2021年09月30日

「個人の自由」の履き違え

 先日読んだ、元陸上選手の為末大氏が寄稿したこちらのコラム。一読して頭に浮かんだのは、ジョーゼフ・キャンベルの『生きるよすがとしての神話』という講演集に出てくる、「統合失調症──内面への旅」と「月面歩行──宇宙への旅」と題されたふたつの講演。「宇宙飛行士が特別な外的世界を体験するのに対し、アスリートは特別な内的世界を体験する。内的世界とは『心の世界』と言い換えてもいい」と為末氏は書いているけれども、両者は同じコインの裏と表、きっぱり同じものだと言い切ってよいと個人的には感じている。

 このコラムの結び近くに、「ぜひ五輪、パラリンピックを目指した日々について、アスリートたちは言葉でその体験を社会に還元してほしい」との呼びかけがある。これを見たとき、ふと、仕事柄しかたないとはいえ、COVID-19 の感染者が相次いでいる芸能関係の人も、もうすこし自身の体験について観ている側にも伝わるような努力をされたほうがよいのではと感じてしまった。もっともこれは個人のプライバシーの問題でもあり、強制はできない。しかしいまは平時ではないので、公共の福祉という観点からも積極的に啓発してもよいだろうと思うのだが、手前勝手な理屈だろうか。

 為末氏のコラムには人間心理への深い洞察があって、「『心の世界』の学びの面白いところは段階的ではないところだ。ある瞬間にひらめくように悟れば、もうそうとしか感じられなくなる」といったすこぶる示唆に富むくだりにも現れているけれども、こういう「気づき」って体得できる人にはそれができ、そうでない人はいっこうにできないというもどかしさがある(下線強調は引用者)。とくに平時ではない、いまみたいなときがそう。悟りが遅いのはしかたない。自分もそうだから。だが、ハナから耳をふさいでしまっては、せっかくすばらしいことを語り聞かせ、書きことばとして残してくれてもなんにもならないではないか。それどころか、害悪をバラまき、ひいては社会全体の混乱に拍車をかけることにもなりかねないし、げんにそういう方向に扇動する言動を平然と垂れ流している御仁もけっこういる。

 「マスクをする・しないは個人の自由」という主張もよくわからない。未知(感染症の専門家でさえ例外ではない)の疫病が世界を席巻し、その感染者が2億人を超え、死者も 400 万人を超えている。疫病はひとつの自然災害で、自然は人間が勝手にこしらえたルールや道徳などいっさいおかまいなしに暴れるもの。地球の生態系は微妙なバランスの上に成立しており、それがすこしでも崩れればとたんに平衡を失う。温暖化がかまびすしく言われるようになって久しいが、 COVID-19 のパンデミックだっておなじだ。

 将来、このような未知の病原体によるパンデミックを防ぐには、ジャレド・ダイアモンド博士が言っているように、野生生物の乱獲と市場流通を即刻やめることだろう、マラリアを媒介する蚊の絶滅を目指すのではなくて(某研究所流出説は、こちらの WP 紙の速報記事にも書いてあるように科学的な根拠はほとんどない)。欧米には歴史的背景からして、「自然をコントロールする」という発想が根強く残っている。このへんが東洋人には生理的に相容れないところ。いつぞやの「ガイア理論」もしかりです。

 ここで大切なのは、自然ではなくて、わたしたちの側の行動変容のほうでしょう。たとえば、個人の自由という概念。「あなたはほんとうの自由に耐えられるか?」という一文で結ばれたエッセイの文庫本をすぐ手に取れるところに置いて折を見て再読したりしているんですけれども、まったくもってそのとおりで、自由というのはみんなが思っているほど単純なもんじゃない。自由には必然的に責任が伴う。平時なら問題にならない行動でも、そうは済まされない場合がある。この点に関しては悪い意味での“超”個人主義が横行している欧米なんかも日本のこと言えないのですが、それでも日本には確固とした“個”というものがなく、“個”と世間様との境界線がきわめてあいまいというのも相変わらず。個人的には、ここが最大の問題だと思っている。“個”ということでは、昨今ちやほや(?)されている「Z 世代」にもおなじことが言えるだろう。彼らの符牒に「ウチら」という、なんか西伊豆語の「うちっち」みたいな造語があるそうですよ。そこなんですぞ、問題なのは。「あなた自身はどうなのか」、これがなければただの「烏合の衆」にすぎない。まず先に来るのは仲間とかみんなじゃなくて、「個人」としてどうするのか。逆ではない。

 たとえば、大規模音楽イベント。聴衆が黙って静かに耳を傾けるクラシック音楽の演奏会と、パリピな大群衆がワーワー大騒ぎするような大イベントとを同列に扱うのはどう転んでもおかしい。もちろんなんでもかんでも中止、という段階ではいまはなくなりつつあるから(ただし警戒は緩めずに)、そのへんは皆が知恵を出し合う必要があるとは思う。ただ、一個人の勝手な主張を他人にゴリ押しするのは自由でもなんでもない。米国ではあのシュワルツェネッガー氏が「自由には義務や責任が伴う。他の人を感染させ、相手が亡くなる可能性もある」という趣旨の発言して、一部からかなりのブーイングを食らったそうですが、負けるなシュワちゃん !! ですな。

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2021年09月24日

「茶色の石造りの建物」って?

 最近、ひさしぶりに参考文献を必要とする案件がありまして、いつものように図書館へ(滞在時間は 30 分以内にせよとのお達し !!)。2冊借りまして、とり急ぎこちらがほしい情報が書かれてあるくだりを読んだ。でもってそちらの訳稿はもう納品したので、あとはふつうに楽しみつつ秋の夜長の読書。

 1冊めを訳したのは、某新聞社の元記者だった手練れ(てだれと読む)の物書きの男性。もう1冊のほうは女性訳者の手になるもので、フツーに先入観なく読んでみた一読者としては、圧倒的に後者の訳書が読みやすかった。もっともこれは、後者の原書の対象読者層が YA つまりヤングアダルトだった、ということもあるかもしれない。でも2冊とも書いたのは「読ませる文章のプロ」たるジャーナリストの著者。後者の「訳者あとがき」を拝読しますと、「日本語版ではとくにそれ[YA 向け]を意識することなく大人向けとして訳した」とあるから、翻訳者の個性、もしくは編集者の手がかなり入った結果の読みやすさだったと推察されます。

 ベテラン訳者の手になる前者の場合、1989 年の消費税導入直前(!)に刊行されたという「古しい(西伊豆語)」本ゆえの宿命みたいなところはあろうかとは思うが、「オラだったらこんな言い回しは使わんなぁ」という箇所が頻出して少々くたびれたのも事実。でも全体としてはすっと読めるし、話が話だけに(原爆技術を共産圏にダダ漏れさせたスパイ学者の話)とてもおもしろい……んですが、いきなりこういうのが現れた──「改装ずみの茶色の石造りの建物」。

 英語ができる人はいっぱいいるし、海外在住の英日翻訳者もゴマンといるからここで言うのも気が引ける……のではありますが、コレ原文見なくてもぜったい brownstone の家のことですよね。その少し先の箇所にも、またまた「茶色の石のアパート」なんてのが出てくる。

 brownstone は 19 世紀から 20 世紀初頭の米国では高級邸宅の象徴みたいな石材で、「赤褐色砂岩」のこと。英米文学がお好きな方なら、以前ここでも取り上げたトルーマン・カポーティの短編『ミリアム』にも出てくるから、あああれのことかと思い出されるかもしれない。↓
For​ ​several​ ​years,​ ​Mrs.​ ​H.​ ​T.​ ​Miller​ ​had​ ​lived​ ​alone​ ​in​ ​a​ ​pleasant​ ​apartment​ ​(two​ ​rooms​ ​with​ ​kitchenette) in​ ​a​ ​remodeled​ ​brownstone​ ​near​ ​the​ ​East​ ​River.​..
 おそらくこの brownstone、辞書にも当たらず適当に片付けちゃったんでしょうね。それとも知っていたけれども、うっかりやってしまったかのどちらか(鈴木晶先生が“corn”を「麦の穂」ではなく「トウモロコシ」と、知ってはいたけれどもついうっかり誤訳した話を著書で明かしている)。

 もっともこの手の間違いはだれにでもあるし、そんなこと言ったらオラもずっと穴の中に籠もってなければならない。だから、たとえ何冊か翻訳書籍を世に問うているような人でさえ、「わたしは翻訳」なんて麗々しく公言するもんじゃないと思う。「翻訳」ならば OK 。日本語の肩書きの「〜家」というのは、それこそその道の大家にでもならないかぎり、気安く使っちゃマズいずら、と個人的には思っている(にしても、いくら宣伝のためとは言え、ブログやら Twitter やらでやたらと「翻訳」を名乗る御仁が多い。よっぽどウデに自信がおありなんでしょうねェ……)。

 それともうひとつ「ほえッ !?」と思ったのは、この一節。
……自分の報告をタイプし、これをカーボンでコピーし、そのコピーをもって……出かけた。
 昨年、タイプライターがらみの記事の訳を担当させていただいたことがあり、またちょうどおなじころ、無類のタイプライター・オタクで知られる俳優トム・ハンクス氏が豪少年に「コロナ」製の黒光りするヴィンテージものタイプライターをプレゼントしたという心温まるニュースにも触れてにわかにタイプライター熱が高まって、ほとんど勢いで 45 年ほど前に製造されたブラザー製タイプライターを某オークションサイトにて入手した経験がある者としては、ここの訳はちょっと信じられない。

 欧文タイプライターでカーボンコピーつまり文書の「複製」を作成するには、「領収書」を切るときとおなじ──すなわち、タイプする原稿用紙を2枚重ね、間にカーボン紙を挟んでバチバチ打ち出して正副2通作成する。当たり前だがコピー機なんてない時代。タイプ打ちした文書なり原稿なりをコピーしようとしたら、これしかやりようがなかったはずです。

 ついでに脱線すると、電子メール(っていまどきこんな言い方しないか……)の「CC」ってのもタイプライター時代の名残。文字どおり「ーボンピー」の頭文字をそれぞれとった呼び名です。「RE:」というのもそう。あれはほんらいはラテン語の“res”(=regarding)であって、“reply(response)”ではない。

 1冊めの本にもどりまして、そうは言っても内容はそれなりにおもしろいので、やはりこの手の歴史資料的な文献が日本語で読めるのはとてもありがたい。2冊めのほうもさすが手慣れたジャーナリスト的な軽快さがあって、おなじ人物を書いても視点が違っているからそれはそれでまたをかし(♪比べるの好き、すごく好き、なてんびん座)。

 ちなみに2冊めのほうを訳されたのはこちらの先生。「文は人なり」って言いますが、やはりこういう姿勢の方が手がけた訳書は安心して読めますね。でもたとえば男のワタシが訳すのと、女性訳者が訳すのとでは、同じ原文でも明らかに違いが出ると思う。原著者が男か女かでも違いが出てくるとは思うが……このへんもまた比較研究してみるとヌマにはまりそうで、ある意味コワい気はする。げに奥深き翻訳の世界。

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2021年08月31日

ART の果たすべき役割とはなにか

 未曾有の COVID-19 のパンデミック禍に全世界が巻き込まれてはや1年半。医療現場はいよいよ苛烈さを増しているなか、根拠のないデマをまき散らす人とそうでない人との分裂が進み(「分断」というよりも修復不能な「分裂」になりつつあると感じている)、われら哀しき人類のバラバラっぷりではとうてい「この 100 年で最凶のウイルス」に勝ち目はなさそうとさえ思う。以前、ここで某財団によるマラリア撲滅計画のことを批判したけれども、自然とは大したものでして、「疫病の媒介者さえ絶滅させればそれで結果オーライ」とはぜったいに終わらない仕組みになっている。絶滅させればさせたで、その結果はバタフライ効果となって思わぬかたちで出現し、確実にしっぺ返しを喰らう。おなじことが「イルカはかわいいしアタマがよいから食べるなんてトンでもない」とばかりに追い込み漁のロープを切断する傍若無人を働く手合いにも言える。これもようするに「自分以外は正しくない」というバイアスと独断のなせる業。

 世の中には筋トレでもして気を紛らわせろとか、いろいろな知恵やご高説を「オンラインサロン」みたいなビジネス(というか、ひと昔前なら「そんなもん自分で考えろ」のひと言で済んでいたことまでいちいち解説して、またそれをなんの考えもなく真に受ける人が一定数いて、さらにその人たちをお客に取りこんで商売にまでなってしまうという世の中もどうなのよ?)で垂れる人もいるようですが、時節柄、いちばんよいのは、空き時間を利用して「ご自身がいちばん好きなこと」に打ち込むことでしょうかね。

 あるいは、いままで興味も関心もまるでなかった分野に急に目を見開かれてのめりこんだりでもいいと思う。個人的なところではパラリンピックがそう。やはり自国開催というのはすごいなァと。いままでこんなにパラ大会のことを TV 中継していたのか定かではないけれども、時間があるときはほとんど TV 観戦してまして、たとえばボッチャという競技のルールとかも知らなかったので、今回、あらためていろいろ知ってみるとこれがけっこうおもしろい。

 思うに、アートもそうだろうと。この前、僭越ながらここで紹介した拙訳書みたいな「つまらない詐欺もどきなんかにかんたんにひっかからないために身につけるべき思考法」を教える本なども多読してももちろんいいのですが、それだけじゃ片手落ちだろうと。いますぐには収入に結びつくわけでもなく、役に立つわけでもないであろうアートこそ、じつは必要だったりすると思う。

 ただし、何度かここでも触れてきたように、アイルランドの小説家ジェイムズ・ジョイスが定義したように、世の中にアート、芸術と呼ばれているものには2種類ある。ひとつは「教訓的芸術」、もうひとつは「エピファニーをもたらす芸術」。前者のことをジョイスは「ポルノグラフィー」とも言っている。こんなこと書くと、アーティストには「おまえはなにもわかっちゃいねぇ」と反発してくる人もいるでしょうが、いいえ、そうなんです。これはハッキリ言える。「教訓的芸術」というのは、ひとことで言えば「イデオロギーや正義を一方的に押しつけてくるもの」。この手の作品は、一見、とてもわかりやすい。だからウケはいい。この「わかりやすさ」がじつはクセ者でして、なぜパウロが伝道したイエスの教えが地中海世界を席巻したのかというと、ひとえに「わかりやすかった」から。「信じる者は救われる、そうでない者は……」と、このわかりやすさと断言があらたな信者獲得に貢献し、ついには地中海地域の多くの神々を追放するまでに力をつけた。この点はイスラム教もほぼおんなじで、「砂漠の一神教」の特徴でもあるし、また姿かたちは違えど、旧ソ連型共産主義なんかも似たようなもの。いずれのシステムも共通項は「自分たちが正義で、それ以外は悪魔」的な「単純でわかりやすい線引き」です。米国に多い福音派なんかもっとヒドくて、そういう人たちがトランプという「怪物」を生み出したと言っていい(イエス自身がいまの組織宗教としてのキリスト教を見たら、「ワタシはこんな教えを広めろなんて言ってない!」と嘆いたかもしれないが)。

 話もどりまして、ジョイスによれば、ほんとうのアートは「エピファニー」をもたらしてくれるもののほう。でもそれはなにも高尚なゲイジュツに触れろとかそんな意味じゃない。名優の高倉健さんが生前語っていた、「人生には“アッ”と思う瞬間がある」ということを感じさせてくれるもの、目の前に突き付けてくれるものならなんだっていいんです。それがなにかのアニメ作品でも漫画作品でもいっこうにかまわない。「職業に貴賎なし」と言うけれども、アートにも貴賎はない。

 いま、仕事がヒマなときには 20 世紀初頭の英国を代表する小説家アーノルド・ベネット(1867ー1931)のエッセイの個人訳を進めているんですが(ナマけないよう、ここでも宣言)、その本にもつぎのようなおあつらえ向きな一文が出てきます。
……芸術の最大の目的のひとつは、精神を搔き乱すことにある。そしてこの「精神の搔き乱し」は、何事も理路整然と考えるタイプの人間が手に入れられる最高の愉楽のひとつである。しかし、この真実を会得できるようになるには、それこそ何度となくこの手の経験を繰り返すしか道はない。

 「精神に揺さぶり」をかけることこそアートの役割だと、ベネットもおんなじこと言っているなぁと、このくだりに来たとき思わずひとりごちたしだい。日本で言えば、岡本太郎さんですね。「ナンダコレハ?」というものしかアートと認めなかった真のアーティスト。『フィネガンズ・ウェイク』なんかはきょくたんな例でしょうが、自分が消化できる=理解できるものしか読まず・見ず・聞かずの「三猿」では、それこそ「反ワクチン陰謀論」のごとく、明らかに fake なのに自分にとって都合のよい truth だけをアタマから信じ込むという笑えない悲劇を生む。かつてのナチズムはそういう「大衆の心理」につけこんだ。

 もう一度繰り返すけれども、上に書いたように「ナントカ思考法の本」をたくさん読むのは悪いことじゃありません。なんも読まず、のほほんとゲームばっかやってるよりはマシかと(いつ死ぬかわからないのになんともったいない時間の使い方、とお節介ながら思ってしまう。そういう方にはおなじくベネットの超がつくほど有名なエッセイ『自分の時間』をおススメする)。ただし、それはあくまでも「理性(reason)」レベルでの話。あいにく人間はアタマではわかっていても、思考回路そのものに潜む各種のバイアス(ダニエル・カーネマンらの用語で言う「ヒューリスティックス」)が何重にもかかっていて、必ずしも正しい判断を下せるわけではないし(たとえば非常事態のとき。いまだってそうでしょ? ご自身の周囲を見れば、ワケのわからないことしている輩は必ずいる)。それとはべつのレベル、もっと深い深層心理レベルでは、これはもうリクツ云々の次元ではとても「精神の平衡」は保てない。その日の糧さえ得られればそれでよしというレベルでは解決しえない。もし精神的にどん底にまで突き落とされたとき、「教訓的芸術」なんぞで果たして心が軽くなったり、なにかを悟ってふたたび生きよう、などと思えるものでしょうか? イマドキのアーティストにも、このへんわかってない人がけっこういる。『チップス先生さようなら』でも読みなさい。

 「自分にとっての“聖地”を持つこと。それは他人が見向きもしないような陳腐な音楽のレコードでもいいし、本を読むことでもいい」と、かつて比較神話学者のジョー・キャンベルは言った。そのキッカケになるようなアートなら、それはアートの本分を果たしていると言えると思う。

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2021年08月01日

Land of Unreason

 昔、買ったハヤカワファンタジー文庫で『妖精の王国』という作品がありました。作者はライアン・スプレイグ・ディ・キャンプとフレッチャー・プラットという2人の SF 作家からなるコンビ。このふたりは連名で『ハロルド・シェイ』ものと呼ばれる SF 冒険シリーズを長年、書きつづけてきたんですが、相方プラットが肺癌で亡くなると、このコンビも自然消滅してしまった。

 ディ・キャンプの名前を知ってる人っていまの日本でどれくらいいるのかちょっとワカランのですが、その昔『スター・ウォーズ』ものノベライゼーションの翻訳を手がけておられた野田昌宏氏もじつはディ・キャンプ作品を訳されていて、それがあの !! 『コナン・ザ・グレート』なんです。そう、若き日の筋肉隆々シュワちゃん主演のあの映画の原作。

 で、今回のお題はそのディ・キャンプ=プラットのコンビが 1942 年に書いた『妖精の王国』の原題をそのまま借用したもの。ちなみに日本語版は 1980 年刊行、訳者は浅羽莢子氏、カバー絵はなんと! 漫画家の萩尾望都先生という、なんとも豪華な組み合わせ。

 筋立ては、シェイクスピアで有名な『真夏の夜の夢(正確には「夏至の夜」だが)』と中世ドイツ(神聖ローマ帝国)の英雄バルバロッサ(赤髭王)の伝説とがミックスされたもの。どうしても牛乳が飲みたくなった主人公の外交官バーバーは、妖精のために戸外に出してあった牛乳を飲んでしまい、代わりにスコッチウイスキーを置いて家に帰り、朝、目が覚めるとそこはオベロンとタイタニア夫妻が支配する妖精の王国だった。スコッチを呑んで酔っ払った妖精に「取り替え子(チェンジリング)」とカン違いされたのが、一連の騒動の始まり …… なんで自分が妖精の王国なんぞに引っ張りこまれたのか、さっぱりわけがわからぬまま(だから「わけがわからない、常軌を逸した」王国というわけ)、否応なく冒険する仕儀とあいなり、たとえば「ジャズろうぜ! ブンチャ、ブンチャ」とずっと音楽(ジャズ?)で踊り明かしている種族に出喰わしたかと思えば、「ココはすばらしいところです! あなたもきっと気にいるはず!」と『ホテル・カリフォルニア』の歌詞よろしく強引に引き留められそうになり、そんな手合を振り切って逃げるように脱出を図ると「ただじゃすまないぞ!」とまるで当時のソ連を中心とする共産圏を彷彿とさせたりで、とにかくおもしろい。訳者あとがきにもあるように「ファンタジーの世界を科学を使って説明してみせた」点が、当時の読者にウケた作品です。

 なんでまたこんな古い(!)ファンタジーなんか思い出したかと言えば …… いまの世界を見渡すと、まさしく Land of Unreason じゃないかって嘆息をついたから。といっても五輪のことじゃない。たしかにあのバッハ氏たち「オリンピックの汚れた貴族(昔、こういう書名の本があったのだ!)」がゴリ押しして開催したかっこうとなったのは、そりゃどうかと思う。「無理が通れば ……」ってやつですね。あるいは「五輪憲章」と照らし合わせてどうなんだって。でもぶっちゃけ、「地獄の沙汰もカネ次第」、なんですよね。オリンピック資本主義。だからアスリートたちはよけいに気の毒だと思う。スジ違いの批判まで浴びせられるし。まったくもって unreason である。おそらくパリ五輪でもひと悶着ありそうな悪い悪寒を感じる。

 ちなみに「デルタ株が急拡大しているのは五輪のせい」という主張にも無理がある。直接的にはあまり因果関係はないと個人的には思っている。たとえば、五輪ではなくて下部組織のひとつの自転車競技関係の話ではあるが、こちらの記事とか。五輪大会関係者の陽性率は、国内の新規患者の陽性率よりはるかに低いということも Bloomberg に出ている。むしろ問題はきのう、ネットで話題になってた「空き病床数 30 万床のコロナ用転用がちっとも進んでいない」って話。つい気になって(この蒸し暑いなか …)コンビニまで行ってくだんの経済紙を1部買い求めたりして、アツいわハラ立つやらでこっちまで unreason な気分(7ー11、悪い気分)。

 最後にもうひとつだけ、地元紙に掲載された「五輪に理屈はいらない」という署名評論記事について。1964 年の最初の東京五輪の記録映画を撮っていた市川崑監督を引き合いに出して、こんなふうに書いてあったんでオラびっくらこいたという話。↓
五輪とは何かと考え続けた市川監督は、64 年の記録映画の最後をこう結んだ。《この創られた平和を夢で終わらせていゝのであろうか》
 …… このエンディングの言葉は曖昧で現実味がなく、少々無責任。それは多分「世界平和」というできもしない目標をオリンピックが掲げているからだろう。

 こう書いたあと、なんと「スポーツという素晴らしい人類の文化を4年に1度行いましょう! 五輪は、それだけで、ずっと素晴らしいものになるはずだ …… そもそもスポーツは本質的に素晴らしいものなのだから」

 もうこれは巨大なハテナマークが必要。というか、バーバーを危険な目に遭わせた『妖精の王国』の共産主義的種族の一員なのか? なにが「東京五輪を読む」だ! そもそも市川監督の発言が「少々無責任」というのはどういうことか。これは、「戦争の惨禍を知っている者だからこそ思い至った揺るがぬ決意そのものではないか」ってふつう思いません? それともちろん「五輪期間中の休戦協定」は知ってますよね? たしかに五輪は国家と国家のパワーゲームというか、代理戦みたいなところがあって、モスクワ五輪やロス五輪を互いの陣営がボイコットし合ってかんじんの選手たちが泣きを見た(そのひとりが柔道の山下氏。つまりいまの JOC の会長さん)ことも繰り返されてきたし、ミュンヘン大会ではテロ事件まで起きて世界が震撼したこともあった。

 それでも、もしオリンピックがただの「スポーツの祭典」になりさがったら、そもそもクーベルタンの理想なんてのも一種のイデオロギーなのだから意味なくなるし、そんなオリンピズムもクソもない五輪大会に、自身の人生をすべて賭けてまで出場しようなんていうお気楽なアスリートなんてただのひとりもいないと思うんですがね …… もうなに言ってんのかここにいる門外漢はサッパリで、というかアタマがウニになったみたいで、いよいよ unreason さは増してくる。いやここまでくると chaos か。ほんとにスポーツの評論家なんでしょうか?? それこそただの運動会、命がけでやるものじゃないでしょうに。

 ということで、 unreason な世界からいっときでも正気な世界にもどるには、トシだけくった人間としてはまこと情けないかぎりではあるが、こんな若い人の投稿をここでも紹介させていただこうと思う。というか、申し訳ないけどもうこの地元紙購読するのやめようかな、ヘイトスピーチもどきな老政治評論家もあいも変わらず健筆を振るってるしで。ついでに言うけど、おなじ新聞社の社員がウチの近所で危険運転の罪でお縄になり、挙句の果てに社長は文字どおりセクハラ(!!)を働くわで …… 紙の新聞は処分に困るし(窓拭きにはもってこいだが)、ここはひとつ「いまだ FAX が現役の島国人」から脱却しないといかんな …… とも思いましたので。でも是々非々、ということで、今回はすばらしい読者からの投稿を引用して結びたい。このまま終わったらなんともシマらないので悪しからず。
コロナウイルスではなくても、世界には貧困や紛争で苦しみながら生き抜いている人たちがいる。それに比べて私たちは少しの自粛だけでも耐えることができないと考えたら自分がちっぽけに思えた。今まで当たり前の世界に頼りすぎていた自分が情けなかった。

 これ書いたのは 17 歳の女子高校生の方。新しいものの見方というか、今回の世界的な災厄によってそれまで考えもしなかった事柄に目を見開かれ、古い世界が終わって新しい世界が現れた。若いうちにこういうことに気がつくと気がつかないとでは、おそらくその後の人生にひじょうに大きな影響をもたらすと思う。あんまりこういうこと言いたくはないが、どっかの国の「環境少女」みたいに、さんざ年上の人間たちの行状を非難しておきながら、「今日から大人の仲間入りをしたからみんなとパブに繰り出すぜ〜」みたいな発言を全世界に向けて臆面もなく発信している方とはそれこそ「月ちゃん」とスッポンの差があると思いますね。ちょっとガス抜きが過ぎたか(⇒ 渡辺月についてはこの拙記事で)。

追記:unreason の定義でメリアム=ウェブスターを見たらこんな例文がありました。

With its double binds and reversals, life in a pandemic feels beholden to dream logic, to the unreason of lying awake in the dark.

前後関係がわからないけれども、おそらく「パンデミック下の生活にはどうしてもダブルバインドや、すべてがひっくり返ったような当惑がつきまとう。だから、論理の飛躍した夢や、ただわけもわからず暗闇に目を開けて横たわっていることのほうがはるかにありがたいと感じる」くらいの意味かと思う(引き合いに出されている後者は、たとえば「金縛り」のような状態だろう)。とにかくパンデミックがいちおうの終息を見て(未来予測はアテにならないという本を読んだばっかでなんなんですが、今後の世界は「コロナ以前」にはぜったいに戻らないと思っている)、マスクで息が詰まるような生活がすこしでも改善されれば、と願ってはいる。

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2021年07月01日

「批判的に」考えることの大切さ

 日ごろ、翻訳の仕事でお世話になりっぱなしの Google 先生。この画期的な検索ツールがなかったころは、いまとは比べものにならないほど翻訳の仕事はタイヘンだった(と思う。これは出版翻訳にかぎらず、およそ翻訳と名のつく分野はすべてそうでしょう)。しかし Google 日本語版(ワタシはまだ英語版しかなかったころからのヘビーユーザー)が出現してはや 20 年と少し。さていまの世の中見てみますと、ここにいる門外漢からしても明らかに考える力が劣化している人が増えてきている印象は拭えない。

 昨年秋、ひょんなきっかけでお声がけしていただき、巡り合ったのが、米国発祥の思考法のひとつの Critical Thinking。意味は文字どおり「批判的に考える」スキルのことです。で、これについて書かれた原書の日本語版が、不肖ワタシめの記念すべき初訳書となったのでありますが、もちろんそうすんなりと事が運ばないのが世の中というもので、いっとき出版じたいが頓挫しかけたりしたものの、先月の聖ブレンダンの祝日の前日、つまりブレンダン・イヴの日にぶじに刊行の運びと相成りました。

 この場をお借りしまして、お世話になった編プロの方々と監訳者の先生に厚く御礼を申し上げるしだいであります。で、監訳本というのはほんらい、ワタシみたいな門外漢ではなくて、監訳者の先生が説明すべきことですので、ホント言うと自分も名前を連ねているとはいえ、あんまりしゃしゃり出たくないんですね。でも先日書いたように、やっぱりひとこと、ここでも書いておこうと思った …… はよいが、いざとなると腰が引けて、気がついたらもう7月になっちゃった(苦笑)。

 といっても、この本はたんなるハウツーものではありません(だからそのように書かれた本を読みたい向きにはあまりおススメしないが …)。ではこの本の効用というか、なんのために書かれた本かというと、たとえばこちらのブログ記事のようなこととほぼ同じだと思う。すなわち、
●世の中のことをもっとよく知ること。
●考える力を磨き、自分を、そして自分とつながっている大切な人(家族など)を守ること。悪人どもにかんたんにダマされないようになること。
●バランスのとれたものの見方を身につけること、できればそれを「第二の天性」くらいまで高めること

以上の3点が大切だよ、ということを説いた本になります。この本ではそれぞれ、
○背景の知識を身につけること
○運用の能力を身につけること
○個人の特性となるよう努力すること
とあり、クリティカル・シンキング(以下、CT と略記)の3大要素として繰り返し出てきます。

 この本を書いた人は、おもに学校教育向けに CT 教材を開発したり、CT に関する著作や講演活動をしている教育研究家の先生。そのため、この本もおもに「幼稚園から高校まで(Kー12)の先生たち」の実践に役立つこと、たとえば「授業の現場でどうすれば生徒や学生の CT 運用能力を高められるか」とか、そういう内容が中心になってます。もちろん「序文」で著者が、「教室のなかでも個人でも、学びを実践されているすべての方」も想定して書いたと述べているように、「クリティカルに物事を考えるとはどういうことか」に関心がある読者なら読んで損はない、と思う。

 先日、見たこちらの番組。レイ・ブラッドベリの名著『華氏451度』の回でしたが、番組で案内役の先生がこんなことを述べておりました。
内省的に考えてから行動すること
米国生まれの思考法の CT は、まさにこれを磨くための思考訓練でもある。fake news 全盛時代のいま、ますます重要で必要とされている能力だと思う。

 CT の直接のベースになっているのが、米国の教育学の泰斗ジョン・デューイ(1859ー1952)の著書に登場する「反省的思考(Reflective Thinking、内省的思考とも)」と、プラグマティズム。さらにさかのぼると古代ギリシャの「三段論法」を含む論理学や修辞学にまで行き着くという。章立ては4つしかないから、そんなにタイヘンじゃないだろう、と仕事を引き受けたはよいが……それなりにタイヘンでした。版元から献本していただいた本を手にとったらこれでもしっかり 200 ページ以上ありますし。もっともどんな種類の翻訳だって、タイヘンじゃない仕事などひとつもあるわけないから、こればっかはなんとも言えないんですが。

 でも、けっこうしんどいことの連続だったのに、いざ終わると「また書籍翻訳に携わりたい」と思うから不思議と言えば不思議なもの。ヘタの横好きとかなんとか言われようが、やっぱり自分は翻訳という仕事が好きなんだと思います。もともと人前でしゃべるのが苦手で(悪気はないが、ホントのこと言って相手を怒らせるのが得意技。ただし影でコソコソ人様の悪口をたたいているような人は大嫌い。ようするに口が悪いんです)、紙に向かってペンを走らせる、あるいはテキストファイルをひたすら打ち込むのが性分にあっているほうなので、これからもしぶとく続けていく所存ではある(ピケティ本の翻訳者の先生いわく、「人力翻訳はせいぜいあと 10年くらいが関の山」らしいから、せめてその 10年はがんばりたいと思ってる)。

 ちなみにワタシの翻訳原稿料は「買い切り」ですでに受け取ってますので、今後、本訳書がいくら売れても当方には1円も入りませんので、「ステマ」がどうとか気にされてる読者の方も、どうぞ安心してお買い求めください。

 … そしてどんな本にもたいていは見つかるタイポのたぐいですが、じつはまことに残念ながら、訳者としては放っておけない誤植(p.47 の図版の誤字はワタシのせい。再校ゲラまでチェックしたのにどこ見てたんだろう…)と誤訳(念のため、これは当方のせいじゃないです。あんまり言いたくないが、再々校で勝手に手直しされた結果[このままでいいよってあれほど言ったのに…])がありますので、お買い求めになられた場合、お手数ながらこちらのリンクをご参照の上、しかるべく訂正して読み進めていただきたいと思います。m( _ _ )m 妄評多謝。

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2021年06月20日

『専門家の予測はサルにも劣る』

 …… という本を、仕事の調べ物をしていたときに図書館で見つけまして、さっそくこちらも借りてきた。初版発行が 2012 年。もっとはやく読んでおけばよかったとひさびさに思えた、個人的にはヒット本でした。

 日本語版はずいぶん人を食ったというか、小バカにしたような書名(原題は Future Babble )ではあるが、このカナダ人ジャーナリストの書き方は読んでいるほうがシャッポを脱ぐ(「こうもり」が通じず、「ダイヤル式黒電話」がなにかもわからず、ことばのプロの端くれであるはずのニュースアナウンサーが「軽々[けいけい]に」、「夜店(よみせ)」とかを誤読する世の中なので、こういう言い回しがすでに「死語の世界」入りしていないことを切に願いつつ)ほど、かつてのジェントルマン的潔さと言いますか、とにかく終始一貫、「真摯」で内省的でストイックであり、この点はおおいに見習いたいとさえ感じた。訳がいいから、そのように感じたのだと思う。

 この本では古今の専門家による「未来予測がいかに当てにならないか」の多数の実例が俎上に上げられ、アンコウの吊るし切りよろしくスッパスッパと一刀両断といったおもむきで容赦なく批判されている。過去の名だたる学者、たとえばいっとき日本でもすこぶる人気が高かったアーノルド・トインビーに、キャンベル本でもおなじみの『西洋の没落』のシュペングラー、そしてなんとなんと、あのミスミステリー作家のマイケル・クライトンも例外ではない。

 で、ここにいる門外漢がいちばん驚いたのが、そのクライトンなんですね。映画化もされた『ライジング・サン』という本。じつはろくすっぽ読んだことがなかったので、この本ではじめて内容を知って愕然とした。こんなこといま書いたら即三振アウトずら! いくら日本人に西洋びいきが多いからって、こんな「無意識下の差別」丸出し小説はイカンやろ、と思ったしだい。

 しかし驚くのはまだ早かった。クライトンがこの小説を書いたのは、バブル真っ只中の時代におもに米国で吹き荒れていた「日本脅威論(あるいは、日本スゴイ論)」に乗っかったついでに自作を売って儲けてやろう的な発想があったらしいこと。ようするにあの当時の米国市民にとって、「日本脅威論」はトランプ的な「ディープステート陰謀論」のように、米国社会のトレンドだったということです。これは逆に言えば、「そんなことはない。日本経済なんてそのうち失速する」と主張しようものなら、コテンパンにされかねない時代背景があった、ということ。その証拠に当時、この手の根拠薄弱な「日本脅威論」ものが売れに売れて、そんな本の日本語訳で書店は溢れていたものだ(神保町の某大型書店でもその手の逆輸入された「日本脅威論」本がベストセラーになり、げんにワタシもそんな本の平積みの山を見たことがある。就職氷河期世代以降の人には信じられない話だろう)。

 著者によれば、いつの時代も「専門家の予測など当たった試しがない」。1970 年代から 80 年代にかけてはやった「ピークオイル」説にしてもそう(いまも原油は枯渇していないし、昨年のコロナ禍で原油価格は初のマイナスを記録した)。とはいえ人間はダニエル・カーネマンの研究で有名になった数々の「認知バイアス」があるから、「世界が、基本的に不確実で予測不能であること」はアタマではわかっていても、高名なその道の「専門家」を称する人びとの立てる「未来予測」なるものを必要とする「需要」が途絶えないかぎり、この手の「予測本」も消えることはないと書く。では門外漢の一般市民のわれわれはどうすればよいか。

 著者によれば、専門家はふたつのタイプに大別されるという。ひとつが「キツネ」型、もうひとつが「ハリネズミ」型。で、未来予測のアテのならなさは両者共通としつつも、参考にするなら(鵜呑みにしていいというわけではもちろんなし)「キツネ型」専門家の予測のほうがまだマシ、と書いています。専門家といっても、確率的には「コイントス」と大差ないようですけれども、「キツネ型」のほうがまだ人間的に信用のおける学者の場合が多いようです。

 加えて、専門家には「専門しか知らない」タイプと、キャンベルのような「ジェネラリスト」タイプがいる。個人的にはもちろん、ジェネラリストな専門家の書いた本なり論文なりのほうが一読に値すると思っています。最近、日本にかぎったことじゃないでしょうが、カネの亡者というか、目先の利益にファウストよろしくあっさり魂を売っているような専門家もけっこういるから、要注意です。

 それにいまはインターネットもある。専門家といっても昔みたいにウカウカしていられません。真実ではない情報を垂れ流せば、たちどころに奇特なネットユーザーのネットワークが立ち上がって、査読やファクトチェック結果を発表する世の中。300 ページ超のこの本を読み終えて思ったのは、たとえモットモラシイ話に聞こえても、「ほんとうにそうなのか?」とまずは自分のアタマで考えることがいちばん大切、ということです。

 ほかにも予測本ものの著者として、これまたベストセラーを連発していたポール・ケネディ、『第三の波』のトフラー、昨年、ユヴァル・ノア・ハラリと NHK の特番に出ていたジャック・アタリ、ポール・クルーグマンなどが出てくるけれども、『不確実性の時代』で有名なガルブレイスは挙げられていなかった。繰り返すけれども、この本はなにも世界的に名を知られる学者や研究者のイイカゲンさをあげつらっているのではなくて、こういうすぐれた頭脳、すぐれた知性の持ち主でさえも間違えてしまうメカニズムとはなにか、それをとことん探った本です。

 10 年前のいまごろもそうだったように、いままた「専門家」と呼ばれる人びとが TV のワイドショーとかに呼び出されて、持論を展開している。原発事故と未知のウイルスの共通点は、「専門家でさえわからないことが多すぎる」こと。TV に映し出されている専門家が「キツネ型」か「ハリネズミ型」かにも留意して、注意深く話を聞く必要がある。そして聞きっぱなしではなく、自分のアタマで考えること。言い換えれば、エーカゲンな予測に、そもそもたくましい妄想の産物でしかない「○○陰謀論」にあっさり引っかからないだけの literacy を身につけることこそ、21 世紀のいまを生きるすべての人の責任かと思う。それさえ怠るような御仁は、それこそ自称5歳の女の子に「ボ〜っと生きてんじゃね〜よ!!」と一喝されるでしょうな。

※ 本文最後の一文の訳について。おそらくこれ下ネタのオチでしょうね。Google Books で検索かけても、当該箇所の原文が表示されなかったから、なんとも言えませんけれども。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるんるんるん

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2021年06月16日

Seeing is believing なこぼれ話

 えっと、いきなりではありますが本題に入る前に …… 不肖ワタシ、ようやく(?)自分の名前で出るはじめての翻訳書がこのほど刊行の運びとなりました。いわゆる「献呈本」はとっくに来ておりまして、手にとったときは──じつはタイポなどがありまして、せっかく苦労して仕上げたのにすなおに喜べないのもまた事実──もちろんそれなりに感慨はあったんですが、とにかく拙訳書につきましてはまたのちほどここでも詳しく書きます。というか、訳者としてはキチンと書くのが努めだとも思いますので。というわけで、トシだけはとってるくせにヒヨッコ翻訳者なワタシがエラソーなこと書いちゃイカン、ということは痛いほど承知はしておるのですが、黙ってられない性分ゆえ、そしてまたいちおう同業者の「告白本」の体裁をとってもいるし、ひとこと述べさせていただこう、と思ったしだい。

 じつはこの本、そのスジではかなりよく知られ、そこそこ売れているみたいです。じつはワタシも訳書が出るまでそれなりにスッタモンダがあったため、書かれてある苦労談とかはすごくよくわかる。二番煎じになるけれども、書籍を出版する場合って、たいてい書面の契約書はありません。だいたいが口約束で済まされます。ほかの業界だったらまずありえない話ですが、これが長年の慣行ってやつです。

 せっかく1冊まるまる翻訳したのに勝手に出版中止にされ、その責任を問うているのに版元に誠意が感じられず、やむなく提訴 …… という話、ワタシも間接的に知っています。訴訟まではいかなかったものの、「悔しくて一睡もできなかった」と精神を病む寸前まで追い込まれたなんて話も聞いたことがあります(この話、けっこう名前の知られた YA ものの翻訳の大家の証言なんですぞ)。

 しかも食えない。だから糊口をしのぐため、なにかしら「兼業」するしかない仕事だったりする。おまけに売れる本は売れるでしょうけれども、それ以外は鳴かず飛ばず、重版がかかることなく初版で品切れ絶版、なんてのが常態化してウン十年経っているでしょうか。そんなこともあってか、翻訳者唯一の収入源である翻訳原稿料でさえ、「印税」方式ではなく「買い切り」方式(ケチ…!)もかなり増えている。さらに悪いことにはクラウドソーシング全盛時代、アウトソーシングして翻訳者を募集するのはいいけれど、そんな募集はたいてい名の知れたプロ並みの要求をしてくるくせして相場無視の法外な稿料しか払わないところがほとんどときている(ある意味、ブラック業界化している。1冊まるまる訳すのにいったいどれだけの費用と時間と労力がかかっていると思ってるんですか)。

 だから、この本で著者が嘆いているのはホントよくわかるんですが …… ハッキリ言って共感できません。なぜか。文章心理学的に、というか、生理的に受けつけないのかもしれない。

 かんたんに言うとこの本、終始一貫、「ワタシは悪くない、被害者だ、悪いのは○○」とこんな調子なんです。それに注意深く読むとこの方、ワタシなんか足許にもおよばない英語力と「翻訳力」があるにもかかわらず、最終的に翻訳稼業から足を洗って警備員になるしかなかったのが、ほかならぬご自身の学習能力の欠如にあるとはまるで思い至っていないのがものすごく歯がゆくも思う。言い方はたいへん失礼ながら、詐欺被害に遭いやすいカモタイプかもしれない。最悪の事態を想定せず、物事はきっと「ご自身に都合よく」回るだろうと考えているフシがある。

 ちょっと手厳しいと思うが、とりあえずそんな「書き方」の例を、ワタシの感想(大かっこ内)も混じえて書き出してみる(下線は引用者)。話の内容は、「翻訳品質に関心のない編集者」について。↓
私はすでに旧訳が出ている原書の新訳を依頼されたことが何度かある[ソレハソレハ]。…… ではそういう場合、私は何をするか。私はその機会をうまく利用して自己PR 用の資料を作るのである[ご苦労さまです]。その資料は、私の文と旧者の文が[もうすこしなんとかなりませんかね?]比較できるようにしたものである。ただ、編集者も忙しい人たちであるから、私は新訳と旧訳がすぐに比較[←トル]できるよう、著しい差が出ている箇所を強調して示している[ちょっと待った。そのすぐ前で「私が翻訳書担当の編集者についてもっとも驚いていることは、彼ら[ママ]翻訳のクオリティーに対する関心があまりにも薄いことである。彼らにとって最大の関心事は売れたか売れなかったかであり、売れない翻訳書は翻訳のクオリティーに関係なく『失敗作』なのである」ってご自分で書いていますよね? せっかく作ったはいいが、ロクに目も通されないことくらい、察したらどうですかね …… その労力をほかに振り向けたほうがよいのではなくて ?? ]。これを見せることで、
 (ほら、この翻訳家はここをこう訳してるでしょ。でも同じところを私ならこう訳すのです。この違いがおわかりですか。どちらの翻訳家の訳で読みたいですか)[ある女性編集者のことを「上から目線」とクサしておきながら、あなたも大したものじゃないですか! というかオラにはおっかなくて、とてもじゃないがこんなマネできっこないす。それにこれはズルい。後出しジャンケンみたいで。そもそも編集者が旧訳と比較して判断するなんてことはないでしょう]
 と私の翻訳のクオリティーを吟味してもらおうと思っているのである。

と、こんな感じ。

 さらにイヤ〜〜な書き方もある。出版翻訳から警備員に転身したいまはきれいさっぱり、「後悔などあろうはずがない」なんてどっかで聞いたような科白を引用するのはよいが、なんとなんと脚注に「本書をお読みの翻訳書担当の編集者で私の自己 PR 用の資料を見てみたいと思う方は喜んでお見せします。ただしなんらかの仕事を私に依頼していただくことが前提です。連絡先は ……」!!! こちとらもう口あんぐり。未練たらたら感満載じゃございませんか。

 まだまだある。「売れる本にしたいので、W 先生に監修者になってもらおうと思っているのですが、よろしいでしょうか」と訊いてきた編集者に対し、「出版社はそれでも売れればいいだろうが、それでは私が困るのだ」
とこんな感じで押し問答がひとしきりつづいたあと、「だって○○さんって、なんでもない人じゃないですか」と言われ、深くショックを受けた著者はこう書く。
なんだなんだ、なんでもない人とはなんだ。私はなんでもない人なんかじゃないよ。…… 実際、こっちはイギリスの名門の大学院から修士号を取得しているんだよ。出版翻訳家になるのだってたいへんなんだよ。なのになんで私がなんでもない人なんだよ。そういうあなたはどれだけ立派な人間なんだよ。だいたい、人のことをなんでもない人なんて言う資格があなたにあるのかよ

「つい〜、“sell word”に“buy word”で」と言った小原鞠莉じゃないけれども、こんなの読まされたらついそう言いたくなってしまうじゃないですか。というかこれ「藁人間論法」じゃないですかね。ちなみに監修者として名前の挙がった W 先生は、アーノルド・ベネットの超有名なロングセラー本を翻訳した大先生。さらについでに、「イギリスの名門の大学院」のある大学は、世界ランキング 50 位中の 42 位でした。

 それとそのすぐあとにもこの「翻訳品質に関心のない編集者」の話は尾を引いていて、
旧訳を新たに訳し直すときって翻訳のクオリティーを高めて出したいからではないの? もしそうでないのなら、なぜ新訳を出したがっているの?

そのときそうギモンに感じたのなら、その旨直接お伺いを立てればよかったんじゃないですか? 

 さも自慢(?)話ふうに得々と書いている箇所も多くて、この著者はそうとう粘着質な人と見た。トラブった編集部宛てにファクスを執拗に送りつけて業務妨害スレスレのこともしていますし。こういう暴露本って、だいたい著者の独善ばかりが目につき、ハナにもつくという代物がほとんど。以前図書館で見かけた「元郵便局員」が書いた内輪ものの本とおんなじ臭いがした。たしかにワタシも精神的に不安定になりかけたことがあり、この本を知ったときは「またなんとタイミング悪く、こちらの士気を挫くような本が出たもんだ、それに売れてるらしいし」なんて思ったもんだが、いざ読んでみたら、「いや、待てよ。ひょっとしたらひょっとして(Are you telling me what I think you're telling me?)」みたいな本かも、とも思っていた。で、読んでみたら後者だった。思い込みの強さという点ではワタシも似たかよったかだが、著者もまた思い込みの激しい人であることは、書かれた文章の行間から芬々と漂う。

 思うんですが、たしかに翻訳作業って孤独で、とにかく「ひとり」で自己完結しているようなイメージの強い仕事ではある。究極のテレワークと言ってもいいかもしれない。でも1冊の翻訳書を世に出すには、翻訳者がひとりいたってできるわけがない。校正者がいて、編集者がいて、校閲者がいる。発行人がいて、印刷と製本会社の従業員の方々がいる。書店に配送する人に、そしてもちろん、書店でその本を売ってくれる販売員の方々がいる。それを買ってくれる読者がいる。エラソーなこと言ってほんとうに申し訳ないのだけれども、この人にいちばん欠落しているのは、「自分は翻訳出版チームの一員だ」という意識じゃないかって気がします。この手の人は最後までひとりで完結する、Amazon Kindle のような電子本で個人出版すべきだと思う。コレならすくなくとも理不尽な言いがかりをつけられる心配はないですし。

 というわけで、こんな内容ですので、この本につきましてはいつもの書評もどきの扱いとはせず、「選外」とさせていただきます。あ、それともうひと言。ここの版元のこのシリーズ? はけっこう評判がいいそうで、新聞広告でもときおり見かけたりします。しかしながら新聞広告出してる本で「読む価値のある本」、「読むべき本」というのは、ワタシにかぎって言えばまずないです。ワタシが読みたい本は、新聞広告に載らない本ばっかなので。

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2021年05月28日

日本版 “Translation Studies” の必要性

 たまたま図書館で見かけたこちらの本。いかにもみすず書房らしいテーマの本だと思ったら、懐かしの『翻訳の世界』を取り上げた研究論文を叩き台にして書き上げたというのだから、ちょっとビックリ。ついにこんな本が出るほど、「わが青春の日々はすでに過ぎ去り」というか、昭和は遠くなりにけり、なんだなァと思わずひとりごちた。

 月刊誌『翻訳の世界』は、とてもユニークな立ち位置の雑誌だった。内容も硬軟織り交ぜ、とにかく「翻訳」と関係するものは時事問題(湾岸戦争、通信社の舞台裏、『悪魔の詩』事件、国際結婚 etc……)からマンガまで、来るものは拒まず的な言論雑誌だった。しかもなんたる皮肉か、もともとの発行元は「大学翻訳センター」、現在の DHC なんですぞ。しかもこの雑誌のよかったところは、対立意見や主張などおかまいなく、幅広い執筆者が精力的に記事を書いていたことだ。運営する翻訳学校の広報誌的役割(広告塔)も果たしていたから(これはしかたないこと。民間企業が刊行している「商業誌」だったので)、自社宣伝がハナについていたとはいえ、いまどきこんなおおらかな内容の言論雑誌は望むべくもないだろう、と思う(いまの国内の言論がいかに歪められているかは、書店に並んでいる本や雑誌を見れば一目瞭然)。

 本書の著者も巻末に慨嘆しているように、「あのころは多文化・多言語主義というものが十年後には当たり前の社会が来ると感じていた。しかし、これが全くの誤りであり、今は逆行しているように感じることも多い」。

 せんだってここにも書いた systemic discrimination もそう。当たり前だと思って意識してないから、ことはややこしくなる。そんな一例が、すでに 1986 年の『翻訳の世界』誌上で当時、『過越しの祭』で芥川賞を受賞した米谷ふみ子さんのインタビューとして載っていることも紹介している。
日本でもあります。アメリカはまだ法律によって保護されてるんです。日本の場合は法律もないでしょ、偏見に対して。だから危ないです。日本に住んでる日本人はそのことを知らない。…… 教えやすいし、操作しやすい。右向け言うたらみんな右向きますよ。違うことしたくないから。それが嫌な人はみんな出ていってしまう。──「マイノリティの生活経験を伝えたい」から

 英国やドイツでは「人種主義的な差別発言や言動は禁止されており、差別的なことを口にしただけで拘束されることもある」くらい厳しいにもかかわらず、このインタビューが掲載されてから 34 年後の欧州では新型コロナのパンデミックに悪乗り(?)したかのようなアジア系住民などに対するレイシズムの嵐が吹き荒れたことは記憶に新しいところ。

 といってもこの本は、かつて日本に存在したユニークな雑誌をただ懐古してるんじゃなくて、そういった言論雑誌というレンズを通して見たトランスレーション・スタディーズ、「翻訳論(カタカナ語とはニュアンスは異なってはいるが)」の可能性について論じた本。駆け出しのペーペーがこんなこと言うのは口幅ったいのですが、この本読むまで正直、「翻訳論」の必要性について真面目に考えことはなかった。ある意味、「技法と実践」のみに拘泥していたのかもしれない。柳父章さんとかはもちろん知っていたし読んでもいたけれども、海外ではこの手の「トランスレーション・スタディーズ」が盛んで、ご多分に漏れず大学制度「改悪」の進んでいるらしいイングランドの大学(著者の勤務先)では翻訳を学ぶ専門の学部や学科が存在している、と知ってすこぶる新鮮だった。こういう専門学部では、たんに翻訳技術を教えるのではなく、それをはるかに超えた「学問としての翻訳」を教えているという。たとえば、実際の仕事で必ずと言ってよいほど悩みのタネとなる背景知識の調べ方や習得などについても教え込み、このへんが日本国内で翻訳を教える民間学校とは決定的に異なるところだと書いている。

 「雑誌の分析だけでなく、インタビューという手法を取り入れた」とあるように、後半は『翻訳の世界』に携わった関係者諸氏のインタビューで構成されてますが、ここで一点、気になった点が。発行元が運営していた翻訳学校の当時の生徒になぜインタビューしなかったのかな、と。あいにくこちとらも数年間、定期購読していた『翻訳の世界』が山のようにあったけれども、とっくの昔に一部だけ残してすべて処分してしまったし(いまにして思えばモッタイナイことしたかも。地元の図書館に寄贈するという手も考えたが、先述したように「広報誌」的性格がイヤだったため、断念)、お声がけしてくれれば(あるわけないが)、喜んで差し上げたものを。

 あと印象に残っているのは、「翻訳を深めようとすればするほど、その政治性とイデオロギー性を確認することになる」とか、スラヴ文学者の沼野充義先生が著者のインタビューで、「アカデミックな研究の営みは、…… 自由なものでなければならないのではないか。すべてを既成の規範にはめて考えていたら、新しいものは生まれない。翻訳研究の場合も、一定の枠組みからはみ出すところにむしろ豊かさがある」として、欧州生まれの「トランスレーション・スタディーズ」の亜流ではない、1970〜80 年代にかけて芽生えつつあった、日本独自の「翻訳研究」の経験と実践を活かすよう述べていることはひじょうに示唆に富む発言だと思った。

 「翻訳とイデオロギー」ということでは、もうすぐ日本語版が出るトマ・ピケティの新作『資本とイデオロギー』のテーマとも重なる部分がけっこうあります。というわけで著者の次回作もおおいに期待しております。

評価:るんるんるんるんるんるん

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2021年05月02日

画家クールベの生き方に学ぶ

 いまさっき見た「日曜美術館」のクールベ特集。率直な感想は、「なんて戦闘的な人だ(汗)」。

 ギュスターヴ・クールベの名前をはじめて知ったのは、小学生のときに親に買ってもらった『美術の図鑑』に載っていた「こんにちは、クールベさん」。当時、この油絵作品(のカラー図像)を見て思ったのは、「自分で自分のことを『クールベさん』って言っちゃうんだ(笑)」と、なんて気さくな人なんだろ、ということ …… だったんですけど、じつは帽子をとって挨拶している相手というのがなんと当時、クールベの生活を支えてくれていた懇意のパトロンその人ですと ?! しかも『ゆるキャン△』に出てくる松ぼっくりよろしく「\コンニチハ/」されている画家クールベといえば、ふんぞり返って、パトロンなのに相手を上から目線で睥睨している。…… あれから 40 ウン年、気さくどころか、ハナもちならぬ男だったことが遅まきながら判明した(微苦笑)。

 でもクールベという人は、見ようによってはハナもちならない、「世界一傲慢な男」だったかもしれないが、こと芸術となると「レアリスム」つまり写実主義を提唱してそれを生涯、ブレずに一枚看板にして画業に励んだ結果、晩年になってようやくサロンにも認められ、まだ 20 代だったクロード・モネ(!)とも仲よくなったりと、時代の先を行っていた画家だったのはまちがいない。加えて、いまで言う炎上商法的なこともやっていたりと、「ドル紙幣をたくさんもらったときだけぐっすり眠れる」と豪語していたサルバドール・ダリもあのギョロ眼をさらにギョロつかせるくらい、そういう方面にかけても先駆者だった。「個展」というのをいちばん最初に開いたのもじつはクールベだという。

 最晩年、政治犯として投獄されたり、釈放後に失意のままスイスに亡命したりという話は、なんか哀れな末路にも思える。もしそんな政治的誘惑に乗らず、おのれの目指す道を独立独歩で突き進んでいたらと思う。そういう反省もあるのか、番組では「わたしはいかなる宗教にも、いかなる流派にも、いかなる組織にもただの一度も属したことはなかった」ということばを紹介して終わっている(ところであのバカでかい『画家のアトリエ』という作品、あれまさかホンモノなのだろうか?)。個人的に印象的だったのは、一連の「海」の連作もの。白い石灰岩の絶壁の景勝地エトルタの海景ってモネじゃなくて、クールベが最初に目をつけて描いてたんですね、知らなかった。

 ある意味孤高の人だったかもしれないクールベさんですけど、ひるがえっていまのアーティストってどうでしょうか。どこの世界も分業化が進んでいるから、なかなかそういうわけにもいかないとは思うし時代も違うから、単純な比較はいけないかもしれない。しかし「われわれアートの世界の人間にも○○の権利を !!」というのは、なんかちがくね? とも感じてしまう。

 そもそもアーティストって反骨の人、権力の対極にいる人のことでしょう。そういうのはほかの方にお任せしたらどうですかね。アーティストがほんとうにやるべき仕事って、ジョイスの言う「エピファニー」を創り出すことだろう。政治的・教訓的芸術ではないはず。クールベだってそうでした。また、SNS でさかんに発信したりするアーティストも多いし、それはそれでけっこうながら、アーティストのほんらいの仕事との比重が狂ってしまっては本末転倒だとも感じている。

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2021年04月30日

巨匠アシモフの未来予測

 いつも行っている理髪店(創業 59 年目 !!)には、昭和 50 年代の古書とかも置いてあって、そのなかにはこれまた懐かしい「日本リーダーズダイジェスト」社が出していた事典ものもあります。その一冊、『世界不思議物語(Strange Stories, Amazing Facts 1979)』という大判本の巻末に当時の SF 界の巨匠アイザック・アシモフ(1920−1992)の「人類に未来はあるか」というインタビュー記事も収録されていて、ちょっと興味を惹かれて目を通してみた。

 インタビュアーはアシモフに、「予言者たちは、世界の終わりが来るともう何世紀も言い続けてきました。この地球に終わりが来るとして、それはどんな形でやってくると思いますか」という、あの当時の空気感を知るひとりとしては、ぶっちゃけアリガチな紋切り型っぽい質問から始めている(『ノストラダムスの大予言』シリーズ本なんかが売れまくってた時代。ちなみにスウェーデンの例の方はご存知ないだろうが、あの当時はいまとは逆に、「氷河期が来る !!」っていう予測本が売れていた時代でもある)。

 21 世紀に入ってもう 20 年代に突入してしまっているいまに生きている人間の眼であらためて読むと、さすがのアシモフもやや naïve だったかも、という箇所も散見されるけれども、そこは SF の重鎮だけあって炯眼ぶりはさすが、と思うことしきり。

 たとえば民間宇宙航空開発会社や EV 製造会社をいち早く立ち上げて期道に乗せているイーロン・マスク氏は、並行して「火星移住計画」みたいなことに大マジメに取り組んでいる。取り組んでいるのはけっこうなことながら、あいにくそれは解決策にはならんと一蹴する。
この太陽系内のほかの惑星を、人類の植民地にすることはできるでしょうか
 技術を使って大々的に改造しないかぎり、住めるようになる星は太陽系にはありません。改造の可能性があるのは、月はたしかにそうですが、あとは火星ぐらいでしょう。しかし、太陽が死ぬときにはみんな地球と同じ運命をたどるわけで、長期的にみた場合の解決にはならないわけです。

と答えて、「太陽が死ぬときまでに、われわれ人類がこの銀河系はもちろん、他の宇宙にも散らばって生きていくようになっていることは、ほぼたしかだと思います」と続けてます。

 そして話は「光速での宇宙旅行」や「地球がほかの惑星や流れ星と衝突する可能性」、「地球がほかの星から攻撃されたり滅ぼされたりする可能性」と、新型コロナのパンデミックにすっぽり覆われている 2021 年時点で見ちゃうとやっぱり naïve だなぁ、とひとりごちてしまうわけなんですが、そんなインタビュアーの軽薄さを見透かしてか、アシモフは「[その手の危機は]SF ではよく出てきますが、じっさいにはまず起こらないだろう」と述べて、「いますぐ手を打たなければ、この 30 年か 50 年以内に、人類は現在の文明を滅ぼしてしまう危険性がたぶんにあります。そういう方向に人類は突っ走っています」と警告する。こう切り返されてインタビュアーはなんと言ったか。「それはまたぶっそうな話ですね。しかもそんなに早い時期にですか」(!)
西暦 2009 年までには、地球の人口は 70 億から 80 億という数になりますが、食糧を現在の 2 倍も供給することなどできません。30 年か 50 年のうちには、地球の全人類が飢えることになるでしょう。
 しかも食べる物がじゅうぶんにないために、病気が増えます。世界的に不穏な状態に包まれるでしょう。……

 人類の歴史は、技術の進歩の歴史だったわけです。一時的に技術がおとろえた時代としては、いわゆる暗黒時代があります。人類は過去に何度も、そうした暗黒時代を経験していますが、いずれも特定の地域がそうなったわけで、人類全体の危機ではなかった。……

 しかしわれわれはやがては石油を使いつくしてしまい、石炭も採れるだけ採りつくしてしまい、地球の貴重な鉱物を掘りつくして世界じゅうにばらまいてしまい、環境が放射能をおびるようになるところも出てくるでしょう。しかも増え続ける人口をまかなうべく絶望的な努力をして食糧生産にはげみ、そのために地球の土壌を破壊してしまいます。……

 もちろん、人類は海洋から現在以上に、食糧を大量に取ることができるようになるでしょう。植物をタンパク源として、利用することもできるようになるでしょう。……

 またエネルギーについても、太陽エネルギーが人類の主要なエネルギー源になっていくでしょう。しかし、さきほどから言っているような最終的な危機をさけるためには、いますぐにでも画期的な進歩がなければ手おくれになってしまいます。


 そして、アシモフは最後にこう結んでます。
わたしたちが直面しているのは、全地球的な問題です。資源が減り続け、人口が増え続けていること、環境の汚染、そのほかみんなそうです。……

 過去にも、人類は何度も危機を乗り越えてきました。たとえば 14 世紀に黒死病が大流行したとき、人類のおそらく 3分の1 が死にました。しかし 3分の2 は生き延びたのです。衛生学の知識もなかった当時の人が、あのもうれつな伝染力を持った致命的な病気にも打ち勝って生き延びたのです。……

 人口問題を解決することができたら、21 世紀はすばらしい時代になるでしょう。それは量よりも質の時代であり、知識よりも知恵と洗練さが支配する時代であり、新しい技術と文明が打ち立てられることでしょう。そして人類の未来は輝かしいものになると思います。

 最後はなんだか一縷の望みが持てそうなことをおっしゃっていて、40 年以上も前にここまで言えた人って向こうのインテリでもそうはいなかったんじゃないかな。その数少ない例外のひとりは、やはりジョーゼフ・キャンベルだろうと思う。

posted by Curragh at 22:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 翻訳の余白に