2016年04月10日

「復活祭蜂起 100 周年」

 本家サイト顧問 Breandán Ó Cíobháin 博士からひさしぶりに届いた便りを中心に書いてみたいと思います。

 博士はいま、「ヴェントリー歴史協会」という団体の常任幹事をしておりまして、こんどの週末開催予定の「復活祭蜂起 100 周年記念式典」の準備におおわらわなんだそうです。近年、博士はご高齢のためか[ 不肖ワタシもここ最近、あちこちにガタがきていることを自覚してます … ]、いろいろと医者通いが多くなり、難読固有名詞を含む現地語発音に関するワタシの質問になかなか答えられずに申し訳ない … といわゆる「季節のご挨拶」のころにそんなふうに返してきてくれます( なのでこちらのページがいまだ未完成で、訪問される方にはまことに申し訳ないんですが、事情をご勘案ください )。

 で、そんな博士から先日、今年のイースターメッセージをいただきまして、添付ファイルがいろいろくっついてます。? と思って見てみると、今年はアイルランド国民にとって歴史の転換点となった一大事件である「復活祭蜂起」からちょうど 100 年。「復活祭蜂起」はイースター明けの 1916 年 4 月 26 日月曜日、首都ダブリン市中心部にある中央郵便局( GPO )をパトリック・ピアス[ 現地語ではポードリー・ピアス Pádraig Pearse ]ら 15 名を含むアイルランド人男女約千人が占拠し、「アイルランド暫定共和国樹立宣言」を読み上げた。折しも第1次大戦のさなかだったが大英帝国はすぐに重装備の正規軍を派遣、この英国軍相手に反乱は1週間つづき、ピアスら首謀者 15 名が処刑されたという一連の反乱のことです。当初、アイルランド国民の多くは彼らの性急な行動を非難する声さえあげたものの、さっさと幕引きしたい英国側が首謀者たちをろくに裁判にもかけずに次々と処刑したため世論は一変、その後の英愛戦争開戦へとつながった。ある本の言い方を借用すれば、「反乱指導者たちは、望みどおり自分の生命を犠牲にすることによって、過去 700 年におよぶ英国のアイルランド支配を終わらせることを確実にした」。

 添付文書の内容は、その「復活祭蜂起」の中心的役回りだった3人と、アイルランドの西の果てディングル半島のちっぽけな漁村ヴェントリー[ 現地語表記 Ceann Trá、もとは Fionntrá で英語化された際に転訛したもの、意味は fair strand、「美浜」ってとこかな ]と「意外な」関係があった、というもの。こんどの週末に開かれる記念式典では Ó Cíobháin 博士も ' FIONNTRÁ 1840 − 1920' という演題で講演するようです。

 以下、Ó Cíobháin 博士の了承も得て記念式典文書を拙訳にて全訳したものを紹介しておきます。なおアイルランドゲール語[ 綴りはすべてケリー方言 ]と英語のふたつの言語で書かれてますが( こういうのを「自己翻訳」と言うのかどうか )、必要に応じて「 Google 翻訳」なんかの力も借りて[ 前にも書いたが、印欧語族どうしの翻訳精度はけっこう高い ]、いちおう博士にとっての「ほんらいの母国語」であるアイリッシュゲールで書かれた文書も参照しています。おなじ書き手であっても、やはり若干の異同があり、拙訳にもそのへんをすこし反映させていただきました( アイルランドのことわざなど )。また「フィアナ( フィン )物語群」のひとつ「ヴェントリーの戦い[ フィントラーグの戦い ]」については、しんがりに付記してあります。




CUMANN STAIRE FIONNTRÁ / Ventry Historical Society
COMÓRADH 1916 Commemoration
‘Lia os a leacht’

ヴェントリー歴史協会
1916 年「復活祭蜂起」100 周年記念式典に寄せて


「彼らの墓に石碑を建て」

 ヴェントリーの名を世紀を越えて世に知らしめている唯一の称号が、『フィントラーグの戦い Cath Fionntrá 』の舞台がここだった、ということだ。フィアナ騎士団と英雄カイルテ・マク・ローナーンが「世界王」からアイルランドを守ったことを語る『フィントラーグの戦い』は 19 世紀以降、英語に訳されてひろく一般に知られるようになった数少ない「フィアナ物語群」のひとつであり、おなじ19世紀にアイルランド独立を目指して組織された急進派「フィニアン団」の名前もこの有名な伝説から採られたと言われている。

 19 世紀中葉、ヴェントリー村がいわゆる「スープキャンペーン」と呼ばれる英国教会[ アングリカン ]への改宗運動の本拠地に選ばれると、アイルランドとイングランド国民の関心はこの寒村に集まった。教員養成大学や教会、小学校、そして移住者用「コロニー」まで新設された。ただし、このころ当地のイリアンパイプス奏者トマース・オ・キネージェからアイルランド語歌謡を採譜したのは、じつは地元のアイルランド教会[ 英国教会派 ]聖職者シェイマス・グッドマン師である。この有名なグッドマン歌謡集に収められている 1,100 余りのアイルランド語歌謡のうち、4分の3 ほどがキネージェから採譜されたものだ。このアイルランド語歌謡集は現在、ダブリン大学トリニティカレッジ[ TCD ]にある。グッドマン師は 1879 − 96 年の 17 年間、TCD 教授でもあった。

 20 世紀初頭にヴェントリー村の将来を決定づけたのは観光と、文芸およびアイルランド語復興運動の興隆だった。村には2棟のゲストハウスが新築され、国内のみならず欧州大陸や英国からの観光客をもてなした。そのうちの1棟「眺海荘 Sea View 」の逗留客には、1904 年に( TCD およびダブリン高等研究所アイルランド語学教授だった )トマス・F・オライリー、TCDでグッドマンに師事した劇作家のJ・M・シング( 婚約者だったモリー・オルグッド嬢宛て書簡をここで書いている )、1907 年にはおなじくアイルランド語学者ショーセフ・ロイド[ ジョーゼフ・H・ロイド、アイルランド全土の郵便本局所在地およびダブリン市内の街路名のアイルランド語表記名をはじめて発表した ]、そして 1909 年にはアイルランド語学者でゲール語連盟にも参加していたイヴリーン・ニコルズ( 当時 24 歳、滞在最終日にブラスケット諸島沖で溺死 )がこのゲストハウスに滞在した。ニコルズ嬢の事故死後、「アイルランド婦人参政権連盟」代表を公然と名乗ったメソジスト教会員グレタ[ マーガレット・エリザベス ]・カズンズもここに宿泊している( カズンズ女史はハンナ・シーヒー−スケフィントン女史とともに同連盟の共同設立者 )。

 上述した滞在客のひとり T・F・オライリーは従兄弟のマイケル・J・オライリーの関心を惹いたようで、1912 年、マイケル・オライリーはヴェントリーに別荘を建てている。もっとも彼の場合は、ダブリンでアイルランド語を手ほどきしたヴェントリー出身のショーン・アン・ホータ氏の影響かもしれない。マイケル・オライリーが別荘を建てたのは、自分の家族にもアイルランド語の会話に浸れる環境を与えるためだった。1913 年、同様の目的で近所に居を移してきたのが、デズモンド・フィッツジェラルドアーネスト・ブライズのふたりだ。フィッツジェラルドはヴェントリーの沿岸警備隊詰所を間借りし、ブライズのほうは近くの農場で働こうとしたが、けっきょくリスポール村の海沿いの教区キナードへの転居を余儀なくされた。

 伝説の戦いの場と宗教上の鋭い対立という接点があるとはいえ、よもやこの長閑なヴェントリーに、一帝国の解体を画策する国民運動において傑出した個人を複数名見出すことになるとは思わないだろう。オライリーは「アイルランド義勇軍」創設者のひとりであり、彼とフィッツジェラルド、ブライズら3名はヴェントリーで義勇軍の組織と訓練に当たった。ダブリンから仕入れた情報を持ってオライリーが定期的に訪れると、決まって夜を徹しての長い討議に入った。彼らは 1915 年、「英国土防衛法」により摘発されてケリー州から追放された。その後オライリーは 1916 年の「復活祭蜂起」のさなかにダブリン中央郵便局内で戦死、フィッツジェラルドは逃亡した。残るブライズはアイルランド全土の義勇兵募集のかどで国外退去処分を言い渡されて、当時刑務所として使用されていた英オックスフォード城に収監され、彼らの蜂起をそこで知ることになる。このふたりは 1921 年樹立のアイルランド自由国政府閣僚となったが、フィッツジェラルドはその後米国へ渡り、インディアナ州ノートルダム大学哲学科客員講師となった。

 復活祭蜂起の舞台となったダブリン市以外でこれほどの革命の大物が見い出されるのは、1912 − 14 年のゲールタハト地区ヴェントリーくらいのものだろうが、「蜂起」100 周年の今年、心に留めていただきたいのは、記念式典の主目的として「和解」を掲げているということである。オライリーはケリー州北部、バリロングフォードの裕福な「英国教会派」の家庭で育てられた。彼は米国人実業家を父に持つナンシー・ブラウン嬢と結婚し、新婚旅行の際は「グランドツアー」として欧州各地で数か月を過ごした。驚くことに彼もまた父と同じく「治安判事」として1903−07年の「官報」にその名が挙げられているが、それとは裏腹に、彼の愛国主義は明白になっていた。妻ナンシーもアイルランド語を学び、その後「アイルランド婦人義勇軍 Cumann na mBan 」副総裁となる。ダブリン市のマウントジョイ刑務所の収監者への面会を断られると、刑務所前でハンガーストライキを行ったこともある。

  フィッツジェラルドはロンドン生まれだが、父はコーク州、母はケリー州の出身。ロンドン市内の詩人グループと交流したのち渡仏し、当時の習わしだったミューズ探しに旅立つ。彼の妻メイブル・マコーネルは、ベルファスト市で商売に従事する長老派家庭の出身である。マコーネルはクィーンズ大学ベルファスト卒業後、ロンドン大学大学院に進み、ゲール語連盟に参加した。彼女は一時期、G・バーナード・ショーやジョージ・ムーアの秘書を務めており、米国人詩人エズラ・パウンドとも知り合った。のちにアイルランド婦人義勇軍書記となった彼女はアイルランド内戦時、夫とは異なり共和国側についた。

 南アントリム州のアイルランド教会派農家出身のブライズは 1909 年、ダブリンから帰郷してバンゴール市の新聞社「北部ユニオニスト」紙記者となる。ダブリン時代に彼は劇作家ショーン・オケイシーの影響で IRB とゲール語連盟に加わった。自由国政府の財務大臣時代、彼は政府からアベイ座[ アイルランド国立劇場 ]への補助金を獲得した。のちに彼はアベイ座運営責任者、その後館長に就任し、長くその座にあった。

 19 世紀アイルランドにおいて、かくも多様なバックグラウンドを擁する綺羅星のごとき個人が政治的、文化的革命家として一堂に会した場所がこのような寒村だったことは、1916 年復活祭蜂起記念式典をあらゆる角度から祝うことを望む者にとって、これは注目に値する。彼らの動機とその後の運命には、真に文化的価値あるものの保全と、アイルランド国民間の真の宥和促進を願う人すべてにとってひとつの行動規範が示されている。「人々は出会うが、山々は出会うことがない」。彼らの功績は永く記憶されるべきものなのだ! 

 『ヴェントリーの戦い』はフィアナ騎士団のひとりキールと、彼とともに滅ぶ運命にある動物たちの死で終わっている。彼の亡骸は妻クリーと騎士団によって南の海岸、こんにちもキールにちなむ地名で呼ばれる浜から運び出された。クリーは「吼える入江 Géiseann Cuan 」という美しい詩を朗唱すると、キールに寄り添い、悲嘆のうちに事切れた。すぐにふたりはおなじ墓所に葬られた。「そして、彼らの墓に石碑を建てたのがこのわたしだった」とカイルテは言った。「『キールとクリーの墓』として知られるように」。

© Dr Breandán Ó Cíobháin & Curragh( webmaster of The Voyage of Saint Brendan the Abbot )

「ヴェントリー歴史協会」: 2009 年 4 月 8 日設立。協会設立趣旨:ヴェントリー地区の歴史と文化を調査研究し、その結果を複数メディアを通じて普及すること、考古学的遺構と出土品の保全、ならびにヴェントリーの現住民と遠隔地で暮らす出身者が共有する歴史および独自性を再認識する記念イベントを開催すること。




付記『ヴェントリーの戦い』について:『ヴェントリーの戦い Cath Fionntrá 』は、参照先記事にもあるように、フィアナ騎士団長フィン・マク・クウィル( フィン・マク・ヴォルとも )、一般的にはフィン・マクール[ ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』にも象徴的に出てきますね ]として知られている古代アイルランドの英雄のひとりが活躍する一連の物語サイクル「フィアナ物語群」に含まれる最古の挿話のひとつ。12、3 世紀ごろ編纂されたと言われる『古老たちの語らい Acallam na Senórach 』にすでに収録されている[「フィアナ物語群」の舞台はおもに東部レンスターと南部マンスター地方で、女王メイヴやクー・フリンなどが登場する「アルスター物語群」とは対照的。これにはもちろん当時のアイルランドの政治状況が反映されている ]。あらすじは、「世界王 Dáire / Dáiri Donn 」を名乗る侵入者が、自分の妻と娘と出奔した( !! )首領フィンに報復するという口実で大船団を率いてディングル半島ヴェントリーの美しい浜に押し寄せた。フィンと息子オシーン、フィンの甥カイルテ・マク・ローナーンとフィアナ騎士団はトゥアタ・デ・ダナーン[ ダーナ神族 ]の支援も取りつけからくも侵入者を撃破、だがその代償として夥しい戦死者を出した。そのなかのひとりキールの亡骸を探す彼の妻クリーは、ヴェントリー湾南の浜でようやく亡き夫を発見した。夫は敵の上陸阻止には成功したものの、溺死してしまった。クリーは悲嘆に暮れて「吼える入江 Géiseann Cuan 」を切々と歌いあげると、その場に事切れた。ふたりの亡骸はカイルテによっておなじ墓所に手厚く葬られた。

 なおこの挿話についてはこちらの書籍がたいへん参考になりました。なんと聖ブレンダンのことまで書いてある !! というわけで、こちらの本ものちほど本家サイト「参考文献」リストに追加します。

本文とまったく関係ない追記:この前、いつものように「古楽の楽しみ / リクエスト・ア・ラ・カルト」を聴いていたら、な、なんと、あの松川梨香さんがこの日かぎりで番組降板 !!! 週末の朝のひととき、あの春の薫風のごときさわやかなリスナーからのお便り紹介と楽曲紹介にひそかに癒やされていた身としては( て、はさすがにもう古いか )文字どおり寝耳に水だったので、ちょっとがっかり。いえいえ、後任の大塚直哉先生がイヤだ、なんて言う気はさらさらないですよ !! 大塚先生は、一度だけ、 静岡音楽館 AOI にてオルガンの実演に接したことがあるし、先生の「CLAVIS 〜 鍵」はお気に入りの 1 枚でもある。

2016年03月21日

「花に隠れた大砲」⇒ ブルックナー ⇒ エーコ語録

1). 先日見たこちらの番組。ショパンの「マズルカ」を叩き台に、このポーランド土着のダンス音楽の旋律にこめられた作曲者の想いに迫るといった内容でした。作曲者の想いに迫る、というのは、ようするにその楽曲を「解釈」することにほかならない。

 指南役マクレガー教授によれば、とくにこの「マズルカ」には故国を思うショパンの心情が表出していると言います。その傍証として挙げているのが同時代のリスト、シューマン(「諸君、脱帽せよ、天才が現れた」はよく知られた賛辞 )らのショパン評で、とくにシューマンはショパンの一連のピアノ独奏作品をして「花に隠れた大砲」だと言っているとか。一見、華やかで優美な舞踏音楽みたいに聴こえる彼の音楽には、祖国に対するつよい政治的メッセージが隠れているのだという。

 またマクレガー先生がその一例として実演した後期の傑作「マズルカ イ短調 17−4 」では、中途半端な感じの出だし、大胆な半音階的跳躍に「こたえを求めて彷徨いつづける」ような旋律線、そしていわゆる音楽上の「解決」もせず唐突に幕引きする終結部の革新性などに触れて、「このような音楽はほかに例がない」とも( もっとも「彷徨いつづける音型」というのはかなーり古い時代からあって、直接的には比較の対象にはならないものの、グレゴリオ聖歌の歌い方のひとつ Tonus Peregrinus というのがあったりします。またマクレガー先生はマズルカ作品の一節を弾いて、ショパンにおける対位法の扱いの例も実演していた )。

 「こたえを求めて彷徨いつづける」ということについては、数年前に NHK「あさイチ」にゲスト出演して「献呈」とかを演奏してくれた若き俊英、牛田智大さんのコメントともダブっていた。当時、まだ 13 歳だった牛田さんはリストとショパンが大好きだと言ったうえで、ふたりの音楽のちがいをこんなふうに説明していた。「リストは、とにかく『解決するぞッ!』って感じで音楽が進んで最後は解決するんですけど、ショパンのほうは最初は解決するぞッ! と思ってるんですけど最後のほうになると、ま、いいか! って開き直っちゃう感じなんです」。言い方はいかにも少年らしくて微笑ましいが、そのじつ直観的にショパン作品の本質を突いていたんじゃないかっていまになって思ったりします。そういえば牛田さんだったかだれかほかの演奏家だったか忘れたが、リストは弾きやすいがショパンはむずかしいということをおっしゃっていたピアニストがいた。

 マクレガー先生のおっしゃるように、ショパンはパリに亡命してきた身ゆえがちがちの古典派の枠からはみ出していて、だからこそ当時の聴衆の耳にも斬新な音楽作りができたように思います。バッハについても以前、似たようなことむ書いたような気がするが、たいてい芸術分野の革新というのは「中心」から来るのではなくて、「周縁」からもたらされる場合がひじょうに多い。マズルカ、ポロネーズなんかもそうですね。もしショパンが出現しなかったら、もしシューマンによって絶賛されていなかったら … 西洋音楽、ことにピアノ音楽の歴史が変わっていたかもしれない。

 蛇足ながらバッハも「ポロネーズ」を書いてはいるけれども、当時流行った宮廷舞踏音楽のひとつに過ぎなかったものでショパン作品とは区別して考えないといけない。強いてバッハとショパンの共通点を上げれば、ともに即興演奏の名手だった、ということか。一連の「マズルカ」も「音楽の捧げもの」と同様、ショパンの即興演奏の妙技を記録したという側面はあるでしょう[「24 の前奏曲」はバッハの「平均律」から着想を得ていると言われている ]。マクレガー先生によると、ショパン自身、「半音階のはしご」ということばを残しているんだそうな。そしてバッハと同様、後世の音楽家に多大な影響を与えてもいる、として、ヴァーグナーの「トリスタンとイゾルデ」3幕3場の出だしとグラズノフの「交響曲 第3番」を挙げている! あの「トリスタン進行」も、もとをたどればショパンの「半音階のはしご」だったのか !! そういえば昨夜の「クラシック音楽館」は、そのショパン国際ピアノコンクール入賞者によるガラコンサートの模様を放映してましたね。チョ・ソンジンさんの「英雄ポロネーズ」、むむむこれは … 作曲者が聴いたらニッコリするのではないかという、とてつもないアンコールピースでした。さすが天才肌なのかな、若さより解釈の深さが感じられる名演だったように思う。

2). 手許にあるこちらの文庫本。以前ここでもちょこっと紹介したけど、その中で岩城さんはブルックナーの交響曲作品について、「なぜこうゲネラル・パウゼ、つまり総休止が多いのだろう」と疑問に思っていたそうです。で、あるとき、かつてブルックナー自身も棒を振っていた楽友協会大ホールでブルックナーの交響曲を振ったとき、「はじめてその意味が」わかったのだと言います。
猛烈なフォルティッシモのあと、その響きがたいへん効果的に残り、それがグルグルと会場の中を回るようにホールの天井に登って行き、上の窓から外へスッと出て行ってしまうのを見たように思いました。……
… つまり、音が突然止まって、響きが残り、やがて消えていくのを追う喜びを、一生の間このホールをホームグラウンドにしていたブルックナーは曲に必要な部分として、ちゃんと構想に入れて作曲したのです( pp. 214 − 5)。
 で、たとえば『ブルックナー / マーラー事典』なんかを見ますと、終生、ザンクトフローリアンのオルガン奏者でもあったブルックナーらしく、オルガン音楽の影響として論じていたりします。
… ゲネラルパウゼ。これも初期の作品に多く見出される様式上の特徴である。…… 教会でオルガン音楽などを聴く場合に、残響の効果に絶大なものがあることは周知の事実であり、総休止にしても、そこには響きの要素が皆無となるわけではない。ブルックナーはそうした効果を日常的に感じ、それが交響曲の中にも反映したと考えることができよう( p. 27 )。
 だからと言って岩城さんの解釈がまちがっている、というわけではない。おそらく楽友協会大ホールという理想的な音響空間で長らく仕事をしてきたという体験も影響していると思うから、こちらも実体験にもとづいた楽曲の解釈の一例、と言うことができると思います。もっともオルガン好きとしては、たとえば「2番」とか「8番」なんかは、曲作りの発想法はオルガン音楽がベースになっているような気はしてますが。「8番」も「クラシック音楽館」でスクロヴァチェフスキ指揮、読売日本交響楽団によるすばらしい演奏も視聴できて、こちらもよかったです。

3). 先月 16 日に 84 歳で逝去された記号論学者にして小説家としても高名なウンベルト・エーコ氏。いまちょうどこういう対談ものを読んでいたので、最後にこちらからもすこしばかり引いておきます。
[ 知る、ということはほんとうに大切なことかと脚本家ジャン−クロード・カリエールの質問を受けて ]最大多数の人間が過去を知るべきかというご質問でしたら、答えは「はい」です。過去を知ることはあらゆる文明の基礎です。樫の木の下で、夜、部族の物語を語る老人こそが、部族と過去とをつなぎ、古( いにしえ )の知恵を伝えるんです。我々人類は、アメリカ人みたいに、三百年前に何が起こったかなんてもうどうでもいい、自分たちにとっては何の重要性も持たない、と考えたい衝動に駆られるかもしれません。ブッシュ大統領は、アフガン戦争に関する本を読んでいなかったので、イギリス人の経験から教訓を引き出すことができなかった、だから自国の軍隊を前線に送ったんです。ヒトラーがナポレオンのロシア遠征のことを研究していたら、ロシアに侵攻しようなんて馬鹿な考えは起こさなかったでしょう。冬が来る前にモスクワにたどり着けるほど夏という季節は長くないということがわかったはずです( pp. 418 − 9 )。

 … 本日はバッハの 331 回目の誕生日でしたが、先日地元紙見たら、音楽評論家の渡辺和彦氏が「レーガー、グラナドス没後 100 年、ヒナステラ、デュティユー生誕 100 年」という記事を寄稿していた。ヴァルヒャは毛嫌いしていたけど、そうか今年はマックス・レーガーの記念イヤーだったんだ。少年合唱好きにとっては、「マリアの子守歌」なんかがけっこう知られているとは思うが、オルガン音楽好きでないと、レーガーの名前さえ聞いたことない音楽ファンもけっこう多そうな気がする。


posted by Curragh at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽関連

2016年03月07日

いまごろはレオンハルト氏と、カントール・バッハ氏と …

 なにげなくぴろっと開いた、けさの朝刊。開いた瞬間、あーッと声を上げてしまった。

 マエストロ、ニコラウス・アーノンクール氏逝去の報でした。行年 86 歳。盟友レオンハルト氏は御年 83 歳で亡くなったから、すこしは長生きしたことになるのかな。年回りもたったひとつちがいで、ほとんど同級生みたいなもんですし。

 昨年 12 月 5 日、いきなり引退発表したときは、レオンハルトのときと同様、かなり深刻だったのかもしれない。目にした死亡記事によると、もう長いこと病気療養中だったとか。まったく知らなかった … 合掌。

 最後にふたつほど引用を。どちらも小学館の『バッハ全集』の解説本にくっついていた「月報」に掲載されていたもので、ひとつはお弟子さんのひとりフィリップ・ヘレヴェッヘさんのインタヴューからの抜粋ではじめてアーノンクール氏と出会ったときのこと、そしてアーノンクール氏自身のことばによる、バッハ讃を。
 「 … それは私たち[ ヘレヴェッヘさんが創設したコレギウム・ヴォカーレ・ヘントのこと ]にとってすばらしい経験でした。レオンハルト、アーノンクールという、バロック音楽に関する二人の偉大なマエストロに、現在でもそうですが、学ぶことができたのです。何がすばらしいかというと、彼ら二人があまりに違うからなのです。レオンハルトは内向的といってもいいかもしれません。それに比べ、アーノンクールはとても外向的です。そして彼はまたすばらしいオペラの指揮者でもあります。彼ら二人は根本的に音楽に対してのアプローチがまったく違います。ですから、二人からさまざまに違うことを学んだのです」
―― 『バッハ全集 教会カンタータ 5』小学館、1999 より

It has always been my conviction that music is not there to soothe people's nerves…but rather to open their eyes, to give them a good shaking, even to frighten them.' ―― Nikolaus Harnoncourt.

「音楽とは神経を鎮めたり、安らぎを与えるためだけのものではなく、人々の目を開き、心を揺さぶり、ときに驚かすためにあるものだ ―― ニコラウス・アーノンクール、『同 教会カンタータ 3 』 1998 より

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2016年02月29日

アランソン写本 ⇒「重訳」について

 本日は4年に一度しか巡ってこない貴重な一日ですので、有効活用しようかと思い立ちました( 苦笑 )。まずは本家サイト連動として「アランソン写本」のことについて、ディレッタントなりにすこしまとめてみました。

 本家サイト英語版には、こちらのユトレヒト大学サイト様に全文が掲載されているこの写本の現代仏語訳から ―― Google 翻訳などの便利なツールの助けも借りて ―― 拙訳による現代英語版にて紹介してあります。前にも書いたかもしれないですが、ワタシは仏語はいまだ初心者レベルのままなので、ほんらいはこういうことに手を出しちゃいけない … と思ってるんですが、経験上、Web 翻訳ツールによる仏英翻訳はそんなにハズれがないし、意味もそれなりにきちんと通ったりする。さすがはおんなじ印欧語族だなあという感ありですが、それに加えて手持ちの仏和辞書も引いたり、それでもハテナなときは原典のヒベルノ・ラテン語にもどって、羅和辞典なり信頼できる Web 上の羅英辞典なりで調べて訳語をひねり出したりしてました。見ていただければわかるように、われながらこれよくもやったものだな、と … このセクションを( いちおう、ではあるが )脱稿するまで数年がかりだったような … 訳出にどれくらいかかったかなんていまや記憶も定かではないし。

 本題にもどって … まずはこの「アランソン写本」というものがどういうものなのか、おもに上記サイトから抜粋して書き出してみたいと思います( 適宜、セルマー校訂本その他の資料も使用 )。
1. 写本の所蔵場所、出処、成立年代について:バス・ノルマンディー地域圏オルヌ県アランソン市立図書館蔵 Bibliothèque Municipale d'Alençon, Codex 14, f° 1 r − 11 v. 、出処はサン−テブルー大修道院[ 現在は廃墟 ]。成立年代は 10 − 11 世紀。

2. 『聖ブレンダンの航海』記述箇所について:写本 1 r − 11 v、写本寸法 180 x 140 mm[ 最初の 10 ページ分のみ、その他のページは 290 x 200 mm、全 156 葉 ]、各葉平均 40 行で、ふたり、もしくは3人の写字生によって書かれた可能性がある[ セルマー ]。またセルマーの分類では「長い」終結部、つまり「聖ブレンダンの帰還と死」を描写する章を持つ( セルマーによると、調査した 120 のラテン語写本群の半数強がこの最終章を持つ「長い」ヴァージョンだという[ Selmer, op. cit., pp. 97 − 99 ] )。前にも書いたと思いますが、この航海譚の「元型」にはこの最終章がなかったとする説があります。「短い」ヴァージョンと「長い」ヴァージョンの分化はアランソン、ヘントなど最古の写本群にも見られることから、わりと早い時期に生じたと考えられます。

3. 『聖ブレンダンの航海』本文の特徴:全体は 39 の章に分かれる( セルマー校訂版の底本ヘント写本[ Ghent, Universiteitbibliotheek, 401, ff. 1r − 21v. ]は全 29 章 )。各章の「見出し」はなし、拙英訳版の見出しはあくまで便宜上のもの。全体的に詰めて書かれているため、ヘント写本よりページ数は少ない。最初の4葉のみ 13 章分が、4葉以降は冒頭の大文字を書くためにスペースが空けられているが、一箇所を除いて空白のまま残されている。書体はいわゆるカロリング小文字体主体[ 一部アンシャル体、セミアンシャル体あり ]で、イタリアの研究者オルランディはメロヴィング朝時代の他の写本と共通点がいくつかあることを指摘、カロリング・ルネサンス以前のフランク王国内で書かれた可能性を示唆する[ → 参考までに中世アイルランドのカリグラフィーについてのページ ]。また本文には省略形が多用されている[ キリストを表す i と x の組み合わせ、「つまり id est 」を示す・|・など ]。

4. 異同箇所について:アランソン写本とヘント写本はその大部分がほぼおなじと言ってもよいくらいだが、若干の相違点がある。
アランソン写本にはあって、ヘント写本にはない単語 / 一節:セルマーによると3か所、うちひとつは一文まるまる追加。太古先生による邦訳版訳注 54 を参照。ちなみにその箇所はセルマー校訂版の 16 章「海の怪物」で、怪獣に襲われそうになったブレンダン院長一行が神に対して祈りを捧げる場面で、アランソン写本では預言者ダニエルへの嘆願が記されている。ヘント写本ではこの嘆願がふたつしかなく、次段落出だしの「3つの嘆願」と矛盾する。
ヘント写本にはあって、アランソン写本にはない単語 / 一節:1章の二文(「 … そこですぐに引き返しました。青年も舟のある汀まで来てくれましたが、舟に乗りこむと、たちまち青年の姿は掻き消されてしまいました。そして来たときとおなじ暗がりを抜けて、『歓喜の島』にもどってきました[ 打ち消し線部分がない ]」)、5章の最後( … おまえたちは悲惨な最期を遂げるだろう )、6章( … そのとき聖ブレンダンは弟子たちに言われた、「神はなんとよき使いを寄こしたことか? 彼[ 無人の島にいた犬のこと ]についてゆくのだ」)、 16 章(「今夜、ある魚の一部が打ち上げられ、おまえたちはそれを食べることになる」というブレンダン院長の予言 )、26 章「隠者の島」の描写箇所( ... 泉は湧き出すはじからその岩に吸いこまれ … )。

4. 冒頭部分( インキピット )の比較:ラテン語原文と拙試訳を載っけておきます( [ ]はアランソン写本中の表記 / 写本にある箇所、( )はない箇所、下線はヘント写本の表記、朱文字はヘント写本にない箇所)。

VITA SANCTISSIMI CONFESSORIS CHRISTI BRENDANI
[ INCIPIT VITA SANCTI BRENDANI ABBATIS ]

Sanctus Brendanus, filius Finloc(h)a, nepotis Alt(h)i de genere Eogeni, stagnili regione Mumenensium ortus fuit. Erat v[u]ir magn(a)e abstinentiae[ cie ] et in v[u]irtutibus clarus trium milium fere monachorum pater. / Cum esset in suo certamine in loco qui dicitur saltus v[u]irtutis Brendani contigit ut quidam patrum ad illum[ eum ] quadam v[u]espera v[u]enisset nomine Barinthus nepos illius. / Cumque interrogatus esset multis sermonibus a pr(a)edicto sancto patre, cepit lacrimari et prostrare se in terram et diut[c]ius permanere in orat[c]ione. At Sanctus Brendanus erexit illum de terra et osculatus est eum, dicens : "Pater, cur tristiciam habemus in adv[u]entu tuo ? Nonne ad consolationem nostram venisti ? Magis l(a)eticiam tu debes fratribus preparare. Indica nobis v[u]erbum Dei et refice animas nostras de div[u]ersis miraculis, qu(a)e v[u]idisti in O[o]ceano".

聖なる告解者にしてキリスト[ の使徒 ]ブレンダンの生涯

 聖ブレンダンは、エオガン[ オーガナハト ]王家に連なるアルテの孫フィンルグの息子として、ムウの男たちの治める湿原地帯でお生まれになった。偉大な禁欲の人で、数々の奇蹟と、三千人近い修道士の父としてその名はあまねく知れ渡っていた。その聖ブレンダンが、「ブレンダンの奇蹟の野」と呼ばれる地にて[ 霊的 ]戦いをつづけていたある日の晩、彼の甥* のバーリンドなる霊父がやってきた。聖ブレンダンが矢継ぎ早に質問を浴びせると、バーリンド師は涙を流し、床にひれ伏して長いこと祈りつづけた。聖ブレンダンは彼を床から起こすと、抱擁して呼びかけた。「あなたが来てくれたというのに、なぜ悲しまなくてはならないのか? [ あなたはわれらの心に慰めを与えるために訪ねられたはず。] どうか兄弟たちに喜びを授け、神の御言葉をお示しくだされ。あなたが見たという大洋のさまざまな驚異をどうかわれらにもお伝えくださり、われらの心を満たしてくだされ」。…
… 疲れた( 苦笑 )。ほんとはいまひとつ検討したい箇所があるんですけど、またの機会にでも。しかしそれにしても、いまの Web 翻訳ってすごい、と思う。Google 翻訳も、ついにラテン語からの直接翻訳が可能 ?! になっていてひじょうにおどろいた。そういえばしゃべると自動的に翻訳してくれる拡声器とかあるみたいで … 恐るべきはテクノロジーの進歩哉。

*… ここではあえてそのまま訳出した 'Barinthus nepos illius' という箇所は、カーニーによる書評( 1963 )で批判されており、正確にはバーリンドは「9人の人質」ニアルの4代あとの子孫になる。

付記:以上、書いてきたように、ワタシはアランソン写本のヒベルノ・ラテン語原文から現代英訳文を起こすのに、現代仏語訳 → そのまた英語訳という手順を踏んでました。ほんらい翻訳というのはそもそもの土台の原典なり原文から起こすのが原則だと思うが、いろいろな人の手になる英訳とか見てみると、なんというか翻訳という営為そのものを考えなおすいい機会になるというか … 前にも書いたことですけどおなじ現代英語訳と言ったって、オメイラ教授版とそれ以前に出回っていたウェッブ版とはずいぶんちがっていたし、定評あるオメイラ版にさえ「訳抜け」があったり不明な訳語 / 訳文なりがあったりと、いろんな意味で翻訳学校みたいなところがあったのも事実。

 というわけで、いま読んでるところの『 21 世紀の資本』。聞くところによればなんでも版元は邦訳本を刊行するに当たり、訳者先生方に、こんな分厚い大著の翻訳になんと2、3 か月しか猶予を与えなかったというトンでもないムチャ振り( !! )だったようで、訳者先生におかれましては ―― いくらこの手のお硬い本としては異例の売れ行きだったとはいえ ―― たいへん気の毒だったように思う。それでこれだけの品質を維持しているのだから、さすが、と言うべきでしょう。

 とはいえやはり「拙速」だったのかなあ、みたいな箇所もちらほら … 目につくのもまた事実でして、訳者先生自身による「正誤表」でほとんどが訂正され、また増刷分から訂正が反映されてもいるようですが、たとえばこういうのはいかがでしょうか。
… でもそこで問題になっている財産はたいして多くないことに注目。道徳的人物の所有財産は, 物理的な人間が自分のために保有する財産に比べて, 一般にはかなり少ないからだ( p. 190 )
 ちなみにそのおなじ箇所の原文と英訳を並べると、
[ 仏語原文 ]:Il faut toutefois souligner que l'enjeu est relativement limité, dans la mesure où ce que possèdent ces personnes morales est généralement assez faible par comparaison à ce que les personnes physiques conservent pour elles-mêmes.

[ 英訳 ]:Note, however, that the stakes are relatively limited, since the amount of wealth owned by moral persons is generally rather small compared with what physical persons retain for themselves.
 万年仏語初心者なので知らなかったが、こちらの先生の指摘どおり、手許の仏和辞書にも personne morale / personne physique という言い方は載ってました。ということは、ごく普通の言い回しと考えていいわけで、英訳もなんでこういう? 訳語になるのかなあ、と思ってしまう。邦訳書のトビラには「凡例」として、「翻訳には主に、英語版である Capital in the Twenty-First Century ... を用いたが、適宜、フランス語原版も参照した」とあります。

 前記事の引用に使ったケラーの『バッハのオルガン作品』という本の場合、訳者先生たちによると翻訳はあくまで独語原書から起こし、必要に応じて英訳版も参照したそうです( この本の場合は英訳版が事実上の改訂版のような性格だったため )。やむを得ず「重訳」するときは、ほんらいこの手順ですべきものなんだろうな、と思ったしだい。それともうひとつ「 … に注目」みたいな訳がずいぶんと多い。その箇所もざっと見てみたら、なるほど英訳本でも 'Note that ... 'みたいな文が多かったけれども、ピケティ教授の原文は、たとえば ' il est également important ... '、'Il faut toutefois souligner ...' みたいになっていて、こういうのもどうなの、と思った。なんかイマイチ読みにくいなあ … というひとつの原因にもなってます、ハイ。書かれてる内容はいいのにねぇ … 。

 というわけで、本日がお誕生日の方、おめでとうございます !! きっと楽しく過ごされたことでしょう。そういえば閏年って、オリンピックイヤーでもありますね … 。

2016年02月28日

ヴェックマンとフローベルガー

 先週の「古楽の楽しみ」は「音楽家を巡る人間模様」というテーマでしたが、ワタシがとくに惹きつけられたのはフローベルガーとヴェックマンの回。南ドイツ( とオーストリア )のオルガン楽派の代表みたいに思っているフローベルガーと、北ドイツのハンブルクで活躍していたヴェックマン。寡聞にしてはじめて知ったのが、ふたりはよきライヴァルにしてよき親友 ?! だったという事実。

 案内役の大塚先生によると、フローベルガーヴェックマンは 1645 − 53年のあいだ、ドレスデンにて夢の鍵盤楽器対決 !! をしたらしい。ってこれってどっかで聞いたような … そう、ドレスデンで音楽対決、というと、すぐバッハ vs. マルシャンを思い出す。こちらは 1717 年 9月、ヴァイオリン奏者にしてドレスデン宮廷楽師長ヴォリュミエに招待されたバッハがいそいそと行ってみたものの、当地に着いたら当の対戦相手マルシャンは不戦敗? を決めこんでさっさと帰国したあとだった。けっきょくバッハ氏のワンマンショーと化した … らしい。へぇ、ほぼ 70 年前にもやはりおなじドレスデンにてそのような「夢の対決」があっただなんて。

 でもこれってあとあとのオルガン音楽発展を考えるとすごく重要な史実だ、と思い、さっそく図書館へ。あいにく音友社『新訂 標準音楽辞典』には記載がなかったが、平凡社の『音楽大事典』のヴェックマンの項目には「 … ドレスデンに戻り、ここでフローベルガーとの競演が行われた」とはっきり書いてあった( フローベルガーの項目にも「 … ドレスデンでヴェックマンと競演し、親交を結んだ … 」との記述あり )。

 これがどうして大事かって言うと、北ドイツ・オルガン楽派を汲むヴェックマンと、南ドイツ流派のフローベルガーが互いの作品や情報を交換したことで、ふたつの大きな流派の作風が融合したってことです。やがてこれが大バッハのオルガン音楽へと流れこむ。オールドルフで教会オルガニストをしていた長兄ヨハン・クリストフの許に引き取られたバッハ少年、この長兄からはじめてクラヴィーアの手ほどきを受け、あッという間に課題曲を弾きこなしたものだから練習する作品がなくなった。そこでバッハ少年は、兄ちゃん秘蔵の楽譜が見たくてしようがない。ところがケチ[ 失礼 ]なクリストフ兄ちゃんは「まだアンタにゃ早すぎる !! 」とどうしても許可してくれない。しかたないから夜、みんなが寝静まってから、鍵のかかった格子戸の隙間に手を突っこんで楽譜を丸めて取り出し、月明かりのもとで(!)写しとった。後日、これがバレてしまい、せっかくの苦労の結晶も兄ちゃんに没収されてしまった。このとき写譜したであろう楽譜こそ、パッヘルベル、ケルル、そしてフローベルガーらの鍵盤作品だったと言われてます。

 やがて長兄の家を去り、リューネブルクの聖ミカエル教会の聖歌隊学校に入ったバッハ少年は、学校から歩いて数分のマルクト広場に面した聖ヨハネ教会オルガニストだったゲオルク・ベームの教えも受けたことが確実視されてもいる。* この人はスヴェーリンク、シャイト、シャイデマン、ラインケン、トゥンダー、そしてヴェックマンといった北ドイツ楽派の流れを汲む巨匠のひとりだったので、この時点で早くも若きバッハは南と北のオルガン音楽流派を体得したことになる。1703 年、弱冠 18 歳の若きオルガニスト・バッハは破格の待遇でアルンシュタットにできたばかりの聖ボニファティウス教会( 新教会 )の、しかもできたてホヤホヤのオルガンの奏者として赴任。このアルンシュタット時代にかの有名な「夕べの音楽」を聴きにはるばる 300 km 以上もの道程を歩いて( !! )ハンザ同盟都市リューベックのブクステフーデ師匠を訪問することになります。こうしてバッハはフローベルガーらの流派からはフレスコバルディなどを源流とするイタリアの鍵盤音楽、ブクステフーデやベーム、ラインケンなどからはヴェックマンを含む北ドイツ・オルガン楽派の作品を学習したことになります。これにいわゆる「ヴィヴァルディ体験」と呼ばれる一連のオルガン / クラヴィーア協奏曲といった編曲もの( マルチェッロの有名なオーボエ協奏曲のクラヴィーア編曲 BWV. 974 もあり )と、マルシャンなどのフランス音楽趣味も自家薬籠中の物としたバッハは、結果的に当時の全欧州の音楽の流儀を統合する方向へと進むことになり、「バッハ様式」とでも呼んでもいい高みへと登りつめることになります、って砂川しげひささんの『のぼりつめたら大バッハ』じゃないけど。

 ↓ は、ケラーの『バッハのオルガン作品[ 音楽之友社、1986 ]』邦訳書から転載( フローベルガーとヴェックマンを結ぶ実線、およびプレトリウスとヨハン・クリストフ・バッハ[ 父の従兄のほうですが … ]を結ぶ点線は、引用者が追加したもの )。

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 ついでに金曜の夜に見たこの番組、いやー、おもしろいですね !! というかなんとまたタイムリーな。ちょうどフローベルガーとヴェックマンのこと書こうかな、なんて思っていた矢先だったので。「教会カンタータ BWV. 82 [ シメオンの頌、いわゆる Nunc Dimittis が主題 ]」の有名なアリアの「ラメントバス」音型とか、「ジーグ」の話とか( 富井ちえりさんという英国王立音楽院大学院に留学されている方の BWV. 1004 の演奏はすばらしかった、そして使用楽器は 1699 年製ストラド !! )、話しているのが王立音楽院副学長なんだから当たり前だが正確かつ当を得た、そして比喩を交えたとてもわかりやすい講義でとてもよかった … だったんですけど、視聴していておや? と感じたのが、いまさっき書いたばかりのバッハのアルンシュタット時代の不名誉な逸話についてのお話のところ。夏のある日、広場のベンチにバッハが座っていたら、「禿頭のバッハ[ ガイエルスバッハ ]」という渾名の教会聖歌隊ファゴット吹きの学生に呼び止められてケンカになったという有名なあの話。バッハは「ナイフ」を抜いて応戦した … ってアラそうだったっけ、砂川さんの本のイラストにもあったように、たしか腰に下げていた礼装用のサーベルを抜いてチャンチャンバラバラじゃなかったっけ、なーんて思ったので、さっそく本棚からシュヴァイツァーの『バッハ』上巻を繰ってみた。そしたら、「 … 彼[ バッハ ]は合唱隊員たちや、その指揮をしていた生徒と非常に仲が悪かった。リューベック旅行の前には、彼とガイエルスバッハという生徒とのあいだにとんでもない一場があった。ガイエルスバッハは、バッハに罵倒されたというので、街上で杖を振上げてバッハに殴りかかった。バッハは短刀を抜いた」。† もうひとつ『「音楽の捧げもの」が生まれた晩』を開くと、
教会の記録によると、ファゴット奏者の学生ヨハン・ハインリヒ・ガイアースバッハがマルクト広場で帰宅途中のバッハの行く手をふさぎ、自分の演奏をやぎの鳴き声と比べたことについて糾弾するとともに、教師であるバッハを臆病な犬と呼んだあげく、棒で殴りかかったという。バッハはのちに、ガイアースバッハが先に殴りかかったのでなければ、間違っても短剣( 血気盛んな人間の多かった当時は、みな普通に持ち歩いていた )を抜くようなまねはしなかったと述べている。教会の説明によると、「両者とも[ ガイアースバッハと ]一緒にいた学生がふたりを引き離すまでもみ合っていた」という[ p. 109 ]。

 …「短剣」が、一部の人の頭のなかでは ―― ワタシも含めて ―― いつのまにか「腰に下げたサーベル」というイメージにすり替わっていたようです[ とはいえ「血気盛んな人間の多かった当時は、みな普通に持ち歩いていた」っていう但し書きだかなんだか知りませんけど、これってどうなのって思うが ]。いずれにせよ王立音楽院副学長ジョーンズ博士の言う 'he drew a knife ...' というのは、やっぱり dagger とかって言い換えたほうがよいような気がするが … それはともかく、事実関係はこまめに裏を取りましょう、という教訓でした。ちなみにバッハという人はたいへん控え目な人だったらしくて、自分の腕前をハナにかける、なんてことは生前なかったようです。敵前逃亡したマルシャンの鍵盤作品の楽譜も持ってて、弟子の前でよく弾いて聴かせていたらしい。なんと謙虚な、だがすこぶる貪欲な音楽家なのだらう !!

 話をもとにもどして … フローベルガーと仲よくなったヴェックマン、互いの作品を交換するだけでなく、親友から学んだ南ドイツ流派の技法をさっそく取り入れた作品も書いており、そのサンプルとしてかかったのが「カンツォーナ ニ短調」でした。ここでは便宜上南ドイツ楽派として書いているフローベルガーですが、この人はいわゆるコスモポリタンでして、ローマで大家フレスコバルディの許で研鑽を積んだのち、パリ、ロンドン、ブリュッセルと巡ったあと、晩年を指揮者コンクールで有名なブザンソンにも近いエリクールで過ごしたらしい。この人の曲集に出てくるトッカータは即興的なフーガ部分を含み、これがやがては「トッカータとフーガ」形式へと発展することになります。そして若かりし日の先生のひとりに、以前ここでもちょこっと書いたオルガニストのシュタイクレーダーもいたというから、やはりつながってますねー。

 ついでにヴェックマンのほうはなんと、ドレスデン宮廷にてハインリヒ・シュッツ門下の少年聖歌隊員だったという! シュッツの弟子だったんだ、この人。ちょうど 30 年戦争のころ、たいへんな時代を生き抜いた音楽家だったのでした。

* ... 椎名雄一郎さんのアルバム The Road to Bach の角倉一郎先生の書かれたライナーによると、「 … 2006 年にヴァイマルの図書館で驚くべき楽譜が発見された。それはバッハ自身がタブラチュアという記譜法で書き写したラインケン( ハンブルクのカテリーナ教会オルガニスト )のコラール幻想曲『バビロンの流れのほとりで』という有名な曲で、この手稿譜の最後には『ゲオルク・ベームの家で、1700 年にリューネブルクで記入』( Ā Dom. Georg Böhme descriptum a. 1700 Lunaburugi )とバッハ自身の手で記されている。しかもこの楽譜が書かれている紙の種類が、ベーム自身が日頃使っていた紙と同質であることも確認されたのである。この事実は何を語るのだろうか? もっとも自然な想像は、この楽譜を筆写したとき、バッハはベームの家の内弟子として同居していただろうということである[ p.2]」とのこと。

† ... アルベルト・シュヴァイツァー / 浅井真男他訳『バッハ 上』白水社、p. 149 、典拠はアンドレ・ピロによる。

追記:というわけで、先日いつも行ってる図書館にていくつかバッハ関連本漁ってみたら、「 … バッハは腰に差していた剣を抜いて … 」とか、『バッハ資料集』の引用として「 … バッハは剣を抜いて … 」とか書いてあった。日本語で「剣を抜いて」とくると、たいていの人は「短剣」ではなく、やはりサーベルのほうを連想するんじゃないかな。というか、短剣かはたまたサーベルか、バッハはいったいどっちの「武器」を手にしてガイエルスバッハと対峙したのであるか ??? そしてよくよく考えると ―― いや、よく考えなくても ―― 今年ってフローベルガーの記念イヤー( 5月 19 日で生誕 400 年、その前の 16 日はわれらが聖ブレンダンの祝日 )、そして生年不詳ながらもいちおうヴェックマンも、一部資料によればおない年生まれということになってます。ということで個人的には、今年はヴェックマン&フローベルガー全作品を制覇しよう !! と決めたのであった。

posted by Curragh at 14:47| Comment(0) | TrackBack(0) | NHK-FM

2016年02月14日

ジャヌカン、「重力波の音楽」、etc.

 この前「スター・ウォーズ」サーガ最新作を見に行ってきたばかりで ―― しかもラストがスケリグ・マイケルという ―― 興奮冷めやらぬなか、こんどはほんとの宇宙、それも遠い遠いはるか彼方の、なんと 13 億光年( !! )もの彼方からとんでもない「波」がこの地球までやってきて、それを国際科学者チームが捉えたというこれまた衝撃的なニュースが飛びこんできまして、この方面にまるで疎い人間も( これでも昔は天文少年みたいなところはあった )久しぶりにわくわく感を味わっているところであります。


 'We have detected gravitational waves. We did it!'

 米国レーザー干渉計重力波検出器[ LIGO ]研究所のデイヴィッド・ライツェ所長が「重力波観測一番乗り」を果たした歓喜からか、上気した面持ちで発表した会見の模様が何度も TV ニュースに登場しましたね。たしかにこれすごいことです … とほうもない質量を持つブラックホールが、しかも2個も !! まさに「合体」するそのときのこれまたとほうもない重力波、というか重力「嵐」みたいなものが 13 億年もの時空を文字どおり飛び越えて昨年9月ごろに、しかも 観測装置 LIGO の試験中に(!)たまたま捉えた、というのだから。まさにびっくりポンや。

 だいぶ前、故南部陽一郎博士ら日本人研究者3名がノーベル物理学賞を受賞したとき、「クォーク」とか「反粒子」とか、そんなことを古代のグノーシス神話とからめてここでもちょこっと触れたことがあったけれども、「フォースの覚醒」と「シネマの天使」を見に行ったついでに立ち寄った静岡駅前の本屋さんでたまたま「みすず書房フェア」というのをやってまして( もちろん例のピケティ本もデンと陳列されていたけど、そっちではなくて[ スミマセン … ] )こういうささやかな著作を買った。当方、キャンベル本にも言及の出てくるミルチャ・エリアーデとかの著作は図書館にて眺めたことはあったけれども、こちらの「構造主義」についてはまるでさっぱりではあるが、著者レヴィ−ストロースが英語で( !! )行ったという講演録であり、ぴろっと拾い読みするとたとえば「バッハの時代に形をととのえたフーガ形式は、ある種の神話、つまり … 」なーんてあるもんで、つい買ってしまった( 苦笑 )。帰宅してワイン呑み呑み読みはじめたらけっこうおもしろかったので、読了したらここでもなにか書くかもしれません、といつもこればっかでごめんなさい。ようするに、昔の人の思想ないし神話体系には、なにかしら現代の、しかも最先端科学と思われている分野と不思議なことにつながりがあったりする、ということが言いたいのでして( たとえば古代世界のヒエラルキーは宇宙秩序を模したものとしての神話体系と密接な関係があり、その最古の例がシュメールで発達した神聖都市国家文明 ) … そしてそうそう、今回はじめて「検知」されたという重力波を、なんとなんと「音楽」化してしまう試みまでされていたのでありました。こっちにもまたビックリ ↓

 

 音楽ついでにこの前の「古楽の楽しみ」では、クレマン・ジャヌカンの楽しい声楽作品もいくつかかかってました …「パリの物売りの声」、「女のおしゃべり」といった世俗歌曲作品を聴きますと、なんというか当時の市井の人々の活気と言いますか、息遣いみたいなものまで感じられてすごく生々しく、というかはっきり言って前衛的、ポップでさえある! 以前にもこの番組でジャヌカンのこういった世俗歌曲を耳にしたことがあったが、オノマトペや効果音を多用したりと、ダ・ヴィンチが生きていたころの音楽とはとても思えない。もっとももっと真面目な、厳格な模倣対位法によるラドフォードなどの宗教声楽作品もかかってましたけれども。この時代の音楽ってなんか温度差(?)がはっきりしていておもしろいですね。いずれにせよこういう壮大な「宇宙の調べ」に耳を傾けていると、日々報道されるたぐいのイヤなニュースだの醜聞だのからつかのま解放される気分になる。

付記:突然ですがこちらの最初の設問、どう思われますか? 

 見てのとおり今年度のセンター試験の「世界史B」の第1問です。で、これはワタシにかぎったことじゃないと思うんですけど、たとえば「下線部 (1) に関連して … 」なんて書かれると、いわゆるカロリング・ルネサンスに関することかなってまず思いますよね ところが選択肢を見てみると、ナポレオン3世は … とか、イヴァン3世は … とか、てんでカンケイない事項ばかり羅列してある。もっとも公正を期して断っておけば、ほかの設問でもこういうわけのわからん選択肢が並んでいるわけじゃないです。が、こういう意味のない選択肢から解答させるってのはもうやめるべきではないかと思うのです(「正解」以外の選択肢はみな誤ってるのは当然だろ、という突っこみはなしでお願いします。そういうこと言ってるんじゃないので )。「下線部に関連して … 」ったって、「カール大帝」とはなーんも関係ない人[ と時代 ]ばっかですし。なんというか、辞書に載ってる単語をなんの脈略もなく、ただ順番にやみくもに記憶しようとしているようなもので、そんなんじゃ「世界史」という科目に親しみを感じるわけがない。記憶というのは芋づる式につながってゆくのが理想で、こういう設問を繰り返されれば受験生でなくてもだれだって辟易するし、嫌気も差すってもんですよ。

 ついでに今年の英語の試験問題[ PDF の 27 ページ以降 ]を見て印象に残ったのは、やはり音楽がらみでオペラの窮状(!)を綴った読解問題。設問じたいは、高校時代にまじめに勉強していれば大丈夫でしょう(?)。「この一節に最適なタイトルは?」と問われてまさか 'How to Make Money in Opera' なんて回答する生徒さんはいまい … それはともかく、
... Society seems accept the large salaries paid to business managers and the multi-million-dollar contracts given to sports athletes.
というのは、なんだか『 21 世紀の資本』の一節かと思うような一文でした( athletes ついでにさらに脱線すれば、athlete's foot はいわゆる水虫のこと )。

 花粉症にはつらい季節到来 !! 巷はやれヴァレンタインだのなんだのとかまびすしいけど、2次試験の時期ですね … 受験するみなさんは体調を整えて、がんばっていただきたいと思います。

posted by Curragh at 23:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近のニュースから

2016年01月31日

「SW EP 7:フォースの覚醒」&「シネマの天使」

1). 往年の「スターウォーズ」ファンを自認するひとりながら、今作「エピソード7 フォースの覚醒」 ―― ルーカスフィルムを買収したウォルト・ディズニー・カンパニーに制作権が移ってどうなんだろ、と訝しげに思っていたこともあり ―― ようやくいまごろになってのこのこ見に行ってきた、しかも静岡市まで。その理由は、またのちほど[ お断り:以下、ネタバレ注意です ]。

 率直な感想としては … déjà vu の連続、というのが第一印象、いい意味でもそうでない意味でも。いい意味では … やはりミレニアム・ファルコン号に「帰ってきた」ハン・ソロ船長 & チューバッカの往年の名コンビかな。'Chewie, we're home ! ' パンフ[ 1,000 円也 ]によると、このシークエンス撮影ではスタッフがなんと 150 名(!)も勢揃いして、固唾を呑んで見守っていたとか。たしかに 1978 年本邦初公開時[ 日本では1年遅れの公開だった ]以来、映画館でこの壮大なる宇宙サーガ作品見つづけてきた人間が見れば、感慨もひとしおというもの。というかキャリー・フィッシャーもハリソン・フォードも、30 数年前とほぼおんなじコスチューム着てなお現在もバシっと決まっている、という点に軽い衝撃を受けた[ もっとも、それなりに年はとってますが ]。

 そうでない意味での既視感 … もまたけっこうありました。「ルークを探せ」というオープニングロール( これは EP 5 でも出てきた )、そしてカンティーナ酒場、ジャワ族、ヨーダ … といった場面やキャラクターが「変奏」され変形されて再登場してきたかのような。雪だるま型(?)アストロメク・ドロイドの BB−8 が惑星ジャクーの砂漠に逃亡してきた場面なんか、そのまんま EP 4 の C−3PO と R2−D2 のタトゥイーン逃亡シーンとダブりますし。

 もっともこれは表面的なことで、脚本ないし筋書きはなかなか見応えありです( 脚本を書いたのはこのシリーズではおなじみのローレンス・カスダン ) … とはいえあいかわらず 3D ゲームよろしくドッカンドッカンいろんなものが吹っ飛びますし、宇宙空間の戦闘シーンは( こっちがトシとってきたから、というのもある )もうピカチュウ顔負けの激しい光の明滅の連続で、かなり目にこたえました orz ひとつ不満を言えば、ハン・ソロがちとかわいそうだったような気が … 。

 ところが … 旧帝国軍残党どもの立ち上げた「ファースト・オーダー」に共和国側レジスタンスがいちおうの勝利を収めたあと、フォースに「目覚めた」ヒロインがその憧れのジェダイマスター、スカイウォーカー師匠に「大切なもの」を届ける場面を目にしたとき、今作鑑賞の最大級の衝撃がワタシを襲った … ハイパースペースを抜けてやってきたファルコン号が海に覆われた惑星に近づく。そしてスクリーンいっぱいに映しだされたのが、茫漠たる大洋に忽然と突き出す荒々しい岩山の島、天空へと吸いこまれるかのようにえんえんとつづく石段、蜂の巣型の石組み … オイオイ、なんだこれ世界遺産のスケリグ・マイケルじゃないか !¿!? そしてあのジェダイマスターの後ろ姿 … 当方は中世初期アイルランドケルト教会の修道士にしか見えなかった! この時点でとたんにそれまでのストーリーはすべてどこかへトンで、アタマの中はかなりの混乱に陥ったのであった。いやもうほんとに、椅子からコロけ落ちそうになるくらい、もうぶっとびのラストでしたよ。

 だって考えてみてもください … 聖ブレンダンがかつていたであろう場所が、自分が小学生のときからずっと映画館で見つづけてきた「遠い昔、はるかかなたの銀河系で」のサーガの7番目のエピソードの最終場面で登場するのを目の当たりにしたのだから … 大袈裟な言い方ながら、ワタシはいままでこの場面を目撃するために生きてきたのかもって思いましたよ。こんな偶然、確率論的にそうはないだろう。

 ちなみにこのラストシーン、現地アイルランドの観客もビックリしたそうな … そりゃそうだろう、極東の島国にいるワタシだってそうだったんだから! スケリグ・マイケルのこのシーンは背景の海にちょちょっと架空の岩島を描き足し[ ただしすぐ後方の「山」の字型の岩島は実際の小スケリグ島 ]、アイルランド本土を消しただけで、ほぼそのまんまの風景で登場[ 山頂の「蜂の巣型」修道院僧坊や十字架の墓標までそのままの姿で登場した ]したのだから、驚かないほうが不思議というもの。

 余談ながら、この手の映画制作につきものの最新映像技術に関連して、こういうニュースも流れてこっちも負けずに衝撃だった。なんでもスポーツ実況記事や企業の決算報告記事なんかはいまや AI による「自動生成」に取って代わられつつある … らしいし、SF 映画の中の話だと思っていたものがいまや実用化されつつある、という昨今、BB−8 みたいなドロイドはとても役に立つだろうけど、使用法を誤ればそれこそ星系まるごと吹っ飛ばす最終兵器にもなりかねない、という危惧も同時に抱いたのであった( それにしても、みなさん BB−8 好きですね … BB−8 が R2−D2 と一緒に出てきたシーンもあったけれども、あれは兄弟的なものなのかな ?? 主人のマスター・ルークが行方不明になってからというもの、ずっと眠りこけてる R2−D2 をなんとか「覚醒」させようと躍起になってるとことかは笑えた )。

 最後にハン・ソロの名台詞をひとつ。ゆさしいから試訳不要でしょう。ヒロインのレイが、敵陣のどまんなかで脱走兵フィンやソロ船長、チューイと再開した場面で、フィンとしっかと抱きあう光景を見て ―― 'Escape now, hug later ! '

評価:るんるんるんるんるんるん

2). 「フォースの覚醒」をわざわざ静岡市くんだりまで出かけて見に行ったのも、「シネマの天使」が見たくてのことでして … 近隣の劇場では公開される予定がないようだったので、ならついでに「フォースの覚醒」も見てくるか、というしだい。スケリグ・マイケルの衝撃冷めやまぬなか、前日から降りつづいていた雨のあがった静岡市街を突っ切って静岡シネ・ギャラリーという劇場へと移動。ここは変わった映画館でして、なんと目の前が臨済宗の禅寺。それもそのはず、ここは本来はここの寺院の檀家さんのための「信徒会館」なのであった。映画館はここの建物の3階にありました[ シネ・ギャラリーでの上映予定作品では、「サグラダ・ファミリア」の記録映画に興味あります ]。

 「シネマの天使」を見に行った理由、それはひとつには静岡県民にも親しまれていた俳優の阿藤快さんの遺作となった作品だから、というのがある。「旅人、あいまに役者の … 」という前口上でおなじみの阿藤さん。その阿藤さんみずから「映写技師役」を志願して演じたというのがこの作品だったと聞いてます。

 このお話の舞台になった広島県福山市の「シネフク大黒座」さんは、なんと日本最古級の 122 年もの長い歴史を持つ老舗映画館で、監督さんが映画館の人と会食していたときにその思い入れの深さに打たれて長編作品として制作し、「大黒座の記録を後世に残す」ことを決めたそうです。なので舞台は実在の大黒座さん、地元市民の方も多数出演しています。ストーリー的には、和製「ニュー・シネマ・パラダイス」といったところでしょうか。ミッキー・カーチスさん扮する飄々とした「映画館に棲みつく天使」という発想がとてもおもしろかったし、「映画の中ではなんでも可能である」、「自分の知っていることを映画にすべし」とか、映画作りの疑似体験までさせてくれるよくできた「古きよき映画館へのオマージュ」的ファンタジー、という作品でした。阿藤さんの映写技師もすばらしかった。こういう作品が遺作になって、きっとご本人も満足に感じていることだと思う。

 「フォースの覚醒」の主演デイジー・リドリーと同様、この作品の主演もまた藤原令子さんという撮影当時まだはたちになるかならないかぐらいの若い女優さんが演じてました。相手役(?)の本郷奏多さんは、神木隆之介さんとならんで若いながらもベテランの役者さんですね。とはいえあんな色の白くて華奢な「バーテンダー」というのは、ある意味希少価値ある存在かも。そしてあのボトルキープしてあるとおぼしき赤ワインを客のグラスにどぼどぼ注ぐ場面、てっきり「日本酒」かなんかの瓶を注いでいるのかと思いました( 苦笑 )。

 … エンドクレジットでは、姿を消していった全国各地の老舗映画館の「勇姿」をとらえた写真も流れてました。静岡からは静岡市にあった「静岡ピカデリー」と「静岡オリオン座 / 有楽座」の姿も … そういえばワタシがはじめて「スター・ウォーズ」を見たころ、まだ ABBA は活動していたしトラボルタは痩せててカッコよかった(「サタデー・ナイト・フィーバー」のことです)。「映倫」マークはあったけどいまじゃ考えられないくらいユルくて、とても子ども向けじゃないだろコレっていう作品と「2本立て / 3本立て」なんていうのもあったし、オールナイト(!)なんていうのもあった( いまのレイトショーじゃなくて、ほんとに朝まで一晩中やっていた )。さらに言えば「入れ替え制」でもなかった。EP 4 の「あらたなる希望」のときなんか、たしかデススターの「ごみ処理区画」にクジラの腹に閉じこめられた預言者ヨナのごとく若きルーク、ハン・ソロ、レイア姫が閉じこめられて「R2、はやくこの処理施設を止めろッ !! 」とかなんとか絶叫している場面で平然と入館していたし … ワタシの住んでる街もこういう老舗映画館が次々となくなっていきましたよ。いまや映画作品は ―― Netflix だったかな ―― 高速回線につないでいればネット経由で見られたりするし。ホームシアターという家にいながら 5.1 ch サラウンドなんたら … という贅沢を楽しめちゃう、そんなご時世ですし。そんなときに、「金払って、見知らぬ者どうしがまっ暗な空間を共有して」映画を鑑賞する、というスタイルじたいがもう時代遅れになったんだ、と訥々と語る映写技師の阿藤さんの台詞(「映画館の天使」もまたおんなじこと繰り返していたけど )が、たいへん印象に残った、いい作品でした。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるん

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2016年01月24日

『トゥヌクダルスの幻視』( Navigatio chs. 17, 24, 25, 28 )

 大晦日から正月にかけて、この時期恒例の(?)「積ん」読書に励んでいたわけですが、その中にこちらの文庫本もありました。こちらもまた広い意味で中世ケルト修道院文学の範疇に入るんですど、よりによって「地獄めぐり」なお話。この前バッハのクリスマスコラール「天よりくだって」にもとづくカノン風変奏曲の記事書いたばっかでいきなり地獄めぐりとは、という気もしないではないが、本日は 12 世紀、アイルランド南部マンスターの首都カシェル生まれの若き騎士トゥンダル[ 日本語版表記は独語読みの「トゥヌクダルス」]が体験した地獄めぐり体験と、ラテン語版『聖ブレンダンの航海』とをからめて、「番外編」として思いついたこととかちょっとだけ書いてみます( なお、上記日本語版はもっと有名な同時代のもうひとつの地獄めぐり譚の『聖パトリックの煉獄』のみの表題になってます。営業的配慮? 「地獄めぐり」ついでに伊豆半島船原地区には、こういうテーマパークもあります … かれこれ半世紀くらい店開きしていて、ワタシも数えきれないほどここの前を通過はしてるけど、これまで一度も入ったことなし )。

 『トゥンダル[ トゥヌクダルス ]の幻視』* は、この手のものとしては珍しく著者名がわかっていて、かつ成立年代もわかってます。書いたのは「修道士」マルクスという人で、1148 / 9 年に書かれたと言われてます。マルクスはベネディクト会系修道士で、当時、大陸で盛んになってきたシトー会修道士による「霊性刷新運動」の母国アイルランドへの普及に多大な貢献のあった偉大な先輩司教4名も引き合いに出して、「レーゲンスブルクの聖パウロ女子修道院長」ギゼラ Gisela のために書かれ、献呈したと「序文」で自ら明かしています[ 当時のレーゲンスブルクはアイルランド系修道士の活躍の中心地だった、という点にも注目のこと ]。筋立てはひと言で言えばダンテの『神曲』で描かれる「地獄篇 / 煉獄篇 / 天国篇」の前触れというか、先駆けみたいな内容で、放蕩三昧の若き騎士トゥンダルがある日、馬3頭の貸しのある友人の家に呼ばれて食卓についたとき、いきなり卒倒してそのまま死んだようになり、三日三晩、「信じ難く、耐え難い、数多の種類の拷問」を経験した。その後トゥンダルは改心し、それを見てとった導き役の天使は彼の魂の向きを転じ、こんどは上方、つまり光明の世界へと案内して彼に見せた。どんどん昇って「第九の栄光の場」と呼ばれる最高天を囲む壁から中を覗き見たあと、トゥンダルの魂はふたたびもとの肉体へと帰還し、「後日、… 見たことすべてを吾等に口述し、善き生活を送るように警告するとともに、かつては知ることのなかった神の御言葉を、大いなる敬虔さと謙虚さと学識をもって」説いた。

 細かいことは日本語版訳者の千葉先生による「訳者解説」、そして詳細な註釈にお任せするとして、この「地獄めぐり譚」、ラテン語版『航海』との関連もなくはなかったりします( もちろん成立に際して直接的な関連はなにもありませんが )。たとえば a. 「炎と煙から成る、悪臭を放つ柱が聳え、天空高く達していた。… 夥しい数の魂と悪霊がいて、火炎とともに噴き上がる火の粉のごとく、昇っては煙のように霧消して、こんどは悪霊もろとも竈の底まで落ちていった( p. 67 )」、b. 「第一の栄光の場」の「そこに夜はなく、太陽が沈むこともなく( p. 79 )」という描写、そして c. 「第四の栄光の場」にいるトゥンダルの主君コルマクス[ 非業の死を遂げた実在のマンスター王コルマック・マク・カルシー Crmac Mac Carthaigh、在位 1124 − 38 ]が「毎日、3時間にわたって拷問を受け、残りの 21 時間は休む( p. 85 )」という箇所が、個人的に目に留まりました。

 a. のような記述を見ると、ついこちとらとしては、「遠くから島を振り返ると、山を覆っていた煙は消えて、火炎が空高く噴き上がったかと思うと、また呑みこみ、山全体から海まで、燃えさかる積み薪のように見えた[ '... ita ut totus mons usque in mare unus rogus apparuisset.' ]」という『航海』 24 章「炎の山」の描写を思い出す。ひょっとしたら作者マルクスはディクイルとかの記述を読んでいたのかもしれないが、こちらの出典はふつうにギリシャ / ローマ古典作品の「黄泉下り」もの、オルフェウスとかアエネーアスとかなのだろう … そしてこれは蛇足ですが、ダンテ作品に出てくる inferno というのは基本的に「火炎地獄」。霊魂を「焼く」ことに主眼が置かれてます[ 中世起源の「煉獄」という概念もまた霊魂を焼いて浄化する場ですね ]。hell と聞いて、向こうの人がまず思い浮かべるイメージが ―― 氷責め地獄、水責め地獄という御仁もいるかもしれないが ―― たいていが火炎地獄のはずです。

 b. は、ほぼおんなじことが『航海』の「聖人たちの約束の地[ ch. 28 ]」に書かれてます ――「約束の地」でブレンダンご一行を出迎えた「若い人」が、ブレンダン院長に向かって「見てのとおり、島は果実で豊かに熟しているが、島はとこしえに変わることなく、夜の闇が落ちることもない。その光はキリストから発しているからだ[ '... Sicut modo apparet uobis matura frustibus, ita omni tempore permanet sine ulla umbra noctis. Lux enim illius est Christus.' 下線部は字義通り英訳すれば '... without any shadow of night' 、umbra は「傘 umbrella 」からもイメージできるように原義は「影」で、noctis は「ノクターン」、つまり夜。このていどのラテン語フレーズならワタシのような門外漢でもほぼ類推可能 ]」と告げるのです。で、なるほどそうか、といまさらながら気づかされたのはこの箇所の訳註でして、「ヨハネの黙示録」の大団円直前の 21:25 からだという。!!! と思ってさっそく目の前の棚から『新共同訳』版をあわてて引っ張りだして確認すると、あらら、直前の箇所にはしっかり N.S.B.A. chps 1, 28 なんて書きこみしてあるのに、なぜかここは素通りしていた( 苦笑 )。目こぼしってやつですな。でもあれ待てよ、とセルマーの『航海』校訂本( 1959 )をこれ書くために久しぶりに繰ってみたら、註釈ページにもなんも書いてないじゃない orz ちなみに『新共同訳』では、「 … 都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである」。「聖人たちの約束の地」はほかにも「黙示録」からの引用もしくは出典とおぼしき箇所が散見されるから、まちがいなくここもそうでしょうね。

 c. について。いわゆる「時限懲罰」というやつですが、まったくおんなじような懲罰方法がラテン語版『航海』25 章にも出てきます。ブレンダン一行の乗った革舟が南へ向かって7日間航海していると、巌の上に「毛むくじゃらのみすぼらしい男」が座していた。男の目の前には「くまで」型の鉄の器具に大きな布が吊るされ、それが強風を受けて男の顔をバタバタはたいている。あんた、だれ? とブレンダン院長が訊くと、「自分はもっとも不幸な男、もっとも卑しい売人のユダ」であり、いまは主キリストの慈悲によって地獄の責め苦から解放され、主日の「夕べから[ つぎの日の ]夕べまでの休息」を与えられているのだ、と話す。

 この箇所、じつはユダの「3つの善行」に関する民間伝承( 癩病者に布を与えたこと、神殿に釜を吊るす鉄の器具を差しあげたこと、往来の「穴」をいま自分が座している岩でふさいだこと )が入りこんでいて、個人的にこの挿話の出処がよくわかってない。以前ここでもよく取り上げた『ユダの福音書』関連本もずいぶん漁ったけれども、ついぞ答えらしいものにはお目にかかれずじまい。セルマー校訂本の 25 章に関する註釈では、「地獄に堕ちた霊魂に週末の間、休息を与えるというモティーフはひじょうに古く、早くも 4世紀にはキリスト教文学に入ってきた」とあります( pp. 90 −1)。で、おなじ註釈でなんと『トゥンダルの幻視』のまさしくこの箇所が引用されて、そういうとりなし役を果たす聖人の役割についての関連論文なんかを紹介してます。

 他にもたとえば「 … そしていかなる喜びにも勝るのが、天使のパンであり、… (p. 98 )」という箇所の訳註には「詩篇、78 …『猛き者たち[ 七十人訳では「使者たち」]のパンを人が食べ、かれは食料を彼らに送った、満ち足りるまで』」とあり、ひょっとしたら 17 章「三組の聖歌隊の島」の聖歌隊員が「スカルタ scaltas / scaltis 」なる果汁たっぷりの赤い玉のような果実をかごいっぱいに持ってきて、「強き男たちの島[ insule virorum fortium ]」の果実を受け取り、われらの兄弟[ = 遅れてきた3人のうちのひとり ]を島に残してくれ、とブレンダン院長に告げる場面と関係があるのかな、と … 。『神学大全』のトマス・アクィナス作とされる「天使のパン」って、究極的にはこの詩篇歌が出典なのかな。なお「スカルタ」については驚いたことに、『航海』日本語訳者の太古先生の注によると、Hisperica Famina にも 'porporeas scaltas / roseis scaltis' と登場するんだそうです。で、セルマー校訂本の註釈にも Hisperica Famina でのこの語の用法および推定される語源については Paul Grosjean の論考を見よ、ということは書いてあった[ → Hisperica Famina についてはこちらの拙記事 ]。

 またこれはラテン語版『航海』とは関係ないが、「 … その橋板にはとても鋭い鉄釘が仕込まれているため、橋を渡ろうとする者の足にその釘が刺さり、誰の足でも橋に足を置けば無傷で降りることはできなかった( pp. 44 −5)」という箇所は、キャンベル本にも出てくる「アーサー王もの」のひとつ、『ランスロ、または荷車の騎士』に出てくる「剣の橋」の挿話によく似ています。ケルトもの中世仏文学に詳しい田中仁彦先生の関連著書なんか読みますと、この手の「他界[=異界 ]の深奥部を取り巻く急流と橋というテーマ」がケルトの異界物語にはおなじみのものであるとし、その例としてこのランスロの渡った「剣の橋」と、『聖パトリックの煉獄』で騎士オウェインが渡ったとされる「結界」にかかる橋、そして『トゥンダルの幻視』に出てくるこの「鉄釘の突き出した橋」が引き合いに出されてたりします。

 あと音楽好きとしては「樹の葉には様々な色の、様々な声をした鳥がたくさんとまって、歌とディスカントを歌っていた( p. 94 )」というくだり。ここは中世ポリフォニーの「ディスカントゥス」のことだろうと思います。即興的に上声部をつけて、ボーイソプラノみたいに歌ったんじゃないかな。ちなみにここの「鳥のたくさんとまってる樹」は、そのすぐあとで案内役の「美しい若者」の姿をした天使曰く、「この樹は聖なる教会の象徴であり、この樹の下にいるのは聖なる教会の創設者ならびに守護者たちである」 … なんですが、イメージ的には鳥の大群、樹、とくると、どうしても「鳥の楽園」の描写を思い出す。キャンベルの言う「世界樹」というやつかもしれない、根源的には。

 『トゥンダルの幻視』と『聖パトリックの煉獄』は、ともに成立年代もひじょうに近くて、とても似た構造の地獄、煉獄、そして極楽めぐり譚であり、訳者先生によると底には 1882 年にヴァーグナーという学者が校訂したテクストを使用し、適宜「英訳」も参照したとあります。で、英訳書名を見ますと、おやなんかこれどっかで見たような … と思って手許のセルマー本裏カバーの「そで」を見たら、なんとダブリンの Four Courts Press から出ていたジャン−ミシェル・ピカール、デ・ポンファルシ共著の校訂本( The Vision of Tnugdal, 1989 )だった。出版業界ってここのところあんまり景気のいい話は ―― ピケティ本はのぞいて ―― 聞かないし、この手の「売れない本」をこうして日本語で読めるかたちで刊行してくれた版元にはほんと感謝したい、と素直に思います … そしてもちろん、「この苦難多き訳業」を成し遂げた千葉先生にも、中世アイルランド修道院文学好きな日本人読者として、心からの賛辞と、心からの感謝を表したいと思います( さらに千葉先生によると、『トゥンダルの幻視』のラテン語原典の冒頭部分は「大学院演習で、一学期間、購読テクストとして」使ったんだそうです … こういう中世ヒベルノ・ラテン語で書かれた物語に直接触れて、ああでもない、こうでもないと議論する姿を想像するとこっちまでワクワクしてくる。こういうゼミに出席できた学生さんたちは幸せだと思う )。

* ... 訳者の千葉先生によればラテン語表記では Tnugdalus だが、Tundale という表記もあり、こちらは「あくまで後代の転訛」とする説があるとし、作者マルクスが使用していたのはトゥヌスガル Tnuthgal / Tnudgal だったろうと想定している。

評価 … るんるんるんるんるんるんるんるん

2016年01月09日

フランス古典期のクリスマス音楽

1). 先週の「古楽の楽しみ」は、「フランス各地のクリスマスとお正月の音楽」と題して、オルガン好きにとってもおなじみ(?)なルイ−クロード・ダカンの「プロヴァンスのノエル」やジャン−フランソワ・ダンドリューの「幼子が生まれた」、クロード・バルバートル( → 以前書いた関連拙記事、ついでにテュイルリー宮殿にもオルガンがあったそうで、バルバートルはそこの楽器も演奏していたそうです )の「偉大な神よ、あなたの慈しみは」などがかかりました! といっても当方にとってこの時代のフランス宮廷の音楽というのはまるで疎いので、カルヴィエールという人の「オルガン小品」とかル・ベーグという人の「オルガン曲集 第3巻から マリアの愛のためのノエル」とかいう作品ははじめて知った。

 今回、気になったのは録音で使用された楽器でして、たとえばカンプラの「クリスマスミサ曲」から「キリエ」、「アニュス・デイ」などで使用されたのはヴェルサイユ宮殿王室礼拝堂にあるクリコ製作の歴史的名器、かたやカルヴィエール作品は現代フランスの名手、オリヴィエ・ラトリーによるパリ・ノートルダム大聖堂のカヴァイエ−コル製作のいわゆる「ロマンティックオルガン」と呼ばれる大型楽器でした … で、今回はちょっと対比が際立っていたとは思うが、やっぱりこの時代の音楽の演奏には同時代に建造されたオルガンでなくちゃだめだなあ、ということ。これがおなじオルガンという楽器のために書かれた作品かと思うくらい、音響というか、音の鳴り方がまるで別物だったのでした。ラトリーさんがどうしてカルヴィエール作品の演奏に「ロマンティックオルガン」を選んだのか、についてはおそらくそこでかつてこの作品が演奏されたからだろうと思う。案内役の関根先生によると、バルバートルについては笑える逸話も残っていて、なんでもクリスマス時期、ここのオルガンを使ってリサイタルを開いたら大、大、大盛況でして、会堂から聴衆がわんさとあふれてしまって大混乱、ついに教会当局[ つまりはパリ管区を統括するここの司教さんだろう ]から「おまえさんはもうここでオルガン独奏会を開いちゃイカン !! 」とつまみ出されたんだとか。むむむ立ち見も出るくらいのオルガンリサイタルってこれいかに … とつい思うんですけど、譬えはヘンだが彼のオルガン演奏会ってフランス古典期版 X JAPAN みたいなものだったんかな[ ↓ は、ヴェルサイユの王室礼拝堂クリコオルガンによるバルバートルの協奏曲作品から ] ??? 



 話もどりまして … ようするにかつてバルバートルやカルヴィエールがかつて弾いた場所、ということでここの楽器を選んだのかもしれない。でも、直前に聴いたヴェルサイユの歴史的楽器のえも言えぬ精妙なる響き、空間を優しくすっぽり包み込むかのような人間味あふれるあの美しい調べ、とまるで真反対な、ぎすぎすして耳を鋭く突き刺すような 19 世紀フランスオルガン特有のケバケバしさがやたらと目に、いや耳についた。そっちが品のない原色でベタヘダ塗りたくった系なら、ヴェルサイユの楽器の音は繊細な中間色系とでも言おうか。少なくともここにいる門外漢のいいかげんな耳にはそんなふうに聴こえてしまったのでありました。もっともカヴァイエ−コル製作の楽器( フォーレとサン−サーンスゆかりのマドレーヌ寺院や聖トゥスターシュ教会、シャイヨー宮のオルガンなんかもそう )の「音」が悪い、と言ってるんじゃありません。ただこの楽器はたとえばヴィドールの「オルガン交響曲」なら、すばらしい効果を上げたと思う。ちなみに 19 世紀のこれら「ロマンティックオルガン」、あるいは「シンフォニックオルガン」と呼ばれる大型楽器のパイプ列に送られる「風圧」はけっこう高くて、バッハ時代のドイツの楽器からでは想像もつかないほどの高圧だった[ だからわんわんうるさかったりする ]。高圧のため鍵盤も重くなり、重くなった鍵盤を「軽く」するための空気圧(!)レバー[ バーカーレバー ]まで用意された楽器も少なくなかった。もっともそんな楽器では伝統的な「てこ」の原理で動作する「トラッカーアクション」のような機敏な反応は期待できず、当時のオルガニストは目先の利便さと引き換えにこんどは楽器の反応の鈍感さに耐えるはめになった。

 もうひとつ個人的にうれしい発見だったのは、カトリック系ではいまなお教会オルガニストの重要な役目である「即興演奏」が聴けたこと。それがさっき書いたカンプラの「クリスマスミサ曲」からの抜粋なんですが、当時の即興演奏のようすがありありと目に浮かぶようで、ほんとにすばらしかった。声楽で歌われるパートの合間に、ああいうふうに合いの手ならぬ即興演奏が入ってたんですな[ いまでもたとえば聖イグナチオ教会とかで、ミサにおける「聖体拝領」のときにオルガニストは信徒の背後で即興演奏をしているはず ]。「チャルメラ」にも似たどこか懐かしいような独特な響きのリード管が朗々と歌ってました。イタリアバロックの巨匠フレスコバルディのいくつかの「トッカータ」も、自身の華麗なる即興演奏の記録みたいな感じで後世に残された作品群だと思う。

 この番組は磯山先生のドイツもの、今谷先生のイタリアもの、大塚先生の混在もの( 失礼 )、そして関根先生のフランス古典期ものとわりとカラーがはっきりしてますが、ワタシはどうもバッハびいきのためなのか、この時期のフランスバロック音楽にはたいして興味が湧かなかった。いちばんの理由は、「貴族趣味」な点、ということになるだろうが … いずれパンも食えない庶民の怒りが爆発してあのような革命とその後動乱の時代がつづくことを考えると( その動乱期をバルバートルはなんとか生き延びた )あのキラキラしたクラヴサンのこの世離れした響きとか、外の人間にはまるで解せないバレ・ド・クールの華麗な世界とか … それでもだいぶ前にルイ 14 世時代の音楽とかオルレアン公フィリップ[ フィリップ・ドルレアン ]とかの話を聞くと、「朕は国家なり」も朝から夜寝るまでやれ起床ラッパだやれ着替えだ狩りだ食事だ執務だバレエだダンスだ晩餐だ、と年がら年中ほぼ「衆人環視」状態でフランス国王やってたんだからこれはこれでタイヘンだなあ、とかため息ついてたり。「絶対王政」って言うけれど、王侯貴族もいざその当人になったらこりゃタイヘンですよ、もう。一日のスケジュールを耳にしただけで、カンベンしてくれって感じでしたから。結婚たって愛もなにもない政略結婚がフツーの時代でしたしね。そういう時代背景をすこしでも知ることができたのは、この番組のお陰でございます。そうそう「サックバット」というのも、ちょうどこの時代の金管楽器でしたね。

2). それはそうと … フランスつながりでは悲しい知らせも入ってきました … 現代音楽の巨匠、ピエール・ブーレーズ氏逝去、享年 90 歳。作曲家としてももちろん高名でしたが、近年は指揮者としてその名を知る人も多かったと思う。合掌。

 そして … あの古楽の巨匠、ニコラウス・アーノンクール氏が昨年暮れになっていきなり現役引退を発表したこともちょっと衝撃的だった。まだまだお元気そうに見えたが … やはりそうとうこたえていたのかもしれません。盟友レオンハルトとともに取り組んだ「教会カンタータ全集」録音の偉業、忘れません。

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2016年01月03日

カノン風変奏曲「天よりくだって BWV. 769 」

 元日恒例のウィーンフィル( くどいけど、「ヴィーン」のほうが現地語発音により近い )による「ニューイヤーコンサート Das Neujahrskonzert 」。いつものようにコタツで「積んどいた」本を、あるいはブレンダン本をあっちに広げこっちに広げして BGM みたいにして視聴していたら、プログラム後半に入ってほどなくして ウィーン少年合唱団[ WSK ]のめんめんが登場したのであわてて DVD レコーダーをセット( 笑 )。WSK は過去も何度かこの新春を祝ぐコンサートに出演していますが、今回は指揮者マリス・ヤンソンスたっての希望によるものとか。これは心憎い演出でした。華やかさに加え、子どもたちの澄み切った歌声がホールいっぱいに響いて、なんだか得した気分( また後日、「ビバ! 合唱」でも今年最初の放送回で WSK が取り上げられてましたね )。

 ところで … ローマカトリック / プロテスタント問わずに( と思うが )クリスマスタイド[ 古い英語の言い方では yuletide というのもある ]というのはほんらいは今月6日のエピファニー前までの 12 日間(「クリスマスの 12 日」という歌もある )でして、ようするに西洋版「お正月」ととらえちゃってかまわないんですけれども、東方教会系ではそのつぎの7日がクリスマス、という地域もあったりします。ようは使っている暦が「ユリウス暦」か「グレゴリオ暦」か、ということなんですが、ことはそう単純ではなかったりする。移動祝日の「復活祭」、イースターだって、関連拙記事にもあるように古代から論争があった。

 邦訳では「顕現日」とか「主の公現」とか言われている6日なんですが、このクリスマスタイド期間中、Organlive.com なんかはそれこそ 24 時間ずっとクリスマス関連のオルガン音楽がかかりっぱなしでして、当然、セントポールとかイーリーとかダラムとかアングリカン系大聖堂聖歌隊ものもよくかかったりします。テュークスベリーの子どもたちのクリスマスアルバムなんかもかかったんで、これにはちょっとびっくりした。で、手許のクリスマス音楽関連 CD 、それこそビリー・ギルマンからニューカレッジ、レオンハルトにテルツとごたまぜ状態でこっちもヒマなときにせっせと聴いてたんですが、ある曲も Organlive のストリーミングでときおりかかっていたのを耳にして、ああそうか、こういうのもあったな … とにわかに思い出したので本日はそれをサカナに書いてみます( 長過ぎる前口上失礼 )。

 その楽曲とは、バッハ作曲「クリスマスコラール『天よりくだって[ 高き御空よりわれは来たりぬ ]』にもとづくカノン風変奏曲 BWV. 769 」。いまさっき Naxos のライブラリーで適当にひろって聴いていたんですが、マリー−クレール・アランなど一部の演奏者による音源ではバッハが 1747 年、かつての教え子ミツラーが設立した「音楽学術協会」に 14 番目の会員[ 明らかに意図的な数字 ]として入会する際、入会資格審査のために用意したとされるこの作品のオリジナルにその後みずから手を加えて各変奏の配置を並べ替えた版( BWV. 769a)にもとづいて演奏してます[ 初版印刷に関しては 1746 年説もあり ]。細かく見ていくと、

I. 対位カノン
1. 3声部曲:
第1変奏 ソプラノとバスのオクターヴカノン、定旋律はテノール
第2変奏 ソプラノとアルトの5度のカノン、 定旋律はテノールまたはバス
2. 4声部曲:
第3変奏 バスとテノールの7度のカノン、定旋律はソプラノ、「カンタービレ」と書かれたアルトの自由声部つき
第4変奏 ソプラノと拡大形バスのオクターヴカノン[ 拡大カノン ]、定旋律はテノールで足鍵盤上に現れ、アルトの自由声部つき
II . 定旋律カノン
第5変奏 6、3、2、9度の4つのカノン[ 最初のふたつは3声、残りふたつは4声で定旋律は上下逆さまの転回形で模倣される ]

… と、はっきりいって音楽というよりもはや幾何学、数学の世界のようなとんでもない「変奏曲」なんであります。バッハの青年時代に作曲された一連の「コラールパルティータ」もすばらしいけど、もう最晩年のバッハが到達したこの作品にいたっては、いくら「音楽学術協会」提出用と言ったってもはや人間の演奏能力、もそうだけど、聴き手の耳の能力を凌駕している。そしてこの「カノン風変奏曲」は最晩年の「特殊作品」、つまり「音楽の捧げもの BWV. 1079 」と「フーガの技法 BWV. 1080 」、および「ゴルトベルク BWV. 977 」とおなじ範疇の作品だと言える。その証拠に、バッハが銅版印刷させたという「初版譜」では、最初の3つの変奏ではひとつの声部のみ完全記譜されているだけで、模倣声部ははじめの数音しか印刷されていない( ちなみに自筆譜はいわゆる「17 のコラール」と「6つのトリオソナタ」が記譜されたのとおんなじ楽譜帳[ BB Mus. ms Bach P 271 ]に書かれている)。ヘルマン・ケラーは『バッハのオルガン作品( 原書は 1948 年刊行、日本語版は 1986 年 )』で、「6声部書法によってコラール4行全部が同時に提示される称賛すべき独創的ストレット」と書いてます[ 下線強調は引用者。当時、音楽学者フリードリヒ・スメントがバッハの「再配列した版 BWV. 769a」の順番[ 第1−2−5−3−4変奏の順 ]で校訂譜を出版したことにからめて、もともとの配列つまり「第5変奏」を最後に演奏することの意義を強調してもいる。ついでに終結部ソプラノ声部には B-A-C-H 音型も顔を出している ]。

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 でも! まずは騙されたと思ってリンク先を聴いてみてください。まるで「天使の大群」が上へ下へと乱舞している光景が、くっきりと見えてくるかのような生き生きとした音楽ではありませんか。『故人略伝』に、「わが故バッハ氏は、なるほど音楽の理論的な深い考察をおこなう人ではなかったが、実践の面ではひじょうに長けていた。彼はこの協会に、コラール『天よりくだって』を完全に仕上げて提出した。この作品は、のちに銅版に彫られた … 」とあるのは、バッハという人は実践の人であり、いかに音楽理論的にすぐれた「作品」でも、実際に美しく奏でられるもの、響くものでなければ意味がない、ということを信条にしていたような作曲家だった点を強調してのことだろうと思う。最終変奏で定旋律までカノンに加わってしまうのも、ひょっとしたら「天からくだって」やってきた救世主の「受肉」を象徴している … のかもしれない。いずれにせよ一連のオルガンコラールもの作品としても最高傑作に入ると思われるこの変奏曲、「音楽の捧げもの」や「ゴルトベルク」と同様、リクツなんかわかんなくてもすんなり楽しめますし。もちろんこの「カノン風変奏曲」だってクリスマスメドレーの一部として聴いてもなんら違和感がないところがすごいけれども、個人的には「フーガの技法」同様、「対位法技法の奥義書( ようするに「お勉強」)」みたいな性格がより強いかな、という気がするので、リンク先もあえて「楽譜つき」にしておきます。





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