2016年01月24日

『トゥヌクダルスの幻視』( Navigatio chs. 17, 24, 25, 28 )

 大晦日から正月にかけて、この時期恒例の(?)「積ん」読書に励んでいたわけですが、その中にこちらの文庫本もありました。こちらもまた広い意味で中世ケルト修道院文学の範疇に入るんですど、よりによって「地獄めぐり」なお話。この前バッハのクリスマスコラール「天よりくだって」にもとづくカノン風変奏曲の記事書いたばっかでいきなり地獄めぐりとは、という気もしないではないが、本日は 12 世紀、アイルランド南部マンスターの首都カシェル生まれの若き騎士トゥンダル[ 日本語版表記は独語読みの「トゥヌクダルス」]が体験した地獄めぐり体験と、ラテン語版『聖ブレンダンの航海』とをからめて、「番外編」として思いついたこととかちょっとだけ書いてみます( なお、上記日本語版はもっと有名な同時代のもうひとつの地獄めぐり譚の『聖パトリックの煉獄』のみの表題になってます。営業的配慮? 「地獄めぐり」ついでに伊豆半島船原地区には、こういうテーマパークもあります … かれこれ半世紀くらい店開きしていて、ワタシも数えきれないほどここの前を通過はしてるけど、これまで一度も入ったことなし )。

 『トゥンダル[ トゥヌクダルス ]の幻視』* は、この手のものとしては珍しく著者名がわかっていて、かつ成立年代もわかってます。書いたのは「修道士」マルクスという人で、1148 / 9 年に書かれたと言われてます。マルクスはベネディクト会系修道士で、当時、大陸で盛んになってきたシトー会修道士による「霊性刷新運動」の母国アイルランドへの普及に多大な貢献のあった偉大な先輩司教4名も引き合いに出して、「レーゲンスブルクの聖パウロ女子修道院長」ギゼラ Gisela のために書かれ、献呈したと「序文」で自ら明かしています[ 当時のレーゲンスブルクはアイルランド系修道士の活躍の中心地だった、という点にも注目のこと ]。筋立てはひと言で言えばダンテの『神曲』で描かれる「地獄篇 / 煉獄篇 / 天国篇」の前触れというか、先駆けみたいな内容で、放蕩三昧の若き騎士トゥンダルがある日、馬3頭の貸しのある友人の家に呼ばれて食卓についたとき、いきなり卒倒してそのまま死んだようになり、三日三晩、「信じ難く、耐え難い、数多の種類の拷問」を経験した。その後トゥンダルは改心し、それを見てとった導き役の天使は彼の魂の向きを転じ、こんどは上方、つまり光明の世界へと案内して彼に見せた。どんどん昇って「第九の栄光の場」と呼ばれる最高天を囲む壁から中を覗き見たあと、トゥンダルの魂はふたたびもとの肉体へと帰還し、「後日、… 見たことすべてを吾等に口述し、善き生活を送るように警告するとともに、かつては知ることのなかった神の御言葉を、大いなる敬虔さと謙虚さと学識をもって」説いた。

 細かいことは日本語版訳者の千葉先生による「訳者解説」、そして詳細な註釈にお任せするとして、この「地獄めぐり譚」、ラテン語版『航海』との関連もなくはなかったりします( もちろん成立に際して直接的な関連はなにもありませんが )。たとえば a. 「炎と煙から成る、悪臭を放つ柱が聳え、天空高く達していた。… 夥しい数の魂と悪霊がいて、火炎とともに噴き上がる火の粉のごとく、昇っては煙のように霧消して、こんどは悪霊もろとも竈の底まで落ちていった( p. 67 )」、b. 「第一の栄光の場」の「そこに夜はなく、太陽が沈むこともなく( p. 79 )」という描写、そして c. 「第四の栄光の場」にいるトゥンダルの主君コルマクス[ 非業の死を遂げた実在のマンスター王コルマック・マク・カルシー Crmac Mac Carthaigh、在位 1124 − 38 ]が「毎日、3時間にわたって拷問を受け、残りの 21 時間は休む( p. 85 )」という箇所が、個人的に目に留まりました。

 a. のような記述を見ると、ついこちとらとしては、「遠くから島を振り返ると、山を覆っていた煙は消えて、火炎が空高く噴き上がったかと思うと、また呑みこみ、山全体から海まで、燃えさかる積み薪のように見えた[ '... ita ut totus mons usque in mare unus rogus apparuisset.' ]」という『航海』 24 章「炎の山」の描写を思い出す。ひょっとしたら作者マルクスはディクイルとかの記述を読んでいたのかもしれないが、こちらの出典はふつうにギリシャ / ローマ古典作品の「黄泉下り」もの、オルフェウスとかアエネーアスとかなのだろう … そしてこれは蛇足ですが、ダンテ作品に出てくる inferno というのは基本的に「火炎地獄」。霊魂を「焼く」ことに主眼が置かれてます[ 中世起源の「煉獄」という概念もまた霊魂を焼いて浄化する場ですね ]。hell と聞いて、向こうの人がまず思い浮かべるイメージが ―― 氷責め地獄、水責め地獄という御仁もいるかもしれないが ―― たいていが火炎地獄のはずです。

 b. は、ほぼおんなじことが『航海』の「聖人たちの約束の地[ ch. 28 ]」に書かれてます ――「約束の地」でブレンダンご一行を出迎えた「若い人」が、ブレンダン院長に向かって「見てのとおり、島は果実で豊かに熟しているが、島はとこしえに変わることなく、夜の闇が落ちることもない。その光はキリストから発しているからだ[ '... Sicut modo apparet uobis matura frustibus, ita omni tempore permanet sine ulla umbra noctis. Lux enim illius est Christus.' 下線部は字義通り英訳すれば '... without any shadow of night' 、umbra は「傘 umbrella 」からもイメージできるように原義は「影」で、noctis は「ノクターン」、つまり夜。このていどのラテン語フレーズならワタシのような門外漢でもほぼ類推可能 ]」と告げるのです。で、なるほどそうか、といまさらながら気づかされたのはこの箇所の訳註でして、「ヨハネの黙示録」の大団円直前の 21:25 からだという。!!! と思ってさっそく目の前の棚から『新共同訳』版をあわてて引っ張りだして確認すると、あらら、直前の箇所にはしっかり N.S.B.A. chps 1, 28 なんて書きこみしてあるのに、なぜかここは素通りしていた( 苦笑 )。目こぼしってやつですな。でもあれ待てよ、とセルマーの『航海』校訂本( 1959 )をこれ書くために久しぶりに繰ってみたら、註釈ページにもなんも書いてないじゃない orz ちなみに『新共同訳』では、「 … 都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである」。「聖人たちの約束の地」はほかにも「黙示録」からの引用もしくは出典とおぼしき箇所が散見されるから、まちがいなくここもそうでしょうね。

 c. について。いわゆる「時限懲罰」というやつですが、まったくおんなじような懲罰方法がラテン語版『航海』25 章にも出てきます。ブレンダン一行の乗った革舟が南へ向かって7日間航海していると、巌の上に「毛むくじゃらのみすぼらしい男」が座していた。男の目の前には「くまで」型の鉄の器具に大きな布が吊るされ、それが強風を受けて男の顔をバタバタはたいている。あんた、だれ? とブレンダン院長が訊くと、「自分はもっとも不幸な男、もっとも卑しい売人のユダ」であり、いまは主キリストの慈悲によって地獄の責め苦から解放され、主日の「夕べから[ つぎの日の ]夕べまでの休息」を与えられているのだ、と話す。

 この箇所、じつはユダの「3つの善行」に関する民間伝承( 癩病者に布を与えたこと、神殿に釜を吊るす鉄の器具を差しあげたこと、往来の「穴」をいま自分が座している岩でふさいだこと )が入りこんでいて、個人的にこの挿話の出処がよくわかってない。以前ここでもよく取り上げた『ユダの福音書』関連本もずいぶん漁ったけれども、ついぞ答えらしいものにはお目にかかれずじまい。セルマー校訂本の 25 章に関する註釈では、「地獄に堕ちた霊魂に週末の間、休息を与えるというモティーフはひじょうに古く、早くも 4世紀にはキリスト教文学に入ってきた」とあります( pp. 90 −1)。で、おなじ註釈でなんと『トゥンダルの幻視』のまさしくこの箇所が引用されて、そういうとりなし役を果たす聖人の役割についての関連論文なんかを紹介してます。

 他にもたとえば「 … そしていかなる喜びにも勝るのが、天使のパンであり、… (p. 98 )」という箇所の訳註には「詩篇、78 …『猛き者たち[ 七十人訳では「使者たち」]のパンを人が食べ、かれは食料を彼らに送った、満ち足りるまで』」とあり、ひょっとしたら 17 章「三組の聖歌隊の島」の聖歌隊員が「スカルタ scaltas / scaltis 」なる果汁たっぷりの赤い玉のような果実をかごいっぱいに持ってきて、「強き男たちの島[ insule virorum fortium ]」の果実を受け取り、われらの兄弟[ = 遅れてきた3人のうちのひとり ]を島に残してくれ、とブレンダン院長に告げる場面と関係があるのかな、と … 。『神学大全』のトマス・アクィナス作とされる「天使のパン」って、究極的にはこの詩篇歌が出典なのかな。なお「スカルタ」については驚いたことに、『航海』日本語訳者の太古先生の注によると、Hisperica Famina にも 'porporeas scaltas / roseis scaltis' と登場するんだそうです。で、セルマー校訂本の註釈にも Hisperica Famina でのこの語の用法および推定される語源については Paul Grosjean の論考を見よ、ということは書いてあった[ → Hisperica Famina についてはこちらの拙記事 ]。

 またこれはラテン語版『航海』とは関係ないが、「 … その橋板にはとても鋭い鉄釘が仕込まれているため、橋を渡ろうとする者の足にその釘が刺さり、誰の足でも橋に足を置けば無傷で降りることはできなかった( pp. 44 −5)」という箇所は、キャンベル本にも出てくる「アーサー王もの」のひとつ、『ランスロ、または荷車の騎士』に出てくる「剣の橋」の挿話によく似ています。ケルトもの中世仏文学に詳しい田中仁彦先生の関連著書なんか読みますと、この手の「他界[=異界 ]の深奥部を取り巻く急流と橋というテーマ」がケルトの異界物語にはおなじみのものであるとし、その例としてこのランスロの渡った「剣の橋」と、『聖パトリックの煉獄』で騎士オウェインが渡ったとされる「結界」にかかる橋、そして『トゥンダルの幻視』に出てくるこの「鉄釘の突き出した橋」が引き合いに出されてたりします。

 あと音楽好きとしては「樹の葉には様々な色の、様々な声をした鳥がたくさんとまって、歌とディスカントを歌っていた( p. 94 )」というくだり。ここは中世ポリフォニーの「ディスカントゥス」のことだろうと思います。即興的に上声部をつけて、ボーイソプラノみたいに歌ったんじゃないかな。ちなみにここの「鳥のたくさんとまってる樹」は、そのすぐあとで案内役の「美しい若者」の姿をした天使曰く、「この樹は聖なる教会の象徴であり、この樹の下にいるのは聖なる教会の創設者ならびに守護者たちである」 … なんですが、イメージ的には鳥の大群、樹、とくると、どうしても「鳥の楽園」の描写を思い出す。キャンベルの言う「世界樹」というやつかもしれない、根源的には。

 『トゥンダルの幻視』と『聖パトリックの煉獄』は、ともに成立年代もひじょうに近くて、とても似た構造の地獄、煉獄、そして極楽めぐり譚であり、訳者先生によると底には 1882 年にヴァーグナーという学者が校訂したテクストを使用し、適宜「英訳」も参照したとあります。で、英訳書名を見ますと、おやなんかこれどっかで見たような … と思って手許のセルマー本裏カバーの「そで」を見たら、なんとダブリンの Four Courts Press から出ていたジャン−ミシェル・ピカール、デ・ポンファルシ共著の校訂本( The Vision of Tnugdal, 1989 )だった。出版業界ってここのところあんまり景気のいい話は ―― ピケティ本はのぞいて ―― 聞かないし、この手の「売れない本」をこうして日本語で読めるかたちで刊行してくれた版元にはほんと感謝したい、と素直に思います … そしてもちろん、「この苦難多き訳業」を成し遂げた千葉先生にも、中世アイルランド修道院文学好きな日本人読者として、心からの賛辞と、心からの感謝を表したいと思います( さらに千葉先生によると、『トゥンダルの幻視』のラテン語原典の冒頭部分は「大学院演習で、一学期間、購読テクストとして」使ったんだそうです … こういう中世ヒベルノ・ラテン語で書かれた物語に直接触れて、ああでもない、こうでもないと議論する姿を想像するとこっちまでワクワクしてくる。こういうゼミに出席できた学生さんたちは幸せだと思う )。

* ... 訳者の千葉先生によればラテン語表記では Tnugdalus だが、Tundale という表記もあり、こちらは「あくまで後代の転訛」とする説があるとし、作者マルクスが使用していたのはトゥヌスガル Tnuthgal / Tnudgal だったろうと想定している。

評価 … るんるんるんるんるんるんるんるん

2016年01月09日

フランス古典期のクリスマス音楽

1). 先週の「古楽の楽しみ」は、「フランス各地のクリスマスとお正月の音楽」と題して、オルガン好きにとってもおなじみ(?)なルイ−クロード・ダカンの「プロヴァンスのノエル」やジャン−フランソワ・ダンドリューの「幼子が生まれた」、クロード・バルバートル( → 以前書いた関連拙記事、ついでにテュイルリー宮殿にもオルガンがあったそうで、バルバートルはそこの楽器も演奏していたそうです )の「偉大な神よ、あなたの慈しみは」などがかかりました! といっても当方にとってこの時代のフランス宮廷の音楽というのはまるで疎いので、カルヴィエールという人の「オルガン小品」とかル・ベーグという人の「オルガン曲集 第3巻から マリアの愛のためのノエル」とかいう作品ははじめて知った。

 今回、気になったのは録音で使用された楽器でして、たとえばカンプラの「クリスマスミサ曲」から「キリエ」、「アニュス・デイ」などで使用されたのはヴェルサイユ宮殿王室礼拝堂にあるクリコ製作の歴史的名器、かたやカルヴィエール作品は現代フランスの名手、オリヴィエ・ラトリーによるパリ・ノートルダム大聖堂のカヴァイエ−コル製作のいわゆる「ロマンティックオルガン」と呼ばれる大型楽器でした … で、今回はちょっと対比が際立っていたとは思うが、やっぱりこの時代の音楽の演奏には同時代に建造されたオルガンでなくちゃだめだなあ、ということ。これがおなじオルガンという楽器のために書かれた作品かと思うくらい、音響というか、音の鳴り方がまるで別物だったのでした。ラトリーさんがどうしてカルヴィエール作品の演奏に「ロマンティックオルガン」を選んだのか、についてはおそらくそこでかつてこの作品が演奏されたからだろうと思う。案内役の関根先生によると、バルバートルについては笑える逸話も残っていて、なんでもクリスマス時期、ここのオルガンを使ってリサイタルを開いたら大、大、大盛況でして、会堂から聴衆がわんさとあふれてしまって大混乱、ついに教会当局[ つまりはパリ管区を統括するここの司教さんだろう ]から「おまえさんはもうここでオルガン独奏会を開いちゃイカン !! 」とつまみ出されたんだとか。むむむ立ち見も出るくらいのオルガンリサイタルってこれいかに … とつい思うんですけど、譬えはヘンだが彼のオルガン演奏会ってフランス古典期版 X JAPAN みたいなものだったんかな[ ↓ は、ヴェルサイユの王室礼拝堂クリコオルガンによるバルバートルの協奏曲作品から ] ??? 



 話もどりまして … ようするにかつてバルバートルやカルヴィエールがかつて弾いた場所、ということでここの楽器を選んだのかもしれない。でも、直前に聴いたヴェルサイユの歴史的楽器のえも言えぬ精妙なる響き、空間を優しくすっぽり包み込むかのような人間味あふれるあの美しい調べ、とまるで真反対な、ぎすぎすして耳を鋭く突き刺すような 19 世紀フランスオルガン特有のケバケバしさがやたらと目に、いや耳についた。そっちが品のない原色でベタヘダ塗りたくった系なら、ヴェルサイユの楽器の音は繊細な中間色系とでも言おうか。少なくともここにいる門外漢のいいかげんな耳にはそんなふうに聴こえてしまったのでありました。もっともカヴァイエ−コル製作の楽器( フォーレとサン−サーンスゆかりのマドレーヌ寺院や聖トゥスターシュ教会、シャイヨー宮のオルガンなんかもそう )の「音」が悪い、と言ってるんじゃありません。ただこの楽器はたとえばヴィドールの「オルガン交響曲」なら、すばらしい効果を上げたと思う。ちなみに 19 世紀のこれら「ロマンティックオルガン」、あるいは「シンフォニックオルガン」と呼ばれる大型楽器のパイプ列に送られる「風圧」はけっこう高くて、バッハ時代のドイツの楽器からでは想像もつかないほどの高圧だった[ だからわんわんうるさかったりする ]。高圧のため鍵盤も重くなり、重くなった鍵盤を「軽く」するための空気圧(!)レバー[ バーカーレバー ]まで用意された楽器も少なくなかった。もっともそんな楽器では伝統的な「てこ」の原理で動作する「トラッカーアクション」のような機敏な反応は期待できず、当時のオルガニストは目先の利便さと引き換えにこんどは楽器の反応の鈍感さに耐えるはめになった。

 もうひとつ個人的にうれしい発見だったのは、カトリック系ではいまなお教会オルガニストの重要な役目である「即興演奏」が聴けたこと。それがさっき書いたカンプラの「クリスマスミサ曲」からの抜粋なんですが、当時の即興演奏のようすがありありと目に浮かぶようで、ほんとにすばらしかった。声楽で歌われるパートの合間に、ああいうふうに合いの手ならぬ即興演奏が入ってたんですな[ いまでもたとえば聖イグナチオ教会とかで、ミサにおける「聖体拝領」のときにオルガニストは信徒の背後で即興演奏をしているはず ]。「チャルメラ」にも似たどこか懐かしいような独特な響きのリード管が朗々と歌ってました。イタリアバロックの巨匠フレスコバルディのいくつかの「トッカータ」も、自身の華麗なる即興演奏の記録みたいな感じで後世に残された作品群だと思う。

 この番組は磯山先生のドイツもの、今谷先生のイタリアもの、大塚先生の混在もの( 失礼 )、そして関根先生のフランス古典期ものとわりとカラーがはっきりしてますが、ワタシはどうもバッハびいきのためなのか、この時期のフランスバロック音楽にはたいして興味が湧かなかった。いちばんの理由は、「貴族趣味」な点、ということになるだろうが … いずれパンも食えない庶民の怒りが爆発してあのような革命とその後動乱の時代がつづくことを考えると( その動乱期をバルバートルはなんとか生き延びた )あのキラキラしたクラヴサンのこの世離れした響きとか、外の人間にはまるで解せないバレ・ド・クールの華麗な世界とか … それでもだいぶ前にルイ 14 世時代の音楽とかオルレアン公フィリップ[ フィリップ・ドルレアン ]とかの話を聞くと、「朕は国家なり」も朝から夜寝るまでやれ起床ラッパだやれ着替えだ狩りだ食事だ執務だバレエだダンスだ晩餐だ、と年がら年中ほぼ「衆人環視」状態でフランス国王やってたんだからこれはこれでタイヘンだなあ、とかため息ついてたり。「絶対王政」って言うけれど、王侯貴族もいざその当人になったらこりゃタイヘンですよ、もう。一日のスケジュールを耳にしただけで、カンベンしてくれって感じでしたから。結婚たって愛もなにもない政略結婚がフツーの時代でしたしね。そういう時代背景をすこしでも知ることができたのは、この番組のお陰でございます。そうそう「サックバット」というのも、ちょうどこの時代の金管楽器でしたね。

2). それはそうと … フランスつながりでは悲しい知らせも入ってきました … 現代音楽の巨匠、ピエール・ブーレーズ氏逝去、享年 90 歳。作曲家としてももちろん高名でしたが、近年は指揮者としてその名を知る人も多かったと思う。合掌。

 そして … あの古楽の巨匠、ニコラウス・アーノンクール氏が昨年暮れになっていきなり現役引退を発表したこともちょっと衝撃的だった。まだまだお元気そうに見えたが … やはりそうとうこたえていたのかもしれません。盟友レオンハルトとともに取り組んだ「教会カンタータ全集」録音の偉業、忘れません。

posted by Curragh at 22:37| Comment(0) | TrackBack(0) | NHK-FM

2016年01月03日

カノン風変奏曲「天よりくだって BWV. 769 」

 元日恒例のウィーンフィル( くどいけど、「ヴィーン」のほうが現地語発音により近い )による「ニューイヤーコンサート Das Neujahrskonzert 」。いつものようにコタツで「積んどいた」本を、あるいはブレンダン本をあっちに広げこっちに広げして BGM みたいにして視聴していたら、プログラム後半に入ってほどなくして ウィーン少年合唱団[ WSK ]のめんめんが登場したのであわてて DVD レコーダーをセット( 笑 )。WSK は過去も何度かこの新春を祝ぐコンサートに出演していますが、今回は指揮者マリス・ヤンソンスたっての希望によるものとか。これは心憎い演出でした。華やかさに加え、子どもたちの澄み切った歌声がホールいっぱいに響いて、なんだか得した気分( また後日、「ビバ! 合唱」でも今年最初の放送回で WSK が取り上げられてましたね )。

 ところで … ローマカトリック / プロテスタント問わずに( と思うが )クリスマスタイド[ 古い英語の言い方では yuletide というのもある ]というのはほんらいは今月6日のエピファニー前までの 12 日間(「クリスマスの 12 日」という歌もある )でして、ようするに西洋版「お正月」ととらえちゃってかまわないんですけれども、東方教会系ではそのつぎの7日がクリスマス、という地域もあったりします。ようは使っている暦が「ユリウス暦」か「グレゴリオ暦」か、ということなんですが、ことはそう単純ではなかったりする。移動祝日の「復活祭」、イースターだって、関連拙記事にもあるように古代から論争があった。

 邦訳では「顕現日」とか「主の公現」とか言われている6日なんですが、このクリスマスタイド期間中、Organlive.com なんかはそれこそ 24 時間ずっとクリスマス関連のオルガン音楽がかかりっぱなしでして、当然、セントポールとかイーリーとかダラムとかアングリカン系大聖堂聖歌隊ものもよくかかったりします。テュークスベリーの子どもたちのクリスマスアルバムなんかもかかったんで、これにはちょっとびっくりした。で、手許のクリスマス音楽関連 CD 、それこそビリー・ギルマンからニューカレッジ、レオンハルトにテルツとごたまぜ状態でこっちもヒマなときにせっせと聴いてたんですが、ある曲も Organlive のストリーミングでときおりかかっていたのを耳にして、ああそうか、こういうのもあったな … とにわかに思い出したので本日はそれをサカナに書いてみます( 長過ぎる前口上失礼 )。

 その楽曲とは、バッハ作曲「クリスマスコラール『天よりくだって[ 高き御空よりわれは来たりぬ ]』にもとづくカノン風変奏曲 BWV. 769 」。いまさっき Naxos のライブラリーで適当にひろって聴いていたんですが、マリー−クレール・アランなど一部の演奏者による音源ではバッハが 1747 年、かつての教え子ミツラーが設立した「音楽学術協会」に 14 番目の会員[ 明らかに意図的な数字 ]として入会する際、入会資格審査のために用意したとされるこの作品のオリジナルにその後みずから手を加えて各変奏の配置を並べ替えた版( BWV. 769a)にもとづいて演奏してます[ 初版印刷に関しては 1746 年説もあり ]。細かく見ていくと、

I. 対位カノン
1. 3声部曲:
第1変奏 ソプラノとバスのオクターヴカノン、定旋律はテノール
第2変奏 ソプラノとアルトの5度のカノン、 定旋律はテノールまたはバス
2. 4声部曲:
第3変奏 バスとテノールの7度のカノン、定旋律はソプラノ、「カンタービレ」と書かれたアルトの自由声部つき
第4変奏 ソプラノと拡大形バスのオクターヴカノン[ 拡大カノン ]、定旋律はテノールで足鍵盤上に現れ、アルトの自由声部つき
II . 定旋律カノン
第5変奏 6、3、2、9度の4つのカノン[ 最初のふたつは3声、残りふたつは4声で定旋律は上下逆さまの転回形で模倣される ]

… と、はっきりいって音楽というよりもはや幾何学、数学の世界のようなとんでもない「変奏曲」なんであります。バッハの青年時代に作曲された一連の「コラールパルティータ」もすばらしいけど、もう最晩年のバッハが到達したこの作品にいたっては、いくら「音楽学術協会」提出用と言ったってもはや人間の演奏能力、もそうだけど、聴き手の耳の能力を凌駕している。そしてこの「カノン風変奏曲」は最晩年の「特殊作品」、つまり「音楽の捧げもの BWV. 1079 」と「フーガの技法 BWV. 1080 」、および「ゴルトベルク BWV. 977 」とおなじ範疇の作品だと言える。その証拠に、バッハが銅版印刷させたという「初版譜」では、最初の3つの変奏ではひとつの声部のみ完全記譜されているだけで、模倣声部ははじめの数音しか印刷されていない( ちなみに自筆譜はいわゆる「17 のコラール」と「6つのトリオソナタ」が記譜されたのとおんなじ楽譜帳[ BB Mus. ms Bach P 271 ]に書かれている)。ヘルマン・ケラーは『バッハのオルガン作品( 原書は 1948 年刊行、日本語版は 1986 年 )』で、「6声部書法によってコラール4行全部が同時に提示される称賛すべき独創的ストレット」と書いてます[ 下線強調は引用者。当時、音楽学者フリードリヒ・スメントがバッハの「再配列した版 BWV. 769a」の順番[ 第1−2−5−3−4変奏の順 ]で校訂譜を出版したことにからめて、もともとの配列つまり「第5変奏」を最後に演奏することの意義を強調してもいる。ついでに終結部ソプラノ声部には B-A-C-H 音型も顔を出している ]。

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 でも! まずは騙されたと思ってリンク先を聴いてみてください。まるで「天使の大群」が上へ下へと乱舞している光景が、くっきりと見えてくるかのような生き生きとした音楽ではありませんか。『故人略伝』に、「わが故バッハ氏は、なるほど音楽の理論的な深い考察をおこなう人ではなかったが、実践の面ではひじょうに長けていた。彼はこの協会に、コラール『天よりくだって』を完全に仕上げて提出した。この作品は、のちに銅版に彫られた … 」とあるのは、バッハという人は実践の人であり、いかに音楽理論的にすぐれた「作品」でも、実際に美しく奏でられるもの、響くものでなければ意味がない、ということを信条にしていたような作曲家だった点を強調してのことだろうと思う。最終変奏で定旋律までカノンに加わってしまうのも、ひょっとしたら「天からくだって」やってきた救世主の「受肉」を象徴している … のかもしれない。いずれにせよ一連のオルガンコラールもの作品としても最高傑作に入ると思われるこの変奏曲、「音楽の捧げもの」や「ゴルトベルク」と同様、リクツなんかわかんなくてもすんなり楽しめますし。もちろんこの「カノン風変奏曲」だってクリスマスメドレーの一部として聴いてもなんら違和感がないところがすごいけれども、個人的には「フーガの技法」同様、「対位法技法の奥義書( ようするに「お勉強」)」みたいな性格がより強いかな、という気がするので、リンク先もあえて「楽譜つき」にしておきます。





posted by Curragh at 01:17| Comment(0) | TrackBack(0) | バッハのオルガン作品

2015年12月31日

「中心は、至るところにある」

 今年もついに大晦日を迎えることができて、まずは感謝、でもいろいろとくたびれることがつづきまして、少々精神的に疲れてもいる。こういうときは … 音楽だ !! というわけで OTTAVA Salone、ゲレンさんの回をただいま聴取中[ 右下コラム、長らく貼っていたチャロのゴガクルバナーに代わりまして、OTTAVA バナーに切り替えました ]。お! そうでした、今年はシベリウスイヤーでもあったが、バッハ生誕 330 年でもあったわけでした( タネーエフという人も今年が没後 100 年だった )。ってワタシはそれこそ年がら年中バッハを聴き、またへたっぴながらちょこっと弾いてみたり、楽譜を繰ってみたり、という生活を送っているので、あんまり実感がない( 苦笑 )。

 今年は気象観測史上、もっとも暑い年だったそうです … 台風の強大化、「半世紀に一度あるかないか」の異常降雨の増加、デング熱など熱帯感染症を運ぶ害虫の北上、そして最大規模と言われるエルニーニョ現象の発生 … ここ何年か、「いつまでも暑い、と思っていたら秋を通り越していつのまにか冬になっていた」、みたいなきょくたんな気候変化が当たり前になりつつある。日本の四季はいったいいずこへいったのか、みたいなことが日常になりつつある。クリスマスどきの異常な暖かさ、寒がりなんでこれはこれでありがたいけれども、気温変動があまりにも激しくて、ほんとうにこれが冬なのか? とむしろ寒気をおぼえる。

 エピキュリアンなワタシがこんなこと書くのは不適格かつ僭越きわまりないとは思うが、年が明けたと思ったらいきなり邦人2名が IS に拉致された、というとんでもない報道が飛びこんできた。IS については以前こちらで書いたとおりですけど、ああいう手合を見ていると、どうしても比較神話学者キャンベルのことばが思い出されてしまう。
… 「神は人間の知性で認識できる領域であり、その領域の中心はあらゆるところにあり、円周[ 境界 ]はどこにもない」… 私たちひとりひとりが ―― それがだれであろうと、どこにいようとかまわないのですが ―― 中心なのであり、その人の内部に、その人が知ろうが知るまいが、「自在な心」が存在しているのです。―― ジョーゼフ・キャンベル著、飛田茂雄ほか訳『生きるよすがとしての神話』、p. 280
 キャンベルという人は少年期、ローマカトリックの教えを受けていたが、欧州留学を経て大恐慌まっただなかの本国に帰国したとき、親類縁者に対して「わたしはカトリックの信仰を捨てます」と「棄教」を宣言したという。これが当時の米国北東岸の社会においてどれだけ衝撃的な事件だったかは、ちょっと想像するのがむつかしいかもしれない。とにかくキャンベル青年は恐れることなく棄教すると言ってのけたわけです。

 最近、あいにくこちらも絶版なんで図書館で借りて読了したキャンベル本『野に雁の飛ぶとき』という 1969 年に刊行された論文集をはじめ、今年もまた( ここには紹介してないが )いろいろ読みましたよ。もちろん気に入った CD や書籍は原則的にぜんぶ買う人なので( あまりにお高いものはさすがにちょっと考えるけれども )たとえば昨年の話だけど村岡花子の復刊されたエッセイ集も買い揃えたし、前にちょこっと言及した『岩城音楽教室』も児玉清さんの遺稿集『すべては今日から』も買ったり、そうかと思えば『ハムレット( いまごろ ?! )』、漱石の『草枕』、鈴木大拙師の『禅』なんかも買った。それとこちらも前に紹介したけれど、鴻巣友季子先生訳『風と共に去りぬ』新訳本も読み、それがきっかけでこっちの本へと脱線し … とはいえだいぶ前に買っておいて「積んどいた」本、ショーペンハウアーの『知性について』とかもいまだまともに読んでないし、キャンベル本にも出てきたハクスリーの『知覚の扉』も読了していない、というわけで年末年始、この時期恒例みたいな感じでまたしても悩ましいことになってしまった。以上、キャンベル本しか読んでないのか、というギモンに先回りして[ in advance ]釈明したしだい。

 話もどりまして、IS やかつてのオウムなどに引き寄せられる人についてはこちら側にいるわれわれも頭ごなしに否定していては、いつまでたっても解決にはつながらないし、今後もこういう過激思想に染まる若い人がつづいてしまうだろうと思う。彼らを操っている不届き者は徹底的に叩くべきとは思うが、では「砂漠の一神教」のどこが問題なのか。その問いに対するひとつのこたえが、↑ で挙げた『 24 賢人の書 Liber XXIV philosophorum 』に出てくるあのことばかと思う。なんでもそうだが、原理主義に凝り固まった人というのは、自分の信条( 信仰 )が絶対的正義、みたいなことを露ほどにも疑わない。疑わないから、他人様にそれを押し売りする。正月どきにやってくるなんとかの証人みたいに( あの人たちはなんでまた『聖書』を売りつけに来るんだろ … 当方だって「新共同訳」くらいは持ってますぞ )。
あなたとあなたの神とは、あなたとあなたの夢がひとつであるのと全く同じく、ひとつです。とはいえ、あなたの神は私の神ではありません。だから私にそれを押しつけないでください。各人がそれぞれ独自の存在と意識とを持っているのですから。( Campbell, op.cit., p. 169 )
 その点、中世初頭のアイルランドでの「改宗」事情は欧州大陸とは大きく異なっていた。アイルランドでは一滴の血を流すことなくわりとすんなりキリスト教化されたのは有名な話、聖パトリックが実在の人物だったかどうかはさておいて。ひさしぶりにケイヒルの『聖者と学僧の島』を読み返してみると、ヒントになりそうな一節がありました。「自分には確固としたアイデンティティなどなく、自分は、現実の残余として流れゆく液体にすぎない存在、もともと本質の欠落した存在なのだという思い[ p. 183 ]」。これだけではわかりにくいのでかいつまんで書くと、キリスト教到来前の古代アイルランド人は氏族間の抗争に明け暮れ、気まぐれで「移ろいやすい」特有の自然の持つ暗さ、恐ろしさを肌で感じながら日々を送るしかなかった。その証拠にアイルランドの古代神話に出てくる英雄も牡牛になったり鷹になったりあるいは海を渡る風になったりと変身しつづける、なんていうモティーフがよく出てくる。でも! もう恐れることはない、「いかにひどく、がまんのできないことであっても、かならずや終わりがくること … 神は謙虚な祈りにこたえて、道に迷いさまよう人たちに神の食物をあたえる」。それまでの「神」は、人間の首を要求した( かつてのケルト人氏族には首狩りの習慣があり、その名残りともいうべき意匠がたとえばシャルトル大聖堂とかにもレリーフとして刻まれている )。ようするに人身御供とひきかえに豊饒など、切なる願いを聞き入れた。それが(「旧約」のアブラハムとイサクの話のように )屠られる対象が人間から子羊へと変わり、そしてついには「神のひとり子」をアダムの子孫たるわれわれの「原罪」を贖うために十字架につけ、救済してくれた … というわけで、キリスト教って日本人にとっては「三位一体ってなんぞや」みたいな難解なイメージがつきまとい、悲しいことにそうした無知につけこむ連中もいるわけなんですが、当時のアイルランドに生きる人々にとっては文字どおり漆黒の雲間からさっと差しこむ強烈な「光明」のごとく見えたのは想像に難くない。ようするに「砂漠の一神教」の教えは自然の移ろいやすさから切り離されている安心感、そしてこういう論理の明快さ、わかりやすさが決め手になったんじゃないかって思わざるをえない。この「わかりやすさ」があったからこそ使徒パウロの伝道が功を奏し、結果的にそれまでの「地中海世界の多神教」は廃れてしまったんじゃないかって思うのです。当時の人々にとってはまさしくそれまでの価値観と時代、世界観の崩壊、「この世の終わり」を象徴する出来事だったんではないかと … もっともその変化はいっきに来たわけではなく、「気がついたらそうなっていた」のかもしれませんが。

 と、ここまでつらつら愚考していると、またしてもキャンベル本に出てくる引用箇所が思い出される。それは以前ここでも紹介したヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ作『パルツィヴァール』[ 加倉井粛之、伊藤泰治ほか共訳『パルチヴァール』郁文堂出版、1974 ]。この聖杯探求をめぐる壮大な冒険物語の結尾に、にわかに信じられないことが書いてあります。前にも引用した箇所だが、もう一度繰り返しておきます[ 下線強調は引用者 ]。
 そのとき聖杯に文字が読まれた。神により他の国々のあるじと定められた聖杯の騎士は、他人に自分の名前や素性を尋ねさせないことを条件に、その国の人々の権利の実現に力を貸してやるようにと、記されてあった( p. 427 )。
これスゴイことですよ、だって『大憲章 Magna Carta Libertatum 』発効の 5 年前にすでにドイツ人詩人にして騎士の著者がはっきり書き残しているんだもの。こういうこともみんなキャンベル先生に教えてもらった( → 関連拙記事 )。
… 新しい神話は、ある特定の「民族」のちょうちん持ちをするために書かれたものではなく、人々を目覚めさせる神話です。人間はただ( この美しい地球上で )領地を争っているエゴどもではなく、みんなが等しく「自在な心」の中心なのだと気づかせる神話です。そのような自覚に目覚めるとき、各人はそれぞれ独自のやり方で万人や万物と一体となり、すべての境界は消失するでしょう( ibid., p. 281 )。
 … と、『フィネガンズ・ウェイク』よろしくここまで「忍耐強く[ cf.「さあて、忍耐だ。忘れてはならん、忍耐こそは偉大なるもの ( 柳瀬尚紀訳、I 巻 p. 209 )」 ]」読んでくださって妄評多謝であります。m( _ _ )m 今年最後は … やはり大バッハに登場してもらいましょうか。今年、何度となく、胸中に響いていた旋律と歌詞です。
Dona nobis pacem.
われらに平安を与えたまえ



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2015年12月27日

小さな名歌手たちの思ひ出

 この時期が巡ってくると、いろいろと脳裡に去来する思いあり。といっても、この国の行く末は、とか、そんなスケールの大きなことではもちろんなくて、徹頭徹尾 Epicurean で天邪鬼なワタシのアタマにやってくるのは、この時期の定番とも言ってよい、世界各国各地域から来日してその美しい歌声を届けてくれる「小さな音楽親善大使」たちのことです。

 もうここでも折にふれて書いてきたことなのでいちいち繰り返さないが、ワタシはもともとバロック、とりわけバッハの鍵盤作品、それもオルガン独奏作品を偏愛している人なので、モーツァルト以後の作曲家の作品とか、器楽以外の楽曲には耳もくれなかった、というのは大げさながら、ようするに聴いてこなかったし興味関心もたいしてなかった。それがあるとき、清冽な湧き水に癒やされる如くに子どもたちの歌声、とりわけボーイソプラノの歌声に魅了されるようになった。

 そこから先はいわば泥沼( 苦笑 )にはまり、お足もないくせしてせっせと少年合唱ものやボーイソプラノのソリストくんたちをフィーチャーしたアルバムなどを買いあさり、あるいはヒマさえあればわりとマメに来日公演にも足を運んだりした。そんな「音楽親善大使たち」の実演にはじめて接したのは 1993 年のこの時期、通称「パリ木」の名で知られる「木の十字架少年合唱団」来日公演を近隣市の文化センターに聴きに行った時だった。このときの衝撃はいまだに忘れがたいものがある。パレストリーナの「オー・メモリアーレ」、モーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」、トレネの「美し国フランス」、ラモーの「夜」、グリーグの「ソルヴェイグの歌」… いまではおなじみの感ありな楽曲なんですけど、恥ずかしながらこれらの作品をこのときはじめて知ったのであった。当時、「パリ木」のソロを歌っていたレジスくんとかマチューくんは、その後ボーイソプラノの独唱者の声質を判断するうえである意味個人的基準になったのでありました( ちなみに当時の公演パンフを繰ってみると、マチューくんの好きな音楽家はあのフレディ・マーキュリーのいた「クイーン」だった )。ただあいにく最近の「パリ木」は隣国での公演が多くて、あんまり来なくなった。直近で最後の公演のことはこちらで。

 「パリ木」の子たちの声質は、個人的にとても気に入っているけれども、その後聴きに行ったウィーン少年合唱団[ WSK ]や英国のアングリカン系大聖堂聖歌隊、ドイツの名門レーゲンスブルクにヴィントスバッハ、そしてドレスデン聖十字架合唱団、チェコの「ボニ・プエリ」、ロシアの「モスクワアカデミー合唱団」、ラトヴィアの「リガ大聖堂少年聖歌隊」… といろいろ聴いてあるていど耳が肥えてくると、それぞれのお国柄というか、個性のちがいが感じられるようになってきてこれまた得難い経験だった。日本人にはもうすっかり年中行事と化しているような WSK 来日公演については、はじめて聴きに行ったのが自分の地元で開催された演奏会でして、ハンスという名前の団員がすごい人気だった[ もちろん見た目だけでなく、実力もありましたが ]。当時の公演パンフを見ると「将来の夢」みたいな質問に対し、「ピアニスト」と答えていたけど、この前たまたまさる SNS サイトでひさしぶりにお名前を見かけたら、しっかり夢を実現されてまして、ご同慶の至りであります。

 話もどりまして、数ある来日公演のなかでもひときわ印象に残っているのが ―― 作曲者本人はむしろイヤだったかもしれないが ―― 映画「プラトーン」でも使用された、かのバーバーの「弦楽のためのアダージョ」を作曲者自ら声楽版に編曲したヴァージョンをやはり英国の名門、オックスフォード大学ニューカレッジ聖歌隊来日公演( 2001、2003 )で接したことだった。あの全声部が上行するクライマックス、ほんとうに鳥肌が立つというか、ぶるぶると全身が震えたのはあとにも先にもそのときだけだったように思う。

 それに次ぐ経験となると、一世を風靡した( のかな? )某レコード会社のプロデューサーが結成させたという Boys Air Choir [ BAC ]だった。こちらはセントポール、イーリー、ウィンチェスターカレッジなど、イングランドを代表する伝統ある有名どころのコリスターと呼ばれる少年聖歌隊員の選りすぐりからなる、「聖歌隊のドリームチーム」みたいなヴォーカルユニットだった。こちらも 1999 年8月末、東京芸術劇場にて開かれた最初の来日公演から、2004 年 12 月の最後の来日公演まで実演に接してきた。最初の公演のとき、客席からのなかなかやまない咳き込みに動揺( ?! )したのか、スタンフォードの「ブルーバード」のソロを歌っていたエドワード・バロウズくんの音程がやや怪しくなったときなんかは、こっちまで手に汗握るような思いをしたものだったけど … そのあとだったか、渋谷のもと HMV 店舗内にてその BAC のめんめんが残していったサイン色紙がありまして、'Many many thanks to HMV Shibuya ! ' とのエドの達筆を拝見したのであった。その後の BAC ソリストくんたちも、「列伝」が書けそうなくらいの銘酒、ではなく名手ぞろいでして、「紅白」じゃないけど大トリを務めたハリー・セヴァーくんの歌いっぷりはもうみごとと言うしかなかった。このときおそらく前例がないであろう、フォーレの「レクイエム」全声部を少年合唱で通すという離れ業をやってのけたんですが、一般の合唱ものに耳の肥えた聴き手が鑑賞しても、名演だったんじゃないでしょうか。BAC ではいまひとつ 2000 年 12 月の焼津公演が忘れられない。アンドリュー・ジョンソンくんの歌うメンデルスゾーンの名曲「鳩のように飛べたなら」、あれは感動的だった。

 あと英国ものではオックスフォード・クライストチャーチ大聖堂聖歌隊 & ケンブリッジ大学セントジョンズカレッジ聖歌隊のジョイントコンサート( !!! )という、本国でもめったに聴けないようなまさしく夢のコラボレーションが一度だけあった( 1998年 12 月 )。あれはすごかったなあ。鳴り止まない拍手喝采にそれぞれの音楽監督氏が何度も舞台に呼び戻されたものでしたが、最後は疲れたのか( ?! )、扉をバタン !!! と閉めて帰ってしまった、たたた。2006、2010 年にはイートンカレッジ聖歌隊公演にも行きました。

 それとそうそう、英国ものでは Libera も聴きに行った … それもどういうわけか( て )、BAC 最後の公演のとき渡されたチラシ( !! )に来年春、Libera 初来日公演決定! とあり、先行予約手続きまでしっかり書いてあったのにはあまりのビジネスライクさに閉口した( 苦笑 )。とかなんとか言いながら、しっかり聴きに行ったヤツ。しかもなんとその年は 10 月末にも再来日公演が横浜みなとみらいホールにてありまして、こっちもしっかり聴きに行ったという … 完全に相手の戦術に乗せられた感あり。でもよかったですよ、これはこれで。Libera のアルバムは前身のセントフィリップスのころからだいたい持ってますし[ ただし、おなじ楽曲の使い回しが多い ]。2006 年以降も聴きに行こうかしら、なんて思っていたらあの NHK TV ドラマ「氷壁」テーマ曲「彼方の光」で大ブレイクしたためか、チケット予約がちっともとれなくて、アタマきて聴きに行くのやめちゃった( 苦笑 x2)。その後彼らはワイドショーでも引っ張りだことなったけれども、来日すると決まって行くお気に入りの場所がなんと「神社仏閣」。これってどことなく、いまの「御朱印帳ブーム」とか「パワースポットブーム」とかを外国の子どもたちが何年も前に先取りしているんじゃないでしょうかねぇ。なにが言いたいのかというと、「日本の文物は日本人にしかワカラナイ」という、ワタシにはまるで理解しがたい発想がいまだ根強いことのアンチテーゼとして、よい一例かなと思って引き合いに出したしだい。

 ラトヴィアの「リガ大聖堂」も 1999、2004 年と聴いたけれども、2004 年のときのソリストくんは女声オペラ歌手ばりに表現力があって、これはこれで聴きごたえがありまして堪能させていただいた。そのとき大聖堂オルガニストも来日していて、当然のことながらオルガン独奏も披露してくれたから、喜びも2倍という感じでした( ただし、新宿文化センター大ホールの「壁掛け」オルガンの音響は芳しくなかった。開演前にいきなり現れて弾き始めたんですけど、そのとき聴こえてきたのはバッハのカンタータ BWV. 29 冒頭の「シンフォニア[ 原曲は BWV. 1006 の前奏曲 ]」オルガン版でした )。



それと、忘れちゃいけないのがドイツの名門少年合唱団ですな! 1995 年8月の酷暑のなか来てくれたヴィントスバッハの子たち歌声もすばらしかった。イザークの「インスブルックよ、さようなら」なんか、涙あふるるほどの名演だったと思う( そのとき松葉杖姿の団員もいて、彼ひとりだけスツールに浅く腰掛けて歌ってました。プロだなあ )。あいにく「テルツ」はいまだ実演に接する機会がなく … そんなこと言えば大バッハゆかりの「聖トーマス教会聖歌隊」だってまだだが … できれば「マタイ」とか受難曲じゃなくて、バッハ最後の最高傑作「ロ短調ミサ」をぜひ聴きたいです。

 ワタシは子どもたちはみんな「名歌手」だと思っているので、あんまりチャチャ入れたくはないんですけど、なかには「?」がつく公演もある。たとえば以前書いた拙記事の二番煎じで申し訳ないが、2006 年のモスクワアカデミーとか、2007 年時の「ボニ・プエリ」とか … それとつい先日、NHK-FM にて聴取したこちらの公演とか … 。

 かつて名指揮者の岩城宏之さんが生涯を通じてもっとも好きだったのが、共演した少年少女たちの歌声だった、というお話をどこかで聞いたことがある。日本人の子どもたちだってすごいですよ。TOKYO FM 少年合唱団なんか大好きですね。彼らの公演はクリスマスと毎年春の定演を4回ほど[ 2006、2008、2009 ]聴きに行ったことがありますが、とても安定感があって、なんといっても元気なところがよいですね !! やはりボーイソプラノは線の細い声、ではなくて、ちょっと破綻してもいいくらいの勢いと元気のよさがあっていい。あとは鎌倉の雪ノ下カトリック教会を拠点に活動しているグロリア少年合唱団ですね。いまこれを書きながら当時の「名歌手たち」の顔とか思い出したりするけれど、ワタシにとっても彼らの心洗われるピュアな歌声、美しい天上のハーモニー、彼らの調べの数々は文字どおりわが財産だなあ、という気がする。神話学者キャンベル流に言えば、Their voices to live by といったところか。あのとき彼らとおなじ空間を共有し、彼らの音楽に耳を傾けていたあの瞬間こそ「至高経験」であり、「エピファニー」だったかもしれない。

追記:けっきょく今年聴きに行ったのは、掛川市出身の若きピアニスト佐藤元洋さんの地元開催リサイタルのみ … だったけれども、オケもオルガンも合唱もなんでもそうですがやはり生演奏に接するのはいいものだ。使用されていたピアノも掛川で生産された YAMAHA のすばらしい楽器だった、というのもあるかもしれないが、ベートーヴェン、リスト、ショパン、スクリャービンのピアノソナタを中心に組まれたプログラムはすばらしかった。当方はオルガンびいきながら、ピアノも、名手の手にかかるとこうも心打たれる響きがするもんですねぇ、というわけで、つぎの機会はぜひ佐藤さんのバッハを聴いてみたいと念願しております。

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2015年12月13日

「ららら ♪ クラシック」⇒ BWV. 566

1). そういえば、この前見た「ららら ♪ クラシック」、なんとなんとうれしいことに、わが愛する楽器、「楽器の女王」、オルガン[ パイプオルガン ]特集ではないですか !!! これは見るしかない。

 で、その感想なんですが … のっけから登場した、かつて全国津々浦々の小学校にあったであろう、懐かしのリードオルガン( 足踏みオルガン )がひじょーに気になった … あれどこから調達してきたのかな? しかも「ドアノブ」型のストップまで 10 個もついているし … 「演奏台の両脇に並ぶドアノブみたいのは、いったいなに?」みたいなお題で紹介していたけれども、すでにその「ドアノブ」を備えたリードオルガンまで登場しているという … 。

 で、これまた久しぶりにお元気な姿を見られてやはりうれしかった、藝大オルガン科の廣野嗣雄名誉教授 ―― しかも「自作」したオルガン原理模型までひっさげて ―― も出演されていた。というか、廣野先生ってこんなにお茶目な人だったのか ?! 廣野先生といえば、だいぶ昔、NHK-FM にて「小フーガ BWV. 578 」の楽曲分析をある番組でされていたことなんかも思い出す[ もちろんご本人の実演つき、しかも使用楽器はいまや「使ってんの?」状態の NHKホールのカール・シュッケ社建造の大オルガンという、いまから考えるとかなり贅沢な企画だったなあ ]。

 本題にもどって … 今回、番組で紹介していたのは NHKホール … ではなくて、東京カテドラル聖マリア大聖堂関口教会のイタリア・マショーニ社建造のすばらしいオルガン。オルガン建造の監修者はロレンツォ・ギエルミ。番組の折々に挿入されていたクリップはたぶん以前、NHK-BS で放映されていた「パイプオルガン誕生」のものだろうと思う( 見たことある場面が出てきたから )。オルガンの起源はアレクサンドリアの「床屋」、クテシビオスの考案した「ヒュドラウリス[ 水力オルガン ]」だとか、足鍵盤がとくに北ドイツにおいて発展して大型化したとか、そのへんの説明はわりと正確( 当たり前 )。クリップに出てきた 16 世紀イタリア・ミラノの聖マウリツィオ教会の歴史的名器は、1段手鍵盤とおまけみたいな足鍵盤つきの楽器だったと思う。各時代、各地域におけるオルガン建造の歴史とか音楽様式によるストップ[ レジスター ]の変遷とか、あるいは「コーアトーン」と呼ばれる「教会ピッチ[ 現代ピッチより約半音高かった ]」なんかも興味深いのではありますが、これを書き出すととてもじゃないが記事を何本も、しかもただのディレッタントにすぎない輩が書くはめになりかねないので、省略( 笑 )。あと少し気になったのは、「8世紀、東ローマ[ ビザンツ帝国 ]皇帝がフランク王国のピピン王にオルガンを献上した」という有名な話、たしかにそうなんですけどそれを紹介するイラストがなぜか「水力オルガン」になっていた。このころにはすでに「ニューマチック」、つまりふいごで送風する現代とほぼおなじ機構の楽器になっていたはずなので( ただしストップ装置やスライダーチェストなどはまだない )、ここはちょっといただけない。当時のオルガンについては拙過去記事と、そこからリンクしているすばらしい解説ページをご参照ください。19 世紀の、とくにカヴァイエ−コル製作の一連の巨大楽器は、ひとことで言えば「ひとりオーケストラ」を実現するためのもの、と言ってよいと思う。当時は交響曲全盛時代、こういう時代背景があったからこそ存在しえたようなオルガンなんですな。ヴィドール、ヴィエルヌ、そしてサン−サーンスやセザール・フランクなんかは、みんなこの時代に活躍したオルガニストにして高名な作曲家ですね[ 追記:番組中でかかった3曲のほかに、BGM みたいにかかっていた楽曲、やっと思い出した。英国のアングリカン合唱ものが好きな人にとってはわりとおなじみの聖歌ですね ]。

2). 番組ではバッハ時代を代表する楽器としてハンブルクの有名なアルプ・シュニットガー建造の歴史的楽器も紹介されてましたが、↓ はそのシュニットガーオルガンによるバッハ「トッカータ ホ長調 BWV. 566 」を演奏した動画。「きらクラ!」の「メンバー紹介」の「番外編」をここでも書いたばかりですけど、さらについでに「メンバー紹介」をしたくなったしだい。

 BWV. 566 は、いまでは「前奏曲とフーガ ホ長調」と表記されるのがふつうで、「旧バッハ全集の取っている『トッカータ』という名称には資料的根拠はない[『バッハ事典』p. 307 ]」… とのことですが、ワタシの手許の音友社発行のポケットスコアにはその「資料的根拠」のない「トッカータ」と表記されているものだから、ここでも強引に通そうかと思います( 苦笑 )。もっとも聴いてみればすぐピンとくると思いますけど、まるでブルーンスかブクステフーデを彷彿とさせるような典型的な北ドイツオルガン楽派の幻想様式で書かれていて、トッカータ[ 前奏曲 ]−フーガ−トッカータ−フーガという並列構成をとってます。作曲年代はバッハの「ブクステフーデ詣で」のあったアルンシュタット時代の 1706 年ころで、原曲はおそらく「ホ長調」で書かれていたらしいけれども、のちのヴァイマール時代に「ハ長調」に移調した別稿 BWV. 566a を作成したようです( 原曲の調性では演奏がひじょうにむずかしい、というのもある )。動画の演奏者はこの「ハ長調稿」にもとづいて演奏してます。超有名な「ニ短調トッカータ」のつぎのバッハ作品目録番号を与えられていながら、おそらくオルガン好きを自認する人もまるまる聴き通したことのある人はあんまりいないんじゃないかと思って、ついでに書き足しておきました。さらについでにこの作品、ヴァルヒャの「バッハ・オルガン全集」にはなぜか(?)入っていなかったりします( アラン版「全集」のほうはもちろん収録されてます )。すぐ前にも書いたヴィドールはこの作品の最後のフーガについて、「フーガで始まり、コラールとなり、協奏曲として終わる」と評しています。



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2015年11月30日

シベリウスはお好き? 

 昨晩の「クラシック音楽館」は、来月8日でちょうど 150 年目の誕生日を迎えるジャン・シベリウス尽くし! でした。

 フィンランドとくると、叙事詩「カレワラ」や、第2の国歌とも言われる「フィンランディア」… と言いたいところだが、少年合唱好きとしてはかつて NHK BS2 で放映されたヘルシンキ大聖堂少年聖歌隊の来日公演とかがどうしても思い出される( 苦笑)。で、今月はじめにサントリーホールで開かれた公演の録画を見たんですが、これ名演だったと思います! 

 シベリウスの音楽って、じつは「フィンランディア」以外はほとんど聴いたことがなくて、Ottava を聴くようになってからちょくちょく耳にするようになってきた( もっとも NHK-FM でもかかってましたが )。シベリウスの交響曲作品で日本でウケがすこぶるよいのは「2番 ニ長調」… のようだけれども、ワタシは2年ほど前だったか、なにかの番組で聴いた「5番 変ホ長調」が、なぜか自分の感性とフィットして、大好きになった。そしてつい最近、音楽学者の皆川達夫先生が案内役をつとめる「音楽の泉」にて、シベリウス最後の交響曲「7番」をたまたま耳にして、こちらも好きになった[ 以前 BBC Music だったか、作曲者が北の人か南の人かでできあがった音楽作品の「温度」が決まってくる、みたいなコラムを読んだことがある。シベリウスはやはり、夏のクソ暑いときこそふさわしい。冬は … どうなのかな ]。

 いま、ユッカ−ペッカ・サラステ指揮、フィンランド放送交響楽団による音源をいつも行ってる図書館から借りてきて聴きながら書いてるんですが、昨夜見た公演というのが、まさにこの音源のフィンランド放送交響楽団の来日公演だった。まったく知らずに借りてきたので、これはまことにうれしい偶然。

 現首席指揮者ハンヌ・リントゥ氏の説明によれば、「2番」を純粋な音楽作品として聴いてほしい … みたいなことをおっしゃっていたのが印象的だった。ロシア支配からの独立、民族自決 !! みたいなフィルターを通さずに、ただひたすら一音楽作品として楽しんでほしい、そんな趣旨のコメントでした。「ヴァイオリン協奏曲 ニ短調」もすばらしかった。リントゥ氏はソリストの諏訪内さんを、「ひじょうに軽やかに表現してくれた」と評価してました。ヴァイオリン弾きでもあったシベリウスのこのヴァイオリン協奏曲は、それまでの同ジャンルの作品とはたしかに異質というか、とてもユニークだというのは、ワタシのような門外漢が聴いても感じられる( カデンツァの配置の仕方とか )。そして当然の事ながら、と言うべきか、技巧的にも困難を極める難曲だということもリントゥはおっしゃっていた。「2番」と「ヴァイオリン協奏曲」は、ほぼ同時期に作曲されたんだそうです。

 ワタシの好きな「5番」については、終楽章で金管が鐘のような動機を朗々と吹奏する場面が、やっぱり好きですね … 作曲者自身はこの特徴的な動機について、湖面で鳴き交わす白鳥をイメージして作ったとかって読んだことがあります。シベリウス作品とくると北欧の厳しい自然の描写、という先入観がどうしてもつきものですが、なるほど、たしかにこりゃ白鳥の鳴き声だわ。それがまたじつに神々しい。

 最後の交響曲の「7番[ 調性はハ長調 ]」についてはリントゥ氏曰く、「無駄な音などひとつもない」傑作。単一楽章しかない、演奏時間わずか 20 分ほどのこの作品を交響曲と呼んでいいものか、と疑問に思う向きもいるかもしれないが、長けりゃいいってもんでも、またないんじゃないかって個人的には思います。だからってマーラーやブルックナーは長すぎ、なんて言わないけれども … ふだんは短いものだと数分ほどで終わるバロック音楽ばっか聴いているものだから、たまーに「巨人」とか「ロマンチック」とか聴くと、いつの間にか夢の世界へ旅立っていたりする( 苦笑 )。

 サントリーホールでの公演ではアンコールをふたつ(「ベルシャザール王のうたげ」から「夜の音楽」と「4つの伝説」から「レンミンカイネンの帰郷」 )も !! 演奏するなど大サーヴィス。TV 画面を見ていても当日の興奮というか、会場の雰囲気は伝わってきた。この実演に接した人は、幸せだったと思う。

 そんなわけできのうの夜は宅配ピザをつまみつつこのすばらしい演奏会を TV 鑑賞して、ボージョレ・ヌーヴォーを開けてたんですが( 笑、それにしてもアルコール度数 13 % というのは … ヴィラージュ・ヌーヴォーにいたっては、13.5 % !! パンチは効いてるけど、その分軽やかさがやや削がれている気はした。色も例年に比べてカベルネ / シラーかと思うほど濃厚ですし )、その 29 日というのは、聖ブレンダンつながりでは「バーの聖ブレンダン」の祝日でもあったりする。だいぶ前に書いた拙記事の二番煎じではあるが、ついでに思い出したのでご参考までに。

 … 「クラシック音楽館」のあと、BBC Radio 3 の Choral Evensong で毎年この時期恒例のセントジョンズカレッジ聖歌隊による待降節礼拝の中継に耳を傾けてました … 今年もあっという間に 12 月、去来する思いはいろいろあれど、とにかく皆さまも ――「きらクラ!」の決まり文句じゃないけど ―― どうぞ時節柄ご自愛くださいませ。

追記:明日、NHK-FMにておなじ公演の放送があります。

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2015年11月29日

『チップス先生 さようなら』

 「名訳に学ぶ」、本日はジェイムズ・ヒルトン不朽の名作 Goodbye, Mr Chips 。訳者は菊池重三郎氏、邦訳本[ 新潮文庫版 ]は 1956 年、というから、ヘルムート・ヴァルヒャが「バッハオルガン作品全集」ステレオ録音に取りかかったのとおなじ年というから、そうとう古い! 訳語の選択もいまからすればやや時代がかっている感ありではありますが、英米文芸ものを勉強する向きにはとても参考になる邦訳だと、個人的には思ってます。というわけで、まずは出だしから( 手許の原書は Bantam Books Edition, 1986、下線強調は引用者 )。
 年をとってくると、( もちろん病気ではなくて )、どうにも眠くてうつらうつらすることがある。そんな時には、まるで田園風景の中に動く牛の群れでも見るように、時のたつのがものうく思われるものだ。秋の学期が進み、日足も短くなって、点呼の前だというのに、もうガス燈をつけずにはいられないほど暗くなる時刻になると、チップスが抱く思いはそれに似たようなものであった。チップスは、老船長のように、過去の生活から身に沁みた色々の合図でもって、いまだに時間を測るくせがあった。道路をはさんで学校と隣り合ったウィケット夫人の家に住んでいる彼にしてみれば、それも無理ない話、学校の先生を辞めてから十年以上もそこで暮らしていながら、彼とこの家の主婦とが守っているのは、グリニッジ標準時間というよりは、むしろブルックフィールド学校の時間であった[ pp. 5−6 ]。

When you are getting on in years ( but not ill, of course ), you get very sleepy at times, and the hours seem to pass like lazy cattle moving across a landscape. It was like that for Chips as the autumn term progressed and the days shortened till it was actually dark enough to light the gas before call-over. For Chips, like some old sea captain, still measured time by the signals of the past; and well he might, for he lived at Mrs. Wickett's, just across the road from the School. He had been there more than a decade, ever since he finally gave up his mastership; and it was Brookfield far more than Greenwich time that both he and his landlady kept.

 彼は年をとってきた ( だが、もちろん病気ではない )。メリヴェイル医師も言うように、まったく、どこといって具合の悪いところは少しもなかった。
 「どうも、あなたの元気にゃあ、かないませんな
 と、たいがい二週間ぐらい間を置いては()に来てくれるメリヴェイルは、シェリー酒をなめながら驚いて見せるのである[ ibid. ]。

He was getting on in years ( but not ill, of course ); indeed, as Doctor Merivale said, there was really nothing the matter with him. "My dear fellow, you're fitter than I am," Merivale would say, sipping a glass of sherry when he called every fortnight or so.
 作者ヒルトンがこの愛らしい作品をものしたのは ―― なかば伝説化しているかもしれないが ―― British Weekly 1933 年クリスマス号に掲載するための小品を依頼されたためで、アイディアが煮詰まって呻吟しているとき、自転車に乗って近所をぐるぐる回っていたときにひらめいて、というか天から降ってきて、締め切り前わずか4日間で一気呵成に書き上げた、と言われてます。

 つぎに、父親がタイタニック号に乗船していた生徒とのやりとりの科白から。
… 「さて、…… あーム …… グレイスン、よかったなあ。めでたしめでたしだ。君もこれでホッとしたにちがいない」
 「は、はい、先生」
 静かな、ものに感じ易い少年だったが …… 後日、チップスがお悔みを述べるような運命( めぐりあわせ )になった相手は、父親のグレイスンで、この息子の方ではなかった。[ p. 56 ]

... "Well, umph−I'm delighted, Grayson. A happy ending. You must be feeling pretty pleased with life."
"Y-yes, sir."
A quiet, nervous boy. And it was Grayson Senior, not Junior, with whom Chips was destined later to condole.
 懇意にしてくれた老校長亡きあと、赴任した若い新校長ロールストンとの諍いの場面。あんたの教えるラテン語の発音は時代遅れだ、ただちに新方式に改めよ、と暗に退職を迫ってきて一悶着あった場面から。
 チップスは敵に組み付く手掛かりを、やっと掴んだ。
 「ああ、そんなことですかい?」
 彼は軽く相手をイナシて答えた。[ p. 60, 「イナシ」に傍点]

... At last Chips had something tangible that he could tackle. "Oh, THAT!" he answered, scornfully.
 やり手( a live wire )のロールストン校長の宣伝工作のおかげ(?)で名門ブルックフィールドにも無教養な「成金」の子息たちが大量に入ってきたことに対する、チッピング[ チップス先生の本名 ]先生の辛辣なコメントから。
… 怒りっぽく、諧謔を解せず、釣り合いのとれた感覚というものを欠いている、それが成り上がり者の正体で …… まったく、均衡感覚の欠如である。だから、何はさて惜いても、ブルックフィールドで教えこまなければならぬものは、このことであって、その意味では、ラテン語もギリシャ語も化学も機械学も実はそれほど重要ではない。しかも、この釣り合いの感覚という奴は、試験問題にしたり、修了証書を与えて、それでどうこう決まりをつけるわけにはいかんじゃないか …… 。[ p. 64 ]

... Touchy, no sense of humor, no sense of proportion−that was the matter with them, these new fellows... No sense of proportion. And it was a sense of proportion, above all things, that Brookfield ought to teach −not so much Latin or Greek or Chemistry or Mechanics. And you couldn't expect to test that sense of proportion by setting papers and granting certificates...
… なんだかどっかの国のお役所に言って聞かせてやりたい独白ではある。

 全欧州を巻きこんだ第1次世界大戦。ある満月の夜、独軍機がバラバラと空爆してきた。そのとき年少者クラスでラテン語の古典を読ませていたチップス先生は、このまま校舎内にとどまっていたほうが安全だと考え、授業を続行した。
… 彼はかまわずラテン語を続けていった。ドカンドカン響き渡る砲声と高射砲弾の耳を貫くような唸りに、ともすれば消されそうになる声を大きくして。生徒は苛々して、勉強に身を入れてるものはほとんどなかった。彼は静かに言った。
 「ロバートスン、世界歴史のこの特別な瞬間に、…… あーム …… 二千年前ガリアで、シーザーが何をしようと、そんなことは …… あーム …… 何となく二義的な重要性しかなく、[ 中略 ] … どうでもいいと、君は思うかもしれない。しかし、わしははっきり言っておくが、…… あーム …… ロバートスン君や、真実( ほんとう )はそんなもんじゃないんだよ」
 ちょうどその時、凄まじい爆発の音が、それもすぐ近くで、爆発した。
 「 …… いけないんだ、…… あーム …… もの事の重大さを、…… あーム …… その物音で判断してはな。ああ、絶対にいけないんだ」
 クスクス笑いが聞こえた。
 「二千年も長い間、大事がられてきた、…… あーム …… このようなことは、化学( バケガク )屋が、実験室で、新種の害悪を発明したからといって、そんなもので、消し飛んでしまうもんではないんだよ」[ pp. 83 −4]

So he went on with his Latin, speaking a little louder amid the reverberating crashes of the guns and the shrill whine of anti-aircraft shells. Some of the boys were nervous; few were able to be attentive. He said, gently: "It may possibly seem to you, Robertson − at this particular moment in the world's history − umph − that the affairs of Caesar in Gaul some two thousand years ago − are − umph − of somewhat secondary importance ...... But believe me − umph − my dear Robertson − that is not really the case." Just then there came a particularly loud explosion − quite near. "You cannot − umph − judge the importance of things−umph−by the noise they make. Oh dear me, no." A little chuckle. "And these things − umph − that have mattered − for thousands of years−are not going to be−snuffed out−because some stink merchant − in his laboratory − invents a new kind of mischief." [ stink について、『ランダムハウス』の語義説明によると「{単数扱い}{英俗}(学科としての)化学;自然科学」]
例によって脱線すると、今年は三島由紀夫生誕 90 年( あのような死を遂げてから 45 年 )でもあるんですが、その三島氏は、こちらの本によるとこんなことも言っていたそうですよ。「若い人は、まず古典を読むべきだ」。英文学者の斎藤兆史先生も、オックスフォードだったか、そこで「宣命[ せんみょうと読む ]」の研究をしている英国人学生のことを NHK の語学テキストに書いていたけど、いまや風前の灯なのかね、チップス先生よろしくこういう「すぐ役に立たないもの[ つまり、お金にならないもの ]」を教えることに関する対立ないし論争は、昔もいまもよくあることだったのかもしれない。げんにロールストン校長の口を借りて、こんな科白も出てくる。「時代は、あなたがそれを理解すると否とに拘らず、今や刻々と変化しているのです。このごろの親たちは、誰にも通じないような言葉の切れ端なんかどうでもよいから、もっと何か、三年間の学費で、役に立つものを仕込んで貰いたいと要求しだしているのです[ p. 62 ]」。

 そして引用が相前後するけど、前出のグレイスン少年、このつながりで気づいた方もおられると思うが、彼はブルックフィールド校出身の戦死者のひとり、というわけなんですね。校内礼拝堂で行われた追悼式典でチップス先生が、戦場に散った教え子とかつての同僚の名前を声を震わせて読みあげるくだりは、この時代を生きた作者ヒルトンの「戦争は絶対悪だ」というつよい思いがひしひしと伝わってくる(「チップスは、礼拝堂の後ろの席にいて、考えるのである、校長にとってはただ名前だけですむ。自分のように顔を覚えているわけではないからまだいい …… 」)。

 最後に訳者先生による巻末の「解説」からも少し引いておきます。
… < チップス先生 >は、…… 音楽的で、緊密で、冗漫なところがなく、散文詩でも読むような美しさである。それは用意周到な計量において創られたものではなく、霊感によって、流るるが如く、歌いあげられたものである。
訳者先生はこう評して、ヒルトンという書き手[ と、その文体 ]の「音楽性」に注目して書いてます。それと同時に、菊池先生の訳文もまた流れるような音楽性というものが感じられます。もっとも「イナシて」に見られるように、この先生お得意の日本語表現、というのもたぶんにあるかもしれない。ことこの作品の翻訳にかぎって言えば、なんというか、原作以上に名調子が随所に顔を出していて、それがまたパンチがほどよく効いていて、読んで心地よいのもまた事実。講談師の名講釈を聞いている趣さえあります。その菊池氏が、ハーパー・リーの名作『アラバマ物語』の邦訳も手がけていたこともつい最近知ったようなていたらくなわが身ではあるけれど、こんどはこちらもあわせて読んでみたいと思った。「翻訳はせいぜいもって 30 年」とかって言われるけれど、半世紀以上も持ちこたえているこの邦訳本は称賛に値する、と思ってます。

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2015年11月07日

『バッハの生涯と芸術』

 前の拙記事で書いたように、フォルケルの書いた『バッハ伝[ 過去に何点か邦訳が出ているようですが、ここでは岩波文庫版を取り上げます ]』をさっそく通読。以下、読後感などを備忘録ていどに。

 バッハ研究に携わる人にとってはおそらく次男坊たちの書いた『故人略伝』とならんでバッハ評伝に関する「最古の」一次資料であることはまちがいないこの『バッハ伝』ですが、「この芸術家のために不滅の記念碑を建て、… ドイツという名の名誉に少しでも値する者は … 」、「この際、私の目的とするのは、ただただドイツの芸術にそれ相応の記念碑を建て、… 」、そして結語の「そしてこの人間 ―― かつて存在し、そしておそらく今後も存在するであろう最大の音楽詩人であり最大の音楽朗唱者たる彼は、ドイツ人であった。祖国よ、彼を誇るがよい」などからも感じられるように、バッハという名が即ドイツ( 国家 )と結びつけられ、「神格化」されて語られている部分が多くて、言ってみれば「バッハ伝」というより、「リュリ讃」ならぬ「バッハ讃」といったおもむきです。

 ヨハン・ニコラウス・フォルケルの生きた時代は、ヴィーン会議後に成立した「ドイツ連邦」成立と重なるころで、そういう意味では「熱烈な愛国者精神」というものが全編にわたって溢れていてもちっとも不思議ではない。それゆえ「バッハの息子たちから直接聞いたバッハの逸話」に、多少の「お手盛り」があるのは否めず、この著作( 著者本人は「論文」と言っている )を読むときは、「どこからどこまでが事実にもとづき、どこからどこまでが著者のお手盛りか」を意識しながらとくに注意して読む必要があると思う。

 そうは言ってもこの著作に描かれたバッハのエピソードはおおいに興味惹かれるのも事実。だいぶ前に書いたことながら、たとえば作曲の際、鍵盤楽器で音出ししながら曲作りする人を「クラヴィーアの騎士」と呼んで揶揄したこととか[ p. 86 の記述では「指の作曲家( あるいはバッハが後年名づけたように、クラヴィーア軽騎兵 )でしかありえない」]、親戚のヨハン・ゴットフリート・ヴァルターによればなんでもヴァイマール時代の若き巨匠バッハは、「自分はどんな鍵盤作品でも初見でつかえることなく弾ける」とつぶやいたそうで、そこで一週間後、自宅にやってきたバッハに一泡吹かせてやろうと画策した話とかは、以前もほかの本や資料で読んだ憶えがあるのでなるほどこういうことだったかと改めて確認したり( こちらの話は、バッハがクラヴィーアの譜面台に載っかっている楽譜を片っ端から初見で弾くクセがあり、ヴァルターは決して初見では弾けない「難曲」も混ぜて置いてあったんだそうな。その結果、「彼がその楽譜をめくって、端から弾いている間に、彼を招いた友人[ ヴァルターのこと ]は、隣りの部屋に朝食の用意をしに行った。数分たつと、バッハは改悛を余儀なくされるように仕組まれている曲に来て、それを弾き通そうとした。しかし弾き始めてまもなく、一つの箇所で立ち往生をした。彼はその箇所をじっくり眺め、あらためて弾き始めたが、そこまで来ると、また閊えてしまった。『駄目だ』―― 彼は隣室でくすくす笑っている友人に向かって『なんでも弾いてのけられるなんてもんじゃない。とんでもないことだ!』と叫びながら、楽器を離れた[ pp. 67 − 8 ] 」)。大バッハでさえもつかえちゃう「難曲」って、いったいどんなのだったんだろ ?? 

 そしていまひとつは、フォルケル自身もまたすぐれた音楽家で、バッハと同様にオルガニストでもあったので、作品の様式や演奏、作曲といった事柄については「盛られ」ている点は注意が必要とはいえ、この点に関するフォルケルの記述はすなおに受け取っていいように思う。たとえばバッハは「自作の曲を弾く時は、大抵テンポを非常に速くとったが、その生気に加えて、演奏にこの上なく豊かな多様性を与えることを心得ていたので、一曲一曲が彼の手にかかると、まるで弁舌のように物を言った。彼は、強い激情を表そうとする時には、他の人たちがよく打鍵に過度の力を加えるのとは違って、和音と旋律の音型、すなわち内面的な芸術手段によって、それを行った[ p. 73 ]」とか、あるいは弟子に対して、「彼らにむずかしい箇所を緩和してやるために、彼は一つの見事な方法を用いた。すなわち、彼らがこれから練習することになっている曲を、まず全曲つづけて弾いて聴かせた上で、こんな風に響かなければならないのだ、と言った[ p. 121 ]」とか。

 そして、フォルケルの伝記にバッハ作品の特徴として何度か出てくるのが、「歌唱性」です。これは特筆に値する気がする。ヴァルヒャもまったくおんなじようなことを指摘して、弟子たちに「まずは歌うように」と教えていたこととも重なり合います[ そしてヴァルヒャ自身、そのようにして練習もしていた。いつだったかインターネットのどこかで BWV. 1018 のオブリガートチェンバロパートを、その上に乗っかるヴァイオリンパートを「歌いながら」練習していたヴァルヒャの録音ファイルを聴いたことがある]。
… 個々の声部に自由な、よどみない歌を持たせようとするため、… 当時の音楽教科書ではまだ教えられていない、彼の偉大な天分が彼に吹きこんだ方法を用いた。

… いくすじかの旋律、それはいずれも歌うことのできるもので、それぞれ時を得て上声に現れることができ、…

… バッハは … 自分の個々の声部に、まったく自由な、流麗な歌をうたわせようとした …

… 全曲をすべての声部において音符から音符へと転回させることができ、しかも澱みない調べや澄んだ楽節に少しの中断をも生じさせないくらいになった。それによって彼は、どんな音程の、どんな動き方の、どんなに技巧的なカノンをも、いかにも軽やかに、流れるように作って、それに用いた技法を少しも気づかせず、むしろそれをまったく自然な曲のように響かせることを学んだ[ このくだり、たとえば「ゴルトベルク BWV. 988 」の第9変奏「3度のカノン」を耳にすればたちどころに納得されると思う ]。

[ コラール歌詞に作曲する際のバッハの教授法について書かれているくだりで ] … 彼の内声部は、時には上声部として用いることができるほど、歌い易いのである。彼の弟子たちもそれらの練習において、そのような長所を目ざして努力しなければならなかった。
 そして「バッハの作品」と題された第9章では、取り上げた楽曲について、ご丁寧なことに「譜例」までついてます。寡聞にして知らないが、この手の音楽家の「評伝もの」で、このように「譜例」つきなのは、これ以前にもあったのだろうか … 故吉田秀和氏だったか、クラシック音楽評論に「譜例」を添付するやり方は自分あたりが元祖だ、みたいなことをおっしゃっていたけれど、その伝でいけばフォルケルの『バッハ伝』も、「譜例」を使用した嚆矢、ということになるのかな[ とはいえ、p. 175 の図 16 の BWV. 546 フーガ主題のプラルトリラーが、通例耳にする演奏よりふたつ前の4分音符にくっついてますが< → こちらの原文 PDF ファイルの p. 81 > … ]。ちなみに「教師としてのバッハ[ 第7章 ]」では、バッハがいかに教え上手だったかが具体的に語られていてとてもおもしろい。

評価:るんるんるんるんるんるん

関係ない追記:木曜夜の NHK-FM「ベスト・オヴ・クラシック」で流れた「ベルリン・コンツェルトハウス室内オーケストラ演奏会」。同楽団リーダーの日下紗矢子さんをゲストに呼んで、パッヘルベルの「カノン ニ長調」とかおなじみヴィヴァルディの「四季」全曲とかとにかく楽しい放送でしたが( 再放送希望!)、その日下さんの「ドイツと日本の楽団員のちがいについて」のコメントがすこぶる印象的だったのでこちらにもメモっておきます。

 日本の楽団員は、「全体練習前に完璧に予習をすませていて、いつでも準備万端、ほとんど手直しなし」。対するあちらの楽団員というのは、「全体練習前に予習するなんて団員は皆無で時間が来ればさっさと帰る、だがいざ練習にかかると短期間で仕上がる。その集中度は眼を見張るものがある」と、およそそんな趣旨のことを言ってました。列車はダイヤ通りにきっかり来る、荷物は期日通りに届かなければイライラする、何事もタイムテーブル通り杓子定規に事が進むのは当たり前、みたいに思っている国民性がこういう場面でも発揮される、と言えるかもしれないが、同時に根がひねくれているワタシみたいな天邪鬼は、おおやけの義務あるいは仕事と個人の生活との線引きが明確かつ真の意味で効率的な欧州人のやり方はすばらしい、と思ったりもする。30 数年も前に刊行された岩城宏之さんの『岩城音楽教室 / 美を味わえる子どもに育てる』というすばらしい本をこの前買ったんですが、ページを繰ってみて、それこそ目を見張る記述がそこここにある。日下さんのコメントとも重なる部分も多いので、また日を改めてなにか書く … かもしれないってこればっかでスミマセン。

posted by Curragh at 08:25| Comment(2) | TrackBack(0) | 最近読んだ本

2015年10月25日

「マタイ」なのか、「ケーテン侯の葬送音楽」なのか

 先週の「古楽の楽しみ」は、大好きなバッハのオルガン作品がまたぞろ出てくる、というわけで、聴取前までそっちの関心しかなかったのではあるが …「 BWV. 244」なる作品、はて、そんなもんシュミーダーの作品目録にあったかしらん、などと首をひねって寝違えそうになり、ええっとたしか 200 番台はモテットとかオラトリオ、ミサ曲( バッハはルター派なので、ほんらいはミサ曲をこさえる職務上の義務などなかったが、当時のライプツィッヒ市ではキリエとグロリア、いわゆる「小ミサ」を上演する習慣があったとかなんとか、そんなことをどこかで耳にした覚えがある )、受難曲だったっけ …… なんて思ってさて聴取してみたら、なんだこれ「マタイ」じゃん !?¿ 

 使用音源は、ハルモニア・ムンディのこの音盤( しっかし NML ってすごいな、こんな新録音までライブラリーに入ってるとは … )。カウンターテナーのダミアン・ギヨンさんて、たしか 2009 年の LFJ で教会カンタータを歌っていた歌手じゃなかったかな。あのときの指揮者はお名前は失念したが、本業がヴァイオリニストの方だと思った。この「ケーテン侯のための葬送音楽」はうまいぐあいに四つの部分に分かれているから、一日ひとつずつ聴いていく、ついでにオルガン作品もね、みたいな構成だった[ → 参考までに磯山先生のブログ記事 ]。

 で、今回、カギとなるのがどうもフォルケルによる『バッハ伝』の記述だったので、幸い、いつも行ってる図書館に岩波文庫版[『バッハの生涯と芸術』]があったので借りてきてまじめに通読してみる気になった( 苦笑 )。* フォルケルのこの評伝はその筋では超有名ながら、恥ずかしながらきちんと読んだことさえなかったから ―― 「 96 」の From Sundown to Sunup のときのように ―― せっかくのよい機会だからこのさい目を通しておこう、と殊勝な思いを抱いたしだい。磯山先生に感謝しなくては。

 そのフォルケルによれば[ 下線強調は引用者 ]、
1723 年、クーナウの死後、バッハはライプツィヒのトーマス学校のカントル兼音楽監督に任命された。… アンハルト・ケーテンのレーオポルト侯は彼を非常に愛していた。それゆえバッハとしては侯に仕えるのをやめるのは、気が進まなかった。しかし、それから間もなく侯が歿したので、天命が彼を正しく導いたことを知った。彼にとって非常に悲しい侯の死に寄せて、とりわけ美しい数々の二重合唱をふくむ葬送の音楽を作って、それをケーテンでみずから上演した。
で、そのすぐあとの「訳注」を見ますと、
 その葬送カンタータは『嘆け、子供たちよ … 』BWV 244a であり、それのバッハ自筆の楽譜をフォルケルが所有していたが、のちに散佚した。
 11 曲から成るこの曲にバッハは、そのころ作曲していた『マタイ受難曲』BWV 244 から9曲を取り入れ、歌詞を書き換えて用いた。冒頭の合唱の音楽は、前に作った別の葬送カンタータ BWV 198 の中のものを用いた。またこの冒頭の曲はのちに『ロ短調ミサ』BWV 232 の冒頭の「キューリエ」に用いられた。
 バッハの教会用の声楽曲は非常に数は多いが、右に見られるように、すでに作ってある曲を、組合わせを変えたり、歌詞を入れ換えたりして作り上げる例が少なくなかった。[ 以上、pp. 44 − 5 ]
むむむ … そうだったのか、遅かりし由良之助、寡聞にしてこの「葬送音楽」はまるで知らなかった。でもそうですねぇ、磯山先生のおっしゃるように、自筆譜ないし筆写譜が残ってさえいれば、レチタティーヴォはまちがいなくバッハの新作だったはずなので、だいぶ印象は変わってくるだろうな。第一印象としては、言い方はなんだかなあとは思うが、まんま「マタイ」のパクり( 失礼 )という印象が拭えない。でも、こういう「再現」の試みじたいは高く評価したいと思う。個人的には、これはこれでけっこう気に入ったので。そしてもちろん、作曲者バッハ本人にしても、いまは亡き愛する主君への文字どおり万感の思いをこめて上演したことは想像に難くない。ワタシは磯山先生がこの『故人略伝』の記述を引いて説明してくれたとき、なんかこう目頭がカーっと熱くなるのであった[ バッハがケーテンの宮廷に仕えていたのは、わずか6年間にすぎない ]。

 ただ、磯山先生によると、この「再現演奏」をドイツのどっかで開いたら、聴衆のうち8名ほどが「気分が悪くなって」会場を出て行った、なんていうこぼれ話までついてました。うーん、たしかにドイツ人聴衆は当然のことながら母国語で聴いているし、なんてったってこれ「マタイ」の「転用[ パロディ ]」作品ですから、無理からぬ話かもしれない。

 そそっかしいワタシは、てっきりいっしょにかかるオルガン作品も、なんらかの関係があるのかなんて期待していたけれど、これは先生の趣味で選曲されたものらしい。でも「パッサカリア BWV. 582 」が「バッハがまだ若いころの初期作品の傑作」というのは、いまだに信じられない人( ケラーはたしかケーテン時代の作品に分類していた )。最新のバッハ研究ではそうなんだろうけれども、あの老成した堂々たる8小節にもおよぶ低音主題といい、つづくフーガの展開といい、そして圧倒的なナポリの6の終結といい、どう考えてもこれがまだはたちになるか、ならないかの時代に作曲されたなんて思えない。いくら「天才」だったとはいえ( → BWV. 582 についてはこちらの拙記事も参照 )。ちなみにかかっていた音源のオルガンの響きもすばらしくて、気に入りました。どっかに売ってないかな? 

* ... 訂正:当初、ワタシはバッハの次男坊 C. P. E. バッハらが書いたと言われる『故人略伝( 1754 )』と、フォルケルが彼らの証言にもとづいて 1802 年に出版した『バッハ伝』とをゴッチャにしてました。誤記をお詫びしたうえで、当該箇所を訂正しました m( _ _)m ちなみに岩波文庫版訳者先生によれば、バッハの長男ヴィルヘルム・フリーデマンとカール・フィリップ・エマヌエルとのあいだには生後すぐ死亡した「双子の姉弟」がいた、とのことで、彼は正確には次男坊ではなく「三男坊」にあたる、ということもはじめて知った … 18 世紀当時のことなので、新生児の死亡率がひじょうに高かったわけですね。

posted by Curragh at 22:57| Comment(4) | TrackBack(0) | NHK-FM