2020年09月23日

エルガーが編曲してたんだ〜!

 いま、COVID-19 パンデミック以降、ひさびさに定演を再開したこれを聴取してます。

 コダーイの『ミゼレーレ』とかもあるけど、ほぼシューマン・プロ。でももっとも驚いたのは、サントリーホールからの生中継後にかかった過去の録音で、エルガー編曲によるバッハの『幻想曲とフーガ ハ短調 BWV 537』が紹介されたことだった。

 以前も何度かここで言及したかもしれないが、バッハのオルガン曲の編曲はヴェーベルン、シェーンベルク、リスト、カバレフスキー、レーガー、ケンプといった錚々たる作曲家 / 演奏家が手を染めているけれども、エルガーまで編曲を手掛けていたとは、まったく遅かりし由良之助、な気分(手垢にまみれた喩えで申し訳なし)。

 なんでまたエルガーが、しかもこの重厚かつ「バッハ版悲愴」とでも言うべき渋さ全開の「幻想曲とフーガ」をオーケストレーションする気になったのか。本日のゲスト解説者の広瀬大介先生によりますと、ちょうどそのころのエルガーは最愛の妻キャロライン・アリスを亡くしたばかりで意気消沈していた、とのこと。それでこの曲だったのか、とひとり納得したしだい。最愛の身内の者との死別、という当人にしかわからない喪失感を抱え込んでしまったとき、やはり人はバッハへとしぜんと気持ちが向かうのかもしれない。バッハのこの作品は、きっとエルガーにとって文字どおり生きるよすがとなったんじゃないかって思う。

 原曲はバッハがヴァイマールの宮廷に宮仕えしていた、1712〜17年に作曲されたと考えられてます。バッハのオルガン作品にはよくあることながら、この曲もまた直筆譜は残ってなくて、バッハお気に入りの弟子だったクレープス父子による筆者譜でのみ伝わってます。幻想曲の出だしはとくに印象的ですが、じつはパッヘルベルにもこれとよく似た感じのオルガン曲があって、いわゆる「ため息音型」と呼ばれる下がっていく音型を伴って進行していきます(下行音型、とくると、青島広志氏が「ららら ♪ クラシック」でベートーヴェンの『第5交響曲』出だしのあの8分音符動機タ・タ・タ・ターを「下・が・る・ゾー!」と言っていたのはじつに的確なるご指摘)。

 今週はもうひとつ、NHK-FM の「古楽の楽しみ」でも、個人的に大好きなバッハの教会カンタータ『神の時はいとよき時 BWV 106』がかかってまして、出だしの天国的美しさの「ソナティーナ」で朝っぱらからすでに昇天状態恍惚状態だったわけなんですが、このカンタータについてはぜひ『「音楽の捧げもの」が生まれた晩』という本を読まれたし。この本、タイトルどおりバッハ最晩年の傑作『音楽の捧げもの BWV 1079』が成立するまでを描いたある意味迫真のノンフィクション読み物なんですが、個人的にはこっちの教会カンタータを説明したくだりが最高に筆の冴えたくだりだと勝手に思ってます。楽曲分析の精密さもさることながら、本質をズバリ突いていて、時間のない人は本文 327 ページのこの本のここだけ拾い読みしてもいいくらい。

 こういうときだからこそ、じっくりバッハ作品を聴き直すのはまさに至福のひととき、「神の時」だと思うしだい。そういえば何年か前、べつに砂川しげひさ氏のモノマネじゃないけれども、バッハの教会カンタータ全曲制覇(苦笑)をここでも書きました。まだ作品番号 900 番台のリュート組曲とかいくつか聴いてない楽曲がちらほらあるにはあるが、そろそろ作品番号 198 以降の世俗カンタータと呼ばれている一連の声楽作品をすべて聴こうかと思案中。これらの作品を聴き終えたときには、バッハ作品はほぼぜんぶ聴いたことになります──いったい何年かかってんだよ、と思わないこともないけれども。

posted by Curragh at 21:49| Comment(0) | TrackBack(0) | バッハのオルガン作品

2020年08月23日

もうすぐ絶滅するという紙の新聞について

 COVID-19 パンデミックが全球的に覆い尽くすなか、今年も広島・長崎の原爆忌、終戦記念日が過ぎ、そして旧盆期間も過ぎてゆきました(NHK の自称5歳児の番組でも取り上げられたことがあるけど、「お盆」の正式名はサンスクリットを音写した「盂蘭盆会[うらぼんえ]」)。

 信長じゃないけどすでに「人間五十年」生きちゃった端くれとして思うこと。それは最近の人のダマされやすさについて。なんでこう、なんとかホイホイよろしく引き寄せられちゃうのかって感じ。往年の「ナイジェリアの手紙」の進化系? みたいなチェーンメール詐欺に国際結婚詐欺なんかもそう。その原因を成していると思われる最たるものがやはりソーシャルディスタンス、ではなくてソーシャルメディアだと思う。SNS 中毒の増加とともに年々、右肩上がりしているような印象を個人的には受けてしかたない。

 ここ最近のブロゴスフィアも似たかよったか。以前は──あくまで個人の意見──読んでためになる、というか、おもしろい読み物が多かった気がする。それがいまじゃ Wordpress だかなんだか知りませんが、たいしたこと書いてないのに「目次」を設けてやたらとリーダビリティ、もっと言えば SEO 対策ばかり抜かりのないブログのフリしたフログ(flog、fake + blog のカバン語)ばかりが目立ち、しかもそれがバカみたいに安い単価でアカの他人に書かせて自分は運営してるだけという、長年、せっせとこんなんですけど書いてきた人間からしたらまったく信じがたい、「ブロ〜グよ、おまえもか!」っていうじつに悲惨なことになってます。そういうのって「なんとかハック」とか読み手を惹きつけて小遣い稼ぎしてるんでしょうが、文章の書き方を見ればいかにも、なマニュアルどおりの通り一遍、「…… いかがでしたか? よろしかったら拡散お願い♪」みたいに締め括られて、総じてツマラナイ。はっきり言って時間のムダ。

 だまされやすさ、ということではもうひとつ重要な点があるように思う。それは紙媒体の新聞の凋落と軌を一にしている、ということ。以前も似たようなこと書いたかもしれませんけど、ネットニュースなんていくらリーダーアプリがいくつもあったところで、海外のメディア媒体のようなアーカイヴ記事などほとんどなく、調べたければ図書館行って「日経テレコン」でも見ないと出てこなかったりする。その点、欧米の媒体が運営する新聞の電子版ははるかに品揃えが充実している。電子書籍もそうだけど、いくら Retina ディスプレイだの高精細有機 LED だのといっても、光る画面上の活字を追うのと紙媒体の書籍や新聞の活字を追うのとではアタマへの入り方がやはりちがうし、紙のほうがはるかに読みやすく、目にもやさしい。このへんのことを科学的に研究した論文かなにかがあったら、ぜひご教示願いたいところ。

 もっとも紙の新聞とて人間の手になるもの、そりゃたまにはタイポもあれば訂正もある。論説コラムなんかもそうで、この評者、いいかげん交代してくんないかなとかありますよ(地元紙の例だと、今年1月 14 日付の論説文に、さもご自身で読まれた洋書の抜粋を得々と引用していた先生がおられたが、あれとまったくおんなじ文面をネットで見たことがある)。

 自己啓発ものの元祖とも言えそうな古典的名著『自分の時間──1日 24 時間でどう生きるか』で有名な英国の小説家アーノルド・ベネットは、ものを考えない人間の典型例として「毎朝、新聞を広げてからでないと意見が言えないような人」を挙げてはいるけれども、そんなベネットだって新聞をまったく読んでなかったわけじゃないので(おなじことはショーペンハウアーの『読書について』にもあてはまる)、ここでも紙媒体の新聞の効用、とりわけ「情報の一覧性」というすばらしい特徴があるという点は強調しておきたい。

 というわけで、終わりはここ数か月で地元紙を眺めて印象的だった文章をランダムに引用しておきます。アマチュアでさえない門外漢がしゃしゃりでてさらに物事を混乱させるなんでもありの玉石混交がまかりとおるいま、記者が足で稼いで書いた紙の新聞の「一覧性」は、まだまだ捨てたもんじゃないと思う(以下、いつものように下線強調は引用者。以前、訳出した海外記事に、'The new hero of journalism was no longer a grizzled investigator burning shoe leather, à la All the President’s Men' という一文があって、こんな言い回しがあるのかと思った。あいにくせっかくひねりだしたここの訳は、端折られてしまったが)。
… さまざまな知恵や意見を得て、納得や反論をしながら自分のフィルターにかけて、己の血肉にするのが学ぶということ。ただ読んで聞いて対応する勉強は、試験が終われば必要ない。その場しのぎの知識にすぎないよ。──絵本作家の五味太郎氏、「教育シンカ論・コロナから問う」から

... 英語の成績がいいのは本人が好きで努力したからであり、別に「頭がいい」とは関係ない。社会に出て、周囲を見渡せば、英語は日常会話でペラペラ話せても、中身のないことしか言えない「頭の悪い」人はいっぱいいる。中身がなければ外国人はもちろん、日本人からも信頼も尊敬もされはしない。──勝又美智雄氏、「日本人の深い病 … 英語コンプレックス」から

「 … 普通の人は家族、社会、宗教などの『大義』と折り合いをつけ、代わりに安心を得る。[ボブ・]ディランはそれを拒み、本当に属すべきものを探してさまよい孤独になった。それでもなお、孤独な者として前に進むんだと歌っている」──「混迷の世 響くディランの言葉」から作家・翻訳家の西崎憲氏の発言から

… さまざまな技術革新によって、大量の生産を行い、地球表面を改変し、他の生物を絶滅させ、人口を増やしてきた。…… 以前はなかった野生生物と人間との接触も増えた。
 そこで、他の動物を宿主としていたウイルスがヒトに感染する機会が増える。今回の新型コロナウイルスもそうだが、そのようなウイルスによる、数千人、数万人の規模での爆発的な感染は、20世紀以降に起こったのである。──長谷川眞理子氏、「現論:温暖化、絶滅、ウイルス」から[ ⇒ 参考リンク

毎日のマスク着用やアルコール消毒を徹底している私たち。そんな中、県外に出歩く人や飲食店に通う人などが多くいる。新型コロナウイルスまん延の今、もう一度危機感を持った方がいいと思う。
…… コロナの流行から数カ月、私たちはコロナのある日常に慣れつつある。でももう一度、危機感を持つべきだと思う。──「ひろば10代」、中学生読者の投稿から

…… 源流である南アルプスの下にトンネルを通して走らせるリニア中央新幹線は、私たちの未来に本当に必要なのか。新型コロナウイルスで世界の経済が減速し、暮らしも大きな変化に直面している今、「豊かさとは何か」を考えてみる時ではないか。…… 想定外を想定することを求めたい。失ったら自然も水も元には戻らないし、30年の補償金で済むことではないと私は思う。──「ひろば」、84 歳の読者の投稿から


 最後のリニア問題について。ネット民のみなさんはどうも「静岡県が意図的に開業を遅らせている!」と息巻いている向きが多く、われわれ県民ははっきりいって不当に貶められている感もなくなくはないが、かつての国鉄が丹那トンネル工事を行った結果、どうなったかを調べてごらんなさい。またこれは科学的に立証されてはいないものの、トンネル工事で大量に湧出した地下水と北伊豆地震とは関係がないわけではなく、工事によって引き起こされた可能性もゼロではないことも申し添えておく。南アルプスは伊豆半島が押しつづけて盛り上がった巨大な「付加体」で、かつての海底堆積層がほぼ垂直にそそり立っている(だけでなく、折れ曲がったりと屈曲も激しいし、近くには糸魚川−静岡構造線も走っている)。「日本一、崩れやすい」とも言われ(安倍川源頭部には日本三大崩れのひとつ、大谷崩もある)、活断層だらけのグズグズな破砕帯だらけなのは言うまでもなく、こんな場所の地下深くを無理やり掘削したら …… と思うとこの猛烈な酷暑でも背筋が寒くなる。

posted by Curragh at 16:31| Comment(2) | TrackBack(0) | 翻訳の余白に

2020年07月28日

嗤う COVID-19

 全世界で新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の猛威が止まらない。
今年に入ってから、引き受ける案件には毎月必ず1本は COVID-19 関連の記事訳出が含まれるくらいで、やはりそのことを実感せざるをえない。最近だと NYT の救急救命士の聞き書き記事とかがあって、そうそう、そうなんだよな、と思わざるをえなかった(→ 原文記事を引用したブログ記事、なお拙訳文はじっさいに掲載された邦訳記事とは異なっている点をお断りしておきます)。
私の仕事を知りたい人など誰もいないだろう。あなたたちは英雄だ、と口先だけの称賛を送る人はいるだろうが、救急救命士の話は誰もが聞きたいと思うような話ではない。……
…… 死者は2万人余りに達しているというのに、レストランの外には早くも長い行列ができ、バーはごった返している。このウイルスはまだ市中にいて、消え去ったわけではない。毎日、新型コロナウイルス感染症の 911 番通報を受けて出動する。これまで 200 人を超える市民が亡くなった現場にいて、蘇生処置を施し、家族に慰めのことばをかけてきた。しかし世間の人は 1.8 メートルの社会的距離も守れなければ、マスクをつけようともしない。なぜだ? 自分はタフガイだから? 弱そうに見られないため? このウイルスの真実に向き合おうとせず、自分はぜったいに大丈夫と見せかけて済ますつもりなのだろうか? 
…… われわれが英雄? 冗談じゃない。怒りに圧し潰されそうだ。

 'Friday Ovation'って英国が発祥らしいけれども、最前線で生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされ戦っている人の発言の重みとパンチの強さの前にはむなしい。

 ブラジルの大統領なんか、もはや歩く人災だね。経済がぁ、とのたまわっているが、かんじんの国民の生命がつぎつぎと失われてしまっては、元も子もないじゃないかっていう子どもでも理解できることがわかってない。その点、COVID-19 でいっとき猖獗を極めたイタリアの人は(みんながみんなそうではないと思うが)腹が据わっている。『テルマエ・ロマエ』原作者の方が電話越しに耳にしたイタリア人の旦那さんの発言を引用した文章を地元紙で見たんですが、旦那さんいわく、「イタリアはかつてのペスト以降、疫病に何度も襲われてきた。経済か人間の命か、どちらが大切かと問われれば、人間の命に決まってる」、だからロックダウンされようと平気だ、と。

 個人という意識の弱さ、マイホーム主義やムラ意識に代表される集団同化意識と同調圧が疫病とおなじく蔓延する島国に住む人間として、なんか民族性のちがいをまざまざと見せつけられたような気がした。欧州は日本より遅れている点、とりわけマスクをする習慣さえなかったことも考えれば、そりゃいろいろと問題はあるでしょう。でもドイツみたいに WHO のパンデミック宣言の出る前から検査体制や医療体制の拡充を図っている国の例などを見るにつけ、せいぜい胸を張れるのはマスク着用とか「3密(3C)」を避けよう、くらいのものかと。いくら都知事選とかがからんでいるからって、個人の意識の徹底という点では日本も米国もブラジルもたいして変わらないと思う。個人的に意外だったのは、スウェーデンの対応だった。「集団免疫」戦略だったんですが、あいにくうまくいってない。他の北欧諸国がなんとか抑え込んでいるのに対し、高齢者を中心に死者数がとんでもないことになっている(→ NYT 報道記事の邦訳ページ)。

 もちろん、未知のウイルス(コロナウイルスじたいの発見もせいぜい数十年前)によるいままで経験したことのないパンデミックなので(パンデミックという用語は、そもそもインフルエンザのみに適用されてきたもの)、絶対確実な方法なんてあるわけもなく、各国の対策とか見ているとお国柄というか国民性みたいなものが出ていると感じる。しかしたとえ未知のウイルス感染症パンデミックでも、そのおおもとの方針は揺るぎないはず──「人間の生命を守ることが最優先」されるべきではないか。ブラジルの大統領がもし国内経済を好転させたとしても、この点においては為政者失格、ということになる。この人の「無策」の最大の犠牲は、アマゾンの密林に暮らす先住民だ。

 いまひとつよくわからないのは、しきりと「第2波」だ、とテレビとかが喧伝していること。個人的には、病原体があきらかに変異して、100 年前のスペインかぜパンデミックを引き起こしたようなことが起こればまちがいなくそれは「第2波」と言える。ただ、いま現在は「再流行」と言うべきで、「第2波」と決めつけるような言い方はいかがなものか、といつも感じる(WHO の専門家も含め、世界の感染症研究者で新型コロナウイルスが「変異」したと明言する人は現時点ではひとりもいない)。今月の地元紙切り抜きを見ると、たとえばポルトガルでは「[外出規制]緩和後、若い世代の感染率が高まり、首都リスボン近郊の一部地域に外出規制を課した」とある。規制再拡大の動きは隣国スペインでもおなじで、パブ文化のある英国でも規制強化を望む声が世論の8割を超えている、という。これって日本でもおんなじですよね、とくに「若い世代の感染率が高まり」というくだりは。ようするに、規制緩和したらやっぱり感染率が高くなって、市中感染が始まりつつある、ということだと思う。

 また、「接触8割減」ということばが独り歩きしたことがあったけれども、舌の根の乾かぬうちにこんどは「これまで感染が確認された人のおよそ8割はほかの人に感染させていない」と言って GOTO トラベルを見切り発車してトラベルならぬ無用のトラブルを招き、沖縄などの離島部を含め地方都市で集団感染が立て続けに発生したり。目を覆うようなことがつづいて正直、ウンザリでもある。

 言っておくが自分は「ナントカ警察」ではない。ただ、マスクひとつとっても、先日の地元紙にコラムを寄稿した米ジョンズ・ホプキンズ大学大学院副学長ケント・カルダー氏が書いたように、「多くの米国人はマスクを着けるようになっているのだが、強制には反発している。草の根の米国人、特に南部の人々はマスク着用を銃所有と同じように個人が自由に決めるべきものだと強く」思っているかぎり、人類はこの新型ウイルスという強敵にはとうてい勝ち目はないだろう、と感じている。いま一度つよく言いたいのは、もはや COVID-19 以前のような日常生活にはもどれない、ということ。個人ひとりびとりが、ここをよ〜く考えてから行動すべきだ。ダレダレが悪いから、というのは通用しない。あなたがどうすべきかだ。このままだと COVID-19 の思うツボになるのは目に見えている。

タグ:COVID-19
posted by Curragh at 07:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々の雑感など

2020年07月19日

オルガンが丸焼けに

 …arson、だそうです。フランス西部の港町で、近年は「ラ・フォル・ジュルネ」音楽祭発祥の地としても知られているナントの「サンピエール・サンポール大聖堂」の火災。放火犯はてっとり早く燃やそうと、木製部品だらけの大オルガンに火を放ったようです(海外の速報記事とか見ると「会堂内3箇所から火の手があがった」というから、オルガンは出火場所のひとつということになる。なお日本語版記事には「破損」とあるけど、全焼しているから、「全壊」と書くべきだろう。手を加えて修理できるレベルの話じゃないですわ! ちなみにこの楽器、4段手鍵盤と足鍵盤 / 実動 74 ストップの威容を誇る、教会オルガンとしてはかなり大型の部類に入るものだったようです)。

 どこのどいつがこういうバカげたことをしでかしたのかはまだわからないし、それについてとくに喋々するつもりもない。ただ、昔からこういうことは意外にも(?)繰り返されてきた、というのもまた事実なんですね。もっとも顕著な例ですと、18 世紀後半に勃発したフランス革命とその後の動乱期。ちょうどこのときは、王侯貴族と教会権力の失墜とともにオルガンとオルガン音楽そのものの「価値」がブラックマンデー顔負けに暴落して、オルガン音楽がクラシック音楽のメインストリームから脱落する時期とぴたり重なっている(それを言えば、かつての王侯貴族に付き物だった鍵盤楽器クラヴィチェンバロ / クラヴサンもそう)。フランスは基本的にユグノー、すなわちローマカトリックの国なので、このとき各地のカトリック教会、とりわけ司教座付き聖堂(大聖堂)は目の敵にされ、略奪されるわ放火はされるわ狼藉の限りを尽くされ、オルガンの金属パイプ(鉛と錫の合金、ようはブリキ合金)は引き抜かれて溶かされ建築資材にされるわで、オルガン音楽好きからしたら目を覆いたくなるような惨状だった[ → AFPBB サイトの速報記事]。

 オルガンの受難は海峡を挟んでお隣りのイングランドでも似たかよったかでして、こちらはもっと早く 17 世紀に起きた内戦、世界史で言う「ピューリタン[清教徒]革命」前後数年の混乱に乗じて、おなじキリスト教徒のくせに清教徒側が「なんで会堂内にモーセの禁じた偶像やら金ピカな贅沢品があるんだ、聖書の教えと違う!!」と狂信者心理だか群集心理だかなんだかわからん烏合の衆的ポピュリズム的暴徒と化した連中が、やはり未来の隣国同様のことをやらかしている。大聖堂の貴重な聖遺物や代々受け継がれてきた宝物、絵画・彫刻といった芸術品、そしてもちろん、いちばん目立つオルガンが標的になった。でもオルガンをバラして燃やした、のではなくて、他の用途に転用したことが多かったようです(「革命」と名はつくが、約1世紀あとの市民革命とはそもそも目的が違う)。また、暴徒が押しかけてくる前にひそかに解体されて「疎開」し、ロンドンから遠く離れた片田舎に保管されて難を逃れたオルガンも少数ながらあった、という話もあります(どこの楽器だったか失念したが、たしかアルプ・シュニットガー建造の歴史オルガンの中にも、第二次大戦の爆撃を避けて解体され、疎開した楽器があったはず)。

 昨年のいまごろ、パリのシンボルたるノートルダム大聖堂の尖塔部分や屋根などが失火で焼失したときもたいへんなショックだったが、このときは不幸中の幸いで、有名なカヴァイエ=コル建造の歴史的楽器はほぼ無傷ですんだ。火災後の聖堂内を映した動画を見ながら、「ウン、……オルガンはダイジョウブみたい」と、東京芸術劇場の「回転」オルガンを建造したオルガンビルダーのマチュー・ガルニエ氏が NHK のニュース番組で心底ホッとしたような表情を浮かべて話しておられた姿がいまも思い出される。ナント大聖堂のこの歴史的楽器もいずれ再建されるだろうが、この楽器が持っていた400年という歴史の重みは、紅蓮の炎に焼け落ちる背後のステンドグラス絵と同様、この世界から永遠に消滅した。

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2020年06月30日

読んでみたら意外と…?

 国家安全保障担当補佐官という仕事には、ありとあらゆる無理難題が目の前に立ち現れる。こんな仕事のどこに惹かれて、私はこの重責を引き受けただろうか? 混乱と不確実性とリスク、大量の情報を処理し、つねに決断を迫られ、とにかく膨大な作業量に終始圧倒される仕事。人間の個性とエゴが国際舞台で、アメリカ国内で衝突し合う。こういったことにおもしろさを見出だせないような人は、ほかの仕事を探すしかない。この仕事にはどう考えてもうまく行かないだろうというときに、パズルの各ピースがぴたりとはまる瞬間がある。そんなときは爽快感さえ覚えるが、この感覚を部外者に話してもほとんどの場合、共感されることはない。
 トランプ政権の変質について、包括的な説を提示することはできない。どんな説をもってしてもそんなことは不可能だからだ。しかしながら、トランプ政権の軌跡に関するワシントンの紋切り型の常識は誤りだ。知的に怠惰な層にとっては魅力的に映るこのトランプ像は、当時広く受け入れられていたものだ。すなわち、つねに突飛な言動を繰り出すトランプは大統領に就任して 15 か月間、未経験の場所で感じる所在なさと「大人たちの枢軸」に抑えつけられ、自身の行動にためらいがあった。しかし時間が経つにつれトランプは自信を深め、「大人の枢軸」たちも次々と離脱してすべてがバラバラになり、いつしか周囲は 「イエスマン」しかいなくなった、というものだ。
 いきなり失礼。これはいま全世界で話題(?)の、こちらの本の Kindle 版の第1章出だしから試訳をつけてみたものになります。

 いつものワタシらしくない? そう、つねづね「流行りものは見向きもしない」ことをウリにしてきた人間としては、なんだか不戦敗みたいな、「長いものに巻かれた」ような気もなくなくはない、のではあるけれど、とりあえず第2章途中まで読んでみて、読み物として意外とおもしろいなコレ、というのが偽らざる感想でありました。

 米国の現政権については、たとえば要職のひとつであるこの「国家安全保障担当補佐官」にしても、最初に就任したマイケル・フリン氏から現職のロバート・オブライエン氏まで、代行者もいれてなんと6人も入れ代わり立ち代わり交代しているという混乱ぶり。で、その入れ替わり立ち替わりぶりについて、もと「中の人」だったボルトン氏が詳細に記述しているのが、冒頭の章ということになります。全体のプロローグ的な書き方にもなっており、ここだけ読んでもけっこう楽しめるんじゃないかと思われます。

 とはいえこの本、当然のことながら、現代の米国政治ものが好きな人向けではある。この前、地元ラジオ局の朝の情報番組でアンカーを務めているキャスターがなんと! 「英語学習の近道として最近、多読がいい、ということが言われていますので、ワタシ、この本予約しちゃいました! で、さっそく読み始めたんですが…」、1行目の 'National Security Advisor' で1分ほど考えていたとか。この手の本を原語で読みたいというその意欲の高さはまことにあっぱれながら、たとえば「ラダーシリーズ」あたりから始めてみるのはどうでしょうか。いきなりコレは敷居が高かったかも …… もっとも話題の本ですし、番組前フリのネタということで紹介したエピソードなんでしょうけれどもね。

 ついでにわが国の防衛相殿もこの本を読むのを楽しみにしていたそうなんですが、「売り切れて手に入らなかった」とか。ハテ? Kindle 版ならすぐにでも読めるのに知らないのかな、とかよけいなお世話ながら思ったりもした。

 Kindle 本なんで気になったとことかどんどんマーカー入れつつ読み進めたんですが、たとえばまだ副大統領候補だったときに会ったマイク・ペンスは「筋金入りの強力な国家安全保障政策支持者。彼とはすぐ、外交と防衛政策上の幅広い問題について意見を交わした」とあり、ウマが合っていたらしいことが垣間見えたり、最初の国防長官だったマティス氏がオバマ政権時代の元国防次官ミシェル・フロノイ氏を副長官に推していたのは「理解しがたかった」と酷評していたり。また現政権の最初の国務長官だったティラーソン氏が自分を副長官に据えることにとんと無関心だったことについて、「私が彼の立場だったなら、当然、同じように感じていたことだろう[Of course, had I been in his shoes, I would have felt the same way.]」なんて典型的な仮定法の例文みたいな言い回しが出てきたり。

 個人的に笑えたのが、「トランプは大統領としてのブッシュ親子と両政権を忌み嫌っていた。そこで思ったのは、こちらが10年近くもブッシュ両政権に仕えてきたことを失念しているのではないか、ということだった。そしてトランプはころころ気が変わる。ケリーの説明にずっと耳を傾けていると、彼はよく逃げ出さずにいられるものだと思った」というくだり。いかにもって感じですな。

 こういう確実に売れる本というのは納期がキツくて、いまごろ訳者先生はネジリ鉢巻で訳出作業に当たっていることでしょうが、翻訳書と言えばなんと! ジョーゼフ・キャンベルのこちらの新訳もいつのまにか出ていたんですねぇ、これにはビックリした。まさか新訳が出るなんて予想もしてなかったもので … おそらく原書はこの拙記事で一部を紹介した本だと思う。こちらは近いうちに花丸氏御用達の本屋さんに行って探してみるつもり。

posted by Curragh at 22:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近読んだ本

2020年05月31日

ネット時代のパンデミック

 TV や新聞などで新型コロナ感染症(COVID-19)関連の報道があると、決まって「米ジョンズ・ホプキンズ大学によると」が、枕詞のように出てくる。そのソースとなっているのがこちらの特設サイトで、じつは 3月9日時点の拙記事で張った参照リンクも、じつはココでありました。個人ブログとしては、国内でもわりと早くここのサイトをリンクというかたちではあるが引用したんじゃないかなって思ってます。

 最近、COVID-19 関連で検索すると、「COVID-19 に関する注意」という但し書きがやたらと出現する。それだけデマないし「裏をとってない」信憑性の疑わしい情報源の引用が多い、ということなんでしょうが、統計数字にかぎって言えば、もし上記の同大学特設サイトを引いていないような Web サイトやブログ、ツイートだったら、話半分に聞いておくていどでよい、ということです。

 ところでここのサイト、地元紙とほぼおなじ内容のこちらの記事によると、同大学システム科学工学センターの女性准教授と、中国出身の大学院生のおふたりがたったの半日(!)で完成させ、公開にこぎつけたものだったらしくて、そっちにもビックリした。いまさっき確認したところ、3月投稿時とレイアウトがまったく変わってないことから、特設サイトの完成度もけっこう高かったんじゃないかって気がします。とにかくこれすごいですよ。数字関連で確認したいとき、ここの特設サイトは must です。

 COVID-19 がらみでは、なにかと評価の芳しくない日本の対応。厳格なロックダウン下に置かれたロサンゼルス市内に家がある超有名邦人アーティストには、「[日本は]狂ってる」とかなんとか言われたり。たしかに向こうの基準ではなにやったってそう見えるだろうし、「三密は避けましょう」などと、あいも変わらず曖昧な言い回しで茶を濁すのが大好きな国民性ですので、内心、忸怩たる思いはあるものの、かろうじていまのところは最悪のカタストロフィは回避できてるのかな、と。ただ、「第2波のただなかにいる」と発言している首長さんがおられますが、実態はただの「再流行」的なものであり、未知の感染症エピデミック / パンデミックの「第2波」と同一ではない、ということだけは言いたい。ほんとうの「第2波」は、残念ながらこれから襲来すると思う。高温多湿の真夏の日本でこのウイルスの活動がどうなるのかは神のみぞ知る、としか言えないものの、とにかく「第2波」が来る前にワクチンが開発されるようにと、それだけを祈っている。

 祈ってはいるけれども、ワタシは例の江戸末期の「疫病退散」妖怪ブームについては、なんだかなあ、と思ってしまう。英国発祥という医療従事者への拍手、もいいけれども、もっと大切なところはそこじゃないだろ、と感じてもいる。医療や介護、あるいは物流の過酷な現場で働かざるを得ないいわゆる「エッセンシャルワーカー」に対する世間の人びとの態度もまた、失望させられることのほうが多い。いまさっきも英 Financial Times 見てたらこんな記事があって(下線強調は引用者)、
Other ordinary jobs are suddenly perilous too. Chefs, security guards, taxi drivers and shop assistants are dying at higher than average rates from Covid-19 in the UK. The British government, desperate to revive the economy, has told millions to return to work. Little wonder many are scared to do so.
失職して困ってる人にとってはつべこべ言っていられない、というのが偽らざる気持ちとしてあると思うが、そう、そこなんですよね、この新型感染症のほんとうにコワいところは。この前、いつも行く理髪店で散髪してきたとき、ご主人はマスクだけでしたが、そのうちあのアクリルシールドもかぶらないといけなくなるかもしれないし、こっちもマスクがはずせなくなるかもしれない。あるていどは「新型コロナ禍以前の日常」にもどれるかもしれないが、パンデミック以前の世界は二度ともとどおりにはならんでしょう。こちらの意識を徹底的に変えるほかない。

 最後に、こちらの番組の感想をすこしだけ。気がついたら、未知の感染症パンデミックに世界が覆われていて、いままで当たり前だと思っていたことがつぎつぎと変更を余儀なくされる、あるいはまったく不可能になる。そんな「不安な時代」であっても、やはり人は「パンのみに生きるにあらず」な生き物ですので、どうしても精神を支えてくれるものが必要になる。クラシック音楽家も容赦なくこの感染症禍に見舞われて世界的に仕事が蒸発して、にっちもさっちもいかなくて困ってる人もいれば、自宅隔離状態になっている人もいる。

 でもたとえば、いまはやりの「Web 会議システム」とかを駆使して、活動休止中のオーケストラ団員が指揮者もいないまま在宅で、ロッシーニの歌劇『ウィリアム・テル』の「序曲」を奏でる、というのはなんとすばらしいことだろうか! そしてこれを動画配信サイトで全世界に向けて発信し、いままでクラシック音楽に縁のなかったリスナー層を取り込むことに成功してもいる。

 総じて、社会インフラとしてのインターネットの普及と、それを支える技術の急速な進歩によって、30 年くらい前までは実現不可能だったことがいともあっさりとできちゃったりするから、そういう点ではひじょうに恵まれていると言える。翻訳の仕事だってぜんぶネット経由で訳稿の納品ができますし(というか、紙媒体の納品はありえなくなっている)。その気になればなんだってできると思うんですよね。文字どおり empowerment だと思う。もっともオケなんかはやっぱりコンサートホールのライヴを聴くにかぎるんですが、たとえネット経由であっても、ひとりひとりの「想い」が真摯でパワフルであれば、それは聴き手にもズキューンと伝わると思うのです(個人的には、演奏家の自宅が映し出されるのも新鮮な感覚あり。とくにジャン・ギアン・ケラス氏のフライブルクのお宅の部屋、インスタのストーリーズに公開してもおかしくないほど「映え」てましたね)。

 その音楽はもちろんなに聴いたっていいんですけれども、かつて自分が病気で臥せっていたころは、ヘルムート・ヴァルヒャの弾くバッハのオルガン作品集の LP レコードが心のよりどころで、ヴァルヒャによってバッハ音楽の深淵な世界に誘われた気がする。上記番組では、世界に名だたる演奏家のめんめんがそれぞれの「想い」を胸にベートーヴェンやドビュッシー、フォーレの楽曲を演奏していたんですが、演奏してくれた全 10 曲中なんと 4曲がバッハだった。そう、こういうときこそバッハなんだよ !! 庄司紗矢香氏は「毎朝、瞑想と自分に向き合うために」バッハの一連の『無伴奏』ものを弾く、とおっしゃっていた。ピアノのラン・ラン氏はバッハ弾き、というイメージがあまりなかったんですけど、こんなご時世ではやはり「宇宙を思わせるバッハの音楽」一択、という趣旨のことをおっしゃっていて、バッハ好きとしてはたまりませんでしたね。

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2020年04月30日

感覚のズレの話

 先日、ここでもすこし触れたことですけれども、なんかここんところのハラリ氏、eagerly sought after ですね。ついに(?)Eテレでも対談がノーカットで放映されたり(じつはその前にもジャック・アタリなどほかのインテレクチュアルズとの「テレビ会議」方式のインタヴューとして放映されてはいたが)、いちやく「時の人」という感じです(こちとらはあいも変わらずだがそれは置いといて)。

 翻訳、ということではそうそう、全著作の日本語版の版権を持ってる版元さんから本家本元の全訳が出たので、お読みになった方もかなりおられると思う。あいにく拙訳版は、後半が有料記事扱い(契約先がそういう方針だから、これはしかたのないこと)だったから、あまり人目に触れずに( ?? )「なんだこの訳は ?! 」とお叱りを受けることもなかったんですけど、もちろん自分の勉強のため、こういう機会もめったにないから、時間があるときにじっくり突き合わせて検討はします。もっともっと、うまくなりたいからね。翻訳は 100 人いれば 100 通りの翻訳ができるものとはいえ、中田耕治先生の警句にもあるように、「世の中には、よい翻訳と悪い翻訳のふたつしかない」というのもまた真、なわけでして、つねに肝に銘じてはいる。

 前置きはこれくらいにして、放映された対談の率直な感想としては、おっしゃっていることはほぼ正しい、とは思う。ご丁寧に自分が訳した原文まで大写しにされ、「NHK 訳」も添えられていた。この対談はどうも Financial Timesの「緊急寄稿」コラム(そういえば日経からも抄訳版が出たとき、版権の扱いはどうなってんだろ、って書いたが、FT は日経の子会社だったことをすっかり失念していた)をベースに話が進んでいるようだったので、ようするにその文章を読んだ人間にとってはとくに目新しくもなんともなかった、というのが偽らざるところ。また、原文を読んだときにも感じていたのだが、「新型コロナ禍に乗じて独裁が正当化される恐れがある」とか、「個人情報を警察などの治安維持組織に渡すな」とか、「このパンデミックを乗り越えるには世界的な連携と連帯が必要不可欠、そうならなければ悲惨な結末が待っている」とか、はっきり言って常識的に考えればしごく当たり前なことしか書かれてないんである。当たり前だけども、いまの米政権なんか見れば、これがなかなかね! 言うは易く …… ってやつでして。だからアフター・コロナの世界のあり方の考察、という点では、たしかに説得力はある。

 それから'empowerment' も、重要キーワードなのでテレビ番組にももちろん出てきたけれども、市民 / 個人に「力を与える」というのは、狭義の「権利拡張 / 権限拡大」ってことじゃないずら! だからない知恵さんざ絞ったけれども訳しあぐねて、しぶしぶカタカナ語のままで通した。カタカナ語だけれども、コンテクストからわかるかなん、と思ったもので。対談でも、「ひとりひとりの負うべき責任」について明言してましたし。

 でもなんかこう、個人的にはモヤモヤがとれない …… いっときはやった「いつやるの? いまでしょ!」じゃないけれども、「ええっ! アフター・コロナの世界はどうあるべきか、ですって(『くまのパディントン』主人公のクマくんふうに) ?! それっていま言うこと ?? 」みたいな自分がいる。主張はごもっとも。「プディング令」の話なんか聞かされればね。でもたとえば、
戦争と考えるべきではありません。まちがったメタファーです。重要なのは人のケアをすることで殺し合いではありません。いかなる人も敵とみなすべきではない。戦争や戦い、勝利といったたとえは使うべきではない。
COVID-19 震源地になったとなりの大国ははやくも「勝利宣言」みたいなことをさかんに喧伝しているから、そこはまったく同感なんですが、「致死率はインフルエンザ以上」、「無症状感染者が知らずにうつしている」、「基礎疾患のない人でも一部は短期間で重篤化」、そしてなんといってもその最前線に立たされている医療従事者にとっては戦争以外のなにものでもなく、この新型ウイルス株の持つ恐ろしさを考えれば、あながち「誤ったメタファー」とは言えないんじゃないでしょうか。それにこの危機、まだ始まったばっかだよ。それよりも先日の地元紙に元静岡県危機管理監が寄稿した、
誰かの指示で避難するのではなく、自ら命を守るためには自らの意思で行動できる国民であることが求められている。自然災害と同様に今回の感染拡大に対しても、誰かの指示を待ち日常の延長からずるずる対応するのではなく、自らの意思で日常から非日常にスイッチを切り替えることができるかにかかっている
のほうが、自分としてはよっぽどストンと腑に落ちるんですわ(下線強調はいつものように引用者、以下同)。ハラリ氏の「監視政治体制を構築する代わりに、科学と公的機関とマスメディアに対する人々の信頼を復活させる時間はまだ残っている」という一節も、いまの日本と日本人はどうなんでしょ …… ってつい思ってしまう。福島の原発事故のときもそうだったけれども、国内の専門家もアテにならないし、せっかくストックしてある備品もけっきょく使われることなくホコリかぶったままになっていたとか、そんな話ばっかじゃないですか。そして、やめろと言われてもあいかわらず玉を弾いて遊ぶギャンブルに通い詰める市民たち。地元放送局のラジオパーソナリティーが、「タバコがあれば吸いますよ。この問題はタバコとおなじで、すべてなくすしか方法はない」とか言ってましたが、これはあきらかに「依存症」なんで、その病んだ精神状態を治療すればいいだけの話。こういう身勝手かつのほほんと惰眠を貪っているような手合いの「権限強化」をされたら、マトモに生きてるこっちが冷水を浴びせられる(ヤなこった)。

 けっきょく、ハラリ氏がもっとも恐れていることと、呼吸器の感染症に罹患して「昔の日本だったらキミはとっくに死んでた」とかかりつけの医師に言われた経験を持つワタシとでは感じ方がそもそもちがう、感覚がズレているだけなんだ、ということに思い至ったしだい。ハラリさんは警察国家にして世界有数のハイテク軍事技術の突出した監視国家のイスラエルに生まれ、いまもテルアヴィヴ に住んでいるから、そっちのほうがむしろ「重大事」だと感じているにちがいないから、こう訴えたかったんだな、と。でもいまのワタシにとっては、正論しか書いてないけれどもどこか虚ろに聞こえる歴史学者の発言よりも、むしろこちらの文章 ↓ のほうがビンビン心に響いてくるのであります。
…… ボタン一つ押せば答えが出てくる、面倒なことは専門家が何とかしてくれるという期待はここでは成り立たない。一人一人が責任を持ち、手を洗いなさいというわけである。…… 最先端技術は、微小なウイルスがいつの間にか体内に入り込むことを防げないのだ。反対に、幼子にもできる手洗いによって自分の体は自分で守ることができ、しかもそれは周囲の人、さらに同世帯の人を守ることになるのである。自己責任などという薄っぺらな言葉で表せるものではない。私が生きていくこと、仲間たち皆が生きていくことが大事であり、そこに自分が参加しているのである。…… 私たちは、ウイルスが存在する自然と向き合って生きているのだ。自然とは、具体的には地球(グローブ)である。
 これまで「グローバル企業」などの用語で使われていた、権力と金の力で世界を支配するという意味のグローバルではない。一人一人が自分の役割を意識して行動することで地球とつながる。皆で同じ危機に向き合っているのだという認識から思いやりが生まれ、現在問題になっている弱者へのしわ寄せや深刻な格差を避ける社会が生まれる可能性がある

[中村桂子 / 2020年4月 22日付「静岡新聞」朝刊 20 面から抜粋。カンケイないけど、おなじ紙面に「社会的距離」について、「目安はパンダ1頭分」なんてあって、苦笑させられた。あいにくこちらが見たことあるのはジャイアントパンダじゃなくレッサーパンダのほうなんで、とんとイメージがつかめず。流行語大賞候補になりそうな social distancing、言い出しっぺはなんとウサイン・ボルト氏らしいが、これを「物理的距離」、physical distancing にすべしと言われはじめたから、近いうちにそうなるかも]

最後に、『21世紀の資本』のトマ・ピケティ氏の論考も参考までに引いときますね。アフター・コロナの世界がどう転ぶのか、についてはこちとら 12 ポイントくらいの特大ハテナマークしか持ち合わせていないけれども、はっきり言えるのは、「個人に力を与えること / エンパワメント」以前に、引用した生命誌研究者の方の寄稿文のように、「いますべきことは自分の生命を未知のウイルスから守り、自身を守ることで世界にいるみんなを救う」ことなんじゃないですかね。これなくしてアフター・コロナの世界は云々、なんて語れるわけもなく、それにハラリ氏だってけっきょくのところ、そういう市民にひとりひとりがなりなさいよ、と言っているわけで(「国民は、科学的な事実を伝えられているとき、そして、公的機関がそうした事実を伝えてくれていると信頼しているとき、ビッグ・ブラザーに見張られていなくてもなお、正しい行動を取ることができる。自発的で情報に通じている国民は、厳しい規制を受けている無知な国民よりも、たいてい格段に強力で効果的だ」など)、矛盾もない。

 Eテレの番組の最後、夜の橋を通過する映像が流れていたけれども、そこに "Save Lives #FLATTENTHECURVE" という電光掲示板の文字が映し出されていたのがなんか印象的でしたね。

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2020年04月27日

トム・ハンクスとタイプライター

 COVID-19 がこれほどまでに世界で猛威を振るう、いわゆるパンデミック禍になろうとは、そしてつぎつぎと著名な音楽家や芸能関係者が斃れるとは、ほんの数か月前までだれひとり予測した人なんていなかっただろう。

 そんななか、米国の名優、トム・ハンクス氏も奥さんとともにこの新型コロナに感染した、との一報を聞いたのは志村けんさんが急死するすこし前のこと。それから …… 日本国内でもこの 21 世紀型疫病のパニックとでも言える状態に陥り、あれほど「PCR の全員検査は必要ない!」と、国民のほうではなく医師会(?)のほうしか向いてないのではという不可解な発言をワイドショーで繰り返していた某医師(といっても、現場には立ってないのね)が、ここにきてヤバいとでも思ったか、「PCR 検査を増やすべき!」旨に宗旨替えしたりと「専門家の言」なるものがいかにアテにならないかの証左を 2011 年3月のときとおなじく見せつけられたりと、ホントしょーもなく暗い話ばかり、出るのはお足とため息ばかり、な今日このごろではあるが、ここにきてふたたびハンクス氏のお名前を見かけて? と思ったら、この窒息状態をつかのまスカっと吹き飛ばしてくれる、なんとも heartwarming なすばらしいお話をおみやげに持ってきてくれた。

 ハンクス氏が COVID-19 に罹患したのは映画の撮影で訪れていたオーストラリア。で、全快(?)したのかな、とにかくお元気になられたハンクス氏のもとに、地元の8歳の小学生から手紙が届いた。なんでもその子はコロナという名前を持つ少年で、ハンクス氏の体調を気遣ったあと、パンデミックを起こしている新型肺炎ウイルスとおなじ名前のために学校でいじめられて悲しい、とあった。そしたらハンクス氏直筆の返事が来まして、自身が吹き替えで出演した有名なアニメ映画の科白の「ぼくはきみの友だち('You got a friend in ME.'、ついでにここの in は「なかで」ではなく of とおなじ同格の in で、字義どおりには「わたしという友だち」になる)」まで引用して(ワタシは有名な歌のタイトルを引いたのかと思った、どっちでもよいが)、なんとなんと、マニアなら垂涎の的であろう、スミス・コロナ製の手動式タイプライターまでプレゼントしちゃったんである !!! 

 ご本人のインスタ投稿、見たんですけど、なにこれスゲー、グランドピアノよろしくピッカピカじゃん!、とガラにもなくコーフンしまして、「にわか」タイプライター好きになってしまったほど。たまたまいま手がけている仕事がまさにそんな話だったものだから、よけいにうれしくて、文字どおり快哉を叫んでましたね。

 知ってる人は知ってるが、じつはハンクス氏、超がつくほどのタイプライター好き。好きが高じて買い足し買い足ししたタイプライターのコレクションなんと 180 台、らしい(新潮クレスト・ブックス特別冊子『海外文学のない人生なんて』インタヴュー中の、ご本人の弁から。ちなみに作家デビューもしており、短編集『変わったタイプ[2018]』が同叢書から出てます。カッコイイ人ってのは、なにやってもサマになるんですなぁ)。

 ハンクス氏、ついでにコロナ少年もタイプライター沼に道連れ(?!)にしようというのか、「使い方をまわりの大人に教えてもらって、返事を送ってね ♪ 」と返信まで所望。このサプライズにもちろんコロナ少年は大喜び、公開されている動画クリップとか見ますとほんと瞳を輝かせ、嬉々として黒光りする名機で 'Dear Tom,' と打ってました。

 ちなみにスミス・コロナやレミントンランドはタイプライターの製造元として一世を風靡した事務機器メーカー。年代ものの手動式完動品は中古のノートPC なんかよりはるかに高くて、きっとこれもお高いんだろうなぁ、となんか下世話なことも思ってしまったしだい。ワタシだったら、仏語や独語などで使用される「アクセント記号」も打てる「デッドキー」を備えた欧文仕様タイプライターがほしいかも……インテリアどまりになりそうですがね。

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2020年03月30日

ハラリ氏の FT 寄稿コラムについて

 けさ、コメディアンの志村けんさんの訃報に接して──みなさんそうでしょうけど──病歴や年齢、ヘビースモーカーでもあったことを思って案じてはいたんですけど、やはりショックを受けています。「オレみたいになるなよ! みんなはだいじょうぶかぁ〜〜 !!」と、身をもって警告しているのかもしれません。合掌。

 … 警告、ということでは先週、大急ぎでと言われて渡されたのが、こちらの原文記事。寄稿した先生は、世界的ベストセラーにもなった労作を世に問うたイスラエル人歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏。原文は見てのとおりきわめてやさしく書かれていて、とりわけ新聞とか目を通さないであろう若い人にも読んでほしくてこれ書いたのかな、と思うほど論旨明快、主張されていることもしごくまっとうで、不遜にもこれはぜひワタシがやらねば、という意気込みのままいっきに訳出した、という感じで作業を進めました(英語の先生らしい方の、高校生のみんなもぜひ読んでみて、という趣旨のツイートも見かけました。ワタシもまた、英語の得意な生徒さんは学校もお休みだろうから、ヒマ持て余してるくらいならハラリ氏の原文をじっくり読まれることをつ・よ・くオススメしたい。アドヴァイスとしては、いわゆる「一語対一語」ではなくて、あくまで前後関係、むずかしく言うと「コンテクスト」で文意は決まるので、パラグラフ・リーディングというのを意識して読んでみてください。何度か目を通しているうちに、「そうか、わかった!!」っていう瞬間が来るでしょう。で、「ハラリ先生の英文がオラにも読めた!!」ってなればしめたもの。あとは興味の赴くまま、ペーパーバックでもなんでもいいからとにかくいっぱい読んでみることを、そのつぎにオススメしておきます)。

 で、新年早々、まだ COVID-19 が話題にものぼらず、よもやこんなパニック・恐慌状態に全世界を陥れようとはつゆほども思ってなかったころに海外逃亡した例の方の原文6千ワード超の記事をせっつかれて訳していたときの記事でも書いたように、やはりこちらもヤフトピさんに取り上げていただいた。それはよかったんですけど、レバノンに逃れた人の記事以上のものすごいコメント量にこんどは圧倒されて、あらためて翻訳という仕事の責任の重さを痛感したしだいです(もっともっとがんばらないと …)。

 それで、こんなこと告白するとあんまりカッコよくないんですけど、原文には突拍子もない比喩もなければシェイクスピアや聖書の引用もなくて(なんたってイスラエルの人ですし)、たしかに平易に書かれてあるとはいえ、訳語選定でもっともアタマを悩ませたのが、'empower/ empowerment'。コラム後半部でもっとも重要な主張のひとつであり、キーワード的なこの用語、いろいろ考えたんですけどなかなかすんなり・しっくりくる日本語に思い当たらず …… 編集サイドに迷惑がかかるかもと後ろ髪引かれる思いで、そのままカタカナ語表記でいくことにした。

 コメント欄見たらやはりそのことを指摘されていた読み手の方がいて、こちらはアタマ掻きつつ読ませていただいた。断っておきますけど IT 系やすでにカタカナ語化している外来語ではない、こなれていない横文字語はきょくりょく、日本語表記化するというのがいちおう、自分のスタイルなので、これは忸怩たる思いが残った。いまはやりの「民度[を向上させる、など]」というのもよぎったんですけど、民族主義的なかほりがイヤだったんで、ボツ。個人の力・権利・能力・リテラシー……ようするに、全体主義中央集権的「総監視国家、総監視社会」を選ぶのではなく、個々人の持てる力を底上げすべきだ、ということなんですけど……。なおこの点に関して、やや理想主義的かもと感じたりもしたが、主題が現下のパニックな状況をどうサヴァイヴするのか、というのではなく「その後の世界はいったいどう変わってしまうのか」、コロナ後に人類が生きる世界はどうあるべきかを考察しているので、「どっちを選ぶかと言われたらみなさんどっちをとる?」という流れで書かれているのだと(訳した本人は)解釈した。

 そのときは気づいていなかったが、この手の話題の書き手によるコラムが掲載されると案の定、腕に覚えのある方が率先して訳を起こし、公開していたことも拙訳記事公開後に知った。あいにく、「オフィシャルな邦訳が出たから」という理由でご自身の訳は引っこめてしまわれたみたいですが、版権の関係はたしかにあるけど、個人訳であっても前半だけなら大丈夫ではないでしょうか。前から繰り返して言っていることだけれども、翻訳っていうのは「100 人いれば 100 とおりの翻訳ができあがる」もの。いろんな人の、いろんな訳が読めるほうが数倍、楽しいと思うんですけどどうでしょうか(なお全体主義関連では、こちらの邦訳本もおススメします)。

 と、そんな折も折、NK 新聞が独自訳? をぶつけてきたらしい。出版翻訳の場合、「日本語翻訳権は版権を獲得した一社のみ」で、ほんらい他社からは出せないはずなんですけど、この手の洋新聞や洋雑誌の電子版記事や寄稿コラムのたぐいは権利関係の扱いがどうなってるのか、よくわかりません。こちらはただ、「つぎ、これ訳してね ♪ 」と言われて引きこもって黙々と訳を起こして〆切日までに納品する、というのが仕事なんで。

 先方に怒られるかもしれないけど、ハラリ氏の寄稿コラムの冒頭部のみ、拙訳版と NK 版訳とを並べておきます。冒頭部のみなのは、サブスク契約会員限定記事のため(拙訳版は、ヤフトピさんの転載記事をそのまま引いてます)。
ハラリ氏の原文:Humankind is now facing a global crisis. Perhaps the biggest crisis of our generation. The decisions people and governments take in the next few weeks will probably shape the world for years to come. They will shape not just our healthcare systems but also our economy, politics and culture. We must act quickly and decisively. We should also take into account the long-term consequences of our actions. When choosing between alternatives, we should ask ourselves not only how to overcome the immediate threat, but also what kind of world we will inhabit once the storm passes. Yes, the storm will pass, humankind will survive, most of us will still be alive − but we will inhabit a different world.

拙訳:現在、人類は世界的な危機に直面している。我々の世代が経験する最大級の危機だろう。
この先の数週間、人々や政府の下した決断が、今後の世界のあり方を決定づけるかもしれない。その影響は医療制度にとどまらず、政治、経済、文化にも波及するだろう。決断は迅速かつ果敢に下されなければならないが、同時にその結果として生じる長期的影響も、考慮すべきである。
どんな道を選択するにせよ、まずもって自問すべきは、直近の危機の克服だけでなく、この嵐が過ぎ去った後に我々の住む世界はどうなるのかということだ。……

NK 訳:人類はいま、世界的な危機に直面している。おそらく私たちの世代で最大の危機だ。私たちや各国政府が今後数週間でどんな判断を下すかが、今後数年間の世界を形作ることになる。その判断が、医療体制だけでなく、政治や経済、文化をも変えていくことになるということだ。……

 …そしてハラリ氏の名コラムとはまるでカンケイないことながら、同氏の全著作を訳しおろした先生は個人的に存じ上げている。はじめてそのお姿を拝見したのは、たしか翻訳関係の授賞式だったような(記憶があやふやで申し訳なし)。……あれからウン十年、憧れの先達と、それもまったくおなじ原著者の手になる寄稿コラムをよもやこんなかたちで訳す巡りあわせになろうとは。翻訳、とくに文芸ものの翻訳ってたしかにおカネにはあまりならない、日陰仕事ではあるかもしれない(もしワタシが特許関係の翻訳の資格を持っていたら、まちがいなくおカネになるのはそっちなので、そっちをメインにやっていたかもしれない)。でも、ヘタのなんとかではないけど、なんでいままでつづけてこられたか。それは μ's の矢澤にこじゃないけど、「翻訳が大好きだから」。だから、いま将来に見通しが立たなくて絶望している若い方に対して、前にも書いたことながらおなじことをふたたび言いたい ── こんなこと言うとまたしても怒られそうだけど、ワタシだっていつ斃れるか知れた身ではないから、いまのうちに ── 生きていれば、きっといいこともありますよ。だから、とにかく生きてください。

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2020年03月09日

沈黙の春 2020

 世界保健機関(WHO)のお偉いさんが、「新型肺炎ウィルス[COVID-19]の世界各地における epidemic な流行のため、医療用マスク供給に数か月の遅延が発生している。だから "widespread inappropriate use" はやめるように」と、記者会見で発言していたらしい(誤解なきようここでも断っておきますが、今回の事態はまだ世界的大流行、つまり pandemic ではなく、リンク先記事にもあるように現時点はまだ "the coronavirus epidemic" にとどまっている。世界における COVID-19 のリアルタイムの状況についてはこちらを参照)。

 こんな物言いを聞くと、世界的なマスク不足がなんかワタシのような花粉症持ちの人間のせい、みたいな言い方のようでちょっとどうかと思ったり。メディアもメディアで、このエチオピア人の WHO トップのとなりに座ってたライアンという人が、「マスクをしたって予防にはならない」と発言しただけなのに、なぜかマスクは不要なのかという、「マスク不要論 / 役に立たない説」に加担しているしまつ(そうは言ってない)。

 基本的に欧米の人ってよっぽど具合が悪くならないかぎり、マスク着用の習慣がないし、もしマスクつけて外を歩けば、とたんに白い目で見られる国がほとんど(聖ブレンダン関係で大のアイルランドびいきだけれども、この件についてはおそらく似たかよったかでしょう)。

 前出の「ガーディアン」記事を見るかぎり、この発言は「医療従事者でさえマスクや防護服が足りなくてたいへん困っているから、ほんとうに必要ではない人は使用するな」という趣旨だったことがわかる。なのにメディアやワイドショーではさも「WHO トップが《マスクは不要》と言っているが … 」みたいな振り方をしている。fake news ってこうして始まるんですな。

 新型肺炎騒動は収束するどころか、世界経済全体にも暗い影、『スター・ウォーズ』シリーズじゃないけどまさしくPhantom Menace となって覆いはじめた感がある。専門家でさえ意見が1週間前と後で変わってたりして、とにかくシッポをつかむのがこれほどむずかしい、タチの悪いウィルスははじめてだ。そうは言っても、いくら SARS の経験が日本国内でなかったからとはいえ、SARS 禍を経験済みの台湾[中華民国]はそれなりに成果を上げているのだし、日本ももっと学ぶことはあると思う(ついでに、いまのお医者さんはかつての肺結核も含め、感染症の恐ろしさを肌身で知らない人がほとんどだということも、対策が後手後手に回った一因かと個人的には感じている)。

 今回、こうした事件が起きてもっともつよく感じたのは、人間という動物の本性。自他ともに認める西洋かぶれでさえ、たとえばローマのサンタチェチーリア音楽院の院長みずから、「東洋人学生のレッスンはすべて停止する」旨の通達を出した話にはポカンと口が開いてしまう。ふだんはオクビにも出さないくせに、いざこういうことになると手のひら返して「ウィルスだ、ばっちぃ !!」とわめきたてる大衆。もっとも人種偏見は日本人も人のこと言えないから、こういうときはあるていど起こることなのだろうが、言われたほうはたまったもんじゃない。

 また、こうした浮足立っているときは必ずと言ってよいほど、根拠のないデマが流れる。今回もまたしかりで、いつぞやの石油ショック(!)よろしく、トイレットペーパーがまたぞろ店頭から消えた。なんでこうなるのか、ホントこちらの理解を超えているのですけれども、歴史を顧みれば、とにかくこういうことが繰り返されてきた(メアリ・ヒギンズ・クラークのスリラー小説『子どもたちはどこにいる』に、ほぼ 100 年前にパンデミックを起こしたインフルエンザ「スペインかぜ」のことが出てくる。よもや 100 年後にこんなことになろうとは …)※。

 こういう「不安な時代(ハイドンの作品に、『不安な時代のミサ』というのもある)」に決まってぞろぞろ現れるのが、デマゴーグ、そして火事場泥棒を働く者たち。たしかに首相の判断はクソだった。なにいまごろ入国規制してんだよ。ごもっとも。でも、あなたはどうなんですか、という問題も忘れてはならない。個人を責めてるんじゃない。たとえば仕事ならしかたないところもあるが、この時節柄に遊びでとなりの国に行ってきて、いざ帰ろうとしたら日本政府側から足止めされて困った、とはどういうことか。門外漢にはまるで理解しがたし。自分ごととして考えてないからなんでしょうね。

 30 年くらい前だったか、パレスティナとイスラエルがドンパチやっているその「戦闘」のただなかに、これまたなぜか? 日本人の新婚さんらしいカップルがふらふらっとやってきた。それまで撃ちあっていた双方の兵士が呆気にとられ、なんとも間の抜けた空気が流れた「珍事件」があった、という話を読んだことがある。ホントかどうか、確かめようがないけれど、もしこれが事実ならばこの話ほど日本という島国に生まれ育った人間の本質があぶりだされている話もないではないか、って思う。はっきり言いますが、いまこのときに、人類にとって未知の新型感染症が地域的流行を起こしている国や地域に行くべきなんでしょうか? 他者を責める前にいま一度、よくよく考えてくださいね、というのがウソ偽りない気持ちではある。

 子どもたちも気の毒だし、なんたって受験シーズンを直撃した今回の新型ウィルス禍。春のセンバツをはじめ大相撲やマラソンが縮小開催されたり、人の集まるイベントは軒並み中止、まるで9年前のあの日のようだ(原発処理もまだまだなのに…)。その追悼式典まで中止になってしまった。

 はやく混乱が収まることを祈るしかないが、最後に、日本とおなじく一斉休校措置となったミラノの校長先生が、イタリアの文豪アレッサンドロ・マンゾーニを引いたメッセージには胸を突かれる思いがした ──
外国人に対する恐怖やデマ、バカげた治療法。ペストがイタリアで大流行した 17 世紀の混乱の様子は、まるで今日の新聞から出てきたようだ」。

※ …… 引用書名をカン違いしていたため、悪しからず訂正しました。
posted by Curragh at 15:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近のニュースから