と ing 形の違い」についてもじつにわかりやすかった。

 というわけで、まことに僭越ではありますが、ここでもすこし大西先生のみごとな講義を補足(いや、蛇足か?)しておこうかと思ったしだい。

 ❶ It is difficult to study English.
 ❷ To study English is difficult.

上記2文、文法的にも正しく、意味もおんなじなんですが、では何が違うのか。大西先生は、「to不定詞句を主語に据えた文だともったいつけて大げさに振りかぶっている感じ」、ようするにオーバーな言い方だと指摘して、ふつうは ❶ を使う、と言ってました。補足すると、❷ だと to不定詞句の主語がダラダラ長くなると、頭デッカチでカッコ悪いんです。❝It is ...❞ といわゆる仮主語(+真主語)構文のほうが、スマートな言い方だと言える。英語では、先頭に来るものがなんでも目立つ、つまり「重要度高」ということになります。だから、❝For​ ​several​ ​years,​ ​Mrs.​ ​H.​ ​T.​ ​Miller​ ​had​ ​lived​ ​alone​ ​in​ ​a​ ​pleasant​ ​apartment​ ​(two​ ​rooms​ ​with​ ​kitchenette) in​ ​a​ ​remodeled​ ​brownstone​ ​near​ ​the​ ​East​ ​River...❞ (カポーティ『ミリアム』冒頭から)ときたら強意構文なので、訳すときは注意が必要になる(時間や場所などを表す副詞句はふつう文尾に置かれる。英語は先頭に来ることばほど目立つ、強い)。

 そしてこれがもっとも大切かと思うんですが、なによりも口に出したときにすっと言える。❝To err is human, to forgive (is) divine.❞ という定型文みたいなのもあるにはあるが、ソレ以外の日常会話で to不定詞から切り出す、という言い方は個人的にはほとんどお目にかかったことがない。ミステリとかも含めて文芸ものに出てくる科白でこういう表現はめったにない、と言い切ってよいでしょう。

 to 不定詞と ing 形の違いは、ずばり「いまそのときの動きが感じられるかどうか」だと思ってます。似たようなことは大西先生も指摘されてましたが、たとえば、

 ❶ He stopped to say hello to Kate.
 ❷ He stopped saying hello to Kate.

で、なぜ文意が反対になるのか。to不定詞は「ing 形と違って動きがなく、これから起こることをただ待っている状態」というイメージ(つまり未来を向いている)。ing 形だと「すでにやっちゃったこと」という動きがすでにあるから、意味的に過去のことを指す、というイメージだと言ってよいと思う。

 「英会話☆定番レシピ」に関してさらに付け加えると、エンディングの前置詞・基本動詞のイメージをとらえる(コアイメージ)ミニコーナー。あれだけ見てもいいくらい。英語の前置詞や基本動詞こそ、日本人がもっとも苦手としているところだから。何度目かの蒸し返しでたいへん申し訳ないけれども、英語学習に関しては昔から「前置詞3年、冠詞8年」って言われてますから、必要最低限と言いながらも、それなりに腰を据えて取り組むことはなんにせよ大事かと思いますね。

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2023年01月05日

「統計」もクリティカルに見よ

 昨年の初夏だったか、日経新聞に広告が出ていたこちらの本。著者は現役の英 FT 紙シニアコラムニストで、BBC ラジオ番組のプレゼンターでもある人。「統計にダマされるな」的なご本かと思いきや、『データ探偵(The Data Detective : Ten Easy Rules to Make Sense of Statistics)』という原書名が暗示するように、統計のウソを暴くことより、統計とはそもそもどんなもので、どのように扱えばよいかを 10 の方法として提示し、論じた本になります。

 たとえば「とっさの感情には注意する」、「俯瞰する」、「背景を知る」……とかはなんか既視感ありあり。「背景を知る」なんて、拙訳書に出てくるクリティカル・シンキングの技術として語られるものですね。なので共通項はかなり多い、という印象がまずあった。「とっさの感情には注意する」では、著者自身の失敗例(グラフの時間軸も確認せずリツイートした話)もさらけだして、その危険性を訴えてます。ほかにもあのフローレンス・ナイチンゲールがじつは「近代統計学の母」的存在でもあったことなどの歴史トリビアも満載で、教えられるところは多い。「公的統計の存在を重視する」では、ギリシャとアルゼンチンそれぞれの公的統計部門のトップが被った妨害工作の事例なんかも暴露されていて、このへんはよくあることですけれども、ジャーナリストたる原著者の腕の冴えが光っている。しかし公的統計の信頼が揺らいじゃったら、それこそわたしたちの生命財産に直結しかねない。そういえばこの国でも、ついせんだって似たような失態があったような …… 。

 ただ、この本を読んでもっとも印象に残ったのは、COVID-19、つまり新型コロナウイルス感染症のパンデミック(世界的大流行)初期の混乱を記述したくだりです。「疫学者、医療統計学者、経済学者といった現代のデータ探偵たち」が、「生死にかかわる判断を手探りで模索する状態」だったが、「数週間が経つ頃には、彼らの捜査と探索のおかげで、ウイルスの主な特徴と、そのウイルスがもたらす疾病の性質について、多少なりと把握した全体像が浮かび上がってきた」。
無症状の感染者も多数いることがわかった。…… 若者よりも高齢者において大幅にリスクが高いこともすぐに明白になった。感染致死率の合理的な推定値も出た。…… 特に、イギリス国家統計局などの機関が実施・分析する適切な検査の価値はどれほど大きかったことか。パンデミックという戦争において、統計は、いわばレーダーに相当する存在だった。
…… 正確でシステマティックに収集された数字というものを、ふだんの私たちがどれほど当然視しているか、これ以上にありありと描き出す例はほかに考えつかない。…… 私たちは、「嘘、大嘘、そして統計」などと気軽に口に出し、統計のありがたみを軽んじる。今回のコロナ危機は、統計データが出そろっていないと状況がどれほど混乱するものか、私たちにあらためて思い出させている。
 最近、この手の本でときおりお目にかかるのが、tribalism という単語。この本にも顔を出していて、「同族意識」と訳されています。で、たいていこれはどっちかの陣営(同族)から見た「真実」しか見ないというきわめて偏向した態度を助長し、すんなりケリがつくはずの話も尾ひれがついていっそうややこしくして、対立を先鋭化させたりするのですが、そんな陥穽にはまらないためにも統計、とくに公的機関の発表する統計をないがしろにしてはいけませんよということも強調されています。その最たる実例としてやり玉に挙げられているのが、くだんの放言ばっかかましていた米国前大統領の話。しかし、もっとも信頼に足るはずの公的統計も、このような政治的圧力の前に歪曲されるリスクがどこの国にも起こりうることは、引き合いに出したギリシャとアルゼンチンの教訓で警告しています。

 あと、よく言われることですけれども、この手の本にはたいていダニエル・カーネマンの著作『ファスト&スロー』からなにかしらの引用があったりするものですが、この本ではたとえば「出版バイアス」が、公正な研究成果をゆがめかねないものとして出てきます。たとえば、世間をアっと言わせる、意外性のある論文のほうが出版物として世に出る確率が高い、というのも出版バイアスの一例。そのじつ、真に価値あるデータなり統計は、じつに地味ぃ〜なグラフやチャートのほうだったりする(でもこちらはなかなか出版されない)。またそれとはべつに「速い統計」(拙速な集計データによる統計)と、「遅い統計」という用語も持ち出しているけれども、たとえ信頼できそうな「遅い統計」でも、「個人的な印象のほうを信じるべき場合」は、ゼロではない。世の中の問題すべてが数値化され、見える化されて、表計算シートに転記できるものばかりじゃないから(マスク着用問題なんかがそうかも。呼吸器系に問題があると自覚していれば、統計的に問題なくても予防的に着用するのはごく当たり前の行動でしょう)。

 昨今はやりの AI(人工知能)やアルゴリズムについても、新型インフルエンザの予測に失敗した「Google インフルトレンド」プロジェクトを引き合いに出して警鐘を鳴らしてます。こと統計学に関する本にはほとんど縁がない人間とはいえ、やはり統計と無縁では済まされない時代に生きている者のひとりとして、この本は読むべき1冊だと思ったしだい(数式はいっさい出てこないので、その点はご安心を)。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるん

posted by Curragh at 22:45| Comment(1) | TrackBack(0) | 最近読んだ本