いまさっき NHK-FM で「N響演奏会」ライヴやってまして、プログラムはショスタコーヴィチの「5番」とか、伊福部昭の「日本狂詩曲」とか。とくにこの「日本狂詩曲」は昭和のはじめ、米国の指揮者ファビエン・セヴィツキーからの依頼で書き上げて、向こうで初演したら大喝采で作曲コンクールでも賞をとったというのだからある意味すごい逸話付きの作品。で、日本人のくせして日本人作曲家の作品をロクに聴いてこなかったワタシも訳出作業を進めつつはじめて聴いて、日本の伝統的な打楽器を効果的に多用した特有の「作品世界」というか、お囃子の「ノリ」みたいな作風に感嘆したのでありました。
で、当然、ゲストの音楽評論家先生もそんな感想を述べられてまして、その流れでこんなこと言ってました。「… こういう音楽を聴くと、やはり自分も日本人なんだなァと思いました。こんな音楽を書けるのは日本人しかいない。どうだ、日本人もすごいだろう、と ……」。
聖ヨハネス・クリュソストモス、またの名「金口イオアン」は「かくして悪魔はこっそりと街に入り火をつける、ありとあらゆる悪意に満ちた歌でいっぱいの、堕落した音楽によって ! 」と警句を吐いていたりする。おらが同胞の音楽の、しかも生演奏の大迫力に圧倒され心奪われたその心情をすなおに吐露する、のはまことけっこうなことながら、同時に危険でもある。音楽にはこういう「悪魔的力」があるのもまた事実だし、さきごろ放送の終わった古関裕而の半生を描いた朝ドラにも、そんな音楽のもつ「負の側面」が描かれていたようにも思えるが、このすなおな心情の吐露にはべつの問題もある──「こんな音楽を書けるのは日本人しかいない」
こういう発言を耳にして、だいぶ前にここで書いたことをいま一度、引っ張り出したくなった。それはオルガニストの松居直美さんがドイツ留学していたときに、地元のご老人にこう断定されてしまったというこぼれ話──「日本人に、ドイツ・オルガンコラールの演奏はできない」。
伊福部作品を聴いて感激して思わず口にした発言と、松井さんがドイツ人に言われたことは、じつはまったくおんなじコインの裏と表だ。不肖ワタシはこれ聞いた瞬間、「んなわけない!」って口走っていた。前にも書いたが、米国から日本にやってきて日本人顔負けの尺八演奏家になった人はいるし、お茶のソムリエだったかそういう仕事に就いているフランス人もいる。ガイジンだからとか日本人だからとか「そんなの関係ねぇ」のであります。ややもすれば誤解を招きかねない発言じゃないかって思う。
もっとも、問題発言ということだったら、またしても亡霊のごとく「NHKの教育(Eテレね)の電波帯を売却しろ」とかなんとか、またそんなアホなこと言ってる人が出てきたりで、ただでさえコロナで鬱々としているところに追い打ちかけられるような気がしてほんとイヤになってくる。
…… なんて悶々としていたら、そのあとの「鍵盤のつばさ」はなんと! オルガンの話じゃありませんか !! NHKホールのシュッケオルガンの響きもホントひさしぶりに聴けて、うれしかった。プリンツィパール管の積み重ね(8’+4’+2’ のストップを重ねる基本技)から、フルート管族やリード管族との音色の比較や3度管、5度管といった音質そのものを変えるミューテーションストップを同時に使用して鳴らしたりと、オルガン初心者にもじゅうぶん楽しめる内容だったんじゃないでしょうか。MC の作曲家先生「初の」オルガン曲も「初演」されて御同慶の至りではありますが …… なんかトゥルヌミールかメシアンばりの作風でしたね。デジャヴュ感ありあり。
…… でも、MC の作曲家先生がオルガンのリード管の音色を何度も「オバちゃん」呼ばわりするのは、喩えだからとはいえ、いくらなんでも女性オルガニストのゲストを前に失礼ですぞ。
2020年12月06日
2020年11月30日
橋幸夫さんの「名文」に思うこと
まず、↓ の文章をご覧ください。
これは 10 月、地元紙夕刊に掲載された、3か月ごとに交代する持ち回り担当の身辺雑記的コラムでして、書いたのはあの国民的歌手の橋幸夫さん。いまちょっと調べたら、けっこう本を上梓しているんですね。まっさん(さだまさしさん)みたいだ。あいにく芸能関係の人の書いた本っていままでまったくといっていいほど興味関心がなくて、橋さんの著書も読んだことないんですけれども、なんかひさしぶりに読んで気分がスッキリしたというか、読後感のなんと爽やかな日本語だろうと思ったんですけれども、みなさんはどうでしょうか。
これは折に触れここで何度も言っていることの何番煎じになるけれども、だれしも「ついーと」できるようになってからというもの、こういう配慮の利いた、読んで気持ちのいい文章ってめっきり少なくなったと感じている。いちおうコレでも人さまの書いた横文字の文章をせっせとタテに直している稼業の人なので、昨今の SNS での断定調の垂れ流しなんか見ていると、だれもが「人さまに読んでもらうための書き方」なんてまるで考えてない文章をバチャバチャ打ち込んで投稿するという行為をなんとも思わなくなって、感覚麻痺を起こしてるんじゃないかっていつも感じている。なのでよけいにこういう文章に出会ったときの喜びは大きくて、陳腐な比喩ながら、「砂漠のど真ん中でオアシス」を見つけたような気持ちにさえなる。もっとも日本語文章のプロ、たとえば校正の人が見たら直したくなる箇所もないわけではなかろう、とは思うが(個人的な話で恐縮だが、いまある本をまるまる一冊下訳していて、めちゃくちゃに直しを入れられてときおり滅入ったりしている。正しい日本語で書く、という行為がいかにタイヘンかをいまさらながら痛飲、じゃなくて、痛感しているところ)、以上を踏まえてこの橋さんのコラムを読むと、ワタシはまちがいなくこれは「名文」だと思う。
ひるがえってじゃあワタシはどうなんだろ、となると、たとえばここでも書きなぐっていて、そうでないところでもライターとして文章を publish してきた身としてはなはだ心許ないが、せめて橋さんみたいな「配慮の行き届いた」日本語文の書き手になろう、とひそかに決意したしだい。
余談:橋さんも書かれているように、今年はほんとうにとんでもないウイルスに翻弄されてきた感があるけれど、そんな年ならではの「新語」も登場したり …… たとえば "covidiot"。英語のわかる人が見ればハハンそうかみたいなカバン語で、co(vid19)に idiotをくっつけた単語。使われる場面としては、たとえば橋さんが書いていたように、マスク着用すべき人が着用すべき場面で平然としていない、そういう人を揶揄した言い方。新語つながりでは、つい最近の地元紙に載っていた "sober curious"。こっちはまったく知らなかったから、とても参考になりました。その記事によると、この単語は「ファッションブロガーや自己啓発の指導者が脱アルコールを先端の生活スタイルとして発信。ソーバーキュリアスは米英発の現象として日本でも紹介され始めている」んだそうな。
下世話な想像ながら、いつぞやの「Twitter 教」を日本で布教した輩みたいに、こっちも我先とばかり飛びついてひと儲けしようなんてもくろんでいる手合いがさっそくいるかもね。ま、勝手にどうぞ。
ヘンなオチになってしまったので、お口直しにふたたび橋さんの名調子に再登場してもらいましょう。本日の地元紙夕刊に掲載されていたコラムから、結びの部分を引いておきます。
※ …… マスクの効用について、たとえば専門家はこういう発言をしてますが、スーパーコンピューターなどの試算やその他の研究により、使い捨てマスクも含めたマスクの絶大な効用はすでに明らか。なんせワタシなんか、べつに対人恐怖とかじゃないけれども、退職するまでいた職場の都合上、暑かろうが寒かろうが年中、通勤の行き来にもマスクを着用しつづけてきたし、そのせいなのか、風邪もひかなくなった。マスクするのがクセになっているので、欧米人はともかくこのご時世になってもなお「マスクするのがイヤ」とかまず信じられないし、だいいち医療現場で身を挺して働いているエッシェンシャルワーカーの方に失礼だと思わないのか。
…… 少し前の話ですが、あのトランプ大統領の新型コロナ感染のニュースには驚きました。世界中がコロナに悩む中、私も四苦八苦しながら何とか感染から逃れてきました。
皆が早く以前の生活に戻ってほしいと祈る中、「自分だけは大丈夫」と思ったのか、マスクすら着けずに※ 強がりを続けていたトランプさん。やはり対策を軽視していたのではないかと思わざるを得ません。退院後の大統領の発言や行動に、どれだけの人が納得できたでしょうか。
……コロナの恐ろしさは、何と言っても目に見えず、えたいも分からないところにあります。誰が感染者なのか全く分からないこの恐怖感。私なりに生意気を言わせてもらえば、人類全てがこの地球という星の大変化と、何らかの大転換期に「気づきなさい」と何者かに言われているように思えるのです。……
これは 10 月、地元紙夕刊に掲載された、3か月ごとに交代する持ち回り担当の身辺雑記的コラムでして、書いたのはあの国民的歌手の橋幸夫さん。いまちょっと調べたら、けっこう本を上梓しているんですね。まっさん(さだまさしさん)みたいだ。あいにく芸能関係の人の書いた本っていままでまったくといっていいほど興味関心がなくて、橋さんの著書も読んだことないんですけれども、なんかひさしぶりに読んで気分がスッキリしたというか、読後感のなんと爽やかな日本語だろうと思ったんですけれども、みなさんはどうでしょうか。
これは折に触れここで何度も言っていることの何番煎じになるけれども、だれしも「ついーと」できるようになってからというもの、こういう配慮の利いた、読んで気持ちのいい文章ってめっきり少なくなったと感じている。いちおうコレでも人さまの書いた横文字の文章をせっせとタテに直している稼業の人なので、昨今の SNS での断定調の垂れ流しなんか見ていると、だれもが「人さまに読んでもらうための書き方」なんてまるで考えてない文章をバチャバチャ打ち込んで投稿するという行為をなんとも思わなくなって、感覚麻痺を起こしてるんじゃないかっていつも感じている。なのでよけいにこういう文章に出会ったときの喜びは大きくて、陳腐な比喩ながら、「砂漠のど真ん中でオアシス」を見つけたような気持ちにさえなる。もっとも日本語文章のプロ、たとえば校正の人が見たら直したくなる箇所もないわけではなかろう、とは思うが(個人的な話で恐縮だが、いまある本をまるまる一冊下訳していて、めちゃくちゃに直しを入れられてときおり滅入ったりしている。正しい日本語で書く、という行為がいかにタイヘンかをいまさらながら痛飲、じゃなくて、痛感しているところ)、以上を踏まえてこの橋さんのコラムを読むと、ワタシはまちがいなくこれは「名文」だと思う。
ひるがえってじゃあワタシはどうなんだろ、となると、たとえばここでも書きなぐっていて、そうでないところでもライターとして文章を publish してきた身としてはなはだ心許ないが、せめて橋さんみたいな「配慮の行き届いた」日本語文の書き手になろう、とひそかに決意したしだい。
余談:橋さんも書かれているように、今年はほんとうにとんでもないウイルスに翻弄されてきた感があるけれど、そんな年ならではの「新語」も登場したり …… たとえば "covidiot"。英語のわかる人が見ればハハンそうかみたいなカバン語で、co(vid19)に idiotをくっつけた単語。使われる場面としては、たとえば橋さんが書いていたように、マスク着用すべき人が着用すべき場面で平然としていない、そういう人を揶揄した言い方。新語つながりでは、つい最近の地元紙に載っていた "sober curious"。こっちはまったく知らなかったから、とても参考になりました。その記事によると、この単語は「ファッションブロガーや自己啓発の指導者が脱アルコールを先端の生活スタイルとして発信。ソーバーキュリアスは米英発の現象として日本でも紹介され始めている」んだそうな。
下世話な想像ながら、いつぞやの「Twitter 教」を日本で布教した輩みたいに、こっちも我先とばかり飛びついてひと儲けしようなんてもくろんでいる手合いがさっそくいるかもね。ま、勝手にどうぞ。
ヘンなオチになってしまったので、お口直しにふたたび橋さんの名調子に再登場してもらいましょう。本日の地元紙夕刊に掲載されていたコラムから、結びの部分を引いておきます。
私は今年、芸能生活60周年を迎えました。その記念曲として「恋せよカトリーヌ」というラブソングと「この世のおまけ」の2曲を発表しました。人を愛することのすてきさと、熟年を超えた私たちの人生は「おまけ」なんですよ、考え方次第で明るくも楽しくもなりますよ──。そんな歌を元気に歌える自分に感謝しながら楽しく過ごしています。皆さんも暗くならずにお元気で。また来週。
※ …… マスクの効用について、たとえば専門家はこういう発言をしてますが、スーパーコンピューターなどの試算やその他の研究により、使い捨てマスクも含めたマスクの絶大な効用はすでに明らか。なんせワタシなんか、べつに対人恐怖とかじゃないけれども、退職するまでいた職場の都合上、暑かろうが寒かろうが年中、通勤の行き来にもマスクを着用しつづけてきたし、そのせいなのか、風邪もひかなくなった。マスクするのがクセになっているので、欧米人はともかくこのご時世になってもなお「マスクするのがイヤ」とかまず信じられないし、だいいち医療現場で身を挺して働いているエッシェンシャルワーカーの方に失礼だと思わないのか。
タグ:橋幸夫
2020年10月31日
「輝き」から「トキメキ」へ
沼津市内浦地区を舞台にしたTVアニメ作品『ラブライブ! サンシャイン!!』も、今年ではや5周年。で、声優さんたちのユニットもまだまだ活動中で、つい最近もベストアルバム盤が出たりと、コロナ禍でさんざんな一年という印象はあるけれども、こちらのパワーはあいかわらず健在です。
そしてちょうど昨年のいまごろ、ここで告知した初の著作の拙小冊子も、なんとかぶじに発売1周年を迎えることになりました。あいにく3箇所ほどポカミス(タイポ、誤植)が残ってはいるんですが、読んで気にならないていどであることと、原稿を贈呈用の紙の本として組み直してそのままなので、Kindle 本の体裁にもどす時間がとれないということもあり、改訂版を出す予定はいまのところありません。ただその後、劇場版ムックを買いまして、その本にこのシリーズ監督の酒井和男氏がロケハンのエピソードをコメントしたくだりに「物語の舞台は当初、伊豆大島(!)を考えていた」ということを明かされていて、こういう追加情報はおいおい、入れておきたいとも考えてはいます。
Aqours の活躍した『サンシャイン!!』とその集大成たる劇場版の強烈な印象はまだ残ってはいるものの、『ラブライブ!』シリーズ最新作の TV アニメ版も気になってはいたから、しっかり第1話から観ています …… まず思ったのは、アニメーションの絵柄というか色彩そのものがすごく透明感があり、「『サンシャイン!!』よりさらに進化」しているように思えたこと(これは TV 受像機を昨年、新調したせいもあるかもしれないが)。パステル画っぽい感じなんですが、出だしの優木せつ菜のド派手なライヴを演出する「火炎」とか、透明感がありながらあたかもホンモノの火炎が噴出しているかのような迫真の描写にまず引き込まれた。 CG もいまや3D 主体ですからね〜、技術的には前作から5年も経っていれば、そりゃ変わりますよね。
放映開始から5話まで観た感想をひとことで言えば、「ああ、『ラブライブ!』そして『サンシャイン!!』で作品の土台となっているメタテーマの DNA は今回もしっかり受け継がれている」に尽きるかな。こちらはもともとリズムゲーム系から始まったユニットなので、TV アニメ放映が始まるまでイマイチ実感が湧かなかったんですけど、いざ始まってみればこの『ラブライブ!』シリーズが終始一貫、訴えてきたことがアレンジされつつも立ち現れていてまずはなにより。それは拙小冊子でも書いたように「教養小説」的であり、究極的には「アートとはなにか、人はどう生きればよいか」に通じるエートスだ。
とくにそれをつよく印象付けられたのが、第3話。生徒会長なんだけどこっそり(?)スクールアイドル活動をつづけていた優木せつ菜が、自分の大好きを通そうとしたあげく仲間と衝突し、自分がいなくなれば残った仲間はスクールアイドルの最高のステージ、すなわち「ラブライブ!」の大会に出場できる、と思っていた。ところがまったく思いがけないことばを、自分のパフォーマンスを見て「完全にトキメいた」高咲侑からかけられる:「だったら、『ラブライブ!』なんて出なくていい!」
このシーンを観たとき、思わず快哉を叫んでいる自分がいた。ここがこのシリーズのいいところだと思う。μ's のころはまだ「ラブライブ!」という大会じたいが始まったばかりだったし、Aqours の高海千歌がそこに自分たちの目指す「輝き」があると信じて疑わなかったのも理解できる。でも、前作の劇場版までしっかり観た人ははっきり悟ったはずだ──とくにライバルの姉妹ユニット Saint Snow と Aqours の「『ラブライブ!』決勝延長戦」のシーンと、それを目の当たりにしたことで「ほんとうに大切なこととはなにか」に深い気づきを得た渡辺月の科白に。思うに、人の心を動かす、あるいは感動させるということは、なにかの大会に出るとか優勝するとか、そういうものとは本質的にいっさい関係ない。そういう外面的なものすべてを超越するものなのだ。アリストテレスばりの三段論法でもこれは証明できる。前にも引用したけれども重複も顧みずいま一度、月ちゃんの名科白を引くと、
ほんとうに好きなことを貫き通すってなかなかできないことです。でももし、それをあなたが持っているんなら、きのうが命日だったジョーゼフ・キャンベルが述べたように、それがもたらす「至福を追い求めよ」。それはアーサー王伝承群のひとつ『聖杯の探索』にもあるように、「森の中へ、ひとりはこちら、ひとりはあちらと、森がいっそう深そうな方へ、道も小径もないところへと出発(天沢退二郎訳)」することだ。ワタシがこのアニメシリーズを好きになったのも、こういう点がしっかり描かれているからだ。さらに言えば、このシリーズは「音楽」が主役でもある。これはやはり作詞家の腕の冴えに拠るところがきわめて大きいと思うが、Aqours にしても「ニジガク」のスクールアイドル同好会にしても、その歌われる内容の深さといいスケールの大きさといい、はっきり言ってコレはもう「アニソン」なんかじゃない。皮相なジャンルわけというものを完全に破壊し、超越していると思う。そしてジェイムズ・ジョイスをはじめおしなべて「真のアート」と呼べる芸術分野は例外なく、こういう勝手な腑分けや分類の枠組みをこっぱみじんに粉砕する。そういうアートのみが、ほんとうの意味で生きるということ、ほんとうの「輝き」や「ときめき」を生む永遠の生命の泉なのだ。
もっともこれはアニメ作品なので、そんなに肩肘張らんでも、という声もあるだろうし、それはそれでいいんです。本だってどう読もうが個人の自由だし。ただこのシリーズに関して言いたいのは、けっして「スポ根もの」なんかじゃないってこと。それは誤解もいいところで、もっとも大切なメッセージを理解していない。高海千歌が気づいた「輝き」のありかは自分たちの走ってきたキセキ+自分たちの心のもちようであって、この点ははっきり酒井監督も言及している。高咲侑が優木せつ菜に自分の思いをぶつけて言った科白もまたこの延長線上にある──いちばん大切なことは「ラブライブ!」に出られるかどうかじゃない。あなたがいちばんトキメいて、輝いて、そしていちばん幸福を感じることができるかなのだ。彼女はそのことに直観的に気づいている。
そして、この思いがけないひとことを受けたせつ菜は、こう返す。「わたしのほんとうのワガママを、大好きを貫いてもいいんですか? …… あなたはいま、自分が思っている以上にすごいことを言ったんですからね! どうなっても知りませんよ!」
昨今、アートと称して一方的な政治的主張を押しつけてくるもの、ジョイスの用語で言えば「教訓的芸術」がかまびすしいなか、こういう描き方をするアート作品がひとつくらいはあっていいと思う。
そしてちょうど昨年のいまごろ、ここで告知した初の著作の拙小冊子も、なんとかぶじに発売1周年を迎えることになりました。あいにく3箇所ほどポカミス(タイポ、誤植)が残ってはいるんですが、読んで気にならないていどであることと、原稿を贈呈用の紙の本として組み直してそのままなので、Kindle 本の体裁にもどす時間がとれないということもあり、改訂版を出す予定はいまのところありません。ただその後、劇場版ムックを買いまして、その本にこのシリーズ監督の酒井和男氏がロケハンのエピソードをコメントしたくだりに「物語の舞台は当初、伊豆大島(!)を考えていた」ということを明かされていて、こういう追加情報はおいおい、入れておきたいとも考えてはいます。
Aqours の活躍した『サンシャイン!!』とその集大成たる劇場版の強烈な印象はまだ残ってはいるものの、『ラブライブ!』シリーズ最新作の TV アニメ版も気になってはいたから、しっかり第1話から観ています …… まず思ったのは、アニメーションの絵柄というか色彩そのものがすごく透明感があり、「『サンシャイン!!』よりさらに進化」しているように思えたこと(これは TV 受像機を昨年、新調したせいもあるかもしれないが)。パステル画っぽい感じなんですが、出だしの優木せつ菜のド派手なライヴを演出する「火炎」とか、透明感がありながらあたかもホンモノの火炎が噴出しているかのような迫真の描写にまず引き込まれた。 CG もいまや3D 主体ですからね〜、技術的には前作から5年も経っていれば、そりゃ変わりますよね。
放映開始から5話まで観た感想をひとことで言えば、「ああ、『ラブライブ!』そして『サンシャイン!!』で作品の土台となっているメタテーマの DNA は今回もしっかり受け継がれている」に尽きるかな。こちらはもともとリズムゲーム系から始まったユニットなので、TV アニメ放映が始まるまでイマイチ実感が湧かなかったんですけど、いざ始まってみればこの『ラブライブ!』シリーズが終始一貫、訴えてきたことがアレンジされつつも立ち現れていてまずはなにより。それは拙小冊子でも書いたように「教養小説」的であり、究極的には「アートとはなにか、人はどう生きればよいか」に通じるエートスだ。
とくにそれをつよく印象付けられたのが、第3話。生徒会長なんだけどこっそり(?)スクールアイドル活動をつづけていた優木せつ菜が、自分の大好きを通そうとしたあげく仲間と衝突し、自分がいなくなれば残った仲間はスクールアイドルの最高のステージ、すなわち「ラブライブ!」の大会に出場できる、と思っていた。ところがまったく思いがけないことばを、自分のパフォーマンスを見て「完全にトキメいた」高咲侑からかけられる:「だったら、『ラブライブ!』なんて出なくていい!」
このシーンを観たとき、思わず快哉を叫んでいる自分がいた。ここがこのシリーズのいいところだと思う。μ's のころはまだ「ラブライブ!」という大会じたいが始まったばかりだったし、Aqours の高海千歌がそこに自分たちの目指す「輝き」があると信じて疑わなかったのも理解できる。でも、前作の劇場版までしっかり観た人ははっきり悟ったはずだ──とくにライバルの姉妹ユニット Saint Snow と Aqours の「『ラブライブ!』決勝延長戦」のシーンと、それを目の当たりにしたことで「ほんとうに大切なこととはなにか」に深い気づきを得た渡辺月の科白に。思うに、人の心を動かす、あるいは感動させるということは、なにかの大会に出るとか優勝するとか、そういうものとは本質的にいっさい関係ない。そういう外面的なものすべてを超越するものなのだ。アリストテレスばりの三段論法でもこれは証明できる。前にも引用したけれども重複も顧みずいま一度、月ちゃんの名科白を引くと、
…… 楽しむこと。みんなは、本気でスクールアイドルをやって心から楽しんでた。ぼくたちも、本気にならなくちゃダメなんだ。そのことをAqoursが、Saint Snowが気づかせてくれたんだよ
ほんとうに好きなことを貫き通すってなかなかできないことです。でももし、それをあなたが持っているんなら、きのうが命日だったジョーゼフ・キャンベルが述べたように、それがもたらす「至福を追い求めよ」。それはアーサー王伝承群のひとつ『聖杯の探索』にもあるように、「森の中へ、ひとりはこちら、ひとりはあちらと、森がいっそう深そうな方へ、道も小径もないところへと出発(天沢退二郎訳)」することだ。ワタシがこのアニメシリーズを好きになったのも、こういう点がしっかり描かれているからだ。さらに言えば、このシリーズは「音楽」が主役でもある。これはやはり作詞家の腕の冴えに拠るところがきわめて大きいと思うが、Aqours にしても「ニジガク」のスクールアイドル同好会にしても、その歌われる内容の深さといいスケールの大きさといい、はっきり言ってコレはもう「アニソン」なんかじゃない。皮相なジャンルわけというものを完全に破壊し、超越していると思う。そしてジェイムズ・ジョイスをはじめおしなべて「真のアート」と呼べる芸術分野は例外なく、こういう勝手な腑分けや分類の枠組みをこっぱみじんに粉砕する。そういうアートのみが、ほんとうの意味で生きるということ、ほんとうの「輝き」や「ときめき」を生む永遠の生命の泉なのだ。
もっともこれはアニメ作品なので、そんなに肩肘張らんでも、という声もあるだろうし、それはそれでいいんです。本だってどう読もうが個人の自由だし。ただこのシリーズに関して言いたいのは、けっして「スポ根もの」なんかじゃないってこと。それは誤解もいいところで、もっとも大切なメッセージを理解していない。高海千歌が気づいた「輝き」のありかは自分たちの走ってきたキセキ+自分たちの心のもちようであって、この点ははっきり酒井監督も言及している。高咲侑が優木せつ菜に自分の思いをぶつけて言った科白もまたこの延長線上にある──いちばん大切なことは「ラブライブ!」に出られるかどうかじゃない。あなたがいちばんトキメいて、輝いて、そしていちばん幸福を感じることができるかなのだ。彼女はそのことに直観的に気づいている。
そして、この思いがけないひとことを受けたせつ菜は、こう返す。「わたしのほんとうのワガママを、大好きを貫いてもいいんですか? …… あなたはいま、自分が思っている以上にすごいことを言ったんですからね! どうなっても知りませんよ!」
昨今、アートと称して一方的な政治的主張を押しつけてくるもの、ジョイスの用語で言えば「教訓的芸術」がかまびすしいなか、こういう描き方をするアート作品がひとつくらいはあっていいと思う。
2020年10月20日
ベートーヴェンの『田園』推し
先週末のこの番組、なかなか見応えがありました。今年はまことに運悪く、こういう深刻な事態になってしまったがために、ほんらいならば──広上淳一氏ふうに言えば──「ベートーヴェン先生」の生誕 250 年を盛大にお祝いしていたはずでした。今年はほかにもコープランド(生誕 120 年、没後 30 年)、そして武満徹氏の生誕 90 年でもあります。
で、これから言うことは番組内でもすでにゲストの高関健氏が述べていることの二番煎じなので、新鮮味はあまりないのだけれども、ワタシも以前から、ハリウッドの映画音楽ももとをたどれば究極的にはベートーヴェンの『交響曲 第6番』、つまり『田園』に行き着くと思っていたので、そうそう、そうなんだよね〜、と安酒のスパークリングワインを呑みながらひとりごちていた。
バッハ大好き人間ではあるけれど、たまにベートーヴェンの『田園』、『ピアノ協奏曲 第5番《皇帝》』、そして『第9』なんか聴くと、やはり「ベートーヴェンという作曲家は西洋音楽史上最大の革命家」という印象がとても強い。晩年のモーツァルトやハイドンなんかも「フリーランス音楽家」のはしりみたいな言われ方がされるけど、正真正銘、フリーランス作曲家/演奏家のいちばん最初の人はやはりベートーヴェン。それが音楽にいちばんわかりやすいかたちで表現されているのがたとえば超有名な『5番《運命》』だと思うけれども、いやいや、ホンワカしているように見えて『田園』のほうがはるかに斬新だと思うな。この約 20 年後ですよ、あのベルリオーズが『幻想交響曲』を書いたのは。
ベートーヴェンつながりでは今年の正月、おなじ NHK のベートーヴェンイヤー特番で、名ピアニストのアンドラーシュ・シフさんがベートーヴェンという作曲家のすばらしい点について、こんなことを言ってました:「内面においてつねに前進し、戦い、けっしてあきらめないことです。わたしにとって、ベートーヴェンのもっとも大切な部分はそんなところにあります。英雄性ではなく、内面の温かさ、人間愛です」。そう、この人はただの引っ越し魔ではない !!
そういえばだいぶ前、NYT 紙の音楽記事にベートーヴェンの傑作『大フーガ op. 133』のことが取り上げられていて、ベートーヴェン本人の弁として、「なぜ聴衆はほかの楽章ばかり聴きたがるんだ、この xx野郎が!」とかなんとか、怒り心頭だったとか、そんなことが紹介されていて、ホンマかいな、と思ったんですが、興味ある方はこのペダンティックな大作もぜひ聴かれることをワタシからも強くオススメする(この曲は単独で発表されたものではなく、当初は『弦楽四重奏曲 第 13 番 変ロ長調 op. 130』の最終楽章として作曲されている)。ちなみにこの「フーガ」ですが、ふつうならば出だしに主題がデーンと提示されるところですが、主要主題から導かれた前口上的な楽句がひとしきりつづいたあと、30 小節目からようやく開始されます。たいへん複雑、かつ前衛的な対位法作品だったので、人気がなかったのはむりもないこと。
なにかと不穏で不安な情勢ではあるが、せっかくの秋の夜長だしこういうときこそ記念イヤーのベートーヴェンの気に入った作品を聴き流しつつ、お気に入りの本とか読んで過ごすのって …… それはそれでステキなことじゃない(桜内梨子ふうに)?
… アンドラーシュ・シフさんついでに、前出のインタビューでこんなことも言ってましたよ。独り言で済ませておけばいいことまで全世界に拡散させられちゃう昨今の人にとっては耳の痛い「苦言」かもね。
↓ は、『田園』でいちばん好きな最終楽章の 230 小節過ぎに出てくる、弦楽パートから。
で、これから言うことは番組内でもすでにゲストの高関健氏が述べていることの二番煎じなので、新鮮味はあまりないのだけれども、ワタシも以前から、ハリウッドの映画音楽ももとをたどれば究極的にはベートーヴェンの『交響曲 第6番』、つまり『田園』に行き着くと思っていたので、そうそう、そうなんだよね〜、と安酒のスパークリングワインを呑みながらひとりごちていた。
バッハ大好き人間ではあるけれど、たまにベートーヴェンの『田園』、『ピアノ協奏曲 第5番《皇帝》』、そして『第9』なんか聴くと、やはり「ベートーヴェンという作曲家は西洋音楽史上最大の革命家」という印象がとても強い。晩年のモーツァルトやハイドンなんかも「フリーランス音楽家」のはしりみたいな言われ方がされるけど、正真正銘、フリーランス作曲家/演奏家のいちばん最初の人はやはりベートーヴェン。それが音楽にいちばんわかりやすいかたちで表現されているのがたとえば超有名な『5番《運命》』だと思うけれども、いやいや、ホンワカしているように見えて『田園』のほうがはるかに斬新だと思うな。この約 20 年後ですよ、あのベルリオーズが『幻想交響曲』を書いたのは。
ベートーヴェンつながりでは今年の正月、おなじ NHK のベートーヴェンイヤー特番で、名ピアニストのアンドラーシュ・シフさんがベートーヴェンという作曲家のすばらしい点について、こんなことを言ってました:「内面においてつねに前進し、戦い、けっしてあきらめないことです。わたしにとって、ベートーヴェンのもっとも大切な部分はそんなところにあります。英雄性ではなく、内面の温かさ、人間愛です」。そう、この人はただの引っ越し魔ではない !!
そういえばだいぶ前、NYT 紙の音楽記事にベートーヴェンの傑作『大フーガ op. 133』のことが取り上げられていて、ベートーヴェン本人の弁として、「なぜ聴衆はほかの楽章ばかり聴きたがるんだ、この xx野郎が!」とかなんとか、怒り心頭だったとか、そんなことが紹介されていて、ホンマかいな、と思ったんですが、興味ある方はこのペダンティックな大作もぜひ聴かれることをワタシからも強くオススメする(この曲は単独で発表されたものではなく、当初は『弦楽四重奏曲 第 13 番 変ロ長調 op. 130』の最終楽章として作曲されている)。ちなみにこの「フーガ」ですが、ふつうならば出だしに主題がデーンと提示されるところですが、主要主題から導かれた前口上的な楽句がひとしきりつづいたあと、30 小節目からようやく開始されます。たいへん複雑、かつ前衛的な対位法作品だったので、人気がなかったのはむりもないこと。
なにかと不穏で不安な情勢ではあるが、せっかくの秋の夜長だしこういうときこそ記念イヤーのベートーヴェンの気に入った作品を聴き流しつつ、お気に入りの本とか読んで過ごすのって …… それはそれでステキなことじゃない(桜内梨子ふうに)?
… アンドラーシュ・シフさんついでに、前出のインタビューでこんなことも言ってましたよ。独り言で済ませておけばいいことまで全世界に拡散させられちゃう昨今の人にとっては耳の痛い「苦言」かもね。
人びとはつまらないことですぐに不満を言います。でも、ベートーヴェンをご覧なさい!
↓ は、『田園』でいちばん好きな最終楽章の 230 小節過ぎに出てくる、弦楽パートから。
2020年09月23日
エルガーが編曲してたんだ〜!
いま、COVID-19 パンデミック以降、ひさびさに定演を再開したこれを聴取してます。
コダーイの『ミゼレーレ』とかもあるけど、ほぼシューマン・プロ。でももっとも驚いたのは、サントリーホールからの生中継後にかかった過去の録音で、エルガー編曲によるバッハの『幻想曲とフーガ ハ短調 BWV 537』が紹介されたことだった。
以前も何度かここで言及したかもしれないが、バッハのオルガン曲の編曲はヴェーベルン、シェーンベルク、リスト、カバレフスキー、レーガー、ケンプといった錚々たる作曲家 / 演奏家が手を染めているけれども、エルガーまで編曲を手掛けていたとは、まったく遅かりし由良之助、な気分(手垢にまみれた喩えで申し訳なし)。
なんでまたエルガーが、しかもこの重厚かつ「バッハ版悲愴」とでも言うべき渋さ全開の「幻想曲とフーガ」をオーケストレーションする気になったのか。本日のゲスト解説者の広瀬大介先生によりますと、ちょうどそのころのエルガーは最愛の妻キャロライン・アリスを亡くしたばかりで意気消沈していた、とのこと。それでこの曲だったのか、とひとり納得したしだい。最愛の身内の者との死別、という当人にしかわからない喪失感を抱え込んでしまったとき、やはり人はバッハへとしぜんと気持ちが向かうのかもしれない。バッハのこの作品は、きっとエルガーにとって文字どおり生きるよすがとなったんじゃないかって思う。
原曲はバッハがヴァイマールの宮廷に宮仕えしていた、1712〜17年に作曲されたと考えられてます。バッハのオルガン作品にはよくあることながら、この曲もまた直筆譜は残ってなくて、バッハお気に入りの弟子だったクレープス父子による筆者譜でのみ伝わってます。幻想曲の出だしはとくに印象的ですが、じつはパッヘルベルにもこれとよく似た感じのオルガン曲があって、いわゆる「ため息音型」と呼ばれる下がっていく音型を伴って進行していきます(下行音型、とくると、青島広志氏が「ららら ♪ クラシック」でベートーヴェンの『第5交響曲』出だしのあの8分音符動機タ・タ・タ・ターを「下・が・る・ゾー!」と言っていたのはじつに的確なるご指摘)。
今週はもうひとつ、NHK-FM の「古楽の楽しみ」でも、個人的に大好きなバッハの教会カンタータ『神の時はいとよき時 BWV 106』がかかってまして、出だしの天国的美しさの「ソナティーナ」で朝っぱらからすでに昇天状態恍惚状態だったわけなんですが、このカンタータについてはぜひ『「音楽の捧げもの」が生まれた晩』という本を読まれたし。この本、タイトルどおりバッハ最晩年の傑作『音楽の捧げもの BWV 1079』が成立するまでを描いたある意味迫真のノンフィクション読み物なんですが、個人的にはこっちの教会カンタータを説明したくだりが最高に筆の冴えたくだりだと勝手に思ってます。楽曲分析の精密さもさることながら、本質をズバリ突いていて、時間のない人は本文 327 ページのこの本のここだけ拾い読みしてもいいくらい。
こういうときだからこそ、じっくりバッハ作品を聴き直すのはまさに至福のひととき、「神の時」だと思うしだい。そういえば何年か前、べつに砂川しげひさ氏のモノマネじゃないけれども、バッハの教会カンタータ全曲制覇(苦笑)をここでも書きました。まだ作品番号 900 番台のリュート組曲とかいくつか聴いてない楽曲がちらほらあるにはあるが、そろそろ作品番号 198 以降の世俗カンタータと呼ばれている一連の声楽作品をすべて聴こうかと思案中。これらの作品を聴き終えたときには、バッハ作品はほぼぜんぶ聴いたことになります──いったい何年かかってんだよ、と思わないこともないけれども。
コダーイの『ミゼレーレ』とかもあるけど、ほぼシューマン・プロ。でももっとも驚いたのは、サントリーホールからの生中継後にかかった過去の録音で、エルガー編曲によるバッハの『幻想曲とフーガ ハ短調 BWV 537』が紹介されたことだった。
以前も何度かここで言及したかもしれないが、バッハのオルガン曲の編曲はヴェーベルン、シェーンベルク、リスト、カバレフスキー、レーガー、ケンプといった錚々たる作曲家 / 演奏家が手を染めているけれども、エルガーまで編曲を手掛けていたとは、まったく遅かりし由良之助、な気分(手垢にまみれた喩えで申し訳なし)。
なんでまたエルガーが、しかもこの重厚かつ「バッハ版悲愴」とでも言うべき渋さ全開の「幻想曲とフーガ」をオーケストレーションする気になったのか。本日のゲスト解説者の広瀬大介先生によりますと、ちょうどそのころのエルガーは最愛の妻キャロライン・アリスを亡くしたばかりで意気消沈していた、とのこと。それでこの曲だったのか、とひとり納得したしだい。最愛の身内の者との死別、という当人にしかわからない喪失感を抱え込んでしまったとき、やはり人はバッハへとしぜんと気持ちが向かうのかもしれない。バッハのこの作品は、きっとエルガーにとって文字どおり生きるよすがとなったんじゃないかって思う。
原曲はバッハがヴァイマールの宮廷に宮仕えしていた、1712〜17年に作曲されたと考えられてます。バッハのオルガン作品にはよくあることながら、この曲もまた直筆譜は残ってなくて、バッハお気に入りの弟子だったクレープス父子による筆者譜でのみ伝わってます。幻想曲の出だしはとくに印象的ですが、じつはパッヘルベルにもこれとよく似た感じのオルガン曲があって、いわゆる「ため息音型」と呼ばれる下がっていく音型を伴って進行していきます(下行音型、とくると、青島広志氏が「ららら ♪ クラシック」でベートーヴェンの『第5交響曲』出だしのあの8分音符動機タ・タ・タ・ターを「下・が・る・ゾー!」と言っていたのはじつに的確なるご指摘)。
今週はもうひとつ、NHK-FM の「古楽の楽しみ」でも、個人的に大好きなバッハの教会カンタータ『神の時はいとよき時 BWV 106』がかかってまして、出だしの天国的美しさの「ソナティーナ」で朝っぱらからすでに昇天状態恍惚状態だったわけなんですが、このカンタータについてはぜひ『「音楽の捧げもの」が生まれた晩』という本を読まれたし。この本、タイトルどおりバッハ最晩年の傑作『音楽の捧げもの BWV 1079』が成立するまでを描いたある意味迫真のノンフィクション読み物なんですが、個人的にはこっちの教会カンタータを説明したくだりが最高に筆の冴えたくだりだと勝手に思ってます。楽曲分析の精密さもさることながら、本質をズバリ突いていて、時間のない人は本文 327 ページのこの本のここだけ拾い読みしてもいいくらい。
こういうときだからこそ、じっくりバッハ作品を聴き直すのはまさに至福のひととき、「神の時」だと思うしだい。そういえば何年か前、べつに砂川しげひさ氏のモノマネじゃないけれども、バッハの教会カンタータ全曲制覇(苦笑)をここでも書きました。まだ作品番号 900 番台のリュート組曲とかいくつか聴いてない楽曲がちらほらあるにはあるが、そろそろ作品番号 198 以降の世俗カンタータと呼ばれている一連の声楽作品をすべて聴こうかと思案中。これらの作品を聴き終えたときには、バッハ作品はほぼぜんぶ聴いたことになります──いったい何年かかってんだよ、と思わないこともないけれども。
2020年08月23日
もうすぐ絶滅するという紙の新聞について
COVID-19 パンデミックが全球的に覆い尽くすなか、今年も広島・長崎の原爆忌、終戦記念日が過ぎ、そして旧盆期間も過ぎてゆきました(NHK の自称5歳児の番組でも取り上げられたことがあるけど、「お盆」の正式名はサンスクリットを音写した「盂蘭盆会[うらぼんえ]」)。
信長じゃないけどすでに「人間五十年」生きちゃった端くれとして思うこと。それは最近の人のダマされやすさについて。なんでこう、なんとかホイホイよろしく引き寄せられちゃうのかって感じ。往年の「ナイジェリアの手紙」の進化系? みたいなチェーンメール詐欺に国際結婚詐欺なんかもそう。その原因を成していると思われる最たるものがやはりソーシャルディスタンス、ではなくてソーシャルメディアだと思う。SNS 中毒の増加とともに年々、右肩上がりしているような印象を個人的には受けてしかたない。
ここ最近のブロゴスフィアも似たかよったか。以前は──あくまで個人の意見──読んでためになる、というか、おもしろい読み物が多かった気がする。それがいまじゃ Wordpress だかなんだか知りませんが、たいしたこと書いてないのに「目次」を設けてやたらとリーダビリティ、もっと言えば SEO 対策ばかり抜かりのないブログのフリしたフログ(flog、fake + blog のカバン語)ばかりが目立ち、しかもそれがバカみたいに安い単価でアカの他人に書かせて自分は運営してるだけという、長年、せっせとこんなんですけど書いてきた人間からしたらまったく信じがたい、「ブロ〜グよ、おまえもか!」っていうじつに悲惨なことになってます。そういうのって「なんとかハック」とか読み手を惹きつけて小遣い稼ぎしてるんでしょうが、文章の書き方を見ればいかにも、なマニュアルどおりの通り一遍、「…… いかがでしたか? よろしかったら拡散お願い♪」みたいに締め括られて、総じてツマラナイ。はっきり言って時間のムダ。
だまされやすさ、ということではもうひとつ重要な点があるように思う。それは紙媒体の新聞の凋落と軌を一にしている、ということ。以前も似たようなこと書いたかもしれませんけど、ネットニュースなんていくらリーダーアプリがいくつもあったところで、海外のメディア媒体のようなアーカイヴ記事などほとんどなく、調べたければ図書館行って「日経テレコン」でも見ないと出てこなかったりする。その点、欧米の媒体が運営する新聞の電子版ははるかに品揃えが充実している。電子書籍もそうだけど、いくら Retina ディスプレイだの高精細有機 LED だのといっても、光る画面上の活字を追うのと紙媒体の書籍や新聞の活字を追うのとではアタマへの入り方がやはりちがうし、紙のほうがはるかに読みやすく、目にもやさしい。このへんのことを科学的に研究した論文かなにかがあったら、ぜひご教示願いたいところ。
もっとも紙の新聞とて人間の手になるもの、そりゃたまにはタイポもあれば訂正もある。論説コラムなんかもそうで、この評者、いいかげん交代してくんないかなとかありますよ(地元紙の例だと、今年1月 14 日付の論説文に、さもご自身で読まれた洋書の抜粋を得々と引用していた先生がおられたが、あれとまったくおんなじ文面をネットで見たことがある)。
自己啓発ものの元祖とも言えそうな古典的名著『自分の時間──1日 24 時間でどう生きるか』で有名な英国の小説家アーノルド・ベネットは、ものを考えない人間の典型例として「毎朝、新聞を広げてからでないと意見が言えないような人」を挙げてはいるけれども、そんなベネットだって新聞をまったく読んでなかったわけじゃないので(おなじことはショーペンハウアーの『読書について』にもあてはまる)、ここでも紙媒体の新聞の効用、とりわけ「情報の一覧性」というすばらしい特徴があるという点は強調しておきたい。
というわけで、終わりはここ数か月で地元紙を眺めて印象的だった文章をランダムに引用しておきます。アマチュアでさえない門外漢がしゃしゃりでてさらに物事を混乱させるなんでもありの玉石混交がまかりとおるいま、記者が足で稼いで書いた紙の新聞の「一覧性」は、まだまだ捨てたもんじゃないと思う(以下、いつものように下線強調は引用者。以前、訳出した海外記事に、'The new hero of journalism was no longer a grizzled investigator burning shoe leather, à la All the President’s Men' という一文があって、こんな言い回しがあるのかと思った。あいにくせっかくひねりだしたここの訳は、端折られてしまったが)。
最後のリニア問題について。ネット民のみなさんはどうも「静岡県が意図的に開業を遅らせている!」と息巻いている向きが多く、われわれ県民ははっきりいって不当に貶められている感もなくなくはないが、かつての国鉄が丹那トンネル工事を行った結果、どうなったかを調べてごらんなさい。またこれは科学的に立証されてはいないものの、トンネル工事で大量に湧出した地下水と北伊豆地震とは関係がないわけではなく、工事によって引き起こされた可能性もゼロではないことも申し添えておく。南アルプスは伊豆半島が押しつづけて盛り上がった巨大な「付加体」で、かつての海底堆積層がほぼ垂直にそそり立っている(だけでなく、折れ曲がったりと屈曲も激しいし、近くには糸魚川−静岡構造線も走っている)。「日本一、崩れやすい」とも言われ(安倍川源頭部には日本三大崩れのひとつ、大谷崩もある)、活断層だらけのグズグズな破砕帯だらけなのは言うまでもなく、こんな場所の地下深くを無理やり掘削したら …… と思うとこの猛烈な酷暑でも背筋が寒くなる。
信長じゃないけどすでに「人間五十年」生きちゃった端くれとして思うこと。それは最近の人のダマされやすさについて。なんでこう、なんとかホイホイよろしく引き寄せられちゃうのかって感じ。往年の「ナイジェリアの手紙」の進化系? みたいなチェーンメール詐欺に国際結婚詐欺なんかもそう。その原因を成していると思われる最たるものがやはりソーシャルディスタンス、ではなくてソーシャルメディアだと思う。SNS 中毒の増加とともに年々、右肩上がりしているような印象を個人的には受けてしかたない。
ここ最近のブロゴスフィアも似たかよったか。以前は──あくまで個人の意見──読んでためになる、というか、おもしろい読み物が多かった気がする。それがいまじゃ Wordpress だかなんだか知りませんが、たいしたこと書いてないのに「目次」を設けてやたらとリーダビリティ、もっと言えば SEO 対策ばかり抜かりのないブログのフリしたフログ(flog、fake + blog のカバン語)ばかりが目立ち、しかもそれがバカみたいに安い単価でアカの他人に書かせて自分は運営してるだけという、長年、せっせとこんなんですけど書いてきた人間からしたらまったく信じがたい、「ブロ〜グよ、おまえもか!」っていうじつに悲惨なことになってます。そういうのって「なんとかハック」とか読み手を惹きつけて小遣い稼ぎしてるんでしょうが、文章の書き方を見ればいかにも、なマニュアルどおりの通り一遍、「…… いかがでしたか? よろしかったら拡散お願い♪」みたいに締め括られて、総じてツマラナイ。はっきり言って時間のムダ。
だまされやすさ、ということではもうひとつ重要な点があるように思う。それは紙媒体の新聞の凋落と軌を一にしている、ということ。以前も似たようなこと書いたかもしれませんけど、ネットニュースなんていくらリーダーアプリがいくつもあったところで、海外のメディア媒体のようなアーカイヴ記事などほとんどなく、調べたければ図書館行って「日経テレコン」でも見ないと出てこなかったりする。その点、欧米の媒体が運営する新聞の電子版ははるかに品揃えが充実している。電子書籍もそうだけど、いくら Retina ディスプレイだの高精細有機 LED だのといっても、光る画面上の活字を追うのと紙媒体の書籍や新聞の活字を追うのとではアタマへの入り方がやはりちがうし、紙のほうがはるかに読みやすく、目にもやさしい。このへんのことを科学的に研究した論文かなにかがあったら、ぜひご教示願いたいところ。
もっとも紙の新聞とて人間の手になるもの、そりゃたまにはタイポもあれば訂正もある。論説コラムなんかもそうで、この評者、いいかげん交代してくんないかなとかありますよ(地元紙の例だと、今年1月 14 日付の論説文に、さもご自身で読まれた洋書の抜粋を得々と引用していた先生がおられたが、あれとまったくおんなじ文面をネットで見たことがある)。
自己啓発ものの元祖とも言えそうな古典的名著『自分の時間──1日 24 時間でどう生きるか』で有名な英国の小説家アーノルド・ベネットは、ものを考えない人間の典型例として「毎朝、新聞を広げてからでないと意見が言えないような人」を挙げてはいるけれども、そんなベネットだって新聞をまったく読んでなかったわけじゃないので(おなじことはショーペンハウアーの『読書について』にもあてはまる)、ここでも紙媒体の新聞の効用、とりわけ「情報の一覧性」というすばらしい特徴があるという点は強調しておきたい。
というわけで、終わりはここ数か月で地元紙を眺めて印象的だった文章をランダムに引用しておきます。アマチュアでさえない門外漢がしゃしゃりでてさらに物事を混乱させるなんでもありの玉石混交がまかりとおるいま、記者が足で稼いで書いた紙の新聞の「一覧性」は、まだまだ捨てたもんじゃないと思う(以下、いつものように下線強調は引用者。以前、訳出した海外記事に、'The new hero of journalism was no longer a grizzled investigator burning shoe leather, à la All the President’s Men' という一文があって、こんな言い回しがあるのかと思った。あいにくせっかくひねりだしたここの訳は、端折られてしまったが)。
… さまざまな知恵や意見を得て、納得や反論をしながら自分のフィルターにかけて、己の血肉にするのが学ぶということ。ただ読んで聞いて対応する勉強は、試験が終われば必要ない。その場しのぎの知識にすぎないよ。──絵本作家の五味太郎氏、「教育シンカ論・コロナから問う」から
... 英語の成績がいいのは本人が好きで努力したからであり、別に「頭がいい」とは関係ない。社会に出て、周囲を見渡せば、英語は日常会話でペラペラ話せても、中身のないことしか言えない「頭の悪い」人はいっぱいいる。中身がなければ外国人はもちろん、日本人からも信頼も尊敬もされはしない。──勝又美智雄氏、「日本人の深い病 … 英語コンプレックス」から
「 … 普通の人は家族、社会、宗教などの『大義』と折り合いをつけ、代わりに安心を得る。[ボブ・]ディランはそれを拒み、本当に属すべきものを探してさまよい孤独になった。それでもなお、孤独な者として前に進むんだと歌っている」──「混迷の世 響くディランの言葉」から作家・翻訳家の西崎憲氏の発言から
… さまざまな技術革新によって、大量の生産を行い、地球表面を改変し、他の生物を絶滅させ、人口を増やしてきた。…… 以前はなかった野生生物と人間との接触も増えた。
そこで、他の動物を宿主としていたウイルスがヒトに感染する機会が増える。今回の新型コロナウイルスもそうだが、そのようなウイルスによる、数千人、数万人の規模での爆発的な感染は、20世紀以降に起こったのである。──長谷川眞理子氏、「現論:温暖化、絶滅、ウイルス」から[ ⇒ 参考リンク]
毎日のマスク着用やアルコール消毒を徹底している私たち。そんな中、県外に出歩く人や飲食店に通う人などが多くいる。新型コロナウイルスまん延の今、もう一度危機感を持った方がいいと思う。
…… コロナの流行から数カ月、私たちはコロナのある日常に慣れつつある。でももう一度、危機感を持つべきだと思う。──「ひろば10代」、中学生読者の投稿から
…… 源流である南アルプスの下にトンネルを通して走らせるリニア中央新幹線は、私たちの未来に本当に必要なのか。新型コロナウイルスで世界の経済が減速し、暮らしも大きな変化に直面している今、「豊かさとは何か」を考えてみる時ではないか。…… 想定外を想定することを求めたい。失ったら自然も水も元には戻らないし、30年の補償金で済むことではないと私は思う。──「ひろば」、84 歳の読者の投稿から
最後のリニア問題について。ネット民のみなさんはどうも「静岡県が意図的に開業を遅らせている!」と息巻いている向きが多く、われわれ県民ははっきりいって不当に貶められている感もなくなくはないが、かつての国鉄が丹那トンネル工事を行った結果、どうなったかを調べてごらんなさい。またこれは科学的に立証されてはいないものの、トンネル工事で大量に湧出した地下水と北伊豆地震とは関係がないわけではなく、工事によって引き起こされた可能性もゼロではないことも申し添えておく。南アルプスは伊豆半島が押しつづけて盛り上がった巨大な「付加体」で、かつての海底堆積層がほぼ垂直にそそり立っている(だけでなく、折れ曲がったりと屈曲も激しいし、近くには糸魚川−静岡構造線も走っている)。「日本一、崩れやすい」とも言われ(安倍川源頭部には日本三大崩れのひとつ、大谷崩もある)、活断層だらけのグズグズな破砕帯だらけなのは言うまでもなく、こんな場所の地下深くを無理やり掘削したら …… と思うとこの猛烈な酷暑でも背筋が寒くなる。
2020年07月28日
嗤う COVID-19
全世界で新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の猛威が止まらない。
今年に入ってから、引き受ける案件には毎月必ず1本は COVID-19 関連の記事訳出が含まれるくらいで、やはりそのことを実感せざるをえない。最近だと NYT の救急救命士の聞き書き記事とかがあって、そうそう、そうなんだよな、と思わざるをえなかった(→ 原文記事を引用したブログ記事、なお拙訳文はじっさいに掲載された邦訳記事とは異なっている点をお断りしておきます)。
'Friday Ovation'って英国が発祥らしいけれども、最前線で生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされ戦っている人の発言の重みとパンチの強さの前にはむなしい。
ブラジルの大統領なんか、もはや歩く人災だね。経済がぁ、とのたまわっているが、かんじんの国民の生命がつぎつぎと失われてしまっては、元も子もないじゃないかっていう子どもでも理解できることがわかってない。その点、COVID-19 でいっとき猖獗を極めたイタリアの人は(みんながみんなそうではないと思うが)腹が据わっている。『テルマエ・ロマエ』原作者の方が電話越しに耳にしたイタリア人の旦那さんの発言を引用した文章を地元紙で見たんですが、旦那さんいわく、「イタリアはかつてのペスト以降、疫病に何度も襲われてきた。経済か人間の命か、どちらが大切かと問われれば、人間の命に決まってる」、だからロックダウンされようと平気だ、と。
個人という意識の弱さ、マイホーム主義やムラ意識に代表される集団同化意識と同調圧が疫病とおなじく蔓延する島国に住む人間として、なんか民族性のちがいをまざまざと見せつけられたような気がした。欧州は日本より遅れている点、とりわけマスクをする習慣さえなかったことも考えれば、そりゃいろいろと問題はあるでしょう。でもドイツみたいに WHO のパンデミック宣言の出る前から検査体制や医療体制の拡充を図っている国の例などを見るにつけ、せいぜい胸を張れるのはマスク着用とか「3密(3C)」を避けよう、くらいのものかと。いくら都知事選とかがからんでいるからって、個人の意識の徹底という点では日本も米国もブラジルもたいして変わらないと思う。個人的に意外だったのは、スウェーデンの対応だった。「集団免疫」戦略だったんですが、あいにくうまくいってない。他の北欧諸国がなんとか抑え込んでいるのに対し、高齢者を中心に死者数がとんでもないことになっている(→ NYT 報道記事の邦訳ページ)。
もちろん、未知のウイルス(コロナウイルスじたいの発見もせいぜい数十年前)によるいままで経験したことのないパンデミックなので(パンデミックという用語は、そもそもインフルエンザのみに適用されてきたもの)、絶対確実な方法なんてあるわけもなく、各国の対策とか見ているとお国柄というか国民性みたいなものが出ていると感じる。しかしたとえ未知のウイルス感染症パンデミックでも、そのおおもとの方針は揺るぎないはず──「人間の生命を守ることが最優先」されるべきではないか。ブラジルの大統領がもし国内経済を好転させたとしても、この点においては為政者失格、ということになる。この人の「無策」の最大の犠牲は、アマゾンの密林に暮らす先住民だ。
いまひとつよくわからないのは、しきりと「第2波」だ、とテレビとかが喧伝していること。個人的には、病原体があきらかに変異して、100 年前のスペインかぜパンデミックを引き起こしたようなことが起こればまちがいなくそれは「第2波」と言える。ただ、いま現在は「再流行」と言うべきで、「第2波」と決めつけるような言い方はいかがなものか、といつも感じる(WHO の専門家も含め、世界の感染症研究者で新型コロナウイルスが「変異」したと明言する人は現時点ではひとりもいない)。今月の地元紙切り抜きを見ると、たとえばポルトガルでは「[外出規制]緩和後、若い世代の感染率が高まり、首都リスボン近郊の一部地域に外出規制を課した」とある。規制再拡大の動きは隣国スペインでもおなじで、パブ文化のある英国でも規制強化を望む声が世論の8割を超えている、という。これって日本でもおんなじですよね、とくに「若い世代の感染率が高まり」というくだりは。ようするに、規制緩和したらやっぱり感染率が高くなって、市中感染が始まりつつある、ということだと思う。
また、「接触8割減」ということばが独り歩きしたことがあったけれども、舌の根の乾かぬうちにこんどは「これまで感染が確認された人のおよそ8割はほかの人に感染させていない」と言って GOTO トラベルを見切り発車してトラベルならぬ無用のトラブルを招き、沖縄などの離島部を含め地方都市で集団感染が立て続けに発生したり。目を覆うようなことがつづいて正直、ウンザリでもある。
言っておくが自分は「ナントカ警察」ではない。ただ、マスクひとつとっても、先日の地元紙にコラムを寄稿した米ジョンズ・ホプキンズ大学大学院副学長ケント・カルダー氏が書いたように、「多くの米国人はマスクを着けるようになっているのだが、強制には反発している。草の根の米国人、特に南部の人々はマスク着用を銃所有と同じように個人が自由に決めるべきものだと強く」思っているかぎり、人類はこの新型ウイルスという強敵にはとうてい勝ち目はないだろう、と感じている。いま一度つよく言いたいのは、もはや COVID-19 以前のような日常生活にはもどれない、ということ。個人ひとりびとりが、ここをよ〜く考えてから行動すべきだ。ダレダレが悪いから、というのは通用しない。あなたがどうすべきかだ。このままだと COVID-19 の思うツボになるのは目に見えている。
今年に入ってから、引き受ける案件には毎月必ず1本は COVID-19 関連の記事訳出が含まれるくらいで、やはりそのことを実感せざるをえない。最近だと NYT の救急救命士の聞き書き記事とかがあって、そうそう、そうなんだよな、と思わざるをえなかった(→ 原文記事を引用したブログ記事、なお拙訳文はじっさいに掲載された邦訳記事とは異なっている点をお断りしておきます)。
私の仕事を知りたい人など誰もいないだろう。あなたたちは英雄だ、と口先だけの称賛を送る人はいるだろうが、救急救命士の話は誰もが聞きたいと思うような話ではない。……
…… 死者は2万人余りに達しているというのに、レストランの外には早くも長い行列ができ、バーはごった返している。このウイルスはまだ市中にいて、消え去ったわけではない。毎日、新型コロナウイルス感染症の 911 番通報を受けて出動する。これまで 200 人を超える市民が亡くなった現場にいて、蘇生処置を施し、家族に慰めのことばをかけてきた。しかし世間の人は 1.8 メートルの社会的距離も守れなければ、マスクをつけようともしない。なぜだ? 自分はタフガイだから? 弱そうに見られないため? このウイルスの真実に向き合おうとせず、自分はぜったいに大丈夫と見せかけて済ますつもりなのだろうか?
…… われわれが英雄? 冗談じゃない。怒りに圧し潰されそうだ。
'Friday Ovation'って英国が発祥らしいけれども、最前線で生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされ戦っている人の発言の重みとパンチの強さの前にはむなしい。
ブラジルの大統領なんか、もはや歩く人災だね。経済がぁ、とのたまわっているが、かんじんの国民の生命がつぎつぎと失われてしまっては、元も子もないじゃないかっていう子どもでも理解できることがわかってない。その点、COVID-19 でいっとき猖獗を極めたイタリアの人は(みんながみんなそうではないと思うが)腹が据わっている。『テルマエ・ロマエ』原作者の方が電話越しに耳にしたイタリア人の旦那さんの発言を引用した文章を地元紙で見たんですが、旦那さんいわく、「イタリアはかつてのペスト以降、疫病に何度も襲われてきた。経済か人間の命か、どちらが大切かと問われれば、人間の命に決まってる」、だからロックダウンされようと平気だ、と。
個人という意識の弱さ、マイホーム主義やムラ意識に代表される集団同化意識と同調圧が疫病とおなじく蔓延する島国に住む人間として、なんか民族性のちがいをまざまざと見せつけられたような気がした。欧州は日本より遅れている点、とりわけマスクをする習慣さえなかったことも考えれば、そりゃいろいろと問題はあるでしょう。でもドイツみたいに WHO のパンデミック宣言の出る前から検査体制や医療体制の拡充を図っている国の例などを見るにつけ、せいぜい胸を張れるのはマスク着用とか「3密(3C)」を避けよう、くらいのものかと。いくら都知事選とかがからんでいるからって、個人の意識の徹底という点では日本も米国もブラジルもたいして変わらないと思う。個人的に意外だったのは、スウェーデンの対応だった。「集団免疫」戦略だったんですが、あいにくうまくいってない。他の北欧諸国がなんとか抑え込んでいるのに対し、高齢者を中心に死者数がとんでもないことになっている(→ NYT 報道記事の邦訳ページ)。
もちろん、未知のウイルス(コロナウイルスじたいの発見もせいぜい数十年前)によるいままで経験したことのないパンデミックなので(パンデミックという用語は、そもそもインフルエンザのみに適用されてきたもの)、絶対確実な方法なんてあるわけもなく、各国の対策とか見ているとお国柄というか国民性みたいなものが出ていると感じる。しかしたとえ未知のウイルス感染症パンデミックでも、そのおおもとの方針は揺るぎないはず──「人間の生命を守ることが最優先」されるべきではないか。ブラジルの大統領がもし国内経済を好転させたとしても、この点においては為政者失格、ということになる。この人の「無策」の最大の犠牲は、アマゾンの密林に暮らす先住民だ。
いまひとつよくわからないのは、しきりと「第2波」だ、とテレビとかが喧伝していること。個人的には、病原体があきらかに変異して、100 年前のスペインかぜパンデミックを引き起こしたようなことが起こればまちがいなくそれは「第2波」と言える。ただ、いま現在は「再流行」と言うべきで、「第2波」と決めつけるような言い方はいかがなものか、といつも感じる(WHO の専門家も含め、世界の感染症研究者で新型コロナウイルスが「変異」したと明言する人は現時点ではひとりもいない)。今月の地元紙切り抜きを見ると、たとえばポルトガルでは「[外出規制]緩和後、若い世代の感染率が高まり、首都リスボン近郊の一部地域に外出規制を課した」とある。規制再拡大の動きは隣国スペインでもおなじで、パブ文化のある英国でも規制強化を望む声が世論の8割を超えている、という。これって日本でもおんなじですよね、とくに「若い世代の感染率が高まり」というくだりは。ようするに、規制緩和したらやっぱり感染率が高くなって、市中感染が始まりつつある、ということだと思う。
また、「接触8割減」ということばが独り歩きしたことがあったけれども、舌の根の乾かぬうちにこんどは「これまで感染が確認された人のおよそ8割はほかの人に感染させていない」と言って GOTO トラベルを見切り発車してトラベルならぬ無用のトラブルを招き、沖縄などの離島部を含め地方都市で集団感染が立て続けに発生したり。目を覆うようなことがつづいて正直、ウンザリでもある。
言っておくが自分は「ナントカ警察」ではない。ただ、マスクひとつとっても、先日の地元紙にコラムを寄稿した米ジョンズ・ホプキンズ大学大学院副学長ケント・カルダー氏が書いたように、「多くの米国人はマスクを着けるようになっているのだが、強制には反発している。草の根の米国人、特に南部の人々はマスク着用を銃所有と同じように個人が自由に決めるべきものだと強く」思っているかぎり、人類はこの新型ウイルスという強敵にはとうてい勝ち目はないだろう、と感じている。いま一度つよく言いたいのは、もはや COVID-19 以前のような日常生活にはもどれない、ということ。個人ひとりびとりが、ここをよ〜く考えてから行動すべきだ。ダレダレが悪いから、というのは通用しない。あなたがどうすべきかだ。このままだと COVID-19 の思うツボになるのは目に見えている。
タグ:COVID-19
2020年07月19日
オルガンが丸焼けに
…arson、だそうです。フランス西部の港町で、近年は「ラ・フォル・ジュルネ」音楽祭発祥の地としても知られているナントの「サンピエール・サンポール大聖堂」の火災。放火犯はてっとり早く燃やそうと、木製部品だらけの大オルガンに火を放ったようです(海外の速報記事とか見ると「会堂内3箇所から火の手があがった」というから、オルガンは出火場所のひとつということになる。なお日本語版記事には「破損」とあるけど、全焼しているから、「全壊」と書くべきだろう。手を加えて修理できるレベルの話じゃないですわ! ちなみにこの楽器、4段手鍵盤と足鍵盤 / 実動 74 ストップの威容を誇る、教会オルガンとしてはかなり大型の部類に入るものだったようです)。
どこのどいつがこういうバカげたことをしでかしたのかはまだわからないし、それについてとくに喋々するつもりもない。ただ、昔からこういうことは意外にも(?)繰り返されてきた、というのもまた事実なんですね。もっとも顕著な例ですと、18 世紀後半に勃発したフランス革命とその後の動乱期。ちょうどこのときは、王侯貴族と教会権力の失墜とともにオルガンとオルガン音楽そのものの「価値」がブラックマンデー顔負けに暴落して、オルガン音楽がクラシック音楽のメインストリームから脱落する時期とぴたり重なっている(それを言えば、かつての王侯貴族に付き物だった鍵盤楽器クラヴィチェンバロ / クラヴサンもそう)。フランスは基本的にユグノー、すなわちローマカトリックの国なので、このとき各地のカトリック教会、とりわけ司教座付き聖堂(大聖堂)は目の敵にされ、略奪されるわ放火はされるわ狼藉の限りを尽くされ、オルガンの金属パイプ(鉛と錫の合金、ようはブリキ合金)は引き抜かれて溶かされ建築資材にされるわで、オルガン音楽好きからしたら目を覆いたくなるような惨状だった[ → AFPBB サイトの速報記事]。
オルガンの受難は海峡を挟んでお隣りのイングランドでも似たかよったかでして、こちらはもっと早く 17 世紀に起きた内戦、世界史で言う「ピューリタン[清教徒]革命」前後数年の混乱に乗じて、おなじキリスト教徒のくせに清教徒側が「なんで会堂内にモーセの禁じた偶像やら金ピカな贅沢品があるんだ、聖書の教えと違う!!」と狂信者心理だか群集心理だかなんだかわからん烏合の衆的ポピュリズム的暴徒と化した連中が、やはり未来の隣国同様のことをやらかしている。大聖堂の貴重な聖遺物や代々受け継がれてきた宝物、絵画・彫刻といった芸術品、そしてもちろん、いちばん目立つオルガンが標的になった。でもオルガンをバラして燃やした、のではなくて、他の用途に転用したことが多かったようです(「革命」と名はつくが、約1世紀あとの市民革命とはそもそも目的が違う)。また、暴徒が押しかけてくる前にひそかに解体されて「疎開」し、ロンドンから遠く離れた片田舎に保管されて難を逃れたオルガンも少数ながらあった、という話もあります(どこの楽器だったか失念したが、たしかアルプ・シュニットガー建造の歴史オルガンの中にも、第二次大戦の爆撃を避けて解体され、疎開した楽器があったはず)。
昨年のいまごろ、パリのシンボルたるノートルダム大聖堂の尖塔部分や屋根などが失火で焼失したときもたいへんなショックだったが、このときは不幸中の幸いで、有名なカヴァイエ=コル建造の歴史的楽器はほぼ無傷ですんだ。火災後の聖堂内を映した動画を見ながら、「ウン、……オルガンはダイジョウブみたい」と、東京芸術劇場の「回転」オルガンを建造したオルガンビルダーのマチュー・ガルニエ氏が NHK のニュース番組で心底ホッとしたような表情を浮かべて話しておられた姿がいまも思い出される。ナント大聖堂のこの歴史的楽器もいずれ再建されるだろうが、この楽器が持っていた400年という歴史の重みは、紅蓮の炎に焼け落ちる背後のステンドグラス絵と同様、この世界から永遠に消滅した。
どこのどいつがこういうバカげたことをしでかしたのかはまだわからないし、それについてとくに喋々するつもりもない。ただ、昔からこういうことは意外にも(?)繰り返されてきた、というのもまた事実なんですね。もっとも顕著な例ですと、18 世紀後半に勃発したフランス革命とその後の動乱期。ちょうどこのときは、王侯貴族と教会権力の失墜とともにオルガンとオルガン音楽そのものの「価値」がブラックマンデー顔負けに暴落して、オルガン音楽がクラシック音楽のメインストリームから脱落する時期とぴたり重なっている(それを言えば、かつての王侯貴族に付き物だった鍵盤楽器クラヴィチェンバロ / クラヴサンもそう)。フランスは基本的にユグノー、すなわちローマカトリックの国なので、このとき各地のカトリック教会、とりわけ司教座付き聖堂(大聖堂)は目の敵にされ、略奪されるわ放火はされるわ狼藉の限りを尽くされ、オルガンの金属パイプ(鉛と錫の合金、ようはブリキ合金)は引き抜かれて溶かされ建築資材にされるわで、オルガン音楽好きからしたら目を覆いたくなるような惨状だった[ → AFPBB サイトの速報記事]。
オルガンの受難は海峡を挟んでお隣りのイングランドでも似たかよったかでして、こちらはもっと早く 17 世紀に起きた内戦、世界史で言う「ピューリタン[清教徒]革命」前後数年の混乱に乗じて、おなじキリスト教徒のくせに清教徒側が「なんで会堂内にモーセの禁じた偶像やら金ピカな贅沢品があるんだ、聖書の教えと違う!!」と狂信者心理だか群集心理だかなんだかわからん烏合の衆的ポピュリズム的暴徒と化した連中が、やはり未来の隣国同様のことをやらかしている。大聖堂の貴重な聖遺物や代々受け継がれてきた宝物、絵画・彫刻といった芸術品、そしてもちろん、いちばん目立つオルガンが標的になった。でもオルガンをバラして燃やした、のではなくて、他の用途に転用したことが多かったようです(「革命」と名はつくが、約1世紀あとの市民革命とはそもそも目的が違う)。また、暴徒が押しかけてくる前にひそかに解体されて「疎開」し、ロンドンから遠く離れた片田舎に保管されて難を逃れたオルガンも少数ながらあった、という話もあります(どこの楽器だったか失念したが、たしかアルプ・シュニットガー建造の歴史オルガンの中にも、第二次大戦の爆撃を避けて解体され、疎開した楽器があったはず)。
昨年のいまごろ、パリのシンボルたるノートルダム大聖堂の尖塔部分や屋根などが失火で焼失したときもたいへんなショックだったが、このときは不幸中の幸いで、有名なカヴァイエ=コル建造の歴史的楽器はほぼ無傷ですんだ。火災後の聖堂内を映した動画を見ながら、「ウン、……オルガンはダイジョウブみたい」と、東京芸術劇場の「回転」オルガンを建造したオルガンビルダーのマチュー・ガルニエ氏が NHK のニュース番組で心底ホッとしたような表情を浮かべて話しておられた姿がいまも思い出される。ナント大聖堂のこの歴史的楽器もいずれ再建されるだろうが、この楽器が持っていた400年という歴史の重みは、紅蓮の炎に焼け落ちる背後のステンドグラス絵と同様、この世界から永遠に消滅した。
2020年06月30日
読んでみたら意外と…?
国家安全保障担当補佐官という仕事には、ありとあらゆる無理難題が目の前に立ち現れる。こんな仕事のどこに惹かれて、私はこの重責を引き受けただろうか? 混乱と不確実性とリスク、大量の情報を処理し、つねに決断を迫られ、とにかく膨大な作業量に終始圧倒される仕事。人間の個性とエゴが国際舞台で、アメリカ国内で衝突し合う。こういったことにおもしろさを見出だせないような人は、ほかの仕事を探すしかない。この仕事にはどう考えてもうまく行かないだろうというときに、パズルの各ピースがぴたりとはまる瞬間がある。そんなときは爽快感さえ覚えるが、この感覚を部外者に話してもほとんどの場合、共感されることはない。いきなり失礼。これはいま全世界で話題(?)の、こちらの本の Kindle 版の第1章出だしから試訳をつけてみたものになります。
トランプ政権の変質について、包括的な説を提示することはできない。どんな説をもってしてもそんなことは不可能だからだ。しかしながら、トランプ政権の軌跡に関するワシントンの紋切り型の常識は誤りだ。知的に怠惰な層にとっては魅力的に映るこのトランプ像は、当時広く受け入れられていたものだ。すなわち、つねに突飛な言動を繰り出すトランプは大統領に就任して 15 か月間、未経験の場所で感じる所在なさと「大人たちの枢軸」に抑えつけられ、自身の行動にためらいがあった。しかし時間が経つにつれトランプは自信を深め、「大人の枢軸」たちも次々と離脱してすべてがバラバラになり、いつしか周囲は 「イエスマン」しかいなくなった、というものだ。
いつものワタシらしくない? そう、つねづね「流行りものは見向きもしない」ことをウリにしてきた人間としては、なんだか不戦敗みたいな、「長いものに巻かれた」ような気もなくなくはない、のではあるけれど、とりあえず第2章途中まで読んでみて、読み物として意外とおもしろいなコレ、というのが偽らざる感想でありました。
米国の現政権については、たとえば要職のひとつであるこの「国家安全保障担当補佐官」にしても、最初に就任したマイケル・フリン氏から現職のロバート・オブライエン氏まで、代行者もいれてなんと6人も入れ代わり立ち代わり交代しているという混乱ぶり。で、その入れ替わり立ち替わりぶりについて、もと「中の人」だったボルトン氏が詳細に記述しているのが、冒頭の章ということになります。全体のプロローグ的な書き方にもなっており、ここだけ読んでもけっこう楽しめるんじゃないかと思われます。
とはいえこの本、当然のことながら、現代の米国政治ものが好きな人向けではある。この前、地元ラジオ局の朝の情報番組でアンカーを務めているキャスターがなんと! 「英語学習の近道として最近、多読がいい、ということが言われていますので、ワタシ、この本予約しちゃいました! で、さっそく読み始めたんですが…」、1行目の 'National Security Advisor' で1分ほど考えていたとか。この手の本を原語で読みたいというその意欲の高さはまことにあっぱれながら、たとえば「ラダーシリーズ」あたりから始めてみるのはどうでしょうか。いきなりコレは敷居が高かったかも …… もっとも話題の本ですし、番組前フリのネタということで紹介したエピソードなんでしょうけれどもね。
ついでにわが国の防衛相殿もこの本を読むのを楽しみにしていたそうなんですが、「売り切れて手に入らなかった」とか。ハテ? Kindle 版ならすぐにでも読めるのに知らないのかな、とかよけいなお世話ながら思ったりもした。
Kindle 本なんで気になったとことかどんどんマーカー入れつつ読み進めたんですが、たとえばまだ副大統領候補だったときに会ったマイク・ペンスは「筋金入りの強力な国家安全保障政策支持者。彼とはすぐ、外交と防衛政策上の幅広い問題について意見を交わした」とあり、ウマが合っていたらしいことが垣間見えたり、最初の国防長官だったマティス氏がオバマ政権時代の元国防次官ミシェル・フロノイ氏を副長官に推していたのは「理解しがたかった」と酷評していたり。また現政権の最初の国務長官だったティラーソン氏が自分を副長官に据えることにとんと無関心だったことについて、「私が彼の立場だったなら、当然、同じように感じていたことだろう[Of course, had I been in his shoes, I would have felt the same way.]」なんて典型的な仮定法の例文みたいな言い回しが出てきたり。
個人的に笑えたのが、「トランプは大統領としてのブッシュ親子と両政権を忌み嫌っていた。そこで思ったのは、こちらが10年近くもブッシュ両政権に仕えてきたことを失念しているのではないか、ということだった。そしてトランプはころころ気が変わる。ケリーの説明にずっと耳を傾けていると、彼はよく逃げ出さずにいられるものだと思った」というくだり。いかにもって感じですな。
こういう確実に売れる本というのは納期がキツくて、いまごろ訳者先生はネジリ鉢巻で訳出作業に当たっていることでしょうが、翻訳書と言えばなんと! ジョーゼフ・キャンベルのこちらの新訳もいつのまにか出ていたんですねぇ、これにはビックリした。まさか新訳が出るなんて予想もしてなかったもので … おそらく原書はこの拙記事で一部を紹介した本だと思う。こちらは近いうちに花丸氏御用達の本屋さんに行って探してみるつもり。
2020年05月31日
ネット時代のパンデミック
TV や新聞などで新型コロナ感染症(COVID-19)関連の報道があると、決まって「米ジョンズ・ホプキンズ大学によると」が、枕詞のように出てくる。そのソースとなっているのがこちらの特設サイトで、じつは 3月9日時点の拙記事で張った参照リンクも、じつはココでありました。個人ブログとしては、国内でもわりと早くここのサイトをリンクというかたちではあるが引用したんじゃないかなって思ってます。
最近、COVID-19 関連で検索すると、「COVID-19 に関する注意」という但し書きがやたらと出現する。それだけデマないし「裏をとってない」信憑性の疑わしい情報源の引用が多い、ということなんでしょうが、統計数字にかぎって言えば、もし上記の同大学特設サイトを引いていないような Web サイトやブログ、ツイートだったら、話半分に聞いておくていどでよい、ということです。
ところでここのサイト、地元紙とほぼおなじ内容のこちらの記事によると、同大学システム科学工学センターの女性准教授と、中国出身の大学院生のおふたりがたったの半日(!)で完成させ、公開にこぎつけたものだったらしくて、そっちにもビックリした。いまさっき確認したところ、3月投稿時とレイアウトがまったく変わってないことから、特設サイトの完成度もけっこう高かったんじゃないかって気がします。とにかくこれすごいですよ。数字関連で確認したいとき、ここの特設サイトは must です。
COVID-19 がらみでは、なにかと評価の芳しくない日本の対応。厳格なロックダウン下に置かれたロサンゼルス市内に家がある超有名邦人アーティストには、「[日本は]狂ってる」とかなんとか言われたり。たしかに向こうの基準ではなにやったってそう見えるだろうし、「三密は避けましょう」などと、あいも変わらず曖昧な言い回しで茶を濁すのが大好きな国民性ですので、内心、忸怩たる思いはあるものの、かろうじていまのところは最悪のカタストロフィは回避できてるのかな、と。ただ、「第2波のただなかにいる」と発言している首長さんがおられますが、実態はただの「再流行」的なものであり、未知の感染症エピデミック / パンデミックの「第2波」と同一ではない、ということだけは言いたい。ほんとうの「第2波」は、残念ながらこれから襲来すると思う。高温多湿の真夏の日本でこのウイルスの活動がどうなるのかは神のみぞ知る、としか言えないものの、とにかく「第2波」が来る前にワクチンが開発されるようにと、それだけを祈っている。
祈ってはいるけれども、ワタシは例の江戸末期の「疫病退散」妖怪ブームについては、なんだかなあ、と思ってしまう。英国発祥という医療従事者への拍手、もいいけれども、もっと大切なところはそこじゃないだろ、と感じてもいる。医療や介護、あるいは物流の過酷な現場で働かざるを得ないいわゆる「エッセンシャルワーカー」に対する世間の人びとの態度もまた、失望させられることのほうが多い。いまさっきも英 Financial Times 見てたらこんな記事があって(下線強調は引用者)、
最後に、こちらの番組の感想をすこしだけ。気がついたら、未知の感染症パンデミックに世界が覆われていて、いままで当たり前だと思っていたことがつぎつぎと変更を余儀なくされる、あるいはまったく不可能になる。そんな「不安な時代」であっても、やはり人は「パンのみに生きるにあらず」な生き物ですので、どうしても精神を支えてくれるものが必要になる。クラシック音楽家も容赦なくこの感染症禍に見舞われて世界的に仕事が蒸発して、にっちもさっちもいかなくて困ってる人もいれば、自宅隔離状態になっている人もいる。
でもたとえば、いまはやりの「Web 会議システム」とかを駆使して、活動休止中のオーケストラ団員が指揮者もいないまま在宅で、ロッシーニの歌劇『ウィリアム・テル』の「序曲」を奏でる、というのはなんとすばらしいことだろうか! そしてこれを動画配信サイトで全世界に向けて発信し、いままでクラシック音楽に縁のなかったリスナー層を取り込むことに成功してもいる。
総じて、社会インフラとしてのインターネットの普及と、それを支える技術の急速な進歩によって、30 年くらい前までは実現不可能だったことがいともあっさりとできちゃったりするから、そういう点ではひじょうに恵まれていると言える。翻訳の仕事だってぜんぶネット経由で訳稿の納品ができますし(というか、紙媒体の納品はありえなくなっている)。その気になればなんだってできると思うんですよね。文字どおり empowerment だと思う。もっともオケなんかはやっぱりコンサートホールのライヴを聴くにかぎるんですが、たとえネット経由であっても、ひとりひとりの「想い」が真摯でパワフルであれば、それは聴き手にもズキューンと伝わると思うのです(個人的には、演奏家の自宅が映し出されるのも新鮮な感覚あり。とくにジャン・ギアン・ケラス氏のフライブルクのお宅の部屋、インスタのストーリーズに公開してもおかしくないほど「映え」てましたね)。
その音楽はもちろんなに聴いたっていいんですけれども、かつて自分が病気で臥せっていたころは、ヘルムート・ヴァルヒャの弾くバッハのオルガン作品集の LP レコードが心のよりどころで、ヴァルヒャによってバッハ音楽の深淵な世界に誘われた気がする。上記番組では、世界に名だたる演奏家のめんめんがそれぞれの「想い」を胸にベートーヴェンやドビュッシー、フォーレの楽曲を演奏していたんですが、演奏してくれた全 10 曲中なんと 4曲がバッハだった。そう、こういうときこそバッハなんだよ !! 庄司紗矢香氏は「毎朝、瞑想と自分に向き合うために」バッハの一連の『無伴奏』ものを弾く、とおっしゃっていた。ピアノのラン・ラン氏はバッハ弾き、というイメージがあまりなかったんですけど、こんなご時世ではやはり「宇宙を思わせるバッハの音楽」一択、という趣旨のことをおっしゃっていて、バッハ好きとしてはたまりませんでしたね。
最近、COVID-19 関連で検索すると、「COVID-19 に関する注意」という但し書きがやたらと出現する。それだけデマないし「裏をとってない」信憑性の疑わしい情報源の引用が多い、ということなんでしょうが、統計数字にかぎって言えば、もし上記の同大学特設サイトを引いていないような Web サイトやブログ、ツイートだったら、話半分に聞いておくていどでよい、ということです。
ところでここのサイト、地元紙とほぼおなじ内容のこちらの記事によると、同大学システム科学工学センターの女性准教授と、中国出身の大学院生のおふたりがたったの半日(!)で完成させ、公開にこぎつけたものだったらしくて、そっちにもビックリした。いまさっき確認したところ、3月投稿時とレイアウトがまったく変わってないことから、特設サイトの完成度もけっこう高かったんじゃないかって気がします。とにかくこれすごいですよ。数字関連で確認したいとき、ここの特設サイトは must です。
COVID-19 がらみでは、なにかと評価の芳しくない日本の対応。厳格なロックダウン下に置かれたロサンゼルス市内に家がある超有名邦人アーティストには、「[日本は]狂ってる」とかなんとか言われたり。たしかに向こうの基準ではなにやったってそう見えるだろうし、「三密は避けましょう」などと、あいも変わらず曖昧な言い回しで茶を濁すのが大好きな国民性ですので、内心、忸怩たる思いはあるものの、かろうじていまのところは最悪のカタストロフィは回避できてるのかな、と。ただ、「第2波のただなかにいる」と発言している首長さんがおられますが、実態はただの「再流行」的なものであり、未知の感染症エピデミック / パンデミックの「第2波」と同一ではない、ということだけは言いたい。ほんとうの「第2波」は、残念ながらこれから襲来すると思う。高温多湿の真夏の日本でこのウイルスの活動がどうなるのかは神のみぞ知る、としか言えないものの、とにかく「第2波」が来る前にワクチンが開発されるようにと、それだけを祈っている。
祈ってはいるけれども、ワタシは例の江戸末期の「疫病退散」妖怪ブームについては、なんだかなあ、と思ってしまう。英国発祥という医療従事者への拍手、もいいけれども、もっと大切なところはそこじゃないだろ、と感じてもいる。医療や介護、あるいは物流の過酷な現場で働かざるを得ないいわゆる「エッセンシャルワーカー」に対する世間の人びとの態度もまた、失望させられることのほうが多い。いまさっきも英 Financial Times 見てたらこんな記事があって(下線強調は引用者)、
Other ordinary jobs are suddenly perilous too. Chefs, security guards, taxi drivers and shop assistants are dying at higher than average rates from Covid-19 in the UK. The British government, desperate to revive the economy, has told millions to return to work. Little wonder many are scared to do so.失職して困ってる人にとってはつべこべ言っていられない、というのが偽らざる気持ちとしてあると思うが、そう、そこなんですよね、この新型感染症のほんとうにコワいところは。この前、いつも行く理髪店で散髪してきたとき、ご主人はマスクだけでしたが、そのうちあのアクリルシールドもかぶらないといけなくなるかもしれないし、こっちもマスクがはずせなくなるかもしれない。あるていどは「新型コロナ禍以前の日常」にもどれるかもしれないが、パンデミック以前の世界は二度ともとどおりにはならんでしょう。こちらの意識を徹底的に変えるほかない。
最後に、こちらの番組の感想をすこしだけ。気がついたら、未知の感染症パンデミックに世界が覆われていて、いままで当たり前だと思っていたことがつぎつぎと変更を余儀なくされる、あるいはまったく不可能になる。そんな「不安な時代」であっても、やはり人は「パンのみに生きるにあらず」な生き物ですので、どうしても精神を支えてくれるものが必要になる。クラシック音楽家も容赦なくこの感染症禍に見舞われて世界的に仕事が蒸発して、にっちもさっちもいかなくて困ってる人もいれば、自宅隔離状態になっている人もいる。
でもたとえば、いまはやりの「Web 会議システム」とかを駆使して、活動休止中のオーケストラ団員が指揮者もいないまま在宅で、ロッシーニの歌劇『ウィリアム・テル』の「序曲」を奏でる、というのはなんとすばらしいことだろうか! そしてこれを動画配信サイトで全世界に向けて発信し、いままでクラシック音楽に縁のなかったリスナー層を取り込むことに成功してもいる。
総じて、社会インフラとしてのインターネットの普及と、それを支える技術の急速な進歩によって、30 年くらい前までは実現不可能だったことがいともあっさりとできちゃったりするから、そういう点ではひじょうに恵まれていると言える。翻訳の仕事だってぜんぶネット経由で訳稿の納品ができますし(というか、紙媒体の納品はありえなくなっている)。その気になればなんだってできると思うんですよね。文字どおり empowerment だと思う。もっともオケなんかはやっぱりコンサートホールのライヴを聴くにかぎるんですが、たとえネット経由であっても、ひとりひとりの「想い」が真摯でパワフルであれば、それは聴き手にもズキューンと伝わると思うのです(個人的には、演奏家の自宅が映し出されるのも新鮮な感覚あり。とくにジャン・ギアン・ケラス氏のフライブルクのお宅の部屋、インスタのストーリーズに公開してもおかしくないほど「映え」てましたね)。
その音楽はもちろんなに聴いたっていいんですけれども、かつて自分が病気で臥せっていたころは、ヘルムート・ヴァルヒャの弾くバッハのオルガン作品集の LP レコードが心のよりどころで、ヴァルヒャによってバッハ音楽の深淵な世界に誘われた気がする。上記番組では、世界に名だたる演奏家のめんめんがそれぞれの「想い」を胸にベートーヴェンやドビュッシー、フォーレの楽曲を演奏していたんですが、演奏してくれた全 10 曲中なんと 4曲がバッハだった。そう、こういうときこそバッハなんだよ !! 庄司紗矢香氏は「毎朝、瞑想と自分に向き合うために」バッハの一連の『無伴奏』ものを弾く、とおっしゃっていた。ピアノのラン・ラン氏はバッハ弾き、というイメージがあまりなかったんですけど、こんなご時世ではやはり「宇宙を思わせるバッハの音楽」一択、という趣旨のことをおっしゃっていて、バッハ好きとしてはたまりませんでしたね。