まったく久しぶりに NHK-FM がらみで。今週の「古楽の楽しみ」、今年聴取したなかでは個人的にいちばん気に入った特集だったかも(ここんところ『ラブライブ!』シリーズの話題多めで、以前からこの拙い脱線だらけのブログを見てくださっている少数の方がたにとっては、ワタシがすっかり別人になってしまったかのように心配[?]している向きもおられるかもしれませんが、バッハ大好きオルガン大好き路線にはいささかも揺るぎなし、ということだけはハッキリさせておきます。しかしワタシは音楽をジャンルべつに腑分けするというのがそもそもキライで、バッハだろうと Aqours やニジガクだろうと、良いものは良い、という芸術至上主義者でありますのでそのへんはお間違いなく)。
案内役の先生のおっしゃるとおり、若き日のバッハの「イタリア体験」がなかったら、おそらくいまのわたしたちが知っているようなあの16分音符ペコペコ進行多しみたいな独特なバッハ様式はなかっただろうし、その後の西洋音楽(クラシック)もいまとは異なる方向に発展していたかもしれない。ただ、お話を聞いていて、「え、なんだアレもか?!」とヴィヴァルディ体験の影響を受けたバッハ作品の多さにちょっとびっくりしたり。たとえばけさの放送で聴いた、「教会カンタータ第 146 番」のシンフォニアおよび8声の合唱曲とか。シンフォニアはなるほど、たしかに現存するチェンバロ協奏曲(ニ短調、BWV 1052)の出だしの楽章のパロディ(転用)ですが、8声の合唱のほうは注意して聴いてないと BWV 1052 の緩徐楽章だと気づきにくい。「大規模に発展させた見返りに、ここではヴィヴァルディにあったわかりやすさは犠牲にされている」と先生は指摘されていたが、いやいやこの大規模ヴァージョンの精神的な深さはどうですか。バッハは、シンプルさが多少消えても、「マタイ」や「ヨハネ」を思わせる劇的効果はこれくらい声部を分厚くした対位法書法じゃなきゃダメだ、ということがわかったうえで書いたんだと思う。というわけで、今週はヴィヴァルディの『調和の霊感(L'estro Armonico)』とバッハ作品との相関関係について取り上げてます。
ヴィヴァルディ体験がもたらした果実は、たとえば以前ここにも書いた、BWV 544 の「前奏曲とフーガ ロ短調」にも現れているという。言われてみればたしかに。前半の前奏曲は、リトルネッロ形式のイタリアバロックな協奏曲を思わせます。そしてバッハは南の代表のイタリア様式と、師匠とも言うべきブクステフーデから学んだ北ドイツの幻想様式(北ドイツ・オルガン楽派)とが渾然一体と化した、「前奏曲とフーガ ホ短調 BWV 548」の巨大なフーガへと発展させる。…… 先生のお話を聴きながら、すこし spine-tingling な気持ちを味わってました。
ただしヴィヴァルディは、バッハをはじめとする当時の名だたる大音楽家に多大な影響を与えた功績の持ち主らしからぬ最期を遂げてしまったのがいかにも悲しい。彼は 1740 年の春ごろ、ウィーン(ほんとはヴィーン)へと旅立った。最晩年のバッハとおなじく、自分の音楽(彼の場合はオペラ・セリア)が時代に合わなくなったこともひとつの要因となって、新天地を求めた、というわけ。かの地には、あらたにパトロンになってくれそうな神聖ローマ皇帝カール6世がいて、その援助を当てにしたのだけれども、なんとなんとヴィヴァルディのウィーン到着後、ほどなくして皇帝その人が急死してしまった。当然、国内は喪に服すことになったから、現代の新型コロナではないが、音楽どころでなくなった。翌 1741 年、彼もまた病気になり、貧窮と失意のうちに亡くなる。身寄りのない expat だった彼は貧民墓地に埋葬されて、現在、遺骨は行方不明のままです。
それでも彼の明朗快活な調べはまさしく不朽。バッハやヘンデル、テレマン、ラモー、クープラン、スカルラッティ父子、コレッリなどとともに、バロック時代を代表するヴァイオリンの大家にして大作曲家として、時代を超えていつまでも愛聴されつづけるでしょうね。前にも書いたけれども、歩行器の赤ちゃんがヴィヴァルディの合奏協奏曲を聴かせると、ヒョコヒョコお尻振って喜ぶってのは、どう考えてもスゴいことずら。
2022年08月25日
2022年08月18日
けっきょく二元論なのでは…?
ジェフ・ホーキンスというすごい方がいる。iPhone もなにもなかった 30 年くらい前、伝説のパームというモバイルコンピュータの先駆とも言うべき携帯型情報端末(PDA)を世に送り出して、「モバイルコンピュータの父」の異名をとり、しかもその後、ほんとうにやりたかった脳の構造を解明する理論構築のため、自前の脳科学研究所を設置したりと型破りどころか、かなりぶっとんだ経歴をお持ちの先生でもあります。
とはいえ、さてなんでこの本を読もうかと思ったのかさえすでに記憶の彼方に行っちゃっているボンクラな脳しか持ち合わせていない当方なぞ、それこそ月とスッポンなのでどうしようもないわけですが、せっかく読んだのでまた好き勝手に読後感などを書き散らすしだい。たぶん、なにかの記事を訳していたときにこの本の引用が出てきたものと思っていたが、直近の仕事で提出した当方の元訳稿を探してもそれらしいのが見当たらず……? ま、これはどうでもいいマクラですね、失礼しました。
本の内容は3つに分かれておりまして、まずわたしたちの大脳新皮質の仕組みに関する「1000の脳理論」の解説、つぎにそれを応用した「真の意味での汎用 AI のあり方」について、最後が「わたしたちの脳が持っている知識をいかにして保存するか」、それも人類絶滅後にやってくるであろう知的な地球外生命体に対してどのようにボトルメッセージとして残せばよいか、その方法をかなり具体的に(!)考察してます(以下、引用文の下線強調は引用者)。
神経科学者が本業の著者先生によると、どうも私たちの「知能」というのは、「大脳新皮質の皮質コラムそれぞれに座標軸があり、各座標軸によってモデルが立てられ、それにもとづいて世界像が作られていくプロセス」なんだそうです。よくあるだまし絵のたぐいも、なぜその絵がそう見えてしまうのかの説明もきわめて説得力に富んで、前半はとても刺激的でおもしろく感じた。ただ一点、「大脳新皮質 vs. 遺伝子の命令に忠実な古い脳」という対立構造が気になってはいた。完全に使い物になる汎用AI(AGI)の話は良しとしても、最後の「人間の知能」と括られたセクションの数章は、にわかに首肯できない書き方で、個人的には完全な蛇足とさえ思えた。ま、いくら天才肌の先生でも、いわゆるテクノユートピアン的な発想がよほどお好きな読み手でないと、先生の繰り出す「論理的な推論」、というか完全なる妄想の世界に取り残されて目をパチクリって感じ。そして巻頭から漠然と感じていた、「大脳新皮質 vs. 遺伝子の命令に忠実な古い脳」という対立構造がここにきてむくむくとアタマをもたげてくるからさらにタチがよくないときている。
どこが問題か。たとえば、無思慮な判断や行動(「…専制君主を支えるポピュリスト運動も、人種差別や外国人嫌いのような古い脳の特性にもとづいている」[p. 283]!)の原因が、だいたい「遺伝子の命令に忠実な古い脳」にされちゃっている点。もっとも古い脳も大脳も複雑に結びついていますと書いてはあるんですが、なんかこう、大脳新皮質のつくり出す「幻影(マーヤ)」にすぎないであろう、何万通りもの座標系モデルが映し出すわたしたちの知能の成果とも言うべき知識だけを人類が絶滅したあともなんとしても遺したい、地球外生命体にもぜひ見てほしい。そうお考えのようです。
そりゃたしかにわたしたちは、言ってみれば「138億年前のビッグバンの遠い遠い残響、わたしたちの肉体じたい、究極的には星屑にまでさかのぼれる」んですが、マーク・トウェインが言ったとか言わなかったとかいう、「地球からすれば、人間なんて微生物みたいなもの」的な発言のほうが信憑性を感じてしまうタチなので、つい「かつて存在したホモサピエンスの知識なんて、知りたいと思う地球外高等生物が果たしているのかなぁ」なんて思ってしまうんです。
この本は読み進めるにつれて、けっきょくお決まりの二元論的な話にはまり込んでいるという印象がどうしても拭えなかった。『利己的な遺伝子』のドーキンスが序文を寄せているくらいだし、似たような傾向になるのはしかたないが、個人的にはこういうところにいかにも西洋人的な傲慢さを感じる。※ なぜコロンブスやマゼランみたいな人があちらの世界から出てきたり、かつての大英帝国みたいに、自分たち以外の非白人・非キリスト教徒の民族からなる国家や地域を支配するまっとうな権利がそなわっていると思ってたりしていたのか。たしかに当時の西欧諸国は政治や経済のみならず、啓蒙思想や人権など、他の民族より優れた思想と、なんと言っても合理主義とルネサンス期以降の自然科学の発展と、それらが後押しした産業革命もすでに経験済みだったから、音楽の世界における楽譜と同様に、いまに至るまで近代文明をリードし、「自分たちこそ世界標準である」との自負がおそらくあるのでしょう。しかし東洋の人間からすると、鈴木大拙師じゃないけど、大脳も古い脳もともに分かちがたく結びついているのであって(ふたつを分離する発想ないし意図がわからない)、一方の上位版の機能のみ持ち上げるってのはどうなんでしょうか。
人の「意識」は、たしかにその人が肉体的な死を迎えればこの世界から立ち消えてしまうでしょうけれども、ドイツ語で言うところの「時代精神(Zeitgeist)」みたいな集合的な意識というのは確実に残って、後世に伝えられていくと思うんですね。比較神話学者のキャンベルがさかんに強調していた「脳は意識の容れ物」説も、おそらくそんな意味だったのではと思う。テスラ CEO よろしく著者ホーキンス先生もえらく火星移住に熱心なようですが、庶民的発想では、核戦争や気候変動で人間が地球を住めなくしたら、その道義的責任はどうなってんのかってまず思いますね。地球はもう住めない! なら新天地の火星へ移住しよう! そのための火星環境の大改造は汎用 AI たちにやらせてね、みたいな話はどう考えても不遜だし、あまりに人間中心のそしりは免れないでしょう。だいいちそんな地球にしてしまったら、いくら火星コロニーの建設に成功しても子孫に対していったいどんな顔を向ければよいのやら。また、その過程でどれだけの動植物などの生命体が絶滅することか。──こういう感傷まで、まさか「遺伝子の命令に忠実な古い脳」のせいにはしませんよね?
著者は「あとがき」で第1部について、「…途中、そこで終わりにすべきかどうか熟慮した。一冊の本に書く内容として、新皮質を理解するための枠組みだけで十分に野心的であることはたしかだ」と書いています。……個人的にはそのほうが何倍もありがたかったかも。「1000の脳理論」を応用した汎用 AI の話なんかはすこぶるおもしろかったですし。
※……ドーキンスが序文で引用している、同業の進化生物学者で認知科学者のダニエル・デネットの近著『心の進化を解明する/バクテリアからバッハへ』の原書(From Bacteria to Bach and Back、2017)は読んだことがある。原書は手許にあるし、日本語版は図書館にあるしで、こちらもいずれは取り上げたい、と思ってもう2年以上が経過した(苦笑)。内容的にははっきり言ってこっちのほうがムズかったずら。「カルテジアン劇場」ってのももちろん出てきます。
評価:

とはいえ、さてなんでこの本を読もうかと思ったのかさえすでに記憶の彼方に行っちゃっているボンクラな脳しか持ち合わせていない当方なぞ、それこそ月とスッポンなのでどうしようもないわけですが、せっかく読んだのでまた好き勝手に読後感などを書き散らすしだい。たぶん、なにかの記事を訳していたときにこの本の引用が出てきたものと思っていたが、直近の仕事で提出した当方の元訳稿を探してもそれらしいのが見当たらず……? ま、これはどうでもいいマクラですね、失礼しました。
本の内容は3つに分かれておりまして、まずわたしたちの大脳新皮質の仕組みに関する「1000の脳理論」の解説、つぎにそれを応用した「真の意味での汎用 AI のあり方」について、最後が「わたしたちの脳が持っている知識をいかにして保存するか」、それも人類絶滅後にやってくるであろう知的な地球外生命体に対してどのようにボトルメッセージとして残せばよいか、その方法をかなり具体的に(!)考察してます(以下、引用文の下線強調は引用者)。
神経科学者が本業の著者先生によると、どうも私たちの「知能」というのは、「大脳新皮質の皮質コラムそれぞれに座標軸があり、各座標軸によってモデルが立てられ、それにもとづいて世界像が作られていくプロセス」なんだそうです。よくあるだまし絵のたぐいも、なぜその絵がそう見えてしまうのかの説明もきわめて説得力に富んで、前半はとても刺激的でおもしろく感じた。ただ一点、「大脳新皮質 vs. 遺伝子の命令に忠実な古い脳」という対立構造が気になってはいた。完全に使い物になる汎用AI(AGI)の話は良しとしても、最後の「人間の知能」と括られたセクションの数章は、にわかに首肯できない書き方で、個人的には完全な蛇足とさえ思えた。ま、いくら天才肌の先生でも、いわゆるテクノユートピアン的な発想がよほどお好きな読み手でないと、先生の繰り出す「論理的な推論」、というか完全なる妄想の世界に取り残されて目をパチクリって感じ。そして巻頭から漠然と感じていた、「大脳新皮質 vs. 遺伝子の命令に忠実な古い脳」という対立構造がここにきてむくむくとアタマをもたげてくるからさらにタチがよくないときている。
どこが問題か。たとえば、無思慮な判断や行動(「…専制君主を支えるポピュリスト運動も、人種差別や外国人嫌いのような古い脳の特性にもとづいている」[p. 283]!)の原因が、だいたい「遺伝子の命令に忠実な古い脳」にされちゃっている点。もっとも古い脳も大脳も複雑に結びついていますと書いてはあるんですが、なんかこう、大脳新皮質のつくり出す「幻影(マーヤ)」にすぎないであろう、何万通りもの座標系モデルが映し出すわたしたちの知能の成果とも言うべき知識だけを人類が絶滅したあともなんとしても遺したい、地球外生命体にもぜひ見てほしい。そうお考えのようです。
…… 知的機械をつくる目的のひとつは、人間がすでに行っていることを複製することだろう。コピーをつくってばらまくことによって、知識を保存するのだ。この目的で知的機械を使いたい理由は、私たちがいなくなったずっとあとまで知識を保存し続けることができ、ほかの星のような私たちには行けない場所まで知識を広められることにある。[p. 296]
そりゃたしかにわたしたちは、言ってみれば「138億年前のビッグバンの遠い遠い残響、わたしたちの肉体じたい、究極的には星屑にまでさかのぼれる」んですが、マーク・トウェインが言ったとか言わなかったとかいう、「地球からすれば、人間なんて微生物みたいなもの」的な発言のほうが信憑性を感じてしまうタチなので、つい「かつて存在したホモサピエンスの知識なんて、知りたいと思う地球外高等生物が果たしているのかなぁ」なんて思ってしまうんです。
この本は読み進めるにつれて、けっきょくお決まりの二元論的な話にはまり込んでいるという印象がどうしても拭えなかった。『利己的な遺伝子』のドーキンスが序文を寄せているくらいだし、似たような傾向になるのはしかたないが、個人的にはこういうところにいかにも西洋人的な傲慢さを感じる。※ なぜコロンブスやマゼランみたいな人があちらの世界から出てきたり、かつての大英帝国みたいに、自分たち以外の非白人・非キリスト教徒の民族からなる国家や地域を支配するまっとうな権利がそなわっていると思ってたりしていたのか。たしかに当時の西欧諸国は政治や経済のみならず、啓蒙思想や人権など、他の民族より優れた思想と、なんと言っても合理主義とルネサンス期以降の自然科学の発展と、それらが後押しした産業革命もすでに経験済みだったから、音楽の世界における楽譜と同様に、いまに至るまで近代文明をリードし、「自分たちこそ世界標準である」との自負がおそらくあるのでしょう。しかし東洋の人間からすると、鈴木大拙師じゃないけど、大脳も古い脳もともに分かちがたく結びついているのであって(ふたつを分離する発想ないし意図がわからない)、一方の上位版の機能のみ持ち上げるってのはどうなんでしょうか。
人の「意識」は、たしかにその人が肉体的な死を迎えればこの世界から立ち消えてしまうでしょうけれども、ドイツ語で言うところの「時代精神(Zeitgeist)」みたいな集合的な意識というのは確実に残って、後世に伝えられていくと思うんですね。比較神話学者のキャンベルがさかんに強調していた「脳は意識の容れ物」説も、おそらくそんな意味だったのではと思う。テスラ CEO よろしく著者ホーキンス先生もえらく火星移住に熱心なようですが、庶民的発想では、核戦争や気候変動で人間が地球を住めなくしたら、その道義的責任はどうなってんのかってまず思いますね。地球はもう住めない! なら新天地の火星へ移住しよう! そのための火星環境の大改造は汎用 AI たちにやらせてね、みたいな話はどう考えても不遜だし、あまりに人間中心のそしりは免れないでしょう。だいいちそんな地球にしてしまったら、いくら火星コロニーの建設に成功しても子孫に対していったいどんな顔を向ければよいのやら。また、その過程でどれだけの動植物などの生命体が絶滅することか。──こういう感傷まで、まさか「遺伝子の命令に忠実な古い脳」のせいにはしませんよね?
著者は「あとがき」で第1部について、「…途中、そこで終わりにすべきかどうか熟慮した。一冊の本に書く内容として、新皮質を理解するための枠組みだけで十分に野心的であることはたしかだ」と書いています。……個人的にはそのほうが何倍もありがたかったかも。「1000の脳理論」を応用した汎用 AI の話なんかはすこぶるおもしろかったですし。
※……ドーキンスが序文で引用している、同業の進化生物学者で認知科学者のダニエル・デネットの近著『心の進化を解明する/バクテリアからバッハへ』の原書(From Bacteria to Bach and Back、2017)は読んだことがある。原書は手許にあるし、日本語版は図書館にあるしで、こちらもいずれは取り上げたい、と思ってもう2年以上が経過した(苦笑)。内容的にははっきり言ってこっちのほうがムズかったずら。「カルテジアン劇場」ってのももちろん出てきます。
評価:


2022年07月31日
最近目を引いた記事2題
❶ まずは日経新聞夕刊の連載コラムから、歴史学者の藤原辰史氏による「就活廃止論」という刺激的なお題の記事。少し長くなるけれどもまずは引用から(下線強調は引用者)↓
かつてこの島国では、新卒一斉採用のみが有無を言わせずまかり通っていて、それ以外の道を歩んだ若い人はアーティストのタマゴか、画一的な日本社会が敷いたレールから脱落した落伍者として片付けられて一顧だにされなかった時期が昭和〜平成と長らく続いた。海外の学生はどうかと言えば、希望する職種のある会社(ココ重要、日本みたいに「どこどこのカイシャ」で就職するのではない!)インターン、つまり下働き、いまふうに言えば「試用期間」社員として職につくのが一般的。もちろん卒業と同時にヨーイドンみたいな一括採用ではないから、しばらく世界中をほっつき歩いて無銭旅行に出かける者も珍しくない。就職するか、無銭旅行に出るか。すべては当人が自分で決めるんです。
いまでこそ差別的なニュアンスはなくなったと思うが、1990年代まで、フリーターという呼称にはつねに侮蔑的な響きがあった。当時を顧みると、社会が敷いたレールから外れた人はみな落伍者でありそれは自己責任なのだと、十把一絡げにしてハイそれで解決、みたいな風潮が強かったように感じている(その恐るべき画一性の証拠に、かつて中学生相手に「正社員にならないと年収にこれだけの生涯格差がつきます YO!」みたいな脅迫まがいの出張授業まで行われていた。猫も杓子も、はヘンかな、diversity 全盛時代のいまはさすがにこんなバカげたことやってないと思うが)。
この手の話を目にするといつも思うんですけれども、ある意味理不尽かつ摩訶不思議かつ非合理的なこの「新卒一括採用」システムにずっと拘泥し、そこにアグラをかいてきた政財界をはじめとする日本社会の硬直性、というか、「ほんとうにこのままでよいのか?」とお偉いさんも含め、だれもモノを考えなくなったことが日本の最大の不幸かと感じます。大学の先生からこういう内容のコラムが発信されたのを見ると、「へ? いまごろ?……」という慨嘆もなくなくはないが、それ以上に、当事者からようやく、それこそが危機なのだという見解を目にすることができたうれしさのほうが勝っているのが正直なところ。
令和ないまはどうでしょう。ワタシはむしろいまの若い人のほうがチャンスがたくさんあって、うらやましいと思う。終身雇用前提の雇用関係で宮仕えする必要なんてどこにもない。スタートアップの起業家をシリコンヴァレーに派遣云々……という話も聞くけれども、そうじゃなくて、早く大量生産大量消費時代の遺物たる「新卒一括採用」の慣行こそ廃止すべきでしょう(ついでに入試制度もね。卒業が難しい制度こそ大学教育のほんらいの姿だと思っているので。バ✗でもチ✗ンでも全入全卒 OK、なんてそれこそトンでもない話。これとはべつに、大学で教えている内容の問題、それを教えている人の質の問題はあるけれども ⇒ たとえばこちらの本参照)。それから9月入学制にも早く移行すべき。国際化国際化と、掛け声モットーばかりがやたらかまびすしく、そのじつ問題だらけの外国人労働者の雇用環境(と、必然的に移民労働者をどうすべきかという議論)は放置プレイで、気がつけば「失われた〜十年」とか呆けたことを口にする平和ボケな二流三流島国に成り下がってしまった。
いろいろ注文つけたいこともないわけではないが、いまの若い人は少子化とはいえ、ワタシたちが 20 代だったころに比べてはるかにしっかりした考え方を身につけた人が大多数なので、「こんな国にしやがって」とかクサらず、どうか反面教師として奮起してほしい、と思う今日このごろ。あと、いまの若い人って Twitter はどうなのかわからないが、そのときの気分で発信された発言や意見に振り回されてはイカンと思いますね。コロナワクチンが好例だが、明らかな misinformation もわんさとあるし。あんなもんばっか追っていたら眼精疲労起こすわドライアイになるわ、ストレスたまるわで。週に一度くらいはスマホの画面も目も心も休める休日(海外ではこういうのを screen-free day と言うみたいだが)を作って、山や海に行ったり、「積んどいた」本を読んで一日まったり過ごしてみてはいかが(積ん読に関しては、あまり人のことは言えないが…)。
❷ そんな折も折、こんどはこういう驚愕の話を知った。乳幼児が包丁をにぎって、魚を三枚におろす! 園長さん曰く、「料理を通して、さまざまなものの解像度を上げたり、ものごとの全体を想像する力を身につけてほしい」。
料理だけでなく、商店街の人たちとの交流など、こうやって育てられた子どもって心身ともにものすごくたくましくて、なにかネガティヴな問題にぶつかっても自分の命を粗末に扱うこともなく、なによりも大所高所からの視点で森羅万象をみはるかす力を持った、すばらしい大人になるだろうと、読んでて涙が出てきた(トシずら)。超がつくほどの少子高齢化進行中のこの島国で、もしほんとうにこの島国と、そこに生きる民族を救いたいと思ったら、参考にすべきはこういう取り組みなのではないかと。「園児の声がやかましい!」とか文句垂れてる手合は、子ども時代にこの保育園の子どもたちのような「想像力」を持つ機会がないまま成人したたぐいのアダルトチルドレンなのだろうと、つくづく思われたしだい。前にも書いたかどうか忘れたが、人としての成熟に年齢なんて関係ないです。
本文とまったく関係ない追記:先日、たまたまコンビニで買った地元紙朝刊(昨年暮れまでに日経電子版に切り替えたから、こちらは購読解約済み)の論壇コラム見たら、またしてもアラが目に付いたのでひと言だけ。温室効果ガス削減の話で、テクニカルには難しい問題がある、ときて、
えっと、たとえば「グリーンウォッシュ(見せかけだけの気候変動対策)」、「環境への配慮を誇大にアピールして顧客や投資家を欺く『グリーンウォッシュ』を告発する声も上がっている」との記述が、英 Economist 誌に出てきます。というかこっちのほうが正真正銘のグリーンウォッシュの定義なんですけれども? どこで仕入れたのか知りませんが、なんとまたヤヤコシイ解説をなさるもんです(ほかの執筆陣も相変わらずで、いいかげん世代交代させてやりなさい YO!)。
前任校では3年ほど卒業論文の指導にあたった。他大学の非常勤講師で 20人近くの3、4回生のゼミや卒業論文の指導を受け持つこともある。実は今年も頼まれて、講師を引き受けている。やはり、雑談の話題は就職に関することが多い。数か月教えたことのあるハイデルベルク大学では、日本のように就職で頭がいっぱいの学生に会ったことがない。就職活動を在学期間中にしないからである。このあとに、「大学は専門学校ではない。…… カネで測定される社会の価値判断から身を剥がし、自然と人間の驚異と美に慄(おのの)き、言葉の森に分入る。…… あなたはあなた以外の人に代替できない存在であることの尊厳(人文科学の基本)に触れ、世界の美しさの根源を探る(判断力の基本)。考える時間の多い大学では、人間の精神を事前にふかふかに耕すことができる」とつづく[ちなみに「3回生」という呼び名はなぜか関西の大学で多いようですね]。
このような経験から、日本政治経済の担い手に提案したい。日本の閉塞状態を打破する劇薬として日本型の就職活動を廃止しませんか。勉強への関心が高まる3回生の夏、多くの学生が就職活動で頭がいっぱいになる。突然、染めていた髪を黒くして、白黒スーツに身を固める。精神が細やかで感度が高い学生ほど過剰な圧迫面接で精神を病み(これまで何度、心を病んだ学生の相談に乗ったことか!)、それをなんとか乗り越えた学生でも労働商品としての自己を見直す過程で、自由な精神の動きを弱めていく。理想に燃えた若者が、こうやって毎年元気がなくなっていくことをもっと自覚してほしい。
かつてこの島国では、新卒一斉採用のみが有無を言わせずまかり通っていて、それ以外の道を歩んだ若い人はアーティストのタマゴか、画一的な日本社会が敷いたレールから脱落した落伍者として片付けられて一顧だにされなかった時期が昭和〜平成と長らく続いた。海外の学生はどうかと言えば、希望する職種のある会社(ココ重要、日本みたいに「どこどこのカイシャ」で就職するのではない!)インターン、つまり下働き、いまふうに言えば「試用期間」社員として職につくのが一般的。もちろん卒業と同時にヨーイドンみたいな一括採用ではないから、しばらく世界中をほっつき歩いて無銭旅行に出かける者も珍しくない。就職するか、無銭旅行に出るか。すべては当人が自分で決めるんです。
いまでこそ差別的なニュアンスはなくなったと思うが、1990年代まで、フリーターという呼称にはつねに侮蔑的な響きがあった。当時を顧みると、社会が敷いたレールから外れた人はみな落伍者でありそれは自己責任なのだと、十把一絡げにしてハイそれで解決、みたいな風潮が強かったように感じている(その恐るべき画一性の証拠に、かつて中学生相手に「正社員にならないと年収にこれだけの生涯格差がつきます YO!」みたいな脅迫まがいの出張授業まで行われていた。猫も杓子も、はヘンかな、diversity 全盛時代のいまはさすがにこんなバカげたことやってないと思うが)。
この手の話を目にするといつも思うんですけれども、ある意味理不尽かつ摩訶不思議かつ非合理的なこの「新卒一括採用」システムにずっと拘泥し、そこにアグラをかいてきた政財界をはじめとする日本社会の硬直性、というか、「ほんとうにこのままでよいのか?」とお偉いさんも含め、だれもモノを考えなくなったことが日本の最大の不幸かと感じます。大学の先生からこういう内容のコラムが発信されたのを見ると、「へ? いまごろ?……」という慨嘆もなくなくはないが、それ以上に、当事者からようやく、それこそが危機なのだという見解を目にすることができたうれしさのほうが勝っているのが正直なところ。
令和ないまはどうでしょう。ワタシはむしろいまの若い人のほうがチャンスがたくさんあって、うらやましいと思う。終身雇用前提の雇用関係で宮仕えする必要なんてどこにもない。スタートアップの起業家をシリコンヴァレーに派遣云々……という話も聞くけれども、そうじゃなくて、早く大量生産大量消費時代の遺物たる「新卒一括採用」の慣行こそ廃止すべきでしょう(ついでに入試制度もね。卒業が難しい制度こそ大学教育のほんらいの姿だと思っているので。バ✗でもチ✗ンでも全入全卒 OK、なんてそれこそトンでもない話。これとはべつに、大学で教えている内容の問題、それを教えている人の質の問題はあるけれども ⇒ たとえばこちらの本参照)。それから9月入学制にも早く移行すべき。国際化国際化と、掛け声モットーばかりがやたらかまびすしく、そのじつ問題だらけの外国人労働者の雇用環境(と、必然的に移民労働者をどうすべきかという議論)は放置プレイで、気がつけば「失われた〜十年」とか呆けたことを口にする平和ボケな二流三流島国に成り下がってしまった。
いろいろ注文つけたいこともないわけではないが、いまの若い人は少子化とはいえ、ワタシたちが 20 代だったころに比べてはるかにしっかりした考え方を身につけた人が大多数なので、「こんな国にしやがって」とかクサらず、どうか反面教師として奮起してほしい、と思う今日このごろ。あと、いまの若い人って Twitter はどうなのかわからないが、そのときの気分で発信された発言や意見に振り回されてはイカンと思いますね。コロナワクチンが好例だが、明らかな misinformation もわんさとあるし。あんなもんばっか追っていたら眼精疲労起こすわドライアイになるわ、ストレスたまるわで。週に一度くらいはスマホの画面も目も心も休める休日(海外ではこういうのを screen-free day と言うみたいだが)を作って、山や海に行ったり、「積んどいた」本を読んで一日まったり過ごしてみてはいかが(積ん読に関しては、あまり人のことは言えないが…)。
❷ そんな折も折、こんどはこういう驚愕の話を知った。乳幼児が包丁をにぎって、魚を三枚におろす! 園長さん曰く、「料理を通して、さまざまなものの解像度を上げたり、ものごとの全体を想像する力を身につけてほしい」。
料理だけでなく、商店街の人たちとの交流など、こうやって育てられた子どもって心身ともにものすごくたくましくて、なにかネガティヴな問題にぶつかっても自分の命を粗末に扱うこともなく、なによりも大所高所からの視点で森羅万象をみはるかす力を持った、すばらしい大人になるだろうと、読んでて涙が出てきた(トシずら)。超がつくほどの少子高齢化進行中のこの島国で、もしほんとうにこの島国と、そこに生きる民族を救いたいと思ったら、参考にすべきはこういう取り組みなのではないかと。「園児の声がやかましい!」とか文句垂れてる手合は、子ども時代にこの保育園の子どもたちのような「想像力」を持つ機会がないまま成人したたぐいのアダルトチルドレンなのだろうと、つくづく思われたしだい。前にも書いたかどうか忘れたが、人としての成熟に年齢なんて関係ないです。
本文とまったく関係ない追記:先日、たまたまコンビニで買った地元紙朝刊(昨年暮れまでに日経電子版に切り替えたから、こちらは購読解約済み)の論壇コラム見たら、またしてもアラが目に付いたのでひと言だけ。温室効果ガス削減の話で、テクニカルには難しい問題がある、ときて、
…… 野球場の例でいえば、LED 照明に替えることで野球場は温室効果ガスの排出を抑制したと主張するし、電機メーカーも削減に貢献したと主張する。同じ行為が二重にカウントされ、排出削減が過大評価されることになる。これをグリーンウォッシュと呼ぶ。[「論壇」2022年7月16日付]
えっと、たとえば「グリーンウォッシュ(見せかけだけの気候変動対策)」、「環境への配慮を誇大にアピールして顧客や投資家を欺く『グリーンウォッシュ』を告発する声も上がっている」との記述が、英 Economist 誌に出てきます。というかこっちのほうが正真正銘のグリーンウォッシュの定義なんですけれども? どこで仕入れたのか知りませんが、なんとまたヤヤコシイ解説をなさるもんです(ほかの執筆陣も相変わらずで、いいかげん世代交代させてやりなさい YO!)。
2022年06月10日
stars we chase 最高ずら
いま放映中の『ラブライブ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』2期の第9話。このTV アニメシリーズはどういうわけか3の倍数回、とくにいままでのグループが9人組だったこともあってか、ストーリー展開の重要回が9の場合が多いような印象を受けますが、今回もまさにそんな展開でした。
個人的にちょっと驚いたのは、全編英語歌詞の挿入歌が披露されたこと。メインで歌唱されるアニソン(いや、前にも書いたが『ラブライブ!』シリーズの全楽曲はもはやアニソンなどではない、と言い切ってよいと思っている)で全編英語歌詞というのは、これがはじめてなのでは? ミア・テイラー(米国の名門音楽家一族の生まれの14歳で、ニジガクには飛び級で3年に編入)は当初、香港からやってきた留学生で自分の「ビジネスパートナー」の鐘嵐珠(ショウ・ランジュ)のために書いた楽曲を、自分が歌うために「転用(バッハもよくやっていたパロディと呼ばれる技法)」するわけですが、MIDI キーボードでポロンポロンと音出ししていたフレーズ、あれもしっかり楽曲に再現されてましたね。
それはともかく、あいかわらず攻めているというか、やっぱり『ラブライブ!』シリーズらしいなぁ、と感じたのも事実。『スーパースター!!』の Liella! 5人グループのときもラップ(!)調の楽曲が登場したりと、つぎつぎと新しいことに挑む姿勢は見ていてすがすがしいとさえ感じます。今回の楽曲なんかまんま洋楽、Billboard Hot なんたら、という感じの仕上がりで、向こうの人がなんの先入観もなくコレ聴かされたらブッとぶんじゃないでしょうかね。
で、その歌詞内容がこれまた刺さりまくりで、このシリーズに一貫して流れているメタメッセージがしっかり歌われているのがまたすばらしい。すばらしすぎて、つい試訳をこさえてしまったほど(後述)。
じつはこれ、↓ にもあるように、公式さんが限定公開している MV に日本語歌詞が掲載されているんですけれども、こちらに関しては、一部からこんな声も寄せられています。いわく、「公式訳、意訳がすごすぎて原語のニュアンスが伝わらないのでは?」、「stars we chase 試聴動画の訳見てるけど、押韻最優先で書かれてんのか意訳すぎてまったくわからん」……
また、日本語歌詞が先にあって、それに英語歌詞をアテていったようだという話もあります(真偽のほどは不明、こちらなどが参考になるかも)。
ワタシも公式さんの公式「訳」を見たとき、こっちがオリジナルで、英語歌詞はそれをベースにしたものではないか、という印象を受けた。双方を比べ読みしてそう思っただけで、なんの根拠もないが …… おおまかな内容はどちらもほぼ同じで(当たり前)、ようは聴く人の好みの問題なんですが、解釈的に引っかかりやすいところがひとつあります。
本編に「領域展開」して組み込まれた MV もまたすばらしい。暗い部屋(?)の中にぽつんと置かれた空っぽの鳥かごのモティーフは、Aqours の桜内梨子が内浦の海に潜り、求めていた「音」を見つけたときを思い出させるような描写だった。「夜の海の航海」というやつですね(こちらとはまるでカンケイないけれども、昔、『ナイチンゲールのかご』というパリ木の子どもたちが主演した映画があったのも思い出した)。不肖ワタシもすっかりミア・テイラーの熱唱にアテられてしまって、このシングル盤は買うずら、と思ったしだい。というわけで、最後に僭越ではありますが、拙試訳をくっつけておきます。
個人的にちょっと驚いたのは、全編英語歌詞の挿入歌が披露されたこと。メインで歌唱されるアニソン(いや、前にも書いたが『ラブライブ!』シリーズの全楽曲はもはやアニソンなどではない、と言い切ってよいと思っている)で全編英語歌詞というのは、これがはじめてなのでは? ミア・テイラー(米国の名門音楽家一族の生まれの14歳で、ニジガクには飛び級で3年に編入)は当初、香港からやってきた留学生で自分の「ビジネスパートナー」の鐘嵐珠(ショウ・ランジュ)のために書いた楽曲を、自分が歌うために「転用(バッハもよくやっていたパロディと呼ばれる技法)」するわけですが、MIDI キーボードでポロンポロンと音出ししていたフレーズ、あれもしっかり楽曲に再現されてましたね。
それはともかく、あいかわらず攻めているというか、やっぱり『ラブライブ!』シリーズらしいなぁ、と感じたのも事実。『スーパースター!!』の Liella! 5人グループのときもラップ(!)調の楽曲が登場したりと、つぎつぎと新しいことに挑む姿勢は見ていてすがすがしいとさえ感じます。今回の楽曲なんかまんま洋楽、Billboard Hot なんたら、という感じの仕上がりで、向こうの人がなんの先入観もなくコレ聴かされたらブッとぶんじゃないでしょうかね。
で、その歌詞内容がこれまた刺さりまくりで、このシリーズに一貫して流れているメタメッセージがしっかり歌われているのがまたすばらしい。すばらしすぎて、つい試訳をこさえてしまったほど(後述)。
じつはこれ、↓ にもあるように、公式さんが限定公開している MV に日本語歌詞が掲載されているんですけれども、こちらに関しては、一部からこんな声も寄せられています。いわく、「公式訳、意訳がすごすぎて原語のニュアンスが伝わらないのでは?」、「stars we chase 試聴動画の訳見てるけど、押韻最優先で書かれてんのか意訳すぎてまったくわからん」……
また、日本語歌詞が先にあって、それに英語歌詞をアテていったようだという話もあります(真偽のほどは不明、こちらなどが参考になるかも)。
ワタシも公式さんの公式「訳」を見たとき、こっちがオリジナルで、英語歌詞はそれをベースにしたものではないか、という印象を受けた。双方を比べ読みしてそう思っただけで、なんの根拠もないが …… おおまかな内容はどちらもほぼ同じで(当たり前)、ようは聴く人の好みの問題なんですが、解釈的に引っかかりやすいところがひとつあります。
Shadow walk and dealing, truth inside revealing / Still, a part of me's seeking that feelingここの ‘truth inside revealing’ は、「どうせオラなんてこんなもん」というイジけた気持ちが「現れた」くらいの意味でしょう。そうとらないと直後の歌詞とつながらない。ちなみに c.v. の内田秀さんがこの箇所を的確に説明されていたので、重複も顧みず、ここでも引用しておきますね(発言内容は YouTube で配信されていた、「最新話直前生放送」から)。
(あの輝きは時間とともに小さくなっていった、だから目を閉じたんだ)…… 英語の歌詞もね、“Shadow walk and dealing,”とあるんだけど、「影の中歩いて」、dealing というのがなんだろ、「慣れる」とか、もう長いこと暗闇にいるから(慣れちゃったけど)、でも、“Still, a part of me's seeking that feeling”というのが、一部の自分が、まだその感情を求めてる、ていう。だから、あの輝きを忘れられない、みたいな。……(また、“It's back and now / Take your hand out, we can reach”のくだりですが、now は take your hand out にかかる。だからほんらいは It's back / and now take your hand out, we can reach となるべきところ)
本編に「領域展開」して組み込まれた MV もまたすばらしい。暗い部屋(?)の中にぽつんと置かれた空っぽの鳥かごのモティーフは、Aqours の桜内梨子が内浦の海に潜り、求めていた「音」を見つけたときを思い出させるような描写だった。「夜の海の航海」というやつですね(こちらとはまるでカンケイないけれども、昔、『ナイチンゲールのかご』というパリ木の子どもたちが主演した映画があったのも思い出した)。不肖ワタシもすっかりミア・テイラーの熱唱にアテられてしまって、このシングル盤は買うずら、と思ったしだい。というわけで、最後に僭越ではありますが、拙試訳をくっつけておきます。
stars we chase sung by Mia Taylor[TV 挿入歌版]
昔 ぼくは星を見上げて ずっと追いかけてた
手を伸ばせばつかめるって信じてた
でもぼくが思ってたより それはずっと遠くて
あの輝きもずっと小さくて だから目を閉じた
いつだろう 顔をそむけるようになったのは?
いつだろう 苦しい気持ちばかり大きくなっていったのは?
いつしか影を見て歩いてた これがほんとの姿なんだと
でも心のどこかで あの輝きを追ってた
きみにささげた音楽に 夢をこめた
それは巡り巡って ぼくの中にもどってきたよ
きみが教えてくれたんだ この光がまぶしく輝く場所を
それはもどってきた
手を伸ばそう ぼくらなら届くよ
解き放たれるときを ずっと待ってたんだ
それはどんどん大きくなって 叫びになる
ぼくらの明日はもっと輝くよ
勇気を出して
あの星にはどんな色も どんな輝きもある
ここから見つけよう
ともに輝こう
きみの輝きを隠さないで
2022年05月04日
ヴォーカロイドから教えてもらったこと
いま、『今日は一日ラブライブ三昧3』を聴取しながら書いてます。
ちょうどかかっていたのが「Awaken the power」で、コレは函館聖泉女子高等学院という函館市内の私立高校に在籍する鹿角(かづの)姉妹のユニット SaintSnow と、沼津・内浦の浦の星女学院スクールアイドル Aqours の1年生組とが合同した SaintAqoursSnow として披露した劇中歌。畑亜貴さんの歌詞はいつにも増してさらに力強く、「聴いている人の背中を押す」パワーにあふれた楽曲なんですが、昨夜、『虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』2期を地上波で観る前に(田舎なんで放映日時が遅いんです)たまたまコチラの番組を視聴した。視聴後、頭の中に響いていたのがまさにこの「Awaken the power」の歌詞(“セカイはきっと知らないパワーで輝いてる/なにを選ぶか自分しだいさ/眠るチカラが動きはじめる”……)でした。
初音ミクという「16歳の少女歌手」がデビューするまでの経緯ははじめて知ることばかりでそれだけでもすこぶる「蒙を啓かれた」思いもしたんですが、そのなかでもとくにボカロPと呼ばれる、プロデューサー的な人たちの話がかなり刺さったのも事実。ボカロPの人たちは、いわば初音ミクというヴォーカロイドの「中の人」、狂言回し的な役回りの人のことです。
不肖ワタシが「初音ミク」という名前をはじめて耳にしたのは初音ミクが登場したばかりのころ、当時在籍していた職場の年下の同僚からだった。はつねみくって聞いて、ナニソレ意味ワカンナイ(μ's の西木野真姫の口癖です)状態だったのだが、この番組で紹介されたような、初音ミクがはじめて「一般の人」にも TV で紹介されたときの「偏見に満ちた塩対応」などもちろんしなかった。この手のトピックを取り上げるたびにおんなじこと書いてきたような気もしないわけでもなくなくはないんですが(黒澤ダイヤの科白のパロディ)、ワタシはこう見えて(すでに五十路[「いそじ」と読む、念のため]を超えたおっさん)、自分より若い世代が心血を注いでいることに対してアタマゴナシに「へっ!」と思ったことなど一度もないのが自慢。むしろ逆。「オラにももっと教えてくれずら♪」と相手がドン引きするほど首を突っ込みたいほう。沼津が舞台の『サンシャイン!!』だってそうだったし。首を突っ込みすぎて、ぞっこんというかどっぷりというか、完全に沼にはまってしまった感はある(微苦笑)。
初音ミクの話にもどって、印象的だったシーンをふたつ。まず、ボカロPきくお氏のこちらの楽曲。「ソワカ」って出てきますが、これは「般若心経」の一節の引用。『デジタル大辞泉』によると「《(梵)svāhāの音写。円満・成就などと訳す》仏語。幸あれ、祝福あれ、といった意を込めて、陀羅尼・呪文 (じゅもん) などのあとにつけて唱える語」とあります(梵というのは梵語、サンスクリット語のこと)。それとそうそう、あの「うっせぇうっせぇうっせえわ!」の Ado さん。彼女がドスを効かせた声で連呼して歌う例のメロディーライン、なんかどっかで聞いたことある …… と思ったら、安良里のお寺の法会でいつも耳にする「般若心経」のリズムとおんなじだった(とくに「ぼーじーそーわーかー」のところ。アレレこれも「そわか」じゃん)。
米国を代表するジャーナリストのひとりビル・モイヤーズは比較神話学者のジョー・キャンベルとの対談(『神話の力』)で、映画『スター・ウォーズ』の最初の3部作(EP 4〜6)について、「これは最新の衣装をまとった、とても古い話だな」という第一印象を語っている。こちらの楽曲もまったくおなじですね。技術的に音楽をこさえているのは DTM つまり「打ち込み」という「最新の衣装(いや、意匠か)」ながら、その中身は古人(いにしえびと)の叡智というか、古いものなんですね。「最新の革袋に入れたヴィンテージものワイン」といったおもむき。
ふたつ目は、ボカロPきくお氏の密着取材の場面。きくお氏はいまは地方にお住まいで、そこで楽曲作りをされているようなのですが、ここしばらく新曲が発表できず、スランプに陥っていたらしい。その間、適応障害(いま、わりとよく聞く症例のひとつ)と診断されたりとしんどかったようですが、ようやく前記の「ソワカの声」を完成させた、というところまでが密着取材されていた。そして番組に登場したボカロPの人たちがほぼ異口同音に、「初音ミクという存在に救われてきた」という趣旨のことをおっしゃっていた。実際の作業のようすも興味津々で拝見したが(人様の仕事部屋とか書斎とかを見るのが大好きなスノッブ人間)、たとえば「発語の最初の音」の調整風景なんか、まんま発声レッスン、楽器で言うところのヴォイシングですね。舞台上のボーイソプラノのソリスト少年に、「そのハ〜…からはじまるくだり、それはもっとアタマの先から客席の真後ろの壁面めがけて思いっきりブツけるように歌ってYO!」みたいにヴォイストレーナーや指揮者が指示を飛ばすのと変わりなかった。
さて番組のエンディングで「初音ミクとは?」との問いに対し、きくお氏はこう答えていた。
これまたキャンベルや、小説家のジェイムズ・ジョイスが言っていたのとまったくおなじだった。ジョイスは「真の芸術」の定義を、「エピファニーを与えるもの」だと言った。「役に立つ」からとか、「ある政治的イデオロギー」を声高に押しつけるのではない(そういうのをジョイスはそれぞれ「ポルノグラフィー」、「教訓的芸術」と呼んだ)。すなおに感動しましたよ。
初音ミクの知名度は、いまやグローバル(『ラブライブ!』シリーズの知名度もおなじくグローバル。もっともこれは日本のアニメ全般に言えることかもしれないが)。初音ミク動画を動画共有サイトにアップすれば、速攻で海外ガチ勢の「歌ってみた」的なコール&レスポンス動画が返信代わりにアップされる。これって和歌の「返歌/反歌」にも似ている。なので、こうしたやりとりはじつは平安時代とあまり変わらないのかもしれない。変化したのはそれを相手に伝えるツールと通信手段だけだ。
前にもここで触れたかもしれないけれども、初音ミクの名がクラシック音楽ガチ勢の耳にも強烈に届いたのは、2016 年に亡くなった冨田勲氏が手掛けた『イーハトーヴ交響曲』での起用でしょう(初演は 2012年)。
そんなワタシが好きな初音ミクヴァージョンは、やっぱコレですかねぇ(以前にも関連動画を紹介したことがあったが、重複を顧みずもう一度)↓
最後に、備忘録代わりに『今日は一日ラブライブ三昧3』のオンエア曲リスト(セットリスト、略してセトリと言うそうですが)をコピペしておきます(注:番組公式さんに怒られたらすぐ引っこめますずら、悪しからず)
……ええっと個人的にひとこと。……「ビリアゲ」からの「ブラメロ」が入ってないんか〜い!!
ちょうどかかっていたのが「Awaken the power」で、コレは函館聖泉女子高等学院という函館市内の私立高校に在籍する鹿角(かづの)姉妹のユニット SaintSnow と、沼津・内浦の浦の星女学院スクールアイドル Aqours の1年生組とが合同した SaintAqoursSnow として披露した劇中歌。畑亜貴さんの歌詞はいつにも増してさらに力強く、「聴いている人の背中を押す」パワーにあふれた楽曲なんですが、昨夜、『虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』2期を地上波で観る前に(田舎なんで放映日時が遅いんです)たまたまコチラの番組を視聴した。視聴後、頭の中に響いていたのがまさにこの「Awaken the power」の歌詞(“セカイはきっと知らないパワーで輝いてる/なにを選ぶか自分しだいさ/眠るチカラが動きはじめる”……)でした。
初音ミクという「16歳の少女歌手」がデビューするまでの経緯ははじめて知ることばかりでそれだけでもすこぶる「蒙を啓かれた」思いもしたんですが、そのなかでもとくにボカロPと呼ばれる、プロデューサー的な人たちの話がかなり刺さったのも事実。ボカロPの人たちは、いわば初音ミクというヴォーカロイドの「中の人」、狂言回し的な役回りの人のことです。
不肖ワタシが「初音ミク」という名前をはじめて耳にしたのは初音ミクが登場したばかりのころ、当時在籍していた職場の年下の同僚からだった。はつねみくって聞いて、ナニソレ意味ワカンナイ(μ's の西木野真姫の口癖です)状態だったのだが、この番組で紹介されたような、初音ミクがはじめて「一般の人」にも TV で紹介されたときの「偏見に満ちた塩対応」などもちろんしなかった。この手のトピックを取り上げるたびにおんなじこと書いてきたような気もしないわけでもなくなくはないんですが(黒澤ダイヤの科白のパロディ)、ワタシはこう見えて(すでに五十路[「いそじ」と読む、念のため]を超えたおっさん)、自分より若い世代が心血を注いでいることに対してアタマゴナシに「へっ!」と思ったことなど一度もないのが自慢。むしろ逆。「オラにももっと教えてくれずら♪」と相手がドン引きするほど首を突っ込みたいほう。沼津が舞台の『サンシャイン!!』だってそうだったし。首を突っ込みすぎて、ぞっこんというかどっぷりというか、完全に沼にはまってしまった感はある(微苦笑)。
初音ミクの話にもどって、印象的だったシーンをふたつ。まず、ボカロPきくお氏のこちらの楽曲。「ソワカ」って出てきますが、これは「般若心経」の一節の引用。『デジタル大辞泉』によると「《(梵)svāhāの音写。円満・成就などと訳す》仏語。幸あれ、祝福あれ、といった意を込めて、陀羅尼・呪文 (じゅもん) などのあとにつけて唱える語」とあります(梵というのは梵語、サンスクリット語のこと)。それとそうそう、あの「うっせぇうっせぇうっせえわ!」の Ado さん。彼女がドスを効かせた声で連呼して歌う例のメロディーライン、なんかどっかで聞いたことある …… と思ったら、安良里のお寺の法会でいつも耳にする「般若心経」のリズムとおんなじだった(とくに「ぼーじーそーわーかー」のところ。アレレこれも「そわか」じゃん)。
米国を代表するジャーナリストのひとりビル・モイヤーズは比較神話学者のジョー・キャンベルとの対談(『神話の力』)で、映画『スター・ウォーズ』の最初の3部作(EP 4〜6)について、「これは最新の衣装をまとった、とても古い話だな」という第一印象を語っている。こちらの楽曲もまったくおなじですね。技術的に音楽をこさえているのは DTM つまり「打ち込み」という「最新の衣装(いや、意匠か)」ながら、その中身は古人(いにしえびと)の叡智というか、古いものなんですね。「最新の革袋に入れたヴィンテージものワイン」といったおもむき。
ふたつ目は、ボカロPきくお氏の密着取材の場面。きくお氏はいまは地方にお住まいで、そこで楽曲作りをされているようなのですが、ここしばらく新曲が発表できず、スランプに陥っていたらしい。その間、適応障害(いま、わりとよく聞く症例のひとつ)と診断されたりとしんどかったようですが、ようやく前記の「ソワカの声」を完成させた、というところまでが密着取材されていた。そして番組に登場したボカロPの人たちがほぼ異口同音に、「初音ミクという存在に救われてきた」という趣旨のことをおっしゃっていた。実際の作業のようすも興味津々で拝見したが(人様の仕事部屋とか書斎とかを見るのが大好きなスノッブ人間)、たとえば「発語の最初の音」の調整風景なんか、まんま発声レッスン、楽器で言うところのヴォイシングですね。舞台上のボーイソプラノのソリスト少年に、「そのハ〜…からはじまるくだり、それはもっとアタマの先から客席の真後ろの壁面めがけて思いっきりブツけるように歌ってYO!」みたいにヴォイストレーナーや指揮者が指示を飛ばすのと変わりなかった。
さて番組のエンディングで「初音ミクとは?」との問いに対し、きくお氏はこう答えていた。
純粋な音楽であること
純粋な魂であって
純粋な美そのものであること
これまたキャンベルや、小説家のジェイムズ・ジョイスが言っていたのとまったくおなじだった。ジョイスは「真の芸術」の定義を、「エピファニーを与えるもの」だと言った。「役に立つ」からとか、「ある政治的イデオロギー」を声高に押しつけるのではない(そういうのをジョイスはそれぞれ「ポルノグラフィー」、「教訓的芸術」と呼んだ)。すなおに感動しましたよ。
初音ミクの知名度は、いまやグローバル(『ラブライブ!』シリーズの知名度もおなじくグローバル。もっともこれは日本のアニメ全般に言えることかもしれないが)。初音ミク動画を動画共有サイトにアップすれば、速攻で海外ガチ勢の「歌ってみた」的なコール&レスポンス動画が返信代わりにアップされる。これって和歌の「返歌/反歌」にも似ている。なので、こうしたやりとりはじつは平安時代とあまり変わらないのかもしれない。変化したのはそれを相手に伝えるツールと通信手段だけだ。
前にもここで触れたかもしれないけれども、初音ミクの名がクラシック音楽ガチ勢の耳にも強烈に届いたのは、2016 年に亡くなった冨田勲氏が手掛けた『イーハトーヴ交響曲』での起用でしょう(初演は 2012年)。
そんなワタシが好きな初音ミクヴァージョンは、やっぱコレですかねぇ(以前にも関連動画を紹介したことがあったが、重複を顧みずもう一度)↓
最後に、備忘録代わりに『今日は一日ラブライブ三昧3』のオンエア曲リスト(セットリスト、略してセトリと言うそうですが)をコピペしておきます(注:番組公式さんに怒られたらすぐ引っこめますずら、悪しからず)
01. 始まりは君の空/Liella!
02. 僕らのLIVE 君とのLIFE(TVサイズ)/μ's
03. 僕らは今のなかで(TVサイズ)/μ's
04. ユメ語るよりユメ歌おう(TVサイズ)/Aqours
05. 未来の僕らは知ってるよ(TVサイズ)/Aqours
06. 虹色Passions!(TVサイズ)/虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会
07. NEO SKY, NEO MAP!(TVサイズ)/虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会
08. START!! True dreams(TVサイズ)/Liella!
09. 未来は風のように(第11話ver.)/Liella!
10. SUNNY DAY SONG (Movie Edit)/μ's
11. Fantastic Departure!/Aqours
12. TOKIMEKI Runners /虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会
13. もぎゅっと“love”で接近中!/μ's
14. Snow halation /μ's
15. Love wing bell /星空 凛(飯田里穂)、西木野真姫(Pile)、小泉花陽(久保ユリカ)、 絢瀬絵里(南條愛乃)、東條 希(楠田亜衣奈)、矢澤にこ(徳井青空)
16. なってしまった!/μ’s
17. ススメ→トゥモロウ/高坂穂乃果(新田恵海)、南ことり(内田彩)、園田海未(三森すずこ)
18. ほんのちょっぴり/澁谷かのん(伊達さゆり)
19. 輝夜[かぐや]の城で踊りたい/μ's
20. ミはμ'sicのミ/μ's
21. 未熟DREAMER /Aqours
22. 想いよひとつになれ/Aqours
23. Thank you, FRIENDS!!/Aqours
24. DREAMY COLOR/Aqours
25. 青空Jumping Heart/Aqours
26. BANZAI! digital trippers(1CHO)/Aqours × 初音ミク
27. VIVID WORLD (TVサイズ)/朝香果林(久保田未夢)
28. サイコーハート (TVサイズ)/宮下愛(村上奈津実)
29. La Bella Patria(TVサイズ)/エマ・ヴェルデ(指出毬亜)
30. 決意の光(1CHO)/三船栞子(小泉萌香)
31. Dream with You(TVサイズ) /上原歩夢(大西亜玖璃)
32. Poppin' Up!(TVサイズ)/中須かすみ(相良茉優)
33. Solitude Rain(TVサイズ) /桜坂しずく(前田佳織里)
34. Butterfly(TVサイズ)/近江彼方(鬼頭明里)
35. DIVE!(TVサイズ)/優木せつ菜(楠木ともり)
36. ツナガルコネクト(TVサイズ) /天王寺璃奈(田中ちえ美)
37. L!L!L! (Love the Life We Live)/虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会
38. 夢がここからはじまるよ/虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会
39. Music S.T.A.R.T!! /μ’s
40. Wonderful Rush /μ’s
41. それは僕たちの奇跡/μ’s
42. Cutie Panther /BiBi(南條愛乃、Pile、徳井青空)
43. START:DASH!!/μ's
44. Tiny Stars /澁谷かのん(伊達さゆり)、唐 可可[タン・クゥクゥ](Liyuu)
45. ノンフィクション!!/Liella!
46. 未来予報ハレルヤ!/Liella!
47. Awaken the power /Saint Aqours Snow
48. 夜明珠[イエミンジュ](1CHO)/鐘 嵐珠[ショウ・ランジュ](法元明菜)
49. Toy Doll(1CHO)/ミア・テイラー(内田 秀)
50. HOT PASSION!!/Sunny Passion
51. Shocking Party /A-RISE
52. LIVE with a smile!/ Aqours、虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会、Liella!
53. A song for You! You? You!!/μ's
54. なんどだって約束!/Aqours
55. ユメノトビラ/μ's
56. WATER BLUE NEW WORLD /Aqours
57. KiRa-KiRa Sensation!/μ's
58. キセキヒカル/Aqours
59. 夢が僕らの太陽さ/虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会
60. Wish Song /Liella!
61. 僕たちはひとつの光/μ's
62. 勇気はどこに?君の胸に!/Aqours
63. MONSTER GIRLS /R3BIRTH(小泉萌香、内田 秀、法元明菜)
64. 常夏☆サンシャイン/澁谷かのん(伊達さゆり)、唐可可(Liyuu)、嵐千砂都(岬なこ)、平安名すみれ(ペイトン尚未)
65. Colorful Dreams! Colorful Smiles!/虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会
66. Starlight Prologue /Liella!
……ええっと個人的にひとこと。……「ビリアゲ」からの「ブラメロ」が入ってないんか〜い!!
2022年05月02日
『暴力の人類史』
……の、個人的読後感です。
じつはコレ必要に迫られてあわてて図書館で借り出したものなんですが …… なんせ上下巻合わせて千ページ超えというトンデモない本だったので、とりあえず上巻から、と思ってほぼ一日1章の分量で5日くらいで付箋貼りつつ読んだんですが、はっきり言って駄作だと感じた(ワタシは基本的に断定的な物言いはしたくない人ながら、この本に関してはそもそも時間のムダだったように感じたもので)。
もちろん部分的には卓見というか、なるほどと思わせることも書かれてありますよ。でもそれはシェイクスピアやワイルド、カントの『永遠平和のために』、ホッブズの『リヴァイアサン』の引用や説明など(「旧約聖書の歴史的記述はフィクションである[p.14]」というのは正解)、いわば「ネタの部品取り」には最適かもしれない、という話。しかしながら、そもそもの主張(といっても、この先生の仮説)と、その裏付けでえんえんとつづく講釈とグラフや数字などの「統計データ」の扱いがかなり恣意的ないし誘導的で、「上巻でこれじゃあ、下巻までしっかり付き合う必要はなさそう」と思い至りました(苦笑)。とりあえずなんとか短めに、上下巻に分けて妄評をば(いつものことながら、下線/太字強調は引用者。なお縦書き本の数字表記はすべてアラビア数字表記に変換してある)。
上巻:1991年にアルプス山中で発見されたアイスマン「エッツィー」(この前、NHK でも再放送されてたんで観てましたが)はじつは殺害の被害者だった、というのは有名な話から始まって、その当時から比べていまはどれだけ危険/安全か、と論を起こすわけですが……ようするに、「昔はヨカッタ」的なことを平然と口走る面々に対して「んなことはない。昔の人類はいかに残虐で暴力的だったか」を力説しているような話が続く。それだけ歴史(当然ここでは西洋史だが。もっとも日本にもその手の人はゴマンといて、「江戸時代はヨカッタ」なんてこと言い出す人はいまだ後を絶たず)を知らない白人が多いのかってこっちは思ってしまいますが、それはともかく気になったのは、やたらと昔の人と過ぎし日の社会の「暴力性(とその死亡者数の多さ)」ばかりをあげつらっていること。アーサー王もののひとつ『ランスロット(ランスロ、または荷車の騎士)』などを例に挙げて、「たしかに騎士は貴婦人を守りはするが、それはほかの騎士に誘拐されないためにすぎなかった」、「今日言われるような騎士道精神とはほど遠い(pp.56−7)」と手厳しい。
この手の本を読み慣れてないとついスルーしてしまいがちなところなんですが、では今日言われるような騎士道精神って、いったいなんなんでしょう? 中世史家がここを読んだら、きっと「それは一般の現代人が勝手にこさえた妄想」だと現下に返すんじゃないですかね。「イルカはかわいいし頭もいいから食べるな」というじつに手前勝手な屁理屈と似たかよったか(西伊豆語)で、けっきょくいまのわたしたちの(=西洋人の)物差しで書いているだけなんじゃないでしょうか。こういう書き方がためつすがめつのオンパレードです。
だいぶ前にここでも書いたヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『パルツィヴァール』。たしかに当時は戦死者も多かったし、殺し方、とくに刑罰は磔刑をはじめ八つ裂きあり火あぶりあり串刺しありと、とても正視できるものじゃありませんが(そういう刑罰道具ばかりを陳列した博物館まである。pp. 247 ff)、新生児や感染症の死亡率の高さなども考えると、「暴力死」の割合が突出して高かったわけでもなかろう、と凡人は思うわけです。では、全死亡の「外生的(こういう社会学用語ってどうもムシが好かないが)」要因をカテゴライズして、「戦死」とか「リンチ」とか「殺し」で死んだ人、つまり広義の「暴力」で死んだ人がいったいどれくらいいたんだろ、って当然疑問に思うわけです。第2章にそんな疑問の答え(?)になりそうな横棒グラフがあったりしますが、いずれ研究が進めば根拠にした数字はコロコロ変わりそうな印象のほうが強い。では時代が下れば下るほどデータは正確になるのか、といえばそうでもなくて、「近代国家になると……一つの『正しい』推計を示すことは不可能だ(p.112)」。というわけで、この本では、仮説を立証するために、当然のごとくこういうテクニックが多用されることとあいなる──「もし記録に残されていない戦闘による死や、飢饉や病気による間接的な死も含めるために 20 倍にしても、依然としてその割合は1パーセントに満たない(p.113)」!!!
第二次大戦後、ロシアのウクライナ侵攻まで(この邦訳書の原著が刊行されたのは 2011 年)70 余年、「平穏な戦後体制(この本では「長い平和」と呼んでいる)」が続いたのはなぜか、という話で著者は、「[ゲリラ、準軍組織間の戦争は]『長年にわたる憎悪』が動機になっているとされる。カラシニコフ銃を抱えたアフリカの少年というおなじみのイメージは、世界の戦争の負荷は減ったのではなく、北半球から南半球へと移動したにすぎないという印象を裏打ちしている(p.522)」と書いてます。で、「この新しい戦争には飢饉や病気がつきものであり、そのため民間人の犠牲者が数多く出ることになる。だがその犠牲者は戦死者としては数えられない場合がほとんどだ」。…… なんか前の段落で引用した記述と矛盾してませんか??
こういう記述の齟齬に加え、なんでもかんでも「暴力」でひっくるめて論じているものだから、「それとコレとは違うやろ〜」ってツッコミたくなることもしばしば。下巻にはなんと「菜食主義者」増加との相関関係まで取り上げられていて、ここまでくるとため息しか出てきません。
古代史で戦争、とくるとたいてい引き合いに出されるのが『バガヴァッド・ギーター』の、アルジュナ王子を叱責するクリシュナ神の有名なくだり。果たせるかなこの本にも出てきたんですが(オッペンハイマーの有名な捨てゼリフ? の引用もね)、それがなんとジェノサイド(!)を論じたセクションでして、クロムウェルによるアイルランドのドロヘダ虐殺と同列に扱われてて草(いまふうの言い方をしてみましたずら)。「行動の結果を恐れる気持ちと、行動の成果を望む気持ちとをすべて捨てることによって、人はこれから果たさなければならない務めを、執着心なしに果たすことができます」(ジョーゼフ・キャンベル『生きるよすがとしての神話』)。こっちの解釈のほうが言い得て妙、て気がしますがね。
あと 19世紀末のドイツロマン主義を「(人道主義的な革命を起こした)啓蒙主義と相容れない、反知性主義」とばっさり切った考察とかイスラム世界に関するくだりとか(あくまで西洋中心の記述のため、言及箇所は本の分厚さの割にめちゃ少ない。というかコレ「索引」くらいつけろよ〜、探すのタイヘンじゃんか)、「まったく新しい暴力エンタテインメントの形態であるビデオゲームが人気を博している(p.242)」ってありますが、ワタシはむしろ見方が逆でして(女性を商品化して見せているきわどいポルノはイカンと思うが)、たとえば昨今隆盛を見せている eスポーツ。あれって考えようによっては文字どおりスポーツ、つまりかつては血みどろの殺し合い、ないし「名誉の決闘」だったものが、じつに平和的に昇華されたすばらしい競技じゃないですか。あいにくこの本を書いた先生の眼には、低俗なポルノ産業とおなじものに映ったようです。
下巻:とりあえず目についたことだけを少し。p. 230以降の「ヒトの脳の構造」の話は興味を惹かれますが、とにかくあっちこっちと記述が飛びすぎて、ついてゆくのがタイヘン。でもけっきょく結論、言いたいことはひとつなので、めんどくさいと思ったら飛ばし読みをおススメします(プロットの入り組んだ小説とちがって、この手のノンフィクションものは流れがつかみやすい)。
菜食主義者の話(pp. 169ff)ですが、動物の肉を食べることと、長期間にわたる暴力低下傾向との相関関係……は、あるとは思うが、なんかこう「肉食は悪」みたいな印象は拭えない。もちろんそれが著者の主張ではないものの、西洋の白人の価値観を押し付けられているような感じは残る。というかそもそも次元の異なるトピックどうしを、なんでもかんでも「暴力」枠に押し込んで論じているものだから、本の厚みだけはいや増し、という感じ。
それでも著者はとても clever(この形容詞は「頭がよい」というより、「キツネみたいにずる賢い」というニュアンスが強い。あなたは clever だと言われたら、それは褒められたのではなく、ケナされたと思ったほうがいい)な書き方をしています。上巻から下巻まで、随所に「もっとも[暴力の]減少はなだらかに起きたわけではなく、……暴力が完全にゼロになったわけでもない(上巻 p.11)」みたいな逃げ口上を用意している。ひとりだろうと全人類が吹き飛ぶ戦争だろうと、殺しは殺しではないですか、という根源的な問いに対してもしっかり答えを用意して、「逃げて」いる(下巻 p.579)。
最後に翻訳について。訳者先生は名うてのベテランの大先生なので、最初のほうとか「Kindle 試し読み」で突き合わせたりしましたが、もちろん問題なし。むしろ勉強になる(とくにこの手のとっつきにくい本では)。ただし誤植はやや多め。これは訳者先生ではなくて、校正・校閲側の見落としのせい(pp.236−37の「フローニンゲン」と「クローニンゲン」、p.606の「徹底的した」など)。それと p. 143の『ローランドの歌』って、『ロランの歌』のことですかね?
この本を読んでここにいる門外漢がどうにも腑に落ちてこなかったのは、けっきょくこういうことではないかと思う:
引用したのはつい最近、「日本の古本屋さん」で手に入れた 30 数年も前の『印刷革命』という、「印刷術の発明によって、旧来の文字文化から新しい文字文化=活字メディアへと移行したとき、それはどんな影響をおよぼしたか」を考察したホネのある原書の邦訳本の「まえがき」なんですが、ワタシがこの大部の本に抱いたウソ偽りない読後感が、まさしくコレだった。ウクライナ情勢が日増しに緊迫度を増すなか、「戦争」という究極の暴力に関して読むのなら、こちらも先日、NHK で再放送されていたロジェ・カイヨワの『戦争論』のほうがまだよいかと思ったしだい。
評価:
じつはコレ必要に迫られてあわてて図書館で借り出したものなんですが …… なんせ上下巻合わせて千ページ超えというトンデモない本だったので、とりあえず上巻から、と思ってほぼ一日1章の分量で5日くらいで付箋貼りつつ読んだんですが、はっきり言って駄作だと感じた(ワタシは基本的に断定的な物言いはしたくない人ながら、この本に関してはそもそも時間のムダだったように感じたもので)。
もちろん部分的には卓見というか、なるほどと思わせることも書かれてありますよ。でもそれはシェイクスピアやワイルド、カントの『永遠平和のために』、ホッブズの『リヴァイアサン』の引用や説明など(「旧約聖書の歴史的記述はフィクションである[p.14]」というのは正解)、いわば「ネタの部品取り」には最適かもしれない、という話。しかしながら、そもそもの主張(といっても、この先生の仮説)と、その裏付けでえんえんとつづく講釈とグラフや数字などの「統計データ」の扱いがかなり恣意的ないし誘導的で、「上巻でこれじゃあ、下巻までしっかり付き合う必要はなさそう」と思い至りました(苦笑)。とりあえずなんとか短めに、上下巻に分けて妄評をば(いつものことながら、下線/太字強調は引用者。なお縦書き本の数字表記はすべてアラビア数字表記に変換してある)。
上巻:1991年にアルプス山中で発見されたアイスマン「エッツィー」(この前、NHK でも再放送されてたんで観てましたが)はじつは殺害の被害者だった、というのは有名な話から始まって、その当時から比べていまはどれだけ危険/安全か、と論を起こすわけですが……ようするに、「昔はヨカッタ」的なことを平然と口走る面々に対して「んなことはない。昔の人類はいかに残虐で暴力的だったか」を力説しているような話が続く。それだけ歴史(当然ここでは西洋史だが。もっとも日本にもその手の人はゴマンといて、「江戸時代はヨカッタ」なんてこと言い出す人はいまだ後を絶たず)を知らない白人が多いのかってこっちは思ってしまいますが、それはともかく気になったのは、やたらと昔の人と過ぎし日の社会の「暴力性(とその死亡者数の多さ)」ばかりをあげつらっていること。アーサー王もののひとつ『ランスロット(ランスロ、または荷車の騎士)』などを例に挙げて、「たしかに騎士は貴婦人を守りはするが、それはほかの騎士に誘拐されないためにすぎなかった」、「今日言われるような騎士道精神とはほど遠い(pp.56−7)」と手厳しい。
この手の本を読み慣れてないとついスルーしてしまいがちなところなんですが、では今日言われるような騎士道精神って、いったいなんなんでしょう? 中世史家がここを読んだら、きっと「それは一般の現代人が勝手にこさえた妄想」だと現下に返すんじゃないですかね。「イルカはかわいいし頭もいいから食べるな」というじつに手前勝手な屁理屈と似たかよったか(西伊豆語)で、けっきょくいまのわたしたちの(=西洋人の)物差しで書いているだけなんじゃないでしょうか。こういう書き方がためつすがめつのオンパレードです。
だいぶ前にここでも書いたヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『パルツィヴァール』。たしかに当時は戦死者も多かったし、殺し方、とくに刑罰は磔刑をはじめ八つ裂きあり火あぶりあり串刺しありと、とても正視できるものじゃありませんが(そういう刑罰道具ばかりを陳列した博物館まである。pp. 247 ff)、新生児や感染症の死亡率の高さなども考えると、「暴力死」の割合が突出して高かったわけでもなかろう、と凡人は思うわけです。では、全死亡の「外生的(こういう社会学用語ってどうもムシが好かないが)」要因をカテゴライズして、「戦死」とか「リンチ」とか「殺し」で死んだ人、つまり広義の「暴力」で死んだ人がいったいどれくらいいたんだろ、って当然疑問に思うわけです。第2章にそんな疑問の答え(?)になりそうな横棒グラフがあったりしますが、いずれ研究が進めば根拠にした数字はコロコロ変わりそうな印象のほうが強い。では時代が下れば下るほどデータは正確になるのか、といえばそうでもなくて、「近代国家になると……一つの『正しい』推計を示すことは不可能だ(p.112)」。というわけで、この本では、仮説を立証するために、当然のごとくこういうテクニックが多用されることとあいなる──「もし記録に残されていない戦闘による死や、飢饉や病気による間接的な死も含めるために 20 倍にしても、依然としてその割合は1パーセントに満たない(p.113)」!!!
第二次大戦後、ロシアのウクライナ侵攻まで(この邦訳書の原著が刊行されたのは 2011 年)70 余年、「平穏な戦後体制(この本では「長い平和」と呼んでいる)」が続いたのはなぜか、という話で著者は、「[ゲリラ、準軍組織間の戦争は]『長年にわたる憎悪』が動機になっているとされる。カラシニコフ銃を抱えたアフリカの少年というおなじみのイメージは、世界の戦争の負荷は減ったのではなく、北半球から南半球へと移動したにすぎないという印象を裏打ちしている(p.522)」と書いてます。で、「この新しい戦争には飢饉や病気がつきものであり、そのため民間人の犠牲者が数多く出ることになる。だがその犠牲者は戦死者としては数えられない場合がほとんどだ」。…… なんか前の段落で引用した記述と矛盾してませんか??
こういう記述の齟齬に加え、なんでもかんでも「暴力」でひっくるめて論じているものだから、「それとコレとは違うやろ〜」ってツッコミたくなることもしばしば。下巻にはなんと「菜食主義者」増加との相関関係まで取り上げられていて、ここまでくるとため息しか出てきません。
古代史で戦争、とくるとたいてい引き合いに出されるのが『バガヴァッド・ギーター』の、アルジュナ王子を叱責するクリシュナ神の有名なくだり。果たせるかなこの本にも出てきたんですが(オッペンハイマーの有名な捨てゼリフ? の引用もね)、それがなんとジェノサイド(!)を論じたセクションでして、クロムウェルによるアイルランドのドロヘダ虐殺と同列に扱われてて草(いまふうの言い方をしてみましたずら)。「行動の結果を恐れる気持ちと、行動の成果を望む気持ちとをすべて捨てることによって、人はこれから果たさなければならない務めを、執着心なしに果たすことができます」(ジョーゼフ・キャンベル『生きるよすがとしての神話』)。こっちの解釈のほうが言い得て妙、て気がしますがね。
あと 19世紀末のドイツロマン主義を「(人道主義的な革命を起こした)啓蒙主義と相容れない、反知性主義」とばっさり切った考察とかイスラム世界に関するくだりとか(あくまで西洋中心の記述のため、言及箇所は本の分厚さの割にめちゃ少ない。というかコレ「索引」くらいつけろよ〜、探すのタイヘンじゃんか)、「まったく新しい暴力エンタテインメントの形態であるビデオゲームが人気を博している(p.242)」ってありますが、ワタシはむしろ見方が逆でして(女性を商品化して見せているきわどいポルノはイカンと思うが)、たとえば昨今隆盛を見せている eスポーツ。あれって考えようによっては文字どおりスポーツ、つまりかつては血みどろの殺し合い、ないし「名誉の決闘」だったものが、じつに平和的に昇華されたすばらしい競技じゃないですか。あいにくこの本を書いた先生の眼には、低俗なポルノ産業とおなじものに映ったようです。
下巻:とりあえず目についたことだけを少し。p. 230以降の「ヒトの脳の構造」の話は興味を惹かれますが、とにかくあっちこっちと記述が飛びすぎて、ついてゆくのがタイヘン。でもけっきょく結論、言いたいことはひとつなので、めんどくさいと思ったら飛ばし読みをおススメします(プロットの入り組んだ小説とちがって、この手のノンフィクションものは流れがつかみやすい)。
菜食主義者の話(pp. 169ff)ですが、動物の肉を食べることと、長期間にわたる暴力低下傾向との相関関係……は、あるとは思うが、なんかこう「肉食は悪」みたいな印象は拭えない。もちろんそれが著者の主張ではないものの、西洋の白人の価値観を押し付けられているような感じは残る。というかそもそも次元の異なるトピックどうしを、なんでもかんでも「暴力」枠に押し込んで論じているものだから、本の厚みだけはいや増し、という感じ。
それでも著者はとても clever(この形容詞は「頭がよい」というより、「キツネみたいにずる賢い」というニュアンスが強い。あなたは clever だと言われたら、それは褒められたのではなく、ケナされたと思ったほうがいい)な書き方をしています。上巻から下巻まで、随所に「もっとも[暴力の]減少はなだらかに起きたわけではなく、……暴力が完全にゼロになったわけでもない(上巻 p.11)」みたいな逃げ口上を用意している。ひとりだろうと全人類が吹き飛ぶ戦争だろうと、殺しは殺しではないですか、という根源的な問いに対してもしっかり答えを用意して、「逃げて」いる(下巻 p.579)。
最後に翻訳について。訳者先生は名うてのベテランの大先生なので、最初のほうとか「Kindle 試し読み」で突き合わせたりしましたが、もちろん問題なし。むしろ勉強になる(とくにこの手のとっつきにくい本では)。ただし誤植はやや多め。これは訳者先生ではなくて、校正・校閲側の見落としのせい(pp.236−37の「フローニンゲン」と「クローニンゲン」、p.606の「徹底的した」など)。それと p. 143の『ローランドの歌』って、『ロランの歌』のことですかね?
この本を読んでここにいる門外漢がどうにも腑に落ちてこなかったのは、けっきょくこういうことではないかと思う:
マクルーハンの本自体が、新しいメディアの作り出した問題よりむしろ印刷文化特有の問題を立証しているように見える……この本は、いかに資料過多が一貫性の欠如につながるか、さらなる証拠を与えてくれた
引用したのはつい最近、「日本の古本屋さん」で手に入れた 30 数年も前の『印刷革命』という、「印刷術の発明によって、旧来の文字文化から新しい文字文化=活字メディアへと移行したとき、それはどんな影響をおよぼしたか」を考察したホネのある原書の邦訳本の「まえがき」なんですが、ワタシがこの大部の本に抱いたウソ偽りない読後感が、まさしくコレだった。ウクライナ情勢が日増しに緊迫度を増すなか、「戦争」という究極の暴力に関して読むのなら、こちらも先日、NHK で再放送されていたロジェ・カイヨワの『戦争論』のほうがまだよいかと思ったしだい。
評価:

2022年04月14日
洗足木曜日のバタフライ効果
本日は、キリスト教圏では最重要の移動祝祭日(movable feast)、復活祭直前の受難週(聖週間)の洗足木曜日(Maundy Thursday、今年の復活祭は奇しくも満月と重なった 17日)。イエスが最後の晩餐の前、12人の弟子の足を洗う儀式をおこなったことを記念する日にして、ラテン語版『聖ブレンダンの航海』で、現在のフェロー諸島に修道院長ブレンダンたち一行がたどり着いたと書かれた日でもあります。
クレムリンが(ノーム・チョムスキーだったか、いくら NATO の東方拡大に腹を立てていたとはいえ)じつに身勝手な理由をこじつけて、それまで平穏無事につつましく日々を送っていた市井の人びとに銃口を向け、巡航ミサイルを落としまくり、首都キーウ(今後、ウクライナの地名表記は判明しているかぎりヴァーナキュラーで表記します)から撤退したはよいが地雷だの爆弾だのをバラまいたまま立ち去ったりと、ソメイヨシノがいままさに満開、散り始めの日本にいる身にはにわかには信じがたい惨状を TV 越しに見せつけられる、 2022 年の春になってしまった。
しがない門外漢がここでこんなことぐだぐだ書いたところでどうだってことはもちろんないんですけれども、ロシアの大統領って、たしか熱心なロシア正教の信徒じゃなかったかしらね? 聖週間なんだよ。ダンテ・アリギエーリがこの凄惨きわまる光景を目の当たりにしたら、きっとこれを仕掛けた張本人と、実際に攻撃して、市民を殺しまくった手合いはすべからく「インフェルノ(もちろんこれは『神曲』の「地獄篇」の原題から)」送りになると確信するんじゃないでしょうかね。
英国の経済誌 Economist をはじめ、いま欧米メディアはウクライナ戦争一色という感じで、不肖ワタシのところに来るご依頼も、さっき触れたチョムスキーをはじめとする「知の巨人」と呼ばれている人が寄稿したコラムが多いんですが、前の米大統領といいこんどの戦争といい、いったいどこまで歴史を逆走すれば気が済むんでしょうね。ほんと常人には気が知れないとはこのこと。
クレムリン筋はあいもかわらずディープフェイクやらサイバー攻撃やらも動員して「悪いのはウクライナ」説を強弁してますけれども、彼らに教えてやりたいのは、人間の歴史を動かしてきたのはたいていの場合、「バタフライ効果」だということ(NHK の番宣ではない)。たとえば女性首相(まだ 30 代!)率いる北欧のフィンランドと──コロ助集団免疫政策は失敗だったとはいえ──スウェーデンのここ数日の動きなんかどうでしょうか。これってロシアが望んでいた方向とまるで逆の動きが急加速したことになりませんか。
グローバリズムはこれで終わったとかなんとか言われてますけれども、ロシアに経済制裁を仕掛ければそのぶん、ブーメランでこちら側も無傷安泰というわけにはぜったいにいかないのも現実。コロ助対策ではてんでバラバラだった欧州も、前世紀の2度の世界大戦の甚大な犠牲はいまだ記憶に生々しく、そして地続きということもあり、対ロシアではいっきに団結した印象を受けます。とくに日本と同じ敗戦国ドイツまで、NATO への防衛費負担の GDP 比を引き上げると表明していますし。さらに驚いたのは、クレムリンは当初ウクライナではなく、なんとバルト3国(!)に攻め込むつもりだったとか。懸念されるのはもちろん、東欧全域の不安定化です(最近の仕事でとくに印象に残っているのは、そのバルト3国のひとつエストニア出身の世界的指揮者、パーヴォ・ヤルヴィ氏のインタビュー記事。当時のエストニア人は旧ソ連時代にひどい目に遭わされたこととか、涙なしでは読めなかったですね)。
とはいえ、もうひとつ個人的に気に入らないのが、「知の巨人」たちが早々に「第三次世界大戦」と口走っていること。ウクライナの大統領はしかたない。一方的に攻め込まれた当事者だし、レトリックとしてこうでも言わないと、「環境少女」並みに self-complacent な EU 諸国を突き動かすことはできないと計算しての発言だろうから。ただし、それ以外の「外野」は軽々にそんなことを口にしてはならんでしょう。先の世界大戦で犠牲になった数千万柱に対し、はなはだ不穏当かつ失礼千万な無責任発言としか言いようがない。
国際連合がかつての国際連盟化するかどうかは、現時点ではなんとも言えません。このへんを突っ込んで書いたコラムなり記事なりあれば読みたいんですれども。いずれにしても、思わぬバタフライ効果、大どんでん返しがないとも限らない。これだけは確実に言えそうです。
最後に、Yahoo ニュースに転載された拙訳記事に寄せられたコメントでもっとも印象に残った文章を事後報告みたいで申し訳ないけれども、ここでも紹介しておきます。
クレムリンが(ノーム・チョムスキーだったか、いくら NATO の東方拡大に腹を立てていたとはいえ)じつに身勝手な理由をこじつけて、それまで平穏無事につつましく日々を送っていた市井の人びとに銃口を向け、巡航ミサイルを落としまくり、首都キーウ(今後、ウクライナの地名表記は判明しているかぎりヴァーナキュラーで表記します)から撤退したはよいが地雷だの爆弾だのをバラまいたまま立ち去ったりと、ソメイヨシノがいままさに満開、散り始めの日本にいる身にはにわかには信じがたい惨状を TV 越しに見せつけられる、 2022 年の春になってしまった。
しがない門外漢がここでこんなことぐだぐだ書いたところでどうだってことはもちろんないんですけれども、ロシアの大統領って、たしか熱心なロシア正教の信徒じゃなかったかしらね? 聖週間なんだよ。ダンテ・アリギエーリがこの凄惨きわまる光景を目の当たりにしたら、きっとこれを仕掛けた張本人と、実際に攻撃して、市民を殺しまくった手合いはすべからく「インフェルノ(もちろんこれは『神曲』の「地獄篇」の原題から)」送りになると確信するんじゃないでしょうかね。
英国の経済誌 Economist をはじめ、いま欧米メディアはウクライナ戦争一色という感じで、不肖ワタシのところに来るご依頼も、さっき触れたチョムスキーをはじめとする「知の巨人」と呼ばれている人が寄稿したコラムが多いんですが、前の米大統領といいこんどの戦争といい、いったいどこまで歴史を逆走すれば気が済むんでしょうね。ほんと常人には気が知れないとはこのこと。
クレムリン筋はあいもかわらずディープフェイクやらサイバー攻撃やらも動員して「悪いのはウクライナ」説を強弁してますけれども、彼らに教えてやりたいのは、人間の歴史を動かしてきたのはたいていの場合、「バタフライ効果」だということ(NHK の番宣ではない)。たとえば女性首相(まだ 30 代!)率いる北欧のフィンランドと──コロ助集団免疫政策は失敗だったとはいえ──スウェーデンのここ数日の動きなんかどうでしょうか。これってロシアが望んでいた方向とまるで逆の動きが急加速したことになりませんか。
グローバリズムはこれで終わったとかなんとか言われてますけれども、ロシアに経済制裁を仕掛ければそのぶん、ブーメランでこちら側も無傷安泰というわけにはぜったいにいかないのも現実。コロ助対策ではてんでバラバラだった欧州も、前世紀の2度の世界大戦の甚大な犠牲はいまだ記憶に生々しく、そして地続きということもあり、対ロシアではいっきに団結した印象を受けます。とくに日本と同じ敗戦国ドイツまで、NATO への防衛費負担の GDP 比を引き上げると表明していますし。さらに驚いたのは、クレムリンは当初ウクライナではなく、なんとバルト3国(!)に攻め込むつもりだったとか。懸念されるのはもちろん、東欧全域の不安定化です(最近の仕事でとくに印象に残っているのは、そのバルト3国のひとつエストニア出身の世界的指揮者、パーヴォ・ヤルヴィ氏のインタビュー記事。当時のエストニア人は旧ソ連時代にひどい目に遭わされたこととか、涙なしでは読めなかったですね)。
とはいえ、もうひとつ個人的に気に入らないのが、「知の巨人」たちが早々に「第三次世界大戦」と口走っていること。ウクライナの大統領はしかたない。一方的に攻め込まれた当事者だし、レトリックとしてこうでも言わないと、「環境少女」並みに self-complacent な EU 諸国を突き動かすことはできないと計算しての発言だろうから。ただし、それ以外の「外野」は軽々にそんなことを口にしてはならんでしょう。先の世界大戦で犠牲になった数千万柱に対し、はなはだ不穏当かつ失礼千万な無責任発言としか言いようがない。
国際連合がかつての国際連盟化するかどうかは、現時点ではなんとも言えません。このへんを突っ込んで書いたコラムなり記事なりあれば読みたいんですれども。いずれにしても、思わぬバタフライ効果、大どんでん返しがないとも限らない。これだけは確実に言えそうです。
最後に、Yahoo ニュースに転載された拙訳記事に寄せられたコメントでもっとも印象に残った文章を事後報告みたいで申し訳ないけれども、ここでも紹介しておきます。
1年前くらいだがコロナ対応を巡り、中国のような専制国家がスピード感があることを良しとする報道があった。
これに対しバイデンは「民主主義は時間がかかる」と応じたことがある。
そしていまは専制国家が自由を制限し、独裁者が暴走することを止められないことに恐怖を感じる。
われわれは単純に中国が豊かになり、民主主義国家と交流が深まれば専制国家が終わるだろうと考えていた。
同じようにアフリカも東欧社会のようにいずれ変わるだろうと考えていた。
今回のロシアの侵攻は独裁者の能力しだいでは愚かなことをする。
19世紀にかんたんに先祖返りするとわかった。
それでも人種、民族、言語、宗教、思想を越えて互いに理解をし、尊敬をして自由で民主主義的な社会に変わっていく必要がある。
長い時間がかかるが、あなたは何人と聞かれて「地球人」と答えられるようになりたい。
2022年03月31日
「カメラは涙でくもった」
ウクライナ危機が始まって早くも1か月が経過した。先月 24 日にとなりの大国ロシアがいきなり侵攻してきて以来、ウクライナの難読地名も毎日のように報じられるようになってます(首都の表記名も、現地語読みに切り替えるとか言ってました)。
そして、最近やはり気になるのが地震の頻発ですね …… それも夜中がひじょうに多い印象がある。ただでさえ、福島県の方はお辛いのに …… 11 年前の震災ではなんとかもちこたえたわが家が、今月 16 日の激震でついに全壊になってしまった、という話も聞きます。せめてもの希望の光は、先日の大相撲春場所で、地元出身力士の若隆景関が優勝したことでしょう。福島県出身力士としてなんと 50 年ぶりの快挙だとか。静岡県出身力士もみなさんも、とくに熱海富士関の活躍に地元熱海の人たちもおおいに元気づけられていると思う。
当たり前と言えば当たり前なんですが、最近の訳出作業はウクライナ関連が急に増えてきました。昨年のいまごろは、やはり mRNA ワクチンすらなかったので新型コロナ関連記事が多かった(もっとも、パンデミックが収束する気配もいまだなし)。いまも複数の〆切り抱えてちょっとアップアップしているのですが、そんな折、けさの朝刊をぼんやり眺めていたら、こちらの訃報記事に目がとまった。
三留理男氏 …… と見て、ややあってああ、あの方か、とほんとうに久しぶりに思い出していました。あれは不肖ワタシが小学生だったとき、たしか課題図書かなにかで買ったのが、『カメラはなにを見たか』。これほんとに子ども向けの本なの、というくらいに、当時問題視されていたスーダンあたりの飢餓問題や戦場の写真などがバンバン出てくる。内容はもちろん、子どもでもしっかりわかるようにとてもやさしい筆致で書かれています。本の前半はカメラに興味を持った少年時代の話や投稿写真で賞をもらったことなども書かれてあり、著者の半生の記録でもあります。
いまや記憶もあやふやながら、なお頭こびりついて離れない小見出しがあります──「カメラは涙でくもった」。げんにいま、戦場と化したウクライナの街から決死の覚悟でひとりの独裁者が勝手に起こした戦争の真実を切り取って、わたしたちに送り届けている記者や写真家が何人もいる。三留氏の遺志を継ぐ人たちと言っていいかもしれない。というか、ここ数年の世界の趨勢を見ていると、「歴史は繰り返す」を地で行っているようでなんか空恐ろしささえ感じる。いちばん驚き、かつあきれたのは、ロシア大統領みずからがいかにもかる〜い調子で「核兵器の使用」なんてほざきやがったことですな。インターネット空間も「サイバー軍」なる組織が暗躍していて、ここのところ日本企業の被害も報じられていますね。
…… 綾小路なんとか氏じゃないが、あれから 40 数年。せっかくひさしぶりにご尊名を拝見したというのに、残念ながら逝去の報でした。享年 83。合掌。
そしてそのとなりにお名前が出ていたのが、作家の野田知佑氏の訃報記事でした。そう、言わずと知れたあのカヌーイスト作家の方。愛犬とともに悠揚迫らずカヌーを漕ぐ姿、いまもよく覚えています。立松和平氏やC・W・ニコル氏とともに、けっこうテレビ(いまみたいな薄い液晶画面ではなくて、でかくて重たいブラウン管だったころ)にこのお三方が出てましたね。共通していたのが、当時はやっていたゴルフ場乱開発反対という立場でした(西伊豆にもその手の開発話があって、まだ若かったワタシは安良里の親戚とモメたことがある。ちなみにそれをやろうとしていたのが、東京五輪の開会式をめぐるゴタゴタや、裾野市出身の若い女性社員の過労死で問題になった、某広告代理店大手)。
このおふたりがいまの世界を見たら、いったいなんて言うのでしょうね …… ついそんな勝手な妄想に走ってしまう、花曇りな今日このごろ。
そして、最近やはり気になるのが地震の頻発ですね …… それも夜中がひじょうに多い印象がある。ただでさえ、福島県の方はお辛いのに …… 11 年前の震災ではなんとかもちこたえたわが家が、今月 16 日の激震でついに全壊になってしまった、という話も聞きます。せめてもの希望の光は、先日の大相撲春場所で、地元出身力士の若隆景関が優勝したことでしょう。福島県出身力士としてなんと 50 年ぶりの快挙だとか。静岡県出身力士もみなさんも、とくに熱海富士関の活躍に地元熱海の人たちもおおいに元気づけられていると思う。
当たり前と言えば当たり前なんですが、最近の訳出作業はウクライナ関連が急に増えてきました。昨年のいまごろは、やはり mRNA ワクチンすらなかったので新型コロナ関連記事が多かった(もっとも、パンデミックが収束する気配もいまだなし)。いまも複数の〆切り抱えてちょっとアップアップしているのですが、そんな折、けさの朝刊をぼんやり眺めていたら、こちらの訃報記事に目がとまった。
三留理男氏 …… と見て、ややあってああ、あの方か、とほんとうに久しぶりに思い出していました。あれは不肖ワタシが小学生だったとき、たしか課題図書かなにかで買ったのが、『カメラはなにを見たか』。これほんとに子ども向けの本なの、というくらいに、当時問題視されていたスーダンあたりの飢餓問題や戦場の写真などがバンバン出てくる。内容はもちろん、子どもでもしっかりわかるようにとてもやさしい筆致で書かれています。本の前半はカメラに興味を持った少年時代の話や投稿写真で賞をもらったことなども書かれてあり、著者の半生の記録でもあります。
いまや記憶もあやふやながら、なお頭こびりついて離れない小見出しがあります──「カメラは涙でくもった」。げんにいま、戦場と化したウクライナの街から決死の覚悟でひとりの独裁者が勝手に起こした戦争の真実を切り取って、わたしたちに送り届けている記者や写真家が何人もいる。三留氏の遺志を継ぐ人たちと言っていいかもしれない。というか、ここ数年の世界の趨勢を見ていると、「歴史は繰り返す」を地で行っているようでなんか空恐ろしささえ感じる。いちばん驚き、かつあきれたのは、ロシア大統領みずからがいかにもかる〜い調子で「核兵器の使用」なんてほざきやがったことですな。インターネット空間も「サイバー軍」なる組織が暗躍していて、ここのところ日本企業の被害も報じられていますね。
…… 綾小路なんとか氏じゃないが、あれから 40 数年。せっかくひさしぶりにご尊名を拝見したというのに、残念ながら逝去の報でした。享年 83。合掌。
そしてそのとなりにお名前が出ていたのが、作家の野田知佑氏の訃報記事でした。そう、言わずと知れたあのカヌーイスト作家の方。愛犬とともに悠揚迫らずカヌーを漕ぐ姿、いまもよく覚えています。立松和平氏やC・W・ニコル氏とともに、けっこうテレビ(いまみたいな薄い液晶画面ではなくて、でかくて重たいブラウン管だったころ)にこのお三方が出てましたね。共通していたのが、当時はやっていたゴルフ場乱開発反対という立場でした(西伊豆にもその手の開発話があって、まだ若かったワタシは安良里の親戚とモメたことがある。ちなみにそれをやろうとしていたのが、東京五輪の開会式をめぐるゴタゴタや、裾野市出身の若い女性社員の過労死で問題になった、某広告代理店大手)。
このおふたりがいまの世界を見たら、いったいなんて言うのでしょうね …… ついそんな勝手な妄想に走ってしまう、花曇りな今日このごろ。
2022年02月27日
禅僧ティク・ナット・ハンの教え
冬季五輪が終わるのを待ち構えていたかのように、ロシア軍が隣接する小国(人口は北海道とほぼ同じ)ウクライナに電撃的に軍事侵攻を仕掛けて、いまも交戦中です。ウクライナとくると、音楽好きがまっさきに思い出すのはやはり「キエフの大きな門」だろうし、スパイものが好きな人にとってはフォーサイスの『オデッサ・ファイル』でしょうか。その港湾都市オデッサも攻撃されたと聞く。
こういうときこそ冷静沈着に、そして霊性の助けが必要だろう …… とそんなことをぼんやり考えていた折も折、先月 22 日に 96 でみまかった禅僧のティク・ナット・ハン氏を特集した「こころの時代」再放映が深夜に流れてまして、思わず見入ってしまった。
寡聞にして知らなかったが、いま流行りの「マインドフルネス」の普及促進に尽力したお坊さんでもあるらしい。マインドフルネスなんてどうせ企業が自分たちの利益にかなうからと社員になかばカマかけて喧伝しているにすぎない代物、座禅や、カトリックの修道士が行っているような「観想」とは似ても似つかぬものだろう …… という prejudice があって、とくに深く知ろうなどという気もなかったんですが、それはどうもこちらの早トチリのようだった。
ティク・ナット・ハン師の講話とかを記録した映像がいろいろ流れて、そこでのお話とか聞いていると、21 世紀前半が過ぎ去ろうとしているいま、なぜマインドフルネスの実践が世界的に流行っているのかがわかったような気がした。なにごとにおいても人口に膾炙するのには理由がある、ということなのでしょう。
講話でいちばんすばらしいと感じたのは、「ブッダは神ではなく、人間の体をもって生きた人でした」、「(蓮の葉の茎をナイフで切って見せて)あなたがたから見れば左で、切っているわたしから見れば右になる」というお話だった。前者は福音派アメリカン牧師にありがちな「アナタハ神ヲ信ジマスカ?」的なじつにバカバカしい皮相的かつ詐欺師的な手合いとは正反対の、まさしくものごとの究極の真理を突いたお話でして、おおいに共感したしだい(原始教会時代の、「イエスは神の子か否か?」をめぐる論争の不毛さも想起させられる)。後者は、いままさに全世界の政治指導者たちこそ全身を耳にして謹聴してほしい真実をありていに述べたことばでして、何度もここで書いてきたから「耳タコ」で申し訳ないんですけれども、比較神話学者のジョー・キャンベルとやっぱりおんなじこと言っているなぁ、と思ったしだい。
ハン師はこうもおっしゃってました。「(イデオロギー的に)左の人は、右の人が消えれば世の中はよくなると思っているが、いくら(ナイフで茎を切って見せながら)こうして切ってもいつまでたっても右側は出てきます …… インタービーイング(interbeing)、互いがいるから存在するということに気づくべきです」(講話では何度か「サンガの共同体」という用語も出てきた)
わたしたちはとかく自分が正義だと思いがち。イエスかノーか。善か悪か(「砂漠の一神教」の影響を受けた地域に根強い発想)。そして世の中には正論さえ唱えていれば正しい方向に向かう、という強い信仰もある(クリティカル・シンキングにしてもそう)。もっともこれは「だったらワクチンなんて打たなくていい」ということじゃありません。ハン師はこう話してました。「互いに不可分の存在だと認めあえれば、互いのために行動を起こす」。互いに自分を大切にすることで、結果的に互いの生を助けることになるとハッキリ言ってたんです。なんとすばらしい。オラひさしぶりに感動しましたよ。ハン師がおっしゃった「この世の理」を、「考えるのではなく、感じる」ことができたのなら、いますぐにでも人の行動は、誰かからあれやこれや言われるまでもなく、おのずと変わっていくでしょう。そういう穏やかな心は、ただ自分たちが安楽に暮らせなくなるからというだけで二酸化炭素ガス排出の責任を年長世代に押し付けるだけの自称抗議活動がいかにむなしいものかもわかろうというもの(意見には個人差がありますずら)。
そこで思い出されるのが、──ロシアと同じ専制主義権威主義独裁体制な大国で開催されたとはいえ── フィギュアの羽生結弦選手をはじめとするアスリートたちの活躍です。同じフィギュアの坂本花織選手、スノーボードの平野歩夢選手と岩渕麗楽選手、スピードスケートの高木美帆選手 …… カーリングが好きなので、「ロコ・ソラーレ」の銀メダル獲得もおおいに感動しましたね。
ほかにもこのような選手はたくさんおられますが、いまここでお名前をあげた選手はいずれも「絶対必勝」というより、「自分が目指してきたものをこの大舞台でなにがなんでもやってみせる」という、並々ならぬ、それこそ決死の覚悟をもって臨んだ真の意味での勇者だと思う。半世紀前の日本人だったら、世界に追いつき追い越せしか眼中になくて、「ワタシはこの技をキメたいからやらせてくれ」なんて言ったらそれこそ体罰もどきを食らってそれで終わり、世間的にもおよそ許してもらえなかったんじゃないかって思います。だからたとえ戦車が街を潰しにかかってきても、ほんとうにわたしたち人間にパワーを与えてくれるのはこうした個人の意思の力にあると、ワタシは考えている。ようするに、自分自身が輝けない社会なんて、いくら飽食と宝飾品であふれ、いくらテクノロジーが発展して便利になっても、けっして満足することなどない。ティク・ナット・ハン師に教えを受けたという人びとが異口同音に語っていたのもまさにこれでした。
こういうときこそ冷静沈着に、そして霊性の助けが必要だろう …… とそんなことをぼんやり考えていた折も折、先月 22 日に 96 でみまかった禅僧のティク・ナット・ハン氏を特集した「こころの時代」再放映が深夜に流れてまして、思わず見入ってしまった。
寡聞にして知らなかったが、いま流行りの「マインドフルネス」の普及促進に尽力したお坊さんでもあるらしい。マインドフルネスなんてどうせ企業が自分たちの利益にかなうからと社員になかばカマかけて喧伝しているにすぎない代物、座禅や、カトリックの修道士が行っているような「観想」とは似ても似つかぬものだろう …… という prejudice があって、とくに深く知ろうなどという気もなかったんですが、それはどうもこちらの早トチリのようだった。
ティク・ナット・ハン師の講話とかを記録した映像がいろいろ流れて、そこでのお話とか聞いていると、21 世紀前半が過ぎ去ろうとしているいま、なぜマインドフルネスの実践が世界的に流行っているのかがわかったような気がした。なにごとにおいても人口に膾炙するのには理由がある、ということなのでしょう。
講話でいちばんすばらしいと感じたのは、「ブッダは神ではなく、人間の体をもって生きた人でした」、「(蓮の葉の茎をナイフで切って見せて)あなたがたから見れば左で、切っているわたしから見れば右になる」というお話だった。前者は福音派アメリカン牧師にありがちな「アナタハ神ヲ信ジマスカ?」的なじつにバカバカしい皮相的かつ詐欺師的な手合いとは正反対の、まさしくものごとの究極の真理を突いたお話でして、おおいに共感したしだい(原始教会時代の、「イエスは神の子か否か?」をめぐる論争の不毛さも想起させられる)。後者は、いままさに全世界の政治指導者たちこそ全身を耳にして謹聴してほしい真実をありていに述べたことばでして、何度もここで書いてきたから「耳タコ」で申し訳ないんですけれども、比較神話学者のジョー・キャンベルとやっぱりおんなじこと言っているなぁ、と思ったしだい。
ハン師はこうもおっしゃってました。「(イデオロギー的に)左の人は、右の人が消えれば世の中はよくなると思っているが、いくら(ナイフで茎を切って見せながら)こうして切ってもいつまでたっても右側は出てきます …… インタービーイング(interbeing)、互いがいるから存在するということに気づくべきです」(講話では何度か「サンガの共同体」という用語も出てきた)
わたしたちはとかく自分が正義だと思いがち。イエスかノーか。善か悪か(「砂漠の一神教」の影響を受けた地域に根強い発想)。そして世の中には正論さえ唱えていれば正しい方向に向かう、という強い信仰もある(クリティカル・シンキングにしてもそう)。もっともこれは「だったらワクチンなんて打たなくていい」ということじゃありません。ハン師はこう話してました。「互いに不可分の存在だと認めあえれば、互いのために行動を起こす」。互いに自分を大切にすることで、結果的に互いの生を助けることになるとハッキリ言ってたんです。なんとすばらしい。オラひさしぶりに感動しましたよ。ハン師がおっしゃった「この世の理」を、「考えるのではなく、感じる」ことができたのなら、いますぐにでも人の行動は、誰かからあれやこれや言われるまでもなく、おのずと変わっていくでしょう。そういう穏やかな心は、ただ自分たちが安楽に暮らせなくなるからというだけで二酸化炭素ガス排出の責任を年長世代に押し付けるだけの自称抗議活動がいかにむなしいものかもわかろうというもの(意見には個人差がありますずら)。
そこで思い出されるのが、──ロシアと同じ専制主義権威主義独裁体制な大国で開催されたとはいえ── フィギュアの羽生結弦選手をはじめとするアスリートたちの活躍です。同じフィギュアの坂本花織選手、スノーボードの平野歩夢選手と岩渕麗楽選手、スピードスケートの高木美帆選手 …… カーリングが好きなので、「ロコ・ソラーレ」の銀メダル獲得もおおいに感動しましたね。
ほかにもこのような選手はたくさんおられますが、いまここでお名前をあげた選手はいずれも「絶対必勝」というより、「自分が目指してきたものをこの大舞台でなにがなんでもやってみせる」という、並々ならぬ、それこそ決死の覚悟をもって臨んだ真の意味での勇者だと思う。半世紀前の日本人だったら、世界に追いつき追い越せしか眼中になくて、「ワタシはこの技をキメたいからやらせてくれ」なんて言ったらそれこそ体罰もどきを食らってそれで終わり、世間的にもおよそ許してもらえなかったんじゃないかって思います。だからたとえ戦車が街を潰しにかかってきても、ほんとうにわたしたち人間にパワーを与えてくれるのはこうした個人の意思の力にあると、ワタシは考えている。ようするに、自分自身が輝けない社会なんて、いくら飽食と宝飾品であふれ、いくらテクノロジーが発展して便利になっても、けっして満足することなどない。ティク・ナット・ハン師に教えを受けたという人びとが異口同音に語っていたのもまさにこれでした。
生き生きとした人間が世界に生気を与える。これには疑う余地はありません。生気のない世界は荒れ野です。…… 生きた世界ならば、どんな世界でもまっとうな世界です。必要なのは世界に生命をもたらすこと、そのためのただひとつの道は、自分自身にとっての生命のありかを見つけ、自分がいきいきと生きることです」────ジョーゼフ・キャンベル、ビル・モイヤーズ / 飛田茂雄 訳『神話の力』から
2022年02月06日
不自然な「自然」もある話
昨年後半から某全国経済紙(電子版)をとり始めたんですが(こういうのっていまは横文字そのまんまの subscription って言いますよね)、つい先日、↓ のようなインタビューの訳し起こしを見かけました。
発言者は、政治リスク専門コンサルティング会社ユーラシアグループ代表で、政治学者のイアン・ブレマー氏。ユーラシアグループは、年明けに発表する「世界 10大リスク予測」がよく知られています。聞き手で、このインタビューを訳し起こして寄稿しているのはこの経済紙のワシントン支局長の方。というわけで下線部です。うっかり読み過ごしてしまいそうながら、ちょっとおかしい(いや、だいぶ?)。
子どもの将来の話なのに「自然」だなんて、いくらなんでも唐突で、それこそ不自然。英語がすこしできる人ならブレマー氏の口から出た単語はすぐに察しがつくでしょう。「自然」はもちろん nature で、つぎの「育成」は nurture ではなかろうか、と。だいいち、「遺伝的に(子供が自然に)しつけられるのか」なんて常識的思考ではかなりブッ飛んでます。アリもそうですけれども、ヒトもまた社会的動物で、人間社会からまったく隔絶された環境(=自然)に放り出されたら、昔いたっていう、イヌかネコみたいに顔を皿にくっつけて水をすするような子どもになってしまいませんかね。
いくら nature と発言したからって律儀に「直訳」せんでもええのにって思ったしだい。nature と nurture の組み合わせというのは、一種のことば遊び的要素もあるので。ならどうするか。ワタシなら、「氏より育ち」って諺の変形で処理すると思う。言いたいことはもちろん、「自分が子どものころには〈生まれ(いまふうに言えば、「親ガチャ」に当たったとかハズレたとかっていうやつ)〉と〈どう育てられたか〉の問題しかなかったけれども、いまはそれに加えて AI やアルゴリズムに代表される〈テクノロジー〉の問題がある」です。
もっともこの経済紙の名誉のために言っておくと、子会社の Financial Times とか、提携? しているのかどうか知りませんが、有名な英国の経済誌 The Economist の長文記事が日本語で読めたりするから、いちおうこれでもそっち方面の仕事している身としてはたいへんありがたく拝読させてもらってます。「Apple の時価総額3兆ドル(約 340 兆円)超え」の理由を説明する記事を訳出しているとき、「理由のひとつに自社株買いがある」とかっていきなり出てきても慌てずにすむ。知ってるのと知らないとでは月ちゃんとスッポンです。ふだんからの、不断の仕込みは大切ずら。
最後にもうひとつ、↓ の記事も、正鵠を射ていると思う。こういうのはさすが新聞だと思う。あきらかな「脱真実 Post-Truth 」は困りものだが、「新聞の持つ情報の一覧性」は、まだまだ捨てたもんじゃありません。
心配なのが、子供たちの思考の過程がアルゴリズム(計算手順)によって支配されつつあることだ。私が子供のころは「自然」対「育成」、つまり遺伝的に(子供が自然に)しつけられるのか、親が(育成の一環で)しつけるのかという問題だった。それがいまや「自然」対「育成」対「技術」の構図になった。
これから10年たてば、アルゴリズムで思考過程が形作られたヤングアダルトの時代が来る。これは世界をもっと深刻な分断に導く。アルゴリズムは模範的な市民を作ろうとしないからだ。
発言者は、政治リスク専門コンサルティング会社ユーラシアグループ代表で、政治学者のイアン・ブレマー氏。ユーラシアグループは、年明けに発表する「世界 10大リスク予測」がよく知られています。聞き手で、このインタビューを訳し起こして寄稿しているのはこの経済紙のワシントン支局長の方。というわけで下線部です。うっかり読み過ごしてしまいそうながら、ちょっとおかしい(いや、だいぶ?)。
子どもの将来の話なのに「自然」だなんて、いくらなんでも唐突で、それこそ不自然。英語がすこしできる人ならブレマー氏の口から出た単語はすぐに察しがつくでしょう。「自然」はもちろん nature で、つぎの「育成」は nurture ではなかろうか、と。だいいち、「遺伝的に(子供が自然に)しつけられるのか」なんて常識的思考ではかなりブッ飛んでます。アリもそうですけれども、ヒトもまた社会的動物で、人間社会からまったく隔絶された環境(=自然)に放り出されたら、昔いたっていう、イヌかネコみたいに顔を皿にくっつけて水をすするような子どもになってしまいませんかね。
いくら nature と発言したからって律儀に「直訳」せんでもええのにって思ったしだい。nature と nurture の組み合わせというのは、一種のことば遊び的要素もあるので。ならどうするか。ワタシなら、「氏より育ち」って諺の変形で処理すると思う。言いたいことはもちろん、「自分が子どものころには〈生まれ(いまふうに言えば、「親ガチャ」に当たったとかハズレたとかっていうやつ)〉と〈どう育てられたか〉の問題しかなかったけれども、いまはそれに加えて AI やアルゴリズムに代表される〈テクノロジー〉の問題がある」です。
私が子供のころは「出自」対「育ち」の問題があった。それがいまや「出自」対「育ち」対「テクノロジー」の構図になった。字数の関係で最後のは「技術」のママでよしとして、これならどんなにそそっかしい読み手でも誤解の余地はないでしょう。「つまり ……」以下の補足部は、おそらく聞き手(訳者)がつじつま合わせで追加したもののように思える(意見には個人差があります)。といっても、補足じたいはべつに問題ない。翻訳における常套手段のひとつなので。
もっともこの経済紙の名誉のために言っておくと、子会社の Financial Times とか、提携? しているのかどうか知りませんが、有名な英国の経済誌 The Economist の長文記事が日本語で読めたりするから、いちおうこれでもそっち方面の仕事している身としてはたいへんありがたく拝読させてもらってます。「Apple の時価総額3兆ドル(約 340 兆円)超え」の理由を説明する記事を訳出しているとき、「理由のひとつに自社株買いがある」とかっていきなり出てきても慌てずにすむ。知ってるのと知らないとでは月ちゃんとスッポンです。ふだんからの、不断の仕込みは大切ずら。
最後にもうひとつ、↓ の記事も、正鵠を射ていると思う。こういうのはさすが新聞だと思う。あきらかな「脱真実 Post-Truth 」は困りものだが、「新聞の持つ情報の一覧性」は、まだまだ捨てたもんじゃありません。