2021年02月14日

Words are mightier than the sword

 かつて、「あの子、大事なときには必ず転ぶんですよね」と言ったご本人が、コロナ禍ならぬ、ご自身の「舌禍」のために辞任に追いこまれた。べつにこの方にかぎらず、バブル崩壊以後の日本では、こういう「失言/妄言で身を滅ぼす」タイプの話はこちとら「耳タコ」状態の感覚麻痺状態でして、正直なところ、「ああまたか」くらいしか思わなくなってしまっている。

 べつにあの方のカタ持つわけじゃないですが、一連の騒ぎがイヤなんですよね。論点がズレまくっているというか。ここでも紹介した、スペインの思想家ホセ・オルテガ・イ・ガセット(1883−1955)の代表作『大衆の反逆(1930)』に出てくる記述なんかが、どうしても思い出されるのであるが ……。

 個人が思い思いに意見を表明するのはもちろん問題なし。動物学者ジェラルド・ダレルが軍政下のアルゼンチンで赤ちゃんバクに振り回されるようすをユーモラスに綴ったエッセイとかも昔、読んだけれども、そのエッセイでダレルが発言したように、この国にも「意見を自由に述べる権利くらいはある」。ただし、思いつき・便乗・個人攻撃・お門違い、あるいはとくに欧米圏のメディアや人間の言ったことをなんの疑問にも思わず、無批判に額面どおり鵜呑みにして当の失言した本人を咎めているようなことはないだろうか? 

・問題の発言と、進退について:欧米メディアはじめ、SNS 上でも集中砲火を浴びせられているようなところもあるにせよ、そもそもハナシ家じゃないんだし、ご自身の地位と立場、そしてこのタイミングとこのご時世をほんとうにわかっていたのなら、いくら内輪の会合の場だからって、女性を侮蔑したととられる発言は完全に「大事なときに転」んでいると思う。ただし、ヤメロヤメロと大合唱を浴びせるのは、オルテガの言う「私刑」つまりリンチではありませんか? 

 もし現在の与党出身者でしかも首相経験者の発言で問題だというのなら、それを生み出す腐った根っこをなんとかしないといかんのではないですか? 個人的にもっともイカンと思っているのは国会議員に定年がないこと、遊んでいても議員歳費をちゃっかり受け取れること、それとこれはとくに政権与党に当てはまるが、議員を「家業」にしていること、ようするに「世襲の禁止」をすべきだ、という3点にあると考える。この人だけを吊し上げて引きずり下ろして快哉を叫んでいるようじゃ、そういうあなたがたもやってることはたいして変わらないのではないですか? あと、問題発言を受けて聖火ランナーやボランティアを辞退する人がけっこういたとかいう話も「ちょっとなに言ってるのかよくわかんない」。問題となった発言と、聖火ランナーとして走ることやボランティアに手を挙げたこととは、ほんらい関係ないのではないですか? 

 Twitter なんかで今回の件をさんざん叩いた方は、今年はイヤでも国政選挙がありますから、ぜひとも有権者の義務を果たしてくださいまし。それもしないでなんだかんだ言うのは、オルテガの言う「慢心した坊っちゃん」じゃないですかね? あるいは自分で植えもしないトウゴマの木が枯れたといって嘆く預言者ヨナみたいなものかも。まずは「隗より始めよ」ですな。

・五輪を中止すべきという意見について:たしかに危険な賭けになるとは思う。世界的に予断を許さぬ状態でもあるし。ただ、いまはワクチンがあるだけでもまだ救いがある。あとはワクチン接種が間に合うかどうか。げんにいま、大坂なおみさんががんばっていて、深夜帯に中継をテレビ観戦して元気もらってる人だってけっこういるんじゃないでしょうかね? なんだかんだ言っても、いま批判している人たちも、いざ大会が決行され、たとえ無観客であったとしてもがっつりテレビで観るんじゃないでしょうかね? 

・五輪ではなく、ほかにカネを回すべきという意見について:そもそもこんなの「復興五輪」じゃない、なんて言ってる人も、年末の「紅白」で例の歌を披露した子どものユニットとかは観ていると思う。その子たちだけじゃない、五輪とパラリンピックマスコットのデザインは、たしか全国の子どもたちの投票も反映されていたんじゃなかったですか? あんまりオトナのリクツだけを振りかざしていては、こうした子どもたちを傷つけることになりはしませんかね? コロナだからやるな、ではなく、なんとかして開催する方向で進めるべきだと個人的には思う。生の音楽や絵画に触れることも大切だが、おなじくらい、スポーツ競技に真摯に打ち込むアスリートの姿に触れることもまた観戦する人、とくに若い人にとって、前を向いて自身の人生をまっとうする勇気を与えてくれるんじゃないかって思う。前回のリオ五輪のとき、選手団の凱旋パレード見に行った人はけっこういませんでしたっけ? 

 「だれのための五輪?」というプラカードをかざして無言のプロテストをする人の映像がテレビで流れていた。冷たい言い方かもしれないが、「保育園落ちた、日本死ね」と言い放った人と精神構造が似ているのかもしれない。ご自身がよければそれでよし。ただし自分が不幸なら、すべては悪い。ここで何回か触れてきた「マイホーム主義」のひとつにしか見えない。いまの日本はたしかに問題だらけだが、それじゃ BLM に揺れる米国はどうですか? バイデンさんが新しい大統領に就任してスピーチしたのを NHK の生中継で観たとき、さすが腐っても米国だと感動すら覚えたけれども、30 年前と比べれば、いまの日本も格段に恵まれていると思う。チャンスだって増えている。かつては在宅勤務だなんて、どんな職種だってマジでそんなことできるわけがなかった。もっともセーフティーネットやベーシックインカムはもっと真剣に議論され、検討すべき課題だと思うが、やはり大切なのは「組織票」をアテにするような昭和な政治屋諸氏を落選させることでしょう。五輪に罪はないはず。コロナ対策については、さっきも書いたようにワクチンがようやく承認されたし、いまやってるテニスの大会だって無観客と観客入れとをうまく切り替えて実施されているのだし、五輪だけ中止という選択肢がほんとうに正しいのかどうか、よくよく考える必要があるのではないでしょうか? 

・日本の女性参画について:今回の失言騒動の対応をめぐっては、欧州の風当たりはそうとうなものですが、ワタシとしては、その欧州で有色人種に対する差別がコロナ禍でいっきに吹き出した話とかがかなり引っかかっている。ドイツのサッカー観戦に来ていた日本人観光客に対する扱いとかはこちらの記事のような経過をたどっていたようですが、この前見たEテレの「ワンルーム☆ミュージック」という DTM 番組で紹介された、ロンドンを拠点に活躍する日本人アーティスト、リナ・サワヤマさんの受けたという壮絶な差別の話とか聞かされると、「おまえらのほうこそなんなん?」ってなるわけ。日本の女性問題のことを叩く前に、ご自分の足許も見なさいよみたいな水掛け論的になってしまうではないか。だいいち欧州の人種差別は、米国よりもさらに根が深い。ユダヤ人なんか典型的な例ですね。いや、島国の日本人こそ、そういう差別意識にもっとも疎くて、そもそも社会に差別意識があることすら意識していない。こういうのを systemic discrimination って言うんですが、たしかにこの点は日本人はおおいに反省すべきかと思う。

 しかしこうも言える。そもそもだれしもなにかしらの「差別」意識は持っているもの。でも人は変われる生き物でもある。そのために意見を言い合うのはおおいにけっこうなことだと思うし、少なくとも自分の内面にそういう差別意識や差別感情があることに気づくだけでも精神的な成長になると思う。バナナマンさんが CM で言ってるでしょ? 「人間は迷う。まちがえる。だから愛おしい」って。行動経済学界隈では、行動経済学的にカンペキな人間のことをなんか「エコノ」って言うらしいけれども、そんな人なんているわけないし、べつに目指すべきでもないでしょう。大切なのは、「二度とおなじ失敗を繰り返さないこと」のほう。これだけで人はじゅうぶん、生きていけると思う。

 そういえば、今年の芥川賞に決まった『推し、燃ゆ』。作者はなんと沼津市出身の女子大生だそうで、まずは御同慶の至りです。でも「推し」という言い方、通常はどこか「差別的」に用いている人もけっこういるんじゃないかって気がする。Otaku とおなじで。しかしながら思うんですけど、そういうものを持っている人のほうが、いざとなったら精神的に強いような気がする。今日、やっと作品全文が掲載された「文藝春秋」買ったので(遅 !!)、ちょっと仕事もヒマになったことだしこれから読むところなんですが、選考委員のひとりの選評がとくに心に残りましたね。
『推し、燃ゆ』の主人公は、…… わたしなどにとっては …… 正直なところ、まあ異星人のようなものである。自分の部屋に「推し」の「祭壇」を作ることが救いになる、それが生活の「背骨」になるといった心のメカニズムにしても、一応知的に理解はしても、何一つ共感するところがない。
 にもかかわらず、リズム感の良い文章を読み進めて、その救いの喪失が語られ、引退した「推し」の住むマンションを主人公が未練がましく見に行くあたりまで来て、不意にじわりと目頭が熱くなってしまったのは、いったいどういうわけなのか。共感とも感情移入ともまったく無縁な心の震えに、自分でも途惑わざるをえなかった。主人公の嗜好も生活感情も世界との違和感も、ごく特殊なものでありながら、宇佐見氏の的確な筆遣いによって、どこか人間性の普遍に届いているからだろう。

 こういうのもりっぱに普遍的テーマたりえる、ということの証左のような寸評だと思ったしだい。こういう「色」のついた、一見、クダラナイとさえ思われている「ことば」は、一般の人がそれと気づいてないだけでじつは人を生かすパワーが宿っていると思う。そういういわれなき差別を一方的に受けてきた「ことば」がほんらい持っている力をぞんぶんに発揮できる、そんな書き方のできる物書きというのはつくづく幸せだと思うし、こういう物語がいま、もっとも求められているのかもしれない。

posted by Curragh at 05:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近のニュースから

2021年01月31日

バッハは名アレンジャー

 先週の「古楽の楽しみ」、バッハ好きにはたまらん特集でした。仕事の切れ目が朝になったり夜になったりで毎朝聴取できてないとはいえ、一連の「ブランデンブルク協奏曲」を聴き、案内役の加藤拓未先生のお話に耳を傾けていると、やっぱりバッハという人は稀代の名アレンジャーだったんだな、という思いを強くしたしだい。

 これは前にも書いたことで、もはや何番煎じかもわからないけれども、翻訳ってよく演奏行為にたとえられます。しかし、どっちかと言えば翻訳は「編曲」つまりアレンジに近い。「ヨコのものをタテにする」っていう言い方がかつてはありましたが、編曲という行為の場合、原曲(オリジナル言語)があり、それをべつの楽器やべつの編成(ターゲット言語)に変更して「改作」するのだから、まさしく翻訳そのものです。編曲=翻訳ととらえれば、さしずめバッハは歴史に残る名翻訳家だと言えます。

 そして、翻訳者に求められる資質とアレンジャーに求められる資質というのもまたよく似ている気がする。まず研究熱心であること。これは分野問わずアートな仕事に関わっている人にはすべて当てはまるだろうが、こと外国語で書かれ、異国の文化から発信されたテキストを日本語に翻訳するのは「〜の公式」みたいに機械的になにかの原理や公式を当てはめてハイ一丁上がり、なんてことにはぜったいにならない。まずもって目の前に広げた原書なり、Web 上の英文なりの「背景」を知らないと話にならない。知らなければ、学習しなければならない。これが嫌いな人は翻訳者に向いてない。たとえばいきなり「グノーシス」だの、「デミウルゴス」がどうのこうの、果ては「イーアイ・イーアイ・オー」とかがなんの前触れもなく出てくるかもしれない(最後の例は、たまたまいま読んでる哲学者ダニエル・デネットの最新の著作にホントに出てくる)。

 編曲もまさにそう。1714 年ごろ、バッハは当時仕えていたザクセン=ヴァイマール公国領主の 14 歳(!)だった甥っ子ヨハン・エルンスト公に、ヴィヴァルディとかの当時最新のイタリア音楽様式で書かれた「コンチェルト・グロッソ」を編曲するよう依頼され、さらにまたヨハン・エルンスト自身の作品も編曲するよう仰せつかった。で、ヨハン・エルンストが所望したのは、「これらの協奏曲を、すべてオルガン1台で弾けるようにすること」だった。

 バッハがどんな気持ちでこの依頼を引き受けたかはまったく妄想するほかないが、自分がもっとも得意とする楽器のために編曲せよ、というのはもう仕事というよりホビーに近かっただろうと思う。バッハは少年時代から、他人の作品の研究が大好きな人間で、しかもこんどはヨハン・エルンストじきじきに留学先のオランダから持ち帰ってきた、当時最新のイタリア様式の楽曲の出版譜が目の前にあったのだから。仕事として依頼を受けなくてもみずから率先してオルガン用編曲(BWV592 〜 597)に取りかかっていたはずです。若き巨匠バッハにとって、ヴィヴァルディらの楽譜はまさに「宝の山」であり、オルガン用にアレンジして過ごした時間は、文字どおり「至福のひととき」だったにちがいない。

 じっさい、そんなバッハの「ワクワク感」は、一連の「オルガン協奏曲」を聴くこちらにもビシバシ伝わってくる。バッハの音楽スタイルに、あらたな生命が宿ったその瞬間に立ち会っている錯覚さえおぼえる。有名な「小フーガ BWV578」など、バッハははたち前後から、それまで猛烈に影響を受けていた北ドイツの幻想様式を脱皮して、「朗々と旋律線を歌わせる」、音楽学者ハインリッヒ・ベッセラーの言う「歌唱的ポリフォニー」へと大きく変化していった。この「イタリア音楽編曲体験」も、そんな時期のバッハと重なっている。結果的に、後年のバッハの音楽スタイルは北ドイツ・南ドイツ・フランス・イタリアと当時の欧州大陸の音楽の流れが注ぎ込む「海」のような独特な混淆様式になっていった。加えて、最晩年にはパレストリーナやフレスコバルディなどの古様式研究の成果も反映された巨大な楽曲群(「フーガの技法 BWV1080」、「音楽の捧げもの BWV1079」、「ミサ曲ロ短調 BWV232」、「14 のカノン BWV1087」など)も生み出されることになる。だからダジャレ好きだったらしいベートーヴェンが、「バッハは小川ではなくて大海」と言ったのは、正直な気持ちの吐露だったのだろう。

 バッハの「編曲好き」はヨハン・エルンストによってもたらされた「イタリア体験」後もすさまじく、「無伴奏ヴァイオリンパルティータ BWV1006」の前奏曲を「教会カンタータ第 29 番」のシンフォニアに転用しているし、そもそも「ブランデンブルク」じたいがすべて自作の原曲を編曲・改作したもので、番組ではめったに聴けない「初期稿」ヴァージョンにもとづく演奏まで聴けたりと、興味は尽きない。とくに「5番」の第1楽章の有名なチェンバロ独奏パート、初期稿版はたしかに「そっけない」かもしれないが、いやいやどうしてこっちもおもしろいではないか! 「ニジガク」の侑ちゃんではないけれども、「完全にトキメいちゃった」感じ。こういう多様性、規則だらけに見えてもそれを軽々と超越してあらたな音の世界を作り出していくこのいかにもバロック的な生命力、グールドがかつて言ったようなバッハの「運動性」にこそ、バッハの真の魅力があると思う。ジャック・ルーシェ・トリオがあれだけかけ離れたスタイルで演奏してもやっぱりバッハはバッハでしっかり響いてくる理由も、このバッハならではのヴァイタリティにあるように思うし、それをもたらしたのは、ほかならぬバッハの研究熱心さ、そして一連の「編曲(=翻訳)」作業にあったように思う。有名なマルチェッロの「オーボエ協奏曲」や、そしてなんと! ペルゴレージの「悲しみの聖母(スターバト・マーテル)」まで、バッハは編曲しているのですぞ(BWV1083、前者はチェンバロ独奏用、後者はドイツ語歌詞によるモテットに編曲している)。

 バッハが 21 世紀に生きていたら、まちがいなく偉大なアレンジャーになったでしょうね。いまは Mac 系ではおなじみの「GarageBand」という DTM ソフトウェアもあるし、楽譜作成では「Sibelius」などのソフトウェアもある。もちろん無料の DTM ソフトウェアや素材もたくさんあるし、バッハがいま生きていたらいったいどんな音楽を作って、聴かせてくれたのだろうかと考えるだけでも楽しい(↓は、BWV592 の演奏クリップ)。



posted by Curragh at 18:04| Comment(0) | TrackBack(0) | NHK-FM

2020年12月30日

「絶対悪」が支配する世界にしてはならぬ

 ようやく仕事にひと区切りつきそうになって、ヤレヤレというか、とにかく肩が痛いです(以前はこんなことなかったのに、トシですかね……)。

 翻訳専業になって、というか、実績的にはまだまだ駆け出しで収入的にもちっともペイしていないとはいえ、自分はまだ恵まれているほうなのだろうと感じています。ヘタの横好きだろうとなんのと言われようが、好きなことを仕事にできているのだから …… たとえ修正を求める校正や編集者からシツコク拙訳原稿が突っ返されても、そのために食うための仕事の予定が狂わされても(書籍翻訳の場合、印税制だろうと買い切り制だろうと、当たり前だが本が出ないことには当方には一円もカネは落ちない)、あまり文句は言えまい。

 そんなこんなで半年ほど過ごしてきたら、あっという間にもう年末。しかも今年は文字どおりの annus horribilis で、ここまで COVID-19 が全世界を席巻し、目には見えない暗闇で覆い尽くすとは思わなかった。

 それでもなんとかかんとか、大きな天災もなく、もちろんコロ助に感染もせずになんとか仕事を続けてこられただけでも、ご先祖さまをはじめとして、感謝しなくてはならない。とはいえ、コロ助のせいで墓参にも行けてない …… これはさすがに申し訳なく、悲しく思っている(ちなみにワタシのご先祖さまには、米国ポートランドへ「密航」して一旗揚げようとしたスゴイ方がおります。当時の西伊豆はいまの沼津市井田地区のような「アメリカ村」があって、「あめりか屋」という屋号の家は例外なく、明治から大正時代にかけてかの地へ聖ブレンダンのごとく船出していった冒険者を出している)。

 新型コロナ関連ではこの前、ここで橋幸夫さんのコラムについて取り上げたりしましたが、いちばん心に刺さったというか印象深かったのは、英女王陛下のクリスマスメッセージでしたね。もっとも印象的なフレーズはすでに既訳がいくつもあるので、たまには女王陛下のオリジナルのメッセージをじっくり味わうのも一興でしょう(ン? だれです、訳すのがメンドくさかっただけだろなんて心ないこと言うのは。ええ、たしかにそれはある。来る日も来る日も〆切を意識しつつノート PC のキーボードを叩き、細かい活字や辞書類を見ながら翻訳作業に追われれば、いくら好きでもさすがに精神的にボロボロにもなりますわ。出典元はここ、太字強調は引用者)。
Of course, for many, this time of year will be tinged with sadness: some mourning the loss of those dear to them, and others missing friends and family members distanced for safety, when all they'd really want for Christmas is a simple hug or a squeeze of the hand, If you are among them, you are not alone, and let me assure you of my thoughts and prayers.

..... “Let the light of Christmas, the spirit of selflessness, love and above all hope, guide us in the times ahead...... We continue to be inspired by the kindness of strangers and draw comfort that − even on the darkest nights − there is hope in the new dawn,
すべての人がクリスマスに心から願うのは、ただハグしたり、手を握り締めてくれることなのに」…… 新型コロナウイルス感染症をもっとも警戒しなくてはならないご高齢( 94 歳ですぞ!)の方から、こんな忝ないおことばをいただいたら、だれだってハッとして胸に手を当てるはずですよ。この期におよんでま〜〜だマスクなんてヤダとかダダこねてる欧米人に日本人よ、「目を覚ませ!」と、呼ぶ声が聞こえる(もちろんバッハの有名なオルガンコラールを思い浮かべながら)。

 ……というわけで、ほんとならば東京五輪の興奮冷めやらぬはずだったのに、激しい憤りと悲しみにまみれた 2020 年もおしまいです(なにに怒ったかって? いろいろあるけど、最近、とくにハラが立ったのは、「選挙はトランプが勝つ。米メディアの予想なんてアテになるもんか」と公共の電波でタンカを切ってその後、いっさいの釈明もせずケロっと忘れていらっしゃるらしい元 NHK キャスターの方。そろそろ引き際じゃないですかね? ほら「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」って言うじゃない?)。

 この仕事するようになってすっかり生活が夜型になってしまい(その前は朝2時半起きの超朝型で、出勤途中で朝陽に染まる富士山とか見ていたのに)、新聞配達の方が朝刊を新聞受けにいれるとほぼ同時に速攻でそれを取り出すんですが、こっちも重くなってきたまぶたをこじ開けて、「はへ? ラテ欄、いつ最終面に変わったんだ?」なんてぴろっと一面見たらなんとなんと○日新聞じゃないですかぁ ?! ウチは静岡のローカル紙だっちゅうの。すぐ新聞屋さんに電話して、駆けつけてくれたおじさんに誤配された朝刊を返そうとしたら、「差し上げますから、ぜひお読みになって……」と。かくして、誤配された朝刊とこっちが読みたかったほうの朝刊とふたつもらってしまった。できれば「東京新聞」を入れてくれればよかったかなん、とかバカなこと考えつつ、さっそく誤配朝刊にも目を通した。

 すると、元外交官で評論家の佐藤優氏の「核といのちを考える:核禁条約発効へ」というインタビュー記事に目が吸い寄せられた。佐藤氏は数か月前、「ラジオ深夜便」にてたいへん興味深く、示唆に富むお話をされていたし、かつての『ユダの福音書』騒動のときも初期キリスト教とグノーシスについて的確に指摘されていたのが印象に残っていた(というか、「深夜便」でも話されていたように、大学は神学部のご出身なんですよね。どうりでお詳しいわけです。こういう人が日本には少なすぎる。だからとくにキリスト教など宗教がらみの話になると、とたんに頓狂なこと言い出す人が出てくる)。

 日本は被爆国でありながら、核兵器禁止条約にはなぜか参加しなかった。物理的に核兵器をなくしていこうという動きはきわめて重要な一歩であり、日本はオブザーバー的立ち位置でもよいから、とにかく行動を、という佐藤氏の主張は説得力があります。なかでも開口一番、「核兵器は絶対悪と言っていい」という一文。Couldn't agree more! でしたね。ワタシはそもそも相対主義者で、たとえばスウェーデンの例の少女の言動とか見てるとなんかお尻のあたりがモゾモゾしたりするんですが、核兵器に関しては「絶対悪」でぜったいまちがいない。新型コロナ対策にしてもそうだが、ほんとうに医療従事者に拍手を贈りたいのなら、まずもってあなたが生活を見直すしかない。マスクもしないで忘年会? それせいでだれかが死んだら? 世の中にはぜったい守るべき最低限のことが突如として現れる場合がある。いまがそう。できることをしっかり実行したうえで罹患するのはしかたないことで、だれも責めたりはしない。しかしそうでない場合は …… その限りではないでしょう。日本だけでなく、どこだってそうずら。ってオラは思う。来年、五輪大会ができるかどうか、まったく未知数ではあるが …… それでも、ワクチンは年内に開発できた。希望はまだあると思いたい。以下、佐藤氏の発言を引用しておきます。
「シニシズムに陥ってはいけない。……あるタイミングで、すっとできる時がある。歴史の一種のめぐり合わせがあるんです。時の印を絶対に捉え損ねてはいけないと思うんですよ。あきらめてはいけないんですね、絶対に」
…… 来年こそ、"annus mirabilis" となりますよう祈りつつ。

タグ:佐藤優
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2020年12月06日

たまにはイジワル爺さんみたいにツッコんでみた話

 いまさっき NHK-FM で「N響演奏会」ライヴやってまして、プログラムはショスタコーヴィチの「5番」とか、伊福部昭の「日本狂詩曲」とか。とくにこの「日本狂詩曲」は昭和のはじめ、米国の指揮者ファビエン・セヴィツキーからの依頼で書き上げて、向こうで初演したら大喝采で作曲コンクールでも賞をとったというのだからある意味すごい逸話付きの作品。で、日本人のくせして日本人作曲家の作品をロクに聴いてこなかったワタシも訳出作業を進めつつはじめて聴いて、日本の伝統的な打楽器を効果的に多用した特有の「作品世界」というか、お囃子の「ノリ」みたいな作風に感嘆したのでありました。

 で、当然、ゲストの音楽評論家先生もそんな感想を述べられてまして、その流れでこんなこと言ってました。「… こういう音楽を聴くと、やはり自分も日本人なんだなァと思いました。こんな音楽を書けるのは日本人しかいない。どうだ、日本人もすごいだろう、と ……」。

 聖ヨハネス・クリュソストモス、またの名「金口イオアン」は「かくして悪魔はこっそりと街に入り火をつける、ありとあらゆる悪意に満ちた歌でいっぱいの、堕落した音楽によって ! 」と警句を吐いていたりする。おらが同胞の音楽の、しかも生演奏の大迫力に圧倒され心奪われたその心情をすなおに吐露する、のはまことけっこうなことながら、同時に危険でもある。音楽にはこういう「悪魔的力」があるのもまた事実だし、さきごろ放送の終わった古関裕而の半生を描いた朝ドラにも、そんな音楽のもつ「負の側面」が描かれていたようにも思えるが、このすなおな心情の吐露にはべつの問題もある──「こんな音楽を書けるのは日本人しかいない」

 こういう発言を耳にして、だいぶ前にここで書いたことをいま一度、引っ張り出したくなった。それはオルガニストの松居直美さんがドイツ留学していたときに、地元のご老人にこう断定されてしまったというこぼれ話──「日本人に、ドイツ・オルガンコラールの演奏はできない」。

 伊福部作品を聴いて感激して思わず口にした発言と、松井さんがドイツ人に言われたことは、じつはまったくおんなじコインの裏と表だ。不肖ワタシはこれ聞いた瞬間、「んなわけない!」って口走っていた。前にも書いたが、米国から日本にやってきて日本人顔負けの尺八演奏家になった人はいるし、お茶のソムリエだったかそういう仕事に就いているフランス人もいる。ガイジンだからとか日本人だからとか「そんなの関係ねぇ」のであります。ややもすれば誤解を招きかねない発言じゃないかって思う。

 もっとも、問題発言ということだったら、またしても亡霊のごとく「NHKの教育(Eテレね)の電波帯を売却しろ」とかなんとか、またそんなアホなこと言ってる人が出てきたりで、ただでさえコロナで鬱々としているところに追い打ちかけられるような気がしてほんとイヤになってくる。

 …… なんて悶々としていたら、そのあとの「鍵盤のつばさ」はなんと! オルガンの話じゃありませんか !! NHKホールのシュッケオルガンの響きもホントひさしぶりに聴けて、うれしかった。プリンツィパール管の積み重ね(8’+4’+2’ のストップを重ねる基本技)から、フルート管族やリード管族との音色の比較や3度管、5度管といった音質そのものを変えるミューテーションストップを同時に使用して鳴らしたりと、オルガン初心者にもじゅうぶん楽しめる内容だったんじゃないでしょうか。MC の作曲家先生「初の」オルガン曲も「初演」されて御同慶の至りではありますが …… なんかトゥルヌミールかメシアンばりの作風でしたね。デジャヴュ感ありあり。

 …… でも、MC の作曲家先生がオルガンのリード管の音色を何度も「オバちゃん」呼ばわりするのは、喩えだからとはいえ、いくらなんでも女性オルガニストのゲストを前に失礼ですぞ。

posted by Curragh at 02:11| Comment(0) | TrackBack(0) | NHK-FM

2020年11月30日

橋幸夫さんの「名文」に思うこと

 まず、↓ の文章をご覧ください。
…… 少し前の話ですが、あのトランプ大統領の新型コロナ感染のニュースには驚きました。世界中がコロナに悩む中、私も四苦八苦しながら何とか感染から逃れてきました。
 皆が早く以前の生活に戻ってほしいと祈る中、「自分だけは大丈夫」と思ったのか、マスクすら着けずに※ 強がりを続けていたトランプさん。やはり対策を軽視していたのではないかと思わざるを得ません。退院後の大統領の発言や行動に、どれだけの人が納得できたでしょうか。
 ……コロナの恐ろしさは、何と言っても目に見えず、えたいも分からないところにあります。誰が感染者なのか全く分からないこの恐怖感。私なりに生意気を言わせてもらえば、人類全てがこの地球という星の大変化と、何らかの大転換期に「気づきなさい」と何者かに言われているように思えるのです。……

 これは 10 月、地元紙夕刊に掲載された、3か月ごとに交代する持ち回り担当の身辺雑記的コラムでして、書いたのはあの国民的歌手の橋幸夫さん。いまちょっと調べたら、けっこう本を上梓しているんですね。まっさん(さだまさしさん)みたいだ。あいにく芸能関係の人の書いた本っていままでまったくといっていいほど興味関心がなくて、橋さんの著書も読んだことないんですけれども、なんかひさしぶりに読んで気分がスッキリしたというか、読後感のなんと爽やかな日本語だろうと思ったんですけれども、みなさんはどうでしょうか。

 これは折に触れここで何度も言っていることの何番煎じになるけれども、だれしも「ついーと」できるようになってからというもの、こういう配慮の利いた、読んで気持ちのいい文章ってめっきり少なくなったと感じている。いちおうコレでも人さまの書いた横文字の文章をせっせとタテに直している稼業の人なので、昨今の SNS での断定調の垂れ流しなんか見ていると、だれもが「人さまに読んでもらうための書き方」なんてまるで考えてない文章をバチャバチャ打ち込んで投稿するという行為をなんとも思わなくなって、感覚麻痺を起こしてるんじゃないかっていつも感じている。なのでよけいにこういう文章に出会ったときの喜びは大きくて、陳腐な比喩ながら、「砂漠のど真ん中でオアシス」を見つけたような気持ちにさえなる。もっとも日本語文章のプロ、たとえば校正の人が見たら直したくなる箇所もないわけではなかろう、とは思うが(個人的な話で恐縮だが、いまある本をまるまる一冊下訳していて、めちゃくちゃに直しを入れられてときおり滅入ったりしている。正しい日本語で書く、という行為がいかにタイヘンかをいまさらながら痛飲、じゃなくて、痛感しているところ)、以上を踏まえてこの橋さんのコラムを読むと、ワタシはまちがいなくこれは「名文」だと思う。

 ひるがえってじゃあワタシはどうなんだろ、となると、たとえばここでも書きなぐっていて、そうでないところでもライターとして文章を publish してきた身としてはなはだ心許ないが、せめて橋さんみたいな「配慮の行き届いた」日本語文の書き手になろう、とひそかに決意したしだい。

余談:橋さんも書かれているように、今年はほんとうにとんでもないウイルスに翻弄されてきた感があるけれど、そんな年ならではの「新語」も登場したり …… たとえば "covidiot"。英語のわかる人が見ればハハンそうかみたいなカバン語で、co(vid19)に idiotをくっつけた単語。使われる場面としては、たとえば橋さんが書いていたように、マスク着用すべき人が着用すべき場面で平然としていない、そういう人を揶揄した言い方。新語つながりでは、つい最近の地元紙に載っていた "sober curious"。こっちはまったく知らなかったから、とても参考になりました。その記事によると、この単語は「ファッションブロガーや自己啓発の指導者が脱アルコールを先端の生活スタイルとして発信。ソーバーキュリアスは米英発の現象として日本でも紹介され始めている」んだそうな。

 下世話な想像ながら、いつぞやの「Twitter 教」を日本で布教した輩みたいに、こっちも我先とばかり飛びついてひと儲けしようなんてもくろんでいる手合いがさっそくいるかもね。ま、勝手にどうぞ。

 ヘンなオチになってしまったので、お口直しにふたたび橋さんの名調子に再登場してもらいましょう。本日の地元紙夕刊に掲載されていたコラムから、結びの部分を引いておきます。
私は今年、芸能生活60周年を迎えました。その記念曲として「恋せよカトリーヌ」というラブソングと「この世のおまけ」の2曲を発表しました。人を愛することのすてきさと、熟年を超えた私たちの人生は「おまけ」なんですよ、考え方次第で明るくも楽しくもなりますよ──。そんな歌を元気に歌える自分に感謝しながら楽しく過ごしています。皆さんも暗くならずにお元気で。また来週。

※ …… マスクの効用について、たとえば専門家はこういう発言をしてますが、スーパーコンピューターなどの試算やその他の研究により、使い捨てマスクも含めたマスクの絶大な効用はすでに明らか。なんせワタシなんか、べつに対人恐怖とかじゃないけれども、退職するまでいた職場の都合上、暑かろうが寒かろうが年中、通勤の行き来にもマスクを着用しつづけてきたし、そのせいなのか、風邪もひかなくなった。マスクするのがクセになっているので、欧米人はともかくこのご時世になってもなお「マスクするのがイヤ」とかまず信じられないし、だいいち医療現場で身を挺して働いているエッシェンシャルワーカーの方に失礼だと思わないのか。

タグ:橋幸夫
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2020年10月31日

「輝き」から「トキメキ」へ

 沼津市内浦地区を舞台にしたTVアニメ作品『ラブライブ! サンシャイン!!』も、今年ではや5周年。で、声優さんたちのユニットもまだまだ活動中で、つい最近もベストアルバム盤が出たりと、コロナ禍でさんざんな一年という印象はあるけれども、こちらのパワーはあいかわらず健在です。

 そしてちょうど昨年のいまごろ、ここで告知した初の著作の拙小冊子も、なんとかぶじに発売1周年を迎えることになりました。あいにく3箇所ほどポカミス(タイポ、誤植)が残ってはいるんですが、読んで気にならないていどであることと、原稿を贈呈用の紙の本として組み直してそのままなので、Kindle 本の体裁にもどす時間がとれないということもあり、改訂版を出す予定はいまのところありません。ただその後、劇場版ムックを買いまして、その本にこのシリーズ監督の酒井和男氏がロケハンのエピソードをコメントしたくだりに「物語の舞台は当初、伊豆大島(!)を考えていた」ということを明かされていて、こういう追加情報はおいおい、入れておきたいとも考えてはいます。

 Aqours の活躍した『サンシャイン!!』とその集大成たる劇場版の強烈な印象はまだ残ってはいるものの、『ラブライブ!』シリーズ最新作の TV アニメ版も気になってはいたから、しっかり第1話から観ています …… まず思ったのは、アニメーションの絵柄というか色彩そのものがすごく透明感があり、「『サンシャイン!!』よりさらに進化」しているように思えたこと(これは TV 受像機を昨年、新調したせいもあるかもしれないが)。パステル画っぽい感じなんですが、出だしの優木せつ菜のド派手なライヴを演出する「火炎」とか、透明感がありながらあたかもホンモノの火炎が噴出しているかのような迫真の描写にまず引き込まれた。 CG もいまや3D 主体ですからね〜、技術的には前作から5年も経っていれば、そりゃ変わりますよね。

 放映開始から5話まで観た感想をひとことで言えば、「ああ、『ラブライブ!』そして『サンシャイン!!』で作品の土台となっているメタテーマの DNA は今回もしっかり受け継がれている」に尽きるかな。こちらはもともとリズムゲーム系から始まったユニットなので、TV アニメ放映が始まるまでイマイチ実感が湧かなかったんですけど、いざ始まってみればこの『ラブライブ!』シリーズが終始一貫、訴えてきたことがアレンジされつつも立ち現れていてまずはなにより。それは拙小冊子でも書いたように「教養小説」的であり、究極的には「アートとはなにか、人はどう生きればよいか」に通じるエートスだ。

 とくにそれをつよく印象付けられたのが、第3話。生徒会長なんだけどこっそり(?)スクールアイドル活動をつづけていた優木せつ菜が、自分の大好きを通そうとしたあげく仲間と衝突し、自分がいなくなれば残った仲間はスクールアイドルの最高のステージ、すなわち「ラブライブ!」の大会に出場できる、と思っていた。ところがまったく思いがけないことばを、自分のパフォーマンスを見て「完全にトキメいた」高咲侑からかけられる:「だったら、『ラブライブ!』なんて出なくていい!」

 このシーンを観たとき、思わず快哉を叫んでいる自分がいた。ここがこのシリーズのいいところだと思う。μ's のころはまだ「ラブライブ!」という大会じたいが始まったばかりだったし、Aqours の高海千歌がそこに自分たちの目指す「輝き」があると信じて疑わなかったのも理解できる。でも、前作の劇場版までしっかり観た人ははっきり悟ったはずだ──とくにライバルの姉妹ユニット Saint Snow と Aqours の「『ラブライブ!』決勝延長戦」のシーンと、それを目の当たりにしたことで「ほんとうに大切なこととはなにか」に深い気づきを得た渡辺月の科白に。思うに、人の心を動かす、あるいは感動させるということは、なにかの大会に出るとか優勝するとか、そういうものとは本質的にいっさい関係ない。そういう外面的なものすべてを超越するものなのだ。アリストテレスばりの三段論法でもこれは証明できる。前にも引用したけれども重複も顧みずいま一度、月ちゃんの名科白を引くと、
…… 楽しむこと。みんなは、本気でスクールアイドルをやって心から楽しんでた。ぼくたちも、本気にならなくちゃダメなんだ。そのことをAqoursが、Saint Snowが気づかせてくれたんだよ

 ほんとうに好きなことを貫き通すってなかなかできないことです。でももし、それをあなたが持っているんなら、きのうが命日だったジョーゼフ・キャンベルが述べたように、それがもたらす「至福を追い求めよ」。それはアーサー王伝承群のひとつ『聖杯の探索』にもあるように、「森の中へ、ひとりはこちら、ひとりはあちらと、森がいっそう深そうな方へ、道も小径もないところへと出発(天沢退二郎訳)」することだ。ワタシがこのアニメシリーズを好きになったのも、こういう点がしっかり描かれているからだ。さらに言えば、このシリーズは「音楽」が主役でもある。これはやはり作詞家の腕の冴えに拠るところがきわめて大きいと思うが、Aqours にしても「ニジガク」のスクールアイドル同好会にしても、その歌われる内容の深さといいスケールの大きさといい、はっきり言ってコレはもう「アニソン」なんかじゃない。皮相なジャンルわけというものを完全に破壊し、超越していると思う。そしてジェイムズ・ジョイスをはじめおしなべて「真のアート」と呼べる芸術分野は例外なく、こういう勝手な腑分けや分類の枠組みをこっぱみじんに粉砕する。そういうアートのみが、ほんとうの意味で生きるということ、ほんとうの「輝き」や「ときめき」を生む永遠の生命の泉なのだ。

 もっともこれはアニメ作品なので、そんなに肩肘張らんでも、という声もあるだろうし、それはそれでいいんです。本だってどう読もうが個人の自由だし。ただこのシリーズに関して言いたいのは、けっして「スポ根もの」なんかじゃないってこと。それは誤解もいいところで、もっとも大切なメッセージを理解していない。高海千歌が気づいた「輝き」のありかは自分たちの走ってきたキセキ+自分たちの心のもちようであって、この点ははっきり酒井監督も言及している。高咲侑が優木せつ菜に自分の思いをぶつけて言った科白もまたこの延長線上にある──いちばん大切なことは「ラブライブ!」に出られるかどうかじゃない。あなたがいちばんトキメいて、輝いて、そしていちばん幸福を感じることができるかなのだ。彼女はそのことに直観的に気づいている。

 そして、この思いがけないひとことを受けたせつ菜は、こう返す。「わたしのほんとうのワガママを、大好きを貫いてもいいんですか? …… あなたはいま、自分が思っている以上にすごいことを言ったんですからね! どうなっても知りませんよ!」

 昨今、アートと称して一方的な政治的主張を押しつけてくるもの、ジョイスの用語で言えば「教訓的芸術」がかまびすしいなか、こういう描き方をするアート作品がひとつくらいはあっていいと思う。

2020年10月20日

ベートーヴェンの『田園』推し

 先週末のこの番組、なかなか見応えがありました。今年はまことに運悪く、こういう深刻な事態になってしまったがために、ほんらいならば──広上淳一氏ふうに言えば──「ベートーヴェン先生」の生誕 250 年を盛大にお祝いしていたはずでした。今年はほかにもコープランド(生誕 120 年、没後 30 年)、そして武満徹氏の生誕 90 年でもあります。

 で、これから言うことは番組内でもすでにゲストの高関健氏が述べていることの二番煎じなので、新鮮味はあまりないのだけれども、ワタシも以前から、ハリウッドの映画音楽ももとをたどれば究極的にはベートーヴェンの『交響曲 第6番』、つまり『田園』に行き着くと思っていたので、そうそう、そうなんだよね〜、と安酒のスパークリングワインを呑みながらひとりごちていた。

 バッハ大好き人間ではあるけれど、たまにベートーヴェンの『田園』、『ピアノ協奏曲 第5番《皇帝》』、そして『第9』なんか聴くと、やはり「ベートーヴェンという作曲家は西洋音楽史上最大の革命家」という印象がとても強い。晩年のモーツァルトやハイドンなんかも「フリーランス音楽家」のはしりみたいな言われ方がされるけど、正真正銘、フリーランス作曲家/演奏家のいちばん最初の人はやはりベートーヴェン。それが音楽にいちばんわかりやすいかたちで表現されているのがたとえば超有名な『5番《運命》』だと思うけれども、いやいや、ホンワカしているように見えて『田園』のほうがはるかに斬新だと思うな。この約 20 年後ですよ、あのベルリオーズが『幻想交響曲』を書いたのは。

 ベートーヴェンつながりでは今年の正月、おなじ NHK のベートーヴェンイヤー特番で、名ピアニストのアンドラーシュ・シフさんがベートーヴェンという作曲家のすばらしい点について、こんなことを言ってました:「内面においてつねに前進し、戦い、けっしてあきらめないことです。わたしにとって、ベートーヴェンのもっとも大切な部分はそんなところにあります。英雄性ではなく、内面の温かさ、人間愛です」。そう、この人はただの引っ越し魔ではない !! 

 そういえばだいぶ前、NYT 紙の音楽記事にベートーヴェンの傑作『大フーガ op. 133』のことが取り上げられていて、ベートーヴェン本人の弁として、「なぜ聴衆はほかの楽章ばかり聴きたがるんだ、この xx野郎が!」とかなんとか、怒り心頭だったとか、そんなことが紹介されていて、ホンマかいな、と思ったんですが、興味ある方はこのペダンティックな大作もぜひ聴かれることをワタシからも強くオススメする(この曲は単独で発表されたものではなく、当初は『弦楽四重奏曲 第 13 番 変ロ長調 op. 130』の最終楽章として作曲されている)。ちなみにこの「フーガ」ですが、ふつうならば出だしに主題がデーンと提示されるところですが、主要主題から導かれた前口上的な楽句がひとしきりつづいたあと、30 小節目からようやく開始されます。たいへん複雑、かつ前衛的な対位法作品だったので、人気がなかったのはむりもないこと。

 なにかと不穏で不安な情勢ではあるが、せっかくの秋の夜長だしこういうときこそ記念イヤーのベートーヴェンの気に入った作品を聴き流しつつ、お気に入りの本とか読んで過ごすのって …… それはそれでステキなことじゃない(桜内梨子ふうに)? 

 … アンドラーシュ・シフさんついでに、前出のインタビューでこんなことも言ってましたよ。独り言で済ませておけばいいことまで全世界に拡散させられちゃう昨今の人にとっては耳の痛い「苦言」かもね。
人びとはつまらないことですぐに不満を言います。でも、ベートーヴェンをご覧なさい! 


↓ は、『田園』でいちばん好きな最終楽章の 230 小節過ぎに出てくる、弦楽パートから。



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2020年09月23日

エルガーが編曲してたんだ〜!

 いま、COVID-19 パンデミック以降、ひさびさに定演を再開したこれを聴取してます。

 コダーイの『ミゼレーレ』とかもあるけど、ほぼシューマン・プロ。でももっとも驚いたのは、サントリーホールからの生中継後にかかった過去の録音で、エルガー編曲によるバッハの『幻想曲とフーガ ハ短調 BWV 537』が紹介されたことだった。

 以前も何度かここで言及したかもしれないが、バッハのオルガン曲の編曲はヴェーベルン、シェーンベルク、リスト、カバレフスキー、レーガー、ケンプといった錚々たる作曲家 / 演奏家が手を染めているけれども、エルガーまで編曲を手掛けていたとは、まったく遅かりし由良之助、な気分(手垢にまみれた喩えで申し訳なし)。

 なんでまたエルガーが、しかもこの重厚かつ「バッハ版悲愴」とでも言うべき渋さ全開の「幻想曲とフーガ」をオーケストレーションする気になったのか。本日のゲスト解説者の広瀬大介先生によりますと、ちょうどそのころのエルガーは最愛の妻キャロライン・アリスを亡くしたばかりで意気消沈していた、とのこと。それでこの曲だったのか、とひとり納得したしだい。最愛の身内の者との死別、という当人にしかわからない喪失感を抱え込んでしまったとき、やはり人はバッハへとしぜんと気持ちが向かうのかもしれない。バッハのこの作品は、きっとエルガーにとって文字どおり生きるよすがとなったんじゃないかって思う。

 原曲はバッハがヴァイマールの宮廷に宮仕えしていた、1712〜17年に作曲されたと考えられてます。バッハのオルガン作品にはよくあることながら、この曲もまた直筆譜は残ってなくて、バッハお気に入りの弟子だったクレープス父子による筆者譜でのみ伝わってます。幻想曲の出だしはとくに印象的ですが、じつはパッヘルベルにもこれとよく似た感じのオルガン曲があって、いわゆる「ため息音型」と呼ばれる下がっていく音型を伴って進行していきます(下行音型、とくると、青島広志氏が「ららら ♪ クラシック」でベートーヴェンの『第5交響曲』出だしのあの8分音符動機タ・タ・タ・ターを「下・が・る・ゾー!」と言っていたのはじつに的確なるご指摘)。

 今週はもうひとつ、NHK-FM の「古楽の楽しみ」でも、個人的に大好きなバッハの教会カンタータ『神の時はいとよき時 BWV 106』がかかってまして、出だしの天国的美しさの「ソナティーナ」で朝っぱらからすでに昇天状態恍惚状態だったわけなんですが、このカンタータについてはぜひ『「音楽の捧げもの」が生まれた晩』という本を読まれたし。この本、タイトルどおりバッハ最晩年の傑作『音楽の捧げもの BWV 1079』が成立するまでを描いたある意味迫真のノンフィクション読み物なんですが、個人的にはこっちの教会カンタータを説明したくだりが最高に筆の冴えたくだりだと勝手に思ってます。楽曲分析の精密さもさることながら、本質をズバリ突いていて、時間のない人は本文 327 ページのこの本のここだけ拾い読みしてもいいくらい。

 こういうときだからこそ、じっくりバッハ作品を聴き直すのはまさに至福のひととき、「神の時」だと思うしだい。そういえば何年か前、べつに砂川しげひさ氏のモノマネじゃないけれども、バッハの教会カンタータ全曲制覇(苦笑)をここでも書きました。まだ作品番号 900 番台のリュート組曲とかいくつか聴いてない楽曲がちらほらあるにはあるが、そろそろ作品番号 198 以降の世俗カンタータと呼ばれている一連の声楽作品をすべて聴こうかと思案中。これらの作品を聴き終えたときには、バッハ作品はほぼぜんぶ聴いたことになります──いったい何年かかってんだよ、と思わないこともないけれども。

posted by Curragh at 21:49| Comment(0) | TrackBack(0) | バッハのオルガン作品

2020年08月23日

もうすぐ絶滅するという紙の新聞について

 COVID-19 パンデミックが全球的に覆い尽くすなか、今年も広島・長崎の原爆忌、終戦記念日が過ぎ、そして旧盆期間も過ぎてゆきました(NHK の自称5歳児の番組でも取り上げられたことがあるけど、「お盆」の正式名はサンスクリットを音写した「盂蘭盆会[うらぼんえ]」)。

 信長じゃないけどすでに「人間五十年」生きちゃった端くれとして思うこと。それは最近の人のダマされやすさについて。なんでこう、なんとかホイホイよろしく引き寄せられちゃうのかって感じ。往年の「ナイジェリアの手紙」の進化系? みたいなチェーンメール詐欺に国際結婚詐欺なんかもそう。その原因を成していると思われる最たるものがやはりソーシャルディスタンス、ではなくてソーシャルメディアだと思う。SNS 中毒の増加とともに年々、右肩上がりしているような印象を個人的には受けてしかたない。

 ここ最近のブロゴスフィアも似たかよったか。以前は──あくまで個人の意見──読んでためになる、というか、おもしろい読み物が多かった気がする。それがいまじゃ Wordpress だかなんだか知りませんが、たいしたこと書いてないのに「目次」を設けてやたらとリーダビリティ、もっと言えば SEO 対策ばかり抜かりのないブログのフリしたフログ(flog、fake + blog のカバン語)ばかりが目立ち、しかもそれがバカみたいに安い単価でアカの他人に書かせて自分は運営してるだけという、長年、せっせとこんなんですけど書いてきた人間からしたらまったく信じがたい、「ブロ〜グよ、おまえもか!」っていうじつに悲惨なことになってます。そういうのって「なんとかハック」とか読み手を惹きつけて小遣い稼ぎしてるんでしょうが、文章の書き方を見ればいかにも、なマニュアルどおりの通り一遍、「…… いかがでしたか? よろしかったら拡散お願い♪」みたいに締め括られて、総じてツマラナイ。はっきり言って時間のムダ。

 だまされやすさ、ということではもうひとつ重要な点があるように思う。それは紙媒体の新聞の凋落と軌を一にしている、ということ。以前も似たようなこと書いたかもしれませんけど、ネットニュースなんていくらリーダーアプリがいくつもあったところで、海外のメディア媒体のようなアーカイヴ記事などほとんどなく、調べたければ図書館行って「日経テレコン」でも見ないと出てこなかったりする。その点、欧米の媒体が運営する新聞の電子版ははるかに品揃えが充実している。電子書籍もそうだけど、いくら Retina ディスプレイだの高精細有機 LED だのといっても、光る画面上の活字を追うのと紙媒体の書籍や新聞の活字を追うのとではアタマへの入り方がやはりちがうし、紙のほうがはるかに読みやすく、目にもやさしい。このへんのことを科学的に研究した論文かなにかがあったら、ぜひご教示願いたいところ。

 もっとも紙の新聞とて人間の手になるもの、そりゃたまにはタイポもあれば訂正もある。論説コラムなんかもそうで、この評者、いいかげん交代してくんないかなとかありますよ(地元紙の例だと、今年1月 14 日付の論説文に、さもご自身で読まれた洋書の抜粋を得々と引用していた先生がおられたが、あれとまったくおんなじ文面をネットで見たことがある)。

 自己啓発ものの元祖とも言えそうな古典的名著『自分の時間──1日 24 時間でどう生きるか』で有名な英国の小説家アーノルド・ベネットは、ものを考えない人間の典型例として「毎朝、新聞を広げてからでないと意見が言えないような人」を挙げてはいるけれども、そんなベネットだって新聞をまったく読んでなかったわけじゃないので(おなじことはショーペンハウアーの『読書について』にもあてはまる)、ここでも紙媒体の新聞の効用、とりわけ「情報の一覧性」というすばらしい特徴があるという点は強調しておきたい。

 というわけで、終わりはここ数か月で地元紙を眺めて印象的だった文章をランダムに引用しておきます。アマチュアでさえない門外漢がしゃしゃりでてさらに物事を混乱させるなんでもありの玉石混交がまかりとおるいま、記者が足で稼いで書いた紙の新聞の「一覧性」は、まだまだ捨てたもんじゃないと思う(以下、いつものように下線強調は引用者。以前、訳出した海外記事に、'The new hero of journalism was no longer a grizzled investigator burning shoe leather, à la All the President’s Men' という一文があって、こんな言い回しがあるのかと思った。あいにくせっかくひねりだしたここの訳は、端折られてしまったが)。
… さまざまな知恵や意見を得て、納得や反論をしながら自分のフィルターにかけて、己の血肉にするのが学ぶということ。ただ読んで聞いて対応する勉強は、試験が終われば必要ない。その場しのぎの知識にすぎないよ。──絵本作家の五味太郎氏、「教育シンカ論・コロナから問う」から

... 英語の成績がいいのは本人が好きで努力したからであり、別に「頭がいい」とは関係ない。社会に出て、周囲を見渡せば、英語は日常会話でペラペラ話せても、中身のないことしか言えない「頭の悪い」人はいっぱいいる。中身がなければ外国人はもちろん、日本人からも信頼も尊敬もされはしない。──勝又美智雄氏、「日本人の深い病 … 英語コンプレックス」から

「 … 普通の人は家族、社会、宗教などの『大義』と折り合いをつけ、代わりに安心を得る。[ボブ・]ディランはそれを拒み、本当に属すべきものを探してさまよい孤独になった。それでもなお、孤独な者として前に進むんだと歌っている」──「混迷の世 響くディランの言葉」から作家・翻訳家の西崎憲氏の発言から

… さまざまな技術革新によって、大量の生産を行い、地球表面を改変し、他の生物を絶滅させ、人口を増やしてきた。…… 以前はなかった野生生物と人間との接触も増えた。
 そこで、他の動物を宿主としていたウイルスがヒトに感染する機会が増える。今回の新型コロナウイルスもそうだが、そのようなウイルスによる、数千人、数万人の規模での爆発的な感染は、20世紀以降に起こったのである。──長谷川眞理子氏、「現論:温暖化、絶滅、ウイルス」から[ ⇒ 参考リンク

毎日のマスク着用やアルコール消毒を徹底している私たち。そんな中、県外に出歩く人や飲食店に通う人などが多くいる。新型コロナウイルスまん延の今、もう一度危機感を持った方がいいと思う。
…… コロナの流行から数カ月、私たちはコロナのある日常に慣れつつある。でももう一度、危機感を持つべきだと思う。──「ひろば10代」、中学生読者の投稿から

…… 源流である南アルプスの下にトンネルを通して走らせるリニア中央新幹線は、私たちの未来に本当に必要なのか。新型コロナウイルスで世界の経済が減速し、暮らしも大きな変化に直面している今、「豊かさとは何か」を考えてみる時ではないか。…… 想定外を想定することを求めたい。失ったら自然も水も元には戻らないし、30年の補償金で済むことではないと私は思う。──「ひろば」、84 歳の読者の投稿から


 最後のリニア問題について。ネット民のみなさんはどうも「静岡県が意図的に開業を遅らせている!」と息巻いている向きが多く、われわれ県民ははっきりいって不当に貶められている感もなくなくはないが、かつての国鉄が丹那トンネル工事を行った結果、どうなったかを調べてごらんなさい。またこれは科学的に立証されてはいないものの、トンネル工事で大量に湧出した地下水と北伊豆地震とは関係がないわけではなく、工事によって引き起こされた可能性もゼロではないことも申し添えておく。南アルプスは伊豆半島が押しつづけて盛り上がった巨大な「付加体」で、かつての海底堆積層がほぼ垂直にそそり立っている(だけでなく、折れ曲がったりと屈曲も激しいし、近くには糸魚川−静岡構造線も走っている)。「日本一、崩れやすい」とも言われ(安倍川源頭部には日本三大崩れのひとつ、大谷崩もある)、活断層だらけのグズグズな破砕帯だらけなのは言うまでもなく、こんな場所の地下深くを無理やり掘削したら …… と思うとこの猛烈な酷暑でも背筋が寒くなる。

posted by Curragh at 16:31| Comment(2) | TrackBack(0) | 翻訳の余白に

2020年07月28日

嗤う COVID-19

 全世界で新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の猛威が止まらない。
今年に入ってから、引き受ける案件には毎月必ず1本は COVID-19 関連の記事訳出が含まれるくらいで、やはりそのことを実感せざるをえない。最近だと NYT の救急救命士の聞き書き記事とかがあって、そうそう、そうなんだよな、と思わざるをえなかった(→ 原文記事を引用したブログ記事、なお拙訳文はじっさいに掲載された邦訳記事とは異なっている点をお断りしておきます)。
私の仕事を知りたい人など誰もいないだろう。あなたたちは英雄だ、と口先だけの称賛を送る人はいるだろうが、救急救命士の話は誰もが聞きたいと思うような話ではない。……
…… 死者は2万人余りに達しているというのに、レストランの外には早くも長い行列ができ、バーはごった返している。このウイルスはまだ市中にいて、消え去ったわけではない。毎日、新型コロナウイルス感染症の 911 番通報を受けて出動する。これまで 200 人を超える市民が亡くなった現場にいて、蘇生処置を施し、家族に慰めのことばをかけてきた。しかし世間の人は 1.8 メートルの社会的距離も守れなければ、マスクをつけようともしない。なぜだ? 自分はタフガイだから? 弱そうに見られないため? このウイルスの真実に向き合おうとせず、自分はぜったいに大丈夫と見せかけて済ますつもりなのだろうか? 
…… われわれが英雄? 冗談じゃない。怒りに圧し潰されそうだ。

 'Friday Ovation'って英国が発祥らしいけれども、最前線で生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされ戦っている人の発言の重みとパンチの強さの前にはむなしい。

 ブラジルの大統領なんか、もはや歩く人災だね。経済がぁ、とのたまわっているが、かんじんの国民の生命がつぎつぎと失われてしまっては、元も子もないじゃないかっていう子どもでも理解できることがわかってない。その点、COVID-19 でいっとき猖獗を極めたイタリアの人は(みんながみんなそうではないと思うが)腹が据わっている。『テルマエ・ロマエ』原作者の方が電話越しに耳にしたイタリア人の旦那さんの発言を引用した文章を地元紙で見たんですが、旦那さんいわく、「イタリアはかつてのペスト以降、疫病に何度も襲われてきた。経済か人間の命か、どちらが大切かと問われれば、人間の命に決まってる」、だからロックダウンされようと平気だ、と。

 個人という意識の弱さ、マイホーム主義やムラ意識に代表される集団同化意識と同調圧が疫病とおなじく蔓延する島国に住む人間として、なんか民族性のちがいをまざまざと見せつけられたような気がした。欧州は日本より遅れている点、とりわけマスクをする習慣さえなかったことも考えれば、そりゃいろいろと問題はあるでしょう。でもドイツみたいに WHO のパンデミック宣言の出る前から検査体制や医療体制の拡充を図っている国の例などを見るにつけ、せいぜい胸を張れるのはマスク着用とか「3密(3C)」を避けよう、くらいのものかと。いくら都知事選とかがからんでいるからって、個人の意識の徹底という点では日本も米国もブラジルもたいして変わらないと思う。個人的に意外だったのは、スウェーデンの対応だった。「集団免疫」戦略だったんですが、あいにくうまくいってない。他の北欧諸国がなんとか抑え込んでいるのに対し、高齢者を中心に死者数がとんでもないことになっている(→ NYT 報道記事の邦訳ページ)。

 もちろん、未知のウイルス(コロナウイルスじたいの発見もせいぜい数十年前)によるいままで経験したことのないパンデミックなので(パンデミックという用語は、そもそもインフルエンザのみに適用されてきたもの)、絶対確実な方法なんてあるわけもなく、各国の対策とか見ているとお国柄というか国民性みたいなものが出ていると感じる。しかしたとえ未知のウイルス感染症パンデミックでも、そのおおもとの方針は揺るぎないはず──「人間の生命を守ることが最優先」されるべきではないか。ブラジルの大統領がもし国内経済を好転させたとしても、この点においては為政者失格、ということになる。この人の「無策」の最大の犠牲は、アマゾンの密林に暮らす先住民だ。

 いまひとつよくわからないのは、しきりと「第2波」だ、とテレビとかが喧伝していること。個人的には、病原体があきらかに変異して、100 年前のスペインかぜパンデミックを引き起こしたようなことが起こればまちがいなくそれは「第2波」と言える。ただ、いま現在は「再流行」と言うべきで、「第2波」と決めつけるような言い方はいかがなものか、といつも感じる(WHO の専門家も含め、世界の感染症研究者で新型コロナウイルスが「変異」したと明言する人は現時点ではひとりもいない)。今月の地元紙切り抜きを見ると、たとえばポルトガルでは「[外出規制]緩和後、若い世代の感染率が高まり、首都リスボン近郊の一部地域に外出規制を課した」とある。規制再拡大の動きは隣国スペインでもおなじで、パブ文化のある英国でも規制強化を望む声が世論の8割を超えている、という。これって日本でもおんなじですよね、とくに「若い世代の感染率が高まり」というくだりは。ようするに、規制緩和したらやっぱり感染率が高くなって、市中感染が始まりつつある、ということだと思う。

 また、「接触8割減」ということばが独り歩きしたことがあったけれども、舌の根の乾かぬうちにこんどは「これまで感染が確認された人のおよそ8割はほかの人に感染させていない」と言って GOTO トラベルを見切り発車してトラベルならぬ無用のトラブルを招き、沖縄などの離島部を含め地方都市で集団感染が立て続けに発生したり。目を覆うようなことがつづいて正直、ウンザリでもある。

 言っておくが自分は「ナントカ警察」ではない。ただ、マスクひとつとっても、先日の地元紙にコラムを寄稿した米ジョンズ・ホプキンズ大学大学院副学長ケント・カルダー氏が書いたように、「多くの米国人はマスクを着けるようになっているのだが、強制には反発している。草の根の米国人、特に南部の人々はマスク着用を銃所有と同じように個人が自由に決めるべきものだと強く」思っているかぎり、人類はこの新型ウイルスという強敵にはとうてい勝ち目はないだろう、と感じている。いま一度つよく言いたいのは、もはや COVID-19 以前のような日常生活にはもどれない、ということ。個人ひとりびとりが、ここをよ〜く考えてから行動すべきだ。ダレダレが悪いから、というのは通用しない。あなたがどうすべきかだ。このままだと COVID-19 の思うツボになるのは目に見えている。

タグ:COVID-19
posted by Curragh at 07:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々の雑感など