2021年04月09日

『翻訳家の書斎』

 宮脇孝雄氏、とくると、日本を代表する英米文学、とくにミステリもの翻訳の大家。当方みたいのがこんなとこで取り上げるのはオコガマシイかぎり …… とは思うのだけど、図書館でパラパラめくっていたらめっちゃおもしろかったので、古い本(1998 年刊行)ではあるけれど、文芸ものの翻訳はいかにすべきかを考える上ではずせない書だと思ったのであえて触れておきます。もっとも、いわゆる「書評」めいたことは今回はいっさいやらず、ただ個人的にツボなところのみ取り上げるにとどめておきます。

 外国語辞書の版元として有名な研究社はかつて、「一流翻訳家が手の内を開陳する」みたいな本を立て続けに出していた時期がありまして、たとえば机の上にいつも置いてある飛田茂雄先生の『翻訳の技法(1997)』もそのひとつ。でも宮脇先生のこのご本は雑誌の連載コラムをまとめたものだからか、とにかく読んで肩の凝らない、翻訳よもやま話的な本。にもかかわらず、翻訳のカンどころはしっかりおさえてあるのはさすがです。

 本を開いてまず飛び込んでくるのが、「翻訳家の書斎にある道具」という章。なんでも英米の通販商品カタログはひじょうに重宝するとか書いてありまして、一例として Mars Bar に Victor なんてのが出てくる。前者はチョコレートバー、後者はなんと! オーディオメーカーではなくて、「ネズミ捕り器」の名前だという !! 

 でも、とイマドキの人は思う。べつにこんなのそろえなくても、ググればいいじゃん !! そう。たいていの調べ物はいまや Google で(ほぼ)一発 O.K. な時代。Google、恐るべし、いろいろな方面で。いまのところ個人的にはメリットのほうがデメリットを上回っているから、いつだったかここで書いたことをもう一度引っ張り出して繰り返せば、「コンテンツプロバイダーという巨人の手の上で踊らされてるだけじゃないかって気がする」自分がいる。

 とはいえたかだか 20 数年前の翻訳の現場といまとを比較してみれば …… やはり唖然とする。原書に出てくる映画の邦題がワカラナイとくれば、昔はそれこそ国会図書館だのどこそこへ問い合わせだのとやたら手間がかかり、行きもしないのに(!)NYC の地図とか商品名事典(薄っぺらいくせして5千円はした)とか持っていて、出てくるたびに引っ張り出して調べるのがおそらくどんな翻訳者にとっても当たり前だったと思う。

 いまはラクなもんです。でも出版不況かなんだかはよくわかりませんが、最近とくに思うのが、「単価下げ」、つまりダンピング。そういえばついこの前も第一人者と呼ばれる出版翻訳者の方が赤裸々に暴露した本とかその筋では話題になってましたっけね。駆け出しのペーペーながら、中身はちょっと気になるところではある。ただ、どれだけ MT(機械翻訳)技術が進化しても、あるいは AI の支援を受けた MT が「人力」翻訳を脅かすすようになっても、それを理由に人間の翻訳者の労力を無視した労働対価を押し付けるのは出版人云々以前の、人としてどうなん? という低レベルな話になってくる。ついでに、いまはアナウンサーをはじめ、「日本語のプロ」でなければならぬ人々の日本語レベルがどんどん低下しているように思えてならない。「え? なんでこんな言い回しがダメなの?」ということもしばしば。そのうち「ゆめゆめ〜」とか「いきおい〜」も、「〜なんだ」と同様、死語の世界入りする日も近い(「〜なんだ」は、川端作品にも出てくる過去を表す述語表現)。

 気持ちが暗くなるんで宮脇先生のご本にもどると、「翻訳家の仕事」や「小説を翻訳するということ」、あと誤訳に関して書かれてある章は、戒められる思いがした。とくに、「『翻訳家』という立場は、はたで見るより危ういもので、少し手を抜くと、たんなる『翻訳支援家』になってしまう(pp.47−8)」というくだりとか。ここの一文は、宮脇先生が当時(!)、アキバの PC ショップにて数万円は下らない「翻訳支援システム」の実演販売を見て食指をそそられたときのことと絡めて書かれてあるセクションの締めくくりの文章になります。

 最後にとっておきの一文と名訳を。おなじセクションの最後に紹介された話がまたケッサクだったので、ここでも引用しておきます。
 翻訳者というのは、もっと独立した存在であり、ある面では独裁者なので、自分の責任においては何をやっても許されるのではないかと思っている。
 もちろん、先の例のように、あとあと矛盾が起こるような誤訳はまずいのだが、翻訳者がびくびくしていたのでは、いい訳文が書けるわけがない。
 私がまだ 20 そこそこのころ、敬愛するある翻訳家に初めて会ったとき、前々から疑問に思っていた点を尋ねたことがある。その人の翻訳に少女が一人出てきて、原文では別の髪型になっているのに、訳文では「ポニーテールの少女」となっていたのである。
 未熟な私は、「もしかしたら、あれは誤訳ではないでしょうか?」と尋ねた。
 するとその人は、「おれはポニーテールが好きなんだ」と答えた。
 翻訳者は独裁者であっていい、と悟ったのはそのときのことである。

 ご本にはもちろん、古今の翻訳家の訳例もいろいろ収録されていて、そこだけ読んでも楽しいんですが、思わず脱帽、参りましたと言いたくなるスゴイ名訳もありました。それが、1987 年に王国社から出ていた『不思議の国のアリス』の 'Who are You?' の訳(p.58、訳者は北村太郎氏)。なかなかこうは訳せませんよ。なにがスゴいかって、原文の持つ韻まできちんと日本語に置き換えているんですぞ。一発芸的かもしれないが、不肖ワタシはしばしうなったままじっと凝視しておりました。とりあえず使えそうな手はいつか使えるはずだから、持ち駒としてメモっておこう。

「あーた、だーれ?」

補足:音楽関連の「珍訳」についても少し触れられてました。たとえば『謎のバリエーション(苦笑)』とか(もちろんエルガーの『エニグマ変奏曲』のことじゃね)。

 日本語表現では、こんなことも指摘していました(太字強調は引用者)。
 クラシック音楽に関する文章を読んでいると、独特な言い回しが出てくることがある。気になって仕方がないのは、「手兵」という言葉である。
 たとえば、有名な指揮者が、手塩にかけて育てたオーケストラを使って、演奏会やレコーディングを行ったとき、「巨匠カラヤンが手兵ベルリン・フィルを率いて……」などと書く。
 絶大な権力を持つ指揮者を陸軍大将か何かになぞらえたくなる気持ちもわからないではないが、「手兵」というのはいかにも時代錯誤ではあるまいか。……
 …… 考えてみれば、クラシック音楽にかぎらず、外国のものをどこか仰々しく輸入紹介するのは、ついこのあいだまでの私たちの習慣だった。昔は漢語で凄んだが、近ごろはカタカナで凄んだりする(インテリ用語にそのたぐいの言葉がある)。
 「手兵」、たしかによく見ますわ。そして最後の一文、ここ最近の「反知性主義」とか「フェイクニュース」とかの不穏な動きは、ある筋から一方的に情報や価値観を押しつけられ、そのせいで割りを食ったと不満を募らせている一部「大衆」の反逆を出現させたその一端というか萌芽の要因のひとつにも感じられたしだい。いまでもそうじゃないでしょうかね、某都知事あたりの会見見てればその口から出てくるのは横文字の奔流。ご丁寧にパネルにゴシック体で大きく書かれてもいたりで。こういうのばかり見させられ、そのじつ「3密は避けて」とか言ってる張本人たちがこれまた信用ならんときている(直近のニュースでも流れてくるのはそんな情けない話ばっか)。ことばが人の心におよぼす影響を侮るなかれ。特大のブーメランとなって跳ね返ってきますよ。

posted by Curragh at 21:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近読んだ本

2021年03月31日

サクラバイバイ

 伊豆半島の主要道のひとつ国道 136 号線をそのまま南進すると、伊豆市(旧天城湯ヶ島町)の「出口」交差点で西に折れ、駿河湾へ向かって船原峠を越えていくことになります。かつては交通の難所でしたが、いまはバイパスがあるから短時間でスムーズに西海岸の伊豆市土肥(とい)温泉側に抜けることができます。

 バイパスの最後のトンネルを抜けて土肥新田地区に入ってまず目に飛び込んでくるのが、ソメイヨシノのみごとな並木。反対側の山側には、「グリーンヒル土肥」というお食事処があって、搾りたての新鮮牛乳を使ったソフトクリームが名物です。

 いま(3月 31 日時点)、そこのソメイヨシノ並木がちょうど満開なんですが、近いうちにすべて伐採されることを知りました。

 じつはこのソメイヨシノ並木、2007 年秋に地すべりを起こしてしばらくの間全面通行止めになり、地元の人はたいへんな難儀を強いられた場所にある。そのときの復旧工事はおもに山側の地すべり運動を止めるための工事だったので、並木は一部が伐られただけで、ほとんどはそのまま残りました。

 しかし昨年夏ごろから、こんどは山側ではなく海側の路肩がズルズルとズレはじめた。つまり、ソメイヨシノ並木を乗せた斜面全体が滑り始めたわけです(伊豆半島ジオパーク的には、あのへんの地質は「更新世の大型陸上火山時代」に活動した棚場山火山の噴出物でできている。棚場山は半島の基盤岩である変質安山岩系の湯ヶ島層群の上に乗っている)。

 いちおう、応急処置はしてあるのでいまのところ通行には問題ないけれども、いつもインスタでここからの夕景とか楽しませてもらっている方から、近日中にソメイヨシノの伐採が始まって、今年がほんとうの見納めになる、と聞かされました。

 もし現下のような状況でなかったら、おそらくワタシもホイホイ撮影に行っていただろうけれども、いまはインスタを開けば、有名な撮影ポイントはだれかが必ず「映え」な写真を残して公開している時代。なので極論すれば、べつに自分なんかが行かなくたっていい。自分の「分身(alter ego)」であるその人たちにお任せしておけばいい。いつぞや読んだ、ジョージ・ミケシュの旅行記本じゃないですけど。

 とくに風景写真系は、おのおのが「ホームグラウンド」的なお気に入りポイントを持っているから、この目で見に行けないのは残念ながら、以前の自分が感じていたほど、「撮りに行けなかった」ことによる後悔というのはほとんどない。べつに写真や被写体に対する passion とか思い入れがなくなってきたから、というわけじゃないですよ。自分ではないだれかさんが、必ずやすばらしい作品として半永久的に残してくれるだろうという、インスタを含めたオンライン写真共有全盛時代にありがちな期待(いや、錯覚? 錯視?)のほうが強くなっている、と言ったほうがいい。このへんのことも含めて、マーケテイング云々ではない、写真論としてインスタを論じた本とかないのかなん、と思うがどうもないようで。

 しかし土肥新田のソメイヨシノ並木っていつからあるのかな? たぶん 136 号線が開通した当初に植樹されたものだとは思うが。そんなこと考えていたら、かつて八木沢地区にあったソメイヨシノ並木のこととかも思い出した。そちらの並木も満開になるとどこを向いてもピンクでホントすごかった。文字どおり「桜のトンネル」。しかしそれも 40 年ほど前に行われた拡幅工事でほとんど消えて、いまはそのごく一部しか残っていない。ただ、すぐ近くの丸山公園には「土肥桜」の原木というのがあって、こちらは数年前に一度だけ撮りに行ったことがある。濃いピンクの花がとても印象的でしたね。

 ソメイヨシノにも寿命がある。加えてソメイヨシノに限って言えば、あれはすべて同一の親の分身、つまりクローンなので、老木になるといっせいに枯死する可能性がある。全国どこのソメイヨシノも同じです。だから、あまりソメイヨシノにばかり肩入れして感傷的になるのはよくないだろう。もともとそこに生えていた自然植生でもなければ、極相林でもないし。それに平安時代まで「桜」と言えば、目にもさやかな若芽とともに花を咲かせるヤマザクラのほう。ワタシもヤマザクラがいっせいに咲いた、「山笑う」光景が大好きときている。

 …… とはいえやはり寂しい気持ちには変わらない。道路が完全に復旧したら、あらたにヤマザクラとかも混ぜて、また桜並木を復活させてほしい。

2021年03月17日

貴重な音源が聴けてうれしかった話2題

1.この前の「古楽の楽しみ」、今谷和徳先生の回で「16 世紀イングランドの音楽」というのをやってました。イングランドの古楽の作曲家でジョン・タヴァーナーやトマス・タリスなんかはわりと知られているほうだから、ときおり聴いたことがあるぞという向きも多いかと思いますが、クリストファー・タイだの「イートン・クワイヤブック」に収められた楽曲だのはかなりの通好みと言うか、よほどイングランドの教会音楽、もっと言えばアングリカン(イングランド国教会)の音楽に親しんでいるような人でないと名前も知らないでしょう。そんな古い作品もけっこうかけてくれたから、こちらとしてはいとをかし。ヘンリー8世作曲の声楽曲なんてのもめったに聴けない珍品だから、この手の音楽が好きな人にとっては文字どおり朝から耳のごちそうだったんじゃないでしょうかね。

 そんなアングリカンの作曲家として初日にかかったのが、ウィリアム・コーニッシュという人の宗教声楽曲。じつはこれふたりいて、おなじ名前の親子(父子)なんです。なにぶん古い時代の人なので、史料でさえ父親のほうなのか息子のほうなのかワカラン場合も多々あるようです。「イートン・クワイヤブック」に収録されているのは同名の父の作品らしいけれども、やはりよくわからない。

 今谷先生が紹介されたように、コーニッシュ父子はチューダー朝時代にチャペル・ロイヤルと呼ばれる王室専属の少年聖歌隊長や、ウェストミンスター・アビイ聖母礼拝堂付き少年聖歌隊長を務めていた人だと言われてます。だいぶ前にここでも内容を紹介した手許の本をこれまたひさしぶりに開いて確認すると、「カイウス・クワイヤブック」に収録されている「第8旋法によるマニフィカト」は伝「父」コーニッシュの作品のようで、「グロリア」の終結部(アングリカンで歌われる英語のアンセムでは "... As it was in the beginning, and now, and ever shall be." に当たる箇所)は「テノールとバスの二重唱がひとしきり続いて開始され、複雑さを増しつつソプラノへと上行する」、言い換えれば「天界へと上昇して、天の栄光を賛美する」ように作られているとか。

 「息子」の手がけた世俗歌曲のほうもいくつか現存していて、わりと知られているのが初日にもかかった「ああ、ロビン、やさしいロビン」でしょうか。でも「おーい、陽気なラッターキン」とか「角笛を吹け、狩人よ」とかは寡聞にして知らなかったからなんか得した気分。タイトルどおり肩の凝らない、楽しい歌です。

2.聴けてうれしい貴重、いや希少な音源ということでは、日曜に聴いたこちらの番組も負けてない。なんと、あのヴィルヘルム・ケンプがオルガンを独奏しているのですぞ! それもなんと !! カトリック広島司教区の世界平和記念聖堂に完成したてのオルガンこけら落としリサイタルのライヴ録音(1954) !!! もうたまらんですわ。というか、在庫あるじゃん! No Music, No Life! なワタシではあるが、ここんとこ Aqours の CD しか買ってなかったから、コレはさっそく買わなくては。

 演奏を聴いた印象ですが、バッハの超有名な受難のコラールを使った小品「わが心の切なる願い BWV 727」の場合、コラールの各節の出だしで鍵盤交替してストップ間の音色の対比を際立たせているように感じた(ちなみにこのオルガンコラールは「受難の調」と言われるロ短調で書かれていて、番組後半でも流れたが、ケンプみずからピアノ独奏用に編曲もしている)。こういう演奏ははっきりいって古臭くて、ケンプのバッハ演奏が 19 世紀ロマン派のスタイルをしっかり踏襲していることがわかる。それでもなんと言いますか、えも言えぬ感情が深いところから湧き上がってくるのを抑えることができない。テンポばかりがやったら快速で薄っぺらい印象さえ受ける 21 世紀の演奏スタイルとは格が違うぞ、ということなのか。ヴァルヒャの演奏にも言えるけれども、ケンプもまた精神性のきわめて高い、心にストレートに刺さってくるバッハ演奏であり、バッハの音楽を「演奏(≒翻訳)」ではなく、まんまバッハの音楽がそのままドン! と突きつけられる感じがする。こういう感覚もまた、ひさしぶりに味わいましたね。

 ケンプは最晩年、認知症とパーキンソン病を患っていたようで、95 歳で大往生を遂げるまで演奏活動から何年も遠ざかってそれっきりだった。でも当時高校生だった不肖ワタシも、回想録『鳴り響く星のもとに──ヴィルヘルム・ケンプ青春回想録』という本には深い感銘を受けたものです(ちなみに「鳴り響く星」というのは、ストップを引き出すとくるくる回りだしてかわいらしい金属音を響かせる「ツィンベルシュテルン[英語読みでは「シンバルスター」]」のこと。文字どおりオルガンのプロスペクトを飾る「星」のかたちをしている)。

 そういえばケンプも、尊敬するオルガン奏者のヘルムート・ヴァルヒャも、逝去した年がまったくおなじ 1991 年だから、おふたりとも今年で没後満 30 年になる …… 早いものだ。なんかあっという間の 30 年だったな……などとついみずからの来し方を振り返ってしまう、今日このごろ。COVID-19 パンデミックにあえぐ人間世界を俯瞰して、両巨匠はなにを思うぞ。

posted by Curragh at 00:25| Comment(0) | TrackBack(0) | NHK-FM

2021年02月14日

Words are mightier than the sword

 かつて、「あの子、大事なときには必ず転ぶんですよね」と言ったご本人が、コロナ禍ならぬ、ご自身の「舌禍」のために辞任に追いこまれた。べつにこの方にかぎらず、バブル崩壊以後の日本では、こういう「失言/妄言で身を滅ぼす」タイプの話はこちとら「耳タコ」状態の感覚麻痺状態でして、正直なところ、「ああまたか」くらいしか思わなくなってしまっている。

 べつにあの方のカタ持つわけじゃないですが、一連の騒ぎがイヤなんですよね。論点がズレまくっているというか。ここでも紹介した、スペインの思想家ホセ・オルテガ・イ・ガセット(1883−1955)の代表作『大衆の反逆(1930)』に出てくる記述なんかが、どうしても思い出されるのであるが ……。

 個人が思い思いに意見を表明するのはもちろん問題なし。動物学者ジェラルド・ダレルが軍政下のアルゼンチンで赤ちゃんバクに振り回されるようすをユーモラスに綴ったエッセイとかも昔、読んだけれども、そのエッセイでダレルが発言したように、この国にも「意見を自由に述べる権利くらいはある」。ただし、思いつき・便乗・個人攻撃・お門違い、あるいはとくに欧米圏のメディアや人間の言ったことをなんの疑問にも思わず、無批判に額面どおり鵜呑みにして当の失言した本人を咎めているようなことはないだろうか? 

・問題の発言と、進退について:欧米メディアはじめ、SNS 上でも集中砲火を浴びせられているようなところもあるにせよ、そもそもハナシ家じゃないんだし、ご自身の地位と立場、そしてこのタイミングとこのご時世をほんとうにわかっていたのなら、いくら内輪の会合の場だからって、女性を侮蔑したととられる発言は完全に「大事なときに転」んでいると思う。ただし、ヤメロヤメロと大合唱を浴びせるのは、オルテガの言う「私刑」つまりリンチではありませんか? 

 もし現在の与党出身者でしかも首相経験者の発言で問題だというのなら、それを生み出す腐った根っこをなんとかしないといかんのではないですか? 個人的にもっともイカンと思っているのは国会議員に定年がないこと、遊んでいても議員歳費をちゃっかり受け取れること、それとこれはとくに政権与党に当てはまるが、議員を「家業」にしていること、ようするに「世襲の禁止」をすべきだ、という3点にあると考える。この人だけを吊し上げて引きずり下ろして快哉を叫んでいるようじゃ、そういうあなたがたもやってることはたいして変わらないのではないですか? あと、問題発言を受けて聖火ランナーやボランティアを辞退する人がけっこういたとかいう話も「ちょっとなに言ってるのかよくわかんない」。問題となった発言と、聖火ランナーとして走ることやボランティアに手を挙げたこととは、ほんらい関係ないのではないですか? 

 Twitter なんかで今回の件をさんざん叩いた方は、今年はイヤでも国政選挙がありますから、ぜひとも有権者の義務を果たしてくださいまし。それもしないでなんだかんだ言うのは、オルテガの言う「慢心した坊っちゃん」じゃないですかね? あるいは自分で植えもしないトウゴマの木が枯れたといって嘆く預言者ヨナみたいなものかも。まずは「隗より始めよ」ですな。

・五輪を中止すべきという意見について:たしかに危険な賭けになるとは思う。世界的に予断を許さぬ状態でもあるし。ただ、いまはワクチンがあるだけでもまだ救いがある。あとはワクチン接種が間に合うかどうか。げんにいま、大坂なおみさんががんばっていて、深夜帯に中継をテレビ観戦して元気もらってる人だってけっこういるんじゃないでしょうかね? なんだかんだ言っても、いま批判している人たちも、いざ大会が決行され、たとえ無観客であったとしてもがっつりテレビで観るんじゃないでしょうかね? 

・五輪ではなく、ほかにカネを回すべきという意見について:そもそもこんなの「復興五輪」じゃない、なんて言ってる人も、年末の「紅白」で例の歌を披露した子どものユニットとかは観ていると思う。その子たちだけじゃない、五輪とパラリンピックマスコットのデザインは、たしか全国の子どもたちの投票も反映されていたんじゃなかったですか? あんまりオトナのリクツだけを振りかざしていては、こうした子どもたちを傷つけることになりはしませんかね? コロナだからやるな、ではなく、なんとかして開催する方向で進めるべきだと個人的には思う。生の音楽や絵画に触れることも大切だが、おなじくらい、スポーツ競技に真摯に打ち込むアスリートの姿に触れることもまた観戦する人、とくに若い人にとって、前を向いて自身の人生をまっとうする勇気を与えてくれるんじゃないかって思う。前回のリオ五輪のとき、選手団の凱旋パレード見に行った人はけっこういませんでしたっけ? 

 「だれのための五輪?」というプラカードをかざして無言のプロテストをする人の映像がテレビで流れていた。冷たい言い方かもしれないが、「保育園落ちた、日本死ね」と言い放った人と精神構造が似ているのかもしれない。ご自身がよければそれでよし。ただし自分が不幸なら、すべては悪い。ここで何回か触れてきた「マイホーム主義」のひとつにしか見えない。いまの日本はたしかに問題だらけだが、それじゃ BLM に揺れる米国はどうですか? バイデンさんが新しい大統領に就任してスピーチしたのを NHK の生中継で観たとき、さすが腐っても米国だと感動すら覚えたけれども、30 年前と比べれば、いまの日本も格段に恵まれていると思う。チャンスだって増えている。かつては在宅勤務だなんて、どんな職種だってマジでそんなことできるわけがなかった。もっともセーフティーネットやベーシックインカムはもっと真剣に議論され、検討すべき課題だと思うが、やはり大切なのは「組織票」をアテにするような昭和な政治屋諸氏を落選させることでしょう。五輪に罪はないはず。コロナ対策については、さっきも書いたようにワクチンがようやく承認されたし、いまやってるテニスの大会だって無観客と観客入れとをうまく切り替えて実施されているのだし、五輪だけ中止という選択肢がほんとうに正しいのかどうか、よくよく考える必要があるのではないでしょうか? 

・日本の女性参画について:今回の失言騒動の対応をめぐっては、欧州の風当たりはそうとうなものですが、ワタシとしては、その欧州で有色人種に対する差別がコロナ禍でいっきに吹き出した話とかがかなり引っかかっている。ドイツのサッカー観戦に来ていた日本人観光客に対する扱いとかはこちらの記事のような経過をたどっていたようですが、この前見たEテレの「ワンルーム☆ミュージック」という DTM 番組で紹介された、ロンドンを拠点に活躍する日本人アーティスト、リナ・サワヤマさんの受けたという壮絶な差別の話とか聞かされると、「おまえらのほうこそなんなん?」ってなるわけ。日本の女性問題のことを叩く前に、ご自分の足許も見なさいよみたいな水掛け論的になってしまうではないか。だいいち欧州の人種差別は、米国よりもさらに根が深い。ユダヤ人なんか典型的な例ですね。いや、島国の日本人こそ、そういう差別意識にもっとも疎くて、そもそも社会に差別意識があることすら意識していない。こういうのを systemic discrimination って言うんですが、たしかにこの点は日本人はおおいに反省すべきかと思う。

 しかしこうも言える。そもそもだれしもなにかしらの「差別」意識は持っているもの。でも人は変われる生き物でもある。そのために意見を言い合うのはおおいにけっこうなことだと思うし、少なくとも自分の内面にそういう差別意識や差別感情があることに気づくだけでも精神的な成長になると思う。バナナマンさんが CM で言ってるでしょ? 「人間は迷う。まちがえる。だから愛おしい」って。行動経済学界隈では、行動経済学的にカンペキな人間のことをなんか「エコノ」って言うらしいけれども、そんな人なんているわけないし、べつに目指すべきでもないでしょう。大切なのは、「二度とおなじ失敗を繰り返さないこと」のほう。これだけで人はじゅうぶん、生きていけると思う。

 そういえば、今年の芥川賞に決まった『推し、燃ゆ』。作者はなんと沼津市出身の女子大生だそうで、まずは御同慶の至りです。でも「推し」という言い方、通常はどこか「差別的」に用いている人もけっこういるんじゃないかって気がする。Otaku とおなじで。しかしながら思うんですけど、そういうものを持っている人のほうが、いざとなったら精神的に強いような気がする。今日、やっと作品全文が掲載された「文藝春秋」買ったので(遅 !!)、ちょっと仕事もヒマになったことだしこれから読むところなんですが、選考委員のひとりの選評がとくに心に残りましたね。
『推し、燃ゆ』の主人公は、…… わたしなどにとっては …… 正直なところ、まあ異星人のようなものである。自分の部屋に「推し」の「祭壇」を作ることが救いになる、それが生活の「背骨」になるといった心のメカニズムにしても、一応知的に理解はしても、何一つ共感するところがない。
 にもかかわらず、リズム感の良い文章を読み進めて、その救いの喪失が語られ、引退した「推し」の住むマンションを主人公が未練がましく見に行くあたりまで来て、不意にじわりと目頭が熱くなってしまったのは、いったいどういうわけなのか。共感とも感情移入ともまったく無縁な心の震えに、自分でも途惑わざるをえなかった。主人公の嗜好も生活感情も世界との違和感も、ごく特殊なものでありながら、宇佐見氏の的確な筆遣いによって、どこか人間性の普遍に届いているからだろう。

 こういうのもりっぱに普遍的テーマたりえる、ということの証左のような寸評だと思ったしだい。こういう「色」のついた、一見、クダラナイとさえ思われている「ことば」は、一般の人がそれと気づいてないだけでじつは人を生かすパワーが宿っていると思う。そういういわれなき差別を一方的に受けてきた「ことば」がほんらい持っている力をぞんぶんに発揮できる、そんな書き方のできる物書きというのはつくづく幸せだと思うし、こういう物語がいま、もっとも求められているのかもしれない。

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2021年01月31日

バッハは名アレンジャー

 先週の「古楽の楽しみ」、バッハ好きにはたまらん特集でした。仕事の切れ目が朝になったり夜になったりで毎朝聴取できてないとはいえ、一連の「ブランデンブルク協奏曲」を聴き、案内役の加藤拓未先生のお話に耳を傾けていると、やっぱりバッハという人は稀代の名アレンジャーだったんだな、という思いを強くしたしだい。

 これは前にも書いたことで、もはや何番煎じかもわからないけれども、翻訳ってよく演奏行為にたとえられます。しかし、どっちかと言えば翻訳は「編曲」つまりアレンジに近い。「ヨコのものをタテにする」っていう言い方がかつてはありましたが、編曲という行為の場合、原曲(オリジナル言語)があり、それをべつの楽器やべつの編成(ターゲット言語)に変更して「改作」するのだから、まさしく翻訳そのものです。編曲=翻訳ととらえれば、さしずめバッハは歴史に残る名翻訳家だと言えます。

 そして、翻訳者に求められる資質とアレンジャーに求められる資質というのもまたよく似ている気がする。まず研究熱心であること。これは分野問わずアートな仕事に関わっている人にはすべて当てはまるだろうが、こと外国語で書かれ、異国の文化から発信されたテキストを日本語に翻訳するのは「〜の公式」みたいに機械的になにかの原理や公式を当てはめてハイ一丁上がり、なんてことにはぜったいにならない。まずもって目の前に広げた原書なり、Web 上の英文なりの「背景」を知らないと話にならない。知らなければ、学習しなければならない。これが嫌いな人は翻訳者に向いてない。たとえばいきなり「グノーシス」だの、「デミウルゴス」がどうのこうの、果ては「イーアイ・イーアイ・オー」とかがなんの前触れもなく出てくるかもしれない(最後の例は、たまたまいま読んでる哲学者ダニエル・デネットの最新の著作にホントに出てくる)。

 編曲もまさにそう。1714 年ごろ、バッハは当時仕えていたザクセン=ヴァイマール公国領主の 14 歳(!)だった甥っ子ヨハン・エルンスト公に、ヴィヴァルディとかの当時最新のイタリア音楽様式で書かれた「コンチェルト・グロッソ」を編曲するよう依頼され、さらにまたヨハン・エルンスト自身の作品も編曲するよう仰せつかった。で、ヨハン・エルンストが所望したのは、「これらの協奏曲を、すべてオルガン1台で弾けるようにすること」だった。

 バッハがどんな気持ちでこの依頼を引き受けたかはまったく妄想するほかないが、自分がもっとも得意とする楽器のために編曲せよ、というのはもう仕事というよりホビーに近かっただろうと思う。バッハは少年時代から、他人の作品の研究が大好きな人間で、しかもこんどはヨハン・エルンストじきじきに留学先のオランダから持ち帰ってきた、当時最新のイタリア様式の楽曲の出版譜が目の前にあったのだから。仕事として依頼を受けなくてもみずから率先してオルガン用編曲(BWV592 〜 597)に取りかかっていたはずです。若き巨匠バッハにとって、ヴィヴァルディらの楽譜はまさに「宝の山」であり、オルガン用にアレンジして過ごした時間は、文字どおり「至福のひととき」だったにちがいない。

 じっさい、そんなバッハの「ワクワク感」は、一連の「オルガン協奏曲」を聴くこちらにもビシバシ伝わってくる。バッハの音楽スタイルに、あらたな生命が宿ったその瞬間に立ち会っている錯覚さえおぼえる。有名な「小フーガ BWV578」など、バッハははたち前後から、それまで猛烈に影響を受けていた北ドイツの幻想様式を脱皮して、「朗々と旋律線を歌わせる」、音楽学者ハインリッヒ・ベッセラーの言う「歌唱的ポリフォニー」へと大きく変化していった。この「イタリア音楽編曲体験」も、そんな時期のバッハと重なっている。結果的に、後年のバッハの音楽スタイルは北ドイツ・南ドイツ・フランス・イタリアと当時の欧州大陸の音楽の流れが注ぎ込む「海」のような独特な混淆様式になっていった。加えて、最晩年にはパレストリーナやフレスコバルディなどの古様式研究の成果も反映された巨大な楽曲群(「フーガの技法 BWV1080」、「音楽の捧げもの BWV1079」、「ミサ曲ロ短調 BWV232」、「14 のカノン BWV1087」など)も生み出されることになる。だからダジャレ好きだったらしいベートーヴェンが、「バッハは小川ではなくて大海」と言ったのは、正直な気持ちの吐露だったのだろう。

 バッハの「編曲好き」はヨハン・エルンストによってもたらされた「イタリア体験」後もすさまじく、「無伴奏ヴァイオリンパルティータ BWV1006」の前奏曲を「教会カンタータ第 29 番」のシンフォニアに転用しているし、そもそも「ブランデンブルク」じたいがすべて自作の原曲を編曲・改作したもので、番組ではめったに聴けない「初期稿」ヴァージョンにもとづく演奏まで聴けたりと、興味は尽きない。とくに「5番」の第1楽章の有名なチェンバロ独奏パート、初期稿版はたしかに「そっけない」かもしれないが、いやいやどうしてこっちもおもしろいではないか! 「ニジガク」の侑ちゃんではないけれども、「完全にトキメいちゃった」感じ。こういう多様性、規則だらけに見えてもそれを軽々と超越してあらたな音の世界を作り出していくこのいかにもバロック的な生命力、グールドがかつて言ったようなバッハの「運動性」にこそ、バッハの真の魅力があると思う。ジャック・ルーシェ・トリオがあれだけかけ離れたスタイルで演奏してもやっぱりバッハはバッハでしっかり響いてくる理由も、このバッハならではのヴァイタリティにあるように思うし、それをもたらしたのは、ほかならぬバッハの研究熱心さ、そして一連の「編曲(=翻訳)」作業にあったように思う。有名なマルチェッロの「オーボエ協奏曲」や、そしてなんと! ペルゴレージの「悲しみの聖母(スターバト・マーテル)」まで、バッハは編曲しているのですぞ(BWV1083、前者はチェンバロ独奏用、後者はドイツ語歌詞によるモテットに編曲している)。

 バッハが 21 世紀に生きていたら、まちがいなく偉大なアレンジャーになったでしょうね。いまは Mac 系ではおなじみの「GarageBand」という DTM ソフトウェアもあるし、楽譜作成では「Sibelius」などのソフトウェアもある。もちろん無料の DTM ソフトウェアや素材もたくさんあるし、バッハがいま生きていたらいったいどんな音楽を作って、聴かせてくれたのだろうかと考えるだけでも楽しい(↓は、BWV592 の演奏クリップ)。



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2020年12月30日

「絶対悪」が支配する世界にしてはならぬ

 ようやく仕事にひと区切りつきそうになって、ヤレヤレというか、とにかく肩が痛いです(以前はこんなことなかったのに、トシですかね……)。

 翻訳専業になって、というか、実績的にはまだまだ駆け出しで収入的にもちっともペイしていないとはいえ、自分はまだ恵まれているほうなのだろうと感じています。ヘタの横好きだろうとなんのと言われようが、好きなことを仕事にできているのだから …… たとえ修正を求める校正や編集者からシツコク拙訳原稿が突っ返されても、そのために食うための仕事の予定が狂わされても(書籍翻訳の場合、印税制だろうと買い切り制だろうと、当たり前だが本が出ないことには当方には一円もカネは落ちない)、あまり文句は言えまい。

 そんなこんなで半年ほど過ごしてきたら、あっという間にもう年末。しかも今年は文字どおりの annus horribilis で、ここまで COVID-19 が全世界を席巻し、目には見えない暗闇で覆い尽くすとは思わなかった。

 それでもなんとかかんとか、大きな天災もなく、もちろんコロ助に感染もせずになんとか仕事を続けてこられただけでも、ご先祖さまをはじめとして、感謝しなくてはならない。とはいえ、コロ助のせいで墓参にも行けてない …… これはさすがに申し訳なく、悲しく思っている(ちなみにワタシのご先祖さまには、米国ポートランドへ「密航」して一旗揚げようとしたスゴイ方がおります。当時の西伊豆はいまの沼津市井田地区のような「アメリカ村」があって、「あめりか屋」という屋号の家は例外なく、明治から大正時代にかけてかの地へ聖ブレンダンのごとく船出していった冒険者を出している)。

 新型コロナ関連ではこの前、ここで橋幸夫さんのコラムについて取り上げたりしましたが、いちばん心に刺さったというか印象深かったのは、英女王陛下のクリスマスメッセージでしたね。もっとも印象的なフレーズはすでに既訳がいくつもあるので、たまには女王陛下のオリジナルのメッセージをじっくり味わうのも一興でしょう(ン? だれです、訳すのがメンドくさかっただけだろなんて心ないこと言うのは。ええ、たしかにそれはある。来る日も来る日も〆切を意識しつつノート PC のキーボードを叩き、細かい活字や辞書類を見ながら翻訳作業に追われれば、いくら好きでもさすがに精神的にボロボロにもなりますわ。出典元はここ、太字強調は引用者)。
Of course, for many, this time of year will be tinged with sadness: some mourning the loss of those dear to them, and others missing friends and family members distanced for safety, when all they'd really want for Christmas is a simple hug or a squeeze of the hand, If you are among them, you are not alone, and let me assure you of my thoughts and prayers.

..... “Let the light of Christmas, the spirit of selflessness, love and above all hope, guide us in the times ahead...... We continue to be inspired by the kindness of strangers and draw comfort that − even on the darkest nights − there is hope in the new dawn,
すべての人がクリスマスに心から願うのは、ただハグしたり、手を握り締めてくれることなのに」…… 新型コロナウイルス感染症をもっとも警戒しなくてはならないご高齢( 94 歳ですぞ!)の方から、こんな忝ないおことばをいただいたら、だれだってハッとして胸に手を当てるはずですよ。この期におよんでま〜〜だマスクなんてヤダとかダダこねてる欧米人に日本人よ、「目を覚ませ!」と、呼ぶ声が聞こえる(もちろんバッハの有名なオルガンコラールを思い浮かべながら)。

 ……というわけで、ほんとならば東京五輪の興奮冷めやらぬはずだったのに、激しい憤りと悲しみにまみれた 2020 年もおしまいです(なにに怒ったかって? いろいろあるけど、最近、とくにハラが立ったのは、「選挙はトランプが勝つ。米メディアの予想なんてアテになるもんか」と公共の電波でタンカを切ってその後、いっさいの釈明もせずケロっと忘れていらっしゃるらしい元 NHK キャスターの方。そろそろ引き際じゃないですかね? ほら「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」って言うじゃない?)。

 この仕事するようになってすっかり生活が夜型になってしまい(その前は朝2時半起きの超朝型で、出勤途中で朝陽に染まる富士山とか見ていたのに)、新聞配達の方が朝刊を新聞受けにいれるとほぼ同時に速攻でそれを取り出すんですが、こっちも重くなってきたまぶたをこじ開けて、「はへ? ラテ欄、いつ最終面に変わったんだ?」なんてぴろっと一面見たらなんとなんと○日新聞じゃないですかぁ ?! ウチは静岡のローカル紙だっちゅうの。すぐ新聞屋さんに電話して、駆けつけてくれたおじさんに誤配された朝刊を返そうとしたら、「差し上げますから、ぜひお読みになって……」と。かくして、誤配された朝刊とこっちが読みたかったほうの朝刊とふたつもらってしまった。できれば「東京新聞」を入れてくれればよかったかなん、とかバカなこと考えつつ、さっそく誤配朝刊にも目を通した。

 すると、元外交官で評論家の佐藤優氏の「核といのちを考える:核禁条約発効へ」というインタビュー記事に目が吸い寄せられた。佐藤氏は数か月前、「ラジオ深夜便」にてたいへん興味深く、示唆に富むお話をされていたし、かつての『ユダの福音書』騒動のときも初期キリスト教とグノーシスについて的確に指摘されていたのが印象に残っていた(というか、「深夜便」でも話されていたように、大学は神学部のご出身なんですよね。どうりでお詳しいわけです。こういう人が日本には少なすぎる。だからとくにキリスト教など宗教がらみの話になると、とたんに頓狂なこと言い出す人が出てくる)。

 日本は被爆国でありながら、核兵器禁止条約にはなぜか参加しなかった。物理的に核兵器をなくしていこうという動きはきわめて重要な一歩であり、日本はオブザーバー的立ち位置でもよいから、とにかく行動を、という佐藤氏の主張は説得力があります。なかでも開口一番、「核兵器は絶対悪と言っていい」という一文。Couldn't agree more! でしたね。ワタシはそもそも相対主義者で、たとえばスウェーデンの例の少女の言動とか見てるとなんかお尻のあたりがモゾモゾしたりするんですが、核兵器に関しては「絶対悪」でぜったいまちがいない。新型コロナ対策にしてもそうだが、ほんとうに医療従事者に拍手を贈りたいのなら、まずもってあなたが生活を見直すしかない。マスクもしないで忘年会? それせいでだれかが死んだら? 世の中にはぜったい守るべき最低限のことが突如として現れる場合がある。いまがそう。できることをしっかり実行したうえで罹患するのはしかたないことで、だれも責めたりはしない。しかしそうでない場合は …… その限りではないでしょう。日本だけでなく、どこだってそうずら。ってオラは思う。来年、五輪大会ができるかどうか、まったく未知数ではあるが …… それでも、ワクチンは年内に開発できた。希望はまだあると思いたい。以下、佐藤氏の発言を引用しておきます。
「シニシズムに陥ってはいけない。……あるタイミングで、すっとできる時がある。歴史の一種のめぐり合わせがあるんです。時の印を絶対に捉え損ねてはいけないと思うんですよ。あきらめてはいけないんですね、絶対に」
…… 来年こそ、"annus mirabilis" となりますよう祈りつつ。

タグ:佐藤優
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2020年12月06日

たまにはイジワル爺さんみたいにツッコんでみた話

 いまさっき NHK-FM で「N響演奏会」ライヴやってまして、プログラムはショスタコーヴィチの「5番」とか、伊福部昭の「日本狂詩曲」とか。とくにこの「日本狂詩曲」は昭和のはじめ、米国の指揮者ファビエン・セヴィツキーからの依頼で書き上げて、向こうで初演したら大喝采で作曲コンクールでも賞をとったというのだからある意味すごい逸話付きの作品。で、日本人のくせして日本人作曲家の作品をロクに聴いてこなかったワタシも訳出作業を進めつつはじめて聴いて、日本の伝統的な打楽器を効果的に多用した特有の「作品世界」というか、お囃子の「ノリ」みたいな作風に感嘆したのでありました。

 で、当然、ゲストの音楽評論家先生もそんな感想を述べられてまして、その流れでこんなこと言ってました。「… こういう音楽を聴くと、やはり自分も日本人なんだなァと思いました。こんな音楽を書けるのは日本人しかいない。どうだ、日本人もすごいだろう、と ……」。

 聖ヨハネス・クリュソストモス、またの名「金口イオアン」は「かくして悪魔はこっそりと街に入り火をつける、ありとあらゆる悪意に満ちた歌でいっぱいの、堕落した音楽によって ! 」と警句を吐いていたりする。おらが同胞の音楽の、しかも生演奏の大迫力に圧倒され心奪われたその心情をすなおに吐露する、のはまことけっこうなことながら、同時に危険でもある。音楽にはこういう「悪魔的力」があるのもまた事実だし、さきごろ放送の終わった古関裕而の半生を描いた朝ドラにも、そんな音楽のもつ「負の側面」が描かれていたようにも思えるが、このすなおな心情の吐露にはべつの問題もある──「こんな音楽を書けるのは日本人しかいない」

 こういう発言を耳にして、だいぶ前にここで書いたことをいま一度、引っ張り出したくなった。それはオルガニストの松居直美さんがドイツ留学していたときに、地元のご老人にこう断定されてしまったというこぼれ話──「日本人に、ドイツ・オルガンコラールの演奏はできない」。

 伊福部作品を聴いて感激して思わず口にした発言と、松井さんがドイツ人に言われたことは、じつはまったくおんなじコインの裏と表だ。不肖ワタシはこれ聞いた瞬間、「んなわけない!」って口走っていた。前にも書いたが、米国から日本にやってきて日本人顔負けの尺八演奏家になった人はいるし、お茶のソムリエだったかそういう仕事に就いているフランス人もいる。ガイジンだからとか日本人だからとか「そんなの関係ねぇ」のであります。ややもすれば誤解を招きかねない発言じゃないかって思う。

 もっとも、問題発言ということだったら、またしても亡霊のごとく「NHKの教育(Eテレね)の電波帯を売却しろ」とかなんとか、またそんなアホなこと言ってる人が出てきたりで、ただでさえコロナで鬱々としているところに追い打ちかけられるような気がしてほんとイヤになってくる。

 …… なんて悶々としていたら、そのあとの「鍵盤のつばさ」はなんと! オルガンの話じゃありませんか !! NHKホールのシュッケオルガンの響きもホントひさしぶりに聴けて、うれしかった。プリンツィパール管の積み重ね(8’+4’+2’ のストップを重ねる基本技)から、フルート管族やリード管族との音色の比較や3度管、5度管といった音質そのものを変えるミューテーションストップを同時に使用して鳴らしたりと、オルガン初心者にもじゅうぶん楽しめる内容だったんじゃないでしょうか。MC の作曲家先生「初の」オルガン曲も「初演」されて御同慶の至りではありますが …… なんかトゥルヌミールかメシアンばりの作風でしたね。デジャヴュ感ありあり。

 …… でも、MC の作曲家先生がオルガンのリード管の音色を何度も「オバちゃん」呼ばわりするのは、喩えだからとはいえ、いくらなんでも女性オルガニストのゲストを前に失礼ですぞ。

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2020年11月30日

橋幸夫さんの「名文」に思うこと

 まず、↓ の文章をご覧ください。
…… 少し前の話ですが、あのトランプ大統領の新型コロナ感染のニュースには驚きました。世界中がコロナに悩む中、私も四苦八苦しながら何とか感染から逃れてきました。
 皆が早く以前の生活に戻ってほしいと祈る中、「自分だけは大丈夫」と思ったのか、マスクすら着けずに※ 強がりを続けていたトランプさん。やはり対策を軽視していたのではないかと思わざるを得ません。退院後の大統領の発言や行動に、どれだけの人が納得できたでしょうか。
 ……コロナの恐ろしさは、何と言っても目に見えず、えたいも分からないところにあります。誰が感染者なのか全く分からないこの恐怖感。私なりに生意気を言わせてもらえば、人類全てがこの地球という星の大変化と、何らかの大転換期に「気づきなさい」と何者かに言われているように思えるのです。……

 これは 10 月、地元紙夕刊に掲載された、3か月ごとに交代する持ち回り担当の身辺雑記的コラムでして、書いたのはあの国民的歌手の橋幸夫さん。いまちょっと調べたら、けっこう本を上梓しているんですね。まっさん(さだまさしさん)みたいだ。あいにく芸能関係の人の書いた本っていままでまったくといっていいほど興味関心がなくて、橋さんの著書も読んだことないんですけれども、なんかひさしぶりに読んで気分がスッキリしたというか、読後感のなんと爽やかな日本語だろうと思ったんですけれども、みなさんはどうでしょうか。

 これは折に触れここで何度も言っていることの何番煎じになるけれども、だれしも「ついーと」できるようになってからというもの、こういう配慮の利いた、読んで気持ちのいい文章ってめっきり少なくなったと感じている。いちおうコレでも人さまの書いた横文字の文章をせっせとタテに直している稼業の人なので、昨今の SNS での断定調の垂れ流しなんか見ていると、だれもが「人さまに読んでもらうための書き方」なんてまるで考えてない文章をバチャバチャ打ち込んで投稿するという行為をなんとも思わなくなって、感覚麻痺を起こしてるんじゃないかっていつも感じている。なのでよけいにこういう文章に出会ったときの喜びは大きくて、陳腐な比喩ながら、「砂漠のど真ん中でオアシス」を見つけたような気持ちにさえなる。もっとも日本語文章のプロ、たとえば校正の人が見たら直したくなる箇所もないわけではなかろう、とは思うが(個人的な話で恐縮だが、いまある本をまるまる一冊下訳していて、めちゃくちゃに直しを入れられてときおり滅入ったりしている。正しい日本語で書く、という行為がいかにタイヘンかをいまさらながら痛飲、じゃなくて、痛感しているところ)、以上を踏まえてこの橋さんのコラムを読むと、ワタシはまちがいなくこれは「名文」だと思う。

 ひるがえってじゃあワタシはどうなんだろ、となると、たとえばここでも書きなぐっていて、そうでないところでもライターとして文章を publish してきた身としてはなはだ心許ないが、せめて橋さんみたいな「配慮の行き届いた」日本語文の書き手になろう、とひそかに決意したしだい。

余談:橋さんも書かれているように、今年はほんとうにとんでもないウイルスに翻弄されてきた感があるけれど、そんな年ならではの「新語」も登場したり …… たとえば "covidiot"。英語のわかる人が見ればハハンそうかみたいなカバン語で、co(vid19)に idiotをくっつけた単語。使われる場面としては、たとえば橋さんが書いていたように、マスク着用すべき人が着用すべき場面で平然としていない、そういう人を揶揄した言い方。新語つながりでは、つい最近の地元紙に載っていた "sober curious"。こっちはまったく知らなかったから、とても参考になりました。その記事によると、この単語は「ファッションブロガーや自己啓発の指導者が脱アルコールを先端の生活スタイルとして発信。ソーバーキュリアスは米英発の現象として日本でも紹介され始めている」んだそうな。

 下世話な想像ながら、いつぞやの「Twitter 教」を日本で布教した輩みたいに、こっちも我先とばかり飛びついてひと儲けしようなんてもくろんでいる手合いがさっそくいるかもね。ま、勝手にどうぞ。

 ヘンなオチになってしまったので、お口直しにふたたび橋さんの名調子に再登場してもらいましょう。本日の地元紙夕刊に掲載されていたコラムから、結びの部分を引いておきます。
私は今年、芸能生活60周年を迎えました。その記念曲として「恋せよカトリーヌ」というラブソングと「この世のおまけ」の2曲を発表しました。人を愛することのすてきさと、熟年を超えた私たちの人生は「おまけ」なんですよ、考え方次第で明るくも楽しくもなりますよ──。そんな歌を元気に歌える自分に感謝しながら楽しく過ごしています。皆さんも暗くならずにお元気で。また来週。

※ …… マスクの効用について、たとえば専門家はこういう発言をしてますが、スーパーコンピューターなどの試算やその他の研究により、使い捨てマスクも含めたマスクの絶大な効用はすでに明らか。なんせワタシなんか、べつに対人恐怖とかじゃないけれども、退職するまでいた職場の都合上、暑かろうが寒かろうが年中、通勤の行き来にもマスクを着用しつづけてきたし、そのせいなのか、風邪もひかなくなった。マスクするのがクセになっているので、欧米人はともかくこのご時世になってもなお「マスクするのがイヤ」とかまず信じられないし、だいいち医療現場で身を挺して働いているエッシェンシャルワーカーの方に失礼だと思わないのか。

タグ:橋幸夫
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2020年10月31日

「輝き」から「トキメキ」へ

 沼津市内浦地区を舞台にしたTVアニメ作品『ラブライブ! サンシャイン!!』も、今年ではや5周年。で、声優さんたちのユニットもまだまだ活動中で、つい最近もベストアルバム盤が出たりと、コロナ禍でさんざんな一年という印象はあるけれども、こちらのパワーはあいかわらず健在です。

 そしてちょうど昨年のいまごろ、ここで告知した初の著作の拙小冊子も、なんとかぶじに発売1周年を迎えることになりました。あいにく3箇所ほどポカミス(タイポ、誤植)が残ってはいるんですが、読んで気にならないていどであることと、原稿を贈呈用の紙の本として組み直してそのままなので、Kindle 本の体裁にもどす時間がとれないということもあり、改訂版を出す予定はいまのところありません。ただその後、劇場版ムックを買いまして、その本にこのシリーズ監督の酒井和男氏がロケハンのエピソードをコメントしたくだりに「物語の舞台は当初、伊豆大島(!)を考えていた」ということを明かされていて、こういう追加情報はおいおい、入れておきたいとも考えてはいます。

 Aqours の活躍した『サンシャイン!!』とその集大成たる劇場版の強烈な印象はまだ残ってはいるものの、『ラブライブ!』シリーズ最新作の TV アニメ版も気になってはいたから、しっかり第1話から観ています …… まず思ったのは、アニメーションの絵柄というか色彩そのものがすごく透明感があり、「『サンシャイン!!』よりさらに進化」しているように思えたこと(これは TV 受像機を昨年、新調したせいもあるかもしれないが)。パステル画っぽい感じなんですが、出だしの優木せつ菜のド派手なライヴを演出する「火炎」とか、透明感がありながらあたかもホンモノの火炎が噴出しているかのような迫真の描写にまず引き込まれた。 CG もいまや3D 主体ですからね〜、技術的には前作から5年も経っていれば、そりゃ変わりますよね。

 放映開始から5話まで観た感想をひとことで言えば、「ああ、『ラブライブ!』そして『サンシャイン!!』で作品の土台となっているメタテーマの DNA は今回もしっかり受け継がれている」に尽きるかな。こちらはもともとリズムゲーム系から始まったユニットなので、TV アニメ放映が始まるまでイマイチ実感が湧かなかったんですけど、いざ始まってみればこの『ラブライブ!』シリーズが終始一貫、訴えてきたことがアレンジされつつも立ち現れていてまずはなにより。それは拙小冊子でも書いたように「教養小説」的であり、究極的には「アートとはなにか、人はどう生きればよいか」に通じるエートスだ。

 とくにそれをつよく印象付けられたのが、第3話。生徒会長なんだけどこっそり(?)スクールアイドル活動をつづけていた優木せつ菜が、自分の大好きを通そうとしたあげく仲間と衝突し、自分がいなくなれば残った仲間はスクールアイドルの最高のステージ、すなわち「ラブライブ!」の大会に出場できる、と思っていた。ところがまったく思いがけないことばを、自分のパフォーマンスを見て「完全にトキメいた」高咲侑からかけられる:「だったら、『ラブライブ!』なんて出なくていい!」

 このシーンを観たとき、思わず快哉を叫んでいる自分がいた。ここがこのシリーズのいいところだと思う。μ's のころはまだ「ラブライブ!」という大会じたいが始まったばかりだったし、Aqours の高海千歌がそこに自分たちの目指す「輝き」があると信じて疑わなかったのも理解できる。でも、前作の劇場版までしっかり観た人ははっきり悟ったはずだ──とくにライバルの姉妹ユニット Saint Snow と Aqours の「『ラブライブ!』決勝延長戦」のシーンと、それを目の当たりにしたことで「ほんとうに大切なこととはなにか」に深い気づきを得た渡辺月の科白に。思うに、人の心を動かす、あるいは感動させるということは、なにかの大会に出るとか優勝するとか、そういうものとは本質的にいっさい関係ない。そういう外面的なものすべてを超越するものなのだ。アリストテレスばりの三段論法でもこれは証明できる。前にも引用したけれども重複も顧みずいま一度、月ちゃんの名科白を引くと、
…… 楽しむこと。みんなは、本気でスクールアイドルをやって心から楽しんでた。ぼくたちも、本気にならなくちゃダメなんだ。そのことをAqoursが、Saint Snowが気づかせてくれたんだよ

 ほんとうに好きなことを貫き通すってなかなかできないことです。でももし、それをあなたが持っているんなら、きのうが命日だったジョーゼフ・キャンベルが述べたように、それがもたらす「至福を追い求めよ」。それはアーサー王伝承群のひとつ『聖杯の探索』にもあるように、「森の中へ、ひとりはこちら、ひとりはあちらと、森がいっそう深そうな方へ、道も小径もないところへと出発(天沢退二郎訳)」することだ。ワタシがこのアニメシリーズを好きになったのも、こういう点がしっかり描かれているからだ。さらに言えば、このシリーズは「音楽」が主役でもある。これはやはり作詞家の腕の冴えに拠るところがきわめて大きいと思うが、Aqours にしても「ニジガク」のスクールアイドル同好会にしても、その歌われる内容の深さといいスケールの大きさといい、はっきり言ってコレはもう「アニソン」なんかじゃない。皮相なジャンルわけというものを完全に破壊し、超越していると思う。そしてジェイムズ・ジョイスをはじめおしなべて「真のアート」と呼べる芸術分野は例外なく、こういう勝手な腑分けや分類の枠組みをこっぱみじんに粉砕する。そういうアートのみが、ほんとうの意味で生きるということ、ほんとうの「輝き」や「ときめき」を生む永遠の生命の泉なのだ。

 もっともこれはアニメ作品なので、そんなに肩肘張らんでも、という声もあるだろうし、それはそれでいいんです。本だってどう読もうが個人の自由だし。ただこのシリーズに関して言いたいのは、けっして「スポ根もの」なんかじゃないってこと。それは誤解もいいところで、もっとも大切なメッセージを理解していない。高海千歌が気づいた「輝き」のありかは自分たちの走ってきたキセキ+自分たちの心のもちようであって、この点ははっきり酒井監督も言及している。高咲侑が優木せつ菜に自分の思いをぶつけて言った科白もまたこの延長線上にある──いちばん大切なことは「ラブライブ!」に出られるかどうかじゃない。あなたがいちばんトキメいて、輝いて、そしていちばん幸福を感じることができるかなのだ。彼女はそのことに直観的に気づいている。

 そして、この思いがけないひとことを受けたせつ菜は、こう返す。「わたしのほんとうのワガママを、大好きを貫いてもいいんですか? …… あなたはいま、自分が思っている以上にすごいことを言ったんですからね! どうなっても知りませんよ!」

 昨今、アートと称して一方的な政治的主張を押しつけてくるもの、ジョイスの用語で言えば「教訓的芸術」がかまびすしいなか、こういう描き方をするアート作品がひとつくらいはあっていいと思う。

2020年10月20日

ベートーヴェンの『田園』推し

 先週末のこの番組、なかなか見応えがありました。今年はまことに運悪く、こういう深刻な事態になってしまったがために、ほんらいならば──広上淳一氏ふうに言えば──「ベートーヴェン先生」の生誕 250 年を盛大にお祝いしていたはずでした。今年はほかにもコープランド(生誕 120 年、没後 30 年)、そして武満徹氏の生誕 90 年でもあります。

 で、これから言うことは番組内でもすでにゲストの高関健氏が述べていることの二番煎じなので、新鮮味はあまりないのだけれども、ワタシも以前から、ハリウッドの映画音楽ももとをたどれば究極的にはベートーヴェンの『交響曲 第6番』、つまり『田園』に行き着くと思っていたので、そうそう、そうなんだよね〜、と安酒のスパークリングワインを呑みながらひとりごちていた。

 バッハ大好き人間ではあるけれど、たまにベートーヴェンの『田園』、『ピアノ協奏曲 第5番《皇帝》』、そして『第9』なんか聴くと、やはり「ベートーヴェンという作曲家は西洋音楽史上最大の革命家」という印象がとても強い。晩年のモーツァルトやハイドンなんかも「フリーランス音楽家」のはしりみたいな言われ方がされるけど、正真正銘、フリーランス作曲家/演奏家のいちばん最初の人はやはりベートーヴェン。それが音楽にいちばんわかりやすいかたちで表現されているのがたとえば超有名な『5番《運命》』だと思うけれども、いやいや、ホンワカしているように見えて『田園』のほうがはるかに斬新だと思うな。この約 20 年後ですよ、あのベルリオーズが『幻想交響曲』を書いたのは。

 ベートーヴェンつながりでは今年の正月、おなじ NHK のベートーヴェンイヤー特番で、名ピアニストのアンドラーシュ・シフさんがベートーヴェンという作曲家のすばらしい点について、こんなことを言ってました:「内面においてつねに前進し、戦い、けっしてあきらめないことです。わたしにとって、ベートーヴェンのもっとも大切な部分はそんなところにあります。英雄性ではなく、内面の温かさ、人間愛です」。そう、この人はただの引っ越し魔ではない !! 

 そういえばだいぶ前、NYT 紙の音楽記事にベートーヴェンの傑作『大フーガ op. 133』のことが取り上げられていて、ベートーヴェン本人の弁として、「なぜ聴衆はほかの楽章ばかり聴きたがるんだ、この xx野郎が!」とかなんとか、怒り心頭だったとか、そんなことが紹介されていて、ホンマかいな、と思ったんですが、興味ある方はこのペダンティックな大作もぜひ聴かれることをワタシからも強くオススメする(この曲は単独で発表されたものではなく、当初は『弦楽四重奏曲 第 13 番 変ロ長調 op. 130』の最終楽章として作曲されている)。ちなみにこの「フーガ」ですが、ふつうならば出だしに主題がデーンと提示されるところですが、主要主題から導かれた前口上的な楽句がひとしきりつづいたあと、30 小節目からようやく開始されます。たいへん複雑、かつ前衛的な対位法作品だったので、人気がなかったのはむりもないこと。

 なにかと不穏で不安な情勢ではあるが、せっかくの秋の夜長だしこういうときこそ記念イヤーのベートーヴェンの気に入った作品を聴き流しつつ、お気に入りの本とか読んで過ごすのって …… それはそれでステキなことじゃない(桜内梨子ふうに)? 

 … アンドラーシュ・シフさんついでに、前出のインタビューでこんなことも言ってましたよ。独り言で済ませておけばいいことまで全世界に拡散させられちゃう昨今の人にとっては耳の痛い「苦言」かもね。
人びとはつまらないことですぐに不満を言います。でも、ベートーヴェンをご覧なさい! 


↓ は、『田園』でいちばん好きな最終楽章の 230 小節過ぎに出てくる、弦楽パートから。



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