2015年09月08日

「だけしか」⇒ 'your wife' ⇒ 健全な批評

1). もうだいぶ時間が経過しているけれども、『文藝春秋』を買いまして、今年の芥川賞受賞作品二編、楽しませていただきました。個人的には「流行りものは読まない( 苦笑 )」というモットーがあるんですが、率直な読後感としては、どっちもそれぞれ味があっておもしろいなあ、と。ラストの神谷さんのぶっとび(?)ぶりとか、「早う迎えにきてほしか」が口癖ながら、さらさらその気のない祖父さんと孫の( ちぐはぐな )やりとりとか、どちらもさすが、と思ったのでありました。

 でもってこれは内容ではなく、表記のことで気になった点がひとつだけ … 偶然にも、両作品には「 … だけしか … 」という言い回しが使われていて、引っかかるものがあったのも事実でした。
… 最初は神谷さんにまつわることだけしか綴っていなかったノートに、最近では漫才のネタや雑感までもが書き込まれ、もはや自分の日記のようにさえなっていた。――『火花』

… サロン代わりに通院している老人たちは一割から三割だけしか医療費を負担せず、…
――『スクラップ・アンド・ビルド』
だけしか、ねぇ。昔、文章教室みたいなとこで注意されたことに、まさにこの「だけしか」があったもので。もっとも「言語」というものは生き物、ナマモノなので、時代を経てだんだんに移り変わるもの。おそらくいまの若い読み手がここの箇所見ても、とくになにも感じずにすすっと先に進むと思う。ある意味、世代がわかる箇所、と言えるのかも。

 ついでに『火花』は、作中のコンビ名「スパークス」と引っかけているのかな、と思っていたら、こちらのブログ記事によると、又吉さん自身の以前のコンビ名も引っかけてあるらしい。小説の仕掛け、ってことかな。

2). この手の「文芸もの」、とくに散文で書かれた「小説」というジャンルは、翻訳という観点からもひじょうにむずかしいものであることはまちがいない( もっともこと外国語で書かれたものならどんな文書ドキュメントの類いでも、それぞれ骨を折る部分はたくさんあるけど )。たまたま時おなじくして、図書館からこういう本を借りて読んでいたら、キャサリン・マンスフィールドの短編 The Stranger( 1920 ) の一節が孫引用されていた。著者の故鈴木主税氏は、マッキベンの処女作『自然の終焉』をはじめ、ベストセラーになった『大国の興亡』など、ノンフィクション本やだれも手を付けないような(!)大部の著作をたくさん邦訳された大先生。引用されているのは、慶応大学教授だった鈴木孝夫氏のエッセイ『ことばの人間学』でして、こちらの鈴木先生は、
"We can't go quite so fast," said she. "I've got people to say good-bye to ―― and then there's the Captain." As his face fell she gave his arm a small understanding squeeze. "If the Captain comes off the bridge I want you to thank him for having looked after your wife so beautifully." Well, he'd got her. If she wanted another ten minutes ―― As he gave way she was surrounded. The whole first-class seemed to want to say good-bye to Janey.
の太字箇所がどうしても解せなかったんだそうです( ここは、前年に結婚した欧州大陸に住む長女を訪問する10 か月[!]の船旅を終えて帰ってきた妻 Janey を、やっとの思いで出迎えた旦那の Hammond 氏とのやりとり )。

 著者の鈴木先生は、「鈴木孝夫の英語力は、… とびきり優秀な日本人の水準をもはるかに抜いているそうだから、われわれ平凡な日本人が英語の文章の細かいニュアンスをどの程度まで理解できるのか、まったく心もとない話だ」と書いています( pp. 132 − 36 )。

 英語力に自信をお持ちの方、太字箇所をどう思われます? オチを言うと、「コロンブスの卵」的な話になってしまうんですけども … 不肖ワタシがここんところを読んだとき即座に思ったのは、いつぞやここで取り上げた The Da Vinci Code がらみの的外れな指摘だった。はっきり言って、この手の英文を正しく解釈する、読解するというのは、もう語学的にどうのこうのという話じゃない。感覚、いや直感としか言いようがない。でもってワタシはマンスフィールドの上記作品が収められている原本( Collected Stories of Katherine Mansfield, Penguin Books, 1981 )を図書館で借りて、ついでに現在入手可能な邦訳としては唯一ではないかと思われるこちらの本も借りて、じっくり読んでみた。するとたとえば、
Would she really not be long ? What was the time now ? Out came the watch ; he stared at nothing. That was rather queer of Janey, wasn't it ? Why couldn't she have told the stewardess to say good-bye for her ? Why did she have to go chasing after the ship's doctor ? She could have sent a note from the hotel even if the affair had been urgent. Urgent ? Did it ―― could it mean that she had been ill on the voyage ―― she was keeping something from him ? That was it ! He seized his hat. He was going off to find that fellow and to wring the truth out of him at all costs. He thought he'd noticed just something. She was just a touch too calm ―― too steady. From the very first moment ――
なんてことが書かれてあったり、このハモンドさんという人がどういう人で、どういう気持ちをわが愛妻 ―― だれの手にも渡してなるものか ―― に抱いていたのかがこの物語中、暗示されている箇所がそこここに見受けられます。とくれば、ここは奥さんがそんなダンナさんの心情をなかば見透かしたように your wife とことさら強調したのも、なるほどと思われるはずです。

 当方、この手の本が大好きなこともあって、前にも書いたけれども、手許にはキャンベル本の翻訳者、故飛田茂雄先生の『翻訳の技法』なんかもあったりします … でも最終章の「長文演習課題文」をよくよく見ると、ちょっと不適切というか、ナゾナゾのオチがわかるかわからないかで訳が決まってしまうような問題もあったりします( わが子にメスを入れられない外科医の「母親」の話とか )。こういう問題ないし限界は、どうしてもこの手の「翻訳指南本」にはつきものかもしれない。もっとも、「読めば読んだぶん、誤訳は減る」とは思うが、これさえアタマに入れさえすれば、いま目の前にひろげてある英語原文なり原本なりが正しく読めますヨ、なんてことはむろんありえない話で … 浜の真砂は尽きるとも、で[ ちょっと喩えがヘンか ]。Ninety Six を '96' と書いちゃったりする軍人さんだっていたくらいですし…。

3). こういう話を持ちだしたのも、どうも巷では「他人様の揚げ足取り」にすぎないことがあまりにも横行しているような気がするからでして … そういうあんたはどうなんだ、とくるかもしれないが、だれが見てもこれおかしいでしょ、ひどいよね、というものしか取り上げていない( はず )。少なくとも書いている本人はツマラン揚げ足取りはしていないつもりでいる。ここのところ「パクリ狩り」が流行っているようですが、しかるべき教養と知識を持った人がしかるべき批判ないし批評をするぶんならなんら問題はないし、どんどんすべきだと思う。翻訳がらみでは誤訳の指摘、ということがすぐ思い浮かぶが、上記の例にもあるとおり、どんな達人だってまちがえることはある。『愛するということ』改訳(!)者の鈴木晶先生はかつて、アフリカで kite が飛んでいる、という箇所を「凧」としたり、「麦畑で踊っても、麦の穂は折れない」という空気の精みたいな伝説的バレリーナの記述に出てきた corn を「トウモロコシ」とやって、舞踏史の専門家から「こんなことも知らない人がバレエの本を訳しているとは」とコキおろされたんだそうな(『翻訳は楽しい』pp. 130 − 31 ) [ 前にも書いたかもしれないが、飛田先生も似たようなこぼれ話を告白している。ロンドン地下鉄の意味の tube を「試験官」と誤記したゲラ刷りを見た校正者から誤訳の指摘を受けた、と ]。

 … さんざ揚げ足取りしておいて、「ほんとうの」問題の本質には目もくれず、「祭りだワッショイ」でハイおしまい、では、この国の言論空間はますます風化浸蝕に晒されるだけだろう、自戒の意味もこめて。

 というわけで、最後はひさしぶりに ―― いや、性懲りもなく? ―― 小クイズ。出典はこちらの本。米国の詩人 Galway Kinnell という人の書いた詩集から 'Farewell' の一節。これは本文で書いたような前後関係とか感覚とかはまったく関係なしに、文芸ものの翻訳者を志す学習者だったら一発で「正しく」読み取ってほしいところ。ちなみにこの本によると、邦訳では下線箇所がそれぞれ「手や顔を洗う」、「二、三人ずつ」になってたんだそうです。ちなみにオケが演奏していたのは、ハイドンの有名な「告別[交響曲第 45 番]」。
The orchestra disappears ――
by ones, the way we wash up on this unmusical shore,
and by twos, the way we enter the ark where the world goes on beginning.

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2015年08月30日

豪州のおいしいリースリング Jacob's Creek

1). 最近、「ジョルジュ・デュブッフ」輸入元サントリーワインの FB ページを見たら、なんと、もう葡萄の収穫が始まっているらしい( ご苦労さまです )。今年の欧州の夏は場所によっては熱波に見舞われたようでして、音楽の都ヴィーン( これだけはウィーンと書けない人 )でも最高気温が 35°C 近かった日があったとか、チェコやドイツでもそうとう暑かったらしい。ということは葡萄の生育にとってはまずまずだったはずなので、収穫が早まったのもむべなるかな、という気はするけれども … そういえば「セレクションプリュス」というデュブッフ社のとびきり値段の張るヌーヴォーのラベルにはいついつに収穫しました、という日付けとロット番号が表記されてるんですが、ワタシが買ったやつで最も早かったのはたしか9月初めだったと思う。8月末にもう収穫初日って、いままででもっとも早いほうかもしれない。もっとも現地の人の話を聞いたわけじゃないので、よくわかんないけれども。

 ちなみに ―― 怒られるかもしれないが ―― 上記 FB ページの8月 24 日付投稿記事をそのまま転載させていただくと、
「今日からぶどうの収穫がはじまります」

ボンジュール! デュブッフ社のアドリアンです。
8月も好天が続き、ぶどうは健康なまま「Ban des vendanges(バン デ ヴァンダンジュ)」と呼ばれる収穫日を迎える事が出来ました。

今年のぶどうの実は例年に比べ小さく収穫量も少ないと予想されますが、皮が厚く濃度の高いジュースを湛えており、グレートヴィンテージとされる 2009 年(8/27から収穫開始 )、2011 年( 8/24から収穫開始 )を思い起こさせる出来栄えになっていると実感しています。

ボジョレーのヴァカンスはもうおしまい。
美味しいヌーヴォーづくりに邁進します!

2). そんな折も折、暑い夏はやっぱギネススタウトでしょ、というわけでここんとこ缶入りのやつ買っては週末に楽しんだりしているのですが、OTTAVA プレゼンターのひとり斉藤茂 GM から、まったくたまたま耳寄りな情報を聞いた。なんでも斉藤さんは、オーストラリアの歴史あるワイナリーのジェイコブス・クリーク( ブランドン入江も Brandon Creek と書くけど、こっちのクリークは小渓流のほう )のリースリングをたまたま見かけたスーパー(!)で買って家で飲んでみたらこれがよい !!! というわけで「番組に連動したプレゼンターからのオススメ」に。斉藤さん曰く、「かなりシャープでドライな白ワインです。レモンやライムなど柑橘系をイメージさせるアロマ、重さはなく爽やかな飲み口ですが、それだけではない旨みも、しっかり用意されています」。

 安酒専科とはいえ、ワイン好きとあってはこの情報ははずせない( 苦笑 )。というわけで、運よく近所のこれまたスーパーにてハーフボトルの「リースリング」を発見したのでめでたく購入( ワタシが見つけたのは昨年のヴィンテージのもの )。さっそく試してみたけど、たまには辛口リースリングというのもいいもんだ。リースリング、と聞くと、なんか「甘口」の代表みたいな先入観があったもので、たとえばアルザスワインもかつてはドイツ語圏だったためなのか、そんな甘口リースリングが多い印象がある。そんなわけで、いままでリースリングという品種から醸された白を飲んだことがなかった。ようするにリースリング初心者、というわけなんですが、これは買って大正解! でした。もっともこれはワタシ個人の感想なので、こればっかりはじっさいに試してみるより他にないとは思うけれども、シャルドネほどのパンチの強さもドライさもなく、とても軽くて飲み口のよい白だと思いました。グラスから立ち上がるアロマも清々しい柑橘系で、これも個人的には大満足。誤解を恐れずに言えば、これは「白ワイン版ボージョレ」という感じ。すっきり辛口たけど、フルーティな味です。斉藤さんに感謝しなくては。もう少し涼しくなってきたら、こんどはここのカベルネ・ソーヴィニヨンを試してみようかな。

 … なんてこと書いているうちに、もう8月も終わりですね( 汗 ) … 。「きらクラ」じゃないけど、皆さまもどうかご自愛くださいませ。

付記:ヴィーンつながりでは、けさ見たこちらの番組。楽友協会大ホールのことが取り上げられていまして、舞台正面バルコニー上に聳える大オルガンについてもあらたな事実が。前面パイプ列のことを「プロスペクト」と呼んだりするんですが、ここの楽器のプロスペクトパイプ群は、すべてダミー、つまり音の出ない純粋な「飾り」だったんですねぇ。もっともプロスペクトの一部がただの飾り、というのはバッハ時代にもありました。で、あの名門ホールのオルガンのプロスペクトも、もしやって以前から感じてはいたんですが、ほんとにそうだったんだ。ここのオルガンはパイプ総数 8,000 本余、4段手鍵盤という大きな規模の楽器で、パイプのほとんどが実際にはコントラバス奏者の後ろの壁の中に収容されているみたいです。

posted by Curragh at 22:09| Comment(0) | TrackBack(0) | ワイン関連

2015年08月18日

チェンバロの響きは朝にこそふさわしい? 

 先週の「古楽の楽しみ」は夏休み特番(?)、「特集 “チェンバロの魅力” 〜 チェンバロってどんな楽器? 」。で、ふだんとはちがう大きなスタジオに案内役のおひとり、大塚直哉先生所有の大型2段鍵盤フレンチタイプの楽器まで持ちこみ、必要に応じて実際に音を出したり、あるいはゲストの演奏家とデュオをライヴで(!)聴かせてくれたりと、チェンバロ好きにとっては至れり尽くせりの感ありだったんじゃないでしょうか。

 自分も放送を聴取して、いま一度この楽器の仕組みを再確認したところです … まず2段鍵盤楽器の場合、下の鍵盤がメインで、いわば典型的なチェンバロらしい音を響かせる鍵盤、上のは弦を弾く「爪[ プレクトラム ]」の位置がより端に近いため、下の鍵盤に比べて「軽め」の音が出るようになってます。いずれもオルガンのフィート律で言うところの「8フィート」弦ですが、下の鍵盤にはもうひとつ弦が張ってあり、こちらはオクターヴ高い4フィート弦が張ってある … つまり、ぜんぶで三種類の弦が張ってある、ということになります。鍵盤の両脇にはスライダーのつまみがついていて、これでどの弦を鳴らすかを決める( オルガンで言うストップ / レジスター )。もうひとつ音色を変える機構として、「リュートストップ / バフストップ」という仕掛けがあり、これは弦にフェルトを押し当てて「こもった」ような響きに変えるもの。ポロンポロンと、ハープみたいなやさしい音が出ます。なんでこういうことをするかと言えば、ピアノみたいに切れ目なく音量を上げたり減らしたりができないから。いわゆるデュナーミクの表現については、チェンバロの発想法はオルガンのそれとほぼおなじものと言っていいと思う。つまり鍵盤交替、カプラーによる鍵盤連結による、「階段式」の強弱の付け方、もしくは「陰影の付け方」とでも言うべきか。大塚先生によれば、じつは指先の微調整でもクラヴィコードみたいに音が微妙に変わるんだとか。上の鍵盤を押しこむと、下の鍵盤と連動する( カプラー )ので、イタリア様式の合奏協奏曲のような、「ソロ」と「テュッティ」の擬似効果が生まれる。バッハの「イタリア協奏曲 BWV. 971 」は、まさにそのような2段鍵盤チェンバロ特有の表現を前提にして書かれている( から、ほんらいはピアノでは弾けないはず。ただしグールドの演奏は好きだが )。

 個人的には水曜放送分の西山まりえさんとのやりとりがおもしろかった。とくに「ミーントーン[ 中全音律 ]」話とか … ミーントーンで盛り上がるおふたりの会話を聞いてると、まるで音大生どうしのコアな会話を立ち聞きしているような気がする( 笑 )。さらには西山さんの持ちこんだイタリア様式1段鍵盤楽器は、低音部がいわゆる分割鍵盤、ブロークンオクターヴの楽器だった。なんでもレの半音の上にさらにキーが乗っかってるんだそうだ … マジで弾きにくそう( 苦笑 )。

 通奏低音についてのおふたりの話( と実演 )もすこぶる興味深かったんですが、なんと言っても熱燗だったのが、即興演奏。ドレミファ 〜 長調で即興を披露した大塚氏に対し、西山氏はおなじような音型を短調で弾いて即興を披露。「バッハが遠隔転調したあと、どうやってもどってくるのか、わかるようになる気がする」とかなんとか、即興演奏ができるようになるとそんなことも「見えて」くるのか 〜 と、脱帽状態、いや脱力状態か( 分割鍵盤のレの半音のそのまた上の鍵の音も出していた )。一度でいいからそんなカッコいいこと言ってみたいものだ。

 最終日はおなじみ松川梨香さんと。松川さんは実物に触るのがはじめてだったようで、キーを押すと弦を弾く、あの独特な感覚を体感して感激していたようす。以下、視聴者からの質問コーナーに寄せられた質問に答えつつ進行:

1). チェンバロケースの装飾について
17−18 世紀、貴族の時代から市民階級の時代へと移るとともに、きらびやかな装飾から質実剛健な外観へと変わっていった。イタリアの1段鍵盤タイプは白木のまま、フレンチタイプは華やかな装飾、とくに「シノワズリ」などの東洋風趣味な装飾ケースが流行ったりした
トレヴァー・ピノックの音源でヘンデルの「調子のよい鍛冶屋」
2). 鍵盤の色が黒白逆なのは? 
現代ピアノのようなタイプもけっこうある。イタリアの1段鍵盤タイプの楽器など
白=象牙 / 牛骨、黒=黒檀のことが多い
一説によれば、女性奏者の指先を美しく見せるため? 
3). なぜチェンバロには上下2段の鍵盤なのか
1段鍵盤の楽器も多い( ルッカース一族製作の楽器、たとえばヴァルヒャが「平均律クラヴィーア」録音で使用したような歴史的楽器とか )
ソロとテュッティの交替をひとりの奏者で表現できる
上の鍵盤は張り方の違いと爪の位置のちがいで「軽く」響く
リクエストのヴァルヒャの音源では、モダンチェンバロ( アンマーチェンバロ )を使用している。「イギリス組曲 第3番 BWV. 808 」前奏曲
この演奏では、16 フィート弦や鍵盤連結を使用してオルガンのような重厚さを強調している
4). ヴァージナルは、狭義には箱型小型チェンバロで、英国で流行した
通常の大型チェンバロは、フリューゲル[ 翼型 ]タイプと呼ばれる、独の大型楽器は先端が「丸く」なっているものもあり
ホグウッドの音源でバードの小品「この道を通りゆく人は」
5). ピアノと弾くときとチェンバロを弾くときのちがいは、ピアノが弾ければチェンバロも弾けるのか? 
ピアノ=打弦楽器、チェンバロ=撥弦楽器
はい、ともいいえ、とも答えられる
求められる技術が異なるから
鍵盤のタッチは比較的軽い、幅[ と奥行き ]はピアノより狭い
鍵盤連結するとタッチはその分重くなる
スコット・ロスの音源でD. スカルラッティ「ソナタ ト長調 K. 13」
6). 強弱をつけられないチェンバロでの演奏はどのようにしているのか
弦を弾くタイミングをずらす、鍵盤を連結する、鍵盤交替するなど
リクエスト:ユゲット・ドレフュスの音源によるバッハ「平均律 第1巻 22番」の前奏曲
7). チェンバロの場合、ミーントーンを含め、調律の種類がひじょうに多い
ギターやヴァイオリン奏者と同様、調律は演奏者自身がする
リサイタルの場合は専属の調律師に頼む場合もある
プレクトラムが折れる、弦が切れるというトラブルもまれにある
8). チェンバロのための現代作品はけっこう多い
武満徹、リゲティ、ラッター、グラス、フランセなど
リクエスト:F. クープラン「神秘な防壁」[ 生演奏 ]

… 願わくば再放送を希望。あるいは次回はオルガン特番にしてほしいです。ちなみに仏語のクラヴサン clavecin は、原型になった古楽器 clavicymbalum から派生したもので、クラヴィ+シンバルだそうです。なるほど。チェンバロはもちろん伊語の clavicembalo の独語読みで、どっちもクラヴィチェンバルム clavicembalum[ 鍵盤で弾くツィンバロム ]から派生した呼び名になります。そういえば「モダンチェンバロ」についての言及もあったけれども、'70 年代の「イージーリスニング」ものにはモダンチェンバロ、ないしは「プリペアド・チェンバロ」とでも言うべき改造楽器がやたら演奏に加わっていたような記憶がある。前にも書いたけど、たとえばポール・モーリアなんかがそうですよね(「恋はみずいろ」など )。



 先週はこのようにチェンバロづくし、松川さんも「チェンバロの響きは朝にふさわしい!」みたいなことをおっしゃっていて、なるほどたしかにそうかもと思ったり。こう暑いと( 苦笑 )、いくら無類のオルガン音楽好きでもワンワン響くオルガンよりすっと減衰する心地よいチェンバロの響きのほうが精神的にもいいかもです。ヴァルヒャの2度目の「平均律クラヴィーア」の音源もあることだし、週末の朝にでも全曲、聴いてみようかと思う、今日このごろ[ * 2016 年 3 月の再放送を聴取しての加筆訂正あり ]。

posted by Curragh at 01:22| Comment(0) | TrackBack(0) | NHK-FM

2015年08月17日

南北戦争 ⇒ 終戦 70 年

1). 新訳版『風と共に去りぬ』に、次のようなスカーレットの科白が出てきます。
「もっと綿を植えよう。もっともっと。あしたポークをメイコンへ
()
って、種を買ってこさせよう。もうヤンキーに焼かれることもないし、味方の軍隊にとられることもないんだ。ああ、やれやれ! この秋には、綿花の値もうなぎ上りよ!」

 70 回目の終戦の日の何日か前だったと思うけれども、地元紙投稿欄にも「明日からはもう空襲はないんだ!」という戦争体験者の方の述懐が載っていました。心情的には、南北戦争時代の南部白人スカーレットと、こちらの述懐とは、なんらの距離もなくて、戦争の惨禍を文字通り命からがらくぐり抜けてきた凄絶な体験をした人ならばだれだって心底、そう思うものだろう。

 ところでふたつ前の拙記事で取り上げた Ninety Six という地名の出てくる本。『風と共に … 』を読み進めていくうちに、なんか急に(?)当時の南部プランテーションで奴隷として白人に従事していたアフリカ系米国人のことが気になりだして、件の本がいつぞやお世話になった静大附属図書館(!)の書庫に入っていることを知り、いつも行ってる図書館経由で( 相互利用制度 )借りることができたので、さっそく読んでみた。例の '96' は、当時北軍の第3海兵歩兵部隊に所属していたジェイムズ・マクファーソンという名の中尉さんだった人の行軍日記が出典だということがわかった。1864 年5月5日、マクファーソン中尉はヴァージニア州の戦闘で南軍側の捕虜になり、サウスカロライナ州コロンビア近くの収容所に送られた。同年 11 月下旬、マクファーソン中尉は仲間3人とともに収容所から脱走。テネシー州ノックスヴィル近くの北部合衆国側との境界線を目指し、200 マイル以上もの距離をひたすら逃げ、脱走にからくも成功したという話。で、マクファーソン中尉の「日記」からわかるのは、当時の黒人たちの共同体が彼らの脱走成功には欠かせなかった、ということです。「口コミ」という連絡手段がありますが、あれのもっと大掛かりなやつ( bush telegraph )を駆使して、ひとつの黒人コミュニティからつぎのコミュニティへと、彼らの逃亡ルートの道案内をリレーしただけでなく、「おいしい食べ物( 'Here the negroes could not do enough for us, supplying us with edibles of a nice character ...', p. 114 )」までたっぷり用意してくれたりとその働きぶりに目を見張ったことが鮮やかに活写されています。ようするに貴重な第一級史料のひとつ、なんですな。例の Ninety Six の北にあったとかいう鉄道を横切った、という話は、12 月5日付の日記に出てきます。

 この本( George P. Rawick, From Sundown to Sunup, 1972 )全体を ―― 期限が切られていたのでやや大雑把ではあるが ―― 通読してみて思ったのは、「南部の黒人奴隷たちは人間としての自由を剥奪された被害者だ」とか、「強制収容所だった」みたいな言説は必ずしもあたらない、ということだった。そしてこれも寡聞にしてはじめて知ったのだが、南北戦争前にも、奴隷ではない「自由な」黒人たちというのがきわめて少数ながらも存在していたこと、そして、『風と共に … 』でもそれとなく出てきたのでありますが、黒人奴隷女性が「マッサ( またはマースなど )」と呼ばれていた使用者( 主人 )の子どもを産む(!)というケースもけっこうあったらしい。つまり「黒人社会と白人社会とは完全に断絶されていたわけでなく、抑圧的な場合が多かったとはいえ、南部プランテーション制度での両者の交流は活発だった」ということでした。なのでスカーレットの乳母が黒人の大女マミーであったのも、当時の南部ではよくあることで、それにもとづいて書いた、ということになる。そしてこれもはじめて知ったのだが、南北戦争当時、すでに黒人奴隷および解放奴隷に対する「聞き書き」調査が連邦政府後援プロジェクトとして行われていたという事実。この「聞き書き」は 1930 年代、FSA の写真家ドロシア・ラングとかウォーカー・エヴァンス、ゴードン・パークス、カール・マイダンスとかが活躍していた時代にもさらに大規模に実施されていたけれども、その存在は 1960 年代に「再発見」されるまで埋もれていた( その間、黒人奴隷の記録はほとんど残っていないというまちがった認識がはびこった )。この本は、そういう元奴隷だったアフリカ系米国人による膨大なナラティヴを集めたもの( Volume I Of The American Slave: A Composite Autobiography, 1972−79 )で、この本はその巻頭を飾る、言わば全体を俯瞰したような内容の本だった( これらの調査はほとんどが聞き書きだが、なかには元奴隷本人の直筆もある。書名の From Sundown to Sunup は、昼間は主人にこき使われている黒人たちが、日没から夜が明けるまでのあいだは「自分自身のために生き、完全な犠牲者になるのを防ぐための基盤としての行動や制度を創り上げていった」ことを指している )。

 とはいえ当時の黒人奴隷たちの境遇がひどかったことに変わりはないけれど、そんな逆境の中でもたくましく生きていた黒人たちの話がたくさん出てくる。たとえば先祖の土地である西アフリカ沿岸地域に伝わる土着の神々が姿と役割をがらりと変えて、新大陸でも崇拝されていたとか、黒人教会の母体になった「夜の密会」の話とか( 黒人奴隷たちは、わりとすんなりキリスト教を受け入れていた。たとえば「三位一体」という教義については、土着のトリックスター信仰にもあった「神さまはいろいろに変身する」というふうに捉え再解釈していた。この関連でハイチのヴードゥー教の話なんかも出てくる )、結婚するときに不可欠な「ほうき飛び越えの儀式」とか「地下鉄道」とか、とにかく知らない話がいろいろ出てきて個人的にはおおいに刺激を受けた。そして( 当然と言えば当然ながら )南北戦争勃発時の北部は黒人奴隷に依存する綿花栽培経済とはまるで構造の異なる経済と社会であり、北部にいた黒人の数も南部に比べれば圧倒的に少なかったらしい。南部人にとってはありふれた黒人も、北部人にとっては人づてに耳にするていどのもので、南北戦争開戦時は「なんでそんな連中のために戦わなければならないのだ」と、アイルランド系移民などの低賃金労働者からの突き上げ、ないし反発がすごかったという。なかでももっとも大きかった暴動が、1863 年に起きたニューヨーク徴兵暴動だった。ちなみに終戦後、黒人「もと奴隷」たちはせっかく解放されてもまともな仕事にありつけず( 識字率も低いしろくな教育を受けていなかったため、というのもあるが、「プアホワイト」と呼ばれた低所得白人層の子弟にとっても事情はおんなじだった )、仕事を求めてやっとの思いで北部にたどり着いてもおなじく低所得でこき使われていた白人労働者階級から迫害されたりで、けっきょくもとの「マッサ / マース」たちの経営する大農園へともどったり、あるいはどこも行くあてがないからと、戦前同様にそのまま農園主の許で働く黒人たちが大半だったようです。その後も悪名高い KKK や南部諸州による隔離政策の合法化など、マルコムXやキング牧師の時代まで苦汁をなめつづけたアフリカ系米国人たちの歴史は、周知のとおり。あと、黒人霊歌( 'Steal Away' とか )の話もちょこっと出てきたりします。そして社会学の立場から、北部流儀のいびつな資本主義の産業構造が押しつけられた結果、白人の底辺労働者層と「もと奴隷」黒人とがいかに搾取され、かつ人種偏見も助長されたか、みたいなくだりも目を開かれる思いがして、なんだか部分的にながらも『 21 世紀の資本』の先取りみたいな印象も受けた。

 … ついでながら、かつて日本でもブームを巻き起こしたアレックス・ヘイリーの自伝的作品『ルーツ』も思い出した … 当時、小学生だったけれども見てましたよ、あのテレビドラマシリーズ !! 最後には著者( カメオ出演ではなく、演じていたのはプロの俳優 )も出てきて、「[ 自分のご先祖さまは ]クンタ・キンテだ !! 」と叫ぶ場面とか、米国で苦労した年老いた父親に空港(?)かどっかの売店で自ら買った自分のベストセラー( !! )を差し出して、受け取った父親が息子に向かって微笑んで「ありがとう」と言う場面とか、ほんとうに久しぶりに思い出しましたよ … ちなみに「ルーツ roots 」なる外来語が定着したのも、この『ルーツ』がきっかけでした。以後、「自分のルーツ探し」が巷で流行ったりする[ 老婆心ながら、著者ヘイリーは『大空港』で知られるアーサー・ヘイリーとは別人 ]。

2). 『風と共に … 』を読んでいまひとつ強く感じたのは、太平洋戦争時の日本と南北戦争時の米国南部の情況が不気味なくらい符合することが多々ある、ということです( 周りの「空気」を怖れてなにも言えないとか )。人間のやることだから、あるいは人間心理というのは洋の東西を問わず … と括ることもできるかもしれないが、先の大戦での犠牲者 310 万人余、南北戦争に斃れた兵士 50 万人以上、というとんでもない犠牲を払ったその「大義」、「正義」っていったいなんだったのかと思わざるをえない。IS などの原理主義勢力によるテロリズムの脅威や、核戦争の危機もいまだ拭えていない 21 世紀のいまに生きるわれわれにとって、やはり確実に言えることは「戦争というのは絶対悪である」ということだろう。米国の作家で L. スプレイグ・ディ−キャンプという人がいたけど、その人のファンタジーものに、「ひとりだろうが百人だろうが、殺人は殺人だ」というくだりが出てくる。そういえば最近、与党の若手議員だかが、安保法制法案に反対を叫ぶ学生団体に対して「自分勝手だ」とかなんとか、のたまわったなんて話を聞きますと、連日 33 度超えのクソ暑さにもかかわらず、怪談よろしく背筋が凍りつく思いがする。若い人たちが反対するのはしごく当然だ。いつの時代も、戦争に駆り出されるのは体力のある若い人。その人たちの両親だって、わが子に進んで見ず知らずの若い人を殺してほしいなんて思うわけもない。憎しみの連鎖というものを断ち切らないと、詩人の谷川俊太郎さんじゃないけど、「戦争はなくならない」。そういうことを平然と垂れる議員さん方には、先日、松崎町在住の主婦の方が地元紙に投稿した一文を見るといい。
 近年世界情勢は変化しましたが、自国の防衛が個別的自衛権では、どこがどのようにいけないのでしょうか。…… 今回も戦争の悲惨さを知らない世代の政治家たちが、国民の安全は政治家が守ると言いながら自分達の解釈によって議論もそこそこに法案を成立させようとするのは、あまりにも乱暴なように思われます。…… 民主主義国家とは国民が主権者ではないでしょうか。
 前にも書いたかもしれないが、自分がはたちのとき、癌で入院していた伯父さんが、「おまえはたちになったのか? なら徴兵検査だな」とつぶやいたのを鮮明に覚えている。そして Microsoft の創業者のひとりによって発見されたのが、もうひとり別の伯父さんが乗艦していた「戦艦武蔵」だった。戦争体験者のほとんどが 80−90 歳代になり、ほとんどが自分も含めて戦争を知らない世代が大半を占めるようになった。

3). 首相の談話の公式な「英訳」というのが地元紙紙面に大きく掲載されてました。で、気になったのは下線部分。
Thanks to such manifestation of tolerance, Japan was able to return to the international community in the postwar era. Taking this opportunity of the 70th anniversary of the end of the war, Japan would like to express its heartfelt gratitude to all the nations and all the people who made every effort for reconciliation.

 In Japan, the postwar generations now exceed eighty per cent of its population. We must not let our children, grandchildren, and even further generations to come, who have nothing to do with that war, be predestined to apologize. Still, even so, we Japanese, across generations, must squarely face the history of the past. We have the responsibility to inherit the past, in all humbleness, and pass it on to the future.

[ 談話原文 ]寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後七十年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。

 日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。

ここ、どうにもつながりが悪いと思いませんか? なんか前後の文脈顧みずむりやりって感じで … ほかの人はどうかなって思っていたら、たとえばこちらの比較ページにも、この箇所が取り上げられていたりするし、こちらの記事でも、'But he added:“We must not let our children, grandchildren, and even further generations to come, who have nothing to do with the war, be predestined to apologise ... "' みたいに紹介している。ワタシはこの件に関して、基本的にこちらの先生の意見とおんなじですね。「歴史の延長線上に自分たちがいると認識する」ことがなくなったら、またこの国の指導者は暴走するだろう、立憲君主としての時の天皇の意見や心情もろくに斟酌せずにね。こういう発想は、原発再稼働とおんなじです。「喉元すぎれば … 」とか「ほとぼりが … 」とか、そろそろいい頃合いだろうとか、見くびっているというかタカをくくってるんじゃないでしょうかねぇ。そういえば最近、中電の「浜岡原子力館」の TV CM がやたら目につくようになった。

 この英訳にもどれば、新聞紙上のコメントにあるように、remorse とか repentance などの単語はよほど洋書・洋雑誌を多読しないかぎり、あんまりお目にかからないだろうから、この際覚えておいて損はないでしょうね。

追記:いまさっきひょっとして、と思って動画サイトあたってみたら、↓ のようなクリップが出てきました … そしていまさらながら、原作者ヘイリーを演じていた俳優というのが、なんとなんとあのジェイムズ・アール・ジョーンズだった !! そうかあ、ダース・ヴェイダーのあの声の吹き替えやっていた黒人名優さんだったのか … と、遅かりし由良之助の心境( 苦笑 )。



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2015年08月14日

ジョン・スコット先生急死 !! 

 いまさっき知った、衝撃の悲報。なんとあの名伯楽、ジョン・ギャヴィン・スコット 先生が今月 12 日に急逝していたことが判明 !!! ほんとうにショックだ。享年 59 歳、6月に誕生日を迎えたばかり。

 ここでも何回か書いたかもしれないけれど、日本で一時期、その筋では人気の高かった Boys Air Choir。この「聖歌隊のドリームチーム」に選ばれた名ソリストくんたちは、セントポール大聖堂聖歌隊の出身者が多かった。そのセントポールで 14 年間、聖歌隊員の音楽指導に当たり、2004 年からは転じて米国ニューヨークの名門セントトーマス教会聖歌隊の指導者として活躍。その一方でたとえばこちらの拙記事とかにも書いたように、名オルガニストとして大活躍されてました。

 セントトーマスのこちらの追悼記事と英語版 Wikipedia 記事によると、スコット先生は6週間の欧州大陸でのオルガンリサイタルツアーを終えて、8月 11 日、帰路に就いた。ところが翌朝、急に気分が悪くなったようで、急性心臓発作を起こしたらしい。すぐルーズヴェルト病院へと救急搬送されたものの、意識が回復することなく、現地時間 12 日に息を引き取ったという。今年の欧州は地域によっては熱波に見舞われたようなので( チェコとかかなり暑いらしい )、知らず知らずのうちにダメージを受けていたのかもしれません。さらに悲しいことには再婚した奥さんとのあいだの最初のお子さんが来月、誕生する予定 … なのだという。

 こちらとしてはただただ呆然とするばかり。前任のセントポールの先唱者( precenter )、マイケル・ハンペル惨事会員は 2012 年にドレスデン(!)で開かれたセントポール、セントトーマスの合同演奏会やセントポールでのオルガンリサイタルに触れて、「スコット氏との思い出はいつまでも光り輝き、色褪せることはない。今日はセントポールにとってたいへん悲しい日になってしまった」とお悔やみの言葉を述べています。

 スコット先生自身も、やはり英国アングリカンの伝統と言うべきか、自分が指導してきた聖歌隊員の子どもたちとおなじく聖歌隊出身者( ウェイクフィールド大聖堂、その後副オルガニストにもなってます )で、その後ジョージ・ゲスト時代のケンブリッジ大学セントジョンズカレッジ礼拝堂聖歌隊オルガン奨学生を経てセントポールとサザック大聖堂の副オルガニストになり、1990 年にセントポールの音楽監督に就任。やはり名オルガニストとして知られるジリアン・ウィーア女史にも師事していたようです。ちなみに知らなかったが Royal College of Organist というオルガニスト養成機関でも学んでいたようで、やはり公式サイト上で今回の悲報を伝えています。ちなみにチャールズ皇太子とダイアナ王妃のロイヤルウェディングのときのオルガン演奏も、スコット先生が担当してました。

 セントトーマスでの追悼式は木曜日に執り行われたようですが、正式な葬儀の日程はこれから発表されるみたいです。セントトーマスもそうですが、とりわけセントポールでスコット先生の薫陶を受けて育ったかつての少年聖歌隊員の受けたショックはいかばかりか。

 ジョン・スコット先生の御魂安かれと祈りつつ。合掌。

追記: 来日時に撮影したとおぼしき紹介記事がありましたので → JAZZ TOKYO 関連ページ。また、Pipedreams でも追悼番組を放送したようです。

posted by Curragh at 23:53| Comment(0) | TrackBack(0) | おくやみ

2015年07月13日

「1」と「 96 」な話

1). 先週の「古楽の楽しみ」は「バッハの6つのパルティータ」特集。この「パルティータ」は 1726 年の「第1番」以降、最後の「6番」まで順次出版されたのち、 1731 年に合本されて「クラヴィーア練習曲集 第1巻」として出版されたもので、フォルケルとかの伝記作者によると、売れ行きは芳しくなかったとか、そんなことが書いてあったように思う。ところがあにはからんや、最近の研究ではそんなことはなくて、むしろ逆だった、という磯山先生のお話を聞きまして、作品そのものよりそっちのほうが気になってしまった( 苦笑 )。

 考えてみれば、大バッハほどことおカネに関しては超がつくほどの合理主義者、贈られた赤ワインの瓶が破損して中身がほとんどなくなったのを悔やんで贈り主にその恨み節を私信にしたためるほどの人( おなじくワイン好きだから、気持ちは痛いほどわかるけれども )。そんな締まり屋バッハ氏なので、記念すべき「作品番号1」の曲集が売れなかったら、以後、きっぱりとこのような venture には乗り出さなかったはず。「作品番号1」の売上げがよかったからこそ、これに気をよくして(?)二匹目のナントカを狙ったわけだし(オルガン作品では、「6つのシュープラーコラール集」が好評だったようです )。

 チェンバロつながりでは、先週、こちらの番組でも「イタリア協奏曲 BWV. 971 」が取り上げられて、しかもゲストがあのふかわりょうさんでしたが、これと「フランス風序曲 BWV. 831 」が組み合わされて「クラヴィーア練習曲集 第2巻( 1735 )」となって出版されてますね。番組では、チェンバロ特有の機構や仕掛け( 上と下の鍵盤を連動させるカプラーやストップなど )もわかりやすく紹介されていたので、はじめてこの楽器を知ったという向きにはなかなか興味深かったんじゃないかしら( ついでに、地元紙夕刊に連載中の「楽器万華鏡」は、すこぶるおもしろい企画 !! )。

2). 話いきなり変わって、いま、縁あって鴻巣友季子先生による『風と共に去りぬ』のフレッシュなもぎたて新訳を読んでます。で、南北戦争時代 … とくると、個人的にどうしても亡霊のごとく甦ってくるものが ↓
During the night crossed the railroad above 96, ...
これは米国奴隷制度を社会史的に考察した本の一節で、ここを訳者先生はなんと「夜の間に約 96 以上の鉄道を横切り」とやっていた。さる雑誌の人気連載だった翻訳批評の俎上に載せられ、評者先生は「ルートナンバーとばかり思っていた」、そして念のため同僚のネイティヴの先生にも訊いてみたら、「緯度のはずないしね」。*

 ところがこれ、「事実は小説よりも奇なり」でして、なんとなんとサウスカロライナ州にある「町の名前」、地名だったという前代未聞、驚愕のオチつき。この「真実」を通報したのがいまは亡き SF 翻訳の第一人者、矢野徹先生と、キャンベル本の翻訳者、飛田茂雄先生だった。矢野先生は、この事実を Encyclopedia Americana で突き止めたんだそうです。え、アメリカーナ ?? あらそれだったらいつも行ってる図書館にもあるわってんで、さっそく該当箇所を複写。
NINETY SIX, town, South Carolina, in Greenwood County, seven miles east of Greenwood. Its industries include the manufacture of bricks, lumber, textiles, and cottonseed oil.

The original settlement was made by Capt. John Francis about 1730, and the village which grew up took its name from being 96 miles from Fort Prince George on the Keowee River. During the Revolutionary War the British established a stronghold at nearby Star Fort, which in May and June of 1781 was besieged without success by Gen. Nathanael Greene. After the arrival of British reinforcements, the siege was raised : but on June 29 the British abandoned the fort and retired to the coast.

With the building of the railroad in 1855, the village was moved about two miles away from its original location, now called Site of Old Ninety Six. In 1940, nearby Lake Greenwood, whose shores form Greenwood State Park, was created by the completion of Buzzard Roost Dam on the Sadula River. Pop. 1, 435.

―― from Encyclopedia Americana, ver. 1966, pp. 367−8.
 当時、日本初の ISP の IIJ もなにもなかったバブル絶頂期、リゾート法なる天下の悪法のもとゴルフ場が乱立し「地上げ屋」が横行していたそんな時代、この手の調べ物をするにはたとえば都内の大型書店にて「全米自動車地図」とか、そういうのを立ち読みするとか国会図書館に行くとか大使館に訊くしか方法がなかった。足で稼ぐ調べ物はキホンとはいえ、やっぱり家に居ながらにしてすすっと答えが引き出せちゃうネット( と Google や Wikipedia など )は、やはりありがたいかぎり、ではある( 玉石混交なんでもありの無法地帯とはいえ )。

 で、「プリンス・ジョージ砦[ いまはダム湖の下 ]から 96 マイル」というのは、どうもこちらの Wikipedia 記事によると根拠なし、ということのようですが、とにかくここが 2000 年時点で人口 1,936 人の風光明媚な町で、独立戦争時代のわりと有名な戦場史跡が点在するところ、ということはよくわかる。とはいえ原著者の書き方だって意地が悪い。なんでスペルアウトしてないのかな? もっともこの引用箇所は北軍兵士の従軍日記からの孫引用なので、もとがそう表記されていたのかもしれない( その可能性が高い )。

3). … とそんな折も折、あの「ソーラー・インパルス2」、名古屋空港から離陸して5日間の連続飛行ののち、ぶじハワイに到着したみたいで、なによりでした( でもこんどはこういう問題が … )。そして、こんなニュースも飛びこんできた。こちらは「作品番号1」ではなくて、文字どおり「一番乗り」争いなんですが、おなじ争うんならこういう競争のほうがはるかにいいに決まってます。「ソーラー・インパルス2」の偉大な挑戦といい、「Eファン」といい … 翻って日本は? … 波力発電に関しては、たとえばこんなのもありますし、英国コーンウォールのこの巨大実験施設なんかどうですか。リンク先の会社の開発した発電装置も含めた計 60 基の再生可能エネルギー発電機をつないで、10 MW の発電実験を行うとか。これは約1万世帯分を賄える発電量らしいです … というわけで、「1」と「 96 」にまつわるヨタ話でした。お後がよろしいようで。

* ... 緯度ではなくて、「西経 96 度」なら、テキサス州とかミネソタ州など平原部の各州を通過するからあり得ると言えばあり得るかも。ついでに Google マップで調べたら、246、248、34 号線ならあった。

posted by Curragh at 10:37| Comment(0) | TrackBack(0) | NHK-FM

2015年06月28日

「ブルターニュもの」⇒ 『狐物語』⇒ 『ティル・オイレンシュピーゲル』

 本家サイトのこのページにも書いたことではありますが、本日のお題は『狐物語』と『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』についての蛇足、じゃなくて、補足です。

1). まずのっけの『狐物語 Le Roman de Renart 』からの引用科白ですが、出典は『冥界往来 ――「聖ブランダンの航海」』と題された、松村剛先生による東京大学外国語学科研究紀要から。恥ずかしながらいままで『狐物語』のすばらしい校訂本が、3名の日本人学者の手によりとっくの昔に発表されていた事実を知らずにいまして、この前、いつも行ってる図書館の仏文学系の書棚をなんとはなしにぽかんと眺めていたら、目の前に白水社刊の『狐物語』のハードカバーがでんと鎮座していた。にわかに興味を掻き立てられってなんか最近、こういうパターンが多いですがそれはさておき、さっそく聖ブレンダンの引用箇所を確認してみると、あやや、なんか字面がちがいます。
「一つお尋ねしたいんだが、どうしてヴィエルをもっていないんだね」
「オトトイ、同業者ガオラカラカッパラッタアルヨ。
めるらん王ノ話ヤ鷹ノ話ヤ、
あーさー王の話デゴザレ、とりすたんノ話デゴザレ、
聖ぶらんだん様ノ(すい)(かずら)ノ話デゴザレ、
ぶるたーにゅノ楽シイ小詩、ナンデモ聞カセテヤルヨ」
――「第十話 ルナールが染物屋になった話」、p. 195

この本は先に刊行した校訂本( Le Roman de Runart édité d'après les manuscrits C et M, France Tosho 2 vol. 1983, 1985 )を底本に全体の約3分の2を邦訳したもので、これはさらに 2002 年に岩波文庫版としても出版されている( いま手許にあるのは岩波版。訳者によれば、こちらはさらに抄訳版で、改訳版でもある )。

 松村先生の論文に引用されていた箇所は 1948 年、マリオ・ロックによって刊行が開始された校訂本のもので、写本の系統では β 群と呼ばれる写本群のうち、代表格とされるB写本が底本となっているという( ロックは校訂作業の完了を見ることなく他界し、ロックの遺志を引き継いだ研究者によってようやく 1999 年[!] に、B写本の校訂作業は終わった )。こちらのほうはあいにく未確認のままだが、とにかくこういうヴァージョンもあるよ、ということだけは確認できたしだい。

 そもそもこの『狐物語』、もっとも古い「原作( 最初の6篇と言われる )」を書いた作者は、その「続編」を書いたと主張する作者の言うところでは、ピエール・ド・サン−クルーという人らしい。もっともこの作品は途中から脚色が変わって、もともとの原作に近い初期の枝篇では主人公の悪たれキツネとその伯父で宿敵でもあるオオカミはあくまで動物として描写されていたものが、時代が経つにつれて当時の中世ヨーロッパにおける人間社会そのもののパロディに変質している。おおまかな写本の系統は α、β、γ の3つあり、α と β 群に属する写本はみな前後の脈絡がバラバラの枝篇で構成されていて、つまりはピエール・ド・サン−クルー以降、いろんな逸名作者が入れ代わり立ち代わり書き継いでいった、ということを示している。『聖ブレンダンの航海』同様、こちらも中世ヨーロッパのベストセラーだったわけなんですが、こっちは痛烈な社会諷刺の効いた「ファブリオ」とでも呼ぶべきもの。「聖ブランダン」の名前が出てくるくだりは、染物屋の井戸にはまって全身真っ黄色になったルナールが、宿敵イザングランと出くわしてとっさに異国の旅芸人になりきって、デタラメなフランス語をしゃべって、自分はいろんな芸ができる、トリスタンとイズー、アーサー王、メルラン、そして聖ブレンダンの話やブルターニュの小詩[ レー ]を知ってるヨ、と吹いている場面。ブレンダン関連で重要な点は、ブレンダンの言及が他ならぬ「ブルターニュもの」との関連で語られていることで、おそらくこの悪ギツネめの念頭にあったのは、1121 年ごろに成立したと思われる修道士ブノワによるアングロ・ノルマン語版だったにちがいない。ちなみにピエール・ド・サン−クルーが最初の「枝篇」を書いたのが 1175 年ごろとされている( それにしても聖ブレンダンが「すいかずら」作者に化けているとはこれいかに。ちなみにマリー・ド・フランスの「すいかずら[ のレー ]」は、やはり白水社のこの本で読むことができる )。

 『狐物語』の現存写本で最古のものは 13 世紀とされ、完全なかたちで残っている写本は 14 点、断片のみ現存する写本は 19 点、うちひとつがなんと! 広島大学附属図書館にあるというからびっくり。ラテン語版『聖ブレンダンの航海』、そして『エネアス物語』共訳者のひとりでもある太古先生の出身大学 !! なんだか不思議な縁を感じます。

 「ファブリオ」は中世仏文学の一ジャンル、のような印象を受けるけれども、時代は下って 13 世紀のドイツにおいて、なんの前触れもなく(?)、こんどは「聖ブランダーネの御頭」として甦り、さらにそれがそっくり借用されるかたちで『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』として顔を出したりするから、少なくとも作品が書かれた 15 世紀、というからちょうど「揺籃期本」が出回っていたころも依然として聖ブレンダンの知名度、あるいは人気は高かったということは言えると思う。引き合いに出されたものがあれ、なんだっけ、というのでは笑い話になりませんから。でもまあ、ブレンダン修道院長に関して言えば、どこの地域でも、またいつの時代でも、人間の世の中というのはそういうもんかもしれないが、「神格化」されるか「茶化し」の道具にされるかのどっちかで、しかもこの両者はおなじコインの異なる面、という気がする。ヤーヌスですな、いや、トリックスターか。アイルランド修道院文学もそうかな。「ケーリ・デ」霊性刷新運動の高みが、その後の修道院の堕落とノースメンの襲撃による修道制度そのものの衰退にともなって、こんどはそういう歴史じたいをパロディにして茶化した『マッコングリニの幻想』としてすべてがひっくり返され、笑い飛ばされることになる。

2). 『ティル・オイレンシュピーゲル … 』のほうは本家サイトにも書いたように、故 阿部謹也先生の邦訳本( 岩波文庫版 )を読んだんですが … かのゲーテも、『狐のラインケ』から着想した詩があるみたいですが、『ティル・オイレンシュピーゲル … 』にも『司祭アーミス』のみならず、『狐のラインケ』の借用があるというから、ここでも線はつながっている。でもひとつ、こちらのイタズラ者の主人公の特徴を言わせてもらえれば、『狐物語』のほうにもそういう傾向はあったが、とにかく徹頭徹尾しようもないスカトロ野郎で、行く先々で … を垂れている。阿部先生の邦訳本にも揺籃期本のものからだろうか、当時の木版画が転載されているけれども、オイレンシュピーゲルが … を垂れている場面の描写の多いこと多いこと、見ているうちになんだかこっちまでトイレに行きたくなってくる( 苦笑 )。

 聖ブレンダンにもどると、松村先生の論考にも指摘されていたことだけれども、やはり当時のフランスではアーサー王、メルラン、トリスタンなど、一連の「ブルターニュもの」の系譜につながるものとして[ おそらくブノワのアングロ・ノルマン版 ]『聖ブレンダン[ ブランダン ]の航海』は認識されていたことだけは、確実に言えると思う。だから、こちらのフランス中世文学案内本の巻末の「フランス中世文学史年表」にもあるように、『聖アレクシス伝』、『聖女フォワの歌』、『ロランの歌』と並んで『聖ブレンダンの航海』が明記されていることは、個人的にはとても喜ばしいことではあります。

 ちなみにティル・オイレンシュピーゲルが「聖ブランダーヌスの頭蓋骨」を持ち歩いて「説教」していたのは、ようするに平信徒の庶民から体よく有り金を巻き上げるための「口実」として使っていたもので、じっさいにはもちろんブレンダンのされこうべでもなんでもなくて、「おそらくどこかの墓地から拾ってきた鍛冶屋の頭蓋骨」。おなじダマされるんなら、ちっとも笑えない三文芝居を打つ「振り込め」より、まだこっちのほうがはるかにましだろう、とふとそんな思いがよぎったりもした。

2015年06月14日

あら、米国にあったのね! 

1). まずけさ、知ったばかりの ↓ 。知らなかったけれども、この超有名な肖像画、いままで米国に保管されていたんですね !! ビックリした。とにかくぶじ「里帰り」したわけなので、まずはめでたしめでたし、ということか。


2). けさ、再放送にて全編聴いた、こちら。なんでもリクエストのお題は「除湿クラシック」だそうでして … 番組後半、「宗教曲で除湿」、そして「オルガン曲で除湿」ってなんだかよくわからないコーナーになってしまいましたが … とプレゼンターのゲレンさんが言っていたけれども、そうですねぇ、気持ちだけでも、すこしは爽やかになりたいものです。ほんとこの季節は蒸してて個人的にかなりツラいし、まったく depressing ですわ。

 ところで思わぬ収穫もありました。シュヴァイツァーのオルガンの師匠、シャルル・マリ・ヴィドールの「バッハの思い出」という作品。これはおもしろいですね、知らなかった。そして、かつての OTTAVA Stella でときおりかかっていた、ブクステフーデのコラール幻想曲「暁の星のいと美しきかな BuxWV. 223 」 。これはたぶん、ジュリア・ブラウン盤だと思う( ちがっていたらごめんなさい )。ついでに深夜帯におなじくときおり流れる、バッハの「小フーガ BWV. 578 」は、これはまちがいなくヴォルフガング・リュプザム盤によるもの。この音源をはじめて聴いたのも OTTAVA Stella で、その解釈も演奏もとても気に入ったので、昨年アルバムを買いました。

 その前にかかっていた、エルガーの「永遠の光」、フランクの「天使の糧」も、音源は不明ながら、よかった。というか個人的には、そのまんまラテン語表記で言ってくれたほうがよかったけれども。エルガーのほうは、有名な「ニムロッド」の合唱ヴァージョンですね。

 オルガンついでに、こういうのもあります。「ベト6[「田園」ですね ] 」も大好きなので、こちらのオルガン独奏盤とかないかしら、と思って探してるんですけれども、あいにくこっちはないみたいです orz

追記:いま聴取している林田さんの Salone 。「ビバ! 合唱」でもおなじみだった花井哲郎先生と対談してます。花井先生主宰の合唱団によるギヨーム・ド・マショーの「ノートルダム・ミサ」とかかかってましたが、なによりおもしろいのは、西欧の修道院についてのお話。なんと !! 花井先生自身、修道士志望だったんだとか。どうりでお詳しいわけです( ヒマさえあれば修道院に「入り浸って」いたらしい。「客人を受け入れるのも、修道院の大事な仕事」)。聞き手の林田さんは、やはり、というか、ローマカトリックにおける修道院制度、「聖ベネディクトゥスの会則( 「戒律」というのはなんかこわいじゃないですか、ムチ打たれるようで、とかおっしゃっていましたが、たしかにアイルランド系、とくに聖コルンバヌスの修道院ではそんなおっかない「戒律」のもとで修道士が生活していた … というのはまぎれもない事実ではあるが、そういう「きょくたんさ」に走らないために普及したのが「ベネディクトゥスの会則」であり、やがてクリュニーとかシトーとかのベネディクト系修道会が幅を利かせ、アイルランドのケルト系修道院は廃れていった … という背景がある )」のこと、聖務日課のこと(「修道院ってけっこう忙しいんですよ」)、中世の「宮廷愛」と聖母信仰のこと、については不案内のようで、これらの花井先生のレクチャーを興味津々、といった感じで熱心に聞いているようすがビンビン伝わってきました。花井先生は、「聖母礼拝堂」とか「寄進礼拝堂」についてもその該博な知識を披露してました( これについてはこちらの拙記事参照、またこちらのサイトも役に立ちます )。

 「こんど修道院にいっしょに行ってみませんか?」と水を向けていた花田先生のお話は、この手の音楽を聴く人はぜひとも耳を傾けてほしい、と門外漢でも思うほど中身が濃くて、わかりやすいと感じたので、かく申し上げたしだい。再放送でも再々放送でもいいので、聴いてみてください。何事もそうだろうが、やはりこの手の宗教音楽作品の背景について、知ると知らないとでは、天と地ほどの差がある。

posted by Curragh at 21:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近のニュースから

2015年05月26日

「過ぎし春」⇒ 『ミリアム』⇒ 『殺し屋』

1). 先日の「きらクラ!」。最初のほうでグリーグの「過ぎし春」がかかったんですが、リスナーさんからの指摘によると、なんとこれほとんど「誤訳」に近い邦訳なんだそうです。原歌詞は、「これで春も見納め」みたいな内容なので、「最後の春」、「惜春」くらいではないか、とのことでした。うーむ。これに関連してふかわさんが、「日本人ってあんまり '往く春' を嘆いたりしませんよね」みたいな発言をしていた。「夏は、過ぎちゃったねとか、惜しむのに。春の場合、夏に対する期待度のほうが高いのかな?」。「過ぎし春」と訳した人は、なんか「夏の名残りのバラ[「庭の千草」の原題 ]」みたいな感覚で訳したのかな ?? 

 それはそうと、この手の誤り、ないし誤解を招く邦題表記ってほかにもあって … メンデルスゾーンの「無言歌」とか、ヴェーバーの「舞踏への勧誘」なんかもそのたぐいかな。前者は「歌詞のない歌」くらいの意味だし、後者は … 前にも書いたけれども、なんか保険の勧誘みたい。ブラームスの「ドイツ・レクイエム」、これもなあ … 「ドイツ語によるレクイエム」なら許容範囲内なんだけれども。ご承知のように「レクイエム」というのはローマカトリックの「死者のためのミサ」で歌われるものなので、あまたある「ミサ曲」同様、ふつうはラテン語の典礼文。作曲者当人は、これはそうじゃないヨという意味もこめて、「あるドイツ語によるレクイエム Ein deutsches Requiem 」と名づけた … はずなので。

2). この前、だいぶ昔に買った翻訳指南書巻末に収録されている「翻訳演習問題」なるものをアタマの体操だと思ってやってみました。演習課題はふたつあって、そのひとつが『ティファニーで朝食を』のトルーマン・カポーティの鮮烈なデビュー作にしていきなりのO・ヘンリー賞受賞作となった傑作短編『ミリアム』冒頭部なのであった。翻訳にも得手不得手というのがあると思うけれども、小説、とりわけよく書けている短編作品ほど、意外とむつかしかったりする。ワタシにとって『ミリアム』が、まさにそんな短編で、どうせやるなら課題部分だけなんてケチなこと言ってないで全訳しよう、なんて意気込んだはいいが後半、物語がいよいよ暗ーい展開になってくると、小説作品特有の訳出のむつかしさとあいまって、精神的にかなりバテてしまったという、なんとも情けないことになってしまった。orz

 で、指南書の「訳例」のみならず、プロの手になる既訳書はどうなってんだろ、と思い、とりあえず2冊を図書館から借りて原文と突き合せて読んでみた。以下、三者の冒頭部分の訳を並べてみます。
A訳:
H・T・ミラー夫人がイーストリバーにほど近い改築した赤砂岩造りの快適なマンション( 二部屋キチネット付 )で一人暮らしを始めて数年が経っていた。夫人は未亡人で、主人のH・T・ミラー氏がそこそこの額の保険金をあとに残してくれていた。夫人の趣味の範囲はせまく、とりたてて言うほどの友だちもなく、角の食料品店より遠くへ足を延ばすことは滅多になかった。マンションのほかの住人は夫人の存在に全く気づいていない風であった。それというのも、彼女の着ているものはごくありふれていたし、髪の毛はグレーがかった白色で、短くカットし、無造作にパーマをかけているだけという具合だったから。それに化粧せず、顔だちは平凡で人目を惹かず、この前の誕生日で六十一歳を迎えていた。夫人は積極的に何かをするということは稀れで、二つの部屋を常に塵一つ無いよう几帳面に片づけ、時たまタバコを一本吸い、自分の食事をこしらえ、カナリヤの世話をするぐらいのものであった。

B訳:
ミセス・H・T・ミラーは、イースト・リヴァー[ ニューヨーク州のマンハッタン島とロング・アイランド島の間の海峡 ]に近い、リフォームされた褐色砂岩造りの気持ちのいいアパート( 二部屋にキチネット )に、もう数年ひとりで暮らしている。彼女は寡婦だった。だが夫がかなりの保険金を遺してくれた。彼女の興味は狭く、とりたてて友だちもなく、角の食料品店より遠くまで出かけることはめったになかった。アパートのほかの住人たちは彼女の存在に気づいていないようだった。着ているものはごくありきたりで、髪は灰色がかった鋼色で、短く切って、わずかにウェーヴがかかっている。化粧品は使わなかった。顔立ちは平凡で、目立たず、先の誕生日で六十一歳になっていた。自分からしたいことを何かしたりことはなかった。ふたつの部屋を清潔に保ち、ときどきタバコを吸い、自分の食事を作り、カナリアを一羽世話していた。

C訳:
ミセス・H・T・ミラーは、もう何年も、イーストリヴァーにほど近い、改築されたブラウンストーンの快適なマンション( キチネット付きの二部屋 )にひとりで暮らしていた。彼女は夫を亡くしていたが、夫のH・T・ミラーは彼女がひとりで生活していくのに困らない程度の保険金を残していた。彼女の生活はつましい。友だちというような人間はいないし、角の食料品店より先に行くこともめったにない。マンションの住人たちは彼女がいることに気づいてもいないようだ。服は地味。髪は鉄のような艶のある灰色で、短く切って、軽くウェーブをかけている。化粧品は使わない。容貌は十人並みで目立たない。この前の誕生日で六十一歳になった。彼女の一日は決まりきっている。二つの部屋をきれいにする。ときどき煙草を吸う。食事の支度をする。カナリアの世話をする。
 こうして並べてみると、音楽作品の演奏とまったくおんなじことが翻訳にも言える ―― おなじ原文でも、訳者が3人いれば3通りの、100 人いたら 100 の翻訳ができあがる、ということ。訳者によって、こうも奏でられる和音、テンポ、アーティキュレイションがちがってくるものか。こういう差は、やはりいわゆるノンフィクションものより、小説作品のほうが顕著に現れてくるように思う。ちなみに出だしの一文は、'For several years, Mrs. H. T. Miller had lived alone in a pleasant apartment ... ' と、ふつうは文末にくる副詞句がいきなり出てきて、それから主語・述語の順番になってます。これはもちろん作者の力点が for several years にかかっている、いわゆる倒置法になっているので、こういう原文の力点の位置はしっかり訳出しなくてはならない。音楽作品の演奏で言えば、作曲者の強弱の指示を的確に捉えてその通りに演奏する、ということとおんなじです。なので上記三つのうち、この箇所でもっとも原文に忠実なのは、A訳ということになります。

 もうすこし先、数年来のひとり暮らしをつづけているH・T・ミラー夫人が、たまたま手にとった新聞[ うちふたつの訳では「夕刊」となっているけれども、'afternoon paper' は厳密に言えば「夕刊」とはちがうものらしい ]の映画欄で見つけた近所の劇場でかかっていた映画のタイトルが気に入って、ふだんは着ないビーバー毛皮のコートを苦労して着て、居室の玄関口の明かりをひとつだけ点けっぱなしにしておいて、細かな雪が降る中、アパートメントをあとにする。映画館に着くと、すでに長い行列ができていて、最後尾に並んだ。で、原文はこうつづいています。
A long line stretched in front of the box office; she took her place at the end. There would be (a tired voice groaned) a short wait for all seats. Mrs. Miller rummaged in her leather handbag till she collected exactly the correct change for admission. The line seemed to be taking its own time and, looking around for some distraction, she suddenly became conscious of a little girl standing under the edge of the marquee.
下線部、A訳では「『どのお席も今しばらくの待ち合わせでございます』と疲れた沈んだ声がした」、B訳では「どなたもただいまの回の終了まで少しお待ちいただきます( と疲れた声がうめくように言った )」、そしてC訳では「行列のなかから、これはかなり時間がかかりそうだな、とうんざりしたような声が聞えた」となってます。

 自分も最初、この描出話法をA、B訳のようにとっていた … けれども、よくよく考えてみるとなんかヘンです。カポーティがこの短編を発表した当時、1940 年代のニューヨークの映画館って、たとえばこんな感じなんだろうけれど、切符売り場の売り子さんの声が、'a tired voice groaned' なんて聞こえるんだろうか? ミラー夫人が並んでいた最後尾って、劇場からどれだけ伸びていたのかな? すぐあとに、謎の少女ミリアムが、劇場入り口の marquee の端の下に佇んでいた、とある。だいたい観客のほうだって、いまの上映がハネる時間くらいおおよその見当はついているはずだし( このあとほどなくしてミリアムとミラー夫人は待合室に案内され、「今の回の上映終了まであと 20 分です」と告げられる。ということは、その前に待合室にいた客が今の上映を見ているあいだにミラー夫人たちの行列が入ってきて、待合室で今の回がハネるのを待つということだろうと思う )、売り子がわざわざもうすこし待ってくれ、なんて声をかけるのか ??? と思ったので、ワタシもC訳のように解釈しました … とはいえC訳も、なんでまた「改変」したのかなって思うんですけれども。「あともうすこしで入れ替えさ( と疲れたような唸り声が聞こえた )」くらいでいいんではないかな、と考えます。ちなみにこの箇所、念のため英国人のメル友にお伺いを立てたら、「並んでただれかさんの発言だと思う」とのお答えでした。

 さらにこの『ミリアム』、かつて出ていた大学のリーダーだかなんだかの註釈書の注にヘンテコなのがあったらしくて、ミラー夫人の亡夫の形見であるカメオのブローチを奪ったミリアムが、そのブローチを身につけたまま夫人が出したサンドウィッチをがつがつ平らげる場面で、
Miriam ate ravenously, and when the sandwiches and milk were gone, her fingers made cobweb movements over the plate, gathering crumbs. The cameo gleamed on her blouse, the blond profile like a trick reflection of its wearer.
とつづきます。で、下線部の注が、ある註釈書では「早撮り写真」となっていたとか(?)。文意は、カメオのブロンドの横顔は、少女の顔をトリックで映し出しているように見えた、ということ。


3). 飛田茂雄先生の著書『翻訳の技法』に、ヘミングウェイの短編『殺し屋』の一節が俎上に載せられてます。『ミリアム』同様、こちらも負けじと(?)いろんな訳者の方による邦訳が出てるんですが、ここで飛田先生が問題視したのが、つぎの箇所[ → 原文 ]。
"You talk too damn much," Al said. "The nigger and my bright boy are amused by themselves. I got them tied up like a couple of girl friends in the convent."
"I suppose you were in a convent."
"You never know."
"You were in a kosher convent. That's where you were."
さて下線部、「ほんものの尼寺[ いくらなんでも尼寺はないでしょう !! ]」、「ユダヤ教の修道院」、「ユダヤ人も OK の修道院」、そしてなんと「ゆすりの入る刑務所(!)」なんてのもあるんだそうです … 。で、引用者の飛田先生が示した訳は、「お清らかな修道院」。『ランダムハウス』を見ますと、「(1)適正の,ちゃんとした,正統な,公正な,合法[適法]の」とあります。

 さびれた田舎町のダイナーにやってきた殺し屋ふたりが、店番の十代の白人少年と厨房にいた黒人の調理人をぐるぐる巻きに縛り上げてしまう。それを見た殺し屋の相方が、「尼僧院のシスターカップルよろしく、こっちのおふたりさんはお楽しみだ」と品のない軽口をたたく。それを受けての 'You were in a kosher convent.' なんだから、たとえば「おめえはマトモな尼僧院にいたんだな。そうにちげえねぇ[ おっとこれは「きらクラ!」の真理平師匠の十八番でしたっけ ]」くらいじゃないのかなあ、と妄想する。なんでこういう解釈になったのか … は、ご想像にお任せします( 苦笑 )。convent は、やはり「女子修道院 / 尼僧院」にしないとまずいんじゃないかな。男の修道士が入るのは、『聖ブレンダンの航海』つながりでもさんざ見てきた用語の monastery なんだし [ もっともここは頭韻を踏んでいる感じなので、あんまり convent じたいにはこだわらないほうがいいかもしれない、軽口なんだし。「お清らかな」を使うとしたら、もうそのまま「お清らかなシスターを相手にしてたんだ。そうにちげえねぇ」のほうがパンチが効いているかもです ]。

 関係ないけど、このセクション直前のページには、「ポケットいっぱいの変化」なる珍妙な日本語表現が。??? と思ってみたら、なんのことはない、'like a pocket full of change' だった。もちろん「小銭じゃらじゃら」のほうですね。そういえば「小銭」と「転地療養」を引っかけた、マーク・トウェインの駄洒落だか地口だかを見たことがありましたねー。

付記:『翻訳問答 英語と日本語行ったり来たり』、この対談本は、すごいです !! 文芸ものの書籍翻訳者を目指している方は、まずもって必読の「翻訳指南書」と言えませう。ワタシもページ繰りながら、『ミリアム』で雪の降るなか映画がハネるのを待っていただれかさんみたいに、うなってばかりいました。あ、そういえば「花子とアン」の村岡花子さんオリジナル訳版『赤毛のアン』では、シュークリームがなんと「軽焼きまんじゅう( !!! )」になっているとか。時代ですね。だれだったか「翻訳なんて、30 年ももてばいいほう」っていう名言を吐いた人がかつていた。またカポーティはあるインタヴューに、「ジョイスは『ダブリナーズ』が書けたから、『ユリシーズ』が書けた」と答えたんだそうです。

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2015年05月16日

「馬勒」⇒ 「中立な天使」( Navigatio, chs5−6、11 )

 今年もまたぶじに迎えることのできた、この日。この前、『聖ブレンダンの航海』関連カテゴリで書いたのがすでに一昨年というていたらくだったので、取り急ぎ備忘録ていどに補足しておこうかなと思い立ちました( 苦笑 )。

補足1. こちらの拙記事の補足事項です。松村剛氏の論考「冥界往来 ――『聖ブランダンの航海』( 1991 )」の注釈によると、13 世紀古仏語散文物語『ペルレスヴォー Perlesvaus 』にも、似たような挿話が出てくるという( p. 70 )。それによると、「従者カユ Cahus が夢の中で小聖堂から金製燭台を盗んだため、黒い醜い男に刺されて、現実に死んでしまう。目覚めた瀕死の若者の体に凶器は刺さっていたし、夢に見た燭台もあった。夢と現実の混交する例」とあります。下線部、なんとなくラテン語版『航海』6−7章に出てくる「黒い[ 男の ]子ども」を想起させます。

 『ペルレスヴォー』については、あいにくキャンベルの Creative Mythology その他著書では言及を発見できなかったけれども、クレティアン・ド・トロワの『ペルスヴァル、または聖杯の物語』の「続編」として書かれた物語のひとつらしい。いつも行ってる図書館に、こういう本があったのをいまさっき発見したので( 遅 )、この項についてはまた後日に書き足すかも。

 それはそうとして、問題は「馬勒( 「馬具の一部で面繋, 轡, 手綱から成る」とか英和辞書には書いてある、たとえばこういう馬具のこと )」。近代の洋式帆船ならともかく、ブレンダン院長一行が乗船しているのは、セヴェリンが 1970 年代後半に行った「再現航海」で使用したレプリカを見ればわかるように、せいぜいが全長 36フィート( 約 11 m )、全幅 8フィート( 約 2.4 m )の小舟。そこに、「遅れてきた3人」+ 14 人+ブレンダン院長と、これだけむさ苦しい( 失礼 )すし詰めな小型帆船で、「馬勒」を隠し持って乗りこもう、というのはちとムリがある。じっさいには「だれもいない島」の船揚げ場から乗船直前にブレンダン院長に看破されてしまい、その「遅れてきた3人」のひとりのこの修道士の「胸から黒い子どもが飛び出し」て、哀れなこの修道士はここで落命する。ここでわからないのは「馬勒」。太古先生の邦訳版では「銀打ちした手綱」となっている箇所です。
... frenis quoque et cornibus circumdatis argento.
... diaboli, infantem scilicet ethiopem, habentem frenum in manu ...
'Ecce, frater noster, quem predixi uobis heri, habet frenum argenteum in sinu suo, ...
... Cum hec audisset predictus frater, iactauit illum frenum de sinu suo et cecidit ante pedes uiri Dei, dicens : ...

 ちなみにオメイラ現代英訳版( pp. 11−14 )では、
The house where they were staying had hanging vessels of different kinds of metal fixed around its walls along with bridles and horns encased in silver.
Saint Brendan saw the devil at work, namely an Ethiopian child holding a bridle in his hand ...
'Look, our brother whom I referred to a few days ago has a silver bridle in his bosom [ given to him last night by the devil ]'. When the brother in question heard this, he threw the bridle out of his bosom and fell before the feet of the man of God, saying : ...

馬勒ないし手綱を、「胸もと in sinu suo 」に隠せるものなのだろうか … たしかに『航海』にかぎらず、この手の物語にはいろいろ矛盾があったりするものなんですが( 17 章に出てくる謎の果実 scaltas / scaltis を絞った果汁を修道士たちに分け与えるとき、「12 等分した」とあるが、もちろんこれは辻褄があわない[ この時点でのブレンダンの弟子たちの数は 15 人 ] )。じつは校訂者セルマーは、もうひとつの解釈の可能性について言及している( p. 85, n. 27 )。それによると、「動物の首まわりにつける鎖状のもの」という意味の「ある古アイルランドゲール語」には、「人間の首まわりにつける鎖状のもの」なる意味もあり、文字どおり受け取れば「首飾り」、ネックレスということになる。銀の首飾りなら、たとえばトルクと呼ばれるねじれた形の装身具なんかも出土しているし、この場面で出てきても違和感はないから、ひょっとしたらこちらの意味で使われているかもしれない( セルマーによれば、悪魔を「黒い子ども」と表現するのは中世ではよくあったことだったらしい )。ついでながら「3人の余所者」については、「正規の」随行員がそろったあとで、「オレたちも乗せて〜!」と来た者のことだから、案外これって出処が「福音書」だったりするかも、とふと思った。12使徒で、しんがりに加わったのは、あの「ユダ」でしたよね。

補足2. こちらの拙記事にも書いたけれども、キャンベルのこの文章を読むまで、「神の側にもつかず、ルシファーの側にも与しなかった、どっちつかずの天使たち」のことをさして重要なモティーフだとは思っていなかった。でもよくよく考えてみると、これってけっこう、当時の人、とりわけアイルランド人にとっては重大な関心事のひとつだったように思えてきた。それというのも、キャンベル本によく出てくる「聖杯伝説群」を知るようになってからで、「聖杯」のアイディアも、もとをたどれば「グンデストルップの大釜」のような、「ごちそうが無限に出てくる『豊穣の角』」的なものだったし( 手許の『ケルト事典』の「聖杯」の項では、「今日知られている形の聖杯伝説はキリスト教中世の産物であり、ケルト語の伝承から借用されたものではない」とにべもないが )。で、この「どっちつかずの天使」ですが、拙記事で引いたキャンベルの講演にも出てくるように、なんとヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『パルツィヴァール』に登場するからびっくりです。
[ 隠者トレフリツェントがパルツィヴァールに向かって言う ]… ところでルツィファーと三位一体の神が、互いに相戦ったとき、あの気高く立派な天使たちのなかで、いずれの側にも加担しなかったものが、この地上の聖石[ グラールのこと ]のもとに遣わされた。聖石は変わることなく清らかさを保っているが、神はふたたびこの天使たちをお許しになられたのか、それともさらに罰を下されたのかは私は知らない。けれど神は正しいことだとお思いになられて、天使たちをふたたび召されたもうた。そのとき以来神に召され、神のみ旨を伝える天使に迎えられた人々が、聖石に奉仕している。騎士殿[ =パルツィヴァール ]、グラールはこのようなものなのだ。お分かりかな」*

 ついでに脱線すると、キャンベルがなぜこのエッシェンバッハの『パルツィヴァール』を高く評価しているのか、その理由は物語の大団円を迎える場面で、やはり「聖石」つながりで明らかになる。「叔父上、どこがお痛みですか」。この重大な質問が騎士パルツィヴァールの口から発せられた瞬間、「不具の漁夫王」、アンフォルタスを長年苦しめてきた激痛は癒やされ、「荒れ地」だった封土も回復し、パルツィヴァールは晴れてあたらしき聖杯王として即位する。「聖杯城」の大広間に乙女の行列が入ってきて、グラールがそのうちのひとりの手で運び入れられる。で、異母兄のフェイレフィースはかんじんのグラールが見えない( 代わりにグラールを捧げ持っている乙女のほうに心を奪われる )。なら改宗を、というわけで彼は洗礼を受ける。すると、グラールに文字が浮かび上がった[ 太字強調は引用者 ]。
そのとき聖杯に文字が読まれた。神により他の国々のあるじと定められた聖杯の騎士は、他人に自分の名前や素性を尋ねさせないことを条件に、その国の人々の権利の実現に力を貸してやるようにと、記されてあった。**
 キャンベルは、「 これが書かれたのは 1210 年で、英国貴族が『大憲章』を勝ち取る5年前のことです。『大憲章』は、諸侯がノルマン人の国王ジョンに対し、自分たちの権利を認めるよう要求した文書になるわけですけれども、ヴォルフラムの『聖杯城』では、他者の権利の宣言なんです。奉仕の契約を伴う文言、深い憐れみの文言であり、聖杯の祭儀に際してパルツィヴァールに求められたあの質問とおなじ精神的土壌から、つまり、『叔父上、どこがお痛みですか?』という質問とおなじところから湧き出しているのです」というふうにつづけてます。† この「中立な天使」、「鳥」の姿をとって出現しているのはどうもアイルランド特有の描写らしくて、ほかでは見られない、ということも前にここで書いたか、書かなかったのか、当人が失念しているが、いずれにせよこういう「中立な天使」が、『航海』にもひょいと姿を垣間見せていて、しかも聖ブレンダンとそのお供一行に対し、この航海が7年つづくこと、そののち「聖人たちの約束の地」へたどり着き、ふたたび故国に帰還すること( chap. 15 ) ―― この時点ではまだブレンダン院長の「唐突な死」については言及されない ―― を「預言」するという、きわめて重要な役回りでもあるので、当面の課題としたい。

* ... ヴォルフラム・フォン・エッシェンバハ著、加倉井粛之、伊藤泰治ほか共訳『パルチヴァール』郁文堂出版 1974, p. 251
** ... ibid., p. 427
† ... Robert O'Driscoll, edit., The Celtic Consciousness, George Braziller, 1982, pp. 28−29