2022年05月04日

ヴォーカロイドから教えてもらったこと

 いま、『今日は一日ラブライブ三昧3』を聴取しながら書いてます。

 ちょうどかかっていたのが「Awaken the power」で、コレは函館聖泉女子高等学院という函館市内の私立高校に在籍する鹿角(かづの)姉妹のユニット SaintSnow と、沼津・内浦の浦の星女学院スクールアイドル Aqours の1年生組とが合同した SaintAqoursSnow として披露した劇中歌。畑亜貴さんの歌詞はいつにも増してさらに力強く、「聴いている人の背中を押す」パワーにあふれた楽曲なんですが、昨夜、『虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』2期を地上波で観る前に(田舎なんで放映日時が遅いんです)たまたまコチラの番組を視聴した。視聴後、頭の中に響いていたのがまさにこの「Awaken the power」の歌詞(“セカイはきっと知らないパワーで輝いてる/なにを選ぶか自分しだいさ/眠るチカラが動きはじめる”……)でした。

 初音ミクという「16歳の少女歌手」がデビューするまでの経緯ははじめて知ることばかりでそれだけでもすこぶる「蒙を啓かれた」思いもしたんですが、そのなかでもとくにボカロPと呼ばれる、プロデューサー的な人たちの話がかなり刺さったのも事実。ボカロPの人たちは、いわば初音ミクというヴォーカロイドの「中の人」、狂言回し的な役回りの人のことです。

 不肖ワタシが「初音ミク」という名前をはじめて耳にしたのは初音ミクが登場したばかりのころ、当時在籍していた職場の年下の同僚からだった。はつねみくって聞いて、ナニソレ意味ワカンナイ(μ's の西木野真姫の口癖です)状態だったのだが、この番組で紹介されたような、初音ミクがはじめて「一般の人」にも TV で紹介されたときの「偏見に満ちた塩対応」などもちろんしなかった。この手のトピックを取り上げるたびにおんなじこと書いてきたような気もしないわけでもなくなくはないんですが(黒澤ダイヤの科白のパロディ)、ワタシはこう見えて(すでに五十路[「いそじ」と読む、念のため]を超えたおっさん)、自分より若い世代が心血を注いでいることに対してアタマゴナシに「へっ!」と思ったことなど一度もないのが自慢。むしろ逆。「オラにももっと教えてくれずら♪」と相手がドン引きするほど首を突っ込みたいほう。沼津が舞台の『サンシャイン!!』だってそうだったし。首を突っ込みすぎて、ぞっこんというかどっぷりというか、完全に沼にはまってしまった感はある(微苦笑)。

 初音ミクの話にもどって、印象的だったシーンをふたつ。まず、ボカロPきくお氏のこちらの楽曲。「ソワカ」って出てきますが、これは「般若心経」の一節の引用。『デジタル大辞泉』によると「《(梵)svāhāの音写。円満・成就などと訳す》仏語。幸あれ、祝福あれ、といった意を込めて、陀羅尼・呪文 (じゅもん) などのあとにつけて唱える語」とあります(梵というのは梵語、サンスクリット語のこと)。それとそうそう、あの「うっせぇうっせぇうっせえわ!」の Ado さん。彼女がドスを効かせた声で連呼して歌う例のメロディーライン、なんかどっかで聞いたことある …… と思ったら、安良里のお寺の法会でいつも耳にする「般若心経」のリズムとおんなじだった(とくに「ぼーじーそーわーかー」のところ。アレレこれも「そわか」じゃん)。

 米国を代表するジャーナリストのひとりビル・モイヤーズは比較神話学者のジョー・キャンベルとの対談(『神話の力』)で、映画『スター・ウォーズ』の最初の3部作(EP 4〜6)について、「これは最新の衣装をまとった、とても古い話だな」という第一印象を語っている。こちらの楽曲もまったくおなじですね。技術的に音楽をこさえているのは DTM つまり「打ち込み」という「最新の衣装(いや、意匠か)」ながら、その中身は古人(いにしえびと)の叡智というか、古いものなんですね。「最新の革袋に入れたヴィンテージものワイン」といったおもむき。

 ふたつ目は、ボカロPきくお氏の密着取材の場面。きくお氏はいまは地方にお住まいで、そこで楽曲作りをされているようなのですが、ここしばらく新曲が発表できず、スランプに陥っていたらしい。その間、適応障害(いま、わりとよく聞く症例のひとつ)と診断されたりとしんどかったようですが、ようやく前記の「ソワカの声」を完成させた、というところまでが密着取材されていた。そして番組に登場したボカロPの人たちがほぼ異口同音に、「初音ミクという存在に救われてきた」という趣旨のことをおっしゃっていた。実際の作業のようすも興味津々で拝見したが(人様の仕事部屋とか書斎とかを見るのが大好きなスノッブ人間)、たとえば「発語の最初の音」の調整風景なんか、まんま発声レッスン、楽器で言うところのヴォイシングですね。舞台上のボーイソプラノのソリスト少年に、「そのハ〜…からはじまるくだり、それはもっとアタマの先から客席の真後ろの壁面めがけて思いっきりブツけるように歌ってYO!」みたいにヴォイストレーナーや指揮者が指示を飛ばすのと変わりなかった。

 さて番組のエンディングで「初音ミクとは?」との問いに対し、きくお氏はこう答えていた。
純粋な音楽であること
純粋な魂であって
純粋な美そのものであること

これまたキャンベルや、小説家のジェイムズ・ジョイスが言っていたのとまったくおなじだった。ジョイスは「真の芸術」の定義を、「エピファニーを与えるもの」だと言った。「役に立つ」からとか、「ある政治的イデオロギー」を声高に押しつけるのではない(そういうのをジョイスはそれぞれ「ポルノグラフィー」、「教訓的芸術」と呼んだ)。すなおに感動しましたよ。

 初音ミクの知名度は、いまやグローバル(『ラブライブ!』シリーズの知名度もおなじくグローバル。もっともこれは日本のアニメ全般に言えることかもしれないが)。初音ミク動画を動画共有サイトにアップすれば、速攻で海外ガチ勢の「歌ってみた」的なコール&レスポンス動画が返信代わりにアップされる。これって和歌の「返歌/反歌」にも似ている。なので、こうしたやりとりはじつは平安時代とあまり変わらないのかもしれない。変化したのはそれを相手に伝えるツールと通信手段だけだ。

 前にもここで触れたかもしれないけれども、初音ミクの名がクラシック音楽ガチ勢の耳にも強烈に届いたのは、2016 年に亡くなった冨田勲氏が手掛けた『イーハトーヴ交響曲』での起用でしょう(初演は 2012年)。

 そんなワタシが好きな初音ミクヴァージョンは、やっぱコレですかねぇ(以前にも関連動画を紹介したことがあったが、重複を顧みずもう一度)↓



 最後に、備忘録代わりに『今日は一日ラブライブ三昧3』のオンエア曲リスト(セットリスト、略してセトリと言うそうですが)をコピペしておきます(注:番組公式さんに怒られたらすぐ引っこめますずら、悪しからず)
01. 始まりは君の空/Liella!
02. 僕らのLIVE 君とのLIFE(TVサイズ)/μ's
03. 僕らは今のなかで(TVサイズ)/μ's
04. ユメ語るよりユメ歌おう(TVサイズ)/Aqours
05. 未来の僕らは知ってるよ(TVサイズ)/Aqours
06. 虹色Passions!(TVサイズ)/虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会
07. NEO SKY, NEO MAP!(TVサイズ)/虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会
08. START!! True dreams(TVサイズ)/Liella!
09. 未来は風のように(第11話ver.)/Liella!
10. SUNNY DAY SONG (Movie Edit)/μ's
11. Fantastic Departure!/Aqours
12. TOKIMEKI Runners /虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会
13. もぎゅっと“love”で接近中!/μ's
14. Snow halation /μ's
15. Love wing bell /星空 凛(飯田里穂)、西木野真姫(Pile)、小泉花陽(久保ユリカ)、 絢瀬絵里(南條愛乃)、東條 希(楠田亜衣奈)、矢澤にこ(徳井青空)
16. なってしまった!/μ’s
17. ススメ→トゥモロウ/高坂穂乃果(新田恵海)、南ことり(内田彩)、園田海未(三森すずこ)
18. ほんのちょっぴり/澁谷かのん(伊達さゆり)
19. 輝夜[かぐや]の城で踊りたい/μ's
20. ミはμ'sicのミ/μ's
21. 未熟DREAMER /Aqours
22. 想いよひとつになれ/Aqours
23. Thank you, FRIENDS!!/Aqours
24. DREAMY COLOR/Aqours
25. 青空Jumping Heart/Aqours
26. BANZAI! digital trippers(1CHO)/Aqours × 初音ミク
27. VIVID WORLD (TVサイズ)/朝香果林(久保田未夢)
28. サイコーハート (TVサイズ)/宮下愛(村上奈津実)
29. La Bella Patria(TVサイズ)/エマ・ヴェルデ(指出毬亜)
30. 決意の光(1CHO)/三船栞子(小泉萌香)
31. Dream with You(TVサイズ) /上原歩夢(大西亜玖璃)
32. Poppin' Up!(TVサイズ)/中須かすみ(相良茉優)
33. Solitude Rain(TVサイズ) /桜坂しずく(前田佳織里)
34. Butterfly(TVサイズ)/近江彼方(鬼頭明里)
35. DIVE!(TVサイズ)/優木せつ菜(楠木ともり)
36. ツナガルコネクト(TVサイズ) /天王寺璃奈(田中ちえ美)
37. L!L!L! (Love the Life We Live)/虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会
38. 夢がここからはじまるよ/虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会
39. Music S.T.A.R.T!! /μ’s
40. Wonderful Rush /μ’s
41. それは僕たちの奇跡/μ’s
42. Cutie Panther /BiBi(南條愛乃、Pile、徳井青空)
43. START:DASH!!/μ's
44. Tiny Stars /澁谷かのん(伊達さゆり)、唐 可可[タン・クゥクゥ](Liyuu)
45. ノンフィクション!!/Liella!
46. 未来予報ハレルヤ!/Liella!
47. Awaken the power /Saint Aqours Snow
48. 夜明珠[イエミンジュ](1CHO)/鐘 嵐珠[ショウ・ランジュ](法元明菜)
49. Toy Doll(1CHO)/ミア・テイラー(内田 秀)
50. HOT PASSION!!/Sunny Passion
51. Shocking Party /A-RISE
52. LIVE with a smile!/ Aqours、虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会、Liella!
53. A song for You! You? You!!/μ's
54. なんどだって約束!/Aqours
55. ユメノトビラ/μ's
56. WATER BLUE NEW WORLD /Aqours
57. KiRa-KiRa Sensation!/μ's
58. キセキヒカル/Aqours
59. 夢が僕らの太陽さ/虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会
60. Wish Song /Liella!
61. 僕たちはひとつの光/μ's
62. 勇気はどこに?君の胸に!/Aqours
63. MONSTER GIRLS /R3BIRTH(小泉萌香、内田 秀、法元明菜)
64. 常夏☆サンシャイン/澁谷かのん(伊達さゆり)、唐可可(Liyuu)、嵐千砂都(岬なこ)、平安名すみれ(ペイトン尚未)
65. Colorful Dreams! Colorful Smiles!/虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会
66. Starlight Prologue /Liella!

……ええっと個人的にひとこと。……「ビリアゲ」からの「ブラメロ」が入ってないんか〜い!! 

posted by Curragh at 22:02| Comment(0) | TrackBack(0) | NHK-FM

2022年05月02日

『暴力の人類史』

 ……の、個人的読後感です。

 じつはコレ必要に迫られてあわてて図書館で借り出したものなんですが …… なんせ上下巻合わせて千ページ超えというトンデモない本だったので、とりあえず上巻から、と思ってほぼ一日1章の分量で5日くらいで付箋貼りつつ読んだんですが、はっきり言って駄作だと感じた(ワタシは基本的に断定的な物言いはしたくない人ながら、この本に関してはそもそも時間のムダだったように感じたもので)。

 もちろん部分的には卓見というか、なるほどと思わせることも書かれてありますよ。でもそれはシェイクスピアやワイルド、カントの『永遠平和のために』、ホッブズの『リヴァイアサン』の引用や説明など(「旧約聖書の歴史的記述はフィクションである[p.14]」というのは正解)、いわば「ネタの部品取り」には最適かもしれない、という話。しかしながら、そもそもの主張(といっても、この先生の仮説)と、その裏付けでえんえんとつづく講釈とグラフや数字などの「統計データ」の扱いがかなり恣意的ないし誘導的で、「上巻でこれじゃあ、下巻までしっかり付き合う必要はなさそう」と思い至りました(苦笑)。とりあえずなんとか短めに、上下巻に分けて妄評をば(いつものことながら、下線/太字強調は引用者。なお縦書き本の数字表記はすべてアラビア数字表記に変換してある)。

上巻:1991年にアルプス山中で発見されたアイスマン「エッツィー」(この前、NHK でも再放送されてたんで観てましたが)はじつは殺害の被害者だった、というのは有名な話から始まって、その当時から比べていまはどれだけ危険/安全か、と論を起こすわけですが……ようするに、「昔はヨカッタ」的なことを平然と口走る面々に対して「んなことはない。昔の人類はいかに残虐で暴力的だったか」を力説しているような話が続く。それだけ歴史(当然ここでは西洋史だが。もっとも日本にもその手の人はゴマンといて、「江戸時代はヨカッタ」なんてこと言い出す人はいまだ後を絶たず)を知らない白人が多いのかってこっちは思ってしまいますが、それはともかく気になったのは、やたらと昔の人と過ぎし日の社会の「暴力性(とその死亡者数の多さ)」ばかりをあげつらっていること。アーサー王もののひとつ『ランスロット(ランスロ、または荷車の騎士)』などを例に挙げて、「たしかに騎士は貴婦人を守りはするが、それはほかの騎士に誘拐されないためにすぎなかった」、「今日言われるような騎士道精神とはほど遠い(pp.56−7)」と手厳しい。

 この手の本を読み慣れてないとついスルーしてしまいがちなところなんですが、では今日言われるような騎士道精神って、いったいなんなんでしょう? 中世史家がここを読んだら、きっと「それは一般の現代人が勝手にこさえた妄想」だと現下に返すんじゃないですかね。「イルカはかわいいし頭もいいから食べるな」というじつに手前勝手な屁理屈と似たかよったか(西伊豆語)で、けっきょくいまのわたしたちの(=西洋人の)物差しで書いているだけなんじゃないでしょうか。こういう書き方がためつすがめつのオンパレードです。

 だいぶ前にここでも書いたヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『パルツィヴァール』。たしかに当時は戦死者も多かったし、殺し方、とくに刑罰は磔刑をはじめ八つ裂きあり火あぶりあり串刺しありと、とても正視できるものじゃありませんが(そういう刑罰道具ばかりを陳列した博物館まである。pp. 247 ff)、新生児や感染症の死亡率の高さなども考えると、「暴力死」の割合が突出して高かったわけでもなかろう、と凡人は思うわけです。では、全死亡の「外生的(こういう社会学用語ってどうもムシが好かないが)」要因をカテゴライズして、「戦死」とか「リンチ」とか「殺し」で死んだ人、つまり広義の「暴力」で死んだ人がいったいどれくらいいたんだろ、って当然疑問に思うわけです。第2章にそんな疑問の答え(?)になりそうな横棒グラフがあったりしますが、いずれ研究が進めば根拠にした数字はコロコロ変わりそうな印象のほうが強い。では時代が下れば下るほどデータは正確になるのか、といえばそうでもなくて、「近代国家になると……一つの『正しい』推計を示すことは不可能だ(p.112)」。というわけで、この本では、仮説を立証するために、当然のごとくこういうテクニックが多用されることとあいなる──「もし記録に残されていない戦闘による死や、飢饉や病気による間接的な死も含めるために 20 倍にしても、依然としてその割合は1パーセントに満たない(p.113)」!!!

 第二次大戦後、ロシアのウクライナ侵攻まで(この邦訳書の原著が刊行されたのは 2011 年)70 余年、「平穏な戦後体制(この本では「長い平和」と呼んでいる)」が続いたのはなぜか、という話で著者は、「[ゲリラ、準軍組織間の戦争は]『長年にわたる憎悪』が動機になっているとされる。カラシニコフ銃を抱えたアフリカの少年というおなじみのイメージは、世界の戦争の負荷は減ったのではなく、北半球から南半球へと移動したにすぎないという印象を裏打ちしている(p.522)」と書いてます。で、「この新しい戦争には飢饉や病気がつきものであり、そのため民間人の犠牲者が数多く出ることになる。だがその犠牲者は戦死者としては数えられない場合がほとんどだ」。…… なんか前の段落で引用した記述と矛盾してませんか?? 

 こういう記述の齟齬に加え、なんでもかんでも「暴力」でひっくるめて論じているものだから、「それとコレとは違うやろ〜」ってツッコミたくなることもしばしば。下巻にはなんと「菜食主義者」増加との相関関係まで取り上げられていて、ここまでくるとため息しか出てきません。

 古代史で戦争、とくるとたいてい引き合いに出されるのが『バガヴァッド・ギーター』の、アルジュナ王子を叱責するクリシュナ神の有名なくだり。果たせるかなこの本にも出てきたんですが(オッペンハイマーの有名な捨てゼリフ? の引用もね)、それがなんとジェノサイド(!)を論じたセクションでして、クロムウェルによるアイルランドのドロヘダ虐殺と同列に扱われてて草(いまふうの言い方をしてみましたずら)。「行動の結果を恐れる気持ちと、行動の成果を望む気持ちとをすべて捨てることによって、人はこれから果たさなければならない務めを、執着心なしに果たすことができます」(ジョーゼフ・キャンベル『生きるよすがとしての神話』)。こっちの解釈のほうが言い得て妙、て気がしますがね。

 あと 19世紀末のドイツロマン主義を「(人道主義的な革命を起こした)啓蒙主義と相容れない、反知性主義」とばっさり切った考察とかイスラム世界に関するくだりとか(あくまで西洋中心の記述のため、言及箇所は本の分厚さの割にめちゃ少ない。というかコレ「索引」くらいつけろよ〜、探すのタイヘンじゃんか)、「まったく新しい暴力エンタテインメントの形態であるビデオゲームが人気を博している(p.242)」ってありますが、ワタシはむしろ見方が逆でして(女性を商品化して見せているきわどいポルノはイカンと思うが)、たとえば昨今隆盛を見せている eスポーツ。あれって考えようによっては文字どおりスポーツ、つまりかつては血みどろの殺し合い、ないし「名誉の決闘」だったものが、じつに平和的に昇華されたすばらしい競技じゃないですか。あいにくこの本を書いた先生の眼には、低俗なポルノ産業とおなじものに映ったようです。

下巻:とりあえず目についたことだけを少し。p. 230以降の「ヒトの脳の構造」の話は興味を惹かれますが、とにかくあっちこっちと記述が飛びすぎて、ついてゆくのがタイヘン。でもけっきょく結論、言いたいことはひとつなので、めんどくさいと思ったら飛ばし読みをおススメします(プロットの入り組んだ小説とちがって、この手のノンフィクションものは流れがつかみやすい)。

 菜食主義者の話(pp. 169ff)ですが、動物の肉を食べることと、長期間にわたる暴力低下傾向との相関関係……は、あるとは思うが、なんかこう「肉食は悪」みたいな印象は拭えない。もちろんそれが著者の主張ではないものの、西洋の白人の価値観を押し付けられているような感じは残る。というかそもそも次元の異なるトピックどうしを、なんでもかんでも「暴力」枠に押し込んで論じているものだから、本の厚みだけはいや増し、という感じ。

 それでも著者はとても clever(この形容詞は「頭がよい」というより、「キツネみたいにずる賢い」というニュアンスが強い。あなたは clever だと言われたら、それは褒められたのではなく、ケナされたと思ったほうがいい)な書き方をしています。上巻から下巻まで、随所に「もっとも[暴力の]減少はなだらかに起きたわけではなく、……暴力が完全にゼロになったわけでもない(上巻 p.11)」みたいな逃げ口上を用意している。ひとりだろうと全人類が吹き飛ぶ戦争だろうと、殺しは殺しではないですか、という根源的な問いに対してもしっかり答えを用意して、「逃げて」いる(下巻 p.579)。

 最後に翻訳について。訳者先生は名うてのベテランの大先生なので、最初のほうとか「Kindle 試し読み」で突き合わせたりしましたが、もちろん問題なし。むしろ勉強になる(とくにこの手のとっつきにくい本では)。ただし誤植はやや多め。これは訳者先生ではなくて、校正・校閲側の見落としのせい(pp.236−37の「フローニンゲン」と「クローニンゲン」、p.606の「徹底した」など)。それと p. 143の『ローランドの歌』って、『ロランの歌』のことですかね? 

 この本を読んでここにいる門外漢がどうにも腑に落ちてこなかったのは、けっきょくこういうことではないかと思う:
マクルーハンの本自体が、新しいメディアの作り出した問題よりむしろ印刷文化特有の問題を立証しているように見える……この本は、いかに資料過多が一貫性の欠如につながるか、さらなる証拠を与えてくれた

 引用したのはつい最近、「日本の古本屋さん」で手に入れた 30 数年も前の『印刷革命』という、「印刷術の発明によって、旧来の文字文化から新しい文字文化=活字メディアへと移行したとき、それはどんな影響をおよぼしたか」を考察したホネのある原書の邦訳本の「まえがき」なんですが、ワタシがこの大部の本に抱いたウソ偽りない読後感が、まさしくコレだった。ウクライナ情勢が日増しに緊迫度を増すなか、「戦争」という究極の暴力に関して読むのなら、こちらも先日、NHK で再放送されていたロジェ・カイヨワの『戦争論』のほうがまだよいかと思ったしだい。

評価:るんるん

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2022年04月14日

洗足木曜日のバタフライ効果

 本日は、キリスト教圏では最重要の移動祝祭日(movable feast)、復活祭直前の受難週(聖週間)の洗足木曜日(Maundy Thursday、今年の復活祭は奇しくも満月と重なった 17日)。イエスが最後の晩餐の前、12人の弟子の足を洗う儀式をおこなったことを記念する日にして、ラテン語版『聖ブレンダンの航海』で、現在のフェロー諸島に修道院長ブレンダンたち一行がたどり着いたと書かれた日でもあります。

 クレムリンが(ノーム・チョムスキーだったか、いくら NATO の東方拡大に腹を立てていたとはいえ)じつに身勝手な理由をこじつけて、それまで平穏無事につつましく日々を送っていた市井の人びとに銃口を向け、巡航ミサイルを落としまくり、首都キーウ(今後、ウクライナの地名表記は判明しているかぎりヴァーナキュラーで表記します)から撤退したはよいが地雷だの爆弾だのをバラまいたまま立ち去ったりと、ソメイヨシノがいままさに満開、散り始めの日本にいる身にはにわかには信じがたい惨状を TV 越しに見せつけられる、 2022 年の春になってしまった。

 しがない門外漢がここでこんなことぐだぐだ書いたところでどうだってことはもちろんないんですけれども、ロシアの大統領って、たしか熱心なロシア正教の信徒じゃなかったかしらね? 聖週間なんだよ。ダンテ・アリギエーリがこの凄惨きわまる光景を目の当たりにしたら、きっとこれを仕掛けた張本人と、実際に攻撃して、市民を殺しまくった手合いはすべからく「インフェルノ(もちろんこれは『神曲』の「地獄篇」の原題から)」送りになると確信するんじゃないでしょうかね。

 英国の経済誌 Economist をはじめ、いま欧米メディアはウクライナ戦争一色という感じで、不肖ワタシのところに来るご依頼も、さっき触れたチョムスキーをはじめとする「知の巨人」と呼ばれている人が寄稿したコラムが多いんですが、前の米大統領といいこんどの戦争といい、いったいどこまで歴史を逆走すれば気が済むんでしょうね。ほんと常人には気が知れないとはこのこと。

 クレムリン筋はあいもかわらずディープフェイクやらサイバー攻撃やらも動員して「悪いのはウクライナ」説を強弁してますけれども、彼らに教えてやりたいのは、人間の歴史を動かしてきたのはたいていの場合、「バタフライ効果」だということ(NHK の番宣ではない)。たとえば女性首相(まだ 30 代!)率いる北欧のフィンランドと──コロ助集団免疫政策は失敗だったとはいえ──スウェーデンのここ数日の動きなんかどうでしょうか。これってロシアが望んでいた方向とまるで逆の動きが急加速したことになりませんか。

 グローバリズムはこれで終わったとかなんとか言われてますけれども、ロシアに経済制裁を仕掛ければそのぶん、ブーメランでこちら側も無傷安泰というわけにはぜったいにいかないのも現実。コロ助対策ではてんでバラバラだった欧州も、前世紀の2度の世界大戦の甚大な犠牲はいまだ記憶に生々しく、そして地続きということもあり、対ロシアではいっきに団結した印象を受けます。とくに日本と同じ敗戦国ドイツまで、NATO への防衛費負担の GDP 比を引き上げると表明していますし。さらに驚いたのは、クレムリンは当初ウクライナではなく、なんとバルト3国(!)に攻め込むつもりだったとか。懸念されるのはもちろん、東欧全域の不安定化です(最近の仕事でとくに印象に残っているのは、そのバルト3国のひとつエストニア出身の世界的指揮者、パーヴォ・ヤルヴィ氏のインタビュー記事。当時のエストニア人は旧ソ連時代にひどい目に遭わされたこととか、涙なしでは読めなかったですね)。

 とはいえ、もうひとつ個人的に気に入らないのが、「知の巨人」たちが早々に「第三次世界大戦」と口走っていること。ウクライナの大統領はしかたない。一方的に攻め込まれた当事者だし、レトリックとしてこうでも言わないと、「環境少女」並みに self-complacent な EU 諸国を突き動かすことはできないと計算しての発言だろうから。ただし、それ以外の「外野」は軽々にそんなことを口にしてはならんでしょう。先の世界大戦で犠牲になった数千万柱に対し、はなはだ不穏当かつ失礼千万な無責任発言としか言いようがない。

 国際連合がかつての国際連盟化するかどうかは、現時点ではなんとも言えません。このへんを突っ込んで書いたコラムなり記事なりあれば読みたいんですれども。いずれにしても、思わぬバタフライ効果、大どんでん返しがないとも限らない。これだけは確実に言えそうです。

 最後に、Yahoo ニュースに転載された拙訳記事に寄せられたコメントでもっとも印象に残った文章を事後報告みたいで申し訳ないけれども、ここでも紹介しておきます。
1年前くらいだがコロナ対応を巡り、中国のような専制国家がスピード感があることを良しとする報道があった。
これに対しバイデンは「民主主義は時間がかかる」と応じたことがある。
そしていまは専制国家が自由を制限し、独裁者が暴走することを止められないことに恐怖を感じる。
われわれは単純に中国が豊かになり、民主主義国家と交流が深まれば専制国家が終わるだろうと考えていた。
同じようにアフリカも東欧社会のようにいずれ変わるだろうと考えていた。
今回のロシアの侵攻は独裁者の能力しだいでは愚かなことをする。
19世紀にかんたんに先祖返りするとわかった。
それでも人種、民族、言語、宗教、思想を越えて互いに理解をし、尊敬をして自由で民主主義的な社会に変わっていく必要がある。
長い時間がかかるが、あなたは何人と聞かれて「地球人」と答えられるようになりたい。


posted by Curragh at 23:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近のニュースから

2022年03月31日

「カメラは涙でくもった」

 ウクライナ危機が始まって早くも1か月が経過した。先月 24 日にとなりの大国ロシアがいきなり侵攻してきて以来、ウクライナの難読地名も毎日のように報じられるようになってます(首都の表記名も、現地語読みに切り替えるとか言ってました)。

 そして、最近やはり気になるのが地震の頻発ですね …… それも夜中がひじょうに多い印象がある。ただでさえ、福島県の方はお辛いのに …… 11 年前の震災ではなんとかもちこたえたわが家が、今月 16 日の激震でついに全壊になってしまった、という話も聞きます。せめてもの希望の光は、先日の大相撲春場所で、地元出身力士の若隆景関が優勝したことでしょう。福島県出身力士としてなんと 50 年ぶりの快挙だとか。静岡県出身力士もみなさんも、とくに熱海富士関の活躍に地元熱海の人たちもおおいに元気づけられていると思う。

 当たり前と言えば当たり前なんですが、最近の訳出作業はウクライナ関連が急に増えてきました。昨年のいまごろは、やはり mRNA ワクチンすらなかったので新型コロナ関連記事が多かった(もっとも、パンデミックが収束する気配もいまだなし)。いまも複数の〆切り抱えてちょっとアップアップしているのですが、そんな折、けさの朝刊をぼんやり眺めていたら、こちらの訃報記事に目がとまった。

 三留理男氏 …… と見て、ややあってああ、あの方か、とほんとうに久しぶりに思い出していました。あれは不肖ワタシが小学生だったとき、たしか課題図書かなにかで買ったのが、『カメラはなにを見たか』。これほんとに子ども向けの本なの、というくらいに、当時問題視されていたスーダンあたりの飢餓問題や戦場の写真などがバンバン出てくる。内容はもちろん、子どもでもしっかりわかるようにとてもやさしい筆致で書かれています。本の前半はカメラに興味を持った少年時代の話や投稿写真で賞をもらったことなども書かれてあり、著者の半生の記録でもあります。

 いまや記憶もあやふやながら、なお頭こびりついて離れない小見出しがあります──「カメラは涙でくもった」。げんにいま、戦場と化したウクライナの街から決死の覚悟でひとりの独裁者が勝手に起こした戦争の真実を切り取って、わたしたちに送り届けている記者や写真家が何人もいる。三留氏の遺志を継ぐ人たちと言っていいかもしれない。というか、ここ数年の世界の趨勢を見ていると、「歴史は繰り返す」を地で行っているようでなんか空恐ろしささえ感じる。いちばん驚き、かつあきれたのは、ロシア大統領みずからがいかにもかる〜い調子で「核兵器の使用」なんてほざきやがったことですな。インターネット空間も「サイバー軍」なる組織が暗躍していて、ここのところ日本企業の被害も報じられていますね。

 …… 綾小路なんとか氏じゃないが、あれから 40 数年。せっかくひさしぶりにご尊名を拝見したというのに、残念ながら逝去の報でした。享年 83。合掌。

 そしてそのとなりにお名前が出ていたのが、作家の野田知佑氏の訃報記事でした。そう、言わずと知れたあのカヌーイスト作家の方。愛犬とともに悠揚迫らずカヌーを漕ぐ姿、いまもよく覚えています。立松和平氏やC・W・ニコル氏とともに、けっこうテレビ(いまみたいな薄い液晶画面ではなくて、でかくて重たいブラウン管だったころ)にこのお三方が出てましたね。共通していたのが、当時はやっていたゴルフ場乱開発反対という立場でした(西伊豆にもその手の開発話があって、まだ若かったワタシは安良里の親戚とモメたことがある。ちなみにそれをやろうとしていたのが、東京五輪の開会式をめぐるゴタゴタや、裾野市出身の若い女性社員の過労死で問題になった、某広告代理店大手)。

 このおふたりがいまの世界を見たら、いったいなんて言うのでしょうね …… ついそんな勝手な妄想に走ってしまう、花曇りな今日このごろ。

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2022年02月27日

禅僧ティク・ナット・ハンの教え

 冬季五輪が終わるのを待ち構えていたかのように、ロシア軍が隣接する小国(人口は北海道とほぼ同じ)ウクライナに電撃的に軍事侵攻を仕掛けて、いまも交戦中です。ウクライナとくると、音楽好きがまっさきに思い出すのはやはり「キエフの大きな門」だろうし、スパイものが好きな人にとってはフォーサイスの『オデッサ・ファイル』でしょうか。その港湾都市オデッサも攻撃されたと聞く。

 こういうときこそ冷静沈着に、そして霊性の助けが必要だろう …… とそんなことをぼんやり考えていた折も折、先月 22 日に 96 でみまかった禅僧のティク・ナット・ハン氏を特集した「こころの時代」再放映が深夜に流れてまして、思わず見入ってしまった。

 寡聞にして知らなかったが、いま流行りの「マインドフルネス」の普及促進に尽力したお坊さんでもあるらしい。マインドフルネスなんてどうせ企業が自分たちの利益にかなうからと社員になかばカマかけて喧伝しているにすぎない代物、座禅や、カトリックの修道士が行っているような「観想」とは似ても似つかぬものだろう …… という prejudice があって、とくに深く知ろうなどという気もなかったんですが、それはどうもこちらの早トチリのようだった。

 ティク・ナット・ハン師の講話とかを記録した映像がいろいろ流れて、そこでのお話とか聞いていると、21 世紀前半が過ぎ去ろうとしているいま、なぜマインドフルネスの実践が世界的に流行っているのかがわかったような気がした。なにごとにおいても人口に膾炙するのには理由がある、ということなのでしょう。

 講話でいちばんすばらしいと感じたのは、「ブッダは神ではなく、人間の体をもって生きた人でした」、「(蓮の葉の茎をナイフで切って見せて)あなたがたから見れば左で、切っているわたしから見れば右になる」というお話だった。前者は福音派アメリカン牧師にありがちな「アナタハ神ヲ信ジマスカ?」的なじつにバカバカしい皮相的かつ詐欺師的な手合いとは正反対の、まさしくものごとの究極の真理を突いたお話でして、おおいに共感したしだい(原始教会時代の、「イエスは神の子か否か?」をめぐる論争の不毛さも想起させられる)。後者は、いままさに全世界の政治指導者たちこそ全身を耳にして謹聴してほしい真実をありていに述べたことばでして、何度もここで書いてきたから「耳タコ」で申し訳ないんですけれども、比較神話学者のジョー・キャンベルとやっぱりおんなじこと言っているなぁ、と思ったしだい。

 ハン師はこうもおっしゃってました。「(イデオロギー的に)左の人は、右の人が消えれば世の中はよくなると思っているが、いくら(ナイフで茎を切って見せながら)こうして切ってもいつまでたっても右側は出てきます …… インタービーイング(interbeing)、互いがいるから存在するということに気づくべきです」(講話では何度か「サンガの共同体」という用語も出てきた)

 わたしたちはとかく自分が正義だと思いがち。イエスかノーか。善か悪か(「砂漠の一神教」の影響を受けた地域に根強い発想)。そして世の中には正論さえ唱えていれば正しい方向に向かう、という強い信仰もある(クリティカル・シンキングにしてもそう)。もっともこれは「だったらワクチンなんて打たなくていい」ということじゃありません。ハン師はこう話してました。「互いに不可分の存在だと認めあえれば、互いのために行動を起こす」。互いに自分を大切にすることで、結果的に互いの生を助けることになるとハッキリ言ってたんです。なんとすばらしい。オラひさしぶりに感動しましたよ。ハン師がおっしゃった「この世の理」を、「考えるのではなく、感じる」ことができたのなら、いますぐにでも人の行動は、誰かからあれやこれや言われるまでもなく、おのずと変わっていくでしょう。そういう穏やかな心は、ただ自分たちが安楽に暮らせなくなるからというだけで二酸化炭素ガス排出の責任を年長世代に押し付けるだけの自称抗議活動がいかにむなしいものかもわかろうというもの(意見には個人差がありますずら)。

 そこで思い出されるのが、──ロシアと同じ専制主義権威主義独裁体制な大国で開催されたとはいえ── フィギュアの羽生結弦選手をはじめとするアスリートたちの活躍です。同じフィギュアの坂本花織選手、スノーボードの平野歩夢選手と岩渕麗楽選手、スピードスケートの高木美帆選手 …… カーリングが好きなので、「ロコ・ソラーレ」の銀メダル獲得もおおいに感動しましたね。

 ほかにもこのような選手はたくさんおられますが、いまここでお名前をあげた選手はいずれも「絶対必勝」というより、「自分が目指してきたものをこの大舞台でなにがなんでもやってみせる」という、並々ならぬ、それこそ決死の覚悟をもって臨んだ真の意味での勇者だと思う。半世紀前の日本人だったら、世界に追いつき追い越せしか眼中になくて、「ワタシはこの技をキメたいからやらせてくれ」なんて言ったらそれこそ体罰もどきを食らってそれで終わり、世間的にもおよそ許してもらえなかったんじゃないかって思います。だからたとえ戦車が街を潰しにかかってきても、ほんとうにわたしたち人間にパワーを与えてくれるのはこうした個人の意思の力にあると、ワタシは考えている。ようするに、自分自身が輝けない社会なんて、いくら飽食と宝飾品であふれ、いくらテクノロジーが発展して便利になっても、けっして満足することなどない。ティク・ナット・ハン師に教えを受けたという人びとが異口同音に語っていたのもまさにこれでした。
生き生きとした人間が世界に生気を与える。これには疑う余地はありません。生気のない世界は荒れ野です。…… 生きた世界ならば、どんな世界でもまっとうな世界です。必要なのは世界に生命をもたらすこと、そのためのただひとつの道は、自分自身にとっての生命のありかを見つけ、自分がいきいきと生きることです」────ジョーゼフ・キャンベル、ビル・モイヤーズ / 飛田茂雄 訳『神話の力』から

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2022年02月06日

不自然な「自然」もある話

 昨年後半から某全国経済紙(電子版)をとり始めたんですが(こういうのっていまは横文字そのまんまの subscription って言いますよね)、つい先日、↓ のようなインタビューの訳し起こしを見かけました。
 心配なのが、子供たちの思考の過程がアルゴリズム(計算手順)によって支配されつつあることだ。私が子供のころは「自然」対「育成」、つまり遺伝的に(子供が自然に)しつけられるのか、親が(育成の一環で)しつけるのかという問題だった。それがいまや「自然」対「育成」対「技術」の構図になった。
 これから10年たてば、アルゴリズムで思考過程が形作られたヤングアダルトの時代が来る。これは世界をもっと深刻な分断に導く。アルゴリズムは模範的な市民を作ろうとしないからだ。

 発言者は、政治リスク専門コンサルティング会社ユーラシアグループ代表で、政治学者のイアン・ブレマー氏。ユーラシアグループは、年明けに発表する「世界 10大リスク予測」がよく知られています。聞き手で、このインタビューを訳し起こして寄稿しているのはこの経済紙のワシントン支局長の方。というわけで下線部です。うっかり読み過ごしてしまいそうながら、ちょっとおかしい(いや、だいぶ?)。

 子どもの将来の話なのに「自然」だなんて、いくらなんでも唐突で、それこそ不自然。英語がすこしできる人ならブレマー氏の口から出た単語はすぐに察しがつくでしょう。「自然」はもちろん nature で、つぎの「育成」は nurture ではなかろうか、と。だいいち、「遺伝的に(子供が自然に)しつけられるのか」なんて常識的思考ではかなりブッ飛んでます。アリもそうですけれども、ヒトもまた社会的動物で、人間社会からまったく隔絶された環境(=自然)に放り出されたら、昔いたっていう、イヌかネコみたいに顔を皿にくっつけて水をすするような子どもになってしまいませんかね。

 いくら nature と発言したからって律儀に「直訳」せんでもええのにって思ったしだい。nature と nurture の組み合わせというのは、一種のことば遊び的要素もあるので。ならどうするか。ワタシなら、「氏より育ち」って諺の変形で処理すると思う。言いたいことはもちろん、「自分が子どものころには〈生まれ(いまふうに言えば、「親ガチャ」に当たったとかハズレたとかっていうやつ)〉と〈どう育てられたか〉の問題しかなかったけれども、いまはそれに加えて AI やアルゴリズムに代表される〈テクノロジー〉の問題がある」です。
私が子供のころは「出自」対「育ち」の問題があった。それがいまや「出自」対「育ち」対「テクノロジー」の構図になった。
字数の関係で最後のは「技術」のママでよしとして、これならどんなにそそっかしい読み手でも誤解の余地はないでしょう。「つまり ……」以下の補足部は、おそらく聞き手(訳者)がつじつま合わせで追加したもののように思える(意見には個人差があります)。といっても、補足じたいはべつに問題ない。翻訳における常套手段のひとつなので。

 もっともこの経済紙の名誉のために言っておくと、子会社の Financial Times とか、提携? しているのかどうか知りませんが、有名な英国の経済誌 The Economist の長文記事が日本語で読めたりするから、いちおうこれでもそっち方面の仕事している身としてはたいへんありがたく拝読させてもらってます。「Apple の時価総額3兆ドル(約 340 兆円)超え」の理由を説明する記事を訳出しているとき、「理由のひとつに自社株買いがある」とかっていきなり出てきても慌てずにすむ。知ってるのと知らないとでは月ちゃんとスッポンです。ふだんからの、不断の仕込みは大切ずら。

 最後にもうひとつ、↓ の記事も、正鵠を射ていると思う。こういうのはさすが新聞だと思う。あきらかな「脱真実 Post-Truth 」は困りものだが、「新聞の持つ情報の一覧性」は、まだまだ捨てたもんじゃありません。

異形の五輪 教訓残せるか


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2022年01月31日

『くまのパディントン』名訳者逝く

 児童文学者の松岡享子先生が逝去された。享年 86 歳。謹んでお悔やみ申し上げます。

 不肖ワタシが先生のご尊名をはじめて拝見したのは、翻訳の勉強を始めてさほど日が経っていなかったころで、高校を卒業したてのときだったような気がする。いくつか課題に出されたテキストのひとつに『くまのパディントン』シリーズの1作があった。児童文学と言いながらずいぶん凝った(?)言い回しが頻出で、しがない地方のヒヨっこにはなかなか手強かったのを覚えている(テキストには、ディック・フランシスのミステリの冒頭2章なんかもありました)。

 『パディントン』シリーズ最大の特徴。それはずばり、英国流のすっとぼけたユーモア表現でしょうか。あと、イディオムの変形技(変奏)がけっこう出てくること。たとえば‘...he had something up his paw’というフレーズ。これはよく使われる慣用表現の‘to have something up one's sleeve’をもじった表現で、sleeve が paw となっているのは、もちろんパディントンがクマの坊やだから。あと、彼の得意技は、相手をジィ〜っとねめつける‘(giving)a hard stare’ですな(というかあのツブラな瞳でそれされてもたいして効果は …… あ、なんかごめんなさい)。

 ワタシがそのとき読んだのは、こちらの訳書の原書からの抜き出しでした。psychiatrist/head shrinker/trick cyclist なる語もぽんぽん出てきました。いずれも精神科医のこと。なんで shrinker と言うのかは、「誇大妄想にとり憑かれてぶくぶくに膨らんだオツムを空気を抜くみたいにしてシュ〜っとしぼませる」というイメージから。いずれにしても、駆け出しの翻訳初学者にはまことやっかいで課題提出にずいぶん手間取ったものでした(注:いまみたいにネットも Google も SNS もな〜んもない、テレクラとか個人的に不要不急なサービス全開ゴルフ場亡国論真っ盛りだったバブルに阿呆どもがパラパラと踊らされていた平和ボケ時代の話)。

 話戻しまして …… あるとき、図書館で借り出した松岡訳『パディントン』シリーズの1冊と、神保町に当時あった「タトル商会」(!)で入手した原本とを家で突き合わせてまたびっくり。「どうぞこのくまのめんどうをみてやってください おたのみしますPlease look after this BEAR. THANK YOU)」と、(子どもの音読にもじゅうぶん耐えられる)達意でみごとな日本語に移された手際の確かさに目が吸い寄せられたのを、あれからウン十年が経過したいまも鮮烈に覚えている。

 松岡先生は『パディントン』シリーズの訳者としても高名ながら、翻訳ものではやはり『うさこちゃん』シリーズでしょうね。え? ご存じない? ディック・ブルーナの『ミッフィー』シリーズの翻訳です。何年か前、松岡先生がご健在だったときに一度、なんの番組だったかもう失念して申し訳ないのですが、インタビューかなにかで TV の画面越しにお姿を拝見したことがありました。

 『パディントン』原作者のマイケル・ボンド氏、そして『ミッフィー』生みの親ブルーナ氏もとうに鬼籍に入られてしまった。松岡先生の志を継ぐ、若くて才能ある児童文学翻訳者がこれからおおぜい活躍してくれることを祈念してやまない。合掌。

追記:これは「男ことば/女ことば」の問題でもあるのですが、先だって「アタマで考えず、場の流れ(フロー)に身をまかせて行動しよう」と指南するハウツーものっぽいやや毛色の変わった英高級紙の記事を訳したのですが、そこにジェイン・オースティンの代表作のひとつ『エマ』の一節が引用されていた。引用で、しかも邦訳もあるからと図書館で借りてきて確認したのですが …… エマの科白がどうにも読みづらい。NHK のラジオ第1とかでも朗読をやってますが、たとえ手練れの局アナが読んだとしても、ちょっと放送には不向きなのでは、という印象を受けた。「もし」は禁句ながら、もし主人公エマの会話を松岡先生が訳していたら …… きっと目に映る景色はずいぶんと変わっていたことだろう。ちなみにその日本語文庫版の訳者は男性でした。

posted by Curragh at 22:09| Comment(0) | TrackBack(0) | おくやみ

2021年12月31日

おおいに溜飲を下げた話+英語学習本

 先日、某経済紙夕刊に、字幕翻訳者の戸田奈津子氏のインタビューが連載されていて、ふだん思っていることをこのような押しも押されぬ第一人者の先生が言ってくれている(remarks about what I think on behalf of me)内容だったので、記事読んだ人にとってはウザイと思われるけれども、ここでもすこし紹介しておきます(一部表記を変えてあります。太字強調は引用者)。
【会話先行の英語学習法には疑問】
文法は頭が柔らかいうちにしっかり身につけておかないと、後から勉強するのは大変ですよ。会話は後からでも平気。私は学生時代に基礎をやっていたから先が伸びたと思います。会話だけ先にやっても、理屈が分かってなければ絶対に伸びませんよ。難しくなくていいけど、基本となる文法はちゃんとしておかないと、絶対上達しません。
三人称の s を落としたら教養がないと思われる。いくらペラペラしゃべっても、s を落としていたら教養を疑われ、敬意を払ってもらえません。基礎がしっかりできていれば、そういう間違いはしないのです。

【英語以前に、日本語を学ぶ大切さを強調】
最近は若い人が漢字を読めないようで、映画会社は漢字をひらがなに、と言うけど、かなが並ぶと読みにくいのよ。字数は食うわ、昔の電報みたい。たとえば「拉致」ならば瞬間で分かるけど「らち」だと考えちゃう。そういう場合、私は漢字にしてルビを振るの。日本語はほんらい、字幕に向いた言語なんです。一文字で意味が伝わるし、見た目も締まります。字幕の漢字は使いでがありますね。

文部科学省には「英語より先に、まず日本語を勉強させてください」と言いたいです。英会話も仕事で必要なら、死に物狂いでやるべきよ。でも100人が100人英会話をやらなくてもいいけど、日本語は違う。アイデンティティなんだから。なぜそれをおろそかにしているのかわかりません。

英語の原文はアメリカの大衆向けに作られていて、意味を理解することはそんなに問題ではない。どういう日本語に的確に訳すかが一番の要だから、日本語を知らないとダメ。日本語の語彙や言葉のニュアンスを知らないとぜったいにダメ。
長年、生き馬の目を抜くような業界で第一人者として駆けてきた戸田さんのことばには身に沁みるものがある。

 蛇足ながら、新聞記事にはルビ振ってなかったけれども、「要」は「かなめ」と読む。「理」はどうですか、ちゃんと読めますかね? 日本語ネイティヴが日本語を知らず、読めず、書けない[表現できない]のに、どうして「翻訳者になりたい」などと言えるのでしょうか(昨今の女子アナと呼ばれる人たちの言葉遣いはとくにヒドい)。またこれは最近、とくに思うんですが、いくら翻訳のトライアルの要綱に「TOEIC ○○点以上の方」とかってあっても、「クリアしているオラは翻訳ができる」なんて思うのはお門違いもいいところで、トンでもない話。

 当たり前って言えば当たり前なんですけれどもどうしてどうして、こと翻訳の話となるとこの「常識」がとたんに通用しなくなるから不思議です。「ワタシは野球一筋でやってきたからプロ入りできる」、「ワタシは音大を出たからプロの音楽家としてやっていける」という言説とおんなじくらいバカげているってことにまず気づいてほしい。

 もしほんとうに翻訳、とくに読み物系の英日翻訳をやりたければ、なんでもよいから図書館から訳書を借りてきて、原書と首っ引きで比べ読みするといい。できればその前に、ご自分でもその原書のアタマだけでもよいから訳してみる。できあがったら数日寝かせて、また手を入れる。よし、これで完璧だ、と思って、先達の翻訳書と比べてみる。とたんに彼我の実力の差に愕然とするはずです。

 ネット記事、あるいは戸田氏のインタビューを掲載していた経済紙のように、日本の新聞に転載されている記事の邦訳はどうなのか。これはだいぶ前にもここで書いたような記憶があるけれども、ページやスペースの制約上、どうしても要らん情報は端折ることになります。つまり「全訳」ではなくて、「抄訳(thin translation、「薄い翻訳」ジャナイヨ)」です。だからといって、「正しくない!」と糾弾するのは困りもの。そういえば以前、こんなこともあったようですが …… んなこと言ってたらキリないし、だいいち日本の読者がそこまでキッチリ読みたいと思うものでしょうか。新聞を隅から隅まで熟読玩味する人も、いないわけじゃないでしょうけれども。でも、「新聞なんだから、とりあえずそこに何書いてあるのかがわかればそれでいい」って思う人がほとんどではないかしら。

 というわけで、先日ここで書いたように、ワタシが手許に置いてある英語学習本をいくつか紹介して、またしても混迷をきわめた 2021 年を締めくくりたいと思います。

英語正読マニュアル(研究社出版、2000)
アクセントや引用符、コロンやセミコロン、スラッシュ(/)、イタリック体の説明から、大文字・小文字の区別、乗り物の表記のしかた、句読法(パンクチュエーション)、固有名詞や誤用についてなどなど、まさしく「痒いところに手が届く」読み応えありすぎな一冊。「英文を読めた気になっている」英語力に自信のある人向きの本。

 もし「中学英語からやり直したい」という人には、『ゼロからわかる英語ベーシック教本』や、また NHK の英会話講師としてカムバック(?)しているこちらの先生のご本もよいと思う。
日本人の9割が間違える英語表現100(ちくま新書、2017)
これも目からウロコみたいな学習本。お題のとおり、非英語ネイティヴの日本人が間違えやすいところを丁寧に解説してくれる。「“See you again.”を連発する日本人」、「come と go の使い分け(こんな基本もできずに短期留学したい、なんておこがましいかぎり)」、「I'm sorry と Excuse me の使い分け」、「遊びに行くは play ではない」などなど、一読するだけで「正しい英語話者の感覚」の片鱗が会得できようというもの。

 以前もここで紹介したこの本と合わせてオススメしておきます。例文つきでもっと手っとり早く読みたい向きには、❸『英語の品格』という新書本はどうでしょう。よく「英語には丁寧な言い方がない」なんてウソぶいてる人がいますが、人間の言語なんだからそんなことはもちろんない、という実例をてんこ盛りの豊富な文例で教えてくれる良書です。

英語のあや(研究社、2010)
東大の現役の先生であるトム・ガリー氏の本で、雑誌「英語青年」その他媒体に寄稿した文章をまとめたもの。エッセイふうな書き方ながら、「ことばを学ぶと何か」、「初対面の相手に依頼するときに“Will you 〜”はたいへんぶしつけな言い方」、「日本人が書く英文に思わず知らず出てしまう“味”とは」のような、英語と日本語とのはざまを往き来する人なら誰しも思い当たることがコラム仕立てで随所に書かれてあって、コラムを拾い読みするだけでもたいへん参考になる。とくに巻末近くのコラム「外国語学習の害」を読むと、いまはやりの「外国語早期学習」にまつわる論争が、100年以上も前の英国ですでに戦わされていたことのエコーにすぎないことを知る。

 え? たったこれだけ? って思ったそこの方。もちろんまだまだ持ってますけれども、以上の本をマジで端から端まで読むだけでも、冗談抜きにウロコ落ちまくること請け合いです。最近、某オークションサイトでさる個人の方から入手した T・H・セイヴァリーというクモ学者(!!)の先生が書き下ろした『翻訳入門(The Art of Translation, 1957)』の日本語版。日本語版刊行からでもすでに半世紀は経過しているというのに、いやもう、開巻早々ビックリした。最終章がなんと、「機械翻訳」なんですぞ !!! しかも英⇔仏語間の翻訳における機械翻訳の未来について書かれてあったんですが、原始的ながらも翻訳者が介在して手を入れればそれなりに使い物になるくらいの訳には仕上がっていたことにほんとうにビックリした。なるほど、こんにちの AI 支援翻訳(いまも MT 翻訳って言うのかな?)の基礎は戦後まもないころにすでにあったのね。

 字幕翻訳の話に戻れば、字幕というのはある意味、究極の翻訳だと思う。「科白が正しく訳されてないじゃないか!」とケチつけるような人は、なんてことない、字幕もなにもないオリジナルを気が済むまでご覧になればいいだけの話。もちろん吹き替えに逃げちゃダメですぞ。オリジナルを観るべきです。

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2021年12月25日

小さき者を想う日

 真夏に猛威を振るった COVID-19 デルタ変異株が秋に入って急に下火になり、思う存分手足を伸ばすこともできない、そんな息苦しささえ感じていたひとりとしては正直ホッとひと息つけた気がしていた。けれども、どうやらそれも終わりで、またぞろ実効再生産グラフは上向きになってきた。欧米しかり。そして遅れて日本でも。

 今回、個人的に思い知ったのは、このウイルスは水際作戦だけでは勝ち目はないということ。いくらルールを守らない人がいるからとはいえ(とはいえ、こちとらマジメに半径ウン km 以内しか移動していないし、伊豆半島の人間なのに同じ半島にある墓参りも行けてなくて嘆息しているというのに、海外から帰国して言いつけも守らず、フラフラ出歩いて市中感染の原因を作った人に対しては正直怒りを覚える。といってもオラは自粛警察ジャナイヨ、だれだってそう思うのではないかしら。自粛警察というのは、ようするに自分とこに火の粉が降りかかると烈火のごとくイキりだし、ふだんはノホホンと過ごしているような典型的マイホーム主義な人のこと)。いずれにせよ、年明けとともに日本国中に厭戦的雰囲気がいよいよ蔓延し、いわゆる専門家の意見や指示を守らず、「赤信号、みんなで渡れば ……」な手合が堰を切ったように急増しやしないかというのが、もっかいちばんの気がかり。

 この感染症の恐ろしいところは、英米で long COVID と呼ばれている、長期にわたる原因不明な後遺症というやっかいきわまりないオマケまでくっついていること。感染しても無症状な人がいる反面(若い芸能関係者にはこの手の人が多かった印象がある)、いつまでもしつこく苦しめられる罹患者もおおぜいいる。だからけっきょく、なんとしても COVID だけは罹患しないようにしないといけない。もっともそれはそれでいいとしても、そのように身構えたまま生活していれば弊害も出てくる。体を動かさなくなったせいで筋力が落ちた、あるいはもっと深刻な場合には「エコノミー症候群」になったり、脚のふくらはぎがパンパンになって静脈瘤(!)ができかかった、とか。もっとも影響が出やすいのは、なんといっても子どもですよね(もちろん高齢者もだが)。事態が長期化しているので、このへんのことも気を配らないといけなかったりで、たしかに厭戦ムードがはびこるのはあるていどしかたないことかとは思う。お気持ちはわかる。

 でもいちばん大切なのは、こういうときこそ、他者への想像力が必要だ、ということではないかと、人一倍 self-serving な人間のくせしてそう思ってしまう(偽善者なので)。前にも書いたが、感染症というのは自分が罹患して治ればそれでよし、という病気ではない。全地球を覆っているのは、未知のウイルスによる未知の感染症なんです。それでもいまはワクチンだって曲がりなりにもあるし、特効薬ではないにしても、承認待ちの飲み薬もある(あいにく mRNA ワクチンはブースター接種なるものを打つ必要があるけれども)。

 いまだ先の見えない COVID 禍ですが、パンデミックが始まった昨年春、英国の NPO の Nesta がこんな未来予測を出しています。「将来の予測なんてアテになるものか」という気もたしかにするけれども、やはりこの手のものがないといられないのもまた人間の性分なのかもしれない(Nesta は、英国国立科学技術芸術基金を母体とした NPO 法人。科学・技術・芸術における個人および団体による先駆的プロジェクトや、人材育成を支えるイノベーション支援を行っている)。

 たとえば「経済」に関しては、こんな「青写真(言い方が古い?)」を描いています。
新型コロナウイルスの世界的流行(パンデミック)が引き起こした不況は、2008年の金融危機よりも深刻な事態を招くだろう。しかもそれは、これまでに経験したような「通例の」不況ではない。多くの国で、考えうるかぎり最悪な不況となり、大量解雇も起こり得る。コロナ以前ではラジカルだと考えられていた財政出動や金融政策がもはや政治や国民的な議論の場で当たり前のように取り沙汰されるようになるだろう。コロナ危機を乗り切った企業も、それまで重視していた事業や商習慣の見直しに着手することになるだろう。それはサプライチェーンの抜本的再編だったり、効率一辺倒から事業の強靭性(レジリエンス)への転換だったりする。
この1年で見ても、たとえば急激な「脱炭素化社会」へ舵を切ったかに見える欧州諸国の動きなんかが当てはまりそうな気がします。もっとも「二酸化炭素取引」というカラクリもあったりで、どこまで本気なのかはよくわかりませんが。それでもひとつ言えるのは、島国日本の企業さんたちが手をこまねいている時間はあまり残されてないってことです。ヘタすると 19 世紀末の欧州列強の再来にもなりかねない気がする。興味ある方は一読してみるとよいでしょう。

 一連の予測項目はあくまで英国国内のことなので、これらがいちいち日本の事情に当てはまるわけでもない。しかし参考にはなると思う。というか、向こうの人ってホント筋金入りのマスク嫌い、ということがこの1年半のあいだでよくわかった気がする。人種差別の件も含めて。

 「一連の予測は推測の域を出ない」と断ってはいるが、「新型コロナウイルス(COVID-19)パンデミックは、世界のありようを根底から恒久的に変えた。向こう数か月、この新型感染症の蔓延を制御できる国があったとしても、政治、経済、社会、テクノロジー、法律、環境の各方面に与えた影響は甚大であり、それは今後数十年にわたって続くだろう」という見立ては、おそらく間違ってないでしょう。

 というわけで、なんか暗い話になってしまったが、いみじくもローマカトリックのリーダーがクリスマスイヴのメッセージでこんなことを言ってましたので最後に引用して終わりますね(以下、さる全国紙記事の引用)。
「不平を並べるのはやめよう。(イエスは)われわれに人生の小さなことを見直し、大事にすることを求めている」

 昔、写真評論ものの大部の本を何人かで下訳したとき、福音書の一節がそのまま引用された箇所にぶつかった。たまたまローマ教皇の記事を見て、忘れかけていたそんな記憶も久しぶりに甦りましたね(日本語版聖書の引用は「新共同訳」から)──「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこのもっとも小さい者のひとりにしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(Matt. 25:40)

 よきクリスマスと新年を。

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2021年11月30日

単数か複数か、可算か不可算か、それが問題だ

 先日、ちょっと調べもので Web の海を漂流していたら、「“have a lunch”は間違い !! 正しくは不定冠詞なしの lunch で」とか、「I had a lunch. は特別なランチ!」とか、そんなことを麗々しく掲げた学習(?)サイトに打ち上げられた。

 問題は、その説明のしかた。「通常メニューだけどおいしい食事も特別なものとして扱うので冠詞を付けます」みたいなことを書いてあったので、オイオイちょっと待ってくれずら、と。

 ようするに「その人にとって特別なランチなら不定冠詞付き、そうでないふつうのランチは無冠詞」とのことなんですが、まさか向こうの人間がそんなこと考え考え発言しているわけもなし。これ、英語における冠詞というものの本質に関わる大問題だと個人的には思ってるので、揚げ足取りみたいにとられるかもしれないが、門外漢でもあえて聞こえるように文句を言う(♪ごはんですよ〜、ダジャレが古すぎてわかんないか)。

 ひらたく言えば、これはかつてベストセラーだったこちらの新書本に書いてあるのと言ってることは重複するんですが、こういう言い回しの不定冠詞のある・なしというのは、「発言者にとって印象に残っているかどうか」のサジ加減でしかない。つまり感覚ひとつ。もしその人にとってなんのことないフツーの、取り立ててどうということのないランチならば無冠詞だけれども、「○○の店のランチはうまかった」とか、たまたま印象に残っているからそれはその人にとって意味あるランチになったにすぎない。その微妙な心の動きが、不定冠詞として表に出ただけのこと( lunch、dinner、supper はふつうは無冠詞扱い )。「a が付いているからそれは特別なランチ/食事/ディナー」というわけじゃない。逆だ。このさい特別かどうかはどうだっていい。その人にとって印象に残っているから不定冠詞付きになる。もっとも手許の『ランダムハウス』で確認すると、不定冠詞付きは“a late lunch”、“a business lunch”と修飾語を伴ってもちいられるのが一般的らしい。

 でもたとえばある英米人がしゃべっている最中、「アレレ不定冠詞付きにしちゃったけれども、ええいままよ! このまま move on! move on!(cf. 「虹色 Passions!」)」なんて場合だってあります(にんげんだもの)。単数か複数かにしてもそうで、たとえば“There are some people who are doing such and such ...”のはずが、つい“There is some people who are doing such and such ...”ってやっちゃう場合がある(単数複数混在文はわりと見かける)。people はこれだけで複数的に扱われる名詞の代表格ですが、「ある特定の人びと、民族」という概念で口にすれば、ナニナニ+ peoples複数形になる。このへんが感覚的にわかるようになるまでがけっこうタイヘン。「どこそこの人びとか、指折り数えて言っているのか、そうでないのか」といった感じでしょうかね ……。くだけた調子でズラズラ殴り書きしたようなコメントや書き込みなんかに、とくにそういう崩れた英文が散見される。
And so, to all the other peoples and governments who are watching today, from the grandest capitals to the small village where my father was born, know that America is a friend of each nation, and every man, woman and child who seeks a future of peace and dignity. (オバマ大統領の就任演説から)

ついでに「聖職者(階級)」を意味する clergy も、「ひとりの(男性)聖職者」だったら a clergyman となって、ほんとややこしや。

 だいぶ前にもおんなじこと書いたけれども、冠詞の習得はほんと日本人には最難関で、昔は「前置詞3年、冠詞8年」とかって言われたもの。前置詞や、前置詞を含む句動詞なんかをマスターしても、冠詞の使い方の習得になおこれだけの年月がかかるよ、ということをわかりやすくたとえたもの。前置詞より冠詞習得のほうが長くかかるため、冠詞の使い方がいかに難しいか、ということを表した言い方になります。

 で、先述したようなサイトによく引き合いに出されているのが、たとえば“do lunch”。でもこれって「英辞郎」によりますと、なんでも半世紀くらい前のハリウッド起源の、言語史的にはわりと新しい口語表現なんですね。英語も日本語もナマモノには違いない。だってシェイクスピア時代の言い回しでカッコつけたつもりで“good speed”を! なんてだしぬけに言ったら、向こうの人間でもそれと知らなければなんのこっちゃとキョトンとするばかりだろう(意味は“good luck”。そうそう、昔読んだジャック・リッチーの短編ミステリで、“She's expecting.”という言い回しを覚えたもんですが、いまじゃズバリ“She's pregnant.”って言っちゃう世の中でゴザイマス)。

 ということなので、老婆心ながらひとこと申し上げたしだい。で、たまたま昨晩の「ラジオ深夜便」で定期的に登場するロバート・キャンベル先生による井上陽水の歌詞を英訳してみよう! 的なコーナーを聴取してまして、個人的にはむしろこちらを聴いていただきたいとも思ったしだい(「らじる☆らじる」アプリ、Web 版ストリーミングサービスでは今週いっぱい聞き逃し配信をしています)。

 冠詞のある・なしと肩を並べるのが、「可算名詞の単数・複数」の問題。キャンベル先生は、井上の歌詞の訳詞という作業を通じて、「なぜここは無冠詞でもなく単数でもなく、複数形にしなければならないか」、その理由を懇切丁寧に説明されています。オラなんか感激して、「そうそうコレなんだYO、オラが聞きたかった単数複数問題の説明ってのは! MAN ALIVE !!」ってひとりで勝手にぶっ壊れてたくちです。

 もしほんとうに英語という言語の構造、native speakers と呼ばれている英語話者の人がどういう発想で名詞の単数・複数を使い分けているかを知りたいと思ったら、マーク・ピーターセンのような定評ある先生のご本でもいいし、キャンベル先生のご本でもいいから、とにかくそっちを読んだほうが長い目で見ればはるかにマシかと、重ねて申し上げておきます。

 後日、今回のことともからめまして、「それじゃオマエはどんな本で英語を学んだのか?」という疑問へのアンサーとなるような、いちおうこれでも英日翻訳者のはしくれとしてオススメして恥ずかしくない英語の学習本を何冊かご紹介したいと思います(以前も散発的に紹介したのかもしれないが)。とりあえずコロ助のこととか書いたあと、年末までには投稿するつもりではおります。

posted by Curragh at 22:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 語学関連