2024年04月11日

『シリコンバレー式 よい休息』

 最近、仕事の裏をとるための読書がよくあります。これはこれで「知は楽しみなり」で良しとしても、なかにはなんてヒデぇ本! みたいな噴飯ものもある。本を読みなさい、とは言うものの、明らかに良書どころか悪書のたぐいは昔から引きも切らずでして、「読書案内」的なガイド本より、「☓☓☓という本が本屋に平積みされているが、貴重な人生の時間のムダ遣いだから読まんでいい」的な、反面教師的反骨精神的忖度一切ナッシングの読書案内本もあっていいような …… 気がする今日このごろ。

 今回はラッキーなことに、真に掘り出し物とでも言うべき1冊と巡り会えた。それがお題の本(日本語版は 2017 年 刊行)。原題はあっさり Rest でして、ひと口に言えば、「正しい休息のとり方指南書」といった本。著者は邦題にもあるように、シリコンバレーを拠点に活動してきたコンサルだから、ある意味ハウツー系、自己啓発系のビジネス書と言えるかもしれない(しかし『シリコンバレー式◯◯』という書名の本のなんと多いこと)。

 それでものっけからディケンズ、ポワンカレ、ダーウィンとジョン・ラボック、ベルイマンなど錚々たる面々の休息にまつわる興味深いエピソードが最後の章までてんこ盛りで、読んでいて飽きない。経験上、この手の本はなんとか科学と銘打って、「成功の法則」を伝授します的な胡散臭さが漂うものなんですが、それはこちらの思い過ごしだった(この点で、個人的な基準はパスした本)。物理学者のアルバート・マイケルソンという人の逸話も、映画『リバー・ランズ・スルー・イット』原作本を書いたノーマン・マクリーンの思い出話(!)というかたちで出てきたり、トーマス・マンやアンソニー・トロロープにヘミングウェイ、最近ではスティーヴン・キング、そしてあの村上春樹氏(『走ることについて語るときに僕の語ること』、2007)や、IPS 細胞で一躍時の人になった、山中伸弥氏のエピソードまで出てくる! 

 ただし、休息というのはなにもシエスタをとれとか体を休めろ、と言っているのではない(短い昼寝は創造力を回復させるから有効、とこの本でも推奨されてはいるが)。つまり休息とは必ずしも「物理的に体を休める」ことではない。チャーチルのように風景画を描いたり、名著『夜と霧』で知られる精神科医のヴィクトール・フランクルのように山登りをしたり、クォークに関する先駆的実験で 1990 年のノーベル物理学賞共同受賞したヘンリー・ケンドールのようにフリークライミングに興じたりするのも、りっぱな休息≠スりえるのだということを、最新の脳科学実験の結果も交えて楽しく語り聞かせてくれる(DMN[デフォルトモード・ネットワーク]の働きとか)。

 そうは言っても、たとえば「戦略的休息」といったキーワードを見ると、やはりこの本の想定読者はビジネスパーソンなのだ、ということに気づく。だから広義のビジネス書と言っても間違いではないが、べつに会社で働いてなくてももっと健康的に過ごしたい、と願う一般庶民にとってもいますぐ実行可能なヒントがたくさん詰まっているし、ときには「これってオラも実践しているじゃん」みたいに膝を叩く場面もあった。また、「仕事と休息は対立するものではない」という主張もすばらしい。誰しも経験的に納得しているはずなのに、社会的要請に人間関係のシガラミといった、さまざまなプレッシャーをかけられて、いつの間にか「仕事 vs. 休息」という二項対立のワナにはまりこんで身動きがとれなくなっているのかもしれない。
労働と休息は白と黒、あるいは善と悪のように対立するものではない。むしろ両者は、生活の波の異なるポイントと見なすことができる。谷のない山頂はなく、低地のない高地はない。どちらも、互いがなければ存在し得ないのである。(p.6)

 休息法≠フ具体例としてこの本が提案しているのは……
❶ 仕事や研究に集中的に取り組むのは、4時間が限度。有名な「1万時間の法則」も出てくるが、じつは適切に休息をとることではじめて最高のパフォーマンスを発揮できることが判明している(ラボック、スコット・アダムズ)、トロロープ、ディケンズ、ヘミングウェイ、アリス・マンロー、サマセット・モーム、ノーマン・マクリーン、ソール・ベロー、エドナ・オブライエンガブリエル・ガルシア=マルケスなど)
❷ 歩くこと(キルケゴール、トーマス・ジェファーソン、ベートーヴェン、C・S・ルイス、スティーブ・ジョブズ[ウォーキング会議]、ダニエル・カーネマン、チャイコフスキーなど)
❸ 昼寝をとること(チャーチル、J・F・ケネディ、リンドン・ジョンソン[あとのふたりはチャーチルの習慣にならって昼寝をとっていた]、レイ・ブラッドベリ、J・R・R・トールキン、村上春樹、ウィリアム・ギブスン、トーマス・マン、S・キング、サルバドール・ダリなど)
❹ 中断すること(ヘミングウェイ「次にどうなるかがわかっている時に、その日の仕事を終える」、サルマン・ラシュディ、ロアルド・ダール、マリオ・バルガス・リョサなど)
❺ 息抜きと回復(アイゼンハワー、ライマン・スピッツァー、ケビン・シストロム[Instagram 創業者。2010 年にメキシコにて休暇中に写真共有型 SNS を着想した]、ブライアン・メイ、ベン・カゼズ[コンピューター科学者でバリトン歌手]など)
❻ 遊ぶこと(この本で「ディープ・プレイ」と呼ばれる活動的休息のことだが、ようするに仕事以外に何かライフワークを持て、ということ。そういえば昔、翻訳教室の先輩生徒だった方が「SE はライスワーク、翻訳はライフワーク」とすばらしいことをおっしゃっていたのを思い出す。出てくる人はマクリーンのシカゴ大学時代の先輩マイケルソン、トールキン、ブラム・ストーカー、フランクル、ヘンリー・ケンドール[ハーケンの発明者でもある])

あと、「長期休暇」に関して述べた章もあるけれども、これはいわゆる「研究休暇(サバティカル休暇)のことで、バカンスではない。でもこの本が引用した実験結果によれば、バカンスがもたらす幸福感って、せいぜい1週間が限界らしいですよ。休暇は長ければ長いほどよいわけじゃないってことです。言われればたしかにそうだろうとは思いますが(もうすぐ皆さんの大好きな GW が巡ってくるけれども、連休明けのあのグッタリ感を思い出せば納得されるでしょう)。

 そして最終章の「現在、わたしたちは、ストレスと過剰労働を名誉なこと、真面目さと献身の証しと見なしているが、それは近年の傾向にすぎない」「疲れ果ててパニックになっている人を、最も真剣に働いていると見なすのは、間違いだ」(p.283)という指摘と警告はまったくそのとおりで、とくに日本企業に言えるのではないかと強く感じたしだい。最後の「遊び」については、1970 年代に書かれた古い本ながら、日本人の「間違った遊び方」に警鐘を鳴らしているという点でいまも読む価値があると思っている、こちらの文庫本も併読されることをお勧めしたい(「日本の古本屋」サイトで探せばあるかも。かく言うワタシも何度かお世話になっている)。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるん
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2024年03月28日

劇場版『ラブライブ! The School Idol Movie』

 劇場版『ラブライブ! The School Idol Movie』(2015)が、このたび 4DX 版(!)となって劇場に帰ってくる、と聞いては行かない手はない。というわけで鑑賞してきました。なんと言ってもこのシリーズの元祖にしてファンのあいだでは伝説化している、国立音ノ木坂学院のスクールアイドル、μ's(ミューズ。石鹸じゃないよ。もちろんギリシャ神話に出てくる美をつかさどる9女神[ムーサイ]が下敷きになっている)の物語ですからね……。

 何度か言及しているように、ワタシがこのシリーズとはじめて邂逅したのは 2017 年の夏で、たまたま深夜のEテレで『ラブライブ! サンシャイン!!』1期 13 話の一挙放送があり、自分の住む街が舞台のアニメっていったいどんなのずら、とほとんどなにも考えずに観たのがきっかけ。それから幾星霜 …… は大袈裟ながら、この『ラブライブ!』シリーズを知ってしばらくしてから、不肖ワタシも劇場版『ラブライブ!』で主人公の高坂穂乃果(こうさか ほのか)に「飛べるよ!」と背中を押した謎の「女性シンガー」のことばどおり、思い切って飛んで=Aいまの自分がいるみたいな経験もしているので、よりいっそう思い入れが深い。2015 年と言えば、じつは大晦日の「紅白」で、それとは知らずに μ's の「中の人」たちによるパフォーマンスを観ていた。…… よもや数年後、こんな展開になろうとは当の本人がいちばんオドロいている。

 4DX 版ということで、われわれ観客もじっと静かに鑑賞させてはもらえない。穂乃果が走っている場面でさえ座席がゆさゆさ揺れ、NYC の摩天楼の展望ポイントで東條希や絢瀬絵里が風に吹かれれば肘掛けあたりから風が吹き付け、ハイウェイで μ's メンバーを乗せたタクシーと並走するコンボイトレーラーがホーンを鳴らせばその振動が伝わり、「Angelic Angel」、「SUNNY DAY SONG」、そしてバッハが音名 B-A-C-H でやったように、歌詞に μ's メンバーの名前を織り交ぜた感動的なエンディング曲「僕たちはひとつの光」といったライヴシーンでは座席が動くだけでは飽き足らず、スクリーンに映し出されている世界と同じく紙吹雪まで降ってくる。こちとら 4DX なんて経験したことないから、初回を観に行ったときは正直、面食らった。Don't disturb me! ってな感じで。2回目はもちろん織り込み済みだから、鑑賞に集中することはできましたが。

 たとえばこちらのブログ記事のように、鑑賞がもっと楽しくなること請け合いの小ネタやトリヴィアのたぐいは μ's の物語ゆえ、すでに語り尽くされた感ありなので、ストーリーの感想とかは不要でしょう(cf. 星空凛が、「わかったよ! この街にすごくワクワクする理由が! この街ってね、すこしアキバ[秋葉原]に似てるんだよ!」という科白がある。劇場版『ラブライブ! サンシャイン!!』では、浦の星女学院スクールアイドルの Aqours のめんめんがローマのスペイン広場でライヴを披露したあと、メンバーの国木田花丸が「なんとなく、沼津の海岸にある石階段に似てたからずら」とそこを選んだ理由を答える科白があるが、個人的に花丸の回答は凛の科白とのアナロジーを感じる。花丸が学校の図書室で隠れて読んでいたスクールアイドル雑誌の表紙に登場していたのは、その星空凛で、花丸は彼女に憧れていた)。4DX 版は残念ながら本日で終了するけれども、ダマされたと思ってまずは虚心坦懐に作品をご覧になることをおススメします。何度も言うけれども、ワタシは決して「自分が呑んだことのないワイン」をうまいだのマズイだのと言わない人なので。ただ、エンディングの μ's のラストステージで歌われた「僕たちはひとつの光」に出てくる「いまが最高」という歌詞こそ、この作品がいちばん訴えたかったメッセージが集約されているように感じる。過去でも未来でもなく、「いまここ」で永遠性を経験しなければそれは決して経験することはできないという、比較神話学者キャンベルのことばがどうしてもオーバーラップしてきますね。

 最後に、謎の女性シンガーが歌っていたあの楽曲について。「500 曲(!)にものぼる『ラブライブ!』シリーズ全楽曲がプレイできる」が売りのリズムゲームアプリ「スクフェス2」にも収録されてないから? と思っていたところ、なんとこれ、1930 年代のミュージカルナンバーのカバーだったことが判明した(1942 年の映画『カサブランカ』にも使われている)。どうりでないわけか(ちなみに「中の人」は、あの『名探偵コナン』主人公の中の人)。ブロードウェイの街ということでこの往年の名曲が採用されたのかどうかは不明ながら、『ラブライブ!』オリジナル曲と言われてもわからないほどこの作品にぴたりハマっていて、この楽曲を選んだセンスにも脱帽するほかない。

 観に来ていたお客さんも若い女性が多くて、さすがは名曲と言われる「スノハレ(Snow halation)」の μ's だなァ、と感じたしだい。
…♪切なくて 時を巻き戻してみるかい? 
No no no いまが最高! 
だって だって いまが最高! 

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2024年03月15日

カザルス弦楽四重奏団によるバッハ「フーガの技法」

 先週の「ベスト・オヴ・クラシック」最後の放送回は、個人的には待ってましたな感ありのバッハ最晩年の大作「フーガの技法」BWV.1080 を取り上げたスペインを代表する弦楽四重奏団のひとつ、カザルス弦楽四重奏団(Cuarteto Casals)の来日公演(2023年 11月2日、浜離宮朝日ホール)でした。カザルス弦楽四重奏団のレパートリーは、ワタシも寡聞にして耳にしたことのないスペインのモーツァルトと称される夭逝の作曲家ホアン・クリソストモ・アリアーガとかエドゥアルド・トルドラといった珍しい作品から、ラベル、ドビュッシー、バルトークなど近現代も手がけるほど守備範囲が広い。

 いまは「らじるらじる」の聴き逃し配信で放送後1週間はぞんぶんに楽しめるので、以前の NHK-FM を知っている人間としてはありがたいかぎり。で、公演とは直接、カンケイないけれどもこの作品の説明で、「……その死をもって未完のまま出版された」作品、と紹介してましたが、たしかにバッハは出版するつもり(おそらく「クラヴィーア練習曲集」の続編のようなかたちで)だったけれども、作品後半の各楽曲の配列にはもはやバッハの意図は反映されていない。はっきり言えば、「このフーガで、対位主題に BACH の名が持ち込まれたところで、作曲者は死去した」なんて息子カール・フィリップ・エマニュエル・バッハが書き込んでいるのも、「せっかく高額な銅板まで彫ったんだからモトはとらないと」という切実な(?)事情のもとにあえて未完のままエエイママヨ的に刊行された、というのがほんとうのところのようです。

 演奏の感想に入る前に、まずこの作品で最大の問題が楽曲配列なのでそのへんを少しだけ。上記のような出版に至る経緯に加え、バッハの死後に出版を急いだ息子たちの手になる「初版」譜と、いわゆる「ベルリン自筆譜」(SBB-PK P200)とで曲の書法そのものが一部違っていること、楽曲の構成がバッハの息のかかっていない後半部に大きく食い違っていること(詳細は拙過去記事。バッハは「コントラプンクトゥス11」までは確実に彫版を監督していたと考えられている)があって、事態をさらにややこしくしている。

 先週の放送でかかった浜離宮朝日ホールでの公演で演奏された楽曲の順番は以下のとおり。演奏者は4声曲では全員参加、3/2声曲では手すきのメンバーは舞台後方の椅子に控える、というちょっとおもしろい趣向も盛り込まれていたみたい。そのためなのか、8 ⇒ 13a という変則的な順番になっているのも、「3人で3声を演奏する」ということで3声部曲でまとめたのかな、と。

プログラム前半:コントラプンクトゥス1, 2, 3, 4[4声], カノン 14, 15[2声], コントラプンクトゥス5, 6, 7, 9[4声]
プログラム後半:コントラプンクトゥス10, 11[4声], 同 8, 13a[3声], カノン16, 17[2声], コントラプンクトゥス12a、3つの主題による3重フーガ[4声], コラール「汝の御座の前にわれはいま進み出で(われら苦しみの極みにあるとき)」BWV.668a


 で、聴いた感想ですが、手許にあるケラー弦楽四重奏団のアルバムのように、弦楽四重奏ならではの弾むような、丁々発止とした各パートのやりとりがまるで生き物のように躍動して、それがこちらにビンビン伝わってくるかのような演奏ですばらしい。音友社のポケットスコア繰りながら神経を集中して聴くと、たとえば初版譜にあるスラーなどの指示書きに忠実だったり、さりげなく装飾音を入れたりフレーズの切り方を変えたりしているので、あまりこの特殊作品≠聴く機会のない聴き手でもわりと容易に主題−応答の入り/原形主題−変形主題(の反行形など)がくっきり立ち上って聴こえてきたんじゃないでしょうか。

 なんでもカザルス弦楽四重奏団がこのバッハ畢生の大作を取り上げる気になったのは、結成 25 周年を迎えるに当たり、さてどんな作品がふさわしいか、と考えたとき、「どんな楽器編成でも演奏可能な作品だったから」(アベル・トーマス氏、Vn.)、「フーガの技法」を選曲したんだそうですよ。

 ただ、全曲演奏とはいえ、「鏡像フーガ」の2曲は基本形 a のみの演奏で、「鏡写しにした」ほうのヴァージョン b は省略してます。ま、基本形のあとにまた最初に戻って「鏡像」形を演奏してもいいんでしょうけれども、ライヴ公演的にはあまり意味のないことかもしれない。「ゴルトベルク」BWV.988 の「繰り返し箇所」を演奏するか/しないか問題のようなもの。

 最後の未完の3重フーガですけれども、「すべてニ長調の和音で終結させているので、それに合わせた」ということで、最後のワンフレーズでふにゃふにゃっと尻すぼみで終わるよくあるパターンではなくて、その少し前、ニ長調の和音になるところでキレイに終わらせています。なので、出だしの4声単純フーガの終結部の食い違いと同様、カザルス弦楽四重奏団が演奏で使用しているのは初版譜にもとづく校訂版かと思われます。

 テンポもやたら感傷的に遅くなったりせず、終始一貫安定しています。そして彼らが演奏で使用しているのはバロック・ボウ。「細かい表情や響きが加わり、モダンの弓とは違った音のつながりを感じることができ、音の息遣いが変わる」(ヴェラ・マルティネス・メーナー氏、Vn.)からというのが理由のようです。

 初版譜つながりで言えば、この未完フーガのすぐあとにオルガンコラール BWV.668a で〆ているのもその証拠と言えそう。メンバーによれば、「この作品には、感謝の祈りのような、解放的な結末が必要だと感じる」(ジョナサン・ブラウン氏、Va.)という理由のようですが。公演のアンコールにはスペインらしく、そして、いまだに各地で戦争が続く現代世界を思ってか、カタルーニャ民謡の「鳥の歌」でした。

posted by Curragh at 21:44| Comment(0) | TrackBack(0) | NHK-FM

2024年02月22日

『監視資本主義』

 2007 年初頭に放映されたこちらの番組の記憶はいまも生々しい。とくに印象的だったのが、「すべてを Google に依存している」と言い放った青年。最近の買い物でさえ、Google の履歴に頼ると言うほどのヘビーユーザーで、しかも Google の広告アフィリエイト収入だけで食べていたのだから当時としてはかなりの衝撃度だった。もうひとつ、やはり澱のごとくアタマの隅にこびりついて離れないのが、Googleplex と呼ばれる Google 本社の壁面のとある落書き(?、抱負だったのかも)だった──「Google 帝国を作る」(!)

 実際、Google って何をしている会社なの? と問われて即答できる人っているんだろうか。新聞を見ても「ネット検索最大手」くらいのものだろうし、IT 専門家にしてもそれこそ十人十色で答えはバラバラになるんじゃないかと。以前、Google 幹部に取材したという内幕本も買って読んだことがあるが、イマイチ腑に落ちなかった。そして最近、その Google 傘下の YouTube で、オルガン演奏を収めた動画クリップを大きな液晶画面の TV で見ようかなと思って再生すると、フーガの演奏がいきなり途切れ、代わりにうっとうしい広告が何本も落下傘部隊のごとく出現して画面いっぱいに映し出される。

 いまやこうした IT の巨大企業は Google だけじゃありません。Facebook 改めメタ、往年の Microsoft に Apple、そして洋書屋にすぎなかったのがいまや地球最大級の通販サイトに急成長した Amazon。これらと数社を加えた大型ハイテク企業7社を総称して「マグニフィセント・セブン」と呼ぶらしい。

 MS と Apple はともかくとして、では最初の Google と後発のメタはいったい何をして利益を出しているのだろう、とギモンに思う人はいまだに多いだろうし、利益のすべてが広告料収入なはずない、といぶかる向きも少なくないと思う。

 そこでとうとう、と言うか、その長年のモヤモヤにひとつの解答だけでなく、こうした「征服者」たちへの抵抗を訴える警世の書の邦訳が 2021 年に出た。著者は米名門大学の名誉教授という肩書きで、社会心理学者。2009 年に落雷による火災で自宅が全焼し、そのとき著者を励ましてくれた最愛の夫にも先立たれるという不幸に見舞われた。30 年ほど前、台頭しつつあった情報通信デジタル技術とどう向き合えばよいかについて、地方の製紙会社の若い幹部社員に疑問を投げかけられた著者はそれ以降、一貫してこの「スマートマシン」問題の本を発表しつづけてきた。この本は、いわば集大成的なところがある。

 本文だけで 601 ページもあるたいへんな労作で、「52 人のデータ科学者」への取材も含む膨大な調査結果をもとに書き下ろされ、Google をはじめとする IT ユニコーンたちが今後どのような社会を築こうとしているのかについて精緻な考察を展開しています …… で、読後感なんですけれども、Google やメタをとくに俎上に載せて、彼らの所業を 16 世紀のスペイン人征服者の「征服の宣言」になぞらえたり、全体主義との結びつきの論考など違和感もないわけではないが、まずもって a must read な1冊である点は異論なし。ヘンリー・フォードらに代表される 20世紀の管理資本主義とはまったく別物の、最終消費者という顧客に対するサービスではなく、ほんとうの顧客(この場合は広告スポンサー企業)に対し、われわれユーザーの「行動余剰」という名の原材料を「抽出」して、それをサービスとして提供することで利益を得るという、かつて経験したことのない種類の資本主義が全世界を席巻しつつある、との主張はなるほど頷けるお話ずら、と感じたしだい(そういえばつい先日、NYC 当局が TikTok など複数の SNS 運営会社を相手取ってカリフォルニア州地裁に提訴した、との報道も見かけた。「インターネットの世界で大量の有害な情報にさらされ、若者たちの精神衛生上の危機が深まっている」と NYC 市長は訴えているが、もっともな話)。

 旧 Facebook 時代のメタがやらかした例の世界最悪と言われた個人情報漏洩事件(ケンブリッジ・アナリティカ事件)も、もちろん出てきます。もっともはじめの章で、「(本書の)目的は、この3社を批判することではない。むしろそれらは、監視資本主義の DNA を精査するためのペトリ皿なのだ」(p. 25)と断ってはいるものの、結論を述べた最終章(p.598)では政治学者のハンナ・アーレントを引用して、「監視資本主義の実態を語ろうとすると、わたしは必ず憤りを覚える。なぜなら、それらは人間の尊厳を貶めているからだ」と告白しているところからして、この本が書かれたのは監視資本主義とその親玉たちに対する激しい怒りにあるのは間違いない。どうりで最近、やたらと広告攻撃をけしかけてくるのだナ(そしてこれまた付き物の、ユーザーに不利な「使用許諾書」を一方的に押し付けてくる商法にも言及している)。

 アーレントは全体主義を論じた著作で知られているけれども、ある意味、監視資本主義(とその企業体)はそれ以上にタチが悪い。こちらが知らぬ間にそんな手合が放った刺客ならぬ常時監視(と、行動余剰の抽出とそれの無断提供)デバイスがあふれるようになり(いわゆる「モノのインターネット/IoT」製品群で、大人気のルンバも例外にあらず)、FB「ユーザーはもはやプライバシー保護を期待できない、と言い切った」メタ創業者のような監視資本家たちが提供する巣≠ノ囲い込まれた。究極的には、われわれ個人に最後に残された聖域まで強奪しようとする、と著者ズボフ女史は警告する。コレはひじょうに正鵠を射た指摘かと思う。不肖ワタシも、ポケGO に夢中の女子高生に道路に突き出されてあやうく車にはねられそうになった経験がありますし。こちとらにはさっぱり理解不能な世界ながら、ああいう顧客層って、この本で言うところの「行動修正」されちゃった人たちなんでしょうね、きっと。自戒の意味もこめて、自分までこの身を監視資本家連合に差し出さないよう、おおいに気を引き締めなくては、と決意をあらたにしたしだい。

 行動経済学だかナッジ理論( C・サンスティーンの『実践 行動経済学』の言及もあり)だかなんだか知りませんが、世の中そんなことばかりがもてはやされ、さも良いことのように喧伝されているフシがあるなか、古代ギリシャの秘儀(ミステリー)集団も顔負けの秘密主義のヴェールで事業の真の目的を覆い隠し、詭弁を弄してこちらをケムに巻いている Google やメタなどの巨大 IT 企業の実態を豊富な実例とともに暴露するこの本は、真の意味でまっすぐスジの通った良書と言ってよいでしょう。ピケティへの言及もいくつかあるけれども、この本もまた、監視資本家とその取り巻きが決まり文句のように繰り出す「不可避性」についてもしっかり批判している(cf., pp. 252−3、またはピケティ『資本とイデオロギー』のpp. 871−2)。
…… この新たな仕事の多くは、「個人化」(パーソナライゼーション)の旗の下で行われているが、それはカモフラージュであって、陰では日常生活のプライバシーに切り込む侵略的な抽出操作が進められている。(p. 20、丸括弧はルビ表記)
 ズボフ女史も繰り返し言及しているけれども、ワタシも(ほかのみなさんもそう感じていると思うが)ずっと前から、「便利なサービスをほぼロハで利用できているわれわれユーザーは、けっきょく Google という巨人の手の上でホイホイと踊らされているにすぎないのではないか」という漠然とした疑念(と不安)を抱いていたほう。なのでそのものずばり人形遣い彼らを踊らせろといった用語や見出しを見ますと、ああ、やっぱりそうなんだってストンと腑に落ちる。
3世紀以上にわたって、産業文明は人間にとって都合のいいように、自然をコントロールしてきた。その目的のために、機械によって身体の限界を超越し、克服してきた。その結果を、わたしたちはようやく理解し始めたところだ。海と空の繊細なシステムはコントロールを失い、地球は危機に瀕している。
 今、わたしたちは、わたしが情報文明と呼ぶ新しい時代の始まりにいて、それは同じ危険な傲慢さを繰り返そうとしている。…… 今回の目的は、自然(ネイチャー)を支配することではなく、人間の本質(ネイチャー)を支配することだ。(p. 590、丸括弧はルビ表記)
 また、こうした論考と主張の裏付けを、もっと巨視的な歴史から問い直しているのもこの本の書き方の特徴と言えます。とくに行動主義心理学の提唱者バラス・F・スキナーとからめて論じているのは個人的には新鮮な観点だった(スキナーは人間の自由意志を否定し、ある人がどのような行動をとりうるかについては「個人の外にある変数によって説明できる」、つまり適切な環境を与えれば適切な方向へ導くことができると主張した。彼の『自由と尊厳を超えて』という著作(1971)は当時、チョムスキーをはじめ、多方面で論争を引き起こしたことでも知られる)。

 この本では Google と同じく、行動余剰という資源を最初に発見した Apple についてはわりと好意的(?)な記述にとどめているけれども、人類の未来までもが圧倒的な知の蓄積を頼みとする監視資本主義家たちの手に握られているわれわれに残されている道は、「抵抗せよ」、そして「もうたくさんだ!」と表明することだと著者は結んでます。もうたくさんだ、just ENOUGH! …… これってずいぶん懐かしい響きがする。そう、ビル・マッキベンのこの本でした。けっきょく東洋の人間にはおなじみの「足るを知る」という中庸の道がもっとも妥当な道かと。もっともそれは監視資本主義にかぎったことじゃないですが。個人的にいちばんハラが立つのは、ふつうに辞書サイトとか表示しても、明らかなデマ・虚言広告がしれっと表示されること。PC 版なら広告ブロッカーで非表示にすることはできるが、スマホのブラウザだとうっとうしいことはなはだしい。広告を表示させる企業のアルゴリズムには、当該のバナー広告の表示基準がハナからないという、なによりの証拠です。著者ズボフ女史はこれについて、「極度の無関心の観点からは、良い目的と悪い目的は等価と見なされる」(p. 580)と書いている。シッチャカメッチャカ支離滅裂の混沌状態になろうが、利益になればそれでよし、というわけです。

追記:巻末の分厚い原注まとめページもていねいに追いながら読み進めたんですけれども、一点、第 10 章の原注(p. 112の 42)を見て FT の元記事を確認したら、どうも日本語版(p. 362)の記事公開日付が誤記のようです。ちなみにその FT 引用部分は、「今後そのゲームは小売業者やその他の者に現金を運んでくる、という見方が急速に高まっている」。あと細かいことながら、p. 598 の「同情してほしい」は、感覚的には「哀れんでほしい」の pity ではないかと愚考するものですが、どうなんでしょうか。

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2024年01月31日

インプレゾンビ≠ノご用心

 新年早々、日本列島を大きく揺さぶった能登半島の大地震。輪島市側の日本海沿岸の海岸がいっきに4mも隆起するという、専門家でさえも目撃したことがないとんでもない地殻変動まで伴っていた(それで相対的に津波被害は低かったらしい。それでも甚大な被害を出していることに変わりないですが。風景写真好きにはつとに有名な「見附島」も変わり果てた姿になってしまった)。

 著名な You Tuber が被災地支援のための募金をみずから行い、世の人に協力を呼びかけるいっぽう、東日本大震災のときもあったと聞いてはいるが、今回もまた火事場泥棒が被災地をうろつき、「こわいから家に品物を取りに戻れない」との悲痛な声も聞かれた。

 しかし個人的には、2011年3月の震災と今回の震災の大きな違いは、SNS の機能にあったように思われた。2011 年のときは、「正確さよりも即時性」が比較的良い方向に発揮された印象がある。しかし今回は、発災直後、倒壊家屋から必死に SOS を発信する被災者の声をかき消すかのようにえんえんと連なった、インプレゾンビ≠ニ呼ばれる連中が忽然と出現した。ここが 2011 年のときと大きく違う。

 インプレゾンビ連中がなぜ急に現れだしたのかについては昨年、奇人で知られるこの人が、収益化と称して仕様を変更したことが大きいと言われている。仕様変更後、こうしたコピペ投稿がそれこそゾンビよろしくわらわらと湧き出した事実から見ても、この「投稿の収益化」と関連があるのは間違いない。

 と、嘆いてばかりいてもしようがないので、こうした連中(なぜかアラビア語圏が多いのは気のせい?)の見分け方を。彼らはたいてい、ユーザーネーム末尾に「青バッジ」がある。これは引用元記事にもあるように、月額有料制サブスクリプションサービスの X Premium に加入したことを示す青マーク。そしてよほど自意識過剰か、ご自身のご尊顔によほど自信がおありなのかは定かではないが、明らかに非日本人系のアイコンを麗々しく掲げているケースがほとんど。もっともワタシはここで xenophobia を喧伝しているわけじゃありませんぞ。彼らがこういう性根の腐ったやり口で火事場泥棒的荒稼ぎしているのが許せないだけ。だから自衛策、と言うにははなはだ心もとないけれども、しないよりはマシというわけで、とにかくこういう輩がいますよ、ということをこの場を借りて言いたかったわけです。

 具体的には、上記のようなリプライないしコメントを見かけたらクリックせず(クリックすると連中の懐が潤う)、ブロックするかミュートするか、またはめんどくさいけれども運営側に通報するとよいでしょう。そのうちボットじゃないけれども、半自動的に振り分けて排除するツールとかも配布されるのかもしれませんが。

 「浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の種は尽きまじ」なんて言わるように、テクノユートピアンたちの思い描いたようにことは運ばないのが人の世の中の常。1987 年というから消費税さえなかった昭和末期に出たこちらの本をせんだってネット古書店で買って読んでいたのですが(書名は知っていたけれども、未読だったので)、いやもう驚くほかなし。Windows もブロードバンド回線もなにもない、電話回線のモデムと、いまとは比べ物にならないほど非力で低容量なブラウン管タイプのデスクトップ PC しかなかったころ、「家にいながらにして銀行の端末に侵入し、ひとさまの預金を手を汚さずに強奪した」学生だの会社員だの米政府機関職員だの(そして経済マフィア)の武勇伝(?)がこれでもかッてくらいに書かれてありましたので。もっとも巻末に原注などのたぐいはなくて、「話、盛ってない?」と感じる箇所もなくなくはないですが、当時、米司法省や米議会で「コンピュータ犯罪」と呼ばれていた新手の犯罪の第一人者として助言していた人が書いた本なので、そうそうエエカゲンなことは書いてないことだけは保証できる(当時、高校生だった者からすれば、いまや懐かしの感ありの「東芝機械ココム違反事件」まで書かれてある)。

 …… インプレソンビたちも、こうした流れの延長線上にある。

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2023年12月31日

新訳版『文学の味わい方』

 …… を、12月16日付で刊行しました。個人出版ものとしては 2019 年 10月に発行した『《輝き》への航海:メタファーとしての「ラブライブ! サンシャイン!!」』についで2冊目になりますが、今回は、版権切れの古い著作をあらたに訳しおろした古典新訳本になります(原著は1909 年刊行の Literary Taste:How to form it 初版本で、拙訳はパブリックドメイン扱いになってます)。

 アーノルド・ベネット(1867−1931)については高校生当時に受講していた通信教育の演習ワークブックに、再婚した「年下妻」である女優さんの回想記の一部が掲載されていたのを見てはじめてその名前を知った。吃音癖があること、規則正しい生活を送っていたことなど、なんせ高校生なので英文読解力は拙かったが、それでもこの年下の奥さんのベネットに対する尊敬の念は文のはしばしからにじみでていて、いまなお印象に残っている(ワークブックは探したけど出てこなかった)。だからベネットの名前はそのときからずっとアタマの片隅にはあった。

 ベネットと言えばなんといっても『自分の時間』(原題は How to Live on 24 Hours a Day)ですが、すでに小説家として一流の仲間入りを果たしていたのに俗に言う「自己啓発本」を立て続けに書き、どれもよく売れたというのだから、SNS で発信したりメディアにちょくちょく顔を出しては注目を浴びるような物書きのはしりみたいな人だったのかもしれない。げんに生前から、ベネットには俗物≠ニいう世評がついて回っていた(高級ホテルに連泊して作品を執筆し、豪華なヨットも所有して乗り回していた)。

 しかし、2番目の奥さんの回想記にもあったように、じつはとんでもなく克己心の高い人で、その手書き原稿は非の打ちどころのないほど美しい清書だったという。ただでさえ執筆に多忙だったのに、自分の両親にもせっせと手紙を書き送り続けた。そんな筆まめさと誠実な人柄は、親しい友人には周知の事実だったのだろう。第一次世界大戦中には、当時の戦時連立内閣とパイプがあった新聞王のビーヴァブルック卿マックス・エイトキンに推挙され、情報省宣伝局フランス課長を務めたり、自宅を開放して回復期負傷者の病棟として提供もした。ようするにベネットという作家は、言われているほどスノッブ野郎でもなんでもなく、むしろその対極に位置するような人物だった。ついでにこれもよく言われることながら、日本の文豪、幸田露伴や夏目漱石とおない年でもある。漱石はいわゆるロンドン留学中に、書店でベネットの本を目撃していたことはじゅうぶんありえる(ロンドンに向けて横浜港を出航したのは、ワタシの亡くなった母方の祖母が生まれた 1900 年なので、まさしくベネットが自己啓発ものを書いていた時代と一致する)。

 ベネット本はすでに名だたる訳者諸兄による既訳が多く出ていて、ワタシみたいなのがという気もないわけではなかったけれども、けっきょくいつのもように好奇心のほうが勝(まさ)ってしまった仕儀と相成り、今回なんとかぶじに刊行にこぎつけてほっとしている、というのが正直な気持ちです。

 個人的には、100 年以上も前に出たベネットの「文学のすゝめ」的なこの本に書かれてあることが、ほぼそのまま芸術作品と向き合うときの心得として通用する点にいちばん心を惹かれた。というか、そういうふうにベネットが書いてくれたからこそ、浅学非才も顧みず、個人新訳版を出してみようと思い立ったしだい。本は、ひとたびページを開くだけで書き手が生きていた時代に一瞬にしてタイムワープできるというふうになぞらえられることが多いが、ベネットに言わせればそれだけではまだ足りない。まずもって「手にとったその本は、書き手の心情の表出にほかならない。それをいまを生きるあなたの生活に移し替えなければせっかく本を読んでもなんの意味もなく、むしろ時間のムダ」だとばっさり切り捨てている。さらにこうも書いている。
芸術の最大の目的のひとつは、精神を掻き乱すことにある。そしてこの「精神の掻き乱し」は、すべてが整っている人にとっては最高の愉楽となりうる。ただしこの真実を会得できるようになるには、それこそ何度となくこの手の経験を繰り返すしか方法はない(Chp.9 「詩の世界」より)

 拙訳者当人が言うのもなんですが、まったくそのとおりですわ。「芸術は、バクハツだ!!」じゃないですけれども、ソレがないアートというのは、いくらモットモラシイ熱弁を振るったとしても、しょせんまがいものにすぎない。ベネットはこの本で「ではどんな本(作品)を読めばいいのか」について、3つの時代区分に沿ってリストアップしている(拙訳書にも注記したけれども、原書には当時いくらで売られていたか、その売価まで懇切丁寧に列挙されているが、それは割愛した。代わりに合計でいまの日本円でだいたいいくらになるのかは注記した)。また、「当時の英国ではどんな本が一般に読まれていたか」を知りたい、という向きにとっても本書は有益な資料になると思う。

 …… 個人的には、2023 年も悲喜こもごもてんこもりもりで、ほんとアっという間だった。世界情勢もそうだけれども、「地球沸騰化」というワードも印象に残った卯年の 2023 年でしたね。恒例の〆の1曲ですけれども、大好きなニジガクの楽曲(今夏公開の劇場版 OVA エンディング主題歌。「好きのチカラは強いんだよ 最強さ」はマジで spine-tingling もの)から選んでみました。それでは良いお年を。


posted by Curragh at 15:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 翻訳の余白に

2023年11月30日

NHK Classic Fes.2023 に行ってきた話

 先日、NHK-FM の「今日は一日 NHK Classic 三昧」関連イベントとして開かれた野外コンサートを聴きに行きました。ナマの演奏に触れるのは何年ぶりだろう! きっかけは、解禁されたばかりのボージョレ・ヌーヴォーを呑みながらたまたま観ていたEテレの「クラシック音楽館」。番組後半で、なかば番宣のような感じで現役音大生の室内楽団3組が紹介されてまして、なかでも「洗足学園音楽大学 AQUA Woodwind Quintet」に興味を惹かれました …… なんたって「アクア」ですし(笑)。というわけで、アクアつながりで聴きに行ったしだい(しかも正午の開始早々、彼らの演奏だったのでこちらもラッキー。いくら暖かい日だったとはいえ、渋谷川! の真上の観覧席とあっては冷えるだろう、と思っていたが、まさにそのとおりだった。それに昨年暮れにいただいた身体守りをお焚き上げしてもらうため、穏田神社さんに返す[そして新しいお守りを買う]という大切な目的もあり、さらについでに近所の原宿ゲーマーズにも立ち寄って、『LoveLive! Days』ニジガク特集増刊本も買った。嵐千砂都そっくりのお団子ヘアのかわいらしい店員さんがいた)。

 ときおり日差しがあったとはいえ、どちらかといえば cloudy なお昼どきだったけれども、幸い絶好の天気に恵まれました。たった 30 分間だったとはいえ、久しぶりのライヴ演奏、それもふだんのワタシがまず耳にすることがない木管五重奏(フルート/オーボエ/クラリネット/ファゴット/ホルン)という編成だったので感激もひとしお。プログラムは、まずは NHK つながり(?)で「ゆうがたクインテット」のユーモラスな演奏で始まり、ドイツの作曲家ダンツィの「木管五重奏曲 Op. 56−1」、ジョルジュ・ビゼーの「カルメン組曲」から前奏曲・ハバネラ・闘牛士の歌、「ハウルの動く城」などの宮崎アニメメドレー、「ふるさと変奏曲」、そしてチャイコフスキーのこの時期定番の「金平糖の精の踊り」(バレエ音楽「くるみ割り人形」)でした。途中でメンバーによる MC というか楽器紹介みたいなコーナーもあり、「シングルリード」楽器と「ダブルリード」楽器の説明もありましたね(オルガンのリードパイプはシングルリード管になる。ついでにホルンを担当していた方の相貌は、某若手女優さんに瓜二つだった)。

 このあと神宮外苑前の有名なイチョウ並木の黄葉を撮りに行くため、そそくさと会場をあとにした。ふだんは Organlive.com や「らじる」といったストリーミング配信をかけっぱなしで仕事をしている身ではありますが、やっぱり音楽というのはナマがいちばんだなァとあらためて感じたしだい。そういえば Liella! じゃなくて Libera もたしか来日していたらしい。海外アーティストの公演もかなり復活してきて、ひろい意味での舞台芸術であるコンサートでなければ味わえない感動というものは、ストリーミング配信全盛時代にあっても(否、それだからこそ)あるのだと思う。

 ただ、海外来日組による❝お高い❞コンサートを否定するつもりはさらさらないが(この前、ミック・ジャガーのインタビュー記事を訳したばかり)、クラシック音楽に関しては、いまほんとうに求められているのは、このような気軽に参加できるタイプのコンサートではないかと強く思う。むしろこういうコンサート活動こそ大切で、地味ながらもこの手の演奏活動に人とおカネを入れて支援しないと、いつまでたってもクラシック音楽を聴く聴衆はこの国では育たず、また若返ることもないという気がする(テレビ画面に映るN響定演の客層を見ればわかる)。アニメつながりで言えば、ちょうどこのコンサートと時を同じくして一挙放送されていた『青のオーケストラ』もすばらしかった。いちおうこれでも元ブラバンの末席にいた過去があるから、あのアニメで描かれていた練習風景や主人公たちの葛藤は共感しかなかったですね。おかげで苦い思い出も蘇ったりしたけれども …… そういえばこの『青オケ』、演奏していたのが渋谷ストリームで実演に接した洗足学園音大のオーケストラだそうですよ。BRAVI!! 

posted by Curragh at 22:14| Comment(0) | TrackBack(0) | NHK-FM

2023年10月31日

紙の本を読む喜びについて

 COVID-19 の流行もだいぶ落ち着いてきたかなぁ、などとぼんやり思っていたら、ガザ地区からの電撃的攻撃で突如して戦端が開かれてしまった中東情勢(下手をすると、第五次中東戦争になりかねない)。それにつられて高止まりする原油などのエネルギー価格。毎月の電力料金の明細を見て嘆息しておられる方も多いと思う、今日このごろです。

 ワタシは大の読書家でも愛書家でもないと自認してるんですが、それでも仕事に関係なく気になった本は図書館で借りたり、図書館になければこちらの専門サイト経由で注文して買ったりと、そこそこ読んでいるほうではないかと思ってます。というか、一度気になる本が出てくると読まずにいられないたち。たとえば 1987 年発行の奥付のある『ネットワーク犯罪白書』という翻訳本。インボイス問題でさんざん騒がれて、消費税というものが(とくにわれわれ零細業者にとって)益税でもなく、かつそんなもんは存在さえしないことがすこしは知られてきたのかな、などと思ってはいるんですが、とにかくその騒動の元凶である一般消費税導入前、まだ物品税で、パソコンも PC-98 全盛時代の昭和末期にアスキーから出版されたこの本の内容は、なんと「コンピューターを悪用したネットワーク犯罪」。すでにそんな知的犯罪が欧米のみならず、日本でも話題にのぼっていたなんて、いまの若い世代が知ればビックリ仰天すること請け合いです。読んで損はない、というか、資料価値もきわめて高い1冊かと思います。

 ここで個人的な話をすこしだけしますと、いまワタシは2冊めの Kindle 本を準備しています …… 今回は翻訳本。翻訳といっても、100 年以上も前の 1906 年に初版が刊行された原著の新訳になります。いま流行りの言い方を使えば、「古典新訳」というやつですね。なので原書は原則的に版権フリーです。これをいつだったか、オンライン古書店で買い求めて読んでいるうちに、つぎはこの新訳版を出そうと心に決めました(笑)。

 この Kindle 本についてはまた後日、正式に刊行したときにでも軽く触れるとして、いまいちばん強く思うのは、こういう騒がしい時代だからこそ、秋の夜長にお気に入りの1冊を手にとって、紅茶でも飲みながらページを繰る、というひとり静かに過ごすひとときがいかに人間の精神にとって大切か、ということ。どんな本だってかまわない。ワタシの場合はいちおうこれでも翻訳者なので仕事柄、アタマをカイメンみたいに絞らないとわからない、なんて難物もときには読んだりしますが …… たとえば個人的に近年、読んだなかでとくに難物だったのがコレ。おかげでダニエル・C・デネットという、米国の認知科学者にして哲学者を知ることができた。かなり時間はかかったけれども読了し、そのまま忙しさにかまけて放置していたんですが、新聞投稿の景品の図書カードが溜まりまして、ようやくいまごろになって ¥4,200 もするお高い訳書(しかもペンギンブックス版原著より分厚いハードカバー仕様!)を地元書店にて買い求め、ヒマなときに比べ読みしています。原文と人さまの訳を突き合わせるのもやはり仕事柄、必要な勉強というわけです。ちなみにこのデネット本、COVID-19 がらみで「耳タコ」になったワードの PCR(ポリメラーゼ連鎖反応)に関する記述もあります! 本を書いたデネット先生自身、まさかここまで人口に膾炙するバズワードになろうとはユメにも思わなかったでしょう(分厚い本、とくると、つい最近、延び延びになっていたトマ・ピケティの最新刊の邦訳がようやく出ましたね)。

 そして前回、ここで紹介したような、読む者の背中をそっと押してくれるような爽快な読後感が期待できるラノベだっていいんです。先日、帰りのバス車内で女子高生のすぐ後ろの席に座ったんです。見るとはなしにその子のようすをうかがっていると(※ストーカーではない)、目にも止まらぬ早わざでじつに器用に親指フリックフリック! で、インスタだの LINE だの、iCloud フォトだのブラウザだのイヤフォンで聴いている音楽プレーヤー画面だの、それはそれは目まぐるしく画面を変え続けて、すこしは手も目も休めりゃええのにって、まことにお節介ながらそう感じて眺めてました。…… ま、ワタシもスマホいじくってるときは、おそらく第三者からそう見えているでしょうけれども。

 で、思ったんですね。…… なるほど、だから『ネット・バカ』とか『スマホ脳』とかの翻訳ものノンフィクションがベストセラーになったのかって。たしかにそんなことばっかり続けていたら、マジで精神的に崩壊する恐れはある(Apple 元 CEO のジョブズや、MS 共同創業者のビル・ゲイツといった IT テック企業人でさえ、子どもにスマホやタブレット端末は持たせなかったって話もあるくらい)。そこで読書の出番だ。たまにはスマホから手を離して、紙に印刷された活字を追ってみるのも楽しいですよ。ハロウィーンパーティーで盛り上がるのもいいけれども、「読書の秋」とは、けだし至言です(投稿のお題は、ショーペンハウアーの古典『読書について』のもじり)。

posted by Curragh at 21:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 翻訳の余白に

2023年09月30日

小説版ラブライブ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 紅蓮の剣姫〜フレイムソード・プリンセス〜

 いままでいろんな分野の本を──必要に迫られたり、たんなる好奇心からだったりといろいろだが──積ん読乱読精読してきたけれども、ウン十年生きてきてこのたびはじめて「ラノベ」(ライトノヴェル)なるもののページを繰った …… 人間の運命って不思議ずら。

 もっともこれは、通称アニガサキと呼ばれているニジガク(『ラブライブ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』)のある時点のエピソードを小説仕立て≠ノしたノヴェライゼーションという体裁なので、厳密な意味でのラノベ作品とは言えないかもしれない。それでもワタシにはすごく新鮮だったし、個性豊かなニジガクのスクールアイドル同好会のめんめんの内面をアニメではなく、活字で表現するのもアリだと思った。小坊のころに読んだ(というか学んだ)マンガの描き方指南本に、「マンガは絵で表現するから意味がある。文字で表現したければ、小説を書けばよいのである」とあって、たしかに、と感じたのをつい昨日のことのように思い出す。

 小説版には、活字表現ならではの場面描写、各キャラクターの心のひだの奥に分け入った細かな心理描写の妙がある点が良いところ。だからやはりこの作品はあくまで小説版として独立した立ち位置を与えるべきかと思う。ただ、個人的な好みを言わせてもらえれば、オーディオブックとして発売してほしいところではある(高咲侑、上原歩夢、そして本作のヒロインである優木せつ菜/中川菜々の声≠ェ脳内再生されるけれども、やはり声優さんに演じてもらう朗読劇、ないしはオーディオブック版がこの作品についてはとくにふさわしいかと。オーディオブック版なら寝っ転がりながらでもこのアツい物語を楽しめますしね)。

 なんといっても唸らされたのは、さすが手練れのラノベ作家さんだけあって、巧まずしてストーリーに引き込むその筆力、そしてアニガサキのメインストーリーとの親和性かな。この小説版は、鎌倉市内の桜坂しずくの家でお泊まり会をした直後の 11月初旬から始まっている。「港区近隣の学生たちが主体となってお台場で行われる文化交流会=vに虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会も参加することになり、演し物について話し合っていたちょうどそのせつな、優木せつ菜が(せつなだけに)部室に飛び込んできて、大人気ラノベ『紅蓮の剣姫(けんき)』のミニフィルムの自主制作と上映会の開催依頼が同好会に来たとみんなに告知する。

 つまりこのお話は、お泊まり会−アニメ本編の同好会 Firstライブ直前にすっぽりはまる設定になっている。小説版で描かれた「ミニフィルム上映会」というエピソードがあったからこその Firstライブなのだと知れば、さらにエモエモで尊みはもっと深まる、というわけ。ひとりひとりのキャラクターに関しても、これまでのアニメ本編のエピソードがさらりと引用されて、アニガサキをまったく観たことがない読者にも配慮が行き届いている。それでいてこうした引用はクドくならず、アニガサキをがっつり鑑賞したという向きもなんの違和感なくすっと感情移入できる。このへんはさすがとしか言いようがない。

 ただ一点だけ個人的に? がつく箇所は、p.115 の朝香果林の性格描写のくだりくらい。「…… どちらかと言えば物事を理論で考える果林に対して、直感的な[宮下]愛の意見はとても参考になる」。下線部は、テストの成績はいつも赤点すれすれでどちらか言えば学業は苦手らしい彼女にしてはずいぶん知的な言い回しで、才女的な雰囲気さえも感じるところなんですが、ようするに[DiverDiva というユニットを組む相手の]直感的に物事を捉える宮下愛と違って自分はひとつひとつ順序立てて物事を考えるたちだ、ということですから、ここはもっと通俗的な表現でいいような気がする。「論理的」でもまだカッコよすぎる感じがするので、「物事を理屈で考える果林に対して … 」くらいではないかと。

 それ以外はとくに違和感なく物語の世界にどっぷり浸れて、フィクションものとしては久しぶりにワクワクしながら読み進めることができた。アニメの小説版という先入観なしに、ふつうの文学作品としても出色の出来だと思う。アニメ世界の感動が、紙の上の活字となってよみがえってくるようだった。なによりすばらしかったのは、『ラブライブ!』シリーズに通底するメタメッセージを小説版でもしっかり伝えている点。たとえば、音楽室でふたりきりになった侑がせつ菜に声をかける場面──
「──あのね、忘れることなんてないよ」
と、ふいに侑がそう口にした。
「え……?」
「私たちが……せつ菜ちゃんのことを大好きなみんなが、せつ菜ちゃんのことを忘れることなんてない。こんな風に、せつ菜ちゃんとの思い出はいっぱいある。ここだけじゃなくて、部室にも、教室にも、屋上にも、中庭にも、たくさんたくさん、もう数え切れないくらい。それは何があったって消えないよ」
(中略)
「だから優木せつ菜≠ヘいつだってみんなの心の中にいる。どんなかたちになっても忘れられることなんて絶対にない。何もなかったことになるなんてない。せつ菜ちゃんの灯は消えないよ。お節介かもしれないけど、それだけはせつ菜ちゃんに伝えておきたくって」
 ラストシーンの「紅蓮の剣姫」の紅姫(アカヒメ)の心情をどう演じればよいか悩んでいたせつ菜の迷いは、この侑のことばと、その後、同好会メンバーも合流して演奏された「Love U my friends」で消え、剣姫としての紅姫がどんな気持ちでこの世界から消えていったか、そのほんとうの気持をつかむことができた。ここの場面を読むと、どうしても劇場版『ラブライブ! サンシャイン!!』の高海千歌の次の科白が思い出される。
だいじょうぶ、なくならないよ! 
浦の星も。この校舎も。グラウンドも。
図書室も。屋上も。部室も。
海も。砂浜も。バス停も。
太陽も。船も。空も。
山も。街も。
Aqoursも。
帰ろう! 
ぜんぶぜんぶぜんぶここにある。ここに残っている。0には、
ぜったいならないんだよ。
私たちの中に残って、ずっとそばにいる。
ずっといっしょに歩いていく。
ぜんぶ、私たちの一部なんだよ。
「変わるものと、変わらないもの」。この小説版では、卒業を控える朝香果林と、下級生の宮下愛とのやりとりにもそれが描かれているが、これはまさに永遠のテーマと言えるもの。「さよならだけが人生だ」と訳したのは井伏鱒二だったか。英語には ❝Life goes on.❞ という言い方があるけれども、人が生き続ける以上、年をとってゆく以上、変化はしかたないこと。し・か・し、それでも変わらないものというのはある。「永遠をいまここで経験しなければ、それを経験することは決してない」と比較神話学者のキャンベルは言った。『ラブライブ!』シリーズにもそれがしっかり描かれているとワタシは思っている。だから人生の教科書だという人もいるし、文字どおり人生が一変したような人もいる。こんな強烈なパワーを秘めた物語(コンテンツという言い方はあまり好きじゃない。もともとの意味は「中が満たされたもの」、字義どおり中身というただそれだけなので)はそうそうお目にかかれるもんじゃないと個人的には思っている。

 本文に添えられた相模氏によるかわいらしい挿絵も良き。巻末のせつ菜のイラストには「虹ちゃんに出会えてよかった」と添えられているが、この本を読んだすべての読者もおそらく同じ気持ちかと思う。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるん

2023年08月27日

Barbie

 この夏、物議を醸したことのひとつが、いわゆる“Bubenheimer”。で、オラには関係ないや、なんてのほほんと構えていたら天の配剤(?)か、やむを得ない事情で急遽、鑑賞することに。

 ごく手短に感想を書きますと、作品じたいはとてもよくできていて、配給元はなんであんなバカげた騒動を引き起こしたのかがさっぱりわからない。そしていまやかまびすしい感すらある(皮相的な)フェミニズム云々に偏向することもなく、のっけから『2001年宇宙の旅』のパロディで幕を開けるなど、楽しい仕掛けも盛りだくさん(バービー製造元マテル社の男の CEO が何度か“sparkling”と口にするが、ひょっとしたらこれも米国在住の近藤麻理恵氏のパロディかもしれない。「心がトキメクものだけを残せ」がこんまりメソッドにあると思うが、そのトキメキの英訳に使用されている単語が sparkling)。

 あらすじは、「なにもかも完璧で、毎日が同じことの繰り返し」なバービーランドから、現実の人間世界で起きたある事件をきっかけに、万年ボーイフレンドのケンとともにピンクのオープンカーでバービーランドと現実世界との“結界”を超えて人間の住む現実のカリフォルニア州へと乗り込む。人間世界にやってきたふたりは、バービーランドにいたときには感じなかった疑問に直面し、それがきっかけでバービーランドは大混乱……みたいな展開。結末はなんか人魚姫的にも思えたが、ミュージカル仕立てで(こちらも過去の映画作品のパロディを連想させる)ストーリーが進行するなか、ひとりの女性が、旧態依然な男中心社会がいまだに残るこの世界でどう生きるべきかも深く問いかける内容で、2時間近い上映時間もまったくダレることがなかった。

 ところで主人公バービーが模索した「女性の生き方」、いや、男女のべつに関係なく人としての生き方の参考になると膝を打った本があります。それが、初代バービー人形の着せ替え衣装を米国人デザイナーとともに開発した日本人、宮塚文子さんの回想記『バービーと私』。「ふつうの女子社員に名刺を持たせるということがない時代」に、「自分の時間はすべてバービーにささげました」と胸を張る宮塚さんのこの半世記はすばらしく、心を打たれた(宮塚さんはその後、自身の縫製会社を起業し、志村けん人形(!)やモンチッチ(!!)の衣装作りも担当したという)。

 映画の評価はるんるんるんるんるんるんるんるん

posted by Curragh at 10:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画関連