2019年11月20日

まずは「読める」ことから

 NHK も含む TVニュースのアナウンサーでさえまともな日本語が使える人がめっきり減ったと感じる昨今ですが(「今日はなまぬるい陽気で … 」なんてだしぬけに切り出され、目が点になったことが最近あったばかり)、こちらもまたうっかり本音が出たにせよ、ヒドいし乱暴な話でほんとあきれる。なにがって、「身の丈」知らずの大臣のアホな発言ですわ。おそらくそんなこんなスッタモンダして収拾がつかなくなったんでしょう、ええいままよ、でいきなり大学入試英語の民間丸投げ計画を唐突に延期すると決定したものだから、現役受験生のみならず非難の嵐轟々、といった混乱状態になってます。

 やはりこれも以前、ここで書いたことの焼き直しになるかもしれませんけれども、大学に入るための試験なのに、なぜ英語の「聴く・話す・読む・書く」のすべてを「採点」しようとするのだろうか? いちばんワケわからないのは、なぜそれをビジネスライクな利益を追求する民間会社に丸投げするのだろうか。そんな共通試験なんてやったところで、カネと時間と貴重な労力のとほうもないムダ遣い、まったく意味がないって思うのはこれ書いてる門外漢だけじゃないはず。

 いつも思うんですけど日本を含む東アジア文化圏って、やはり昔の「科挙」思想の残滓が残っているせいなのか、やたら入試、入試で騒ぎますよね。ぶじ難関を突破して大学に入りました、ではそこで 4年間、なにをテーマにしてどんな分野を深く掘り下げて学ぶのか。あるいは休学してバックパックの旅に出て実地の体験を通じてなにかを学ぶのか(こういうことができるのも若い人の特権)、あるいは留学するのか、大学院に進むのか。はじめからなにか「大学ではこれこれをしたい」というものを持っている人ならいいんですけど、いちばん困るのは「合格して入学したはいいけど、さてどうしたものか、とりあえずサークル活動中心でいこうか」なんていう学生じゃないかと個人的には思う。サークル活動が悪いって言ってるんじゃなくて、全入時代、目的意識ゼロのくせにただ「みんなが行ってるからオレも」ていどの認識ってどうなのよって言ってるんです。

 だっていまどき大学くらい出てないと就職が … なんて声も聞こえてきそうだが、大学出なくても「手に職」つけておられる先達はたくさんおられますし、家庭の事情もあるとは思うが、ワタシは前出の消極的理由だけだったら、背伸びしてでも大学に行くことはないと思っている。大学というところは入学希望者をほぼ合格させる代わりに、本気で学ぼうとしない、もっと言えばデキの悪い学生をバンバン落として落としまくって選ばれた少数のみが卒業するという、英米の大学によく見られるシステムのほうがよっぽど健全かと思うんですけどね。もっとも『21世紀の資本』によれば、アイビーリーグなどの名門大学の財団とかに多額の寄付したいいとこの坊っちゃんや令嬢のみが不当に優遇されてるんじゃないか疑惑がけっこうあるようですけど …。

 大学入試の英語にもどすと、先日、元外交官の佐藤優氏が地元紙に、「英語圏に暮らした経験がある帰国子女を除いて、大多数の高校生は日常的に英語に接していない。そのような生徒にいきなり『書く・話す』能力を求めることにそもそも無理がある」と主張する論説文を寄稿しておりまして、まったくそのとおりだなあ、とひとりごちた[いつものように下線強調は引用者]。「読んでわからないことは、聞いてもわからない。読んでわからないことについて、話したり書いたりすることもできない(当たり前だ)」。

 じつはワタシも大学は出ていない。でもいま、二足も三足もワラジ履きながらではあるが、こうして翻訳や原稿書きの仕事をあまり途切れることなくいただいてたりする。ほんとうにありがたい、と思う。ちなみにべつにこれ自慢じゃないですけど、ワタシの拙サイト『聖ブレンダンの航海』の英語版、あそこに書かれた英文がすらすら読め、かつ、「ここのところ表現おかしくない?」なんてコーヒー片手に思えるような学生は、ほぼまちがいなく世界を相手に活躍できることでしょう。ちなみに書いた当人は、いまだ日本国外に一歩も出たことはないが。

 今回の騒動に巻き込まれてしまった受験生のみなさんは、ほんとうに災難だったと思う。でもかつて高校の先生に、「おまえらは不幸の星の下で生まれたっていうか、こんな円高不況のときにぶつかってしまったが … 」なんて慰めにもクソにもならないことばをかけられた記憶のある元高校生から言わせてもらえれば、かつてスタッド・ターケルの著作を邦訳した先生とおなじことばをここでも繰り返したいと思う──「あきらめずにつづけていれば、そのうちいいこともありますよ」。人生すでに半世紀を生きたしがない人間は、このことばは真実だと思っている。ほんとうに好きなことがあるのなら、それにあきらめずに食らいついていくべきだと思う。

 ついでながら、大政奉還後の徳川家によって設立された「沼津兵学校」というのがありまして、今年は設立から 150 周年にあたるんだそうです(地元民のくせしてだそうです、はないと思うけれども)。で、初代校長だった西周[にし・あまね]という人はいまふうに言えば超絶デキる人でして、哲学者にして教育家、そしてなんといっても福沢諭吉や森有礼と並ぶ近代日本語の基礎をなす数々の「翻訳日本語」を作った人でもあり、「哲学」、「芸術」、「理性」、「科学」、「技術」といった、いまやふつうに使用されている日本語もすべてこの人が作ったもの。で、たとえば新聞なんかぴろっと広げれば、やれ「CSF」がどうしたとかってある。はて? セルロースナノファイバー (こっちは CNF)?? なんてツッコみたくなるところだが、なんとこれ例の「豚コレラ」のことだそうでして。なんでも Classical Swine Fever の頭文字かららしいが … いつぞやの「修飾麻疹(modified measles)」も挨拶に困るけど、もうすこし芸がないのかってつい思ってしまう。西がこれ見たらいったいなんとコメントするのだろうか。「典型的 / 標準的豚熱病」じゃダメなんだろうか。国際標準だからこれでいいんだ、というのはたしかにわかるが、なんでもかんでも横文字の符牒みたいなナゾナゾ用語にして事足れり、では千数百年、受け継がれてきた日本語に対して申し訳ない気がする。

タグ:佐藤優 西周
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2019年11月11日

比較神話学者キャンベルの絶筆について

 毎週更新、と言っておきながら早くも公約違反 … orz フリーの身なんでいつ仕事が来るかは予測不能、予定は未定、なしがない門外漢のこと、そこは生暖かい目で見逃してくださいませ。

 と、前置きしているあいだ(?)にも、ついにみんなの大好きな Halloween はとうに過ぎ、そして「日本晴れ」のなかすばらしい祝賀御列の儀のパレードもぶじ終わって(まったく関係ない感想ながら、この前買い替えたばかりの 4K TV に国立国会図書館前の通りが大写しにされたとき、個人的にはすごく懐かしく感じた。何度もおなじこと言って申し訳ないけど、あのころはネットもなにもなかった時代。いまこうしてフツーにググって調べ物して仕事もらってる人間としては、いったいどうやって訳文をひねり出してたんだろっていささか信じられない気分にもなってくる)、ではあるけれど、先月 30 日は米国の比較神話学者ジョーゼフ・キャンベルの命日(1987 年没)ということもあり、ひさしぶりにキャンベルのことについて書きます。

 キャンベルの「遺作」は、ジャーナリストのビル・モイヤーズとの対談を収録した『神話の力』ということになってますが、本人が書いたほんとうに最後の著作は Historical Atlas of World Mythology という大部の巻本もの。文字どおりの「白鳥の歌」で、当初計画されていた4巻本のうち、キャンベル自身が書き終えたのは最初の巻のみ。みまかるその当日も原稿を執筆していたという2巻目は、親友の編集者の手によって補筆完成というかたちで日の目を見た。ちなみにその編集者がキャンベルの未亡人ジーン・アードマンとともに設立したのが、いまのキャンベル財団(JCF)。

 で、著作についてはたしかに上記の本がキャンベルの絶筆なんですが、印刷された最後の文章、というのがべつにあります。それが、リトアニア出身の米国人女性考古学者マリヤ・ギンブタスの著した、The Language of the Goddess: Unearthing the Hidden Symbols of Western Civilization という研究書に寄せた「まえがき」。

 この絶筆となった「まえがき」なんですけど、じつは JCF から刊行されているキャンベル本シリーズの一冊 Goddesses の巻末付録として収録されてまして、昨年、勝手に試訳をつけたままずっと仕事用 PC のデスクトップ上に放置してました。仕事や雑事にかまけているうち、やっぱりここでも紹介したいずら、と思いまして、書籍の一部引用にしては長いのでクレームがくる可能性もありますが、書いてある内容はやはりすばらしいと考えるので、僭越ながら全文を転記しておくしだい[JCFからなにか言われたら即、引っこめます。あとする人はいないと思うが、二重引用は厳禁]。
 ジャン=フランソワ・シャンポリオンは 150 年前、ロゼッタストーン解読作業を通じたヒエログリフ(神聖文字)の用語法の確立によって、紀元前 3200 年前からプトレマイオス朝時代にいたるエジプト宗教思想というすばらしい大宝典の解明の糸口を開いた。シャンポリオンとおなじくマリヤ・ギンブタスも、紀元前 7000 年から前 3500 年にかけてのヨーロッパ最古の新石器時代村落跡から出土した二千点あまりの象徴的遺物の収集、分類、特徴の解釈といった作業を通じて、絵画的モティーフという基本語彙を、それ以外の方法では記録されえなかった時代の神話を解く鍵として提供することに成功している。それだけではない。ギンブタスはまた、それら表象の解釈にもとづき、当時崇拝されていた宗教の主要思想と主題の確立にも成功した。彼女の解釈によれば、それは母たる創造の女神の生ける体としての宇宙であり、女神に宿る神性の一部としての生きとし生けるものすべてである。ここでただちに想起されるのが、新石器時代ヨーロッパにおける「宗教」とは、「創世記」第3章19節に出てくる「父たる創造主」とは対照的だ、ということだ。アダムはその父たる創造主に言われる。「おまえは顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。おまえがそこから取られた土に。塵にすぎないおまえは塵に返る」。ところが「創世記」よりさらに古いこのヨーロッパの神話では、全被造物が生み出された大地はたんなる「塵」ではなく「生きて」おり、母たる女神の創造主と同格なのだ。

 ヨーロッパ学文献で、ヨーロッパ地域と近東で形成された歴史形態に先立ち、また基盤でもある前述のような母権制時代の思想と生活について最初に言及した著作が、1861 年に出版されたヨハン・ヤコブ・バッハオーフェンの『母権制』である。彼はその著作で、古代ローマ法に母系相続法の痕跡が残存していることを示した。またバッハオーフェンの著作の 10 年前にアメリカで、ルイス・H・モーガンが『ホ・デ・ノ・ショ・ニー連邦、またはイロクォイの諸部族』を刊行している。この二部の調査報告で彼は「母権制」原理がいまなお生きている部族社会を確認し、その後のアメリカ・アジア大陸全域の親族制度の系統的調査によって、父権制支配以前にこのような母権制原理の集団生活がほぼ世界全域に分布していたことを実証した。1871 年ごろにバッハオーフェンがモーガン研究と自身の研究との関連性を認めたことが突破口となり、この社会学的現象の理解は従来のヨーロッパ地域から地球規模へと拡大する。同様にマリヤ・ギンブタスが再構築した< 女神の言語> においても、その歴史的重要性は紀元前 7000 年から 3500 年にかけての大西洋からドニエプルまでの古代ヨーロッパ世界にとどまらない、ひじょうに広範な地域においても認識されるようになるだろう。

 さらに、このような母権制はインド−ヨーロッパ語族系の牧畜部族に見られる神話群とも対照的である。インド−ヨーロッパ語族系諸部族は紀元前 4000 年以後、古代ヨーロッパ諸地域を波状的に侵略し、侵略された土地では彼らの社会的理想や法、彼らの属する部族の政治的目的の反映たる男性上位の神々へと取って代わられた。それに対して大地母神は大自然の法則の反映と尊重の表れとして生まれたものだ。ギンブタスに言わせれば、万物の驚異やその美しさの理解と共生をめざした人間側の原初の試みと言えるのが彼らの残した絵画的表象群であり、有史以後、西洋で優勢になる人為的に歪められたシステムとは元型シンボル的に見て、あらゆる点において対極にある人間の生き方の輪郭を描くものなのだ。

 ちょうど世紀の変わり目にさしかかっているこの時期に本書が世に出たことと、意識の全般的変革の必要性がひろく認識されていることには明らかな関連がある、との思いを禁じ得ない。本書のメッセージは、有史以前の四千数百年のあいだ、自然の創造的エネルギーと調和し、平和に暮らしていた時代が現実に存在していた、ということである。その後の五千年はジェイムズ・ジョイスの言う「悪夢[『ユリシーズ』のスティーヴン・ディーダラスの発言]」の時代、部族間や国家間の利害の衝突といった悪夢がつづいたが、この惑星は目覚めのときをいま、確実に迎えつつある。──© 2013 Joseph Campbell Foundation

… 繰り返しになるが、この絶筆の「まえがき」が書かれたのは 1987 年。ベルリンの壁崩壊は、その2年後のことでした。とくに最終パラグラフの文章は書かれて 32 年が経過しているいまなお、これを読む者の胸にひしひしと響いてくるものがあります。昨今の情勢を見るにつけ、キャンベルの残した「遺言」はとても重い。

 なお、この拙訳についてもコメントしたいので、それは次回に書く予定 … あくまでも予定 … 。

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2019年10月22日

台風が去って思ったこと

 まず、先般のとんでもない台風の大水害および竜巻の被害に遭われた方々に心よりお見舞い申し上げます。ワタシはからくもぶじでしたが ── いくら納期の短い仕事とはいえ、刻々、更新される台風情報を見ながらもせっせと訳出に励んでいた人 ── ウチだって低地ゆえ、いつ被災してもおかしくない。まずは市町村ごとに検索可能な「ハザードマップ」を日ごろから気にしておくことですね。あとできれば「昔から伝わる地名」とかも気にしたほうがいいと思います。んなこと言ったら住むとこなくなっちゃう、とお叱りを受けるのはもっともではありますが、家を建ててからでは … って思いませんか。今回の風水害のものすごさを見て、以前は冗談半分に考えていた、「ハウスボート」というのをちょっと serious に考えはじめています … (たとえば運河の街、アムステルダムにはこの手のハウスボートな家がけっこうあるようです)。もっとも日本の場合関係法令の改正云々 … もあるけど、津波とか火災とか、いろいろと考えなければならない要素があるとは思う。でも自然災害のたびに壊されたんじゃかなわない。ハウスボートなら液状化とかあんまり心配いらない … ような気はする。門外漢の意見にすぎないが。

 前々回の記事では、せっかくのスピーチも「モノは言いよう」で逆効果極まれりではないの? と率直に思うところを書いたんですけど、昔の人ってたとえば日本では「ことだま(言霊)」を信じ、地球の反対側のアイルランドにいたケルト人たちも、「ことばの矢」がほんとうに人間を殺すと信じていたようです。なので、言わんとするところはわかるが、それじゃ通じないずら、ということが言いたかったんです。仲間内で話すんならともかく公の場ですし、ことばの「重さ」というものをもうすこし考えほしい。マララさんのときとは正反対です。

 で、人間のことばって口語体、英語で言えば colloquial ですけど、そういうタメ口ってぽい言い方から、formal な、書きことばにしてもおかしくないような「格調高さ」が求められたりします。英語だってそう。で、たとえば、
Let's work out a good deal! You don't want to be responsible for slaughtering thousands of people, and I don't want to be responsible for destroying the Turkish economy and I will. ...
なんてのを、米国の大統領閣下からちょうだいした「親書」に書かれてあったとしたら、さて相手はどう思うでしょうか ??? ま、相手もさるもの、親書をそのままデスクトップ上ならぬ、ホンモノの「ごみ箱」にポイしちゃったらしい。さすがは Twitter 大好き大統領のなせる業か(「よい取引しようじゃないか」ってのっけからこのノリですわ。そりゃ気分を害されてもしかたない。またこちらのブログでは「吹き出した」ってありますけど、ムリもない。そういえばワタシが子供のころ大統領だったジミー・カーター氏。お元気そうでなによりですが、「アンタは Twitter で遊んでるヒマがあったら、ちっとは米国民のほうを向いて職務に邁進せんかい !!」というのは、まこと正論というほかなし)? *

 そんな折も折、「近代人にあっては、自由も思考能力も低下してしまっている」、「不自由のつぎに過労がある。三、四世代以来、ひじょうに多くの人びとがもはや働く人としてだけ生きていて、人間としては生きていない」、「精神の集中していない人びとの社会が生み出した精神は、わたしたちのなかにはいりこんで、絶え間なく大きな力になりつつある。わたしたちのあいだには、人間についての低い考えができあがり、他人にも自分にも、わたしたちはもはや働く人としての能力しか求めず、その能力がありさえしたら、それ以上はまずなんの能力がなくとも満足する」… これっていまのわれわれのこと? と思ったら、じつは 90 年以上も前に発表された文化哲学に関する論考『文化の退廃と再建(1923)』の抜粋。書いた人は「密林の聖者」と呼ばれた、あのシュヴァイツァー。

 だいぶ前、ここでもちょこっと「われらみなエピゴーネン?」みたいな記事を書いたことがあったから感想じたいはそっちに目を通していただくとして、先日、図書館でユング心理学関係の調べものしていたら、近くに懐かしい『シュヴァイツァー著作集』がボロボロになりながらも「こっちにもおいでよ」と手招きしていたのでフラフラ〜と吸い寄せられ、何年かぶりにまた借りたもの。ひさしぶりに読み返して(自分で書いといて、この論考の内容をほぼ忘れかけていた人)シュヴァイツァー博士ってたしかにスゴい人なんですが、たとえば博士の故郷アルザスとバッハとの関係に関する論考は、かなり偏った内容だとしてその筋では知られていたりする(知らない方もいるかと思いますから補足。シュヴァイツァーはもともと医者じゃなくて音楽家にしてプロテスタント神学者、とくにバッハのオルガン音楽に関しては玄人はだしだった人。その昔、白水社から『バッハ』上中下3巻という歴史的名著が出ていて、同社創業何十周年かの記念で一度だけ「復刊」されたこともある)。でもこの『文化の … 』はさすがと言うべきかその炯眼ぶりは、ほぼ同時期に刊行されたシュペングラーの大著『西洋の没落』にも負けてないかも … って思うほど(やはり以前取り上げたスペインの思想家オルテガの『大衆の反逆』は、シュペングラー批判の立場をとっている)。

 … 「晴耕雨読」とはいえ、今年ほど天候不順な 10 月は記憶にない。さわやかな秋風とほどほどにつよい陽光を楽しみつつ、「読書の秋」を楽しみたいとは思っている。いいかげん本の整理しないと部屋がヤバいのはわかってるけど、ついこの前もほしかったこの本が重版されたと知ってあわてて花丸ちゃん御用達の地元本屋に注文入れたりしているし、あいかわらず「積ん読」な本も転がってるので、そろそろ天候が安定してほしい、今日このごろ。

*… 追記。引用した「親書」の出だし、ちょっと気になって Google 氏に放りこんでみたら、「よくやりましょう! あなたは何千人もの人々を虐殺する責任を負いたくありません。また、トルコ経済を破壊する責任を負いたくありません」と吐き出された[おしまいの「でもオレはやるつもり」がどっかに消えちゃっていたけれども、ほかの機械翻訳サイトにかけたら「大いにうまくいきましょう! あなたは数千人を虐殺する役割を果たしたくありません、そして、私はトルコの経済を破壊する役割を果たしたくありません、そして、私はそうします」としっかり出てきた]。いずれにせよ、いろいろな意味でぶっ飛んでるこんな「親書」なるものをはじめて見た余であった、と『草枕』ふうに。

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2019年10月12日

深層意識のあらわれとしての「しかたがない」

 台風接近中のきのう手にした地元紙夕刊。かつて旭化成富士支社で研究されていたという、同社名誉フェローの吉野彰氏のノーベル化学賞受賞の吉報を読む。たしかに「リチウムイオン電池」の発明って、われわれの生活を一変させ、ひいては世の中を変えましたね。手許にあるスマホや iPad mini、外出時の携帯用に使っている B5ノートブックPC だって、コレなしではここまで薄く、そして軽い構造は実現できなかったと思う。

 先日、千葉県地方に甚大な被害をもたらした台風による長期間の停電災害に見舞われた地区で、日産の EV 車から電気を引いていた映像を見た。吉野先生は、こうした EV 車がもっと普及すれば「巨大な蓄電システムが自動的にできあが」り、さらに技術革新著しい AI と組み合わせることで、温暖化対策にも有効だと指摘する。

 さてそのおなじ夕刊に識者が交代で寄稿するコラムがありまして、今月から書き手になった米国人のラジオパーソナリティの方が、「わたしの嫌いな日本語」の筆頭に「しかた(が)ない」を槍玉(?)に挙げていた。

 前の拙記事にも書いたが、こと西洋人というのはマラリア蚊撲滅、みたいな発想をわりと平然と実行に移したりする。これについて、「人間は世界を変えられる」という根拠のまったくないとほうもない自信ないし傲岸さのなせるわざ、という見方もできるかと思う。もっとも西洋型文明、西洋型文化、西洋型合理主義がなかったら、リチウムイオン電池の発明もなかっただろう。その点は疑いの余地はない。けれどもいま一度、日本人の深層意識を垣間見せる代表格のようなこの「しかたがない」ということばの真の意味を、アタマごなしに批判する前に考えてみる必要があるように思う。

 「しかたがない / しかたない」は、諦観とか諦念といったマイナスイメージのつきまとう言い方ではある。でも人間のことばなので、英語圏に似た表現がないかと言えばそんなこともなくて、'It should be that'.、'It's the way it is.'、'That's the way it goes.'、'There is no choice.' のようなフレーズがそれに相当するように思う。コラム寄稿者はこうつづける。「私はできるだけ使わないようにしています。言い訳に聞こえるから。私からすれば『仕方ない』をよく言う人は現状維持にしか興味がないように見えます。『知らぬが仏』ということですね」。

 「知らぬが仏」と「しかたがない」はまるで意味が異なる表現だと思うが(「知っているからこそ腹も立つが、知らなければ、仏様のようにすました顔でいられる。見ぬが仏。転じて、当人だけが知らないですましているさまをあざけっていう語」と、『大辞林 第三版』にはある。ここはむしろ「見て見ぬふり」のほうだろう)、「しかたがない」というのは、ムチャしてでも強引に自然を、現状を変えてしまおうとする西欧型発想をよしとする人間には得体の知れない発想に映るのかもしれない。西欧型の発想法には端的に言えば、差し出された現状をそのまま唯々諾々と受け入れようとせず、とにかく変えなくてはならない、変えることこそ人間の使命、というプロテスタント的勤勉主義が根底にあるせいかもしれない。プロテスタント的勤勉主義とは、そうしないと死んだとき、「最後の審判」をくぐりぬけてハレて「父なる神のおわします天の王国」に入れないから[「母なる神 … ではないことに注意」]。「しかたがない」を日本人の精神に染みついた観念だと捉えるのならば、この「プロテスタント的勤勉主義」もまた、一般的西欧人にとっての一種の強迫観念と言えるのではないか。

 かつてラドヤード・キプリングは「東は東、西は西、 両者あいまみえることなし。 神の偉大な審判の席に天地が並んで立つまでは」とかって書いたけれども、いっくら英語ができて英語に堪能な人でも、こういう西洋人「特有の」深層意識的なものってなかなか理解しがたいはず。たとえば先日、ジョーゼフ・キャンベル財団のインスタ投稿のキャプションで、
'Image : Kintsugi, Japanese art of repairing broken pottery, can be seen to have similarities to the Japanese philosophy of wabi-sabi, often defined as an embracing of the flawed or imperfect.'
という説明を見ました。「傷もの、あるいは不完全なものを尊重する意と定義されることの多い」日本の価値観として「侘び・さび」が引き合いに出されてたりする。たしかに「金継ぎ」はそういうアートフォームですけれども、われわれ日本語ネイティヴが「侘び・さび」ということばを耳にしたときに感じるのは「傷もの、不完全なもの」というより、ヘタに手を入れずに「現状のママ」に受け入れることの大切さというか、そこに美的表出、ジョイスの言う「エピファニー」を見いだすというか、慰めを見いだすというか、そっちじゃないかって個人的には感じている。英語で flawed, imperfect と言われるとなんかこう、お尻のあたりがむずむずしてくる(不潔にしているからではありません)。これが人間のことばの限界なのかなとも思う。そもそもこの世界というのはビッグバン以来、「完全だったこと」なんてただの一度もなく、138 億年このかた、ひたすらエントロピー過程まっしぐらに進んできている(はず)。perfect かどうかという西欧型発想法の基準こそ、いかにも皮相的に見える。

 くだんのコラムの結びには、「今度、問題に直面したら『しょうがない』に逃げる前に、もうちょっとその問題について知ろうとする努力をしてみてはいかが? 世界が平和になるかもしれません」とある。個人的な印象では、西欧プロテスタント的勤勉主義による「現状をなにがなんでも変えてやる」という発想法は、リチウムイオン電池のような画期的製品の発明や、あるいはインターネットのように真にわれわれの暮らしを一変させるような技術革新をもたらしてきたのは事実。だがいっぽうで核兵器や生物兵器、ドローン兵器のような無人攻撃型兵器、「ラウンドアップ」のような猛毒な除草剤に遺伝子改変トウモロコシなどもパンドラの箱よろしく世界中にバラまかれたのもまた事実。テクノロジー信奉者によくあるのが、たとえば「不老不死」の実現。げんに死後、凍結保存されて「蘇生」を心待ちにしている人までいる。はっきり言って理解不能な発想だ。いつまでも生きていることこそ不自然だしゾンビみたいで気持ち悪いし、こういうときこそ「しかたがない」と一線を引く勇気が大切なんじゃないかって、マラリア蚊撲滅の話もそうだが、この手の「欧米発」のニュースに接するたびにいつもそう思う。テクノロジー礼賛一辺倒では、いずれ『2001年宇宙の旅』の HAL 9000 みたいに本末転倒なことになりますよ。いや、すでにもうそうなりつつあるか。

posted by Curragh at 12:15| Comment(2) | TrackBack(0) | 日々の雑感など

2019年10月06日

何度も繰り返すけれども …

 … 人間の生きる地球を含むこの現実の世界には、「唯一絶対の基準」というものは存在しない。これはここにいる門外漢がエラソーに喋々すべきことではないし、とくにお若い方を否定するようなことは言いたくないんですけど、あの気候行動サミットでのスピーチ、と言えるかどうかも心もとないが、とにかくあの嫌悪感丸出しの物言いにはさすがに引いた。

 人前で演説する、プレゼンするというのはいろいろな手法があってしかるべきだと思うが、'... Yet you all come to us young people for hope. How dare you ! You have stolen my dreams and my childhood with your empty words.' といった口を極めた非難頻出、「こうなったのはすべて大人たちであるあんたたちのせい」と言わんばかりの内容で、あまり共感はできなかった。というか、quite disappointed であった。

 「よくもぬけぬけと!」という捨て科白を、たとえば海面上昇で沈みつつある島国の子どもから聞いたら、もっともだ、と思っただろう。環境意識の高さでは負けていないドイツ在住の邦人の話によると、この「環境少女」の影響を受けた子どもたちが学校に行かずに抗議活動に精を出しているのだそうで、はっきり言って本末転倒じゃないかと思った。個人的には、「いまの生活様式を改めよ」ということでは、マイクロプラスチックの海洋汚染問題も負けずに喫緊の課題じゃないかって思うんですけどね。

 たしかに産業革命以来、大気中の炭酸ガス濃度は右肩上がりだし、環境もののすぐれたノンフィクションを世に問うてきたビル・マッキベンの著作にも親しんできたひとりとしては、主張は理解できる。ただし気候変動というのは大規模な火山噴火とか、予測不能の現象にもかなり左右されるので、ある条件で算出した数字を下回ればそれでよし、というほど単純でもない。絶対的尺度ではなく相対的尺度として扱うべきで、「シロか、クロか」で決めつけるべきではない。「自分たちの世代の存亡にかかわる重大な問題」だとほんとうに思うのなら、世代間闘争のような話の持って行き方ではなく、それを自分たちの問題として受け止めるべきだと思う(あんたら世代がみんな悪い、どうしてくれるんだ、ではけっきょく堂々めぐりになるだけ)。前の世代の人間のせいにするのならば、まず責めるべきはこんなクソみたいな世界に産み落としたご両親からでしょうな。

 温暖化もむろん深刻ではあるが、個人的にさらにこわいのが、マイクロソフトの創業者のひとりが作った財団が世界規模で取り組んでいる「マラリアを媒介する蚊を絶滅させる方法」の開発。「欧米か!」と突っこまれそうなくらいの西洋びいきの自分から見ても西洋人の典型的な悪い見本的な好例でして、環境がらみで言えばかつてのラヴロックの「ガイア理論」と同様、西洋人の傲慢かつあまりに能天気かつきわめて楽観視した発想としか言いようがない。もっともこの計画には反対する研究者も多くて(当たり前だ)、ほんとうにこの計画が実行に移されるかどうかはよくわからない。この手の人たちはいまいちど、オスヴァルト・シュペングラーの『西洋の没落』や、アルベルト・シュヴァイツァーの『文化の退廃と再建』といった古典を再読されてはいかがでしょう。

 唯一絶対の基準などない、ということでは、最近買ったこの本。自分が気に入った本というのはたいていだれからも見向きもされないような本が多いんですけれども、こちらは世界的に売れてるんだそうでご同慶の至り。まだ読み始めたばっかですけど、たとえば「英ポンドの貨幣価値を米ドルで表した値と、米ドルの貨幣価値を英ポンドで表した値のどちらかがリアルかと尋ねるようなもので、『ほんとうの価値』は存在しない … 同様に、『本物の時間』も存在しない。異なる時計が実際に指している二つの時間、互いに対して変化する二つの時間があるだけで、どちらが本物に近いわけでもない」というのは、べつにアインシュタインの「一般相対性理論」にかぎらず、なんだって当てはまる普遍的な事柄なんじゃないですかねぇ(あたかも世の中、なにが fake でどれが truth かでもちきりだが。ちなみに冒頭の「時間の流れは、山では速く、低地では遅い」は、たしかなんかの TV 番組でも取り上げていたのを見たおぼえがある)。

 比較神話学者キャンベルの著作でもおなじみの中世錬金術関連本『24賢者の書』に出てくる、「神は知覚可能な球体で、その中心は至るところにあり、外周はどこにもない」というくだりなんか見ると、昔の人ってテクノロジー全盛の21世紀、ビッグデータに翻弄されつづけているわれわれなんかより、物事の本質をはるかに理解していたんじゃないかってほんと思う。イルカとクジラを神聖視するのは勝手ながら、だからといってその価値観を押しつけるのは、やはり発想の貧困さが露呈しているように思う。「あなたの神を、わたしに押しつけないでください」。ウシの肉は食べたくないから3Dプリントでこさえた人工肉(!!)を食べるのはいい。だが「おまえも vegan になれ」というのは、お門違いもいいとこだ。

 何度も言ってきたことですけど、ほんとうに温暖化とそれに伴う気象災害の激甚化をなんとかしようと思うんなら、たとえばクルマを捨てることでしょうか。ぜんぶ捨てろとか乗るな、と言ってるんじゃありません。「ひとり一台をおやめなさい」と言ってるんです。卑近な例を申せば、定期バス路線が身近にあるにもかかわらず、複数台持っているような人がけっこういます。すこしだけ、不便な生活スタイルへと変えてゆくこと。まずはここからなんじゃないかって気がします。

posted by Curragh at 21:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近のニュースから

2019年09月30日

明日から「1割増し」? それとも8%のまま ?? 

9月も今日で終わり、明日からはついに消費税が10%、除外品目以外はなに買っても「1割増し」になってしまいます(汗)… これ、やはり大きいですね。べつに駆け込んだつもりはないですけど、たまたま高額商品系を買い換えることになって、10 年選手の液晶 TV セットをさらに大画面の 4K TVセットに更新したりとか、前々から食指をそそられていた某りんごマークの会社の生産打ち切りになったばかりのノートブックを「整備済み製品」枠で買ったりとか、その他こまごまとした付属品やらをたてつづけに購入したので、はっきり言って貧乏人にはかなーりの出費となりました(でも最近の TV ってすごいな。いまごろそんなこと言ってんの、とくさされそうだが、Wi-Fi につながっていればなんと YouTube の動画や、Radiko まで楽しめるのには驚いた! ためしに NHK-FM とか聴いてみたら音質もクリアですこぶるいいのにもビックリ。YouTube も、これで晴れて文字どおり「テレビ[tube]」になったんだなあ、と感慨に浸っていたりした)。

 ちなみに消費税って英語表記はもうそのまんま consumption tax で統一されているようですが、たとえば欧州なんかではこれとほぼおなじ定義の税金のことを Value-added tax、略して VAT と表記するのが一般的。海外のショッピングサイトなんかで VAT 込み / なし、なんて但し書きを見たことがある方も多いかと思いますが、これのことですね。

 で、今回の増税、個人的には明日から大混乱が起きやしないか、危惧しているところです … きのうもさる TV 番組でクイズ形式でやってたんですけども、「これは清涼飲料水だから8%」、「そっちは医薬部外品だから10%」、「ミネラルウォーターは飲用水なので8%、水道水は飲用とはかぎらないから 10%」、「コンビニで買った新聞は 10%、でも定期購読の場合は8%」… 。気になる向きは、こちらのページなどをご覧になってください。

 大手スーパーでは、明日から軽減税率対象商品には8、そうでない商品には 10 とレシートに「ちいさく」印字するんだそうで … 中小企業や個人事業主には軽減税率対応レジや POSシステムもまだ導入していない、という方もけっこういると聞きます。個人的には「8%と10%双方の税率計算可能な電卓」でこと足りるんじゃねーのか、って思ってるんですけどね … なんでこんなヤヤコシイことをするんだろうか。政府広報の告知ページを見ると、どうも軽減税率の線引きって「食品表示法に規定する食品(酒税法に規定する酒類を除く)」が基準になっており、「外食は含まれない」。… ハァ ??? なんかこう、底意地の悪さしか感じられないのは、僻み根性のなせる技か? はっきり言ってイジメですわ。

 専門家じゃないから、消費税先進地の欧州各国ではどうなってんのかは知らないが、ようするに政府と財務省と国税当局がやっているのは一般国民の利便性云々はどうでもよくて、「法律の区分に従って」機械的に振り分けた、としか思えない。こんなこと人に押しつけておいて、何事も起こらずに済むわけがない。で、いざことが起きれば起きたで、だれひとりとして責任を取りやしない。先日の東電の元執行部に対するワケワカラン無罪判決しかり。そしてこの前もここで書いたけど、なぜか着工を急ぐリニア新幹線の南アルプスのトンネル工事をめぐるJR東海の一連のおざなりな対応と、これまた無責任にも着工を急かしている近隣県の知事たち(おたくの県にこの話持ち込まれたらどうなの、という発想は彼らにはまるでないらしい。かつて「地方分権」が叫ばれたとき、米国の州政府のような強い権限を道府県に与えるべきという風潮が高まったことがあったけど、エゴとマイホーム主義とおらがムラ主義全開の現状を変えないかぎり、いまよりさらに事態が悪化するのは目に見えている。東京一極集中にますます歯止めがかからなくなるだけだろう)もまたしかりでして。

 … と、しがない門外漢のボヤキはここまで。来月から心機一転? ここもほんのすこしだけリニューアルというか、書き方というか、記事の書式と言いますか、変えることにします。具体的には

1.字数制限ではないですけど、「1記事1トピック」を原則として、もっと短くまとめます[あくまで予定 … ]
2.原則として毎週更新[こちらも不可抗力的なにかがないかぎり、あくまで予定 … ]
3.以前よりさらに corrosive な書き方になる … かもしれない

ざっとこんな感じ。公序良俗に反すること、あきらかな誹謗中傷、根拠にもとづかない批判 / 批判するにしても読み手が不快にならないていどにとどめる、という自己規制ラインはこれまでどおり(自分が読んで「つまらない」と感じることは書かない)。ただ、「以前に比べて Weblog が全般的につまんなくなった」と感じていることは、まず書くつもり。これには「わーどぷれす」なるツールが爆発的に普及して以来、とくに強く感じているので、そんなこともまずは書く予定ではおります。

posted by Curragh at 10:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々の雑感など

2019年08月31日

Translation is NOT an easy job! 

 … 今年はアポロ 11号が月面着陸してから半世紀、そしてほぼ同時期に起こったおぞましい事件(後述)もまた半世紀、京都アニメーションの襲撃事件(たんなる放火犯、というより、無差別殺戮のテロと言うべきもの)が発生したり、あるいは今年の夏もまた自然の猛威に見舞われたりと(三島市で竜巻があったのには驚いた)、いろいろありすぎた 2019 年の夏も、暦上の区切りでは今日で終わり。当方はあいかわらずあくせくしどうしで、ここのところブログの更新もままならず、放置状態。というわけで、来月、はいちおうこれでも〆切を何件も抱えこんでクソ忙しくて新しい記事を書くのは物理的に不可能なため、10月以降、心機一転、週に一度くらいの頻度でなんでもよいから「とにかく書く」ことを目指していきたいと思ってます(記事じたいももっと「簡潔」に、シンプルに仕上げるつもりではある)。

 というわけで、今回もまた仕事がらみのネタになってしまうが … クエンティン・タランティーノ監督の新作映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の重要なエピソードらしい(見る気もその時間もないため、たんなる憶測失礼)シャロン・テート殺害を含む、一連のいわゆるマンソンファミリーによる事件。すこし前にそれがらみの依頼がありまして、ワタシ自身もシャロン・テート事件は聞きかじりでしか知らないため、図書館でなにか参考になりそうな本はないかと探してきた。それが、なんと名翻訳家の故小鷹信光氏の訳された『ファミリー』だった。

 これで仕事ができる !! とこちらは喜々として図書館をあとにして、この本をかたわらに広げつつ訳出にかかったわけですが、そのときふと、そうだ、以前、図書館で借りた本で小鷹先生の翻訳エッセイがあったっけな、と思い出し、訳稿を納品したあとでそっちもふたたび借りてみた。

 で、そのエッセイにも果せるかな『ファミリー』のことがちょこっと紹介されていて(p. 71)、「… この本によって 60 年代末のヒッピー文化の裏面を理解することができ」た。たしかにこの訳書、いま読むとあらためてすごいなあ、と … 先人の仕事ってすごいです。なんせインターネットだの Google だの Skype だのな〜んにもなかった時代、バカ高い「国際電話」くらいしか連絡手段がなかった時代なんですぞ。小鷹訳が世に出たのが 1974 年、石油ショックにロッキード事件のころ。原書はそれこそ麻薬関係、フラワーチルドレン関係の隠語俗語のオンパレードで、担当編集者から、「この本は難物だから」と警告されていたにもかかわらず、引き受けたんだそうです。それだけこの事件の与えた衝撃が大きかった、ということなのかと、半世紀たったいまに生きる門外漢は思うわけ。

 「訳者あとがき」を見ると、
日本語にして原稿用紙千枚におよぶ、長く、おぞましい陰惨な記録の結びの一行を、[著者の]サンダースは It was over. という簡潔な三語でしめくくっている。

とあります。で、その箇所を見ますと ──
… さらに、ショーティ・シアー殺害のかどで、スティーヴ・グローガン、ブルース・デイヴィス、マンソンの三名に、ゲイリー・ヒンマン殺害のかどでデイヴィスとマンソンの両名に、第一級殺人による死刑の求刑がくだされた。

とあって、そのつぎが結びの "It was over." が来るわけなんですけれども、さて先生はここをどう処理したのか? 

 「これで、一件落着」

正直申しまして、ひじょうに強い違和感がありました。小鷹先生の「あとがき」には引用箇所につづけてこうあります。「… それに『一件落着』という訳文をあてたとき、私はサンダースの心情を、"認識[グロックというルビあり]"し得た、と感じた」。

 そうか、先生にとってはそうだったんだな、と思うんですが、ほかの読み手の方はどうでしょうか … 大部の犯罪ものノンフィクションで、先生がヒッピー用語っぽいものだの、頻出する麻薬関連ワードなどにそうとう手こずった痕跡とかが垣間見られまして、それだけでも偉業、と言ってよい訳業なんですけれども。たしかに「チェーンのついた電動鋸」なんてのはいまはふつーに「チェーンソー」だし、「ロシアン・ルーレット(弾倉に一発だけ実弾をこめ、まわしながら引き金をひく死のゲーム)」なんてのも訳注はいらんでしょう。前にも書いたが中田耕治先生の言う「翻訳30年論」でいけばこういう「古さ」はしかたなし。それでもすばらしい訳であることには疑いの余地はない。

 でもってやはり気になる「一件落着」、なんですね … なんでこうしたのかなって思ってしまう。シメの文句って、出だしの一行とおんなじで翻訳者にかぎらず物書きならだれだってもっともアタマを絞って書くところ、力が入ってしまうところ。淡々とヘミングウェイばりに事実のみを列挙していったあげくの"It was over." 、なのでワタシとしてはここはもうすなおに「これで、終わり」くらいでとどめておいたほうがカッコよかったんじゃないかと … 思うんですけどどうですかね。

 小鷹先生の著書『翻訳という仕事』には、いまなお有益なヒント満載で、この本についてはまたあらためて取り上げてみたいと考えてます。ようするに翻訳のネタ本としても最適(笑)。こちらの本も出版されたのは 1991 年でけっこう年数が経っていて、時代を感じさせる箇所もあるけれども、翻訳者を本気で目指している方にはぜひとも図書館で借りてでもして読むべき本だと思う。この本のいいところはたんに翻訳技術を教えているのではなく(後半は翻訳技術について書かれているが)、仕事としての出版翻訳とはどんなものか、が当時の小鷹先生の「実例」を交えて書かれているので、それだけでもおもしろい読み物だし、「印税」とかお金の話も具体的に出てくるので実践的でもあります。

付記:さてここからは、いつものように脱線、あるいはしがないおっさんの愚痴。今年の春先だったかしら、原題のまんまで『FACTFULNESS』という邦訳本が、国木田花丸ちゃん御用達の書店に平積みになっているのを見かけた。そのときはなんも関心がなくて素通りしたんですが、その二名の訳者のおひとりがなんと、まだ二十代(訳出作業当時)! の若者でして、もちろんこの本は本が売れね〜って言われつづけてはやウン十年、な日本でけっこう売れてるんだとか。

 で、その若いほうの翻訳者、いや共訳者の方が自身のサイトで「訳ができるまで自分はどうやったか」みたいな動画までご丁寧にこさえて公開されてたりする(www.youtube.com/watch?v=Hc2moxePHCU
)。で、観た感想なんですが … なんでこう原文をやたらこねくり回すのかなって。もっとシンプルにというか、すなおに「訳し下ろす」ほうがいいと思うんですけどね。ワタシだったら、
ギャップマインダーでこの質問に対する3つの選択肢を選ぶさい、あらかじめ平均寿命の数字を自由に回答してもらった。すると「50歳」もしくは「70歳」と書いた人がほとんどだった。

とでもするかな。たしかに英文には as ではじまる従属節や関係詞など、どうしてもひっくり返して訳さなければならない場面は出てくるし、広告表現のようなパンチの効いた英文もまた大胆に文章配列を入れ替える、といった荒業も必要になったりします。が、英文のワードオーダーというのは一般的には著者の思考の順番にもっとも近い流れで推敲を重ねて生まれた「表現」、深町眞理子先生の言う「いかに」で現出したもの。なのであんまり変更するのはよろしくない(し、原文にない語句を補充するのは、あくまで最低限にとどめるべし)。

 共訳者はまだお若くて、才能があり、しかも米国在住ということでワタシなんかよりはるかに英語が理解でき、洋書も的確に速読できる方であるのはわかる。わからないのは、「翻訳の作法」もどきみたいなことを開陳していること。いやいやそんなもんじゃないですよ〜本の翻訳はとくにね。前に紹介した中田先生のことば、あれは「なら、できるもんならやってみろよ」とタンカを切っている、ということくらいは賢明な読者ならわかってくれたはず。というわけで、最後にこちらのページをご紹介しておくとします。この若手翻訳者の方も含め、翻訳者志望の方全員に読んでもらいたいですね〜。
… 翻訳臭がまったくない翻訳などというものは存在しない。外国の言葉で、外国の出来事について書かれたものを、仮の姿として日本語に置き換えただけのことなのだから当然の話だ。読者も、それが翻訳であるということを頭のすみに置いて読み進んでいる。
 しかし、その大前提に甘えすぎた翻訳はよくない。読者に英語や外国事情の勉強や知識を強制する翻訳もよくない。
 翻訳家がその点で手抜きをしているだけでなく、最近の読者は翻訳もののずさんな日本語に寛大すぎる。馴れっこになっている。だが、そこに甘えっぱなしになっている翻訳家がもっと問題なのだ。舌ったらずの訳文を介して互いにおぼつかなげに意思を通じ合っている不気味なパラレル・ワールドが生じている。こんな世界からは何もひらけてこない、と私は思う。

── 小鷹信光『翻訳という仕事』から[最後の一文は、本文で取り上げられている一連のいわゆる「超訳」ものを念頭に置いた批判。当時はシドニー・シェルダン小説の「翻訳もどき」がバカみたいに売れていた時代で、小鷹先生はそうしたインチキ訳本をこのエッセイでもバッサリ切っている。下線強調はいつものように引用者]


posted by Curragh at 23:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 翻訳の余白に

2019年07月20日

Vote, vote, and vote !!! 

 昔、米国の女性小説家ガートルード・スタインが、「バラはバラでありバラでありバラである('A rose is a rose is a rose is a rose.')」と言ったという話があり、またイタリアの甘口白ワインの銘柄に「エスト! エスト!! エスト!!!」なんてのもありまして、お題はそれに引っかけてみました。

 といってもべつにふざけているわけじゃなくて、大まじめで言ってるんです。3年前の参院選での 20 代の投票率は 35.6 % でして、年代別でもっとも高い投票率だった 60 代の半分しかない、との報道記事を読んだ。また今春の統一地方選では、首都東京の特別区 20 区議会選挙の投票率でさえ、平均投票率はなんと 50 % にも届いてない( 42.63 %)。「投票に行く人のほうが少数派」になってしまっている。いくらなんでもこれはマズいでしょ。

 最近、さるラジオ番組に出演された方の発言を見たら、若い人の意識はけっして低いわけじゃない、としたうえで、こんな当事者の声を引用していました。「わたしたちだって選挙が大切なのはよくわかっている。学校でも主権者教育をやってるし。でも、だれに投票したらいいかまったくわからないんです(主権者教育ってなんのためにやってるの ??? )」。あるいは、もし自分が投票した候補者が不祥事を起こしたときに、その人を選んだ自分の責任を持つのがこわい。過ちを犯してしまうくらいなら、投票には行かない …… んだそうですよ。

 人生すでにウン十年、生きてきたしがない門外漢は、はっきり言ってこんな返答を聞かされて情けなくなったね。なんだよそれって感じ。理由にもならん理由。いやヘリクツか。たしかに改正された公選法では、18 歳未満の人は選挙活動ご法度みたいなヘンな決まりごとはあったりする。しかし引用部分はハナから投票に行く気もない人間の戯言にしか聞こえない。「保育園落ちた。日本死ね」という迷言がいっとき話題になったけれども、そういうこと口走る人たちって、あんがい主権者として与えられた権利を十全に行使していない人種なんじゃないかって勘繰りたくなる(意見には個人差があります)。いつからこんなふうになったのかな。「ノンポリ」なんていう言い方が浸透してきたころからかな? 自分たちで自分たちの所属している社会の根幹を破壊していることにほかならないのに。ある芸能人が早世してその葬儀の日に学校を休んでまで行く、それも親子そろって参列した、という例を TV で見たことがあるけれども、こういう手前勝手なメンタリティってどこか通じているんじゃないでしょうかね。それとも、ここで嘆息しているおっさんが「やっぱり古い人間でござんしょうかね」。

 もっとも地元紙の報道にもあったように、伊豆半島の僻地の高齢者しかいないような集落では投票ひとつとってもたしかにたいへんだ。ネット投票云々と言われているけれども、まずは前提条件をつけたうえで、こういう限界集落的なところに住み、投票所に行くのがたいへんな高齢者にかぎって実施してもいいのではと思う。そのときはお年寄りでもハズキルーペなしでハッキリくっきり見えて、かつかんたんに投票ができるアプリなり、方法を考えないといけませんけれども。

 話もどって、ネットの言論空間でも、「政治的発言お断り」というのは世界標準みたいな印象を個人的にも受けてはいる(以前、参加していた米国のニュースグループでもそういう取り決めで、なにかしら政治色が出ると、発言者当人がその気はなかったとしてもモデレーターから注意されたりした)。でも、こと投票となるとたとえば欧州の場合、日本ほどの低投票率、とくに若い世代で投票に行かない人が多い、なんてことはないそうですよ(EU に対する幻滅のせいなのか、フィンランドの若い有権者の EU 議会選挙の投票率が異常に低い、という例外もあるようですけれども)。たとえばこういう記事はどうですか。書かれた内容の是非はともかく、やっぱりここでも何度か書いてきた、「個人」というものがいまだ確立していない言霊の島国だからなのかなって気がどうしてもしてしまう。確固とした「個人」という土台がなければ、当然のことながら「健全な批判精神」も育つはずがないわけで。日本人には日本人ならではの長所があり、日本に帰化するような外国の方なんか、われわれが思っている以上に日本人化していて、もはや「ナイジン」とでも呼んだほうがいいくらいに日本の色に染まっている人もたくさんいらっしゃる。が、それも日本という島国の中での話であって、アジアのみならず欧米も含めた世界では認めてはもらえないでしょう、残念ながら(昨今、欧米がいい意味でも悪い意味でも「日本化」しているように思える事例がとみに多く感じられることはひとまず脇に置いておくとして)。

 「わたしは、わたしとわたしの環境である。もしこの環境を救わないのなら、わたしをも救えない」というスペインの思想家オルテガ・イ・ガセットのことばは、投票する権利の行使にも当てはまるような気がしますね。古代ギリシャの哲学者アリストテレスの発言は、元来の趣旨が「人間はポリス的生き物だ」ではあるけれども、人間ってやっぱり「政治的動物」のような気がします。おっと、チンパンジーやゴリラ、ボノボといった他の霊長類社会でも一種の政治的力学は働いているか。ヨタ話はともかく、明日はぜひ投票を。

 … 「若者がいきいきと生きるための政治を実現するには若者の投票率向上が大事。大学無償化など、経済的に苦しい若者への支援策を議論してほしい」。これは、参院選期間中に地元紙に連載されたひとことコーナー的な記事に載った、現役高校生のことば[下線強調は引用者]。こういう若い人の存在は、ほんとうに頼もしい。

posted by Curragh at 21:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近のニュースから

2019年06月30日

伊東沖海底噴火から 30 年

1). 伊豆半島東海岸の伊東市のすぐ沖合、手石島のあるあたりの海上に突如、爆音とともに噴煙が立ち上ったのは、いまからちょうど 30 年前の 1989 年7月 13 日の夕方のことだった。あのときはほんとうに驚いた。とにかくそれまで毎日のように有感地震がつづいて、あるときなど下からガツン! と突き上げる揺れに飛び起きて、倒れそうになった本棚を必死に押さえていた(というか、本棚といっしょに揺れていた)。

 先日の地元紙朝刊紙面に、当時のことを述懐する静岡大学の小山真人教授の記事が載っていたけれども、「…火口直近の海岸でインタビューを受ける海水浴客の映像を見て、立ち入り規制のない事実に背筋が凍り付いた。……当時は対策ゼロの状態であった。いま思えば、噴火が本格化しなかったことはほんとうに幸運であった」と書いている(当時の状況を現在の伊豆東部火山群の対策に当てはめれば、噴火警戒レベル4への引き上げと想定火口周辺地域の避難勧告→火山性微動発生→噴火警戒レベルを5に引き上げたうえで避難指示、という段階を踏むことになる)。

 2014 年の木曽御岳山の噴火や、昨年の本白根山・鏡池付近の突然の噴火、そしてここ数年、地殻変動のつづいている箱根の大涌谷火口など、日本列島は地震の巣でもあると同時に活火山の集合体でもある。火山ではない場所も、付加体形成に伴う一連の造山運動などによって地殻がズタズタになり、活断層が何本も走っていたりする。温泉や湧水、景勝地などの恵みももたしてくれる日本の自然は、ひとたび荒ぶれば一変する。

 加えて、風水害もある。これからが本格的に警戒しなければならないシーズンだけれども、火山も地震も風水害も、とにかくふだんの、そして不断の備えを心しなければならない、とあらためて痛感したしだい。そういえばけさの朝刊紙面にもけっこう大切なことが書かれた記事が載ってました。今泉マユ子さんという方の寄稿された、防災グッズの準備のしかたについての連載記事。「非常持ち出し袋」の中身はつぎの三つに分けるとよい、というもので、具体的には 1. 地震発生時に「すぐ必要なもの」だけを詰めた袋。これには懐中電灯や手足を守る道具(スリッパや手袋)、そしてホイッスルなどを入れておくとよい、と。2. は「命を守る袋」で、ヘッドライト、マスク、携帯ラジオ、連絡先メモ、すぐ食べられるもの、飲料水、衛生用品など。最後が 3. 避難生活用の袋で、こちらは自宅に置いておく。落ち着いたら取りに行くための袋で、こちらには着替えや備蓄食料を入れておく。もちろん賞味期限 / 消費期限の確認はお忘れなく、という記事でして、なるほどなあと。ワタシも早めに持ち出し袋の中身を入れなおそうと思ったのでした。みなさんも参考にされるとよいでしょう。

2). と、そんな折も折、いま静岡県人にとってもっともホットな話題のひとつが、JR 東海の「リニア中央新幹線」、とくに静岡県側にとっては益どころか害ばっかの気がしてならないトンネル掘削工事の許認可をめぐる県知事との攻防戦でしょう。で、まったくの部外者が見て思うに、いまの日本人って傲慢かつ傲岸不遜な考えの持ち主ぞろいになってしまったなあ、という慨嘆ないし憤懣です(もっともそう感じるのは皮相的で、じっさいには若山牧水が沼津の千本松原伐採計画に轟々たる非難の声をあげた当時となんら変わっちゃいないのかもしれないが)。伊豆半島が押しつづけ、いまも上へ上へ押し上げられつつある南アルプスのどてっぱらを掘削する今回の工事。大井川の流量減少がとくに心配されていますが、個人的には、昭和のはじめのときの東海道本線丹那トンネルの大工事のことを思わずにはいられない。トンネル工事は想定以上の湧き水に落盤、そしてトンネルじたいがズレた北伊豆地震(M 7.3、1930)発生などで事故死者が続出。そしてそのトンネルから湧き出した水=灌漑用水だったので、それが枯れてしまって、当時の旧丹那村の水田はすべて干上がってしまった。いま、函南町の丹那地区は酪農の盛んな地区として有名だけれども、先人たちの血のにじむような奮闘があったからこそいまの姿がある、ということはやはり忘れてはならない。関連の報道を見聞きしているかぎり、いまの JR 東海のやっていることは、80 年以上前の丹那トンネル工事の二の舞になりかねない、との懸念がますます深まるばかりだ。三重県の知事さんは静岡の県知事のことを批判していたが、あんたのとこの県でこの工事をしますと言ったら許可するのか、と噛みついてやりたい気分、ですわ! 

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2019年05月25日

「誤訳」指摘を軽々にすべきではない話『嵐が丘』編

 マクラもなにもなくいきなりなんですけど、まずはこちらをご覧ください。
… 私は馬を乗りつけたとき、彼の黒い目が、ひどくいぶかしげに眉のかげに引きこもるのを見、それから私の名を告げたとき、彼の指がかたく自己を守ろうというように、チョッキのなかにかくれるのを見たが、それで私の心がどれほどあたたかく彼に対して燃えたか、彼もほとんど知るまい。

…「私」だの「彼」だのといったほんらいの日本語にはない人称代名詞がたったこれだけの一文に入れ代わり立ち代わり現れ、そう言っているのが語り手の「わたし」なのか相手の「彼」なのかまるで判然とせず、よくもまあこんなシドい文章つづってシラっとしていられる、と思ったそこの方。それではつづいてこちらをご覧ください。
わたしが馬で乗りつけると、あの人の黒い目はうさん臭げに眉の奥へひっこみ、わたしが名乗れば、その指は握手のひとつも惜しむかのように、チョッキのさらに奥深くへきっぱりと隠れてしまった。そんなようすを目にしたわたしが親しみを覚えたとは、あちらは思いもよらなかったろう。


じつはこれ、エミリ・ブロンテの名作『嵐が丘』の出だしの一節。先に出したほうはウン十年も前の古〜〜い岩波版で、つぎの訳はここ数年来はやりの(?)「新訳」版のひとつから。作家・演出家・評論家であり、エド・マクベインや、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』などの映画化作品を含めて多岐に渡る英米文学もの翻訳を手掛けてこられた中田耕治氏はかつて、「翻訳なんて 30 年ももてばいいほうだ」と発言されていて、『星の王子さま』のような稀有な例外はともかく、一般論としては「ことば」の持つ耐用年数を考えると、翻訳も新しいほうがよいと思う。

 ところがつい最近、こんな世評、いや「ネット上の酷評」を目にした。
出版の許可が下りたのがおかしいと思うくらい、誤訳が多いし、日本語として成立してません。英語力は知らないけど、それ以前に日本語能力が欠如している人だ。

 ネットの世界は「集合知」であったり、「玉石混交」であったり、はたまた最悪の場合は「無法地帯」でもある。ついこの前来日した大統領閣下が大好きな Twitter をはじめ、この WWW ネットワークというのは個人がめいめい好き勝手に、しかもいともかんたんに「発信」できちゃう媒体なので(ここもそうか)、いちいち目クジラ立てることもなかろうとは思うが、こういった無責任な発言はいくらなんでも名誉棄損ものではないの? あろうことか「調べてみたら、翻訳がひどい誤訳であることがわかり、『〇〇版はふつうの翻訳』と書きこみを見たので、こちらにした」なんてのも見た(フツーの翻訳って??? まるで意味不明)。「バタフライ効果」じゃないけれど、実害もしっかり出ている。

 『嵐が丘』は超がつくほど有名なので、「誤訳」なんてのが出てくるとそれ見たことか(gotcha!)と騒ぐ人がかならず出てくる。ちなみに最初に挙げた何十年も昔の訳は正真正銘の「悪訳」であることにまちがいない。だってどう転んだって日本語で書かれた文章、しかも物語としてとてもじゃないが読めた代物じゃないから。こういうのは槍玉に挙げられてもしかたないので、さっさと絶版にして清新な「新訳」にバトンタッチすべきでしょう。

 たまたま↑で引用した「新訳」本を先日、買った人間として、またいちおうこれでも翻訳の仕事を請け負っていることもあり、看過するには忍びない、というか黙っていられなくなり、この紙弾を投げつけたしだいです(本題とまるで関係ない話ながら、先月末、ほんとうにひさしぶりに上京して、こちらの授賞式を見に行った。『ガルヴェイアスの犬』の訳者の方がとてもお美しい方だったので、さらに驚いた[笑])。

 長編で、しかも内容の「解釈」をめぐっては 1847 年に初版本が刊行されたときから毀誉褒貶相半ばしたという、通俗的な文学ジャンルではとてもくくれないとてつもない作品ですので、とりあえず有名な書き出しを中心に気になった箇所とかをほかの訳者による邦訳と突き合わせて比較してみます。自分で買った訳書も含めて用意できた4つの出版社からそれぞれ刊行されている日本語版と、ネット上で見つけた二例も引用してくっつけておきます。ただし今回はすべて匿名で列挙するので、まずは虚心坦懐に鑑賞されたし。例によって下線強調は引用者、そしてルビィちゃん、ではなくてルビを振ってある訳文の場合はルビを割愛して引用。まずは冒頭部から。原書はペンギンクラシックスのペーパーバック版です。

1801.−I have just returned from a visit to my landlord−the solitary neighbour that I shall be troubled with. This is certainly a beautiful country! In all England, I do not believe that I could have fixed on a situation so completely removed from the stir of society. A perfect misanthropist’s heaven: and Mr. Heathcliff and I are such a suitable pair to divide the desolation between us. A capital fellow! He little imagined how my heart warmed towards him when I beheld his black eyes withdraw so suspiciously under their brows, as I rode up, and when his fingers sheltered themselves, with a jealous resolution, still further in his waistcoat, as I announced my name.

A 訳:1801年──いま家主に挨拶に行って、帰ってきた──これからはこの男以外、かかわりをもつ相手はいない。それにしても、この土地は美しい! イングランドじゅうを探してみても、ここまで完全に騒がしい世間から隔絶されている場所は見つかるまい。まさに人間嫌いの天国だ──そして家主のヒースクリフ氏は、この荒涼たる世界を私とわかちあうには絶好の相手だ。とびきりの男ではないか! 私が馬で乗りつけたとき、彼の黒い瞳が眉毛の下でいかにもうさんくさそうに光り、私が名乗ると、彼の手がぜったい握手をさせまいとするようにチョッキの下に深く隠れるところを見たとき、私がどれほど胸を熱くしたか、彼には想像もつかなかっただろう。

B 訳:1801年──いましがた、大家に挨拶をして戻ったところだ。今後めんどうな近所づきあいがあるとすれば、このお方ぐらいだろう。さても、うるわしの郷ではないか! イングランド広しといえど、世の喧噪からこうもみごとに離れた住処を選べようとは思えない。人間嫌いには、まさにうってつけの楽園──しかも、ヒースクリフ氏とわたしは、この荒涼たる世界を分かち合うにぴったりの組み合わせときている。たいした御仁だよ、あれは! わたしが馬で乗りつけると、あの人の黒い目はうさん臭げに眉の奥へひっこみ、わたしが名乗れば、その指は握手のひとつも惜しむかのように、チョッキのさらに奥深くへきっぱりと隠れてしまった。そんなようすを目にしたわたしが親しみを覚えたとは、あちらは思いもよらなかったろう。

C 訳:1801年──家主をたずねて、いま戻ったところだ。厄介な近所づきあいもあそこだけですむ。実にすばらしい土地だ。騒がしい世間からこれほど隔絶したところは、イギリスじゅうさがしても、おそらく見つかるまい。人間嫌いにとっては、まさに天国のようだ。そしてこの寂しさを分かち合うのに、ヒースクリフ氏とぼくはちょうど似合いの相手である。なんと素敵な男だ。ぼくが馬で乗りつけると、ヒースクリフ氏は眉の下の黒い両眼を疑わしそうに細め、ぼくが名のるのを聞いても、ますます油断なく両手をチョッキの奥に押し込んだ。それを見てぼくの心がどんなに和んだか、向こうは想像もできなかったことだろう。

D 訳:1801年──大家を訪ねていま戻ってきたところ──ぼくがこれから関わりをもつことになりそうな唯一の隣人。ここは確かにすばらしい地方だ! イギリスじゅうで、これほど完全に社会の喧騒から隔てられた場所に身を落ち着けることができたなんて信じられない。完璧な人間嫌いの天国だ──それにミスター・ヒースクリフとぼくはこの荒涼たる世界を分かち合うにはもってこいの相棒。実にいい奴だ! ぼくが馬で乗りつけると、彼の黒い眼が何やら疑わしげに眉の下に引っ込んでいくのを見たとき、またぼくが名乗ると、油断してなるものかと決意も固く彼の指がチョッキのなかへずっと深くもぐりこんでいったとき、ぼくの心がどれだけ彼に引かれていったか、彼の方はほとんど想像もしなかっただろう。

付録:ネットで見かけた別訳者による訳二例

1). 1801 年──家主をたずねてたったいま帰ってきた。うるさい近所づきあいもここでは一軒だけですむ。いやはや、すてきな片田舎だ! たとえイギリスじゅうさがしたって、さわがしい俗物どもの世界からこれほど完全に隔離された環境はめったに見つかるものではない。……

2). 1801 年──ぼくはいま家主を訪問して帰ってきたばかりである。──彼だけがまた、これから付き合わねばならない隣人というわけだったが──。とにかくすばらしい土地である! まずイングランド中探しても、これほど世間のさわがしさから完全に切り離された場所がほかにあるとは思われない。 ……


 冒頭部でまず気になるのが、'This is certainly a beautiful country!' をどう訳すかについて。ヒースくらいしか生えない、寒風吹きすさぶ丘陵地帯を 'a beautiful country' と評しているのは文字どおりそう感じたから、ではないだろう、この「語り手」ロックウッド氏の性格付けからしても。そういう「気持ち」が certainly にこめられている。こちらのページの掲載画像を見ると、「嵐が丘」邸周辺の風景はアイルランドのコノートかドニゴール地方を思わせる美しさはたしかに感じるとはいえ、「荒れ地」的印象のほうが強い。そしてこのあとの展開を見ればわかるように、やんわりとした皮肉も響いている、と考えるのが妥当な線ではないかと(それにすぐあとで'... a suitable pair to divide the desolation between us.' って書いてあるし)。なので個人的には「実にすばらしい土地だ」とした C 訳は字面どおりであっさりしすぎ、「それにしても、この土地は美しい!」の A 訳はあともう一歩、さりとて「ここは確かにすばらしい地方だ!」とした D 訳もどうかと。というわけで「さても、うるわしの郷ではないか!」とした B 訳のほうが好ましいと感じます。

 そしてつぎの下線部の訳ですが、「 C 訳が比較的自然な日本語で、かつ原文も大事にしていてオススメです」とのネット評を書いていた人がいたけれども、「眉の下の黒い両眼を疑わしそうに細め」という一節を見ただけでこちらの目まで疑わしげに細くなってしまう。眉の下にいきなり鼻があるわけじゃなし、眉の下に目があるのは当たり前でことさら断って書くことじゃない。それにほかの科白や地の文もなんというか、小説としてそぐわない箇所が散見されます。「英文解釈 100 点、だけど翻訳は…」という典型例のように見えたのも事実。なので「ブロンテの原文の字面を忠実になぞった訳」が読みたい向きにはこちらでよいとは思うが、「文学作品を読んでいる」という気分にはならなかった。それはたとえばすこし先の箇所(The ‘walk in’ was uttered with closed teeth, and expressed the sentiment, ‘Go to the Deuce!’ )の訳が「ろくに口も開かずに言うので、言葉は『入ってください』でも、まるで『とっとと失せろ』という意味に聞こえる」というのもヒースクリフの個性がまるで感じられないし、いかにも平板。「この『入んなさい』という言葉を吐いたとき彼の口は閉じられていて、『死んじまえ!』とでも言いたそうな気持が露骨に見てとれた」とした A 訳は ‘Go to the Deuce!’ の訳が難あり、B 訳は「"入れ"とは云いながら歯を食いしばるようにするので、"失せやがれ!"とでも云いたげな気持ちが伝わってきた」で、自分としてはわりとすんなりイメージが頭に入る。「入」と「失せやが」で脚韻を踏ませることまで意識したのかな、とも感じた。「死んじまえ」は、やはり文章の流れ的に「浮いて」見えます。家主は「さ、入れ」と言いつつ、そのじつ「おめーなんか、おとといおいでってんだ」みたいな気持ちであり、それが語り手の間借り人にも伝わってきたんでしょ、ここは(「おとといおいで / おととい来やがれ」の意味がわからない人のほうが多い今日このごろではあるが、古い作品にはこのような手垢のついた言い回しも使用可能だと思っている)。「その『入りなさい』ということばは歯を食いしばったままいわれたので、『くたばってしまえ』という気持ちを表していた」とした D 訳は A 訳に近い。

 かなり先に飛んで原書の第 15 章、お手伝いさんのネリー・ディーンの回想から。幼いヘアトンが怒り狂った父親ヒンドリーにむりやり抱えられて階上に連れていかれ、ヒースクリフがやってきたと思ったその刹那、父親の腕から落下した直後のネリー自身の科白で、「坊主にケガはなかったか?」と訊いてきたヒンドリーに対し、頭にきたネリーが叱責するところ。原文はシンプルに 'Injured! I cried angrily, If he's not killed, he'll be an idiot!' で、下線部の訳がどうなってるのかそれぞれ見てみると──
A 訳:「怪我ですって!」あたくしはかっとなりました。「怪我はしていなくても、障害児になってしまうでしょうよ!」
B 訳:「怪我ですって!」あたしは怒鳴りましたよ。「殺されなくても、頭が馬鹿になってしまいます!」
C 訳:「けがですって?」わたしは腹を立てて、大声で言いました。死んでしまうか白痴になっていたか、どっちかのところですよ!」
D 訳:「怪我をしたですって!」わたしは怒って叫びました。「たとえ死ななかったとしても、頭がおかしくなりますよ!」


けっきょく読み手の好みの問題と言ってしまえばそれまでかもしれないが、すくなくとも A 訳の「障害児」はないでしょう! 場にそぐわない訳語の選択。ここは読み、表現ともに C 訳のほうが適切だと思いました。ネリーの気持ちをはっきり書けば、「けがはないか、っていったいどの口が言ってるんです? 死ぬか、頭がバカになってしまうか、どちらかってところではないですか、ちがいますか!」くらいの、いくら雇われ人とはいえカンカンに怒っている感じが出てない訳ではいかんと思うのです。

 こんなこと書くと、「意訳ではないのか?」って言う人がかならず出てくる。んなことはない。ヤナセ語訳『フィネガンズ・ウェイク』だって、わからないながらも気になった箇所を原文と比べてみたらけっこうストレートな訳になっていたりする(以前、ここで書いた『フィネガンズ・ウェイク』関連拙記事を参照のこと)。ようは、ここまで表現できてはじめて翻訳と言える。読むのはあくまでも日本語で書かれた文学作品。「原文で何度も読んでいるけど、日本語版はどれもイマイチ」みたいなことを書いていた人もいたが、それならブロンテの原文を熟読玩味すればよろしい。古典新訳ブームという言い方はよく聞くけど、ようするに版権が切れてるから / 切れたから新訳を出しやすくなった、それだけのことなんでしょう。とはいえ『嵐が丘』新訳刊行ラッシュの場合、なんか出版社どうしによるライバル心むき出しの競争みたいな印象もなくなくはない。

 誤訳については、ヒースクリフ家の番犬に襲われそうになったときのことを話すロックウッドの科白の「焼き印」を取り上げていた人もいましたが、たしかにそうだとしても、だからといって全体までが悪い、みたいな物言いはいくらなんでも乱暴にすぎる。ちなみに仏語訳版でその箇所がどうなってんのか調べてみたら、 
── Si je i'eusse été, j'aurais laissé mon empreinte sur le mordeur.

これを英語に再度もどせば "If I had been, I would have engraved my seal on the biter." で、まさかこれをただ「噛みつこうとしたそいつにわたしの印を押しつけてやるところでしたよ」とやって、「印章付き指環をはめた手でおたくの番犬にパンチのひとつもくれてやったでしょうよ」と解釈できる読み手はひとりもいないでしょうよ。「焼き印」とした訳は以前からあり、ひょっとしたら「既訳本に敬意を払って」先達の仕事を参考にしたのかもしれませんが、イメージはしっかり伝わっているから、ここはしかたない処理かと。ストレートに「げんこを喰らわせた」とすると、意味的には正解[ただしかなり自由度の高い意訳になってしまう]ですが、「印章付き指環(signet)」の「印章」をしっかり犬の額に刻印させてやる、というイメージはまるで伝わらず、「焼き印(日本語化して久しい brand)」としたほうが無難な線だと判断したためではないかと思われます(ちなみにこの signet、O.E.D. で調べたけど意外? にも『嵐が丘』のこの科白は例文として収録もされていなかった)。

 「誤訳」というのはいちばん最初に挙げた、だれが見てもヒドい訳はいざ知らず、どんなすぐれた訳にも大なり小なり含まれているものでして、「鏡に映したような翻訳」は、目指さなければいけないことはわかっているけれども、そうそうお目にかかれるものではありません。ワタシなんかむしろ、『嵐が丘』ひとつでこんなにさまざまな日本語表現ができるんだ、と感心しきりなんですけどね。正直、「唯一絶対の翻訳」なんてのもありえない。また批評子というのは、ここも含めてすべて批評する側の視点、ものの捉え方で書くもので、やはり絶対ではない。ましてや「ありもしない勝手な理想像をこさえて、それを絶対的基準のように人さまの翻訳をバッサバッサと斬り捨てる」というのも、厳に慎まなければならない。世の中にはそういうお門違いもいいところな誤訳指摘という名の揚げ足取りがあまりにも多すぎる。かくいう自分も締め切り直前に拙劣な訳をしていた箇所に気づいてあわてて訂正して納品した、なんてことがあるから口幅ったいことは言えないが、翻訳というのはかんたんな仕事じゃないですよ、マジで(digit)。辛気臭いわりに報われること少なく、ついでに原稿料も少ない(嘆息)。

 原稿料で思い出したが、たとえばつぎのような訳文だったら、これはもう拙劣の批判は甘んじて受けなければならないし、クライアントに翻訳料金を請求するのもおこがましい、と考える。
… わたしの父は、少なくとも石に彫られている碑文を書くことなく、……を放棄すべきだったのに、そうしなかったことは、いつも私にとって奇妙に思えた。

原文は 'it always seemed to me strange that my father should have abandoned the ...... where he did, without at least writing the inscription that was carved on the stone.' で、すぐあとに '... At some later time he entered roughly on the manuscript the inscription on the stone, ...' とつづきます。上記訳文ですと、しっかり碑文を書いていたことになり、「あとになって、父はその石に彫り付けた碑文のおおまかな内容を草稿に書き入れた」とつながらなくなるから、あきらかに誤読していることがわかります。もちろん息子にとって長年、腑に落ちなかったのは、「父が石の碑文を書くことなく中断してしまったとは、いったいどうしてだろう」ということ。

 というわけで、きわめて casual な気持ちでツイートする読書好きの方も含め、「誤訳の指摘、誤訳に対する批判」を全世界に発信する前に、ひと呼吸おきまして、いまここで書いたことなども思い出していただければありがたいと思います。ところで最初に引き合いに出した中田先生ですけど、お元気そうでなにより。こちらのブログ記事にあるように、
──女の作家は、けっして女性を代表するわけではないのです。
世間では優れた女流作家は女性を代表すると考えるわけだけれど、わたくしに言わせれば、誤りです。
むしろ一般の女性からはかけ離れた特異な存在です。
特異な存在だからこそ、自分自身が作家でありえたのだし、創造性を持ちえたというふうに、ぼくは考える。

というのは、もうさすが、としか、ここにいる門外漢は言うことばがありません。先生の評はそのまんま『嵐が丘』という作品にも当てはまりますし(中田先生は昔、高校生だったか、若い読者から誤訳指摘の手紙を受け取ったことがあるという。こんな大御所になんとまた大胆な、とも思ったけれども、その内容がかなーり辛辣だったようです。で、この怖いもの知らずの若い読者にまたご丁寧にこう書いて返信をしたためたんだそうです──「このつぎはきみが訳してね」)。

posted by Curragh at 19:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 翻訳の余白に