2021年07月01日

「批判的に」考えることの大切さ

 日ごろ、翻訳の仕事でお世話になりっぱなしの Google 先生。この画期的な検索ツールがなかったころは、いまとは比べものにならないほど翻訳の仕事はタイヘンだった(と思う。これは出版翻訳にかぎらず、およそ翻訳と名のつく分野はすべてそうでしょう)。しかし Google 日本語版(ワタシはまだ英語版しかなかったころからのヘビーユーザー)が出現してはや 20 年と少し。さていまの世の中見てみますと、ここにいる門外漢からしても明らかに考える力が劣化している人が増えてきている印象は拭えない。

 昨年秋、ひょんなきっかけでお声がけしていただき、巡り合ったのが、米国発祥の思考法のひとつの Critical Thinking。意味は文字どおり「批判的に考える」スキルのことです。で、これについて書かれた原書の日本語版が、不肖ワタシめの記念すべき初訳書となったのでありますが、もちろんそうすんなりと事が運ばないのが世の中というもので、いっとき出版じたいが頓挫しかけたりしたものの、先月の聖ブレンダンの祝日の前日、つまりブレンダン・イヴの日にぶじに刊行の運びと相成りました。

 この場をお借りしまして、お世話になった編プロの方々と監訳者の先生に厚く御礼を申し上げるしだいであります。で、監訳本というのはほんらい、ワタシみたいな門外漢ではなくて、監訳者の先生が説明すべきことですので、ホント言うと自分も名前を連ねているとはいえ、あんまりしゃしゃり出たくないんですね。でも先日書いたように、やっぱりひとこと、ここでも書いておこうと思った …… はよいが、いざとなると腰が引けて、気がついたらもう7月になっちゃった(苦笑)。

 といっても、この本はたんなるハウツーものではありません(だからそのように書かれた本を読みたい向きにはあまりおススメしないが …)。ではこの本の効用というか、なんのために書かれた本かというと、たとえばこちらのブログ記事のようなこととほぼ同じだと思う。すなわち、
●世の中のことをもっとよく知ること。
●考える力を磨き、自分を、そして自分とつながっている大切な人(家族など)を守ること。悪人どもにかんたんにダマされないようになること。
●バランスのとれたものの見方を身につけること、できればそれを「第二の天性」くらいまで高めること

以上の3点が大切だよ、ということを説いた本になります。この本ではそれぞれ、
○背景の知識を身につけること
○運用の能力を身につけること
○個人の特性となるよう努力すること
とあり、クリティカル・シンキング(以下、CT と略記)の3大要素として繰り返し出てきます。

 この本を書いた人は、おもに学校教育向けに CT 教材を開発したり、CT に関する著作や講演活動をしている教育研究家の先生。そのため、この本もおもに「幼稚園から高校まで(Kー12)の先生たち」の実践に役立つこと、たとえば「授業の現場でどうすれば生徒や学生の CT 運用能力を高められるか」とか、そういう内容が中心になってます。もちろん「序文」で著者が、「教室のなかでも個人でも、学びを実践されているすべての方」も想定して書いたと述べているように、「クリティカルに物事を考えるとはどういうことか」に関心がある読者なら読んで損はない、と思う。

 先日、見たこちらの番組。レイ・ブラッドベリの名著『華氏451度』の回でしたが、番組で案内役の先生がこんなことを述べておりました。
内省的に考えてから行動すること
米国生まれの思考法の CT は、まさにこれを磨くための思考訓練でもある。fake news 全盛時代のいま、ますます重要で必要とされている能力だと思う。

 CT の直接のベースになっているのが、米国の教育学の泰斗ジョン・デューイ(1859ー1952)の著書に登場する「反省的思考(Reflective Thinking、内省的思考とも)」と、プラグマティズム。さらにさかのぼると古代ギリシャの「三段論法」を含む論理学や修辞学にまで行き着くという。章立ては4つしかないから、そんなにタイヘンじゃないだろう、と仕事を引き受けたはよいが……それなりにタイヘンでした。版元から献本していただいた本を手にとったらこれでもしっかり 200 ページ以上ありますし。もっともどんな種類の翻訳だって、タイヘンじゃない仕事などひとつもあるわけないから、こればっかはなんとも言えないんですが。

 でも、けっこうしんどいことの連続だったのに、いざ終わると「また書籍翻訳に携わりたい」と思うから不思議と言えば不思議なもの。ヘタの横好きとかなんとか言われようが、やっぱり自分は翻訳という仕事が好きなんだと思います。もともと人前でしゃべるのが苦手で(悪気はないが、ホントのこと言って相手を怒らせるのが得意技。ただし影でコソコソ人様の悪口をたたいているような人は大嫌い。ようするに口が悪いんです)、紙に向かってペンを走らせる、あるいはテキストファイルをひたすら打ち込むのが性分にあっているほうなので、これからもしぶとく続けていく所存ではある(ピケティ本の翻訳者の先生いわく、「人力翻訳はせいぜいあと 10年くらいが関の山」らしいから、せめてその 10年はがんばりたいと思ってる)。

 ちなみにワタシの翻訳原稿料は「買い切り」ですでに受け取ってますので、今後、本訳書がいくら売れても当方には1円も入りませんので、「ステマ」がどうとか気にされてる読者の方も、どうぞ安心してお買い求めください。

 … そしてどんな本にもたいていは見つかるタイポのたぐいですが、じつはまことに残念ながら、訳者としては放っておけない誤植(p.47 の図版の誤字はワタシのせい。再校ゲラまでチェックしたのにどこ見てたんだろう…)と誤訳(念のため、これは当方のせいじゃないです。あんまり言いたくないが、再々校で勝手に手直しされた結果[このままでいいよってあれほど言ったのに…])がありますので、お買い求めになられた場合、お手数ながらこちらのリンクをご参照の上、しかるべく訂正して読み進めていただきたいと思います。m( _ _ )m 妄評多謝。

posted by Curragh at 00:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 翻訳の余白に

2021年06月20日

『専門家の予測はサルにも劣る』

 …… という本を、仕事の調べ物をしていたときに図書館で見つけまして、さっそくこちらも借りてきた。初版発行が 2012 年。もっとはやく読んでおけばよかったとひさびさに思えた、個人的にはヒット本でした。

 日本語版はずいぶん人を食ったというか、小バカにしたような書名(原題は Future Babble )ではあるが、このカナダ人ジャーナリストの書き方は読んでいるほうがシャッポを脱ぐ(「こうもり」が通じず、「ダイヤル式黒電話」がなにかもわからず、ことばのプロの端くれであるはずのニュースアナウンサーが「軽々[けいけい]に」、「夜店(よみせ)」とかを誤読する世の中なので、こういう言い回しがすでに「死語の世界」入りしていないことを切に願いつつ)ほど、かつてのジェントルマン的潔さと言いますか、とにかく終始一貫、「真摯」で内省的でストイックであり、この点はおおいに見習いたいとさえ感じた。訳がいいから、そのように感じたのだと思う。

 この本では古今の専門家による「未来予測がいかに当てにならないか」の多数の実例が俎上に上げられ、アンコウの吊るし切りよろしくスッパスッパと一刀両断といったおもむきで容赦なく批判されている。過去の名だたる学者、たとえばいっとき日本でもすこぶる人気が高かったアーノルド・トインビーに、キャンベル本でもおなじみの『西洋の没落』のシュペングラー、そしてなんとなんと、あのミスミステリー作家のマイケル・クライトンも例外ではない。

 で、ここにいる門外漢がいちばん驚いたのが、そのクライトンなんですね。映画化もされた『ライジング・サン』という本。じつはろくすっぽ読んだことがなかったので、この本ではじめて内容を知って愕然とした。こんなこといま書いたら即三振アウトずら! いくら日本人に西洋びいきが多いからって、こんな「無意識下の差別」丸出し小説はイカンやろ、と思ったしだい。

 しかし驚くのはまだ早かった。クライトンがこの小説を書いたのは、バブル真っ只中の時代におもに米国で吹き荒れていた「日本脅威論(あるいは、日本スゴイ論)」に乗っかったついでに自作を売って儲けてやろう的な発想があったらしいこと。ようするにあの当時の米国市民にとって、「日本脅威論」はトランプ的な「ディープステート陰謀論」のように、米国社会のトレンドだったということです。これは逆に言えば、「そんなことはない。日本経済なんてそのうち失速する」と主張しようものなら、コテンパンにされかねない時代背景があった、ということ。その証拠に当時、この手の根拠薄弱な「日本脅威論」ものが売れに売れて、そんな本の日本語訳で書店は溢れていたものだ(神保町の某大型書店でもその手の逆輸入された「日本脅威論」本がベストセラーになり、げんにワタシもそんな本の平積みの山を見たことがある。就職氷河期世代以降の人には信じられない話だろう)。

 著者によれば、いつの時代も「専門家の予測など当たった試しがない」。1970 年代から 80 年代にかけてはやった「ピークオイル」説にしてもそう(いまも原油は枯渇していないし、昨年のコロナ禍で原油価格は初のマイナスを記録した)。とはいえ人間はダニエル・カーネマンの研究で有名になった数々の「認知バイアス」があるから、「世界が、基本的に不確実で予測不能であること」はアタマではわかっていても、高名なその道の「専門家」を称する人びとの立てる「未来予測」なるものを必要とする「需要」が途絶えないかぎり、この手の「予測本」も消えることはないと書く。では門外漢の一般市民のわれわれはどうすればよいか。

 著者によれば、専門家はふたつのタイプに大別されるという。ひとつが「キツネ」型、もうひとつが「ハリネズミ」型。で、未来予測のアテのならなさは両者共通としつつも、参考にするなら(鵜呑みにしていいというわけではもちろんなし)「キツネ型」専門家の予測のほうがまだマシ、と書いています。専門家といっても、確率的には「コイントス」と大差ないようですけれども、「キツネ型」のほうがまだ人間的に信用のおける学者の場合が多いようです。

 加えて、専門家には「専門しか知らない」タイプと、キャンベルのような「ジェネラリスト」タイプがいる。個人的にはもちろん、ジェネラリストな専門家の書いた本なり論文なりのほうが一読に値すると思っています。最近、日本にかぎったことじゃないでしょうが、カネの亡者というか、目先の利益にファウストよろしくあっさり魂を売っているような専門家もけっこういるから、要注意です。

 それにいまはインターネットもある。専門家といっても昔みたいにウカウカしていられません。真実ではない情報を垂れ流せば、たちどころに奇特なネットユーザーのネットワークが立ち上がって、査読やファクトチェック結果を発表する世の中。300 ページ超のこの本を読み終えて思ったのは、たとえモットモラシイ話に聞こえても、「ほんとうにそうなのか?」とまずは自分のアタマで考えることがいちばん大切、ということです。

 ほかにも予測本ものの著者として、これまたベストセラーを連発していたポール・ケネディ、『第三の波』のトフラー、昨年、ユヴァル・ノア・ハラリと NHK の特番に出ていたジャック・アタリ、ポール・クルーグマンなどが出てくるけれども、『不確実性の時代』で有名なガルブレイスは挙げられていなかった。繰り返すけれども、この本はなにも世界的に名を知られる学者や研究者のイイカゲンさをあげつらっているのではなくて、こういうすぐれた頭脳、すぐれた知性の持ち主でさえも間違えてしまうメカニズムとはなにか、それをとことん探った本です。

 10 年前のいまごろもそうだったように、いままた「専門家」と呼ばれる人びとが TV のワイドショーとかに呼び出されて、持論を展開している。原発事故と未知のウイルスの共通点は、「専門家でさえわからないことが多すぎる」こと。TV に映し出されている専門家が「キツネ型」か「ハリネズミ型」かにも留意して、注意深く話を聞く必要がある。そして聞きっぱなしではなく、自分のアタマで考えること。言い換えれば、エーカゲンな予測に、そもそもたくましい妄想の産物でしかない「○○陰謀論」にあっさり引っかからないだけの literacy を身につけることこそ、21 世紀のいまを生きるすべての人の責任かと思う。それさえ怠るような御仁は、それこそ自称5歳の女の子に「ボ〜っと生きてんじゃね〜よ!!」と一喝されるでしょうな。

※ 本文最後の一文の訳について。おそらくこれ下ネタのオチでしょうね。Google Books で検索かけても、当該箇所の原文が表示されなかったから、なんとも言えませんけれども。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるんるんるん

posted by Curragh at 17:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近読んだ本

2021年06月16日

Seeing is believing なこぼれ話

 えっと、いきなりではありますが本題に入る前に …… 不肖ワタシ、ようやく(?)自分の名前で出るはじめての翻訳書がこのほど刊行の運びとなりました。いわゆる「献呈本」はとっくに来ておりまして、手にとったときは──じつはタイポなどがありまして、せっかく苦労して仕上げたのにすなおに喜べないのもまた事実──もちろんそれなりに感慨はあったんですが、とにかく拙訳書につきましてはまたのちほどここでも詳しく書きます。というか、訳者としてはキチンと書くのが努めだとも思いますので。というわけで、トシだけはとってるくせにヒヨッコ翻訳者なワタシがエラソーなこと書いちゃイカン、ということは痛いほど承知はしておるのですが、黙ってられない性分ゆえ、そしてまたいちおう同業者の「告白本」の体裁をとってもいるし、ひとこと述べさせていただこう、と思ったしだい。

 じつはこの本、そのスジではかなりよく知られ、そこそこ売れているみたいです。じつはワタシも訳書が出るまでそれなりにスッタモンダがあったため、書かれてある苦労談とかはすごくよくわかる。二番煎じになるけれども、書籍を出版する場合って、たいてい書面の契約書はありません。だいたいが口約束で済まされます。ほかの業界だったらまずありえない話ですが、これが長年の慣行ってやつです。

 せっかく1冊まるまる翻訳したのに勝手に出版中止にされ、その責任を問うているのに版元に誠意が感じられず、やむなく提訴 …… という話、ワタシも間接的に知っています。訴訟まではいかなかったものの、「悔しくて一睡もできなかった」と精神を病む寸前まで追い込まれたなんて話も聞いたことがあります(この話、けっこう名前の知られた YA ものの翻訳の大家の証言なんですぞ)。

 しかも食えない。だから糊口をしのぐため、なにかしら「兼業」するしかない仕事だったりする。おまけに売れる本は売れるでしょうけれども、それ以外は鳴かず飛ばず、重版がかかることなく初版で品切れ絶版、なんてのが常態化してウン十年経っているでしょうか。そんなこともあってか、翻訳者唯一の収入源である翻訳原稿料でさえ、「印税」方式ではなく「買い切り」方式(ケチ…!)もかなり増えている。さらに悪いことにはクラウドソーシング全盛時代、アウトソーシングして翻訳者を募集するのはいいけれど、そんな募集はたいてい名の知れたプロ並みの要求をしてくるくせして相場無視の法外な稿料しか払わないところがほとんどときている(ある意味、ブラック業界化している。1冊まるまる訳すのにいったいどれだけの費用と時間と労力がかかっていると思ってるんですか)。

 だから、この本で著者が嘆いているのはホントよくわかるんですが …… ハッキリ言って共感できません。なぜか。文章心理学的に、というか、生理的に受けつけないのかもしれない。

 かんたんに言うとこの本、終始一貫、「ワタシは悪くない、被害者だ、悪いのは○○」とこんな調子なんです。それに注意深く読むとこの方、ワタシなんか足許にもおよばない英語力と「翻訳力」があるにもかかわらず、最終的に翻訳稼業から足を洗って警備員になるしかなかったのが、ほかならぬご自身の学習能力の欠如にあるとはまるで思い至っていないのがものすごく歯がゆくも思う。言い方はたいへん失礼ながら、詐欺被害に遭いやすいカモタイプかもしれない。最悪の事態を想定せず、物事はきっと「ご自身に都合よく」回るだろうと考えているフシがある。

 ちょっと手厳しいと思うが、とりあえずそんな「書き方」の例を、ワタシの感想(大かっこ内)も混じえて書き出してみる(下線は引用者)。話の内容は、「翻訳品質に関心のない編集者」について。↓
私はすでに旧訳が出ている原書の新訳を依頼されたことが何度かある[ソレハソレハ]。…… ではそういう場合、私は何をするか。私はその機会をうまく利用して自己PR 用の資料を作るのである[ご苦労さまです]。その資料は、私の文と旧者の文が[もうすこしなんとかなりませんかね?]比較できるようにしたものである。ただ、編集者も忙しい人たちであるから、私は新訳と旧訳がすぐに比較[←トル]できるよう、著しい差が出ている箇所を強調して示している[ちょっと待った。そのすぐ前で「私が翻訳書担当の編集者についてもっとも驚いていることは、彼ら[ママ]翻訳のクオリティーに対する関心があまりにも薄いことである。彼らにとって最大の関心事は売れたか売れなかったかであり、売れない翻訳書は翻訳のクオリティーに関係なく『失敗作』なのである」ってご自分で書いていますよね? せっかく作ったはいいが、ロクに目も通されないことくらい、察したらどうですかね …… その労力をほかに振り向けたほうがよいのではなくて ?? ]。これを見せることで、
 (ほら、この翻訳家はここをこう訳してるでしょ。でも同じところを私ならこう訳すのです。この違いがおわかりですか。どちらの翻訳家の訳で読みたいですか)[ある女性編集者のことを「上から目線」とクサしておきながら、あなたも大したものじゃないですか! というかオラにはおっかなくて、とてもじゃないがこんなマネできっこないす。それにこれはズルい。後出しジャンケンみたいで。そもそも編集者が旧訳と比較して判断するなんてことはないでしょう]
 と私の翻訳のクオリティーを吟味してもらおうと思っているのである。

と、こんな感じ。

 さらにイヤ〜〜な書き方もある。出版翻訳から警備員に転身したいまはきれいさっぱり、「後悔などあろうはずがない」なんてどっかで聞いたような科白を引用するのはよいが、なんとなんと脚注に「本書をお読みの翻訳書担当の編集者で私の自己 PR 用の資料を見てみたいと思う方は喜んでお見せします。ただしなんらかの仕事を私に依頼していただくことが前提です。連絡先は ……」!!! こちとらもう口あんぐり。未練たらたら感満載じゃございませんか。

 まだまだある。「売れる本にしたいので、W 先生に監修者になってもらおうと思っているのですが、よろしいでしょうか」と訊いてきた編集者に対し、「出版社はそれでも売れればいいだろうが、それでは私が困るのだ」
とこんな感じで押し問答がひとしきりつづいたあと、「だって○○さんって、なんでもない人じゃないですか」と言われ、深くショックを受けた著者はこう書く。
なんだなんだ、なんでもない人とはなんだ。私はなんでもない人なんかじゃないよ。…… 実際、こっちはイギリスの名門の大学院から修士号を取得しているんだよ。出版翻訳家になるのだってたいへんなんだよ。なのになんで私がなんでもない人なんだよ。そういうあなたはどれだけ立派な人間なんだよ。だいたい、人のことをなんでもない人なんて言う資格があなたにあるのかよ

「つい〜、“sell word”に“buy word”で」と言った小原鞠莉じゃないけれども、こんなの読まされたらついそう言いたくなってしまうじゃないですか。というかこれ「藁人間論法」じゃないですかね。ちなみに監修者として名前の挙がった W 先生は、アーノルド・ベネットの超有名なロングセラー本を翻訳した大先生。さらについでに、「イギリスの名門の大学院」のある大学は、世界ランキング 50 位中の 42 位でした。

 それとそのすぐあとにもこの「翻訳品質に関心のない編集者」の話は尾を引いていて、
旧訳を新たに訳し直すときって翻訳のクオリティーを高めて出したいからではないの? もしそうでないのなら、なぜ新訳を出したがっているの?

そのときそうギモンに感じたのなら、その旨直接お伺いを立てればよかったんじゃないですか? 

 さも自慢(?)話ふうに得々と書いている箇所も多くて、この著者はそうとう粘着質な人と見た。トラブった編集部宛てにファクスを執拗に送りつけて業務妨害スレスレのこともしていますし。こういう暴露本って、だいたい著者の独善ばかりが目につき、ハナにもつくという代物がほとんど。以前図書館で見かけた「元郵便局員」が書いた内輪ものの本とおんなじ臭いがした。たしかにワタシも精神的に不安定になりかけたことがあり、この本を知ったときは「またなんとタイミング悪く、こちらの士気を挫くような本が出たもんだ、それに売れてるらしいし」なんて思ったもんだが、いざ読んでみたら、「いや、待てよ。ひょっとしたらひょっとして(Are you telling me what I think you're telling me?)」みたいな本かも、とも思っていた。で、読んでみたら後者だった。思い込みの強さという点ではワタシも似たかよったかだが、著者もまた思い込みの激しい人であることは、書かれた文章の行間から芬々と漂う。

 思うんですが、たしかに翻訳作業って孤独で、とにかく「ひとり」で自己完結しているようなイメージの強い仕事ではある。究極のテレワークと言ってもいいかもしれない。でも1冊の翻訳書を世に出すには、翻訳者がひとりいたってできるわけがない。校正者がいて、編集者がいて、校閲者がいる。発行人がいて、印刷と製本会社の従業員の方々がいる。書店に配送する人に、そしてもちろん、書店でその本を売ってくれる販売員の方々がいる。それを買ってくれる読者がいる。エラソーなこと言ってほんとうに申し訳ないのだけれども、この人にいちばん欠落しているのは、「自分は翻訳出版チームの一員だ」という意識じゃないかって気がします。この手の人は最後までひとりで完結する、Amazon Kindle のような電子本で個人出版すべきだと思う。コレならすくなくとも理不尽な言いがかりをつけられる心配はないですし。

 というわけで、こんな内容ですので、この本につきましてはいつもの書評もどきの扱いとはせず、「選外」とさせていただきます。あ、それともうひと言。ここの版元のこのシリーズ? はけっこう評判がいいそうで、新聞広告でもときおり見かけたりします。しかしながら新聞広告出してる本で「読む価値のある本」、「読むべき本」というのは、ワタシにかぎって言えばまずないです。ワタシが読みたい本は、新聞広告に載らない本ばっかなので。

posted by Curragh at 08:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近読んだ本

2021年05月28日

日本版 “Translation Studies” の必要性

 たまたま図書館で見かけたこちらの本。いかにもみすず書房らしいテーマの本だと思ったら、懐かしの『翻訳の世界』を取り上げた研究論文を叩き台にして書き上げたというのだから、ちょっとビックリ。ついにこんな本が出るほど、「わが青春の日々はすでに過ぎ去り」というか、昭和は遠くなりにけり、なんだなァと思わずひとりごちた。

 月刊誌『翻訳の世界』は、とてもユニークな立ち位置の雑誌だった。内容も硬軟織り交ぜ、とにかく「翻訳」と関係するものは時事問題(湾岸戦争、通信社の舞台裏、『悪魔の詩』事件、国際結婚 etc……)からマンガまで、来るものは拒まず的な言論雑誌だった。しかもなんたる皮肉か、もともとの発行元は「大学翻訳センター」、現在の DHC なんですぞ。しかもこの雑誌のよかったところは、対立意見や主張などおかまいなく、幅広い執筆者が精力的に記事を書いていたことだ。運営する翻訳学校の広報誌的役割(広告塔)も果たしていたから(これはしかたないこと。民間企業が刊行している「商業誌」だったので)、自社宣伝がハナについていたとはいえ、いまどきこんなおおらかな内容の言論雑誌は望むべくもないだろう、と思う(いまの国内の言論がいかに歪められているかは、書店に並んでいる本や雑誌を見れば一目瞭然)。

 本書の著者も巻末に慨嘆しているように、「あのころは多文化・多言語主義というものが十年後には当たり前の社会が来ると感じていた。しかし、これが全くの誤りであり、今は逆行しているように感じることも多い」。

 せんだってここにも書いた systemic discrimination もそう。当たり前だと思って意識してないから、ことはややこしくなる。そんな一例が、すでに 1986 年の『翻訳の世界』誌上で当時、『過越しの祭』で芥川賞を受賞した米谷ふみ子さんのインタビューとして載っていることも紹介している。
日本でもあります。アメリカはまだ法律によって保護されてるんです。日本の場合は法律もないでしょ、偏見に対して。だから危ないです。日本に住んでる日本人はそのことを知らない。…… 教えやすいし、操作しやすい。右向け言うたらみんな右向きますよ。違うことしたくないから。それが嫌な人はみんな出ていってしまう。──「マイノリティの生活経験を伝えたい」から

 英国やドイツでは「人種主義的な差別発言や言動は禁止されており、差別的なことを口にしただけで拘束されることもある」くらい厳しいにもかかわらず、このインタビューが掲載されてから 34 年後の欧州では新型コロナのパンデミックに悪乗り(?)したかのようなアジア系住民などに対するレイシズムの嵐が吹き荒れたことは記憶に新しいところ。

 といってもこの本は、かつて日本に存在したユニークな雑誌をただ懐古してるんじゃなくて、そういった言論雑誌というレンズを通して見たトランスレーション・スタディーズ、「翻訳論(カタカナ語とはニュアンスは異なってはいるが)」の可能性について論じた本。駆け出しのペーペーがこんなこと言うのは口幅ったいのですが、この本読むまで正直、「翻訳論」の必要性について真面目に考えことはなかった。ある意味、「技法と実践」のみに拘泥していたのかもしれない。柳父章さんとかはもちろん知っていたし読んでもいたけれども、海外ではこの手の「トランスレーション・スタディーズ」が盛んで、ご多分に漏れず大学制度「改悪」の進んでいるらしいイングランドの大学(著者の勤務先)では翻訳を学ぶ専門の学部や学科が存在している、と知ってすこぶる新鮮だった。こういう専門学部では、たんに翻訳技術を教えるのではなく、それをはるかに超えた「学問としての翻訳」を教えているという。たとえば、実際の仕事で必ずと言ってよいほど悩みのタネとなる背景知識の調べ方や習得などについても教え込み、このへんが日本国内で翻訳を教える民間学校とは決定的に異なるところだと書いている。

 「雑誌の分析だけでなく、インタビューという手法を取り入れた」とあるように、後半は『翻訳の世界』に携わった関係者諸氏のインタビューで構成されてますが、ここで一点、気になった点が。発行元が運営していた翻訳学校の当時の生徒になぜインタビューしなかったのかな、と。あいにくこちとらも数年間、定期購読していた『翻訳の世界』が山のようにあったけれども、とっくの昔に一部だけ残してすべて処分してしまったし(いまにして思えばモッタイナイことしたかも。地元の図書館に寄贈するという手も考えたが、先述したように「広報誌」的性格がイヤだったため、断念)、お声がけしてくれれば(あるわけないが)、喜んで差し上げたものを。

 あと印象に残っているのは、「翻訳を深めようとすればするほど、その政治性とイデオロギー性を確認することになる」とか、スラヴ文学者の沼野充義先生が著者のインタビューで、「アカデミックな研究の営みは、…… 自由なものでなければならないのではないか。すべてを既成の規範にはめて考えていたら、新しいものは生まれない。翻訳研究の場合も、一定の枠組みからはみ出すところにむしろ豊かさがある」として、欧州生まれの「トランスレーション・スタディーズ」の亜流ではない、1970〜80 年代にかけて芽生えつつあった、日本独自の「翻訳研究」の経験と実践を活かすよう述べていることはひじょうに示唆に富む発言だと思った。

 「翻訳とイデオロギー」ということでは、もうすぐ日本語版が出るトマ・ピケティの新作『資本とイデオロギー』のテーマとも重なる部分がけっこうあります。というわけで著者の次回作もおおいに期待しております。

評価:るんるんるんるんるんるん

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2021年05月02日

画家クールベの生き方に学ぶ

 いまさっき見た「日曜美術館」のクールベ特集。率直な感想は、「なんて戦闘的な人だ(汗)」。

 ギュスターヴ・クールベの名前をはじめて知ったのは、小学生のときに親に買ってもらった『美術の図鑑』に載っていた「こんにちは、クールベさん」。当時、この油絵作品(のカラー図像)を見て思ったのは、「自分で自分のことを『クールベさん』って言っちゃうんだ(笑)」と、なんて気さくな人なんだろ、ということ …… だったんですけど、じつは帽子をとって挨拶している相手というのがなんと当時、クールベの生活を支えてくれていた懇意のパトロンその人ですと ?! しかも『ゆるキャン△』に出てくる松ぼっくりよろしく「\コンニチハ/」されている画家クールベといえば、ふんぞり返って、パトロンなのに相手を上から目線で睥睨している。…… あれから 40 ウン年、気さくどころか、ハナもちならぬ男だったことが遅まきながら判明した(微苦笑)。

 でもクールベという人は、見ようによってはハナもちならない、「世界一傲慢な男」だったかもしれないが、こと芸術となると「レアリスム」つまり写実主義を提唱してそれを生涯、ブレずに一枚看板にして画業に励んだ結果、晩年になってようやくサロンにも認められ、まだ 20 代だったクロード・モネ(!)とも仲よくなったりと、時代の先を行っていた画家だったのはまちがいない。加えて、いまで言う炎上商法的なこともやっていたりと、「ドル紙幣をたくさんもらったときだけぐっすり眠れる」と豪語していたサルバドール・ダリもあのギョロ眼をさらにギョロつかせるくらい、そういう方面にかけても先駆者だった。「個展」というのをいちばん最初に開いたのもじつはクールベだという。

 最晩年、政治犯として投獄されたり、釈放後に失意のままスイスに亡命したりという話は、なんか哀れな末路にも思える。もしそんな政治的誘惑に乗らず、おのれの目指す道を独立独歩で突き進んでいたらと思う。そういう反省もあるのか、番組では「わたしはいかなる宗教にも、いかなる流派にも、いかなる組織にもただの一度も属したことはなかった」ということばを紹介して終わっている(ところであのバカでかい『画家のアトリエ』という作品、あれまさかホンモノなのだろうか?)。個人的に印象的だったのは、一連の「海」の連作もの。白い石灰岩の絶壁の景勝地エトルタの海景ってモネじゃなくて、クールベが最初に目をつけて描いてたんですね、知らなかった。

 ある意味孤高の人だったかもしれないクールベさんですけど、ひるがえっていまのアーティストってどうでしょうか。どこの世界も分業化が進んでいるから、なかなかそういうわけにもいかないとは思うし時代も違うから、単純な比較はいけないかもしれない。しかし「われわれアートの世界の人間にも○○の権利を !!」というのは、なんかちがくね? とも感じてしまう。

 そもそもアーティストって反骨の人、権力の対極にいる人のことでしょう。そういうのはほかの方にお任せしたらどうですかね。アーティストがほんとうにやるべき仕事って、ジョイスの言う「エピファニー」を創り出すことだろう。政治的・教訓的芸術ではないはず。クールベだってそうでした。また、SNS でさかんに発信したりするアーティストも多いし、それはそれでけっこうながら、アーティストのほんらいの仕事との比重が狂ってしまっては本末転倒だとも感じている。

posted by Curragh at 11:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 美術・写真関連

2021年04月30日

巨匠アシモフの未来予測

 いつも行っている理髪店(創業 59 年目 !!)には、昭和 50 年代の古書とかも置いてあって、そのなかにはこれまた懐かしい「日本リーダーズダイジェスト」社が出していた事典ものもあります。その一冊、『世界不思議物語(Strange Stories, Amazing Facts 1979)』という大判本の巻末に当時の SF 界の巨匠アイザック・アシモフ(1920−1992)の「人類に未来はあるか」というインタビュー記事も収録されていて、ちょっと興味を惹かれて目を通してみた。

 インタビュアーはアシモフに、「予言者たちは、世界の終わりが来るともう何世紀も言い続けてきました。この地球に終わりが来るとして、それはどんな形でやってくると思いますか」という、あの当時の空気感を知るひとりとしては、ぶっちゃけアリガチな紋切り型っぽい質問から始めている(『ノストラダムスの大予言』シリーズ本なんかが売れまくってた時代。ちなみにスウェーデンの例の方はご存知ないだろうが、あの当時はいまとは逆に、「氷河期が来る !!」っていう予測本が売れていた時代でもある)。

 21 世紀に入ってもう 20 年代に突入してしまっているいまに生きている人間の眼であらためて読むと、さすがのアシモフもやや naïve だったかも、という箇所も散見されるけれども、そこは SF の重鎮だけあって炯眼ぶりはさすが、と思うことしきり。

 たとえば民間宇宙航空開発会社や EV 製造会社をいち早く立ち上げて期道に乗せているイーロン・マスク氏は、並行して「火星移住計画」みたいなことに大マジメに取り組んでいる。取り組んでいるのはけっこうなことながら、あいにくそれは解決策にはならんと一蹴する。
この太陽系内のほかの惑星を、人類の植民地にすることはできるでしょうか
 技術を使って大々的に改造しないかぎり、住めるようになる星は太陽系にはありません。改造の可能性があるのは、月はたしかにそうですが、あとは火星ぐらいでしょう。しかし、太陽が死ぬときにはみんな地球と同じ運命をたどるわけで、長期的にみた場合の解決にはならないわけです。

と答えて、「太陽が死ぬときまでに、われわれ人類がこの銀河系はもちろん、他の宇宙にも散らばって生きていくようになっていることは、ほぼたしかだと思います」と続けてます。

 そして話は「光速での宇宙旅行」や「地球がほかの惑星や流れ星と衝突する可能性」、「地球がほかの星から攻撃されたり滅ぼされたりする可能性」と、新型コロナのパンデミックにすっぽり覆われている 2021 年時点で見ちゃうとやっぱり naïve だなぁ、とひとりごちてしまうわけなんですが、そんなインタビュアーの軽薄さを見透かしてか、アシモフは「[その手の危機は]SF ではよく出てきますが、じっさいにはまず起こらないだろう」と述べて、「いますぐ手を打たなければ、この 30 年か 50 年以内に、人類は現在の文明を滅ぼしてしまう危険性がたぶんにあります。そういう方向に人類は突っ走っています」と警告する。こう切り返されてインタビュアーはなんと言ったか。「それはまたぶっそうな話ですね。しかもそんなに早い時期にですか」(!)
西暦 2009 年までには、地球の人口は 70 億から 80 億という数になりますが、食糧を現在の 2 倍も供給することなどできません。30 年か 50 年のうちには、地球の全人類が飢えることになるでしょう。
 しかも食べる物がじゅうぶんにないために、病気が増えます。世界的に不穏な状態に包まれるでしょう。……

 人類の歴史は、技術の進歩の歴史だったわけです。一時的に技術がおとろえた時代としては、いわゆる暗黒時代があります。人類は過去に何度も、そうした暗黒時代を経験していますが、いずれも特定の地域がそうなったわけで、人類全体の危機ではなかった。……

 しかしわれわれはやがては石油を使いつくしてしまい、石炭も採れるだけ採りつくしてしまい、地球の貴重な鉱物を掘りつくして世界じゅうにばらまいてしまい、環境が放射能をおびるようになるところも出てくるでしょう。しかも増え続ける人口をまかなうべく絶望的な努力をして食糧生産にはげみ、そのために地球の土壌を破壊してしまいます。……

 もちろん、人類は海洋から現在以上に、食糧を大量に取ることができるようになるでしょう。植物をタンパク源として、利用することもできるようになるでしょう。……

 またエネルギーについても、太陽エネルギーが人類の主要なエネルギー源になっていくでしょう。しかし、さきほどから言っているような最終的な危機をさけるためには、いますぐにでも画期的な進歩がなければ手おくれになってしまいます。


 そして、アシモフは最後にこう結んでます。
わたしたちが直面しているのは、全地球的な問題です。資源が減り続け、人口が増え続けていること、環境の汚染、そのほかみんなそうです。……

 過去にも、人類は何度も危機を乗り越えてきました。たとえば 14 世紀に黒死病が大流行したとき、人類のおそらく 3分の1 が死にました。しかし 3分の2 は生き延びたのです。衛生学の知識もなかった当時の人が、あのもうれつな伝染力を持った致命的な病気にも打ち勝って生き延びたのです。……

 人口問題を解決することができたら、21 世紀はすばらしい時代になるでしょう。それは量よりも質の時代であり、知識よりも知恵と洗練さが支配する時代であり、新しい技術と文明が打ち立てられることでしょう。そして人類の未来は輝かしいものになると思います。

 最後はなんだか一縷の望みが持てそうなことをおっしゃっていて、40 年以上も前にここまで言えた人って向こうのインテリでもそうはいなかったんじゃないかな。その数少ない例外のひとりは、やはりジョーゼフ・キャンベルだろうと思う。

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2021年04月15日

"systemic discrimination"

 前にも少し書いたことですけれども、昨今、急激によくお目にかかるようになったワードがあります。“systemic discrimination”です。

 たとえば手っ取り早くオンライン英和辞書なんか見てみますと、
構造[組織]的(な)差別、〔社会の構造・制度などと一体化しているような〕深く根付いた差別
なんてあって、わかったようなわからないような、隔靴掻痒感満載なんですね(一般に辞書の定義なんてそんなものだが)。

 こういう抽象的概念に近い横文字って、たとえば「エンパワーメント」のようにいつの間にかカタカナ語化して意味もよくワカランまま定着、というパターンがじつに多い。それじたいが悪い、と言っているんじゃなくて、「その用語、しっかり理解できていますか?」とつねに自問自答する姿勢が大事だとまずは言いたい。

 で、わかったようでまるでわかってないこの“systemic discrimination”。でも、こんな記述を読めばどうですか。
人種差別主義者があれほど肌の色にこだわるのが不思議でならない。有色人種が怖いから、憎いから差別するのではない。有色人種は地位が低い。階級が低いと差別し、自分のコミュニティーに異文化が入り込むのを嫌がり、白人が高い地位につく機会が多いから、白人の方が“優れている”と無意識のうちに思い込んでいる。
 なるほど、そういうことだったのかって、思いますよね? “systemic discrimination”とは、無意識のうちに刷り込まれた意識が、じつはりっぱな人種差別、レイシズムに発展するんだってことがこの一文を読めば伝わってくるではないですか。

 これ書いたのはタン・フランスという人。パキスタン系移民3世として英国北部のサウスヨークシャー州に生まれた人で、世界的に人気のあるリアリティーショー「クィア・アイ」のファッションコーデ担当、と言えば、知ってる人は「ああ、タンだね!」って思われるだろう。とこんなこと書いてる本人は、タンさんに取材した記事の訳出を依頼されるまでまるで知らなかった口なんですが、たまたま図書館にタンさんのメモワール本があったので、あわてて借りて読んでみたらすっかり自分までファンになってしまった。それほど人として魅力的で、なんて懐の広い人なんだろうって、ようは自分にはないものをタンさんの内に見つけたってことにすぎないんですけれども、それでもこの本は内容もすばらしくて、読んだことないって人にはぜひおススメしたいと思ったしだい。

 筆致はとても軽く、心のおけない親友に打ち明け話をしているかのようなノリで幼少期から現在に至るまで話が進んでいくのでじつに爽快な読書感なんであるが、そのじつ、書かれてある内容は、ふつうに書いたらまずまちがいなく暗く、沈んだ気持ちにさせられることまちがいなしの「重さ」がある。ここがすばらしい。こういう文章はなかなか書けない。これはひとえにタン・フランスという人の人柄がなせる業。「文は人なり」だ。

 “systemic discrimination”ということでは、たとえば自身の生まれもった肌の「浅黒さ」をなんとかして隠そうと従姉の使っていた漂白クリームをこっそり塗っては「神様、肌を白くしてください」とお願いしていたそうです。これだけでも胸が詰まる話ですが、人種差別主義的なイジメを受けたことをはじめ、「『クィア・アイ』のスター」として一躍、セレブの仲間入りを果たした現在もなお、空港の入国審査で足止めされ、別室で「検査」を受けるというくだりなんかは読んでいてやや信じられない、という思いさえ抱いていた。ちなみに英国はもともと階級意識が強く、住むところも労働者階級、中流階級、上流階級とはっきり色分けされている地区がいまだに存在しているような国。タンさんはこの本で、そんな英国でも NHS という医療制度は米国に比べてはるかにすぐれていると評価してはいるが、こと“systemic discrimination”に関しては、「僕らはいまだに、9月 11日が来るたび、危険な人種として身元確認作業を受けている」現実、その他いわれのない差別、根拠のない偏見にもとづく理不尽な扱いを受けたことなど、これでもかってぐらい具体的事例を挙げて、それでも「軽いノリで」書いてくれている。

 昔、まだ日本が「ナンバーワン」だともてはやされていたころ、日本人カップルがベツレヘムの紛争現場の真っ只中にフラフラ入り込んで、イスラエルとパレスティナ双方の兵士が撃ち合いを中断したって話、以前ここでも書きましたが、わたしたちもまた、肝に銘じなければならないと思う。やはり周囲を海に取り巻かれている島国で暮らし、それがアタリマエみたいに感じていると、ほんとうの意味でのリアルな世界がまるで見えなくなる。そういう意味でも、日本人ではない人の手になるこのような著作とその翻訳は、意識してでも読まないといけない。そういうふだんからの、「不断」の努力って必要だと思う。

 あと、これは付け足し的な話ながら、日本人以外の著者の本を(原書にせよ、邦訳本にせよ)触れることの効用を書いておきたい。

 たとえば、こんなコラムを見たとする。
……私の米国の知人は引退した普通のサラリーマンだったが、90 歳をこえるまで税金や医療費の申告をパソコンでやっていた。
ちなみにこの引用文、日本がいかにデジタル化の波に乗り遅れ、このままではヤバいぞと警告している(つもり)の定期コラム。かつて「ナンバーワン」だと言われていた技術大国日本はなぜデジタル化の流れではこんなにも出遅れてしまったのか、と「海外の人」から質問されると、「日本は旧来のやり方では非常に優れた仕組みを構築してきた。それがゆえに、デジタル化への対応を軽くみてしまった。別にデジタル技術に頼らなくてもやっていけると甘く考えていたのかもしれない」と答えるようにしているという、「なに言ってんだこの大学教授は、ダイジョブか?」とココロの中で毒づいていた口。

 米国では PC で確定申告は当たり前。どころか、公教育も州によってバラツキはあるだろうが、ほぼオンラインネットワーク化されていて、だいぶ前に見たヴァイオリニストの五嶋龍さんが自宅で仕上げたアサインメントをインターネット経由で学校に送信していた場面とかが印象に残っている。

 で、タンさんの本ではその米国における確定申告については、こんなふうに書かれてたりする。
アメリカに住むようになって一番悩んだのは、何といっても税金問題だった。最初に渡米したとき、アメリカ人がまさか税金の申告を自分でするとは知らなかった。個人が申告した税額を政府が信用するなんて、不条理だと思う。一度、知り合いの確定申告の様子を見せてもらったとき、あれも控除、これも控除って処理していた。アメリカの確定申告って、頭さえうまく回れば基本的には抜け道がいっぱいある。確定申告を一般人にやらせるのはおかしい。だって、ものすごく複雑なんだもの! それでいて、ミスすればうるさいほど指摘してくる。確定申告がアメリカ国民にとって必須の義務なら、学校の必修科目にするべき! だけど自分の税額は自分で計算しなきゃいけないのが現実。
「英国の医療費無料制度(NHS のことね)は百害あって一利なし」と言い切った夫ロブ・フランスのお父さん(つまり義父)に、タンさんは「英国に何年お住まいでした?」と訊く。すると義父は「住んだことはない」。「だったら医療費の話は誰から聞いたんです?」。「FOXニュースでやってた」!!! 

 …… 当たり前のことですけれども、新聞掲載のコラムだからって鵜呑みにするな、批判的に読め、ってことですかね。で、当方も昨年夏からフリーランスになったんで、この前はじめて(!)、「いーたっくす」なるものを恐る恐る使って申告したんですけど……申告じたいはわりとスムーズだったかな。でも、マイナカードの取得やら申告のために必要なオンラインツールがこれでもかってあって、そっちの下準備がタイヘンだった。もう少しなんとかならんのかねぇ …… って嘆息混じりだったんですけれども、ここで得難い教訓もありました。貧乏人こそ、しっかり確定申告すべきですゾ(還付金は貴重です、あと控除申告で使う領収書ももちろん忘れちゃいけない)!! 

評価:るんるんるんるんるんるんるんるんるんるん

posted by Curragh at 15:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近読んだ本

2021年04月09日

『翻訳家の書斎』

 宮脇孝雄氏、とくると、日本を代表する英米文学、とくにミステリもの翻訳の大家。当方みたいのがこんなとこで取り上げるのはオコガマシイかぎり …… とは思うのだけど、図書館でパラパラめくっていたらめっちゃおもしろかったので、古い本(1998 年刊行)ではあるけれど、文芸ものの翻訳はいかにすべきかを考える上ではずせない書だと思ったのであえて触れておきます。もっとも、いわゆる「書評」めいたことは今回はいっさいやらず、ただ個人的にツボなところのみ取り上げるにとどめておきます。

 外国語辞書の版元として有名な研究社はかつて、「一流翻訳家が手の内を開陳する」みたいな本を立て続けに出していた時期がありまして、たとえば机の上にいつも置いてある飛田茂雄先生の『翻訳の技法(1997)』もそのひとつ。でも宮脇先生のこのご本は雑誌の連載コラムをまとめたものだからか、とにかく読んで肩の凝らない、翻訳よもやま話的な本。にもかかわらず、翻訳のカンどころはしっかりおさえてあるのはさすがです。

 本を開いてまず飛び込んでくるのが、「翻訳家の書斎にある道具」という章。なんでも英米の通販商品カタログはひじょうに重宝するとか書いてありまして、一例として Mars Bar に Victor なんてのが出てくる。前者はチョコレートバー、後者はなんと! オーディオメーカーではなくて、「ネズミ捕り器」の名前だという !! 

 でも、とイマドキの人は思う。べつにこんなのそろえなくても、ググればいいじゃん !! そう。たいていの調べ物はいまや Google で(ほぼ)一発 O.K. な時代。Google、恐るべし、いろいろな方面で。いまのところ個人的にはメリットのほうがデメリットを上回っているから、いつだったかここで書いたことをもう一度引っ張り出して繰り返せば、「コンテンツプロバイダーという巨人の手の上で踊らされてるだけじゃないかって気がする」自分がいる。

 とはいえたかだか 20 数年前の翻訳の現場といまとを比較してみれば …… やはり唖然とする。原書に出てくる映画の邦題がワカラナイとくれば、昔はそれこそ国会図書館だのどこそこへ問い合わせだのとやたら手間がかかり、行きもしないのに(!)NYC の地図とか商品名事典(薄っぺらいくせして5千円はした)とか持っていて、出てくるたびに引っ張り出して調べるのがおそらくどんな翻訳者にとっても当たり前だったと思う。

 いまはラクなもんです。でも出版不況かなんだかはよくわかりませんが、最近とくに思うのが、「単価下げ」、つまりダンピング。そういえばついこの前も第一人者と呼ばれる出版翻訳者の方が赤裸々に暴露した本とかその筋では話題になってましたっけね。駆け出しのペーペーながら、中身はちょっと気になるところではある。ただ、どれだけ MT(機械翻訳)技術が進化しても、あるいは AI の支援を受けた MT が「人力」翻訳を脅かすすようになっても、それを理由に人間の翻訳者の労力を無視した労働対価を押し付けるのは出版人云々以前の、人としてどうなん? という低レベルな話になってくる。ついでに、いまはアナウンサーをはじめ、「日本語のプロ」でなければならぬ人々の日本語レベルがどんどん低下しているように思えてならない。「え? なんでこんな言い回しがダメなの?」ということもしばしば。そのうち「ゆめゆめ〜」とか「いきおい〜」も、「〜なんだ」と同様、死語の世界入りする日も近い(「〜なんだ」は、川端作品にも出てくる過去を表す述語表現)。

 気持ちが暗くなるんで宮脇先生のご本にもどると、「翻訳家の仕事」や「小説を翻訳するということ」、あと誤訳に関して書かれてある章は、戒められる思いがした。とくに、「『翻訳家』という立場は、はたで見るより危ういもので、少し手を抜くと、たんなる『翻訳支援家』になってしまう(pp.47−8)」というくだりとか。ここの一文は、宮脇先生が当時(!)、アキバの PC ショップにて数万円は下らない「翻訳支援システム」の実演販売を見て食指をそそられたときのことと絡めて書かれてあるセクションの締めくくりの文章になります。

 最後にとっておきの一文と名訳を。おなじセクションの最後に紹介された話がまたケッサクだったので、ここでも引用しておきます。
 翻訳者というのは、もっと独立した存在であり、ある面では独裁者なので、自分の責任においては何をやっても許されるのではないかと思っている。
 もちろん、先の例のように、あとあと矛盾が起こるような誤訳はまずいのだが、翻訳者がびくびくしていたのでは、いい訳文が書けるわけがない。
 私がまだ 20 そこそこのころ、敬愛するある翻訳家に初めて会ったとき、前々から疑問に思っていた点を尋ねたことがある。その人の翻訳に少女が一人出てきて、原文では別の髪型になっているのに、訳文では「ポニーテールの少女」となっていたのである。
 未熟な私は、「もしかしたら、あれは誤訳ではないでしょうか?」と尋ねた。
 するとその人は、「おれはポニーテールが好きなんだ」と答えた。
 翻訳者は独裁者であっていい、と悟ったのはそのときのことである。

 ご本にはもちろん、古今の翻訳家の訳例もいろいろ収録されていて、そこだけ読んでも楽しいんですが、思わず脱帽、参りましたと言いたくなるスゴイ名訳もありました。それが、1987 年に王国社から出ていた『不思議の国のアリス』の 'Who are You?' の訳(p.58、訳者は北村太郎氏)。なかなかこうは訳せませんよ。なにがスゴいかって、原文の持つ韻まできちんと日本語に置き換えているんですぞ。一発芸的かもしれないが、不肖ワタシはしばしうなったままじっと凝視しておりました。とりあえず使えそうな手はいつか使えるはずだから、持ち駒としてメモっておこう。

「あーた、だーれ?」

補足:音楽関連の「珍訳」についても少し触れられてました。たとえば『謎のバリエーション(苦笑)』とか(もちろんエルガーの『エニグマ変奏曲』のことじゃね)。

 日本語表現では、こんなことも指摘していました(太字強調は引用者)。
 クラシック音楽に関する文章を読んでいると、独特な言い回しが出てくることがある。気になって仕方がないのは、「手兵」という言葉である。
 たとえば、有名な指揮者が、手塩にかけて育てたオーケストラを使って、演奏会やレコーディングを行ったとき、「巨匠カラヤンが手兵ベルリン・フィルを率いて……」などと書く。
 絶大な権力を持つ指揮者を陸軍大将か何かになぞらえたくなる気持ちもわからないではないが、「手兵」というのはいかにも時代錯誤ではあるまいか。……
 …… 考えてみれば、クラシック音楽にかぎらず、外国のものをどこか仰々しく輸入紹介するのは、ついこのあいだまでの私たちの習慣だった。昔は漢語で凄んだが、近ごろはカタカナで凄んだりする(インテリ用語にそのたぐいの言葉がある)。
 「手兵」、たしかによく見ますわ。そして最後の一文、ここ最近の「反知性主義」とか「フェイクニュース」とかの不穏な動きは、ある筋から一方的に情報や価値観を押しつけられ、そのせいで割りを食ったと不満を募らせている一部「大衆」の反逆を出現させたその一端というか萌芽の要因のひとつにも感じられたしだい。いまでもそうじゃないでしょうかね、某都知事あたりの会見見てればその口から出てくるのは横文字の奔流。ご丁寧にパネルにゴシック体で大きく書かれてもいたりで。こういうのばかり見させられ、そのじつ「3密は避けて」とか言ってる張本人たちがこれまた信用ならんときている(直近のニュースでも流れてくるのはそんな情けない話ばっか)。ことばが人の心におよぼす影響を侮るなかれ。特大のブーメランとなって跳ね返ってきますよ。

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2021年03月31日

サクラバイバイ

 伊豆半島の主要道のひとつ国道 136 号線をそのまま南進すると、伊豆市(旧天城湯ヶ島町)の「出口」交差点で西に折れ、駿河湾へ向かって船原峠を越えていくことになります。かつては交通の難所でしたが、いまはバイパスがあるから短時間でスムーズに西海岸の伊豆市土肥(とい)温泉側に抜けることができます。

 バイパスの最後のトンネルを抜けて土肥新田地区に入ってまず目に飛び込んでくるのが、ソメイヨシノのみごとな並木。反対側の山側には、「グリーンヒル土肥」というお食事処があって、搾りたての新鮮牛乳を使ったソフトクリームが名物です。

 いま(3月 31 日時点)、そこのソメイヨシノ並木がちょうど満開なんですが、近いうちにすべて伐採されることを知りました。

 じつはこのソメイヨシノ並木、2007 年秋に地すべりを起こしてしばらくの間全面通行止めになり、地元の人はたいへんな難儀を強いられた場所にある。そのときの復旧工事はおもに山側の地すべり運動を止めるための工事だったので、並木は一部が伐られただけで、ほとんどはそのまま残りました。

 しかし昨年夏ごろから、こんどは山側ではなく海側の路肩がズルズルとズレはじめた。つまり、ソメイヨシノ並木を乗せた斜面全体が滑り始めたわけです(伊豆半島ジオパーク的には、あのへんの地質は「更新世の大型陸上火山時代」に活動した棚場山火山の噴出物でできている。棚場山は半島の基盤岩である変質安山岩系の湯ヶ島層群の上に乗っている)。

 いちおう、応急処置はしてあるのでいまのところ通行には問題ないけれども、いつもインスタでここからの夕景とか楽しませてもらっている方から、近日中にソメイヨシノの伐採が始まって、今年がほんとうの見納めになる、と聞かされました。

 もし現下のような状況でなかったら、おそらくワタシもホイホイ撮影に行っていただろうけれども、いまはインスタを開けば、有名な撮影ポイントはだれかが必ず「映え」な写真を残して公開している時代。なので極論すれば、べつに自分なんかが行かなくたっていい。自分の「分身(alter ego)」であるその人たちにお任せしておけばいい。いつぞや読んだ、ジョージ・ミケシュの旅行記本じゃないですけど。

 とくに風景写真系は、おのおのが「ホームグラウンド」的なお気に入りポイントを持っているから、この目で見に行けないのは残念ながら、以前の自分が感じていたほど、「撮りに行けなかった」ことによる後悔というのはほとんどない。べつに写真や被写体に対する passion とか思い入れがなくなってきたから、というわけじゃないですよ。自分ではないだれかさんが、必ずやすばらしい作品として半永久的に残してくれるだろうという、インスタを含めたオンライン写真共有全盛時代にありがちな期待(いや、錯覚? 錯視?)のほうが強くなっている、と言ったほうがいい。このへんのことも含めて、マーケテイング云々ではない、写真論としてインスタを論じた本とかないのかなん、と思うがどうもないようで。

 しかし土肥新田のソメイヨシノ並木っていつからあるのかな? たぶん 136 号線が開通した当初に植樹されたものだとは思うが。そんなこと考えていたら、かつて八木沢地区にあったソメイヨシノ並木のこととかも思い出した。そちらの並木も満開になるとどこを向いてもピンクでホントすごかった。文字どおり「桜のトンネル」。しかしそれも 40 年ほど前に行われた拡幅工事でほとんど消えて、いまはそのごく一部しか残っていない。ただ、すぐ近くの丸山公園には「土肥桜」の原木というのがあって、こちらは数年前に一度だけ撮りに行ったことがある。濃いピンクの花がとても印象的でしたね。

 ソメイヨシノにも寿命がある。加えてソメイヨシノに限って言えば、あれはすべて同一の親の分身、つまりクローンなので、老木になるといっせいに枯死する可能性がある。全国どこのソメイヨシノも同じです。だから、あまりソメイヨシノにばかり肩入れして感傷的になるのはよくないだろう。もともとそこに生えていた自然植生でもなければ、極相林でもないし。それに平安時代まで「桜」と言えば、目にもさやかな若芽とともに花を咲かせるヤマザクラのほう。ワタシもヤマザクラがいっせいに咲いた、「山笑う」光景が大好きときている。

 …… とはいえやはり寂しい気持ちには変わらない。道路が完全に復旧したら、あらたにヤマザクラとかも混ぜて、また桜並木を復活させてほしい。

2021年03月17日

貴重な音源が聴けてうれしかった話2題

1.この前の「古楽の楽しみ」、今谷和徳先生の回で「16 世紀イングランドの音楽」というのをやってました。イングランドの古楽の作曲家でジョン・タヴァーナーやトマス・タリスなんかはわりと知られているほうだから、ときおり聴いたことがあるぞという向きも多いかと思いますが、クリストファー・タイだの「イートン・クワイヤブック」に収められた楽曲だのはかなりの通好みと言うか、よほどイングランドの教会音楽、もっと言えばアングリカン(イングランド国教会)の音楽に親しんでいるような人でないと名前も知らないでしょう。そんな古い作品もけっこうかけてくれたから、こちらとしてはいとをかし。ヘンリー8世作曲の声楽曲なんてのもめったに聴けない珍品だから、この手の音楽が好きな人にとっては文字どおり朝から耳のごちそうだったんじゃないでしょうかね。

 そんなアングリカンの作曲家として初日にかかったのが、ウィリアム・コーニッシュという人の宗教声楽曲。じつはこれふたりいて、おなじ名前の親子(父子)なんです。なにぶん古い時代の人なので、史料でさえ父親のほうなのか息子のほうなのかワカラン場合も多々あるようです。「イートン・クワイヤブック」に収録されているのは同名の父の作品らしいけれども、やはりよくわからない。

 今谷先生が紹介されたように、コーニッシュ父子はチューダー朝時代にチャペル・ロイヤルと呼ばれる王室専属の少年聖歌隊長や、ウェストミンスター・アビイ聖母礼拝堂付き少年聖歌隊長を務めていた人だと言われてます。だいぶ前にここでも内容を紹介した手許の本をこれまたひさしぶりに開いて確認すると、「カイウス・クワイヤブック」に収録されている「第8旋法によるマニフィカト」は伝「父」コーニッシュの作品のようで、「グロリア」の終結部(アングリカンで歌われる英語のアンセムでは "... As it was in the beginning, and now, and ever shall be." に当たる箇所)は「テノールとバスの二重唱がひとしきり続いて開始され、複雑さを増しつつソプラノへと上行する」、言い換えれば「天界へと上昇して、天の栄光を賛美する」ように作られているとか。

 「息子」の手がけた世俗歌曲のほうもいくつか現存していて、わりと知られているのが初日にもかかった「ああ、ロビン、やさしいロビン」でしょうか。でも「おーい、陽気なラッターキン」とか「角笛を吹け、狩人よ」とかは寡聞にして知らなかったからなんか得した気分。タイトルどおり肩の凝らない、楽しい歌です。

2.聴けてうれしい貴重、いや希少な音源ということでは、日曜に聴いたこちらの番組も負けてない。なんと、あのヴィルヘルム・ケンプがオルガンを独奏しているのですぞ! それもなんと !! カトリック広島司教区の世界平和記念聖堂に完成したてのオルガンこけら落としリサイタルのライヴ録音(1954) !!! もうたまらんですわ。というか、在庫あるじゃん! No Music, No Life! なワタシではあるが、ここんとこ Aqours の CD しか買ってなかったから、コレはさっそく買わなくては。

 演奏を聴いた印象ですが、バッハの超有名な受難のコラールを使った小品「わが心の切なる願い BWV 727」の場合、コラールの各節の出だしで鍵盤交替してストップ間の音色の対比を際立たせているように感じた(ちなみにこのオルガンコラールは「受難の調」と言われるロ短調で書かれていて、番組後半でも流れたが、ケンプみずからピアノ独奏用に編曲もしている)。こういう演奏ははっきりいって古臭くて、ケンプのバッハ演奏が 19 世紀ロマン派のスタイルをしっかり踏襲していることがわかる。それでもなんと言いますか、えも言えぬ感情が深いところから湧き上がってくるのを抑えることができない。テンポばかりがやったら快速で薄っぺらい印象さえ受ける 21 世紀の演奏スタイルとは格が違うぞ、ということなのか。ヴァルヒャの演奏にも言えるけれども、ケンプもまた精神性のきわめて高い、心にストレートに刺さってくるバッハ演奏であり、バッハの音楽を「演奏(≒翻訳)」ではなく、まんまバッハの音楽がそのままドン! と突きつけられる感じがする。こういう感覚もまた、ひさしぶりに味わいましたね。

 ケンプは最晩年、認知症とパーキンソン病を患っていたようで、95 歳で大往生を遂げるまで演奏活動から何年も遠ざかってそれっきりだった。でも当時高校生だった不肖ワタシも、回想録『鳴り響く星のもとに──ヴィルヘルム・ケンプ青春回想録』という本には深い感銘を受けたものです(ちなみに「鳴り響く星」というのは、ストップを引き出すとくるくる回りだしてかわいらしい金属音を響かせる「ツィンベルシュテルン[英語読みでは「シンバルスター」]」のこと。文字どおりオルガンのプロスペクトを飾る「星」のかたちをしている)。

 そういえばケンプも、尊敬するオルガン奏者のヘルムート・ヴァルヒャも、逝去した年がまったくおなじ 1991 年だから、おふたりとも今年で没後満 30 年になる …… 早いものだ。なんかあっという間の 30 年だったな……などとついみずからの来し方を振り返ってしまう、今日このごろ。COVID-19 パンデミックにあえぐ人間世界を俯瞰して、両巨匠はなにを思うぞ。

posted by Curragh at 00:25| Comment(0) | TrackBack(0) | NHK-FM