児童文学者の松岡享子先生が逝去された。享年 86 歳。謹んでお悔やみ申し上げます。
不肖ワタシが先生のご尊名をはじめて拝見したのは、翻訳の勉強を始めてさほど日が経っていなかったころで、高校を卒業したてのときだったような気がする。いくつか課題に出されたテキストのひとつに『くまのパディントン』シリーズの1作があった。児童文学と言いながらずいぶん凝った(?)言い回しが頻出で、しがない地方のヒヨっこにはなかなか手強かったのを覚えている(テキストには、ディック・フランシスのミステリの冒頭2章なんかもありました)。
『パディントン』シリーズ最大の特徴。それはずばり、英国流のすっとぼけたユーモア表現でしょうか。あと、イディオムの変形技(変奏)がけっこう出てくること。たとえば‘...he had something up his paw’というフレーズ。これはよく使われる慣用表現の‘to have something up one's sleeve’をもじった表現で、sleeve が paw となっているのは、もちろんパディントンがクマの坊やだから。あと、彼の得意技は、相手をジィ〜っとねめつける‘(giving)a hard stare’ですな(というかあのツブラな瞳でそれされてもたいして効果は …… あ、なんかごめんなさい)。
ワタシがそのとき読んだのは、こちらの訳書の原書からの抜き出しでした。psychiatrist/head shrinker/trick cyclist なる語もぽんぽん出てきました。いずれも精神科医のこと。なんで shrinker と言うのかは、「誇大妄想にとり憑かれてぶくぶくに膨らんだオツムを空気を抜くみたいにしてシュ〜っとしぼませる」というイメージから。いずれにしても、駆け出しの翻訳初学者にはまことやっかいで課題提出にずいぶん手間取ったものでした(注:いまみたいにネットも Google も SNS もな〜んもない、テレクラとか個人的に不要不急なサービス全開ゴルフ場亡国論真っ盛りだったバブルに阿呆どもがパラパラと踊らされていた平和ボケ時代の話)。
話戻しまして …… あるとき、図書館で借り出した松岡訳『パディントン』シリーズの1冊と、神保町に当時あった「タトル商会」(!)で入手した原本とを家で突き合わせてまたびっくり。「どうぞこのくまのめんどうをみてやってください おたのみします(Please look after this BEAR. THANK YOU)」と、(子どもの音読にもじゅうぶん耐えられる)達意でみごとな日本語に移された手際の確かさに目が吸い寄せられたのを、あれからウン十年が経過したいまも鮮烈に覚えている。
松岡先生は『パディントン』シリーズの訳者としても高名ながら、翻訳ものではやはり『うさこちゃん』シリーズでしょうね。え? ご存じない? ディック・ブルーナの『ミッフィー』シリーズの翻訳です。何年か前、松岡先生がご健在だったときに一度、なんの番組だったかもう失念して申し訳ないのですが、インタビューかなにかで TV の画面越しにお姿を拝見したことがありました。
『パディントン』原作者のマイケル・ボンド氏、そして『ミッフィー』生みの親ブルーナ氏もとうに鬼籍に入られてしまった。松岡先生の志を継ぐ、若くて才能ある児童文学翻訳者がこれからおおぜい活躍してくれることを祈念してやまない。合掌。
追記:これは「男ことば/女ことば」の問題でもあるのですが、先だって「アタマで考えず、場の流れ(フロー)に身をまかせて行動しよう」と指南するハウツーものっぽいやや毛色の変わった英高級紙の記事を訳したのですが、そこにジェイン・オースティンの代表作のひとつ『エマ』の一節が引用されていた。引用で、しかも邦訳もあるからと図書館で借りてきて確認したのですが …… エマの科白がどうにも読みづらい。NHK のラジオ第1とかでも朗読をやってますが、たとえ手練れの局アナが読んだとしても、ちょっと放送には不向きなのでは、という印象を受けた。「もし」は禁句ながら、もし主人公エマの会話を松岡先生が訳していたら …… きっと目に映る景色はずいぶんと変わっていたことだろう。ちなみにその日本語文庫版の訳者は男性でした。
2022年01月31日
2021年12月31日
おおいに溜飲を下げた話+英語学習本
先日、某経済紙夕刊に、字幕翻訳者の戸田奈津子氏のインタビューが連載されていて、ふだん思っていることをこのような押しも押されぬ第一人者の先生が言ってくれている(remarks about what I think on behalf of me)内容だったので、記事読んだ人にとってはウザイと思われるけれども、ここでもすこし紹介しておきます(一部表記を変えてあります。太字強調は引用者)。
蛇足ながら、新聞記事にはルビ振ってなかったけれども、「要」は「かなめ」と読む。「理」はどうですか、ちゃんと読めますかね? 日本語ネイティヴが日本語を知らず、読めず、書けない[表現できない]のに、どうして「翻訳者になりたい」などと言えるのでしょうか(昨今の女子アナと呼ばれる人たちの言葉遣いはとくにヒドい)。またこれは最近、とくに思うんですが、いくら翻訳のトライアルの要綱に「TOEIC ○○点以上の方」とかってあっても、「クリアしているオラは翻訳ができる」なんて思うのはお門違いもいいところで、トンでもない話。
当たり前って言えば当たり前なんですけれどもどうしてどうして、こと翻訳の話となるとこの「常識」がとたんに通用しなくなるから不思議です。「ワタシは野球一筋でやってきたからプロ入りできる」、「ワタシは音大を出たからプロの音楽家としてやっていける」という言説とおんなじくらいバカげているってことにまず気づいてほしい。
もしほんとうに翻訳、とくに読み物系の英日翻訳をやりたければ、なんでもよいから図書館から訳書を借りてきて、原書と首っ引きで比べ読みするといい。できればその前に、ご自分でもその原書のアタマだけでもよいから訳してみる。できあがったら数日寝かせて、また手を入れる。よし、これで完璧だ、と思って、先達の翻訳書と比べてみる。とたんに彼我の実力の差に愕然とするはずです。
ネット記事、あるいは戸田氏のインタビューを掲載していた経済紙のように、日本の新聞に転載されている記事の邦訳はどうなのか。これはだいぶ前にもここで書いたような記憶があるけれども、ページやスペースの制約上、どうしても要らん情報は端折ることになります。つまり「全訳」ではなくて、「抄訳(thin translation、「薄い翻訳」ジャナイヨ)」です。だからといって、「正しくない!」と糾弾するのは困りもの。そういえば以前、こんなこともあったようですが …… んなこと言ってたらキリないし、だいいち日本の読者がそこまでキッチリ読みたいと思うものでしょうか。新聞を隅から隅まで熟読玩味する人も、いないわけじゃないでしょうけれども。でも、「新聞なんだから、とりあえずそこに何書いてあるのかがわかればそれでいい」って思う人がほとんどではないかしら。
というわけで、先日ここで書いたように、ワタシが手許に置いてある英語学習本をいくつか紹介して、またしても混迷をきわめた 2021 年を締めくくりたいと思います。
❶ 英語正読マニュアル(研究社出版、2000)
アクセントや引用符、コロンやセミコロン、スラッシュ(/)、イタリック体の説明から、大文字・小文字の区別、乗り物の表記のしかた、句読法(パンクチュエーション)、固有名詞や誤用についてなどなど、まさしく「痒いところに手が届く」読み応えありすぎな一冊。「英文を読めた気になっている」英語力に自信のある人向きの本。
もし「中学英語からやり直したい」という人には、『ゼロからわかる英語ベーシック教本』や、また NHK の英会話講師としてカムバック(?)しているこちらの先生のご本もよいと思う。
❷ 日本人の9割が間違える英語表現100(ちくま新書、2017)
これも目からウロコみたいな学習本。お題のとおり、非英語ネイティヴの日本人が間違えやすいところを丁寧に解説してくれる。「“See you again.”を連発する日本人」、「come と go の使い分け(こんな基本もできずに短期留学したい、なんておこがましいかぎり)」、「I'm sorry と Excuse me の使い分け」、「遊びに行くは play ではない」などなど、一読するだけで「正しい英語話者の感覚」の片鱗が会得できようというもの。
以前もここで紹介したこの本と合わせてオススメしておきます。例文つきでもっと手っとり早く読みたい向きには、❸『英語の品格』という新書本はどうでしょう。よく「英語には丁寧な言い方がない」なんてウソぶいてる人がいますが、人間の言語なんだからそんなことはもちろんない、という実例をてんこ盛りの豊富な文例で教えてくれる良書です。
❹ 英語のあや(研究社、2010)
東大の現役の先生であるトム・ガリー氏の本で、雑誌「英語青年」その他媒体に寄稿した文章をまとめたもの。エッセイふうな書き方ながら、「ことばを学ぶと何か」、「初対面の相手に依頼するときに“Will you 〜”はたいへんぶしつけな言い方」、「日本人が書く英文に思わず知らず出てしまう“味”とは」のような、英語と日本語とのはざまを往き来する人なら誰しも思い当たることがコラム仕立てで随所に書かれてあって、コラムを拾い読みするだけでもたいへん参考になる。とくに巻末近くのコラム「外国語学習の害」を読むと、いまはやりの「外国語早期学習」にまつわる論争が、100年以上も前の英国ですでに戦わされていたことのエコーにすぎないことを知る。
え? たったこれだけ? って思ったそこの方。もちろんまだまだ持ってますけれども、以上の本をマジで端から端まで読むだけでも、冗談抜きにウロコ落ちまくること請け合いです。最近、某オークションサイトでさる個人の方から入手した T・H・セイヴァリーというクモ学者(!!)の先生が書き下ろした『翻訳入門(The Art of Translation, 1957)』の日本語版。日本語版刊行からでもすでに半世紀は経過しているというのに、いやもう、開巻早々ビックリした。最終章がなんと、「機械翻訳」なんですぞ !!! しかも英⇔仏語間の翻訳における機械翻訳の未来について書かれてあったんですが、原始的ながらも翻訳者が介在して手を入れればそれなりに使い物になるくらいの訳には仕上がっていたことにほんとうにビックリした。なるほど、こんにちの AI 支援翻訳(いまも MT 翻訳って言うのかな?)の基礎は戦後まもないころにすでにあったのね。
字幕翻訳の話に戻れば、字幕というのはある意味、究極の翻訳だと思う。「科白が正しく訳されてないじゃないか!」とケチつけるような人は、なんてことない、字幕もなにもないオリジナルを気が済むまでご覧になればいいだけの話。もちろん吹き替えに逃げちゃダメですぞ。オリジナルを観るべきです。
【会話先行の英語学習法には疑問】長年、生き馬の目を抜くような業界で第一人者として駆けてきた戸田さんのことばには身に沁みるものがある。
文法は頭が柔らかいうちにしっかり身につけておかないと、後から勉強するのは大変ですよ。会話は後からでも平気。私は学生時代に基礎をやっていたから先が伸びたと思います。会話だけ先にやっても、理屈が分かってなければ絶対に伸びませんよ。難しくなくていいけど、基本となる文法はちゃんとしておかないと、絶対上達しません。
三人称の s を落としたら教養がないと思われる。いくらペラペラしゃべっても、s を落としていたら教養を疑われ、敬意を払ってもらえません。基礎がしっかりできていれば、そういう間違いはしないのです。
【英語以前に、日本語を学ぶ大切さを強調】
最近は若い人が漢字を読めないようで、映画会社は漢字をひらがなに、と言うけど、かなが並ぶと読みにくいのよ。字数は食うわ、昔の電報みたい。たとえば「拉致」ならば瞬間で分かるけど「らち」だと考えちゃう。そういう場合、私は漢字にしてルビを振るの。日本語はほんらい、字幕に向いた言語なんです。一文字で意味が伝わるし、見た目も締まります。字幕の漢字は使いでがありますね。
文部科学省には「英語より先に、まず日本語を勉強させてください」と言いたいです。英会話も仕事で必要なら、死に物狂いでやるべきよ。でも100人が100人英会話をやらなくてもいいけど、日本語は違う。アイデンティティなんだから。なぜそれをおろそかにしているのかわかりません。
英語の原文はアメリカの大衆向けに作られていて、意味を理解することはそんなに問題ではない。どういう日本語に的確に訳すかが一番の要だから、日本語を知らないとダメ。日本語の語彙や言葉のニュアンスを知らないとぜったいにダメ。
蛇足ながら、新聞記事にはルビ振ってなかったけれども、「要」は「かなめ」と読む。「理」はどうですか、ちゃんと読めますかね? 日本語ネイティヴが日本語を知らず、読めず、書けない[表現できない]のに、どうして「翻訳者になりたい」などと言えるのでしょうか(昨今の女子アナと呼ばれる人たちの言葉遣いはとくにヒドい)。またこれは最近、とくに思うんですが、いくら翻訳のトライアルの要綱に「TOEIC ○○点以上の方」とかってあっても、「クリアしているオラは翻訳ができる」なんて思うのはお門違いもいいところで、トンでもない話。
当たり前って言えば当たり前なんですけれどもどうしてどうして、こと翻訳の話となるとこの「常識」がとたんに通用しなくなるから不思議です。「ワタシは野球一筋でやってきたからプロ入りできる」、「ワタシは音大を出たからプロの音楽家としてやっていける」という言説とおんなじくらいバカげているってことにまず気づいてほしい。
もしほんとうに翻訳、とくに読み物系の英日翻訳をやりたければ、なんでもよいから図書館から訳書を借りてきて、原書と首っ引きで比べ読みするといい。できればその前に、ご自分でもその原書のアタマだけでもよいから訳してみる。できあがったら数日寝かせて、また手を入れる。よし、これで完璧だ、と思って、先達の翻訳書と比べてみる。とたんに彼我の実力の差に愕然とするはずです。
ネット記事、あるいは戸田氏のインタビューを掲載していた経済紙のように、日本の新聞に転載されている記事の邦訳はどうなのか。これはだいぶ前にもここで書いたような記憶があるけれども、ページやスペースの制約上、どうしても要らん情報は端折ることになります。つまり「全訳」ではなくて、「抄訳(thin translation、「薄い翻訳」ジャナイヨ)」です。だからといって、「正しくない!」と糾弾するのは困りもの。そういえば以前、こんなこともあったようですが …… んなこと言ってたらキリないし、だいいち日本の読者がそこまでキッチリ読みたいと思うものでしょうか。新聞を隅から隅まで熟読玩味する人も、いないわけじゃないでしょうけれども。でも、「新聞なんだから、とりあえずそこに何書いてあるのかがわかればそれでいい」って思う人がほとんどではないかしら。
というわけで、先日ここで書いたように、ワタシが手許に置いてある英語学習本をいくつか紹介して、またしても混迷をきわめた 2021 年を締めくくりたいと思います。
❶ 英語正読マニュアル(研究社出版、2000)
アクセントや引用符、コロンやセミコロン、スラッシュ(/)、イタリック体の説明から、大文字・小文字の区別、乗り物の表記のしかた、句読法(パンクチュエーション)、固有名詞や誤用についてなどなど、まさしく「痒いところに手が届く」読み応えありすぎな一冊。「英文を読めた気になっている」英語力に自信のある人向きの本。
もし「中学英語からやり直したい」という人には、『ゼロからわかる英語ベーシック教本』や、また NHK の英会話講師としてカムバック(?)しているこちらの先生のご本もよいと思う。
❷ 日本人の9割が間違える英語表現100(ちくま新書、2017)
これも目からウロコみたいな学習本。お題のとおり、非英語ネイティヴの日本人が間違えやすいところを丁寧に解説してくれる。「“See you again.”を連発する日本人」、「come と go の使い分け(こんな基本もできずに短期留学したい、なんておこがましいかぎり)」、「I'm sorry と Excuse me の使い分け」、「遊びに行くは play ではない」などなど、一読するだけで「正しい英語話者の感覚」の片鱗が会得できようというもの。
以前もここで紹介したこの本と合わせてオススメしておきます。例文つきでもっと手っとり早く読みたい向きには、❸『英語の品格』という新書本はどうでしょう。よく「英語には丁寧な言い方がない」なんてウソぶいてる人がいますが、人間の言語なんだからそんなことはもちろんない、という実例をてんこ盛りの豊富な文例で教えてくれる良書です。
❹ 英語のあや(研究社、2010)
東大の現役の先生であるトム・ガリー氏の本で、雑誌「英語青年」その他媒体に寄稿した文章をまとめたもの。エッセイふうな書き方ながら、「ことばを学ぶと何か」、「初対面の相手に依頼するときに“Will you 〜”はたいへんぶしつけな言い方」、「日本人が書く英文に思わず知らず出てしまう“味”とは」のような、英語と日本語とのはざまを往き来する人なら誰しも思い当たることがコラム仕立てで随所に書かれてあって、コラムを拾い読みするだけでもたいへん参考になる。とくに巻末近くのコラム「外国語学習の害」を読むと、いまはやりの「外国語早期学習」にまつわる論争が、100年以上も前の英国ですでに戦わされていたことのエコーにすぎないことを知る。
え? たったこれだけ? って思ったそこの方。もちろんまだまだ持ってますけれども、以上の本をマジで端から端まで読むだけでも、冗談抜きにウロコ落ちまくること請け合いです。最近、某オークションサイトでさる個人の方から入手した T・H・セイヴァリーというクモ学者(!!)の先生が書き下ろした『翻訳入門(The Art of Translation, 1957)』の日本語版。日本語版刊行からでもすでに半世紀は経過しているというのに、いやもう、開巻早々ビックリした。最終章がなんと、「機械翻訳」なんですぞ !!! しかも英⇔仏語間の翻訳における機械翻訳の未来について書かれてあったんですが、原始的ながらも翻訳者が介在して手を入れればそれなりに使い物になるくらいの訳には仕上がっていたことにほんとうにビックリした。なるほど、こんにちの AI 支援翻訳(いまも MT 翻訳って言うのかな?)の基礎は戦後まもないころにすでにあったのね。
字幕翻訳の話に戻れば、字幕というのはある意味、究極の翻訳だと思う。「科白が正しく訳されてないじゃないか!」とケチつけるような人は、なんてことない、字幕もなにもないオリジナルを気が済むまでご覧になればいいだけの話。もちろん吹き替えに逃げちゃダメですぞ。オリジナルを観るべきです。
2021年12月25日
小さき者を想う日
真夏に猛威を振るった COVID-19 デルタ変異株が秋に入って急に下火になり、思う存分手足を伸ばすこともできない、そんな息苦しささえ感じていたひとりとしては正直ホッとひと息つけた気がしていた。けれども、どうやらそれも終わりで、またぞろ実効再生産グラフは上向きになってきた。欧米しかり。そして遅れて日本でも。
今回、個人的に思い知ったのは、このウイルスは水際作戦だけでは勝ち目はないということ。いくらルールを守らない人がいるからとはいえ(とはいえ、こちとらマジメに半径ウン km 以内しか移動していないし、伊豆半島の人間なのに同じ半島にある墓参りも行けてなくて嘆息しているというのに、海外から帰国して言いつけも守らず、フラフラ出歩いて市中感染の原因を作った人に対しては正直怒りを覚える。といってもオラは自粛警察ジャナイヨ、だれだってそう思うのではないかしら。自粛警察というのは、ようするに自分とこに火の粉が降りかかると烈火のごとくイキりだし、ふだんはノホホンと過ごしているような典型的マイホーム主義な人のこと)。いずれにせよ、年明けとともに日本国中に厭戦的雰囲気がいよいよ蔓延し、いわゆる専門家の意見や指示を守らず、「赤信号、みんなで渡れば ……」な手合が堰を切ったように急増しやしないかというのが、もっかいちばんの気がかり。
この感染症の恐ろしいところは、英米で long COVID と呼ばれている、長期にわたる原因不明な後遺症というやっかいきわまりないオマケまでくっついていること。感染しても無症状な人がいる反面(若い芸能関係者にはこの手の人が多かった印象がある)、いつまでもしつこく苦しめられる罹患者もおおぜいいる。だからけっきょく、なんとしても COVID だけは罹患しないようにしないといけない。もっともそれはそれでいいとしても、そのように身構えたまま生活していれば弊害も出てくる。体を動かさなくなったせいで筋力が落ちた、あるいはもっと深刻な場合には「エコノミー症候群」になったり、脚のふくらはぎがパンパンになって静脈瘤(!)ができかかった、とか。もっとも影響が出やすいのは、なんといっても子どもですよね(もちろん高齢者もだが)。事態が長期化しているので、このへんのことも気を配らないといけなかったりで、たしかに厭戦ムードがはびこるのはあるていどしかたないことかとは思う。お気持ちはわかる。
でもいちばん大切なのは、こういうときこそ、他者への想像力が必要だ、ということではないかと、人一倍 self-serving な人間のくせしてそう思ってしまう(偽善者なので)。前にも書いたが、感染症というのは自分が罹患して治ればそれでよし、という病気ではない。全地球を覆っているのは、未知のウイルスによる未知の感染症なんです。それでもいまはワクチンだって曲がりなりにもあるし、特効薬ではないにしても、承認待ちの飲み薬もある(あいにく mRNA ワクチンはブースター接種なるものを打つ必要があるけれども)。
いまだ先の見えない COVID 禍ですが、パンデミックが始まった昨年春、英国の NPO の Nesta がこんな未来予測を出しています。「将来の予測なんてアテになるものか」という気もたしかにするけれども、やはりこの手のものがないといられないのもまた人間の性分なのかもしれない(Nesta は、英国国立科学技術芸術基金を母体とした NPO 法人。科学・技術・芸術における個人および団体による先駆的プロジェクトや、人材育成を支えるイノベーション支援を行っている)。
たとえば「経済」に関しては、こんな「青写真(言い方が古い?)」を描いています。
一連の予測項目はあくまで英国国内のことなので、これらがいちいち日本の事情に当てはまるわけでもない。しかし参考にはなると思う。というか、向こうの人ってホント筋金入りのマスク嫌い、ということがこの1年半のあいだでよくわかった気がする。人種差別の件も含めて。
「一連の予測は推測の域を出ない」と断ってはいるが、「新型コロナウイルス(COVID-19)パンデミックは、世界のありようを根底から恒久的に変えた。向こう数か月、この新型感染症の蔓延を制御できる国があったとしても、政治、経済、社会、テクノロジー、法律、環境の各方面に与えた影響は甚大であり、それは今後数十年にわたって続くだろう」という見立ては、おそらく間違ってないでしょう。
というわけで、なんか暗い話になってしまったが、いみじくもローマカトリックのリーダーがクリスマスイヴのメッセージでこんなことを言ってましたので最後に引用して終わりますね(以下、さる全国紙記事の引用)。
昔、写真評論ものの大部の本を何人かで下訳したとき、福音書の一節がそのまま引用された箇所にぶつかった。たまたまローマ教皇の記事を見て、忘れかけていたそんな記憶も久しぶりに甦りましたね(日本語版聖書の引用は「新共同訳」から)──「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこのもっとも小さい者のひとりにしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(Matt. 25:40)
よきクリスマスと新年を。
今回、個人的に思い知ったのは、このウイルスは水際作戦だけでは勝ち目はないということ。いくらルールを守らない人がいるからとはいえ(とはいえ、こちとらマジメに半径ウン km 以内しか移動していないし、伊豆半島の人間なのに同じ半島にある墓参りも行けてなくて嘆息しているというのに、海外から帰国して言いつけも守らず、フラフラ出歩いて市中感染の原因を作った人に対しては正直怒りを覚える。といってもオラは自粛警察ジャナイヨ、だれだってそう思うのではないかしら。自粛警察というのは、ようするに自分とこに火の粉が降りかかると烈火のごとくイキりだし、ふだんはノホホンと過ごしているような典型的マイホーム主義な人のこと)。いずれにせよ、年明けとともに日本国中に厭戦的雰囲気がいよいよ蔓延し、いわゆる専門家の意見や指示を守らず、「赤信号、みんなで渡れば ……」な手合が堰を切ったように急増しやしないかというのが、もっかいちばんの気がかり。
この感染症の恐ろしいところは、英米で long COVID と呼ばれている、長期にわたる原因不明な後遺症というやっかいきわまりないオマケまでくっついていること。感染しても無症状な人がいる反面(若い芸能関係者にはこの手の人が多かった印象がある)、いつまでもしつこく苦しめられる罹患者もおおぜいいる。だからけっきょく、なんとしても COVID だけは罹患しないようにしないといけない。もっともそれはそれでいいとしても、そのように身構えたまま生活していれば弊害も出てくる。体を動かさなくなったせいで筋力が落ちた、あるいはもっと深刻な場合には「エコノミー症候群」になったり、脚のふくらはぎがパンパンになって静脈瘤(!)ができかかった、とか。もっとも影響が出やすいのは、なんといっても子どもですよね(もちろん高齢者もだが)。事態が長期化しているので、このへんのことも気を配らないといけなかったりで、たしかに厭戦ムードがはびこるのはあるていどしかたないことかとは思う。お気持ちはわかる。
でもいちばん大切なのは、こういうときこそ、他者への想像力が必要だ、ということではないかと、人一倍 self-serving な人間のくせしてそう思ってしまう(偽善者なので)。前にも書いたが、感染症というのは自分が罹患して治ればそれでよし、という病気ではない。全地球を覆っているのは、未知のウイルスによる未知の感染症なんです。それでもいまはワクチンだって曲がりなりにもあるし、特効薬ではないにしても、承認待ちの飲み薬もある(あいにく mRNA ワクチンはブースター接種なるものを打つ必要があるけれども)。
いまだ先の見えない COVID 禍ですが、パンデミックが始まった昨年春、英国の NPO の Nesta がこんな未来予測を出しています。「将来の予測なんてアテになるものか」という気もたしかにするけれども、やはりこの手のものがないといられないのもまた人間の性分なのかもしれない(Nesta は、英国国立科学技術芸術基金を母体とした NPO 法人。科学・技術・芸術における個人および団体による先駆的プロジェクトや、人材育成を支えるイノベーション支援を行っている)。
たとえば「経済」に関しては、こんな「青写真(言い方が古い?)」を描いています。
新型コロナウイルスの世界的流行(パンデミック)が引き起こした不況は、2008年の金融危機よりも深刻な事態を招くだろう。しかもそれは、これまでに経験したような「通例の」不況ではない。多くの国で、考えうるかぎり最悪な不況となり、大量解雇も起こり得る。コロナ以前ではラジカルだと考えられていた財政出動や金融政策がもはや政治や国民的な議論の場で当たり前のように取り沙汰されるようになるだろう。コロナ危機を乗り切った企業も、それまで重視していた事業や商習慣の見直しに着手することになるだろう。それはサプライチェーンの抜本的再編だったり、効率一辺倒から事業の強靭性(レジリエンス)への転換だったりする。この1年で見ても、たとえば急激な「脱炭素化社会」へ舵を切ったかに見える欧州諸国の動きなんかが当てはまりそうな気がします。もっとも「二酸化炭素取引」というカラクリもあったりで、どこまで本気なのかはよくわかりませんが。それでもひとつ言えるのは、島国日本の企業さんたちが手をこまねいている時間はあまり残されてないってことです。ヘタすると 19 世紀末の欧州列強の再来にもなりかねない気がする。興味ある方は一読してみるとよいでしょう。
一連の予測項目はあくまで英国国内のことなので、これらがいちいち日本の事情に当てはまるわけでもない。しかし参考にはなると思う。というか、向こうの人ってホント筋金入りのマスク嫌い、ということがこの1年半のあいだでよくわかった気がする。人種差別の件も含めて。
「一連の予測は推測の域を出ない」と断ってはいるが、「新型コロナウイルス(COVID-19)パンデミックは、世界のありようを根底から恒久的に変えた。向こう数か月、この新型感染症の蔓延を制御できる国があったとしても、政治、経済、社会、テクノロジー、法律、環境の各方面に与えた影響は甚大であり、それは今後数十年にわたって続くだろう」という見立ては、おそらく間違ってないでしょう。
というわけで、なんか暗い話になってしまったが、いみじくもローマカトリックのリーダーがクリスマスイヴのメッセージでこんなことを言ってましたので最後に引用して終わりますね(以下、さる全国紙記事の引用)。
「不平を並べるのはやめよう。(イエスは)われわれに人生の小さなことを見直し、大事にすることを求めている」
昔、写真評論ものの大部の本を何人かで下訳したとき、福音書の一節がそのまま引用された箇所にぶつかった。たまたまローマ教皇の記事を見て、忘れかけていたそんな記憶も久しぶりに甦りましたね(日本語版聖書の引用は「新共同訳」から)──「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこのもっとも小さい者のひとりにしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(Matt. 25:40)
よきクリスマスと新年を。
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2021年11月30日
単数か複数か、可算か不可算か、それが問題だ
先日、ちょっと調べもので Web の海を漂流していたら、「“have a lunch”は間違い !! 正しくは不定冠詞なしの lunch で」とか、「I had a lunch. は特別なランチ!」とか、そんなことを麗々しく掲げた学習(?)サイトに打ち上げられた。
問題は、その説明のしかた。「通常メニューだけどおいしい食事も特別なものとして扱うので冠詞を付けます」みたいなことを書いてあったので、オイオイちょっと待ってくれずら、と。
ようするに「その人にとって特別なランチなら不定冠詞付き、そうでないふつうのランチは無冠詞」とのことなんですが、まさか向こうの人間がそんなこと考え考え発言しているわけもなし。これ、英語における冠詞というものの本質に関わる大問題だと個人的には思ってるので、揚げ足取りみたいにとられるかもしれないが、門外漢でもあえて聞こえるように文句を言う(♪ごはんですよ〜、ダジャレが古すぎてわかんないか)。
ひらたく言えば、これはかつてベストセラーだったこちらの新書本に書いてあるのと言ってることは重複するんですが、こういう言い回しの不定冠詞のある・なしというのは、「発言者にとって印象に残っているかどうか」のサジ加減でしかない。つまり感覚ひとつ。もしその人にとってなんのことないフツーの、取り立ててどうということのないランチならば無冠詞だけれども、「○○の店のランチはうまかった」とか、たまたま印象に残っているからそれはその人にとって意味あるランチになったにすぎない。その微妙な心の動きが、不定冠詞として表に出ただけのこと( lunch、dinner、supper はふつうは無冠詞扱い )。「a が付いているからそれは特別なランチ/食事/ディナー」というわけじゃない。逆だ。このさい特別かどうかはどうだっていい。その人にとって印象に残っているから不定冠詞付きになる。もっとも手許の『ランダムハウス』で確認すると、不定冠詞付きは“a late lunch”、“a business lunch”と修飾語を伴ってもちいられるのが一般的らしい。
でもたとえばある英米人がしゃべっている最中、「アレレ不定冠詞付きにしちゃったけれども、ええいままよ! このまま move on! move on!(cf. 「虹色 Passions!」)」なんて場合だってあります(にんげんだもの)。単数か複数かにしてもそうで、たとえば“There are some people who are doing such and such ...”のはずが、つい“There is some people who are doing such and such ...”ってやっちゃう場合がある(単数複数混在文はわりと見かける)。people はこれだけで複数的に扱われる名詞の代表格ですが、「ある特定の人びと、民族」という概念で口にすれば、ナニナニ+ peoples と複数形になる。このへんが感覚的にわかるようになるまでがけっこうタイヘン。「どこそこの人びとか、指折り数えて言っているのか、そうでないのか」といった感じでしょうかね ……。くだけた調子でズラズラ殴り書きしたようなコメントや書き込みなんかに、とくにそういう崩れた英文が散見される。
だいぶ前にもおんなじこと書いたけれども、冠詞の習得はほんと日本人には最難関で、昔は「前置詞3年、冠詞8年」とかって言われたもの。前置詞や、前置詞を含む句動詞なんかをマスターしても、冠詞の使い方の習得になおこれだけの年月がかかるよ、ということをわかりやすくたとえたもの。前置詞より冠詞習得のほうが長くかかるため、冠詞の使い方がいかに難しいか、ということを表した言い方になります。
で、先述したようなサイトによく引き合いに出されているのが、たとえば“do lunch”。でもこれって「英辞郎」によりますと、なんでも半世紀くらい前のハリウッド起源の、言語史的にはわりと新しい口語表現なんですね。英語も日本語もナマモノには違いない。だってシェイクスピア時代の言い回しでカッコつけたつもりで“good speed”を! なんてだしぬけに言ったら、向こうの人間でもそれと知らなければなんのこっちゃとキョトンとするばかりだろう(意味は“good luck”。そうそう、昔読んだジャック・リッチーの短編ミステリで、“She's expecting.”という言い回しを覚えたもんですが、いまじゃズバリ“She's pregnant.”って言っちゃう世の中でゴザイマス)。
ということなので、老婆心ながらひとこと申し上げたしだい。で、たまたま昨晩の「ラジオ深夜便」で定期的に登場するロバート・キャンベル先生による井上陽水の歌詞を英訳してみよう! 的なコーナーを聴取してまして、個人的にはむしろこちらを聴いていただきたいとも思ったしだい(「らじる☆らじる」アプリ、Web 版ストリーミングサービスでは今週いっぱい聞き逃し配信をしています)。
冠詞のある・なしと肩を並べるのが、「可算名詞の単数・複数」の問題。キャンベル先生は、井上の歌詞の訳詞という作業を通じて、「なぜここは無冠詞でもなく単数でもなく、複数形にしなければならないか」、その理由を懇切丁寧に説明されています。オラなんか感激して、「そうそうコレなんだYO、オラが聞きたかった単数複数問題の説明ってのは! MAN ALIVE !!」ってひとりで勝手にぶっ壊れてたくちです。
もしほんとうに英語という言語の構造、native speakers と呼ばれている英語話者の人がどういう発想で名詞の単数・複数を使い分けているかを知りたいと思ったら、マーク・ピーターセンのような定評ある先生のご本でもいいし、キャンベル先生のご本でもいいから、とにかくそっちを読んだほうが長い目で見ればはるかにマシかと、重ねて申し上げておきます。
後日、今回のことともからめまして、「それじゃオマエはどんな本で英語を学んだのか?」という疑問へのアンサーとなるような、いちおうこれでも英日翻訳者のはしくれとしてオススメして恥ずかしくない英語の学習本を何冊かご紹介したいと思います(以前も散発的に紹介したのかもしれないが)。とりあえずコロ助のこととか書いたあと、年末までには投稿するつもりではおります。
問題は、その説明のしかた。「通常メニューだけどおいしい食事も特別なものとして扱うので冠詞を付けます」みたいなことを書いてあったので、オイオイちょっと待ってくれずら、と。
ようするに「その人にとって特別なランチなら不定冠詞付き、そうでないふつうのランチは無冠詞」とのことなんですが、まさか向こうの人間がそんなこと考え考え発言しているわけもなし。これ、英語における冠詞というものの本質に関わる大問題だと個人的には思ってるので、揚げ足取りみたいにとられるかもしれないが、門外漢でもあえて聞こえるように文句を言う(♪ごはんですよ〜、ダジャレが古すぎてわかんないか)。
ひらたく言えば、これはかつてベストセラーだったこちらの新書本に書いてあるのと言ってることは重複するんですが、こういう言い回しの不定冠詞のある・なしというのは、「発言者にとって印象に残っているかどうか」のサジ加減でしかない。つまり感覚ひとつ。もしその人にとってなんのことないフツーの、取り立ててどうということのないランチならば無冠詞だけれども、「○○の店のランチはうまかった」とか、たまたま印象に残っているからそれはその人にとって意味あるランチになったにすぎない。その微妙な心の動きが、不定冠詞として表に出ただけのこと( lunch、dinner、supper はふつうは無冠詞扱い )。「a が付いているからそれは特別なランチ/食事/ディナー」というわけじゃない。逆だ。このさい特別かどうかはどうだっていい。その人にとって印象に残っているから不定冠詞付きになる。もっとも手許の『ランダムハウス』で確認すると、不定冠詞付きは“a late lunch”、“a business lunch”と修飾語を伴ってもちいられるのが一般的らしい。
でもたとえばある英米人がしゃべっている最中、「アレレ不定冠詞付きにしちゃったけれども、ええいままよ! このまま move on! move on!(cf. 「虹色 Passions!」)」なんて場合だってあります(にんげんだもの)。単数か複数かにしてもそうで、たとえば“There are some people who are doing such and such ...”のはずが、つい“There is some people who are doing such and such ...”ってやっちゃう場合がある(単数複数混在文はわりと見かける)。people はこれだけで複数的に扱われる名詞の代表格ですが、「ある特定の人びと、民族」という概念で口にすれば、ナニナニ+ peoples と複数形になる。このへんが感覚的にわかるようになるまでがけっこうタイヘン。「どこそこの人びとか、指折り数えて言っているのか、そうでないのか」といった感じでしょうかね ……。くだけた調子でズラズラ殴り書きしたようなコメントや書き込みなんかに、とくにそういう崩れた英文が散見される。
And so, to all the other peoples and governments who are watching today, from the grandest capitals to the small village where my father was born, know that America is a friend of each nation, and every man, woman and child who seeks a future of peace and dignity. (オバマ大統領の就任演説から)
ついでに「聖職者(階級)」を意味する clergy も、「ひとりの(男性)聖職者」だったら a clergyman となって、ほんとややこしや。
だいぶ前にもおんなじこと書いたけれども、冠詞の習得はほんと日本人には最難関で、昔は「前置詞3年、冠詞8年」とかって言われたもの。前置詞や、前置詞を含む句動詞なんかをマスターしても、冠詞の使い方の習得になおこれだけの年月がかかるよ、ということをわかりやすくたとえたもの。前置詞より冠詞習得のほうが長くかかるため、冠詞の使い方がいかに難しいか、ということを表した言い方になります。
で、先述したようなサイトによく引き合いに出されているのが、たとえば“do lunch”。でもこれって「英辞郎」によりますと、なんでも半世紀くらい前のハリウッド起源の、言語史的にはわりと新しい口語表現なんですね。英語も日本語もナマモノには違いない。だってシェイクスピア時代の言い回しでカッコつけたつもりで“good speed”を! なんてだしぬけに言ったら、向こうの人間でもそれと知らなければなんのこっちゃとキョトンとするばかりだろう(意味は“good luck”。そうそう、昔読んだジャック・リッチーの短編ミステリで、“She's expecting.”という言い回しを覚えたもんですが、いまじゃズバリ“She's pregnant.”って言っちゃう世の中でゴザイマス)。
ということなので、老婆心ながらひとこと申し上げたしだい。で、たまたま昨晩の「ラジオ深夜便」で定期的に登場するロバート・キャンベル先生による井上陽水の歌詞を英訳してみよう! 的なコーナーを聴取してまして、個人的にはむしろこちらを聴いていただきたいとも思ったしだい(「らじる☆らじる」アプリ、Web 版ストリーミングサービスでは今週いっぱい聞き逃し配信をしています)。
冠詞のある・なしと肩を並べるのが、「可算名詞の単数・複数」の問題。キャンベル先生は、井上の歌詞の訳詞という作業を通じて、「なぜここは無冠詞でもなく単数でもなく、複数形にしなければならないか」、その理由を懇切丁寧に説明されています。オラなんか感激して、「そうそうコレなんだYO、オラが聞きたかった単数複数問題の説明ってのは! MAN ALIVE !!」ってひとりで勝手にぶっ壊れてたくちです。
もしほんとうに英語という言語の構造、native speakers と呼ばれている英語話者の人がどういう発想で名詞の単数・複数を使い分けているかを知りたいと思ったら、マーク・ピーターセンのような定評ある先生のご本でもいいし、キャンベル先生のご本でもいいから、とにかくそっちを読んだほうが長い目で見ればはるかにマシかと、重ねて申し上げておきます。
後日、今回のことともからめまして、「それじゃオマエはどんな本で英語を学んだのか?」という疑問へのアンサーとなるような、いちおうこれでも英日翻訳者のはしくれとしてオススメして恥ずかしくない英語の学習本を何冊かご紹介したいと思います(以前も散発的に紹介したのかもしれないが)。とりあえずコロ助のこととか書いたあと、年末までには投稿するつもりではおります。
2021年10月31日
ハロウィーンの夜に
本題と関係のないマクラ失礼。日本人ってほんと「喉元すぎれば……」な国民性なんだなと、あらためて思う今日このごろ。今夏の新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の大流行が一段落している(ように見える)だけなのに、もうマスクもしないでぷらぷらしている人のなんと多いことか。
気管支喘息とかもそうですが、呼吸器の感染症って、罹患した人でないと肌感覚として恐ろしさがわからない。不幸なのか幸いなのか、ワタシはそういう経験、というかはっきり言ってそれで死にかけた経験をしているので、そーいう人がぷらぷらしていたらまず近づかず、相手の顔が向いてない方向を見てやり過ごすようにしている。自衛が第一。わかんない輩にいくら話して聞かせたところで時間のムダというもの。
ほんとは英国のとあるサイトに「COVID-19 後の世界はこうなる」的な一種の予測を公表したページがあって、そこに書いてあることとかすこしここでも紹介しようかななんて思っていたらいつものごとく時間だけが容赦なく経過(苦笑)。そのことについては近いうちに書こうかと思ってます。
本題。某オークションサイトにお古の TIME 誌出品しようかと思って、久しぶりにパラパラ繰って名文で知られる「エッセイ」を読んだら、W.B.イェイツの有名な「再臨」という詩の引用が出てきた。「しだいに広がる環を描きながら回り/回り続ける鷹に鷹匠の声は届かず/万物は崩れ去り、中心はおのれを維持できない……」という出だしで始まる、黙示的な内容の作品です。ここに引用した訳は、飛田茂雄先生によるもの[ジョーゼフ・キャンベル『生きるよすがとしての神話』角川ソフィア文庫版]。
興味が湧いたので、岩波文庫に収録されている版とかも見たんですが、それにも増して他のイェイツ詩にも心惹かれ、仕事の空き時間とかにゆるりとページを繰って眺めてました。「対訳」形式なので、原文と照合できるようになっているのもすばらしい。アイルランドの激動期をアングロアイリッシュという、「半分英国人、半分アイルランド人」のどっちつかずの境界線上にいたイェイツは、ジョイスとはまた違った意味で波乱に満ちた生涯を送った人と言えると思う。「再臨」をはじめ、当時の政治状況や、イェイツが信奉していたという「2千年周期説」なんかが反映された詩文もいいんですが、個人的にはもっと肩肘張らずに読めるもの、たとえば「落葉」、「選択」、「あなたが年老いるとき」なんかが好ましい。
なにかとかまびすしく、ますます混沌さを増すばかりの世の中、たまにはこの手の作品、つまり詩集を読むのも悪くない、と思ったしだい。英詩特有の韻を踏む形式にすこしは慣れるだろうし、いちばん大きいのは勉強になること。自分も手許に英国人の友人からかつていただいた、第一次世界大戦で夭折した詩人ルパート・ブルックの「グランチェスターの古い牧師館(The Old Vicarage, Grantchester)」という詩の冊子があって、いつかこれ訳したいなぁと思いつづけてはやウン年になるので、ちょうどよかったかも。
カンケイない追記:最近手がけた拙訳記事で、心理学者の先生に「宗教儀式の持つ効用」についてインタビューした記事があって、ついこの前までヤフトピで全文が読めたんですが、あっという間に消されてしまった。で、宗教がらみなんでどんなコメントが寄せられているか興味津々で拝読しました。概して、読者の方々はこの記事をなんの先入観もなく、真摯に受け取ってくださっているなと心強く思ったしだい(かなりの数の「学びがある」カウントもあった)。ただ、細かいようだがひとつだけ。「福音派(ファンダメンタリスト)」はプロテスタントなので、「牧師」とは言えても「神父(または司祭)」とは言えないので、老婆心ながら念のため。
気管支喘息とかもそうですが、呼吸器の感染症って、罹患した人でないと肌感覚として恐ろしさがわからない。不幸なのか幸いなのか、ワタシはそういう経験、というかはっきり言ってそれで死にかけた経験をしているので、そーいう人がぷらぷらしていたらまず近づかず、相手の顔が向いてない方向を見てやり過ごすようにしている。自衛が第一。わかんない輩にいくら話して聞かせたところで時間のムダというもの。
ほんとは英国のとあるサイトに「COVID-19 後の世界はこうなる」的な一種の予測を公表したページがあって、そこに書いてあることとかすこしここでも紹介しようかななんて思っていたらいつものごとく時間だけが容赦なく経過(苦笑)。そのことについては近いうちに書こうかと思ってます。
本題。某オークションサイトにお古の TIME 誌出品しようかと思って、久しぶりにパラパラ繰って名文で知られる「エッセイ」を読んだら、W.B.イェイツの有名な「再臨」という詩の引用が出てきた。「しだいに広がる環を描きながら回り/回り続ける鷹に鷹匠の声は届かず/万物は崩れ去り、中心はおのれを維持できない……」という出だしで始まる、黙示的な内容の作品です。ここに引用した訳は、飛田茂雄先生によるもの[ジョーゼフ・キャンベル『生きるよすがとしての神話』角川ソフィア文庫版]。
興味が湧いたので、岩波文庫に収録されている版とかも見たんですが、それにも増して他のイェイツ詩にも心惹かれ、仕事の空き時間とかにゆるりとページを繰って眺めてました。「対訳」形式なので、原文と照合できるようになっているのもすばらしい。アイルランドの激動期をアングロアイリッシュという、「半分英国人、半分アイルランド人」のどっちつかずの境界線上にいたイェイツは、ジョイスとはまた違った意味で波乱に満ちた生涯を送った人と言えると思う。「再臨」をはじめ、当時の政治状況や、イェイツが信奉していたという「2千年周期説」なんかが反映された詩文もいいんですが、個人的にはもっと肩肘張らずに読めるもの、たとえば「落葉」、「選択」、「あなたが年老いるとき」なんかが好ましい。
なにかとかまびすしく、ますます混沌さを増すばかりの世の中、たまにはこの手の作品、つまり詩集を読むのも悪くない、と思ったしだい。英詩特有の韻を踏む形式にすこしは慣れるだろうし、いちばん大きいのは勉強になること。自分も手許に英国人の友人からかつていただいた、第一次世界大戦で夭折した詩人ルパート・ブルックの「グランチェスターの古い牧師館(The Old Vicarage, Grantchester)」という詩の冊子があって、いつかこれ訳したいなぁと思いつづけてはやウン年になるので、ちょうどよかったかも。
カンケイない追記:最近手がけた拙訳記事で、心理学者の先生に「宗教儀式の持つ効用」についてインタビューした記事があって、ついこの前までヤフトピで全文が読めたんですが、あっという間に消されてしまった。で、宗教がらみなんでどんなコメントが寄せられているか興味津々で拝読しました。概して、読者の方々はこの記事をなんの先入観もなく、真摯に受け取ってくださっているなと心強く思ったしだい(かなりの数の「学びがある」カウントもあった)。ただ、細かいようだがひとつだけ。「福音派(ファンダメンタリスト)」はプロテスタントなので、「牧師」とは言えても「神父(または司祭)」とは言えないので、老婆心ながら念のため。
2021年10月17日
「わたしを叶える物語」のパワー
沼津市内浦地区が主要舞台となった『ラブライブ!』シリーズ第2弾の『ラブライブ! サンシャイン!!』の劇場版が公開されてからはや2年。その間、「心のときめき」にフォーカスした外伝的な『虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』の第1期の TV アニメが放映されたり、時節柄なにかと気分が沈みがちになるけれどもそれを吹き飛ばす『ラブライブ!』シリーズの勢いはあいかわらず「ゴン攻め」してて、いかにもらしいなぁ、という感じ。
最新作『ラブライブ! スーパースター!!』は、ここまで観てきた一視聴者の率直な感想としては、これまでのシリーズで一貫して流れていた“One for all, All for one”などのメッセージも含め、もっとも完成された作品に仕上がっているのではないかと思った(制作陣の方、お疲れさまです。いつもステキな物語をありがとう)。
前にも書いたけれども、このアニメシリーズはどういうわけか(?)バッシングする向きも多くて、そのへんが「アニメだろうがルネサンスの傑作絵画だろうがバッハだろうがすばらしいアートはおしなべてすばらしい」芸術至上主義的人間な門外漢にはサッパリ理解できんのですが、この最新作に関しては主人公の澁谷かのんの実家という設定の某喫茶店さんとちょっとしたトラブルになったりと(これは制作側も落ち度があったとはいえ)、出だしからすでに前途多難なところもあって大丈夫かなと思いつつも、初回放映から欠かさずに観てきた。初回放映で流れた挿入歌に関しては、「○○ハレルヤ」と名のつく楽曲はほかにもいくつかあるから、既視感ならぬ既聴感のほうが先に来たということくらいが気になったと言えば気になったくらいで、物語の構成や小物を象徴的に使った場面、そしてなによりも Liella! メンバーとなっていく5人の少女たちそれぞれの内面描写がほんとうにすばらしくて、さすが『ラブライブ!』シリーズだとうなってしまった。
これには、観る者の心に鋭く刺さる科白をここぞという場面でキャラクターにしゃべらせる、脚本とシリーズ構成の花田十輝氏の名調子のなせる技かとも思う。個人的にもっとも心に響いた、というか痛いほど身にしみた科白は前回、澁谷かのんが幼少時の自分に向けて語りかけていたシーンだった(ちなみに、かのんの父上の仕事がなんと翻訳業 !!! ってのもビックラこいた。さらに祖母が「スペイン人」だそうで、つまりかのんはクォーターということになる)。
澁谷かのんは歌が大好きなのに、人前に出ると極度のアガり症を発症させてしまう。そのきっかけが小学生のときに出場した、「N コン」を思わせる合唱コンクールのステージでぶっ倒れてしまった事件だった。以来、それがトラウマとなり、旧音楽学校が前身の新設校、私立結ヶ丘[ゆいがおか]女子高等学校の音楽科入試でも歌えなくて失敗。「バ〜カ、歌えたら苦労しないっつーの!」。そんなかのんが中国からやってきたスクールアイドル大好き留学生の唐可可[タン・クゥクゥ]と出会い、彼女とコンビを結成したことで徐々に自信をとりもどし、その後加わったあらたな仲間といっしょだと歌えるようになったのだが、小学生のときのトラウマからは逃げたままで、完全に克服するには至っていなかった。そのことを察した幼なじみの嵐千砂都が、あえて「独唱」のステージ、しかもぶっ倒れたのと同じ母校の講堂ステージにかのんを押し出す(余談だが、かのんが通っていた小学校の「講堂」ってのがこれまたリッパすぎて、プロセニアムステージの音響反射板のデザインが NHKホールのとそっくり !! 当然、大オルガンはありませんが)。
大道具なんかが雑然と置かれているステージ裏で、そのかのんが嵐千砂都に電話を入れる。
ここで、合唱コンクールのときとおなじ絵柄の世界地図が背景に現れる。かのんはかつての幼い自分と向き合って、「大丈夫。大好きなんでしょ、歌?」と話しかける。
これは、『サンシャイン!!』で桜内梨子が、ピアノが人前で弾けなくなったトラウマと向き合い、文字どおり自身の心の奥底へ「下降して」いった内浦の海にキラキラと陽射しが差し込んだ場面がどうしても思い出される。拙冊子では、ここをカール・ユングの言う「夜の海の航海」が響いていると書いたのだが、かのんのこの場面はもっとわかりやすく、もっと直接的な表現で、「かつての自分と真正面から向き合う」というふうに描いている。ココがすばらしい。
たとえば μ's の活躍を描いた劇場版『ラブライブ!』。クライマックスで、主人公の高坂穂乃果の分身ともとれるナゾの「女性シンガー」が穂乃果に向かって、「答えは見つかった? …… 飛べるよ …… いつだって飛べる! あのころのように!」と、行く手を塞ぐように広がっている水たまりから逃げず、自分を信じて思い切り飛ぶように促すシーン。劇場版『サンシャイン!!』でも冒頭、なぜか(?)会ったことがないはずの幼少時の高海千歌と桜内梨子が、千歌の実家の旅館前に広がる三津[みと]浜で出会って、紙飛行機を飛ばしてたりしていた。
ワタシはこういう、一見して矛盾しているが、あえて象徴性を全面に押し出した手法はアリだと考えているので、これはこれでいいと思ってるんですが、はじめてこの手の作品を鑑賞するような人の場合は「なんてとっつき悪いんだ」というふうにもとられかねない心象風景の描き方でもある。その点、『スーパースター!!』のように、幼少時の自分と直接向き合ってトラウマを克服したかのんの描き方は正攻法で、正解だと思う。このときはじめて、かのんは「ほんとうになりたい自分」になれたのだと思う。まさにキャッチコピーどおりの「わたしを叶える物語」! このへん、ホセ・オルテガ・イ・ガセットの「わたしは、わたしとわたしの環境である」という名言とも重なってくる(最近、個人的には聞き捨てならないヘンテコな造語がはやっている。それがなにかはあえて言わないが、けっきょく最後にどうするかを決めるのは、仲間の力も大事だが、それはあなた自身しかいない。これはいつの時代も変わらない真理だと思っている)。
あとこれも何度も言っているからくどいと思われるだろうが、畑亜貴氏の歌詞、そしてそれ以外の挿入歌の楽曲も、「神ってる」。と同時に、トラウマのきっかけとなった同じステージで、かのんがみごとな独唱を聴かせてくれたシーンを観ながらちょっと不思議な感覚もおぼえていた。はじめて Liella! というグループ名を耳にしたとき、「なんか英国のボーイソプラノグループの Libera みたい」と思ったものだが、澁谷かのんの美しいソロは、かつて自分がよく聴きに行っていた少年合唱団や少年聖歌隊の演奏会で美声を聴かせてくれたソリストたちの姿とも重なっていた。歌詞のすばらしさと、バラ色の頬の少年ソリストたちの面影がダブって、ことさらに印象に残る回だった。
いつものように2期へと確実につながって最終回は終わるだろうから、まだまだ『ラブライブ!』シリーズには目が離せないのだ!
最新作『ラブライブ! スーパースター!!』は、ここまで観てきた一視聴者の率直な感想としては、これまでのシリーズで一貫して流れていた“One for all, All for one”などのメッセージも含め、もっとも完成された作品に仕上がっているのではないかと思った(制作陣の方、お疲れさまです。いつもステキな物語をありがとう)。
前にも書いたけれども、このアニメシリーズはどういうわけか(?)バッシングする向きも多くて、そのへんが「アニメだろうがルネサンスの傑作絵画だろうがバッハだろうがすばらしいアートはおしなべてすばらしい」芸術至上主義的人間な門外漢にはサッパリ理解できんのですが、この最新作に関しては主人公の澁谷かのんの実家という設定の某喫茶店さんとちょっとしたトラブルになったりと(これは制作側も落ち度があったとはいえ)、出だしからすでに前途多難なところもあって大丈夫かなと思いつつも、初回放映から欠かさずに観てきた。初回放映で流れた挿入歌に関しては、「○○ハレルヤ」と名のつく楽曲はほかにもいくつかあるから、既視感ならぬ既聴感のほうが先に来たということくらいが気になったと言えば気になったくらいで、物語の構成や小物を象徴的に使った場面、そしてなによりも Liella! メンバーとなっていく5人の少女たちそれぞれの内面描写がほんとうにすばらしくて、さすが『ラブライブ!』シリーズだとうなってしまった。
これには、観る者の心に鋭く刺さる科白をここぞという場面でキャラクターにしゃべらせる、脚本とシリーズ構成の花田十輝氏の名調子のなせる技かとも思う。個人的にもっとも心に響いた、というか痛いほど身にしみた科白は前回、澁谷かのんが幼少時の自分に向けて語りかけていたシーンだった(ちなみに、かのんの父上の仕事がなんと翻訳業 !!! ってのもビックラこいた。さらに祖母が「スペイン人」だそうで、つまりかのんはクォーターということになる)。
澁谷かのんは歌が大好きなのに、人前に出ると極度のアガり症を発症させてしまう。そのきっかけが小学生のときに出場した、「N コン」を思わせる合唱コンクールのステージでぶっ倒れてしまった事件だった。以来、それがトラウマとなり、旧音楽学校が前身の新設校、私立結ヶ丘[ゆいがおか]女子高等学校の音楽科入試でも歌えなくて失敗。「バ〜カ、歌えたら苦労しないっつーの!」。そんなかのんが中国からやってきたスクールアイドル大好き留学生の唐可可[タン・クゥクゥ]と出会い、彼女とコンビを結成したことで徐々に自信をとりもどし、その後加わったあらたな仲間といっしょだと歌えるようになったのだが、小学生のときのトラウマからは逃げたままで、完全に克服するには至っていなかった。そのことを察した幼なじみの嵐千砂都が、あえて「独唱」のステージ、しかもぶっ倒れたのと同じ母校の講堂ステージにかのんを押し出す(余談だが、かのんが通っていた小学校の「講堂」ってのがこれまたリッパすぎて、プロセニアムステージの音響反射板のデザインが NHKホールのとそっくり !! 当然、大オルガンはありませんが)。
大道具なんかが雑然と置かれているステージ裏で、そのかのんが嵐千砂都に電話を入れる。
ちーちゃん、ありがとね。…… わたし、みんながいたから歌えてた。それでいいと思ってた。でもそれじゃダメなんだよね。だれかを支えたり、力になるためには、ちーちゃんががんばったみたいに、ひとりでやり遂げなきゃいけないんだよね ……
ここで、合唱コンクールのときとおなじ絵柄の世界地図が背景に現れる。かのんはかつての幼い自分と向き合って、「大丈夫。大好きなんでしょ、歌?」と話しかける。
…… まだ遠くまで旅を続けなければと思っていたところで、われわれ自身の存在の中心に到達するだろう。そして、孤独だと思い込んでいたのに、じつは全世界が自分と共にあることを知るだろう。―― ジョーゼフ・キャンベル『千の顔を持つ英雄』( 飛田茂雄訳『神話の力』、早川書房刊、太字強調は引用者 )
これは、『サンシャイン!!』で桜内梨子が、ピアノが人前で弾けなくなったトラウマと向き合い、文字どおり自身の心の奥底へ「下降して」いった内浦の海にキラキラと陽射しが差し込んだ場面がどうしても思い出される。拙冊子では、ここをカール・ユングの言う「夜の海の航海」が響いていると書いたのだが、かのんのこの場面はもっとわかりやすく、もっと直接的な表現で、「かつての自分と真正面から向き合う」というふうに描いている。ココがすばらしい。
たとえば μ's の活躍を描いた劇場版『ラブライブ!』。クライマックスで、主人公の高坂穂乃果の分身ともとれるナゾの「女性シンガー」が穂乃果に向かって、「答えは見つかった? …… 飛べるよ …… いつだって飛べる! あのころのように!」と、行く手を塞ぐように広がっている水たまりから逃げず、自分を信じて思い切り飛ぶように促すシーン。劇場版『サンシャイン!!』でも冒頭、なぜか(?)会ったことがないはずの幼少時の高海千歌と桜内梨子が、千歌の実家の旅館前に広がる三津[みと]浜で出会って、紙飛行機を飛ばしてたりしていた。
ワタシはこういう、一見して矛盾しているが、あえて象徴性を全面に押し出した手法はアリだと考えているので、これはこれでいいと思ってるんですが、はじめてこの手の作品を鑑賞するような人の場合は「なんてとっつき悪いんだ」というふうにもとられかねない心象風景の描き方でもある。その点、『スーパースター!!』のように、幼少時の自分と直接向き合ってトラウマを克服したかのんの描き方は正攻法で、正解だと思う。このときはじめて、かのんは「ほんとうになりたい自分」になれたのだと思う。まさにキャッチコピーどおりの「わたしを叶える物語」! このへん、ホセ・オルテガ・イ・ガセットの「わたしは、わたしとわたしの環境である」という名言とも重なってくる(最近、個人的には聞き捨てならないヘンテコな造語がはやっている。それがなにかはあえて言わないが、けっきょく最後にどうするかを決めるのは、仲間の力も大事だが、それはあなた自身しかいない。これはいつの時代も変わらない真理だと思っている)。
あとこれも何度も言っているからくどいと思われるだろうが、畑亜貴氏の歌詞、そしてそれ以外の挿入歌の楽曲も、「神ってる」。と同時に、トラウマのきっかけとなった同じステージで、かのんがみごとな独唱を聴かせてくれたシーンを観ながらちょっと不思議な感覚もおぼえていた。はじめて Liella! というグループ名を耳にしたとき、「なんか英国のボーイソプラノグループの Libera みたい」と思ったものだが、澁谷かのんの美しいソロは、かつて自分がよく聴きに行っていた少年合唱団や少年聖歌隊の演奏会で美声を聴かせてくれたソリストたちの姿とも重なっていた。歌詞のすばらしさと、バラ色の頬の少年ソリストたちの面影がダブって、ことさらに印象に残る回だった。
いつものように2期へと確実につながって最終回は終わるだろうから、まだまだ『ラブライブ!』シリーズには目が離せないのだ!
チャンスはある日突然
目の前に舞い降りてきた
思うかたちと違っても
そっと両手を伸ばしたんだ
なにが待つの? なにをやれるの?
勇気出して進もう
できっこないよって思ってたことも
踏み出せばほら叶うんだ
新しいわたし
いま 始まるよ Symphony
2021年09月30日
「個人の自由」の履き違え
先日読んだ、元陸上選手の為末大氏が寄稿したこちらのコラム。一読して頭に浮かんだのは、ジョーゼフ・キャンベルの『生きるよすがとしての神話』という講演集に出てくる、「統合失調症──内面への旅」と「月面歩行──宇宙への旅」と題されたふたつの講演。「宇宙飛行士が特別な外的世界を体験するのに対し、アスリートは特別な内的世界を体験する。内的世界とは『心の世界』と言い換えてもいい」と為末氏は書いているけれども、両者は同じコインの裏と表、きっぱり同じものだと言い切ってよいと個人的には感じている。
このコラムの結び近くに、「ぜひ五輪、パラリンピックを目指した日々について、アスリートたちは言葉でその体験を社会に還元してほしい」との呼びかけがある。これを見たとき、ふと、仕事柄しかたないとはいえ、COVID-19 の感染者が相次いでいる芸能関係の人も、もうすこし自身の体験について観ている側にも伝わるような努力をされたほうがよいのではと感じてしまった。もっともこれは個人のプライバシーの問題でもあり、強制はできない。しかしいまは平時ではないので、公共の福祉という観点からも積極的に啓発してもよいだろうと思うのだが、手前勝手な理屈だろうか。
為末氏のコラムには人間心理への深い洞察があって、「『心の世界』の学びの面白いところは段階的ではないところだ。ある瞬間にひらめくように悟れば、もうそうとしか感じられなくなる」といったすこぶる示唆に富むくだりにも現れているけれども、こういう「気づき」って体得できる人にはそれができ、そうでない人はいっこうにできないというもどかしさがある(下線強調は引用者)。とくに平時ではない、いまみたいなときがそう。悟りが遅いのはしかたない。自分もそうだから。だが、ハナから耳をふさいでしまっては、せっかくすばらしいことを語り聞かせ、書きことばとして残してくれてもなんにもならないではないか。それどころか、害悪をバラまき、ひいては社会全体の混乱に拍車をかけることにもなりかねないし、げんにそういう方向に扇動する言動を平然と垂れ流している御仁もけっこういる。
「マスクをする・しないは個人の自由」という主張もよくわからない。未知(感染症の専門家でさえ例外ではない)の疫病が世界を席巻し、その感染者が2億人を超え、死者も 400 万人を超えている。疫病はひとつの自然災害で、自然は人間が勝手にこしらえたルールや道徳などいっさいおかまいなしに暴れるもの。地球の生態系は微妙なバランスの上に成立しており、それがすこしでも崩れればとたんに平衡を失う。温暖化がかまびすしく言われるようになって久しいが、 COVID-19 のパンデミックだっておなじだ。
将来、このような未知の病原体によるパンデミックを防ぐには、ジャレド・ダイアモンド博士が言っているように、野生生物の乱獲と市場流通を即刻やめることだろう、マラリアを媒介する蚊の絶滅を目指すのではなくて(某研究所流出説は、こちらの WP 紙の速報記事にも書いてあるように科学的な根拠はほとんどない)。欧米には歴史的背景からして、「自然をコントロールする」という発想が根強く残っている。このへんが東洋人には生理的に相容れないところ。いつぞやの「ガイア理論」もしかりです。
ここで大切なのは、自然ではなくて、わたしたちの側の行動変容のほうでしょう。たとえば、個人の自由という概念。「あなたはほんとうの自由に耐えられるか?」という一文で結ばれたエッセイの文庫本をすぐ手に取れるところに置いて折を見て再読したりしているんですけれども、まったくもってそのとおりで、自由というのはみんなが思っているほど単純なもんじゃない。自由には必然的に責任が伴う。平時なら問題にならない行動でも、そうは済まされない場合がある。この点に関しては悪い意味での“超”個人主義が横行している欧米なんかも日本のこと言えないのですが、それでも日本には確固とした“個”というものがなく、“個”と世間様との境界線がきわめてあいまいというのも相変わらず。個人的には、ここが最大の問題だと思っている。“個”ということでは、昨今ちやほや(?)されている「Z 世代」にもおなじことが言えるだろう。彼らの符牒に「ウチら」という、なんか西伊豆語の「うちっち」みたいな造語があるそうですよ。そこなんですぞ、問題なのは。「あなた自身はどうなのか」、これがなければただの「烏合の衆」にすぎない。まず先に来るのは仲間とかみんなじゃなくて、「個人」としてどうするのか。逆ではない。
たとえば、大規模音楽イベント。聴衆が黙って静かに耳を傾けるクラシック音楽の演奏会と、パリピな大群衆がワーワー大騒ぎするような大イベントとを同列に扱うのはどう転んでもおかしい。もちろんなんでもかんでも中止、という段階ではいまはなくなりつつあるから(ただし警戒は緩めずに)、そのへんは皆が知恵を出し合う必要があるとは思う。ただ、一個人の勝手な主張を他人にゴリ押しするのは自由でもなんでもない。米国ではあのシュワルツェネッガー氏が「自由には義務や責任が伴う。他の人を感染させ、相手が亡くなる可能性もある」という趣旨の発言して、一部からかなりのブーイングを食らったそうですが、負けるなシュワちゃん !! ですな。
このコラムの結び近くに、「ぜひ五輪、パラリンピックを目指した日々について、アスリートたちは言葉でその体験を社会に還元してほしい」との呼びかけがある。これを見たとき、ふと、仕事柄しかたないとはいえ、COVID-19 の感染者が相次いでいる芸能関係の人も、もうすこし自身の体験について観ている側にも伝わるような努力をされたほうがよいのではと感じてしまった。もっともこれは個人のプライバシーの問題でもあり、強制はできない。しかしいまは平時ではないので、公共の福祉という観点からも積極的に啓発してもよいだろうと思うのだが、手前勝手な理屈だろうか。
為末氏のコラムには人間心理への深い洞察があって、「『心の世界』の学びの面白いところは段階的ではないところだ。ある瞬間にひらめくように悟れば、もうそうとしか感じられなくなる」といったすこぶる示唆に富むくだりにも現れているけれども、こういう「気づき」って体得できる人にはそれができ、そうでない人はいっこうにできないというもどかしさがある(下線強調は引用者)。とくに平時ではない、いまみたいなときがそう。悟りが遅いのはしかたない。自分もそうだから。だが、ハナから耳をふさいでしまっては、せっかくすばらしいことを語り聞かせ、書きことばとして残してくれてもなんにもならないではないか。それどころか、害悪をバラまき、ひいては社会全体の混乱に拍車をかけることにもなりかねないし、げんにそういう方向に扇動する言動を平然と垂れ流している御仁もけっこういる。
「マスクをする・しないは個人の自由」という主張もよくわからない。未知(感染症の専門家でさえ例外ではない)の疫病が世界を席巻し、その感染者が2億人を超え、死者も 400 万人を超えている。疫病はひとつの自然災害で、自然は人間が勝手にこしらえたルールや道徳などいっさいおかまいなしに暴れるもの。地球の生態系は微妙なバランスの上に成立しており、それがすこしでも崩れればとたんに平衡を失う。温暖化がかまびすしく言われるようになって久しいが、 COVID-19 のパンデミックだっておなじだ。
将来、このような未知の病原体によるパンデミックを防ぐには、ジャレド・ダイアモンド博士が言っているように、野生生物の乱獲と市場流通を即刻やめることだろう、マラリアを媒介する蚊の絶滅を目指すのではなくて(某研究所流出説は、こちらの WP 紙の速報記事にも書いてあるように科学的な根拠はほとんどない)。欧米には歴史的背景からして、「自然をコントロールする」という発想が根強く残っている。このへんが東洋人には生理的に相容れないところ。いつぞやの「ガイア理論」もしかりです。
ここで大切なのは、自然ではなくて、わたしたちの側の行動変容のほうでしょう。たとえば、個人の自由という概念。「あなたはほんとうの自由に耐えられるか?」という一文で結ばれたエッセイの文庫本をすぐ手に取れるところに置いて折を見て再読したりしているんですけれども、まったくもってそのとおりで、自由というのはみんなが思っているほど単純なもんじゃない。自由には必然的に責任が伴う。平時なら問題にならない行動でも、そうは済まされない場合がある。この点に関しては悪い意味での“超”個人主義が横行している欧米なんかも日本のこと言えないのですが、それでも日本には確固とした“個”というものがなく、“個”と世間様との境界線がきわめてあいまいというのも相変わらず。個人的には、ここが最大の問題だと思っている。“個”ということでは、昨今ちやほや(?)されている「Z 世代」にもおなじことが言えるだろう。彼らの符牒に「ウチら」という、なんか西伊豆語の「うちっち」みたいな造語があるそうですよ。そこなんですぞ、問題なのは。「あなた自身はどうなのか」、これがなければただの「烏合の衆」にすぎない。まず先に来るのは仲間とかみんなじゃなくて、「個人」としてどうするのか。逆ではない。
たとえば、大規模音楽イベント。聴衆が黙って静かに耳を傾けるクラシック音楽の演奏会と、パリピな大群衆がワーワー大騒ぎするような大イベントとを同列に扱うのはどう転んでもおかしい。もちろんなんでもかんでも中止、という段階ではいまはなくなりつつあるから(ただし警戒は緩めずに)、そのへんは皆が知恵を出し合う必要があるとは思う。ただ、一個人の勝手な主張を他人にゴリ押しするのは自由でもなんでもない。米国ではあのシュワルツェネッガー氏が「自由には義務や責任が伴う。他の人を感染させ、相手が亡くなる可能性もある」という趣旨の発言して、一部からかなりのブーイングを食らったそうですが、負けるなシュワちゃん !! ですな。
2021年09月24日
「茶色の石造りの建物」って?
最近、ひさしぶりに参考文献を必要とする案件がありまして、いつものように図書館へ(滞在時間は 30 分以内にせよとのお達し !!)。2冊借りまして、とり急ぎこちらがほしい情報が書かれてあるくだりを読んだ。でもってそちらの訳稿はもう納品したので、あとはふつうに楽しみつつ秋の夜長の読書。
1冊めを訳したのは、某新聞社の元記者だった手練れ(てだれと読む)の物書きの男性。もう1冊のほうは女性訳者の手になるもので、フツーに先入観なく読んでみた一読者としては、圧倒的に後者の訳書が読みやすかった。もっともこれは、後者の原書の対象読者層が YA つまりヤングアダルトだった、ということもあるかもしれない。でも2冊とも書いたのは「読ませる文章のプロ」たるジャーナリストの著者。後者の「訳者あとがき」を拝読しますと、「日本語版ではとくにそれ[YA 向け]を意識することなく大人向けとして訳した」とあるから、翻訳者の個性、もしくは編集者の手がかなり入った結果の読みやすさだったと推察されます。
ベテラン訳者の手になる前者の場合、1989 年の消費税導入直前(!)に刊行されたという「古しい(西伊豆語)」本ゆえの宿命みたいなところはあろうかとは思うが、「オラだったらこんな言い回しは使わんなぁ」という箇所が頻出して少々くたびれたのも事実。でも全体としてはすっと読めるし、話が話だけに(原爆技術を共産圏にダダ漏れさせたスパイ学者の話)とてもおもしろい……んですが、いきなりこういうのが現れた──「改装ずみの茶色の石造りの建物」。
英語ができる人はいっぱいいるし、海外在住の英日翻訳者もゴマンといるからここで言うのも気が引ける……のではありますが、コレ原文見なくてもぜったい brownstone の家のことですよね。その少し先の箇所にも、またまた「茶色の石のアパート」なんてのが出てくる。
brownstone は 19 世紀から 20 世紀初頭の米国では高級邸宅の象徴みたいな石材で、「赤褐色砂岩」のこと。英米文学がお好きな方なら、以前ここでも取り上げたトルーマン・カポーティの短編『ミリアム』にも出てくるから、あああれのことかと思い出されるかもしれない。↓
もっともこの手の間違いはだれにでもあるし、そんなこと言ったらオラもずっと穴の中に籠もってなければならない。だから、たとえ何冊か翻訳書籍を世に問うているような人でさえ、「わたしは翻訳家」なんて麗々しく公言するもんじゃないと思う。「翻訳者」ならば OK 。日本語の肩書きの「〜家」というのは、それこそその道の大家にでもならないかぎり、気安く使っちゃマズいずら、と個人的には思っている(にしても、いくら宣伝のためとは言え、ブログやら Twitter やらでやたらと「翻訳家」を名乗る御仁が多い。よっぽどウデに自信がおありなんでしょうねェ……)。
それともうひとつ「ほえッ !?」と思ったのは、この一節。
欧文タイプライターでカーボンコピーつまり文書の「複製」を作成するには、「領収書」を切るときとおなじ──すなわち、タイプする原稿用紙を2枚重ね、間にカーボン紙を挟んでバチバチ打ち出して正副2通作成する。当たり前だがコピー機なんてない時代。タイプ打ちした文書なり原稿なりをコピーしようとしたら、これしかやりようがなかったはずです。
ついでに脱線すると、電子メール(っていまどきこんな言い方しないか……)の「CC」ってのもタイプライター時代の名残。文字どおり「カーボンコピー」の頭文字をそれぞれとった呼び名です。「RE:」というのもそう。あれはほんらいはラテン語の“res”(=regarding)であって、“reply(response)”ではない。
1冊めの本にもどりまして、そうは言っても内容はそれなりにおもしろいので、やはりこの手の歴史資料的な文献が日本語で読めるのはとてもありがたい。2冊めのほうもさすが手慣れたジャーナリスト的な軽快さがあって、おなじ人物を書いても視点が違っているからそれはそれでまたをかし(♪比べるの好き、すごく好き、なてんびん座)。
ちなみに2冊めのほうを訳されたのはこちらの先生。「文は人なり」って言いますが、やはりこういう姿勢の方が手がけた訳書は安心して読めますね。でもたとえば男のワタシが訳すのと、女性訳者が訳すのとでは、同じ原文でも明らかに違いが出ると思う。原著者が男か女かでも違いが出てくるとは思うが……このへんもまた比較研究してみるとヌマにはまりそうで、ある意味コワい気はする。げに奥深き翻訳の世界。
1冊めを訳したのは、某新聞社の元記者だった手練れ(てだれと読む)の物書きの男性。もう1冊のほうは女性訳者の手になるもので、フツーに先入観なく読んでみた一読者としては、圧倒的に後者の訳書が読みやすかった。もっともこれは、後者の原書の対象読者層が YA つまりヤングアダルトだった、ということもあるかもしれない。でも2冊とも書いたのは「読ませる文章のプロ」たるジャーナリストの著者。後者の「訳者あとがき」を拝読しますと、「日本語版ではとくにそれ[YA 向け]を意識することなく大人向けとして訳した」とあるから、翻訳者の個性、もしくは編集者の手がかなり入った結果の読みやすさだったと推察されます。
ベテラン訳者の手になる前者の場合、1989 年の消費税導入直前(!)に刊行されたという「古しい(西伊豆語)」本ゆえの宿命みたいなところはあろうかとは思うが、「オラだったらこんな言い回しは使わんなぁ」という箇所が頻出して少々くたびれたのも事実。でも全体としてはすっと読めるし、話が話だけに(原爆技術を共産圏にダダ漏れさせたスパイ学者の話)とてもおもしろい……んですが、いきなりこういうのが現れた──「改装ずみの茶色の石造りの建物」。
英語ができる人はいっぱいいるし、海外在住の英日翻訳者もゴマンといるからここで言うのも気が引ける……のではありますが、コレ原文見なくてもぜったい brownstone の家のことですよね。その少し先の箇所にも、またまた「茶色の石のアパート」なんてのが出てくる。
brownstone は 19 世紀から 20 世紀初頭の米国では高級邸宅の象徴みたいな石材で、「赤褐色砂岩」のこと。英米文学がお好きな方なら、以前ここでも取り上げたトルーマン・カポーティの短編『ミリアム』にも出てくるから、あああれのことかと思い出されるかもしれない。↓
For several years, Mrs. H. T. Miller had lived alone in a pleasant apartment (two rooms with kitchenette) in a remodeled brownstone near the East River...おそらくこの brownstone、辞書にも当たらず適当に片付けちゃったんでしょうね。それとも知っていたけれども、うっかりやってしまったかのどちらか(鈴木晶先生が“corn”を「麦の穂」ではなく「トウモロコシ」と、知ってはいたけれどもついうっかり誤訳した話を著書で明かしている)。
もっともこの手の間違いはだれにでもあるし、そんなこと言ったらオラもずっと穴の中に籠もってなければならない。だから、たとえ何冊か翻訳書籍を世に問うているような人でさえ、「わたしは翻訳家」なんて麗々しく公言するもんじゃないと思う。「翻訳者」ならば OK 。日本語の肩書きの「〜家」というのは、それこそその道の大家にでもならないかぎり、気安く使っちゃマズいずら、と個人的には思っている(にしても、いくら宣伝のためとは言え、ブログやら Twitter やらでやたらと「翻訳家」を名乗る御仁が多い。よっぽどウデに自信がおありなんでしょうねェ……)。
それともうひとつ「ほえッ !?」と思ったのは、この一節。
……自分の報告をタイプし、これをカーボンでコピーし、そのコピーをもって……出かけた。昨年、タイプライターがらみの記事の訳を担当させていただいたことがあり、またちょうどおなじころ、無類のタイプライター・オタクで知られる俳優トム・ハンクス氏が豪少年に「コロナ」製の黒光りするヴィンテージものタイプライターをプレゼントしたという心温まるニュースにも触れてにわかにタイプライター熱が高まって、ほとんど勢いで 45 年ほど前に製造されたブラザー製タイプライターを某オークションサイトにて入手した経験がある者としては、ここの訳はちょっと信じられない。
欧文タイプライターでカーボンコピーつまり文書の「複製」を作成するには、「領収書」を切るときとおなじ──すなわち、タイプする原稿用紙を2枚重ね、間にカーボン紙を挟んでバチバチ打ち出して正副2通作成する。当たり前だがコピー機なんてない時代。タイプ打ちした文書なり原稿なりをコピーしようとしたら、これしかやりようがなかったはずです。
ついでに脱線すると、電子メール(っていまどきこんな言い方しないか……)の「CC」ってのもタイプライター時代の名残。文字どおり「カーボンコピー」の頭文字をそれぞれとった呼び名です。「RE:」というのもそう。あれはほんらいはラテン語の“res”(=regarding)であって、“reply(response)”ではない。
1冊めの本にもどりまして、そうは言っても内容はそれなりにおもしろいので、やはりこの手の歴史資料的な文献が日本語で読めるのはとてもありがたい。2冊めのほうもさすが手慣れたジャーナリスト的な軽快さがあって、おなじ人物を書いても視点が違っているからそれはそれでまたをかし(♪比べるの好き、すごく好き、なてんびん座)。
ちなみに2冊めのほうを訳されたのはこちらの先生。「文は人なり」って言いますが、やはりこういう姿勢の方が手がけた訳書は安心して読めますね。でもたとえば男のワタシが訳すのと、女性訳者が訳すのとでは、同じ原文でも明らかに違いが出ると思う。原著者が男か女かでも違いが出てくるとは思うが……このへんもまた比較研究してみるとヌマにはまりそうで、ある意味コワい気はする。げに奥深き翻訳の世界。
2021年08月31日
ART の果たすべき役割とはなにか
未曾有の COVID-19 のパンデミック禍に全世界が巻き込まれてはや1年半。医療現場はいよいよ苛烈さを増しているなか、根拠のないデマをまき散らす人とそうでない人との分裂が進み(「分断」というよりも修復不能な「分裂」になりつつあると感じている)、われら哀しき人類のバラバラっぷりではとうてい「この 100 年で最凶のウイルス」に勝ち目はなさそうとさえ思う。以前、ここで某財団によるマラリア撲滅計画のことを批判したけれども、自然とは大したものでして、「疫病の媒介者さえ絶滅させればそれで結果オーライ」とはぜったいに終わらない仕組みになっている。絶滅させればさせたで、その結果はバタフライ効果となって思わぬかたちで出現し、確実にしっぺ返しを喰らう。おなじことが「イルカはかわいいしアタマがよいから食べるなんてトンでもない」とばかりに追い込み漁のロープを切断する傍若無人を働く手合いにも言える。これもようするに「自分以外は正しくない」というバイアスと独断のなせる業。
世の中には筋トレでもして気を紛らわせろとか、いろいろな知恵やご高説を「オンラインサロン」みたいなビジネス(というか、ひと昔前なら「そんなもん自分で考えろ」のひと言で済んでいたことまでいちいち解説して、またそれをなんの考えもなく真に受ける人が一定数いて、さらにその人たちをお客に取りこんで商売にまでなってしまうという世の中もどうなのよ?)で垂れる人もいるようですが、時節柄、いちばんよいのは、空き時間を利用して「ご自身がいちばん好きなこと」に打ち込むことでしょうかね。
あるいは、いままで興味も関心もまるでなかった分野に急に目を見開かれてのめりこんだりでもいいと思う。個人的なところではパラリンピックがそう。やはり自国開催というのはすごいなァと。いままでこんなにパラ大会のことを TV 中継していたのか定かではないけれども、時間があるときはほとんど TV 観戦してまして、たとえばボッチャという競技のルールとかも知らなかったので、今回、あらためていろいろ知ってみるとこれがけっこうおもしろい。
思うに、アートもそうだろうと。この前、僭越ながらここで紹介した拙訳書みたいな「つまらない詐欺もどきなんかにかんたんにひっかからないために身につけるべき思考法」を教える本なども多読してももちろんいいのですが、それだけじゃ片手落ちだろうと。いますぐには収入に結びつくわけでもなく、役に立つわけでもないであろうアートこそ、じつは必要だったりすると思う。
ただし、何度かここでも触れてきたように、アイルランドの小説家ジェイムズ・ジョイスが定義したように、世の中にアート、芸術と呼ばれているものには2種類ある。ひとつは「教訓的芸術」、もうひとつは「エピファニーをもたらす芸術」。前者のことをジョイスは「ポルノグラフィー」とも言っている。こんなこと書くと、アーティストには「おまえはなにもわかっちゃいねぇ」と反発してくる人もいるでしょうが、いいえ、そうなんです。これはハッキリ言える。「教訓的芸術」というのは、ひとことで言えば「イデオロギーや正義を一方的に押しつけてくるもの」。この手の作品は、一見、とてもわかりやすい。だからウケはいい。この「わかりやすさ」がじつはクセ者でして、なぜパウロが伝道したイエスの教えが地中海世界を席巻したのかというと、ひとえに「わかりやすかった」から。「信じる者は救われる、そうでない者は……」と、このわかりやすさと断言があらたな信者獲得に貢献し、ついには地中海地域の多くの神々を追放するまでに力をつけた。この点はイスラム教もほぼおんなじで、「砂漠の一神教」の特徴でもあるし、また姿かたちは違えど、旧ソ連型共産主義なんかも似たようなもの。いずれのシステムも共通項は「自分たちが正義で、それ以外は悪魔」的な「単純でわかりやすい線引き」です。米国に多い福音派なんかもっとヒドくて、そういう人たちがトランプという「怪物」を生み出したと言っていい(イエス自身がいまの組織宗教としてのキリスト教を見たら、「ワタシはこんな教えを広めろなんて言ってない!」と嘆いたかもしれないが)。
話もどりまして、ジョイスによれば、ほんとうのアートは「エピファニー」をもたらしてくれるもののほう。でもそれはなにも高尚なゲイジュツに触れろとかそんな意味じゃない。名優の高倉健さんが生前語っていた、「人生には“アッ”と思う瞬間がある」ということを感じさせてくれるもの、目の前に突き付けてくれるものならなんだっていいんです。それがなにかのアニメ作品でも漫画作品でもいっこうにかまわない。「職業に貴賎なし」と言うけれども、アートにも貴賎はない。
いま、仕事がヒマなときには 20 世紀初頭の英国を代表する小説家アーノルド・ベネット(1867ー1931)のエッセイの個人訳を進めているんですが(ナマけないよう、ここでも宣言)、その本にもつぎのようなおあつらえ向きな一文が出てきます。
「精神に揺さぶり」をかけることこそアートの役割だと、ベネットもおんなじこと言っているなぁと、このくだりに来たとき思わずひとりごちたしだい。日本で言えば、岡本太郎さんですね。「ナンダコレハ?」というものしかアートと認めなかった真のアーティスト。『フィネガンズ・ウェイク』なんかはきょくたんな例でしょうが、自分が消化できる=理解できるものしか読まず・見ず・聞かずの「三猿」では、それこそ「反ワクチン陰謀論」のごとく、明らかに fake なのに自分にとって都合のよい truth だけをアタマから信じ込むという笑えない悲劇を生む。かつてのナチズムはそういう「大衆の心理」につけこんだ。
もう一度繰り返すけれども、上に書いたように「ナントカ思考法の本」をたくさん読むのは悪いことじゃありません。なんも読まず、のほほんとゲームばっかやってるよりはマシかと(いつ死ぬかわからないのになんともったいない時間の使い方、とお節介ながら思ってしまう。そういう方にはおなじくベネットの超がつくほど有名なエッセイ『自分の時間』をおススメする)。ただし、それはあくまでも「理性(reason)」レベルでの話。あいにく人間はアタマではわかっていても、思考回路そのものに潜む各種のバイアス(ダニエル・カーネマンらの用語で言う「ヒューリスティックス」)が何重にもかかっていて、必ずしも正しい判断を下せるわけではないし(たとえば非常事態のとき。いまだってそうでしょ? ご自身の周囲を見れば、ワケのわからないことしている輩は必ずいる)。それとはべつのレベル、もっと深い深層心理レベルでは、これはもうリクツ云々の次元ではとても「精神の平衡」は保てない。その日の糧さえ得られればそれでよしというレベルでは解決しえない。もし精神的にどん底にまで突き落とされたとき、「教訓的芸術」なんぞで果たして心が軽くなったり、なにかを悟ってふたたび生きよう、などと思えるものでしょうか? イマドキのアーティストにも、このへんわかってない人がけっこういる。『チップス先生さようなら』でも読みなさい。
「自分にとっての“聖地”を持つこと。それは他人が見向きもしないような陳腐な音楽のレコードでもいいし、本を読むことでもいい」と、かつて比較神話学者のジョー・キャンベルは言った。そのキッカケになるようなアートなら、それはアートの本分を果たしていると言えると思う。
世の中には筋トレでもして気を紛らわせろとか、いろいろな知恵やご高説を「オンラインサロン」みたいなビジネス(というか、ひと昔前なら「そんなもん自分で考えろ」のひと言で済んでいたことまでいちいち解説して、またそれをなんの考えもなく真に受ける人が一定数いて、さらにその人たちをお客に取りこんで商売にまでなってしまうという世の中もどうなのよ?)で垂れる人もいるようですが、時節柄、いちばんよいのは、空き時間を利用して「ご自身がいちばん好きなこと」に打ち込むことでしょうかね。
あるいは、いままで興味も関心もまるでなかった分野に急に目を見開かれてのめりこんだりでもいいと思う。個人的なところではパラリンピックがそう。やはり自国開催というのはすごいなァと。いままでこんなにパラ大会のことを TV 中継していたのか定かではないけれども、時間があるときはほとんど TV 観戦してまして、たとえばボッチャという競技のルールとかも知らなかったので、今回、あらためていろいろ知ってみるとこれがけっこうおもしろい。
思うに、アートもそうだろうと。この前、僭越ながらここで紹介した拙訳書みたいな「つまらない詐欺もどきなんかにかんたんにひっかからないために身につけるべき思考法」を教える本なども多読してももちろんいいのですが、それだけじゃ片手落ちだろうと。いますぐには収入に結びつくわけでもなく、役に立つわけでもないであろうアートこそ、じつは必要だったりすると思う。
ただし、何度かここでも触れてきたように、アイルランドの小説家ジェイムズ・ジョイスが定義したように、世の中にアート、芸術と呼ばれているものには2種類ある。ひとつは「教訓的芸術」、もうひとつは「エピファニーをもたらす芸術」。前者のことをジョイスは「ポルノグラフィー」とも言っている。こんなこと書くと、アーティストには「おまえはなにもわかっちゃいねぇ」と反発してくる人もいるでしょうが、いいえ、そうなんです。これはハッキリ言える。「教訓的芸術」というのは、ひとことで言えば「イデオロギーや正義を一方的に押しつけてくるもの」。この手の作品は、一見、とてもわかりやすい。だからウケはいい。この「わかりやすさ」がじつはクセ者でして、なぜパウロが伝道したイエスの教えが地中海世界を席巻したのかというと、ひとえに「わかりやすかった」から。「信じる者は救われる、そうでない者は……」と、このわかりやすさと断言があらたな信者獲得に貢献し、ついには地中海地域の多くの神々を追放するまでに力をつけた。この点はイスラム教もほぼおんなじで、「砂漠の一神教」の特徴でもあるし、また姿かたちは違えど、旧ソ連型共産主義なんかも似たようなもの。いずれのシステムも共通項は「自分たちが正義で、それ以外は悪魔」的な「単純でわかりやすい線引き」です。米国に多い福音派なんかもっとヒドくて、そういう人たちがトランプという「怪物」を生み出したと言っていい(イエス自身がいまの組織宗教としてのキリスト教を見たら、「ワタシはこんな教えを広めろなんて言ってない!」と嘆いたかもしれないが)。
話もどりまして、ジョイスによれば、ほんとうのアートは「エピファニー」をもたらしてくれるもののほう。でもそれはなにも高尚なゲイジュツに触れろとかそんな意味じゃない。名優の高倉健さんが生前語っていた、「人生には“アッ”と思う瞬間がある」ということを感じさせてくれるもの、目の前に突き付けてくれるものならなんだっていいんです。それがなにかのアニメ作品でも漫画作品でもいっこうにかまわない。「職業に貴賎なし」と言うけれども、アートにも貴賎はない。
いま、仕事がヒマなときには 20 世紀初頭の英国を代表する小説家アーノルド・ベネット(1867ー1931)のエッセイの個人訳を進めているんですが(ナマけないよう、ここでも宣言)、その本にもつぎのようなおあつらえ向きな一文が出てきます。
……芸術の最大の目的のひとつは、精神を搔き乱すことにある。そしてこの「精神の搔き乱し」は、何事も理路整然と考えるタイプの人間が手に入れられる最高の愉楽のひとつである。しかし、この真実を会得できるようになるには、それこそ何度となくこの手の経験を繰り返すしか道はない。
「精神に揺さぶり」をかけることこそアートの役割だと、ベネットもおんなじこと言っているなぁと、このくだりに来たとき思わずひとりごちたしだい。日本で言えば、岡本太郎さんですね。「ナンダコレハ?」というものしかアートと認めなかった真のアーティスト。『フィネガンズ・ウェイク』なんかはきょくたんな例でしょうが、自分が消化できる=理解できるものしか読まず・見ず・聞かずの「三猿」では、それこそ「反ワクチン陰謀論」のごとく、明らかに fake なのに自分にとって都合のよい truth だけをアタマから信じ込むという笑えない悲劇を生む。かつてのナチズムはそういう「大衆の心理」につけこんだ。
もう一度繰り返すけれども、上に書いたように「ナントカ思考法の本」をたくさん読むのは悪いことじゃありません。なんも読まず、のほほんとゲームばっかやってるよりはマシかと(いつ死ぬかわからないのになんともったいない時間の使い方、とお節介ながら思ってしまう。そういう方にはおなじくベネットの超がつくほど有名なエッセイ『自分の時間』をおススメする)。ただし、それはあくまでも「理性(reason)」レベルでの話。あいにく人間はアタマではわかっていても、思考回路そのものに潜む各種のバイアス(ダニエル・カーネマンらの用語で言う「ヒューリスティックス」)が何重にもかかっていて、必ずしも正しい判断を下せるわけではないし(たとえば非常事態のとき。いまだってそうでしょ? ご自身の周囲を見れば、ワケのわからないことしている輩は必ずいる)。それとはべつのレベル、もっと深い深層心理レベルでは、これはもうリクツ云々の次元ではとても「精神の平衡」は保てない。その日の糧さえ得られればそれでよしというレベルでは解決しえない。もし精神的にどん底にまで突き落とされたとき、「教訓的芸術」なんぞで果たして心が軽くなったり、なにかを悟ってふたたび生きよう、などと思えるものでしょうか? イマドキのアーティストにも、このへんわかってない人がけっこういる。『チップス先生さようなら』でも読みなさい。
「自分にとっての“聖地”を持つこと。それは他人が見向きもしないような陳腐な音楽のレコードでもいいし、本を読むことでもいい」と、かつて比較神話学者のジョー・キャンベルは言った。そのキッカケになるようなアートなら、それはアートの本分を果たしていると言えると思う。
2021年08月01日
Land of Unreason
昔、買ったハヤカワファンタジー文庫で『妖精の王国』という作品がありました。作者はリヨン・スプレイグ・ディ・キャンプとフレッチャー・プラットという2人の SF 作家からなるコンビ。このふたりは連名で『ハロルド・シェイ』ものと呼ばれる SF 冒険シリーズを長年、書きつづけてきたんですが、相方プラットが肺癌で亡くなると、このコンビも自然消滅してしまった。
ディ・キャンプの名前を知ってる人っていまの日本でどれくらいいるのかちょっとワカランのですが、その昔『スター・ウォーズ』ものノベライゼーションの翻訳を手がけておられた野田昌宏氏もじつはディ・キャンプ作品を訳されていて、それがあの !! 『コナン・ザ・グレート』なんです。そう、若き日の筋肉隆々シュワちゃん主演のあの映画の原作。
で、今回のお題はそのディ・キャンプ=プラットのコンビが 1942 年に書いた『妖精の王国』の原題をそのまま借用したもの。ちなみに日本語版は 1980 年刊行、訳者は浅羽莢子氏、カバー絵はなんと! 漫画家の萩尾望都先生という、なんとも豪華な組み合わせ。
筋立ては、シェイクスピアで有名な『真夏の夜の夢(正確には「夏至の夜」だが)』と中世ドイツ(神聖ローマ帝国)の英雄バルバロッサ(赤髭王)の伝説とがミックスされたもの。どうしても牛乳が飲みたくなった主人公の外交官バーバーは、妖精のために戸外に出してあった牛乳を飲んでしまい、代わりにスコッチウイスキーを置いて家に帰り、朝、目が覚めるとそこはオベロンとタイタニア夫妻が支配する妖精の王国だった。スコッチを呑んで酔っ払った妖精に「取り替え子(チェンジリング)」とカン違いされたのが、一連の騒動の始まり …… なんで自分が妖精の王国なんぞに引っ張りこまれたのか、さっぱりわけがわからぬまま(だから「わけがわからない、常軌を逸した」王国というわけ)、否応なく冒険する仕儀とあいなり、たとえば「ジャズろうぜ! ブンチャ、ブンチャ」とずっと音楽(ジャズ?)で踊り明かしている種族に出喰わしたかと思えば、「ココはすばらしいところです! あなたもきっと気にいるはず!」と『ホテル・カリフォルニア』の歌詞よろしく強引に引き留められそうになり、そんな手合を振り切って逃げるように脱出を図ると「ただじゃすまないぞ!」とまるで当時のソ連を中心とする共産圏を彷彿とさせたりで、とにかくおもしろい。訳者あとがきにもあるように「ファンタジーの世界を科学を使って説明してみせた」点が、当時の読者にウケた作品です。
なんでまたこんな古い(!)ファンタジーなんか思い出したかと言えば …… いまの世界を見渡すと、まさしく Land of Unreason じゃないかって嘆息をついたから。といっても五輪のことじゃない。たしかにあのバッハ氏たち「オリンピックの汚れた貴族(昔、こういう書名の本があったのだ!)」がゴリ押しして開催したかっこうとなったのは、そりゃどうかと思う。「無理が通れば ……」ってやつですね。あるいは「五輪憲章」と照らし合わせてどうなんだって。でもぶっちゃけ、「地獄の沙汰もカネ次第」、なんですよね。オリンピック資本主義。だからアスリートたちはよけいに気の毒だと思う。スジ違いの批判まで浴びせられるし。まったくもって unreason である。おそらくパリ五輪でもひと悶着ありそうな悪い悪寒を感じる。
ちなみに「デルタ株が急拡大しているのは五輪のせい」という主張にも無理がある。直接的にはあまり因果関係はないと個人的には思っている。たとえば、五輪ではなくて下部組織のひとつの自転車競技関係の話ではあるが、こちらの記事とか。五輪大会関係者の陽性率は、国内の新規患者の陽性率よりはるかに低いということも Bloomberg に出ている。むしろ問題はきのう、ネットで話題になってた「空き病床数 30 万床のコロナ用転用がちっとも進んでいない」って話。つい気になって(この蒸し暑いなか …)コンビニまで行ってくだんの経済紙を1部買い求めたりして、アツいわハラ立つやらでこっちまで unreason な気分(7ー11、悪い気分)。
最後にもうひとつだけ、地元紙に掲載された「五輪に理屈はいらない」という署名評論記事について。1964 年の最初の東京五輪の記録映画を撮っていた市川崑監督を引き合いに出して、こんなふうに書いてあったんでオラびっくらこいたという話。↓
こう書いたあと、なんと「スポーツという素晴らしい人類の文化を4年に1度行いましょう! 五輪は、それだけで、ずっと素晴らしいものになるはずだ …… そもそもスポーツは本質的に素晴らしいものなのだから」
もうこれは巨大なハテナマークが必要。というか、バーバーを危険な目に遭わせた『妖精の王国』の共産主義的種族の一員なのか? なにが「東京五輪を読む」だ! そもそも市川監督の発言が「少々無責任」というのはどういうことか。これは、「戦争の惨禍を知っている者だからこそ思い至った揺るがぬ決意そのものではないか」ってふつう思いません? それともちろん「五輪期間中の休戦協定」は知ってますよね? たしかに五輪は国家と国家のパワーゲームというか、代理戦みたいなところがあって、モスクワ五輪やロス五輪を互いの陣営がボイコットし合ってかんじんの選手たちが泣きを見た(そのひとりが柔道の山下氏。つまりいまの JOC の会長さん)ことも繰り返されてきたし、ミュンヘン大会ではテロ事件まで起きて世界が震撼したこともあった。
それでも、もしオリンピックがただの「スポーツの祭典」になりさがったら、そもそもクーベルタンの理想なんてのも一種のイデオロギーなのだから意味なくなるし、そんなオリンピズムもクソもない五輪大会に、自身の人生をすべて賭けてまで出場しようなんていうお気楽なアスリートなんてただのひとりもいないと思うんですがね …… もうなに言ってんのかここにいる門外漢はサッパリで、というかアタマがウニになったみたいで、いよいよ unreason さは増してくる。いやここまでくると chaos か。ほんとにスポーツの評論家なんでしょうか?? それこそただの運動会、命がけでやるものじゃないでしょうに。
ということで、 unreason な世界からいっときでも正気な世界にもどるには、トシだけくった人間としてはまこと情けないかぎりではあるが、こんな若い人の投稿をここでも紹介させていただこうと思う。というか、申し訳ないけどもうこの地元紙購読するのやめようかな、ヘイトスピーチもどきな老政治評論家もあいも変わらず健筆を振るってるしで。ついでに言うけど、おなじ新聞社の社員がウチの近所で危険運転の罪でお縄になり、挙句の果てに社長は文字どおりセクハラ(!!)を働くわで …… 紙の新聞は処分に困るし(窓拭きにはもってこいだが)、ここはひとつ「いまだ FAX が現役の島国人」から脱却しないといかんな …… とも思いましたので。でも是々非々、ということで、今回はすばらしい読者からの投稿を引用して結びたい。このまま終わったらなんともシマらないので悪しからず。
これ書いたのは 17 歳の女子高校生の方。新しいものの見方というか、今回の世界的な災厄によってそれまで考えもしなかった事柄に目を見開かれ、古い世界が終わって新しい世界が現れた。若いうちにこういうことに気がつくと気がつかないとでは、おそらくその後の人生にひじょうに大きな影響をもたらすと思う。あんまりこういうこと言いたくはないが、どっかの国の「環境少女」みたいに、さんざ年上の人間たちの行状を非難しておきながら、「今日から大人の仲間入りをしたからみんなとパブに繰り出すぜ〜」みたいな発言を全世界に向けて臆面もなく発信している方とはそれこそ「月ちゃん」とスッポンの差があると思いますね。ちょっとガス抜きが過ぎたか(⇒ 渡辺月についてはこの拙記事で)。
追記:unreason の定義でメリアム=ウェブスターを見たらこんな例文がありました。
With its double binds and reversals, life in a pandemic feels beholden to dream logic, to the unreason of lying awake in the dark.
前後関係がわからないけれども、おそらく「パンデミック下の生活にはどうしてもダブルバインドや、すべてがひっくり返ったような当惑がつきまとう。だから、論理の飛躍した夢や、ただわけもわからず暗闇に目を開けて横たわっていることのほうがはるかにありがたいと感じる」くらいの意味かと思う(引き合いに出されている後者は、たとえば「金縛り」のような状態だろう)。とにかくパンデミックがいちおうの終息を見て(未来予測はアテにならないという本を読んだばっかでなんなんですが、今後の世界は「コロナ以前」にはぜったいに戻らないと思っている)、マスクで息が詰まるような生活がすこしでも改善されれば、と願ってはいる。
ディ・キャンプの名前を知ってる人っていまの日本でどれくらいいるのかちょっとワカランのですが、その昔『スター・ウォーズ』ものノベライゼーションの翻訳を手がけておられた野田昌宏氏もじつはディ・キャンプ作品を訳されていて、それがあの !! 『コナン・ザ・グレート』なんです。そう、若き日の筋肉隆々シュワちゃん主演のあの映画の原作。
で、今回のお題はそのディ・キャンプ=プラットのコンビが 1942 年に書いた『妖精の王国』の原題をそのまま借用したもの。ちなみに日本語版は 1980 年刊行、訳者は浅羽莢子氏、カバー絵はなんと! 漫画家の萩尾望都先生という、なんとも豪華な組み合わせ。
筋立ては、シェイクスピアで有名な『真夏の夜の夢(正確には「夏至の夜」だが)』と中世ドイツ(神聖ローマ帝国)の英雄バルバロッサ(赤髭王)の伝説とがミックスされたもの。どうしても牛乳が飲みたくなった主人公の外交官バーバーは、妖精のために戸外に出してあった牛乳を飲んでしまい、代わりにスコッチウイスキーを置いて家に帰り、朝、目が覚めるとそこはオベロンとタイタニア夫妻が支配する妖精の王国だった。スコッチを呑んで酔っ払った妖精に「取り替え子(チェンジリング)」とカン違いされたのが、一連の騒動の始まり …… なんで自分が妖精の王国なんぞに引っ張りこまれたのか、さっぱりわけがわからぬまま(だから「わけがわからない、常軌を逸した」王国というわけ)、否応なく冒険する仕儀とあいなり、たとえば「ジャズろうぜ! ブンチャ、ブンチャ」とずっと音楽(ジャズ?)で踊り明かしている種族に出喰わしたかと思えば、「ココはすばらしいところです! あなたもきっと気にいるはず!」と『ホテル・カリフォルニア』の歌詞よろしく強引に引き留められそうになり、そんな手合を振り切って逃げるように脱出を図ると「ただじゃすまないぞ!」とまるで当時のソ連を中心とする共産圏を彷彿とさせたりで、とにかくおもしろい。訳者あとがきにもあるように「ファンタジーの世界を科学を使って説明してみせた」点が、当時の読者にウケた作品です。
なんでまたこんな古い(!)ファンタジーなんか思い出したかと言えば …… いまの世界を見渡すと、まさしく Land of Unreason じゃないかって嘆息をついたから。といっても五輪のことじゃない。たしかにあのバッハ氏たち「オリンピックの汚れた貴族(昔、こういう書名の本があったのだ!)」がゴリ押しして開催したかっこうとなったのは、そりゃどうかと思う。「無理が通れば ……」ってやつですね。あるいは「五輪憲章」と照らし合わせてどうなんだって。でもぶっちゃけ、「地獄の沙汰もカネ次第」、なんですよね。オリンピック資本主義。だからアスリートたちはよけいに気の毒だと思う。スジ違いの批判まで浴びせられるし。まったくもって unreason である。おそらくパリ五輪でもひと悶着ありそうな悪い悪寒を感じる。
ちなみに「デルタ株が急拡大しているのは五輪のせい」という主張にも無理がある。直接的にはあまり因果関係はないと個人的には思っている。たとえば、五輪ではなくて下部組織のひとつの自転車競技関係の話ではあるが、こちらの記事とか。五輪大会関係者の陽性率は、国内の新規患者の陽性率よりはるかに低いということも Bloomberg に出ている。むしろ問題はきのう、ネットで話題になってた「空き病床数 30 万床のコロナ用転用がちっとも進んでいない」って話。つい気になって(この蒸し暑いなか …)コンビニまで行ってくだんの経済紙を1部買い求めたりして、アツいわハラ立つやらでこっちまで unreason な気分(7ー11、悪い気分)。
最後にもうひとつだけ、地元紙に掲載された「五輪に理屈はいらない」という署名評論記事について。1964 年の最初の東京五輪の記録映画を撮っていた市川崑監督を引き合いに出して、こんなふうに書いてあったんでオラびっくらこいたという話。↓
五輪とは何かと考え続けた市川監督は、64 年の記録映画の最後をこう結んだ。《この創られた平和を夢で終わらせていゝのであろうか》
…… このエンディングの言葉は曖昧で現実味がなく、少々無責任。それは多分「世界平和」というできもしない目標をオリンピックが掲げているからだろう。
こう書いたあと、なんと「スポーツという素晴らしい人類の文化を4年に1度行いましょう! 五輪は、それだけで、ずっと素晴らしいものになるはずだ …… そもそもスポーツは本質的に素晴らしいものなのだから」
もうこれは巨大なハテナマークが必要。というか、バーバーを危険な目に遭わせた『妖精の王国』の共産主義的種族の一員なのか? なにが「東京五輪を読む」だ! そもそも市川監督の発言が「少々無責任」というのはどういうことか。これは、「戦争の惨禍を知っている者だからこそ思い至った揺るがぬ決意そのものではないか」ってふつう思いません? それともちろん「五輪期間中の休戦協定」は知ってますよね? たしかに五輪は国家と国家のパワーゲームというか、代理戦みたいなところがあって、モスクワ五輪やロス五輪を互いの陣営がボイコットし合ってかんじんの選手たちが泣きを見た(そのひとりが柔道の山下氏。つまりいまの JOC の会長さん)ことも繰り返されてきたし、ミュンヘン大会ではテロ事件まで起きて世界が震撼したこともあった。
それでも、もしオリンピックがただの「スポーツの祭典」になりさがったら、そもそもクーベルタンの理想なんてのも一種のイデオロギーなのだから意味なくなるし、そんなオリンピズムもクソもない五輪大会に、自身の人生をすべて賭けてまで出場しようなんていうお気楽なアスリートなんてただのひとりもいないと思うんですがね …… もうなに言ってんのかここにいる門外漢はサッパリで、というかアタマがウニになったみたいで、いよいよ unreason さは増してくる。いやここまでくると chaos か。ほんとにスポーツの評論家なんでしょうか?? それこそただの運動会、命がけでやるものじゃないでしょうに。
ということで、 unreason な世界からいっときでも正気な世界にもどるには、トシだけくった人間としてはまこと情けないかぎりではあるが、こんな若い人の投稿をここでも紹介させていただこうと思う。というか、申し訳ないけどもうこの地元紙購読するのやめようかな、ヘイトスピーチもどきな老政治評論家もあいも変わらず健筆を振るってるしで。ついでに言うけど、おなじ新聞社の社員がウチの近所で危険運転の罪でお縄になり、挙句の果てに社長は文字どおりセクハラ(!!)を働くわで …… 紙の新聞は処分に困るし(窓拭きにはもってこいだが)、ここはひとつ「いまだ FAX が現役の島国人」から脱却しないといかんな …… とも思いましたので。でも是々非々、ということで、今回はすばらしい読者からの投稿を引用して結びたい。このまま終わったらなんともシマらないので悪しからず。
コロナウイルスではなくても、世界には貧困や紛争で苦しみながら生き抜いている人たちがいる。それに比べて私たちは少しの自粛だけでも耐えることができないと考えたら自分がちっぽけに思えた。今まで当たり前の世界に頼りすぎていた自分が情けなかった。
これ書いたのは 17 歳の女子高校生の方。新しいものの見方というか、今回の世界的な災厄によってそれまで考えもしなかった事柄に目を見開かれ、古い世界が終わって新しい世界が現れた。若いうちにこういうことに気がつくと気がつかないとでは、おそらくその後の人生にひじょうに大きな影響をもたらすと思う。あんまりこういうこと言いたくはないが、どっかの国の「環境少女」みたいに、さんざ年上の人間たちの行状を非難しておきながら、「今日から大人の仲間入りをしたからみんなとパブに繰り出すぜ〜」みたいな発言を全世界に向けて臆面もなく発信している方とはそれこそ「月ちゃん」とスッポンの差があると思いますね。ちょっとガス抜きが過ぎたか(⇒ 渡辺月についてはこの拙記事で)。
追記:unreason の定義でメリアム=ウェブスターを見たらこんな例文がありました。
With its double binds and reversals, life in a pandemic feels beholden to dream logic, to the unreason of lying awake in the dark.
前後関係がわからないけれども、おそらく「パンデミック下の生活にはどうしてもダブルバインドや、すべてがひっくり返ったような当惑がつきまとう。だから、論理の飛躍した夢や、ただわけもわからず暗闇に目を開けて横たわっていることのほうがはるかにありがたいと感じる」くらいの意味かと思う(引き合いに出されている後者は、たとえば「金縛り」のような状態だろう)。とにかくパンデミックがいちおうの終息を見て(未来予測はアテにならないという本を読んだばっかでなんなんですが、今後の世界は「コロナ以前」にはぜったいに戻らないと思っている)、マスクで息が詰まるような生活がすこしでも改善されれば、と願ってはいる。